1: 2010/12/05(日) 12:01:03.04 ID:w7wj2eg00
「あ……和ちゃん、おはよう」

彼女はいつも屈託の無い笑顔を私に見せる。
十数年間一緒に登校して来た、そして、去年から別々の高校に通う彼女は、相変わらず、明るく笑う。

「ええ、おはよう。朝に会うのは久しぶり、かしらね」

朝に、とは言ってみたものの、それ以外のときは会っているのかと聞かれると、そうでもない。
ああ、じゃあ、今のは嫌味ったらしく聞こえやしないだろうか。
そんな私の心配を他所に、相変わらず、彼女は明るく笑う。

「久しぶりだねえ。あのねえ、軽音楽部に後輩が入ってきたんだあ」

少し間延びした口調で話す彼女は、去年から、多分何一つ変わっていない。
だから、きっと、変わったのは、私のほう。
彼女の姿はいまでもはっきりと私の目に映っているのに、私の姿は、薄い霧の中にある。
多分、彼女が見ているのは、去年の私の残像だろう。

「そうなんだ、ごめんね、急がないと電車が出ちゃうのよ。また、メールしてね」

あ、そっか、ごめんね、と、唯は寝ぐせのついた髪の毛を揺らして、頭を下げた。
別に、謝らなくたっていいのに。


私、和ちゃんと一緒の高校に行きたいなあ、なんて、唯が言ったのは、
そういえば、もう一年と半年ほど前の事になる。
分厚い参考書が詰まった鞄を持って、家から駅、駅から学校までを往復するばかりの毎日で、
いつのまにか、時間感覚は狂ってしまっていたらしい。

もう少し、最近のことだと思っていた。

3: 2010/12/05(日) 12:04:00.43 ID:w7wj2eg00
『次は、……駅。今話題のスポーツクラブ……はこちらです……』

駅名を聞き逃しても、その後の、駅の近場案内で、ここが降りるべき駅だと分かる。
これが、県内一の進学校に通う私が、一年間かけて身につけた特技。

駅から出ると、私の家の近くとは随分と違う、騒がしい街並みが、偉そうに私を迎える。
パチンコ店のを睨みつけてみても、喧騒は収まらない。
本当に、たまったもんじゃない。
多分、唯なら、耳がおかしくなっちゃうよお、なんて言って、大袈裟に耳を抑えることだろう。

「The sun comes up. Another day begins and I don't even worry about the state I'm in......」

車のクラクションだとか、下品な笑い声だとかよりはずっとマシだから、私はイヤフォンを耳に付ける。
そこから流れてくるノイズの間に、ふわふわと漂うメロディラインを拾って、口ずさむ。

日が登って、新しい日が始まって、自分がどんな状態にあるのかも、興味がない……

素敵な生き方だと思う。けれど、思うだけ。
私は今日も、自己の成績と、将来のことを気にして、やけに広い敷地を持つ進学校へと通うのだ。


「Why don't you take a second and tell me what you see?」

流石進学校。駅から降りてすぐの場所に陣取った高校の、自分のクラスの教室まで、一曲口ずさむ時間もありはしない。
ただ、この時間、授業開始まで一時間、幸いなことに同じ階には誰も来ていない。

「The things I see you only disagree.You never understand that's what I want to be......

相変わらず、イヤフォンから流れてくる歌は気だるそうな響きだった。
小さく口ずさみながら、私は、日課の黒板消しを始めた。

5: 2010/12/05(日) 12:07:08.90 ID:w7wj2eg00
進学校だから、かは知らないけれど、自由な校風で有名なこの高校には、変な人が多い。
今日も、黒板には訳の分からない落書きがしてある。

こいつは蛇です!

という文字の傍には、犬の体に人間の顔と、鶏冠がついた妙な生き物が描かれていた。
気味が悪いなと思いつつも、私はそれを消した。

「Wishing hide but you just can't see me」

「うぃしんぐ はい ばちゅ じゃす きゃん しい み」

たどたどしい発音で、私の歌に加わる女性がいた。
声のしたほうを向くと、細い目をした、優しそうな女性が立っていた。
制服を見る限り、どうやら上級生のようだ。

「……あら、歌うのを止めなくてもいいのに」

私は、部活に入っていない。
純粋な帰宅部である私は、こうしたとき、先輩に対してどのように接すればいいのか、迷ってしまう。

「ええ、と……」

そんな私を見かねたのか、ふふ、と小さく笑いながら、その女性は、自分の胸に手を置いて言った。

「曽我部、曽我部 恵よ。よろしくね、黒板消し魔さん」

黒板消し魔。なんだか妖怪みたいな名前だ。

6: 2010/12/05(日) 12:10:32.51 ID:w7wj2eg00
「なんですか、それ」

「あら、有名よ。朝早くから来て気が狂ったみたいに黒板を消してる女の子がいるって」

一旦間を空けて、曽我部さんが続けた。

「溝に落ちた粉まで執念深く掃除してるって。ティッシュまで使ってるって」

「いや、もうその話は結構です」

私が止めると、曽我部さんはくつくつと笑った。

「ふふ、そう。まあ、ちょっとどんな娘か気になったから観に来てみたんだけどね、それ、JMCかしら」

自分の耳を指さして、曽我部さんは私に尋ねた。
多分、私のイヤフォンを指すジェスチャーだろう。

「ええ、そうです。Psycho Candyです」

「へえ、嬉しいわ。シューゲイザーが好きな人って、あまりいないから」

シューゲイザー。演奏者が、自分の靴先ばかり見ているようだから、名付けられたらしい。
靴を見つめる人。
話題が一区切りしたところで、私は、曽我部さんと向き合っているのも気まずいから、黒板を消す作業に戻った。

