1:2020/05/26(火) 16:27:31
秋は鮮やかにやってきた。

床に紙質の硬い雑誌をずりおとし、
かわりに一枚の毛布を顎まで引っ張りげ、
一九四五年の秋にゴミ捨場で死んだパルチザンのように背をまるめ、
両膝を腹に引き寄せていつものようにけじめなく眠りについた。


俺の眠りはいつもそうだ。

たとえばこんな不吉なファンタジーをよく経験する。

カシミールの山の中をさまよっているとつゆ知らずにいつの間にか中国国境を越えている。

本人には越境の意志などまるでない。

しかし、自分の凍る息の輪からふと視線をあげると、
山稜には狙撃兵たちが送電線の雀のように並んでいるのが見える。

なにが起こったのか理解できないままに佇む。

きびしい声調の中国語の警戒が体に突き刺さる。

それでも俺は動かない。

動けないのだ。

数秒か数十秒後には結氷した顔面を一種の清涼感をともなって貫いていくライフル弾の予感がし、
予感はやがて確信に変わる。

確信は少しずつ恐怖に形を変え、恐怖はわずかの熱を呼び、凍った眉を溶かす。

水滴が流れ、眼に入りこみ視界がにじむ。

俺は、なぜか自分の部屋の窓辺にかけたままの洗濯物を思い出す。

折り畳み、鼻を押し当て、それから引き出しにしまわなければ。

こう寒くては凍って繊維がばらばらになってしまう。

俺はどこか知らない国の言葉で、山稜の雀たちに叫ぶ。

待て、撃つな。

洗濯物を取り込むまで待ってくれ。
2:2020/05/26(火) 16:30:52
眼覚めると、開け放した窓から風が吹きこんでいた。

平たくなったラミネート・チューブから最後の練歯磨を押し出すように勇気を振り絞り、
俺は床のうえに両足の裏をつけ、
それからゆっくり立ちあがった。

吹き込んでくる風にはもう夏の白さはなかった。

薄いレモン色のフリルがついていた。

そのくせどこか冷え冷えとしている。

俺は、昨日の夜の残りを温めなおした、いくらバンコクのホテルでも客に出さないほど味の壊れたコーヒーを口にした。


テーブルの上にスペースを無理に作ってコーヒーカップを置き、両腕で自分の足を抱いた。

処女を天蓋つきのワゴンで売っている若い女のポーズが似合うと考えているわけでは決してない。

寒かった。


秋の訪れは急だった。


満州の森の中で何カ月も剣を研ぎ続けてきた老人が、
ある夜明け前に突然立ちあがり、
今はインディアンペーパーよりも薄く研ぎだした剣に一度しごきをくれてから、
いきなり夏の空を切り落とした、
そんなふうだった。


出掛ける覚悟を決めれないでいた。


風の道になった部屋のまんなかにいながら、自分のいる場所を見失った気分になる。

「当惑」という文字が浮かび、底知れない居心地の悪さを感じる。

両手を祈るようにあわせて、女の脚の間にはさみこんで眠りなおしたいと痛切に思う。

しかし仕事は仕事だ。
3:2020/05/26(火) 16:35:55
――


彼女は台所からコーヒーカップをふたつ、お盆に入れて運んできた。

それをテーブルに置くとき、襟元がゆったりとひらき加減の薄いセーターの隙間から乳房の谷間の入口がのぞけた。

肌は卓上の陶器のミルクピッチャーの表面みたいに白かったが、それほどには冷たくなさそうだった。

てのひらをおけばたちどころに薄赤く染まるだろう。

それは、リトマス紙を夏蜜柑の果肉に触れさせることと同じくらい確かなことだと思われた。

しかし、彼女が意識してそんなセーターを着け、そんな姿勢をとったのかどうか俺には判断がつきかねた。

(゚、゚トソン「ミルクとお砂糖は?」

と都村兎尊はいった。

( ^ω^)「いれたほうがいいと思いますかお」

と俺はいった。

(゚、゚トソン「お好きなようになさってください」

結局なにも彼女はいれなかった。

(゚、゚トソン「こんな朝早く起きるの? 探偵って」

( ^ω^)「普通、名探偵は眠りませんお。
       私はそれより少しだけ水準が落ちるので片目をあけて眠りますお。
       それでも時々は眼を休める必要があるので交互に。
       月曜日には左眼をつむり、火曜日には右目をつむるというスタイルでやりますお」
4:2020/05/26(火) 16:38:46
(゚ー゚トソン

都村兎尊は微笑しただけだった。

(゚、゚トソン「まさかあなたが探偵になっているなんて。驚いたわ」

( ^ω^)「ネコに葉巻を吸う身分になれっていっても無理ですがお、
       人間はなりたいと念じればたいていのものにはなれるのですお」

(゚、゚トソン「念じればいいんですか」

( ^ω^)「そうですお。念じればいいんですお。それから努力をするんですお」

(゚、゚トソン「どんな努力?」

俺はコーヒーカップをとりあげて口に運んだ。

強いにおいがした。

アメリカ式の薄すぎるコーヒーを一時間に一リットル近く飲むタイプの男には刺激が強すぎた。

はじめて彼女と正対したとき、
実に奇妙なことに俺は高校の文芸部のニキビ面の男に部室へ引き入れられて見せられたエロ写真を思い出した。

文芸部の男は普段、
雪のうえに散った煤煙こそ私の悲しみである、
といったばかばかしい詩ばかり書いているくせに、
エロ写真を見つめる俺の表情を小ずるそうにうかがった。

その顔は「カンタベリー物語」の破戒僧よりも下品だった。

二本の指をさかさまのVサイン状に使って自分の性器を押し開く若い女は、むしろ気高い顔をしていた。

気分が悪くなり、その写真を彼に返した。

それから文芸部室のガラス窓を一枚叩き割った。

ニキビ面は怯えていた。

俺はそれ以来、美しい顔の女ほど醜い性器を持つと信じるようになった。
5:2020/05/26(火) 16:40:11
(゚、゚トソン「どんな努力?」

と兎尊がもう一度尋ねた。

( ^ω^)「そうですねえ」

と俺はいった。

( ^ω^)「たとえば、簡単なことですお。
       人の言葉をすべて信じる努力。
       同時に人の言葉をすべて疑う努力」

(゚、゚トソン「簡単かしら」

( ^ω^)「簡単ですお」

と俺は答えた。

( ^ω^)「簡単だろうと思っていますお。
       そう思わなければ私の商売はやっていけないお」
6:2020/05/26(火) 16:42:16.501 ID:kC/0uo990.net
さりげない飾りかたから見ると、ひょっとしたら本物かも知れない。

この食事室と居間を兼ねた広い部屋には装飾はほとんどない。

ブリタニカの英語版の百科事典も、無造作に投げ出された「ジャルダン」や「エル」もない。

毛玉の玉も、作りかけの刺繍もない。

ネコもイヌもいない。

実用的だとはまるで思えないマントルピースの上に銀色の小さな杯がぽつんとのっている。

台座には由来がなにも記されていない。

ただ「KYONAN '69」というプレートだけがはめこんである。


開け放った窓から風が吹き込んでくる。

庭にモクセイの花が咲き、香っている。

彼女のつけている香水を打消すほど強く香った。

毎日この庭を見つめながらこの女はなにを考えて暮らしているのだろう。

たとえば、遺書の文句を考えている。

私が氏んでも窓はいつでも開けたままにしておくように、庭と花々が見えるように――というふうな。
7:2020/05/26(火) 16:46:29
開け放った窓から風が吹き込んでくる。

庭にモクセイの花が咲き、香っている。

彼女のつけている香水を打消すほど強く香った。

毎日この庭を見つめながらこの女はなにを考えて暮らしているのだろう。

たとえば、遺書の文句を考えている。

私が氏んでも窓はいつでも開けたままにしておくように、庭と花々が見えるように――というふうな。



ドア脇の壁にはフジタが一枚かかっていた。

大判の絵ハガキくらいの大きさで、
溶けた蝋の色の肌をした若い女がカフェの高いスツールに座って、
曇り空の表をガラス越しに眺めている。

注意深く見ると、そこはパリ六区、レンヌ通りとラスパイユ通りの交差点にあることが標識から読みとれる。


さりげない飾りかたから見ると、ひょっとしたら本物かも知れない。

この食事室と居間を兼ねた広い部屋には装飾はほとんどない。

ブリタニカの英語版の百科事典も、無造作に投げ出された「ジャルダン」や「エル」もない。

毛玉の玉も、作りかけの刺繍もない。

ネコもイヌもいない。

実用的だとはまるで思えないマントルピースの上に銀色の小さな杯がぽつんとのっている。

台座には由来がなにも記されていない。

ただ「KYONAN '69」というプレートだけがはめこんである。
8:2020/05/26(火) 16:48:07.364 ID:kC/0uo990.net
(゚、゚トソン「お好きなんですか?」

と兎尊が突然いった。

( ^ω^)「え?」

(゚、゚トソン「あるいはご自分にあっていらっしゃる。あなたのお仕事」

俺は、彼女の質問を無視して、大きく切られた窓を通して見える明るい空に眼をやった。

そのまま長い時間じっとしていた。

そして片手をズボンの尻ポケットにやった。

それ以外には全く体を動かさなかった。

兎尊の視線が揺れた。

(゚、゚トソン「どうかしました?」

俺は顔の位置を動かさなかった。

いいえ、心配しないで、といいたかったが、声が出なかった。

俺はポケットから大きなハンカチを取り出すと顔をそむけ、おおった。

それから思いきり大きなくしゃみをした。

兎尊の緊張がゆるむのがはっきりわかった。
9:2020/05/26(火) 16:50:03
( ^ω^)「どうもね」

といいかけ、またひとつくしゃみをした。

( ^ω^)「風邪をひいたようですお」

(゚、゚トソン「窓を閉めましょうか?」

と腰を浮かしかけた。

( ^ω^)「いや、大丈夫。モクセイのいいにおいが強すぎるんですお。
       鼻が驚いているんですお」

と俺はいい、ハンカチで音たてて洟をかんだ。

(゚、゚トソン「なにか温まるものを飲みますか?」

と兎尊はいった。

口調も表情も少しも心配そうではなかった。

( ^ω^)「いえ結構。
       大したことはないんですお。
       ただ、くしゃみが我慢できなくて」

兎尊はなにもいわずに俺を見ていた。

かすかに喉が動いた。

夏休みの宿題をやり残したまま学校に渋々やってきた小学生みたいな気持ちにさせる視線を彼女はもっていた。

つまりなにか弁解したくなる。
10:2020/05/26(火) 16:53:37.076 ID:kC/0uo990.net
( ^ω^)「自分にあってるかって訊きましたおね、この商売が。
       多分あっているんだと思いますお。
       少なくとも朝の電車に乗らなくても済むのはとても気分がいい」

(゚、゚トソン「満員電車?」

( ^ω^)「満員といういいかたは手ぬるすぎる。
       昔、インドでベンガル人が使った穴みたいなものですお。
       六メートル四方の四角い穴の中に百二十人のイギリス人を詰め込んだそうですお。
       二日たったら生きているのは何人もいなかった」

(゚、゚トソン「アメリカの学生がよくやるでしょ。
     電話ボックスに何人いれるか競争する」

( ^ω^)「そうですお。
       日本人は毎日あれをやっているんですお。
       命がけのゲームをしながら会社へ通っている。
       とりわけ池袋新宿間なんてすごいものですお。
       久しぶりに乗ってみましたがね、感動しましたお」

(゚、゚トソン「感動?」

( ^ω^)「ええ。
       発見といってもいいお。
       あの、恐縮ですがやはりいただけますかお、体の温まるもの」

兎尊は笑いながら俺をにらむ真似をした。

宿題を忘れた小学生の弁解に説得されたふりをする女教師の役になろうというらしい。
11:2020/05/26(火) 16:56:42
( ^ω^)「白だったら」

白だったらいらないと言おうとした。

どうせ冷蔵庫で身もふたもなく冷やしてあるはずだ。

風邪薬としてはふさわしくない。

(゚、゚トソン「赤。安物」

( ^ω^)「なんですかお」

(゚、゚トソン「コート・デュ・ローヌ」

( ^ω^)「そいつはいい。
       名うての安物だお。
       なまぬるいコート・デュ・ローヌを飲むとパリ時代を思いだすお」

(゚、゚トソン「あなたパリにいたことがあるの?」

兎尊は立ち上がりかけた姿勢のまま尋ねた。

( ^ω^)「ありますお、三日だけ。
       三年間、昼を抜いて団体で行ったんだお」

俺は台所の兎尊に向かって喋りつづけた。

ここからでも食器棚の隙間を通して兎尊の体の一部が見えている。
12:2020/05/26(火) 16:57:35
(゚、゚トソン「ワインでいいかしら。少し残ってるの」

