1: 2012/09/04(火) 21:31:25.32 ID:IPET1IPni
◆通学路

帰り道、あれっ? と思い立ち止まりました。


今日はバレンタインデー。
大好きな先輩がたに日頃のおかえしをしたくて、
チョコケーキを作って持って行きました。

なんとなく気恥ずかしくてなかなか切り出せないでいると、
ムギ先輩が助け舟を出してくれました。

紬「ごめんなさい。私は用意してないんだけど…」

紬「代わりに梓ちゃんが用意してくれたみたいだよ?」

察しのいいムギ先輩のことだから、私の様子を見て、
チョコレートを持ってきていると気づいたのでしょう。
おかげで先輩方に喜んでもらうことができました。

でも、ムギ先輩はいつから気づいていたのでしょうか?? 

昨日の部活のとき? 

今回の計画はずっと前から決めていましたから、
そわそわしている私に気づいていた可能性は充分あります。

6: 2012/09/04(火) 21:33:56.92 ID:IPET1IPni

だけど、チョコケーキ作りに失敗していたら?
私はお菓子づくりが決して上手ではありません。
今回だって憂と一緒じゃなかったら持ってこれなかったと思います。


今日はバレンタインデーです。
唯先輩がチョコレートを無心するのはわかりきっていたことです。
ムギ先輩が唯先輩を失望させるような危険を冒すとは、とても考えられません。


そしてあの言葉……。

紬「忘れ物をとりに部室に戻から」

紬「みんなは先に帰ってね」

奇妙な確信がありました。
それと同時に嫌なざわつきが私の心を支配しました。

ひょっとしたら今頃部室にはムギ先輩がいて、
自分の持ってきたチョコレートを食べてるんじゃ……。

9: 2012/09/04(火) 21:36:38.27 ID:IPET1IPni
◆部室


梓「ムギ先輩!」

紬「あら、梓ちゃん」

紬「いらっしゃい」

梓「ムギ……先輩?」

予想通りムギ先輩は部室に独りでいました。
でも机の上にはカップが2つ並んでいるだけ……2つ?

12: 2012/09/04(火) 21:41:31.03 ID:IPET1IPni
梓「ムギ先輩、なにをしてるんですか?」

紬「梓ちゃんを待ってたの」

紬「……あっ、これのこと?」

紬「これはカップにお湯を入れて温めてるの」

紬「やらない日も多いんだけど」

紬「今日はバレンタインデーだから、ね」

状況に頭がついてきてくれません。
独りでチョコレートを貪っているムギ先輩がいるんじゃないかと心配して部室にきたら、
案の定先輩がいて。

でも、先輩は紅茶を入れる準備をしていて。

これってどういう……。

紬「梓ちゃん。ふたりっきりでお茶会してもらえませんか?」

15: 2012/09/04(火) 21:47:26.37 ID:IPET1IPni
紬「今お茶を淹れるからちょっと待ってね」

梓「……あのっ!」

紬「なぁに?」

梓「その……ムギ先輩は、どうして私が来るってわかったんですか?」

梓「約束なんて、してませんよね」

紬「梓ちゃんはこう考えたんじゃないかしら?」

紬「私が保険をかけていないわけないって」

紬「独りで『保険』を処理してるんじゃないかって」

梓「はい、あたりです」

紬「もう、先輩を食欲魔人みたいに思ってるんだから。かわいくない後輩ね」

梓「そんなっ!! 私は別に!?」

紬「あらあら、ちょっとした冗談よ」

紬「梓ちゃんはやさしい後輩よ。私が保証するわ」

紬「さあ、お茶が入ったわ。温かいうちに飲んで」

やっぱり、今日のムギ先輩はちょっと変です。

19: 2012/09/04(火) 21:54:53.92 ID:IPET1IPni
紅茶から柑橘系の香りが漂ってきます。
鼻の奥をツンと突くようなこの匂いは間違いなく檸檬の香りです。

