1: ◆yufVJNsZ3s 2014/05/13(火) 21:52:27.70
* * *

傭兵「七百万だ。それ以上はまからん」

 目の前の傭兵さんは言いました。きっぱりと。そりゃもう、きっぱりと。
 酒場の椅子に座って、体はこちらに向けていますが、左手は丸テーブルの上のエールのジョッキから決して離そうとはしていません。飲酒を続けたいがために適当な返事をしているのではないはずです。……たぶん。

 ひとを何人か殺しているふうな顔がわたしをじっと見るものですから、思わず錫杖を握る手に力を籠めました。
 だめです。しっかりしてください、わたし。この方がこの辺りでは最も腕が立つと、斡旋所の方もおっしゃっていたじゃありませんか。

 酒場は殆どのテーブルが埋まっています。こちらに意識を向けている人はいません。いたとしても、傭兵さんの一睨みでそっぽを向いてしまうのでした。
 誰かに助けてもらおうだなんてこれっぽっちも思ってはいませんでしたが、流石に少し、心細くもなります。

僧侶「そっ、それにしても、七百万なんて!」

傭兵「一日七十万。十日で七百万。寧ろ安いもんだと思うがな。十日を超えたらその分は差っ引いてやるって言ってるんだ」



https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399985537

2:

僧侶「ただの護衛ですよ!?」

傭兵「『ただの』とあんたが思うなら、俺以外を雇うといい。こなしてくれるだろうさ」

僧侶「それは……」

 上ずった声だと自覚しています。どすの利いた声と顔つきに委縮しているのです、わたしは。自覚はあるのです、そうです。
 でも、怖すぎます。
 懺悔に来た盗賊の方だって、もっと優しい声をしていました。

傭兵「七百万だ。それ以上はまからん」

 同じことを傭兵さんは繰り返しました。七百万。傭兵事情に疎いわたしでも、それが法外な値段だということはわかります。
 にべもない対応に唇を噛み締めます。このひと、足元を見ようとしているのでは。心を覆うのはそんな疑惑の雲。

僧侶「聞きしに勝る金の亡者ですね……」

 斡旋所のおじさんが渋っていたのはこういうことだったのですね。実力は折り紙つき、されど性格に難あり。

傭兵「金を大事にして何が悪い」

僧侶「度を弁えるべきではと申し上げているのです」

傭兵「この世で金が一番大事だ」

僧侶「違います。お金で買えないものだってあります」

傭兵「少なくとも俺の腕は金で買える。貧乏人のあんたには手が出ないかもしれないけどな」

 厭味ったらしい笑みをこちらに向けてきました。わたし、自分の眉根が寄るのを理解しました。

3:

傭兵「どうした、貧乏人。払えないか」

僧侶「……はい」

 家財を売り、魔法銀行から貯金を下ろし、文字通り全財産がわたしの鞄の中には入っています。それでも金額は三百万程度。倍以上足りません。

傭兵「いいか、あんたはラブレザッハに行きたい。そうだな」

僧侶「はい」

傭兵「普通にいけばぶらり旅だ。街道沿いをずっと北上すればいいんだからな。が、今は事情が違う」

 エルフたちと魔王軍が小競り合いをしているから、でしょうね。

 傭兵さんは不満足そうに鼻を鳴らしました。ふん、と。

傭兵「道中大森林を抜けなきゃならん。あそこはエルフの村が点在している。魔物と間違われて殺されるなんてのはごめんだし、魔物に襲われて殺されるのもごめんだ。だから誰も通りたがらない。通りたくない」

僧侶「……はい」

 藁をもすがる思いでやってきたのです。
 誰よりも金に汚く、誰よりも無茶な依頼をこなす、このひとのところへ。

4:

 大陸を東西に横断し、人間の居住地域を南北に分断する大森林。そこが通れないとなれば、交易にも、派兵にも、大きな影響が出ます。というか、事実出ているのです。
 小麦は北部からの輸入ですから、当然パンの値段は高騰します。市場に流れる魚の種類も大きく減りました。隣国がこの機に乗じて攻め込んでこないとも限りませんが、兵力の投入だって難しい状態。

 名うての冒険者はそれでも大森林に足を踏み入れますが、良い噂はあまり聞きません。
 それでもわたしは。

僧侶「大森林を抜けたいのです」

傭兵「なら、あんたは俺を頼らざるを得ない。さぁ、さっさと金を払え。俺は忙しいんだ」

 お酒を飲むのに、でしょうか。

 そうです。確かにわたしは傭兵さんを頼らざるを得ません。が、無い袖は振れないのも確かなのです。

傭兵「金がないなら死ね。俺は貧乏人を相手にしない」

僧侶「そこをなんとか」

傭兵「俺に今まで『そこをなんとか』と言ってきたやつは何人もいる。だが、引き受けたことは一度だってないね」

5:

 ついに傭兵さんはわたしからエールへと視線をずらしました。それを一気にごくごくと呷れば、あっという間にエールは空になってしまいます。そして、おかわり。
 店員さんが新しいジョッキを持ってくるや否や、傭兵さんはそれに口をつけ始めました。

僧侶「お金はなんとかして必ず用意します! だから……」

傭兵「キャッシュだ。俺はキャッシュしか受け取らん。現物しか信用しないたちでな」

傭兵「それでも俺を納得させたいなら、現実的な支払計画を持ってこい。そこからスタートだ」

僧侶「……」

 わたしは覚悟を決めます。
 懐からお財布を取り出しました。中を改めても、当然七百万という大金があるはずもないです。

 それを勢いよくテーブルに叩きつけました。

 振動で跳ねたエールの水滴が、僅かに傭兵さんの顔に跳びます。彼は相変わらず不機嫌そうな、人相の悪い顔をわたしに向けてきていますが、そんなことは気にしていられません。

僧侶「いつまでこの街に滞在していますか」

傭兵「さぁな。根無し草だ。新しい雇い主が見つかれば、すぐにでも出発するさ」

僧侶「ということは、まだフリーなんですよね」

傭兵「……何を考えてやがる」

 ここで初めて傭兵さんは怪訝な……わたしと対等な目線で見てきました。

6:

僧侶「とりあえず、これがわたしの手持ち全てです。これを手付金として渡します。ですから、三日。三日だけいてください。その間に残りの四百万、稼ぎます」

傭兵「どうやって。カジノか? 悪いが博才にあふれているようには見えないな」

僧侶「体を売ります」

 ざわ、と酒場中の視線がこちらに向けられるのを感じました。

僧侶「街の東南、角にある一体、娼館ですよね。あそこで何とかしてみます」

傭兵「……本気で言ってるのか?」

僧侶「神に仕える者が、こんなこと言ってはおかしいですか?」

傭兵「あんたの神様は女衒だったりするのか?」

僧侶「背に腹は代えられません。わたしはラブレザッハに行かなければならないのです」

 なんとしてでも。
 どんな手を使っても。

 でなきゃ、沢山の人が死んじゃうから。

7:

傭兵「正気とは思えんな」

僧侶「並行して周囲の魔物も狩っていきます。斡旋所で手配書も見ました。近くにオークの棲家がありますね。少しは足しになるでしょう」

傭兵「ますます正気とは思えん!」

僧侶「支払計画を持ってこいと言ったのはあなたです」

傭兵「俺は『現実的な』と言ったんだ!」

 ついに傭兵さんは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がりました。百八十はあるような長身に、図らずとも見上げる形に。三十近い身長差はそれだけで威圧感があります。

 負けじと見返しました。ここで負けるわけにはいかないのです。
 右手をすっとあげます。

僧侶「この酒場にいる皆さんの中で、誰か私を買ってくれる方はいませんか?」

傭兵「なっ……バカ!」

僧侶「どんな要望にも応えます。後ろでだって、複数だって、犬とだっていたしますが」

傭兵「脅すつもりか」

僧侶「傭兵さんに通用するはずがないのはわかっていますよ」

 なるべく厭味ったらしく、にっこりとほほ笑んでみます。


8:

 と、そのとき、背後からずんぐりむっくりとした熊のような男性が向かってくるのがわかりました。足取りこそ荒っぽいですが、その指には豪華な宝石のリングがいくつも嵌められています。さぞかし成金なのでしょう。

熊男「おい、お嬢ちゃん。今の話、本当かい」

僧侶「お嬢ちゃんなんて。今は一人の女として見てください」

僧侶「それで――わたしを買ってくださるのですか」

熊男「まだ買うと決めたわけじゃない。が、なに、きみの態度ひとつで変わるというものだ。俺たちはまだお互いのことをよく知らないしねぇ」

??「やめときなよ」

 毛深い手とわたしの肩の隙間に細い刃が差し込まれました。危うく四本の指を落としそうになった男性は、ひっ、と短い声を上げて後ずさります。

??「そういうのは人間のする行いじゃないね」

??「欲深は罪業だよ。金のために春を鬻ぐのもまた然り。買うなんてもってのほかだ」

 騎士風の格好をした煌びやかな青年が立っていました。均整のとれた顔立ちに流れるような金髪。どこからどう見てもいいところのおぼっちゃまです。

傭兵「誰だ、てめぇ」

 言葉を取られました。誰でしょう、この人。

9:

騎士「僕は単なる騎士だよ。ちょっとばかりおせっかい焼きの、ね」

傭兵「おせっかい焼きなのはわかる。で、なんだ。あんたがこのちんちくりんを買ってくれるのか」

 なんと失礼な。ただ年齢相応の成長なだけじゃありませんか。

騎士「まさか、そんなつもりはないよ。僕はきみたちを説得に来たんだ。人が争っているのは見ていて気持ちのいいことじゃないからね」

 傭兵さんが小声で「ばーか」と呟きました。わたしに言ったのではないでしょう。恐らくこの騎士さんのハニースマイルが甘ったるすぎたに違いありません。

 だけど、このときばかりはわたしも傭兵さんと同じ気持ちでした。邪魔しないでいただきたい。

傭兵「争いじゃねぇよ。それともお前が七百万支払ってくれるのか?」

騎士「まさか。交渉したいんだ」

傭兵「交渉?」

騎士「あぁ。きみに決闘を申し込む。もし僕が勝ったら、相場通りの額で引き受けてあげるんだ」

傭兵「なんだこの自意識が肥大したナルシーおぼっちゃんは。お前の知り合いか」

 わたしは黙って首を横に振りました。それを見て傭兵さんは大きくため息をつきます。

10:

 わかります。こういう、困っている人を見過ごせないおせっかいな人はどこにだっているものです。

 僧侶と言う職業上、わたしだってよく施しを行いますが、ここまで見境なしじゃあありません。ありがたくはあるのですが、余計に事態を混乱させているだけのような気もします。

傭兵「俺が勝ったらあんたは何してくれるんだ」

騎士「この銀貨をあげよう」

 騎士さんの手の中で鈍く光る銀貨。一本の剣と、天使の両翼が刻印されています。
 ……わたしの記憶が間違ってなければ、これ、王家の紋章じゃないですか?

 周囲の人間はみんな凍り付いています。この銀貨を持っているということは、分家筋、もしくは直下の貴族に連なる超エリートなのでは?
 売っても値段のつくような代物じゃありません。いや、値段をつけられる代物ですらありません、とも言えます。

 傭兵さんは目をまんまるくしていましたが、やがて満足そうににやりと笑いました。その表情には、けれど依然驚きが残っているようにも見えます。

傭兵「……お前、バカか」

騎士「何とでも言いたまえ。要は負けなければいいんだろう?」

 容易く賭けるにはあまりに重要すぎる品物です。贋物でしょうか……いえ、王家の紋章を偽造するのはあまりにハイリスク。こんなところで見せびらかせるものではないはずです。

騎士「さぁ、外に出たまえ、傭兵くん。騎士道精神の人のなりと呼ばれた僕の実力を見せてあげようじゃないか」

 言葉を受け、傭兵さんはにんまりと笑って、唇をぺろりと舐めました。

11: 
※ ※ ※

騎士「ばかな……有り得ない……」

 がっくりと肩を落とし、地面にひざまずいた自意識肥大ナルシーおぼっちゃんは、俺に負けたことが依然信じられないようだった。愚か者め。
 悪くない太刀筋だった。魔法の詠唱も速い。人並みが相手であれば完勝もできただろうに。

傭兵「俺の勝ちだな。銀貨は頂いていくぞ」

騎士「くっ……」

傭兵「騎士は嘘をつくのかな? それがお前のいう騎士道精神なのかな?」

傭兵「いやぁこの国の騎士道精神は俺の知っているそれとはだいぶ違うようだ、がっはっは、まったく残念だよ!」

 煽る煽る。話をこんがらせてくれたお礼位はしてもバチはあたるまいさ。

 騎士は憎らしげに俺を見ていたが、余裕ぶった笑顔をようやくその顔に取り戻す。

騎士「わかった。銀貨をあげよう」

 懐から王家の紋章が刻まれたそれを獲り出し、そして手渡す。

僧侶「え?」

 ちんちくりんに。

12: 

傭兵「おい」

騎士「話が違う、かい?」

傭兵「舐めてんじゃねぇぞ」

騎士「僕はあげる、としか言っていない。誰に、とまでは明言していないはずだよ」

傭兵「ガキか」

 まるで子供の言い分だった。

 騎士道精神の人のなりはどこへ行ったよと思う。が、そもそも確証もなしに安請け合いをしたのが間違いだったのだと今更悔やんだ。よもやこんなこすい手を使ってくるとは。
 聴衆に訴えかけるか? ……いや、酒場にいた人間はみなちんちくりんに同情的だ。彼女の肩を持つことを明言はしないにせよ、だからと言って俺を助けちゃくれないだろう。

 なら、やはりいつもどおりか? 約束破りには剣を抜くか?

傭兵「冗談もほどほどにしておけよ、ガキ」

騎士「僕と同じくらいに見えるけれどね」

 剣すらまだ抜くつもりはないにせよ、圧力を存分にこめて騎士へと近づく。が、奴は怯んだ様子もない。
 頑固なタイプだ。すぐにそう判断した。そして自己陶酔が過ぎる。こういうのが相手にして一番靡かず、面倒くさいことを俺は知っている。

13: 

僧侶「いいんですか?」

 素っ頓狂な声をあげる僧侶だった。あいつの手に銀貨が渡るのは、業腹だが赦そう。しかしあれを売り払われると困る。
 欲しいのはコネクションで、銀貨はその証左となる。この世は金が全てだが、後ろ盾のない金は危険に過ぎるからだ。まさかこんな辺鄙な酒場で僥倖が転がり込んでくるとは、と甘い期待は打ち砕かれたけれど、一度見てしまった銀貨を手放すのは、流石に惜しい。
 しかし、まだチャンスは残っているというべきだろう。

 限りなく癪だが。

傭兵「わかった。その銀貨と引き換えだ。お前に雇われてやるよ」

 七百万を積んでも銀貨は手に入るまい。銀貨の価値は人それぞれで、ちんちくりんには全く用をなさないと思われたが、俺には喉から手が出るほど欲しいのだ。

 ちんちくりんは――いや、雇い主をそう呼ぶのは流石にまずいだろう。僧侶はこちらをじっと見つめている。
 足元を見られるか、と一瞬躊躇したが、なんてことはなかった。彼女は俺に気軽に銀貨を渡し、にっこりとほほ笑む。

僧侶「これからよろしくお願いいたします」

 そして自ら名乗った。

 大陸南側によくある名前だった。
 ありきたりで、不思議と語呂のいい、転がるような音だった。

傭兵「……こちらこそ、雇い主サマ」

 俺は名乗らなかった。

14: 

* * *

 お礼を言おうと振り向いたところ、あの騎士さんはいなくなっていました。周囲の人に聞けば、いつの間にか消えていたということで、私は忘我を悔やみます。このご恩はいつか返さないといけません。

僧侶「それで、名前は?」

傭兵「あ?」

 眉を顰められました。が、尻込みをこらえて尋ね返します。

僧侶「それで、名前は?」

傭兵「……」

 ぷい、と変な方向を向く傭兵さんです。名乗りたくない、ということなのでしょうか。
 このご時世珍しくは有りません。名うての傭兵の彼と言えど、その実流浪し漂着したものに違いはないのです。きっと口にはできぬ事情もあるのでしょう。

 ひとまず納得した私は彼を手招きし、私の宿屋へ連れて行くことにしました。とにかく契約は成立です。ならば今後のプランを話し合わなければいけません。

 六畳の板張りの部屋に、ベッドと机を置いただけの質素な部屋です。黴臭さが気になるのか、傭兵さんはしきりに洟をすすっています。

15: 2014/05/13(火) 22:07:03.27

 床に直に腰を下ろした傭兵さんは、懐から羊皮紙を取り出しました。紐解けばそれはどうやら地図のようです。しかもかなり詳細な。これだけで余程の値段はするでしょう。

傭兵「まず契約の確認だ。俺はお前をラブレザッハまで連れて行く。いいな」

僧侶「はい」

傭兵「その前にまず確認したいことがある。『連れて行く』の定義だ。『連れて行く』という言葉には当然護衛も含まれるという解釈であってるか」

僧侶「……そうですね。はい」

傭兵「お前はどれくらい戦える?」

僧侶「え?」

 予想もしなかった質問が飛んできて、わたしは思わず声を挙げました。
 しかし傭兵さんは、逆にわたしのその反応こそが予想していなかったと見えます。怪訝そうな瞳をこちらに向けてきます。

傭兵「お前を護衛するのはいい。が、お前自身もある程度――それこそ俺の足手まといにならず、自分の身は自分で守れないと、大森林を抜けるなんて到底無理だ」

 到底無理でもやるんだろうけど、あんたは。傭兵さんはぼそりと言いました。そのとおりです。

傭兵「俺はお前に雇われてるし、任務としてお前を護衛する。が、四六時中じゃない。それとも風呂に入ってる時、用を足してる時、俺も一緒にいるか?」

 わたしはぶんぶん首を振ります。そんな羞恥に耐えられるはずがありません。

16: 

 大きく息を吸って、吐きます。
 戦えるかと傭兵さんは尋ねました。自衛できるか、と。ならば答えはイエスです。

 かばんの中から重厚な鉄の塊を取り出しました。
 ひんやりとした鉄の冷たさ。血の通っていないものが、人間の手によって血の通ったものになるという点では、信仰と似ているのかもしれません。

傭兵「……拳銃か。何とも物騒だな」

僧侶「物騒な世の中ですから」

傭兵「武装くらいはすると。僧侶でも」

 一瞬韻を踏んだジョークなのだか迷いました。傭兵さんは真面目な顔をしているので、わたしは曖昧に笑っておきます。

傭兵「じゃあ魔法はどうなんだ。回復、解毒、解呪、一通りは使えるんだろう?」

 わたしはまたも曖昧に笑いました。

僧侶「あの、それが、言いにくいのですけど……」

17: 

※ ※ ※

傭兵「はぁ? 使えない?」

 いましがた聞いた驚愕の事実を俺は信じられないでいた。
 この僧侶――いやちんちくりん、回復も解毒も解呪もできないだって?

傭兵「そんなのは僧侶じゃねぇ。ヤブだ。モグリだ」

 俺の知り合いにも僧侶がいたが、落ちこぼれのそいつでさえも、回復呪文は使えたぞ。

僧侶「ちっ、違うんです! 使えますけど、かけることはできないといいますか!」

傭兵「はぁ?」

 ますますわからん。

僧侶「ですから、使えるんです。でも、他人にはかけられなくて……」

傭兵「なんだそりゃ。僧侶なんだろ。他人にかけられないなら、僧侶じゃなくて僧兵だな。あの自己鍛錬しか能のないバカどものお仲間ってわけか」

 ちんちくりんはただでさえ小柄な体をさらに恐縮して正座する。どうやら怖がらせてしまったらしい。が、しょうがないだろう。こんなのは予想外だ。
 いや、落ち着け、俺。こんななりでも雇い主だ。それに戦闘力の無い金持ちを護衛したことなんて一度や二度じゃない。要領は変わらないのだ。よし、よし、うん。

僧侶「わたし、魔力を外に出す才能が決定的に欠けてるらしくて……」

 遠慮がちに僧侶は言った。

18: 

僧侶「縫製はできます。維持も充填も、自慢じゃないですけどアカデミーではトップでした。けど、放出がどうしてもできなくて」

 魔法の理論に詳しくない俺でも、縫製、維持、充填、放出の四項目くらいは聞いたことがあった。
 縫製――魔力を編みこんで特定の性質を与える。
 維持――与えた特定の性質を維持する。
 充填――体内の魔力経路を巡らせる。
 放出――魔力経路から魔法を放つ。

 僧侶は放出ができないという。放出が欠けるということは、魔法を体内に巡らせ、自身に働きかけることはできても、他人に恩恵を与えられないということに他ならない。そしてそれは、僧侶としては致命的に過ぎる。

 間を開けず、「だから」と僧侶が続ける。

僧侶「これなんです」

 そう言って拳銃を指し示す。オートマチック式の、何の変哲もない拳銃である。

僧侶「この拳銃にはわたしの魔力経路を模した構造を組み込んであります。その構造を通して、わたしは弾丸に魔法を装填して、撃ちだすことができるんです」

19: 

 なかなか面白いじゃないか、と素直に思った。
 マジックアイテムのワンオフ化だ。魔力を通せば誰でも固定の呪文が使えるあれらとは異なり、柔軟性を持たせてある。回復の際は回復呪文を、解毒の際は解毒呪文をそれぞれ装填した弾丸を撃ちだすのだろう。

 ……撃ちだす?

傭兵「聞きたいんだが」

僧侶「はい」

傭兵「銃で頭を撃ち抜かれたら、普通の人間は死ぬよな?」

 僧侶は俺の質問の意図を理解しきれていないようで、頭の上に疑問符を飛ばしながら、それでも頷く。

僧侶「死ぬと思います、けど」

傭兵「頭じゃなくても、手でも足でも、撃たれたらすっげぇ痛いよな?」

僧侶「やっぱり痛いんじゃないですか」

傭兵「回復呪文を籠めた弾丸で撃たれたらどうなる?」

 僧侶はない胸を張って答えた。

僧侶「大丈夫です! 痛覚の少ないところを狙って撃ちますから!」

 そういうことじゃねぇよばか。

僧侶「それにですね、撃たれた分も含めて治癒しますから!」

 そういうことじゃねぇって言ってんだよ。

20: 

 叫びださないのが奇跡だった。奇跡のような努力の賜物だった。
 ということはなんだ。つまりあれか。こいつは他人を治すとき、いちいち拳銃をぶっ放して、他人に弾痕を作らないといけないわけか。
 撃たれたところも結局治るからいいやと。

 あほすぎる。

傭兵「わかった。お前は戦力には数えない」

僧侶「な、なぜですか!?」

 そこまで銃の腕に自信があるなら簡単には死なないだろう。魔法も、話を聞く限りは自分に対してなら問題なく使えるようだし。

 いまだに僧侶はどうしてどうしてと尋ねてくるが、俺はそれをまるきり無視した。話がわき道にそれている。軌道修正をして、今後のことを話し合わなければいけない。

 俺は羊皮紙を指さした。

傭兵「大森林までは街道を通っていくのがいい。一度南下して街道に合流、北上したのちに大森林だ。大森林を抜ける街道は農道、山道、沿岸道に大別できるが、この場合は農道を抜けていくことになる」

僧侶「でも」

 僧侶が俺を見やる。その意図を察し、頷いた。

傭兵「そうだ」

傭兵「大森林とこっちの領土の境目に、敵の砦がある」

21:

 大森林にすむエルフは決して人間に対して友好的ではないが、少なくとも敵対してはいない。彼らの技術力や資源は俺たちにとって必要不可欠で、人間側――特に隣接し直接取引をする俺たちの国は大々的にエルフへの援助を申し出ている。
 が、当然魔王軍がそれを許すはずはなかった。交易の要衝となる地点には砦が立てられ、人間側とのにらみ合いが続いている状態にある。

 砦の数や魔物の質は魔王領のある西域に近づくにつれて上昇する。残念なことに俺たちが現在いる地点はかなりの西寄りだった。覚悟を決めなければ。

僧侶「どうにかかわしていけないでしょうか」

傭兵「幸いこっちは少人数だ。山越えの要領で行けば、案外何とかなるかもしれんが」

 それは希望的観測だろう。決して現実的な展望とは言い難い。

傭兵「あそこの砦はオークが住んでいる。数だけは多いが、練度は大して高くない。この辺りは田舎だからな、気も緩むさ」

僧侶「知ってるんですか?」

傭兵「一度な」

 意図的にずれた答えを返して、俺は地図上を指でなぞる。

傭兵「エルフの方には伝手がある。大森林に入ってしまえばこっちのものだ。あそこ全てがエルフの領土と言うわけでもない、とやかくは言われないだろう」

 人間の村落も点在しているはずだ。うまく安全地帯を渡り歩けば、抜けるのはそう難しくない。

22: 

 そこは完璧に運次第であって、不安要素もそれなりにはある。が、決してゼロにできない不安要素に頭を悩ませるのも徒労だろう。

僧侶「魔王軍とエルフたちの争いはどうなってるんでしょうか……」

傭兵「聞いた感じだとエルフが有利らしいな。けど、どうやら決め手に欠ける。泥沼化するだろう」

僧侶「早く終わればいいのですけど……」

 恐らく彼女の都合だけを考えて言っているのではないのだろう。なんとなくそんな気がした。

傭兵「ラブレザッハに着いたら契約は終了。それでいいな。引き換えに銀貨を頂く」

僧侶「はい、その条件でいいです。どうせこの銀貨、わたしには必要のないものですから」

 なら今すぐ俺にくれよ、とは口が裂けても言えない。

僧侶「あと、付け足しがあるのですが」

 意志の強い瞳がこちらを向いた。

 これだ、と俺は思った。
 この瞳。身売りを自ら言い出した時と同じ、梃子でも動きそうにないこの頑なな態度。これがこいつの本質であろうことはすぐに察しがついた。

23: 

 決して利口ではないはずだ。不器用で、鈍くさい。算盤を弾けず、融通が利かず、曲がることのできない愚かしさを内包している。
 けれど、それは同時に曲がらない強さの証左でもある。

 強かな女とは程遠い。それでいて強い女。

 俺の苦手なタイプだ。金で転ばない人間は嫌いだ。

 俺は「は」と口から漏れたのを、自分の耳で聞いて初めて知覚した。

傭兵「どうせ断れない立場さ、俺ァ」

僧侶「そうですか。それは助かります」

傭兵「それで」

僧侶「旅の途中、わたしがすることに、黙ってついてきてほしいのです」

 不穏な言葉だ。

傭兵「……どういうことだ」

僧侶「わたしは、多分、誰かを助けてしまうと思うんです」

 まるで自分の悪癖を懺悔するかのような僧侶だった。

僧侶「子供のころから路頭に迷う人たちを見てきました。苦しむ人たちを見てきました。彼らの一助になりたいのです。子供のころは非力で無力でしたけど、でも、今のわたしなら、少なくとも何かはできるはずです」

僧侶「困っている人を放ってはおけません。なんとかしてでも、どうにかしてでも、肩を貸して、手を差し出して、足を運んで、口をきいて、なんとかしてあげたいと思うんです」

 思ってしまうのです。

24: 

 僧侶はそこまで一気に捲し立て、だから、と続ける。

僧侶「傭兵さん、あなたの噂は聞いています。守銭奴。金の亡者。高い金額を吹っ掛ける、資本主義の手先」

 資本主義の中で生きているやつから「資本主義の手先」と言われるのは、ダブルスタンダードな気がしないでもないが。
 まぁ、聞き流すことにしよう。言われ慣れている。それに、自覚だってある。

僧侶「わたしは全く理解できません。腹が立ちます。気持ちが悪いです。きっとあなたも、わたしのことをそう思っているのかもしれませんが」

僧侶「けれど、今の雇い主はわたしです。わたしが誰かを助けたくなった時、助けなければいけない誰かに出会ったとき――遭遇してしまったとき、あなたの力も借りたいのです」

 高潔な生き方だ。笑い飛ばすにすら値しない。
 くだらない。

 が、しかし。

傭兵「雇い主はあんただ。付き合うさ」

僧侶「ありがとうございます」

 深々とお辞儀をする僧侶。
 こんな守銭奴にだって、こんな金の亡者にだって、こんな資本主義の手先にだって。
 嘘がないから嫌になる。俺の力を借りたいことも、俺のことが嫌いなことも。

 空気を入れ替えたかった。物理的ではなく、心理的な。

25: 

 腰を上げる。

傭兵「それじゃ、いつ出発する? 一通り準備をしてからでいいか?」

僧侶「いえ、すぐに発ちましょう。必要になりそうなものはある程度用意してあります」

 それは用意のいいことで。

 宿屋をチェックアウトして外へ出る。快晴。俺は太陽に目を細める。
 これが行く末の暗示であればいいのだが。

34: 2014/05/14(水) 23:56:26.86

* * *

 日もとっぷり暮れて、松明の明りが遠くにぼんやりと見えてきました。街……というよりは村、もしくは集落といった規模でしょうか。
 助かりました。あと一時間歩いてもつかなければ野宿になるところだったのです。想定通りのペースで進めているようです。

傭兵「よかったな」

 ぼそりと傭兵さんが言いました。わたしの考えを見透かされたのでしょうか。

僧侶「傭兵さんは、野宿は慣れてますか?」

傭兵「まぁな。街から街を渡り歩いてれば、自然と身に着いちまう」

 最初の町を出発してから六時間は歩いたでしょうか。最中、何度か会話を試みましたが、傭兵さんはぶっきらぼうな返事をするばかりです。
 性格と言うのもあるのでしょうが、それ以上に、「俺はお前の話し相手として雇われたんじゃない」という意味が強いように感じられました。これを職業の矜持と受け取っていいものか、わたし、悩みます。

 いえ、でも、会話をしなくて正解なのかもしれません。わたしと傭兵さんのスタンスの違いは、最初の出会いからしてよくわかっています。剣呑な雰囲気にともすればなってしまうことを考えれば……。
 お金が大事だというのはわかります。お金がなければ宿屋にだって泊まれないわけですから。けど、お金が全てだと言って憚らない傭兵さんは、どうしても好きになれません。

35: 

傭兵「止まれ」

 前を歩いていた傭兵さんが手でわたしを制します。何かを睨みつけるような視線。
 わたしもそれを追うと、松明の明りが空中に浮いているのが見つかりました。

 ……違います。浮いているのではありません。櫓です。畑を挟んでぽつぽつ点在している民家のエリアを集落とするなら、集落をぐるりと囲むように、八方向に櫓が立っているのです。

僧侶「なんでしょうか、あれ」

傭兵「わからん。が……嫌な感じだ。嫌な感じがする」

 その「嫌な感じ」はわたしにもわかります。空気が帯電しているのです。そして肌で破裂しているのです。思わず身を竦め、足を止めさせる何かが、あそこにはあります。

傭兵「引き返すぞ」

 素早い決断でした。
 それはたぶん、傭兵としての彼の経験がそう判断させたのでしょう。彼の生存本能が警鐘を鳴らしているのです。

 ですが、

僧侶「承服しかねます」

傭兵「はぁ?」

36: 

僧侶「もし何かがここで起きているのだとすれば、わたしたちにも何かができるかもしれません」

 夜道をさらに進もうとしたわたしを傭兵さんは止めます。

傭兵「あほか。こんな早々に時間を喰ってられるかよ」

僧侶「それでも、です」

 わたしは傭兵さんを見つめました。傭兵さんもまたわたしを、その存外にきれいな瞳で見つめています。
 折れたのは傭兵さんでした。心苦しくもありますが、雇い主はわたしで、出発する前に交わした取り決めがあります。ここは我慢してもらわないと。

傭兵「わかった、わかったよ」

傭兵「とりあえずお前は俺の後ろにいろ。なにがあるかわかったもんじゃねぇ」

 傭兵さんの広い背中に隠れながら、わたしたちは集落の中へと入っていきます。

 ひゅおん、と風を切る音。
 同時に傭兵さんがわたしを突き飛ばします。花の咲き始めた芋畑に頭から突っ込みました。

 なるべく素早く体勢を立て直せば、見えるのは地面に突き刺さった一本の矢。

??「誰だ。それ以上近づくな」

 女性の声でした。熱情が声からにじみ出ています。
 傭兵さんは剣の柄から手を離し、無抵抗を示しました。

37: 

傭兵「俺たちは旅のものだ! 宿を借りたい!」

 どこに相手がいるのかわからないので傭兵さんは声を張り上げます。
 僅かな間。そして、ざくざく土を踏みしめる音。

??「手荒な歓迎、申し訳ない」

 姿を現したのは弓を背負った女性です。褐色の肌。灼熱色の耳飾り。何より、獲物を目敏く探しているかのような瞳。
 狩人。一瞬でわたしのなかにその文字が浮かんできます。

狩人「諸事情あって厳戒態勢を敷いている。どうか許してほしい」

傭兵「いや、気にしないさ。あの矢は当てるつもりじゃなかったようだし」

 遅れて遠くから数人の人影が見えました。男衆。一人だけおばあさんもいます。

狩人「長老」

 長老と呼ばれたおばあさんは笑みを崩さずに歩み寄ってきます。

長老「この時期に、こんな場所に、旅の方とは珍しい」

傭兵「宿を借りたいんだが」

僧侶「お力になりたいんですがっ!」

 わたしは叫びました。遮蔽物の無い平地では、わたしの声がどこまでも響いていきます。

38: 

 眼をまん丸くしている狩人さんと長老さん。いち早く復帰した狩人さんが、訝りながら尋ねます。

狩人「力……?」

僧侶「えっと、その、何かがあったんじゃないんですか?」

狩人「何を言ってるんだ、お前たちは」

僧侶「だから――」

 あぁもう、なんでわかってくれないんでしょうか。
 すると、わたしを押しのけて傭兵さんが前に出ました。

傭兵「こいつは僧侶。俺は傭兵。で、こいつは俺の雇い主。趣味が人助けなもんで、ちょっとでいいから話をきかせちゃもらえませんかね。もしかしたら、何かお手伝いできるかも」

 意外でした。傭兵さんが自ら、こんな儲けの無い、旨味の無い話に首を突っ込むとは思っていなかったもので。
 しかし狩人さんの訝り顔は戻りません。

狩人「……あたしたちのことはあたしたちだけで解決する」

僧侶「で、でも」

狩人「宿は貸そう。が、手は借りん」

39: 

 傭兵さんが笑います。それも、にやぁと。

傭兵「そういうことらしい。じゃ、しょうがねぇなぁ。お言葉に甘えようか」

 傭兵さん。

傭兵「いやぁ残念残念。ほら、行くぞ」

 傭兵さん。

傭兵「自分たちのことは自分たちでやる。これも一つの生き方だな」

僧侶「傭兵さん!」

傭兵「なんだ」

僧侶「町を出る時に言ったはずです!」

傭兵「確かにな。けど、この人たちは俺たちの力は必要としていないらしい。だから俺たちも手を貸さなくていい。お互いがハッピーだろ」

僧侶「だからって見捨てていけると思いますか?」

傭兵「見捨てるとは言い方が酷ェな。自分のことは自分でやる。素晴らしいじゃねぇか」

僧侶「それにしたってこの警戒態勢は異常な事態です」

傭兵「非常事態だからな」

 あくまで楽しそうに傭兵さんは言いました。人を喰った態度。いけ好かない態度です。

40: 

狩人「あの」

僧侶「あ、はい!」

 すっかり忘れていました。これから宿に行かなければならないのです。というか、それが目的だったのに。

長老「……」

 長老さんが片目だけでこちらを見ています。気になりますが、なんと言えばいいのかもわからなくて、わたしたちは宿屋へと向かいました。


 通された部屋は当然ながら個室でした。こういう言い方はよくないのでしょうが、粗末な部屋です。物置が近くにあるのかどこか饐えた臭いがします。
 わたしは荷物をおろし、一息つくのもそこそこにして、疲れた足をなんとか動かします。

 宿屋の主人は恰幅のいい女性でした。彼女に長老さんの家を尋ね、礼を言って向かいます。

 傭兵さんはきっと手伝ってはくれないでしょう。発つ時こそああ言ってはいましたが、本心は嫌で嫌で仕方がないはず。しつこく頼めばあるいは、というところだとは思いますが、無理強いをするつもりもありません。
 彼の仕事内容はわたしを目的地まで護衛すること。それ以外はお金にならない仕事なのですから。

41: 

僧侶「お金。お金、お金、ですか」

 思考が口の端から漏れていきます。

 お金は必要なものです。しかし大事なものではありません。
 言うなれば必要悪。

 お金がなくなったって人は死にません。飢えて死ぬのです。
 もしくは、貧すれば鈍す。心が死にます。

 満ち足りたお腹と心のために、人はどうして醜く争うのか。

 強欲。

 七つの大罪。

 打倒すべき存在。

 社会の癌。

42: 

 取り留めのない思考を打ち破ったのは、ぬっとあらわれた狩人さんでした。

狩人「おい、あんた」

僧侶「え、あ……なんですか」

狩人「旅してるって言ってたな。この先に用があるのか」

僧侶「はい、ラブレザッハまで」

 狩人さんの眉が動きます。

狩人「ラブレザッハ……大森林を越えて?」

僧侶「はい。そのつもりです」

狩人「そうか。どおりであの男を連れているわけだ」

僧侶「知り合いですか?」

狩人「知り合ってはいない。一方的にあたしが知っているだけさ」

 確かに、傭兵さんのことを語る狩人さんの口調は、決して友好的なそれではありません。

 あぁ、そっか。わたしは一人納得しました。

狩人「話には聞くよ。よくね。金のためなら何でもする、最低のくそやろう」

僧侶「実力がある分手に負えない、ですか」

 悪評ぷんぷんですもん、あの人。
 それでも依頼があるということから、実力は推して知るべし、なんでしょうけど。

43: 

狩人「正直なところね、あんたらには手伝ってほしいんだ。けどあの男がいる。どんだけ吹っ掛けられるかわかったもんじゃない」

狩人「大森林を抜けるつもりなら、魔王軍とエルフたちの戦争事情は、ある程度知っているんだろう」

 わたしは頷きます。調べて調べて、その結果一人じゃ無理だとわかったから、傭兵さんを頼ることにしたのです。

狩人「この集落からちょっと離れたところにゴブリンの棲家があってさ。戦争が始まって少ししてからかな。多分、物資が不足してるんだろうね。あたしらのとこまでやってきて、作物を荒らしたり、蔵を襲ったりするようになった」

狩人「追い払えないわけじゃない。でも数が多くて。ただでさえ大森林が抜けられないからひもじい思いしてるっていうのに、困ったもんだよ」

僧侶「わたしも手伝います」

狩人「冗談はやめときな」

僧侶「冗談じゃありません」

 狩人さんは目をまん丸にして、一拍の空白の後、笑いを噛み殺しました。

狩人「くっくっく。気持ちだけもらっておくよ」

僧侶「ほ、本当に冗談なんかじゃ――」

狩人「お嬢ちゃん、脚が震えてるじゃない」

 確かにわたしの脚は震えていました。

44: 

――そこからどうやって宿へと戻ったかは、あんまり覚えていません。
 ただ無性に悔しくて悔しくて、拳を固く握りしめていました。

 魔物と戦ったことがないわけではありません。瘴気に中てられた猪や犬のほか、低級の魔物……スライムとか、それこそゴブリンだって退治したことはあるのです。
 ですが今度のそれは退治ではなく、討伐。人が聞けば言葉遊びだと笑うでしょうか? それでもわたしには、その間には深く大きな川が流れているように思えて仕方がないのでした。

 わたしは宿に戻ったその足で、自室ではなくその隣、傭兵さんの部屋の扉をあけました。ノックもせずに。
 どうやら剣の手入れをしていたらしい傭兵さんは、最早体に沁みついた動作なのでしょう、剣の柄を握ってこちらに構えていました。

傭兵「……なんだ、いきなり」

 そう言って剣の手入れを続けます。

僧侶「ゴブリン退治を手伝ってください」

傭兵「あぁ、棲家があるんだってな」

僧侶「知ってるんですか?」

傭兵「さっき聞いた。長老のばあさんからな。お前と同じことを言っていたよ」

僧侶「……それで」

傭兵「断った」

 でしょうね。

45: 

傭兵「よりにもよって金がないとかぬかしやがる。ま、確かに金はなさそうな集落だがな。金がないなら用はない」

僧侶「……あの人たちは、困っています」

傭兵「どうした。歯切れが悪いな」

僧侶「助けてください。お金なら、なんとかします」

傭兵「断る」

僧侶「だって人が困っているんですよ!?」

傭兵「お前は!」

 わたしの声をかき消す怒声に、思わず身を竦ませます。

傭兵「……人が困っているのがここだけだと思っているのか?」

 まるで泣き出しそうな傭兵さんでした。

僧侶「……」

 ……わたしは考えます。
 考えて、それでもやっぱりその問いの意味が分かりません。

 すでに傭兵さんの顔つきは元に戻っていました。

傭兵「いいか、お前のお遊びに俺をつきあわせるな。お前は俺の雇い主であって飼い主じゃない」

傭兵「消えろ」

僧侶「……」

傭兵「消えろ」

 流石に部屋を出ないわけにはいきませんでした。

46: 

 翌日も快晴でした。農村の朝は早いです。窓からは芋畑に繰り出す人々の姿が見えました。
 朝食はすでに済ませてあります。トーストとふかしイモ、根菜のスープ。いつ出発するかを傭兵さんと話そうと思いましたが、彼はすでにチェックアウトしたようでした。

 一声かけてくれればいいのに。

 主人に聞けば、どうやら長老のところへ向かったとのこと。わたしも向かってもいいのですが、昨日の今日のことで、あまりにも顔が合わせづらいです。
 逡巡して散歩することにしました。

 道具屋で消耗品を買い揃え、水を汲もうと川の方へと足を運びます。農道を歩けば長閑な風景。ただ、少し上を向けば、櫓の上に人がいるのが見えるのだけ非日常でした。
 川はきらきらと細かく輝いていて美しく、けれど残念ながら、いまのわたしにはその光景に酔いしれるだけの余裕はないです。

狩人「なにやってんの」

 重たそうな甕を二つ担いだ狩人さんでした。背中には弓、腰には大きめの笊が括り付けられています。彼女も水を汲みに来たのでしょうか。

僧侶「川を……」

狩人「川?」

僧侶「はい、川を、見ていました」

狩人「川」

 繰り返して、狩人さんはもう一度、「そっか、川か」と呟きました。

47: 

狩人「今日にはここを出るの?」

僧侶「そのはず、ですけど……」

 どうしても言い切れません。心残りがあります。

狩人「あたしらのことは気にしなくてもいいよ。傭兵も言っていたろ。自分たちのことは自分たちでする」

 見透かされたような物言いに――いえ、事実見透かされているのでしょう。わたしははっと狩人さんを見上げ、逸らします。

 自分たちのことは自分たちでする。そう言われてしまえば、わたしは何もできません。傭兵さんは喜ぶのでしょうが。

「いーや、その必要はないぞ」

 ぬっと長身がわたしたちの間に割って入りました。
 傭兵さんです。

狩人「なに言ってるんだい、あんた」

僧侶「だって傭兵さん、昨日は……」

傭兵「昨日は昨日、今日は今日だ。光栄に思え。お前らのために、俺のこの手をふるってやろう、がっはっは!」

 わざとらしく大口を開けて笑う傭兵さんでした。だいぶ似合ってます。

48: 

狩人「長老か」

傭兵「そうだ。あのばあさん、俺にしつこく頼みやがる」

狩人「あんたの悪評は聞いている。いくらだ。うちにそんな金があるはずがない」

傭兵「三十万」

 指を三本突き出して、傭兵さんは言いました。

僧侶「さんじゅう……」

狩人「……まん?」

 驚きでした。それじゃあまるで正規の料金じゃないですか!

