46: 2012/07/28(土) 19:24:03.13 ID:UV+Tamzdo
音無小鳥は自分の苗字を気に入っていた。

だって音が無いで音無、なんてちょっと切なくて素敵じゃないか、
そんなふうにぼんやり思っていた。

母にそのことを伝えると、
いつか小鳥も結婚するんだから、苗字だって変わってしまうのよ
と言われ、そんなの嫌だなんてわめいたものだ。

しかし、あれから十数年たった今でも、
結婚はともかく彼氏、それどころか男友達の影さえない生活を送っていた。

職場の男性以外とプライベートで話したのはいつか、
なんて思い出せないくらい出逢いの場が少なかったのだ。

3: 2012/07/27(金) 02:21:35.54 ID:5GufPHXCo
「そこを何とか、経費で頼むよ」

「だーめーでーす!
この距離でタクシーを使うくらいなら歩いてください!
その方が健康にもいいですよ?」

「しかしながらだね…」

「それに!社長はエアコンを使いすぎです!光熱費がかかってるのはそのせいですよ?」

「わかったよ…」

小鳥が勤めるのは小さな芸能プロダクションだった。

事務の人間は小鳥一人で、社員といえば能天気な社長と、
いかにも敏腕プロデューサー、という雰囲気を持った律子、
そして、いまいちさえない感じのもう一人のプロデューサーの三人だけだった。

ちょっと前まではアイドルたちが頻繁に出入りしていたのだが、
忙しくなった今となってはそれもほとんどなくなってしまっていた。

4: 2012/07/27(金) 02:22:51.03 ID:5GufPHXCo
それでも今の職場に不満はなかった。

テレビで活躍しているアイドルたちを見ると、
わが子の成長を見ているようで嬉しくなるものだ。

もっとも、一回り以上歳の離れた子と接する機会など、
ここくらいなものなのだが
それでもやはりそのような感覚に陥ってしまうから不思議だ。

あえて不満を漏らすのなら
魅力的な男性との出逢いがないこと、
そしてたまに社長から言われる嫌味くらいだろうか。

5: 2012/07/27(金) 02:24:41.18 ID:5GufPHXCo
音無君はけちだねえ

そういって苦笑いする社長の顔を思い浮かべる。

それを言われるたびに、
よくそんなことが言えるものだと思っていた。

だって、数少ない社員に安月給を払えていることさえ奇跡的、
という財務状況がしばらく続いていたのだ。

経費などにうるさくなってしまうのは当然のことであろう。

6: 2012/07/27(金) 02:25:56.60 ID:5GufPHXCo
ひょっとしたら、ずっとこの事務所で働き続けて、
出逢いなんてこの先ないまま一生を終えてしまうかもしれない。

もっともそんなものがあったとしても、
私にはきっと無理だと思い込んで
アプローチなんてかけられないに決まってる。

恋愛の神様がいるとしても、
こんな奥手な私にチャンスなんて与えてくれないだろう。

でも、うちのアイドルたちの活躍を見て、
たまに好きな歌さえ歌えればそれでいいのだ。

そんな風に考えていた小鳥の声がどこかへと消えてしまったのはある夏の朝だった。

7: 2012/07/27(金) 02:26:36.39 ID:5GufPHXCo
その朝、目を覚ますと驚くほどに体がだるかった。

熱もありそうだし何よりのどがおかしい。

声が全くでないのだ。

こんなことは二十数年生きていて初めてだった。

話すこともできないから事務所には夏風邪で休む旨をファックスで送り、
買い置きの風邪薬を飲んで、終日ごろごろしていた。

積んであった薄い本を読んだり、
無理のない範囲で部屋の掃除をしたり、
意外と楽しい休日を送ることができたのだった。

8: 2012/07/27(金) 02:27:38.06 ID:5GufPHXCo
次の日になって、熱は下がったのだが
依然としてのどの様子はおかしかった。

声がまだ出ないのだ。

―――まだ風邪の影響が残っているのかしら。

単純にそう考えていたのだった。

事務所にはのどを痛めて会話ができないから、とファックスを送り、
たまにステージに立つバーの方にも簡単なメールを送る。

一通りの事務連絡を終えると、午後一で近くの病院へと出かけた。

そこは、かなり歳をとった老医のいる内科医院だった。

9: 2012/07/27(金) 02:28:16.48 ID:5GufPHXCo
「おかしいですねえ。咽頭には炎症がありませんねえ」

粘るような口調でその老医が言う。

小鳥はボールペンをノートに走らせた。

声が出ないと、筆談以外のコミュニケーション手段がないのだ。

[そんなはずないです。風邪のせいに決まってます]

「でも、のどは痛くないでしょう?」

確かにのどに痛みはない。
唾液を飲んでも食事をとっても何の違和感もなかった。

10: 2012/07/27(金) 02:29:12.96 ID:5GufPHXCo
[他に何か原因は考えられないんですか?]