梓「レモンティーですね」

紬「いいえ、レモンバームティーよ」

紬「レモンバーム。別名のメリッサのほうが有名かしら」

紬「名前の通り檸檬と同じ香りがするの」

梓「おいしい」

梓「檸檬の香りなのに、特有の酸味も渋味もないんですね」

紬「うちの庭で採れたレモンバームを乾燥させてお茶にしたの」

紬「美味しかったから梓ちゃんにも飲んでもらいたいなって」

21: 2012/09/04(火) 22:00:00.32 ID:IPET1IPni
梓「ところでムギ先輩」

紬「なぁに?」

梓「どうしてあんな周りくどいことしたんですか?」

梓「ムギ先輩の勘が鋭いのはわかります」

梓「でも私がそのまま帰ってしまう可能性だってあったはずです」

紬「そうね」

梓「だったら、直接誘ってくれれば……」

紬「賭けだったのよ」

ムギ先輩はレモンバームティーを一口すすりました。

紬「レモンバームティーの花言葉は同情」

紬「私が梓ちゃんに感じているのは、これと全く別の感情」

紬「梓ちゃん、あなたはどっちかしら?」

23: 2012/09/04(火) 22:06:52.10 ID:IPET1IPni
ムギ先輩ほどには人の心が読めない私でも、何を言いたいかはわかります。
これはひどく遠まわしな愛の告白です。それも私に向けられた。

なぜ私なのでしょうか?
ムギ先輩はなんだかんだでノーマルだと思っていましたし、
仮にそうじゃなかったとしても、その想いは唯先輩に向けられるものだと思っていました。

だから告白されるなんて、思ってもいなくて、
心臓はうるさくて、脈は不規則で、
顔は真赤になってしまって、
私は答えにならない答えを出してしまいました。

25: 2012/09/04(火) 22:12:26.86 ID:IPET1IPni
梓「今週の日曜日、デートに行きませんか?」

紬「デート?」

梓「はい! デートです」

紬「梓ちゃんとデート!」

紬「私、後輩とデートに行くのが夢だったの~」


やっといつものムギ先輩が帰ってきた気がしました。


紬「やっぱり、梓ちゃんはやさしいのね」

そうでもないかも。

28: 2012/09/04(火) 22:20:28.84 ID:IPET1IPni
◆梓宅
デート前日、ベッドの上で考えていました。
なんでムギ先輩をデートに誘ってしまったんだろうって。
私はムギ先輩が好きです。
ムギ先輩は優しくて、気配りができて、ちょっとお茶目で、とても可愛い人です。
尋常じゃないくらい良い匂いもします

でも、その好きは唯先輩や律先輩に向けられている好きと同じはずで。
ムギ先輩の好きとは全然違うはずです。きっと。

もしも、もしも明日のデートで答えを求められたら私はどうすればいいんでしょうか。


何らかの答えを出さなきゃいけないかもしれない。

ってちょっと待った。
デートに誘ったの私だ!! 
デートプラン考えるの私!?

30: 2012/09/04(火) 22:26:14.80 ID:IPET1IPni
◆駅前
紬「いいのよ梓ちゃん」

紬「私、今きたところなのって言うのも夢だったから」

梓「本当にごめんなさいムギ先輩」

梓「昨日の夜どうやってエスコートしようとあれこれ考えてたら全然決まらなくて」

梓「それで寝る時間が遅くなってしまって、起きたらこんな時間で……」

紬「梓ちゃんわざわざデートコース考えてくれたの?」

梓「ムギ先輩も考えてました?」

紬「ええ、でも今日は梓ちゃんにエスコートしてもらうね」

梓「えっ、でも……」

紬「嬉しいから」

紬「梓ちゃんが私のために色々考えてくれて」

紬「今日だけは私をエスコートしてね」

32: 2012/09/04(火) 22:31:32.40 ID:IPET1IPni
◆海
2月の海は寒い、そんなのは常識です。
でも常識を忘れてしまうお馬鹿さんもたまにいます。
私のことです。

合宿ではしゃいでいたムギ先輩を思い出したのが運の尽きでした。

ムギ先輩を海に連れていこう。
波打ち際を歩くだけでも大人のデートって感じがしますし、貝殻拾いしても楽しそうです。
そんな甘い考えで、電車に揺られて60分。
たどり着いたのは極寒の地でした。