「本当に、黒板消し魔」

曽我部さんが、呆れたように呟いた。

7: 2010/12/05(日) 12:13:55.99 ID:w7wj2eg00
「crack of dawn......」

僥倖の亀裂……夜明け?
そんなことを歌いながら、曽我部さんは教室を出て行った。


早い。一日が終わるのが、早い。
授業を受けていたら、いつの間にか下校時間になってしまった。
部活に急ごう。

「帰宅部なのねえ」

階段を急いで降りていると、上のほうから声がした。
今朝と同じような、優しい顔で、曽我部さんが笑っていた。

「私も、なのよ。帰宅部、電車部門出場選手なの」

そう言って、先輩は声を頃して笑った。
そして、私の傍まで駆け寄って、さも当たり前のことのように言った。

「一緒に、帰ろうか」

彼女の眼の中に、一点の疑いもなかったから、私は、その眼を濁さないように、頷く他なかった。

「はあ、別に、構いませんよ」

「ふふ、ありがとう」

自分からついてきた割に、曽我部さんは何も喋らなかった。
ただ、私の隣を歩くだけ。けれど、駅の手前まで来たところで、ぎゅっと、私の制服の袖を掴んだ。

9: 2010/12/05(日) 12:17:54.67 ID:w7wj2eg00
「……なんですか」

振りほどこうとしたけれど、思ったよりも力が強かったので、私が諦めて尋ねると、
曽我部さんは、くすくす笑って、言った。

「寄り道、しない?」

私は、相変わらず、はあ、と頷くことしか出来なかった。

「この辺り、あまり歩いたことないでしょう、真鍋さん?」

さっと記憶を確認してみるけれど、確かにそうだ。
というか、学校以外の場所に行った記憶がない。
私が頷くと、曽我部さんは微笑んだ。

「ホント、エリート帰宅部なのね」

「あれ、曽我部さん、そう言えば、私の……」

私の口に人差し指を立てて、曽我部さんは、いたずらっぽく笑った。

「ふふ、この辺り、面白いお店があるのよ。店、というか、人が面白いんだけどね」

ふんふんと鼻歌を歌いながら歩く曽我部さんの後について、繁華街をふらふらと歩きまわり、
ようやく、私たちは廃れた居酒屋に着いた。

「きつね……この店の名前を考えた人は、なにを考えていたんでしょうね?」

ぼろっちい看板に、きつね、と大きく書いてある。
さあ、ね。と、曽我部さんは笑った。

10: 2010/12/05(日) 12:21:23.87 ID:w7wj2eg00
「まあ、そんなのはどうでもいいわ。ちょっとだけ、道を踏み外してみる準備はいいかしら?」

曽我部先輩は、大儀そうに、たてつけの悪い扉を開いた。

「高校生がそんなにしょっちゅう来るもんじゃねえぞ」

私たちを迎えたのは、言葉とは裏腹に、嬉しそうな、太い男の人の声だった。
店内は、やけに酒臭い。思わず鼻をつまんだ。

「ん、そっちの眼鏡の女の子は、恵ちゃんの友達かい?」

太った男の人――どちらかというと、きつねより、狸のように見える――は、豪快に笑った。

「いやっはっは、進学校ってのは、意外と不良が多いのかね。恵ちゃんも、お酒はほどほどにしときな」

おっさんからの注意だ、と言いながら、その男の人は、自分の腹を叩いた。
どうやら、ビール腹らしい。
なんだか不安になって、曽我部さんのほうを見ると、優しく微笑んでいた。

「大丈夫、お酒なんて飲んじゃいないわよ」

曽我部さんは、出鱈目言わないでよね、と男性に言って、肩をすくめた。
そして、少し胸をはって、ジュースと軽食を注文する。
自分の口に人差し指を当てて、自慢気に笑った。

「私の奢りだから、ちょっと食事していきましょう?」

「別に、構いませんけど」

私がそう言うと、曽我部さんは少し怒ったような顔をした。

12: 2010/12/05(日) 12:24:46.84 ID:w7wj2eg00
「真鍋さん、そればかりね」

すみません、と謝って、私は、がらがらの店内の、奥のほうにある古びた席に腰掛けた。
ゆったりとした動きで、曽我部さんが私の隣りに座る。

「真鍋さん、毎日楽しい?」

遠慮がちに私の眼をのぞき込みながら、曽我部さんは言った。
探るような眼が怖くて、どこまでも深い、奥の見えない眼が不快で、私は、目を伏せた。

「さあ、どうでしょうね」

「はっきりしない物言いね」

目を開けると、まだ曽我部さんが私のことを見つめていたから、私は首を振った。

「でも、そんなものでしょう。はっきりしたことなんて、あまり無いんですから」

そうかもね、と曽我部さんは寂しそうに呟いた。

「もうそろそろよ」

何を喋るでもなく、ぼうっと時間を潰していると、曽我部さんが唐突に言った。
店に来てから、既に一時間程が経っていた。

「なにがですか?」

曽我部さんは、くすっと笑った。

「変な人が、来るのが」

13: 2010/12/05(日) 12:29:12.72 ID:w7wj2eg00
それから数分後に来た人は、本当に変な人だった。
その女性は、荒々しく、大声で意味のわからないことを言いながら、店に入ってきた。

「恵ちゃんのためにメイド服を作ってきたわ!」

とても変な人だったけれど、店の扉を開けたとき、外の街灯の光を浴びた、その女性の髪は、不必要なほど輝いていて、
体の輪郭線は、嫉妬してしまうほどの曲線美を備えていた。
曽我部さんは、その女性を見て、目を輝かせた。

「あらあら、それはどうも。山中さん、こちら、後輩の真鍋さんです」

山中さん、と呼ばれた女性は、目をぱちくりさせて私を見た後、にやりと笑った。

「ふうん、じゃあ、今度はタキシード作ってこようかな」

店の扉が閉まると、髪は私の目を潰してしまいそうな程の輝きを失ったけれど、
それでもまだ、その艶やかさを示すには十分なほどの光を反射していた。
きらきらと光る髪を揺らしながら、山中さんは、曽我部さんの隣りに座った。

「真鍋さんの、下の名前は?」

柔らかい唇が、優しく空気を震わせた。

「のどか、です。真鍋、和」

しどろもどろになりながら私が言うと、山中さんは、びっくりしたように曽我部さんを見た。

「あの、和ちゃん?」

「多分そうだと思いますよ」

15: 2010/12/05(日) 12:35:12.00 ID:w7wj2eg00
ふうん、と山中さんは息を吐いて、一瞬だけ、寂しそうな顔をした。
まあ、そりゃ、そうよね、と、掠れた、歌うような調子で言った。
かと思うと、次の瞬間には、あっけらかんと笑って、パン、と手を叩いた。

「これ、恵ちゃんに作ってきたメイド服なんだけど、和ちゃん、着てみる?」

山中さんの手には、ひらひらした華美な服がつままれていた。
私は、ゆっくりと首を振った。

「遠慮しておきます」


「変な人でしたねえ」

電車の窓から見える外の風景は真っ暗だけれど、近くと遠くを過ぎ去っていく街頭が、
なにかを訴えかけるように、鬱陶しいくらいはっきりと軌跡を残していた。

「そうねえ、でも、あの人あれで高校の教師なのよ」

曽我部さんは、片手でつり革を掴んで、もう片方の手に、紙切れをつまんで、へらっと笑って言った。
紙切れには、ぎらぎらとした配色で、ライブイベントの日時、場所が書いてある。
私のひいきのバンドが出るから、よければ観に来てね、なんて言って、山中さんが私たちに押し付けてきたものだ。

