1: 2012/06/23(土) 22:17:02.40 ID:811PJHcj0
杏子「頼むよ神様――こんな人生だったんだ。せめて一度くらい、幸せな夢を見させてよ……!」

魔女の結界を落下していく杏子の瞳から涙がこぼれました。
轟轟と音を立てて舞台は崩れているはずなのに、何の音もしません。
杏子はまるで涙のこぼれる音が聞こえるようでした。

そんなとき、どこからともなく汽車の音が聞こえてきました。
崩落した天井の向こうは星空で、きらきらといくつもの星星が輝いているのが見えるのです。
ああ、あすこには幸せがあるのかな。
見れば見るほど星星には小さな林や牧場やらある野原のように見えてきました。
そして杏子は周りがみんな夜空になったかのように思いました。

5: 2012/06/23(土) 22:24:40.00 ID:811PJHcj0
気がついてみると、さっきから、ごとごとごと、杏子の乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。
ほんとうに杏子は、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈の並んだ車室に、窓から外を見ながら座っていたのです。
車室の中は、青いビロウドを張った腰掛が、まるでがら明きで、
向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮のおおきなボタンが二つ光っているのでした。

すぐ前の席に、夏の晴れた空のような髪をした、せいの高い少女が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。
そしてその少女の肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。
いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄かにその少女が頭を引っ込めて、こっちを見ました。

それはさやかだったのです。

杏子が、さやか、おまえは魔女になってしまったんじゃないのかと云おうと思ったとき、さやかが
「みんなはたくさん心配してくれたけれども間に合わなかったよ。まどかもね、ずいぶん声をかけてくれたけれども遅かった」と云いました。

7: 2012/06/23(土) 22:28:11.53 ID:811PJHcj0
杏子は、(そうだ、アタシたちはいま、いっしょに旅行に行くんだ)と思いながら、

杏子「それじゃあ戻って迎えに行こうか」

と云いました。
するとさやかは、

さやか「まどかはもう帰ったよ。転校生が迎いにきたんだ」

さやかは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。
すると杏子も、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがして黙ってしまいました。

8: 2012/06/23(土) 22:34:58.26 ID:811PJHcj0
ところがさやかは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢いよく云いました。

さやか「あ、しまった! あたしケータイを忘れちゃったよ。カメラも忘れてきた。
     でもいいや! もうすぐ白鳥の停車場だから。
     あたし、白鳥を見るのがほんとうに好きなんだ。川の遠くを飛んでいたって、あたしはきっと見えるよ」

そして、さやかは、円い板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。
まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。
そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な盤の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
杏子はなんだかその地図をどこかで見たように思いました。

杏子「この地図、どこで買ったんだよ。黒曜石でできてるじゃねーか」

杏子が云いました。

12: 2012/06/23(土) 22:42:06.56 ID:811PJHcj0
さやか「銀河ステーションでもらったよ? あんたはもらわなかったの」

杏子「あぁ、アタシ銀河ステーションを通ったっけかな。いまアタシらが居るとこ、ここだろう」

杏子は、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。

さやか「そうだね。ん? あの河原は、月夜かな?」

そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。

杏子「月夜じゃねーよ、銀河だから光るんだろ」

杏子は云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、ブーツをこつこつ鳴らし、
窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生懸命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。
けれども、だんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、
ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波を立てたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れていき、
野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。

14: 2012/06/23(土) 22:45:41.28 ID:811PJHcj0
遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、
或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。
杏子は、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。
するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたりふるえたりしました。

杏子「アタシはもう、すっかり天の野原に来ちまった」

杏子は云いました。

杏子「それにこの汽車は石炭をたいてないんだな」

杏子が左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。

さやか「アルコールか電気なんじゃないかな」

さやかが云いました。

16: 2012/06/23(土) 22:50:38.28 ID:811PJHcj0
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

さやか「わあ、りんどうの花が咲いてるよ! もうすっかり秋なんだね」

さやかが、窓の外を指さして云いました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。

杏子「アタシが、ぱっと飛び降りて、あいつをとって、また飛び乗ってやろうか」

杏子は胸を躍らせて云いました。

さやか「もうだめだよ。あんなに後ろに行っちゃったじゃん」

さやかが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。

17: 2012/06/23(土) 22:57:04.53 ID:811PJHcj0
さやか「恭介は、あたしをゆるしてくれるかなぁ」

いきなり、さやかが、思い切ったというように、少しどもりながら、急き込んで云いました。

さやか「あたし、恭介がほんとうに幸せになるのなら、どんなことでもするよ。
     でもさ、いったいどんなことが、恭介のいちばんの幸せなんだろ」

さやかは、なんだから、泣きだしたいのを、一生懸命こらえているようでした。

杏子「さやかは自分の幸せのことを考えればいいんだよ!」

杏子は自分でも驚くくらい感情のままに叫びました。

さやか「もうわかんないよ、あたし。けどさ、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだろうな
     だから、恭介は、あたしをゆるしてくれるって思うな」