「そうですねぇ…
たとえば、失恋をしたとか仕事が忙しくて休みがないとか
そういうの、ありませんか?」

失恋なんてことを考えたのはいつ振りだろうか。
少なくとも成人してからそのような単語を意識したことはなかった。

仕事も忙しいと言えば忙しいけど人並みの範疇は超えていないはずだ。

11: 2012/07/27(金) 02:30:29.89 ID:5GufPHXCo
[思い当たることはないです]

「そうですか…」

そう言ってカルテに何か書き込み、こちらを見ないまま言った。

「念のために心療内科で見てもらったどうですか。
あなたの症状ではお薬は出せないんですよ」

心療内科という言葉に驚かされる。
身体の丈夫さだけがとりえなのに心の病気だなんて。

「一応ですよ。心因性のものかもしれないですしね。
身体に異常はないのですから相談してみるといいですよ。」

老医はそういって診察室から小鳥を追い出したのだった。

12: 2012/07/27(金) 02:32:40.05 ID:5GufPHXCo
重い足取りで病院を後にする。

―――もしかしたら重病なのかもしれない。

漫画などで悲劇のヒロインに涙することは
多々あったもののまさか自分がこうなるとは思ってもみなかった。

いくら妄想が得意な小鳥でも
そうしたヒロインに自分を当てはめて考えたことは、
さすがになかった。

13: 2012/07/27(金) 02:33:48.74 ID:5GufPHXCo
―――ここで涙を流しても蒸発しちゃうのかしら。

そんなことを考えながら帰路を辿っていく。

いい年をして両親を頼るのも抵抗があるし、
それぞれの生活があるだろうからすぐには呼べないだろう。

仲のいい友人は大体OLで平日の午後に空いているわけがない。

そうなると心療内科に予約さえ取れないのだ。

もう、ないない尽くしだ。

14: 2012/07/27(金) 02:35:05.49 ID:5GufPHXCo
こういう時に恋人がいればいいのだろうが、
小鳥は、とことん孤独だった。

いつも使っていた声でさえ自分から離れて行ってしまったのだ。

このままだとクビになる可能性だってないとは言えない。

そうなったら残りの人生をどう過ごせばいいのだろう。

涙ではなく冷汗が額から滴り落ちる。

小鳥は一人ぼっちの恐怖を振り払うように足を早めて、アパートへと逃げ帰った。

15: 2012/07/27(金) 02:37:49.47 ID:5GufPHXCo
―――それにしてもまさか上の名が体をあらわしてしまうなんて

家に帰ってダージリンを淹れながらそんなことを思う。

歌が好きな小鳥、
なんてからかわれたことはよくあったが
こんなことになるとは想定外だった。

声が出ないのだから音も出ない。

当然、好きな歌も歌えないのだ。

16: 2012/07/27(金) 02:40:12.26 ID:5GufPHXCo
このまま声が出なくて歌えないままだったら…。

そんなことは考えたくもなかった

しかし、そう思うと涙があふれ出した。

それでもすすり泣く音さえ漏れない。

その事実に気付くと、
一人の部屋で崩れ落ちてしまい、
その日はずっと泣きながら過ごしたのだった。

25: 2012/07/27(金) 21:00:00.39 ID:5GufPHXCo
救いというのはいつも意外なところからやってくるものだ。

仕事を休んで三日目、ようやく目の腫れもひいたころだった。

どうやって心療内科に行こうか悩んでいると
昼前に自宅の電話が鳴ったのである。

『もしもし、音無さんですか。』

はあはあはあはあ

プロデューサーからの電話に、
荒く吐く息でしか返事が出来ない。

これではまるで変態じゃないか。

一人で顔を赤くしてしまった。

26: 2012/07/27(金) 21:00:55.27 ID:5GufPHXCo
『あ、風邪のせいで声が出ないんですっけ。
じゃあこれから質問するんで、
イエスなら一回、ノーなら二回受話器を軽くたたいてください。
それでいいですか?』

かしこい人だと感心してしまう。

言われるままに、トン、と一回受話器をたたいた。

27: 2012/07/27(金) 21:01:46.23 ID:5GufPHXCo
『はい。じゃあ…給与の振込はもう済んでますか?』

トン。

『今月分の伝票の処理はあらかた終わってますか?』

トントン。

『はい、わかりました。それではお大事に。』

あわてて受話器をたたきまくった。

28: 2012/07/27(金) 21:02:16.66 ID:5GufPHXCo
『?何か困ったことでも?』

トン。

『…食べ物がないとか…ですか?』

トントン。

口がきけないことはじれったい。

それが電話を介してのことならなおさらだと思った。

29: 2012/07/27(金) 21:03:06.74 ID:5GufPHXCo
『…とりあえず、困ってることがあるんですね。
じゃあ今日は予定もないですし、帰りに寄ってみます。
住所はこちらで調べておくんで。近くまで行ったらまた電話入れます』

