1: 2012/06/14(木) 16:32:45.58
春香「え、千早ちゃん……晩ご飯の話だよね?」

千早「そうね……スーパーで、半額弁当を食べることが多いっていったのだけれど」

春香「えぇっ!? そんなのアイドルのすることじゃないよ! 半額弁当だなんて!」

千早「……春香」ガシッ

春香「えっ?」

千早「さすがに春香といえども今の発言は見過ごせないわ」

春香「えぇっ?」

千早「……私と春香の仲だから許すけれど。スーパーの前でいったりは絶対にしないこと」

春香「え、う……うん」

千早「わかってくれればいいの……あっ、それじゃあそろそろレッスンの時間だから」

タッタッタッタ……ガチャッ

春香「……? そんなにまずいこといったかなぁ」

2: 2012/06/14(木) 16:37:27.00
―――――

春香「あー、今日はハードだったなぁ……」

テクテクテクテクテクテクテク

春香「……お腹、減ったなぁ」

テクテクテクテクテク

春香「……家に帰ってからだとお腹減りすぎて氏んじゃいそうだし」

テクテクテクテク

春香「そういえば、ここら辺にスーパーがあったはずだよね」

テクテク……

春香「お弁当とか……売ってるよね。買って食べようっと」

テクテク

春香「ついた!」

4: 2012/06/14(木) 16:47:34.95
ウィーン

春香「っ……!? なに今の……寒気みたいな」

春香「冷房……じゃないよね。気のせい……?」

春香「まぁいいや、それよりご飯食べなきゃ。お惣菜コーナーは……あっちかな?」

春香「コロッケ、てんぷら……おいしそうだなぁ。うぅ、ガマンガマン」

春香「お弁当コーナーはこの先……」

春香「……えーっと、なにがあるかな?」

春香「おろし竜田揚げ弁当、焼きそば弁当、あとは……豆腐ハンバーグ弁当?」

春香「どれもおいしそうだなぁ……どれにしよう?」

春香「えーっと……」ウロウロ

ギュッ グイッ

春香「きゃっ!? だ、だれ!?」

千早「……」グイッ

春香「……千早、ちゃん?」

6: 2012/06/14(木) 16:53:32.50
春香「ちょ、ちょっと待って千早ちゃん……」

千早「……」グイグイ

春香「ま、待ってってば!」バッ

千早「……春香」

春香「いったいなんなの? そりゃあ今日の今日アイドルが食べるのはっていったけど私お腹減ってて」

千早「知ってて、やったわけではないのね?」

春香「知ってて……?」

千早「それならいいの。私が出るのが遅れていたら……ヘタをすれば骨ぐらいは折れていた」

春香「骨って……またまたおおげさな」

千早「まじめな話よ。……お弁当が食べたい?」

春香「うっ……うん、食べたいけど」

11: 2012/06/14(木) 16:59:16.29
千早「……なら、聞いて。そして見て」

春香「う、うん」

千早「あなたは今、狼の狩り場に迷い込んだの」

春香「おおかみ……?」

千早「えぇ、半額弁当という獲物を狙う……獣たちの狩り場へ」

春香「どういう、意味?」

千早「そのままの意味よ。春香」

春香「だ、だって今の言い方だと半額弁当がすごいものみたいだよ?」

千早「……そうね、ただの半額になった弁当ならその価値はないかもしれない」

12: 2012/06/14(木) 17:07:21.34
春香「半額弁当は半額弁当じゃないの?」

千早「少なくともこのスーパーは、値段が半分になっただけの弁当に価値を見出すものはいないわ」

春香「じゃ、じゃあなんで……」

千早「それは自分で考えたほうがいいわ……そろそろ、≪半値印証時刻≫だし」

春香「は、はーふ?」

千早「≪半値印証時刻≫よ。ハーフプライスラベリングタイム」

春香「……? 半額シールを貼る時間ってこと?」

千早「そういうことね。あと気をつけるのは……」

スッ

坊主「……ずいぶんと今日はおしゃべりしてるな、≪チョッピング・ボード≫」

春香「誰!?」

15: 2012/06/14(木) 17:14:20.52
千早「……友人が迷い込んでしまったのよ」スッ

坊主「そうか……お前、混ざる気か?」チラッ

春香「えっ? あー……お腹は減ってるので……」

坊主「……そうか。いいのか? 友人としては」ジー

千早「えぇ、求めるものには平等なのがここだもの……私に止める権利はない」ヒョイッ

坊主「そうかよ……ま、気を付けなお嬢ちゃん」スッ

春香「は、はぁ……」

春香(なんでこの二人目を合わせないで商品見ながら話してるんだろう?)

17: 2012/06/14(木) 17:19:15.44
坊主「……俺はもう少しポジションを考える。邪魔したな」トンッ

千早「ええ、正々堂々やりあいましょう」スッ

春香「……」チラッ

春香(真似して商品見てみたけど……なにがわかるんだろう?)

千早「……春香」

春香「あっ、なに?」

千早「今のも狼よ。 半額弁当を求めている者」

春香「う、うん」

千早「……春香。本当にお弁当が食べたい?」

春香「た、食べたいよ? お腹は本当にぺっこぺこだし」

千早「それなら……私もできる限りのサポートはするわ」

春香「サポートって……なにするの? 普通に買うんじゃないの?」

22: 2012/06/14(木) 17:28:39.13
千早「春香。半額弁当が食べたいのなら覚悟が必要なの」

春香「覚悟……」

千早「そう、ただ今ご飯が食べたいだけなら……ギリギリ間に合うわ。好きな弁当をひとつだけ手にとって帰りなさい」

春香「……そこまでいわれると、なんだか半額弁当に興味がでてきちゃうなぁ」

千早「それなら―――」

キィ……バタン

春香「……? ドアの音?」

千早「そんな……早すぎる! いい、春香」ガシッ

春香「えっ、なに?」

千早「食べたいのなら……遠慮はしないこと。いい?」

春香「わ……わかった?」

千早「それに、既に弁当を持っている者へは手を出さないこと。そして何より」

千早「―――誇りを、もつのよ」

春香「……う、うん」

26: 2012/06/14(木) 17:36:01.23
春香「……っ、千早ちゃ……」

千早「……私は、豆腐ハンバーグ弁当を狙うわ。春香は」

春香「え、えっ? じゃあ……おろし竜田揚げで」

千早「わかった……気をつけて」

春香(すごい、ヒリヒリとした空気が伝わってくる……!)

春香(これだったんだ……スーパーに入った時の寒気……!)

千早「……」グッ

春香(千早ちゃんの顔……歌を歌う前ぐらい真剣だ)

春香「ダッシュで……とれば、いいんだよね?」

春香「すぅ……はぁ。よっし……」グッ

春香(私も……お腹は減ってるもん。ダンスもしてるから運動だって)

春香(……あ。でもこれいつスタートなのかな? あのおじさんが半額シール貼ったら?)

27: 2012/06/14(木) 17:47:14.98
※※※※

千早「……」

 ―――まだ、おじさんはお弁当の整列をしてる。半額シールは出していない
 千早ちゃんにいつスタートか聞こうと思ったけれど、その横顔があまりにも真剣で声をかけられない

千早「……っ」

春香「あっ……」

 おじさんが腰のポシェットから半額と書かれたシールを取り出した時、千早ちゃんが息をのんだのがわかる

 普段はただのシールとしか思えないはずのそれが、今はやたらと神々しいものに見えた
 この空気のせいだろうか、さっきの説明のせいだろうか

 出遅れたらご飯が食べられない……いや、普通にどんべえなんかを食べればいいのかもしれないけれど
 その緊張感で、肌がヒリつく

千早「……」

 千早ちゃんは、まだ動かない
 いつスタートなのか私なりに推測をはじめてみる

29: 2012/06/14(木) 17:57:05.39
春香「……貼った瞬間、じゃないんだ」


 既に豆腐ハンバーグ弁当には半額シールが貼られているけど、千早ちゃんは動かない
 たぶんそれは、フェアじゃないからだ。誇りをもてっていうのはそういうことなんだろう

 なら、あのおじさんがシールを貼りきったら?
 たぶんそれも違う。あのおじさんの邪魔になってしまうから


春香「……それなら」


 離れた瞬間も、まだ危ない
 それなら、動くタイミングは……

 おじさんが、すべてのお弁当にシールを貼り終えた
 満足げに背を向ける。まだ千早ちゃんは動かない


春香「……」


 おじさんが、出てきたところであろうドアのほうへと歩いていく
 こちらを振り返り、大きくお辞儀をするとドアを開け―――

 その向こうへ、消えた

32: 2012/06/14(木) 18:02:52.37
 その瞬間、いくつもの轟音が響く
 地面を蹴った音だというのは想像がついた

 私も走り出したけれど、弁当コーナーへ辿り着くころにはたくさんの人が群がっていた


春香「……っくぅ!」


 みんな、速い
 こんなにたくさんの人が息をひそめていたなんて

 もうお弁当は取られちゃったかな?
 諦めて背を向けようとした時


坊主「ぐおぉっ!?」

 
 さっきの坊主頭の男の人が私の横を吹っ飛んでいった


春香「え?」

35: 2012/06/14(木) 18:10:39.42
 男の人が吹っ飛ぶなんて異常事態だ
 ひょっとして誰か危ない人でも混ざってたんじゃ!?


春香「あっ、千早ちゃん!」


 そう、私より早く速く駆けだした千早ちゃんが危ない!
 ケガでもしてたら……いや、それより警察に連絡とかしたほうがいいのかな!?

 心配になって携帯を取り出した時、また一人吹っ飛んだ
 よく見れば、その人がいた場所に立っているのは……


春香「千早……ちゃん?」


 コンサートの時ですら、ここまで激しいダンスはしないのに
 華麗に舞うように人を蹴り飛ばした千早ちゃんが、そこいる

 よくよく見れば、千早ちゃん以外の人達も殴りあったり蹴りあったりしているのもわかった
 女の人も、男の人もいる。異常な空気があたりを包んでいる


春香「ど……どういうこと?」

39: 2012/06/14(木) 18:22:37.75
 これは、どういうことなんだろう?
 警察に連絡しようとした手を止めて観察してみる

 ……なるほど、これは弁当の取り合いに間違いないみたいだ
 半額弁当を取る、って話を聞いててっきりスピード勝負なんだと思ってたけれど……
 これはもっと物理的な奪い合いなんだ

 弁当に手を伸ばす人がいれば、別の人がそれを払って自分のものにしようとする
 それをまた邪魔する人が現れて……弁当に遠い人や、弾かれた人へ追い打ちの類はかけられていない


 その争いの中、長い茶髪の女の人が一瞬の隙をついて焼きそば弁当を手にとった
 今にも殴りかかろうとしていた人たちも別の方へと向きを変えその人の道を開ける

 悠然とこちらに向かって歩いてくる茶髪の人は私に向かってそっとささやくとそのままレジへと向かった


茶髪「……新人さん? あなたの友達はがんばっているみたいだけどいかなくていいの?」

春香「……えっ? あっ」


 そうか、なにか違和感があると思ったら……千早ちゃんはお弁当に手を伸ばしてない!
 誰かが伸ばす手を弾くことに集中しているんだ

53: 2012/06/14(木) 18:45:20.54
 千早ちゃんは弁当へと背を完全に向けてしまっている
 これじゃ、とれるはずもない! 私のために……?