さやかは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

21: 2012/06/23(土) 23:03:57.27 ID:811PJHcj0
杏子「もうすぐ白鳥の停車場とやらか」

さやか「うん。十一時ぴったしに着くみたい」

早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、
それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、
汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、
それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。
みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。
『二十分停車』と時計の下に書いてありました。

杏子「アタシたちも降りてみるか」

杏子が云いました。

さやか「そうしよ!」

23: 2012/06/23(土) 23:10:42.18 ID:811PJHcj0
二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。
ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰も居ませんでした。
そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。
そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。
二人がその白い道を、肩を並べて行きますと、まもなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。

さやかは、ソフトボールくらいの水晶を掴み上げ、夢のように云っているのでした。

さやか「この石のなかは違う世界に繋がってるんだ。このなかじゃ雪が降ってる」

杏子「ほんとだな」

いくつか石を拾ってなかを覗き込みながら、杏子もぼんやり答えていました。

25: 2012/06/23(土) 23:18:37.87 ID:811PJHcj0
さやかはじいっと雪の降る水晶を見つめていました。

水晶のなかでは、どこまでも続く雪原に、いくつもいくつもの絵が並べられていました。
それはある種の雲母でできた、ごくうすい透明の板に色がついたもので、大きさも形もさまざまでした。
そんな絵を丁寧に雪の上に置き、消えかかった夕陽の光を頼りに見ている少年がいました。

さやか「なにをしているの?」

少年「僕の本当に大切なものを探しているんだ」

絵から目を離さずに、囁くように少年が答えました。

さやか「本当に大切なもの?」

少年「うん、そうなんだ」


26: 2012/06/23(土) 23:25:08.76 ID:811PJHcj0
少年「そうだ。君、光る石とか持ってないかな」

さやかは千切れるような寒さのなかで、こころも冷えていくのを感じました。
彼女は懐中のソウルジェムを思いましたが、見なくてもそれが光っていないということはわかりました。

さやか「ごめん。持ってたんだけど、あたしのはもう光らないんだ」

少年「そう。僕と同じだね」

さやかは傷口をふさぐように俯きました。
それにかまわずに少年は静かに、絵を眺め、雪の上に置いていきます。

しばらく二人とも黙っていました。
さやかの髪にも、制服にも、容赦なく雪が積もってきました。

さやか「ねえ、本当に大切なものって、なんなの?」

27: 2012/06/23(土) 23:31:22.57 ID:811PJHcj0
少年「僕が、愛したい――そう想うひとのことだよ」

さやか「愛したいと想うひとのこと……」

少年「僕はそのひとのことを忘れてしまった。君は覚えているようだね」

さやかはかじかむ指を握りこんで頷きました。
少年はそれが見えたかのように、すこしだけ微笑みました。

少年「忘れないで、それを大事にしていて」

さやか「うん。ありがとう」

恭介のヴァイオリンをもう一度聴きたいな――
さやかはそう思いました。

29: 2012/06/23(土) 23:36:40.27 ID:811PJHcj0
杏子「さやか、おいさやか」

杏子に肩を揺さぶられて、さやかは我に返りました。
水晶は真っ黒い炭の塊になっていて、最早何も見えません。

杏子「そろそろ戻ったほうがいいんじゃないか」

さやか「う、うん。もう時間だね。いこっか」

さやかが地図と腕時計とを比べながら云いました。
二人は汽車に遅れないように走りました。
そしてほんとうに、風のように走れたのです。息も切れず膝も熱くなりませんでした。



こんなにしてかけるのなら、もう世界中だってかけれると、杏子は思いました。


31: 2012/06/23(土) 23:48:10.49 ID:811PJHcj0
そして二人は、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、、窓から見ていました。

??「ここにかくれさせて!」

鈴のような、けれども元気な声とともに、小さな女の子が杏子の脇に潜り込んで来ました。

杏子「わっ、な、なんだおまえ」

さやか「いいじゃん。隠してあげなよ」

さやかは笑いながら云いました。

女児「ぜったいにばらしちゃだめなんだからね!」

女の子は杏子と窓際のあいだで身を小さくしました。

32: 2012/06/23(土) 23:53:41.00 ID:811PJHcj0
??「おーいモモー。どこへいったんだ」

しばらくすると、うしろの車から男性が歩いてきました。
すその長い礼服のような格好をしており、柔和な顔つきをしていましたが、いまはなにやら困ったような表情をしています。

