1: 2020/08/23(日) 14:30:34.98 ID:OOMGAyot0
男(俺にはある特技があった)

男(それは、人の能力を盗む事だ)

男(全神経を研ぎ澄ませて相手を注意深く観察する)

男(そうする事で、相手の能力のポイントや流れを理解し、模倣する事が出来た)

男(だが、俺にはコンプレックスがある)

男(それは、何かで一番を取った事が無いと言う事)

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1598160634

2: 2020/08/23(日) 14:48:18.76 ID:OOMGAyot0
男(よく人は俺を要領が良いと褒めてくる)

男(だが、俺はただ人の猿真似をしているだけだ)

男(どんなに努力した所で、本当の才能って奴には勝てた試しが無い)

男(所詮俺は劣化の模倣品なんだ)

男(『覚えが早いね』……その言葉を投げられる度に、どうしようもない苛立ちに苛まれる)

男(一位になりたい。本物になりたい)

男(そんな苦しみを育てながら、俺は今日もみっともなく生きている)

3: 2020/08/23(日) 14:50:21.59 ID:OOMGAyot0
男(町を歩く奴らは、どいつもこいつも平然と歩いている)

男(まるで自分には何の悩みも無いとでも言う風に)

男(どうしてそんなに堂々としていられる、お前たちはそんなに有能なのか)

男(骨の髄まで怒りが走る。世の中は不平等だ)

男(俺に力を寄越せ。どうして俺だけが苦しまないといけない)

男(道端に捨てられている空き缶を、俺は力任せに蹴り飛ばす)

男(圧倒的な才が欲しい。悪魔ですら黙らせるほどの)

4: 2020/08/23(日) 14:57:00.28 ID:OOMGAyot0
男(つまらない風景。どれもこれも平凡だ)

男(町を歩いていると、公園のベンチに座って空を眺めている老人が目についた)

男(随分と暇なんだろうな)

男(俺はそいつを一瞥し、無関心に歩みを進める)

男「!」

男(うっかり目が合ってしまった)

男(老人は何も言わず、ただ穏やかな表情で笑みを浮かべた)

男「……ッ!」

男(どうして人にそんな表情を向ける事が出来る)ギリ

男(見下していた俺の器の狭さが、浮き彫りにされてしまったようで)

男(俺は決まりが悪くなり、なんとも言えず足早に立ち去った)

5: 2020/08/23(日) 14:59:22.13 ID:OOMGAyot0
男(俺は町を彷徨う)

男(その姿は海月に似ている)

男(だが、俺は奴らとは違う)

男(海月は泳ぐ事が出来ない。自分を持たずにただ流れに任せて海を揺蕩う)

男(俺は自分で進む事が出来る。俺の行き先は俺のものだ)

男(俺は――)

男「……馬鹿らしい」

男(海月にすら必氏に張り合う自分の滑稽さに気付き、俺は舌打ちをする)

男(苦しい。苦しい)

男(息が詰まる。どうすれば楽に生きられるんだろう)

6: 2020/08/23(日) 15:03:52.07 ID:OOMGAyot0
男「……ん」クン

男(何処からともなく流れてきた珈琲の香りが、ふと鼻をくすぐった)

男(かなり遠くから来ているらしい、ほんの微かな香りだ)

男(それは、俺が今まで感じた事の無い香りだった)

男(たかが珈琲ごときに、心を奪われて立ち止まったのは初めての事だった)

男「これは……一体何処から」

男(俺の頭は、その出所を突き止める事のみに支配されていた)

男(犬のように意識を鼻に集中させ、俺はゆっくりと歩きだした)

7: 2020/08/23(日) 15:05:50.55 ID:OOMGAyot0
男「こんな所に店が……」

【珈琲 芍薬】

男(町から少し外れた、長い坂道を上った所)

男(目の前には木々が広がり、目ぼしい物は他に見当たらない)

男(そんな辺鄙な場所に、その店は立っていた)

男(よくもまあ先ほどの場所から気が付いたものだ)

男(こんな立地じゃ、対して客も入らないだろうに)

男(だが……)