 次々と弁当に伸びる手を弾いていくけれど、やっぱり厳しいみたいで少しずつおされているのがわかる
 さっきまであった焼きそば弁当が無くなって人が集中してきてるんだ
 そのうえで私が欲しいっていった竜田揚げ弁当と自分の食べる豆腐ハンバーグ弁当を守るだなんて
 

千早「くっ!」

春香「……いかなきゃ!」


 いつまでもぼーっとみていられない!
 いまさらながらあわてて人ごみに突っ込む

 後ろからいくぶんには、抵抗は少ないみたいだ
 だけどだんだんと周りの圧力が強くなってきているのもわかる

 だけど、まだ進める! 千早ちゃんががんばってくれてるんだから私だって
 私だって、お弁当が食べたい!

54: 2012/06/14(木) 18:52:14.01
 どうにか弁当の見える位置までたどりついた
 ギリギリで持ちこたえている千早ちゃんと目があう


千早「春香……!」

春香「千早ちゃん、ごめん! ありがとう!」


 遅れてしまったことへの謝罪と、守ってくれていたことへのお礼
 それを簡単に伝えると、千早ちゃんは少しだけほほ笑んでくれた

 前へ前へと進んできた道はもう既にうまってしまっている
 あと数歩、それでお弁当に手が届く!


春香「んーっ!」


 そのままの勢いで竜田揚げ弁当へと手を伸ばす……あと、ちょっと
 ビニールに指が触れそうになる、あと、ちょっとだけ

 その時、お腹に強い衝撃を受けて届きかけたお弁当からひきはがされてしまった

56: 2012/06/14(木) 18:59:31.48
春香「うぐっ……!?」

坊主「すまねぇな、嬢ちゃん……同じ弁当を狙う以上遠慮は無しだ」


 どうにか体制を整えてそちらを睨む
 最初に吹っ飛んだ坊主の人だ

 本当に遠慮なく叩いてくれたみたいでズキズキする


春香「……私、お腹が減ってます」

坊主「奇遇だな、俺もだよ」


 坊主の人はニヤリと、不敵に笑った
 男だからとか、女だからとかじゃない……この人は強い!


春香「……遠慮しませんよ」

坊主「お互い様だろ」


 少し体勢を低くする
 さっきまで騒がしかった周りは、ほとんどの人が立ち上がれない状態みたいだ

 この人を倒せれば、お弁当が食べられる……!

59: 2012/06/14(木) 19:06:43.02
 ちらりと目をやると、千早ちゃんは豆腐ハンバーグ弁当をとったようだ
 ここから先は、私とこの人の戦いってことなんだろう

 人の手を借りて、とるんじゃなく……自らの手で、勝ち取る!


春香「あぁっ!」

坊主「おぉぉっ!」


 気合を込めた私のパンチが、坊主の人の拳をはじいた
 自分でもどこからこの力が沸いてくるのかわからない

 でも―――楽しい!


春香「まだまだぁ!」

坊主「うおおおぉぉ!」


 パンチの応酬が続くけど、ちょっとずつ私の方がおしてるみたいだ
 あと少し……あと少しで……

 その時だった

60: 2012/06/14(木) 19:10:17.21
顎鬚「あの……正直すまんかった」


 声をかけられて、振り向く


春香「え?」

坊主「あ?」


 そこには、顎鬚の男の人がたっていた

 ―――手に、竜田揚げ弁当を持った状態で


春香「あ……」

坊主「……おい」

 坊主の人が、怒気をはらんだ声ですごんだ

顎鬚「いやな、だってお前らだんだん弁当コーナーから外れるんだもんよ……つい」

坊主「ついじゃねぇ! 勝利の一味はどうした!」

春香「……はは」

61: 2012/06/14(木) 19:17:09.19
 そんなわけで、私の初めての弁当争奪戦は敗北に終わる
 ショックで食欲が……なくなるかと思ったけれど身体は正直だ


春香「……お腹すいたぁ」

坊主「あー、今日は災難だったな……まぁ惣菜を選べるだけマシだと思おうぜ」


 さっきまで殴りあっていた坊主の男の人と、軽い会話をする
 なんだか不思議な気分だ。すがすがしさすら感じてしまう


春香「もー、卑怯ですね顎鬚さん!」

顎鬚「うっ……腹が減ってて……」

坊主「まったく、だらしねぇな?」

顎鬚「だがなぁ、周りの確認を怠ったのはお前だろ? そっちのお嬢ちゃんはともかく……」

坊主「それはそうだけどよ」


 冗談も言えるぐらいだ。すごい……半額弁当って、すごい!

 ……そんなことを思いながら、お惣菜でおにぎりとナスのてんぷらを
 さらにカップ麺コーナーでどんべえを買った 

64: 2012/06/14(木) 19:26:09.96
千早「……残念だったわね、春香」

春香「千早ちゃん……」

 レジの向こう側で、千早ちゃんは待っていてくれた
 どうやら何があったかはわかるらしい

千早「初めからうまくいくことなんてないわ……すごかった」

春香「うん……私、おちこんでるんじゃないよ?」

千早「え?」

 千早ちゃんは私がへこんでいるんだと思って励ましてくれたけれど落ち込んでなんかいない
 次回への燃えあがる思いが、胸の中にあるだけだ

春香「……すごいんだね、半額弁当って」

千早「……えぇ」

 私は認識を改めた
 半額弁当は、少なくともくだらないものじゃないって

 きっと、次回こそ私は勝って、買ってみせると
 そう決意した時、千早ちゃんのお弁当を温めていたレンジが高い音を鳴らして温め完了を知らせた

68: 2012/06/14(木) 19:35:39.75
千早「……春香、そこのベンチで食べましょうか」

春香「うん」


 外のスペースに腰かけて空を見上げる
 満天の星……なんてものは見えないけれど、なんだか輝いている気がした


千早「春香は……いいセンスをしてると思う。初めてなのに腹の虫の加護まで受けてた」

春香「腹の虫……?」

千早「えぇ、腹の虫」


 聞き覚えのない単語について質問してみたけれど、オウム返しにまた戻されてしまった
 私の聞き方が悪かったのかと思って、もう一度聞こうと思った時、さっきの坊主の人がそばに来た


坊主「……よう、いいか?」

千早「春香がいいのなら」

春香「あ……どうぞ?」

坊主「ありがとよ」

70: 2012/06/14(木) 19:46:14.53
坊主さんはそのまま私の隣に腰をおろして話を始める


坊主「流石は≪チョッピング・ボード≫の知り合いってところか」

千早「いいえ、これは私がどうこういったからじゃないわ……来たの自体偶然だったのだし」

坊主「……だから最初あんなに不審な行動を? 豚かと思ったぜ」

春香「ぶ……ぶたって、ひどくないですか?」


 私だって乙女だ
 ブタ呼ばわりされていい気分にはならない

 抗議しようと思った時、千早ちゃんに静かに止められた


千早「春香……最初に言ったことは覚えてる?」

春香「最初って……えーっと」

千早「知らなかったのよね……なにも」


 あぁ、最初ってあの急に手をひかれた件のことか
 私は納得して、肯定の意味を込めてうなづいた

72: 2012/06/14(木) 19:53:53.94
春香「う……うん。何か意味があるの? それに、さっきから千早ちゃんが呼ばれてるちょっぴんぐぼーどって?」

千早「……話してもいいんだけれど。それよりも」

坊主「腹減ったんじゃなかったのか? 伸びるぞ、どんべえ」

春香「あっ!?」


 まずい、すっかり忘れかけてた
 千早ちゃんが温め終わってからだから……若干伸びてる?

 不安に思いつつもぺりぺりとどんべえの蓋をはがすと、おいしそうな出汁の香りと湯気がたちのぼってくる
 さすがどんべえだ。多少長くおいておいてしまった程度では風味もつゆも失われていない


春香「だいじょうぶそう……かな?」

千早「そう……よかった。私も食べようかしら」


 そういって千早ちゃんがお弁当のふたをあける
 温められふたの裏に溜まっていた水分が塊となってふたの裏を伝って千早ちゃんの服にしたたった

 普段ではなんでもないその程度のことが、やたら艶やかにみえる
 これも、お腹が減っているからなんだろうか?

73: 2012/06/14(木) 20:00:23.45
千早「……? 春香?」

春香「あっ、ごめん! なんでもないよ?」


 そう、なんでもない。ちょっとお腹が減ってるだけだ

 割り箸を割って、おあげが汁を吸うように軽く押し込む
 さらにそこへさっき買ったてんぷらを放り込んだ

 どんべえの上に置いておいたおにぎりも、外側だけがほのかに温かい

 十分に豪華……とはいえないまでも、ちゃんと晩ご飯の体はなしていた


春香「……うん、いただきます!」

千早「じゃあ私も……いただきます」

坊主「いただきます」

74: 2012/06/14(木) 20:07:09.68
春香「んんー! やっぱりどんべえはおいしいなぁ」


 ずいぶんとひさしぶりに食べた気がするけれど、どんべえのその味は変わってなかった
 優しいお出汁に甘めのおあげ。つゆをたっぷり吸ったそれはかじれば期待通りの味を返してくれる

 むしろ、以前に食べた時よりおいしいような気もする
 これもお腹が減っているからだろうか?
 ―――いや、違う


春香「これも、絶え間ない研究の結果か……私ももっと頑張らなきゃ」


 そう、うどんの麺のコシが増しているんだ
 ちょっと長くおいてしまったのにそのコシは失われていない
 これも、よりおいしいものを届けようというメーカーの人達のおかげでもたらされたんだ

 よりいいパフォーマンスを届けようと努力する私達アイドルに通じるものを感じる

75: 2012/06/14(木) 20:14:50.94
千早「春香……」

春香「どうしたの、千早ちゃん?」


 千早ちゃんが若干いぶかしげな目でこちらを見ている

 さては千早ちゃんはどんべえをあまり食べ慣れていないんじゃないだろうか?
 それで、私の感動が伝わっていないんじゃないだろうか?
 それはいけない。もったいない


千早「……いえ、なんでもないわ」

春香「遠慮しなくてもいいよ? ひとくちわけてあげましょー!」

千早「そういうことじゃ……んっ」


 なにかいいかけた口へと汁に浸して柔らかさを持ちつつまだ表面のサクサク感は残した
 最高の状態のちくわのてんぷらを突っ込んだ

 千早ちゃんはまだ何か言いたげな表情はしていたけれど、静かに噛み切るとそのまま咀嚼しだす
 うんうん、素直が一番だよね!

77: 2012/06/14(木) 20:24:01.07
千早「……ん、確かにたまにはいいわね」

春香「でしょ?」


 ある程度噛んだあと、千早ちゃんはちくわを飲み込んだ
 不満げな表情も和らいだようでなによりだ

 おいしいものはいいものだ。生きるってすばらしい!