「変な人だけど、楽しい人じゃない?」

私のほうをちらと見て、曽我部さんは微笑んだ。
そうですね、と、私は曖昧にごまかして、ただ、視界の端から端へと流れていく街頭の光の残像が、
山中さんの髪の輝きのように、私の中の何かを満たしてくれないことに、不満を覚えるばかりだった。

『次の駅は――』

16: 2010/12/05(日) 12:38:21.97 ID:w7wj2eg00
はふがはほかん。
アナウンスは、確かにそう言った。
すごく曖昧な発音で、それが心地良くもあるのだが、けれど、聞き取りづらい発音で、
桜が丘、と、言った。はふがはほかん……

「ちゃんと発音してほしいわよね」

曽我部さんが苦笑して、電車の天井を眺めながら言った。
そこに、誰かがいるわけでもないというのに。

叫び声のような、金属が軋む音がして、電車が止まった。
つん、と肩を突かれたので振り返ってみると、曽我部さんが、眉を下げて笑っていた。

「ぎいい、ですって。うるさいわよね」

私が返事をするよりも前に、曽我部さんは、開いた電車のドアから外へと降りていった。
結局、私が曽我部さんに言った言葉は、先程の言葉への返事ではなかった。

「曽我部さんも、桜が丘に住んでるんですね」

エスカレーターの手すりで手を遊ばせながら、曽我部さんは、まあね、と言った。

「知らなかったでしょう、真鍋さん」

ええ、そりゃあ、と私が答えると、曽我部さんは、そう、とだけ言って、それきり黙ってしまった。
ピッ、と、改札機がICカードを認識する音が鳴った。
がやがやと騒ぐ人ごみの中で、私と曽我部さんの間にだけは、しじまが流れ続けていた。
それが私を責め立てるように感じられて、私は、喧騒に耳をすました。

17: 2010/12/05(日) 12:42:10.87 ID:w7wj2eg00
同年代の、つんつんと激しい調子の、女の子の声が聞こえてきた。

「今度のライブ、私も出ていいんですか!?」

続いて、何言ってんだ、と少し男の子のような喋り方。

「うちはお前入れても五人だからな。技術面は問題ないんだし、入れといたほうが良いだろうさ。
 あ、これ、みんなで話し合って決めたことだからな、拒否権はない」

それを聞いて、先程の女の子の声は、おお、と喜ぶような調子に変わった。

楽しそうだ。随分と、楽しそう。
ついその二人の会話に気を取られていると、どん、と曽我部さんにぶつかった。

「あまり余所見しないほうがいいわよ」

人差し指を立てて、曽我部さんが口を尖らせた。
ごめんなさい、と言いながら、やはり私は、あの、和気あいあいとお喋りをする女子高生の集団から目を離すことが出来なかった。
曽我部さんが、あからさまに苦笑して、私の額を指で弾いた。

「余所見って、言葉の意味、分かってるのかしら、あなたは」

すみません。私は、ただそう呟いた。

それから、道中、気を遣ってくれたのか、曽我部さんは急に饒舌になった。

真鍋さんは、メガネ似合うわね
ジーザスアンドメリーチェインで、一番好きな曲は何?
週末はどうやって過ごしてる?

18: 2010/12/05(日) 12:46:47.81 ID:w7wj2eg00
曽我部さんはにこやかに笑っていたけれど、私には、それが尋問のように思われて、辟易する他なかった。
そういえば、無言の時間が苦にならない友人が、浴びせられる質問がむしろ心地良いとすら思える関係にある友人が、
私には居たはずなのだけれど、今の私には……

「じゃあ、ね。真鍋さん、また明日」

交差点に差し掛かったところで、曽我部さんが言った。
背を向けた私を呼び止めて、曽我部さんは言った。

「そうだ、携帯のアドレス、教えてもらってもいいかしら?」

「別に構いませんけど」

なんども言った台詞、けれど、このときは、曽我部さんは怒ったような、寂しそうな顔をせずに、
ふふっ、とただ息を漏らすように笑って、ありがと、と明るく言った。

不慣れな手つきで連絡先を交換しあうと、曽我部さんは、私とは反対方向の帰路についた。
街頭がぎらぎらと光って、曽我部さんの姿をはっきりと照らしていた。
私は、住宅街から漏れる光だけに暴かれた、輪郭線のはっきりしない体を揺らしながら、私の帰路に着いた。

たまらなく五月蝿い、耳をつんざくような悲鳴をあげる静寂が、私を包んだ。
きん、と鳴る耳の奥の、金属音のようなノイズが不快で、不安で、私はイヤフォンを取り出した。
すぐに、イヤフォンが吐き出したノイズに、金属音は飲み込まれた。

ざー、ざー……

かつかつ、かつかつ。
しばらく、シャープペンシルの無機質な音を聞いた後で、私が携帯電話に表示されている時刻を確認したのは、十一時半のことだった。
まだ今日が終わるまで、三十分ある。
けれど、とくに今日はなにも起こりそうにないから、私は携帯電話を机の上にほっぽり出して、床に着いた。

20: 2010/12/05(日) 12:49:34.22 ID:w7wj2eg00

「あなたは朝、何時に学校に行くのかしら?」

私をたたき起こしたのは、携帯電話の振動音。
画面には、短い文章が表示されていた。
差出人は、曽我部さん。
早朝の五時にメールを送ってこなくてもいいだろうに。

眠りを邪魔されたから、私は少し、意地悪をしてみた。
ほんの、少しだけ。

「六時にでも行きましょうかね」

ただの意地悪のはずだったのだけれど、生来の生真面目な私の性格は、その嘘を私に実行させた。
曽我部さんからすぐに、こんなメールが返ってきたものだから。

「わかった。じゃあ、待ってるから早く来て」

私は急いで登校の準備をし、こんな朝から忙しないわね、とぶつぶつ言う母親を後にして、家を出た。
とにかく走った。もしかして、本当に曽我部さんが既に学校にいたら、と思うと、
下らない冗談が、冗談ではすまなくなるような気がして、ただその不確かな予感と、
きっと曽我部さんはいる、という確信めいた予想に急かされて、走った。

だから、曲がり角で急に姿を表した女性、しかも、音楽を聞きながら鼻唄を歌っているような女性を避けることなど出来るはずもなかった。

一瞬、吐き気をもよおすほどのスピードで世界が回って、その後、腰に衝撃が走った。
私が呻き声を上げると同時に、相手も小さく声を上げた。

「うう……調子にのって朝早くから歩きまわるんじゃなかった、朝から碌でも無い一日になるだろうな」

21: 2010/12/05(日) 12:52:44.62 ID:w7wj2eg00
その女性は私の方をじっと見て、はっきりとそう言った。
私はしばし、あっけに取られてしまった。
すると、その女性は慌てて言った。