( ^ω^)「白だったら」

白だったらいらないと言おうとした。

どうせ冷蔵庫で身もふたもなく冷やしてあるはずだ。

風邪薬としてはふさわしくない。

(゚、゚トソン「赤。安物」

( ^ω^)「なんですかお」

(゚、゚トソン「コート・デュ・ローヌ」

( ^ω^)「そいつはいい。
       名うての安物だお。
       なまぬるいコート・デュ・ローヌを飲むとパリ時代を思いだすお」

(゚、゚トソン「あなたパリにいたことがあるの?」

兎尊は立ち上がりかけた姿勢のまま尋ねた。

( ^ω^)「ありますお、三日だけ。
       三年間、昼を抜いて団体で行ったんだお」

俺は台所の兎尊に向かって喋りつづけた。

ここからでも食器棚の隙間を通して兎尊の体の一部が見えている。
13:2020/05/26(火) 16:59:44
(゚、゚トソン「なに? 発見て」

( ^ω^)「発見? ああ、つまりですお。
       なぜ日本人は過酷な宗教を持たずに済むのかということですお」

(゚、゚トソン「え? なんですって?」

兎尊の声がいくぶん大きくなった。

( ^ω^)「宗教の一つの意義ってのは、地獄のイメージを提示することだと思うんですお。
       ひとはそれに従って自分の行動を律するんですお。
       ところが日本人には、少なくとも東京人には、さらに少なくとも池袋新宿間の電車を利用するひとには地獄のイメージなんて必要ない。
       毎朝経験しているからですお。
       凄まじいひと混み。
       これを描けといったらマンガ家はネコを連れて逃げだすくらいですお」

兎尊がグラスに注がれたワインを俺の前においた。

もう一度なにかが見えるかと期待したが駄目だった。

彼女が意識して胸をそらせていたからだ。

商品見本は一度しか見せない方針らしい。
15:2020/05/26(火) 17:03:09
( ^ω^)「汗がにおう、質の悪い香水がにおう、ポマードがにおう。
       他人の肉体が自分に押しつけられるというのは、ある種の覚悟を決めたとき以外は気分の悪いものですお。
       彼らの息もにおいますお。
       歯磨粉のハッカで隠しきれるものじゃない。
       胃弱と厭世と絶望のにおいがしますお。
       それがポマードのにおいと混じりあったひには……今もいるんですお、べったりと、まるでギアボックスにグリスをくれるように塗りつける男が。
       そんなにおいを嗅ぐと私も相当に厭世的になりますお」

(゚、゚トソン「それが地獄のイメージですか」

( ^ω^)「そうですお。
       地獄ってのは他人が作り出すものだと思っているでしょう。
       ところがこの極東の島では自分も地獄を構成する部品なんですお。
       それも生まれた時からそうなんだお、
       自分は地獄を作り出すために欠かせない部分品として生まれてきたんだと思い至って、はっとするんですお、満員電車の中で。
       針の山とか身を焼く業火とか、そういう古典的な地獄にさえ堕ちることはできないと気づくんですお、たとえ氏んでも」

(゚、゚トソン「どこへ堕ちるんです、私たち」

( ^ω^)「もちろん新宿池袋間の朝の電車の形をした地獄ですお。
       つまり生きているときも氏んでからもまるでかわりないってことですお」

(゚、゚トソン「暗い考えかたね」

( ^ω^)「暗い、とは言わないでくださいお。
       せめてリアルと言ってくださいお」

兎尊は自分も赤ワインに口をつけた。


テーブルに戻したグラスのふちに薄く口紅が残った。

俺は彼女の指先がそれをさりげなく拭き取るのを見ていた。

あまり気に染む仕草とはいえない。

口紅のついた指先を、今度はどこで拭って帳尻をあわせるのだろう。
18:2020/05/26(火) 17:07:40
( ^ω^)「身動きなんてできやしない」

と俺は続けた。

( ^ω^)「心臓が動くのが不思議なほどの混雑だお。
       みんなが汚れた空気でも奪いあわなくちゃならない。
       そんなとき誰かとてつもなく無遠慮なやつがでかいくしゃみをする。
       いいですかお、誰も腕も指も動かせない。
       顔をそむけることさえできやしないんだお」

(゚、゚トソン「たいへんね」

( ^ω^)「たいへんですお。
       本人だってハンカチで口をおさえたいんだお。
       だれも好きでしぶきを撒き散らすわけじゃない。
       誰が悪いかっていえば窓を開けたまま眠ったやつが悪いんだが、もっと悪いのは突然秋になったことだお。
       まるで回り舞台みたいだったから。
       本人だって恥ずかしいんだが、まわりのやつらは、俺をブードゥー教の魔術師みたいな眼で見やがるお」

(゚、゚トソン「そりゃ怒るわよ。
     あたしだったらひっぱたいてやるわ」

また兎尊が笑った。
19:2020/05/26(火) 17:08:43
( ^ω^)「しかし手も動かない。
       誰かが俺の足を踏んづけようと探していたみたいだけど果たさなかったお。
       なんとか努力して果たさせなかったお」

(゚、゚トソン「こすいのね」

( ^ω^)「防衛的な性格なんですお。
       新宿へ着くまでずっと週刊誌の広告を読むふりをしていました。
       それ以外には生き延びる手段がなかったですお。
       彼をその気にさせるにはオーラルセXXス。
       してあげるからしてもらえる、それが性のルール。
       すっかり覚えてしまったほどですお」

俺はついにグラスを空にした。

彼女は俺の眼の中を覗き込んだ。

もう一杯飲みますか? 飲みましょう。

ただしこれでおしまいだ。

( ^ω^)「新宿から中央線に乗り換えた時は心から安心しましたお。
       ガス室の一歩手前で番人に、今日の営業は終わり、と言われた気分ですお。
       すいている逆行電車に給料日前のヤクザみたいにだらしなく腰おろして、
       自分の人生の選択が正しかったことを確認しましたお」

(゚、゚トソン「なに?」

( ^ω^)「三菱商事を蹴っ飛ばして探偵になったことですお。
       ひょっとしたら回教国の秘密警察の拷問は耐えられるかもしれない。
       でもあれだけは駄目だお。
       満員電車だけは。
       あの孤独と憎悪だけは」

(゚、゚トソン「そう?」

と兎尊はいった。
21:2020/05/26(火) 17:10:04
(゚、゚トソン「あれを乗り越えなければ誰もが社会人にはなれないのよ、この国では」

( ^ω^)「だったら私はこのままでいいお。
       一生チョコレートパフェを食べ続けて虫歯で死ぬ子供でいいお」

(゚、゚トソン「探偵ってひねくれているのね」

( ^ω^)「元々ひねくれているから探偵になるんですお」

俺はこの話題を打ち切ることにした。

( ^ω^)「ところで、用件をうかがいましょうかお。
       風邪とあなたの魅力で熱がでないうちに」

(゚、゚トソン「そういうセリフ、平気でいえるの?」

( ^ω^)「家を出る前に暗記してくるんですお。
       ノートはいくらでも予備がありますお。
       なんならとりかえますかお?」

(゚、゚トソン「いいわ。
     とりかえても大差はないんでしょう」

( ^ω^)「ごもっとも。たいていの仕事は引き受けますが、
       結婚の身元調査と行方不明のネコ捜しはやりませんお」

兎尊は溜息をもらした。少し性的な感じがした。

午前中の住宅街にはあまり似合うとはいえない。
22:2020/05/26(火) 17:11:10
(゚、゚トソン「夫のことなんです」

それで言葉を切った。

俺は待った。

俺でも英字新聞を一ページ読み終えることができるくらいの時間がたち、モクセイの花粉の微粒子を鼻腔に受けてまたくしゃみをした。

それでも相手をうながすことは避けた。

(゚、゚トソン「女がいるようです」

( ^ω^)「ほう」

彼女は眼を伏せたままでいった。

眼を伏せると、はじめてその瞳の呪縛から解かれ、化粧品を塗りこんだ眼尻の皺に気付く。

(゚、゚トソン「女の底意地の悪い勘なんですけど」

本当に恥じらっているのかどうかわからなかった。

しかし、少なくとも俺にはそう見えた。
26:2020/05/26(火) 17:13:33.702 ID:kC/0uo990.net
( ^ω^)「わかりますお」

俺はグラスを空にしてテーブルのうえに置いた。

グラスの濡れた曲面の向こう側にセイラムの箱が歪んで見えた。

( ^ω^)「わかりますお。
       ちっとも意地悪くなんかない。
       むしろ健全だと思いますお。
       少なくともあの満員電車の、顔のない、他人を肘でこづく勤め人連中よりは」

兎尊はゆっくりと庭に眼をやった。

俺は彼女の視線を追った。

夏がもどらないことを嘆く女の横顔としては完璧なしあがりだった。

彼女の首筋の細さがくっきりと浮かびあがった。


かつて俺は一度だけその首筋に触れたことがあった。

むろんたいしたした事件ではない。

もう何年も前のお互いの気まぐれだ。

しかしフィルム保管室の冷え冷えとした、埃の入り混じった空気のにおいをごくまれには思い出すこともある。

じきに俺はそのコマーシャル制作会社のアルバイトを辞めた。

それきりだ。


彼女が電話をかけてきた時は驚いた。

仕事の依頼だとわかり、安心と軽い失望の両方をいっしょに味わった。

電話帳をめくっていたら見つけたのよ、と彼女はいった。

そして、あなたの名前ってかわってるすぐわかった、とつけ加えて低く笑った。


声はかわらなかったが、香水は昔のものと違っていた。


モクセイの群落のかげに薄紫色の小ぶりな花が見えた。

丈も高かったが、花弁はそれぞれに隙間をおきながら独立していて、どことなくはなやぎが感じられない。
29:2020/05/26(火) 17:16:04.935 ID:kC/0uo990.net
( ^ω^)「よくこんなところで育てましたお」

兎尊が怪訝そうに振り返った。

( ^ω^)「花ですお。
       マツムシソウ。
       本来は高原にしか咲かない」

(゚、゚トソン「夫が植えたんです。
     時々水を自分でやります」

俺はいった。

( ^ω^)「マツムシソウの花言葉を知っていますかお」

兎尊は首を横にふった。

鼻根からかなり高い鼻梁が自然光を遮って右眼に濃い影を投げていた。

(゚、゚トソン「なに?」

彼女は俺を促した。

俺は答えた。

( ^ω^)「寡婦の悲しみ、というんですお」
32:2020/05/26(火) 17:21:18
――


溜池の交差点から不規則な方形に切り取られた空が見えた。

空が少しずつ色を変えていくのがはっきりわかった。

黄昏の空は美しかった。

しかしそれは十分しか続かなかった。

俺はその間にハイライトを三本吸った。


紙袋を抱えた男たちと小さなショルダーバッグを肩にかけた女たちが、師団編成で俺の前を通り過ぎた。

彼らはみな駅の方へ歩いていった。

終業後の約束のありそうなもの、まるであてのなさそうなのもとりまぜてだったが、少なくとも朝の電車の中よりも生気が見える。

俺もこんなふうになりたいと痛切に望んだことがあった。

もう昔のことだ。

九時から五時までの時間を売り、その代償としていくらかの金と、夕方から夜にかけての短い放恣な時間を得る。

首のまわりに硬い布を巻きつけることに慣れさえすれば、それは悪いことではないように思えた。

単調の中に安定があり、
安定は心の平穏をたやすく育て、
時々少量の不運とか不満とか野心とかの顆粒状の肥料をやれば、
適度に枝ぶりを歪めた幸福、
または満足という名前の木が育つ。

あの枝を伐ろう、
この枝のねじれを直そうと心を配ることに多忙なら、
いっそのこと木そのものを伐り倒してしまおうなどという大それた衝動に駆られるこもないから、
長期的に見れば、
適度な不幸はむしろ木の健康には有益なのだ。


だが、俺はそういう生活を手に入れることができなかった。

いちおう人並みには望んでみたのだが、先方から拒否された。

おれは大した恨みも感じることなく結果を受け入れた。

何度も似たようなことがあったので無感動になっていたのだろうか。

よく理由はわからないが、いまでも勤め人の群を見ると心がうずく。

朝は嫌悪で。

夕方はほんのわずかだが、憧れで。

そして七月と十二月には嫉妬心で。
33:2020/05/26(火) 17:22:50.440 ID:kC/0uo990.net
空がモンブランのブルーのインクの色になり、やがてプロシャ人の軍服の色に変っていった。