男性「モモー。どこだー?」

さやかと女の子は目を合わせて、にししと笑いました。

杏子「あの」

男性が通り過ぎるときに、杏子は彼を呼び止めました。
びくりと隣の女の子が反応したのがわかります。さやかもこちらを見つめました。

杏子「この子が、モモちゃんじゃないですか」

34: 2012/06/24(日) 00:02:32.44 ID:u/abgVz80
父親「いやいやこれは失礼しました」

にこにこと笑いながら男性は二人に頭を下げました。
彼は二人とは反対側の腰掛に座っていて、その向い側には娘である女の子が座って足をぶらぶらさせています。
杏子はこの親子を見たことがある気がしていましたが、頭の奥のほうが朦朧としていて思い出すことができないでいました。

父親「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」

杏子「どこまでも行くんです」

杏子は、少しきまり悪そうに答えました。

父親「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行くからね」

自分にもわからない、こころを見透かされたような気持ちになって、杏子は胸がざわざわしました。

37: 2012/06/24(日) 00:12:34.62 ID:u/abgVz80
さやか「モモちゃんっていうんだ、いい名前だね!」

モモ「うん! モモはモモっていうんだよ」

さやかと女の子は笑顔で会話をしています。
それを優しく見守りながら、男性は杏子と話を続けました。

父親「私たちはね、降りるところが決まっている。
    妻とこの子と、ずっといなければならない場所がある」

そこにアタシはいられないのか。なぜか杏子はそう思いました。

父親「私が不甲斐ないせいでね。二人には辛い思いをさせてしまった。
    情けない話だが、この旅に二人を巻き込んだのは私なんだ。
    それしかなかったと言うこともできるんだが、今は少し、違う考えを持っている」

41: 2012/06/24(日) 00:22:58.58 ID:u/abgVz80
父親「私は親として失格だった。
    娘の行いを赦すことができず、ただ罵ることしかできなかった。それは逃げだったのだと、今はわかっている」

娘と呼ばれている子供が目の前のモモでないことを、杏子はなんとなく感じました。

父親「私は、ひとを、世間を、世界を救いたいと願いながら、実の娘の気持ちすらわかってやることができなかったのだ。
    結局娘を一人置いて、私たちは旅立った。きっと娘はこんな私のことを嫌っているだろう。憎んでいるだろう」

杏子「……そんなこと、ない」

杏子は目の奥が熱くなってしまって、さかんに瞬きしました。

杏子「娘さんはきっと、あんたのことを尊敬していた。
    置いていかれても、あんたのことがずっと頭にあったはずだ」

男性はすこし驚いたような顔をしましたが、すぐに笑みを浮かべました。

43: 2012/06/24(日) 00:31:57.18 ID:u/abgVz80
父親「ありがとう。君は優しい子だな。君は良い親御さんを持ったようだ」

杏子「はい、アタシは、……っ」

喉が詰まって、杏子は言葉を途切れさせました。
アタシは親父を尊敬してました。その助けになれるなら、魔女と戦うことだって怖くないと、そう思っていました。
強くて優しいそのひとと、表と裏から世界を救っていくんだって、そう決心していました。

父親「私は結局のところ口先だけの人間だが、それでも君に言葉を贈ろう。

    君が救いたいと思ったものを救いなさい。それが必ず、君をも救ってくれる」

厳粛な面持ちで男性が告げる。
杏子は言葉もなく、涙をためた瞳で彼を見つめた。
さやかはそんな彼女をじっと見ている。

45: 2012/06/24(日) 00:41:17.89 ID:u/abgVz80
男性は立ち上がりました。手をかけられて女の子もそれに従います。

父親「それじゃあ、よい旅を」

モモ「おねーちゃんたち、ばいばい!」

さやか「ばいばーいっ」

別れを告げて、親子が後ろの車へと帰っていきます。
その後姿を見て、杏子は頭の中の靄が晴れていくようでした。
杏子はがたりと床を蹴って親子を追いかけようとしました。