狩人「……驚いたな。あんたは金にがめついと聞いていたけど」

傭兵「何を言っている。俺ほど誠実な人間はいないぞ」

 欲望にね。

傭兵「追加料金も一切ない。三十万ぽっきりだ」

 狩人さんはしばらく傭兵さんの意図を読もうとしていたらしいですが、じきにそれを諦めます。肩を竦めて、

狩人「まぁ、長老が言うなら仕方がないね。あたしの出る幕じゃないさ」

 そう言って去っていきました。

49: 

僧侶「……」

 じっと傭兵さんの顔を見ます。じっと。恨み節を精一杯こめて。
 気づいていないのか無視されてるのか――恐らく後者でしょうが――傭兵さんはあっけらかんと「どうした?」と聞くのです。

僧侶「……大した心変わりですね。宗旨替えですか」

傭兵「はっ」

 鼻で笑われました。不愉快です。

傭兵「何を言ってんだ。俺に一切ブレはない」

僧侶「なら、なんで手伝うなんて。しかも三十万って。わたしのとき、七百万吹っ掛けた人のセリフとは思えません」

傭兵「馬鹿め。いい言葉を教えてやろう。世の中には先行投資という言葉がある」

僧侶「これが先行投資だと?」

傭兵「お前にはわからないかもしれねぇがな」

 当然だと思いました。わたしは金の亡者ではないのですから。
 依然わたしと傭兵さんの間には不理解という大河が流れています。けれど彼はそれで説明責任は果たしたというふうに踵を返し、悠々と歩き始めます。
 慌てて後を追いました。

僧侶「わかりました。一緒にゴブリンを倒すなら、文句はないです。ですが準備は? 日時は? 計画はあるんですか?」

傭兵「阿呆。ゴブリンの棲家を強襲するのに大した準備も計画もいるかよ」

 あっさりと言います。ただの傲慢なのか、経験に裏打ちされた歴戦のそれなのかは判断しかねました。
 傭兵さん個人の戦いぶりは一度、騎士さんと戦ったのを見ただけです。実力のほどはわかっていますが、どうでしょう。

傭兵「さくっとやっちまおう。落ちてる金は拾う主義だ」

52: 

※ ※ ※

 決行は深夜だと伝えておいた。二日泊まるのは予定外だったが、これは僧侶も望んでいること。文句は言われないだろう。
 剣を研いでいると扉がノックされる。俺を尋ねるのは僧侶しかいない。短く促す。

 静かに入ってきたのはやはり僧侶だ。小さな体をいつも以上に小さくしてこちらを窺っているように思える。

僧侶「あの」

傭兵「なんだ」

僧侶「わたしも連れて行ってください」

傭兵「いいぞ」

僧侶「やっぱりそうですよね……え?」

 断られると思っていたのだろう。信じられないという顔をしていた。

傭兵「一緒に来い。俺の視界の中にいろ。どうせ着いてくるんだろう」

 俺はかねてからそう決めていたのだ。
 この僧侶の意志の強さをもってすれば、俺の制止など聞くはずが――効くはずがないのは明らかだった。変なところでうろちょろされても困る。こいつは俺の雇い主であり、俺はこいつを目的地まで送り届ける義務がある。
 勝手に死なれるのは厄介だ。

 僧侶は明るく笑った。まるで満開の花のようだ、と俺は思った。

53:

傭兵「さぁ行くぞ。もうそろ準備も終わったころだろう」

 伴って宿屋を後にする。櫓の上には依然として見張りが立っていた。けれどその数も今は少ない。
 ならばどこへ行ったのか。当然、俺が集めたのだ。

 集落の端にはバリケードがあった。とはいっても、それはかなりお粗末な簡素な代物で、ゴブリンでさえ簡単になぎ倒せてしまうだろう。
 そのバリケードをさらに進むと緩やかな傾斜があり、小高い丘がある。薄の広がる丘である。

 そして、丘を越えた盆地の中央、川の水を引き込んで作ったため池のそばに、ゴブリンたちの棲家はある。
 ゴブリンは狭いところが好きだ。薄暗く、身をさっと隠せればなおよい。それが種族として頑強でないゴブリンたちの処世術なのだろう。

 薄に紛れて村人たちの姿があった。
 先頭に長老のばあさん。後ろに弓を持った狩人。その後ろに、たくさんの男衆。

長老「頼む。なんとしてでも、あの憎きゴブリンどもを追い払ってくれ……!」

狩人「あんたのことは信用ならないけど、実力はあるんだろう。頼む」

傭兵「やることは簡単だ」

 俺は一面の薄を見やって、


54:



傭兵「燃やせ」



「は?」



 一同、斉唱。


55: 2014/05/17(土) 00:16:02.07

 僧侶もばかみたいな顔をしていた。

傭兵「だーかーら、燃やすんだよ」

狩人「……どういうことか、説明をしてくれないか?」

長老「そ、そうじゃ。この辺り一面が大火事になってしまう。それは困る!」

傭兵「燃やすと言っても焼け野原にするわけじゃねぇ。ある程度刈入れて、延焼しないように準備を整えたうえで、火を放て」

傭兵「風上はこっちだ。まずゴブリンたちを燻す。盆地は煙が溜まる。棲家から出てくるだろうし、火を消し止めるためにこっちに来るかもしれない。どのみち、そこを狙い撃ちだ」

傭兵「皆殺しだ」

 ぐるりと周囲を見回す。
 全員が唾を飲み込んだ、気がした。

56:

 結果から言えば作戦は成功だった。
 泡を食って飛び出してくるゴブリンたちに対し、農民は即座に矢を射かけ、そうでないものは農具を持って応戦していく。
 突然側面から飛び出してきた農民たちにゴブリンはひとたまりもない。要所要所では応戦するゴブリンたちもいたが、それも次第に数を減らしていく。

 僻地の魔物はそもそもヒエラルキーが低いから僻地に飛ばされているのであって、当然強さも、士気も、大したものではない。
 簡単な作業だ。

 状況は明らかに優勢。俺が見守っている必要も、最早ない。

傭兵「行くぞ」

 小声で僧侶に声をかける。

僧侶「え、どこにです?」

 その声を無視し、俺は薄の中を縫いながら、ゴブリンの棲家に近づいていく。
 限りなく、こっそりと。

 何かがあるといけないから棲家には決して近づくなと釘は挿してある。第一、農民たちだって自らは行かないだろう。やつらにそこまでの実力はない。

僧侶「よ、傭兵さん?」

傭兵「うるさい。黙ってついてこい」

 もしも俺の予想が当たっているならば……

傭兵「面白いものを見せてやる」

57:

 棲家はまるで洞穴だった。ゴブリンたちがひっきりなしに、何事かと飛び出していく。
 俺は全く無警戒に入っていく。

僧侶「危険ですって!」

 なわけあるか。

 ゴブリンが目の前に現れた。二匹……さらに後ろから三匹。細長い耳と鼻。醜悪な吐息。見るからに邪悪そうな面構え。実に魔物然としている。
 ゴブリンは彼らの言語で喚いていたが、意見は一致したらしく、手にした棍棒で向かってきた。

 俺は棍棒を掻い潜り、一瞬のうちに二匹の首を落とす。
 狭い棲家では血なまぐささを避ける術はない。俺は甘んじてゴブリンのべたつく血液を浴び、それでも真っ直ぐに、後方の三人へと躍り掛かる。

 初撃はぬるい。ワンステップで悠々に回避できる。耳元を武器が掠めて行く音も、今となっては心地よさすら感じる。
 首を刈って一匹。

 二匹目は一匹目の陰にいて厄介だ。とはいえ、大上段からの振りかぶりを回避するのは難しくない。剣でいなし、腹を裂いて二匹。

 三匹目はすでに切迫していた。眼と鼻の先。俺の剣先とあちらの棍棒、どちらが先に到着するか、際どいところだろう。

58:

傭兵「邪魔だ」

 閃光が迸った。俺の指先から放たれた衝撃はそのままゴブリンを吹き飛ばす。
 地面を転がっていったそいつの顔面を蹴り上げ、胸を串刺しに。三匹目。

傭兵「さっさと行くぞ」

 振り返れば、僧侶が拳銃を握り締め、構えたまま立っていた。
 今にも泣き出しそうな顔をしている。

傭兵「……どうした」

僧侶「っ……なんでも、ない、です」

傭兵「そうか」

 明らかに何でもない風ではなかったが、本人がそう言うならば、俺にはどうでもいいことだ。

 ゴブリンたちはこぞって出て行ったのか、それからあまりエンカウントすることはなかった。もし仮に出遭ったとしても瞬殺ではあったが。
 僧侶はびくびくしながらもついてきているようだった。血や死体を見て倒れられなくて本当に良かった。

 棲家の最奥、松明で照らし出された入り口がある。そこの壁や地面だけが、それまでの通路よりも随分と整備されている。

 大将のお出ましだぞ。

59:

 気を引き締めて部屋へと転がり込んだ。中にいたのは、体躯こそそれまでのゴブリンと何ら変わりないが、顔中に傷跡を刻み込んだゴブリンだった。
 無骨な鎧を着こんでいるそいつは、闖入者である俺たちをちらりと一瞥しただけで、まったく慌てる様子を見せない。

 下から上への切り上げを、ゴブリンの長は錆びた鉄の剣で受け止める。容易く折れるかとも思ったがそうはいかない。俺は一旦後ろへ下がる。

ゴブリン「人間。お前のせいか、この騒ぎは」

ゴブリン「殺しに、きたか。俺たちを。だろう」

 呻くような声だった。傷のせいかもしれない。

ゴブリン「仕方が、ない。生きていけない、俺たちは。喰わねば、餓える」

 鉄の剣をゴブリンの長が握りなおす。
 あわせて、俺も剣の握りを確かめた。

ゴブリン「恐らく、勝てない。俺は、お前に。だけど、だめだ。そうだ、やるしかない」

ゴブリン「例え、見放されていても。魔王様に。俺にも、ある。矜持」

ゴブリン「誓った、かつて。変えると。世界を」

ゴブリン「背けない。その誓いには」

ゴブリン「――行くぞ」

 ぐ、と力を貯めこんだ。

60:

 ゴブリンの長が地を蹴る。速い。そして重い。小柄な体躯が大きく見える。

傭兵「ギラ」

 閃光は鎧の表面で弾ける。しかし、効果は微々だ。衝撃で僅かに体幹をずらしただけ。
 横薙ぎの剣。これもまた速い。が避けられないほどじゃない。しゃがんで、そのまま足を払う。
 ゴブリンの長は跳んだ。剣の上でさらに跳ね、天井を掴んで何かを放る。

僧侶「――傭兵さん!」

 うるせぇ、わかってるよ。
 マジックアイテム――爆裂弾。

 注ぎ込んだ魔力を爆裂呪文に改変する機構の組み込まれた、一般的な戦闘兵器。

 球体が明滅し、僅かな間を置いて、轟音と共に爆裂する。

ゴブリン「やった、か?」

傭兵「んなわきゃねーだろ」

 砂煙に紛れて背後からゴブリンの長の脇腹を突き刺している。鎧と鎧の隙間を縫うように、刃は綺麗に内臓を抉った。
 ゴブリンの長は口から一筋の血液を漏らしつつ、自らの腹に生えた刃を撫で、そこでようやく俺に負けたことを理解したようだった。短く何事かを呟き、刃に手を添えたまま頽れる。絶命したのだ。

僧侶「ぶ、無事ですか!」

傭兵「無事に決まってるだろ」

 あんなゴブリンに後れを取るものかよ。

61:

 大体、爆裂弾の威力などたかが知れている。あれは一般的だが、一般的過ぎる。最早慣れっこなのだ。
 だが、しかし、これで俺の推測が半ば正しかったことが証明された。

 思わず笑みがこぼれる。僧侶を振り向けば、爆裂弾の煙を吸い込んで咳き込んでいた。なにやってんだあいつ。

僧侶「それにしても、やっぱりお強いんですね」

傭兵「いまさらか。騎士の時も見てだろうが」

僧侶「いえ、そうなんですが。……あの人が、弱かったのかな、と」

 あいつもそこそこ強かったのではあるが。
 可哀そうに。

 俺は僧侶を無視することにして、部屋の壁をこつこつと叩いていく。
 爆裂弾で机や武装などが吹き飛んだため、非常に歩きやすくて助かる。

僧侶「なにやってるんですか?」

 こつこつ。

僧侶「あの」

 こつこつ。

僧侶「傭兵さん?」

 しつこいな。

62:

傭兵「ここは洞穴だ。その奥で爆裂弾を使えば生き埋めになりかねん。が、あのゴブリンは迷わず使った。その意味が分かるか」

僧侶「えっ? ……大丈夫だと思ったんじゃないですか?」

傭兵「あぁ、そうだろう。じゃあなぜ大丈夫だと思ったのか。ここは長が住むところだから、特別頑丈に作られている……それもあるだろうが、もっと重要な理由があると、俺は思った」

 僧侶は俺の顔を一瞥し、答える。

僧侶「お金ですね!」

 縊り殺してやろうか。
 とはいえ、事実であるから怒れない。それとも俺のことをよくわかっていると喜ぶべきところなのだろうか。

傭兵「あぁ。金庫、宝物庫……それに類するものがあると思ってな」

 集落の長老は、ゴブリンたちが略奪していくと言った。ならば略奪したものを保管する場所があるはずだ。しかしこの洞穴にそういったところは見つからない。
 ならば、あとはここしかない。

 こつこつ、こつこつ。
 ごん。

 ごん、ごん。ごんごんごん。

 当たりだ。

63:

 壁には、よく見ればうっすらと紋章が刻まれている。恐らく魔術的なロックがされているのだ。
 ふむ、どうしたものか。

僧侶「あ、わたし、これならわかります」

 ……なんだと。

僧侶「ちょっといいですか?」

 扉に手を合わせ、僧侶は目を瞑った。魔方陣を走査して詳細を探っているのだろう。
 走査自体は十秒ほどで終わった。僧侶は振り返り、息絶えたゴブリンの長を指さし、

僧侶「あの人の手、らしいです」

傭兵「楽でいいな」

 即座に右手を切断する。凝固していない血液が飛び散って、僧侶は存外かわいい声を出しながら跳び退いた。
 手を壁に這わせると、かちりと術式の解除音。音もなく壁は開いた。

傭兵「ゴブリンのくせに、そこそこな魔術じゃねぇの」

 呟いて、一歩踏み出そうとして、

傭兵「……」

僧侶「どうしました?」

64:
傭兵「僧侶、お前先に行け」

僧侶「えっ、なんでですか!」

傭兵「罠があると困るだろうが、ほら」

僧侶「はぁっ!? 雇い主ですよわたしは」

傭兵「いいから」

僧侶「うう……主従逆転現象ですぅ……」

 文句を垂れながらも僧侶は部屋の中へと足を踏み入れる。
 一歩入れば自動的に照明が点いた。同時に、眼を潰すかのような金色の光。
 俺も僧侶も思わず目をつぶった。

僧侶「な、なんですか、これ」

 大したものはなかった。否、大してものはなかったと言うべきだろう。僅かな食料や武具の中で、主張の激しい黄金色が鎮座している。

傭兵「どう見ても金塊だろう」

 インゴッド。形成もきちんとされておらず、打刻もない。真っ当な手段で生産、流通したものではない。
 僧侶は怪訝な目で俺を見ている。どうして驚かないのか、この黄金に見当があるのか、そんな視線だ。

65:

傭兵「先行投資の結果がこれさ。なかなか悪くない仕事だ」

「残念だけど、それは返してもらうよ」

 背後から声――何より、殺気。

 ふん。僧侶を前にやって正解だったな。

 狩人は右手にナイフをちらつかせながら剣呑な表情をしている。

狩人「それはあたしらのものだ。あんたらのもんじゃない」

傭兵「あんたらのものだという証拠は?」

狩人「裁判をやってるんじゃあないんだよ」

 まったくその通りだった。
 俺は金塊を渡すつもりはないし、狩人は狩人で、俺たちに金塊を渡すつもりはないのだろう。だとすれば奪い取るしか選択肢はない。
 平和的解決など誰も望んでいない。恐らく僧侶を除いては。

僧侶「あ、あの、どういうことですかこれ。なんで狩人さんが、え?」

 当惑している僧侶。説明する時間などない。すまんが混乱していてほしい。

傭兵「こんな狭いところじゃお得意の弓矢も使えんだろう。さっさと退け」

狩人「ほう」

 狩人が眉根を釣り上げる。

狩人「試してみるかいっ!」

66:

 魔力の波動が狩人から迸る。それは空気を震わせ、壁を、地面を、そして俺たちの体を舐めていく。
 そしてそのあとに広がるは花畑。一面の菜の花。限りない丘陵と野原。朗らかの体現。

傭兵「結界……お前、もしかして!」

狩人「その通りさ! あたしはエルフの血を引いてる!」

 身体的特性は人間の方が優性だ。純血種のエルフと違って、ハーフエルフは目立たない。とはいえ魔術的な特性が潰えるわけでもない。
 人間は自らの内から魔力を捻りだし放つが、エルフたちはこの世界に遍く――と言われている。何しろ人間には感じられないのだ――精霊たちの力を借りて魔法を行使する。
 属性に偏りはある反面、何よりも負担が少ない。嫌な相手だ。

 狩人は弓を抜いた。

 僧侶は……いる。俺の背後でおろおろしている。そのまま頭を抱え込んでくれていたらなおいいのだが。

 彼我の距離はおおよそ十メートル。矢を引き絞り、放つよりも先に、俺が喉笛を掻き切るほうが早いか? 微妙なラインだ。

67:

狩人「最後の通告だ。その金塊を、渡せ。それはあたしらのもんだ」

傭兵「そうだろうな。ここまで採取するのに一体何年かかった? あの川に毎日通い詰めて、数年じゃ利かないだろう」

狩人「あんた、わかってたのか」

僧侶「川?」

傭兵「そうだ。あそこの川は砂金鉱がある。小さな粒でも、集めて鋳造すれば、インゴッドくらいにはなるさ」

僧侶「……だから、輝いて見えたのか」

 僧侶がぼそりと呟いた。

狩人「交渉決裂だ」

 狩人が弓を引き絞る。俺は一も二もなく駆けた。

狩人「知ってしまった以上、あんたらは生かして帰せない!」

 直線的な矢の動きを見切るのは決して難しいことじゃない。どんな動作も、基本は視線の先に狙いがある。
 狩人の視線は真っ直ぐに俺。その殺意に惚れ惚れとする。

68:

 狩人が弦を離す――一度に放たれる三本の矢。

傭兵「人間業じゃねぇな!」

 って、こいつは半分しか人間でないのだっけ。

 一本、二本目を回避し、三本目もまた、なんとか回避する。

傭兵「んなっ!?」

 三本目の陰に隠れた四本目!
 限りなく人間業じゃねぇな!

 剣で叩き落とす。が、衝撃は大きい。腕が大きく跳ね上げられた。

 そこへ追加の鏃。身を翻してなんとか懐へ。

 一閃と同時に矢が放たれる。

狩人「くっ!」

 刃は狩人の腹部を掠っただけだった。血が僅かに滲む程度で、薄皮一枚程度しか切れていないのだろう。生半な相手であれば今の一撃で決まっていたはずなのだが。
 俺は左腕に刺さった矢を抜きながら考える。
 最後に放った矢の狙いは正確だった。

僧侶「二人とも、もうやめましょうよ! こんな無益な争いはありません!」

 無益だと? 何を言ってるんだか。

傭兵「あの金塊を見てもまだ無益だって言えるのか、お前は」
狩人「人も殺したことのないお嬢ちゃんにはわかんないだろうさ」

傭兵「……意見が合ったな」

狩人「困ったもんだわ」

69:

「死ね」

 言葉がハモる。
 流石にこれは意見が合わざるを得ないか!

 狩人が弦を弾く。途端に顕現する矢。その数……あぁもう、数えるのもまだるっこしい!
 数多の矢が俺を狙っている!

狩人「聖霊よ! 我に力を貸せ!」

 降り注ぐ雨を横っ飛びで回避する。しかし油断はできない。どんな手品かわからないが、完璧に避けたはずの矢が、Uターンしてもう一度こちらに。

傭兵「くっ!」

 抜刀。剣を振り抜くたびに、矢の刺さった左腕が痛む。そのせいでわずかに速度が下がった。
 一振りで三本を落とすのが限界だ。残りは地面を転がりながら、せめて最小限の被害で済ませる。降り注ぐ矢が次々と地面へと突き刺さる。
 と、俺はその時確かに見た。矢のそれぞれに跨った精霊の姿を。

傭兵「下級の精霊に操らせてんのか」

狩人「へぇ、見えるんだ。心のきれいなやつにしか見えないはずなんだけどね!」

傭兵「お前は心がきれいってか! 驕るねぇ!」

 挑発の返事は矢。拡散するかのようにてんでばらばらの方向へと跳ぶそれらの軌道は、けれど空中で急に変化する。矢の背中に乗った小さな小人たち――精霊が、狩人の意思に従って狙いを俺に定めなおす。

 回り込むように飛来する矢を完全に避けきるのは至難だと思われた。それでも慌てることはしない。ここまでは想定の範囲内だ。

70:

狩人「あれはっ、あの金はっ、あたしらの金だ! あたしらのもんだ!」

狩人「あんたみたいな薄汚れた手で触っていいものじゃない!」

傭兵「おいおい、そりゃ酷い言い草だな!」

傭兵「金(かね)は天下の周り者だ! おとなしくあの金(きん)を寄越せ! 俺がもっと有用に使ってやる!」

狩人「黙れ」

 懐に潜り込めばこちらが有利だが、そもそも狩人は近づかせてくれない。相当に熟達している。弓矢の腕前が、というよりも、弓矢を使っての戦闘に。
 しかし遠距離主体の相手との殺し合いを俺だって何度も経験してきた。懐への潜り込み方はすでに体に沁みついている。

 最小限の被害で最短距離を突っ込んでいく俺に対し、狩人が苦虫を噛み潰す。

狩人「死ねぇえええっ!」

 鏃の驟雨が全力で俺の命を奪いに来る。思わずぞっとする密度だった。

 視界は矢で埋まっている。視界の範囲外もそうだろう。数は推定八十から百――全てに精霊が宿っていると考えておかしくはない。
 僧侶が背後でなにか叫んでいるのが耳に入った。まったくうるさいやつである。

傭兵「もうちょっと目を鍛えるべきだったな」

 矢に囲まれていた俺の姿が一瞬で霧散し、代わりに狩人の眼前へと姿を現す。

狩人「なっ――!」

 驚愕の表情。それだけ驚いてもらえるなら、幻影の像も感無量だろう。

71:

 俺は剣を抜く。狩人は柄に手を駆けるよりも早く後ろへと跳んでいる。その回避能力は秀逸だ。頭が理解するよりも早く、体が危機に反応する、本能的な素晴らしさ。
 しかしそれでも俺の刃の方が早い。

 狩人の胸から腹にかけて大きく斜めに切り裂いた。血飛沫の花が咲き、花弁の上に点々と散らされる。

傭兵「ちっ」

 手応えの軽さを感じていた。僅かに浅い。ただしそれは俺にとって致命的ではなかった。
 狩人が膝を落とす。四肢の末端への痺れが来ているのだろう。そういう毒を刃先に塗ってある。効果の時間は短いが、その分作用までの時間は一瞬、そんな毒だ。
 毒で殺すのではない。殺すための毒である。

狩人「いつ、のまに」

 幻影の像と入れ替わったのか、ということだろう。

傭兵「お前が結界を展開した時にな」

 ただただ相手のフィールドで戦うことなどよしとできるものか。重要なのは準備をすること、保険をかけておくこと。
 俺は一歩歩み寄る。

僧侶「……!」

 僧侶が俺の前に立ちはだかっていた。こちらを涙目で睨んでいる。

72:

傭兵「……なんだ」

僧侶「どうする、おつもりですか」

 疑問文の形を呈してはいるが、問うてはいなかった。僧侶は恐らく俺が何をするかを理解している。
 でなければ俺の行く手を阻むわけがない。

傭兵「首を刎ねる」

僧侶「――ッ!」

僧侶「もうこの方は戦えません。あなたの目的が金塊である以上――いや、金塊であるからこそ! ここでこの方を殺すのは無益です!」

傭兵「これは契約の範疇外だ。お前の出る幕じゃない。でしゃばるなよ」

僧侶「それでもっ!」

狩人「そのとおりさ」

 視界の端で狩人が弓を引き絞っているのが見える。狙いは僧侶――違う。僧侶を狙うことで、間接的に俺を狙っている。
 癪だが、仕方がない。俺はこのような状況下でもきわめて冷静だった。

 僧侶の前に飛び出す。それと同時に矢が放たれ、俺の鳩尾を食い破った。

傭兵「がっ、く……っ!」

73:

僧侶「傭兵さん!」

 エルフは耐毒性もある、か。かなりいい代謝をしている。本来ならあと十分は効いているはずなのだが。

僧侶「どうして……!」

 それは果たして俺に向けられたものなのか、それとも狩人に向けられたものなのか。
 前者なら答えは簡単だ。「俺は傭兵で、これは仕事の一環だから」。

狩人「あんた、甘ちゃん、だね」

 僅かに舌の痺れを感じさせる口調で狩人は言う。

狩人「あたしゃ、敵だよ。殺すさ。見逃すとか、見逃してくれたからとか、そういうのはない。ないんだ。ないんだよ」

狩人「その金塊が、何よりも大事だから」

僧侶「なんで? なんでみんな、そうやってすぐに、金、金、金って言えるんですか?」

僧侶「恥も外聞もなく! 醜く争えるんですか!?」

 銃を構える僧侶。脚も手も震えているが、今の彼女なら引き金を引けるような……引いてしまえるような、気がした。

 俺は僧侶の叫びに、なにより怒りに対して応じる言葉は持っている。けれど彼女に納得させる言葉は持っていない。それほど俺と僧侶、そして狩人の間には川がある。俺と狩人の対岸に僧侶は住んでいる。
 コミュニケーションの折に触れての微かな共通了解が、もしかしたら砂金なのかもしれないと思うほどには、全てが不全だ。

74:

狩人「生きるにはとかく物入りになる。新天地となればなおさらだ」

 そうだろうな、と思った。そのあたりだろうな、とは思っていた。

傭兵「捨てる、のか。あの村を」

 治癒魔法が効いてきた。治癒とは名ばかりの、痛みを誤魔化すだけの魔法だ。今も血は流れ続けている。

 狩人は口元を歪めた。醜悪なツラをしていた。

狩人「そうだよ。あたしはいずれあの村を捨てる。その時のための、金だ。あたしの未来のための金だ」

僧侶「そんな……酷い」

狩人「酷くない!」

 叫ぶ狩人。今の僧侶の一言が、彼女の琴線に触れたらしかった。

狩人「酷いのはあたしじゃない! 税しか課さないあのクソ領主の野郎さ!」

狩人「作った作物の半分は持っていかれて、今日食べる分も苦労するありさまだってぇのに、何をするにも課税、課税、課税!」

狩人「金が足りなきゃ畑を売れ、畑がないなら体を売れ、だ! 自作農辞めて小作農になった人間がどうして暮していけるよ!?」

 そこで狩人はとても悲しそうな顔をした。信念の炎が、けれど俯いた顔には宿っている。

75:

狩人「……あたしは、もう、そんなみんなを見てられないんだ。だから村を捨てる。何も見なかったことにする。それしかもう!」

狩人「心の平穏は得られない!」

僧侶「でも、だって、ですが、そんなの!」

傭兵「僧侶、耳を貸すな。こいつはただ見て見ぬふりをしたいだけに過ぎん」

 僧侶の口を制して前に出る。
 体を動かせばそのたびに鳩尾から血が噴き出すが、それは決して俺が動きを止める理由にはならない。こいつの信念は燃えている。確かに燃えているが、あまりにも安い。下の下だ。

傭兵「見ていなければ無いのと同義だ。真実と目に蓋をして、現実から逃げたい卑怯者の言葉を聞くな。耳が腐る」

狩人「黙れよ、部外者」

 矢を番える、放つ――動作は熟達、速度は神速。正しく狩人。そして獲物は俺だ。
 しかし、信念に燃えた彼女の瞳は濁りきって、既に何も見えていない。

 目の前の問題から目を逸らす人間が、どうしてこの俺を捉えることができようか。

狩人「……あ、ァう?」

 ごぶり。吐息と言葉は血のあぶくとなって、音声として入って来ない。
 驚愕に目を見開いた狩人が、己の肩越しに俺の姿をようやく認識した。彼女の右脇腹から胸部にかけて大きく刃が抉りこんでいる。そして俺の体に怪我はない。
 その表情のまま前を向いて、鳩尾を負傷した俺の幻影が雲散したのを目の当たりにし、ようやく一言「あぁ」とだけ聞き取ることができる。

 そうして倒れた。

76:

 今度こそ本当に息絶えたのだろう。彼女の魔力によって形作られていた花畑が遠くからさらさら崩れ去っていき、代わりにやってきたのは薄暗くひっそりとした洞穴の姿である。
 宝物庫の中心では狩人が死んでいる。
 その傍らの金塊が、争いなどどこ吹く風で、ともすれば下品ともとれる輝きを放っていた。

 その対比。

僧侶「あ、あ……」

 かちかちと歯の根を噛みあわせていた。無理もない。それは誇れる美徳でこそあれ、貶されていいものではないと俺は思った。
 だから言葉はあえてかけない。そこは俺の仕事ではない。金を貰っているならば、慰めることも吝かではないが……しかし、それは機微のわからない人間のすることだろう。そして俺は野暮ではない。

傭兵「……」

 手を差し出すと素直に僧侶はその手を取った。少しばかり予想外で、危うく僧侶の重みに負けそうになる。

僧侶「……こんなことって、あんまりです」

 それきり僧侶は喋らなかった。

81:

※ ※ ※

 宴が開かれていました。わたしたちが宿泊した宿屋、そこのホールに、皆さんが集まってエールを飲み交わしています。

 幸いにして死者は一人しか出ていないようでした。
 そして、死者が一人でも出たという事実に、「幸い」という冠をつけて語ることこそが何よりも恥ずべき悪徳のような気がして……。

僧侶「……はぁ」

 ためいき。

 みなさん頬を上気させています。楽しそうです。愉快な笑い声があちこちから聞こえ、決して体調が万全と言えない人もいるのに、包帯でつるされ固定された片腕を器用に使ってジョッキを持ち上げていました。

村人A「よぉ! お嬢ちゃんは飲まないのかい?」

僧侶「わたしは未成年ですので」

村人A「大丈夫だって! あんたらのおかげでなんとかなったようなもんなんだ、俺たちに神様の罰があたっちまう!」

 神様もわたしたちの善行を照覧している、と?
 思わず薄い笑みが零れました。酷薄だと自覚のあるそれを、けれど村人の男性は好意的に解釈したらしく、ジョッキをわたしのグラスに打ち付けて、一息に飲み干しながら去っていきます。

82:

 狩人さんを殺したのはわたしたちなのに?

 村の人たちには、狩人さんは、ゴブリンの長と戦って死んだと伝えました。わたしたちの危機を身を挺して救ってくれた、とも。
 そしてそれを疑う人はどこにもいません。そうでしょう。わたしたちは村の恩人なのですから。

 思考が深く暗い底へと落ちかけていきそうでした。崖っぷちに伸ばした手は、代わりにエールのジョッキを掴みます。

僧侶「……」

 覚悟を決めて、いち、にぃ、さん!

 にが!

 思わず眉根が寄るのを感じながらも一気、一気、一気。ごくごくごくと嚥下。

 僧侶「ぷは」

 口についた泡を袖で拭って、勢いよくジョッキをテーブルに叩きつけました。近くに座っていた村人が「いい飲みっぷりだねぇ」と褒めてきますが全然嬉しくはありません。

83:

 ひっく。

 嗚咽ではありえない痙攣を横隔膜が行います。自分の体すら意に反して動くのに、誰かの生き死にを自分の意のままにしようだなんてのは、きっと恐ろしくおこがましいに違いありません。
 それでもわたしは、みんなが幸せになる方法を採りたいのです。

 餓えることのない世界を。虐げられることのない世界を。
 実現したいのです。

 あぁ。

 気が付けば二杯目が底を尽きかけていました。うっすらと残ったものを飲み干して、フチについた泡を舐めとり、ほうと一息。

 ……なんだか、暑いですね。
 時期的に仕方がないんでしょうけど?

 ていうかあの傭兵野郎はどこへ消えたんですか。最初に村人全員から感謝の言葉を受けて、営業スマイルで受け流していた彼の姿を、わたしはそれ以降見ていません。雇い主をほっぽりだして、今わたしが狙われたらどうするんでしょうか。
 立ち上がったわたしの体はいつもより重かったです。脚で自重を支えきれず、二、三歩蹈鞴を踏んで、

村人B「大丈夫かい?」

 受け止められます。お礼を一つして、

僧侶「あのぉ、傭兵さ……うちの傭兵、見てませんかぁ?」

村人B「傭兵さんかい? そう言えばとんと見てないなぁ」

84:

村人C「長老と何か話してたよ。外に出て行ったのは見たけどねぇ」

 通りがかった女性がそう教えてくれました。外。風に当たるのもいいでしょう。ついでに、あの人に文句の一つでも言ってやらなければなりません。
 わたしは一歩一歩地面を踏みしめるようにして外へと向かいます。

僧侶「わぷっ」

 扉を開ければ人の胸板がわたしの鼻にぶつかりました。見上げれば、それは傭兵さんです。

僧侶「あ。どこいってたんれすか?」

 傭兵さんは怪訝な顔をして、ぽつりと一言。

傭兵「お前酒臭いぞ」

 そんなはずはないです。そもそも女性に面と向かって「臭い」だなんて、デリカシーがありません。

傭兵「……まぁいいか。外に行くぞ、ついてこい」

僧侶「にゃにするんれすか」

傭兵「……大事な話だ」

 外に出ます。酒場に充満していた熱気が扉から抜けて、火照ったわたしの体をゆっくりと鎮めていってくれました。それでも体内に十二分に熱は残っていましたが。

85:

村人C「長老と何か話してたよ。外に出て行ったのは見たけどねぇ」

 通りがかった女性がそう教えてくれました。外。風に当たるのもいいでしょう。ついでに、あの人に文句の一つでも言ってやらなければなりません。
 わたしは一歩一歩地面を踏みしめるようにして外へと向かいます。

僧侶「わぷっ」

 扉を開ければ人の胸板がわたしの鼻にぶつかりました。見上げれば、それは傭兵さんです。

僧侶「あ。どこいってたんれすか?」

 傭兵さんは怪訝な顔をして、ぽつりと一言。

傭兵「お前酒臭いぞ」

 そんなはずはないです。そもそも女性に面と向かって「臭い」だなんて、デリカシーがありません。

傭兵「……まぁいいか。外に行くぞ、ついてこい」

僧侶「にゃにするんれすか」

傭兵「……大事な話だ」

 外に出ます。酒場に充満していた熱気が扉から抜けて、火照ったわたしの体をゆっくりと鎮めていってくれました。それでも体内に十二分に熱は残っていましたが。

86:

 傭兵さんに連れられて酒場の裏手へとやってきます。

僧侶「!?」

 人が倒れていました。見たことのあるシルエット。長老さんです。
 介抱しようと咄嗟に駆け寄ろうとしたわたしを傭兵さんが制します。

傭兵「待て。そいつは放っておけ」

僧侶「い、いったい何があったんれす!」

傭兵「叫ぶな。ばれるとまずい」

 わたしは言葉と空気を飲み込んで、深呼吸。酩酊のせいか僅かに鼓動の音が大きく聞こえますが、次第に頭はクリアになっていきました。

僧侶「傭兵しゃんが、やったんれすか」

 まだ口がうまく回りません。

傭兵「殺しちゃいねぇよ。気絶させただけだ」

 でも、なんで。わたしの視線を受けて傭兵さんは頭を掻きます。

傭兵「お前はおかしいとは思わなかったか。この辺りは一帯が農業地帯だ。だからといって全員が農業従事者というわけじゃあないが、あんな手練れの狩人がいるのは普通じゃない」

僧侶「でも、それは近くに大森林があるからで」

 言ってから、わたしも「ん?」と思いました。
 狩人さんはあの時確かに「村を捨てる」と言いました。その表現には、狩人さんなりの村への愛着や、村人への愛が感じられます……結果は、ともかくとして。
 彼女が村の一員だとするならば、ハーフエルフの彼女はどこからやってきたのか。

87:

傭兵「話を聞く限り、狩人は長老が連れてきた孤児らしいな。本当に孤児かどうかすら怪しいもんだが、まぁ、それは今はいいだろう」

傭兵「この村で十年……気の長い計画だな。よほど出ていきたかったと見える」

僧侶「じゃあ、全部長老さんら、裏で糸を引いていはってこと……?」

傭兵「ゴブリンに関しては偶然じゃないか。あいつらが金塊を持って行ってしまった。集落総出でゴブリンを攻め落とせば、金塊が明るみに出る。だから長老は部外者に頼みたかった。タイミングよくやってきたのが俺たちだ」

僧侶「れ、れも、なんで、そんにゃことを」

傭兵「狩人が言った通りさ。新天地で暮らすには金がかかる。金塊一つぶらさげてけば、かなりの額だ。四六時中畑を耕して、税金を領主におさめなくてもいい程度にはな」

傭兵「金塊のことを話したら、このばばあ、血相を変えて俺に掴みかかってきやがった。あることないこと言いふらされるとまずい。所詮俺たちはよそ者だからな」

僧侶「じゃあ……」

傭兵「あぁ。今晩中にでも発つぞ」

 きっと傭兵さんの言っていることは全て真実なのでしょう。彼はお金に忠義を誓っています。ゆえに、そのためならば真実を捻じ曲げることすら厭わないはず。けれど今、彼はわたしの傭兵です。
 唇を噛み締めました。長老さんが全ての元凶だと断ずるのは容易く、実に容易く、途轍もなく容易いことです。それで全てが解決し、すっきりすとんと胸に落ちるのであれば、いくらでもそうしますが。
 
 とるものもとりあえず、わたしたちは喧噪に包まれる酒場を背後に、足早に集落を後にしました。

90:
◇ ◇ ◇

 空気の抜けた音がして、視界の先に小さく映る敵影が、ゆっくり倒れる。
 残存勢力の動きがより一層慌ただしい。周囲はぐるりと取り囲まれた。このまま包囲網を狭められてしまえば、見つかるのは最早時間の問題と言える。

「減るどころか増えてるすねぇ」

 男は照準器を覗きながら息を吐く。

「残弾は」

 男の隊長が口を開いた。随行して数日になるが、彼と口をきいたのは初めてだった。
 二人以外の隊員はみな魔物に獲って喰われたか連れ去られた。喋る相手がいないのだから、それは当然の帰結と言えた。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……六発すかね。あ、いや、五発す」

「一つどうした」

「これ、彼女からもらったやつなんですよ。使えないです」

「……そうか。元気だといいな」

「こないだ死にましたよ」

「……そうか」

「殿を任されたって喜んでたんすけどね」

 引き金を引く。一体の頭部が破裂。残り四発。

「尻についた火を消せなかったか」

「魔族も結構ガチすよね」

 引き金を引く。左足を吹き飛ばした。残り三発。

91:

「でなきゃわざわざ俺たちが派兵されん」

「エルフのみんな元気すかねぇ」

「無事に逃げてるだろうさ」

「殿なんかするもんじゃないすよ」

「難しいもんだ。火を消すのは」

「隊長、敵影いくつ確認できるすか」

「十八」

「こっち十二す」

「残弾は三か」

「うい」

「一発で四人殺せるか」

「一応、頑張ってみるす」

「やめとけ。無駄だ」

「あなたが言ったんじゃないすか」

「命令だからってなんでも従うな」

「命令ならなんでも従えと習ってきたすから」

92:

「……なら、命令だ」

「『絶対に死ぬな』すか?」

「……」

「うわ、当たっちゃったすか。冗談のつもりだったんすけど」

「……生き残るぞ」

「もちろんすよ。こんなところで死んでられないす」

「……俺の死場は戦場だと、ずっと思っていた。思っていたが……死ぬのは、いやだな。少なくとも、ここは、いやだ」

「ここは、クソの掃き溜めすからね」

 引き金を引く。弾丸が二体の魔物の頭部を吹き飛ばした。予想外の一石二鳥であった。
 残り二発。

「死にたくないすねぇ」

 引き金を引く。大きく外れて木の幹を穿った。狙撃を外したのは初めてだった。
 自分の指先が小刻みに震えているのを、男はそこで気が付いた。

「隊長」

「なんだ」

「最後の一発になっちゃったす」

「そうだな。俺も、あと二発だ」

 そう言って発砲。魔物の右ひじから先を引き千切る。致命傷とは言い難かった。

93:

「自殺するってのはどうすか。俺、魔物の拷問、うけたくねーすよ」

「……好きにしろ」

 男は曖昧に微笑んで、腰から短銃を取り出す。それを口に咥えて、

「すんません。一足お先に」

「逝かれちゃ困る!」

 傍らには二組の男女がいた。

94:

* * *

 あー、もう!
 まったくもう!

 傭兵さんが大声を出すから、魔物たちが、あんなにたくさんのあれが、
 こっちを向いて!

 見られた――ばれた――死ぬ!
 や、死にはしませんけど!

 全体的に手段が荒っぽいというか、むちゃくちゃというか、省みる事柄が少なすぎるんですよ、あの人。やりたい放題。勝てば官軍。誰に迷惑をかけたっていいや。そんな思考がもろ見え。

 隠された隧道の先には、エルフのみなさんが仰っていた通り、兵士さんたちがいました。話によれば十人一組の小隊だったはずなのですが、残り八人の姿は見えません。
 その意味がわからないほど、わたしは愚かではありませんでした。

傭兵「お前ら、魔法は使えるか」

隊員「え、あ、いや」

傭兵「そうか」

 短く言って、駆け出していきます。魔物の軍勢はこちらに完全に気付いていました。オークと魔道士の混成部隊。一際体の大きく、また無骨な鎧を着けているオークがいます。恐らくあれが大将なのでしょう。

隊長「あんたらは、なんなんだ?」

 歴戦の強者といったふうな男性でした。この現状を受け止めているようですが、まだ嚥下はしきれていない様子。

 わたしは短く答えました。

僧侶「旅の者です」

 おまけににこりと微笑んで。

95:

僧侶「大森林の向こうに用事があるのです。わたしは彼を雇って、森の中を進んでいました。エルフの一団に出くわしまして、何やら様子がおかしい。近づけばあなたたちのことを助けてやってくれとのことでした」

 次第に表情筋が疲れてきました。交渉のことを思いださなければ、これほど気持ちのいい人助けもないのですが。

 珍しく傭兵さんは金銭を要求しませんでした。代わりに、エルフの酋長に会わせろと、それだけ。
 酋長は別働らしく相成りませんでしたが、確約は取り付けました。それが果たしてどんな意味を――傭兵さん的に言えば「利益」を生み出すのか、わたしにはわかりませんけど。

隊長「……あいつ、強ェな」

 マスケット銃を構えた壮年の男性がぽつりと漏らしました。視線の先には一人で包囲網を突破ならぬ叩き潰そうとしている傭兵さんの姿があります。
 まさに鬼神のような戦いっぷりでした。持参した剣は既に使い物にならなくなっていて、切り伏せた魔物の帯びた剣や鋭い牙、爪を奪いながら戦っているのです。

 接敵し、切り捨てて、離脱。そしてその先にある敵をまた切り殺す。
 一方的な虐殺です。

 自らが切られたことに気付いた時にはすでに傭兵さんは別の敵に向かっていて。
 仲間が切られたことに気付いた時にはすでに傭兵さんはそいつへ切りかかっている。

 切り落とされたはずの腕は幻影で。
 囲まれれば火炎魔法が吹き飛ばす。

 見る見るうちに魔物はその数を減らしていきます。大将のオークが指を向けて何事かを叫ぶと、部下たちが一斉に傭兵さんへと飛びかかっていきますが、僅かな隙間を縫って突破。と同時に魔物たちの首が刎ねられます。

 ともすれば剣を振るより先に首が飛んでいるような錯覚さえしていて。

96:

 心底彼が味方でよかったと思いました。性格こそひん曲がっていますが、いえ、ゆえに、そんな性格でも生きてこられた彼の技量なのです。

僧侶「お怪我は有りませんか?」

 二人はこぞって首を横に振りました。視線はわたしの右手にある拳銃へと注がれています。
 そんなに手荒な真似だとは思わないのですが……。

隊員「そろそろすよ」

 若いほうが声を挙げました。見れば、死屍累々の中にオークの大将と傭兵さんが向かい合っています。

 あくまで傭兵さんは自然体でした。緊張の中にあっての脱力。それが達人の域に達してなお習得が難しいものであることを、わたしはなんとなくですが知っています。
 ただただ傭兵さんは立っているだけなのに、オークはじりじりと後ろに下がっていきます。気圧されているのです。武の路を歩んだことのないわたしでさえ彼の強さがわかるのですから、オークに至っては猶更でしょう。

 後ろに下がり続けたオークのかかとがようやく木にぶつかりました。そこで退路がないことを悟ったのか、地面を強く強く蹴り上げ、土塊を巻き込みながら突進。
――速い。

97:

 力とはすなわち速度であると換言できます。つまるところ還元されるのです。
 力があれば速く動ける。速く動ければ、その分破壊力も増す。

 限りなく単純な図式。そしてそのある種純粋な強さをオークは持っている。

 のですが。

 棍棒の打ち下ろしを紙一重で回避し、次撃もスウェーで避けた傭兵さんは、一歩踏み出すだけでオークの懐に潜り込みます。
 長身の傭兵さんをして見上げるオークですが、まるで意に介さずに抜刀。一振りで棍棒を持った腕を肘から切断しました。

 残った腕をオークが狂乱交じりに振り上げますが、それが振り下ろされるよりも先に、喉を切っ先が貫いて。

 その瞬間にオークの巨躯が一瞬だけ停止しました。傭兵さんは柄に力を籠め、蹴りながら刃を引き抜きます。
 ぐらりと揺れ、地響き。
 血の雨が降る中を平然としているその姿はおおよそ同じ人間と思えません。強さもまた然り。

 ……悪評ぷんぷんでも、いくら恨みを買ったとて、平然としていられるのはこの強さがあるからなのです。人間を相手取るときよりもずっと容赦がありませんでした。

 わたしたちはその光景をぽかんとしながら見ています。なんですか、あれ。呆然と見ているだけしかできないとはまさにこのことでしょう。
 こんなにあっさりと包囲網を突破してしまうと、死を覚悟したお二人の立場なんてありません。傭兵さんにとっては包囲でも網でもなかったのですから。

98:

 まぁ、彼にそのあたりを弁えろ、慮れと言う方がどだい無理な話でしょうが。金を払うならともかくとして。

傭兵「その顔は俺の悪口を考えている顔だ」

 いつの間にか近寄られていました。鼻をひくつかせれば血生臭さが顔を顰めさせます。脂と鉄の混ざったにおい。不快なにおいです。けれど大事なにおいでもあります。

僧侶「……お疲れ様です」

傭兵「は。疲れやしねぇよ。肩慣らしにもならねぇ」

 言い捨てます。二人の兵士は居心地悪そうに笑いました。

傭兵「おい、あんたら。俺の仕事はここまでだ。ここから先は知らん。野垂れ死ぬも、祖国に帰って報告するも、勝手にしろ」

隊長「……助けてくれたこと、感謝する」

傭兵「なぁに、気にするない。これも仕事だ。謝礼を払いたいってんなら払ってもいいんだぜ?」

 軽口を叩いたようでしたがその実大真面目です。謝礼が払われたなら、きっとほくほく顔で受け取るに違いありません。

隊長「残念ながら今は持ち合わせもない。代替になるようなものもない。が、このお礼はいつかさせてもらう」

僧侶「気にしなくていいんですよ?」

隊長「そういうわけにもいかないな」

99:

隊長「我々の現在駐屯地はボスクゥ。本隊は、これは軍規に当たるため詳細の説明はできないが、数日のうちはラブレザッハにある。もしあなたたちがそのどちらかに来れば、尋ねてきてほしい。これを預けておくから」

 階級章でした。重要なものではと思うのですが、様子を見ている限りは特にそうでもないのでしょうか。

 駐屯先はボスクゥ……ボスクゥは大森林を抜けた先にある交易都市です。大きな湖があり、水資源が豊富で、陸路だけではなく海路も充実していると聞いたことがありました。
 そして本隊がラブレザッハ……わたしの目的地。軍自体は王都にありますから、一団がラブレザッハ、そしてさらにそこから別れて各個大森林へ、という流れなのでしょう。
 しかし、ですが、うーむ……これは、もしかするともしかして、少々まずいことになったのかもしれません。

傭兵「おう、ありがたく」

隊員「……あんた、アレすよね」

 そう言って青年は傭兵さんの名前を挙げ、

隊員「金にがめついとは聞いてたすけど、それもやむなしの強さすね」

傭兵「褒めても金は出ないからな」

 青年は苦笑して手をひらひらと振った。

隊長「それでは、我々はボスクゥへと帰還し、報告を行う。それでは、また。神のご加護がありますよう」

僧侶「はい。御武運を」

100:

 壮年の男性が十字を切ったのはわたしが僧侶だからでしょうか? それとも彼自身が敬虔な信徒なのでしょうか。
 二人はわたしたちが通ってきた隧道を引き返していきます。駐屯地まで戻る際に魔物と遭遇しないとも限りませんが、誰もそのことを言い出しませんでした。二人はきっとこれ以上わたしたちの世話になるまいと考えているからで、傭兵さんは……金にならないからですね。

 その背中を見送りながら、わたしたちもゆっくりと歩き出します。

 あの集落を逃げるように発ってからすでに半日以上が経過しています。大森林の中は鬱蒼と木々が生い茂り、昼でも薄暗い。それでもところどころにスポットはあったりして、別段恐怖は感じませんでした。
 魔物の類とは幾度となく遭遇しましたが、それもまた問題は有りません。オークすら鎧袖一触できる傭兵さんがどうしてそれ以下の魔物に後れを取りましょうか。

 問題はただ一点。ただただ歩きにくい地形と、変わらない景色、そしてそれらが齎す疲労。

 ……有体に言ってしまえば、わたし、もうへとへとです。

傭兵「……休むか?」

僧侶「べ、別に、大丈夫です」

 いましがた戦いを終えたばかりの傭兵さんが休息を必要としていない以上、見ていただけのわたしが休むわけにもいきません。

101:

 そういうと傭兵さんはわたしにでこぴんを一発して、

傭兵「雇い主が疲れてたら休むんだよ。敵が強襲してきたとき、疲れて満足に逃げられなかったらどうする」

傭兵「お前、ラブレザッハに行く気がないのか?」

 わたしはぶんぶんと首を振りました。勿論横に、です。
 すると傭兵さんはどっかと腰をその辺の石に下します。そして自分が持っていた道具袋をわたしへ投げて、一言「座れ」。

僧侶「え、でも」

傭兵「どうせ大したものは入ってない。敷け。座れ。休むときはきっちり休め。それが鉄則だ」

 言われるがままに道具袋をお尻の下に敷きました。地面の硬さや冷たさなどが、確かにこれ一枚でだいぶ緩和された気がします。
 優しいんですね、などとは言いません。そもそも思っていません。これは彼なりのプロ意識なのです。わたしが、懺悔に来た人間ならば分け隔てなく受け入れるのと同様に。

 腰を下ろせばどっと疲れが噴き出してきました。膝が笑ってます。眠気も襲ってきました。集落を出てからは歩きどおしで、睡眠はとったといえ、殆ど仮眠のようなものです。物音にびくびくしながらの就寝でしたから。

傭兵「寝るなら俺が見張りをしておくが」

僧侶「悪いですよ」

傭兵「そういう気遣いは無用なんだよ。どうせ今夜も野宿だ。すぐ目ェ覚ますんだろうから」

 ……ば、ばれてる!