人通りが少しずつ減り始めた。

それでも俺は同じ場所を動かなかった。

ハイライトを吸い、半分ほど吸ってはレモンドロップスの入っていたブリキの缶の蓋でにじり消し、缶の中におさめた。


俺を見とがめるものは誰もいなかった。


誰も気にしている暇はないのだろう。

ごく稀に地下鉄の駅のほうへ人波からはずれてゆっくりと歩く男が俺に眼を向けた。

それもほんの一瞬のことでじきに歩み去り、どちらも顔を忘れてしまう。

彼らのほとんどが中年というより初老に近い男で、体が小さく、背中が曲がっていた。

一本抜けるごとに手帖にバツ印をつけていそうな髪の持主で、そういうタイプに限ってポマードをべったりと塗りたくっている。
36:2020/05/26(火) 17:26:08
ふと気づくと、葬儀屋みたいなだぶだぶの濃紺の背広を着た男が立ち止まってしげしげと俺の顔を覗き込んでいた。


 彡⌒ミ
( @_ゝ@)


焦点があまりにもぴったり固定されていて、逆にうつろに見えた。

にらみつけたが動じなかった。

ほんの少しだがなにか重要な部分が精神から欠落しているのかも知れないと思った。

こういうタイプは苦手だ。

相手にもある程度のユーモアがないと、俺には説得できない。

俺は眼をそらし、もう長い間眺めつづけていたビルの玄関に視線を戻した。

その貧相な、ビンの底よりも厚いレンズの眼鏡の男が誰かに似ていると思った。

そうだ、ジャン=リュック・ゴダールだ。

貧相なゴダールをさらにひとまわり貧相たらしくし、髪にポマードをひと瓶塗りつけるとその男になる。
38:2020/05/26(火) 17:28:05
(`・ω・´)


目指す男がビルの玄関口から出てきた。


俺は胸のポケットから写真を取り出した。

スナップ写真の右側を三分の一ほど切り取った写真だった。

写真を一枚くれといったら、兎尊はそれを出した。

その時にはすでに切り取ってあった。


写真の中で男は微笑んでいた。


硬そうな白い歯がきれいな列をつくって並んでいた。

髪は短く切りそろえ、三十代の終わりにかかった男としては不思議なほどよく似合っている。

日に焼けた顔のそこかしこにできている皺は適度に深く、男の筋肉質な体を、そのシャツの胸部の張り具合とともに暗示していた。

どこといって非の打ちどころのない顔立ちだった。

ひょっとしたらこのままアイビーリーグの卒業アルバムに入れても通るかも知れない。

不満があるとしたらこの男には写真で見る限り、論うべき欠点がないということだ。

人は一言二言ケチをつけることができて初めて相手に安心することができる。

すべての学科をBプラスでこなしてきたスポーツの英雄を前にするとどこか居心地が悪い。

写真の彼は左手をあげて誰かの肩を抱いている。

多分、と俺は思った。

切り取られた部分に写し出されていたのは兎尊自身に違いない。

浮気された女が自信を喪うとよくこういうことをする。
39:2020/05/26(火) 17:29:48
彼はゆっくりと赤坂の方へ歩いた。


俺はゆっくりと十数えてから彼に従った。


歩調が遅いので多くの歩行者に追い抜かれた。

外国からの観光客も混じっている。


まず韓国人たちが急行列車みたいに追い抜いていった。

彼らは何かに腹を立てたような強い、角張った口調で話つづけた。

小鳥まで言葉で射落としかねなかった。


そのあとを中国人の家族連れがつづいた。

彼らは両方の手に電化製品の入った箱をぶら下げていた。

今日の仕事をすっかり果たし終えたので、中国人たちは満足し、声も落ち着いて、歩調も緩やかだった。

それでも彼らは、前を歩く都村と俺とを結局追い越していった。
40:2020/05/26(火) 17:31:52.773 ID:kC/0uo990.net
都村は角を曲った。

急いで曲がり角までいく。

小路の先を歩く彼が酒屋に入っていくのが見えた。


酒場ではなく、酒屋だった。

化粧箱に入った酒瓶が並んだ棚の下で、
タマラ・プレスには少し劣る体格の女将が、
飛行機の自動操縦装置にデータをインプットする真剣さで電卓と取り組んでいた。

彼女は少し間をおいて入った二人の客に、顔もあげずに低い声で、いらっしゃいといった。


酒屋の店の左側の通路にねそべる老いた犬を跨いでいくと、立ち飲みのカウンターの一画にたどりついた。

店は盛っていた。

椅子は一脚もなく、
小さな調理場を囲んだ高いカウンターと、
まわりの壁にぐるりと張り巡らされたカウンターの二つがあり、
その全てにぎっしりと客が並んでいた。

壁には鏡が張り付けられ、壁際の客は自分の顔の表情の崩れを反省しながら飲む仕掛けになっている。
44:2020/05/26(火) 17:33:23.267 ID:kC/0uo990.net
都村は調理場の中にいた若い男に声をかけて焼酎のソーダ割りを受け取った。

他にキンピラゴボウの一皿を手にして壁のほうへ移動した。

思いのほか低い声だったが、長旅を終えた馬たちの水飲み場のような混みかたの店の中でも彼の声はよく通った。

俺も同じものを注文して、客を四人おいた壁際のカウンターへもぐりこんだ。

ここの客はたいてい一人で、飲みかたも内省的だった。

稀にいる二人連れも声高に話しはしなかったし、会社の人事のことよりもプロ野球の話題を選んでいた。


都村はグラスを口に運びかけたまま鏡の中の自分の顔を見ていた。

顔を歪めて覗き込みながら、あいているほうの手で頬を撫でていた。

髭の濃い体質らしく、はっきり両頬には翳りが見えた。

写真で見るよりも白髪が目立った。

側頭部はとりわけそうだった。
47:2020/05/26(火) 17:35:37.656 ID:kC/0uo990.net
彼が兎尊と結婚して九年になる。

真冬にスキー場で知りあい、春にはいっしょになったという。

彼のスキーは抜群にうまかった。

小雪の煙るもっとも急なスロープえお一人で華麗に滑り降りていく姿を見た瞬間、
雷の一撃に打たれたのよ、
と兎尊は俺にいった。

有名な私立大学のサッカー部出身で、卒業すると大手の事務機の会社に入った。


結婚した翌年、都村はニューヨークの提携会社に一年間出向した。

社内ではこのコースは将来の出世を約束されたと同じ意味がある。

数人の仲間と一緒だった。

兎尊は同行しなかった。

妊娠の中期に入っていたからだ。

彼女は二人のために、都村の両親が明け渡してくれた荻窪清水町の家で帰りを待っていた。


都村はアメリカから一週間に一度ずつ国際電話をかけてきた。

兎尊はしだいに大きくなる腹をいたわりながら、赤ん坊の肌着をつくり続けた。
50:2020/05/26(火) 17:38:13.920 ID:kC/0uo990.net
都村がアメリカでの仕事を、
やはりBプラスの成績で終えて帰った時から二人の関係はすっかり変質せざるを得なかった。

兎尊が流産していたからだ。

彼女は誰にも責められなかった。

伊豆のリゾートマンションに住んでいた義父母にも、都村自身にも責められなかった。

しかし誰もが悲しんだ。

二度と子供ができない体になったことを知らされた都村は、
それでも、
物置から不要不急の芝刈機を取り出そうとして転んだ彼女を責めなかったが、
二人の間は確実に冷えた。

ジョギング・シューズの宣伝にそのまま使いたいと広告マンが誘惑に駆られる彼の微笑は変わることはなかったが、
都村の側頭部の白髪の数が増し、
兎尊の目尻の皺が深くなるに従って、
二人の会話は二次関数のグラフに下降線のように減った。

兎尊は報われない大きな乳房を両手で抱え込みながら、尼僧ヨアンナの嘆きをなぞるように味わった。


都村がまた調理場のカウンターに近づいて、飲み物のおかわりを注文した。

俺も同じようにした。

相手は鏡の中の自分以外にはまるで関心を払わない。

かといってナルシストというわけでもなさそうだ。

暗い、
とはいえないが、
スナップ写真の中の男は少なくとも明日の試合に備えていたが、
現実の彼はそうでもない。

毎日の練習は欠かさないが、
試合だけは一生やるまいと心に誓ったボールゲームのプレイヤーのようだった。
54:2020/05/26(火) 17:40:05
また衝動が襲ってきた。

俺は店の中央部の一点に視線を集中した。

他人は俺が空間に浮かびあがった奇蹟の文字を読み取ろうとでもしている、
と思ったかも知れない。


それから手探りでグラスをカウンターのうえに置き、
腰のポケットからハンカチを取り出した。

ハンカチは湿り気をもう十二分に帯びていた。

口にあてがう直前に、
鼻腔の奥を快い電流が流れ、
俺は大量の空気と少量の唾液を飛散させながらくしゃみをした。


いちばん隅にいた小男が鋭い、
批難の眼を向けたが、
こちらが目で謝罪するよりも早く顔をそむけてしまった。


けっ、お前なんか腕カバーをしたまま棺桶へ入りゃいいんだ。

中ソ戦争が起こることより帳簿の尻が百円分だけあわないことのほうが恐怖なんだろう。

何十年も三十センチの距離でものを見続けた結果、
世界も三十センチの直径しか持っていないのだと錯覚し、
それをかたくなに信じるタイプだ。

俺は、そうならないために、健康保険も自前で払っている。


都村を視界の隅に追ったが、彼は何の反応も示さなかった。
55:2020/05/26(火) 17:41:22.601 ID:kC/0uo990.net
( ФωФ)「ご幸運を」

と隣の男がつぶやいた。

太いストライプの入った栗色の背広を着た老人だった。

頬がつやつやと輝いている。

彼の頭は俺の口元よりしたにあった。

俺は彼にいった。

( ^ω^)「すみませんお、お騒がせして」

( ФωФ)「いいや、構いませんよ」

とストライプの男はいった。

( ФωФ)「風邪ですか?」

( ^ω^)「ええ。
       季節の変わり目の、よくあるやつらしいですお。
       金太郎の腹掛けをして寝ればよかった」

ストライプの老人は快活そうに笑った。
58:2020/05/26(火) 17:43:20
( ^ω^)「でも」

と俺は尋ねた。

( ^ω^)「なんですかお、その、幸運をってのは」

男はレモンの細片の入ったグラスを掲げながらいった。

( ФωФ)「なんというんですかね、習慣ですよ。
       私はラテンアメリカに長くいましてね、あちらのほうでは間髪いれずにいってやるんですよ、くしゃみをした人にね。
       幸運をって。
       そうするといったほうがね、百円玉を拾うくらいの運には巡りあえるらしいですよ」

彼はさっきからにおいの強い煙草を吸っていた。

その煙が俺のくしゃみを誘いだしたのかも知れない。

( ^ω^)「いつもここにくるんですかお?」

( ФωФ)「いつも」

と男は答えた。

とうにバスにただで乗れるようになっているはずだが、
多分自分のポケットの小銭を取り出し続けているだろう。
60:2020/05/26(火) 17:46:13
( ^ω^)「いつもですかお」

( ФωФ)「もう例外なし。
       六時に仕事が終わる。
       六時五分にはこの店に入る。
       レモン割りを二杯飲む。
       つまみを二皿食べる。
       一時間ずっと立っている。
       ぴったり一時間で膝が痛くなるので店を出る。
       そういうことです」

( ^ω^)「そういうことですかお。
       こういうタイプの店が好きなんですかお」

( ФωФ)「好きだねえ。
       思い出すんだよ。
       いろんなことをね」

( ^ω^)「はぁ」

男はグラスを口に運んだ。

末期の水で唇を湿す程度にしかグラスの内容を減らさなかった。

手の甲の皮膚には濃いしみがいくつも浮いていた。
62:2020/05/26(火) 17:47:59.821 ID:kC/0uo990.net
( ФωФ)「ディエンビエンフーが陥落したニュースを聞いたのが、これとそっくり同じ感じの店だった」

( ^ω^)「どちらですかお。浅草?」

( ФωФ)「パリだよ。トゥルピゴ街の角。
       コンセルバトワールの近くで、うちのヨーロッパ総局のしたさ。
       知っているかね」

( ^ω^)「いえ。まだ外国へは一度も」

( ФωФ)「それはいかんよ。
       君は出かけるべきタイプだ」

俺は老人の顔をまじまじと眺めた。

彼の眼は笑っていなかった。

( ФωФ)「君の顔はそういう顔だ。
       外国で苦労するべきだ。
       苦労すれば味の出る顔だ」

( ^ω^)「ありがとうございますお」

( ФωФ)「苦労しなくちゃだめな顔ともいえるな。
       どことなく下品だ。
       君の職業を当ててみようか」

( ^ω^)「お願いしますお」

( ФωФ)「芸能プロダクションのマネージャー。
       いいかえれば、まぁ女衒だな。
       化石化した良心をまだ箱につめてしまってある根性のない女衒だな。
       どうだ。いいところを突いているだろう」