 ……千早ちゃんのお弁当もおいしそうだなぁ


千早「……春香」

春香「あっ、なぁに千早ちゃ……んっ」

千早「おかえしよ」

春香「……んん」


 私の口の中へ千早ちゃんが箸を入れた
 もちろん、箸だけを突っ込むなんていういやがらせじゃなく……これは


春香「おいひい……」

81: 2012/06/14(木) 20:30:34.11
千早「……ふふ、気に入ったならなによりよ」


 千早ちゃんがいたずらっぽく笑う
 豆腐ハンバーグをひとくちサイズに切って口の中へ入れてくれたみたいだ

 最初は、上にかかっているとろみをおびたあんの風味だけを感じたけれどそれだけじゃない
 優しいあんの中にほのかに香るこのさわやかさは……たぶん、シソだ

 それに豆腐ハンバーグというからにはもっとヘルシーさを感じるものだと思ったけれどなかなかにボリューミーでもある
 お肉が混ぜ込んであるのか、それとも……


千早「春香?」

春香「へっ?」

千早「いや……何か悩んでるの?」


 千早ちゃんにもらったハンバーグがおいしすぎて
 というのもなんだか照れくさい気がしたので適当にごまかしてしまった

 しかし、あの味……すごい。半額弁当あなどりがたし

84: 2012/06/14(木) 20:38:16.27
 ―――結局、ゆっくりと食べきってしまった
 美味しかったのだけど、いまさらカ口リーが気になってくる

 千早ちゃんはすっごく細いからいいかもしれないけれど……私は


春香「……いや、セーフだよね、セーフ!」

千早「春香?」

春香「な、なんでもないよ! うん!」


 そう、セーフ……のはずだ
 私だってアイドルだもん、同年代の子より細いし! ちょっとぐらいならだいじょーブイ!


千早「……さっきから春香、変よ?」

春香「そ、そんなことないよー? あははー」

千早「もう……相談なら、いつでも乗るから」

春香「う……うん。大丈夫だから、本当に」


 真剣なまなざしで見つめられるとちょっと弱い
 千早ちゃんはクールなようで熱くなるものにはすごく打ち込むタイプだ

 私のことにも、熱くなってくれる……とっても素敵な友達だ

86: 2012/06/14(木) 20:44:12.64
千早「そう……」

春香「ご、ごめんね?」


 悲しそうにうつむいてしまう千早ちゃん
 なんだか罪悪感すらわいてくる

 すっごくくだらないことで悩んでただけなんだけど……
 だからっていまさら『お腹周りのぽっこりが気になる!』とか言いだせる空気じゃないし

 私が元気もらってる側なんだから……なにか、なにか手はないかな
 そこで最高の手に気がつく

 そう、私には手があるのだ……千早ちゃんの頭を撫でてあげれば元気が出るはず!


春香「……千早ちゃん」


 そっと手を伸ばし――――


坊主「ゴホン! エーッホン! ゲフンゲフン!」

春香「あっ」


 逆側に座っている人のことをすっかり忘れていたことに気がついた

87: 2012/06/14(木) 20:49:46.81
※※※

坊主「いやな、俺はいいと思うんだ。でも流石に見せつけられるのはちょっとなぁ」

春香「そ、そういうんじゃないですから! ねぇ千早ちゃん!」

千早「そういうのって……どんなのかしら」

春香「千早ちゃん……」

坊主「……自覚無しか。すごいな」

千早「……?」

春香「ううん、なんでもないよ……なんでもない」

千早「そう、それよりさっきの話の続きなんだけれど」

春香「あっ……そうだったね。ブタとか、その……ちょっぱーもーど? とかってなんなの?」

坊主「順に説明してやるよ。補足はまかせとけ……って、俺はいてもいいのか?」ボソッ

春香「あ、全然お気になさらず……」ボソボソ

坊主「いや……まぁいいならいいんだけどよ」ボソボソ

千早「……?」

95: 2012/06/14(木) 21:22:43.53
千早「話をしてもいいのかしら」

春香「あっ、お願いします! 先生!」

千早「誰が先生よ……もう」

春香「じゃあ、最初の質問……ブタってなんですか?」

千早「豚は……浅ましい生き物よ。誇りも、なにもないただ食うだけの生き物」

春香「う、うん……?」

坊主「あー、補足だ」

春香「はい」

坊主「簡単にいえば……無知であること以上に恥知らずである生き物のこと、だな」

春香「えーっと……」

坊主「たとえば、3割引きのシールの貼ってある弁当を確保したままうろついて半額シールを貼るように半額神に頼んだり」

春香「は、半額神?」

坊主「ん? あぁ……半額シールを、俺たちに恵んでくれる彼らのことを俺たちは感謝をこめてそう呼んでるんだ」

春香「なるほど……」

98: 2012/06/14(木) 21:28:21.88
千早「……」ムスッ

春香「あ、千早ちゃんごめんね? それで」

千早「……あのままだと春香が豚として扱われかねなかったから」

春香「あー……あの辺でうろうろしてるのも邪魔だから?」

千早「一度手に取ったものを戻すのもマナー違反ね」

春香「……やってたかもしれない。もししてたら?」

坊主「狼たちは豚を許さない。それこそ徹底的な排除をされる」

春香「排除って……」

千早「だから言ったの……骨ぐらい折られてたかもって」

春香「……」ブルッ

坊主「まぁ、基本的に誇りをもった狼同士はフェアな存在さ……たとえそれがアイドルでもな?」

春香「えっ!?」

101: 2012/06/14(木) 21:35:14.83
坊主「知ってるぜ? 天海春香も如月千早も大好きだ。ファンと名乗ってもいい」

春香「ちょ、ちょっと待ってください! その、ケガとか暴行とかそういうのは……」

千早「大丈夫よ、春香……此処では普段の名前なんて関係ないの」

春香「えっ、えぇっ?」

坊主「そう。俺が知ってるのは新入りのお嬢ちゃんと≪チョッピング・ボード≫だけさ」

春香「あっ……またそれ! なんなんですか? それ」

千早「……私の、二つ名よ」

春香「二つ名?」

坊主「……あぁ、強い狼にのみその振る舞いや姿からつけられる此処での名前だ」

春香「へぇ……かっこいいよ、千早ちゃん!」

千早「ありがとう……」

春香「?」

102: 2012/06/14(木) 21:42:03.42
春香「それで、なんで千早ちゃんはそんな名前がついてるの?」

千早「……いろいろあったのよ、いろいろ」

春香「いろいろって……だってすごい人にしかつかないんでしょ? 千早ちゃんはすごいってことだよね?」

坊主「あー……話してもいいのか?」

千早「……好きにしていいわ」

坊主「そうか……じゃあ、話させてもらうかな」

春香「はい!」

坊主「昔、このスーパーに来たてのころは≪チョッピング・ボード≫も決して強くはなかったんだ」

春香「千早ちゃんが……?」

坊主「誰だって初心者のころはあるもんさ。あんたみたいに最初から戦えるのは珍しい」

104: 2012/06/14(木) 21:48:11.27
春香「えへへ……それほどでも」

千早「調子に乗ると痛い目を見ることになるから……気を付けたほうがいいわ」

春香「う、うん……それで? 坊主さん、話の続きをお願いします」

坊主「まぁ、そんなある日……流れの二つ名持ちがこのスーパーに現れた」

春香「流れの……?」

坊主「通常、二つ名持ちはどこか1つか2つぐらいのスーパーを拠点にするものなんだ」

春香「なるほど……でも流れのって?」

坊主「理由は様々だけどな。強すぎるだとか、誰かを探しているだとか……だが」

春香「……?」

坊主「そいつは、≪名斬り包丁≫はもう少しゲスなやつだったんだよ」

105: 2012/06/14(木) 21:53:58.19
春香「なきりほうちょう……?」

坊主「まぁ、二つ名持ちのいないスーパーに現れてはその場にいる全員を倒してから弁当をかっさらう奴だったんだ」

春香「えぇっ、なんでですか?」

坊主「二つ名がつきそうな実力者を育ち切る前に斬りにくるから≪名斬り包丁≫ってことさ。名無しには強かった」

春香「それじゃあ……」

坊主「俺たちもやられてな……まだまだ青かったそいつと、一騎打ちになった」

春香「それで、倒したんですか!?」

坊主「……最初は一方的だったよ、なぶられるぐらいの勢いでな」

春香「……」

坊主「だが、ある瞬間からその包丁の刃は通らなくなった」

春香「……?」

坊主「すべての攻撃を受け、そしていなすその姿は……まさに二つ名持ちにふさわしかったんだ」

106: 2012/06/14(木) 21:55:37.72
春香「千早ちゃん……すごいよ!?」

千早「……くっ」

坊主「まぁ、その瞬間っていうのはおいといて……包丁の刃が通らない。受け止めるその姿」

春香「ふむふむ」

坊主「まさにまな板……≪チョッピング・ボード≫だって名付けられたわけさ」

春香「えっ」

坊主「ん?」

千早「くっ」ギリッ

109: 2012/06/14(木) 22:00:07.61
春香「えっ……えぇ?」

坊主「ん? どうした」

春香「えーっと……≪チョッピング・ボード≫って」

坊主「まな板のことだな」

千早「……くっ」

春香「ちょ、ちょっと悪意を感じるんですけれど!」

坊主「いや、あの見事な受けっぷりを見れば誰だって納得すると思うんだが」

春香「そ、それでも!」

千早「……いいのよ、春香」

春香「千早ちゃん……」

千早「私はこの名に誇りを持ってるわ……」ギリギリギリ

春香(千早ちゃん……すっごいこわい顔してる)

110: 2012/06/14(木) 22:07:07.08
坊主「まぁ、二つ名と豚についての説明は以上だが……なにか質問は?」

春香「えーっと……うーん」

千早「あっ……春香」

春香「うん? どうしたの、千早ちゃん」

千早「時間……大丈夫なの? 結構話しこんでしまったけれど」

春香「えー、そんな……ってうわぁっ!? もう終電ギリギリかも!」

坊主「おいおいまだそこまで遅い時間じゃないんだがな」

春香「電車で2時間かかるんです! 地元のほうで止まるとお母さん呼ばないといけなくなるので……すいません!」

坊主「そうか……気を付けて帰れよ!」

千早「春香、じゃあまた明日ってことでいいかしら?」

春香「うん、明日までに質問は考えておくから! ごめんね、ありがとう!」

千早「いいえ……こちらこそ。巻き込んでごめんなさい」

春香「そんなことないって……あぁっ、ごめん! それじゃ、また明日!」

千早「うん、また明日……って春香、そんなに走ったら」

千早「……転んだわね」

111: 2012/06/14(木) 22:09:47.09
一応ここまでは考えてあったんだけれど
ベン・トー知らない人でも雰囲気は伝わった?
質問があったら2日目のあとに春香に聞かせるよ

112: 2012/06/14(木) 22:14:04.82
春香「おはようございます!」

P「あぁ、おはよう春香」

春香「……? あれ、千早ちゃんは」

P「今日は……午後からだな。予定は被らないみたいだが」

春香「そうですか……わかりました、じゃあ今日もはりきっていきましょー!」

P「ん? あぁ、いくぞー!」

春香「おー!」

春香(んー、『腹の虫』がなんなのか聞きそびれちゃったなぁ……夜にスーパーに行けば会えるかな?)