102:

僧侶「……じゃあ、すいませんけど、ちょっとだけ」

傭兵「おう。何かあったら蹴り飛ばす」

僧侶「普通に起こしてくださいよっ!」

傭兵「大丈夫、だーいじょうぶ」

 これほど不安になる「だいじょうぶ」なんてめったにありません。

 強がりもそこまででした。魔王よりも強大な睡魔がわたしの意識を深淵に引きずり込んでいきます。

108:

 ※ ※ ※

 日は変わった。しかし景色は変わらない。
 どこまでも続く大森林の光景は、いくら俺でも聊か精神に来る。終わりが見えないのは焦燥感を煽るし、どこから敵が現れるかわからないのもまた同様だ。
 僧侶は俺の背後でふらふらになりながらも懸命に脚を動かしている。視線はぼんやりと上空へ向けられていて、ほぼ無心だ。余裕の「よ」の字もない。

 休もうか、とは言わなかった。今度こそは僧侶も首を横には振らないだろう。そんなにちまちまと休んでいたらいつまでたっても目的地まではつかない。無理のし過ぎは当然禁物として、多少の無理は通さなければだめだ。

 本当に厳しくなったらそれこそ気絶させてでも休ませよう。護衛自体は珍しいことではない。気の使い方も、よほどの場合も、心得ている。

傭兵「……?」

 いや……。
 俺は鼻をヒクつかせる。確かにする。水の匂いだ。

傭兵「水場だ。少し寄っても大丈夫か?」

 水はまだ十分あるとはいえ、補給できるときに補給して損はない。瘴気に汚染されている可能性や、同様に水を求めてやってきた魔物に出会う可能性もなくはないが、そのときはそのときだ。

僧侶「あ……はい、大丈夫、です」

 声に力がない。だいぶ参っている。普段から鍛えてないからこうなるのだ……とはいえ、一介の僧侶に強靭な足腰と体力を求めるのは無謀か。
 嗅覚を頼りに五分ほど歩けば川に行き当たった。沢もないような小さなせせらぎだったが、そのまま下っていくと、やおら急に幅が広くなり、小さな池のようになっている。

 人がかつて使った形跡は有れど、居住の気配はない。誰かがここを拠点に活動しているわけではなさそうだ。

109:

 俺が水を汲んでいると、背後で僧侶が水面を眺めていた。単にぼうっとしているわけではないようで、なんだか羨望のまなざしである。

傭兵「水浴びするか?」

 あてずっぽうで言った言葉が正鵠を射たらしい。僧侶は一瞬赤面し、俺から視線を逸らした。
 こいつも女子だ。あの集落の宿では風呂に入ったのかもしれないが、それから森の中を歩き通しで、不快感を覚えているのだろう。
 慣れている身としてはどうでもいいのだが、年頃の女子にはそれは、もしかすると何事にも代えがたい苦痛かもしれない。

傭兵「安心しろ、見張っててやる」

僧侶「……覗かないで、くださいね」

 覗くか、ばか。

 木陰で脱いだ僧侶は池へと身を沈める。ちゃぽん。ちゃぷ、ちゃぷ。ざぶん。ばっしゃん。背後で水の跳ねる音が断続的に響いていて、どうやらお気に召していただけたようでなによりだ。

 魔物の気配も今はない。こうなると俺も手持無沙汰。

 退屈を紛らわせるために背後へと声を投げる。

傭兵「どうだ?」

僧侶「気持ちいいですよ!」

 ばしゃばしゃと水音。はしゃいでいるようだ。これで疲れや眠気もある程度は飛んでくれるだろう。

110:

傭兵「お前僧侶らしいけど、宗派はなんなんだ? そう言えば聞いてなかったよな」

 広い大陸に宗教は沢山ある。新興のそれまで含めたらきりがない。
 基本的には商人に信仰されているもの、農民に信仰されているもの、騎士に信仰されているものに大別できるだろう。分派は様々だが、どの町に行ってもこれら三柱は教会が存在する。

僧侶「わたしはカトリアンです。あんまり一神教って好きじゃあなくて」

 カトリアン……農民に普及しているカトル教を信奉している者たちの呼び名だ。他の二つの巨大宗教、商人の信じるプロトニック教と騎士の信じるダバラモ教は厳格な一神教なのに対し、カトル教はアニミズムである。
 宗教には明るくないが、教義くらいは知っている。カトル教はこの世の遍く存在に魂が宿ると説き、一人では何事もなせず、協働を通して魂を研鑽することでいずれ昇天できると教えている。

 なるほど、確かにこいつにはぴったりだな。他人を放っておけないところなんか特に。

僧侶「傭兵さんの宗派は?」

傭兵「俺か? 俺はマーナセン教を少々な」

 俺の言い方がおかしかったのか、僧侶は笑いを噛み殺した感じで応じる。

僧侶「少々って……それにしても、意外ですね」

傭兵「何が」

僧侶「傭兵さんが信徒だったことにです。しかもマーナセンって。わたしも知識があるわけじゃないですけど、土着信仰ですよね、それって確か」

111:

傭兵「信じちゃいねぇよ。ただ、無宗教を名乗っていれば、熱心な奴らから受けが悪い。それに、験を担ぐくらいは俺だってするさ」

僧侶「験担ぎ、ですか」

傭兵「なんたって俺は傭兵だからな」

 あまりのくだらなさに言って自分で笑う。
 僧侶は暫し無言でぽかんとしていたけれど、少ししてその意味を察して、

僧侶「傭兵、マーセナリー、マーナセン、ですか」

傭兵「そのとおり」

 僧侶の顔は見えないが、きっと呆れ顔のことだろう。

僧侶「まだ大森林は入ったばかりなんですよね」

 話題を切り替えて聞いてきた。短く「そうだな」と答える。

傭兵「普通に行けばあと五日くらいになる。間に合いそうか?」

 そこが問題だ。
 僧侶は曖昧に笑った。いや、もちろん背を向けているため顔は見えないが。

僧侶「昨日の兵士さんが言うには、ラブレザッハには現在軍の本隊が駐留しているとのことです。今行くのはちょっと危ないかもしれませんね」

傭兵「そうか? 一般人の入国が問題になるとは思えないが」

112:

僧侶「州総督はきな臭い噂の絶えない人です。御膝元のラブレザッハを守るのは、そもそも彼の私設軍。そこに傭兵ないし王立軍が駐留する理由はわかりませんが、国王と州総督の確執があると見て間違いないでしょう」

僧侶「となれば、決して雰囲気はよくないはず。入国は厳格化されるでしょうし、内部でのいざこざも、もしかしたらあるかもしれません」

 この国は大小さまざまな村・町・都市から成る。大きな都市はそれひとつで、小さな町村はいくつかまとまって統治が行われている。
 最小の政治的な単位をそれぞれ州といい、州を治める者は領主、そして領主たちを束ねるのが州総督だ。

 現在の州総督は僧侶の言うようにあくどいと評判だ。そのため、立場的にやつの下についている領主たちも、重税を課したり徴兵をしたりと横暴も甚だしい。

 それとは別に王都があり、そこには直系で連なる王族貴族がある。王族一派の支配権は王都アシェンティアと彼らの自治区だけにのみ及ぶが、対外的な活動は全て握っている、ある種の国の象徴だ。
 必然的に王族と州総督は互いににらみを利かせる関係にある。それが一方の暴走を防ぐブレーキとなることもあり、また今回のように、不和の原因となることもある。

傭兵「一体何の用があるんだか……」

 依頼人の意図を汲むのは俺の仕事の範疇だが、だからといって不必要に首を突っ込むのは双方に利益がない。僧侶はラブレザッハに行きたい。俺は金を貰って連れて行く。それこそが互恵関係。
 しかし、見たところ十五、六程度の少女が、なぜ全てを擲ってまで向かおうとするのか。知りたいわけではないが、気になりはする。しかもあいつは自らの体を売ろうとまでしたのだ。

113:

傭兵「道中、こいつに死なれでもしたら、最悪に寝覚めが悪くなるな。くそ」

 そうさせないために俺が雇われたのだ。金を貰った以上は働かなければ。

 と、やけに背後が静かだと思った。

傭兵「……僧侶?」

 応えはない。

 脳裏をよぎるのは敵勢。しかしすぐそばでは俺が歩哨を務めていた。依然として敵影はない。気配もない。

傭兵「僧侶」

 強めに発声。やはり応えはなかった。

傭兵「悪く思うな!」

 我慢の限界だった。俺は、最悪びんたの一発でも二発でも喰らう覚悟で振り向く。
 池では僧侶が倒れていた――いや、眠っていた。石に腰かけた状態で、頬杖を突き、時折こくん、と舟を漕ぐ。
 そしてそのままバランスを崩して落ちた。

 俺は振り返った勢いのまま跳んだ。
 なぜ、と問われると困る。完全にその場の流れだった。

 決して僧侶の裸体が見たかったからだとか、触れたかったからだとか、そんなよこしまな気持からではない。断言できる。ちんちくりんには興味がないのだ。つるぺたすじまんは対象外なのだ。
 十も離れたガキに欲情しない。していたら最初の晩に襲っているはずだろう。

 これは俺にあるまじき善意。もしくは、契約に含まれている「僧侶の身を守ること」。俺は悪くないし、裸体を見てしまったのも、あまつさえ溺れかけた僧侶を抱きかかえたのも、その際に胸やら尻やらを触ったのも、全て不可抗力だ。

 だから許せ。

114:

僧侶「……」

 と言うようなことを小一時間かけてのべつまくなし撃ち続けても、僧侶はこちらを向く気配がなかった。
 膝を抱きかかえ、帽子を目深にかぶり、「見られた見られた見られた……」と呟いている。

傭兵「大体お前、自分の処女売ろうとしてただろうが」

僧侶「それとこれとは話が違いますっ!」

 思春期の気持ちはとうに忘れてしまった。いや、昔日は春を思う余裕などなかったような気もする。

僧侶「傭兵さん!」

傭兵「なんだ」

僧侶「この辺りに魔物の巣や砦はないのですか!?」

傭兵「あったらどうする」

僧侶「ぶっ潰しましょう! こういう時こそ善行を積まなければなりません!」

 確実に八つ当たりだった。
 結果としての善行を神様が照覧してくれるものかは全くわからない。というか、寧ろ魔物の方に同情したくなりさえする。

傭兵「あほか。エルフたちとの小競り合いの真っ最中だぞ、警戒されてるに決まってる。死ににいくつもりか」

「物騒な話ですよねぇ」

115:

 茂みをかき分け一人のエルフがやってきた。いつぞやのハーフエルフとは違う、純潔のエルフだ。細長い耳、金髪碧眼、すらりとした長身にそれが見て取れる。

 エルフは弓と短剣こそ携えているが、それを抜く気配は見せなかった。

 そして俺はその理由を知っている。

傭兵「……この辺りだっけか。お前の棲家は」

エルフ「やーですねぇ、『棲家』だなんて表現をされるのは。クラン、と言って欲しいです」

傭兵「前はもっと奥の方だったろう?」

エルフ「うわぁ、シカトですよ。ドン引きー」

僧侶「……お知り合い、ですか?」

 凛と引き締まった風貌、雰囲気からの、この口調である。僧侶は得心のいってないような顔をしている。

傭兵「エルフに伝手がある、と言ったのを覚えてるか? それがこいつだ」

エルフ「初めまして。『大いなる神々に愛されしクランの装具工代表の未来豊かな第三子』と言います。以後お見知りおきを」

僧侶「……え?」

 戸惑う僧侶。無理もない。俺も最初はそうだった。

116:

 エルフはからからと笑って、

エルフ「からかってるわけじゃないんですよ? 人間には、わたしたちの名前は可聴も発音もできないんですよねぇ、言語が違いますから。今のは、もし人間の言葉になおすなら、ということです」

エルフ「――――」

 エルフは確かに口を動かした。けれど彼女の口からは、どうやっても何かが生まれているようには見えない。

エルフ「ほら、ね。そもそも、こうやって話せるのも、変換魔法があるからだし?」

傭兵「いい加減俺の質問に答えてくれ」

エルフ「あはは。ごめんねぇ。でも、ま、傭兵くんの想像通りだと思いますよ」

傭兵「魔王との戦いに駆り出されてるのか」

エルフ「そりゃうちのクランは一員総戦闘員! みたいなところあるしねぇ。戦力の足りないところへ随時派遣されてるんだよ」

傭兵「てことは、この辺りは前線なのか?」

エルフ「やー? そういうわけじゃないよ。でも、いつ前線になってもおかしかないねぇ」

117:

傭兵「一つお願いがあるんだが」

エルフ「高くつくよ?」

傭兵「金ならある」

エルフ「あはは。お金なんて人間の世界でだけ通用するものさー。そんなものに頼らないと信頼すら築けないんだね、相変わらず」

僧侶「傭兵さん……?」

 不安そうな目で僧侶は俺の後ろに隠れた。

傭兵「安心しろ。悪意はないんだ」

 俺も最初は苛々したものだ。こいつらエルフは他人の文化や風習を貶めこそしないが、確実に、ほぼ確実に、見下している。
 自分たちができ、他人ができないことを、素直に「どうしてこんな簡単なことをできないんだ?」と口に出してしまえる。

 種族の壁は高く、厚い。そもそも、偶然知能が高いから友好的な交友が可能なだけであって、俺たちとの差はゴブリンと同様にあるのだから、理解できないのも当然と言えた。

傭兵「宿を貸してほしい。軒下でもいいんだ。というか、こいつが安心して寝られる場所さえありゃいい。心当たりはないか」

 こいつ、で僧侶を指さす。

118:

 僧侶は途端に慌てふためいて、「いえいえそんな」だとか「結構です」だとか異議を申し立ててくるが、すべて却下だ。また沐浴の最中に眠られても困る。

 エルフは顎に手を当て、芝居がかった動作とともに、俺と僧侶を見比べる。

エルフ「ふむふむ。ほーお。へぇ。はいはい」

エルフ「傭兵くんて口リコンだったっけ?」

傭兵「違ェよ」

 わざと間違えてやがるなこのくそたれ。

エルフ「あはは。知ってるよ。傭兵くん一人なら、大樹の穴倉の中だろうが蝙蝠の棲家の洞穴だろうがいくらでも教えてあげられるんだけどねぇ、雇い主サマも一緒だとなると、多少は気も使いたくなる」

エルフ「よし、わかった! 今晩はうちに泊りなよ。狭いところだけど、雨風は凌げて横にはなれる。十分でしょ?」

傭兵「悪いな」

エルフ「なーに、傭兵くんには借りもあるしね」

傭兵「俺だってお前に借りがある」

エルフ「そう! 損得勘定なんてのは人間のすることさー。それがただでさえ短い人生をつまらなくすることだってのに気付いちゃいない。うちらエルフとは正反対さね」

 この神経を逆撫でするような言動……いや、辞めよう。犬が粗相したのを本気で怒らないように、エルフたちの言動を窘めることに意味はない。

 僧侶がこちらに視線をやってきている。エルフの人柄に対してのものというよりは、俺とエルフの関係を問う意味合いが強いような気がした。勿論それについて言及はしない。

119:

エルフ「とりあえずうちは哨戒の続きをしてくるから、二人は川を遡上すればいいよ。クランがあるから、友好の証、まだ持ってるよね? それ見せれば悪いことにはならないはず」

 俺は懐から一本の枝を取り出した。トネリコの葉。これがエルフたちとの友好の証なのだ。
 エルフは満足そうにうなずいて去っていった。その後ろ姿がまるで嘗てと変わっていなかったので、図らずとも寂寞の念に駆られる。

僧侶「なんか……凄いひとでしたね」

 僧侶はたった一言それだけ漏らした。それは事実だと思うし、的確だ。
 すっかり裸体を見られたことを忘れてしまっているようなので、これ幸いと川に沿って遡上していく。

 なるほど、確かにクランが存在しているようだ。その姿はまだ見えないが、通りやすいように木の下枝が打ち払われているし、藪も踏み固められている。
 よく沢に降りているであろうあたりの土は少し剥げていて、生活痕が点在している。

 嫌な予感がした。
 そしてその予感は事実と言う形で鼻孔を突く。

 濃密に香る血のにおい。

 俺は剣の柄に手をかけた。
 一拍遅れて、僧侶も顔を顰める。

120:

僧侶「傭兵さん、これって……っ!」

傭兵「俺の後ろに隠れてろ。絶対に、何があっても、顔を出すな。俺が死ぬまでは守ってやる」

 木の影から奥を窺う。乱立する樹木の中はあまりにも静かで、静かすぎて、呼吸も鼓動も俺と僧侶の分しか感じられない。
 目を凝らせば確かにいくつかの住居が見える。百メートルほど先だ。動くものの姿は捉えられない。エルフも、敵も。

 それは限りなく最悪に近いイメージを想起させたが、最悪ではなかった。エルフのクランを一つ壊滅させるほどの敵がまだ居座っているのだとすれば、それは恐らく、俺の手に負える存在ではない。

「わかってるのぅ」

 頭上から声。

 死んだ。

 と思った。

 殺意がない。気配がない。音もない。影も形もない。
 違う。ないのではない。俺が単純に悟れなかっただけだ。それほどまでに実力差は乖離している。強いとか弱いとか、同じ秤に乗せていいものではなく、そもそも強弱の俎上に載せていい存在でもない。

 しかし体は動いた。そのための訓練をずっと積んできていて、何より背後には僧侶がいる。俺は僧侶に殉じるつもりなど毛頭ないが、金にだけは。

121:

 幻影でもう一人の自分を生み出しながら火炎魔法を唱えてめくらまし。その一瞬の間に僧侶の腕を取り、勢いに任せて逃げ出した。

僧侶「なんですかあれ! なんなんですか!?」

 僧侶も彼我の実力差を悟ったのだろう。半ば狂乱状態で叫んだ。

傭兵「俺も知らん! とにかく喋るな! 舌噛むぞ!」

 幻影を追加。今度は俺だけでなく、僧侶もセット。逃げる俺たちと同様に逃げる幻影を三つ、ばらばらの方向へ向かわせる。
 これで少しでも時間が稼げれば!

「かっかっか! 愛い奴愛い奴!」

 またしても声が頭上から降ってくる。

 不可視の力場が俺を僧侶ごと吹き飛ばした。木に激突し、全身が軋む。
 怯んでいる暇はどこにもなかった。立ち上がって剣を抜くも、既にその埒外な存在は俺の懐に潜り込んでいて、品定めの如く俺を上下左右から見て回る。

 俺は体が動かない
 息すらもできない。

 果たしてそれが敵の能力によるものなのか、純粋な恐怖であるのかは、現時点では判断がつかなかった。

122:

僧侶「傭兵さん!」

 僧侶は既に拳銃を構えている。脚と腕が恐怖で震えている状態でどこを狙うつもりだ、あのばか!

傭兵「てめぇは逃げろっ!」

僧侶「そういうわけにも!」

 僧侶の言葉は半分正論だった。ここで彼女が逃げたところで、襲撃者が彼女を見逃してくれる可能性は少ない。彼女がきちりと生き残る術は、ここで二人で襲撃者を無力化するしかない。

 が、それができるものならとっくにその選択肢を選んでいる。

「む……よい瞳じゃ。実によぉい瞳じゃあぁ……」

 赤ら顔の山伏。
 高下駄を穿き、椛を象った団扇を持っている。
 何より、その高く、高く、高い鼻。

 風貌だけは噂で聞いたことがある。
 なんでこんなやつがこんなところに。

傭兵「役小角……」

「ほう、儂の真名を知っておるか……」

 魔王軍四天王、第六天魔王・大天狗。
 またの名を役小角。

123:

傭兵「うぉおおおおああああああっ!」

 裂帛の気合いで金縛りを――何より恐怖心を――吹き飛ばした。四天王相手にそう何度も必殺の機会が巡ってくるとは思えない。俺はこの一撃にかける思いで剣を振るう。
 しかしたった十数センチの距離が光年にまで引き延ばされている。近づくたびに刃が風化し、最早残っているのは柄だけだ。

 炸裂音が耳を劈く。僧侶の拳銃だ。理解はできたが、それもまた大天狗には届かない。勢いをそのままに方向転換、圧倒的な重力に負けて全て地面へと突き刺さった。物理反射の障壁がいつの間にか貼られている。
 地面で睡眠を誘発する光が迸る。弾丸に込められた睡眠呪文が発動したのだ。

 大天狗は団扇を振るった。一振りで光すらも掻き消し、タイミングを合わせて踏み込んだ俺へと視線を向けている。
 赤く、長い鼻を撫でた。

傭兵「ぐっ、が、ふぅっ……!」

 腹へと石柱がめり込む。視認できる速度を超えた呪文の発動に対処の仕様などあるはずがない。胃の中身を全てぶちまける。

 同時に俺へ助太刀するべく僧侶が発砲した。大天狗は一瞥し、つまらなさそうにもう一度団扇を振るう。不可視の力場が一瞬で生まれ、結果は先ほどと同じだった。

 そして大天狗の意識がそちらに向いた一瞬、俺は一歩を踏み出している。
 懐からナイフを抜き、投擲。
 ナイフが銃弾と同様に弾かれる。不可視の力場は複数設置可能で、生半な攻撃では貫けない。それだけで既に圧倒的だ。加えて圧倒的な反射速度。癪だが、この盾を貫ける矛は、俺たちには存在しない。

 ゆえに、数の利。

124:

 もし仮に勝機が――というよりもやり過ごす術があるとするのなら、それは数の利を活かした挟撃以外にありえない。数での有利を打ち捨ててまで勝てる道理はなかった。
 それも今の攻撃で仕留められなかったのだから推して知るべしだ。

 再度ナイフを投擲しようとするが、懐に手を差し入れた時点で、既に大天狗は俺の首根っこを押さえに来ている。咽頭が圧迫され物理的に呼吸ができない。頸椎に、ともすれば折れてしまうほどの力が加えられている。
 が、感じたのは何よりも慈しみだった。繊細な硝子細工を丁重に扱う時のような慈しみを、大天狗は俺に向けているのだった。

傭兵「ごぅ、ぁう……」

 これは、やばい。落ちる。

 天狗の背後で僧侶が拳銃を構えていた。だから逃げろと言っているというのに!

大天狗「童……なかなか強いなぁ? どうだ、儂の弟子にならんか、ん?」

 僧侶の発砲に大天狗は今度こそ一瞥すらくれない。不可視の力場が全ての外敵から大天狗を守る。

 俺は明滅する意識の中、縺れる舌をなんとか操って、一言。

傭兵「遠慮、させて、もらう」

 俺は密教になぞ興味はない。金を稼がなければならないのだ。

125:

大天狗「かっかっか! 死の間際でそんな口が利けるか、肝の据わった男じゃのぅ!」

 大天狗は呵呵大笑する。まるで生まれて初めての経験のように。

大天狗「なら死ね」

「傭兵くん!」

 魔力を籠められた矢が大天狗を襲う。しかし大天狗は瞬きだけで障壁を生み出し、矢の全てを受け切って見せた。

エルフ「もういっちょ!」

大天狗「生き残りがおったか」

 黒翼を背中に生やし、大天狗は大きく羽ばたいて距離を取った。矢は全て打ち落とすが、五十を超える本数の矢の前では、さすがの大天狗もおいそれと反撃には移れない。とはいえ窮しているわけでもない。
 あくまで軽い調子のままエルフは手をひらひらと振った。それが俺たちに撤退を促しているのだということがわからないくらい、俺たちの間柄は浅くない。と同時に、簡単に見捨てられるほども。

エルフ「あはは。いいのさー。今やってるのは戦争で、それは魔王軍とエルフの戦争だ。うちらの戦争だ。人間の戦争じゃない」

エルフ「この戦争はうちらのものだ。うちらだけのものだ。他の奴らに渡したりなんかするもんか。そうだろう? 傭兵くん」

126:

 戦争戦争と繰り返すエルフの口の端から涎が滴っていく。
 実に楽しげだった。待ちに待ったバースデープレゼントを開く子供の笑顔。遠足が楽しみで眠れない子供の笑顔。それがいっぱいに彼女の顔面に張り付いている。

僧侶「でも、そんなことしたら、エルフさんが……!」

傭兵「逃げるぞ」

僧侶「傭兵さんっ!?」

傭兵「ここにいたって無駄死にだ! 安心しろ、あいつは俺くらいには強い!」

 それは事実であって、文法が滅茶苦茶だった。
 俺くらいに強いのならば、あの大天狗には決して勝てない。だからこの場合の「安心しろ」は限りなく誤答である。
 しかし他にどんな声をかければよかったのだろう。それとも声なぞかけず、有無を言わさず連れ出せばよかったのか。

僧侶「だけど、だめです!」

エルフ「早く! 巻き添えにしても、知らないかんねっ!」

 エルフの周囲を光が包み、数多の煌めきはそのまま矢へと形を変えていく。

傭兵「ちっ!」

 俺は僧侶の鳩尾を打った。昏倒させ、ぐったりと力の抜けた僧侶を抱えると、一目散に走り去る。
 背後で大爆音が響く。振り向きたい衝動を必死にこらえながら、俺は走り続けた。

127:

傭兵「はっ、はっ、はっ!」

 一体どれだけ走っただろう。足の裏の感覚がない。傭兵も含めて冒険者生活は長いが、ここまで走ったことも、また走れたこともなかった。俺の脚を止めないのは体力ではなく、気力でもなく、必死感。
 どこまでがあの大天狗の決死圏なのかわかったものではないから。

 それでも限界は来る。自分の意思とは全く無関係に折れた膝。そのまま肩口からぬかるんだ地面へと激突した。なんとか僧侶だけは放り出さないですんだが、それだけ。全身が軋んで動かない。
 心臓がうるさいくらいに働いている。いや、これはきっとオーバーワークからくる文句に違いない。春闘だ。もっと給金を挙げろと叫んでいるのだ。

 しかし心臓は俺のもので、俺のものであるのだから俺の指示と意思に従ってもらわなければ困る。

 からんからんからん、と音が薄暗い森に響く。
 何かを脚にひっかけたのだった。恐らく侵入者警報代わりの鳴子。本来ならば慌てる場面かもしれないが、今回ばかりは事情が違う。鳴子があるということは、人間がいるに違いないから。

 魔物たちのものでは断じてない。なぜなら、あちらにそこまでの知能はない。

 静寂。いや、その中で確かに、微かに、衣擦れの音が聞こえる。
 俺は両手を空にして挙げた。無抵抗のポーズだ。きちんと体を動かせているのかは甚だ疑問ではあったが。

128:

 暗がりから人影が現れた。戦士と盗賊……どちらも男。戦士が前衛で剣を構え、盗賊が後衛でボウガンを構えている。パーティとしてはバランスを欠いている。見えない位置から魔法使いあたりが様子を窺っているか?

傭兵「こっちは旅の者だ。敵意はない」

 敵意もクソもこんな状態ではあったものじゃない。
 二人は僅かに視線を合わせ、頷いた。そして得物を下ろす。

戦士「どうした。怪我をしているようだが」

傭兵「大森林の中で四天王に遭った。第六天魔王、大天狗、役小角だ」

盗賊「……大天狗だと?」

 マスクで隠れた盗賊の顔、その唯一晒されている切れ長の瞳が、大きく開かれた。
 戦士も驚愕の表情を作っている。疑わしい――しかし本当であれば捨て置けない。その判断を頭の中でしているのだろう。

戦士「それは、どこで」

傭兵「だいぶ走ったから正確な距離は覚えてないが、ここから二、三十分程か? エルフのクランがあった。そのあたりだ」

盗賊「エルフのクランは知っている。たまに取引があるからな」

 取引? なんのだ? 気になるが本題はそこではない。

傭兵「そこが大天狗に襲われて壊滅した。一人のエルフが大天狗と応戦しているが……勝ち目は薄い」

129:

戦士「……そうか。とりあえず、ご苦労だった。町に来るといい。大したものはないが、体を安静にできるくらいの施設はある」

傭兵「町?」

戦士「あぁ。採石の町、ゴロン。聞いたことあるかい?」

傭兵「寡聞にしてないな。この近くなのか」

戦士「近くと言うほど近いわけでもないさ。数時間歩けば、ってところだ」

盗賊「俺たちは大森林の調査のために派遣された傭兵だ」

傭兵「争いの渦中の大森林で? 命知らずだな」

戦士「だからこそ、さ。魔王軍のやつら、容赦なく瘴気を振りまくもんだから、汚染の進行が速い。自浄を越えてる」

 魔物は瘴気がなければ生きていけず、死してなお瘴気を生み出し版図を広げる。地脈の浄化作用で本来は拮抗するものの、行き過ぎれば人間には毒だ。
 まだ大森林の浅いところだから俺たちも実感は湧いていないが、これがさらに深部だと、もしかすれば不調も出てくるのかもしれない。そうでなくとも魔物はより凶暴に、強力になっていくだろう。

 いや、こいつらの様子だと、僅かに町の方にも影響が出ているのかもしれなかった。

戦士「これ以上進行すると危ないってんで、特に瘴気の濃いところを探してるのさ。争いのさなかでも、いや、だからこそ採石は必要になる」

130:

盗賊「おい、魔法使い、出てこいよ。こいつは安全みたいだ」

魔法使い「……」

 寡黙な様子で魔法使いが現れた。ローブに身を包んで、樫の杖を持っている。存外若い風体で、片眼鏡が特徴的だった。

戦士「旅の者と言っていたけど、その女の子も?」

 そこでようやく三人は俺の背中の僧侶に視線をやった。僧侶は少々眉根を寄せて苦しそうにしながらも、おとなしく眠っている。

傭兵「人攫いに見えるかい?」

盗賊「随分とな」

 真面目くさった言い方だった。盗賊如きに人攫いに見られてはたまらない。俺は苦笑して戦士を見てやった。

戦士「すまんな、こういうやつなんだ」

傭兵「俺はお前らの同業者だ。こいつは雇い主。大天狗に襲われたって言ったよな。エルフを見捨てていくのを拒んだ、だから気絶させた」

 驚くべきことに一番大きな反応を示したのが魔法使いだった。寡黙なのは変わらずだが、何かを思うところがあるのか、目を潤ませて俺たちから――否、僧侶から視線を逸らす。

傭兵「悪いが、とりあえず案内してくれないか? 俺もそろそろ限界なんだ」

135:

* * *

 物音がして目を覚ましました。

僧侶「だれっ!」

 反射的に拳銃を向けると、掃除婦さんが「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさり、倒れます。

 ……拳銃?
 ……掃除婦?

 見れば宿屋の一室でした。わたしはベッドの上にいて、そこそこ上物の絨毯が敷かれている部屋はそれなりに広く、品のいいテーブルや椅子、小さいですがクローゼットもあります。
 そして部屋の隅に傭兵さんとわたしの荷物が固まっておかれていました。傭兵さんの折れた剣やナイフも。

 わたしは謝罪しながら拳銃を下ろしました。どうしてわたしは拳銃を持っているのでしょうか。

――フラッシュバック。

僧侶「……そうか」

 あの恐ろしすぎるまでに恐ろしい大天狗。あれに襲われて、傭兵さんに気絶させられて……でも今傭兵さんの姿は見えません。そしてこの宿屋。事実に頭がおっつかないのです。

136:

僧侶「あの、連れはどこにいるか、わかりますか?」

掃除婦「申し訳ありません。傭兵様の居場所は私も存じておりませんで……」

 優雅な身のこなしで掃除婦さんは傭兵さんの衣服だとか、部屋の足跡だとか、そういったものを処理していく。

掃除婦「僧侶様はどうなさいますか? お着替えをお手伝いいたしましょうか」

僧侶「え? いえ、けっきょうでしゅ!」

 盛大に噛んだ。着替えを手伝ってくれるなんて、それにこの部屋のランクを見てもわかるように、かなりいいところに泊まっているらしい。そんなお金があったのでしょうか。それとも傭兵さんの持ち出し?
 あの人がそんな殊勝なことをするとは到底思えませんけど。

 それにしても、傭兵さんの居場所がわからないことには、わたしも動くに動けません。伝言は預かっていないようだし、書置きも……うん。部屋の中にはありませんね。
 逆説的に、これは傭兵さんが短時間で戻ってくることを意味しています。あの人がわたしをおいて長時間いなくなるなんてことは、今までなかったのですから。

 そこまで考えて、わたしがあの守銭奴にそれなりの信用をおいていることに気づき、少し落ち込みました。
 いえ、わたしは彼の戦闘力に信用をおいているのであって、決して、決して、人間性に信用をおいているわけではないのです。と自分に言い訳をしておきます。

僧侶「あの、ここはどこなんですか?」

 掃除婦さんに声をかけると、彼女は少しきょとんとして、けれどこちらに不快感を与えないような優雅なしぐさで、

掃除婦「採石の町、ゴロンでございます」

 と言った。

137:

 採石の町、ゴロン……聞いたことがない。いや、わたしたちは大森林にいたはず。であるならば、この町も大森林の中にあるのだろう。聞いたことがないのも当然だ。

掃除婦「もしお暇でしたら探しに町に出られては? それほど大きな町ではありませんし、今日は礼拝日、教会に行けば見つかるかもしれませんよ」

 あの人が礼拝なんてするはずはないのですが、わたしは軽くお礼をして、ベッドから這い出ました。僧服からネグリジェに変わっています。サイズもぴったり。
 森の中を歩きまくったどろどろの服で寝られないのはわかりますが、眠っているうちに着替えさせられたことを思うと、顔から火が出るほど恥ずかしいです。まさか傭兵さんがやったのではないと思いますが。

 見ればテーブルの上に畳まれて置かれていました。洗剤のいい匂いが鼻孔をくすぐります。ふわふわとした柔らかな手触りはいつまでも触っていたいくらい。
 するりと袖が通っていきます。心地よさを感じながら着替えを終わらせ、鞄を背負い、僅かに悩みましたが拳銃を入れて、部屋を出ます。勿論書置きは残して。

僧侶「『もし帰ってきていたら、教会まで来てください』と」

僧侶「……あれ、教会ってそういえば――」

 なに教のなんですか、と聞こうとして振り返れば、既に掃除婦さんは仕事を終えていなくなっていました。音も立てず。プロの仕事です。
 まぁ外に出ればわかるでしょう。わたしは別段引きこもりではないのですし、そもそも門外不出は性に合いません。

 そうして外に出ます。

僧侶「うわぁ……」

 端的に、凄い、と思いました。

138:

 町の中心に大きな竪穴があります。大きなとは、本当に大きな、です。小さな集落ならすっぽりと収まってしまうくらい巨大な竪穴が町の中心にあるのです。
 わたしはついさっき聞いた言葉を思い出します。「採石の町、ゴロン」。採石なのですから、つまりあれは鉱石の採掘場なのでしょう。中心に向かって渦巻き状になった道を、一輪車を押した人たちが上下しているのも見えます。

 町は竪穴を中心にできているのでした。わたしが泊まっていた宿も、石屋も、装具屋も、食べ物屋も、住居も、竪穴をぐるりと囲む螺旋状、竪穴の壁面に建てられています。
 宿は竪穴がよく見える、恐らくメインストリートなのでしょう、一際大きな道路――いえ、通路と言ったほうが正しいでしょうか?――に面していて、もし先ほどの部屋の窓からのぞきこめば、もっと高い位置から竪穴を見ることができたはずです。

 下を見れば竪穴があって、そして上を見れば、今度は精錬の煙があちこちから立ち上っているのが見えました。白、黒、黄色、様々な煙が見えます。
 わたしは鍛冶には詳しくないのですが、きっと使っている鉱石や、工程の違いなんでしょうね。

肉屋「この光景が珍しいのかい?」

 振り向けばお肉屋の店主さんがわたしを見ていました。どうやらきょろきょろしているところを見られてしまったようです。
 店先のディスプレイに並ぶのは、オーソドックスな豚や牛ではなく、魔物の肉が主でした。勿論豚や牛も並んでいますが、どれも割高です。大森林の中にある町ならそれも仕方がないのでしょう。
 本来なら瘴気で食べられないはずですが、もしかすると血抜き同様に瘴気を抜く術もあるのかもしれません。

139:

肉屋「この町に初めて来た人間は大抵そんな顔をするよ。で、どうしたんだい。お嬢ちゃんは何か用かい?」

僧侶「あ、教会の場所を教えてほしいのですが」

 店主さんは怪訝な顔をしました。

肉屋「教会ィ? そりゃ教えてやるけどさ、お嬢ちゃん、カトリアンだろ? この町にゃプロトニックの教会しかないぜ?」

 そうでした。わたしはカトルの僧服を着ているのです。別段カトルとプロトニックは敵対してはいませんが、他宗派の教会にこの僧服を着ていくのは無礼なことでしょう。
 仕方がありません。一度宿屋に戻って私服に着替えてくるしかないですね。

 プロトニックは商人に信仰されています。「労働こそ神から与えられた天命であり、全ての職業は天職である。正しく働くことによって神からの加護がある」と彼らは信じています。
 わたしは正直、その教義に対しては半信半疑でなりません。

 半信は前半の部分にです。労働自体は尊いものだとわたしも考えます。職業に貴賤は有りません。わたしの僧侶としての職務と、傭兵さんの職務、どちらも同じくらいに重要なことです。
 しかし、わたしは後半部分に半疑します。正しい労働とは一体何なのか。この世の中にきちりと「正しい」ものがあるならば、それこそ神の教えなどいらないのではないか。

 それになにより、プロトニックの教義が正しいとするならば、正しく働く者こそが富める者になっているはずです。
 しかし、現実はそうではない。例えば州総督のように。

 背理法。

140:

 お金には地位や権力が付随します。そしてそれらにはどうしても権謀術数が付随して、必然的にプロトニックの教義からは遠ざかっていってしまいます。
 わたしはそれが、現実との乖離に思えてならないのです。

 正しい労働に価値を見出すのか。

 金銭に価値を見出すのか。

 後者であるならば、きっと、それは神など最早どうでもいいのです。
 彼らにとっての神様は、紙幣であるに違いありません。

 資本主義の犬め。

僧侶「……っ」

 体を思わず震わせました――奮うのを堪えて。わたしの中の激情が鎌首をもたげたのを、何とか押しとどめます。
 今は、まだ。

141:

 着替えを終えて教えていただいた教会へと向かいます。教会は螺旋の上の方にあって、少しばかり足腰が痛くなりますが、我慢我慢。
 上層へ行けばあとは探すまでもありませんでした。今日は言った通りの礼拝日。信者で溢れてごった返しています。人の波に埋もれてしまいそうです。

 見れば親子連れが多いようでした。みなさん、少しばかり重たい表情をしているのが気になります。
 教会の中に入るまでには多少の時間がかかるでしょう。教会の内装には大いに興味があります。が、わたしの目的は傭兵さんを探すことで、こんなごった返したところに傭兵さんがいるはずはありません。
 書置きを残しているとはいえ、この中では傭兵さんがわたしを探すのも一苦労でしょう。

 ……仕方ありませんね。やっぱり帰りましょう。

 と踵を返そうとしたその時、肩をつつかれました。

僧侶「え?」

魔法使い「……」

 ローブを身に纏った女性でした。年齢はわたしより五つくらい上でしょうか。銀髪に片眼鏡が特徴的です。

僧侶「礼拝、するんですか?」

 か細い、かわいい声でした。
 わたしは首を傾げます。この人とどこかで出会ったでしょうか。

142:

魔法使い「……あ、そうか……」

魔法使い「これ……」

 女性は一枚の手紙を差し出しました。受け取ると、そこには傭兵さんの走り書きでわたし宛のメッセージが書かれています。

『用事を済ませたい。二時間くらいで宿に戻る。魔法使いに護衛を頼んだから、一緒によろしくやってくれ。宿代は俺持ちだから、これくらいは許せ』

 ……はぁ?
 なんですかこれ。なんなんですかあの人。職務放棄ですか。
 少しでも信頼したわたしがばかみたいじゃないですか!