( ^ω^)「恐れ入りますお」

俺は都村を盗み見た。

彼は相変わらず同じ場所にいた。

片肘をカウンターにつきグラスの中を覗き込んでいた。

魂を酒のグラスに落としてしまったボクサーが、
自分の闘争心に自信を失って引退の決意を固めようとしているシーンに使えそうだ。
65:2020/05/26(火) 17:49:13.385 ID:kC/0uo990.net
( ФωФ)「ところで女衒君」

とストライプの老人がいった。

( ФωФ)「君はディエンビエンフーという名前を知っているかね」

( ^ω^)「知ってますお。
       たしか、北朝鮮のどこかでしょう。
       凄い戦争があったところじゃないかな」

( ФωФ)「外国へ行くのもいいが、君の場合は少し勉強が足りなようだね」

( ^ω^)「お説の通りかも知れませんお」

( ФωФ)「反省したまえ」

( ^ω^)「そうしますお。
       でも外国へ行くなら勉強しなくてもすむところにしますお。
       たとえば」

( ФωФ)「たとえばどこかね」

( ^ω^)「たとえば、南極ですお」
66:2020/05/26(火) 17:51:38
都村が出口に向かって歩きだした。

日本の酒屋の店頭の立ち飲みの伝統を忠実に受け継いでいるので、
勘定はキャッシュ・オン・デリバリイだ。

だから帰る客はふらりと歩きだし、ふらりと出ていけばいい。

俺は都村のあとに続こうとした。


左脚から歩きかけた瞬間にまた大きなくしゃみが出た。

今度もまたハンカチでカバーする余裕はなかった。

店のざわめきが消えた。

嘆きの壁も崩しかねない大きな音がしたのだろう。

俺は少しばかり恥じた。

( ФωФ)「ブエナ・スエルテ」

幸運を、と老人が焼酎のレモン割りをさしあげて、いった。

俺は答えた。

( ^ω^)「ムーチャス・グラシアス」
67:2020/05/26(火) 17:52:50
――


地下鉄のホームはまだ通勤客の敗残兵たちで混んでいた。

みんな聖書に読みふける修道僧に似た真剣さで夕刊新聞の赤い見出し活字を追っていた。


(`・ω・´)


都村は渋谷行のホームに立っていた。

家に帰ろうとしていて、
なおかつ時間を浪費することを嫌うなら、
新宿方面へ行く電車の入線してくるホームに立っていなくてはならない。

彼は姿勢をまっすぐにして線路の方を向いていた。

おせっかいな探偵があとをつけていることには気付いていない。


俺は柱に寄り掛かってなるべく都村のいるほうに視線を送らないよう注意していた。

強い視線はなぜか人の感覚を刺激する。

我々は誰でも背中にその感覚器を持っている。

なにかを置き忘れた感じしてふり返ると、たいては誰かが見つめている。
68:2020/05/26(火) 17:55:19
俺はかたわらの広告ポスターを貼りつけたパネルに視線をぶつけていることにした。

「秋のイタリア、35万8千円。
 ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、カプリ、リミニ」

「オーストラリア東海岸とニュージーランド、49万5千円。
 世界最大のグレート・バリア・リーフから、マウント・クックの大ゲレンデへ」

「ニューカレドニア8日間、太陽とサンゴ礁。
 もう一度夏を、あなたに」

この国はもうじき寒くなる。

寒いのは苦手だ。

実りの少ない労働を終え、
カウンターだけの店で、
汚れた海綿を洗うような飲み方で酒を飲み、
帰って事務所兼用のアパートのドアをあけるときの鍵の冷たさがいやだ。

鍵束を何度もかちゃつかせながら、冷えた空気の暗い部屋へ入るのがいやだ。

まるで自分の入る棺の蓋を苦労してあけているみたいだ。

冬の乾いた空気は頭痛を呼び込む。

真冬に頭痛に耐えながら爪を噛んでいると、時折、キルケゴールでも読んでみようかという気分になる。

それがもっともいやだ。
69:2020/05/26(火) 17:56:46
電車の間隔があいているらしく、プラットホームには人があふれだしていた。

俺は憂鬱になった。

都村がどこの駅で降りるのか知らないが、
そこまで少なくとも誰かの禍々しい整髪料のにおいに悩まされることは避けられない。

ハンカチだけは出しておこう。

四半世紀前の日活の映画スターみたいに歩きながら変装のつもりで顔をおおったりはしないが、
くしゃみの衝動が起きたら間髪をいれずに使えるように。


案内サインが電車の入線してくることを告げた。

都村はいまやホームのいちばん前に立っている。

俺も自然にそうなった。

ドアが二つ分は離れているが同じ車輛に乗ることになるのたしかだ。


地下鉄の向こうが明るくなり、臆病な甲虫を思わせる電車が近付いてきた。

黄色い光を放つ二個の目玉が見えて、遠路が振動し、轟音が大きくなった。

電車が入るときにはホームの真ん中にいるものは半歩前進し、
ホームの端にいるもは半歩後退する。

俺も無意識のうちに、わずかに身をひいた。
70:2020/05/26(火) 17:58:34.000 ID:kC/0uo990.net
Σ( ^ω^)

半歩さがった瞬間に誰かの体に触れた。

角張ったものにあたった。

肘だったかも知れない。

ふり返ろうとしたが、その男はそうさせなかった

両手で強く前の方へ俺を押した。


電車は目前まで接近していた。

臆病な甲虫が獰猛な肉食獣に姿を変えていた。

(;゚ω゚)

俺は声をあげたつもりだった。

喉から乾いた声帯のこすれあうぶざまな音しか出なかった。

そのかわりにくしゃみが出そうになった。

命をなくすかどうかの瀬戸際にこんなことではとても生き残れない、と強く反省した。


しかし、生き残りたかった。

腕はさらに強く俺を押しのけようとした。

状態のバランスが完全に崩れた。

パンダグラフと架線の間の青い火花が散った。
71:2020/05/26(火) 17:59:42.635 ID:kC/0uo990.net
俺は両腕を前にではなく、うしろに泳がせた。

なにか硬いもの――コンクリートだと思った――が指先に当たった。

掴めはしなかったが指が引っかかった。


爪をなくし、一生ビールのプルリングが引きあけられなくても構わないと思った。

そのまま指先のかかった右手を支点にして大きく、体を振りながら地面に倒れた。

それしか助かる道はなかった。


倒れた拍子にすねをいやというほど柱の角にぶつけた。


涙が滲み、ほぼ同時に電車の先頭が強風とともに俺のすぐそばを駆け抜けた。


気を狂わせる音量の警笛が地下ホームのすべての空気を震わせた。

しかしすべてが一瞬のうちに始まり、
一瞬のうちに終わったので、
悲鳴の得意な若い女も準備する暇はなかった。

この殺人未遂に気付いたものさえ意外に少なかったかも知れない。
73:2020/05/26(火) 18:00:37
俺を押しのけようとした男を目で探したが、
誰もが象皮病患者をあわれむごとき表情しか見せておらず、
殺意の片鱗すら感じさせなかった。

それに眼は痛みをこらえる涙で曇っていて、
異分子を拾い出す作業にはまったく不向きな状態だった。

俺はすべてをあきらめ、すねを両手でかかえて泣くことに専念した。

(‘_L’)「大丈夫ですか、あんた」

と、駅員が声をかけた。

( ;ω;)

声は出なかった。

それよりも別のことを、
たとえばチーズケーキかなにかを想像することでわずかでも痛みを和らげたかった。
76:2020/05/26(火) 18:02:49
(‘_L’)「酔ってるのかね、あんた」

駅員が不審そうにのぞきこんでいる。

やはりなにも答えられず、ただ呻き続けた。

やがて駅員は「気をつけてもらわないと」と捨て台詞めいた言葉を残して去っていった。


泣きながら俺は思った。

もしこの柱が円柱だったならばいま頃は線路上に体を横たえていただろう。

以前頭であった部分が、
以前胴体であったり、
脚であった部分と一緒にいないのをいぶかしみながら。

ついでに地下鉄の側壁に爆発している芸術の商品見本みたいな、
カーマイン一色の壁画をつくりあげて。

しかしその場合このすねの痛さはなかったに違いない。

どちらをとるかといわれればいまはわからない。

この痛みを経験したあとだと、自分でもはっきりどちらとはいえないのだ。
78:2020/05/26(火) 18:04:00.897 ID:kC/0uo990.net
俺は長い間、柱に寄りかかってうずくまっていた。

イヌが地下鉄にも住みついていたなら、
七、八回は小便をかけられていただろう。

ようやく人心地ついて立ちあがったときは、
むろん都村の姿などホームのどこにも見えはしなかった。

それどころかすでに人影がまばらである。


ベンチで編物を続けていた老女が俺を見てにっこり笑った。

俺も努力して笑い返した。

一幕の芝居がはねたあとみたいだった。

老女はショッピングバッグ・レディだった。

その笑いには威厳と孤独と友情が、
名人のつくったカクテルみたいにほどよく混じりあっていた。
79:2020/05/26(火) 18:05:07
――


水曜日はいい天気だった。

外を歩くと汗ばんだ。


俺は上着を抱えて歩いた。

風邪はまだ治りきらず、くしゃみもでないが、鼻がぐずつく。

明るいうちに用を済ませ、近所のはっちゃん食堂でサバ味噌定食を食べて眠った。

カプリ島で女に逃げられる夢を見た以外は平穏だった。

すねの傷はまだだいぶ痛んだ。


木曜日は雨だった。

夕方まで偽装倒産事件の経費の精算をしていた。
80:2020/05/26(火) 18:06:26.924 ID:kC/0uo990.net
こういう仕事は雨の日に限る。

子供の頃は雨の日には郵便ポストの貯金箱をひらいて小銭を勘定するのが好きだった。

十円玉を十枚ずつの円筒状に積みあげては、たてから斜めから眺めては満足していた。

小銭の詰まった郵便ポストが百個集まったらヨットが買えると思っていた。

やはい雨に日には学校図書館でアラン・ボンバールの「実験漂流記」を発見して、
海の男として生きることを誓っていたからだ。

大人になってヨットは買えないとわかっても小銭を勘定して楽しむ趣味は消えなかった。

だから経費の精算というと時どき妙に心が弾む。

しかしこんな姿は誰にも見せたくない。

いま貯金箱を叩き壊したとしても、なにができるというのだろう。

西池袋のビリヤード屋の二階を引き払って、
南青山の貧民窟に部屋を借りることすらできはしない。
82:2020/05/26(火) 18:09:04
夕方からはまた溜池へ出向いた。

三時間待ったが都村は会社の玄関から出てこなかった。

帰って二十四時間ひらいているコインランドリーへ行き、
洗濯物が仕上がるまで「タイ少数民族の習俗」を読んだ。

夜中だというのに、仕事を終えたホステスたちがひっきりなしに出入りした。

それぞれが一トン分くらいの汚れものを持っていた。

いったい彼女たちは一日に何回着換えるのだろう。


金曜日は晴れたが、気温はぐっとさがった。


都村は六時半きっかりに社屋を出てきた。

あいかわらずなにも手にしてはいなかった。

着ている背広の色が濃くなっていた。
83:2020/05/26(火) 18:13:56
彼は例の立ち飲み店に入り、以前と同じメニューで飲んだ。


店の中は相変わらず混雑していた。

ストライプの背広を着た老人はいちばん隅にいて誰かと話していた。

多分、今夜も見知らぬ男を相手に、
アルジェリアの独立戦争かコンゴの動乱の話をしているに違いない。

彼に見つからないように背を向けて、ゆっくりとグラスを口に運び続けた。


三十分間に都村は二度電話をかけた。

いずれも相手不在だったらしく、なにも話さずに受話器をおいた。


都村は酒屋を出てから近くのゲームセンターに入った。

異性の侵略者を射ち落すゲームを世にもつまらなそうな顔で、
しかし手慣れた仕草で続けている。

一回のゲームがなかなか終わらない。


俺がゲーム機械で気のないゲームに百円玉を十個近く消費する頃、
ようやく彼は顔をあげた。

額に薄く汗が光っていた。


それから立ちあがって電話をかけた。

今度は通じたらしく店を出た。

俺は心からほっとした。

どんなに相手を研究し、
技術に熟達しても絶対に勝てないゲームから解放されるのは嬉しかった。
85:2020/05/26(火) 18:16:49
――


地下鉄は渋谷からそのまま郊外電車に乗り入れる。


彼は四つ目の駅で降りた。


商店街を抜けるときにケーキ屋へ入った。

ショー・ウィンドーの前でかなりの時間を費やし、
何個かのケーキを箱に詰めさせた。

道路の反対側からちらりとその横顔を眺めたとき、
俺は彼の表情をフィルムのようにおおっていた孤独感が溶けかけているのに気づいた。


いくつかの角を曲がり、
いくつかの道を横切り、
彼は一軒のアパートの中へ入っていった。


激しく雨の降る日には急流になりそうな坂の途中に、
一階に大部分をガレージに階段状に設置したその四階建てのアパートはあった。

通りに向けて不規則なかたちの外廊下が張り出し、
鉄のドアの列が段差をつけて、まるで登山電車の窓のように並んでいた。


俺は路上駐車している車の一台に近づき、その車んお持ち主を装った。
86:2020/05/26(火) 18:18:40
三階の外廊下に都村の姿が見えた。

ゆっくり歩き、いちばん奥のドアの前に立った。


すぐにドアが開いた。


('、`*川


女が立っていた。

女は笑っていた

体をドアの外に出し、片手でドアをおさえた。


都村を先に入れようという気遣いだとわかった。

しかし彼は女の好意をにわかに受け入れようとはしなかった。

そこにとどまり女の方に手を伸ばした。

それから自分の手のケーキの箱を女に渡し、
かわりに彼女が右手で抱いていた子供を自分の胸の中に受け取った。

子供を両手で高くさしあげた。


(`^ω^´)