113: 2012/06/14(木) 22:20:02.38
―――――

春香「……はぁ、今日もハードですねプロデューサーさん」

P「ははは……売れてきたってことさ。これ」

春香「あ、ありがとうございます……これって、ソイジョイ?」

P「うん。腹も減っただろうしそれ食べてひと頑張りしてくれ」

春香「はーい……んん、結構おいしいですね」

P「栄養も入ってるからな。元気もでるだろ」

春香「……」モグモグ

P「カ口リーも控えめでありがたいことだよなー」

春香「……」モグモグ

114: 2012/06/14(木) 22:24:56.20
―――――

春香「おつかれさまでしたぁ……」

P「おつかれ、春香……大丈夫か?」

春香「大丈夫です、一息いれれば復活しますから」

P「そうか?」

春香「えぇ……ありがとうございます。それじゃあ帰りますね」

P「ん、あぁ……お疲れ様」

ガチャッ バタン

春香「……よし、昨日のスーパーへいってみよう」

春香「時間は……まだ大丈夫そうだし」

115: 2012/06/14(木) 22:33:35.66
春香「ついた……よっし、今日こそはお弁当とるぞーっ!」

ウィーン……

春香「……!」ブルッ

春香「これ、昨日はわからなかったけど……たぶん半額弁当を取ろうとしている人の気配みたいなのかな」


春香「……えーっと、青果コーナーからおちついてまわって行こうかな?」

春香「りんごかぁ、アップルパイとか今度焼こうかな?」

春香「じゃなくて……お弁当コーナーまでいって……立ち止まるのはマナー違反だっけ?」


春香「お惣菜コーナー……あっ、あの煮つけ美味しそうだな」

春香「立ち止まっちゃだめってことは……さりげなーく確認してみればいいのかな?」


春香「……お弁当、コーナー」

春香「置いてあるお弁当は……」

116: 2012/06/14(木) 22:43:05.92
※※※※

 横目でちらりと確認しながら通り過ぎる
 置いてあった弁当は4つ

 1つ目、焼きそば弁当
 昨日も見かけたが、焼きそばにごはんがついてくるっていうのはどうなんだろう?
 炭水化物に炭水化物……それってあんまりあわない気もするんだけれど

 2つ目、幕の内弁当
 色とりどりのおかずが目に嬉しい
 いろいろと入っていてお得だとは思うけれど……少し値段が高かったような?
 半額になるものにケチケチするのもアレだと思うんだけど

 3つ目、からあげ弁当
 昨日の竜田揚げ弁当とは違って、シンプルにからあげメインで仕上げられたお弁当だ
 ……そういえば、竜田揚げとからあげって調理法的にはどう違うんだろう?
 気になってきたけど……今はそれどころじゃないか

 4つ目、豆腐グラタン弁当
 ……正直これが一番気になる
 二段構えになっているお弁当の上の段に入っているのは確かにグラタンに見えた
 じゃあ下の中身は? 豆腐なのか、それともおかずの類なのか……わからない
 わからなくて、気になる……ちょっと、食べてみたい


春香「……よし。えーっと千早ちゃんどこにいるのかな?」

118: 2012/06/14(木) 22:51:25.08
 昨日千早ちゃんがいたあたりをうろついていると後ろから軽く肩を叩かれた
 千早ちゃんかと思って振り向くとそこにいたのは―――


坊主「……そんな露骨にがっかりすんなよ。今日は≪チョッピング・ボード≫は来てないぞ」

春香「えぇっ……?」

坊主「まぁ元々毎日来るわけじゃないしな。それに時間もまだある」


 坊主さんが陳列棚のふりかけを熱心に眺めている

 私もそれにならって、隣でご飯のおかずシリーズを見つめていた


春香「……千早ちゃん、来ないんですかね?」

坊主「さぁな。同じ事務所なんだから嬢ちゃんのほうが知ってるんじゃないか?」

春香「うーん……」


 スケジュール表を思いだす
 今日の千早ちゃんは午後からがメインだったはずだけど―――

 収録がおしているんだろうか? 始まる前に聞きたかったことがあるんだけれど
 そんなことを考えながら、しゃけ茶漬けの元を手にとって軽くうなづいてみた

119: 2012/06/14(木) 22:59:54.65
 ―――結局、それから10分ほどしても千早ちゃんは現れなかった
 普段の≪半額印証時刻≫ならそろそろ半額神が現れてもおかしくないらしい


坊主「……来たな」

春香「えっ?」


 坊主さんが何かを察知したように呟いた次の瞬間、自動ドアの向こうから千早ちゃんが現れた
 だいぶ急いでいたらしい。そのまま一直線に弁当コーナーへと向かっていく

 千早ちゃんがせめてみつけやすいように近づこうとしたけれど、止められてしまった
 このギリギリの時刻で弁当へ近づくことはリスクを背負ってしまうことでもあるらしい

 千早ちゃんは総菜コーナーまでいっていたのにこちら側へと戻ってきてしまった
 なにかに気がついたような様子だけど……いったい? 

 いったい何故だろうと思った時……あの、キィという音が聞こえた
 半額神が現れたんだ


千早「……春香、遅れてごめんなさい」

春香「いやいや、千早ちゃんこそ……大丈夫?」

千早「えぇ……なんとか」

121: 2012/06/14(木) 23:06:32.38
千早「それより春香……今日のお弁当何があったか覚えている?」

春香「え? うん……あのね」


 千早ちゃんに聞かれたのでできる限り詳細に伝える

 ボリュームたっぷり炭水化物な焼きそば弁当
 色とりどりたっぷりのおかずを備えた幕の内弁当
 竜田揚げよりも肉がぷりぷりとしていそうでおいしそうなからあげ弁当
 なんだかよくわからないけれど、おいしそうな気がした豆腐グラタン弁当

 持てる限りの語彙で伝えきると、千早ちゃんは小さくうなづいて狙う弁当を教えてくれた


千早「……私は今日はからあげ弁当にするわ」

春香「わかった……今日はかばわなくても、守らなくても大丈夫だからね?」

千早「期待してるわね?」


 少し含みのある笑いをすると、千早ちゃんはまた鋭い目になった

 目をやると、半額神は半額シールはほとんど貼り終えている……あとはドアが閉まるのを待つばかりだ

122: 2012/06/14(木) 23:12:37.91
 半額神のおじさんが、こちらを振り向き礼をする

 ドアを開け……その向こうへと消え

 そしてドアが――――閉まった


春香「っ……!」


 昨日とは違う、スタートで遅れたりはしない
 思いっきり蹴り出すと速度に―――


春香「あ、あれっ……!?」


 速度に―――乗れない!?

 自分よりあとに駆けだした人が弁当コーナーへと到着する
 おかしい、周りの人ってこんなに速かったっけ?

 しかたない、昨日みたいに突っ込むしかない!

124: 2012/06/14(木) 23:21:22.05
春香「えぇいっ!」


 思いっきりぶつかれば、昨日みたいに道が開けるはず
 そう思っての体当たりだったんだけど……開かない

 おかしい、どうも調子が変だ
 混乱していると千早ちゃんが少し遅れて到着した

 二度ほど突撃しようとしたみたいだが、どうも攻めあぐねているみたい
 千早ちゃんは……二つ名も持ってる強い狼なんじゃないの? なんで?


千早「……くっ、一度確認しないとダメね」


 私が混乱する頭を落ちつけようとしている時だった
 千早ちゃんは前の人を思いっきり踏みつけて跳んだ……いや、飛んだんだ
 高い――そう、その姿はまるで幸せを呼ぶ青い鳥のように

 と、思っていたらそのまま人ごみを飛び越えてしまっていた
 真ん中に降りて一気に一網打尽にでもすると思ったのに……なんで?

 でも。千早ちゃんは着地直前にニヤリと笑ったように見えた

 その人ごみの向こう側から、轟音が響く
 そして開けた場所に立っているのは昨日と同じように……千早ちゃんだった


春香「な、なんで……?」

126: 2012/06/14(木) 23:30:24.93
 そのまま千早ちゃんは無双の強さで人達をふっ飛ばし、あっという間に弁当を浚っていった
 ほんの今の今までの千早ちゃんとは別人みたいな強さだ

 弁当を手に入れた千早ちゃんは悠々とこちらへと歩いてくる
 その手にあったのは……からあげ弁当じゃなくて幕の内弁当だった

春香「……なんで?」

千早「春香、あなたが狙ってたのかしら。だとしたらごめんなさい」

春香「あっ、違うんだけど……なんで急に強くなったりしたの?」

 素直に疑問をぶつけてみる

千早「……腹の虫の加護を受けたからよ。ごめんなさい、しっかり見れた中だとこれが一番魅力的だったの」

 腹の虫の加護。そういえばそれは昨日も聞いた言葉だ
 説明を聞こうとして、機会を逃してしまっていた

春香「腹の虫って……?」

千早「春香、あなたの食べたいものはなに?」

春香「食べたい、もの……豆腐グラタンが気になるんだけど」

千早「じゃあ、それを食べる自分を強くイメージして……あまり長居はできないわ。がんばって」

 それだけいうと、そのままレジの方へと歩いて行ってしまった

128: 2012/06/14(木) 23:34:51.44
 イメージしろって言われても……イメージがわかないから食べてみたいのだけれど
 でも、言われたからにはきっと意味があるはず! 豆腐グラタンをとった自分をイメージしてみる

春香「……豆腐グラタン、豆腐グラタン」

 豆腐のやわらかさ、グラタンのクリーミーさ
 その中に……香るのは……ダメだ、わからない

春香「でも、食べたい……!」

 もう一度決意を新たにして突っ込む
 さっきよりは手ごたえがある……! これなら

 そう思った時、勝鬨が上がった
 坊主さんが豆腐グラタンを高く掲げている

春香「あっ……」

 また、身体から力が抜けていく
 さっきまでみたいに動けなくなる

130: 2012/06/14(木) 23:38:10.14
春香「えーっと、あと残っているのは……きゃあっ!?」

 冷静に残っているお弁当を思い出そうとして、横からの衝撃に吹っ飛んでしまう
 
 昨日は耐えれたはずのそれは、今日の私にはあまりにも激しく
 弁当コーナーどころか鮮魚コーナーのあたりまで吹っ飛ばされてしまった

春香「あっ……」

 足にも力が入らない
 立ち上がるのもままならない

 昨日は平気だったはずの衝撃に
 昨日は立ち上がれたはずの身体に
 戸惑いを覚えながら、私の意識は宙に消えた

春香「……」

132: 2012/06/14(木) 23:45:23.49
―――るか、はるか、春香?


 誰かが呼んでいる声がする
 身体が揺さぶられている感覚がする

 この声は……


春香「ちはや、ちゃん……?」

千早「春香……大丈夫……?」

春香「だいじょう……っつぅ」


 身体をおこそうとして痛みに身をよじる
 痛い、昨日は気にならなかったのに……


千早「ごめんなさい……昨日は大丈夫だったからって油断しすぎたわ」

春香「なんで……昨日みたいにいかなかったんだろう……?」 


 素直な疑問を口に出す
 千早ちゃんはすごく申し訳なさそうな表情で、俯きながら答えた


千早「……腹の虫の加護が、十分でなかったからよ」

133: 2012/06/14(木) 23:49:27.63
春香「腹の……虫」

 さっきも聞いた言葉だ
 私の知っているそれの意味でいうと、つまり―――

春香「私が、お腹ぺこぺこじゃなかったから……?」

千早「……そうよ。何か夕食、もしくはおやつを食べなかった?」

 食べたもの……お昼ご飯以降で?