「い、いや、別にあなたを批難しようと思ってこんなこと言ってるわけじゃないんですけど、あの、いや、ほんとに、
 いろいろと悩んでいることとかありまして、それでですね、ほんとに」

あたふたと、はっきりしない、要領を得ない話し方で彼女は釈明した。
だから、私は安心した。

「私も怪我をしたわけではありませんから、お気遣いをしていただく必要はありません」

私がそう言うと、その女性は、そうですか、と小さく言った。
肩をすくめて、こちらこそ、と言わんばかりに頭を下げたが、そのくせ、私が立ち上がって走りだそうとすると、私の手を掴んだ。

「あ、あああ、あの、できればちょっとお話を聞かせて頂けませんか」

私は口を開いたけれど、その時、何故だか彼女はすごく一生懸命で、街頭の光を浴びた瞳は若干湿っていたから。
瞳の中の水分が、光を乱反射して、そこだけ、満たされた世界を造っていたから。
私は間抜けな声を出した。

「別に、構いませんけど」

そうですか、とその女性は言って、唐突に、勝手に自分のことを語り始めた。
彼女は少し背の高い、綺麗な黒髪の女性で、目は幾らかつり上がっていた。
未だ暗いままの空にぼんやりと浮かぶ月を眺めて、その女性は言った。

「えっと、あの、私、作詞してるんです……私、学校の軽音楽部所属なんですよ」

はあ

22: 2010/12/05(日) 12:55:27.72 ID:w7wj2eg00
「それでですね、今度ライブがあるんですが、その時に演奏する曲は、去年作ったものばかりなんですね」

ほう

「それというのも、私の作詞が出来ていないのが原因でして……あ、作詞と作曲は分担してるんです」

へえ

「それで、この日も登らない早朝に、普段寝ている時間に、外を歩きまわってみれば、何か良い詩が思いつくかと思ったんですけど、ね」

ふうん。
曖昧な返事を繰り返しながら、私は、先ほど否定されたにも関わらず、なんとなく、彼女が私を非難しているような気がした。
けれど、彼女の瞳は、未だ月ばかり見つめていた。

「でも、ぶつかってしまったわけです、あなたに。
 あ、非難するわけじゃありませんよ。ただ、あなたに、この早朝の街は、空は、どう映りましたか?
 それを聞かせて欲しいんです」

一瞬逡巡して、私は搾り出すように答えた。

「大気は必要以上に澄んでいて、鼻を刺して、肺を引き裂いてしまいそうです。
 空は星に満ちていて、それなのに、光は弱くて、その詐欺まがいの美しさに、憤怒すら感じます。
 そんな中で、月だけが、ただぼんやりと光る月だけが――」

女性は、私を見つめて、笑った。
面白い詩が、書けそうな気がします、と言った。
そして、一枚の紙切れを私の手に押し付けた。

それは、山中さんからもらったライブチケットと同じものだった。

23: 2010/12/05(日) 12:58:24.61 ID:w7wj2eg00
女性は、耳をそぎ落としそうなほどに空気を揺らす、澄んだ声で言った。

「私たちのバンドが出るんです。地元の小さなイベントですけど……できれば観に来てください」

そして、長い髪を揺らして私から遠ざかっていく途中、一度だけこちらを振り返って、大きな声で言った。

「ところで、もしかして、あなた、和さん?」

私が頷くと、彼女は笑った。

「はは、やっぱりな。そうだと思ったよ」

彼女は、街頭の光のなかで、笑った。
髪の毛が一本一本見えるほど、眩しい光のなかで、ほかの全てを影にしてしまうほど、明るく笑った。


「六時に来るっていったのに……」

学校についたのは六時半ほどで、校門の傍に立っていた曽我部さんは、私の顔を見るなり、頬を膨らませた。
そばには、腕を組んだ山中先生がいた。

「はあ、なんか、すみません」

曽我部さんは、一瞬顔をしかめた。

「あなたねえ……いえ、まあ別にいいわ。とりあえず、ちょっとついてきて」

そう言って、曽我部さんは、まだ暗い朝の街を、てくてくと歩いて行った。
街頭がぎらぎらと私たちを照らした。
ぶちまけた汚物のような灯りと、互いに互いを打ち負かすことしか考えていないような騒音が、私を飲み込むようだった。

25: 2010/12/05(日) 13:02:52.47 ID:w7wj2eg00
「曽我部さん、ここって、なんだか嫌な街ですよね」

ふうん、とだけ、曽我部さんは言った。

曽我部さんが目指していたのは、商店街の外れにある、小さなスタジオだった。
入口の前には、山中さんと、寝ぼけ眼をこする女性がいた。
その女性は、大きく欠伸をして言った。

「勘弁してよね、こんな朝っぱらから営業させてさあ」

その女性は短い髪を揺らして、もう一度欠伸をした。
山中さんは、手を合わせて言った。

「本当にごめんね、ちょっとしたいことがあってね」

「なにを?」

一瞬黙って、山中さんは苦笑した。

「フィードバックノイズをね、ちょっと……」

女性は目をこすりながら、ため息を付いた。

「勘弁してよね、ほんとにもう……」


「またギターでアンプをぶっ叩いたりはしないでよね、したら私があんたを叩くから」

私たちをスタジオに案内した後、山中さんに指を突きつけて、その女性は出て行った。
曽我部さんがくすくすと笑いながら言った。

26: 2010/12/05(日) 13:05:58.52 ID:w7wj2eg00
「いつもそんなことをしているんですか?」

「一度だけよ、一度だけ」

がちゃがちゃとコードやらよく分からない機械をギターに繋ぎながら、山中さんは言った。
スタジオの中には、ドラムやらキーボードやら、馬鹿でかいアンプやら、
あまりお目にかかれないような物ばかりが並んでいた。

「うん、これでよし。」

そうして、山中さんはギターを鳴らしながら、歌い始めた。

「...ice melts too fast, so notihing stays forever nothing's gonna last...」

しばらく綺羅びやかなギターの音色が続いて、一転、凄まじい轟音が私たちを包んだ。
けれどそのノイズは、示し合わせたように、山中さんの歌声だけを、埋め尽くされそうな波の中から浮き上がらせていた。

ざーざー……


「あーい、じゃあ今日はこれで終わり。お前ら、真っ直ぐ帰宅するように」

気だるげな声の担任の話を聞いている間も、ノイズはずっと耳の中で暴れまわっていた。
クラスの子が、とん、と私の肩を叩いた。

「真鍋さん、今日は掃除休みだよ。多分、話聞いてなかったでしょう?」

連絡用のホワイトボードに目を遣ると、掃除当番を示す、紙製のルーレットは、私の仕事が無いことを告げていた。

「そうなんだ、じゃあ、私……」

27: 2010/12/05(日) 13:09:07.51 ID:w7wj2eg00
帰るね、と言いかけて、やめた。
周りを見渡すと、掃除をしているのはこの娘だけで、他の掃除当番の人は、恐らく部活にでも行ってしまったのだろう。
私も帰宅部の活動に勤しもうと思ったけれど、なにを血迷ったのか、こんなことを言った。