三人とも満足そうに笑っていた。
87:2020/05/26(火) 18:19:36
やがてドアが静かに閉じられた。

それは日本の家庭ではもっともありふれた風景だったし、
彼らは三人でもう百年そういう微笑ましい儀式を繰り返しているようにも見えた。


俺は車のそばで、
煙草が一本灰になるまで待ち、
女の名前を確かめるためにアパートの入口のほうへと歩き出した。

歩きながら自分がいまの光景に心を動かされたことに気付いた。


俺は彼らを羨望していた。

いや、もしかしたら嫉妬していた。

なぜか怒りは湧かず、
都村兎尊への同情心を感じることもなかった。
88:2020/05/26(火) 18:21:16.171 ID:kC/0uo990.net
――


自分の部屋が近くなってから、
俺はスーパーマーケットへ寄ろうと思い立った。

シャンプーも切れていたし、
ネコにやるカリー印の缶詰と牛乳も買い足さなくてはならなかった。


俺のネコはいつも窓辺にいた。

雪の降る日に階段下の段ボール箱の中で震えているのをみつけ、
抱き上げて以来、いつも同じポーズで表を眺めていた。

時どき彼は置物に見えた。

猫の歓心を買うことが俺の歓心を買う手軽で安上がりな方法だと安易に錯覚した女たちは、
たいてい彼の歯をむきだすサービスを受ける。


バイソンの墓場に立ち尽くすシャイアン族の最後の一人のようなネコ、
ガンジスの悠久の流れを眺めゆる死期を悟ったインド人のようなネコ、
俺がつきあったうちではもっとも長続きした女の一人がそう形容したことがある。

女はネコが好きだった。

ネコのほうは彼女がきらいだった。

彼女はそのことを深く悲しんだが、
俺にはどうしてやることもできなかった。

ネコは彼女が訪れると、
ゆっくりと身を起こし、
木をつたって下界へ降りていき、
彼女が帰るまでは姿を見せなかった。
90:2020/05/26(火) 18:24:26.412 ID:kC/0uo990.net
そうだ。

そろそろあいつに名前をつけてやらなければならない。

名前を呼べばくるという相手ではないが、
それでも心の中でつぶやく名前があるというのは、
誰にとっても安堵することだ。

大げさにいえば生きるために必要なのだ。


俺はポケットの中の小銭を探った。

深夜のスーパーには何人もの客の姿が素通しのガラスをとおして見えた。


(´・_ゝ・`)

( ・3・)


タクシーが二台ほど店の前の路上に駐車し、
ドアを開け放ったまま二人の運転手が紙コップのコーヒーを飲んでいる。

彼らはその夜のジャイアンツの試合運びに対して冷静な論評を加えていた。

日本語のわからない男に、
彼らは禅について静かに議論しあっていて、
禅におけるファンダメンタリズムというものは存在し得るかどうかということが争点だ、
と説明したら簡単に納得するだろう。

そんな調子の、
夜よりほかに聞くものもない囁きあいだった。
91:2020/05/26(火) 18:25:24.868 ID:kC/0uo990.net
店の扉が開いて二人の若い男がでてきた。


( ゚д゚ )

( ^Д^)


両方とも、
チビの中学生が明日の身体検査に備えて、
少しでも身長を稼ごうとしたみたいに髪を極端にもりあげている。

にやけ顔が買物の入ったビニールの袋をぶらさげている。


俺はポケットから小銭をとりだしてみた。

手のひらいっぱいに握れた。

処分しなくてはポケットにまた穴があく。

裁縫仕事に夜の時間をとられるのはつらい。


握った指の端に鍵の束もひっかかっていた。

閉じきれなかった指の股から一枚の百円玉が転がり落ち、
地面で乾いた音をたてた。


これもゲームセンターで千円札を百円玉にかえたせいだ。

いまいましい。

地震が起こったらまずゲームセンターを焼き打ちにしてやると考えながら、
俺は身をかがめて百円玉を追おうとした。
93:2020/05/26(火) 18:26:24.840 ID:kC/0uo990.net
空気が切り裂かれる音がした。

小気味よい音だった。


眼の端で、
なにかがその寸前にきらりと光ったように思えた。


はっきりと後頭部に小さな空気の衝撃を感じた。


一秒前で俺の頭はそこにあった。

まだあったなら、
今頃は空気の波ではなく、
十グラムの弾頭の衝撃を首筋で味わっていたはずだ。


無防備な体勢のままふり返ると、
一台の車が気にさわるタイヤの摩擦音を高く響かせて、
通りの向かい側から急発進したのが見えた。

ありふれた形の乗用車であること以外は、
車の色も、
むろん照明を消したままのナンバーの見えなかった。

事件はたったそれだけだった。


しかし、
悪意の射手は路上に倒れた一人の男を残して去っていった。

俺でなかったことが残念だろう。
94:2020/05/26(火) 18:28:12
ちょうど俺とすれ違いかけた二人の若者のうちの一人の頭部に、
赤黒い穴が開いていた。

顔の反対側、
射入孔とは全然つりあわない位置の下顎には、
もっと大きめの穴があき、
輪郭もあいまいに崩れた穴から血が滲むように流れ出していた。

それが射出孔だった。


( ゚д゚ )


その若い男は路上に寝転んだままわめきもしなかったし、
生涯はじめてで最後の経験についての感想を述べようともしなかった。


俺は眼をチックの患者のように激しく開閉した。

そのたびに鼻孔が醜く歪んだと思う。

俺はかたわらにしゃがみこみながら、
見た目の傷のひどさにもかかわらず、
撃たれた男には生き残るチャンスが十分にありそうだと考えた。

多分、
あまりにも理想的な角度で頭蓋骨に対して弾頭が侵入してきたため、
比較的口径の小さな、
それでも頭蓋骨を貫通する力を持った弾頭だが、
頭皮と骨の間に滑り込み、
徐々に勢いを減殺されながら頭骨のぐるりを骨膜を裂きながら半周して再び顔面の軟部を突き破り、
下顎の骨にあたって飛び出してきたのではないだろうか。

ずっと以前、
今の商売をはじめる前に一度か二度、
こんな弾頭の気まぐれな傷を見たことがある。
95:2020/05/26(火) 18:29:49
( ^Д^)

連れの男はビニール袋をぶらさげたまま硬直している。

北極の女王に愛されすぎた北欧の少年みたいだなと俺は一瞬思ったが、
すぐに考え直した。

彼女の趣味がこれほどひどいとは思えない。


哲学的な二人の運転手が近づいてきた。

彼らも紙コップを離さない。

一人は口に運びながらゆっくり歩いてくる。

彼はきわめて日常的な態度で非日常をうけいれようとしている。


深夜スーパーの店員が近づいてきた。

|゚ノ ^∀^)「どうしたんですか」

運転手が答えた。

( ・3・)「よくわかんないな。
     倒れちゃったんだよな」

もう一人がいった。

(´・_ゝ・`)「そうなんだよね。
      倒れちゃったんだよね」

そして俺の耳元に口を近づけていった。

(´・_ゝ・`)「まさかドッキリカメラじゃないんだろ」
96:2020/05/26(火) 18:31:17
――


( ^ω^)「わからないんですおね。ほんとに」


( ^ω^)「ひょいと見たらあの若いのが倒れている。
       血が出ていて、体をピクピクさせてる。
       ふり返ったら車が急発進して行った。
       そういうことなんですおね」

( ´ー`)

刑事は頭の後ろで腕を組み、
椅子ごとうしろにそり返って俺を眺めていた。

細めた眼は冷酷だった。

絵描きがモデルをどう料理しようか、
白いカンバスを前につくる眼つきとそっくりだった。

( ´ー`)「それだけかね」

( ^ω^)「そうですお。
       それだけですお。
       誰か異常に鉄砲好きの野郎が、マッチ箱を茶筒のうえから射ち落とすのに飽きた。
       泥棒ネコを脅すだけでも満足できなくなった。
       街へ出て、誰でもいいから射ってみた。
       それがたまたま運の悪い若者に当たっちまった。
       それだけじゃないですかお」

( ´ー`)「被害者は十七歳」

と中年の刑事はいった。

姿勢はまるで崩さなかった。

喋るたびに見せる汚れた歯が気にさわった。
97:2020/05/26(火) 18:32:51
( ^ω^)「気の毒だと思いますお」

( ´ー`)「そこらのスナックのバーテンだった。
     バーテンといっても氷を割るのに自分の歯を使うようなタイプだけどな」


( ^ω^)「店の名前を教えてくださいお。
       そこへは近づかないようにしたいから」

( ´ー`)「当分あの顎は使いものにならんだろう。
     だから心配することはないぜ」

( ^ω^)「それはよかった」


( ´ー`)「だけどな」

と刑事はいって、椅子を正しい位置に戻し、身を乗り出した。

( ´ー`)「だけどまだねんねでさ、人に恨まれるような一人前のことなんかできやしない」

息がにおった。

過重な深夜労働のせいだろうか。

それとも、夜のにおいってやつはもともとこんなだったろうか。

( ´ー`)「狙われるようなタイプはあそこにはいなかったんだよな、ひとりも」

( ^ω^)「そうですかお」

( ´ー`)「おまえしかいないんだよな、狙われるとすりゃ」

俺もそう思った。

地下鉄の一件といい、この大げさな狙撃といい、偶然とは思えない。

しかし認めるわけにはいかなかった。

自分には心当たりがまるでなかった。

どちらにしても、
おそらくかなり長時間にわたって尾行し続けただろう、
相手の存在に気付きもしなかった自分を恥じなければならない。
98:2020/05/26(火) 18:34:50
( ^ω^)「だからいったでしょ。
       これはピストルマニアの仕事だって」

( ´ー`)「そうじゃないかも知れないぜ」

( ^ω^)「そうに決まってますお」

( ´ー`)「とにかく、いまどんな仕事してるのか教えてくれよ」

( ^ω^)「仕事? なんてことはない調査ですお」

( ´ー`)「だからそのなんてことはない調査の内容だとか依頼人を教えてくれよ」

( ^ω^)「ありふれた市民が依頼した、いわゆる、ありふれた愛に関する調査ですお。
       こんな殺伐とした手合いとはなんの関係もありませんお」

( ´ー`)「ほう……」

刑事は鼻のさきで笑った。

( ´ー`)「ありふれた愛か。いいね。いいよ」

彼は両肘をデスクのうえに突き、
さらに身を乗り出して、
上眼づかいに俺の顔をのぞきこんだ。

なぁ、歯を磨いてきてくれよ。


それから俺の名前を呼んだ。

テレビ局でうろつく連中がそうするように「ちゃん」づけでだ。

俺はぞくっと身を震わせた。

歯槽膿漏の座敷イヌにペ口リと顔を舐められた気分だった。
99:2020/05/26(火) 18:36:02.554 ID:kC/0uo990.net
( ´ー`)「その愛の物語について詳しく教えてくれないかな」

( ^ω^)「刑事さん」

と俺はいった。

穏やかでシャイな人柄を印象付けるべく努力して表情をつくった。

権力に弱い卑屈さをスパイスとしてふりかければ完璧なのだが。

( ^ω^)「刑事さん。
       勘弁してくださいお。
       とにかく亭主の浮気なんてのは本筋に関係ないんですお。
       俺はこう見えたって弱いものしか相手にしない。
       暴力とゆで玉子はえらく苦手なんですお。
       だいたいが離婚調査と行方不明のネコ捜しが専業のしがない、
       良心的な部分もありますが、とにかく大したことの全然ない探偵なんですお」