春香「えーっと……あ、ソイジョイを1本……」

千早「なんですって……!?」

 千早ちゃんがえらくショックを受けている気がする
 そんなにダメなんだろうか、ソイジョイ

春香「え、ダメ……だったかな?」

千早「えぇ、考えうる限り最上級よ……」

 ダメだったらしい

136: 2012/06/14(木) 23:56:49.06
※※※※

春香「なんでダメなの?」

千早「……いい、春香。ソイジョイは低カ口リーでありながらも満腹感の持続する低GI食品なの」

春香「う、うん」

千早「腹の虫は、本能の力……食べたいと強く願うことで私でも大男と力比べをすることができるの」

春香「そういうもの……なの?」

千早「えぇ、人をふっ飛ばしたりなんて今の私にはとてもじゃないけど無理よ」

春香「……うん、やっぱり千早ちゃんは細いよね」

千早「だから、腹の虫の加護は必須なのよ」

春香「なるほど……?」

千早「加護を受けていない人が加護を受けた人とまともにぶつかりあえば、格闘技経験があろうが負けるわ」

春香「そんなに変わるものなの?」

千早「……えぇ。ごめんなさい」

137: 2012/06/15(金) 00:03:57.59
春香「……?」

千早「本来最初に、一番強く教えないといけないことだったのに。昨日の春香をみて大丈夫だと思いこんでしまったの」

春香「なーんだ、それぐらい……これだっていい経験だよ? あざとかにはなってないみたいだし」

千早「でも……」

春香「でももストもございませんっ」ピシッ

千早「いたっ」

春香「大丈夫だよ、千早ちゃん……これもいい経験になったもん」

千早「……春香、ごめんなさい」

春香「大丈夫だってばもういいよ? ……あ、それと。さっき急に強くなったのは?」

千早「あれは、弁当へのイメージをきちんとしたものにしたくて……春香に説明してもらって何があるかは分かったんだけど」

春香「具体的な強いイメージ、ってやつ?」

千早「そういうことね」

138: 2012/06/15(金) 00:08:16.53
春香「確かに豆腐グラタンを食べたい! って思ったら少しだけ力が戻ったし……」

千早「……本当にごめんなさい」

春香「だから謝らなくていいってば、もうっ」

千早「……」

春香「あっ……じゃあお弁当ちょっとわけて?」

千早「も、もちろんよ? あと、お惣菜はなかったけれど……これ」

春香「あっ、どんべえ……ありがとう」

千早「なにがいいのかよくわからなくて……それであってるのよね?」

春香「うん、私どんべえ大好きだから大丈夫だよ」

春香(……これが、蕎麦だってこと以外は、だけど。千早ちゃんをこれ以上不安がらせたくないし)

143: 2012/06/15(金) 00:25:10.28

春香「あっ……そういえば今何時なの?」

千早「……10時ね」

春香「え、えぇぇっ!?」

千早「ごめんなさい。無理に起こすのもよくないと思って」

春香「うん……ありがとう、千早ちゃん」

千早「あの……春香」

春香「でもどうやって……あっ、どうしたの?」

千早「春香が迷惑じゃなければ……その、うちに来てくれないかしら?」

春香「千早ちゃんの家……?」

千早「私の家までの電車ならまだ出ているから……他に手もないだろうし」

春香「千早ちゃんがいやじゃないなら、こっちから頼みたいぐらいだよ!」

千早「本当? ありがとう……精一杯おもてなしするわ」

春香「うん……あ、お母さんに電話するね」

140: 2012/06/15(金) 00:15:42.36
※※※※

 どんべえにお湯を注いで待つ
 千早ちゃんがまだ申し訳なさそうにしているのでおでこに軽くチョップをしてみた

 ……抵抗しない。これはこれでどうなんだろう
 気にしないでほしんだけどなぁ……もう

 普段食べ慣れたうどんと違ってそばのどんべえはかきあげ付きだ
 お湯を注ぐ時に一緒に並べてふやかしてしまう人も多いが……それはまだまだ甘っちょろい


春香「ふっふっふ……そう、あとのせサクサクこそ正義よ!」

千早「春香……大丈夫なの?」


 何故だか千早ちゃんの優しい声が痛い
 気のせいだと思うことにして、そのままちゃんと食べられるようになるまで待つ

 そういえばそばを食べたのはいつ以来だろう?
 どんべえのそば、食べたことはある気がするのにいつだったかはピンとこない

144: 2012/06/15(金) 00:29:57.31
春香「うん、そう……友達の家。ごめんね? わかった、それじゃ……うん」ピッ

千早「春香……大丈夫だった?」

春香「うん、迷惑はかけないようにって言われちゃった」

千早「迷惑だなんてそんな」

春香「えへへ……ふつつか者ですがー、なんちゃって?」

千早「もう。春香ってば」

春香「でも、本当にいいの?」

千早「何が?」

春香「急に泊まるなんて……その、いろいろと」

千早「大丈夫よ、うちには余分なものはないから……レンジとポットはあるけど」

春香「そ、それならいいんだけど」

千早「それじゃあ、行きましょうか」

春香「うん、お願いします」

147: 2012/06/15(金) 00:38:56.53
 さて、じゃあいつ食べたんだろう? 待ち時間はヒマなものだし考えてみる
 千早ちゃんもレンジの中で周るお弁当を無言で見つめている

 おつゆの中に浮かべて、カリカリサクサク音をたてながらもほんのりと風味は移っているかきあげ
 それがふやけきってしまう前に食べ終えられなかった苦い思い出
 きっと、ずいぶん昔のことなんだろうと思う


春香「……だからうどん派なんだっけ?」


 千早ちゃんに聞こえないぐらい小さくつぶやいたつもりだったのだけど
 千早ちゃんの肩がわずかに震えた気がした……まずいかも?


春香「あ、でもやっぱりそばもいいものだよねー♪ ね、千早ちゃん?」

千早「あっ……そ、そうね。私もそう思うわ」


 明らかに動揺しているけれど、指摘はしない
 別に、そばが嫌いなんじゃなくて普段食べないだけなんだし

149: 2012/06/15(金) 00:46:53.46
春香「……どんべえのおそばって、たぶん小学生のころ以来だと思うから」

千早「えぇっ……ご、ごめんなさい春香……私」

春香「ひさしぶりに食べるおそばが、千早ちゃんと一緒だからこれからはおそばの方も好きになっちゃいそうかも」

千早「えっ!?」

 本心からの言葉だったりするんだけれど、千早ちゃんはえらく動揺している
 ……そんなに嫌だったのかな?

千早「あ、あの……春香、その」

 千早ちゃんが何か言いかけた時に、レンジが温め完了をお知らせした
 まったくもって間の悪い……ある意味いいタイミング? だと思うけれど

 千早ちゃんは素早くお弁当を取り出すとリビングの方へと歩いていってしまった
 きっといいかけたことを聞き返されるのが嫌だったんだろう

春香「……もう、千早ちゃんてば」

 意外と照れやさんなんだなぁ。そんなところもらしいんだけど

152: 2012/06/15(金) 00:55:24.85
春香「ちーはーやーちゃん?」

 私のご飯はどんべえだけだから実はポット近くで待機していたことに深い意味はない
 どうにか逃れたと思った千早ちゃんが、私の追撃に動揺しているのは目に見えて明らかだ

千早「う……あ、お茶出さなきゃ」

春香「さっき出してたでしょ、ほらこれ」

 どうにか席を立とうとする千早ちゃんをひきとめる

 亜美や真美じゃないけれど
 ……こういう時の千早ちゃんはいじりがいがあるのだ

春香「ねぇ千早ちゃん?」

千早「な、なにかしら」

春香「……やっぱりなんでもないっ♪」

千早「もう……」

 膨れている千早ちゃんもかわいい
 実に楽しい待ち時間を過ごすことができた

154: 2012/06/15(金) 01:02:15.03
春香「……そろそろいいかな?」

 何度もしてきた行為なのに、この瞬間は少し緊張する
 ペリペリと、ふたをはがして中から香ってくる芳醇な湯気を吸い込む

春香「んー、いいにおい……千早ちゃんのは?」

千早「あっ、そういえば……あけるわね」

 千早ちゃんの買ったお弁当は幕の内弁当
 正直なところ、これといってピンと来るものがないイメージだったんだけれど……

春香「うわぁ……」

 とんでもない誤解だったのかもしれない
 色とりどりの飾りやおかずたちはそれぞれが自己主張をしながらも決してくどくない
 まさに和風のお弁当のお手本のような気品をまとっていた

春香「……あっためてみるのと、ちょっと通り過ぎるのだと全然違うんだね」

千早「そこをきちんと見抜けると、腹の虫の加護は一層強くなるのよ」

 千早ちゃんが少し得意そうにしながら割り箸をペキンと二つに割った
 お茶はさっき注いだし準備万端だ

春香「それじゃあ…・・・」

千早「えぇ」

「「いただきます」」

156: 2012/06/15(金) 01:10:44.85
 どんべえの、そば
 おそらく最後に食べたのは小学生のころだったんだと思う

 とってもおいしいと思ったかきあげが、どんどんとつゆを吸い込みサクサク感を失っていく
 あれに子供心ながら無情さを感じた覚えがあるからだ

春香「でも……もうそうは問屋がおろさないんだから」

 別でとっておいたかきあげを、そばのつゆの上に浮かべる
 まるで大海の中にぽつんとある無人島のように、その存在はどこか危うい

春香「……まだ、まだ、まだ。今!」

 ほんの一口だけ齧る
 まだまだかきあげ本来の味のほうを強く感じる

 そのまま汁を少しだけすすってやると、口の中でかきあげが溶ける感触がした
 やっぱりどんべえは出汁がおいしい

 こくん、とかきあげの溶けたつゆを飲み込むと、今度は麺へ手を伸ばす
 そば自体の味も……そういえば年越しそばぐらいしか普段食べてない気がしてきた

春香「ふぅ、ふぅーっ……あむっ」

 思いっきり音を立ててすすっちゃう
 やっぱりおそばはこれが正しい食べ方なんだと思う
 人前ではできないことだけど……千早ちゃんにならいいよね?

160: 2012/06/15(金) 01:21:36.37
春香「うん……おいしい!」

 なるほど、どんべえのそばってこんな味だったんだ
 うどんみたいなコシのある麺や甘いおあげもおいしいけれどこれはこれで

 少しずつつゆが染みていってしまうかきあげを助けるようにかじる
 だんだんとサクサクとした食感が、かじった瞬間に溶けていくような優しさを帯び始めていた

 うどん派だったけど、ばかにできない感じがする
 さすがどんべえ、どんべえに貴賎なしっ!