紬「寒いね」

梓「…………はい」

梓「連れてきておいて何ですが、もう戻りませんか?」

紬「うーん。せっかく梓ちゃんに連れてきてもらったんだし、もう少しいたいかな~」

梓「でも、なんだか申し訳なくて」

紬「じゃあ1つだけお願い聞いてくれる?」

梓「なんですか?」

紬「手、繋いでくれる?」

34: 2012/09/04(火) 22:39:06.45 ID:IPET1IPni
梓「ムギ先輩の手、あったかい……」

紬「梓ちゃんの手はずいぶん冷たくなっちゃってるね」

紬「ねぇ、ちょっと歩こうか」

そう言うとムギ先輩は私の手を引いて歩き出しました。
寄せては返す波打ち際を、ふたりきりでゆっくりと。
ムギ先輩の艶のある金色の髪が風にたなびく様子はとても幻想的で、
眠気も重なり、とてもふわふわしていました。

37: 2012/09/04(火) 22:46:59.79 ID:IPET1IPni
紬「こんな話を知ってるかしら?」

紬「手の冷たい人は心があったかいって」

梓「えっと、いつだったか唯先輩が言ってた……」

紬「ええ」

紬「私の手って暖かいでしょ? 私はそれがとても嫌だった」

紬「手が冷たい人は心があったかいなら、手の温かい私は心が冷たいんじゃないかって」

梓「そんなの迷信ですよ」

梓「それに、手が暖かいからと言って心が冷たいという意味ではないと思います」

紬「それはわかってるの。でも私には自覚があった」

紬「自分は心が冷たい人なんだという自覚が」

紬「氷水に手を浸して手を冷たくしようとしたりもしたわ」

梓「えっ」

紬「そんなことしても何の意味もないのにね」

ムギ先輩はクスっと笑いました。

40: 2012/09/04(火) 22:54:10.56 ID:IPET1IPni
梓「なんで自分が冷たい人間だなんて思うんですか?」

梓「みんなに紅茶入れてくれますし、よく気配りができますし、優しいですし……」

梓「バレンタインのときだって!」

紬「ねぇ、梓ちゃん。ちょっと長くなるんだけど聞いてくれるかな」





紬「私の話を――――」


42: 2012/09/04(火) 23:01:57.22 ID:IPET1IPni
紬「生まれた時から自由はほとんどなかった」

紬「最初はそれが特別なことだとは気づかなかったの」

紬「でもね。齢を重ね、世界が広がるにつれ自分が特別だと気づいた」

紬「もちろん、悪い意味で」

梓「……」

紬「自由に友達を作ることも許されない」

紬「好きな漫画を買うことも、好きなCDを買うこともできない」

紬「外に遊びにいくときは、必ず大人がついてくる」

梓「……ちょっと待って下さい」

紬「なぁに?」

梓「……今のムギ先輩を見てると、ちょっと信じられません」

紬「そうね。今の私は本当に好き勝手やってるから」

梓「はい……」

紬「最後の三年間だから、特別に許してもらったの」

45: 2012/09/04(火) 23:09:48.90 ID:IPET1IPni
梓「最後の?」

紬「うん。最後の」

梓「それじゃあ」

紬「高校卒業したら、後はただ生きていくだけ」

梓「ただ生きていくだけ、ですか?」

紬「ええ。家のためにね」

梓「……」

紬「同情した?」

梓「えっ?」

紬「かわいそうだと思った?」

梓「……なんでそんなこと聞くんですか?」


47: 2012/09/04(火) 23:16:40.15 ID:IPET1IPni
紬「なんでだと思うかな?」

梓「……わかりません」

紬「梓ちゃんに同情されるのが嫌だから」

梓「……」

紬「うんう。梓ちゃんだけじゃない。他の誰にも同情なんてされたくない」

紬「だから今まで誰にも話さなかった」

梓「じゃあなんで今――」

紬「ねぇ、梓ちゃん。誰にも本当の自分を晒さない人は優しいと思う?」

紬「自分を隠したまま、いなくなってしま人が優しいと思う?」

梓「ムギ先輩、いなくなるんですか?」

紬「……そうだね」

49: 2012/09/04(火) 23:23:21.37 ID:IPET1IPni