刑事は薄笑いを消さなかった。

この男なら誰かを射ち頃すときも薄笑いを絶やさないだろう。

雑然とした部屋の中をちらっと盗み見る。

( ^Д^)

不運な若い男の連れがぼんやりすわっている。

彼は片足のスニーカーを脱いで、
足指の先でもう片方の足のふくらはぎを黙々つまんでいる。

まだ友人の災難のショックから抜けきらずに、
逆に無感動な状態にあるらしい。

二人のタクシー運転手はもう帰されたのかも知れない。

間もなく夜が明ける。
100:2020/05/26(火) 18:37:23.717 ID:kC/0uo990.net
(#´ー`)「おい」

刑事がこぶしで机を叩いた。

( ´ー`)「かっこつけるんじゃないぞ、探偵」

( ^ω^)「は?」

激しい口調とは裏腹に、
彼の顔に貼りついた薄笑いはまったく形を変えていなかった。

音声さなければ理想的な中年だった。

いい忘れていた。

それに歯磨きの習慣さえつけば。

( ´ー`)「お前だって、
     細っこい裏道を下向いて歩いてるタマだろ?」

( ^ω^)「はぁ」

( ´ー`)「なんだったら徹底的に服の埃を叩き出してやってもいいんだぜ。
     そういう態度を続けるつもりならな」

( ^ω^)「そんなつもりは毛頭ありませんお。
       ただ、俺はピストルで狙われるような大物じゃないと」

( ´ー`)「こっちが調査してやろう。
     心当たりの百や二百すぐに出てくるようになるさ。
     なんだったら今度の一件だけじゃないぜ。
     合計したら二百年くらい一人暮らしをするは破目になるかもな。
     警察ってのは一度やると決めたらけっこうやるぜ」

刑事はにやにや笑った。

笑い返して場の雰囲気をなぎゃかにする勇気はなかったので眼をそらした。
101:2020/05/26(火) 18:39:02
( ´_ゝ`)

背の高い男が刑事部屋に入ってくるのが見えた。

俺たちの姿をみとめるとまっすぐに近づいてきた。

( ´_ゝ`)「よぉ、探偵」

と俺に声をかけた。

( ^ω^)「やぁ」

と俺は答えた。

すこぶる情けない声だった。

自分で自分を嫌悪した。

( ´_ゝ`)「今度は大事件だったな。
     ピストルで狙われたんだって?」

( ^ω^)「別に俺が狙われたわじゃないですお。
      自分には覚えがまるでないんだから」

( ´_ゝ`)「まぁそういうなって。
     命を狙われるくらいの大物になって貰わなきゃ、
     俺としてもさびしいぜ」

流石という刑事はそんなことをいいながら俺と刑事のいるデスクの脇に立ち、
ロングピースに火をつけた。


この男には時どき情報を貰う。

かわりに酒をおごる。

刑事には珍しく一杯以上は要求しなかった。

そのかわり大衆小説と歌謡曲に関する長いレクチャーにつきあわされる。

バーのとまり木で股間をかくことさえしなければ、

普通の勤め人でも通らないことはない。
102:2020/05/26(火) 18:41:22
( ´_ゝ`)「白根さん」

と流石は、老いたチェシャーキャットみたいな中年刑事に声をかけた。

( ´_ゝ`)「こいつはね、一時グレてましてね、
     その頃からのつきあいなんですわ。
     正義の心情もだしがたく探偵になった、なんてほざいてますがね。
     実は探偵になりゃ女にもてるじゃないかと小知恵を働かせただけらしい。
     どうだ、おい」

と流石は俺の方の視線をとばして続けた。

( ´_ゝ`)「当てはずれだろう。
     深夜スーパーに通うようじゃ、女ひでりと貧乏とはいまでも仲良しらしいじゃないか」

(;^ω^)「あいかわらずだなぁ、毒舌」

( ´_ゝ`)「お前のほうは変わった。
     デブになった。
     とくに腹のまわりがふっくらしてきた」

( ^ω^)「酒場では羨望をサカナにして虚無を飲んでたからお、昔は」

流石は笑った。

喉だけを震わせる奇怪な笑い声だった。

( ´_ゝ`)「じゃなにかい、お前。
     いまは愛と希望をたらふく詰め込みすぎて、腹が突き出たっていいたいのかよ」
103:2020/05/26(火) 18:42:45
――


俺は都村兎尊に会うことにした。

自宅近くへ行こうかというと、
兎尊は新宿で会いたいといった。

そして、
駅の改札口近くで待ち合わせしようと提案した。


午後三時でもこの街には人があふれていた。

人波の中に流されていると気づかないが、
一歩身を引いて、
たとえばいま俺がそうしているように、
巨大で、
このうえもなく不恰好な灰皿の脇にたたずむと、
この魔都の醜悪さが目につく。

世界で最も堕落した街。

この二つの相反する条件が、
悪徳を炎のようではなく雨季のカビのようにはびこらせる。

人は仮面をつけ、
硫黄のにおいのする息を吐き出しながらどこえともなく急ぐ。
105:2020/05/26(火) 18:44:14
引退したら、と俺は考えた。

この街で死ぬまい。

人が死ぬべき場所というものがある。


アメリカ人なら、プエルトリコだ。

コスタリカやバハマだ。

ヨーロッパ人ならカナリアと邪に悩まされるのはごめんだ。

街のおだやかなどよめき、
人々の営みのひそやかな音の反響する遠い昔を懐かしみながら、
自分の手で帽子をずりさげて顔をおおいたい。


( ゚∋゚)


六フィートをはるかに越える白人が一人、
俺の前に立った。

俺は彼を見あげた。

鼻のしたに髭をたくわえているが、
どこかつきに恵まれない顔をしている。

( ゚∋゚)「あのー」

と彼は日本語でいった。

( ^ω^)「なんだお」

と俺は答えた。
106:2020/05/26(火) 18:46:30
( ゚∋゚)「東京は高いですね」

( ^ω^)「物価のことかお?」

( ゚∋゚)「そう。高いね」

彼はジーンズの前ポケットに両手指をひっかけていた。

黄金と従順な女性の国へやってきたつもりが、
そこにはプラスチックの花が咲き、
進化したタヌキみたいな女しかいないことに気づいて大いに落胆しているのだろう。

どこからきたかは知らないが、
ここが世界の保守派の悪の牙城だということを忘れては困る。


( ゚∋゚)「僕はお金がないですね」

と白人はいった。

( ^ω^)「そうか。残念だったお、そいつは。元気でやれお」

( ゚∋゚)「大森にサダコさんがいるです」

( ^ω^)「俺からもよろしくと伝えてくれお」

( ゚∋゚)「でも大森にいけないですね」

( ^ω^)「そうか。金がないのかお。すごく残念だお」

俺は周囲を見まわした。

早く兎尊が姿を現さないかと思った。

尾行者の気配はまるで感じられない。
107:2020/05/26(火) 18:47:51
( ゚∋゚)「サダコさんに電話したです。
    そして、すぐ来なさいといったです。
    そして僕はお金がないですね。
    大久保から歩いてきたです。
    大森は遠いでないですか」

じゃ帰れば?
といいかけてよした。

大きな体に似合わない不安を灰色の眼に宿した男に、
少しばかりの同情心を感じたのだ。

大久保あたりの外人宿に住んで、
夕食には焼いたサンマを酔客のおごりで食べているクラスとしては日本語の入り筋もいい。

頭は悪くないだろう。

俺はこの男を、
外人のホーボー族に優しいサダコおばさんのところへ行かせてやってもいいと思い始めた。

( ^ω^)「わかったお」

といって、
俺はポケットから百円玉を何枚か掴み出した。

俺の命を弾丸から救ってくれたはずの一枚も混じっているはずだが、
そいつを額に入れて飾っておく趣味はなかったので、
まとめて彼の手に押しつけた。

( ^ω^)「やるからあっちへ行けお」

大男は微笑して腰を折った。

( ゚∋゚)「ありがとう」

( ^ω^)「いいんだお。
       俺は日本人には珍しく親切なんだお」
109:2020/05/26(火) 18:50:08
大男は一冊の本をとりだして俺に渡そうとした。

コンサイスくらいの大きさで、表面は硬い厚紙だった。

( ^ω^)「なんだお」

ひらいてみると聖書だった。

( ゚∋゚)「あげます。ただで貰わないです」

( ^ω^)「いらないお。
       だいいち俺はゾロアスター教徒だお」

( ゚∋゚)「いいから、いいから」

とやつはいった。

( ゚∋゚)「僕もあまり読まないですね。
    でも、なんですか、ピンチのとき助かります、時々。
    いい本です、時々。
    気は心です」

( ^ω^)「けっ」

もうそのときには白人はさっさと身を翻して、
自動券売機のある方へ歩み去っていった。


俺は本をかたわらのゴミ箱に投げ捨てようと思ったが、
なぜか気が咎めた。

なにしろいちおうは聖書だからな。

あとで電車の網棚にでも置き去りにしよう。


(゚、゚トソン


兎尊の姿が見え、
俺は聖書を上着の内ポケットに急いでしまいこんだ。
110:2020/05/26(火) 18:51:35
――


西口の地下の店に入ると空気がひやっとした。

俺たちはバーテンダーの定位置からいちばん遠い席を選んだ


コーヒーにしますかと尋ねると、兎尊はカシスを注文した。

午後のカシスとはなかなか渋い選択だと俺は思った。

とりわけこんな店では。


(´・ω・`)


コーヒーアンドワインという、
文化財保護委員会から記念品を貰えそうな、
古めかしい看板を出し続けているこの店のバーテンダー兼オーナーは、
俺の古いなじみだった。

やはりまともに就職できない同類で、
やつも俺も一時は「第四次産業」に足を踏み入れていたことがある。


もともとも瓶の中で帆船を組み立てるのが女よりも好き、
といったタイプだったから第四次産業の産業戦士としては大成する見込みがなかった。


俺の方は向上心がありすぎた。

「思想の科学や」や「サウスチャイナ・モーニングポスト」を読んでいても大成できない。

やつはバーテンダー学校に入り、
俺は「週刊平凡」の広告で探偵学校に入った。
111:2020/05/26(火) 18:52:57.678 ID:kC/0uo990.net
数年後、
どしゃ降りの雨の日に雨宿りにこの店の階段を駆けおりると、
バーテンダーが客のいないカビ臭い店の隅でアポリネールの「カリグラム」読んでいた。

やつは俺を見るとワニみたいな口をあけてガハハと笑い、
マティーニをつくってくれた。

うんとドライにしてくれといったら、
生のジンをグラスに注ぎ、
栓を抜いたベルモットを隣にどんと置いた。

においを嗅ぎながら飲めといって、
またガハハと笑った。


そんな話を俺は兎尊にしてやった。


きょうは襟元のとじたミズガラシ色の服を着ていて、
俺は少しだけそのことが残念だった。

( ^ω^)「ご主人は」

と口調を改めて俺はいった。

すでに三十分以上の時間が店に入ってから過ぎていて、
二人とも三杯目を注文したところだった。

( ^ω^)「ご主人は、あなたを裏切ったりはしていませんお。
       調査の結果そういうふうなことになりましたお」

兎尊は俺を見ていた。

なにをいいたいのかわからなかった。

( ^ω^)「働きものですお、ご主人は。
       遅くまで残業が多いし、ときには技術者のセミナーにも顔を出すし。
       報告書はこの袋の中に入っていますお。
       ついでですが調査費の請求書も」

テーブルのうえに滑らせた封筒に、
兎尊は手を触れようとはしなかった。

かわりにハンドバッグからセイラムの袋を取り出し、
一本の煙草を抜いて火をつけた。

深く吸って、吐きだした。
112:2020/05/26(火) 18:55:25
( ^ω^)「大変多忙な生活だと思いますお。
      よくは知りませんが、あのくらいの年齢がいちばんたいへんなんじゃないでしょうかお。
      確かに若かった頃の快活な印象はだいぶ薄れているようですが、仕方のないことかも知れませんお。
      察してあげくださいお」

-v(゚、゚トソン「あなた、それはなんですの?」

俺は気をそがれて、言葉を呑み込んだ。

-v(゚、゚トソン「いい加減な調査をするということ?
     それとも私にたいする同情?」

( ^ω^)「どういうことですお。
      彼はあなたを裏切っていないお。
      つまり浮気もしていない。
      少なくとも私が注意を払っていた期間にはそういうことはなかったお。
      気配も感じさせなかった。
      今後、仮にあり得るとしても彼のようなタイプは、男にありがちな多少飲みすぎて夜だけのできごとにして、決してあとをひかない。
      私はそう思うお」