それじゃ失礼します、と電話が切られた。

これで心療内科の予約ができる。
それだけでもありがたいことだった。

しかし、ここで新たな問題が発生したことに気付く。

30: 2012/07/27(金) 21:04:10.78 ID:5GufPHXCo
男性を自分の家に招くなど初めての体験だ。

しかも雑談を交わすような間柄でない男である。

おととい掃除したばかりなので部屋はよしとしよう。

このすっぴんのスウェット姿を見られたらたまったものじゃない。

しかし、化粧をし過ぎたりしっかり着飾ったりするのも病人らしくない。

どうすればよいのだろうか。

小鳥は、しばらく一人の部屋で無駄に右往左往しながら、
どうするべきか逡巡していたのだった。

31: 2012/07/27(金) 21:06:08.23 ID:5GufPHXCo
夜六時過ぎにプロデューサーはやってきた。

結局、メイクも服も室内で着ていて無理のない範囲のものになった。

プロデューサーはというと、いつも通り
紺のスラックス、半袖の白のシャツとネクタイを身に着けていた、

ネクタイには青地に銀と白のストライプが入っている。

―――夏だし会社の外なのだからネクタイを外してもいいんじゃないか。

小鳥はそんな感想を持った。

「とりあえず果物の缶詰各種と水、買ってきましたよ」

[ありがとうございます]

近くの百均で買ったホワイトボードにあらかじめ書いておいた文字を見せる。

32: 2012/07/27(金) 21:08:03.53 ID:5GufPHXCo
革靴を脱いで、プロデューサーは言った。

「声、本当に出ないんですね。
でも顔色はいいみたいで何よりです」

奥のリビングに案内すると、
プロデューサーは絨毯の上に腰掛けた。

横に置かれた袋からは、
みかんの缶詰や桃缶があふれ出しそうなっている。

「これ、アイドルたちの出てる番組のDVDですか?」

首を縦に振ると、へえすごいなぁと無感動に言って棚をまじまじと見ていた。

33: 2012/07/27(金) 21:08:36.09 ID:5GufPHXCo
「あぁ、そういえば困ってたみたいですけど、どうしたんですか」

こちらを振り返ってあまり関心なさそうに言う。

あくまで会社の人間と事務的に会話している風だった。

テーブル越しにプロデューサーの向かい側に腰掛け
一気にホワイトボードに書き込んだ。

34: 2012/07/27(金) 21:15:07.81 ID:5GufPHXCo
[お医者さんに、声が出ない原因は風邪じゃないっていわれたんです。
精神的な理由からかもしれないから、心療内科に行ってみたらって]

「…ああ、身体表現性障害ってやつですね」

あっさりと言い放たれた。

聞いたことの無い単語に小首をかしげる。

[なんですかそれ?]

「えーと、昔、なんかの小説で読んだことがあるんです。
過剰なストレスで身体の方が悲鳴を上げて、
普段できることがいきなりできなくなる症状です。」

[声が出なくなったり?]

「ええ、そんなこともあるみたいです。
その本では身体の右半分が動くなるんですけどね。」

[その原因はなんだったんですか?]

何か解決法をつかめるかもしれない、そう思ってマーカーを走らせたのだ。

「大したオチじゃないですよ。
右半身不随になった妻が、別の女と不倫中の夫の右隣で寝ていた。
妻の拒否反応だった、ってだけのことです」

なんだそんなことか、とも思ったが
意外に博識なプロデューサーに、小鳥は尊敬の念を抱いた。

35: 2012/07/27(金) 21:17:34.22 ID:5GufPHXCo
[プロデューサーさんって物知りなんですね。尊敬しちゃいます。]

普段言わないようなこともホワイトボードだとかけてしまうから不思議だ。

「尊敬しなくていいですよ。どうせただの観客ですしね」

言ってる意味がよくわからなかったので小鳥はマーカーの手を休めた。

そして何も言わずにあらかじめパソコンで開いておいた心療内科のHPを見せた。

見られたら困るものだらけだったので、
プロデューサーが来るまでの時間のほとんどが
パソコンの中身の整理に費やされたというのは内緒だ。

おそらくパソコンの中を引っ掻き回されることなどしないだろう、とは思ったが
念には念を入れたかったのだ。

36: 2012/07/27(金) 21:20:16.39 ID:5GufPHXCo
「なるほど、電話できないから俺を呼んだんですか。
ここに電話すればいいんですね。予約はいつにしましょう」