男(扉を開ける前から漂う、この素晴らしい香り)

男(その香りの中には、確かな才を感じられる)

男(俺はその香りに負けないように、心の重心をどしりと下げて扉を開けた)

8: 2020/08/23(日) 15:10:28.94 ID:OOMGAyot0
りん りん りん

男(ガラス製のドアベルの音が、静やかに空間に染み渡る)

女「いらっしゃいませ」ニコ

男「一人です」

男(店の中は、四人用、二人用、一人用の席がそれぞれ二つずつ配置されている)

男(壁には年季の入った時計が掛けられており、珈琲ミルやランプが飾られている)

男(俺は壁際の一人席に座った)

男(木製の机は艶があり、何とも落ち着く)

男(机には金魚鉢のような、ガラスの花器が飾られている)

男(活けられているのは薄紫の紫陽花だ。水の中には赤や青のビー玉が入っている)

男(BGMのようなものは無く、木々のさらさらとした音のみが広がっている)

男(何だろう……安心感がある)

女「お決まりでしたらお呼び下さいね」

男「あ……では本日の珈琲で」

女「かしこまりました」

男(席からキッチンを盗み見る事が出来る)

男(店員はあの女一人だけなのだろうか?)

男(俺と同じくらいの年だ。まだ若いのに一人で店を回しているのか)

女「本日の豆は、「向日葵」ブレンドです」

男「!」

男(見ているのがバレた⁉ こちらを向いていないのに?)

男(偶然か? いや、明らかに俺の視線に呼応していた)

男(俺は窃盗がバレたような気持ちになり、逃げるようにコップの水を飲む)

男(あ……レモンの香りがする。旨い)

9: 2020/08/23(日) 15:12:58.75 ID:OOMGAyot0
ざっ

男(店に漂う香りが強くなった。手動の珈琲ミルに豆が入れられたからだ)

しゃらららら……

男「……⁉」

男(な、な……何が起きている⁉)

男(ま、まず音だ! 豆を挽く音が違う!)

男(がりがりとした耳障りな音では無く、まるで砂時計の砂が流れていくような)

男(あまりにも純粋で繊細で、清潔な音だった。こんな美しい音は聞いた事が無い)

ふわ……

男「え……あ……!」

男(どうなっている⁉ 理解が出来ない!)

男(そのままを言葉にするならば)

男(豆を挽く音が、香りが、色を纏っている!)

男(鮮やかな赤が広がり、青や緑が混ざって渦を描いていく)

男(実際に色は見えないが、確実にその色合いを感じる事が出来る)

男(何が起こっているんだ⁉)

10: 2020/08/23(日) 15:16:49.51 ID:OOMGAyot0
男(彼女はそうして出来た粉を、紙のフィルターを広げてドリッパーにセットする)

男(専用の珈琲ケトルから、細い細い湯を満遍なく注いでいく)

男(遠目からなのでよく見えないが、粉が膨れ上がっているようだ。一度蒸らしているのだろうか)

男(少し待って蒸らし終わったそれに、再び湯を注ぎ始める)

男(もしかして、俺はとんでもない才を目にしているのかもしれない)

男(たかが珈琲ごときに、こんなにも緊張して待つ事は初めてだ……!)ゴク

11: 2020/08/23(日) 15:20:10.03 ID:OOMGAyot0
女「お待たせしました。どうぞごゆっくり」

男(飴色の茶托の上には、有田焼か何かの和風のコーヒーカップ)

男(その落ち着いた色合いのカップからは、信じられないほど鮮やかな虹色が溢れていた)

男(一体どうなっているんだ。これは珈琲なのか?)