兎尊は俺の眼の奥をのぞきこんだ。

研究者が細胞分裂を観察しているときの眼だ。

俺は網膜がむずがゆくなって視線をそらせた。

-v(゚、゚トソン「都村に女がいることは知っています」

と彼女はいって、煙草を灰皿でにじり消した。


俺は溜息をついた。

多分、調査費は取りはぐれることになるだろう。
113:2020/05/26(火) 18:57:09
彼女は続けた。

(゚、゚トソン「名前は知りませんが、顔は知っています」

俺は酒を飲みほした。

彼女の顔に正対する気分ではなかった。

バーテンダーに声をかけてもらいたかった。

しかし彼はカウンターの端で身じろぎもせずうつむいて立っていた。

やつはまだアポリネールにいかれているのだろうか。

悪い癖だ。

治さないと老後を幸福には送れない。

(゚、゚トソン「あなたにお渡しした写真。
    あれ、半分に切れていたでしょう」

( ^ω^)「ええ」

俺はつぶやくように肯定した。

(゚、゚トソン「切ったほうに女の人が写っていました。
    主人のデスクの引き出しに入っていたんですが、いまでは、あの人が私に見つけるように仕向けたんじゃないかと思えて」

( ^ω^)「過去の人じゃありませんかお?
      あるいはたんに会社の部下であるとか」

(゚、゚トソン「違います」

彼女は断言した。

(゚、゚トソン「主人はこの何年も私の体に触れません。
    遅くなるときはかならずお風呂に入ってきます。
    隠そうともしません、そのことを」

( ^ω^)「そうですかお」
114:2020/05/26(火) 18:58:25
ねえ、と彼女はいい、俺の名前を呼んだ。

(゚、゚トソン「あなたのお気持ちはとても嬉しいんです。
     知らないで済むことなら、そのほうがいい。
     どうなったところで、私には離婚する気持ちが全然ない以上ね。
     確かに氷は冷たいですけど、一度凍ってしまえばいくら冷えてもそれよりは冷たくなりようがないですしね」

( ^ω^)「それはそうですお」

(゚、゚トソン「ただ」

といって兎尊は言葉を切った。

俺はその先が聞きたくなった。

聞いてもどうしようもないことは分かっていたし、
生活費の足しにはならないことも知っていたが、
誘惑をおさえ切れなかった。

( ^ω^)「ただ、なんですかお」

(゚、゚トソン「相手の人に子供がいるのかどうか知りたかった。
     住んでいる場所も見当はついています。
     でも、自分で確かめに行く勇気はなくて、とても」

( ^ω^)「それで私を傭ったと」

(゚、゚トソン「ええ。
     子供ができない体になったとわかるまでは凄く優しかったんです。
     病院でそのことを知らされると、彼は蒼ざめました。
     それから長いこと低い声で笑っていました。
     笑いながら涙をいっぱいに浮かべて。
     思い出すと辛いんですよ、いまでも」


出ましょう、と兎尊がいった。

俺は慌てて立ちあがった。

どこへ、とは尋ねなかった。

尋ねさせない気迫が彼女の言葉の中に潜んでいた。
115:2020/05/26(火) 18:59:35
――


俺はベッドに腰かけて自分の腹の肉をつまんでみた。

フレンチトースト二枚分はどの厚みが手のひらに残った。

俺はそれをもみしだいた。

愛と希望を腹に詰め込んだ結果がこれだとしたら皮肉だ。


兎尊はあおむけにベッドに横たわっていた。

シーツを巻きつけず、
少しずつ肉がつきはじめてルーベンスの裸婦を追いかけつつある下腹と、
小さくまとまった陰毛とを隠そうとはしなかった。

(゚、゚トソン「こう思ったんでしょ、あなた」

と兎尊は同じ姿勢のままでいった。

(゚、゚トソン「離婚しても、一人でやっていけそうにな女だ。
     だからそっとしておくべきだ」

俺は黙っていた。

立ちあがって冷蔵庫に近づき、扉をあけ、ビールを一本取り出して栓を抜いた。

瓶から直接、口の中に苦い液体を流し込んだ。

冷えすぎていて、うまいとは思えなかった。

兎尊の人生のような味かも知れない。
116:2020/05/26(火) 19:00:34
俺は兎尊に、なにか飲むかと尋ねた。

彼女は、なにも、と答え、それじゃシャワーを浴びたら、
という提案には無言だった。



あれから酒場を出て、
兎尊と俺は新宿の雑踏を歩いた。

長い間、黙って歩いた。

彼女は確信を抱いたものだけが見せる歩調でまっすぐ歩き、
俺は飼主の気持ちを忖度しかねているイヌみたいに彼女についていった。


それから俺にこういった。
いっしょに寝てくださる?


瞳が、
割ったばかりの石炭のように、
輝きを帯びていた。

街のざわめきが一瞬だけ消え去ったように思えた。

俺は頷いた。

俺たちはさらに歩き、
夕暮れの小路を通り抜け、
一軒のラブホテルに入った。


シャワーも浴びずに抱きあった。

俺は彼女の胸を押しあけ、乳房のにおいを嗅いだ。

そのときはじめて彼女のつけている香水の名前を思い出した。
117:2020/05/26(火) 19:01:39
あなたとはこんなことをしてみたかったのよ、
と兎尊は喘ぎながらいった。

フィルム保管室で偶然みたいにあなたにキスされてから、
時々思い出していたわ。

ずっとよ。

ずっと。


俺も告白した。

再会したときに淫らな思いを持ったことを。

ただし、
仕事の依頼の電話を貰うまでは、
こんなことを一度も思いだしたことはなかったということは黙っていた。


なぜあなたを家に呼んだかわかっちょうだい、
と彼女は俺の体のしたで囁いた。


なぜだと尋ねた。


ひょっとしたらこんなことをしてくれるかも知れないと思ったの。

午前中というのは女がいちばんいやらしくなるときなのよ。


彼女は俺に背中を向けたがった。

そして尻を高く掲げ、
興奮が昂まると、
お尻をつねって、
もっと強くつねって、
と絶叫した。
118:2020/05/26(火) 19:03:00
俺は彼女の過酷な要求を十分に満たそうと努力した。

一リットルの汗と虚脱感がその労働の報酬だった。


フィルム保管室の事件を思い出した。

もっとも、
いまの行ないそのものが六フィートの波の立つ海だとしたら、
油を流した海の、それも岸辺のできごとにすぎなかったが。


それは、俺の眼から見ればこんなふうだった。


フィルムを棚に並べて、
人の気配にふり返ると兎尊がドアをうしろ手に閉じてたたずんでいた。

俺は多分、
あいまいな微笑を浮かべて意味のないことを彼女にいった。

彼女はそのコマーシャルフィルム制作会社のディレクターのアシスタントで、
俺は昼間はそこでアルバイトし、夜は学校に通う、
ひねて老けた苦学生だった。

身分が違う、
というきわめて古典的なエクスキューズが俺の脳裡をかすめ飛んだ。


しかし、彼女はつかつかと俺に近づき、
土俵際で駄目を押す力士みたいな仕草で俺を湿った壁に押しつけた。

自分の片手を壁についた。

お蔭でさらにぴったりと壁に押しつけられる恰好になった。

俺は牛にアリーナの側壁までおいつめられた闘牛士の心がわかる気がした。


それから彼女は唇を近づけた。

俺は眼を閉じようかどうしようか迷った。

考えたあげく眼をひらいたままにしておくことにした。
120:2020/05/26(火) 19:04:30
ふりかかる火の粉を避けることはないが、
一生屈辱感にさいなまれるような態度は、
精神の底にこびりついた自尊心の残骸にかけてとりたくはなかった。

だが行動がともなわなかった。

彼女はもう一方の手も壁についた。

つまり、
俺は彼女に襲われるようにしてキスされたのだ。

自慢できない過去には違いない。


彼女は自分のしたことを終えると、
ひとこともなしに扉から出ていった。

その後姿は、
命を賭けて国境を越える亡命者のそれのように他人の入り込む隙がなかった。

結局、それきりだった。

間もなく彼女は結婚するために会社を辞め、
俺はそのこととは無関係に、もっと割のいいアルバイト先へ移った。
122:2020/05/26(火) 19:05:21.030 ID:kC/0uo990.net
(゚、゚トソン「あなたに会ってみたかったの」

と兎尊はいった。

横たわり、手枕をしていた。

胸が自重に耐えかねて歪んでいた。

(゚、゚トソン「あなたに会って」

と彼女は続けた。

(゚、゚トソン「自分がいまどんな場所にいるのか知りたかった。
     あなたと寝てみれば」

彼女はそこで言葉を切った。

俺は待った。

(゚、゚トソン「あなたと寝てみれば、
     自分がどれくらい変わったか、
     これからどうすればいいか、
     そんなことがわかるんじゃないかと思ったわけ」
123:2020/05/26(火) 19:07:02
( ^ω^)「彼は昔の彼ならず、ということもあるお」

(゚、゚トソン「そうね。
     そういうこともある。
     でも、あなたはかわってなかった」

( ^ω^)「そうかお」

(゚、゚トソン「そうよ。
     昔から同じにおいがした」

( ^ω^)「そうかお」

(゚、゚トソン「かわったのは体つきだけ。
     お腹が前よりずっと出ているってことだけ」

なんと答えていいのかわからなかった。

多少の修辞学を使ってもらわなければ答えにくい。

真実に近づきすぎるのはときに罪だ。

( ^ω^)「それで、君はなにかわかった?
       なにか決断した?」

彼女はシーツをすっぽりかぶった。

そして、いった。

(゚、゚トソン「なんにも」

彼女はシーツのしたで身を丸くした。

(゚、゚トソン「ほんとうに、なんにも。
     わかったのは、私がこういう行為に飢えていたということだけ。
     たったそれだけ」
128:2020/05/26(火) 19:40:02
――


その夜、俺は池袋で飲んだ。

胃を裏返してスポンジで洗いたくなるほどに飲んだ。

酒場では傍若無人にふるまうサラリーマンの三人組と険悪な雰囲気になりかけたが、
マスターが間に入っておさめてくれた。

マスターは俺の背中を押しながら低い声でいった。

ひと月くらいは顔を見せないでくれよな、
今夜のあんたは態度がいいとは全然いえないぜ。


(*^ω^)

俺は駅前にのビルの地下にある駐車場のほうへ歩いていった。

二人連れの男女が、
百メートルも先から俺を避ける様子がありありとわかった。

風邪がぶり返しそうな予感がした。


俺は地下駐車場に続く長い通路をゆっくり降りていった。

景気づけにどういう歌を歌おうかと考えていた。

大きな声で、春の日の花と輝く、と歌いはじめたが、
あとが続かなかった。

酔っていようがいまいが記憶力に差はないはずなのだが、
俺はアルコールのせいにした。

実際に春の日が花と輝くとすれば、
そんな些細なことを気にする必要もなくなるだろう。

俺は奇妙なまでに楽観的だった。

近づきつつある寒さと頭痛の季節のことを、
無意識のうちに忘れようと努力していた。


駐車場の奥、
何十本かのコンクリートの柱を通り過ぎたどんづまりに赤電話があるのを知っていた。

だらしない部屋からではなく、
ちゃんと服を着たままで電話をしたい女がいるときには、
よくここを利用する。
129:2020/05/26(火) 19:40:57
腕時計に眼をやると、
午前一時三十分を少しまわっていた。

なに、構うものか。

思い立ったときがいちばん実りの多いときだ。

またそうするべきだ。


受話器をとりあげコインを落としこんでダイヤルをまわした。

ひょっとしたら、と俺は考えた。

彼女は一人でいるかもしれない。


ベルの鳴る音を数えているとき、
ひょっとしたら、と再び考えた。

彼女は俺からの電話を待っているかも知れない。

フランスとじの本のページをペーパーナイフで切り裂きながら。
130:2020/05/26(火) 19:43:04.501 ID:kC/0uo990.net
十回までベルが鳴り、
また一から数えなおした。

ゆっくりと七つまで数えたとき受話器のはずれる音がした。


深い息に続いて、兎尊の声がした。

( ^ω^)「俺ですお。
      こんな夜遅く電話して済まないと思うお。
      聞いて欲しい話があるんだお」

俺は一気にそれだけ喋った。

電話線の向こう側の端からは、
しかし、なんの反応もなかった。

( ^ω^)「聞いているのかお?
      もしもし、聞いてますかお。
      話してるのは俺ですお」

兎尊の声が、わかります、
聞こえていますといった。

あたりをはばかっている低い声だった。

( ^ω^)「提案があるんだお」

と俺はいった。

明日にしてくださいと彼女がいった。

( ^ω^)「明日にはなりませんお。
      いまでなきゃ駄目ですお。
      いま返事をして欲しいんだお。
      飲みながら考えていたんだお。
      君と別れてから、ずっと。
      ずっとだお、あなた」

明日にしてくださいと、彼女は繰り返した。
132:2020/05/26(火) 19:44:34.020 ID:kC/0uo990.net
構わずに続けた。

( ^ω^)「酔ってるなんて思わないでくれお。
      酔ってはいるけど、酔っているせいだなんて思わないで欲しいんだお。
      俺はもう東京がいやになったお。
      この街もこの街の人間も、この街のネコもみんないやになったお。
      どこかへ行きたい、この街以外のどこかで暮らしてみたいと痛切に思ってるお。
      そして、あなたと一緒に行きたいとやはり痛切に思っているんだお」

俺は息を継いだ。

彼女の反応を待った。

長い間があって、彼女はいった。

あなた正気?