ディスプレイを見るプロデューサーをぼんやり見つめていたことに気付く。

もしかして救いの手を差し伸べてくれた王子さまを見るような目で見ていたのかもしれない。

あわててマーカーでぐちゃぐちゃな字を書く。

[明日の午後1時でお願いします]

「わかりました。
受付時間がもう終わってるので明日朝一番でかけておきますね」

そういうとプロデューサーはさっさと携帯を取り出した。

37: 2012/07/27(金) 21:22:16.87 ID:5GufPHXCo
「じゃあ携帯、教えていただけますか」

へっ、と声になっていない声が出ていることがわかる。

「赤外線、あります?」

そんな小鳥にかまわず話を続けるので急いでマーカーを走らせた

[どういうことですか?]

「予約を取った後、報告した方がいいかなと。
声が出ないのならメールの方が都合がいいでしょう?」

声が出なくてよかったと思ったのはこれが初めてである。

もし声が出ていたらまともに喋れるはずがなかったはずだ。

小鳥は、そんなことを考えながら首を縦に振って携帯電話を手に取った。

38: 2012/07/27(金) 21:23:11.11 ID:5GufPHXCo
「じゃあ俺はこれで」

連絡先を交換してそう言うと
プロデューサーは立ち上がって玄関へと足を運んだ。

廊下を歩きながらホワイトボードに書き殴る。

[今日はありがとうございました。お礼は必ずさせてくださいね?]

「はい、じゃあいつかお願いしますね」

それじゃあ、と素っ気なく言って玄関を出て行った。

39: 2012/07/27(金) 21:27:36.47 ID:5GufPHXCo
リビングに戻ってお見舞いの袋の中身を確認する。

中には、白がゆ、果物の缶詰、2Lペットボトルに入った水が三本、
それにレトルトのコーンポタージュの箱がいくつか入っていた。

こんなに重いものばかりまとめて買ってきたなら、
ここで晩御飯を食べていけばよかったのに。

そんな大胆なことを考えてしまったことが恥ずかしくなって顔を赤くしてしまう。

妄想以外で私にそんなことあるもんか、そう思ったのだ。

小鳥はレトルトの白がゆのパックを持つと
キッチンに行き、それを温めるための鍋に水を張った。

51: 2012/07/28(土) 23:00:08.52 ID:UV+Tamzdo
小鳥が事務所へと足を運んだのは
四日目の夕方に差し掛かるくらいの時間だった。

午後の診療時間一番に寄った心療内科では、
若い女医にあっさりと言われた。

「音無さんのような症状は心因性失声と言います。
彼氏さんの言うとおりですね。
昔はヒステリーなんて言われてたみたいだけど
今は身体表現性障害の一分野です」

彼とはそんな関係ではない、
とはさすがに言わなかったが小鳥はまんざらでもなかった。

52: 2012/07/28(土) 23:01:17.51 ID:UV+Tamzdo
[ほかにどんな症状が出るんですか?]

「そうですね。
ものが見えなくなったり手足が動かなくなったり、
不感症になる人もいますね。
まず原因になってる不安やストレスを見つけて解決法を探しましょう。
ところで最近ひどく傷ついたことってありますか?」

思い当たることがなかったので首を横に振る。

「そうですか。いいんですよ。
身体表現性障害は若い女性に多い症状なんです。
特に重大なことでもないですから、
ゆっくり治していきましょう」

53: 2012/07/28(土) 23:02:54.18 ID:UV+Tamzdo
女医はそう笑って言ったものの、そんな悠長に構えてはいられなかった。

会社勤めを続けなければ生活がままならないのだ。

経理などの事務作業で数字を扱うだけならまだしも、
このままだと電話を取り次ぐこともできやしなかった。

社長に手紙で事情を説明すると、
そんなのすぐに治るよ、クビになんてしないさ、
と言ってくれたのは救いだった。

それから夜にかけてたまった伝票を
誰もいない事務所で片付け、
プロデューサーが外まわりから戻るのを待った。


54: 2012/07/28(土) 23:04:30.21 ID:UV+Tamzdo
「ただ今戻りました」

[お帰りなさい、プロデューサーさん]

「あれ、音無さんもういいんですか」

[ええ、社長に言ったらそれより伝票を片付けてくれーって]

「それはお気の毒でしたね」

淡々と感想を述べるプロデューサーの顔を見て、
ホワイトボードを突きつけた。

55: 2012/07/28(土) 23:05:02.05 ID:UV+Tamzdo
[今晩、ごちそうさせていただけませんか?
相談したいこともあるんです]