男(俺は恐る恐る、それを口に含む)

男(あ……)

男「……旨い!」

女「良かった」

男(穏やかな深みを湛えながら、舌を刺すように鋭い苦み)

男(だが、それはしつこく残る事なく、さっと消える。素晴らしい味のキレだ)

男(むせ返りそうな程に香ばしいのに、その香りの中にはかすかな甘みがある)

男(衝撃のあまり、俺は我を忘れてその珈琲の味を感じ取っていた)

女「いかがでしょうか。軽やかな味わいとしっかりした苦さの、夏向けのブレンドです」

男「……こんなにも珈琲を旨いと思ったのは初めてです」

女「ありがとうございます」ニコ

男(何と言えば良いのか、身体が明るくなった気がする)

男(信じられないほど旨かった……)

男「ご馳走様でした……」

男(俺は半分夢心地のまま、会計を済ませる)

女「ありがとうございました。暑いのでお気をつけて」

男「……」

男「……また、来ます」

男(それが「芍薬」との出会いだった)

12: 2020/08/23(日) 15:21:55.36 ID:OOMGAyot0


男(暑い)

男(茹だるような暑さとはこの事だろう。自分の息すらも熱風に感じる)

男(狂ったように鳴く蝉が耳障りだ)

男(こうもしつこく喚いて惨めにならないのだろうか)

男(あまりに必氏で、不毛な喚き声だ)

男(……)

男(分かっている。行動すらせずに見下している俺の方が惨めなんだ)

男(俺は蝉以下の存在だ)

男(そんな自己嫌悪を振り払うように、俺は足を進める)

男(嫌な事も、考えなければ何も無い。俺は自由でいられるはず)

男(「芍薬」はすぐそこだ)



13: 2020/08/23(日) 15:23:09.87 ID:OOMGAyot0
ミーンミンミンミンミン……

男(暑い)

男(茹だるような暑さとはこの事だろう。自分の息すらも熱風に感じる)

男(狂ったように鳴く蝉が耳障りだ)

男(こうもしつこく喚いて惨めにならないのだろうか)

男(あまりに必氏で、不毛な喚き声だ)

男(……)

男(分かっている。行動すらせずに見下している俺の方が惨めなんだ)

男(俺は蝉以下の存在だ)

男(そんな自己嫌悪を振り払うように、俺は足を進める)

男(嫌な事も、考えなければ何も無い。俺は自由でいられるはず)

男(「芍薬」はすぐそこだ)

14: 2020/08/23(日) 15:29:04.20 ID:OOMGAyot0
りん りん りん

女「いらっしゃいませ。暑かったでしょう」

男「どうも」

男(差し出された手ぬぐいは、きりっと冷やされていた)

男(熱を帯びた身体が一気に冷やされていく)

男(店の中には、一人の老人が座っていた。俺はそれを見てどきりとする)

男(以前、空を見ていた老人だ)

男(俺は目を合わせず、メニューを開く)

男(「芍薬」は、その日のブレンドとアイスの二つしか飲み物が無い)

男(もっと増やせばいいのに、それはこだわりと言う奴なんだろうか)

男「アイスで」

女「はい。少々お待ち下さい」

男(老人は珈琲を飲みながら、何かの本を読んでいる)

しゃららららら……

男(この音だ。この音を聴きにやってきたんだ)

男(色鮮やかな音が店内に広がる)

男(美しい。心が浄化されるようだ)

男(そうだ、あの老人には見えているのか?)チラ

老人「……」

男(……穏やかな表情をしている。目線は本に向いたままだ)

男(見えていないのか……? 分からない。どちらとも取れる)

男(キッチンに目線を戻すと、コーヒーカップにたっぷりの氷が入れられていた)

男(茶色い氷だ。まさか珈琲を凍らせているのだろうか)

女「……」

男(あの店主の淹れる様は、見ていて飽きない)

男(それほどまでに美しく無駄が無い。まるで雲が流れていくようだ)

男(俺は意識を集中する。どんな音も逃さないように)

ちりちりちり……

男(熱い珈琲が、氷にぶつかって急速に冷えていく)

男(ちりちりとした氷が溶けていく音の中に、時折ぱきっとそれが割れる音がする)

男(うざったい外の暑さを砕くような清涼音だ)

男(ああ)

男(此処は落ち着く)

15: 2020/08/23(日) 15:34:24.40 ID:OOMGAyot0
女「お待たせしました」

男(運ばれたカップからは、やはり虹色が溢れていた。まるで冷気のようだ)