「手伝うわ」

自分でも、そんなことを言うなんて驚くくらいなのだから、目の前の、ショートカットの女の子は尚更のことらしかった。
目を真ん丸に見開いて、くすりと笑った。

「ありがとう、でもいいよ、こっちが気を遣っちゃうからね」

そうなんだ、と私が拍子抜けして帰ろうとすると、その女の子は、くぐもった笑い声を立てながら言った。

「でも、真鍋さんがそんなこと言うなんてね」

おかしかったかしら、と私が尋ねた私に、女の子は、優しく笑った。

「おかしいよ。でも、いいと思うよ、そういうの」

相変わらずにこにこと笑いながら、ホワイトボードのほうに向かっていく女の子に背を向けて、私は教室を出た。
なんだか恥ずかしい思いをしてしまった。

がたん、ごとんと、電車が揺れる音。
停車するときには、ぎいい、と金属が悲鳴をあげる。
この単調な音は好きなのだが、なんとなく眠気を誘われてしまう……

「あの、もう終点ですよ」

気づくと、電車はもう桜が丘についていた。
ふわふわと柔らかそうな、金色の髪をした女の子が、同じく柔らかい視線で、私を覗き込んでいた。

28: 2010/12/05(日) 13:13:06.54 ID:w7wj2eg00
「ああ……どうもすみません」

「いえいえ」

目をこすって立ち上がり、電車を降りると、向かい側の乗り場で、大きな音を立てながら、電車が走っていった。
後ろで、あっ、という声が聞こえた。

「もしかして、今の電車に乗る予定でした?」

金髪の女の子は、少し照れた様子で答えた。

「乗る予定でした……」


「うわあ、私、友達に安いお菓子を奢ってもらうのが夢だったの」

安いって言った。きのこの山、結構高いのに。
それに、友達じゃない。

「あら、友達よ。友達の友達は、友達。数学的帰納法によると、世界の人はみんな友達よ」

休憩室で、売店で買ってきたスナック菓子を頬張りながら、金髪の女の子は言った。
この娘は数学的帰納法の意味を分かっているのだろうか。

「あなたの着ている制服は、S高校の制服よね、勉強得意なのねえ」

そう言う女の子の着ている制服は、多分、私の高校の近くでは見たことがないから、この辺りの高校のものだろう。
どうも、と私は答えた。

「ふふ、毎日電車に乗っていて、どう、どんなことを思う?」

30: 2010/12/05(日) 13:16:08.82 ID:w7wj2eg00
随分と妙な質問をするものだ、と思った。

「どんなこと……そういえば、たまに、桜が丘のことを"はふがはほかん"て発音する車掌さんがいるわ」

「それだけ?」

「それだけ、かな」

「繰り返される車輪の音は、変化のない毎日は、辛くはない? 私は発狂しそうになるのだけれど」

がたんごとん、がたん、ごとん。
そんなに、辛くはない、というより、むしろ好きだ。

「そう、変わってるのね」

そう言って、その女の子は黙り込んだ。

私は何かを言おうと思った。
そのとき、きいい、と高い音がして、電車が止まった。
私の言葉は、その協調性のない雑音に飲み込まれてしまった。

「ばいばい、和ちゃん」

教えてもいない私の名前を声にして、明るく手を振る彼女の姿だけが、私の目に残った。


最近は妙なことばかり起きる。
私の名前は、いつからそんなに有名になったのだろうか。
イヤフォンから出るノイズが私の鼓膜を、脳髄を揺らす。
いつから、私はこんなに……

31: 2010/12/05(日) 13:18:55.93 ID:w7wj2eg00
「あっ、和ちゃんだあ」

間抜けな声が私を呼んだ。
大きなギターを背負った幼馴染が、ぶんぶんと手を振っていた。
その傍には、小柄な女の子が二人と、長身の女の子が一人立っていた。

「あら、唯」

それだけ言って、私は黙った。特に話すことがない。
気まずい沈黙が流れるかと思ったけれど、唯はすさまじい勢いで話し始めた。

「あのね、この娘が新入部員のあずにゃん」

どうもです、と言って、そばにいる、小柄なツインテールの女の子が頭を下げた。

「こっちは、部長のりっちゃん」

カチューシャをつけた小柄な女の子が、うす、と言った。

「で、こっちは澪ちゃんだよ」

「今朝ぶり、だな」

そう言って、澪さんはくつくつと笑った。
その笑い方で、彼女が、今朝ぶつかった女性だと分かった。
同時に、さっきの金髪の女の子が着ていた制服は、この娘たちが着ているものと同じだということにも。

「澪ちゃん今朝会ったんだ、どんな感じだったのかな?」

「ああ、唯の話しているのとは少し違っていたかな」

32: 2010/12/05(日) 13:21:13.30 ID:w7wj2eg00
唯は私のことを友達に話すらしい。
でも、実際の私とは、少し違うらしい。
それは、なんて、虚しいことだろうか。
唯からのメールが来ないのと同様に、それは、とても虚しいこと。

「じゃあね、ばいばい」

唯はそう言って、友人たちに手を振った。
どうやらここから先は、帰る方向が違うらしい。
二人きりになると、唯は、学校のこと、部活のこと、友人のことを話し始めた。
私は、ただ、気のない返事を繰り返す他なかった。

「でね、今度ライブやるから、出来れば……」

唯は、私が、私の知らない人の話を聴くのを、楽しんでいると思っているのだろうか。
だとしたら、それは、なんて身勝手なことだろう。

「……和ちゃん、聞いてる?」

「あ……ごめん、ちょっとぼうっとしていたわ」

むう、と唯は頬を膨らませた。
眉を下げて笑いながら、呟いた。

「酷いんだ、和ちゃん。変わっちゃったね」

今度は、私が苦笑する番だった。

「そりゃそうよ、変わってないのは、あなたぐらいなものよ」

33: 2010/12/05(日) 13:25:19.27 ID:w7wj2eg00
「そういうこと言うなんて、前の和ちゃんだったらありえないことだったんだけどね」