杏子「親父! モモ! 待ってくれ!」

モモが振り返り、手を振ってぴょんと跳ねたかと思うと、消えてしまいました。
男性も杏子のほうへ向き直り、慈しむように彼女を見つめます。

46: 2012/06/24(日) 00:49:02.72 ID:u/abgVz80
杏子「親父! 待って! ちゃんと云わせてくれ!」

杏子が走っても走っても、男性には追いつけませんでした。追いついてはいけないのです。
大きな音を立てて杏子は転びました。
それでも手を伸ばし、叫びます。

杏子「親父! アタシが悪かった、悪かったから赦して!」

男性がすうと消えていきます。
笑顔のまま、ひとことだけ杏子に投げかけました。

父親「おまえは私の自慢の娘だよ、杏子」

それを聞いてついに杏子の目から涙がこぼれます。
まるでいなかったかのように消えてしまった父親に向けて笑いかけて、杏子は泣きました。


杏子「―――ありがとう……!」

47: 2012/06/24(日) 00:56:52.29 ID:u/abgVz80
ごとごとごとごと、汽車は走り続けます。
杏子は硝子に映る、目を赤く腫らした自分の顔を見るともなしに見ていました。

さやか「杏子はさ……」

さやかが云いかけたとき、

車掌「切符を拝見いたします」

二人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつのまにかまっすぐに立っていて云いました。
車掌は、指を動かしながら、手を杏子たちのほうへ出しました。

杏子「さあ、」

杏子は困って、もじもじしていましたら、さやかは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出しました。

48: 2012/06/24(日) 01:08:28.57 ID:u/abgVz80
杏子は、すっかりあわててしまって、もしかパーカーのポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、
何かふわふわした棒にあたりました。
こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは未開封のうんまい棒でした。
車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って丁寧に向きを代えてそれを見ました。
そして包装に書かれた文字を読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしました。

車掌「これは三次空間のほうからお持ちになったのですか」

車掌がたずねました。

杏子「なんだかわかんね……わかりません」

もう大丈夫だと安心しながら杏子はそっちを見上げてくつくつ笑いました。

車掌「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります」

車掌はうんまい棒を杏子に渡して向うへ行きました。

50: 2012/06/24(日) 01:16:50.14 ID:u/abgVz80
汽車の外は林檎畑になっており、窓からその香りが存分に入ってきました。

さやか「ねえ杏子」

杏子「うん?」

さやかは窓の外を見たままです。
杏子はうんまい棒をくわえました。

さやか「杏子はさ、本当に大切なものってなんだと思う?」

杏子「………」

杏子はさくさくさくとうんまい棒を食べました。
さやかは果樹園を見ながら、もっと違うものを見ているようでした。

51: 2012/06/24(日) 01:29:08.44 ID:u/abgVz80
杏子「――ただひとつだけ、守りたいものを最後まで守り通す。アタシは、それが大切なことだと思う」

それでも、アタシの守りたいものってのはなんだったんだろう。
杏子は思いました。
そうか、そうだな。アタシはずっと、親父の願いを、思いを、守りたかったんだ――

さやか「うん……」

杏子「どうしたんだよ」

さやか「愛するひとのことを、本当に大切なことだって云ったひとがいたんだ。
     あたしは恭介を愛していると思ってた。でもそれってあたしのひとりよがりだったんだよ。
     こんなあたしのこと、恭介が好きになってくれるわけないよね」

杏子「………」

53: 2012/06/24(日) 01:38:58.07 ID:u/abgVz80
さやか「恭介の気持ちも考えずに、よかれと思って好意を押し付けて……、
     あたしって、ほんとバカ……!」

さやかは悲しそうに笑いました。
その目から涙がぽろぽろこぼれます。
杏子は胸を突かれて、とっさにさやかを抱きしめました。

杏子「さやか……!」

さやか「杏子ぉ……。あたしもう、正義の味方なんてできない……! ひとのために戦ったりできない!」

咽ぶさやかを杏子は抱きしめることしかできませんでした。

さやか「どうしたってあたしは恭介に好きになって欲しいって思っちゃう!
     自分のことばかり考えてる! 魔法少女のことなんて関係なかった、あたしはそれ以前にサイテーの人間だった……!」

55: 2012/06/24(日) 01:49:25.75 ID:u/abgVz80
杏子「違う!」

さやかの肩を掴んで、杏子は大きな声を出しました。

杏子「違う。サイテーなんかじゃない。だって、好きなやつに好きになって欲しいって思うなんて、当たり前のことだろ。
    さやかは胸張っていい、正義の味方なんだから!」