男(! カップまで冷たい。わざわざ冷やしていたのか)

男「……」ゴク

男「……おお、旨い」

男(以前の鋭い苦みとはまた違う。ほどよい苦みが口に広がる)

男(柔らかな酸味を感じる。それらがきりっと冷やされていて喉が引き締まる)

男(旨い……)

老人「いやあ、旨いねえ。若いのに大した腕前だ」

女「いえ、そんな……ありがとうございます」

老人「この珈琲から虹色を感じるよ。私もボケてしまったのかな」

女「お気付きになられましたか、人によって感じられる方とそうでない方がいらっしゃいます」

老人「不思議な珈琲だねえ」

男(! やはり、他の人にも虹色が感じられるのか)

老人「あんたのおかげでリラックス出来ますよ。ありがとうなあ」

女「そう言って頂けると報われます」

男(優しい会話)

男(いつもなら心の中で突っかかっていただろう)

男(だが、今はそんな気になれなかった)

男(……何故だろう?)

16: 2020/08/23(日) 15:36:48.55 ID:OOMGAyot0
老人「へえ、まるでペンが生きているみたいだ」

男「いや、ただの下らないペン回しですよ」ヒュンヒュン

老人「そんな事は無いよ、指の間を駆け巡るなんて見た事無い。他にも出来るのかな?」

男「ええ、では……」

男(俺はいつしか、「芍薬」の常連となっていた)

男(あの老人ともすっかり顔見知りになり、少しばかりの会話をする事もあった)

男(俺の中で、何かが変わり始めている)

男(人の声が、空の色が、歩く音が以前とは違うように感じられる)

男(不思議と、あの店主の才を盗もうとは思わなかった)

男(そんな事を考える自分を、何処か恥ずかしく感じていた)

男(考えて見れば、俺はあの店主の事を何も知らない)

男(どうやって虹色の珈琲を淹れられるようになったんだろう)

男(いつしか、俺は珈琲よりも彼女に興味を持っていた)

17: 2020/08/23(日) 15:42:40.85 ID:OOMGAyot0
さらさらさら……

男(やはり、この店は静かで良い)

男(木々の葉の音が何とも心地良い。清涼な気分にさせてくれる)

男「……旨い」

男(今日の珈琲はナッツのような香りがする。素晴らしい香りに特化した一杯だ)

女「あら、その本私も読んだ事があります」

老人「有名な作品だからねえ。何度も読み返してしまうよ」

老人「名作は良いものだ。誰もが一度は読むべき価値がある」

男(その言葉に胸がちくりと痛む。俺もそんな事を言われてみたい)

女「親友が最後に氏んでしまうのが悲しいんですよね」

老人「ああ、「本当の幸せ」とは、何なんだろうなあ」

女「自分が氏ぬことすらいとわない他者への思いやり……でしょうか」

男「……そんなの、綺麗事でしょう。自分が氏んだらそれで全部おしまいだ」

男「自分が救われなければ、全部が無駄じゃないですか」

老人「ううむ。分からん。分からんなあ」

老人「けれども、物語の彼にとってはそれが幸せなんだろう」

男(理解に苦しむ。俺の人生は俺の物だ)

男(自分が犠牲になって人を救ったとして、俺は満足出来ない)

男(ただの綺麗事だけで、人は生きていられないんだよ)

老人「私は身体に不自由無く生きていられる、それだけで幸せだなあ」

女「ええ、とても幸せな事ですね」

男(……)

老人「君達にとっての幸せとは、何だい?」

男「……!」

男(答える事が出来なかった)

女「私は……私の作った珈琲で笑顔になって貰えれば、それで」

老人「ほほう」

男(違和感があった。以前からも時々気になっていた事だ)

男(女さんの笑顔は、何処か壁がある)

男(その場しのぎと言うか、嘘はついていないのだろうが……)

男(後ろめたさ、のような何かを感じる)

18: 2020/08/23(日) 15:44:57.20 ID:OOMGAyot0
むわっ……

男(暑苦しい)

男(何とも不愉快な熱帯夜だ。一向に眠気がやってこない)

男(老人さんの話が頭から離れない)

男(俺にとっての幸せとは、何なのだろう)

男(それが見つかれば、俺は楽になれるのだろうか)

男(俺は何を求めているんだ?)