困った顔をされてしまった。

都合でも悪いのだろうか。

「今日はちょっと…」

プロデューサーは歯切れ悪そうにそういった。

56: 2012/07/28(土) 23:06:23.39 ID:UV+Tamzdo
―――もしかして私と食事するのが嫌なのかしら…。

しかしここで引くわけにはいかない。

小鳥は懇願するような目でプロデューサーをじっと見つめた。

ひょっとすると、
これが女の武器と呼ばれる涙目上目遣いというやつなのかもしれない。

実際にこの技を使うのは初めてだったが
プロデューサーを引き留めるためなら、
手段を選んでいる場合ではなかったのだ。

57: 2012/07/28(土) 23:07:04.92 ID:UV+Tamzdo
すると、プロデューサーは大きなため息を一つついて言う。

「わかりましたよ。その代わり、高くつきますよ?」

どうやら女の武器がきいたようだ。

まだ、女として認められているような気がして
何となく誇らしげな気分になる。

「そうですねぇ…。
じゃあ寿司でもおごってもらいましょうか」

プロデューサーは小鳥を試すように、
しかし無表情でそう言い放った。

58: 2012/07/28(土) 23:07:50.27 ID:UV+Tamzdo
女だってこれくらいの年になれば、
そこそこのお値段でいいネタを出す回らない寿司屋くらい知っているのだ。

小鳥は握りこぶしを作って胸をたたく。

「私に任せてください、ですか」

微笑んでうなずく。

筆談に付き合ってくれるなら、
それくらいの出費は安いものだった。

59: 2012/07/28(土) 23:08:25.20 ID:UV+Tamzdo

   ***

「いい感じのお店ですね」

そういって一緒に席に座る。

まず始めに冷酒を頼もうとしたのだが
病み上がりにはまだ早いと言われ却下されてしまった。

久しぶりに一杯やりたかったのだが仕方がない。

結局、にぎりをおまかせで頼むだけにしてもらった。

60: 2012/07/28(土) 23:09:33.58 ID:UV+Tamzdo
[声を無くしたのは、
プロデューサーさんが言った通り
不安やストレスが原因らしいんです。
でも心当たりがなくて…]

「へえ、そうなんですか」

にぎりをひとつつまんだ後で続ける。

「そうなるとちょっと難しくなりますね」

[どうしてですか?]

「理由がわからないなら、
不安やストレスを和らげる方法もわからないでしょう?
声が出ないのもまたストレスになるでしょうし。」

61: 2012/07/28(土) 23:11:09.87 ID:UV+Tamzdo
ストレスはともかく不安なんていくらでもある。

独身、貯金は最低限。交友関係のある男性はなし。

勤めるところはいつ廃れてしまうかわからないような芸能事務所。

友達はいい子ばかりだが、特別多いというわけではない。

スタイルは人並みなはずだ。

そのうち胸や尻が垂れてくることなんて考えたくもない。

不安要素を一通り思い浮かべた後、思いっきり溜息を吐いた。

[不安やストレスなんて…いくらでもあります]

「そうですか」

相変わらず関心なさげな返事だけが返ってきた。

62: 2012/07/28(土) 23:12:04.30 ID:UV+Tamzdo
―――プロデューサーさんはどうなんだろう。

皿に並べられた寿司を淡々と食べ進める
プロデューサーを見てみる。

やはり何を考えている人なのか全くわからなかったが、
贔屓目に見なくても優しい人だと思う。

同性の友達にもいないタイプだった。

「ここのみょうが、うまいですね」

本当にこの人はよくわからない人だ。改めて思った。

63: 2012/07/28(土) 23:13:55.43 ID:UV+Tamzdo
[プロデューサーさんは不安とかなさそうですよね?]

「ええ、特にはないですね」

そう即答した。

「大学を出て社長にスカウトされて
芸能事務所のなかで自分がどんなことができるのかはもう十分にわかりました。
アイドルたちが成功したのは喜ばしいことですけど
それも彼女たちの力であって俺の力じゃない。」

お茶を軽く啜った後にまた続ける。

「もしアイドルたちが下降線をたどったら
なんとかなるよう力は貸しますが、結局のところそれも彼女たち次第です。
だから自分自身にはあまり期待してないんです。そうすれば不安もないですしね」

64: 2012/07/28(土) 23:15:57.35 ID:UV+Tamzdo
[少し冷たいんじゃないですか?]

「そうかもしれません。
でも彼女たちや社長に求められていることは
ある程度できているつもりです」

確かに社長やアイドルたちから彼の悪い評判を聞いたことはなかった。

せいぜい律子が彼は何を考えているか全くわからないから
アイドルたちが不安がるんじゃないか、
と不安視していたことくらいだろう。

もっとも、律子ともほとんど顔を合わせなくなった今となっては、
それもだいぶ昔の話だった。

65: 2012/07/28(土) 23:18:08.10 ID:UV+Tamzdo
[ステップアップとか考えてないんですか?]