梓「あのっ、私難しいことはわかりませんが」

梓「ムギ先輩はやっぱり優しい人だと思います」

紬「どうして?」

梓「みんなにお茶をいれてるムギ先輩はとても幸せそうだからです」

紬「……」

梓「律先輩とふざけてる時のムギ先輩はとても楽しそうですし」

梓「唯先輩の面倒見てる時のムギ先輩はとっても優しい顔をしてます」

梓「澪先輩を慰めてるときのムギ先輩だってそうです。やわらかい顔してます」

梓「だから……」

梓「だから、ムギ先輩はやっぱり優しい人だと思います」

紬「そう。梓ちゃんは優しいのね」

梓「……っ」


とても歯痒い思いがしました。
自分の言葉はムギ先輩に届かない、そう感じてしまったからです。

51: 2012/09/04(火) 23:28:07.42 ID:IPET1IPni
そんな私のことを知ってか知らずか、
ムギ先輩は私に近づき、正面から抱きしめました。
そっと触れるような、やさしい抱擁。


紬「いや?」

梓「……いいえ」


ムギ先輩からはいつもと少し違う匂いがしました。
優しい匂い。だけど高揚感のある匂い。


梓「レモンの香りですか?」

紬「不正解。たちばなの香水をつけてきたの」

梓「たちばな、ですか」

紬「そう。これは気持ちを高ぶらせる匂い」

ムギ先輩はそう言うと私をじっと見つめました。
真剣な眼差し。その眼差しの意味を私は知っています。

紬「いや、かな?」

54: 2012/09/04(火) 23:34:42.99 ID:IPET1IPni
私がゆっくり首を横に振ると、ムギ先輩の唇が近づいてきました。
そのまま私たちの唇は繋がりました。
優しく触れるだけのキス。



紬「ごめんなさい」

梓「なんでムギ先輩が謝るんですか」

紬「悪いことをしたと思っているから」

梓「そんな。悪いことだなんて」

紬「ごめんなさい」

梓「謝らないでください」


この時の私には、なぜムギ先輩が謝ったのかわかりませんでした。
その日のデートはこれで終わりましたから。


それから半年の月日が経ちましたが、
あの日別れてから、ムギ先輩とは一度も会っていません。
ムギ先輩が突然海外に留学してしまったからです。

57: 2012/09/04(火) 23:43:16.45 ID:IPET1IPni
唯「ふぅむ。そんなことがあったんだ」

梓「はい。唯先輩はどう思います?」

唯「うーん。ムギちゃんも難儀な子だねぇ」

梓「難儀な子って……」

唯「でもまぁ仕方ないかな」

梓「えっ」

唯「ムギちゃんにはムギちゃんの事情があるんだから」

梓「それじゃあいいんですか! ムギ先輩がいなくなっても!!」

唯「ムギちゃんはいなくならないよ」

梓「へっ」

唯「絶対に戻ってくるよ」

唯「ムギちゃんは仲間だもん」

梓「その根拠のない自信はどこから来るんですか…」

唯「絆、かなぁ」

梓「ドヤ顔で言わないでください!」

60: 2012/09/04(火) 23:51:43.03 ID:IPET1IPni
梓「ねぇ、唯先輩」

唯「なんだい、あずにゃんくん」

梓「ムギ先輩のこと、好きですか?」

唯「うん。大好きだよ。あずにゃんは?」

梓「……わかりません」

唯「ふぅん。あずにゃん、恋してるんだね」

梓「恋ですか?」

唯「うん。愛じゃなくて恋」

梓「そうなんでしょうか……」

唯「そうだよ」

梓「ねぇ、唯先輩」

唯「なんだい、中野君」

梓「ムギ先輩を迎えに行こうと思います」

唯「それがいいよ」

62: 2012/09/04(火) 23:58:07.46 ID:IPET1IPni
◆ハンバーガーショップ

梓「いらっしゃいませ…………」

梓「いらっしゃいませ…………」

梓「いらっしゃいませ…………」

梓「いらっしゃいませ…………」

梓「いらっしゃいませ…………」

………………………・・・・・

店長「中野さん、もう上がっていいよ」

65: 2012/09/05(水) 00:07:26.65
ムギ先輩が働いていたファーストフード店で、私はバイトしています。
バイトが終わる頃にはくたくたくなってしまいます。