男(重々しい汗が首筋を流れる。こんな事を考えているのも夜のせいだ)

男(さっさと眠ってしまおう。眠っている間は楽でいられる)

19: 2020/08/23(日) 15:46:22.98 ID:OOMGAyot0
男「な……!」

男(いつもの「芍薬」の扉には、しばらく休業するとの知らせがあった)

男(何故だ、どうして突然……)

男「……落ち着け、たかが珈琲だ」

男(そうだ、別に何処でだって飲める)

男(何を残念がっている。期待するだけ無駄だと分かっていただろう)

20: 2020/08/23(日) 15:47:47.99 ID:OOMGAyot0
男「……」

男(ふと目についた適当な喫茶店で飲んだ珈琲は、大した事の無い味だった)

男(どうにも居心地が悪い。一人で居るのが場違いのようだ)

男(店員の態度? 店の配置?)

男(どれもこれも違う、いや――)

男「……ああ」

男(認めよう。俺はあの店が好きだったんだ)

男(そう思った瞬間、とんでもない虚無感に襲われる)

男(もう「芍薬」の扉を開ける事は無いのか)

男(俺はしょうもない珈琲を飲み干した。味なんて分からなかった)

21: 2020/08/23(日) 15:49:40.96 ID:OOMGAyot0
男(それ以来、俺は以前のような生活を送っていた)

男(下らない事ばかりが溢れている。何をしても満たされない)

男(そう思いながらも、縋るように「芍薬」の前まで歩いている)

男(今日こそは、営業しているのでは無いかと期待して)

男「……ちっ」

男(都合良く開いている訳も無い)

男(俺はぶらぶらと時間つぶしに歩き回る)

男(店から少し離れた場所に、小さな公園があった)

男(申し訳程度のブランコとタイヤの遊具、他には何もない)

男(誰からも忘れられているような、そんな公園だ)

男(だが)

女「……あ」

男「女さん……?」

男(彼女はそこに居た)

22: 2020/08/23(日) 15:57:17.20 ID:OOMGAyot0
男(気が付けば、空は茜色に染まっていた。何処かでツクツクボウシが鳴いている)

男「どうして……店、閉めたんですか」

女「怒ってますよね……ごめんなさい」

女「もう、辛くなったんです。珈琲を淹れるのが」

男「それは……働く事とは別の問題ですか」

女「……考えてみたんです。私にとっての幸せ」

男(彼女はそう言うと、ぽつりぽつりと話し始めた)

女「私は自分の淹れる珈琲で人を笑顔にしたかった」

女「けれど、もう昔のような珈琲を淹れる事が出来ないんです」

女「……昔、付き合っていた彼が居たんです」

女「一緒に小さな店を開いて、ただ二人で静かに生きていたかった」

女「けれどある日、貯めていた資金を持って、彼は姿を消しました」

女「……それからは氏に物狂いで頑張って、ようやく店を開く事が出来ました」

女「誓ったんです。二人でやるはずだった店を、私一人でやりきってみせるって」

女「私は復讐のために生きているんです。私の珈琲にはどす黒い怒りが入っているんです」

女「そんな珈琲を人様に出す事に、私はもう耐えられません」

女「もう、疲れてしまいました」

男(初めて彼女の本心を聞いた気がする)

男(少し妙だと思っていた。あの空間はあまりにも居心地が良すぎるし、彼女の気配りは細やかすぎる)

男(普通の感覚ではあそこまでたどり着けない。その力の源は……怒りだったのか)

男「どうしても、辞めてしまうんですか」

女「もう良いんです……男さんも言ってたでしょう」

女「自分が救われなければ無駄だって」

男「……!」

男(何も言えない。全ては愚かな俺のせいだ)