プロデューサーの仕事ぶりというのはあまり見たことがなかったが
何と言ってもアイドルたちを成功させた、という実績があるのだ。

それ相応の手腕を持っていることに間違いはないだろう。

それにプロデューサーの賢さを生かせば、
もっと上に行けるのではないか。

そう考えたのだ。

66: 2012/07/28(土) 23:19:35.31 ID:UV+Tamzdo
「地道にこのまま仕事を続けられれば、
自分で事務所を立ち上げるくらいのことはできるかもしれませんね。
でもその分責任も重くなるんで、やりたいとは思いません。
うちの社長みたいに能天気に構えられればいいんでしょうけど」

今の社長には内緒ですよ、と苦笑いして言った。

もしかすると、プロデューサーが人間らしく笑うのを見たのは
これが初めてかもしれない。

小さな事務所で資金を回す大変さは小鳥はよく知っていた。

しかもあの社長はあまりお金のことを考えてくれないのだ。

大体そのしわ寄せはこちらに来ることを思い出すと、
思わずプロデューサーの話に納得してしまった。

67: 2012/07/28(土) 23:21:32.01 ID:UV+Tamzdo
「でも、これからの人生を悲観しているわけじゃないんです。
東京には見るものがたくさんありますしね。
演じる側じゃなくて『いい客』でいられればそれでいいんですよ」

それがこの前の意味不明な言葉の意味か。

「主役を演じるのって疲れるでしょうしね。
だから俺、今の仕事割と気に入ってるんです。
どうやっても主役にはなりえませんからね」

プロデューサーは淡々と言葉を続けた。

68: 2012/07/28(土) 23:22:57.67 ID:UV+Tamzdo
[ただのお客さんでいいんですか?]

「はい、東京には見るべきものがたくさんあります。
こういう仕事をしているのだからなおさら見るべきものは多いです。
つまらない奴にはブーイングを浴びせて退場してもらって、
いいなと思う人やモノにはできるだけ肩入れするんですよ。
そうやってライブや芝居、文章を見るのが楽しいんです」

こんなに饒舌なプロデューサーを見るのは初めてだ。

自分の好きなことを話している男の姿というものは、やはりいいものだ。

それに、もともとインドア派で引きこもりがちな小鳥に
そんな外向きな趣味があるはずなかった。

たとえ受け身であっても
そういった趣味を持つプロデューサーのことが少しうらやましくなる。

69: 2012/07/28(土) 23:23:48.40 ID:UV+Tamzdo
「実は俺、小さな雑誌で小説のレビューを書いてるんですよ。
全然金にならないけど、それが楽しいんです。
明日その締め切りなのにまだほとんど手付かずなんですけね」

[だからさっき断ろうと?]

「はい、そんなところです」

[でも、副業ってうちの会社でやっていいんですか?]

思わずペンを走らせてしまった。

「副業がなきゃ、プロデューサーとしてやっていけませんよ」

やはり不思議なことをいう人だ。

「まぁ、とにかく俺はこれで割と楽しくやれてるんです」

70: 2012/07/28(土) 23:24:38.15 ID:UV+Tamzdo
「それに、アイドルが話し相手になってくれるんですからね。
こんなに他人から羨まれることもないでしょうし」

ちくりと心が痛んだ。

そんな小鳥に構わず話は続く。

「年頃の女の子の感性って結構面白いんですよ。
しかも、話してるとなんだか自分まで若返った気もしますしね」

―――それは私が思ってたことだ。

思わずプロデューサーに嫉妬してしまった。

アイドルも来ない事務所で
一人で事務をこなす身にもなってほしいものである。

71: 2012/07/28(土) 23:25:33.51 ID:UV+Tamzdo
「あれ、音無さん泣いてるんですか?」

自分でもよくわからなかった。

ちょっと高めな寿司屋のカウンターで
三十近い女が涙をこぼすなんてさすがの小鳥でも許せないことだった。

しかし涙は止まらずにそのまま零れ落ちる。

プロデューサーは困ったように

「どうしたんですか」

と聞いてきた。

しかし、返事をしたくても音は無くしたままだった。

72: 2012/07/28(土) 23:26:12.45 ID:UV+Tamzdo
ここしばらく、
一人で出社して
一人で仕事をこなして、
一人で帰っていたことを思い出す。