僧侶「で、あの、魔法使い、さん?」

魔法使い「……うん。なに?」

僧侶「魔法使いさんは、えっと、いいんですか?」

魔法使い「いい。かわいい女の子は、好き、だから」

 含みのある言い方でした。なんとなく背筋にさぶいぼがたちます。

魔法使い「礼拝、する? いこっか」

 自然と指を絡ませてきます。びくっとしてそれを振り払ってしまいました。
 傷つけたかな、と思ってみれば、魔法使いさんはわたしを真っ直ぐに見て、

魔法使い「……残念」

 ……相当に不思議な人のようです。一応、警戒をしておきましょう。

143:

僧侶「よろしくやってくれって、そーゆーことじゃ、ないですよねぇ……?」

魔法使い「?」

 言いたいことはいろいろありましたが、最早戻るのが億劫なほど進んできてしまいました。人の中をかき分けながら、教会の中へと進みます。

 高さは有りませんが奥行きの広い教会でした。いくつかの部屋に別れていて、礼拝堂、懺悔室、説法室、図書室などがあるようです。礼拝堂ではゴスペルの真っ最中で、殆どの人はこれを聞きに来たのでしょう、一番人がいます。

 人の少ない説法室に行きました。中には子供たちが十人ほどいて、司祭様に質問をしたり、逆に司祭様から子供たちにプロトニックの教えを授けています。

司祭「――ということを、我らが主はおっしゃったわけです。だから私たちも、この採石の町でやっていけるわけですね。労働に貴賤はなく、真面目に働くことが、よりよい人生を形作るのです」

司祭「ですからみなさんも――あれ。魔法使いさんじゃないですか」

 司祭様が魔法使いさんに声をかけると、子供たち、保護者の方も一斉にこちらを見ました。

「すげー、本物だ……」
「お前声かけてこいよ」
「できないよ」
「サインとかもらえるかな」
「ばか、辞めときなって」

 等等、子供たちが大きな内緒話で騒ぎ出します。

 司祭様は苦笑しながら額に手をやりました。

144:

魔法使い「……ごめんなさい、今日は、その、デートだから」

 ……ん? 今聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしましたが。
 魔法使いさん、顔を赤くしてどうしました。

 その後、なんとか無事に説法の時間も終わり、子供たちは保護者と一緒に三々五々散っていきます。その際も魔法使いさんは人気で、子供たちがみんな手を振ったり、中には握手を求める子供もいたりして。

僧侶「魔法使いさんって有名なんですね」

魔法使い「そんなこと、ない」

司祭「ふふ。魔法使いさんはそういうけどね、実際有名人なの。あなたはこの町の人じゃないみたいね」

僧侶「はい。その、えーと」

 大天狗のことを話すべきか迷って、やめました。不穏なことを迂闊に漏らすべきではないでしょう。

僧侶「旅をしていて」

司祭「旅! 懐かしいわぁ。私も昔は旅をしていたものよ。って、そんな話はいいかしら」

司祭「魔法使いさんは採石事業を担っている会社の研究員なの。彼女が来てから採石の効率は凄くアップしてね、暮らしも並み程度にはなったし、落盤事故の数もぐっと減った。司祭の私が言うのもなんだけど、町にとっては神様みたいな存在よ」

魔法使い「そんな……神様なんて」

 伏し目がちに魔法使いさんは言いました。褒められたり、そういうのがあまり得意ではないのでしょう。恥ずかしそうです。

145:

司祭「でも、もう五年になるのか……時が経つのは早いわねぇ」

 遠い眼をする司祭様。勿論わたしにはその意味がわかりません。しかし、嘗てのこの町の状況と、そこから這い上がるための努力の歴史を垣間見ることはできました。
 きっと、だからなのでしょう、この町にプロトニック教しか存在しないのは。

 大森林に囲まれた採石の町。そして、採石の町といえば聞こえはいいですが、その実採石「しか」ない町だったのでしょう。そこから這い上がるためには現実的で即物的な欲望が必要だったに違いありません。
 即ち、金銭。

 成りあがってやると言う目標。

 勿論労働者が皆そうだったとは思いませんし、司祭様もまたそうであるとは思いませんでしたが。

 まぁ、なぜこんな危険極まりない、言ってしまえば人間の領土外の町ができたかということが何よりの疑問なのですけれど、きっと金のにおいを嗅ぎつけた人がいたのでしょうね。

司祭「そういえば、次にお医者様が来るのはいつなのか知ってる?」

魔法使い「確か、再来週って言ってたと思う」

司祭「そう……長いわね」

146:

僧侶「お医者様がおられないんですか、この町」

司祭「いないわけじゃないけど、月に一度、魔法使いさんのところ……カミオインダストリーのお医者さまが来てくれるの。ここは大森林で、今は何かと物騒でしょう? 瘴気に当てられる人も出てるから、専門家に来てもらっているの」

僧侶「瘴気に当てられた人がいるんですか?」

 それは一大事です。大森林の中を思えば仕方がないことなのかもしれません。いくら魔術的な結界を張っていても、瘴気はゆっくり浸み込んでくるのですから。
 もしかしたら子供連れが多かったのも、あまり浮かない顔をしていたのも、それが原因なのでしょうか。子供は体が小さい分蓄積率の上昇が早いと聞きますし。

 やはりカミオインダストリーのお医者様も診察料を取るのでしょうか。ふと気になりましたが、無論、聞けやしません。気持ち悪がられるのが関の山。
 ただ、もしそれで医療すらも満足に受けられない貧困層がいるのなら、それは彼らの問題ではなく、社会の罪業なのです。

 わたしたちはそのあと少し談笑し、次の説法の時間が来たために退出しました。入れ替わりにやってきた子供たちが、やはり魔法使いさんに手を振るのを見て、心が少しだけほっこりします。
 わたしもあのような人格者になれるでしょうか。

147:

 教会の裏手には墓地があります。恐らくは土地面積の問題で、個々人のお墓が軒並み連なっているのではなく、一つの大きな石碑がある共同墓地。新しく書き連ねられた名前に、享年が五つや八つのものがあることに、少しばかり心が痛みました。

 少し離れたところでは、下から見上げた色とりどりの煙を吹き出している煙突が多数見えます。あそこが鍛冶屋や装具工の集まる区域なのだと魔法使いさんが教えてくれました。

 そこから道路を下っていけば比較的大きな洞穴があって、そこはどうやら居住区のようでした。

 洞穴を抜ければ竪穴の下層で、何やら物々しいパイプが何本も突き出た建物があります。タービンの回る音。ひっきりなしに出入りする人々。ここが魔法使いさんの職場。
 当然中に入ることはできませんでしたが、そろそろ二時間が経ちます。一応宿屋に戻っておいた方がいいでしょう。遅刻すれば何を言われるかわかったものじゃありません。わたし、雇用主なのに。

魔法使い「……そう。残念」

僧侶「といいますか、魔法使いさんは傭兵さんのお知り合いなんですか?」

魔法使い「それは、なんていうか……今更?」

 なんとなく場の雰囲気に流されて、その話題すらも流してしまっていましたが、わたしはこの人のことを何も知らないのです。

148:

魔法使い「大天狗と戦ったあとの傭兵に、私たちが出会った。彼は怪我をしていたし、一般人のあなたを背負っているし、だから町まで案内しようって」

僧侶「『私たち』?」

魔法使い「そのときいたから。仲間が」

僧侶「それにしても凄い町ですね。採掘場が町っていうか、町が採掘場って言うか」

 何言っているんだかわかりませんが、そこはニュアンスです。雰囲気さえ伝わってくれればいいのです。
 魔法使いさんは真面目に頷きました。

魔法使い「採掘場が町、かな」

 てくてくと道を歩きながら、魔法使いさんはどこを見ているのか、上空をぼんやり眺めながら歩きます。

魔法使い「開拓初期からいたわけじゃないから、資料だけで知った知識、なんだけど」

魔法使い「ここで採掘される鉱石は珍しいだけでなく純度も高い。だから、大森林の中だろうと、放っておかない人はいたみたい」

魔法使い「最初に採掘場ができて、そこにいろんな人が住み着いた。住居ができて、食料品店ができて、お偉いさんが視察に来るようになったら宿屋も作らないといけなくなった……らしい」

 だからあの宿屋は大森林の中にあっても十二分だったのでしょう。

149:

 さながら誘蛾灯ですね。町の生まれる経緯なんてものは、実のところみんないっしょくたにして鍋に放り込んでしまえるものなのかもしれませんけど。
 砂漠でオアシスの周りに町ができるように、人は魅力的なものに誘引されますから。

僧侶「で、今は採掘事業を魔法使いさんの会社がやっている、と」

魔法使い「そう。鉱石の採掘、精製及び卸売まで、いろいろ。ご時世的に、需要はある」

 少し悲しそうに言う魔法使いさんでした。

僧侶「魔法使いさんは研究職なんですよね。魔法の専門ってなんなんです?」

魔法使い「……機密事項、に、抵触するから」

 あぁ、そういうのもあるんですか。わたしなんかが知る由もない世界ですね。

僧侶「……? あれは、なんです?」

 変に長蛇の列ができていました。赤ちゃんを抱いた女性が、もしくは両親が、ずらっと並んでいます。
 またも魔法使いさんは悲しそうな顔をしました。

魔法使い「あそこは、病院。魔法的な外傷を取り扱ってる。会社のお医者さんが持ってきた、瘴気に関わる疾病の薬は、大体あそこにある。だから」

 ……子供はより瘴気の影響を受けやすい、か。

150:

魔法使い「この町に住んでる以上、仕方がないことなのかもしれないけど。あの子たちに、罪はない、のにね」

僧侶「どうにかできないんでしょうか」

 聖なる術式を用いたとして、瘴気による汚染をどうにかできるのは短期間。この土地を離れるか、大本の魔物を殲滅しない限り、また瘴気に汚染される。
 わかっていても問わずにはいられません。

魔法使い「ん……無理じゃないだろうけど、途方もない、かな。それこそ、戦争になる。生体からの瘴気の除去は、それ自体は研究されてるけど、実用化には遠い、し」

 戦争になる――魔物の殲滅、ということでしょう。

魔法使い「カトル教の僧侶としては、やっぱり、みんなで力を合わせてどうにかしなきゃ、って思う?」

僧侶「なんでそれを――」

魔法使い「さっき言った。あなたが気絶しているとき、カトル教の僧服着てた、から」

 なるほど。
 わたしは魔法使いさんの問いを解釈して、考えて、答えを出そうとして、いや、やっぱり違うと首を振って、考えて、答えを出しました。

僧侶「僧侶としてのわたしが、力を合わせてどうにかしなきゃって思ってるんじゃないんです、きっと」

僧侶「力を合わせてどうにかしなきゃって思うことのできるわたしだからこそ、カトル教の僧侶なんです」

 採石場が町なのか、町が採石場なのか。それと同じで。
 「わたしの信念」はきっと、「僧侶の信念」よりも先立つべきだと思うから。

151:

 魔法使いさんはここで初めて明確に笑いました。

魔法使い「私はずっとプロトニック。でも、神様の教えは、難しいね。わからないことだらけだよ」

僧侶「それこそ司祭様に聞けばいいじゃないですか?」

魔法使い「うん。まぁ、そうなんだろうけど」

 何かを言おうか迷いましたが、それより先に宿の前についてしまいました。それじゃと去っていく魔法使いさんの後姿にありがとうございますと声をかけます。
 いいってことだよ。そう風に乗って飛んできました。

僧侶「さて、傭兵さんは戻ってきてますか――」

僧侶「――ねっ!?」

 地盤が大きく揺れました。
 同時に、爆発音でしょうか、お腹の奥底にずしんと来る重低音が、螺旋の最下層から響いてきます。それも一度ではなく断続的に。

 事故という言葉が頭をよぎりました。周囲の人々は慣れているのか、そそくさと家の中へと戻ってゆきます。

 どぉん、どぉん。少し間をおいて、どどぉん。

 なにかとてもよくないことが起こっているような気がしました。

152:

 わたしは宿の部屋へとなだれ込みます。

僧侶「傭兵さん!」

 しかし傭兵さんはまだいませんでした。一度帰ってきた気配もありません。あの人はいったい何をしているんでしょうか。買い物にしたって長すぎます。
 外では依然として断続的な揺れと重低音。けれど途中から、勿論それらも継続してはいますが、三点鐘の音が混ざってきました。

掃除婦「お客様」

 掃除婦さんが部屋の前に立っていました。

掃除婦「どうやら最下層、採石場において魔物が出現したとのことです。ですがご安心ください。ここと距離はありますし、採石場には衛兵たちが常駐しておりますから」

掃除婦「ただ、危険なことに変わりはありませんので、くれぐれも宿から外には出ないようお願い申し上げます」

 魔物――採石場に。この揺れと音の原因は、その魔物か、応戦している護衛たちのものなのでしょう。
 掃除婦さんの様子から、魔物が出ることは決して非常事態でないことがうかがわれました。それとも、非常事態であっても、彼女はお客様を不安にさせないように同じく振舞うのかもしれませんが。

僧侶「あの、わたしは僧侶です。癒しの魔法も、少しではありますが、使えます。傷ついた人を助けたいのですが」

掃除婦「お客様」

掃除婦「我が町の自警団は屈強です。また、カミオインダストリーの衛兵の方々も、歴戦の強者揃い。医療班も充実しておいでです。失敬ですが、お客様がお出来になられることはないかと……」

153:

 それでも、と喉まで出かかった言葉を飲み下します。ここでのやり取りに意味なんてなく、そして掃除婦さんが言うことももっともです。わたしはおとなしく引き下がります。
 掃除婦さんはにこりと優雅に微笑んで、

掃除婦「落ち着きましたらお呼びいたします。それまで、お部屋でおくつろぎください。出られませんのはお客様の安全確保のためですので、何卒ご寛恕を」

 もしかすると傭兵さんは戻ってこないのではなく戻ってこられないだけなのかもしれません。
 わたしはベッドに腰を掛け、後ろ向きにダイブしました。やわらかなベッドはわたしを優しく包んでくれて、それは今までのどんなものよりもよい質のものでしたが、胸騒ぎは止みません。

 わたしはこっそりと抜け出しました。

154:

 町はひっそりとしています。人っ子一人いないゴーストタウン。みなさん家の中で地響きが止むのを待っているのでしょう。
 わたしは断続的に破られる静寂の中を駆けていきます。

僧侶「!」

 正体不明が這いずっていました。

 それは闇夜のように暗く、油のような粘度を持ち、洞穴から吹き荒ぶ風のような声を上げていました。大きさの違う白い穴が二つ、ぽっかりと空いています。

「う、お、お」
「ぐ、う、ぇ」
「あ、ご、ぐ」

 意思の有無さえもあやふやな音が、わたしの鼓膜と脳に不快感を擦り付けていきます。

僧侶「これが、魔物?」

 おどろおどろしい存在でした。『それ』はべちゃり、ぐちゃりと、遅々とした歩みでわたしに近づいてきます。わたしは一秒後に忘我から目覚め、二秒後に銃を取り出し、三秒後に『それ』へと銃口を向け、

僧侶「――ッ」

 引き金を引こうとしたところで、わたしの心が止めました。
 それは理屈ではなく、寧ろそれとは反対に位置するものです。ゆえに、心。

155:

 だめだ、と思いました。『これ』は撃ってはならない。不幸なことになる。それも、『これ』が悪さをするのではなく、もっと壮大で、曖昧で、純白な何かによって。
 思考を単純化するなら、こうです。

 撃ってはいけない。
 なぜなら不敬であるから。

 その思考を自覚した瞬間にわかりました。『これ』は叫んでいるのではありません。呻いているのでもありません。
 助けを求めているのです。

僧侶「ひっ……」

 思わず声をもらしました。
 『これ』の醜悪さにではなく、事態の醜悪さに。

 『これ』は土地神なのでした。土地神のなれの果てなのでした。

「お客様」

 と、声がかかります。

 振り向けば掃除婦さんと――掃除婦さんと、わたし、が。
 え?

僧侶?「……」

 掃除婦さんの隣にいるわたしがどんどん実像を失くしていきます。どろどろに溶け、残ったのはわたしの靴だけ。
 わたしの代えのブーツです。それがぱたん、と倒れました。

156:

掃除婦「お客様、私、言いましたのに。宿から外に出ないように、と」

僧侶「それは、すいません」

 不穏な気配がわたしの脚を地面に縫い付けています。

掃除婦「他にも言いました。出られないのは、お客様の安全確保のためである、とも」

掃除婦「お外は危険なのです、お客様。他の住人の方々だって、今は家の中におります。彼らはわかっているのです。どれだけお外が危険なのかと言うことを」

僧侶「この、土地神様が危険だ、と?」

 掃除婦さんは一瞬途轍もなく凶悪な顔をしました。笑みに細めた目の奥の光が、貪欲に、わたしの全てを食らいつくすがごとく。

掃除婦「……気づいてしまったのですか。それでは、なおさらですね」

 その言葉だけは独り言のように聞こえました。
 そしてわたしに向き直って、

掃除婦「お外は危険なのです。魔物も、土地神も、最早狂ってしまいました。それに何より――」

 掃除婦さんはスカートを広げました。するとどこに収納していたのか、ぼとぼとぼとぼと、重たい音を立てながら、靴が。
 数多の靴が。

 地面へと転がって。

 立ち上がり。

 脚が、腰が、腹が、胸が、肩が、頭が。

 形作られ。

掃除婦「――私がおりますから」

157:

「逃げろ僧侶!」

 ナイフが掃除婦さんを襲います。しかし、実体化した人々が壁になり、ナイフは少しも掃除婦さんの脅威とはなりません。

 傭兵さんでした。

傭兵「遅くなって悪かったな。追われてた」

僧侶「追われたって誰に!?」

傭兵「こいつのお仲間だろうな」

 傭兵さんを前にしても掃除婦さんは決してほほえみを絶やさず、余裕の態度も崩しません。その立ち居振る舞いは優雅そのもので、それが逆に恐ろしくあります。

掃除婦「傭兵さん、あなたのお名前は聞き及んでおります」

傭兵「はっ。そりゃ光栄だ」

掃除婦「カミオインダストリー所属、序列第十四位、『足跡使い』。参ります」

傭兵「こっちにゃ名乗る名はねぇな」

掃除婦「さぁ、お掃除の時間です」

161:

 ※ ※ ※

 僧侶は一目散に駆け出した。それを視界の端で捉えながら、とりあえず人心地ついた気分になる。勿論そんなはずはないのだが。
 目の前の悪鬼から生き延びなければいけないから。

 あちらは掃除婦を含めて七人。軍用ブーツから軍人が、草鞋から侍が、足甲から騎士が、それぞれ顕現している。
 忍者。魔法使い。儀仗兵。遠距離や搦め手も万全だ。

 俺は剣を抜いた。

 先ほどの名乗りを信じれば、敵は大企業子飼いの揉め事処理屋。金を貰って仕事を請け負う俺たち傭兵とは異なり、彼らの居場所は常に企業の傘下だ。
 過去に何度か利益相反でぶつかりもしたが、それらは全て近距離特化の剣闘士まがいばかり。魔法使い、しかもカミオインダストリー級ともなれば、どれほどの手練れなのか想像もつかない。

傭兵「ふっ!」

掃除婦「しっ!」

 俺のジャブ数発に対し掃除婦はカウンターで応戦する。俺の拳は掃除婦の髪の毛を打ち、掃除婦の拳は俺の真横を切った。
 これくらいは避けずとも、また能力に頼らずともよい、か。大層な自信だ。

 同時に六人がこちらへ攻撃体勢を取る。

162:

 一番槍は軍人。両手にナイフを逆手で持ち、体勢を低くしながら軽いフットワークで近づいてくる。速さはないが執拗にこちらを追い詰める蛇のような動きだ。
 その背後から侍が一撃必殺の構えで刀を構え、騎士が広い範囲をカバーするランスを握っている。
 さらにその背後では忍者がスリングを持ち魔法使いと儀仗兵が詠唱。

 多勢に無勢。
 圧倒的に不利だな。

 戦力判断と同時に敵の能力の種を解明しようと試みる。魔法の種別は召喚魔法の類に違いない。つまり掃除婦はサモナーというわけだ。
 サモナーは本体を叩くのが常套手段であるが、中々に掃除婦が遠い。彼女自身がかなりの使い手であり、さらに行く手を阻む六人がいるのでは、そう簡単にはいかないだろう。

 召喚の媒介は靴。召喚形態は自律型で、召喚しているのは靴の持ち主のコピー、だろうか。掃除婦が戦いを焦っていない以上、時間制限があるとは考えにくい。
 考えれば考えるほど絶望的だが、召還、使役しているのが人間のコピーであるのが幸いだった。上位のサモナーには魔物や、果ては空想の生き物すら召喚できる存在がいる。
 そういうやつらは押しなべて条件が厳しかったり媒介が特殊であったりするようではあるが……。

 交錯法気味に狙ってくるナイフの刃をワンステップで避ける。屈んだ軍人の背中の上を通ってランス。肩口をやられる。

侍「ちぇえええええすとぉおおおおおおっ!」

 強引な唐竹割。しかし威力は本物だ。浅く踏み込んでいたのが功を奏し、瞬時に体勢を変えて離脱することに成功する。
 が、体のバランスと言う、払った代償は大きかった。スリングから放たれた鉄弾が俺の右目を掠めて行く。それに意識と視界を奪われ、できた隙を的確に魔法使いと儀仗兵が魔法で支援。

 こちらの攻撃は連携によって通らないのだからジリ貧以外の何物でもない。俺はそもそも攻撃魔法は初歩的なものしか使えないし、幻影魔法もこう全員に注目されていてはすり替わるタイミングを掴めずにいた。

163:

 方針変更。俺は体の向きを変えた。
 勝てないのなら、負けないまで。

 七人に背を向けて走り出す。

掃除婦「やはり、逃げますか」

掃除婦「追いなさい」

 六人がそれぞれ散開しながら追ってくる。真っ直ぐに動くのではなく、包囲するように寄せ、一気に出口をふさぐつもりなのだ。
 スリングの鉄弾を弾きながら最下層を目指していく。

 何かがこの町で起こっているのは明白だった。なぜ住民が一人残らず出てこないのか、なぜ僧侶が襲われていたのか、あの魔物の正体は一体なんなのか、答えは何一つ見つからないが。
 採石の権利を有しているのがカミオインダストリーであり、掃除婦の雇用主もそこであるから、全てを知っているのはそこ以外有り得ない。

 住民が出てこないのはあの魔物が原因だろう。とするならば、僧侶が襲われたのは、外を出歩いていたから? 俺も合流するまでは衛兵に追い回されていたし、有り得るかもしれない。
 なぜ外に出てはいけないのか。あの黒い魔物が危険だ、というのが素直な考えだ。しかしそれにしては掃除婦をはじめとするカミオ側の対応が荒い。激しすぎる。寧ろあれを見た人間を始末――

 始末。

 始末、だと。

164:

 そうだ。確かに俺たちは始末されようとしている。なぜ? ――見てはいけないものを見てしまったから。触れてはいけないものに触れてしまったから。
 あの黒い粘体の存在を知ってしまったから。

 あれが瘴気に侵された魔物であるとするならば、採石場の内部では違法な工程、魔法、薬品のいずれか、あるいは複数が用いられている。そして企業はそれを隠したい。だからこその始末。

 俺は鼻をすんと鳴らした。

 金の、匂いがする。

 とにもかくにもまずは僧侶との合流を果たさなければいけない。このような事態になるのであれば、予め合流地点や符丁を決めておけばよかったと今更ながらに後悔する。
 まぁ、後悔先に立たず。人の気配のない今のこの町では、探すのはそう難しくないだろう。

 と、思っていた俺は、すぐにその浅はかさを知ることになる。

 ぞろぞろと。
 ばたばたと。

 人の足音――足音?

 まだ三点鐘は鳴り続けている。どういうことだ。最早隠すことを諦め――いや、違う。

165:

 これは。

傭兵「これはっ!」

 ゴロンの町は活気を取り戻していた。
 靴より顕現した数多の人で。

 足跡使い。

 靴を媒介にするサモナー。

掃除婦「逃がしませんわ、お客様」

 住民が全員、ぎょろりと首だけで俺を見た。

 おいおい、マジかよ……。

掃除婦「帰りたいのなら、先にお代を払って頂かないとなりません」

傭兵「何を払えばいいだなんて、尋ねるまでもねぇな」

掃除婦「えぇ、えぇ、そうです。お代は当然――」

傭兵「俺らの命ってか」
掃除婦「お客様の命でございます」

 屋根の上に掃除婦が立っている。俺の周囲には、戦闘力こそ皆無に近いが、とにかく雑多な人の肉壁。そしてさらにその向こうから、確実な足取りで六人の手練れが近づいてきているのがわかった。
 この数――そして何より狭い戦場。脚を殺されれば圧死するだけだ。

166:

 だから止まらない。止められない。

 剣をしまって右手にナイフ。息を止めて俺は跳ねた。
 とりあえず身近にいた男の胸ぐらを掴み、首を掻き切ると同時に盾にする。びくんびくんと痙攣する男を投げつけ、視界を塞いだ瞬間にナイフの投擲。眼窩に埋まって女が死んだ。
 倒れるよりも早く駆け寄ってナイフを引き抜く。ここでようやく攻撃の第一波。俺に伸びてくる亡者の手。

 近寄る手は片っ端から切って捨てる。速度、反応、見てくれこそ人間のそれと同一だが、切っても血が出ない部分だけが異なっている。

 精神的に楽でいいな!

 鉄弾が俺の頬を掠めて行った。僅かに反応が遅れ、町民の指がシャツの襟にかかった。
 手ごとナイフでもぎ取り脱出。後ろに跳び退き、そこにいた子供の顔面へ蹴りを叩き込んで、三角跳びの要領で高く飛び上がる。

 火炎弾と鎌鼬が炎の竜巻となって襲いかかってきた。魔法使いと儀仗兵のものだ。俺は肘当てで魔法の起動を逸らしながら、その方向へと町民の顔面を蹴り砕きながら進む。

167:

 立ちはだかったのは侍と騎士。刹那だけ侍の方が先に足を出した。最小限の動きで最大限の距離を移動するその独特な歩法で、するするするりと距離を縮める。
 急加速。一瞬で互いが必殺圏内に入り、侍の唐竹割。視認は不可能だが軌道は読める。とはいえ不可能なのは防御もまたそうである。構えた刃ごと叩き切られる剛の剣相手にできることはそれほど多くはない。
 腕の肉を僅かに献上して懐へ突っ込んだ。

 タイミングを合わせて――寧ろずらして、ランスが牽制に数度突き出される。接敵はならない。ランスの射程距離を測るように小刻みに回避し、同時に背後から迫ってきた軍人のナイフを掻い潜った。
 右から左の切り付け。返す刀で突き、突き、ハイキック。それを受けてのこちらの反撃は予想の範疇だったらしく、軽いステップで後ろへ跳ばれた。
 逡巡。押すか退くか――押す。退いている時間もない。長丁場だとジリ貧だ。

 地を蹴った瞬間に悪寒が走った。説明できない嫌な感覚。俺は反射的に体勢を崩し、地べたを転がるようにしてそれを避ける。
 毒針が地面に突き刺さっていた。

168:

 無論そんな俺を見逃してくれるはずはない。町民が一斉に俺へと飛びかかってくる。太陽の光が遮られ、肉の天蓋となって、俺を圧死させようとしている。
 単純な物量はだからこそ強力だ。小細工であれば看破もできよう。陥穽ならば機転で立ち向かえもしよう。けれど、こと物量に至っては、真っ向勝負の力押し以外に対処法はない。

 手が、手が、手が、手が。
 手が!

 髪の毛を、襟を、袖を、鞘を、喉を、手首を、腹を、脚を、
 俺の全身を目がけて伸びてくる!

傭兵「うぉおおおおおおおおおっ!?」

 切断、切断、そして切断。切っても切っても手の大群は怯む様子を見せない。当然だ、彼らは町民の形をしてこそいるが人間ではなく、行動はあっても意思はない。企業の犬の、さらに犬。

傭兵「っ!?」

 手首が地面に縫い付けられる。魔法使いか、盗賊か――いや、そんなこと今はどうでもよくて、くそ!
 ナイフが動かせない。町民が雪崩れ込む。

169:

 蹴りと左手でなんとか一線は超えさせないが、可動域の問題、なにより手数の問題でどうしようもない。頭が押さえつけられ、肩が押さえつけられ、だんだんと俺の体は俺のものではなくなっていく。

 ――仕方がない、か。

 懐からそれをとりだし、放り投げてやる。

 爆裂弾。
 自分ごと周囲を巻き込んで、ここから脱出を図るしかない。

 光と火炎が視界に満ちた。

傭兵「くっ! ……ちくしょうが」

 口の中に入った砂利を血ごと吐き捨てる。周囲には靴だけが大量に散らばっていて、脱出には成功したようだ。
 四つん這いから立ち上がった。体中が軋みを挙げている。

掃除婦「お客様、ご自愛を」

傭兵「黙れよ、殺すぞ」

掃除婦「おぉ怖いです。御寛恕ください」

 ぱた、ぱたと音がした。

170:

 倒れた靴が起き上がっている。そうして足元からゆっくりと実態が顕現し、たったいま吹き飛ばしたばかりの町民が、全て立ち上がりなおしている。
 まるでゾンビだ。死してなお動く亡者どもよりは、確かに罪深くはないのかもしれないが、性悪なのには変わりない。

掃除婦「お掃除の続きを始めましょうか」

傭兵「……これは、やべぇな」

 ぼそりと呟く。俺が死ぬまで戦い続けるつもりなら、待ち受けているのは俺の死だけだ。サモナーが召喚を停止するのは魔力の枯渇によるもののみ。しかしそれまで粘るのはどだい無理がある。
 全身の調子を確認しながら剣を構えた。これくらいの距離が開いた今ならば、リーチの長い剣のほうが具合がいい。重さと速度に任せて一振りで数人を斬り飛ばす。

傭兵「っ!」

 殺気とともに短刀が頭上から降ってきた。

 忍者は生気の宿っていない瞳で俺を見た。攻撃を外したことに対する感情など微塵も見えず、地を這うように接近してくる。
 剣では遅い。そう判断し、即座にナイフへ持ち替え。

 忍者の十の手数に対して六の手数で応戦する。忍者単体なら辛勝できるだろうに、同レベルが他に五人、しかも肉壁もわらわらいる状況となっては、戦いにくいことこの上ない。
 短刀の乱舞をワンステップで回避し、一度忍者と距離を取る。その先には魔法使いと儀仗兵の遠距離組。

171:

 当然阻まれる。前に立ちはだかるは騎士。甲冑のため動きは鈍重だが、ランスのリーチは俺の剣よりも長く、突破は容易ではない。
 騎士の旋回は足元の小さな動きで成るが、俺が騎士をかわすための旋回は、大きな弧を描かざるを得ない。当然の数学の話で、だからこそそれは厳然たる大きな壁となって立ちふさがっている。

 だが足踏みをしている暇はない。
 真っ向勝負を挑んだ。ランスは突きの武器。一度避けてしまえば、引き直すまでにラグがある。

 脇腹の肉を少量持っていかれた。激痛が走るが骨も内臓も恐らく無事。勢いに任せて騎士の関節へ刃を走らせ、隙を見計らって巨躯そのものを駆け上る。

 当然魔法が飛んできたが、火球は剣で両断し、鎌鼬は前回と同様肘当てで逸らす。余波が俺の顔を斬りつけていくが、視界に問題はない。
 第二波。流石にこれは防げなかった。腹へと火球が直撃し、次撃の鎌鼬こそなんとか避けるも、勢いに負けて地面を転がる。危うく螺旋状の下へと落ちそうにすらなってしまう。

 好機と見た軍人と忍者が左右から迫る。忍者の方が動きが速い。しかし刃物の熟達は軍人だ。一瞬だけ思考し、最早勘ともいえる何かを手繰って軍人へと向かう。
 背後からスリングの風切音。鉄弾が俺の外耳を穿っていく。意識を無理やりに痛みから軍人へと向け、二本のナイフを的確に捌く。

172:

 右、左、右、右、左、左、そしてまた左。ナイフの連撃に反撃を差し込む余地はない。スリングの鉄弾を身を逸らして避け、崩れた体勢に飛んでくるナイフ。その隙は俺も織り込み済みなため、地面へ倒れこみながら靴の裏で受けた。そのまま体を捻って刃を折る。
 そして火球。転がって避けた先にランスを合わせられる。回避不能。判断は正しく、来る激痛に耐える準備だけをした甲斐はあった。至近距離に儀仗兵を捉えることに成功する。

 儀仗兵が詠唱を始める。しかし遅い。

 と、儀仗兵の姿が掻き消えた――忍者とともに、一瞬で移動している。

 気づけば俺の周囲から一斉に敵が離れていた。

傭兵「な――」

 これは、まずい。
 これはまずい!

 視界が急速に狭まっていく。膝を地面につけ、精神を集中し、居合の構えをとった侍の姿しか見えない。
 距離にして五メートル。しかしあの斬撃は、それが十メートルだって届くだろう。

掃除婦「そこです!」

傭兵「ちっ!」

173:

 銃声が俺の体を吹き飛ばした。

 斬撃が体の真横を通っていく。

 空気の流れも、人の動作も全てが止まった世界。俺だけがゆっくりと動き、色もグレースケールで描かれた視界の中で、唯一拳銃を構えた僧侶だけがカラフルだった。

 同時に、体に力が満ち満ちていく。
 銃撃で吹き飛ばされた腹部は既に修復が始まっていた。鎮痛魔法が効いているのか、痛みはない。

 今だけはお前が天使に見えるぞ。

 僧侶。

 俺は地を踏みしめた。弾丸に込められていた魔法――治癒、鎮痛、そして何より倍化。身体能力の向上魔法。
 体が軽い。

 ちんちくりんのガキが僧侶をやれていた理由も、アカデミーを首席で卒業できたわけも、今実感した。確かに魔法の才能があの少女にはある。それをひしひしと感じさせる、この魔法の力強さよ!

174:

 他の亡者どもには目をくれず、一目散で掃除婦を目指す。屋根の上にいようが、今の俺には関係ない。壁を蹴り上げながら一気に空へと舞いあがった。
 無論それを呆然と見ている六人ではない。不可視の力場を魔法使いが生み出し、残り五人がそれを踏み台にして俺へと追いすがる。

 しかし遅い。

 掃除婦は呆然とした表情を浮かべていて、けれど同時に愉快そうな顔も浮かべていた。そして短く呪文を詠唱する。

掃除婦「バックトラック」

 掃除婦の姿が瞬時に消えた。バックトラック――足跡追い。どうやら逃げられたようだった。

 ぱたぱたと音を立て、靴たちが一斉に倒れていく。
 掃除婦が効果圏内から離れたのか、それとも単に召喚を止めたのかは定かではなかったが、ひとまずこれ以上戦いを続ける必要はなさそうだ。
 俺は一気に肩の力を抜く。

僧侶「傭兵さん! 大丈夫ですか!?」

傭兵「あぁ、なんとかな」

 本当になんとかだった。本当に危機一髪だった。僧侶には感謝してもしきれない。
 反対に、俺のそばに駆け寄った僧侶の脚は震えている。疲労から来るものでも、ましてや武者震いでもないだろう。それはすぐにわかった。

175:

傭兵「お前、どうし」

 「た」は出なかった。僧侶は幽鬼の類を見たかのような――いや、それよりももっと恐ろしいものを見てしまったような、知ってしまったような、陰の落ちた表情をしている。
 信じられなかった。俺の知っているこいつは決してこんな顔をする女ではない。勿論、たった数日の付き合いで何を知っているんだと言われるだろうが、それでも。

僧侶「だめです、傭兵さん、だめなんです」

僧侶「逃げないと、ここから、早く、だめです、傭兵さん」

僧侶「傭兵さん、傭兵さん、逃げないと、傭兵さん、早く、だめです」

僧侶「逃げないと、逃げないと、早く、逃げないと!」

 狂乱だった。この世の恐ろしさの最果てを垣間見た少女は、俺に媚びるような笑みさえ形作って、俺の手を引く。逃げましょう、と。だめです、と。早く、と。

 そして、聞きもしないうちから、彼女が見た全ての汚濁を俺に話し出す。

180:

 * * *

――わたしは傭兵さんに説明します。傭兵さんと別れてからの出来事を。

僧侶「!?」

 急に町の人々が現れ、思わず走っていた脚を止めてしまいます。

 町の人々は生気のない顔に生気のない瞳を持ち、ゆっくりとした歩みで徘徊を続けています。向かうは上層。わたしのことが見えているのかいないのか、一瞥すらしません。
 何が起こったのかはわかりませんが、掃除婦さんによるものだということはすぐにわかりました。そして彼らの行先が傭兵さんであることも。
 戻りたくなる気持ちを押し殺して最下層に向かいます。戦闘で大した役に立てないわたしにできることは、この事態の全てをとはいかないまでも、出来うる限りを収拾――否、収集することです。

 息を切らしながらも最下層へと駆けていきます。坂道につんのめりながらも、息があがっていても、わたしは速度を落とすことは有りませんでした。

 気になることが多すぎました。気になることばかりでした。なぜ土地神が汚濁に塗れた姿なのか。なぜ掃除婦さんはわたしたちを襲って来たのか。ひいては、この町で一体何が起こっているのか。

 最下層にたどりつけば、そこには目を見張る光景が広がっていました。

 巨大な、巨大な、黒い粘体。
 それと対峙する兵士たち。その背後に陣取るは魔法使いさん。

181:

 鋭く見咎めた兵士の一人が大声を張り上げます。

兵士A「誰かがいるぞ!」

 わたしは咄嗟に身を隠そうとしましたが、その一瞬、確かに魔法使いさんと目があいました。魔法使いさんは驚いたような顔をしましたが、すぐに顔はなんでもないふうに戻ります。
 兵士たちの集中が切れた瞬間に黒い粘体――怒れる土地神は彼らをなぎ倒します。流石に兵士たちも土地神に集中すべきと判断したのか、声を上げて剣を向けました。

魔法使い「……私が、見てくる」

 そう言って魔法使いさんはわたしの方へと歩き出しました。逃げようと振り返りましたが、理性がそれを止めます。ここで逃げてはこの事態の解明など遥か遠く及びません。ここは、リスクを承知でリターンを取るべき。
 そう思ったわたしは兵士たちに見えない位置で魔法使いさんと相対しました。

魔法使い「……どうしたの? 掃除婦が、止めたと思うけど」

僧侶「掃除婦さんは、傭兵さんと戦ってます」

 魔法使いさんは顔色を変えません。小さく「そう」とだけ呟きました。

 そして、魔法使いさんは掃除婦さんのことを知っています。それも、掃除婦としての彼女のことをではなく、掃除人としての彼女のことをです。
 やはり言っていた通り、この件の根っこにはカミオインダストリーがいるのでしょう。

僧侶「何が起こっているんですか」

魔法使い「……素直に教えると、思う?」

182:

僧侶「無理やりでも聞き出します」

 銃口を向けました。それでも魔法使いさんは微動だにしません。事態を切り抜ける術があるのか、わたしが撃てないと思っているのか。

 魔法使いさんは「くふ」と軽く吹き出しました。

魔法使い「……面白い、ね。撃てる?」

 後者でした。わたしは一瞬息が止まります。嘗て狩人さんにも指摘されたそれを、この町に来てもまた言われるとは思っていませんでした。
 ぐ、と唇を噛み締めます。撃てるのです。撃ちます。だって、ここはそういう場面でしょう。撃てなきゃ脅しにもならなくて、脅しにならなきゃこの事態のなにも知ることができなくて、そんなのはごめんなのです。

 一際強く魔法使いさんを睨みつけます――睨みつけられている、はずです。

 魔法使いさんは肩を竦めました。明らかに舐められていると感じました。

魔法使い「……あれは、土地神。正確には、土地神の成れの果て。あれはもう、だめ。狂ってる。瘴気によって汚染されて、正気でいられない」

僧侶「どうしてそんなことに」

 土地神。土地の守り神。そこに住むものの足元に住み、地盤を安定させ、作物を実らせ、発展に寄与する原初の神々のうちの一柱。
 わたしたちが生きる上で土地は、ひいては地面はなくてはならないものです。空を飛べないわたしたちは、地面にへばりついて生きていくしかありません。つまり土地神は最も密接な関係にあると言っても過言ではないのです。

183:

 それが汚染されている。汚辱に塗れている。見ていられないほど酷い光景でした。
 何より、神の叫び声が、不憫で不憫で。

魔法使い「……」

 魔法使いさんは答えません。それが殆ど答えのようなものでした。

 土地神が瘴気に汚染される。そんなことは本来あってはならないことです。

僧侶「答えてください、魔法使いさん」

魔法使い「……」

僧侶「答えてっ!」

 言葉を押さえてもいられませんし選んでもいられませんでした。
 だって、だって、許せるわけがない。
 ただの一企業が、土地を汚し、あまつさえ神を穢し、遍くモノの尊厳を打ち捨てているだなんて。

僧侶「土地神が瘴気にまみれているのは! 採石場の開発が原因なんでしょう!?」

 理由はわからない。理屈もわからない。けれど、それは恐らく事実で、真実で。
 そう思わせるに足るできごとが今日一日だけでもたくさんあったから。

僧侶「あなたは全て知っているはずです! あなたが来た五年前から採掘の効率が大幅にアップした、落盤事故も減った――それと時を同じくして、子供たちに瘴気の影響が出始めたのなら!」

僧侶「あなたが行った何かがこの事態を招いていると、気づいていないはずはない!」

 瘴気に塗れた土地神は、狂った土地神は、性質と特質の全てを反転させる。野菜は全て毒をもち、それを喰った野生動物の肉は腐臭を漂わせる。水も、空気も濁り、じわじわと体内を蝕む。
 そしてその影響を真っ先に受けるのは子供たち。

184:
その影響を真っ先に受けるのは子供たち。

 瘴気に関する疾病の権威をカミオインダストリーが招聘している? そんなばかな話があってたまるか。その原因はカミオインダストリーが生み出しているのに?
 なんていうマッチポンプ。

 このままではこの土地はいずれ草木の一本も生えない不毛の大地となる。住まう人間は病床の中で息を引き取り、死に絶える。だから問題がないと嘯くのなら、そんな人間こそ
死んでしまえばいい。
 きっと地獄絵図に違いありません。誰も何も知らないのなら、そこに罪業は存在しないのでしょうが、利益のために見て見ぬふりをするというのなら――地獄を作ることの罰など、きっとこの世に存在しないでしょう。そういう意味では裁けないも同義です。

 けれど、裁かれないことが即ち無実の証明だと、ましてや救済の証左だというのは詭弁に過ぎます。

 許せない。許せません。
 これを誰が許せましょうか。例え神が許したとしても、わたしは決して許せそうにありません。

僧侶「答えろ!」

魔法使い「……今日、あなた、聞いたよね。私の魔法の専門。私の専門は、瘴気の研究。瘴気の除去、分解、利用に関する研究」

魔法使い「採石にあたっては様々な問題が出る。まず、魔物。次に、自然の瘴気。深部では動力の確保も重要になってくる。私の研究は、それらを全部一挙に解決できる、スーパーウルトラテク」

僧侶「……」

185:

魔法使い「大体、察しがついた? 私は、瘴気からエネルギーを抽出して、採石の動力に、使ってた。研究途中の機構で、勿論いろいろな問題はあったけど、一番の問題は排ガス……エネルギーを出したあとのカス」

魔法使い「瘴気を絞った後のカスは、当然、超高濃度の瘴気……普通に吸い込んだら、一発で即死。ワンパンKO。そんなレベル。それががんがん出る。垂れ流しになんてできなかった、から」

 その時点でわたしはわかってしまいました。この話のけったくそ悪いオチを。
 思わず手に力が入ります。奥歯も、がり、と削れた音がしました。
 魔法使いさんを撃たないことが、この場で何より努力のいることでした。衝動に身を任せてしまえば、今度こそ引き金は引けたのかもしれません。

186:



魔法使い「だから、全部地面に埋めた」



187:

僧侶「あなたはっ! あなたって人はっ!」

 怒りで目の前が真っ赤に染まります。ちかちかちらちら明滅する視界の中で、銃口と、その先にある魔法使いさんの顔と、トリガーと、わたしの指だけが輝いて見えます。

魔法使い「社長が言うから。社長の指示、だから」

僧侶「社長の指示なら何でもするんですか、この土地のことも、この国のことも、全て捨て置いて!」

 それほど超々高濃度の瘴気が長期間にわたって排出、滞留すれば、この町以外にもいずれ影響が出るのは明白です。また、他の採石場などで同様の技術が使われれば、事態に拍車がかかります。
 そうなれば、今度こそ本当に地獄絵図の誕生です。この国に人の住めるところはなくなり、破滅するだけ。

僧侶「あなたたちは自分で自分の首を絞めていることに気が付かないんですか!」

魔法使い「この国のためだって、社長は」

僧侶「どうしてそれを信じられるんですか! こんな、全てを冒涜するやつが――!」

魔法使い「州総督だから」

 え?
 と、声に出せたのかどうか、わかりません。

188:

魔法使い「知らなかった? うちの社長、州総督。だから、大丈夫。問題なし」

魔法使い「あくどくて、私腹を肥やすことに余念はないけど、あの人はあの人なりに、国のことを考えてる、から」

僧侶「な……そ、んな」

 言葉が出ない。国王と権力を二分する人間が社長で、それだけならまだしも、こんな悪行に手を染めているだなんて。
 途方もない巨大な気配が、唐突に魔法使いさんの背後に現れた気分でした。

 いや、でも、しかし。
 なぜこの町が無名なのか。大森林の中にあっても十分に生活できているのか。この惨状が外部に漏れ出ないのか。
 州総督の庇護下にあるから?

僧侶「あなた、は。魔法使いさん、あなたは、良心が痛まないんですか。罪もない子供たちが苦しんで、いずれこの町の人たちはみんな汚染されて死んでしまうんですよ」

 だって、あなた、言っていたじゃないですか。
 「あの子たちに罪はない」と。

 もしあの言葉が嘘だったなら、あなたはどんな気持ちであの言葉を吐いたのですか。

魔法使い「あの言葉は、本心」

魔法使い「でも、私は、こうも言った。この町に住んでいる以上、仕方がない、と」

189:

僧侶「それは――」

 後ろ向きな言葉ではあっても、そこまで後ろ向きだとは思ってませんでした、が。

魔法使い「この町に住んでいる以上、仕方がないの。この町は採石で成り立ってる。それはつまり、うちの会社で成り立ってるって、こと。だから」

 何をしても許される、と魔法使いさんは言いました。
 まるで子供のように、無邪気に、罪悪感の欠片も感じられない口調で。

魔法使い「それに、ね。私は、かねてからずっと不思議だったことがあるの」

魔法使い「どうしてみんな、ここを出ていかないんだろう、って」

魔法使い「だって、そうでしょ。こんな不便な大森林の中の町。娯楽は全然なくて、瘴気のせいで段々体は蝕まれていって、肉も野菜も粗末で、生きてて楽しいだなんて、私、どうしても思えない」

魔法使い「僧侶ちゃん。誰も逃げちゃダメなんて、言ってない。みんなが好きでこの町にいる。自己責任。いやなら出ればいいのに。でしょう?」

 それは正論でした。限りなく無責任な正論でした。
 けれどなぜでしょう。わたしはどうにも苛々してしょうがないのです。何もわかっていないような魔法使いさんに、わかったように正論を言われるのが、わたしはとても業腹なのです。

魔法使い「全部、みんなの自由なの。やりたいことを、やりたいようにやる。あなたたちがここから逃げるのも、自由。職業選択の自由。経済活動の自由。移動の自由。それが実際のところ、神様が与えてくださった天命で、天職」

魔法使い「プロトニック教では、そう教えているから」

190:

――と、わたしがそこまで喋ったところで、傭兵さんは笑い始めました。

傭兵「はぁーっはっはっはっは! あは、あはははっはっは、ひひ、ひははは、ひゃははっ!」

 わたしにはわかります。傭兵さんは怒っているのです。怒り狂っているのです。人間、本当にどうしようもないとき、笑いしか出ないということを経験上よく知っています。

 反対に、わたしは、怒りを通り越した無力感に苛まれていました。信じられないほど強大な敵、信じられないほど無力な自分。そして信じられないほど価値観の違う人間。

 ここにいて何ができましょうか? この小さな世界は、わたしの理解できない理屈で満ち溢れています。他者が恐ろしいのではありません。わたしの中の常識では、どう考えてもおかしいことが平気でまかり通るこの町が、どうしようもないほどに反吐が出るのです。

僧侶「傭兵さん、もう逃げましょう。この町はおかしいです。わたしたち二人じゃあ、どうにもならない、どうしようもない事態になってしまってます!」

 町も人も狂ってる。

 哄笑はしばらく続きましたが、やがてぱたりと止んで、凪の顔で周囲を見回しました。

傭兵「二人なら、確かに無理だろう」

 含みのある口調でした。
 と、同時に、周囲の家屋から人々が姿を現します。一瞬掃除婦さんの手先かと勘繰りましたが、瞳に光がありました。

傭兵「けど、これだけいればどうだ?」

 傭兵さんは大きく手を広げ、

191:

傭兵「お前ら、聞いていただろう。カミオインダストリーは、採石事業に際してこの地を汚染していた。土地神は汚れ、大地も、水も、動物も、最早まともではいられない。長く住み続ければ、子供だけじゃない、全員が死ぬ。それでいいのか!」

傭兵「今こそ立ち上がるときじゃないのか!? 州総督が怖いというなら、王都に直接出向いて、直訴する気概を持って行動する時が来たんじゃないのか!」

傭兵「立ち上がれよ! お前らがこの土地を守らなくてどうする! 命を賭しても守らなきゃならない、動かなきゃならない時があるとするなら、いま、ここ以外にないだろうが!」

 心を打つ言葉でした。熱く滾る言葉でした。傭兵さんにどのような意図があるかはわかりませんが、それは確かに本心からで、何よりの咆哮でした。

 しかし。

町民「やめてくれよ」

傭兵「……は?」

町民「やめてくれよ」

町民「いいんだ、もう」

町民「そういうのはいいんだ」

町民「俺たちはもう、そういうのは、いいんだ」

192:

 だめなのです。

 それでも、いや、だからこそ、彼らの心には届かないのです。
 最早彼らの体に流れているものは、誇りでも信念でもなく、もっと下卑たものだから。
 酸素を運ぶのはヘモグロビンでなく札束に置き換わっているから。

 魔法使いさんとの会話を思い出します。

僧侶『だ、だったら、この事実を町のみなさんに公表します! そうすればきっと!』

魔法使い『違うんだよ、僧侶ちゃん。そこがあなたの、大きな、とても大きな勘違いなの』

魔法使い『私たちは何一つ強制しちゃいない。おおっぴらには言ってないだけで、たぶん、みんな、この土地の現状を――惨状を、知ってる』

魔法使い『それでも出ていかない』

 信じられないことでした。それでは自殺と同じです。緩慢な死を座して待つのみではないですか。

魔法使い『だって、彼らには行くべきところがない。お金もない。寄る辺もない。ここを離れたら生きていけない』

魔法使い『労働者はみんな元農民。自作農から小作農に没落して、そこからさらに落ちてきた、底辺中の底辺。弱者中の弱者』

魔法使い『社長が囲い込んで、労働者として雇って、手厚い保護を与えてるおかげでみんなは生きていける』

魔法使い『だから、彼らはここから逃げない』

193:

僧侶『で、でもあなた、魔法使いさん、さっき、どうして逃げないんだろうって――』

魔法使い『言ったよ。言った。うん、言ったね。でも、普通そう思うじゃない? 土地がなくたって、お金がなくたって、体一つあれば何とかなる――他に一緒に誰かがいるなら、なおさらもっと、やっていける。そう思わない?』

 またしても正論でした。何よりそれは美しい言葉でした。お金などなくとも、土地などなくとも、みんなで一緒に頑張ればきっと何とかなる。まるでお伽噺の世界の出来事を、魔法使いさんは諳んじているのです。
 それが難しいことを、そして理想であることを、誰しもが知っています。だからこそそれは甘露で、誰もが憧れ夢見るエルドラドなのです。

魔法使い『私は、そう思うんだけどね――誰も、そうしようとは、しないんだぁ』

魔法使い『だから私は不思議だったの。言ったでしょ?』

魔法使い『でも、一つだけ、しっくりとくる、すとんと落ちる、解は得たかな』

 にこやかに魔法使いさんは喋ります。
 わたしが絶対に聞きたくない言葉を。

 耳を防ぐことは叶いません。まるで金縛りにあったかのように、わたしの体は動かなくなっているのです。

194:

魔法使い『きっとみんな、楽して生きていたいんだよ』

魔法使い『現状が最悪なことはわかってるけど、努力してまで、この「大したことせずとも生活できる」生活から逃げようとは思ってないんだよ』

魔法使い『罪もない子供が蝕まれているっていうのに』

魔法使い『いずれ自分たちも蝕まれるっていうのに』

 とどめに、一言。

魔法使い『本当、救いがたい衆愚』

 あぁ、そうなのです。衆愚なのです。
 愚かで、愚かで、愛することすらどだいできそうにない愚かさなのです。

 狂っているとしか表現できないほどに。

195:

 全てを聞き終えた傭兵さんは、黙って柄へと手をやります。

町民「なぁ、あんた。頼むから揉め事を起こさないでくれ。俺たちはなにも、なんにも困っちゃいねぇんだ」

町民「あんたがかき回すことは、誰のためにもならねぇ。だから、頼むよ。この通りだ」

 そう言って町民の男性は手を合わせて傭兵さんを拝みます。そして、「この通りだ、この通りだ」と拝み続けるのです。
 それに合わせて傭兵さんの瞳の温度が一気に下がっていくのがわかりました。

 男性に他の町民も追随します。「この通りだ」「お願いします」「後生だから」。そんな――そんな、気持ちの悪い、気持ちの悪い、気持ちの悪い言葉のオンパレード。
 あぁ、神様、申し訳ありません。この苛立ちを隠すことはできそうにありません。

僧侶「あ、あ、あなた、あなたたちねぇっ!」

傭兵「僧侶!」

 だん、と剣の鞘で地面を叩きつけた傭兵さんは、打って変わって笑顔で――けれど瞳の奥は炎が燃えていて。
 その場が静まり返ります。

傭兵「……僧侶、俺は金が好きだ」

僧侶「……はい、知ってます」

傭兵「どうして金が好きか、言ったことはなかったな」

僧侶「……たぶん」

196:

傭兵「俺は金が好きだ。金は目的じゃなくて手段だからな。使い方によっていくらでも応用が利くってのがいい。逆に言えば、僧侶。俺は応用の利かないのが嫌いだ。一辺倒という言葉には反吐が出る」

傭兵「俺は金の有用な使い方を知っている。それは俺の才能だ。凡人どもは百万あっても碌な使い方をできねぇが、俺が百万持っていたらずっと意味のあることに使ってやれる。即ち金ってのは有能かどうかを図るバロメータみたいなもんだ」

傭兵「だから俺は金をうまく使えないやつも嫌いだ。投資ができず、浪費しかできないやつなど死んでしまえばいい。こんなやつらが金を持っていたっていいことはない。碌なことに使いやしない。そうだろう」

僧侶「……」

 逡巡。傭兵さんが怒りに打ち震えているのはわかりますが、話の流れがわかりません。
 ただ、傭兵さんへの好悪を度外視すれば、言っていることに同意はできます。

 だから。

僧侶「……はい。この人たちに使われるお金が、可哀そうです」

傭兵「やっぱりお前もそう思うか」

 そう言って傭兵さんは剣を抜きました。それだけで拝んでいた人たちは波が引くように後ろへと下がります。

197:

傭兵「お前らは安易に生きるべきではなかった。楽な方に、楽な方に、流れるべきではなかった。澱んだ水は腐って濁る。金の浪費しかしない」

 下がった町民の中から、一人、最初に拝み始めた男性が一歩踏み出してきます。

町民「あんたさっきから金、金って言うけどね、俺たちにとっちゃ違うんだ」

町民「この世で一番大事なのは金じゃない」

町民「俺たちはプロトニックの教えに沿って労働に勤しみ、みんなで助け合い、一日一日を生きることに喜びを見出してるんだ」

町民「なぁ、そうだろう!」

 男性は振り返りました。すると、後ろの集団から、小さくですが「そうだ、そうだ」と聞こえてきます。

 あぁ、きっとそれは素晴らしい節制の日々です。美しい日々の過ごし方なのでしょう。わたしだってそう思います。わたしだってそういう生活がしたいものです。
 ですが、今この場に至っては、そんな美しい日々は途端に絵空事へと劣化します。あまりにも滑稽なのです。

傭兵「金なんだよ全ては!」

 傭兵さんはついに爆発しました。わたしは最早それを止めようとも思いません。

198:

傭兵「お前らが本当に! 真の意味で! 幸福で安寧な人生を、生活を求めているならば! それは決して、絶対に、のんべんだらりとした中で手に入るものじゃないんだ!」

傭兵「みんなで助け合う!? 一日一日を生きる!? そりゃ素晴らしい、随分と立派な考えをお持ちだ! だけどなぁ、その生き方はてめぇらが掴みとったことなのかよ! てめぇらが選び取ったことなのかよ!」

傭兵「違うだろうが!」

傭兵「てめぇらはその生き方を掴みとったんじゃない、選び取ったんでもない! 与えられたものをただのうのうと享受してるだけだろうが! みんなで助け合わなきゃ生きていけない、一日一日を生きるので精一杯、そう正しく言えよ!」

傭兵「金なんだ! どうしてそれがわからない!? 土地がない、金がない、それはわかった。それで結構。なら、なぜ、どうして、買い戻そうとしないんだ! 買われた土地と誇りを、もし本当に取り戻したいと思うなら、それは死にもの狂いで金を作った先にあるんじゃねぇのか!」

傭兵「奪われたものも、失われたものも、少しでも惜しいと思うなら、悔しいと思うなら、その倍額、三倍、相手の顔面に叩きつけてやれよ! それが誇りを取り戻すってことだ、そうするしかないんだ!」

傭兵「でなきゃお前ら、死んだガキになんて言うつもりだよ!」

 わたしは、共同墓地の石碑に刻まれた名前を思い出します。

 ……。
 沈黙。それは実に、心を揺さぶる、心地よいものでした。

 わたしは決して多くは語りませんが。

199:

傭兵「僧侶」

僧侶「はい」

傭兵「行くぞ」

僧侶「はい」

 どこに、とは訊きません。訊く必要もありません。わかっていますから。

僧侶「州総督に喧嘩売るなんて、馬鹿ですね、傭兵さんは」

傭兵「そうだな、馬鹿」

僧侶「えぇそうです。わたしはいいんです。馬鹿ですから」

 ずっと前から。
 取り返しのつかないくらいに。

僧侶「傭兵さん」

 わたしはすっと傭兵さんを見ました。

僧侶「わたしはあなたの雇用主です。あなたはわたしの剣であり盾。そして、犬です。わたしの願いを叶えるのが役目」

 傭兵さんも佇まいを直し、片膝をつきます。

傭兵「何なりとおっしゃってください。あなたの幸福こそ我が幸福。命に賭けても遂行して見せます」

僧侶「では、命じます」

僧侶「あなたの好きなようにやってください」

 息を吸い込んで、覚悟を決めて、わたしは言葉を吐く。

僧侶「わたしは、あなたを、信頼します」

 傭兵さんは面喰った顔で一瞬わたしを見ましたが、すぐに真面目な――似合わない、実に似合いません――顔に戻りました。
 そして笑いが混じった声でこういうのです。

傭兵「御意」

206:

 ※ ※ ※

傭兵「……止めないのか」

 ぴったりと背後についてくる僧侶に向かって俺は言った。けれど僧侶は寡黙に頷くばかりである。
 これが業務を逸脱していることは百も承知。それでも感情は止められない。抑えられない。
 もし、怒りを抑えられないまでも、行動を抑えてくれる存在がいるとするならば、それは雇用主である僧侶以外にはいないはずだった。しかし寧ろ彼女の方が乗り気であるように見える。

傭兵「止まらないのか」

僧侶「はい」

 ここで初めて僧侶は明確に意志を示した。

僧侶「やっと気づきました。傭兵さん、わたしはあなたのことが、やっぱり、どうしても、好きになれないのです」

 嫌い、ではなく。
 ここでその単語を使わなかったこと、代わりに別の単語を使ったこと、その事実に気が付かないほど愚かではなかった。そしてそれが包含する意味を。

僧侶「先ほど傭兵さん、あなたは言いました。金なのだと。金が全てなのだと。わたしはやっぱり、どうしても、その主義主張が正当であると――正統であると、認めるわけにはいきません」

僧侶「お金は必要悪です。社会も人も未成熟だから必要なだけなんです。人間は本当は、金銭を媒介にするのではなく、信用や信頼を通過にできるはずなんです。一致団結して生きていけば、お金が必要なときなんて、そう簡単には生まれません」

207:

僧侶「それでも、先ほどの傭兵さんの言葉は、少なからずわたしの心を揺さぶりました。間違っているはずなのに、お金が全てなど、そんなことあるはずないのに――わたしはどうしても、傭兵さん、恥ずかしげもなく晒してしまえばですね、傭兵さん」

 俺の名前を数度繰り返して、僧侶は意を決した。

僧侶「わたしは感動してしまったのですよ。あなたの、間違っているはずの言葉に」

僧侶「さぁ、行きましょう。金の亡者の金の生る木を、人を人とも思わない鬼畜生の棲家を、徹底的に駆逐しましょう」

傭兵「おう、来い」

 僧侶は俺に拳銃を向けていた。

 たった今、僧侶は「信頼」と言った。むず痒い言葉だ。照れくさい言葉だ。それだのにどこか仄暖かさを感じる言葉だ。
 僧侶はどうやら俺のことを信頼してくれているらしい。信頼。それは金ではないが、金に通じるものがある。信頼さえあれば飯も食えるし服も買える。何より、信頼は手段だ。結果として得られる信頼に意味はなく、信頼をどう使うかが個人の価値を決める。

 口には出せないが、出せっこないが、俺もまた僧侶に、一定のそれをおいていた。
 だからこいつに銃口を向けさせることだって厭わない。
 「お前は戦力に数えない」なんて最初は言っていたはずなのに。

208:

 炸裂音。銃弾は綺麗に俺の肩を抜けていく。一瞬だけ激痛が走ったが、すぐにそれは緩和される。血液も止まり、代わりに全身に充実感が生まれた。

傭兵「気をつけろよ」

僧侶「大丈夫です。傭兵さんがいますから」

 はっ!

 俺は地を蹴った。これまでの怪我と疲労が嘘のように体は軽い。羽が生えたようにどこまでも走っていける。

傭兵「目的は採石機構の停止。目標は魔法使い。任務は魔法使いの殺害。これで構わないな」

僧侶「……はい」

 きっぱりと前を見据えた僧侶だった。
 いい顔だ。

兵士「誰だおま――へぶぁっ!」

兵士「敵襲、てきしゅ――!」

兵士「なんだ、なんだこ――!」

兵士「はや、つよ、にげ――!」

兵士「助け――!」

兵士「う――!」

兵士「――」

209:

「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」「――」

 最早誰にも負ける気がしない。

 鎧袖一触、すれ違いざまにほぼ全ての兵士の命を奪っていく。斬りつけ、折り、蹴り飛ばして、俺たちは最下層、カミオインダストリーの採石場入口までやってきた。
 周囲には大量の黒い粘体と、その残骸。そして兵士たちの死体が折り重なっている。俺が殺した者はそのうち半分くらいで、残りは恐らく土地神にやられたのだろう。自業自得である。

 上層を見上げれば町民が不安そうにこちらを覗き込んでいた。が、俺が見上げていることを知ると、すぐに顔を引っ込める。

 すべて失った後に後悔して、絶望の中で死ねばいい。

傭兵「掃除婦あたりが再度出張ってくるかと思ったが、どうやらそれはないみたいだな」

僧侶「この先で待ち受けているのかもしれませんが……どうでしょうね。ここまで大事になってなお、なんのアクションもないとなると、この町は既に見捨てられたのかもしれません」

傭兵「トカゲの尻尾きりか。大いに有り得る話だ」

210:

僧侶「社長が州総督と魔法使いさんは言っていましたが、それが表立ってのものなのかは、正直疑問が残ります。火の粉が自らに及ばないような細工は当然してあるでしょうから」

傭兵「ここはその程度だったってことか」

 富めるものは選択肢も豊かだ。貧しければ、本来取るべきではない、取りたくもない選択肢を取らざるを得ないことも多々ある。
 ここの町民は土地を持たず、金も持たず、ここで「生きさせてもらっている」人々だ。この町がなくなれば、彼らは餓えて死ぬだろう。もしくは森に出て魔物に食われる。そういう運命だ。

 しかし本当に彼らにとって必要だったのは、選択肢などではなかったのだと思う。もっと根源的なもの。選択肢を生み出すために必要なもの。
 彼らには牙がなかった。彼らには牙が必要だった。

 剣を握る手に力が籠る。対象が不明瞭な怒りが確かに腹の下に溜まっていた。

戦士「昨日の友は今日の敵、だな」

盗賊「助けた命を奪うのは悲しいものだ」

 採石場の内部から二人が現れた。こいつら二人も掃除婦と同じように企業お抱えの揉め事処理屋なのだろう。

戦士「お前が暴れてくれるから怒られちまったよ。町に招いたのは俺たちだ。てめぇのケツはてめぇで拭けとよ」

盗賊「悪く思うな。俺たちにもあとはないものでな」

傭兵「うるせぇ」

 盗賊の手首を捻る。軽々と盗賊はその体を一回転させ、地面に叩きつけられる。
 呆気にとられた顔をしていた。俺は全く頓着せず、ナイフを一閃。

 血の飛沫が顔にかかる。熱い。生命の温度。

211:

戦士「なっ、てめぇっ!」

 剣の振り下ろし。半歩下がって避ければ、剣先は俺ではなく盗賊の胸部を叩き割った。骨や臓腑があたりに飛び散ってぷんと死のにおいを漂わせる。
 僧侶は顔色を悪くしていたがそれでも背けることはない。恐らく、それが彼女の覚悟なのだ。

 隙だらけの戦士の手首を上から踏みつけ、橈骨及び尺骨を粉砕。声にならない悲鳴を挙げる戦士は最早俺のことを見ていない。あさっての方向を向いた己の手のみを注視している。

 剣を使うまでもなかった。顔面を蹴り上げれば脳を揺らして戦士は昏倒する。
 詰めは誤らない。首の骨を折って、きっちりと殺す。

 そのまま採石場内に飛び込んだ。恐らく内部の衛兵たちの大半は、外で起こった一件を知らなかったのだろう。まだ土地神と戦っている者もいれば、土地神との戦いを終え、一息ついている者もいる。
 そいつら全員を殺す。

 入り口付近にいた衛兵数人は気づかれる前にナイフを滑らせて黙らせた。俺たちと言う闖入者にやっと気づいた衛兵が襲ってくるが、はっきり言って練度が足りない。大ぶりの斬撃を避け、切る。
 頽れる衛兵のさらに後ろに数人控えている。ナイフを投擲し顔面を破壊、そいつが進行の邪魔になっているところを、そいつごと剣で後ろを突き刺した。腹を蹴りながら刃を抜く。

212:

 姿勢を低くすれば二つの死体が陰になって俺の姿を正確にとらえることは難しい。地面すれすれを走り、回り込んで背後へ。振り向きざまに脇腹から背中にかけてを切り裂いた。
 最後の一人はようやく忘我から戻ってきたようで、剣を構えてはいるが、明らかに重心が踵に寄っている。突撃すると見せかけてさらに後ろへ傾けさせ、脚を払って地面に押し倒す。

 喉元にナイフをかざした。

傭兵「魔法使いはどこにいる。この採石場は研究所も兼ねているはずだ。道を教えろ。でなければ命はない」

衛兵「き、貴様、こんなことをしてただで済むと」

 時間が惜しい。ナイフを首に突き立てて飛び跳ねる。

 視線の先には見張りの交代にやってきた衛兵二人組。この状況が理解できていないのだろう、脚が止まっている。
 火炎魔法で遠距離からまず一人を打ち倒す。火球が顔面に直撃して遠くまで吹き飛び、採石場の壁に頭から突っ込んだ。肉の焼ける臭いが嗅覚を、頸椎の折れる音が聴覚を、それぞれ過ぎ去っていく。

 もう一人は柄に手をかけていた。狙ってくれと言わんばかりだ。当然切り落とす。
 そのまま流れで胸を突き刺した。勢い余って壁に磔にしてしまう。

傭兵「ちっ、もう剣を壊しちまった」

 今日買ったばかりだというのに。
 仕方がないので衛兵の帯びていた剣を抜き身で奪うことにした。

傭兵「で、お前は教えてくれるか?」

213:

衛兵「ひ、ひっ!」

 尻もちをついた衛兵が隅で後ずさっていた。しかし既に背中を壁へと擦り付けている。これ以上どう後ろへ下がろうというのだろうか。
 剣をちらつかせながら近づいていく。

衛兵「うわぁあああっ!」

 狂乱のままに逃げ出そうとした衛兵をぶん殴って馬乗りになる。拳を口の中に突っ込んで、残った手でナイフをかざして見せた。
 見れば僧侶と同じくらいの年齢のガキだった。幼い顔を、涙と洟でぐずぐずにしている。

傭兵「お前、研究所の場所知っているか。魔法使いの居場所を知っていればなお良い。イエスなら一回、ノーなら二回、瞬きしろ」

 瞬きは一回。

傭兵「知ってるのは研究所の場所か。魔法使いの場所か。前者なら一回、後者なら二回」

 また、一回。魔法使いの居場所はわからない、か。
 まぁ研究所さえ潰せれば次善は為せる。そこに魔法使いがいる可能性も高い。

 俺は衛兵の口の中から手を引き抜いてやった。

傭兵「変な真似をしたら殺す。行き方を教えろ」

 衛兵は自分の懐を指さした。どうやら新米の身分であるため、そこに採石場内の地図が入っているらしい。

214:

 杜撰だ、と思った。そんなものは本来一介の衛兵に持たせていいものではない。危機管理と言うものが存在しないのか、ここは。あまりに杜撰すぎて逆に罠だとすら思えてくる。

 地図を受け取る。……おかしなところは、ぱっと見た限りでは見当たらない。

傭兵「僧侶、今後魔法的な罠が仕掛けられてたら、教えてくれ」

僧侶「専門的なことはわかりませんよ?」

傭兵「変な魔力の流れを感じたら、でいい。魔法の才能はお前の方がある」

僧侶「わかりました」

傭兵「おい、お前」

衛兵「はいっ?」

 声がひっくり返っている。少々驚かしすぎたか。

傭兵「ありがとよ」

 ナイフを振り下ろした。

傭兵「行くぞ」

僧侶「……」

 返事はもともと期待していなかった。
 俺たちは歩いていく。

215:

 幸運にも研究所までは一人の衛兵にも出会うことはなかった。
 研究所の入り口は銀色の扉で、土と埃に塗れた薄暗い採石場内にあって、まるで異世界への扉のようだった。実際それほど間違ってはいないようにも思える。ここから先はエリートの巣窟に違いないのだから。
 そう、エリート。採石場内で働く者とは、ましてや町民とは決定的に、徹底的に、身分としての差がある人々。

 だから彼らは自分以外の者を下に見ているのだ、だから彼らは臆面もなく瘴気を垂れ流せるのだ――そんな知ったふうなことを言うつもりは全くない。どんな階層でも漏れなく腐ったやつはいるし、できたやつもいる。
 が、少なくともこの中にいるのは企業の犬で、州総督の走狗で、俺が途轍もなく気に食わない。

 俺が研究所の扉を開けると、換気の利いた清涼な空気が流れ込んできた。これもまた採石場内とは天と地ほどの差がある。

魔法使い「待ってた」

 ぼんやりと魔法使いは言った。研究所内には最早魔法使いしかいない。

 そりゃああれだけ暴れれば気づかれもするだろう。寧ろ魔法使いが残っていたことの方が驚きだった。

傭兵「お前は、逃げないのか」

魔法使い「逃げないよ。逃げるな、って言われたから」

傭兵「州総督にか」

魔法使い「うん、そう」

216:

僧侶「なんでですか?」

 ここで僧侶が声を挙げた。悲痛な声だった。
 俺はここで魔法使いを殺す。研究所の機材も、資料も、全て焼く。魔法使いはそれを恐らく悟っている。それでも抵抗の様子が見えない。僧侶はそれが信じられないのだろう。
 慮っているのだ。俺はその感情を甘さだとは言いたくなかった。なんとしてでも、僧侶のそれは優しさであるのだと思いたかった。

僧侶「そこまでして何がしたいんですか? あなたは何に命を懸けてるんですか?」

魔法使い「言ってることが、よくわかんない」

魔法使い「命なんて懸けたことないよ」

僧侶「……あなたは、ここで、わたしたちが」

 息を止め、つばを飲み込む音が聞こえた。

僧侶「……殺します」

魔法使い「うん、知ってる。別にいいよ。私の役目は、終わったから」

 やはりだった。トカゲの尻尾きりであると同時に、魔法使いが持っていた知識や技術は全て持ち出されている。一般化されている。法則化されている。最早彼女自身に、有能な一研究者以上の意味はなくなっているのだ。

217:

魔法使い「でも、これだけは覚えておいてほしいな。どこに問題があるのか、私は結局、今もそうなんだけど、わかんないや」

魔法使い「この世の至上は自由だよ。町の人たちが逃げなかったのも自由。なんでなんだろうね?」

 自由。それは選択肢があって初めて成り立つ概念だ。恐らく魔法使いはそれがわからない。自分に選択肢があることを――町民に選択肢がなかったことを。
 だから、疑問に思う。だから、わからない。逃げる選択肢などあるはずないのに、どうして逃げないのだろう、などと嘯ける。

 そして、俺は町民をも思う。やはり彼らはどこまでも愚かだった。教科書通りの衆愚だった。牙を抜かれ、鎖で繋がれ、黙っていれば餌が出てくるのに満足し、生物として堕してしまった。
 彼らは死にもの狂いで金を稼ぐべきだったのだ。

 それが最低限、この資本主義社会において「生きる」ことだったのだ。

傭兵「だから俺たちがお前を殺すのも自由だな」

魔法使い「……うん。そう。そうだね。自由だよ」

魔法使い「だから、私が抵抗するのも、自由」

 剣を抜く。魔法使いも樫の杖を抜いた。

218:

 空気が振動して四つの立体が生まれる。半透明で、一辺が三十センチほど。それが魔法使いの周囲を旋回している。
 俺は手を握りしめた。僧侶からもらった身体能力強化の魔法はまだ十分に効いている。

 そうして地を蹴る。最速で魔法使いへと躍り掛かった。

 刃は立体によって阻まれる。固い手応え。大天狗が用いた障壁と同種の対物理障壁だ。全力を出せば切断できるだろうか……難しいか?
 僅かに後退、反動をつけて身を翻す。しかし残り三つの立体がこちらへと迫ってくる。隙間はあるが、それが明らかに誘っているふうで、逡巡した。あそこに身をすべり込ませてもいいものだろうか。

 ナイフを引き抜いてその空間へと放り投げる。何もなければ魔法使いに突き刺さるコース。
 立体のうち一つが発光した。ばちん、と激しい音を立てて、落雷がナイフを襲う。

魔法使い「流石に、ひっかからない、か」

魔法使い「エレメンタルキューブ」

 二つの立体がそれぞれ発光した。俺の足元に、空中に、魔方陣が計四つ現れる。明らかに不穏な気配を感じて横っ飛び。
 盛大な破砕音。たった今までいた場所を襲う落雷、そして火炎。

 跳び退いた先にもまた魔方陣が。無理やり壁を蹴って方向転換。そのせいで書類棚に激突したが、そのほうがまだましだ。
 魔方陣からは冷気が吹き出し、巨大な氷柱が突き出ていた。方向転換していなければ串刺しになって死んでいただろう。

219:

傭兵「っ!」

 いつの間にか足元に魔方陣が現れている――岩に埋まった俺の右脚。

 残り三つの立体が発光を始めた。同時に俺の周囲に魔方陣が浮かび上がる。

 炸裂音。

 魔法使いの腹部が爆ぜた。立体の光が消え、それどころか立体自体が掻き消えていき、俺の脚を束縛していた岩もさらさら崩れていく。
 魔法使いは驚愕の表情で自らの失われた腹部に手をやった。真っ赤に染まった手を見て、その後ゆっくり顔を挙げる。その先には――僧侶がいる。

 僧侶は依然硝煙が立ち上る拳銃を構えたままだった。その眼には涙を溜めているが、まだ頬を伝うまではいかない。唇を噛み締めてなんとか耐えているようにすら見える。

僧侶「わたしのこと、忘れちゃ、いませんか」

 涙声だった。震えている。

魔法使い「あー、やー、これは、意外だった、なぁ」

 ごふ、と血を吐く魔法使い。
 僧侶は目を袖で拭ってまっすぐに魔法使いを見た。赤く染まっている魔法使いの姿、そこから目を決して逸らさない。恐らくそれが彼女なりの責任なのだろう。やったからには最後まで。
 一歩一歩、ゆっくりと、けれど確実に魔法使いとの距離を詰めていく。

220:

僧侶「ごめんなさい」

魔法使い「あ、はは、は。そう、思っちゃうなら、やめとけば、よかったのに」

僧侶「……」

 無言のまま魔法使いの頤に銃口を突き付けた。そこから先は俺の仕事のはずだったが、しかし、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。口を出してしまえば彼女の覚悟を無駄にしてしまうと思ったから。
 引いたトリガーが招いた結末は、それを引いた本人が最も間近で見るべきなのだ。
 もしこれで僧侶がやはり殺せないというならば、それはそれ、俺は謹んで拝命しよう。

僧侶「……」

魔法使い「ど、したの」

傭兵「僧侶」

 声をかけると僧侶はもう一度目を袖で拭い、首を横に振った。

僧侶「いえ、大丈夫です」

 ひときわ大きな音が響いて、魔法使いの体が研究所の床に横たわる。
 赤い海がじわりじわりとその勢力を拡大していき、僧侶の靴を汚していく。硝煙のにおいと鉄の匂いが鼻孔を衝いた。
 顔面蒼白な僧侶はそれでも気丈に唇を噛み締めている。

傭兵「……爆弾をセットするぞ。手伝え」

僧侶「……はい」

――それから数十分後。
 振動とともに崩落していく採石場を背に、絶望に彩られた町民の中を、俺たちは抜けていく。
 表面上は変わらない足取りで。

225:

 きしり、きしりと軋む音。
 心が軋んでいる。鋼線に巻きつかれ、ぎりぎりと悲鳴をあげている。

 後悔……で正しいのかも定かではありませんでした。一時の感情に身を任せ、採石の町ゴロンを崩壊に追いやったのは、間違いなくこのわたしなのです。
 実際に手を血に染めたのは、その殆どが傭兵さんでしたが、彼はわたしの剣であり盾にすぎません。持ち主はわたしなのです。剣を振るったのはわたしなのです。

 わたしは正しかったのでしょうか。それとも間違っていたのでしょうか。
 いや、もしかしたら正誤を考えることすら間違いなのかも。

 傭兵さんは全く変わらない調子で先行します。変わらない調子とは、ペースもそうですが、ふるまいも。採石場で虐殺の限りを尽くした人間とは思えませんでした。

 採石の町、ゴロン。カミオインダストリーの――ひいては州総督の治める町。あれは最早所有物と言っても過言ではないでしょう。誤解を恐れずに言えば、もっとひどい表現がいくらでもできましょうが、今のわたしにその権利があるのかどうか。
 あの町はもう存在できないでしょう。州総督から見捨てられ、庇護下から離れてしまった以上、残されたのは寄る辺の無い人間と採石場の成れの果てだけです。牙の無い彼らには、たぶん、生きていくだけの力もありません。

 そしてそんな弱い生物を檻から解き放ってしまったのは他ならぬわたしたちなのです。

 義憤に駆られたといえば聞こえはいいでしょう。義を見てせざるは勇無きなり。つまりわたしたちには勇気があったと、そういうことにもなるのかもしれません。
 ただ、仮にそこに勇気があったとして、正義が介在していたかどうかまでは……。

226:

 行動の動機として、そこに正義があったことは否定しません。繰り返しますが、わたしは義憤に駆られました。州総督を許せないと怒り、魔法使いさんを酷いと憎み、町民を愚かと断じました。
 その結果がこれです。目的は果たせたはずなのに、この世の汚濁は潰したはずなのに、齎された結果がわたしを苛んでいるのです。余計なおせっかいだったのでは、と。

 無知のまま瘴気に汚染されて死んでいくほうが、彼らにとっては幸せだったのでは?

 そんなはずはありません。ない、はずなのです。
 けれど魔法使いさんの言った言葉が、わたしの胸に突き刺さって仕方がないのです。

魔法使い『きっとみんな、楽して生きていたいんだよ』

魔法使い『現状が最悪なことはわかってるけど、努力してまで、この「大したことせずとも生活できる」生活から逃げようとは思ってないんだよ』

魔法使い『罪もない子供が蝕まれているっていうのに』

 わたしの行為は誰も幸せにしなかったのではないか。
 だとしたら、誰かを殺してまで、悲しませてまでやった行いは――

傭兵「僧侶」

 呼ばれて傭兵さんの方を向きました。彼は岩場に足をかけ、わたしの方を見ています。
 そこで初めて、わたしは自分が足を止めていたことに気が付きました。

僧侶「あ、……すいません」

227:

 わたしは傭兵さんが指示した窪みとでっぱりに手足をかけ、時に木の枝にロープを巻き、岩場を登っていきます。

傭兵「人を殺すのは初めてか」

 枝の強度を確かめながら傭兵さんは尋ねてきました。わたしは頷いて、「はい」と答えます。
 傭兵さんは「だろうな」とだけ言って、慣れた様子で岩場を登っていきます。わたしはそれについていくだけでも精一杯でした。

傭兵「なんで銃を選んだ? もっと殺傷力の低いものは沢山あったろうに」

僧侶「魔方陣を、その構造に組み込みやすかったから、です」

 手が汗で濡れて滑る。服で手のひらを拭いて岩を掴みなおします。

傭兵「それだけか?」

僧侶「……わたしは、誰かを守りたかったんです」

 と言って、過去形になっていることに気が付いて訂正します。

僧侶「わたしは、誰かを守りたいんです。権力者、資本家、そういった、力にものを言わせて他人を隷属させようとするやつらから、みんなを」

僧侶「そのためには、最悪、敵対する人を殺すことも視野に入れなきゃいけないと、思いました」

228:

傭兵「だからお前はカミオインダストリーが嫌いだったのか。州総督も」

僧侶「……はい。自分だけがよければいいなんて、認めたくありません」

傭兵「病的だな」

 端的に傭兵さんはわたしをそう評しました。わかっていることです。わたし自身、その自覚はあります。
 最初は単なる努力目標だったそれは、今では優先順位が逆転して、至上命題となっています。昔はこんなに狭量ではなかったはずなのに。

傭兵「お前に似た神父を知ってるよ。無私、と言う言葉が似合いすぎるくらい似合うやつだった。ただ違うのは、そいつは守りたいとは言わなかったな。救いたい、とは言っていたけど」

 守ると救う。その差は些細なようで重大です。守るとはつまり前に立って大きく手を広げることを意味していますが、救うは背中から押してあげることを意味しています。
 前後の差。
 そうです、わたしは誰かの前に立ちたい。だから拳銃なのです。後ろにいては、その人ごと撃ち殺してしまうから。

229:

僧侶「その人は、どうなりましたか」

傭兵「死んだよ」

 僅かに傭兵さんの声が強張ります。

傭兵「金も力もねぇくせに人望だけはあったからな。それを、どっかのお偉いさんに利用されて、ボロ雑巾みたいに使い捨てられた。ひでぇ話だ。人間を消耗品だと思ってやがる」

僧侶「……」

 わたしは何も言いませんでした。いや、言えませんでした。

 気持ちが焦っていたからでしょう、足場を踏み外してわたしの体が大きく傾ぎます。
 一瞬体が重力から解き放たれ、視界が岩場から一転、木々とその隙間から見える青空へと変わります。
 落ちる、と思った次の瞬間には、わたしの手は傭兵さんに捕まえられていました。

傭兵「気ィ抜くな」

僧侶「……すいません」

 傭兵さんの手は無骨で、そしてあったかかったです。

 わたしを岩の上に立たせてから彼は前を向きました。どうやらここが岩場の頂上らしく、あとは下っていくばかり。

傭兵「人を殺せる要因なんていくつもある。金もそうだ。恨みつらみなんて腐るほどある。人間どこで、知らないうちに不興を買っているかわかったもんじゃねぇ」

 傭兵さんの唐突な語りにわたしは少し戸惑いましたが、その瞳が随分と真剣みを帯びているので、自然とこちらも聞く体勢になります。

230:

傭兵「僧侶、大事なのは信念だ。金や恨みで殺すクソッタレと一緒になるな。俺は信念で殺す。信念で斬り、信念で刺し、信念で撃つ。わかるか」

僧侶「……全然わかんないです」

 嘘です。ちょっとくらいはわかりました。
 ただ、この人の言うことを素直に聞くのも、なんていうか、癪じゃあないですか。

僧侶「でも傭兵さんはお金をもらったら人を殺すんでしょう」

 それはお金で人を殺すことになると思うのですが。

傭兵「殺すよ」

 あくまで楽しそうに傭兵さんは言いました。先ほどの真面目なトーンはどこへやら、宝物を自慢する子供の顔です。

傭兵「この世で金が一番大事だ。俺はその信念に則って殺す。わかりやすいだろ」

僧侶「それは言葉遊びじゃないですか」

傭兵「かもしれないな」

 はぐらかされました。シリアスにしてればそれこそいいことを言っていると思うのですが、惜しむらくは彼の真面目な顔は数秒しか持たないのです。

傭兵「殺すなら信念で殺せ。動くなら信念で動け。荒事の世界で生き延びるコツだ」

僧侶「信念、ですか」

231:

 きっと傭兵さんはわたしを元気づけようとしてくれているのでしょう。大きなお世話で余計なお世話ではありましたが、その好意を受け取るのは吝かではありません。
 ふふん。傭兵さんも少しはわたしに気を使う甲斐性がでてきたようですね。

僧侶「感心感心」

傭兵「何言ってんだボケ。さっさと行くぞ」

 傭兵さんは斜面を駆けおりていきました。わたしは慌ててそのあとを追います。

 それにしても、信念、ですか。
 たぶん、後悔しないように、ということなのでしょう。誰かのせいでもなく、誰かのためでもなく、自分の信念がわたしにあのとき引き金を引かせた。そうした自分をこそ信じてやれよと言外に傭兵さんは言っているのです。
 確かに、そうでなければ生き抜くことなど容易ではないのかもしれません。

 これから先、撃たねばならないことが多々あるでしょう。わたしはラブレザッハに辿り着かなければいけないのです、なんとしても。
 でないと、みんな死んじゃうから。

 自分なりの答えはいまだ出ませんが、色々なことが収まるべき場所に少しでも近づいたような気がしました。

 考え、悩み、溜息をつくことはあるでしょう。魔法使いさんを撃ったことにも、そもそも採石場をぶっ潰したことにも。
 けれど、あんな汚濁を放置するのは、わたしの信念に悖るものです。

 だから後悔はしない。

 それが原因で誰かに殺されたとしても。

 どうせわたしの人生は後戻りなんてできないのですから。

236:

※ ※ ※

 さて、どうしたものだろう。
 魔物避け、野生動物避けの焚火を見ながら俺は考えていた。

 炎は燃焼し、空気を膨張させ、ぱちんという小気味よい音とともに爆ぜる。生み出される光は太陽のそれより赤く、柔らかかった。
 俺は手元の小枝を三つに折って投げ入れる。手持無沙汰にかまけてくべすぎてしまっているが、それでも。
 というか、こうでもしないと気を紛らわせそうになかった。

 俺の脚を枕にして僧侶が寝ている。

 頬が柔らかい。


 基本的に火の番は俺の仕事だ。夜通し起きて脅威に対して警戒し、日が昇って僧侶が起きてきたら俺が代わりに就寝する。これまではそのパターンだったし、今日もそのパターンのはずだった。
 テントなんていう便利なものはない。あっても嵩張る以上持ち運べない。だから布を引いた上に寝袋で寝ることにしていた。実際、今も僧侶は寝袋にくるまっている。

 違ったのは僧侶の寝つきが悪かったことだ。いつもは疲れからかすぐ入眠するのだが、今日は少し違ったのか、それとも体力がついてきたのか、石に座った俺のそばへとやってきたこう言ったのだ。「お話しましょうよ」と。

 当然いいから寝ろと言った。僧侶は「なんか眠たくないんです」と言った。俺の隣に座った僧侶は上目使いで快活に笑って、自分のアカデミーのころの話なんかをしだした。俺は完全に聞き手だった。

237:

僧侶「わたしは南部の生まれなんですけど」

 そうだな。名前は南部地方にありがちなそれだもんな。

僧侶「両親はどっちも神職で、北部でずっとお勤めしてたんです」

 だとすればラブレザッハに向かうのも関係あるのだろうか。

僧侶「わたしは両親の留守中アカデミーの寄宿舎に放り込まれてまして、楽しかったなぁ」

 確かこいつはそこで主席だったんだったか。

僧侶「みんな元気にしてるのかなぁ。色んなところにみんなお勤めに行っちゃって、中には勇者様と一緒に旅してる子もいるんですよ!」

 等等、声にこそ出さないが色々と思うことはある。そしてこいつはそんな俺の気持ちなど露知らず、やれ友達とどこどこに行っただとか、誰々がこんな失敗をしただとかで勝手に盛り上がっていた。
 その顔を見る限りは普通のガキだ。細かいプロフィールは知らないし興味もないが、おおよそ十五、六の女子が大森林を越えてラブレザッハに向かう理由が気にならないはずはない。

 恐らくそれ相応の何かがあるのだろう。きっと、この年齢相応の笑顔の奥に、凄絶な何かが存在しているに違いない。
 最初俺に頼む際、こいつは家財道具をすべて処分し、銀行から全ての金を下ろしてきていた。つまりこいつに帰る家はもうないのだ。

238:

傭兵「……ちっ」

 らしくもないことを考えてしまった。俺は傭兵だ。こいつの剣であり盾。しかし保護者じゃない。どうにも、それっぽい考えが脳裏をよぎってしまう。
 両親はどこに行ったのだとか、少しばかり気を回してしまう自分自身に腹が立つ。

僧侶「……」

 すやすやと眠っている。話したいだけ話すと糸が切れるように寝てしまった。まるでガキだ。まったくガキだ。それだのにいっちょまえに俺に文句を言ったりする肝を持っているのだから手に負えない。
 こいつの金嫌いは筋金入りだ。勿論金が大事だと理解したうえで、金など必要ないと思っている。

 ある種矛盾染みた思想だが、矛盾ではないのだ。彼女にとって金は必要悪で、他人の善意によって社会が成り立つことを、本当は希求しているのではなかろうか。
 ばからしい。
 と一蹴するのは簡単だ。ただ、それはあいつの人生を知らない俺が言っていい言葉なのだろうか、疑問が残る。

 なんとなく頭に手を触れてみた。
 淡い水色の髪の毛は、大森林の中にあってもするすると流れていく。先端の方だけ少し軋んだ。これだけ気持ちいい髪質なのに、勿体ないことだ。

239:

傭兵「……」

 おい、待て、俺。今、何を考えてた。
 寝ている人間の頭を撫でて、髪を梳いて、あまつさえ気持ちいいとは――まるで変態の所業だ。有り得ない。到底許されることではない。
 地獄に落ちてしまえ。

 大きく呼吸して思考を切り替える。

 あと丸一日……ペースによっては一日半、歩けば大森林は突破できる。ゴロンを出立して以降、魔物に襲われたりだとかは何度もあったが、雑魚ばかりだったのが幸いだった。あれが大天狗だとしたら……。
 いや、やめよう。あれは悪夢以外の何物でもない。考えるのは精神衛生上よろしくない。

 しかし、泣き言も言わずに僧侶もよくついてきたものだ。依頼主は僧侶なのだから、まぁ泣き言を言わないのは当たり前なのかもしれないが、途中で根をあげると思っていた。あと三日はかかると踏んでいたのだが。
 とはいえ大森林を出たあとも旅は続く。俺は羊皮紙の地図を取り出し、焚火の明りに照らし出す。

 岩場は本日抜けた。このまま北上するよりは一度東へ向かって街道に入ったほうが道も整備されていて歩きやすい。が、街道沿いには柵や罠が数多く仕掛けられているはずだ。俺一人ならどうとでもなるのだけれど。
 ただ、かといってこのまま北上しても、いずれは魔物の巣に行き当たる。交易都市ボスクゥが擁する湖、そこに繋がる支流は大森林を通り、ケルピーや河童の棲家となっていた。
 ケルピーも河童も特別危険度が高いというわけではないが、寧ろ河童の遊びに付き合わされる方がよっぽど厄介だ。

240:

 結局はどちらかを抜けなければいけないということなのだが、いまだに俺はそれを決めかねていた。僧侶が起きるまでに決めてしまわないといけない。道を先導するのは俺の仕事だから。

僧侶「傭兵、さん」

傭兵「どした」

 と答えてから寝言だということに気が付く。僧侶は依然俺の膝を枕にして気持ちよさそうに眠っていた。暢気なものだ。

傭兵「……違うな」

 眠っているときこそ暢気でいるべきで、何より、暢気でいられるべきなのだろう。
 僧侶だけのことではない。夜が恐ろしくておちおち寝てもいられない世界なんて俺はごめんだ。

 その時である。

 からんからんと鳴子が鳴った。
 膝の上の僧侶など一瞬で頭から消え、反射的に構える。僧侶が転がり落ちるが知ったことか。

僧侶「いったぁっ! なんですか傭兵さん――」

傭兵「寝ぼけてんじゃねぇ、誰かが来た」

 決して暗闇から目を逸らさない。概算で約十メートル。位置は前方。炎が揺らいで木々を光で舐めていくが、誰の姿も見えなかった。

241:

僧侶「……銃、取りますか」

傭兵「一応そうしておけ」

??「ねぇ、もしかして……僧侶?」

 素っ頓狂な声が闇夜の中から聞こえてきた。黄色い声。少し気の強そうな人物像を感じ取れる。年齢は、僧侶と同じくらいか。
 魔物ではなく人間だったらしい。そして、同時に僧侶の知り合いでもあるらしかった。それはこいつの顔を見ていればわかる。

僧侶「もしかして、赤毛ちゃん?」

 赤毛と呼ばれた声は、暗闇の中にあってもわかる喜びの色を声に多分に含ませ、「やっぱりだ!」と叫んだ。それを受けて僧侶も「やっぱり」と嬉しそうにつぶやく。
 ややあって暗闇から一人の少女が姿を現した。想像通り僧侶と同じくらいの年のころで、眼鏡と、燃えるように真っ赤な赤毛が照り返しで輝いている。確かにこの髪の毛は特徴的だ。

 どうやら旧友――級友らしい。本来ならば大森林で感動の再開となるのかもしれないが、そうは問屋が卸さない。俺は二人の間に割って入った。
 剣の切っ先を赤毛の少女に向ける。

赤毛「なっ、なにを」

僧侶「傭兵さん!」

傭兵「てめぇは黙ってろ。こいつが無害と決まったわけじゃねぇ」

242:

 悪党ほど善人面が得意なものだ。一般人は決して菩薩の顔をしない。菩薩の顔をするのは、真なる者か、でなければ夜叉。そして俺は目の前の赤毛の少女が真なる者であるとは信じきれなかった。
 魔物の中には心を読み取り、親しい人物の姿を投影して取って喰らう厄介な種もいる。念には念を入れておくに越したことはない。

 僧侶は黙った。そりゃそうだろう。何か言いたそうにしていたが、結局口を噤んだ。

傭兵「いいか、そのまま一歩ずつ、下がれ。五歩下がったら話を聞いてやる」

??「待ってくれ!」

 またも声が闇夜から響いた。次から次へと……面倒くさい。
 次に姿を現したのは優男だった。と言っても俺とそう歳が違うわけでもあるまい。軽鎧に二刀を携えた器量良し。
 俺は思わず犬歯をむき出しにする。眼を見張るものがこの優男にはあった。

 決して筋骨隆々というわけではない。シルエット自体は細身で、どこにでもいる青年だ。しかし俺にはわかる。この優男、軽鎧の下には強靭で無駄のない筋肉を持っている。
 歩き方ひとつとってもそうだ。動きの全てに無駄がない。洗練と言う言葉が似合う。

243:

傭兵「……なんだ、こいつは」

 思わず呟いた。そして、それを耳聡く聞いた赤毛の少女が、俺に噛みつくように吠える。

赤毛「は!? あんた知らないの!?」

 いや、確かに知らないが、俺が呟いたのはそういう意味ではなくて。

 赤毛はけれどそんな俺のことはお構いなしだ。まるで優男を知らないのが非国民であるかのようにがなりたてる。

赤毛「この人こそ! 国王様が選びし勇者様よ!」

勇者「まぁ三代目ですけどね」

 勇者。
 ……勇者ァ!?