「なにが、言いたいの?」

唯は、私には去年から何一つ変わらないと思われる、子どもっぽい仕草で、もういいもん、と言って、
足を絡ませそうな危うい足取りで走っていった。

「なんだってのよ……」

なんとなく、独りでそう呟いて、私はイヤフォンをつけた。

『ice melts too fast so nothing stays forever......』

ノイズにまみれて、気だるそうな声が私の耳を満たした。

ノイズにまみれて、そのまま、私は金曜日を迎えた。
ざーざー、と、すべてを締めだす、数字によって保存された音にうもれて、金曜日の放課後を迎えた。

「……べ……ん……」

ざー、ざー……

「真鍋さんったら!」

ショートカットの女の子が、思い切り私の肩を叩いた。
私の口から、妙な声が出た。

「あ……ごめんね、そんなに強く叩いたつもりはないんだけど」

「……ええ、別に構わないわ」

34: 2010/12/05(日) 13:28:02.08 ID:w7wj2eg00
「ふうん、なんだか暗いね」

「そう、かしら?」

ショートカットの女の子は、そうだよ、と言いながら、連絡用のホワイトボードに向かっていった。
ペンのキャップをとって、キュッキュッと、なにやら楽しそうに描いている。

「……ホワイトボードの落書き、あなたが描いてたの?」

彼女がせっせと描いているのは、無表情の、擬人化された犬だった。
こちらを振り返って、女の子は笑った。

「うん。何に見えるかな?」

「そいつは蛇じゃなかったの?」

「犬だよ。こいつは、どんなことを考えてると思う?」

少し考えて、私は言った。

「寂しがってる、かな」

女の子は、目を細めた。

「そっか……」

それきり、何も言わなかった。
ただ、教室から出るときに、一言だけ、言った。

「人間が見てる物って、なんでも鏡だと思うよ……」

35: 2010/12/05(日) 13:31:19.04 ID:w7wj2eg00
「ん……別に構わないけれどねえ」

電話越しに、曽我部さんが楽しそうに言った。
何だか気恥ずかしくなって、私は早々と話を切り上げた。

「とにかく、今日、あの居酒屋に来てください。できれば、山中さんにも来ていただければ」

「はいはい……ねえ、なんだか嬉しいわね?」

電話を切る直前に、くすくす笑う曽我部さんの声が聞こえた。

私は、騒がしい街を歩いた。
何度もイヤフォンに手が伸びそうになったけれど、何とかそれを制して、
真っ赤な夕日に照らされながら、街を歩いた。

「いらっしゃい……恵ちゃん、お友達が来たぞ」

太い声が私を迎えた。何故か、曽我部さんは先に居酒屋に来ていた。

「ふふ。金曜日はいつもここに来てるの。山中さんもね」

席に座って頬杖を突いて、じっと私を見つめた。じっと、ただ、見つめるだけ。
私も曽我部さんもずっと黙っていた。
結局、先に沈黙に耐え切れなくなったのは私だった。

「なんというか、ちょっと聞いてほしいことがあるんです」

「言ってみて」

「いえ、できれば山中さんが来てからのほうが……」

36: 2010/12/05(日) 13:34:01.58 ID:w7wj2eg00
「それは、どうして?」

曽我部さんはじっと私を見つめていた。
いつものように曖昧にごまかそうと思ったけれど、そのとき私は、はっきりと言った。

「二回も説明するのが、面倒くさいからです」

曽我部さんは笑った。くつくと。

「そっか」

それからしばらくして、山中さんが店にやってきた。
私たちの姿を見ると、急にへらっと笑って、あっけらかんと言った。

「和ちゃん、唯ちゃんと喧嘩したでしょう」

私が呆気に取られていると、先生は急いで付け加えた。

「あら、言ってなかったっけ。私、唯ちゃんの部活の顧問なのよ」

そして、店長さんにビールを注文してから、にやにやと笑いながら言った。

「さあ、じゃ、和ちゃんの青春話でも聞きましょうか」

「別にそんなたいした話じゃないですけどね……」


38: 2010/12/05(日) 13:37:27.40 ID:w7wj2eg00
分かってはいたんです、いつかはこうなるって。
一年と数ヶ月前、唯と私が、別の高校に進学することが、はっきりしたときから。
人はどんどん変わっていくものでしょう、だから、会う機会が減れば減るほど、
記憶の中の相手と現実の相手との剥離に悩まされることになるんです。

「だったら、もっと会えばいいだけじゃないの」

そうです。でも、違うんですよ。
変わっていってるのは私だけで、唯は今でも、一年前の、天真爛漫な唯のまま。
私は、唯に対して、償いようのない裏切りを犯しているような気がするんです。

「なんだか、よくわからないけれど、真鍋さんは随分と傲慢なのねえ」

曽我部さんが呆れたように言った。
こんなときでも、曽我部さんは遠慮せずに、私の目を真っ直ぐに見ていた。

「傲慢?」

「そう。だって、あなた、幼馴染さんは絶対に変わったりしないって、決めつけてるんですもの」

「でも、唯が、私は変わった、って」

「もしかしたら、幼馴染さんのほうが変わったのかもしれない。
 あなたのかけてる眼鏡、それを別なものに換えたら、見える世界も変わるでしょう?」

「でも……唯の友人も、聞いていた話と、実際の私が違うって……」

「同じことよ。レンズを通して見たあなたのことしか聞かされていないなら……」

でも、ともう一度私が言いかけると、柔らかい腕が、私と曽我部さんの肩に回された。私たちの間に入って、山中さんが笑った。

39: 2010/12/05(日) 13:42:38.25 ID:w7wj2eg00
「言葉で伝えられることにも限界があるわよ。和ちゃん、この間渡したチケット持ってる?」

私が頷くと、山中さんは、えらいえらい、と私の頭を撫でた。
それがなんだか気持よくて、一瞬、唯とのことを忘れそうになった。

「日曜日だから、絶対来てね。きっと、今の唯ちゃんのこと、もっとよくわかると思うから」

約束よ、と山中さんは笑った。


がたん、ごとん。
短調な、繰り返される音が私を馬鹿にしているような気がして、私はイヤフォンをつけた。
意味のない、そのくせ、必氏で像を残す街の光が鬱陶しくて、私は目を伏せた。

ざー、ざー……

『――はふがはほかん』

また、あの発音。
フィードバックノイズを通り越して過剰に自己主張をする、この声も、煩わしくて仕様がなかった。

ちゃんと発音、してほしいのだけれど。

電車から降りて、夕焼けの中、帰路を歩いた。
駅から少し離れたとき、また、がたんごとん、という音が聞こえてきた。
きっと、あの電車は、壊れるまで同じ音を立て続けるのだろう。

絵の具でいっぱいのバケツをひっくり返したように、夕日の傍はべったりした赤で塗られていた。
けれど、それも、光の反射に過ぎない以上、逆の方向から夜に侵略されていくのも、仕方の無いことで、
だから、私は、夜のほうへと歩いて行った。