さやか「ぐすっ、ぅぇ、むりだよ、あたし、ひっく、あたしはもう、もう……!」

杏子「やり直そう、さやか。きっとやり直せる、いつだって、何度だって……!」

そう云いながら、杏子はもう一度強くさやかを抱きしめました。

57: 2012/06/24(日) 01:58:46.16 ID:u/abgVz80
杏子「……落ち着いたか?」

杏子は顔を赤く染めて、藪睨みのままそう訊きました。

さやか「うん。まったく杏子ったら強引なんだから! どきどきしちゃったよあたしってば」

杏子「な、ばかッ、なにいってんだ!」

さやか「あはははっ」

杏子「うぅぅ~~っ!」

さやかはひとしきり笑うと、ひとつ息を吐きました。

さやか「あたしも、守りたいものを守り通すよ。本当に大切なことを」

59: 2012/06/24(日) 02:06:12.76 ID:u/abgVz80
杏子「おう」

さやか「あたしは、あたしの気持ちに素直になる」

そう云い切るさやかの目に、もう迷いや悩みはありませんでした。
果樹園が途切れ、端の切り株にウェーブした緑髪の少女が腰掛けているのが見えました。
さやかは窓から身を乗り出して叫びます。

さやか「仁美ー! あたし、負けないからねー!」

びっくりしたように振り返った少女が、おしとやかな見かけによらず力強いガッツポーズをしたのが見えました。
その景色もすぐに流れていってしまいます。

さやか「あんたは親友だよ! たとえなにがあったってね!」

果樹園が見えなくなってからも、車室のなかにはほのかに林檎の香りがしていました。

61: 2012/06/24(日) 02:19:59.25 ID:u/abgVz80
それからしばらく、二人とも静かでした。
ごとごとごとごと、汽車が走る音だけがしていました。
外には真っ赤に燃える蠍の火が、世界を照らしています。

さやか「あの火はね、むなしく命をすてることなく、まことのみんなの幸いのために自分の身体をお使いください、
     って神様にお願いした蠍の火なんだって。
     そうやって闇を照らしているんだって」

杏子は父親の願いのことを思い出していました。

  ―――私は、ひとを、世間を、世界を救いたい

伏目がちに蠍の火を眺めるさやかに向き直って、杏子は深く息しました。

杏子「さやか。どこまでもどこまでも一緒に行こう。
    アタシはもうあの蠍みたいにほんとうにみんなの幸せのためだったら、アタシのからだなんか百ぺん灼いたってかまわねー」

62: 2012/06/24(日) 02:24:36.75 ID:u/abgVz80
さやか「うん。あたしだってそうだよ」

こちらを向いたさやかの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

杏子「けどさ、ほんとうの幸せってのはなんなんだろうな」

杏子が云いました。

さやか「あたしにはわからないよ」

さやかがぼんやり云いました。

杏子「アタシらはしっかりやろうな!」

杏子が胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。

64: 2012/06/24(日) 02:34:23.37 ID:u/abgVz80
さやか「あ、あっこって石炭袋じゃない? そらの孔だよ」

さやかが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
杏子はそっちを見てまるでぎくっとしていしまいました。
天の川のひととこに大きなまっくらな穴がどほんとあいているのです。
その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。
杏子は云いました。

杏子「アタシはもうあんな大きな闇の中だってこわくねー。
    きっとみんなのほんとうの幸せをさがしにいく。



    どこまでもどこまでも、アタシたち一緒に進んでいこう」




さやか「うん。きっと行くよ」

65: 2012/06/24(日) 02:42:49.09 ID:u/abgVz80
さやか「ああ、あっちの野原がすっごいキレイ! みんな集まってるね! あそこがほんとうの天国ってカンジなのかなぁ」

さやかは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
杏子もそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりでどうしてもさやかが云ったように思われませんでした。
何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらがちょうど両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。

杏子「さやか、アタシたち一緒に行こうな」

杏子が斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでさやかの座っていた席にもうさやかの形は見えずただ黒いビロウドばかりひかっていました。
杏子はまるで鉄砲玉のように立ちあがりました。
そして誰にも聞こえないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。


67: 2012/06/24(日) 02:53:57.66 ID:u/abgVz80
杏子は眼をひらきました。
目の前には人魚の魔女がいます。
杏子は傷だらけで魔力も残りわずかでした。

杏子「………」

黙ったまま、杏子は髪留めを解いて胸の前で構えました。
いくつもの巨大な槍がその姿を現します。

杏子「心配すんなよさやか。ひとりぼっちは、さみしいもんな」

杏子は、人魚の魔女の眼の奥に、さっきまでの車室でひとりビロウドの腰掛に座るさやかを見ました。
確かに見ました。

いったじゃねーか。
どこまでもどこまでも、一緒に進んでいこうって。

杏子「いいよ、一緒にいてやるよ。さやか―――」




おしまい

69: 2012/06/24(日) 02:57:14.00
おつ

70: 2012/06/24(日) 02:57:17.49 ID:u/abgVz80
ありがとでしたー

『銀河鉄道の夜』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

引用元: 杏子「銀河鉄道の夜」