僧侶「……傭兵さん、本当に知らないんですか?」

 信じられないといった顔つきで俺のことを見てくる僧侶。その視線には軽蔑すら籠っているように見える。
 馬鹿にするな。勇者くらい知りすぎてるほどに知っている。ただ、当代の勇者の見てくれを知らなかっただけで。

244:

僧侶「……本当に?」

 疑わしい人間を見る眼だ、それは。一歩間違えば人間を見る眼ですらなくなってしまう。
 勇者は人間の希望を一身に背負って立つ身。正しく英雄の路を歩いている者なのだ。神格化されるのはしょうがないとはいえ、知らなかっただけでこんな視線を向けられるとは。

赤毛「はぁ、信じられない。勇者様と言えば国を挙げての闘技大会優勝者よ? 全人類の希望よ? 顔を知らないだなんて……」

 赤毛の言い方はいちいち癪に障る。こんなガキに本気で怒るのは大人げないとはわかってはいるが、礼儀をわきまえない子供を叱り飛ばすのも年長者の仕事だろう。

傭兵「とりあえずてめぇ、黙れ。お前らが何者だろうと、こっちゃどうだっていいんだ。用がないならさっさとどっかに消えろ」

赤毛「ちょっと、あんたねぇ!」

勇者「赤毛ちゃん」

 勇者に窘められ赤毛はぶすっくれた顔をした。勇者がこっちを向いたのを確認し、思い切りあっかんべーをしてくる。
 これほど苛立つのも珍しい。

勇者「おやすみのところ悪かった。鳴子を踏んでしまったのは偶然なんだ」

傭兵「そうかい。じゃあさっさと行けよ」

245:

勇者「まぁそう言わないでくれ。ここであったのも何かの縁。情報交換位してもバチはあたらないだろう?」

傭兵「……俺は傭兵だ。こっちは雇い主の僧侶。ラブレザッハまでの旅をしている」

勇者「ラブレザッハ? あそこは今、いろいろややこしいことになってるぜ?」

傭兵「あぁ、聞いた。王国軍と私設軍が同時にいるんだろ。けど、こいつが行きたいって言う以上、俺は連れて行くのが仕事だ。そっちは?」

勇者「俺は仲間を探して旅している。魔王討伐の任を帯びていてね、そのためにあと二人、仲間が欲しい。今は全国を行脚して、仲間にするに足る手練れ、そして正義感の持ち主を見つけなきゃならない」

傭兵「そうか、大変だな」

 心のこもっていない言葉だったが、勇者はそれを爽やかな笑顔で受け止めて、

勇者「本当だよ。でも、少しでも戦力を揃えないと、魔王軍がどう出てくるかもわからないからね」

傭兵「腹の探り合いはもうやめよう」

246:

 一瞬勇者の爽やかな笑みが固まった。赤毛は「勇者様になんてことを」だとか言っているが、俺にしてみればばればれだ。先を急ぐ人間がこんな傭兵相手に打算もなく時間を潰すものかよ。
 大丈夫、不穏なものではない、はずだ。勇者の手に力が籠っていないのがその証左。殺りあうつもりなら、この辺りで二刀に手をかけているだろう。

勇者「なんだ、御見通しか」

傭兵「これでも、一応修羅場は潜ってきてるからな」

勇者「わかった。悪かったよ。俺たちはボスクゥに向かってるんだが、なんせこのご時世だ。二人だけだと心許ない」

勇者「ラブレザッハに行くのならボスクゥには寄るだろう? いや、そりゃ寄らないルートもあるかもしれないけど、普通は寄るはずだ。違うか?」

傭兵「寄るつもりはあるさ。会いたいやつもいるしな」

 俺はポケットの中で、いつぞや兵士からもらった階級章を弄びながら答える。

勇者「なら話は早い。ボスクゥまで一緒に、どうだい」

 ちらりと僧侶を見た。僧侶は柔らかく微笑んで、言外に「お任せします」と言っている。
 ふむ。闘技大会優勝などはどうでもいいが、そんな肩書とは全く無関係に、この勇者という男の強さは本物だ。不慮の事態が起こることを考えても損はあるまい。

247:

傭兵「わかった。ボスクゥまでよろしく」

勇者「こちらこそ」

 と勇者が手を差し出してくる。俺は肩を竦めて僧侶を指した。

傭兵「俺はしがない傭兵だ。雇い主はこっち。握手ならこっちとしてくれ」

 そこで勇者は初めて僧侶をまじまじ見て、僅かに驚愕に目を見開いたかと思うと、視線を逸らさずにもう一度手を差し出した。

勇者「……よろしく」

僧侶「はい、こちらこそ」

 握手。
 しかし、なぜか解かれようとはしなかった。
 勇者はじっと僧侶を見ている。

 見惚れている、と言ってもいいくらいに。

傭兵「……」

赤毛「……」

248:

僧侶「……あの、勇者、さん?」

 一同に注視されていることを今更に気付いたのか、勇者ははっとして手を解いた。ごまかし交じりの笑いとともに軽い謝罪の言葉が入る。
 俺はなんとなく面白くない感じを覚えたが、当然そんなものは外に出さず、子供二人を追いやって勇者に近づく。

傭兵「俺たちは少しルートの話をする。お前らは友達なのか? ちょっと遊んで来い」

 夜中だけど。

 二人も単にお遊びをしているわけではない。俺と勇者が話す内容に心当たりがついたのだろう、邪魔にならないようにと自ら距離を取った。その間から、既に「久しぶり」「なんでこんなところにいるの」などの嬌声が聞こえてくる。
 最近は辛いこと続きだったから、僧侶にとっても級友にあえるのは素直に嬉しいのだろう。
 勇者もそんな顔で赤毛のことを見ていた。お互いに保護者染みている。それは大変に業腹であったが。

勇者「アカデミーの友人、なのかな」

傭兵「じゃねぇの。よくわからんが」

勇者「まぁ、何にしてもよかった。大森林に潜りっぱなしで、精神的に辛そうだったからね」

傭兵「どれくらいここにいる?」

勇者「二週間くらいになるかな。任務は一応極秘だから喋れないけど」

傭兵「別にいいさ。興味はない」

 それに、わざわざ知る必要もない。

249:

 国の期待を一身に背負った勇者様を大森林に放り込む理由は、エルフと魔王軍の戦争への介入、その一点以外にありえない。

 王族貴族はエルフと魔王軍の戦争については消極策を貫いている。即ち、直接的な介入はせず、後方支援、それも補給がらみにのみ手を貸すということだ。
 反対に州総督をはじめとする各領主は、それぞれがそれぞれのやり方で積極的に介入を試み、利益を生み出そうとしている。

 勇者と言えば、つまるところは王族貴族が祀り上げた国家代表戦士である。州総督の一派と対立するからこそ、彼らと同じ土俵に立って行動する人間が必要となる。勇者が行っているのは、そういうことだ。
 戦争が激化すればするほど州総督たちは儲かる。だから彼らは戦争の長期化を望む。採石の町ゴロンを司っていたのがカミオインダストリーであり、黒幕が州総督であったように、採石事業や武具の製造販売を行っているから。

 そして、勇者はそれを防ぐ役割があるのだ、恐らく。彼自身が魔王軍と戦うことによって。

傭兵「大森林から抜けても大丈夫なのか?」

勇者「言ったろ、仲間を探してるって。ボスクゥは今王国軍が駐屯しているらしいし、王都に戻る前に、有望な人物がいないかなと思ってね」

傭兵「ラブレザッハまで僧侶を送った後、手伝ってやろうか」

勇者「ははは、ありがたいけど勘弁しておくよ。俺は貧乏なんだ」

 どうやら俺の顔は割れているらしかった。評判も、聞き及んでいるのだろう。

250:

傭兵「期待を背負った勇者様でも金欠かい。世知辛いねぇ」

勇者「金がなくても何とかやっていけてるよ。今は国全体が慌ただしいからね。そのことを考えれば、どうってことないさ」

傭兵「お前もか」

勇者「え?」

傭兵「や、なんでもねぇよ」

 こいつもだ。こいつも、金がなくとも愛や友情や、そういった美しくて素晴らしい概念さえあれば、満腹中枢を満たせる人間だ。

勇者「それで、ルートはどうする? 街道を通るか、川を遡上していくか」

傭兵「街道だな」

勇者「いいのか? 確かに街道の方が早く着くだろうけど、絶対に何かあるぞ」

傭兵「問題ねぇよ。それに、お前さっき言ってたろ」

勇者「?」

傭兵「貧乏だって」

勇者「あ、あぁ、そうだけど」

傭兵「奇遇だな。実は俺も金が欲しいんだ」

 * * *

261:

 * * *

赤毛「元気だった? 一年ぶりなのに、なんかもっと会ってない気がするよ」

僧侶「ほんと。勇者様との旅はどう?」

赤毛「えー、それ聞いちゃう? 聞いちゃう? うふふふ」

僧侶「楽しそうで何よりだよ」

赤毛「だって勇者様ったらすっごい強いんだよ! それに加えて優しいし、かっこいいし……憧れちゃうよねぇ」

 確かに勇者様は瑕疵の無い人です。それは一瞥しただけでもわかります。
 品行方正文武両道眉目秀麗。そんな人間がそうそういるとは思えませんでしたが、彼はまさにその十二字の具現だと思いました。
 傭兵さんも少しは見習ってくれればいいのに。

赤毛「僧侶ちゃんはラブレザッハまで向かってるんだっけ?」

僧侶「あ、うん。一緒にいた人は傭兵さん」

赤毛「あの人ねぇ、感じ悪いよね。大丈夫なの?」

 言いにくそうなことでもずばずば言えてしまうのが、この赤毛ちゃんの特徴であり、同時に悪いところでもあります。わたしは困った顔をして「まぁ……」と口を濁しました。
 確かに傭兵さんは最低な人間です。お金に貪欲で、そのためなら他人を犠牲にし、そして自分をも擲つ覚悟を持っています。口も悪くてすぐに人を煽ります。常に鼻をヒクつかせお金のにおいを探っていることもしばしば。

262:

 ですが、なぜでしょう。赤毛ちゃんに傭兵さんことを悪く言われるのは、少しだけ心がざわつきます。だって彼はわたしの傭兵であって、彼女のものではないのですから。

 確かに赤毛ちゃんの言っている感じの悪さは事実なのですが。

赤毛「ラブレザッハに行くのはやっぱりあれなの? お父さんとお母さんを追って?」

僧侶「うん、まぁ、そんなとこ」

 嘘は言っていません。恣意的に解釈しているだけで。

僧侶「そっちはやっぱり世界平和?」

 アカデミーにいたころから彼女はそればかりを繰り返してきました。世界平和。戦争撲滅。そのための努力で勇者様に見初められ認められたのは、素直に驚嘆です。
 赤毛ちゃんは言動こそ普通の女の子ですが、その実途方もない量の魔法力を擁する、一種の天才。魔力貯蔵庫が人の形を成したもの、と冗談交じりに呼ばれるくらいは。

 わたしの首席という肩書は事実ではありますが、単に学業成績が良かっただけ。魔法を使えはできても放てないわたしにとっては、彼女の生き方はいくら憧れても不可能なことですから。

 わたしだって世界平和を希求してはいますが、アプローチは当然異なります。

 赤毛ちゃんは猫に似た表情を輝かせて頷きました。

赤毛「あんまり喋っちゃいけないみたいなんだけどね。魔物の討伐と、違法な工場の破壊工作とかがメインかな」

 違法な工場。
 破壊工作。

 心拍数が跳ね上がります。なんだか、それはあまりに直近の出来事過ぎて。

263:

僧侶「そ、っか……お互い頑張ろうね」

赤毛「うん。頑張ろうね」

 二人で指切りをしていると、ようやく話し合いの終わった二人が現れました。

勇者「お待たせ」

傭兵「てめぇら随分楽しそうだな」

赤毛「勇者様、大丈夫でした?」

傭兵「大丈夫ってなんだ」

僧侶「傭兵さん」

 顔を顰めた傭兵さんの裾を引っ張ります。傭兵さんは大層楽しくない顔をして、木へと背中を預けました。

傭兵「ボスクゥまでは街道を通っていく」

赤毛「街道? 危険じゃないの?」

勇者「あぁ、そのことなんだけどね、傭兵くんがどうしてもって」

僧侶「……」

 嫌な予感が。
 とても、とっても、嫌な予感がします。

264:

僧侶「よ、う、へ、い、さ、ん?」

傭兵「んー? なんだよ、雇用主殿」

 嫌な笑顔してる!

僧侶「説明してください。街道は確かに近いかもしれませんが、強盗団、罠、魔物の襲撃などいくらでも考えられます」

傭兵「あほか。だからだよ、だぁかぁらぁ」

傭兵「ボスクゥは交易都市だ。着いたのに素寒貧じゃ味気ねぇ。こいつらも貧乏な旅してるって言うからよ、ならやることは一つだろうが」

 ぴんと来ました。わなわなと体が震えます。
 この人、どこまでがめついんですか!?

 二人はよくわかっていない顔をしました。わかってしまう自分が少しだけ悲しくなってきます。

僧侶「つまり、追剥を逆に剥ぐと」

傭兵「そのとおり」

 そこでようやく合点の言った二人は、傭兵さんの言っていることがまるで信じられないという風に、口をあんぐり開けています。
 先に口を開けたのは赤毛ちゃんでした。

265:

赤毛「ばっ! あんた、そんなことが許されると思ってんの!?」

傭兵「襲いかかってくる方もそれくらいの覚悟をしてるはずだろ」

赤毛「じゃなくて、命がいくつあっても足りないって言ってんの! 釣りでもやってるつもりなの!? 餌にするのは自分の体だけにしてよ! 馬鹿じゃないの!」

傭兵「てめぇこそ馬鹿言ってんじゃねぇよ。俺と勇者がいて、万に一つも負けはありえねぇ」

 ともすれば自信過剰にも聞こえる言葉でした。ですが、確かに、とわたしは思います。
 一体どれほどの手練れが出てくれば、傭兵さんと勇者さんに傷を負わせることができるでしょうか。決して傭兵さんの言葉は大言壮語ではありません。

傭兵「それとも嬢ちゃん、てめぇは勇者様を信じてねぇってのか?」

赤毛「馬鹿にしないでよね! 勇者様がそんじょそこらの魔物に負けるわけないでしょ!」

 言質を取ったぞ、と傭兵さんは手をぱちんと叩きました。

傭兵「勇者様も、問題ねぇよな」

勇者「問題は大ありだが……まぁ、いいだろう」

赤毛「いいんですか……?」

勇者「路銀が足りないのは事実だし、一般人を、しかもこちらから襲うわけじゃあないんだ。ぎりぎり許容の範囲内だろう」

266:
傭兵「流石勇者様だ、話が分かる。それでこそ民草の声も聞けるってもんだ」

 傭兵さんはにかっと笑って。

傭兵「さぁ、眼に物見せてやろうぜ。勿論代金は要求するけどな」

 そうして街道に飛び出したわけですが……結論から言えば、襲った方が可哀そうになってくるくらいでした。

 最初は普通に歩けていても、数分進めば歩哨に立っていたらしい犬型の魔物が襲って来たり、ナイフをぎらぎらとちらつかせたゴブリンが集団で立ちふさがったり、まさに世紀末。
 そしてそれらを意に介さないように千切っては投げ千切っては投げしていく、我らが傭兵さんと勇者様。
 私と赤毛ちゃんは自分の身を守るだけで精一杯だというのに、二人は軽口を叩いたり、果ては倒した敵の数で賭けをしてさえいるのです。

傭兵「お前これで何匹目だ!」

勇者「だから! 俺はやらないって、言ってるだろ! 三十五匹目!」

傭兵「ははっ、ちゃんと数えてんじゃねェか! 四十三!」

 息を整える暇もなく、軍隊ガニの大群が現れました。傭兵さんはゴロンで衛兵から奪った抜き身の剣を振り回し、力任せに外殻ごと叩き切っていきます。
 力強い攻撃なのに、傭兵さんの動作はかなり軽やかで、まるで背中に羽が這えたみたいでした。わたしの魔法的な補助もなく。

267:

 反対に勇者様は二刀を細かく回しながら、自分の身だけではなくわたしや赤毛ちゃんも周囲も警戒しているようでした。片刃の小太刀と脇差。ステップを踏みながら戦う姿はさながら舞踏のよう。
 わたしたちに気をやっている分だけキルスコアは傭兵さんがリードしていました。かくいうわたしは、たった今五匹目を倒したところ。
 拳銃じゃあ軍隊ガニの甲殻には歯が立ちませんよっ!

赤毛「僧侶ちゃん、大丈夫!?」

 魔力に任せて赤毛ちゃんは周囲の軍隊ガニを爆発で吹き飛ばしていく。巻き添えを喰いそうになりましたが、そのあたりは彼女も加減してくれているのか、爆風がわたしの髪をなびかせるだけで済みました。

 わたしは足の裏でしっかり地面を捕まえながら、軍隊ガニの目を撃ち抜きます。

僧侶「なんとか、ですね」

勇者「背中は任せて。二人は自分の前だけを」

 そう言いながら勇者さんは自分の眼前の敵も薙ぎ払っていきます。
 怒涛の勢いで切り伏せていく傭兵さんたちを見て、軍隊ガニの大群は叶わないことを悟ったのか急いで退却していきます。そこを追いすがる傭兵さんの姿こそ、追剥そのもの。

 血と脳漿とさまざまな肉片が撒き散らされた街道を、わたしたちは突き進んでいきます。

268:

傭兵「っはっはぁ! いい運動をしたな!」

 傭兵さんは一息つきながら汗と血液を拭いました。とても満足そうな笑顔です。
 きっと「いい運動」の「いい」は、運動自体にかかっているのではなく、「お金が稼げたから」にかかっているに違いありません。

 これだけ暴れればもうわたしたちを襲ってくる命知らずはそうそういないでしょう。それこそ、いつぞやの大天狗クラスでもなければ。

傭兵「結局俺の勝ちだな」

勇者「は? あれはノーゲームだろう」

傭兵「ノーゲームもクソもあるかよ。俺は五十一。お前は四十二。この数が全てだ」

勇者「俺が手足捥いだ奴らを根こそぎぶっ飛ばしたのはどこの誰だ」

傭兵「ちまちまやってるからだろうが。巻き添えのことなんて考えてられるか」

勇者「サポートがなきゃ軍隊ガニも倒せないのか?」

傭兵「ほう、言うじゃねぇか」

勇者「やるか? 買うぞ」

赤毛「ストーップ! ストップです、勇者様!」

僧侶「傭兵さんも煽らないでください!」

269:

 なんだかんだ楽しそうな二人でしたが、流石に止めに入らざるを得ません。
 わたしたちに間に入られようやく事態は沈静化の兆しを見せます。どうやら賭けは保留ということになったようです。男の人ってどうしてこう子供っぽいんでしょうか。

赤毛「どっちも、ガキね……」

 そう言いながらも勇者様を見る赤毛ちゃんの目は変わりません。あれはまさに恋する乙女。

勇者「もう大森林も抜ける。そうしたらボスクゥはもう少しだ。そう考えると元気も湧くね」

赤毛「まだ頑張れますよっ」

勇者「はは。無理したら元も子もないよ。俺たちの目的はまだまだ遠くにあるんだからね」

勇者「僧侶ちゃんも疲れたかい?」

 そう言って爽やかスマイルを向けてきます。
 わたしも旅の最初と比べてだいぶ体力はついたほうだと思いますが、連戦に次ぐ連戦では脚も棒になります。石に腰かけているだけで、じわじわした疲労が脚を起点に上っている感覚があるのです。

傭兵「おい、そろそろ行くぞ」

 そして躊躇なく声をかける傭兵さんでした。
 ちょうどわたしが休まる頃合いを見計らって声をかけてきているのが、なんというか、もやもやします。恥ずかしいというか、癪に障るというか。

270:
勇者「はい。手」

 差し出された手を、少し躊躇して、でも断るのも悪いので握りました。そのまま腕に力が入って立ち上がらせてくれます。

僧侶「……ありがとう、ございます」

勇者「どういたしまして。それにしてもちっちゃい手だね」

 そうでしょうか? 小柄な体格でしょうけど。

赤毛「勇者様、それじゃあ私の手がでかくて骨太みたいじゃないですかぁ」

勇者「いや、それは悪意に満ちてるよ……」

傭兵「お前ら、楽しそうだな」

 そう言って傭兵さんは前を指さしました。
 光が見えます。木漏れ日ではない、横から差し込む陽の光。

 それが大森林の終わりだと気付くのは、一瞬で。

 わたしはつい拳を握りしめていました。

271:

※ ※ ※

 交易都市ボスクゥには領主がいない。ここは交通の要衝であり交易の中心、そして他国との最大の連絡口である。従って、王族貴族派にも州総督派にも縛られない立場が必要となるためだ。
 ボスクゥは商人ギルドの会合によってさまざまな政治的判断が為されている。金のために動く彼らは、この町は、俺の趣味にとても合う。そして同時に苛烈だ。

 金と信頼が何より大事なのは商人も傭兵も同じ。僅かばかり違うのは、商人は物品をやり取りし、傭兵は命をやりとりする。
 全てが道具として扱われるのは非人道的であるが、故に心地よさを感じることができる。道具をうまく使える人間は有能なのだ。そして有能な人間に使われる道具もまた。

 ボスクゥの周囲にはぐるりと城壁がある。いや、ボスクゥは城ではないのだから、城壁と言うのは間違いなのかもしれないが。
 大型の貨物馬車が悠々通行できる、巨大な門扉。そばには衛兵が四人立っている。とはいっても厳格な規制が敷かれているわけではなく、門扉からは人がひっきりなしに出たり入ったりしている。
 商人の町は今日も活気があるようだった。

 城壁越しからでも見える尖塔がいくつもあった。商人は自らの権力を示すため、より高みを目指して館を、店舗を建てる。結果として生まれる競争の結果の林立。
 それを見て僧侶はため息を漏らしていた。わかりやすいやつである。

272:

傭兵「お前らはどこに用事があるんだ?」

勇者「とりあえず斡旋所行って……あぁ、その前に商人ギルドの長に会って、挨拶しなきゃ」

傭兵「勇者サマは大変だねぇ」

勇者「しがらみってやつだね。面倒くさいとは思うけど、仕方がないさ。そっちは?」

傭兵「こっちゃ宿の確保が最優先だ。あとは駐屯所に顔を出してくる」

勇者「あぁ、それも必要だな」

傭兵「同じ宿じゃねぇだろうな」

勇者「だめか?」

傭兵「他にもいっぱいあるだろうが」

勇者「探すの面倒くさいしなぁ」

 俺と勇者が前、僧侶と赤毛が後でボスクゥの街中を歩いていく。
 入って真っ直ぐはメインストリート。荷馬車が往来できる中心部、人が歩く外側部に白線で分けられている。面した店舗は交易都市を象徴するかのように雑多なもので溢れかえっている。
 パンを焼いているいい匂いが鼻孔を突くと思えば、東の国の宝石細工が眼に痛い。その隣では大陸中の果物を台に並べて男が必死に呼びかけており、道路を挟んだ向かい側では骨董品を取り扱っている。

273:

 人の往来も激しい。荷馬車に乗った男。子供の手を引く母親。手をつなぎ、果物を齧る男女。人相の悪い人間もいる。道化師がはずれで大道芸をしていた。
 物や人をごたまぜにして煮詰めた町だ。この都市は国が交じり合っている。よく聞けば、言語は一応俺の国のものに統一されているようだが、訛りの強かったり明らかに不慣れな話者の存在を知ることができた。

 あの小さく強靭な体の壮年男性は北方の民族で、黒い肌は南方の海洋国家から来ている。エルフもいれば、獣耳の生えた亜人もいる。
 まるで別世界だ。

 ここに王国軍が駐留しているのは外交関係の問題があるのではないか、と思った。
 大森林はそのほとんどが我が国の国土に食い込む形になっている。魔王軍とエルフがドンパチを始めれば国に波紋が生まれるのは子供だってわかる。
 だからこその王立軍。この機に乗じた不審な動きがないように、盾としての役割。

勇者「お、ちょうど宿があるな。おい、傭兵。ここにしようぜ」

 見上げた宿は手ごろな様子だった。高級すぎもせず、かといって埃臭さもない。
 悔しいがよいチョイスだ。

 俺が何も言わないのを見て勇者は赤毛と二人で宿屋に入っていく。

274:

僧侶「ご一緒するんですか?」

傭兵「どっちでも、いい、が……お前はどうしたい?」

僧侶「わたしも、どっちでもいいです。でも、もうちょっと赤毛ちゃんとお話はしたいかなって思います」

 俺はため息をついた。仕方がない。僧侶の意向を汲んで、今晩はここに泊まろう。
 宿屋に入れば受付で勇者と赤毛が待っていた。なんというか、こいつらには危機感が足りないと感じる。俺たちが刺客だったらどうするんだ。
 いや、観察眼もまた勇者足りえる素養なのかもしれない。もしくは、人好かれのする見てくれ、雰囲気、その他もろもろとか。
 もしそうだとするなら、なるほど、俺は勇者には向いていないな。

傭兵「どうした。待っててくれなんて言った覚えはないぞ」

赤毛「私もあんたを待つつもりなんてなかったんだけどね。勇者様が……」

勇者「まぁまぁ、赤毛ちゃん。そう言わないで」

僧侶「何かあったんですか?」

勇者「部屋が二つしか空いてないらしい。俺たちは基本的に別部屋だから、二人が泊まれる場所がなくなっちゃうなと思って」

275:

赤毛「……私は別に、いいんですけどね」

勇者「はは。年頃の女の子がそんなこと言っちゃだめだよ」

僧侶「……朴念仁」

 ぼそっと僧侶が呟いた。俺もそうだと思う。
 勇者は、けれどあまりにも鈍感なのか、赤毛の言葉をそういうふうに捉えたわけではないらしかった。ジト目で赤毛が見ていることにも気づいているのかどうか。

傭兵「部屋がいっぱいならしょうがねぇだろ。俺たちは別の宿を探すことにするさ」

勇者「そんな急くなって。俺とお前で一部屋、赤毛ちゃんと僧侶ちゃんで一部屋、こうしないか?」

勇者「魔物を倒して金は稼げたけど、あんまり浪費もできないし。そっちがいいなら問題ないんだが」

 待っていたのはそのためか。
 まぁ男同士、女同士なら問題も起こるまい。僧侶も赤毛と話したいと言っていたし、不都合はなかった。
 俺たちが了承すると早速勇者が手続きに入る。

276:

赤毛「一緒にお泊りなんていつ以来だろうね」

僧侶「研修が最後じゃない?」

赤毛「あぁ、そうかも。北の山に探検にいったんだったよね。なっつかしいなぁ」

 子供らしい会話をしている二人の会話を盗み聞きしていると、勇者がカギを二つ持ってやってきた。子ども組と大人組の部屋は隣接している。都合がいい。
 荷物を部屋において、鍵を受付に預け、流石にこれ以降は一緒に行動できない。手を振って別れた。

赤毛「またねー! 夜、一杯話そー!」

僧侶「わかったー! 旅のお話とか聞かせてねー!」

 勇者が親指を立ててきたので、俺はそれをさかさまにして、地獄へ落ちろとジェスチャーしてやった。

傭兵「楽しそうだったな」

 やっぱり友人と会えるのは嬉しいものなのだろう。

僧侶「えぇ。旧友と会えるのは、懐かしい気持ちになります」

傭兵「旧友がどうとか言える歳じゃねぇだろ」

僧侶「十六だろうが六十だろうが、旧友はいるものですよ。傭兵さんにはそういう人いないんですか?」

 俺は僅かに自分の過去を振り返って、途中で気分が悪くなってきたのでやめた。クソみたいな昔日を振り返ることがどだい辞めておけばよかった話なのだ。
 しかしそのクソみたいな昔日でも俺の土台にはなっている。そう考えれば軽々しく投げ捨てることもできない。

277:

 俺が押し黙ると、僧侶は呆れ顔で溜息をついた。

僧侶「まぁそうですよね。子供のころから守銭奴だったんでしょうし」

 とても失礼な考えをされているのはわかった。
 俺は腹立ちまぎれに僧侶の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱してやる。

僧侶「あっ、あっ、なにすんですか! なにしてくれてんですか!」

 抵抗に遭うもそもそもの腕力が違いすぎる。為す術もなくとっちらかる僧侶の髪の毛。

僧侶「……傭兵さんって結構子供っぽいとこありますよね」

傭兵「童心を忘れてないだけだ」

 僧侶からの視線が痛い。

僧侶「で」

 と話題を切り替えてきた。俺もそれに乗って頷く。

傭兵「そうだな、駐屯所に向かうぞ。……と、いいたいとこだが」

僧侶「まぁ、そうですねぇ」

 照れくさそうに頬を掻きながら僧侶。

 同時に、俺たちの腹が盛大に鳴る。周囲の人間が思わずこちらを振り向くほどに豪快なそれだった。

278:

 ここ数日大森林の中を歩きどおしで、食べた物と言えば木の実や果実、野生動物の肉、でなければ携帯食糧だけ。最後に「料理」を食べたのはゴロンでだが、立地的にその内容は十分とは言えなかった。
 そう、俺たちは今、非常に欲している。貪欲に求めている。食事を。料理を。飢餓状態の脳髄を満たしてくれる七色の何かを。

傭兵「例えば、肉」

僧侶「にく……」

傭兵「例えば、野菜」

僧侶「やさい……」

 じゅるり、と僧侶が唾をすすった。はしたないなどとはこの際言っていられまい。

僧侶「あ、傭兵さん! あそこ! あそこからいい匂いがします!」

 僧侶が指さしたのは宿屋と酒場と食事処がいっしょくたになっている店だ。一階が大きなラウンジとなっていて、いくつも並んだ丸テーブルに屈強な男や羽振りのよさそうな肥満体がそれぞれ陣取っている。
 そして恐らく二階が宿。活気のよい町では、このような形態の店は珍しくない。

 少し値は張りそうな気はしたが、道中の魔物を倒したことで懐は温かいし、なによりこの空腹を中途半端な料理でごまかしたくないというのも事実。
 僧侶を見れば同じ気持ちだったらしく、唇を引き締めて頷いた。

279:

 扉を押すと鈴の涼しい音色が俺たちを出迎えてくれる。そして、店員の明るい「いらっしゃいませ」を受けながら、俺たちは空いている丸テーブルについた。
 なかなかに店は盛況で、これは料理にも期待できそうだ。金のあるところには人も来る。当然有能な料理人だっているだろう。

僧侶「わっ、傭兵さん! エンダナゴ牛のステーキですよ! 北の海で取れたサーモンも!」

傭兵「お、酒も多いな。清酒、ワイン、エール……」

僧侶「お酒はだめです」

 釘を刺されてしまった。

店員「お待たせしました、お水とおしぼりでございます」

 女性が流れるようにその二つをおいていく。水は僅かに酸味が効いていた。レモン水なのかもしれない。

店員「ご注文はお決まりですか――あ?」

 いや、まだだと返そうとしたところで、変な語尾が店員についた。
 お盆が音を立てて床に落ち、金属の音色を響かせる。
 からん、からんと回るお盆。その動きが止まったときには、あれほど盛況だった店内が、いつの間にか静まり返っていた。

280:

傭兵「……?」

 店員と入れ替わるように、剣をぶら下げ、鎧に身を包んだ男たちがテーブルからこっちへとやってくる。

 四人。恐らく、立ち居振る舞いを見るに同業者。しかも、元ごろつきと言った風貌だ。
 店の用心棒? いや、それにしては格好が粗雑。それに俺たちがタブーを犯したとも思えない。どういうことだろう。

ごろつき「おい、てめぇ、傭兵だな」

傭兵「……何か用か」

 ごろつきが剣を抜いた瞬間に僧侶の首根っこを掴み、離脱する。

 丸テーブルが叩き割られた。水が飛び散り、店内が騒ぎに包まれる。
 他の客の悲鳴や歓声。

 宙に浮いた備えつけのフォークを投げ、一人の目を潰す。絶叫に背を向けて逃げ出した。

傭兵「走れ!」

僧侶「ど、どうなってるんですか!」

傭兵「知るか! 俺もなにがなんだかわかんねぇ!」

ごろつき「追え! 絶対に逃がすんじゃねぇぞ!」

 怒声が響いた。扉を蹴り破るつもりで往来へ飛び出し、人ごみの中へと紛れ込む。
 周囲の好奇の視線が痛い。目立つのはまずい。早めにどこか、路地裏などへ身を潜めなければ。

 十字路があった。一旦右に行き、そう見せかけてから直進する。人を跳ね除けながら、一本ずれた裏通りへと身をすべり込ませる。
 薬や日用品などの雑貨、露天商などが営んでいた。彼らは騒ぎなど眼中にないのか、客の応対を変わらずにしていたり、眠っているのか微動だにしない者もいる。

281:

傭兵「一応……撒けたか」

僧侶「です、ね。でも、一体、どうして」

傭兵「わからん。が、嫌な感じはするな」

僧侶「……はい」

 確実あのごろつきたちは俺たちを狙ってきていた。それは、絡んできた、とは一線を画す.。俺たちを俺たちと認識した上でのあの暴挙。しかしこっちには心当たりがない。
 いや……、ないわけではない、が。

傭兵「くそっ。最悪だな」

僧侶「思い当たりましたか」

 俺は逡巡する。言っていいものか迷ったからだ。
 しかし言わなければならないだろう。俺はこいつをラブレザッハまでつれていかなければいけない。そのための障害はいくらでも取り除くが、障害の存在は伝えなければ。

傭兵「州総督だ」

僧侶「え?」

傭兵「州総督が俺たちに……いや、俺に、だな。指名手配をかけてきている」

282:

僧侶「それって……賞金首、ってことですか?」

 犯罪を行った者、脱走者、その他さまざまな理由から人探しは出ている。理由が様々なら金額もピンキリで、専門に狙う賞金首狩りすらいる始末だ。先ほどのごろつきも、そちら寄りの傭兵稼業なのだろう。
 掃除婦だ。あいつはバックトラックで逃げた。そうして、カミオインダストリーに――ひいては州総督に、ことの一部始終を伝えたに違いない。そして州総督は俺に対して手を回した。報復として。

 実を言えば、採石場を強襲した時点でこのような未来な想定できていた。とはいえ、手配書を用いて俺の首を刈りに来るのは、少しばかりことを大袈裟にしすぎなのではないか。それとも、あの採石場はそれほど重要だったか。

 いや、であるのならば、もっとレベルの高い護衛をつければよかった。序列十四位の掃除婦ではなく、一桁台の化け物どもを。採石場と研究所を捨てる判断も速かった。
 牙を剥く者は徹底的に――州総督の対応からはそのような意図を読み取ることができる。

 像は蟻の一噛みすら気にはしない。が、気付きはするし、案外鬱陶しいものだ。だから、二度とこんなことをしないように、見せしめの意も兼ねて、圧死させようとしている。

傭兵「恐らくはな。探せば手配書も見つかるだろ」

僧侶「そんな……」

 大々的にはおおっぴらになってないはずだ。つまり、俺が大犯罪者として広く周知せしめられている、というわけではない。匿名の誰かが俺に賞金を懸け、それにつられたやつらが俺を狙っている程度の事態。
 ただ、恐らくは莫大な額が動いている。

283:

 笑えない。金を第一に考え、金を仰ぎ、金のためにやってきたこの俺が、あろうことか金に狙われているだなんて。

 州総督の管理下にないボスクゥで寧ろよかった、僥倖であったと考えるべきかもしれない。これが他の都市であれば、町でおっかけ回されるどころか番兵に門前払い、そして手錠をかけられる。
 向かって来た人間は切り倒せばいいが、結局問題の根幹を潰したことにはならない。州総督に話をつけるしか方法はないが、その術と言えば、ボスクゥの採石場を脅迫のタネにする程度だ。

僧侶「……っ」

 見れば僧侶の手が震えていた。あれだけのことを仕出かして無罪放免とは本人も思っていなかったろうが、現実の危機に直面するのとはわけが違う。

傭兵「安心しろ。お前は何としてでもラブレザッハまで送り届けてやる」

僧侶「でも、傭兵さん……」

傭兵「手配を受けてるのは俺だけだ。お前が捕まることはねぇよ」

 それはあてずっぽうだったが、間違っているとは思わなかった。あの店でごろつきは俺だけを標的にしていたし、採石場襲撃の実行犯も、掃除婦と戦ったのも全部俺。僧侶が狙われる理由はない。

284:

僧侶「でも、傭兵さんは大丈夫なんですか?」

 俺はそこで呆気にとられた。なんだ。こいつ、自分の心配じゃなくて、俺の心配してんのか?
 笑って見せる。何言ってんだ、というふうに。

傭兵「そんじょそこらのチンピラに負けたりやしねぇよ」

 悪名高いにはそれなりの理由があるもんでな。

傭兵「ただ、とりあえずこのままじゃあ不味い。俺と一緒にいるところをお前は目撃された。いつ標的に加わるかもわかんねぇ。一旦別行動で、あとでまた落ち合おう」

僧侶「……はい」

 気丈に頷く。いい顔だ。実にいい顔をしている。

傭兵「日の入りまでに駐屯所だ。もともとは自警団のもの。そして現在は王国軍がいる。どっちも州総督の下から離れてるから、それほどひどいことにはならないだろう」

傭兵「前に大森林で遭った二人、兵士を頼りにする。お前はこの階級章を持って、すぐに向かえ。俺も別ルートで行く。話をすればわかってくれるはずだ」

僧侶「傭兵さんもちゃんと来てくださいね」

傭兵「おう。幻影呪文もあるしな」

 僧侶は一瞬不安そうな顔をしたが、「早く行け、時間がない」と無理やり押し出す。
 途中でこちらを一瞥し、大通りに戻って人ごみの中へと消えて行った。

285:

 俺は壁に背中を預け、空を見上げて嘆息した。

傭兵「はぁああああ……」

 頭が痛い。

 決して自分は頭が悪い方ではないという自負はある。地頭と、経験で培ったもの両方が、備わっている。ただし頭脳は、戦力の決定的な差を埋めるには、少々力不足だ。
 僧侶にはああ言ったが、決して大丈夫な状況ではない。ボスクゥだけならいくらでも逃げおおせよう。しかし、大陸北側に存在し、かつ州総督の息のかかった都市全てが範域に含まれるとなると……。

 絶望的だ。

 しかも僧侶が目指すのはあろうことか州総督の御膝元であるラブレザッハ。衛兵の目を掻い潜り、誰とも問題を起こさず、街中を歩くのはおおよそ不可能と言っていい。
 それでも諦めるという選択肢はない。皆無だ。金こそ受け取っていないが、俺は傭兵で、僧侶は俺の雇い主。引き受けた以上は遂行してみせよう。それに、あの紋章も、喉から手が出るほど欲しい。

 だからこそ考えなければならない。戦力の決定的な差は埋められなくとも、抜け道を発見することはできる。残された手段はそれだけなのだ。

286:

勇者「お前何やらかしたんだよ」

赤毛「斡旋所にでかでかと貼ってあったわよ、手配書」

 路地の向こうから二人がやってきた。とんだ偶然もあったものだ。
 呆れ顔の二人は、けれど真面目な顔である。どんなに和やかでも勇者とその一行には違いない。気を抜いていい場面と抜いてはいけない場面、それぞれ理解している。
 あの眼は人を斬る眼だ。もし俺が悪と断じたなら、己の障害と断じたなら、一切合財の躊躇なく斬り捨てることのできる眼だ。

傭兵「……州総督に、喧嘩売った」

 短く説明してやった瞬間、勇者と赤毛が破顔一笑、手を叩きながら大笑いする。
 赤毛に至っては腹を抱えながらこっちを指さしてやがった。

勇者「ぶっはははははっ! マジで? マジかよ」

赤毛「あははは! あんた最高! すっげぇばか! あははは!」

 二人はひとしきり笑った後、眼尻に浮かんだ涙を拭いて、「頑張れよ」と俺の前を通り過ぎていく。恐らくこれから商工会議所の長へと挨拶をしてくるのだろう。

勇者「それじゃあ今度こそ、本当にさよならだ。もう少し話してたかったけど、しょうがない。さっさとこの町から逃げることをお勧めしとくぜ」

287:

傭兵「手伝うつもりはないか。金なら弾むぞ」

 果たしてそれをジョークと受け取ったのだろうか。勇者は不思議な顔をして「くっ」と短く、だが確かに笑いをかみ殺す。

勇者「悪ィな、金よりも大事なものがあるんでね」

傭兵「世界平和、とか?」

勇者「わかってるじゃないか。取り急ぎは兵器の工場でもぶっ潰そうかなって」

傭兵「……」

赤毛「あんたのことは好きじゃないけど、ま、無事を祈ってるわ。ラブレザッハまではね。ちゃんと僧侶のことを届けてあげてよ」

 言われなくとも、それは完遂しよう。
 僧侶はラブレザッハまで連れて行く。俺は俺の目的を遂げる。そのためならどんな謗りだって受けるし、どんな障害だって打ち砕く心積もりはある。
 誰が相手だって負けたりするか。

勇者「じゃあ、俺たちは行くよ。死ぬなよ」

傭兵「……サンキュー」

288:

 俺は二人を見送って、思考する。

傭兵「……」

 思考する。思考する。思考する。

 様々な角度から論理を組み立て、可能性を測り、どうすればいいのかを考える。
 俺の目的。僧侶の目的。金。そして、ラブレザッハ。補給なしで辿り着くのは不可能。しかし軽々に町へと足を踏み入れられない。元凶を断つことも叶わない。ならば。

傭兵「……」

 これしかない、か。

 単純な話だ。何よりも単純な話。癌に侵された部分は切除するように、邪魔な存在は切り殺すように、今回もただ、そうというだけ。そこに障害はあっても問題はなく、神が許さずとも金が許してくれる。
 
 一石二鳥、一挙両得。もともと傭兵家業など汚れ役だ。下種扱いも慣れている。落ちに落ちたり最下層、これ以上堕落の余地が残されていないなら、いっぺんの躊躇も存在しない。

 しない、はず。

 ただひとつの心残りすらも強靭な精神力で押しつぶす。心残りはすなわちエゴだ。そしてエゴなど許されない。
 あいつに嫌われたくないなどとこの際言っていられない。 

 ひとまずの算段はついた。俺は幻影を二つほど生み出し、散開させる。そして俺自身も走り出した。

289:

* * *

 特に問題もなく駐屯所に辿り着くことができました。世界は変わらず活況の様相を呈していて、まるでわたしと傭兵さんのことなど、誰も気に留めていないかのようです。
 もしそうであるのならばどれだけよかったことでしょう。

 わたしは信念に則った行動をしました。採石場はこの世の汚濁です。不善を正すことに躊躇は有りません。容赦もいりません。勿論賛否両論あるでしょうが、わたしはわたしを貫きました。

 その結果がこれです。州総督に狙われる――いえ、それは傭兵さんだけですけれど。
 だからこそ苛むという側面もあるのかもしれません。わたしの尻拭いを傭兵さんが行った結果、全ての罪を彼にひっかぶせることになったのですから。
 傭兵さんはきっと「それも俺の仕事だ」と嘯くのでしょう。彼は強情な人です。良くも悪くも、自らの信念に従って行動しています。それを動かすのは生半なことではありません。

 が、わたしだって譲れない部分はあります。自らの激情に身を委ねておきながら、その始末をつけさせてもらえないというのは、どうにもすとんと落ちません。

 わたしは掲示板に張ってあった手配書へと目をやります。

 傭兵さんの顔写真と本名が乗っていて、見つけ次第カミオインダストリー本社、または支社まで連れてきてほしいとの旨が記載されています。そして注記として「生死問わず」――デッドオアアライブ。
 傭兵さんは強者です。そう簡単に負けるとは思いません。それは奇しくも彼自身が言ったことです。ただ、掃除婦さんの時を思い出せばわかるように、彼とて全能ではない。数の前には負けることだって有り得ます。

290:

 わたしはきゅっと手を握り締めました。

 駐屯所の中は兵士さんたちがひっきりなしに動いています。入ってすぐにロビーのような広いスペースがあり、受付の女性に階級章を見せ、この方にお会いしたいのですがと声をかけました。女性は少々お待ちくださいと後ろに引っ込んで、それっきり。
 手持無沙汰はよくありません。思考がどんどん回って、どつぼに嵌っていく錯覚にすら陥るからです。

 傭兵さんの身の安全だとか。
 これからの旅のことだとか。

 そもそもラブレザッハにたどり着けるのか、とか。

 あー、もう!

 頭をぐしゃぐしゃにかき乱しました。周囲の人が横目で伺ってきますがそんなこたぁ知ったこっちゃありません。余裕がないのです。

隊長「お待たせ。悪いね、だいぶ待ったろう?」

 声の主はいつぞやの隊長さんでした。大森林で会ったときよりも幾分か血色がよさそうに見えます。それは気のせいではないはずです。

僧侶「いえ、そんなことは……」

291:

兵士「おーい、隊長、ついに女の子にまで手を出すようになったか!」

兵士「自警団に見つからないようにしろよ!」

兵士「お嬢ちゃんも、危なくなったらすぐに大声を出すんだぞ!」

隊長「うるせぇ! お前らはいいから警邏していろ!」

 通りがかった兵士さんたちと隊長さんは軽口を叩きあいます。
 ばつが悪そうに頭を掻いて、隊長さんがわたしを案内しました。ここは騒がしい、適当な部屋で話そう、と。

僧侶「傭兵さんを待たないといけないんです」

 その名前を聞いて隊長さんは顔を顰めました。

隊長「あー、それのことなんだが、な」

僧侶「手配書が出回っているんですよね? 知ってます。ついさっき、襲われたばかりですから」

隊長「……そっか。とりあえず、傭兵がついたらこっちに案内するように言っておくから」

292:

隊長「あいつは……いや、君たちは何を仕出かしたんだ」

 周囲を窺いながらもわたしは隊長さんに事の次第を説明しました。採石の町ゴロンと、そこであった汚濁のこと。カミオインダストリー。州総督の関係。全てを洗いざらい。
 だんだんと隊長さんの顔色が曇っていきます。真剣みを帯びた表情……正義の顔です。

隊長「そういうことか。とりあえず、ひとまずは安心していい。ここは王国軍。州総督の管理下にも指揮下にもない。下手な真似はできないよ」

隊長「ただ、内部に州総督派の人間がいないとも限らないからね」

 はい、それは予想できています。

隊長「俺たちはきみらに助けられた。だから、その恩に報いるために、なんでもしよう」

僧侶「その申し出はありがたいのですが」

隊長「すぐに発つかい?」

僧侶「それもあるかもしれません。道案内は傭兵さんに一任することにしているのです。あの人が発つと言えば発ちますし、あの人があなたがたに願い事をするのなら、それはわたしは止められる立場にないのです」

隊長「……変わったな」

 目を丸くしている隊長さんでした。
 わたしはそれを素直に受け取るのも恥ずかしく、視線を逸らします。

隊長「前会ったときは、もっとこう、冷戦状態みたいな気がしたんだけど」

293:

僧侶「今も冷戦状態ですよ。わたしとあの人は、どうしたって分かり合えませんから」

隊長「……そうか。まぁ、いい。少しゆっくりしていくといい。疲れてるだろう」

僧侶「……そうですね。お言葉に甘えます」

隊長「なに、気にしないでくれ。命を救ってもらったんだ。これくらい当然さ」

僧侶「……隊長さんたちはどうしてボスクゥへ?」

隊長「軍規に差し障る。大したことは説明できないけど、いいか」

僧侶「はい」

隊長「一つは不安の解消だな。ここは大森林にほど近い。魔王軍とエルフの戦争はまだ当分終わらないだろう。市民や商人から不安の声があがっている。ここは経済的にも外交的にも重要な都市だからね、支障が出ても困る」

隊長「もう一つは……これは内密にしてほしいんだけど」

隊長「大天狗が目撃された」

 大天狗。
 魔王軍四天王――第六天魔王・大天狗。
 またの名を役小角。

 エルフさんの仇。
 傭兵さんが敵わなかった唯一の魔物。

294:

僧侶「そ、れは……」

隊長「勿論大森林の内部で、だ。ただ、場所が不味い。瘴気の限界域ぎりぎりで、ボスクゥに近い位置。魔物は瘴気の発生していないところでは生きていけないが、四天王レベルともなると、それもどうかはわからない」

僧侶「ボスクゥまで襲ってくる、と?」

隊長「確証はない。が、そのために俺たちは呼ばれたんだ。人間が唯一四天王に勝ちうる手段があるとするなら、それは個々の力じゃあなく、組織の力だ」

 確かに、あのような規格外の神通力を擁する魔物に、個人が勝てるはずもありません。恐らく、勇者様であったとしても。

僧侶「わたしも手伝います」

 考えるより先に出てしまっていました。
 大天狗は恐ろしい魔物です。どんな生物があれに勝てましょうか。それは、間近で見て実感したわたしだからこそ言えます。 けれど、同時に、実感したからこそあんなものを野放しにしておくわけにはいかないのです。

 隊長さんは言いました。アレに唯一勝ちうるのは組織の力であると。個の力ではなく、集団の力であると。ならばわたしもその集団に加わりたいのです。それで一人でも死者を減らせるのならば……。

隊長「ははは。これは俺たちの仕事だよ」

僧侶「わたしは本気で言っているのです」

295:

隊長「だからこそ、さ。きみが本気で俺たちや、他の皆のことを考えてるってことくらい、眼を見ればわかる」

隊長「だからこそ、だめなんだ」

僧侶「……なんでですか」

隊長「仕事ってのには矜持が必要だ。守る――」

傭兵「おい、ここでいいのか」

 扉を開けて傭兵さんがやってきました。顔には玉のような汗が滲んでいて、息も上がっています。超絶体力の傭兵さんがです。これ以上珍しいこともありません。
 どこに敵がいるかもわからないというのにふてぶてしい態度。獲物を探す鋭い目。わたしを一瞥してぷいっと隊長さんを向く傭兵さんからは、道中襲われたようには見えませんでした。

隊長「……」

傭兵「どうした」

隊長「それは俺が訊きたい」

僧侶「……?」

 よくわからないやりとりが繰り広げられています。すっかり落ちこぼれてしまいました。

296:

 隊長さんは息をひとつついて何かを諦めたようです。

隊長「お前は、なんていうか、いいタイミングでやってくるよな」

 話の腰を折られた隊長さんはけれど少し楽しそうでもありました。
 反対に傭兵さんは言葉の意図がわからないようで、僅かに眉根を寄せます。悪い人相がこれ以上悪くなったところで、という感じですが。

隊長「とにかく、お疲れ様。ここはそれなりに安心できる。いきなりとっつかまったりはしないはずだ」

傭兵「そりゃいいな。街中を歩くのも落ち着かなくて困ってた。はっ、冗談じゃねぇよ、本当に」

隊長「俺にできることならなんでもするぞ」

傭兵「ま、命の恩人だからな」

隊長「そのとおりだ。俺の階級は二尉。下士官だが、仕官候補だから、それなりに融通は利く」

 二尉、ですか。記憶が確かなら、下士官は一尉まで。三佐以上が仕官で、中隊ないしは大隊以上を率いられる権限をもつとか、なんとか。

傭兵「所属部隊はなんだ。それによって手伝わせることも変わる」

 利用する気満々の傭兵さんでした。まぁそうでなければわざわざ駐屯所まではきません。すたこらさっさと逃げ出す暇を捨ててまで、ここまでやってきた理由――やってこねばならなかった理由が傭兵さんにはあるのです。

297:

隊長「所属は補給部隊だな。兵站もするが、どちらかといえば人がメインだ」

僧侶「人、ですか」

隊長「あぁ。今は特に森林周辺に部隊を散らせてるからな。どのあたりにどれくらいの規模の部隊を手配し、欠員が出たから補充して、ということを担ってる」

傭兵「そこまでするようなことが?」

 あぁ、そうでした。傭兵さんは事態を理解していないのでした。
 隊長さんが傭兵さんに説明します。住民の不安と大天狗の出没、その両方に対処するために一団があてがわれたことを。

 傭兵さんは渋い顔をしていましたが、中途中途で視線を上下へと移動させ、何かを考えているようでした。しかしわたしには、彼の遠謀深慮を窺い知ることなどできません。

傭兵「いや、なんでもない。それで、お前に頼みごとがひとつ、あるんだが」

隊長「かまわねぇぞ。存分に利用してくれ」

 と、そのとき。

 駐屯所内に警報が響きました。

 うーうーと鳴るサイレン。赤いランプが部屋の隅でめまぐるしく点灯し、訓練の賜物なのでしょう、椅子を吹き飛ばす勢いで隊長さんと――さすがです、傭兵さんも立ち上がっていました。
 わたしはその光景をぼんやりと眺めているばかりで、椅子が倒れた音で初めて緊急事態とわかりました。

298:

傭兵「俺も手伝おう」

 眼光鋭く言う傭兵さん。完全に仕事モードに入っています。
 ……ですが。

僧侶「?」

 なんなのでしょう。いつもの金に目がくらんだ瞳の輝きというか、どぶ川の照り返しというか、暗渠に垣間見える僅かな煌きというか、とにかくそんなどす黒さが彼から消えていました。
 それは信じられないことでした。彼が彼でい続ける限り、お金と縁が切れるはずもないのです。だのに、今の彼はまるで全うな人間の色をしています。そんな彼の姿は出会ってからの数週間で初めてで。

僧侶「どういうことなんですか?」

傭兵「何がだ」

僧侶「目が」

傭兵「目ェ?」

 言うべきか言うまいか逡巡しましたが、ええい、ままよと口にします。

僧侶「まともな人のそれです」

 傭兵さんは一瞬驚きに目を見開いて、少しの間を置いた後、自らの頬や目や眉をぺたぺた触り始めました。鏡があれば覗きこんでいたでしょう。それほど面白い行為で、面白い顔を、彼はしていました。
 やがて何かを自覚したふうな笑みを作って、一言。

傭兵「俺も焼きが回ったんだよ」

 ?