40: 2010/12/05(日) 13:44:57.00 ID:w7wj2eg00
家に着くと、すぐ、私は床に着いた。
唯からのメールは、来なかった。


誰からメールが来たわけでもないけれど、私は、朝の五時に目を覚ました。土曜日だというのに。
誰に言われたわけでもないけれど、私は、自分の意志で、自分の足で、外に出た。

恐ろしいほど澄んだ空気が、私の肺に無遠慮に入ってきて、私はそれを精一杯吐き出した。
絶え間ない空気との抗争を続けながら、私は目的地もなく歩いた。
空いっぱいに、針でつついたような穴が開いていた。
そこから私の目めがけて、真っ直ぐに来ようとする光は、悲しいことに、眼鏡のレンズによって屈折されてしまう。

だから、私は眼鏡を外した。
それで星が見えなくなるのなら、それはそれで、仕方のないことなのかもしれない。

ぼやけた視界、弱い視力を頼って、よたよたと歩いていると、やはり、誰かにぶつかった。
長身の、長い髪をしたその女性は、相変わらずの澄んだ声で言った。

「やあ、また和さんとぶつかったなあ」

耳をそぎ落としそうに澄んだ、研ぎ澄まされたその声は、けれど、一生懸命悲鳴をあげる静寂と、
私を侵略しようとする空気の怒号によって、いくらかその鋭さを和らげられている気がした。

「その声は、澪さんね」

「ああ。今日は、メガネかけてないんだな」

楽しそうに笑いながら、澪さんは言った。

「ええ、星が見えてしまうから」

41: 2010/12/05(日) 13:49:02.46 ID:w7wj2eg00
「見たくないのか?」

「だって、それは、星を見ているんじゃないもの。見ているのは、屈折させられた光」

「それでいいじゃないか」

「嫌よ」

澪さんは、くつくつと笑って、髪を揺らした。
それに反射しているであろう月明かりさえ、今の私には見えなかった。

「それで、唯と喧嘩したのか?」

一瞬ためらって、けれど、私は曖昧に濁したりはせずに、はっきりと、言った。

「多分、違うと思う。そうしなかったから、喧嘩したのよ」

いつまでも、眼鏡をかけていたからか、と澪さんに訊かれて、私は頷いた。
あはは、と大きな声を上げて、澪さんは笑った。

「和さんは、詩人になれるかもね。まあ、いいさ、この間渡したチケット、まだ持ってるか?」

私が頷くと、澪さんは空を見上げた。
月が、その境界線を夜に侵食されていた。
澪さんは、言った。

「月が綺麗だなあ、随分とはっきり輝いてる。ライブ、きっと観に来てよ。唯も出るんだからさ」

42: 2010/12/05(日) 13:51:58.49 ID:w7wj2eg00
そして、小さく手を振って、どこかへ歩いて行った。
多分、私と同じように、目的地なんて無いんだろう。
澪さんが、はっきり輝いている、と言った、月を眺めた。
それは、滲んだインクのように、ぼんやりと広がっていたけれど、メガネをかけると、くっきりとその輪郭線を示した。

「こっちのほうが、好きかもしれないな……」

なんとなく、そう呟いた。
目的地なんて無かったけれど、なんとなくこれで満足して、私は家に帰ることにした。

家に帰ると、母親が起きていて、呆れたように言った。

「あんた、どこ行ってたのよ。最近の若い子は随分と生活サイクルが早いのね」

規則的なリズムで野菜を切りながら、母親は、居間のテーブルを顎で差した。
紙切れが一枚置いてあった。

『桜が丘公園まで来てもらえますか』

「それ、なんか、髪の長い、小さい女の子が来て、あんたに渡してくれって……あ、ちょっと、またどっか行くの?」

母親の声を背中に受けて、私はまた外へ出た。


「どうも、朝早くすみませんね」

ギターを背負った小さい女の子が、シーソーの片側に座って、気だるそうにこちらを見ている。
それっきり何も喋らないから、私が話しかけた。

「ええと、何か用かしら、梓さん?」

43: 2010/12/05(日) 13:55:06.39 ID:w7wj2eg00
はっ、と笑って、梓さんは顔を背けた。
それからしばらくして、うらめしそうに言った。

「和さん、唯先輩に何か言ったんですか」

「……うん、ちょっと喧嘩しちゃったかな」

梓さんは、これ見よがしにため息をついた。

「勘弁して下さいよ……私、部活でライブするの初めてなんですよね」

「そうなんだ」

「ええ、だから何としても成功させたいってのに、あなた……はっ!?」

梓さんが妙な悲鳴を上げて、シーソーから飛び降りた。
一生懸命おしりを摩っている。
シーソーの反対側には、カチューシャで髪を上げた女の子がいた。

「おらっ、てめえ中野、人様に迷惑かけるんじゃありません!」

男勝りの元気さで、その女の子は梓さんに言った。そうだ、確か、この娘は"りっちゃん"さんとか言ったっけ。
"りっちゃん"さんは、こちらを見て、たははと笑った。

「和さん、だっけ。悪いな、ウチの阿呆が迷惑かけちゃって」

「なっ……迷惑かけてるのは和さんのほうじゃないですか!大体、思い切りシーソー踏みつけるなんて何考えてんですか!?」

ぴーぴーと高い声をあげながら、"りっちゃん"さんに抗議する梓さんを抑えながら、
"りっちゃん"さんは言った。

46: 2010/12/05(日) 13:58:15.28 ID:w7wj2eg00
「ああ、本当にごめん。呼び出しておいてなんだけど、帰ってくれていいよ……こいつも、きっと変わっていくと思うからさ……」

公園から出るときに、にゃーにゃー、と、謎の抗議の声が聞こえた。
なんとなくおかしくて、私は笑った。

ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
電話越しに、優しい声が尋ねてきた。

「真鍋さん、明日、ライブに行く?」

私は、その気遣うような声に、はっきりと答えた。

「いきますよ、絶対に」

電話越しに、曽我部さんは笑った。

「随分と、はっきり言うのね」

「ええ、嫌ですか?」

「いいえ、そっちのほうが、ずっと素敵よ。ずっとね……」

そう言って、曽我部さんは電話を切った。
空を見上げ、東の方へ目を向けると、すっかり夜の天下になっていた空を、太陽が取り戻そうとしていた。
まっくらな空に亀裂が走り、そこに、星は飲み込まれていった。
曽我部さんの顔を思い浮かべて、私は口ずさんだ。

「crack of dawn......」


47: 2010/12/05(日) 14:02:00.43 ID:w7wj2eg00
「Cindy's movin' on......talking cindy to every one」