( ^ω^)「正気だお。
      いやいい直すお。
      いまは正気じゃないかも知れないお。
      正気じゃないからこそ、こんなことがいえるんだと思って欲しいお。
      なおかつですお、正気じゃないからこそ俺は本気だし、俺の言葉は信用できるんだお。
      できたら、と俺は思うんだお、できたらあなたと南の日差しの明るい国へ行きたい。
      そこでうまいオレンジを食べたい。
      ぬるいワインを飲みたいお」
133:2020/05/26(火) 19:47:26.981 ID:kC/0uo990.net
(#^ω^)「……主人が起きる?
      どうしようと構わないお。
      もしよかったらご主人を電話に出してくれお、俺が説得するお。
      俺には自信があるんだお。
      飲んだせいじゃないお。
      飲んだせいかも知れないがこの自信は本物だお。
      叩けばいい音がはね返るお。
      貯金箱を叩き壊すお、俺。
      それにここだけの話だが、最後の砦にと思っていくらか貯えもあるんだお。
      国債を売り払っちまえば……そりゃ百にもならないかも知れないが、あなたの費用ぐらいは出せるお。
      ネコには家を出てもらって、アパートは引き払うお。
      もううんざりしたんだお、球屋の二階の床のきしきしと鳴る部屋にも、池袋の猥雑な夜にも……カプリだお。カプリ島。
      イタリアのほくろみたいな島。
      そこで俺はタイプライターを買って。
      打てやしないけど、たいした問題じゃないお。
      ユリシーズを主人公にした小説を書くんだお。
      君は泳いでりゃいいお。
      そうするとアメリカの映画プロデューサーがやっくる。
      君はそいつをちっとも好きじゃないくせに、俺に別れを告げて出ていく。
      俺は理由もわからずひたすら悲しみ続け、地中海の海の青さが眼にしみるってわけだお。
      どうだお? 悪くないだろうお」

俺は三日熱のマラリア患者のように一気にまくしたてた。

息が切れ、
脈搏が早くなっていることに気付いた。


彼女は黙ったままだが、
まだ電話線は氏んではいなかった。


俺は待った。

そして哀願した。

そうするうちに少しずつ本気になっていった。

どうでもいい与太話がが現実になり得る気がした。

じりじりとしつつ、
なにもかもが原色のイタリアのイメージを膨らませ、
もてあました。
134:2020/05/26(火) 19:48:55.005 ID:kC/0uo990.net
彼女がぽつりといった。


あの人の相手に、
といいかけて言葉を切り、
いくつもの季節がとおりすぎイタリアも冬になったと思えるほどの長い沈黙のあとで、
ようやく言葉を継いだ。


あの人の相手には子供がいるの?
それは、あの人の子供?


俺は黙り込んだ。


どういえばいいのかわからなかった。


受話器を逆の手に持ちかえ、
姿勢をかえた。

横向きになり打ちっ放しのコンクリートの壁に体をもたせかけた。

片方の手のひらで顔を強くこすった。

静まり返った広い駐車場で、
俺は孤独という言葉を実感した。
135:2020/05/26(火) 19:50:07.637 ID:kC/0uo990.net
俺はこんなふうに話した。

そうするためにはかなりの自制心が必要だった。

( ^ω^)「確かに女の人がいますお。
      都村さんには。
      つきあいもだいぶ長いようだお。
      嘘をついて悪かったと思っていますお。
      俺は心からそのほうがあなたのためにはいいと。
      だからあんなふうにいったんだお」

俺は続けた。

( ^ω^)「しかし、相手の人には子供はいないお。
      役所へ行ったりいろんな方法で確かめてみたお。
      都村さんには子供はいないんだお」

海溝の底から湧きあがるような深い溜息が、
電話線を伝わって俺の耳に届いた。

それが安堵を示すのか、
それとも絶望を示すのか俺にはわからなかった。
136:2020/05/26(火) 19:51:10.459 ID:kC/0uo990.net
彼女が俺の名を呼んだ。

かすれた声だった。


強く受話器を耳に押しつけるために持ちかえようとしたときだった。


受話器の上辺が爆発して、
弾け飛んだ。


ついに世界の終わりのときがきたのかと思った。

受話器が弾けただけにしてはあまりにも巨大な音が響き、
駐車場の全体を揺るがせた。


( ^ω^)


俺は砕けた受話器を茫然と眺め、凍った。

なにがなんだかわからなかった。

わずか正気に返り、
入口のある方角へ向き直ってみて、
はじめてそれが銃声だとわかった。


(    )


三つ目の柱の蔭に、
半ば身を隠した男が立っていた。


男は右手で拳銃のグリップを握り、
左手は、
真っすぐに前に突き出した右の手首をしっかりと掴んでいた。
137:2020/05/26(火) 19:52:10.205 ID:kC/0uo990.net
男の顔に見覚えがあった。

しかし、
この状況で思い出せというのは無理な注文だ。


無意識にあとずさろうとしたが壁がぴたりと背中に触れただけだった。


手の中に残っていた、
かつて受話器だったプラスチックの残骸を捨てた。

どうするべきかを考えたが、
まるでいいアイディアが浮かばない。

神に祈ることさえ思いつかなかった。


彼の手の中で拳銃の回転弾倉がまわるのが不思議によく見えた。


眼を閉じるべきかどうか迷った。


銃声がキーになって、
狂気の男と以前どこで会ったか思い出した。


 彡⌒ミ
( @_ゝ@)


最初に都村を張りにいった日に溜池で俺をしげしげと眺めていた男だった。

あの小柄な、
貧相なジャン=リュック・ゴダールをさらにひとランク貧相にした初老の男だった。

弾着の衝撃を待つごく短い時間のうち、
それだけのことを考えた。
138:2020/05/26(火) 19:52:55.857 ID:kC/0uo990.net
俺はつぎの瞬間、
胸に強烈な圧迫を受けた。

地球の全重量を受けとめたようだった。

同時に後頭部にも激しい衝撃があった。

頭をいやというほどコンクリートの壁にぶつけたのだ。


世界が暗転した。

さよならをいわず、
これまでの人生の非を悔いることもできないのがとても残念だと思いながら、
さらに二度、銃声を聞いた、
そんな気がした。


音は月世界から聞こえてくるように遠く、
俺のあわれな頭蓋の中でうつろにこだましていた。
139:2020/05/26(火) 19:54:52
――


地獄の番人が、
ここは三百パーセントの満員だからよそへ行ってくれないかといった。


俺は駄々をこねた。


ここは電車の形をした地獄じゃないのかお。

だったら俺はここへくるということになっているんだお。

まだ一人くらいなら入る余地があるだろうお。

なんとかしてくれお。


地獄の番をしている中年の男が、
いきなり俺の頬をたたき始めた。

最初は撫でるように弱く、
次第に強く。

彼は無抵抗な俺をたたきながら大声で叫んでいた。

満員なんだ。

満員だといったら満員なんだ。


最後は石原裕次郎がキャバレーでドラムをたたくくらいに荒っぽいやりかたになった。

そして耳の中に思い切りでかい声を吹き込みやがった。

起きろ! 探偵。

さっさと起きねえと二度と目のさめないようにしてやるぞ。
140:2020/05/26(火) 19:56:57
――


眼をあけると二人の男の顔が見えた。

しゃがみこんでいるやつと、
立ったままで薄笑いを浮かべたやつだ。

地獄の番人よりも、
二人とももっとも散文的な顔をくっつけていた。

( ´ー`)「なんだ生きてるのか」

刑事の白根だった。

( ´_ゝ`)「お前を頃しそこなった男だがね」

ともう一人がいった。

立ちあがると白根よりも頭ひとつだけ背が高い。

夏になると人よりも早く日焼けする、
というのがその男、
流石刑事の貧しい冗談のひとつだった。

( ´_ゝ`)「やつはあそこにいるよ。
     俺たちが射った。
     救急車はじきにくるが、死にかけてる」

柱の根元に狙撃者が倒れていた。

厚い眼鏡のレンズの片方にひびが入り、
霧のおりたみたいに真っ白になっているのが見てとれた。

太腿と肩のしたあたりが赤く染まっていた。

( ´_ゝ`)「それからお前の心臓だがね」

と流石がいった。

( ´_ゝ`)「毛が生えてるだけじゃなかったんだな」

俺は自分の胸を見た。

上着が裂けていた。

胸ポケットに手を入れ、
聖書をとりだしてみた。

表紙に丸い穴があいている。
141:2020/05/26(火) 19:58:02
弾丸は不規則にひしゃげた形で、
ヨハネの第一の手紙の部分からこぼれ落ちてきた。

あとわずかで裏表紙に達しようというところで慣性の力を失い、
ヨハネの言葉の中に埋もれてしまっていた。


<神を愛するとは、すなわち、神との約束を守ることだ。そしてその約束を守ることは決して重荷ではない>


そういう意味の文句が英語で記されている場所の近くに、
弾丸の旋転がもたらした最後の焼け焦げがあった。

( ´ー`)「なぜお前が狙われたか教えてやろうか」

と白根がいった。


立ちあがっても胸と頭が激しく痛んだ。


( ´ー`)「その男だがな、お前に恨みがあるんだと。
     お前、覚えがあるか?
     満員電車の中ででかいくしゃみをしただろう。
     そんときにひっかけられたんだそうだ、しこたましぶきを」

俺は横たわっている男をふり返った。

彼は苦しげに喉を鳴らしていた。


救急車のサイレンが近づいてきた。
142:2020/05/26(火) 19:58:57
流石が、
自分の銃をホルスターにしまいながらいった。

( ´_ゝ`)「いい年をしているくせにガンマニアでね。
     これも改造ガンだ」

と白根のコートのポケットからはみだしている銃を指さした。

それはすでに透明のビニール袋に入れてあった。

( ´ー`)「ずっとあんたのことを張ってたらしいぜ」

と白根がいった。

( ´ー`)「会社員ていうのはよほど人生の目的が足りねえんだなぁ」

( ´_ゝ`)「おれたちもな」

と流石がいった。

( ´_ゝ`)「スーパーの前で狙われたのはお前以外にはないと思ってな、
     これでもお守りしてやってたんだぜ。
     なんだよ人の気も知らないで、
     明るいうちからラブホテルへ人妻なんて連れ込んでよ」
144:2020/05/26(火) 20:00:55.085 ID:kC/0uo990.net
俺はいった

( ^ω^)「連れ込んだわけじゃないお。
      自慢じゃないが連れ込まれんだお」

救急車が駐車場に入ってきた。

二人の刑事の顔に赤い回転灯が映えた。

こいつらこそ地獄の番人にふさわしい。

( ´_ゝ`)「で、どうにかなるのかよ」

と流石がいった。

( ^ω^)「なにがだお」

と俺は問い返した。

( ´_ゝ`)「その恋がだよ」

( ^ω^)「どうにもならないお」

( ´_ゝ`)「おしまいか」

( ^ω^)「ああ、そうだお。
      おしまいだお」

( ´ー`)「だろうな」

と白根がいった。

( ´ー`)「満員電車の中でくしゃみして、
     誰かの恨みを買うようなやつに本気で惚れる女はいねえよ。
     経験上よくわかる」

俺は痛みをこらえながらいった。

( ^ω^)「余計なお世話だお。
      こう見えても一人前に傷ついているんだお。
      そっとしていてくれないかお」

それからゆっくりと両手でズボンのほこりを払い落した。
145:2020/05/26(火) 20:01:21
Fin
146:2020/05/26(火) 20:03:02
ご支援ありがとうございました m(_ _)m
150:2020/05/26(火) 20:23:45.981 ID:hUzUYxQlM.net
おつ!
引用元:http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1590478051