かってムギ先輩は17kgのキーボードを持って通学していました。
バイト先にもキーボードを持ったまま立ち寄っていたそうです。
物凄い筋力です。

私には目標があります。
バイトでお金を稼いで、ムギ先輩の留学先であるフィンランドに行くのです。
ネットで調べたところ、航空券だけで10万円前後。
全く手がかりがないので、滞在期間は最低一週間くらい。
そう考えると、20万円近くのお金が必要になってしまいます。

もう16万円貯まっていて、次のバイト代で20万円を超える予定です。

66: 2012/09/05(水) 00:11:45.10 ID:v8csx5ffi
◆飛行機

私は今空の上にいます。
雲の中に入ると上下左右に激しく揺れて、意外と怖いものなのだと知りました。

先輩たちに加え、憂、純の5人が空港まで見送りにきてくれました。
律先輩は「絶対連れ戻してこい。部長命令だ」なんて言ってたけど、
そもそも私はムギ先輩に会うことができるのでしょうか?

ムギ先輩の実家に何度もあたり、ムギ先輩の留学先を調べようと試みましたが、
結局、フィンランドという情報以外は手に入りませんでした。


仮に会えたとしても……、
私に何ができるのでしょう?



70: 2012/09/05(水) 00:19:33.26 ID:v8csx5ffi
◆フィンランド

フィンランドについたのは夜遅くになってからでした。
その日はホテルを探し、チェックインし、そのまま眠りました。
翌日は朝早くから「琴吹家」を探し始めました。

梓「Sorry,I want to......」

通行人1「Sorry,I can't speak English」

梓「Sorry.......」

通行人2「I don't know cotton wiki.」

梓「No,cotton wiki!! KOTOBUKI!」

通行人2「God wiki? I don't know such a.....」

梓「――――――――――――」


――――――――
―――――
―――

71: 2012/09/05(水) 00:21:15.85 ID:v8csx5ffi
「琴吹家」探しは前途多難を極めました。
まず英語の通じない人が意外に多い。

フィンランドはフィンランド語が公用語なのですが、
ガイドブックには英語もある程度通じると書かれていました。

しかし実際現地の人に話しかけてみると、
「英語はしゃべれない」と英語で返されることが多いのです。

そして英語が通じる人が相手でも「琴吹」という名前を伝えるのが意外と難しいのです。

街の人、観光案内所、果ては大使館まで回りましたが、
結局ムギ先輩の手がかりが全く手に入らないまま、
滞在予定7日間のうち6日までも費やしてしまいました。

74: 2012/09/05(水) 00:30:10.93 ID:v8csx5ffi
7日目。夕方。今日の最終便はもう出てしまいました。
ホテルに泊まるお金もありません。

でも、何の収穫もないままでは帰れません。
野宿する覚悟で探索を継続している途中、
何かの役に立つかと思い、空港でレンタルした携帯電話が鳴りました。
表示されていた番号は……。

唯「もしもし、あずにゃん?」

梓「…………唯先輩ですか?」

唯「おー、あずにゃんだ。ムギちゃんにはもう会えたかな?」

梓「それがさっぱり……」

唯「そんなあずにゃんに朗報だよ。実はムギちゃんから暑中見舞いがきたのです」

唯「なんと『送り主』の住所入りだよっ! 今から言うからメモしてね」

唯「――――――――」

76: 2012/09/05(水) 00:33:32.12 ID:v8csx5ffi
唯「じゃあ、あずにゃん頑張るんだよ!」

梓「はい。ありがとうございます」



梓「ヘイ、タクシー」




79: 2012/09/05(水) 00:41:03.81 ID:v8csx5ffi
◆琴吹家(inフィンランド)