春香「……ん?」

 ちらりと、千早ちゃんの方を見る

 千早ちゃんは自分の幕の内弁当の中の西京焼きを箸でつまんだままこちらを見てフリーズしていた
 ……ずっと見つめられてたんだとすると、すごく恥ずかしいんだけど

千早「あの……春香」

 ちょっとお下品だったのかな……
 反省しなきゃいけないかな? と思っていたけど、続く言葉に私は少し驚いた

千早「ひとくち……わけてもらえないかしら?」

164: 2012/06/15(金) 01:31:39.01
春香「うん……いいよ?」

 願ってもない提案だ
 正直、私のどんべえはどこにでもあるどんべえだ
 その気になれば、今すぐ近くのコンビニまで歩けば買えてしまう

春香「でも―――」

 でも、千早ちゃんの幕の内弁当はきちんとした『お弁当』だ
 そりゃあコンビニにだって普通のお弁当は売っているけれど
 これはあのスーパーでひとつひとつ手作りされたものなのだ

春香「千早ちゃんのも、わけて欲しいな?」

千早「えぇ、もちろん……あ、これおいしいわよ」

春香「本当? じゃあ遠慮なく……んむっ」

 千早ちゃんは優しいなぁ
 オススメされた西京焼きは、かじってみればほくほくと身がほどけていく
 単純な焼き魚とも一味違うコレは、お米が欲しくなる味でもあった

春香「……んっ!?」

 そういえば、お米持ってなかった!
 昨日はおにぎりを一緒に買ったけど今日は売り切れてたらしいし……くぅ

167: 2012/06/15(金) 01:36:27.51
春香「うぅ……」

千早「……春香」

春香「んぅ?」

 ご飯を求める衝動をどう抑えようかと考えていると千早ちゃんに声をかけられる
 涙目になりながらも顔をあげると……そこには

千早「……ご飯もすすむ味よね。はい」

 ご飯をひとかたまり、千早ちゃんが箸で差し出してくれていた
 遠慮なくそのままかぶりつくと、西京焼きの塩気がご飯に中和されていく
 やっぱり、おいしい

春香「ん……おいしい。おいしいよ千早ちゃん!」

千早「それはよかった……あの、いいかしら?」

春香「あ、うんもちろん! はい口開けて」

 千早ちゃんは優しいなぁ、お返しに一番いい状態につゆを吸ったかきあげを差し出す
 好きなようにかじってくれて構わない……のだけど

千早「あ、その……口を開けなきゃだめ?」

 なにをいまさら言ってるんだろう。私に食べさせる時は普通にあーんしてくれたくせに

168: 2012/06/15(金) 01:46:51.05
春香「うん、好きにかじってくれてかまわないから……さぁ!」

千早「わ、わかった……それじゃあ」

 髪がかかってしまわないようにかきあげる
 そしてかきあげにかじりつく……うん、別にうまいことはいってない

 千早ちゃんがゆっくりと、かきあげに噛みついた
 歯が沈んでいくと、それに反応するようにかきあげにしみ込んだつゆがあふれだす
 千早ちゃんのくちびるは、かきあげの油としみこんでいたつゆによって潤いを増した

千早「……ん、おいしい」

春香「えへへ、おそばもおいしいって気づけたのは千早ちゃんのおかげだね?」

千早「そうかしら?」

春香「そうだよ、絶対!」

 うん、少なくとも自分で選ぶ分にはこれまでもこれからもどんべえはうどん一択のつもりだったはずだ
 でも千早ちゃんが選んでくれたおかげでおそばのよさも再認識できたんだ

春香「あっ、麺もすすらないと! 豪快に! さぁ!」

千早「え、えぇ……」

 千早ちゃんは少し困ったような表情を浮かべながらもおいしそうにそばをすすってくれた
 
 私もいくつかのおかずをわけてもらったりお米をわけてもらったりしながら
 楽しい晩ご飯の時間はあっという間に終わってしまったのだった

169: 2012/06/15(金) 01:53:09.85
※※※※

春香「はふー、おいしかったぁ……」

千早「私も……楽しかったわ」

春香「楽しいって……」

千早「だって、春香のリアクションが結構面白くてつい」

春香「いやいや、だっておいしかったよ? 幕の内弁当のこともあなどってたかも……」

千早「あそこのお弁当は小物への情熱もすばらしいから、こういういろんなものが入ったのは何粒もおいしいの」

春香「なるほど……流石だね千早ちゃん!」

千早「それほどのことでもないと思うのだけど……あぁ、そうだ」

春香「うん、なに?」

千早「そういえば、お風呂はどうするの?」

春香「あ……確かに結構汗かいてるしベタベタかも」

千早「着替えは……私の服しかないのだけれど」

春香「貸してくれるの?」

千早「えぇ……大丈夫、なら」

171: 2012/06/15(金) 01:59:25.47
春香「大丈夫って……何が? 私全然嫌じゃないよ?」

千早「そうじゃなくて……その、サイズが」

春香「……あっ」

千早「一応、余裕のあるスウェットを出すけれど……無理はしないでね?」

春香「やだなぁ、大丈夫だよ……じゃあシャワー借りようかな。千早ちゃんからどうぞ」

千早「私はあとで入るから大丈夫、先に入って?」

春香「うん? ……わかった、それじゃあお先に失礼するね」

千早「それじゃあ……そっちよ」

春香「はーい」

千早「さーい」

春香「えっ?」

千早「……なんでもないから気にしないで」

173: 2012/06/15(金) 02:07:04.43
春香「ルンララルランラ~♪」シャワァァァ…

千早「……着替え、おいておくわ」

春香「はーい! ありがとう、千早ちゃん」シャワァァァ…

千早「いいの、気にしなくても……その」

春香「うん……? どうしたの?」キュッ

千早「今日のことなんだけれど……」

春香「それなら別に気にしなくてもいいってば……お腹減ってなかった私も悪いんだし」

千早「でも、ヘタをしたらひどい怪我をしてたわけで……なら昨日はっきりと止めるべきだったんじゃないかって」

春香「……千早ちゃん」ガラッ

千早「……春香」

春香「そんなことない……まだ、お弁当は取れてないけど」

春香「私……半額弁当のこと、狼のこと……なにより、千早ちゃんのことが知れて、嬉しいよ!」

千早「春香……!」

175: 2012/06/15(金) 02:11:48.29
春香「千早ちゃん……」

千早「春香……その……」

春香「大丈夫だよ、千早ちゃん……私は平気だから一緒にがんばろう!」

千早「そうね……じゃあ、寝る前にいろいろと話させて?」

春香「うん、私もいろいろ聞きたいし……夜更かししちゃおうか?」

千早「明日の仕事には響かないようにね?」

春香「おまかせください、プロですから!」

千早「ふふっ、春香ってば……あと」

春香「どうしたの?」

千早「女同士でも、せめて多少は隠した方がいい……と思うわ」

春香「あっ……」

千早「着替えはこれだから……じゃあまたあとで」

春香「う、うん……ありがとう千早ちゃん」

春香(すっぽんぽんのまま熱く語ってたと思ったらとたんに恥ずかしくなってきた……もう、大事なところで決められないんだから)

176: 2012/06/15(金) 02:21:35.83
春香「それでね、その時プロデューサーさんが――――」

千早「へぇ……あぁ、そういえばこの前の収録の時の話なんだけど―――」

春香(結局、夜遅くまでいろいろと話し合った)

春香(狼のこと、スーパーのこと、弁当のこと)

春香(事務所のこと、プロデューサーさんのこと、他のアイドルの皆のこと)

春香(私のこと、千早ちゃんのこと)

春香(それから、それから―――)

177: 2012/06/15(金) 02:26:09.85
チュン……チュチュン……チュチュチュン……

春香「ん……朝……?」

千早「……んっ……」

春香「えーっと……あれ?」

千早「…………んぁ」

春香「……そうそう、千早ちゃんの家にお泊りしたんだっけ」

千早「む…………ん」

春香「うわぁ……千早ちゃん思ったよりすごい寝相してる」

千早「……ぁ……」

春香「これは……お宝写メゲットのチャーンス? なんてね」

千早「…………くぅ」

春香「ふふっ、さてと……今日もがんばろう!」

179: 2012/06/15(金) 02:30:38.63
春香「ちーはーやーちゃん?」

千早「んんっ……はる、か……?」

春香「おはよう、千早ちゃん」

千早「おはよう……あれ? 私……」

春香「ゆうべは おたのしみ でしたね」

千早「……そう、そういえば春香が泊まったんだったわね」

春香「ちょっとのってくれてもいいんじゃないかなぁ?」

千早「……? だって昨日の晩はとても楽しかったもの」

春香「あぁ……うん。まぁそうなんだけど」

千早「変な春香ね」クスクス

春香「あはは……そうだね。じゃあ支度して事務所いこうか」

千早「えぇ……今晩は?」

春香「いってみたい……今度こそ。ソイジョイも食べない」

千早「わかった……お互いベストを尽くしましょう」

春香「もちろん!」

180: 2012/06/15(金) 02:34:57.88
千早「おはようございます」

春香「おっはようございます! 天海春香、全開バリバリでいきますよー!」

P「お、おはよう……春香、今日はやたら元気だな」

春香「目標ができると乙女は強いんですよ」

P「そういうものなのか……っていうか目標って何だ? 千早は何か知ってるのか?」

千早「さて……どうでしょう」

P「どうでしょうって……はぁ、聞いても教えてくれないんだろ?」

千早「乙女の秘密を探るのはヤボ、らしいですよ?」

P「はいはい……それじゃあ本日の予定はだな―――」

184: 2012/06/15(金) 02:43:10.08
―――――

春香「んー、終わりましたね!」

P「あぁ、おつかれ……栄養ドリンクでも飲むか?」

春香「大丈夫です、今の私はベストコンディションですから」

P「……? わかった、大丈夫ならいいんだが」

春香「それじゃあプロデューサー、お疲れさまでした!」

P「あぁ……おつかれ。いいのか?」

春香「えぇ、駅で待ち合わせしてるんですよ!」

P「えっ? いったい誰と……」

春香「えへへー、秘密ですよーっだ」

P「……おいおい」カシュッ

P「んぐっんぐっ……ぷはぁ。まぁ春香に限って間違いは起こさないよな」

P「それに……恋人ならそもそも言わないだろうし。友達か?」

P「ま、プライベートに必要以上に干渉してもしょうがない……かな」カコン

P「俺も帰るか……」

186: 2012/06/15(金) 02:48:18.57
千早「……」

春香「……ちーはーやーちゃん♪」

千早「きゃっ!? は、春香……驚かせないで」

春香「ごめんごめん、待った?」

千早「いいえ、今来たところよ」

春香「そっかぁ……よかった、じゃあいこっか」

千早「今日は割と早めに片付いたし……電車で移動するとちょうどいい時間につきそうね」

春香「うん、結構いい計画でしょ?」

千早「……いったん事務所まで帰してもらった方が早かった気もするけれどね」

春香「まぁまぁ……ね?」

千早「まぁ、なんでもいいのだけれど……」

188: 2012/06/15(金) 02:54:09.33
千早「……春香、お腹は大丈夫?」

春香「うん、ばっちし……もうペコペコだよ」

千早「そう、よかった……一緒においしいご飯を。また食べましょう?」

春香「今日こそはやれる気がするんだ……がんばるよ」

千早「えぇ、春香ならきっとできるわ……私も負けられないもの」

春香「千早ちゃんは二つ名もあってすごいんだから、負けるだなんてそんなぁ」

千早「あれは……まぁ、偶然ついたようなものだからね」

春香「でも、元々の実力がなきゃダメなんじゃないのかな?」

千早「そう……かしら」

春香「うん、ランクだけが上がっても知名度は上がってくれないんだから……元々力があってこそ人気がでるんだよ」

千早「アイドルと一緒、って?」

春香「そういうこと!」フンス

千早「……春香らしいわね」

春香「えぇー? 今のってどういう意味?」

千早「そのままの意味よ?」

190: 2012/06/15(金) 03:05:46.33
※※※※

 いつもの最寄り駅で電車から降りる
 でも、これはいつもの朝の通勤とは違う

 時間は既に夜。岐路につく人のほうがはるかに多い
 その中を逆流するように私と千早ちゃんは歩いた

 誰に見せつけるわけでもない誇りを胸に
 ただ、その≪戦場≫へと


春香「……ついたね、千早ちゃん」

千早「えぇ……ベストを尽くしましょう」


 不思議だ、最初に見た時はただのよくあるお店だと思っていたのに
 今は光量以上に明るくまぶしく見えた

 一歩踏み出せば自動ドアが、開く

 そして中に入ると肌が粟立つような感覚に襲われる
 いろんな人が警戒しているんだ

 私、じゃない……隣にいる千早ちゃんを

191: 2012/06/15(金) 03:17:45.27
 二つ名持ちっていうのは、警戒されるものなんだ
 冷静に考えてみれば、それはあたりまえなんだけれど……

千早「……? どうしたの? 春香」

春香「ううん、なんにも」

 私にとっては千早ちゃんは二つ名持ちの狼の前に大切な友達だ
 そりゃあ、最初に此処であった時はちょっと怖かったけど 

 青果コーナーへと向かう
 ほのかに香る甘い果実のにおいが、リラックスさせてくれた
 余分な力が抜ける、これもこの配置の狙いだったりするんだろうか?