そんなことを口ずさみながら、私と曽我部さんは、小さなライブハウスへと向かった。
もう夕方になっているときのことだ。

「あ、ここみたいね。思ったより大きいわね」

「何組かバンドが出るみたいですから、こんなものなんじゃないですか」

「あら、真鍋さん、ライブに詳しいのね」

「いえ、知りませんけど」

あ、知ったかぶりだ、と言いながら、曽我部さんは笑って、ライブハウスへ入っていった。
入り口でチケットを渡して、中へ入ると、それなりに人はいた。

「すごいわね、意外と人って集まるものね」

曽我部さんが感心したように言った。
ステージの近くには、なにやらスタッフらしき人と仲よさそうに喋る山中さんに、
友人と楽しそうにしている、唯の妹がいた。

「真鍋さん、楽しみね」

そして、曽我部さんも楽しそうにしている。
なら、きっと、私も楽しそうなんだろう……

それからのことは、よく覚えていない。
ただ、巨大なアンプから大きな音が流れて、ぎらぎらと光るスポットライトを唯達が浴びて、
それが彼女たちの姿を際立たせ、演奏と協調する歓声が、ライブハウスを揺らして……

51: 2010/12/05(日) 14:06:05.03 ID:w7wj2eg00
「和ちゃん、来てたんだね」

ライブが終わって、私は入り口でずっと待っていた。
辺りはすっかり暗くなっていたが、それでもはっきりと分かるくらい、何ともいえない表情で、唯が言った。

「うん、観に来たよ」

曽我部さんは、何かを察したのか、澪さんの方へ近づいていって、唯の友人四人と、わいわい談笑しながら、どこかへ行ってしまった。
遅れてライブハウスから出てきた山中さんが、くすりと笑って、言った。

「話しあうといいわよ、たとえ、今までは会話のいらない関係だったとしてもね」

きらきらと髪を輝かせながら、山中さんは去っていった。
唯はいつまでも口を閉じていたから、私は、唯の頭を撫でて言った。

「ちょっと歩こうか」

唯は小さく頷いた。


「私が、謝れば済むって問題でもないんでしょうね」

それはそうだ、だって私は、特に悪いことなんてしてないもの。

「うん、私が謝ってもどうにもならないよね。だって、喧嘩じゃないんだ、私たちがしてるのは」

そうねえ、と呟いて、私は空を見上げた。
私たちは、公園のベンチに腰掛けて、二人して、空を眺めた。
淡々と、唯が言った。

52: 2010/12/05(日) 14:08:36.38 ID:w7wj2eg00
「わかんないんだ、和ちゃんのこと。たった一年で、幼馴染のことが分からなくなっちゃう自分が、すごく、憎いよ」

「分からないわよ、私だって、唯のこと」

「そう?」

「ええ、そうよ、だって――」

あなたがあんなに眩しいだなんて、知らなかった。
あんなふうに笑うだなんて、知らなかった。
あんなに一生懸命になるだなんて、知らなかったもの。

私がそう言うと、唯は照れたように頬をかいた。

「喜んでいいのかな」

「ええ、あなたが変わっていってるってことよ、いい方向にね」

「それ自体は、いいことだね?」

「そりゃあ、そうよ」

「でも、そのせいで、和ちゃんとの距離がどんどん大きくなっていくのは、それは……」

「大丈夫だと思うわ」

唯はきょとんとしてこちらを見つめた。
私は、眼鏡なしではなにも見えない、星が踊る夜空を眺めて、言った。

「私、あなたのことを、もっとちゃんと見るから。記憶ばかりに頼らず、ちゃんと見るから」

53: 2010/12/05(日) 14:11:40.14 ID:w7wj2eg00
「それは、眼鏡を外すってことかな」

「違うわ、度を合わせるのよ。裸眼だと、もう何も見えないから」

「そっか……でも、いつか、裸眼で見てくれるかな?」

「ええ、それでも問題ないくらいに近づいたら、きっと……」

そっか、と言って、唯は立ち上がった。
こちらを振り返って、笑った。

「じゃあ、待ってるね……それに、私も頑張るよ。きっと、和ちゃんも変わっていくからさ」

「そう、ね。多分、私も変わっていってる――」

電車の単調な音が嫌いになった。
曖昧なアナウンスが嫌いになった。
はっきりと光る月が好きになった。

「小さな変化ばかりだね。でも、そうだね、そういうこと、もっと私に教えて欲しいよ」

唯は嬉しそうに笑って、私の方へ手を差し出した。
私はそれを掴んで立ち上がりながら、言った。

「それと、好きな人が出来た、かな。ただの憧憬かもしれないけれど」

「いやーん、それって私ぃ?」

くねくねと体をよじりながら、唯が言った。
だから、私は、久しぶりに、自分でも驚くくらい大きく笑って、言った。

54: 2010/12/05(日) 14:14:57.26 ID:w7wj2eg00
「違うわよ、でも、ギターを弾いているときのあなた、格好良かったわよ」

唯は小さく俯いて、くすりと笑って、言った。

「……照れるじゃんか」

ふふ、そう、じゃあ帰ろうか。
私がそう言うと、唯は、顔を赤くして、手を差し出した。

「ちょっと恥ずかしいけど、子供の頃みたいに、手をつないで帰ろうよ。子供の頃の記憶に頼る、最後のことをしよう」

私は彼女の手を握った。
しんしんと、心地良い静けさを、二人で味わいながら帰った。


月曜日も、私は朝早く学校に行った、黒板を消すために。
私の教室には、何故か既に曽我部さんがいて、私の顔を見るなり、笑った。

「なんだか、綺麗になったわよ、あなた」

「そうですか」

そう言って、私も笑った。

「ところで、あの、秋山さんって娘、すごく綺麗だったわねえ……」

何故か恍惚とした表情の曽我部さんの話を聞いていると、メールが届いた。
唯から、メールが届いた。
寝坊しなかった、憂に誉められた、アイロンがけも自分でやったよ、なんていうメールが。

55: 2010/12/05(日) 14:16:47.36 ID:w7wj2eg00
返信しようとして、私は何となくホワイトボードを見た。
無表情な犬の絵を、携帯で撮って、送った。
そして、曽我部さんと唯に、尋ねた。

「この犬、どんなこと考えていそうですか?」

ちょっと躊躇って、自信たっぷりに、曽我部さんは言った。

「恋ね、ずばり恋よ。遠く届かない恋人のことを想う顔ね」

なんだか可笑しくて、私は笑った。
なによう、と曽我部さんは頬を膨らませた。

「真鍋さんは、どう思うのよ」

私は、返ってきたメールを読んで、そして笑った。

「楽しい、でしょうか……」

メールには、ただ一言。

『楽しい、だと思うよ』




畢。

57: 2010/12/05(日) 14:19:07.61
お疲れ様。
文章凄い好きでした、次も待ってます

58: 2010/12/05(日) 14:21:23.69
素直な引き込まれる読み物だった、乙

引用元: 唯「楽しい、だと思うよ」