タクシーに乗って琴吹邸に来ることができました。
まるでお城みたいな大きなお屋敷でした。
インターホンを押すのを躊躇っていると、後ろから声をかけられました。

紬「梓ちゃん…なの?」

そこには半年前と変わらないムギ先輩がいました。
ムギ先輩に逢えた。その事実を認識した瞬間、
私の心に色々な感情が湧き上がり、涙が溢れてしまいました。

梓「ムギ先輩…ムギ先輩…ムギ先輩!」

紬「…梓ちゃん。もう泣いちゃって…」

梓「…ごめんなさい。もう逢えないかと思っていたから……」

紬「とりあえず私の部屋でお話しましょ」

梓「……はい」


82: 2012/09/05(水) 00:46:45.95 ID:v8csx5ffi
紬「ダージリンで良かったかな?」

梓「はい」

ムギ先輩は手早く私のためにお茶をいれてくれました。
あの頃と全く変わらない手際良さで。

梓「ムギ先輩……」

紬「なぁに?」

梓「私……」

紬「……」

梓「……」

私は言葉に詰まってしまいました。
心の中はいろんな感情で一杯なのに、
一つも言葉になってくれませんでした。

紬「梓ちゃん。私、また賭けをしていたの」

梓「賭け?」

紬「そう。賭け」

83: 2012/09/05(水) 00:48:53.84 ID:v8csx5ffi
紬「私はこれから『琴吹』の人形にならなければならない」

梓「琴吹…」

紬「結婚相手も決まっているの」

紬「もう何度も会っているわ」

梓「……」

紬「このまま行けば、私はその人と結婚して、家を継ぐことになる」

梓「……」

紬「その道を捨てるためには全部を捨てなきゃならない」

梓「全部」

紬「うん。全部」

紬「だからね。私は問わないといけない」

紬「梓ちゃん。あなたはどうしてここに来たの?」

紬「同情? それとも……」

梓「私は……」

85: 2012/09/05(水) 00:54:58.08 ID:v8csx5ffi
梓「同情がないとは言いません」

梓「でも、決して同情だけじゃありません」

紬「じゃあ友情?」

梓「もちろん友情もあると思います」

梓「でもそれだけでもありません」


紬「それじゃあ……恋?」


梓「恋……なんでしょうか」

紬「梓ちゃんは私が欲しい?」

梓「……わかりません」

紬「じゃあきっと恋じゃないわ」

梓「違います」

紬「なんで違うって言えるの?」

梓「……ムギ先輩のことが頭から離れないからです」

87: 2012/09/05(水) 01:02:58.45 ID:v8csx5ffi
梓「私、駄目なんです。キスしたあの日から」

梓「ごはん食べてても」

梓「憂や純としゃべってても」

梓「軽音部で練習してても」

梓「唯先輩に抱きつかれても」

梓「何をしてたって」

梓「ムギ先輩のことが頭から全然離れてくれません」

梓「後になってから『ごめんなさい』の意味がわかりました」

梓「ムギ先輩は本当に酷い人です。人でなしです」


紬「ごめんなさい」


梓「謝るなんて酷いです」

梓「謝るぐらいなら……戻ってきてください」

梓「軽音部のみんなも待ってます」

梓「私だって!」

89: 2012/09/05(水) 01:06:50.33 ID:v8csx5ffi
紬「それはできないの」

梓「どうしてですか?」

紬「梓ちゃんが『好きだ』って言ってくれたら、日本に帰る」

紬「言ってくれなかったら、帰らない」

紬「そう決めてたから」

梓「……」

梓「……ムギ先輩の」

梓「ムギ先輩自身の気持ちはどうなるんですか?」

紬「私の?」

梓「ムギ先輩は、軽音部でみんなと過ごしたいと思わないんですか?」

梓「……私と、一緒にいたいって思わないんですか?」

紬「思わないわけない!」

梓「だったら!」

紬「全部を捨てるのはそんなに簡単なことじゃないの!」

90: 2012/09/05(水) 01:09:21.72 ID:v8csx5ffi
紬「お世話になった人もたくさんいるわ」

紬「御父様や御母様のことだって、嫌いなわけじゃない」

紬「それを全部捨てる理由にはならない」

梓「……私が『好きだ』って言ったら、理由になるんですか?」

紬「うん」


ムギ先輩の中で、自分の存在がどれだけ大きいのか。
それを思い知らされました。

「好きです」と言ってしまうのは簡単です。
でも、今そう言ってしまったら、ムギ先輩の私の関係が嘘になってしまう。

だから私には言えませんでした。


その後少しだけ話をして、私たちは同じベッドで眠りました。
真っ暗な部屋で二人きり。


91: 2012/09/05(水) 01:11:01.74 ID:v8csx5ffi
紬「ねぇ、梓ちゃん」

紬「……」