299:

 迂遠な言い回しです。いや、わたしに伝わるように言ったのではないのでしょうから、迂遠というのは実のところ間違った表現です。

隊長「悪いが、時間がない」

傭兵「あぁ悪いな。俺も向かう」

隊長「すまんな、いろいろ」

傭兵「気にすんな、こっちにとっても渡りに船だ」

隊長「……? よくわかんねぇが、まぁ、あれだ」

隊長「お前は、なんていうか、本当いいタイミングでやってくるよなぁ!」

僧侶「ちょっと待ってください! いったい何が起こったんですか!?」

 部屋を走り去っていく二人に追いすがります。もしやこの二人、わたしをほっぽってどっか行っちゃうつもりじゃないでしょうね!?
 勘弁してください。そんなの蚊帳の外じゃないですか!

傭兵「はぁ? お前、まだ理解してなかったのかよ」

隊長「そう言ってやるな。――僧侶ちゃん、今しがた話したばかりだろう」

 ということは、まさか。
 顔が引きつります。

300:

傭兵「そのまさかだ。大天狗がついに現れやがった」

傭兵「リベンジマッチと行こうじゃねぇか」

僧侶「あ、あんなのに、勝てるわけが――!」

隊長「勝てるんだよ。勝つんだ、俺たちは」

僧侶「でも!」

隊長「勝つんだ。絶対に」

僧侶「……傭兵、さんは」

傭兵「ん? 勝てるに決まってんだろ。じゃなきゃわざわざ出向くもんかよ」

 嘗て一度ぼろ負けし敗走した人間の台詞とは思えませんでした。
 しかしこの二人が言うのですから、何も無策とは思えません。わたしのような素人が考えるよりもずっと深い策が――もしくは逆に単純な真理が存在しているのでしょう。

傭兵「俺はどこへ行けばいい? あとこいつは」

 こいつ、でわたしを指差します。

隊長「お前は第十四歩兵部隊に合流してくれ。そこにあいつ……お前が助けたもう一人がいる。行けばわかるだろう」

隊長「僧侶ちゃんに関しては、どうするかな。前線に立たせたくない。後方支援。だと、医療チームになるか」

傭兵「あ、こいつ治癒魔法使えないから」

隊長「え? 僧侶なのに?」

 ばつが悪いです。こればっかりはどうしようもないことなのですが。

301:

傭兵「けど、後方支援がいいのは同意だな。兵站のほうに回せるか? 肉体労働でいい」

僧侶「ちょっと、勝手に決めないでくださいよ!」

 わたしだって前線に立ってですね。

 却下と言外に告げるチョップがわたしの額に直撃しました。走っている最中にやめてください、すっ転びでもしたらどう責任とってくれるんですか。

隊長「兵站経路や倉庫の場所は機密だからな、部外者に軽々しく明かすわけにも……」

傭兵「なら、警邏だ。住民の避難と誘導」

隊長「だな」

 勝手にわたしの眼前で、わたしの意見など丸無視で、わたしの処遇が進んでいきます。何か一言くらい言ってやりたいのですが、この二人に対して発言できることなど皆無です。こっちはずぶの素人なのですから。
 意地を張っても仕方がありません。足手まといになっても困ります。分不相応を邁進しても、誰も得をしません。

隊長「よし、じゃあ僧侶ちゃん、駐屯所の門扉の前に向かってくれ。そこに女兵士がいるはずだから、そいつが自警団と王国軍の折衝を担ってる。俺の名前を出せば何とかなる」

僧侶「わかりました!」

隊長「俺と傭兵はこのまま裏手に回って部隊ごとに行動だ。大丈夫か」

傭兵「おう」

僧侶「傭兵さん! 死なないでくださいね!」

傭兵「何を言ってんだ、てめぇは」

302:

 まるで馬鹿なことを言っている自覚はあります。金に命を懸けている傭兵さんはわたしをラブレザッハに連れて行くまで死にません。理屈がおかしいことは重々承知、その上で彼を、なんだかんだ信じているのです。
 王家の紋章が刻まれた銀貨はいまだわたしの手の内にあります。値札すらつけられないくらいの代物ですが、わたしには無用の長物。そして傭兵さんの目的でもあります。

 傭兵さんは死にません。死んでもらっては困るのです。
 だから信じる。これほど単純で利己的なものもそうそうないでしょう。

 ついに通路が二手に分かれました。傭兵さんたちは直進、わたしは右に曲がらなければなりません。怯えはなく、あるのはただの使命感のみ。ここで人を救わねばという。
 警邏? 住民の避難と誘導? けっこうじゃあないですか。大天狗の討伐は傭兵さんたちに任せ、わたしはわたしの成すべきことを成しましょう。

 駐屯所はごった返していました。それも当然です。いまや警戒レベルはSランク。王国軍がボスクゥへ呼ばれた本懐を遂げる間近なのです、寧ろ昂ぶって然るべき。
 小銃のぶつかり合う音、点呼の声、サイレン。軍靴が硬質な床を叩いて空気を震わせます。わたしは人の波に乗り、時には逆行し、門扉へとたどり着きました。

女兵士「あんたは……えーと?」

 隊長さんが言ったとおり、女兵士さんが帳簿を持って点呼を取っている最中でした。眼前にずらりと人、人、人。自警団から警邏隊まで、その数はざっと見積もっても七十はいるでしょう。
 それぞれ一列ないしは二列にならび、各列のリーダーらしき人がひっきりなしに状況を女兵士さんに伝えていきます。そして彼女はそれを受け、何かを記帳する。その繰り返し。

僧侶「わ、わたしは、隊長さんから指示を受けてやってきました、僧侶といいます!」

303:

 思わず敬礼してしまいそうになるくらいの雰囲気を女兵士さんはもっていました。男女差別といわれても困りますが、女だてらに荒くれをまとめているわけではないようです。

 わたしの言葉を受けて女兵士さんは合点がいったらしく、じゃああっち、と最右列をさしました。多少奇異の視線を受けながらも、足早に右列後方を目指します。

女兵士「よし! じゃあ揃ったところから順次出発! 対象の出現場所は東南東一キロの地点! 避難場所は都市の西側に集中させるように!」

 はい! と威勢のいいこえが響き渡ります。わたしもあわせて叫んでみましたが、あまりの人の数にかき消されるばかり。とてもじゃないですが響いたとは思えません。
 そうこうしているうちに、わたしの列も立ち上がり、出発を始めました。周囲の人の人相や服装を見ている限り、わたしが配属されたのは自警団、それも互助会に近い列のようでした。屈強な男性ももちろんいますが、それ以外にも恰幅のいい女性や若い女性、壮年男性などもいます。

 突如として起こった慌しい動きに、ボスクゥの人々も不安がっています。それでも決して店をたたもうとしないのは、やはり交易都市、商人の根性が為せる業なのでしょうか。
 現時点で何が起こっているのか都市の人々は知らないはずです。そして、恐らく知らされることもない。ボスクゥが危険であると噂が流れれば、齎される損失は他の都市の比ではありません。

 人の口に戸は立てられませんが、それでも口の数を減らすことはできます。だからこそ可及的速やかな避難が要求されている。
 お金目的が絡んでいるというのは少しばかり気に食わないですが、人々の安全もまた重要。そして前者は擲てても、後者を擲てないのはわたしのサガ。

 さぁ、いっちょ華麗な避難誘導をご覧に入れましょうか!

304:



――勇者様と赤毛ちゃんの死体をわたしが発見するまで、時間はそうかかりませんでした。



313:

※ ※ ※

 大天狗の出現場所は東南東一キロの地点。順序だてられた陣形、そして行動によって、兵士達は皆そつなく移動を開始する。無論俺もそれに続いた。
 俺が叩き込まれたのは自警団寄りのグループで、それを率いるのがかつて助けた若い方の兵士。彼は俺を見てすぐに敬礼しようとしたが、周囲の手前ぐっと堪え、ぺこりとお辞儀するだけに留めた。懸命な判断だ。

 自警団であるがゆえ、当然直接大天狗と戦うことは想定されていない。俺達に任せられたのは後方支援で、前衛と後衛の緩衝役。それでも重要な仕事だ。お世辞等ではなく、そう思う。
 けれどそんなもので燻っているわけにいかないのもまた事実である。兵士からも隊長からも許可は得ている。頃合いを見計らって離脱し、大天狗に牙を剥くつもりだった。

 全てが俺の想定通りだった。驕るつもりはないが、俺の手の平の上でことが進む。そういうふうに動いたからというのもないわけではない。しかし、究極のところ、運がよいのだろう。
 こんな俺でも神様は照覧してくれているというわけだ。

 笑えない。
 笑えないのに笑いが込み上げて来る。

 こんな俺でも、俺なのに、神様に愛されるだなんて。

314:

 遥か前方で轟音が響いた。魔法によるものと、火薬によるもの、その両方。ついに交戦が始まったのだ。
 と理解すると同時に俺は走り出していた。くすねてきた大業物をしっかり握りしめ、ちんたらした動きの自警団を追い抜いて、草原をひた走る。

 人が吹き飛んできた。
 それを反射的に受け止める。やはり人だ。内臓がひしゃげているのか口から大量の血を流し、目もあらぬ方向を見ている。すでに絶命していた。

 生きていればどうにかする手もあったが、死んでいるのならば肉塊に過ぎない。放り投げ、一秒も惜しいとばかりに強く地面を踏み締めた。

 目標はまっすぐに大天狗。
 俺だけではない。何十何百という兵士たちも今、大天狗へと踊りかかる。

 大天狗は腕を組み、高下駄を履いて、俺たちを睥睨している。その様子には少しの焦りも見られない。虚勢ではないのだ。生まれながらの強者である大天狗だからこその自然体。

 鬨の声とともに雪崩れ込む。一番槍は最右翼。槍を持った一団が突っ込んだ。
 穂先が軋む。大天狗の前には不可視の障壁が張られている。それに激突した数十の槍と拮抗し、吶喊の威力を大幅に殺いでいた。それどころか槍が勢いに耐え切れず、たわみ、折れようとまでしている。

315:

 すかさず詠唱が入った。儀仗兵たちの凛と通る声での詠唱。

儀仗兵「日の色。万物の癒し。激情の揺らめき。揺籃。胎動。生れ落ちる一瞬の輝き。即ち火の色」

儀仗兵「ベギラゴン!」

 大天狗を囲むように地面に光線が走り、大きな魔方陣を形作る。そしてその陣内を埋め尽くすように、閃光と激しい爆炎が迸った。
 儀仗兵数十人分の火炎。まともに食らえば炭化は免れない。
 が、しかし。

 風が吹いた。

 風は魔法人の中心から巻き上がり、うねって、炎を絡めとっていく。炎の竜巻の中心は当然大天狗で、彼は息苦しそうにはしているものの、その山伏姿のどこにも乱れはない。
 背後から歩兵部隊。得物はばらばらだが殺意は一様。兜の下から覗く眼光は、大天狗しか見ていない。

 火炎竜巻が彼らをなぎ倒していく。その中から四人、仲間の背中を踏み台にして飛び出した兵士たちがいた。大上段から振りかぶって剣を叩きつける。
 障壁を張りながらも、ここで初めて大天狗は攻撃を避けた。半月型の軌跡が俺の目にまぶしく映る。

316:

 追撃は止まない。

 足払い。と同時に下段から上段への切り上げ。回り込んでの斬戟。大天狗の放つ真空波を剣の腹で防ぎ、その間に仲間が挟撃。だがそれも避けられる。
 強く地を蹴りこんでの切迫。速度は十分。背後には三人が控えている。速度をずらして追撃の二人と、左から回り込む一人。当然儀仗兵たちも追加の詠唱に入っている。
 剣戟。勢いの乗ったそれは障壁で防がれる。先頭の兵士はあっさり剣を捨て、さらに一歩を踏み込んだ。両手を伸ばして頭から障壁に突っ込んでいけば、感電の音と、肉の焦げる悪臭が撒き散らされる。

 抜け切ったあたりで兵士がくずおれた。手もつかず、顔面から地面に倒れる。
 命を賭してまで開けた障壁の隙間を後続の二人が突破。同時に空間中に魔方陣が展開され、空気の温度が急激に低下する。水分の凍結する音と喉を凍らせる吸気。世界に極めて二次元的な瑕疵が走った。

 氷山が展開。澄んだ甲高い音とともに障害などを全て無視して、対象の命を閉じ込めようと暴れた。
 大天狗も今度こそは扇で防ぐことは叶わなかったと見える。大きく地面に風を当てての緊急離脱。一本足の高下駄でもバランスを崩すことなく着地し、その長い鼻を撫でた。

317:

 背後に兵士。
 白刃が煌いてまっすぐに大天狗の首を狙うが、軌跡は扇で停止する。人外の膂力に勝てるはずもない。吹き飛ばされるより先に兵士は自ら後ろへ飛んだ。
 そこへ火炎弾。

 扇が起こした風で進路を変えられ、歩兵の集団に直撃する。しかし大半はそれより先に散開を済ませており、被害は微々たるものだ。円状にとった兵士の数は全部で二十人近く。そして俺を含めた歩兵部隊も続々と集結しつつある。
 圧倒的な数の暴力。これこそが、人間が魔族に勝利する唯一の方法。

 踏みとどまっている時間も気合をこめる時間も惜しい。指揮はなくとも統率の取れた行動で、一糸乱れぬ踏み込みを見せる。槍、剣、棍棒――さまざまな武器を持ち、一気に距離をつめた。

大天狗「ぬるい!」

 大天狗が拍手を打った。

 突如として大天狗を中心とした力場が発生し、急激な膨張を見せる。力場自体は障壁と同様全くの不可視であったが、薙ぎ倒される草木や武器を見れば、その速度、巨大さ、威力は判断できた。
 二十余名の兵士たちが軒並み吹き飛ばされ、あるものは木々に叩きつけられ、またあるものは地面を転がっていく。

 九字を切られる。碁盤の目状に切られた印の、各交差点に火が灯り、大天狗の周囲を回転する。

儀仗兵「防壁展開!」

大天狗「ぬるいぞぉおおおおおおおっ!」

318:

 指向性を持った爆裂が相対する全ての存在を根こそぎ消し飛ばした。地面は抉れ、焦土と化し、倒れていた兵士の姿は焼け跡と同一して発見できない。

 それでもこちらは負けていない。

 心は折れず、ゆえに足が止まることはなく。
 恐怖は確かにあった。こんな埒外な存在を相手にしてなお揺るがない心など俺は持っていない。しかし、だからこそ、というのもまたあった。埒外な存在「だからこそ」、俺たちはここでこいつを殺しきるのだ。
 殺しきろうという高揚が齎されるのだ。

 先にたどり着いた十名ほどが地を蹴った。捌かれ、打ち落とされ、障壁で防がれる。勢いに任せて裏へと回った数名が即座に反転、剣をしっかり握りなおし、吶喊。
 大天狗の反応は即座。最小限の動きで障壁を展開、剣を絡めとる。
 兵士たちの反応もまた即座だった。得物が使い物にならなくなったことを悟ると、瞬時に手を話して退却。同時に儀仗兵が剣目掛けて落雷を打ち込み、そこを中継点として大天狗を狙った。

 しかし激しい音を立てて落雷が消失する――おそらく、障壁。

 そこでようやく俺は大天狗へと躍りかかった!

傭兵「うぉおおおおおおっ!」

 大天狗の障壁さえも真一文字に切り捨てて、俺の刃はようやく初めて衣服の一部を切り飛ばした。本体には届いていないが、大天狗は驚きの表情で俺を見て、にやりと笑う。

大天狗「ほっほぉ! 貴様はいつかの童! 奇遇じゃのぉ!」

 くっちゃべってる暇など与えない。更なる踏み込みにあわせて儀仗兵の詠唱が入り、俺の背後に兵士たちが集った。

319:

兵士「傭兵! 金にがめつい貴様がどうしている!」

 見たこともないやつから罵られるのも最早慣れっこだ。

傭兵「いいから続け」

 障壁の展開――切捨て、開けた道へと火炎弾が着弾。火柱をあたり一面に振りまきながら濛々と煙を巻き上げる。
 果たして目隠しになるだろうか? いや、期待しないほうがいい。大天狗の神通力をもってすれば千里眼などお茶の子さいさいだろう。
 それでもかまわない。俺たちにできることは前に進むことだけなのだから。

 真空波が飛んでくる。肩が切り裂かれるが薄皮一枚。背後で数名の悲鳴が聞こえるが、無視だ。気にするやつもおるまい。

 煙を抜ける。大天狗は泰然と立っている。

大天狗「ふっ!」

 扇を一振りすれば岩石の霰が降ってきた。儀仗兵が瞬時に詠唱、水を放って押し流す。
 一旦身を屈めて水流の下を潜り抜けた。上体を起こす反動とともにより強く地面を踏みしめ、跳ぶ。

320:

 重力からの開放。

 筋肉をねじ切らん勢いで体をひねり、剣の柄をきつく握った。俺と大天狗の距離はきっちり二メートル。
 今度こそはその肉を。

 腕が掴まれる。

傭兵「な」

大天狗「ぬるいぬるいぬるいぞぉおおおおおおっ!」

大天狗「その程度かよっ、人間!」

 ぎりり、と音がするほどに硬くきつく握り締められた大天狗の拳へ自然と視線が向いてしまう。
内臓と骨格全てを抉り出す、人外の拳が俺の意識を刈り取っていく。

傭兵「――っ!」

 嘔吐――それより先に意識の明滅。落ち込んでいく意識を呼び戻すのは激痛と生への執着。しかし生命の脈動を感じた瞬間に最も死へ接近する。
 こみ上げてくるのは血なのか、吐瀉物なのか、それとも悲鳴なのか判断がつかない。

321:

 後頭部と頚椎が同時に接地。激しい衝撃とともにバウンドし、掴まるものがない俺は、そのまま激しく転がっていく。口の中に入った砂が寧ろ心地いい。気付け薬にすらなって、まだ自分が戦えることを知る。
 視界の端で、兵士たちが大天狗へ飛び掛っている光景が、僅かにひっかかる。

兵士「絶対に距離を置くな! 常に一太刀浴びせられる距離を保て!」

 そうだ。そうしなければまずい。距離をとればまた九字を切られる。いくら大天狗といえども、無詠唱、無準備で使える神通力にも限界がある。
 大天狗は兵士たちの波状攻撃を小刻みに障壁を展開させることで防ぎきっている。遊んでいるのだ、恐らく。魔王軍四天王がいくら無詠唱でもあの程度の障壁しか展開させられないわけでもあるまい。

儀仗兵「用意ッ! てぇー!」

 号令とともに兵士たちが後退、入れ替わるように火炎弾が計五発、重なり合うように大天狗を襲う。四発目でついに障壁を砕き、五発目が大天狗へと直撃する。
 その好機を見逃すはずはない。畳み掛けるように儀仗兵が氷結魔法を詠唱、兵士たちも切りかかる。

 大天狗はバランスを崩しはしたがけれど無傷。礫弾を放射状に放って牽制するが、それらは最前線の兵士の四肢をこそ捥ぐけれど、戦意を捥ぐには至らない。死をも恐れぬ肉壁と、それを楯に突っ込んでくる後衛たちの勢いは、決して衰えない。
 流石にまずいと判断したのか、大天狗はそれでも楽しそうに笑いながら後退。がそこを狙って氷結呪文が放たれる。背後に氷の壁、そして足元を固定しようとトラップも仕掛けられている。

322:

大天狗「させんぞ」

 大天狗が九字を切った。

傭兵「させねぇよっ!」

 痺れる四肢を無理やり駆動させ、そこへと割り込む。

 動くたびに内臓がかき回され、視界も時たま揺れる。
 軽症だ。

 展開される障壁ごと九字の印を切断した。印はその輝きを失って宙に霧散。
 大天狗の背後には氷の壁と氷結の罠。こちらは俺と、同列上に大量の兵士が犇いている。刃が届かないとは思わなかった。

 俺の一閃は捌かれる。返す刀を用意する間に、二の太刀、三の太刀が兵士たちから放たれた。
 大天狗はまず二の太刀を拳で打ち砕き、三の太刀を左腕で掴むと、兵士の腕を掴んで己の下へと引き寄せた。そして次々向かってくる兵士たちの大群へ、その兵士をまるで弾丸のように射出、巻き添えにして根こそぎ吹き飛ばす。

兵士「怯むなぁっ! 押せ! 押せ! 押すんだっ!」

「ヤー!」

 裂帛の気合と混じった応答が響く。

323:

 速度では当然大天狗が勝る。打ち砕き投げ捨てても次々と向かってくる兵士たち相手に大回転、紙一重で回避し腹を打ち、真空波を飛ばす。

 落雷がそれを打ち消した。

 大天狗の眼前に揃った十名の兵士。どれもこの瞬間を待っていた者たち。
 砂埃の中を突っ切って、彼らは剣を振るった。

大天狗「侮られたものじゃ」

 大天狗が高下駄を踏み鳴らす。

 神通力によって顕現したのは大地そのもの。大地が隆起し、それは全てを防ぐ壁となり、同時に全てを打ち落とす腕となって、十人をまとめて叩き落した。
 大地の前では人間など木の葉にも等しい。人間が作った刃などは言うまでもなく。

傭兵「うぉおおおおおおおおっ!」

 だから俺はその上を超えてゆく。
 大地は踏みしめるものだ。蹴り飛ばすものだ。だから、大地が俺の行く手を阻むなんてことは、到底許容できることではない。
 隆起したそれに足をかけ、岩石の腕を駆け上り、すれ違いざま刃で切り裂いて、大上段に構えた。

324:

大天狗「臨兵闘者皆陳列在前」

 大天狗がにやりと笑った。
 すでに九字は切られている!

 視界が白ばむ。印が地面に転写され、それが発光しているのだった。

 印を切るか!? それとも光を切るか!? ――だめだ、時間がない。もし間に合ったとて、大天狗は確実に俺へと突っ込んでくる!
 それでも、

傭兵「切るしかねぇかっ!」

 莫大な魔力の奔流が俺を、俺の命を飲み込もうとしてくる。力任せにその光を切り裂くも、切った傍から光は押し寄せ、とどまるところを知らない。
 剣で魔力の直撃をこそ緩和しているが、落下する先に大天狗が拳を構えている。

 ここが限界。

傭兵「いまだ!」

 合図とともに背後から兵士たちが飛び出してくる。俺と同様に隆起を駆け上がった彼らは、俺の後ろに陣取ることで、印の直撃を避けたのだ。

325:

兵士「てめぇはどうして切れるんだよ! 無茶苦茶なやつだ!」

 印を結んだばかりの大天狗には背後の兵士たちを見抜く余裕はない。この奇策で殺せればよし、殺せずともせめて一太刀浴びせることができれば――

大天狗「ようやく出番じゃ」

 めぎ、と空間が歪んだ。
 俺たちが数メートルを落下するよりも早く、地面に二つの魔方陣が生まれ、そこから何かが現れる。
 腕だった。筋骨隆々の、黒々とした腕が、魔方陣から現れている。人間の腕の太さとは段違いである。それを基準とするならば、恐らく背丈も何もかも、二倍から三倍近くはあるだろう。

 何よりその腕が放つ圧力だけでも、肌を粟立たせる。

大天狗「前鬼、後鬼。たらふく食え」

 腕は地面に手をついて、力を籠め、いまだ魔方陣の中に埋まっている体を引きずり出そうとしている。そのたびに体にかかる圧力は大きさを増し、それだけで体が千切れ飛んでしまいそうだった。
 儀仗兵たちが援護として火炎弾を、落雷を、氷塊をぶつけてくるも、全て大天狗の障壁の前では無力だった。

兵士「全軍! 突っ込めぇえええええっ!」

「ヤー!」

 号令がかかる。捨て身の号令が。

 それは愚かな将の判断ではなかった。自殺覚悟の特攻でもなかった。唯一勝機を繋ぐとしたら、まだ辛うじて「地獄が始まっていない」今しかないのだ。
 

326:

「く、くくく、うははははははっ!」

 獰猛な笑い声があたり一面に響いた。

 魔方陣が空中に展開する。莫大な数――おおよそ五十。だが俺たちに気にしている暇はない。自由落下に任せて、一秒にも満たない時間後にやってくる衝突の時に備え、意識を集中させる。

 主の危機を察知したのか前鬼と後鬼の腕が慌しく動く。兵士たちが何人か吹き飛ばされ肉塊と化すが、一瞬の接触の際に剣を突き立てることだけは怠らない。そうして僅かに動きの鈍ったところを、俺はすかさず切り裂いた。
 前鬼の手、親指の付け根から中指までをごっそりと切り落とす。瘴気が舞い散る中息を止めて大天狗へついに切りかかる。

 同時に魔方陣から顕現するは鏃。黄色く煌く光の矢。

「戦争だ、戦争だ、戦争だ!」

「これは私の戦争だ! 逃がすもんか、渡すもんか、機会を手放してなるもんか!」

327:

 鏃が一斉射出され、前鬼後鬼の腕、魔方陣、大天狗、彼を囲んでいた全ての隆起、氷の壁、一切合財全てをまとめて破壊する。
 巻き添えを食って兵士が二桁単位で引きちぎられる。血の噴霧。砂埃。魔力片が瘴気と混じって呼吸をするだけでも頭がくらくらしそうだ。

 その中にあってようやく俺と、生き残った兵士の刃は大天狗へと届く。

 反射的に生み出された障壁を俺が切り払えば、左右から飛び出した二人の兵士の刃が、それぞれ腕と腹部に切り傷を入れることに成功する。羽を羽ばたかせて飛翔しようとした大天狗だが、それを光の矢の掃射が抑え付けていた。

傭兵「てめぇちったぁ手加減しろよ!」

エルフ「手加減して勝てる相手だって!? うははっ! 随分余裕だねぇ!」

 戦争気違いは随分と楽しそうに言ってのけるのだった。
 体の至る所を欠損させてなお。

328:

 エルフの特徴である長い耳は両方失われ、頬を真っ赤に染めている。金髪も血で赤く染まり、毛先で金色が残っているところなどない。
 四肢は健在だが切り刻まれ焼かれて見るも無残。辛うじて機能こそ残しているようだが、動かすたびに軋み、激痛が走っていることは想像に難くないだろう。自動回復も止まっている。簡単な止血魔法だけが貼り付けられていた。
 韋駄天を齎していた靴は焼失し、裸足で飛び回っているため足の裏が切れてこちらも血まみれ。地を蹴り、樹上で飛び跳ねるたびに赤いスタンプが押されていく。

 それでも展開される魔方陣。射出される光の矢。
 同じくらいに輝く瞳。

兵士「あ、あれは、一体なんなんだっ!?」

 動揺ももっともだった。そうしている間にも前鬼後鬼は復活しようとしているし、大天狗も以前のような余裕はない。それはつまり本気のやつを相手取らなければいけないということで。

傭兵「エルフだよ、見ればわかんだろうが! あいつは仲間だ! けど、見境がねぇ! 自分の命は自分で守れ!」

329:

 兵士はそれで納得したようだった。理解できなくとも状況を飲み込めるのは、それだけで才能である。喚かないだけ僧侶などより随分都合がいい。

兵士「全員構え! 光の矢に注意を払いながら、目標は変わらず大天狗! 撃墜用意!」

兵士「儀仗兵は戦力分散! 四分の三を召喚に向けて防ぎ続けろ! 残りは障壁の破壊と退路を塞ぐのに徹し、直接は狙わなくてもよい!」

「ヤー!」

大天狗「しつこいやつだの!」

エルフ「うひゃははははっ! よく言われるよぉー!」

傭兵「まさか、てめぇ、大天狗がここに来たのって!」

エルフ「かもしんない! 気にしたこたないもの!」

 頭がおかしいとしか思えなかった。エルフは俺たちを逃がしてから約一週間、大天狗と戦い続けていたということになる。そして軍の動きと時系列から見て、こいつは森の中にいた大天狗をボスクゥの近くまで追い詰めてしまったのだ。
 なんて面倒なことをしてくれたんだてめぇは!

330:

大天狗「ふんっ!」

 剣をへし折り正拳突きで顔面を吹き飛ばす大天狗。しかしそうしている間にも他の兵士が怯むことなく向かってくる。その兵士を倒しても、今度は背後から。その次は左。右。前。背後。
 飛び上がる動作は全て事前に察知され、エルフによって打ち落とされる。障壁で防ぐもその隙を見逃さず儀仗兵たちが魔法を挟み、満足に距離を取らせてもらえない。

 扇を一閃させ周囲に竜巻を展開、その勢いでもって兵士たちを吹き飛ばす大天狗。生まれた距離は数メートルだが、九字を切るには十分だろう。
 だが、そうはさせない。

 俺とエルフがすでに接敵を済ませている。エルフは魔法で竜巻を打ち消し、俺は剣で切り裂いて、それを潰しにかかる。

 大天狗の速度は圧倒的だ。障壁こそ切り裂けるが、攻撃自体は足と目で殆ど回避される。反撃を食らわないのはエルフの援護があるからで、その点では一進一退の攻防とも言えた。
 横一閃はバックステップで回避。扇を薙いでの真空波は光の矢が打ち落とし、そよ風の中を俺は突っ切って飛び掛る。突きを半身で避けられ腕をとられそうになるが、反射的に蹴りを入れて防いだ。

331:

 礫弾が放たれる。全てを回避することは叶わない。体をなるべき縮こませ、ぎりぎりまでひきつけて切り抜けた。
 エルフへ大天狗が向かうのを確認し、最短距離を往く。一足飛びで駆け抜けると同時に、空中で切る前動作は済ませていた。伸ばされた左腕を切り落とすつもりで振るうが、右腕で弾かれる。
 二歩分詰める。大地の隆起でバランスを崩したが、光の矢の援護で追撃はない。

 開いた距離をそのままにしておくのは圧倒的に不利。光の矢で釘付けにする。そして俺は突っ込んだ。
 障壁と礫弾で光の矢を相殺し続ける大天狗は俺をその赤ら顔でぎょろりとにらみつけ、扇で一際大きく扇ぎ、俺を突風で吹き飛ばした。

 エルフが俺を受け止めてくれる。彼女は決して俺へと視線を向けず、犬歯をむき出しにしながら大天狗へと飛び掛っていった。無論俺も後を追う。

エルフ「懐かしいねぇ傭兵くん! 昔はよく三人で暴れ狂ったものだっけ!」

エルフ「戦争三昧――そう! 文字通りの戦争三昧で! うひっ! くくっ、うひひひゃはははっ!」

エルフ「楽しいよぉ! 涙が出てきちゃう! 嬉しくって濡れちゃうよぉっ!」

332:

大天狗「なんじゃこいつ! 頭がおかしいんじゃあないか!」

 それにはおおむね同意する。

 放たれた光の矢を大天狗はまとめて握り潰し、純粋な魔力の塊をこちらに向けて投擲してくる。どういう理屈なのか全くわからないが、通った道が跡形もなく消失するだけの密度を誇る、埒外に相応しい振る舞いだった。
 それを受け止める勇気はない。傍を通っただけで皮膚がめくれ上がる感覚を堪え、怯え竦む本能を組み敷いて、勇気と度胸の一歩。

 障壁の展開にあわせて儀仗兵から援護が入る。しかし人数が減った攻撃程度では障壁は小揺るぎもしない。だが、兵士たちが復帰する時間を稼ぐ程度には役に立った。

兵士「突撃ィイイイイイイッ!」

 全兵力をかけた最後の突撃。裂帛の気合とともに兵士が全員まっすぐに、剣を握って大天狗へと向かう。

大天狗「させるかぁあああああああっ!」

333:

 大天狗の全身から魔力の光が迸る。人によってはそれだけで気を失いそうになるほど強力な波動だ。しかし覚悟を決めた兵士たちにはまるで通用しない。
 みしり、と空気が、大地が、震える。

儀仗兵「も、保ちません! 生まれる!」

 儀仗兵たちの楔すら突き破り、魔方陣が強く、強く、輝き出す。急激に前鬼と後鬼の腕が激しさを増し、大きく空へと伸び、地面を叩いた。
 大地に立つもの全てが大きく歪み、吹き飛ぶ。それは俺も、エルフも、兵士たちも例外ではない。

 まさに鬼だった。太い四肢。黒い肌。瞳はなく、ただ目の位置に白い穴が開いているだけ。吐息は高濃度の瘴気。生半な物理や魔法は遮断できる力場が体表面に薄く張り巡らされている。
 それが、二体。

  単純な戦闘力では大天狗には及ばないだろう。だが、現状はまずい。俺たちが大天狗相手に全滅を免れているのはエルフの助力と数の利があるからで、ここに鬼が二体加わるとなれば、戦力の統一は図れない。
 戦線の崩壊。それは即ち敗北を意味する。

前鬼「――――――ッ!」
後鬼「――――――ッ!」

 形容しがたい咆哮が鬼の口から迸った。

334:

 誰しもが呆然として目の前の状況を眺めている。
 心が折れた音が聞こえた。

「うひゃはははははははははっ!」

 そして、折れた部分を補修するかのように、壊れた笑いが響く。

傭兵「エルフ……」

エルフ「やっぱり懐かしいねぇ傭兵くん! あの日を思い出す! あのときを思い出すよ!」

エルフ「四天王に挑んでボロ負けして、魔王に出会うことすらできず、命からがら逃げ出して、いやぁ惨めだった! 虫を生のまま食べて、木の根を齧って、泥水を啜って、やっと繋いだこの命!」

エルフ「あのころはまだ傭兵くんも傭兵じゃなかったっけ! どうして傭兵なんかに身を窶したんだい!? やっぱり、強大すぎる敵を前にして、思うところがあったのかな!」

 ぱき、ぱき。エルフが指の骨を鳴らすと、半球のドーム上に、魔方陣が展開される。その中心には前鬼、後鬼、そして大天狗がいる。

エルフ「そこんとこ、生き残ったら教えてほしいんだ! ねぇ――」

335:



エルフ「勇者くん!」



336:

 エルフは跳んだ。目から、耳から、鼻から血を流し、魔力が枯渇していることは明白。一週間も戦い続けて今の今までこうならなかったほうが寧ろ奇跡だったのだ。

 懐かしい、とエルフは言った。懐かしいものか。魔王に挑もうと乗り込んで、四天王にぶちのめされ、小便を漏らしながら逃げ帰ったあの数日を、懐かしいなどとはどうしても思えなかった。
 この状況はあの日の再現だ。四天王。強大すぎる敵。エルフ一人で勝てるはずはない。俺が一人で勝てるはずもない。俺たち二人で勝てるはずもない。

 俺はあの日、あの時、わかったのだ。敵として戦える相手の限界を。
 そして、限界以上の相手と戦うには、それなりの戦い方があるのだということを。

 俺は泣いていた。無力感をもう二度と味わいたくはなかった。端的に言えば、エルフに死んでほしくなどなかった。無駄死にだけはごめんだった。

 だから俺は勇者をやめたというのに。

 個人の力で世界を救うなんてできっこないのだから。

337:

傭兵「全軍、突撃だ」

傭兵「無駄死になんかさせない」

傭兵「大天狗は今、ここで、殺しきる」

 返事を聞かずに俺は走り出した。
 光の矢の掃射。秒間三十発の速射砲。撃てば撃つだけ前鬼を、後鬼を、大天狗を、確かに削っていく。エルフの命も。

 しかし鬼たちはそれをものともせずにエルフを取り囲む。豪腕が四本。いくらエルフが高速で移動できるからといっても、傷ついたその体で避け続けることなどどだい不可能。
 エルフを掴んだ後鬼の腕を切り落とす。衝撃でエルフが倒れこみ、そこへ前鬼が襲い掛かった。

 助けにいこうとした俺を真空波が襲う。左腕に深い裂傷が入り、血が足元を濡らす。
 動かないわけではないが……パフォーマンスの低下は著しい。

大天狗「……そうか、思い出したぞ。お前五年前の……」

傭兵「いまさらかよ」

大天狗「わしの真名を知っているのも当然か! 人間の執念、天晴れじゃ!」

大天狗「だがそれもここまで」

338:

 大天狗の指が、縦、横、縦、横と動いていく。一本一本、確かめるように、力を籠めるように、ゆっくりと。
 九字。

 交点に炎が灯り、地面に転写される。嘗て見た二回の印、どちらとも異なる。そしてどちらとも似ている。

 交点の大地が隆起した。

大天狗「噴火しろ。煉獄火炎」

「ぜんぐぅうううううん! とぉつげぇえええええきっ!」

大天狗「――な」

 地面が揺れた。

 それは大地の隆起が齎した地震ではない。
 整列した兵士たちが一斉に踏み出した一歩が、全てを抑え付け、大地を揺らしたのである。

 九字の印にかぶさる様に魔方陣が展開、即座に地面が凍結する。

儀仗兵「持って五秒です!」

兵士「じゅうぶん!」

 生き残っている兵士は五十名強。五体満足はそのうち三十名弱。全員が得物を持ち、大天狗へと突っ込んでくる。
 大天狗は驚き信じられないという顔でその光景を見ていた。それもそうだ。やつにとって、この攻撃は捨て身どころか自殺以外の何ものにも映っていないだろう。いや、俺にだってそう見える。
 だけど、俺はどこかで望んでいた。四天王に勝てる術があるのなら、それは、これしかない。

339:

大天狗「前鬼! 後鬼!」

エルフ「これでこそ戦争! 私が望んだ、傭兵くんが望んだ! うひゃはははははひゃひゃ!」

 光の矢を連打。兵士たちの群れへと向かった前鬼をエルフは決して逃がさない。自分と戦争をするのだ、と彼女は強制する。口から血をぶちまけながら。
 撃つ、撃つ、撃つ。前鬼の豪腕を避けながら、防ぎながら、もろに喰らいながら、それでも決して攻撃の手を緩めることはない。
 左足が捥げても矢を左足代わりにし、持ち前の機動力が半減しても木々を飛び回り、一撃必殺、前鬼の頭を狙い撃ち。

 前鬼はそれを左腕で防御。突き刺さった矢を逆に投擲する。それでエルフの右腕が弾け飛んだが、彼女は一顧だにしない。呪文の詠唱を続けて魔方陣を追加で展開、射出する。
 左腕に光の矢を大量に突き刺した前鬼の動きもついに鈍っていく。治癒能力より鏃の驟雨のほうが圧倒的に早かった。

 反対に後鬼は俺が引き受ける。見るべきは両腕。少しでも掠れば即ち死。振りかぶりを回避し、切り裂きながら腕を駆け上がる。
 撃墜をワンテンポ早く読んで離脱、地面の破壊を伴う振り下ろしの圏内から距離を置き、小さく傷をつけながら後鬼の周囲を旋回、意識をひきつける。

340:

 真空波を放つ大天狗。しかし兵士たちの先頭を走るのは攻撃を捨て、防御に特化させた兵士だ。死んだ仲間の鎧をこれでもかと身に着けた彼らは、例え息絶えてもその足を止めることはないと思われるほど気迫に満ちている。
 二発目で先頭の兵士がくぐもった声を上げてぐらついた。そのまま前のめりに倒れこみ、予め仕込んであった爆弾とともに自爆、障壁を粉々に砕く。

「うぉおおおおおおおおおおっ!」

 兵士たちは止まらない。仲間の死が彼らを後押しする。速度は落ちるどころか増すばかり。

大天狗「天晴れ! まこと、天晴れ!」

 大天狗は引きつった赤ら顔で叫んだ。転写された九字の印が輝きを増し、押さえ込んでいた魔方陣を上回る。

大天狗「煉獄火炎!」

儀仗兵「フバーハ!」

儀仗兵「マヒャド!」

 超高温度の炎が、空気の幕も、降りしきる氷塊も、全てを消失させてゆく。一気に解けた水分が膨れ上がり、濃密な水蒸気となる。

341:

 剣が、剣が、剣が、剣が、剣が、ついに大天狗の制空圏へ侵入する。

 突き、薙ぎ、振り下ろし――大天狗は退くのではなく突っ込んだ。まるでそれが四天王、魔王の眷属、魔族の矜持であるかのように。
 剣を折り、投げつけ、兵士の顔面を抉る。死体を引っつかんで投擲、それを避けた兵士の攻撃を扇で受け止めカウンター一発で命を奪う。
 掴まれた腕を逆に掴み返して地面に叩きつけ、接敵を許せば風で吹き飛ばす。それでも兵士たちは次から次へと重なりあい、押し寄せてくる。

 背後からの一撃が大天狗の羽を切り裂いた。深くはないが、生まれた一瞬の隙を見逃す素人はこの場にはいない。そちらへ向いた一瞬の意識の死角を衝いた兵士の攻撃が、更なる傷を大天狗につけていく。
 礫弾が二人の兵士の命を奪う。次いで大地の隆起で尖った岩石を召喚、突っ込んできた兵士たちを根こそぎ串刺しにする。

 勢いは止まない。死体を踏みつけ、足場にし、飛び掛ってくるのだ。

傭兵「死ねぇええええええ!」

 後鬼の腕を蹴って反動をつけた俺は、神速で大天狗へと切りかかる。
 しかし大天狗の反応もまた神速。片腕を犠牲にしても、と真空波を生み出しながら、交錯の中で俺の命を奪いに来る。
 
 真空波が直撃した俺の姿が一瞬にして掻き消えた。

342:

大天狗「げ、ん――!」

 この人数を相手にして、流石に判別する余裕はなかっただろうさ!

傭兵「後鬼の相手で精一杯だっつーの……」

 殺意に反応し大天狗は振り向く。しかし間に合わない。障壁をいくら展開しても、最早おっつかないほどの数の兵士が、射程距離内に侵入していた。

大天狗「爆裂しろぉおおおおおおっ!」

 大天狗の前方が爆裂する。
 ほぼ同時に、数多の剣が大天狗を貫いた。

 腕に一本。腹部に二本。胸に一本。

大天狗「まさ、か、な……」

 ごふ、と大天狗が血を吐いた。口の周りは本来の赤みよりも黒ずんだ赤で汚れている。

 至近距離で放たれた爆裂の被害は甚大。しかし、十数名がゆっくりと、剣を支えにして立ち上がった。

 前鬼と後鬼が消滅する。最早召喚を維持できないほどに大天狗も消耗しているのだ。
 この好機を見逃すわけには行かない。俺はなんとか剣を握って向き直ろうとしても、体が言うことを利かない。重力が強すぎる。太ももから下の感覚がなく、気づけば膝を突いていた。

343:

大天狗「天晴れ……天晴れ……」

 片方の羽だけを羽ばたかせ、扇を一振りすると、大天狗の姿は風に紛れて消えていった。逃がしたのではない。やつも逃げざるを得なかったのだ。

兵士「……やった、のか?」

 勝ちではないが負けでもない。それを「やった」と表現できるかは、難しい。四天王を退けたという時点で十分偉業ではあったが、ここでやつを倒しきれなかったのは、正直悔しいものがあった。

兵士「傭兵、お前、生きてんのか……」

 名も知らぬ兵士が倒れ付したまま聞いてきた。俺は返事する体力もなかったので、親指を立てるだけで返事としてみる。

エルフ「よう、へい、くん……? 元気……?」

 これで元気だったら人間じゃねぇな。それか、お前の目が腐ってるか。

エルフ「そんなこと、言わない、でよ。もう、目が……さ」

 見えない、か。
 魔力の枯渇か、失血が原因か……両方のあわせ技だろうな、きっと。それでも満足そうに見えるのは不思議なことだ。

エルフ「不思議、か、な? じゃない、よ」

エルフ「やっぱ、り……きみと、組んで、よかった」

 さいですか。

エルフ「ん。……ばいばい」

 最後に俺へと手を伸ばし、それを俺がとるより先に、エルフの体から力が抜ける。
 なんだか途轍もなく大事なものが喪失した感覚があった。別種の大事なものが去来した感覚も、また。
 それでも涙は流れない。エルフの死は、間違っても無駄死にではないと思ったから。

 それとも、それもまたおためごかしだろうか? 自分の気を楽にするだけの言い訳にすぎないだろうか?