男「……俺は、あの店が好きです」

男「だから、賭けをしましょう」

女「……?」

男「一ヵ月後、俺があの虹色の珈琲を作る事が出来たら」

男「辞めないで貰えませんか?」

女「……良いですよ。出来るものならば」

女「私の珈琲は、そうそう真似出来る物ではありませんが」

男(彼女の目が鋭さを帯びる。珈琲への侮辱と思われて当然だな)

男(大見得を切ってしまった。後先なんて考えていなかった)

男(けれど、何もせずに黙っている事なんて出来なかっただろう)

男「……やるぞ」グッ

男(こんな気持ちは初めてかもしれない)

23: 2020/08/23(日) 15:59:40.82 ID:OOMGAyot0
男(俺は昔から、何でも人の能力を盗む事から始めていた)

男(出来る奴がやっている事を真似るのが、一番早かったからだ)

男(だから、自分の力のみで何かを身に着けるのは、初めての事だった)

男(珈琲の知識、器具に豆。必要な物はすぐに揃える事が出来た)

男(初めて珈琲豆を挽く。良い香りだ)

男「どれ」ゴク

男(……悪くは無いが、やはり遠く及ばない)

男(何度だって試してやる。俺だってやれば出来るんだ)

24: 2020/08/23(日) 16:04:13.28 ID:OOMGAyot0
男(一週間が経った。虹色どころか、色の一つも現れない)

男(それが当たり前だとは分かっているが、こうも手応えが無いのは心に来る)

男(疲れてしまった俺は、気分転換に町を歩いている)

老人「おや」

男「お久しぶりです」

男(やはり此処に居た。老人さんとも久しぶりに会う)

老人「……なるほどねえ、それで来月に珈琲を」

男「ええ、ですが全く上手くいかなくて」

老人「そうだろうなあ、あれには彼女の執念が込められていた。人生とも言っていい」

男(この人は時々核心を突くような事を言う。物事の内側を覗いているかのように)

男(一体この人には、何が見えているんだろう)

老人「でもねえ、男さん。一朝一夕にはいかないだろうが、覚えておきなさい」

老人「人生はホットケーキなんだよ。ちょっとしたきっかけで、ある日ぺろんと世界の全てがひっくり返る」

老人「頑張ってなあ。私もその日に向かわせて貰うよ」

男「はい、では……」

男(人生はホットケーキ、か……)

男(諦めるのはまだ早い。もう少し頑張ってみよう)

25: 2020/08/23(日) 16:06:08.77 ID:OOMGAyot0
男(三週間が経った)

26: 2020/08/23(日) 16:11:04.37 ID:OOMGAyot0
男「くそ、くそ! 何でだよ! 何が違うって言うんだ!」ドン

男(一向に進歩が無い。豆を変えても、様々な淹れ方を試しても、虹色は現れない)

男(最近はほとんど寝ずに頑張っている。それなのにどうして)

男(彼女の淹れるコツが怒りだと言うのなら、いくらでも注ぎ込んでいる)

男(呪いのように、深く煮えたぎる怒りだ。なのに旨くなる所かまずくなっている)

男(どうしてだ、どうして俺はいつもこうなんだ)

男(努力は報われない。どれだけ頑張っても時間の無駄だ)

男(出来上がった珈琲を飲む。まずい、まるで泥水だ)

男「クッソ……!」

男(ぶん投げたコーヒーカップが、がちゃんと音を立てて砕ける)

男(もう時間が無いのに、老人さんも期待してくれているのに)

男(本気で取り組んでいる。真剣に何百回も練習を重ねたんだ)

男(どうしてだ、どうして俺には何も出来ないんだ)

男(こんなに頑張っているのに……!)ギリ

男「ああ――!! あ――!」

男(怒鳴り声を上げながら珈琲ミルを壁に叩きつける)

男(買ってきた豆の袋を破く。黒い豆が床一面に散らばる)

男(苦しい。苦しい)

男(もうやめてくれよ。もういやなんだ)

男「あああああああああ――」

男(暴れに暴れた俺は、全ての力を失って床に倒れこんだ)

男(睡眠不足のせいで、一気に意識が遠のいていく)

男「……ごめんなさい……」

男(俺は眠ってしまうまで、両目から流れる熱さだけを感じていた)