 そのまま、総菜コーナーへ
 食欲をそそるようなものがいくつもある
 てんぷら、コロッケ……やっぱりお腹が減ってると揚げ物が恋しい
 ほうれんそうのおひたしやかぼちゃの煮つけもおいしそうだ
 腹の虫の主張がひときわ激しくなった

 そして―――向かう先は、弁当コーナー
 今回のメイン。私達のお腹を満たしてくれる獲物だ

 そこに並んでいた弁当は昨日と同じく4つだった

193: 2012/06/15(金) 03:30:45.74
 横目で、しっかりと細かいところまで確認しながらも自然に通り抜ける
 千早ちゃんは一瞥しただけでそのまま通り過ぎた

 さて、残っていたお弁当について整理しよう


 ひとつめ、焼き鮭弁当
 割とシンプルな盛り付けと名前。平平凡凡……かと思わせてそうじゃない
 大きな鮭の切り身がひときわ目立っていたけどそれだけじゃなかった
 何故かフィッシュフライやちくわの磯辺揚げまで添えてあったのが思いだせる
 それに、さりげなくサラダ部分と箸休めの充実具合もすばらしかった
 ひじきや筑前煮、ポテトサラダとなんでもありのそれは『焼き鮭』の一言だけで済ますには惜しいくらいだ


 ふたつめ、豆腐グラタン弁当
 昨日食べ損ねたお弁当だ
 少しでも理解できるように考えてみたところ……下の段には豆腐が入っている可能性が高そうだ
 上の段に入っているグラタンだと思われる物体は、思っていたよりも流動性がある感じだった
 つまり……豆腐に、ホワイトソースをかけてあっためてグラタン風にして食べる……? お弁当なんだ
 うん、やっぱりよくわからない。でも結構興味をそそられる


 みっつめ、ミックスフライ弁当
 名前の通り、いろんなフライが盛られたお弁当だ
 少し問題があるとするなら……そのサイズだと思う
 ジャンボ海老フライにカツ、そしてコロッケにフィッシュフライ
 ……お腹ぺこぺことはいえ、アイドルが食べるのはどうかと思ってしまった


 そして、最後が―――

194: 2012/06/15(金) 03:48:00.46
 よっつめ、スペシャルハンバーグ弁当
 名前だけだと、ちょっとカッコつけたハンバーグ弁当との違いが伝わらないかもしれない
 でも、見るからにスペシャルなハンバーグ弁当だった


 第一にその大きさ。普通のハンバーグならひらべったく伸ばしてあるものだと思う
 それは正しいし、火だって均一にちゃんと全体へと通すことができる
 でもあのハンバーグは丸かった。円じゃなくて球の形をしていた
 
 専用の容器の中心に、すっぽりと収まってる姿は
 まるで小学校のころの工作で作った光る泥団子みたいで綺麗だった


 第二にその容器の異質さ
 ひとつめの要素の続きになるけれど、他のお弁当と違って規格が違う
 ……一応、豆腐グラタン弁当もそうなんだけれど
 お米とおかずっていう一般的なお弁当のスタイルなのに容器が違っていた

 どんぶりの器みたいな容器の底にはご飯、そこへ半透明の敷居が入って野菜と付け合わせが少々
 そして中央に……専用のカプセルのようにほりが深いへこみへ球状のハンバーグは設置されていた

 遠目でみると完全にどんぶりものの蓋部分が盛り上がってそこに黒い玉が浮いているように見える
 だけどその黒い玉は肉汁を大量にはらんでいることがわかるハンバーグで……
 そして、よく見れば付け合わせだってどんぶりものにしては多すぎるぐらい

 直観的に思ったんだ
 これは―――絶対……おいしいだろうなって

195: 2012/06/15(金) 03:55:40.66
千早「……≪月桂冠≫かもしれないわ」

 千早ちゃんが小さくつぶやく
 ≪月桂冠≫については昨日教えてもらった

 その日の残った中で、一番の力作
 何故残ったのか不可解なぐらいのもの

 それを、半額神自らが自信を持って推薦する意味を持って貼る特別なシール
 そしてそれを貼られた弁当そのもののことを

 ≪月桂冠≫と呼ぶのだと

春香「……あの、スペシャルハンバーグ弁当?」

千早「えぇ……あれをとったものが、今日の覇者」

 ご飯ですよの瓶を手にとった千早ちゃんが、くるくるとラベルを眺めながらいう
 私が食べたいと思っているのが伝わったのか、軽く息を吐いてこう続けた

千早「本来……≪月桂冠≫が出たら全員がプライドをかけて狙うの」

春香「……千早ちゃん」

千早「でも私……今日は魚が食べたい気分なのよね」

196: 2012/06/15(金) 04:02:39.16
春香「……・?」

千早「でも、二つ名持ちとしては放置していくのも逃げるようで癪なの……春香」

 ここまで聞けば、さすがに察する
 つまり千早ちゃんはこう言ってるんだ

 「私は月桂冠を狙わない。でも月桂冠は『私達』がとらなければいけない」

 ―――と。私が、月桂冠を取れと

春香「……信じてくれるの?」

千早「春香を信じられないのなら、誰も信じられなくなっちゃうわ」

 すごく、嬉しい
 千早ちゃんは私を信じて任せてくれた

 なら私はこの期待に応えてみせる!

春香「……よしっ! まかせて!」

千早「えぇ……お願い」

198: 2012/06/15(金) 04:13:07.70
 そのまま私達は桃屋のご飯のお供シリーズのビンのラベルを熟読し続けながら時を待った

 お腹が今にも鳴ってしまいそうな緊張感の中
 ただ、ひたすら時を――――


 キィ、とあの独特のドアの音が鳴る
 あのおじさんが……半額神が姿を現した

 思わず息をのむ
 半額神はお惣菜の配置を正しはじめた

 そして……貼る
 整え終わったお惣菜のパッケージ達へ黄色い祝福が降り注ぐ
 あのお惣菜はもう半額なんだ

 すべてのお惣菜に貼り終えたところで、次は弁当コーナーへ
 綺麗に並べ直すとまた半額シールを取り出し次々と貼っていく

 そしてすべての弁当に……いや、まだあのスペシャルハンバーグ弁当には貼ってない
 だけどこれまでの半額シールをしまってしまった

春香「……千早ちゃん」

千早「……ええ」

 これは、いよいよもって間違いない

199: 2012/06/15(金) 04:18:10.75
 そして半額神は独特の模様のついたシールを取り出した
 あれが……≪月桂冠≫!

 ぺたり、と静かにスペシャルハンバーグ弁当へと貼り付け終わると値段に二重線を引いて訂正した
 ―――『半額』と

 そしていつものようにドアのほうへもどっていき

 いつものようにこちらへ一礼をして

 いつものようにドアが――――

春香「はああぁっ!」

千早「……!」

 ――――閉まった

200: 2012/06/15(金) 04:23:12.79
 ドアが閉まると同時に駆けだす
 昨日とはまるで身体の軽さが違う

 お腹が減っていると力が出ないとばかり思っていたけど違うんだ
 今、この場に限って言えば……空腹を、腹の虫を制御しないと勝てない!

 一直線に弁当コーナーへ飛びこむ
 一気にかっさらえるかとも思ったけれど、横から妨害が入ってそううまくはいってくれなかった

坊主「っち……おいおい嬢ちゃん、初心者の目じゃないぞ?」

 昨日一昨日とお世話になった坊主さんだ
 でも、今は遠慮しない……遠慮できない

 お腹が減っている

 とっても、はらぺこなんだ

 あのハンバーグに……齧りつきたい!

春香「ああぁぁぁッ!」

 腕にありったけの力を込めて叩きつけると坊主さんはガードごと吹っ飛んだ

202: 2012/06/15(金) 04:29:18.55
春香「っふ!」

 振りぬいた腕の慣性に引っ張られるようにその場で回転
 ハンバーグ弁当に手を伸ばそうとして、また防がれる

茶髪「……やるじゃない、新入りさん!」

 初めてここに来た時、動けなくなった私に渇を入れてくれた人だ
 千早ちゃんが無理をし続ける結果にならなかったのはこの人のおかげだ

 でも、今私はお腹が減っているんだ

 茶髪の女の人の豊満な胸が揺れる
 千早ちゃんの声が近くで聞こえた気がした

千早「……悪いけれど、邪魔させないわ!」

茶髪「へぇ……入れ込んでる、じゃんっ!」

 気のせいじゃなかったみたいだ。後ろから飛びこんだ千早ちゃんがそのまま茶髪さんと打撃戦へもちこんだ
 一瞬だけど目があった時に千早ちゃんが『任せろ』といってくれた気がする

 今度こそ。既に周りには人垣ができ始めている

203: 2012/06/15(金) 04:35:03.80
 邪魔されずに手を伸ばせるラストチャンスだろう
 これで取れなきゃ、乱戦での振る舞いなんて私にはわからない

 そこへ滑り込むように現れたのは……初日にお弁当をさらっていった顎鬚の男の人

顎鬚「待ちな……悪い、がっ!?」

春香「えいっ! ごぉ、めんな……さいッ!」

 手を弾こうと動いているのがわかったので、どこか別の場所で攻撃できないかと考える
 考えながらもちっともいい案が浮かびそうにないのでその思考中の頭を顎鬚さんにぶつけた

 顎鬚さんがひるんだ隙に後ろへと投げ、近付いていた他の人達へのけん制にする

 完全にフリーになった私はそのまま――――

春香「ああああああっ!」

 ≪月桂冠≫を手に入れることに成功した

204: 2012/06/15(金) 04:40:30.62
 周りの声が遠く聞こえる

 月桂冠は手の中にある

春香「……あっ」

 さっきまで後ろから殴りかかろうとしていた人が、既に別の人にターゲットを変えている

 そうか、弁当をとった人は攻撃されないんだった
 私はそのままゆっくりとレジへと歩いて行く

春香「……お弁当、取れたんだ」

 いまさらながら実感が沸いてくる
 手の中にあるのは、おいしそうなお弁当

春香「嬉しいなぁ……あれ? 涙が……」

 それを見ているだけで、涙があふれてきそうになった

 最高の半額弁当の証、月桂冠を
 私が初めてとった半額弁当を

205: 2012/06/15(金) 04:45:05.09
 しばらくレジの向こうで待つと、千早ちゃんが弁当を持って歩いてきた

千早「すごいわ、春香……まさか初撃で決まるなんて」

春香「あはは……お腹減ってたから」

 そう、すっごくお腹が減ってたんだった
 思い出すとお腹がギューギューと食事を要求する

春香「……お弁当、食べようか」

千早「えぇ。あっためて……最初と同じように、そこのスペースで」

 千早ちゃんが優しく微笑む
 なんだかとってもあったかい気分になってきた

春香「うん……」

千早「……泣いてるの?」

春香「なんでだろうね……わかんないけど、涙が出るんだ」

217: 2012/06/15(金) 08:00:35.50
 千早ちゃんがポンポンを頭を撫でてくれる
 しばらくそうしてもらって、ようやく涙は止まった

春香「……うん、ありがとう千早ちゃん。落ち着いた」

千早「よかった……春香、せっかくの月桂冠よ。鼻が詰まったままじゃもったいないわ」

春香「ふふっ……うん!」

 千早ちゃんなりの励ましなのか、冗談なのか
 それとも本気でいってるのかわからないけど
 ……とにかく元気はでた

 せっかくのはじめてとれたお弁当なんだからちゃんとおいしく食べなきゃね!