 苛む思考は自然とシャットダウンされる。意識が端からゆっくりと黒く塗りつぶされていく。大丈夫、これは死ではない。そう確信できるから、俺はその暗黒に身を委ねた。

349:

* * *

 ベッドの上で傭兵さんが眠っています。すやすやと、その穏やかな顔だけを知っていれば、随分と印象も違うのでしょうが……。

隊長「僧侶ちゃん」

僧侶「ちょっとだけ、あとちょっとだけ、待ってください」

 傍らの隊長さんにお願いしました。忙しい時間を使ってまでここにきてくださっているのです。申し訳ないとは思うのですが、わたしにだって、どうしても譲れないものはあります。

隊長「……わかった。出発は明け方だから、今晩は待てる。けど、あんまり遅いと、紛れ込ませるのも大変になる。なるべく早く来て欲しいかな」

僧侶「わかりました」

 そういうと隊長さんは静かに部屋を後にします。
 現在、宿屋の二階、傭兵さんと勇者様の部屋です。……勇者様はもう、この世にはいませんが。

僧侶「傭兵さん、傭兵さん」

 眠ったままの傭兵さんに声をかけます。

 伝聞ですが、聞きました。大天狗との戦い。エルフさんの乱入。多数の死者。前鬼と後鬼。そして、勇者と呼ばれたということも
 わからないことだらけです。あなたは結局、わたしにたいして、殆ど自分のことを喋ってくれませんでした。わたしはあなたの本名すら知らないのです。

350:

 自分のことを喋らないのは、それはもちろんわたしだってそうかもしれません。だからお互い様といえばお互い様です。けど、あなたの行動は、思考は、わたしには遠すぎるのです。わたしの数段上を行き過ぎていて、遥か彼方を見据えすぎていて。
 理解できない。それは、怖い。

 ねぇ、傭兵さん。

僧侶「なんで二人を殺したんですか?」

傭兵「……」

 目が合いました。

僧侶「……」

傭兵「……」

僧侶「……おはようございます」

傭兵「……おはよう」

僧侶「聞こえちゃいました?」

傭兵「聞こえちゃったな」

 そんな言い方をするものですから、なんだか面白くって、噴出しそうになりました。
 に、似合わない!

351:

僧侶「……」

傭兵「……」

僧侶「……で」

傭兵「……おう」

 いろいろと、準備とか空気とか、覚悟してたものが崩れた――ずれた気がしますけど、それでも。

僧侶「なんで二人を殺したんですか?」

傭兵「お前、隊長から聞いたか?」

僧侶「え?」

傭兵「隊長から聞いたか、って聞いてるんだよ」

 質問に質問で返されました。とはいえ意味はわかります。
 はぐらかされた感じがとってもしますが、ここは一応従っておくことにします。

僧侶「……はい、聞きました」

僧侶「人員補充に紛れてラブレザッハに行く、と」

 そうです。避難誘導を済ませたわたしに、隊長さんはそう言ったのです。傭兵さんからの言伝だと断って。

352:

傭兵「出発はいつだ。俺にかまってる暇なんてねぇだろ」

僧侶「明朝といってました。まだ時間はあります。……いろいろ、話せるくらいには」

傭兵「いろいろ、か」

僧侶「はい。いろいろ、です」

傭兵「……この結末は、見えてた」

僧侶「結末?」

傭兵「あんだけやらかしてなんともないとは思ってなかった。こんな迅速に、しかも金をかけてくるのは予想外だったけどな」

僧侶「……」

傭兵「だから、まぁ、なんだ。その……ボスクゥに来た時点で、決まってた。というより、このために来たんだ。俺の仕事を終わらせるために」

僧侶「終わり、なんですか」

傭兵「あぁそうだ。全部終わりだ!」

 傭兵さんは上体を起こして大きく伸びをし、そのままベッドに倒れこみなおしました。

傭兵「俺の仕事はお前をラブレザッハまで連れて行くことだ。そのお膳立てはした。これ以上俺にできることは、なーい!」

353:

僧侶「……でも」

傭兵「でもじゃねぇよ。お前はラブレザッハまで行きたい。俺は連れて行く代わりに報酬をもらう。それだけだ。それこそが互恵関係だ」

傭兵「軍隊についていけば間違いない。こんな守銭奴の下種い傭兵家業よりゃよっぽど信用できるってもんだ。違うか?」

僧侶「ちが、います」

 力なくとも首を振ることができました。
 傭兵さんのことがわからなくとも、傭兵さんにわからせることができずとも、それだけはできます。だってわたしは彼に命を預けたのです。後にも先にも、命を預けたのは傭兵さん、あなたきりなのです。

僧侶「前にも言ったじゃないですか。傭兵さん。わたしは、あなたを信頼してるんです」

傭兵「……馬鹿だな」

 はい。馬鹿なんです。
 どうしようもないほどに、馬鹿で、取り返しがつかないほどに、愚かで。

傭兵「俺はお前の足手まといになる。俺と一緒にいるだけで、お前は州総督から狙われる。だから、お前は俺を切れ」

僧侶「……傭兵さんは、大丈夫なんですか?」

傭兵「はっ!」

 傭兵さんは目に見えてわたしを嘲りました。

傭兵「お前が俺の心配か。いいご身分だな、いつからそんなに偉くなったよ」

傭兵「ラブレザッハに行きたいんだろうが!」

傭兵「いくら金を払っても、体売ったって、行きたい理由があるんだろうが!」

355:

 わたしの胸倉を掴んできます。鼻と鼻がぶつかるほどの距離に、傭兵さんの顔がありました。
 存外綺麗な瞳が見つめてきたので、わたしも見つめ返します。

僧侶「あります」

 曲がらないものがあるとすれば、それはわたしのあなたへの信頼と、唯一無二の目的くらい。
 もちろん、前者を口に出すのは憚られますが。……結構口に出しちゃってる気も、しますけど。

傭兵「なら、いいだろ。お前は行け。ぐだぐだしてる時間も、実際、あんまりないんだろうさ」

僧侶「わたしの質問に答えてください」

傭兵「……」

僧侶「傭兵さん」

傭兵「わかった! わーかったから!」

 お手上げだ、とジェスチャー交じりに傭兵さん。

356:

傭兵「考えをまとめる。五秒だけ目ェ瞑ってろ」

僧侶「絶対答えてくださいね」

傭兵「絶対答えてやるから。ほら」

 わたしは目を瞑りました。口に出して数えます。
 いーち、にーい、さーん、よーん、

僧侶「ごーおっ!」

 目を開けました。
 傭兵さんの姿はベッドの上から消えています。

 開いた窓からは夕方の涼しい風と陽光がやんわりと飛び込んできていて、穏やかに一日の終わりを告げていました。

僧侶「……」

 ……だ、騙された!?
 逃げられた!?

 あのくそやろう!

361:

※ ※ ※

 ミスった。
 盛大に、ミスった。

 勇者殺しに気づかれただけでなく、それを知った上で俺を信頼するだなんて、どんだけ人がいいんだあいつ!
 本来ならばもっと素直に僧侶が別れてくれるか、勇者殺しに気づいて激昂し、喧嘩別れ――それを狙っていたのに!
 まさかあんな実力行使で逃げる必要がでてくるとは思わなかった。

 俺はパンを一齧りし、牛乳で流し込む。全方位が敵という状況下でエールを飲む気にもならない。
 まだボスクゥに駐留していた。とはいっても、それは隊長と手筈の確認をするためであり、それが終わればすぐにでもここを発つつもりだった。いつ襲われるかわかったものではないのだ。おちおち長居もできない。

 顔を隠して酒場に入り、軽く昼食だけをとっている。僧侶から逃げて一晩は裏路地での野宿で過ごした。戦い、目を覚まして以降何も胃に入れていなかったので、我慢できなかったのだ。

 エルフの遺体は仲間のエルフ族が追って引き取りにくる手筈となっているし、僧侶はすでに出発した。この都市ですべきことはもうない。
 俺はこれで晴れて自由の身。小うるさく言われることも、もうない。

 とりあえずそのあたりの始末の如何だけを隊長から確認したかったのだが、まだ来ていない。あいつも事後処理に追われているのだろうが、あまりのんびりしている暇もないというのに。

 今後傭兵家業を続けていけるかどうかは難しいところだった。あそこまで手配書が出回ってしまえば、俺に依頼をする人間よりも、俺を捕まえに来る人間のほうが多くなるだろう。それでは商売上がったりだ。
 まぁ俺は傭兵で生きていくと誓いを立てたわけでなく、日々の糧はこの腕で掴み取る。その気になれば州総督に雇われにいったっていいくらいである。

362:

 わかっている。強がりだった。

 すっかり調子が狂ってしまっている。あのちんちくりんの僧侶のせいだ。
 俺は、昔はこう、もっとぎらぎらしていたという自覚があるのだが。

 思わず頭を抱えてしまう。だめだ。こんなのは本当の俺じゃあない。

 昼食の時間としては少しばかり遅いからか、酒場の中に人は疎らだ。エールを飲んでいる兵士もいれば上等な肉を食べている成金風情も見えるが、店内は静かである。
 新聞を広げながら相場の動きについて話し合ったり、景気の動向だとか、昨日の避難についての感想を言い合ったり、商人たちの話題としてはその程度。大天狗に関してはきつく緘口令が敷かれているので、一行商人程度ではわからない。

 酒場の隅では映像受信機がニュースを垂れ流していた。金と銀、銅の値動きが発表されている。昨日よりもわずかにあがったらしい。
 金銭は、通貨は、何物にも代え難い。全てに兌換できるからこそ、代え難い。誰もがそれを重要視するから。
 果たしてそれは矛盾だろうか?

 とりあえず、当面は身を隠せる場所の選定を優先しよう。落ち着けるところが見つかり次第金を稼がなければいけない。まだ俺は、目標額の半分程度しか稼げていない。

隊長「よ、待たせたな」

 椅子を引いて隊長が座る。やってきた店員に珈琲を注文すると、おしぼりで顔を拭いた。

傭兵「おせぇぞ」

隊長「事後処理がやばいんだよ。俺は紙の兵隊だからな」

 紙の兵隊――後方支援で補給や輸送、物資管理などを行う事務方兵士の総称。

363:

傭兵「で」

隊長「エルフと僧侶ちゃんのことだろ。安心しろ、万事抜かりはない」

隊長「エルフに関しては、そもそも人間とエルフ族の間で協定が結ばれてるからな。クランとも連絡がついたし、数日のうちには遺体を引き取りに来るだろう」

傭兵「……そっか」

 よかった。心底そう思う。
 嘗て共に視線を潜り抜けた仲間だ。生きているときは戦争に魅せられた人生だったのだから、こうなってしまったときくらい、安らかに眠ってもいいのじゃないか。勿論やつはそんなの認められないんだろうが。

隊長「僧侶ちゃんに関してはそろそろ到着するか、もう到着してると思う」

傭兵「随分早いな。出発は夜明けだろ? 丸一日はかかると踏んだが」

隊長「王国軍謹製の転移魔方陣があるんだよ。それを使えばあっという間……っつーわけにはいかないけど、だいぶ短縮できる」

傭兵「は。便利なもんだ」

隊長「お前はこれからどうするんだ?」

傭兵「どうもしねぇよ。生き方なんて変えられない。金を溜めるだけさ」

隊長「うちに来るつもりはないか?」

傭兵「冗談じゃねぇよ。安月給で働いてたら、時間がいくらあったって足りねぇ」

 笑い飛ばしてやると隊長も自嘲気味に笑った。

隊長「ま、生き方は変えられないけど、心変わりはありうるぜ。そんなときは連絡をよこしてくれ」

 珈琲を一気に飲み干して立ち上がった。どうやら忙しいというのは本当らしい。

隊長「じゃあな。『勇者様』」

 ……ちっ、嫌味かよ。

364:

 酒場へと新たに五人の壮年男性ががやってきた。趣味の悪い指輪を肉のたっぷりついた指にいくつもつけているあたり、大方相場師か、うまく儲けてあぶく銭ができた商人たちなのだろう。
 本当の金持ちは身に着けているものもごてごてしていない。上品で、決めるとき、決めるところをきちんと決める。なにより悪趣味な装飾を見せびらかそうとするのは客商売ではご法度。酸いも甘いも噛み締めた大商人のスタイルではない。

 人が増えてくるのは厄介だ。気づかれても困る。俺は牛乳を流し込むと席を立った。

「緊急速報です!」

 と、映像受信機の中で、女性が急ぎ、紙を読み上げている。

「ラブレザッハで――州総督官邸を狙ったクーデターが発生! 占拠され、現在州総督が人質となっています!」

「クーデターを行った一派は『世界共産主義統一党』を名乗り、まだ名声の発表はしておりませんが、各州領主および国王へ要求があるようで――」

 全員が映像受信機へ釘付けになっている。
 ラブレザッハでクーデター。しかも、直接州総督を狙って、占拠。それはあまりにも突飛な、命知らずな行動だ。実際に成功させてしまっているのが猶更始末が悪い。

 俺は思わずよろけて、牛乳の入っていたカップを盛大に割ってしまう。

傭兵「おいおい」

傭兵「そういうことかよ」

 画面の中では、州総督に拳銃を突きつけている僧侶の姿が映っていた。

372:

* * *

 幸せだった記憶はあんまりありません。

 お母さんもお父さんも神職についていました。人助けが趣味のようなものでしたから、休みも返上で教会に通い詰めて、孤児院に寄付したり、浮浪者に職を斡旋したり、そんなことばっかり。
 もちろん両親は人徳がありましたし、それについて誇らしくもありました。アカデミーに入ったのも二人のようになりたい、二人の力になりたい、そんな気持ちがあったからです。

 わたしがアカデミーに入ると同時に両親は北部へと移り住みました。今までの功績が認められ、今後はより重要なポストに就いて、慈善活動を行ってほしい。そんなことをお偉いさんから言われたと手紙には書いてありました。
 誇らしいことです。実に、誇らしいことです。その話を聞いた特、少しの寂しさは覚えましたが、それ以上に喜びがありました。両親のやっていることは立派なことだと認められたのですから。

 わたしもわたしでアカデミーは忙しく、落ちこぼれないようにするだけでも精一杯。幸いわたしには魔法の才能があったらしく、放出が極めてできないという無視できない問題はありましたが、それ以外は何とか修めることができたのでした。

 あのころは楽しかった。周りには同年代の友達がたくさんいて、頼りになるお兄さんも、わたしを頼りにしてくれる妹分も、世界平和を掲げる赤毛ちゃんも、先生も、友達も、全てが満ち足りていたのです。

373:

 起床は七時。七時半からご飯を食べて、八時半までに教室に入っていなければ遅刻になります。殆どの生徒が寄宿舎で生活していたため、朝は仲のよい友達と揃って目覚ましをかけ、ご飯を食べ、教室へ向かいました。
 魔法の理論と実践がアカデミーでは主でしたが、それ以外の座学も当然行います。「知無き力は空である」と当時の先生がおっしゃっていたのが、いまだに頭に残っています。

 読み書きは当然として、科学、地理学、歴史学なども平行して学びました。神学はもちろんわたしの独壇場。テスト前には勉強会なんかも開いたりして。
 逆に赤毛ちゃんなんかは科学全般に強くて、不思議と歴史にも詳しくて、そっち方面ではお世話になりました。

374:

赤毛「だからさ、今の政治は二つに別れてるわけ」

僧侶「州総督と国王?」

赤毛「そう。国王派は権威とか正統性に拠って権力を手にしてるよね。州総督は逆に利権を集めてる」

僧侶「利権っていうと?」

赤毛「そりゃまずは土地でしょ。食べ物と水は人が生きるのに必要だから、それを確保して」

僧侶「あー、やだやだ。そういうのは好きじゃないです」

赤毛「あんた争いとかに耐性ないもんね」

僧侶「そりゃそうですよ。平和なのがいいです。みんなが何事も無く平和に暮らせるなら、それ以上はない。でしょ?」

赤毛「まぁねぇ」

僧侶「節制は美徳ですよ。人間は愚かですからね。お金にしろなんにしろ、あればあるだけ使っちゃうから」

赤毛「あはは、耳が痛いよ」

 こんな風に少しまじめっぽい話をするときもあれば、

375:

赤毛「ね、ね! 聞いた!?」

僧侶「何をさー」

赤毛「戦士さんと賢者さんが付き合ってたんだって!」

僧侶「あぁ、こないだ手を繋いで歩いてるとこ見ましたよ」

赤毛「え、マジ?」

僧侶「うん。マジ」

赤毛「いやぁ美男美女カップルっていいよね! 私にもいつか格好いい彼氏できないかなぁ」

僧侶「赤毛ちゃんならできるよ」

赤毛「そう言ってくれるのは僧侶ちゃん、あんただけだよぉ」

僧侶「気になる人はいないんですか?」

赤毛「いない! だってみんな私より弱いんだもん。女の子に生まれたからには、やっぱり守ってもらいたいよね」

僧侶「赤毛ちゃんより強いって、同レベルじゃいないと思いますけど」

赤毛「あ、僧侶ちゃんにはいないの、好きな人」

僧侶「いませんよ。大体、わたしは身も心も神様のものですから」

赤毛「ちぇ、つまんなーい」

僧侶「つまんなくないですー」

 みたいな、所謂コイバナに花を咲かせるときなんかもあったりして。

376:

 楽しいことばかりでした。友達は多くて、ご飯はおいしくて、授業は大変でしたがためになって、充実したアカデミー生活だったと断言できます。
 ただ、最初は週に一回だったはずの手紙のやりとりが、いつからか十日に一回となっていたことが気がかりでした。

 毎週日曜日は礼拝日です。正式な僧侶となるのはアカデミーを卒業してからですが、アカデミー内にある礼拝堂でのお手伝いをわたしはしていました。
 アカデミーにはさまざまな宗派の方がいらっしゃいます。流石に全ての宗教について礼拝堂を設立するわけにはいかないので、カトル、プロトニック、ダバラモの三大宗教についてのみ、礼拝堂はありました。
 わたしがお手伝いしていたのは勿論カトル教です。司祭様は優しいかたで、人徳もありました。礼拝日に限らずさまざまな悩みを抱えた生徒の話を聞き、包み込んでくれる、まるで慈母です。

 彼女はなんとわたしのお父さんの元で修行した過去があるらしく、だからわたしと彼女の仲は他の生徒よりも随分とよかったと思います。わたしは昔のお父さんの話を聞いたり、逆にお父さんの話をして、盛り上がったものです。

377:

 そのころ、手紙の頻度が二週間に一度へと変わっていきました。
 手紙には大きな事業を任されて忙しい、手紙を書く時間が余り確保できない、申し訳ない、そんな旨が書かれていました。
 少し……いえ、だいぶ残念でしたが、大きな事業を負かされたのならば仕方がありません。それは貧しく虐げられている人々を助けるという両親の願いの第一歩。わたしが間違っても口を出せるはずなどなくて。

 しかし、今でも思うのです。あのときわたしが口を出していれば、両親は死なずに済んだのかもしれないと。
 けれど、やはり思うのです。あのときわたしが口を出していても、両親はどの道殺されたのかもしれないと。

378:

 何事もなくアカデミーでの生活は続きます。アカデミーは六年制。わたしはそのとき五年目で、名実共に主席の座を確保していました。
 依然として魔法の放出はできませんでしたが、そのころから進路やスタイルも細分化されてきて、わたしは謹製の拳銃を手に入れたこともあり、大したハンデではなくなっていました。

 魔力の絶対量では赤毛ちゃんには逆立ちしても叶いませんでしたし、体力や運動神経では前衛の方々に叶いませんでしたが、曰くわたしは「バランスがいい」らしいのです。
 五年目には研修旅行があり、わたしと赤毛ちゃんは十人ほどの集団で北の山へと向かう計画を立てていました。この計画に、先生たちが個別に目標を設定し、それを達成し次第帰還していいというものです。

 わたしはそのことをうきうき気分で両親に報告しました。そのころすでに手紙は一ヶ月に一回くらいしか返事が来ませんでしたが、それでも一週間に一度は送っていましたし、何かあればその都度送っていました。
 北の山へ出発するより先には手紙は届かず、悲しさは覚えましたが、気丈に笑ってしかたがないよねと思ったものです。

 結局、返事が来ることは二度とありませんでしたが。

379:

 その辺りの出来事は記憶があんまりなくて、覚えていても単発で、前後関係とか時系列とか、誰が何を言ってわたしが何をどうしたとか、そういうことは一切合財全部まとめてあやふやな暗闇の中。
 ただ、久しぶりに見た両親の顔は花に包まれていて、信じられないほど白くて。
 そして、げっそりと痩せていて。

 死因は栄養失調。

「ありえるか!」

 何かが吹き飛びます。わたしの部屋の中にあったなにか。正体は意識の外。
 もしくは、わたしの中にあったなにかが吹き飛んだのかも?

「この現代社会で! 死因が! 栄養失調だなんて!」

 手が、足が、いろいろと薙ぎ倒していきます。
 感覚がない。折れたのかな。

「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんなああああああっ!」

 わたしを止める存在はどこにもいません。
 たった一人の我が家。わたしの家。わたしの部屋。

 ひとりぽっち。

 おとうさん。
 おかあさん。

 どうして?

380:

 信じられませんでした。栄養失調で死ぬなんてことがありえましょうか。いや、ありえるとしても、両親がそんな世界の住人だったとは到底信じられません。
 お医者様の話を信じるならばそういうことになるのです。ただ、いくら権威あるお医者様の診断でも、納得できることとできないことがあります。

 説明ではこうでした。両親は教会で働く傍ら恵まれない人々に支援を行っていた。それはいいです。わかります。そうでしょう。あの人たちは今までそうでしたから、これからもそうである。単純な話です。

 そして、次第に支援の度が過ぎていった。

 教会の運営費に割り当てられている「支援費」から出している分は問題なかった。しかし、口減らしで捨てられた孤児は依然多く、また領主に土地を買い上げられ自作農から小作農になり、没落した農民も数を増すばかり。
 支援費は足りなくなる。けれど状況は一向によくならない。えぇ、それはわかります。そりゃそうでしょう。国王派の福祉政策を凌駕するほど州総督派の巻上げが酷いんですから。

 だから、両親は支援に私財を投じた。

381:

 英雄だったそうですね、北の地方では。自らの財産を削り、寝食を惜しんでまで恵まれない人々のために尽くした傑物。とてつもない人望。限りない人徳。どんな勇者だってできることではないと絶賛されていたそうです。
 葬列の参加者の数も納得です。徽章を身につけた教会のお偉いさん方も当然沢山、誇らしげな顔をして並んでいましたが、それよりも襤褸を身にまとった子供や老人の数といったら!

 ずらずらずらりと五百人。
 いや、一千人はいたかもしれません。

 実際に助けた人はもっと、もっと多いでしょう。そしてそれだけの人数を助けるのは、私財を擲っても不可能。両親にはパトロンがついていたことになります。
 州総督。
 顔と名前は座学で習っていました。彼はノブリス・オブリージュとして、両親を通して間接的に、支援を行っていたことになります。

 十割の善意ではなかったのでしょう。そんなものがあるはずはありません。大方、民衆からの支持を得たかった、そんなところのはずです。しかし両親にはそんなことどうだってよかったに違いなくて。
 州総督から得たお金で両親は支援を続けました。やっぱり、寝食を惜しんで。身を削って。全てを擲って。

382:



 そうして、両親は死んだのです。
 死んだ、そうです。
 死んだそうですよ?



383:



 ……は?



384:

 いや、おかしいでしょ。おかしいって。

 論理の飛躍。
 説明の乖離。

 それじゃあまるで、両親が本能の欠けた人間みたいじゃないですか。
 どこの世界に自分の食べるパンすら全部与えて餓死する人間がいるってんですか!?

 ついに放り投げるものも叩き落とすものもなくなって、それでも籠められた力は解消せずにはいられず、ひたすら壁を叩き続けます。鈍い音がするたびに脳裏をよぎるは二人との思い出。
 親としては決して褒められたものではないのでしょう。子供を放って慈善活動に勤しんでいたのですから。
 それでもわたしは。

 わたしは!

385:

「おやめなさい」

 振り上げた手が掴まれました。はっとして振り向くと、そこにはアカデミーの司祭様がいらっしゃったのです。

僧侶「な、なんで……」

司祭「私もあなたのお父様にはお世話になったから。葬列に参加していたのよ? 気づいていなかったかしら」

 ぜんぜん気づいてませんでした。

司祭「……残念、だったわね」

僧侶「もう、わたし、何がなんだかわかんなくって……!」

僧侶「だって、だって、死んじゃったら駄目じゃないですか! 死んじゃったらなんも、なんもかんもなくなって、出来なくなっちゃうじゃないですか!」

僧侶「お父さんもお母さんも誰かを助けたくって、でも死んじゃったらそれすらできなくなって、そんなことわかんないはずないのに、でも死んじゃって、なんで!?」

僧侶「司祭様! なんで!? 教えてください、なんで、なんで、なんでですか!?」

386:

 わたしは司祭様の胸の中で泣きました。
 わんわんと。
 恥も外聞もなく。 

 神様なんていません。この世界に神様なんていやしません。
 もしプロトニックやダバラモが教示するように、この世界に全知全能の神様がいるのだとしたら、もっと世界はよくなっているはずなのです。
 両親が救いの手を差し伸べるより先に、神様が恵まれない人たちに合いの手を差し出しているはずなのです。

 仮に神様がいたとして、そうしないということは、神様はこの世で一番の性悪なのです。普く不幸を酒の肴にワインを飲んでいるに違いありません。
 ならば神様なんていないほうがいい。
 いないと信じるほうが、精神的にいい。

 この世に存在するのは人。そして魂。八百万に心があって、それだけ。
 全てが調和していないだけ。

387:

司祭「……神父様たちはね、殺されたのよ」

 言葉は衝撃となってわたしの体を貫きました。

 神様がわたしの両親を殺したのでないなら、人が、人の魂がわたしの両親を殺したのです。そうです。当然の帰結です。

司祭「教会は腐敗しているわ。やつらにとっては、信仰なんて金の生る木みたいなもの。そして一番のパトロンと繋がって、片方には権威を、片方には金を、流している」

司祭「神父様たちはその犠牲。生贄よ。僧侶ちゃんには悪いけれど、使い捨ての駒のようなものだったの」

僧侶「……やめてください」

 そんなことは到底信じられることではありません。許容できることではありません。

司祭「やめないわ」

僧侶「やめてください!」

司祭「ご両親はパトロンである州総督に使い潰され、権力機構の道具となって死んだの! あいつらは二人の奉仕の心を利用して、命の雫を搾り取り、それで私腹を肥やしたの!」

388:

僧侶「聞きたくありません!」

司祭「聞きなさい! 本当にあなたが悔しいなら! 世界をよりよい方向に進めたいと思っているのなら!」

 もういやなのです。なんでわたしがこんな目にあわなきゃならないのか。

 あぁ、でも、わたしの深奥では怒りの炎が燻っています。両親が死んだ理由を、両親を殺した何かを、見極めてやろうと思っています。
 両親の心残りをなんとかしてやらなければ、と思っています。

 世界をよりよい方向に進めたいと思っています。

司祭「この世は革命されねばならない!」

司祭「資本家の富と権力の独占を許してはおけない!」

司祭「ブルジョワジーによって保たれているこの社会構造は換骨奪胎されなければならないのよ! 私たちプロレタリアートの手によって!」

司祭「そう! 今こそ革命のとき!」

司祭「労働者による全世界同時革命! 世界のステップを上げなければ、真の平和と幸福は訪れない!」

司祭「僧侶ちゃん! あなたは今、立ち上がるときなの! ご両親の遺志を継ぎ、この世の中に存在する全ての恵まれない存在を救い出せるのはあなたしかいない!」

司祭「あなたが導くの!」

389:

 司祭様のびいだまのような瞳がわたしを見つめています。

司祭「私の手をとって! 僧侶ちゃん!」

 もう、何も考えられませんでした。

 あんなに優しく、他人のことを想っていた両親が、どうして死ななければならなかったのか。何が二人を殺したのか。それ以外を考えることは、無駄なことです。

僧侶「……あぁ」

 存外簡単に答えは見つかりました。

 両親を殺したのはこの世界なのです。
 もっと噛み砕いて言うならば、社会システムなのです。権力構造なのです。
 お金なのです。権威なのです。

 欲望なのです。

 復讐しなければいけません。

僧侶「そっか」

 だからだったのですね。

390:

 だから教会のお偉いさん方は誇らしげな顔をしていたのですね。協働を掲げるカトル教の面目躍如。いい看板になってくれた。そう思っているから。信者獲得に一役買ってくれた、とすら思っているのかもしれません。
 やつらは豚です。人の面の皮を貼り付けた、肥えた豚です。信仰心を金に変え、金を腹の贅肉に変えた、人面獣心の何者か。

 州総督も豚です。己の私利私欲を満たすためだけの道具として権力を利用する不届き者。自分さえよければ他人がどうなってもいいゴミ屑。あいつがいなければ、農民たちの土地が奪われることはなかったはず。
 人の命さえ金勘定のひとくくりにしてしまう最低最悪の人種。いえ、豚なのですから人ではありません。汚らわしい、鳴き声の耳障りなクソ豚。

 屠殺しなければ。

391:

 お金という潤滑油がなければ回らない現代社会も、社会構造も、また破壊されなければなりません。

 現代社会はお金がなければ生きていけない。欲望を満たすためのお金の価値を、資本主義社会では論じるまでもないでしょう。
 しかし、だめです。
 人間はお金などに頼ってはいけないのです。

 そんなものに頼らずとも生きていける社会を目指さなければいけません。そうしないのは、怠惰。思考停止。
 資本家に飼い殺されているようなもの。

 欲望は否定しません。欲望は社会を推し進める原動力。わたしのこの感情だって「よりよい世界を造る」という欲望なのですから。

 問題はお金。そして権力。
 資本主義社会におけるお金と権力は、必要悪。悪はいずれ滅されなければいけません。

 わたしの手は自然と動いていました。

397:

* * *

僧侶「……教えて。お父さんとお母さんが死んだときのことを」

州総督「……」

僧侶「だんまり、か」

僧侶「顔のでっぱりが一つ二つなくなれば、話す気にもなる?」

司祭「僧侶様」

僧侶「わかってるよ。あと、僧侶様って呼び方は、どうにも」

司祭「それは仕方ありません。あなたは私たちを導く存在なのですから」

 わたしはなぜか敬称付けで呼ばれていました。なんでも、お父さんお母さんの娘であるから、とか。
 なんとなく嫌でした。呼ばれなれていないというのも勿論ありますが、それ以上に、敬称付けからは権威のにおいがしたのです。

 お金や権威を否定するわたしたちが自ら権威を傘に着る。それは最も避けなければならないことでした。

 全てをフラットに。言行一致。そうして初めて信頼が得られるのです。

398:

州総督「こんなことをしてどうなるかわかっているのか?」

 まるで小物の発言でした。わたしは鼻で笑ってやります。

僧侶「わかっているからこそやったのですよ。こうすることの破壊力を、影響力を、わたしたちは見込んだからこそ実行したのです」

 州総督は余裕のある笑みを崩しません。本当にどこかの出っ張りを削ぎ落としてやりたいくらいでしたが、こいつに危害を加えるわけにはいきません。大事な交渉カードなのです。
 先ほどは小物と断じましたが、拳銃を突きつけても平然としている辺り、肝は据わっているようです。海千山千を越え、いくつもの権力闘争を勝ち残ってきたのでしょうから、それも当然なのかもしれませんが。

 この様子は中継で全大陸に放映されているはずです。愉快。実に愉快です。まさに今、わたしたちの悲願の第一歩がなされようとしているのですから。

こんこんと部屋の扉がノックされました。司祭が応じると、「失礼します」の声と共に数人がやってきます。

 一人は兵士。彼は農家の五男で、学も無く、半ば追い出される同然に兵士となりました。既に農地は奪い取られ、その家庭で実家は崩壊、両親が首を吊っています。
 一人は研究者。彼女は水の浄化に関する技術の研究をしていましたが、学閥には属していなかったため、全ての功績は彼女のものではなく主任研究員のもとへ。
 一人は少年。彼は生まれつき片目が見えず、右腕が満足に動きませんでした。物心つくころには両親は既におらず、読み書きはできませんし、ごみ漁り以外の生きる術を知りません。

399:

兵士「同志僧侶! 館内及び敷地入り口、中庭、堀まで全て制圧完了しました!」

研究者「同志僧侶! 館内の電気設備、排水設備等、全て掌握完了しました! また下水からの侵入を防ぐため、現在鉄柵の設置を急がせてあります!」

少年「同志僧侶! 捕まえたやつはみんな食堂にいるよ! 言われたとおり手足を縛って、口に布をかませてある!」

僧侶「ご苦労様です。引き続き、警戒を怠らず、任務を続行してください」

「「「御意! 私の身も心も、全て新たなる世界のために!」」」

僧侶「えぇ。新たなる世界のために」

 三人は各々の持ち場に向かって走り去っていきます。
 わたしは兵士の背中に声をかけました。

僧侶「同志兵士。州総督の私設軍や私兵の動きはどうなっていますか?」

兵士「は! 同志僧侶! 州総督邸内の制圧は、ホットラインなどを全て遮断してから行いました! また邸内にいた私兵は全て粛清の対象であり、現在拷問にかけている最中であります!」

兵士「恐らく、既に動き出しているとは思いますが、指揮系統が混乱しているのは明白であります!」

僧侶「わかりました。ご苦労様です」

兵士「ありがたきお言葉! それでは同志僧侶よ、私は持ち場に戻ります!」

 兵士らしくびしっと敬礼を決めて、兵士は部屋を後にしました。

400:

僧侶「州総督閣下。この国の誰よりも裕福で、この国の誰よりも権威を持つあなたが、どうして今拘束され、拳銃を突きつけられているかわかりますか?」

州総督「……」

僧侶「わたしたちには沢山の同志がいます。あなたのような、金と権力で繋がった関係ではありません。魂で固く結ばれた同志が」

僧侶「誰もがこの国の未来を憂う憂国の戦士。どんなところにも彼らは存在し、水面下で長いこと連絡を取り合ってきました」

僧侶「ついに彼らを虐げ続けたツケが回ってきたのですよ」

 あの日以来わたしは『世界共産主義統一党』の一員となり、この日のための計画を綿密に練り上げてきました。

 組織には様々な人材がいました。それこそ、現代社会においてはエリートと呼ばれる層から、「えた・ひにん」と呼ばれる層まで、様々な階級の人が己にできる役割を全うしようと努力を続けていたのです。
 この組織では貴賎がありません。兵士には兵士だからこその役割が与えられ、浮浪者には浮浪者だからこその役割が与えられました。

 だからこんなにもクーデターが速やかに、かつ何の障害も無く行うことが可能だった。

401:

 州総督のスケジュールは彼の側近から明らかになりました。邸内の見取り図は召使の目測と歩幅によって丹念に精査され、建築家によって図面に起こされます。
 それをもとに襲撃計画を立てるのは兵士や傭兵。仲間を募り、情報収集を行うのは浮浪者や教会のメンバーが主です。そして、可能な限り人を集め、全員による突入が行われたのでした。

 構造上弱い部分や老朽化して修復されていない場所などは一目瞭然。衛兵の交代間隔も、配置場所も、人員も、全てが筒抜け。序列持ちが邸内にいないことも確認済み。失敗するはずがありません。

 そう。わたしたちは成功するべくして成功したのです。

州総督「こんなことをしてどうにかなると思っているのか」

僧侶「またそれですか」

 しつこい男は嫌われるのですよ。
 既に蛇蝎のごとく嫌われているこの男としては、全く気にならないのかもしれませんが。

州総督「何が目的だ」

「それは僕から説明しましょう」

402:

 現れたのは四十前後の男性です。高い身長と整えられた身なりからはダンディズムを十分に感じることができます。
 スーツにネクタイ。見れば単なるサラリーマンですが、わたしは知っています。この方の野望に燃えた瞳の色を。

司祭「党首様」

 そう。この方が『世界共産主義統一党』の党首。わたしたちのブレイン。

党首「同志司祭。それに僧侶様。ついにここまでやってきたな」

司祭「いえ、ここからがスタートです」

党首「そうだ。ここから世界が新しくなる。僕たちの手でそれを成し遂げるのだ」

党首「きっとご両親もそれを望まれているはず。そうだろう、僧侶様」

僧侶「……そうですね」

 あまり両親のことに触れてほしくはありませんが。

州総督「ここがスタートだと? 馬鹿め。ここが終わりだ。貴様らの墓場だ」

僧侶「撃ちますか?」

党首「まぁ、落ち着きたまえ、僧侶様。彼は大事な人質だ」

403:

党首「……州総督、貴方がいる限り、むこうも荒っぽいことはできないでしょう。なに、危害を加えるつもりはありません。僕らと一緒に来てほしいだけなのです」

州総督「どこにだ。この世界のどこにも、貴様ら共産主義者、アカの手先の楽園などは存在しない」

党首「えぇ、えぇ、そうですとも。ですが」

 党首様が司祭へ目配せしました。司祭はうなずき、一歩前に出ます。

司祭「存在しないのならば、作ればいいのです」

 司祭が広げたのは羊皮紙の地図。傭兵さんが持っていたものと同じ、細かく街道や川、国境の書き込まれた詳細なもの。

司祭「北部に連なる山脈の麓には広大な小麦畑が広がっています。また、州には属していても、実質人が住んでいないようなところは多々ある。あなたは我々にその土地を譲っていただければよいのです」

 そういいながら司祭は羊皮紙の地図に線を引いていきます。

司祭「ボスクゥの傍にあるマレチ湖を遡上し、北部山脈の西端ロロジーロ連峰の麓。州で言えばアッバ州になりますね。そこに数年前から耕作放棄地があるはずです。理由は、盗賊が現れるから」

404:

州総督「そうか。あれも貴様らの差し金か」

司祭「さぁ? 私たちのあずかり知らぬことですわ」

司祭「まぁとにかく、州総督にはアッバ州の領主に口添えをし、世界共産主義統一党にその全権利を譲ることを認めさせればいいのです」

州総督「……お前ら、戦争狂か?」

 思わず人差し指に力が入りました。一瞬先に党首様がわたしの前に入りますが、照準は依然、まっすぐ州総督に向いています。

僧侶「だめです。やっぱりこいつは殺します」

 農地を奪って生きる場所を、大地を汚して尊厳を奪い、人を殺し続けてきた首魁に言われるのだけは断固として許せません。

司祭「僧侶様、落ち着いてください」

州総督「そんなことをしてみろ、すぐに他国からの介入が入る! 共産主義が広まったら困るのはどこの国だって同じだ!」

僧侶「臭い吐息をぶち撒かすな豚ァッ! 黙れっつってんのがわかんねぇんですか!」

党首「落ち着きなさい、僧侶様。大丈夫。僕の一言で終わるよ」

 党首様はぐっと州総督に顔を近づけて、一言。

党首「僕たちは独立する」

405:

 独立――つまり、州ではなく国になる、ということです。

 勿論そんなものは横紙破りにもほどがあります。州が独立し国家に、だなんてのは、本国は当然認めるはずがありませんし、パワーバランスが崩れるのを嫌がる他国も認めやしないでしょう。
 本来なら。

 わたしたちには力づくでもそれを成し遂げるための人手と覚悟があります。

 既に他国の高官を数人抱きこんで、その重鎮のスキャンダルはあらかた入手済み。わたしたちは平穏に暮らしたいだけで、共産主義を伝播させるつもりなど毛頭ない。それさえわかっていただければ、首を横には振らないでしょう。
 お金と権力が何より大事な豚だからこそのクリティカル。これもある種の復讐ではあります。

 そして、一度国になってしまえばこちらのものです。
 当然、わたしたちの国は我が国の領土に囲まれているということになります。すると、他国が攻め入る際には、必ず我が国を通らなければいけない。この防御力は何物にも比肩し得る外交の盾。
 さらに、王族派と州総督派で別れている我が国は、迅速に意思決定を行えない。軍隊の指揮系統が違うからまとまって行動もとりにくい。

 既成事実を作ってしまえばこちらのものなのです。

 仮に国が独立を認めないとしても、他国が独立を承認――内戦だから内政干渉はしないと物見遊山を決め込んでしまえば、わたしたちは悠々自適に国家造りを行える。
 その最大の鍵となる州総督を抑えられた以上、わたしたちに最早負けはありませんでした。

406:

少年「同志僧侶! 演説の準備が整いました!」

 数人の兵士を連れて少年が部屋へとやってきます。兵士たちは州総督を手荒く掴んで部屋の外へと追い出しました。危害は加えられないでしょうが、少々怖い思いはするでしょうね。

僧侶「……本当にいいんですか、わたしなんかが」

司祭「いいんですよ、僧侶様。あなただからこそなのです」

党首「そのとおりです、僧侶様。我々はみな、あなたのご両親に助けられた者ばかり。その遺志を受け継いだあなたになら、誰だって従いますとも」

少年「そ、そうです! 同志僧侶! あなたなら間違いありません!」

少年「ぼくは生まれてすぐに教会へと捨てられました! 二人がいなければ、きっと雨の中で息絶えていたはずです! この命、あの二人のために、そしてあの二人の無念を晴らすために使っていただいて問題はありません!」

少年「二人の遺志を継いでください、同志僧侶!」

407:

僧侶「……」

 わたしは目を瞑りました。今までの人生が蘇ってきます。
 お父さんの笑顔。お母さんの声。アカデミーでの生活。そして、二人の死。絶望。慟哭。激情。何より、決意。

 わたしは両親を殺した全てのものに復讐をしなければならないのです。

僧侶「……」

 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、傭兵さんの顔がよぎりました。それを意識的に握りつぶして、わたしは顔を上げます。

僧侶「いきましょう。皆さんが待っているのでしょう」

408:

 州総督の邸宅は広く、豪奢で、ありとあらゆる贅の限りを尽くしたという表現がまさにぴったりのつくりでした。
 わたしはそのうちの一つ、正門に相対するきらびやかなバルコニーに出ます。

 二つの景色が広がっていました。

 一つは綺麗な景色。まっすぐ目を向ければ、そこにはラブレザッハの整理された町並みと、碁盤の目状に交差する道が、柔らかく弧を描きながら一つの消失点に向かって小さくなっていきます。
 遠くには山々の稜線に雲がかかり、青空とのコントラストはまさに白砂青松と同じ趣。そこへ暖かい陽光や爽やかな風、耳に優しい小鳥の声が聞こえてくるのですからたまりません。

 もう一つは凄まじい景色。視線を下にずらせば、敷地内にずらりと人があふれかえっています。富める者も貧しい者もみな一様にこちらを向き、手を突き上げていました。
 数え上げるのが億劫なほど大量の人です。わたしたちの同志が大半でしょうが、それでもあそこまでいなかったはず。理念に共感してくれた方々が駆けつけてくれたに違いありません。

 門扉には兵士さんたちが立ち並び、州総督の私兵とにらみ合っていました。僅かに後方に王国軍も少しだけいます。そしてそれらを取り囲む報道陣。市民も事の成り行きを見守っています。

 跳ね回っている心臓を抑え付け、わたしは口を開きました。

409:

僧侶「原初、人々はみな平等でした」

僧侶「全ては共有されていました。食料、水、住居……そのような物質的な話ではありません。感覚的な話です」

僧侶「食料が取れないときは誰もが同じでした。自分の空腹は誰かの空腹でもあったのです」

僧侶「悲しみも、喜びも、悔しさも、怒りも、幸せも、全てが共有されていたときが、この世界には確かにあったのです」

 全てが静まり返ったかのように思えます。自分が何を言っているのかさえ、わたしの耳には届いていないのです。

 ただ、口は動きました。勝手に言葉は出てきました。

僧侶「しかし今はどうでしょうか。共有などとは程遠いのが実情です。暖かい暖炉の前で、家族揃ってポトフを食べているその前の道路では、孤児が寒さに凍えながら生ゴミを漁っています。原初の平和な世界などは跡形も無く消え去ってしまいました」

僧侶「感覚も同様です。わたしたちは自らの幸福を得る手段として、誰かの不幸を見つけることを知ってしまいました。誰かが悲しんでいるのを見て、相対的に幸せだと感じる。誰かを蹴落として利益を得る。それがこの世界の姿です」

僧侶「そんな世界が果たして本当にいい世界だといえるでしょうか?」

僧侶「わたしはそうは思いません」

410:

僧侶「両親は様々な人に救いの手を差し伸べてきました。集まってくださった皆様方の中にも、施しを受けたかたがいらっしゃるのではないかと思います」

僧侶「人によっては、なんと愚かな行為だと断ずるかもしれません。しかし、その生き様こそが至高であり、崇高であるものだとわたしは信じています。そうでなければこの世は血で血を洗う地獄じゃないでしょうか」

僧侶「それでも両親は死にました。殺されたのです。金と権力を食べてぶくぶく肥え太る豚どもの犠牲になって!」

僧侶「立ち上がるのなら今、ここにおいて他にはありません! 剣を、鍬を、拳を突き出して、立ち上がるのです!」

僧侶「誰かに期待し、誰かに託したところで、幸せなどが訪れるはずはないのです! 自らの幸せを願うなら、そして、隣人の幸せをも願うなら! それはあなたたちが掴み取るしかない!」

僧侶「そのためにわたしたちはこうしているのです! 共に戦う仲間を欲しているから! 苦汁を舐め、辛酸を舐めている人々と手を取り合い、世界を刷新したいから!」

411:

僧侶「民衆よ! 決起するのです! そうすることでしか、真の平等はやってこない!」

僧侶「真の幸福はやってこない!」

僧侶「Ураааа!」

「Ураааа!」

僧侶「Ураааа!」

「Ураааа!」
「Ураааа!」
「Ураааа!」
「Ураааа!」

 熱狂でした。熱狂の渦が官邸の周りを取り巻いているのでした。
 
 ウラー、ウラーと叫び声は伝播し、終わる様相を見せず、その姿に貧富の差は無く。
 跳びはね、拳を天高く突き上げ、服を脱ぎ。
 今ようやく、人類はまた一つになれたのです。

 私兵たちも、王国軍も、ただ呆然と見ていることしかできませんでした。

 お父さん! お母さん! わたし、やったよ!

続く
傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【後編】