27: 2020/08/23(日) 16:20:31.07 ID:OOMGAyot0
男(夢を見ていた)

男(子供の頃の夢だ)

男(むっとするような草の匂い、じりじりと照り付ける炎天下)

男(プールの中から見える世界が、やけに美しかった事を覚えている)

男(あの頃は良かった。不安なんて何一つ無かった)

男(一体いつからこうなってしまったんだろう)

男(両親が事故で無くなってからだったかな)

男(弱い可哀そうな人間だと思われたくなかった)

男(人を見下して、自分より下を探して)

男(そんな事をしても、自分が強くなる訳でも無いのに)

男(俺には自信が無かったんだ。だからいつも人の目に怯えていた)

男(俺が何を求めていたか、ようやく理解出来た)

男(自尊心も何もかもを捨てて)

男(ただ、等身大の自分で生きたかったんだ……!)

28: 2020/08/23(日) 16:23:35.80 ID:OOMGAyot0
男「あ……」パチ

男(目が覚めると、朝の五時前だった)

男(随分と眠っていたらしい。身体のあちこちが痛む)

男(俺はベランダに出て、ゆっくりと深呼吸をする)

男(ひんやりした早朝の空気が、喉を通っていく)

男(何だか、心が軽い)

男「……おお」

男(日の出を見るのはいつぶりだろう)

男(そこから見る景色は、ただただ美しかった)

男(世界がこんなにも美しいと思えたのは、初めてかもしれない)

男「もう一度……やり直そう。何度だって」

男(もう自分の弱さも、失敗すらも肯定してやれる)

男(つまらなかった俺の世界が、ぺろんとひっくり返っていた)

29: 2020/08/23(日) 16:28:35.87 ID:OOMGAyot0
男(壊してしまった物全てを買い直し、俺は再び珈琲と向き合う)

男(一つ気になる事があった。彼女の珈琲に込められていたのは、怒りだけだったのだろうか)

男(彼女はいつだって客の事を思っていた)

男(むしろ、慈しみの方が感じられたように思う)

男(怒りと慈しみ、矛盾する二つの感情がポイントだとしたら)

男(俺は豆を挽く。彼女のような音は当然出ない)

男(それでも良い。淹れる為の全ての動作を、時間をかけて丁寧に行っていく)

男(丁寧に、丁寧に。自分の全てを注ぎ込んで)

男(そうして、俺の珈琲が出来上がる)

ユラ……

男「……はは、何泣いてるんだ俺」

男(それには、僅かながらも虹色が立ち上っていた)

30: 2020/08/23(日) 16:43:08.57 ID:Vh/l3eBb0
ごりごりごりごり……

かちゃ

さっ 

とんとん

こぽぽ

つうっ……

「……よし」

31: 2020/08/23(日) 16:47:44.07 ID:Vh/l3eBb0
女「……では、見せて貰いましょうか。キッチンはご自由にどうぞ」

老人「落ち着いてな」

男「はい」

男(全てが調和している。そんな感覚がある)

男(大丈夫。きっと上手く行く)

男「昔、俺は彗星について調べた事があります」

女「……彗星?」

男「一度だけ見た事があるんです。あの輝きは今でも忘れられない」

男「彗星って何で出来ているか知っていますか?」

女「ええと……隕石……岩や鉄、でしょうか」

男「ほとんどが氷や塵で出来ているんです。見た目からは想像もつきませんよね」

老人「ほう」

男「人はいつだって、光に惹きつけられるんだと思います」

男「彗星からしてみれば、自分は汚いゴミかもしれない」

男「けれど、自分では気付かないような光を持っているんです」

女「……」

男「出来ました。どうぞ」

32: 2020/08/23(日) 16:57:14.53 ID:Vh/l3eBb0
ユラ……

老人(! カップから、僅かな虹色が……!!)