忙しいアイドルたちはともかく、
律子とだって入れ違いになることが多かったのだ。

たまに言葉を交わすのは社長や
律子と比べれば事務所にいる時間の長いプロデューサーとの事務連絡のみだった。

結局のところ、小鳥は音が有ったとしてもほとんどの時間を一人で過ごしていたのだ。

74: 2012/07/28(土) 23:27:21.40 ID:UV+Tamzdo
「大丈夫ですか?」

小鳥は首を横に振ることしかできなかった。

涙は相変わらずあふれ出てくる。

インドア派のくせして
人と会話をしないと声が出なくなるほど寂しくなるとは。

私はどれだけ面倒くさい女なんだろうか。

小鳥はそんな自分に嫌気がさしてたまらなかった。

75: 2012/07/28(土) 23:28:54.81 ID:UV+Tamzdo
「気分が悪いなら、店でましょうか」

小鳥は首を横に振ると、しばらく放置していたシマアジを口に押し込んだ。

この店で二人分の代金なら小鳥の一週間分の食費と同じくらいになるだろう。

こんな面倒くさい女なんかどうとでもなってしまえ。

もはや怒りにまかせたやけ食いだった。

小鳥はホワイトボードに食べたくなったネタ一覧を書き込み、
プロデューサーに追加注文させた。

76: 2012/07/28(土) 23:30:10.95 ID:UV+Tamzdo
それで出てきた赤貝、アナゴやイカを食べると
ゆっくりと大トロとウニを味わう。

涙は収まったが後悔の念でいっぱいだった。

「…お腹がすいて泣いてたんですか?」

真顔で尋ねられてしまった。

どうやら小鳥はこの男を買いかぶりすぎていたようだ。

いや、もしかしたら彼なりのジョークなのかもしれない。

どちらの意味だったにせよ、
それがおかしくて声も出ないのに大笑いした。

―――プロデューサーさんのばか。

不意にのどのすぐ近くまで声が出てきそうになったのを感じた。

この分なら音を取り戻す日も遠くないかもしれない。

そのおかげで、
小鳥は先ほどまで自己嫌悪に陥っていたこともすっかり忘れてしまっていた。

77: 2012/07/28(土) 23:30:51.44 ID:UV+Tamzdo
[声が出なくなった原因、
何となくわかりました。
プロデューサーさんのおかげですよ?]

「それはよかったです。
といっても俺は寿司を食べただけで
なにもしてないんですけどね」

[いえいえ、そんなことないです。
このお店、どうでしたか?]