紬「寝てるなら、そのまま寝てて」

紬「起きてるなら、寝たふりしたまま聞いてて」

紬「私ね」

紬「悪いことしたの、あれが初めてなんだ」

紬「梓ちゃんの心に大きな傷を残すつもりで、日本でキスしたの」

紬「だから今日来てくれてとっても嬉しかった」

紬「どんな理由であっても」

紬「たとえ梓ちゃんが私のことを好きじゃないとしても」

紬「とっても嬉しかった」

紬「だからね、もう私のこと忘れてもいいよ」

紬「もう満足したから」

紬「十分私は幸せだから」

紬「だから……」

92: 2012/09/05(水) 01:19:18.64 ID:v8csx5ffi
紬「……」

紬「……」

紬「……ごめん。涙がとまらないよ」

紬「なんで私ってこうなのかな」

紬「先輩なのに、しょうがないよね」

紬「でも梓ちゃんには沢山恥ずかしいとこ見られちゃってたよね」

紬「いつも私のこと慰めてくれたよね」

94: 2012/09/05(水) 01:29:42.30 ID:v8csx5ffi
紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「梓ちゃん」

紬「好きなの」

紬「どうしようもなく好きなの」

95: 2012/09/05(水) 01:38:01.27 ID:v8csx5ffi
紬「梓ちゃんのことを諦めるのだけは無理なの」

紬「たとえ賭けに負けても」

紬「どんなにみっともなくても」

紬「それだけはできないんだ」

紬「だから私、全部捨てるね」

紬「全部捨てて戻ってくるね」

紬「梓ちゃんのところに」

紬「きっと何年もかかるから」

紬「私のこと忘れていてもいいから」

紬「誰か他の人と恋しててもいいから」

紬「それでも、私は梓ちゃんのところに戻ってくるから」

紬「今は、さよなら」



紬「おやすみ、梓ちゃん」

97: 2012/09/05(水) 01:49:22.31 ID:v8csx5ffi




朝起きると、屋敷にムギ先輩はいませんでした。
執事さんから渡された航空券を使って、私は日本に戻りました。

先輩たちにムギ先輩とのことを話すと、
「HTT再結成パーティーの準備をしなきゃ」と笑ってくれました。


―――
―――
―――

98: 2012/09/05(水) 01:55:16.65 ID:v8csx5ffi
秋がきて、草花が色づき。
冬がきて、校庭が白く覆われ、
春が来て、桜が咲き、
軽音部の先輩たちは卒業してしまいました。

私は部長に就任し、
憂と純、そして直と菫を加えて新生軽音楽部は動き出しました。

ムギ先輩とはもちろん会っていません。
メールもしていません。
手紙もありません。

99: 2012/09/05(水) 01:59:44.71 ID:v8csx5ffi
桜が散り、
紫陽花の季節も終わり、
夏が来ました。
あの日、ムギ先輩と別れてから一年が経ちます。

新生軽音部の活動は楽しいです。
憂と純という、気のいい気の合う友達。
菫と直という、頑張り屋さんのかわいい後輩たち。

寂しいという気持ちはありません。
その感情はとっくに壊れてしまいました。

今の私はただただ、待っているだけです。
帰ってくるのを。
ムギ先輩が全部を捨てて帰ってくるのを。
待っているのです。

ただ、ただ。

100: 2012/09/05(水) 02:06:10.01 ID:v8csx5ffi
また夏が終わり、また草花が色づき、秋になりました。
最後のライブが終わり、
私達三年生は軽音楽部を卒業しました。

草葉が落ち、冬がきました。
もうすぐ私達も高校を卒業します。
そして2月の14日になりました。
あの日。
私がムギ先輩に告白されてからちょうど二年――

菫から一通のメールがきました

『軽音楽部の部室に来て欲しい』

私には、そのメールの意味がわかりました。

だって――。

102: 2012/09/05(水) 02:17:01.05 ID:v8csx5ffi
◆部室


梓「ムギ先輩!」

紬「あら、梓ちゃん」

紬「いらっしゃい」


予想通りムギ先輩は部室に独りでいました。
机の上にはカップが2つ並んでいます。

105: 2012/09/05(水) 02:33:42.43 ID:iexABmsli
梓「ムギ先輩、なにをしてるんですか?」

紬「梓ちゃんを待ってたの」

紬「……あ、これのこと? これはカップにお湯を入れて温めてるの」

紬「やらない日も多いんだけど、今日はバレンタインデーだから、ね」

今の私には全部わかります。
菫からメールがきて、
もしかしたらと思って部室に来たらムギ先輩がいて、
ムギ先輩は、お茶をいれる用意をしていて……。
これはきっと―――