女「いただきます」

女「……」

男(彼女はそれを一口飲んでから、沈黙する)

男(長い長い沈黙だ。心臓が大きな音を立てて評価を待つ)

女「……美味しい、です」

男「……!」

女(本当に美味しい)

女(私の作る物ほどでは無い。けれど、彼の淹れる一連の動作は、硝子細工のような繊細さが込められていた)

女(人の為を思って淹れた、その気持ちがひしひしと伝わってくる)

女(どれほどの努力をしたのだろう)

女(私以外の人間が、この虹色の珈琲を淹れられるなんて)

男「……俺は自尊心だけが膨れ上がったクズでした」

男「けれど、貴女の珈琲を淹れようと努力して、少しだけ変わる事が出来ました」

男「貴女の珈琲の秘訣は、怒りとそれ以上の慈しみだと分かりました」

男「貴女は復讐の珈琲だと言っていましたが、俺は優しさの珈琲だと思います」

男「許せなくても良いんです。それも人間の心の一部です」

男「お願いします、もう一度やり直して貰えませんか」

女(私は自分の淹れる珈琲が嫌いだった)

女(それは、自分の憂さ晴らしの為に作っていたから)

女(けれど、この人は私の知らない自分を気付かせてくれた)

女(私の珈琲は、無駄じゃなかったんだ)ポロ

女「私、また作っても……良いんでしょうか」

男「はい。みんなが貴女の珈琲を楽しみにしてますから」

女「ありがとう、ございます……!」

老人「うむうむ。良かったなあ、これにて一件落着だ」ニコ

老人「どれ、私にもその珈琲を淹れて貰えないかね?」

男「ええ、喜んで!」ニコ

33: 2020/08/23(日) 17:10:29.89 ID:Vh/l3eBb0
りん りん りん

女「あら、男さん」ニコ

男「どうも。本日の珈琲で」

老人「やあやあ、元気かい」

男「ええ。まだまだ暑いですね」

男(あれ以来、再び「芍薬」は営業を再開した)

男(やはり、この店は居心地が良い。暇さえあれば来ている気がする)

男(老人さんはいつも居るな。未だにあの年で坂を上って来ているのが信じられない)

女「あの……」

男「?」

女「この前のお詫び……お礼と言うか……」

男「ああ、別に良いんですよそんなの」

女「いえ、受け取って下さい」

女「サービスの新メニュー、カフェ・コン・レチェです!」

男「おお、これは……!」

男(透明なグラスの底にはハチミツ、泡立てたミルク、珈琲、さらにまたミルクの順で層が出来ている)

男(ハチミツの黄金色と、白と黒のコントラストが実に綺麗だ)

男「……うおぉ、旨い!」

女「下の方のミルクはアーモンドミルクを使っているんです。さらにレモンの花のハチミツを使いました」

女「珈琲はチェリーのような甘い香りと酸味がある豆を濃い目に抽出しています」

男「今までとは一味違いますね! 味に変化があるのに一体感がある」

男(これは彼女なりの、新しい自分への決意表示なのだろう)

男(それにしても旨い。珈琲の奥深さには今でも驚かされるな)

ふわ……

男「……⁉」

男(飲み終えた瞬間、花が……咲いた?)

男(今までよりも、さらに美しい感覚だ)

男(花が咲く珈琲、か)

男(彼女の珈琲は、また一段と洗練されたようだ)

老人「うむうむ。新しい事に挑戦するのは良い事だ」

女「私、これからも頑張りますから」

女「見てて下さいね!」ニコ

男(そう言って笑う彼女には、もう以前のような壁を感じられない)

男(俺もよく笑うようになった。以前は愛想笑いしかしなかったのにな)

男(居心地の良い空間と珈琲の香り。この店は俺にとって大切な場所だ)

男(きっとこれからも、この店の珈琲は人々を幸せにしていくんだろう)

男(此処は珈琲「芍薬」。町から少し離れた場所にある小さな店)

りん りん りん

「あの、すごく良い香りがして……ひとりなんですけれど」

女「……いらっしゃいませ!」ニコ

男(今日もそのドアを開けて、新しい客がやってくる)

34: 2020/08/23(日) 17:11:22.06 ID:Vh/l3eBb0
終わりです。ありがとうございました。

引用元: 男「虹色の珈琲」