「ミョウガがうまかったですね。また来ましょうか」

寿司ではないのかと軽く突っ込みをいれたくなったが
それよりまた来ましょうかと言われたことが嬉しくて、
心の中で小さくガッツポーズを作る。

「病み上がりなんですし、ここで帰りましょう。駅まで送ってきますよ」

もう一軒お酒を飲めるところにどうにかして行きたかったのだが
先にそういわれてしまっては仕方がない。

小鳥はそれにおとなしく従うことにした。

78: 2012/07/28(土) 23:32:41.53 ID:UV+Tamzdo
街灯で照らされた通りを二人で歩く。

普段ならカップルだらけの通りに苛立つものだったが今日は違った。

小鳥はつい優越感に浸ってしまう。

プロデューサーは観客がいいと言っていたが
私はやはり主役、それも飛び切り幸せになるメインヒロインがいい。

そんな妄想をしていたのだった。

「音無さん、…音無さん?」

すぐ先の階段の上にいるプロデューサーに呼び掛けられる。

小鳥はあわてて取り繕った表情を作って首をかしげた。

「ここ滑るんで気を付けてください。ヒールだと危ないですよ」

そう言って前に向きなおった途端、プロデューサーはバランスを崩した。

小鳥のいる歩道から見ると四、五段くらい高い階段だろうか。

79: 2012/07/28(土) 23:33:15.94 ID:UV+Tamzdo
「――プロデューサーさん、危ない!!」

思わず叫んでいた。

バランスを崩したままプロデューサーは軽やかにとんだ…

かのように見えた。

結局プロデューサーはドスンと音を立てて尻から歩道に落ちた。

周りの通行人の視線が集中する。

そんなのを全く気にしていない様子でプロデューサーは言った。

「声、でましたね」

80: 2012/07/28(土) 23:34:04.46 ID:UV+Tamzdo
のどに詰まっていた栓が驚きで抜けてしまったのかもしれない。

今までしゃべれなかった分、早口でまくしたてた。

「何言ってるんです!
プロデューサーさん、今のわざとなんですか!?」

痛みと突き刺さる周囲からの視線を全く感じさせない平然とした顔で
プロデューサーは答えた。

「もちろんです。
もうちょっとで声が出るってさっき言ってたから
ショック療法で試そうかな、と思いまして」

「もう、ばかなことしないでください!」

怒った風を装うが小鳥は自分の声が出る喜びをかみしめていた。

81: 2012/07/28(土) 23:34:53.59 ID:UV+Tamzdo
「まあ声が出たならよかったじゃないですか。でも…」

「でも?」

「小説みたいにうまくいきませんね。
着地くらい簡単に決められるものかと思ってました。
これじゃ春香だ」

何も恥じずに淡々と述べるプロデューサーを見て、
出るようになった声を頃して笑ってしまう。

それを見たプロデューサーが
今、笑うようなところありましたか?と無表情で尋ねてきた。

きっと、この人はいつだってこうなのだ。

82: 2012/07/28(土) 23:36:14.21 ID:UV+Tamzdo
声が出るようになったらこっちのものだ。

周囲からの視線も消えた今、
二人は階段をゆっくりと上る。

「今度は、飲みに行きませんか?
私、いいバーを知ってるんです」

そういって小鳥は自分の歌うステージのあるバーの話をする。

もちろん、そこで自分が歌うということはまだ内緒だ。

「よさげなバーなんですね。
じゃあ今度は俺がおごりますよ」

「声が戻ってきた記念ってことでどうですか?」

「いいですね」

でも、と続けるとプロデューサーは
小鳥からホワイトボードを取り上げてマーカーを走らせた。

[今度はいきなり泣き出さないでくださいね?]

83: 2012/07/28(土) 23:37:02.36 ID:UV+Tamzdo
わかってます、と言ったが小鳥は全く別のことを考えていた。

そのバーのステージに立つ自分を見て
プロデューサーはどんな反応をするのだろうか。

無表情なプロデューサーがそこでどんな顔をするかなんて想像もつかなかった。

それに私の歌を聴いたあとにどんな感想を言うのかも気になる。

もしかすると痛烈な批判を淡々と述べてくるかもしれない。

いや、プロデューサーは『いい客』なのだ。

自分の歌が気に入らなくてもその場でとやかく言うような野暮な客ではないはずだ。

もしそうだとしても、
ほとぼりが冷めたころにこっそりとそれを教えてくれるくらいだろう。

それくらいの気遣いはできる人なのだと勝手な妄想をしてしまう。

「音無さん、どうしたんです?」

またも階段の上の方で呼ぶ声がした。

「い、いえ!どうもしません!」

「そうですか。じゃあ行きましょうか、時間も遅いですしね。」

「はい!」

84: 2012/07/28(土) 23:38:24.99 ID:UV+Tamzdo
バーに行くなら、早めの方がいいに決まっている。

鉄は熱いうちに打つべきなのだ。

今すぐそのバーに連絡をいれれば、
ステージに立てる日はそう遠くないはずである。

小鳥は今からその日が楽しみで仕方なかった。

だってプロデューサーの驚いた顔が見れるのかもしれないのだ。

こんなチャンスを逃す手はない。

「本当に滑ることは実証済みなので気を付けてくださいね」

「ふふ、そうですね」

小鳥は、歩き出したプロデューサーの後ろをヒールの音を立てながら追いかけて行った。

85: 2012/07/28(土) 23:39:15.50 ID:UV+Tamzdo
音無小鳥は音を一度無くした後でも自分の苗字を気に入っていた。

だって音が無いで音無、なんてやっぱりちょっと切なくて素敵じゃないか、
子供のからずっとそんなふうにぼんやり思っていた。

それに自分の音を無くしたせいで
プロデューサーのいい面をたくさん発見することができたし、
職場での良い話し相手が見つけることもできたのだ。

現金なもので今では身体表現性障害と自分の名前に感謝したいくらいだった。

音を無くした次は『音無』の名を無くすのもいいかもしれない、
なんて考えるのはいささか気が早すぎるだろうか。

その是非を検討するために、
そして限りない明日へと向かっていくためにも
今まで見たことのないプロデューサーの顔を早く見てみたいと思った。

同僚がステージで歌う姿を見せられたらさすがのプロデューサーでも驚くに違いない。

86: 2012/07/28(土) 23:40:06.89 ID:UV+Tamzdo
そのためにはまずそのバーに連絡を入れなければならない。

どのようなメールを出せばよいのだろうか。

自ら頼みこんでステージに立つことなんてめったにないことだ。

こんな厄介なことをしようとしているのも
きっとあのプロデューサーのせいに違いない。

―――ステージで歌った後にたっぷりおごらせてやらなくちゃ。

プロデューサーと別れた後、そんなことを思いながら
小鳥はバーに出すメールの文面を
帰りの電車の中でずっと考えていたのだった。

87: 2012/07/28(土) 23:40:53.58 ID:UV+Tamzdo
おわり。
元ネタは石田衣良の『1ポンドの悲しみ』より声を探しに、でした。

88: 2012/07/28(土) 23:42:11.75
おつおつ
引き込まれた

89: 2012/07/28(土) 23:43:24.27

引用元: 小鳥「音を無くして」