紬「梓ちゃん。ふたりっきりでお茶会してもらえませんか?」

106: 2012/09/05(水) 02:37:43.29 ID:iexABmsli
紬「今お茶を淹れるからちょっと待ってね」

梓「全部終わったんですね」

紬「梓ちゃんは、どうしてそう思うの?」

梓「ムギ先輩がこうして帰ってきましたから」

梓「そうじゃないなら、ムギ先輩がこうしてかえってくるわけありませんから」

紬「約束なんて、してないのに?」

梓「それでもです」

紬「はい、お茶がはいったわ」

108: 2012/09/05(水) 02:41:53.34 ID:iexABmsli
ムギ先輩がいれてくれたお茶からはいい匂いが漂ってきます。
この懐かしくも、気高い匂いは……。

紬「梓ちゃん、このお茶の名前、わかる?」

梓「名前なんて、どうでもいいです。ここにムギ先輩がいてくれるから」

梓「でも、あえていうなら、これは――玉露です」

紬「正解」

紬「ねぇ、梓ちゃん、やっと全部終わったの」

紬「あれから二回季節が巡り」

紬「私にはいろんなことが起きたわ」

梓「はい。私もいろんなことがありました」

110: 2012/09/05(水) 02:48:47.33 ID:iexABmsli
紬「外国に移住することが決まって」

紬「私は梓ちゃんに告白して」

紬「そのまま何も告げずに、私は去っていって」

紬「婚約者ができて」

紬「私は一つの賭けをした」

紬「梓ちゃんが私のもとに来なかったら、人形として生きよう」

梓「来たら全部を捨てよう、ですね」

紬「ええ」

紬「そして、梓ちゃんは来てくれた」

紬「身勝手に去っていった私のもとに来てくれたの」

紬「好きだ、とは言ってくれなかったけど」

112: 2012/09/05(水) 02:53:59.03 ID:iexABmsli
紬「だから私は、すべてを終わらせた」

紬「家を捨て、琴吹を捨てた」

紬「幾つもの人間関係を切り捨てた」

梓「それで良かったんですか?」

紬「いいの」

紬「だって、今の私は梓ちゃんのために生まれたきたのだから」


自然と心が高ぶりました。

これはきっと酷く直接的なプロポーズ。
ムギ先輩の、一世一代のプロポーズ。
だから私は――

113: 2012/09/05(水) 02:56:02.53 ID:iexABmsli
梓「ムギ先輩のことを好きかどうか」

梓「私はずっと分からなかったんです」

梓「告白された後も」

梓「フィンランドに行ったときも」

梓「帰ってきてからムギ先輩を待ってる間も」

紬「そう」

114: 2012/09/05(水) 02:58:29.82 ID:iexABmsli
梓「だけど、たった今分かったんです」

梓「ムギ先輩のプロポーズを聞いて

梓「本当の笑顔を見て」

梓「全細胞が震えたんです」

梓「ムギ先輩にずっと傍にいて欲しい」

梓「ムギ先輩に私を見ていて欲しい」

梓「ムギ先輩のことが欲しい」

梓「こんな気持は初めてです」

梓「だから言います」

紬「うん」

梓「一度しかいいませんからね」

紬「うん」

梓「ムギ先輩、好きです」


終劇!

115: 2012/09/05(水) 03:00:00.28

なんとか結ばれて良かった

116: 2012/09/05(水) 03:00:07.38
来たら終わってた
乙りんこ

121: 2012/09/05(水) 03:02:40.19 ID:iexABmsli
読んでくれた人ありがとうございます。深夜でも追っかけてくれた人お疲れ様です。
初めて書いたSSなので、納得のいく形で完結させることができて嬉しいです。
また、どこかで。

引用元: 梓「同情」