 レンジへとお弁当を入れて温める
 少し長めの加熱時間を要求するそれに、期待感が増していく

 千早ちゃんも少し落ち着かない様子だ

218: 2012/06/15(金) 08:11:13.55
春香「温めおーわり……っと」

 レンジの回転テーブルが止まる
 ドアをあけてお弁当を取り出した

春香「……おいしそう」

千早「そうね……なにがスペシャルなのかも気になるところだわ」

 なにが、ってこの形がだと思うんだけど……
 千早ちゃんは形だけじゃないさらなる何かを予感しているみたいだ

 なにはともあれ、晩ご飯の準備はできた
 千早ちゃんの焼き鮭弁当もあたため終わり、残っている過程はおいしくいただくだけだ

春香「……いただきます!」

千早「いただきます」

 割り箸を2つに割っていう
 さぁ、いったいどんなところがスペシャルなんだろう?

 蓋を外せば、すごい湯気があがった

221: 2012/06/15(金) 08:26:18.11
春香「わっ……すごい」

千早「……ええ」

 汁物のそれに近いほどの湯気に面食らう
 ドーム型の器は熱と水分を逃がさない仕組みになっていたみたいだ

 そしてその水分は……ハンバーグから肉汁として染み出しているみたいだった
 ハンバーグがすっぽり収まっていた中央部は、肉汁がたまっているのがわかる

 でもハンバーグの下の部分が自分から出た肉汁に浸っているわけでもない
 ほんの少し浮くように、底部分に近づくにつれて細くなっている容器のおかげみたいだ

春香「……じゃあ、主役はちょっと待ってみようかな」

 もったいぶって別に盛られたおかずに手をだしてみる
 卵焼きや、温野菜……細かい敷居で仕切られたそれは色も鮮やかだ

 ハンバーグはおいしそうだけど、やっぱり茶色一色だけっていうのはものたりないもんね?

223: 2012/06/15(金) 08:37:13.17
春香「えーっと……」

 とりあえず温野菜らしきものに箸を伸ばす

 レンジで温める前提のお弁当は、サラダみたいな生野菜は入れられない
 だから温めてなおおいしいものにしてある……って千早ちゃんが教えてくれた

 箸はすんなりとおって、ニンジンは小さく切れた
 口に運ぶと、独特の甘味を含んだ味わいがひろがる
 でも、自分の知ってるニンジンとはちょっと違うような……?

 私が思っていた青臭さがない
 むしろ優しい香りが……香り?

春香「これ……ただの温野菜じゃないみたい」

千早「えっ?」

 じっとこちらを見つめていた千早ちゃんが少し驚いたような声をだす
 ハンバーグがスペシャルなのはわかっていたけどつけあわせもスペシャルなんて本当にスペシャルなお弁当だ

225: 2012/06/15(金) 08:53:49.21
春香「これ……ちょっと食べてみて?」

 ひとくちサイズに切って千早ちゃんの口元へ運ぶ
 千早ちゃんは少しためらうような表情を浮かべたあと、意を決したみたいに口を開けた

千早「……なるほど、あく抜きを丁寧にやったうえで香りをつけれるように出汁で蒸した……のかしら」

 簡単に言えばひと手間かけてあるってことだ
 すごいやスペシャル弁当。つけあわせにも手はぬかない

 その後も周りのおかずに手をつけては小さな工夫に驚くのを繰り返した
 月桂冠は伊達じゃないってことか……プロ意識を感じる

千早「その……春香」

 千早ちゃんがもじもじしている
 自分のお弁当にもあまり手をつけてないようだ

 ……んっふっふー、わかってますとも!
 まだ手をつけてないこのハンバーグが気になっているってことぐらいね

228: 2012/06/15(金) 09:05:02.53
 あまり回り道しすぎると冷めちゃうかもしれない
 そうなっちゃったら本末転倒もいいところだ
 ……正直、結構ガマンの限界だし

春香「……よし、じゃあメインといきましょう!」

 少し大げさに箸をつける
 一口大ぐらいに切るのも考えたけど……

 これだけ大きくておいしそうなんだから切るのはもったいない
 そう思いなおして、全体を持ち上げるように持ちなおす
 そして一気にかじりついた

春香「あー……んっ! あふっ!?」

 口に入れた最初の感想は
 『おいしい』でも『工夫がすごい』でもなく―――


 純粋にただ、熱かった

春香「ん~~~っ!」

231: 2012/06/15(金) 09:22:19.39
千早「は、春香! お茶!」

春香「んっ……んくっ……はぁ。あひゅいよ……千早ちゃん……」

 千早ちゃんからお茶を受け取ると一気に流しこんだ
 舌がヒリヒリする……ちょっとやけどしちゃったかもしれない

千早「うかつだったわね……大丈夫?」

春香「うん……」

 結構な時間おいてあったんだからもう少しは冷めていると思った
 でもかじったところからは熱々の肉汁が飛び出してきたんだ

 ハンバーグも、かじったあたりからまた新鮮な湯気があがってる

 ……肉汁だけだと説明がつかない量の水分
 それに、タレの類はついてなかった

 なのに濃厚な風味を感じた気がする
 これは、たぶん……

千早「出汁……ソース? が中に閉じこめられていたのかしら」

春香「うん、そういうことだと思う……びっくりした」

232: 2012/06/15(金) 09:34:55.43
 昔、漫画で読んだことがある
 大きなかきあげ全体に、タレをいきわたらせるにはどうするのか?

 その漫画では、かきあげのタネにタレのキューブを混ぜ込んでその問題を解決していた
 熱で溶けて、噛めばひろがる風味……食べてみたくておねだりしたっけ

 つまり、このハンバーグはそれと同じことをしているんだ
 球状のこれにタレをかけてもいきわたりはしない
 でも中からなら? ……熱くなればタレが溶けだしてくる

 ただそれだけならチンしたときにタレは流れでてしまうかもしれない
 でもこのハンバーグ……たぶん一度軽く揚げてある!

 中の旨味がでてしまわないように、ハンバーグらしさを失わないように
 細心の注意を払ってしあげられたんだろう

春香「……んっ」

 今度はやけどしないように慎重にかじった

234: 2012/06/15(金) 09:42:32.37
 肉々しいワイルドな風味を、まろやかなタレが優しく広げる
 お肉らしさの中に、あとをひくような微かな甘味
 タレの味かな? 甘ったるくもなくてなかなか……

 もくもくとかじっていると、ガリッと違和感を感じた
 なにか変なものでも混じってたんじゃ、と思った時にそれは否定される

春香「~~~~~っ! か、からひっ!?」

 ガツンと辛さが抜ける
 たぶん今かじったのは粒胡椒だ

 いきなりでまた驚かされたけれど辛さはすぐにひいた
 さっぱりした口は、またあの甘味のあるお肉を求める

 ……すごい、スペシャルハンバーグは本当にスペシャルだ

235: 2012/06/15(金) 09:53:09.59
千早「……」

 千早ちゃんがこっちをみている
 ……んっふっふ、素直になりなよちーちゃん?

千早「春香……その」

春香「はい、どうぞ?」

 遠慮がちに話しかけてきたのへカウンターをあわせるようにハンバーグをさしだす

 千早ちゃんは少し驚いたような顔をしたあと歌う時のように大きく口をあけた
 今、時代は蒼い鳥より茶色い牛だ

千早「……おいしい」

 千早ちゃんの表情がほころぶ
 別に私が作ったわけでもないのになんだか誇らしい

春香「おいしいよね!……じゃあ私にも何かちょうだい?」

 餌を待つ小鳥のように、大きく口をあけてみる
 目をつむっていると、小さく溜め息が聞こえたあと口の中に何かが入ってきた

 口の中でほどけるような食感
 お米を求めさせるほどよい塩気
 ……間違いない、千早ちゃんのお弁当のメインの焼き鮭だ!

237: 2012/06/15(金) 10:06:51.96
 ―――楽しい時間はあっという間に過ぎるもので

 かなりのボリュームもあったはずのお弁当はあっという間に空になってしまった
 本当に、おいしかった

春香「……ふぅ、お腹いっぱいだよ」

千早「えぇ、私も……」

 千早ちゃんと顔をみあわせて笑う

 本当に不思議だ
 スーパーで売っているお弁当がこんなにおいしいものだなんて
 それを口に出して聞いてみると千早ちゃんは小さく笑って

千早「春香が自力でとったんだもの……最高の、勝利の一味が入っているのよ」

 ―――そう、応えた

239: 2012/06/15(金) 10:08:25.19
 でも昨日と一昨日のお弁当だってすごくおいしかった
 あれは私はとってないのに千早ちゃんがわけてくれたんだけど……

春香「……あぁ」

 ちょっと考えてから、ひとつの結論にたどり着いた
 私のイメージするスーパーのお弁当は孤独なものだけど―――

春香「大切な人と一緒に食べるご飯がおいしくないわけがないんだ」

千早「え?」

春香「ううん、なんでもない! ねぇ千早ちゃん―――」

 今度私の手料理も食べてみて欲しいな?

 半額弁当もおいしいけど、アクセントがあってもいいよね
 そんなことを私は思ったのだった


おわり

240: 2012/06/15(金) 10:11:16.34
途中での寝落ちすまんかった
ベン・トーとアイマスのクロスでした

ご飯の描写むつかしいね
少しでも旨そうって思われたら嬉しい

じゃあまたいつか

241: 2012/06/15(金) 10:18:39.27
あ、あとどこか違和感とかあったら教えて欲しいかも
また今度書く時の参考にしたい

一応ベン・トー知らなくてもわかるようにしたつもりなんだけれど……

242: 2012/06/15(金) 10:27:07.39

243: 2012/06/15(金) 10:31:54.17
そして俺たちは近所のスーパーへ出陣するのであった・・・・・

244: 2012/06/15(金) 10:34:56.00


旨そうだった

引用元: 春香「半額弁当……?」