6: 2010/10/23(土) 23:18:14.95
和「えOちなのはいけないと思います」




「そういうのは嫌いだって、言ったはずです」

そろそろと伸ばした私の手を払って、和ちゃんが吐き出した台詞。
眼鏡の奥から、鋭い視線が私の目を射抜き、その奥にいる私を探していた。

「ごめんなさい」

あっけらかんと私が言うと、和ちゃんは足を組み、読んでいた本を閉じて、顔を私の方へ向けた。

「21回」

冷たい声が私の耳を通って、脳髄を凍らせる。

「さわ子さんが、今まで私の顎に手をかけた回数です」

それだけ言うと、和ちゃんは目を伏せて、それから視線を本に落とした。
ぱらぱらと、しおりのある所を開いて、読書を再開する。

21回、顎に手をかけた。
つまりは、21回、私の脳髄は凍りつき、体は恐怖で震えたということだ。
21回、私は彼女の心の臓に、精神の写像に、ナイフを突き立てるようなことをしたということだ。
21回、私はこう繰り返したということだ。

10: 2010/10/23(土) 23:19:29.34
「……ごめんなさい」

耳小骨がすり切れるくらい、私の謝罪は和ちゃんの耳を通った。
その度に、和ちゃんは言うのだ。

「かまいませんよ、別に」

その度に、私は和ちゃんがしたように、和ちゃんの目を見つめようとする。
彼女の眼の中に、彼女を見つけようとするが、彼女は本から目を離さない。

アパートの一室で、私の住居で、私たちは触れることもなく、視線も触れることもなく、
ただ、同じ空気だけを共有している。


「身体的接触は必要ないはずです」

付き合い始めて三日くらい経った頃だろうか、和ちゃんは頬を染めて言った。
私はそれを微笑ましく思って、こう返した。

「そうね、私たちが好きになったのは、互いの若さでも、性別でもないものね。
 あなたが真面目で、私が不真面目で、それが私たちの恋だものね」

和ちゃんは眼を輝かせて、一瞬俯いて、すぐに顔を上げた。
凛々しい顔つきで、視線は真っ直ぐ私に向けて、手を後ろに組んで言った。

「私、頑張りますから」

11: 2010/10/23(土) 23:21:08.30
言葉だけが耳を通って、意味は空間に置き去りにした。
私の脳は、ただ空気の振動に反応した。

「ええ、期待してるわ」

和ちゃんは、はにかんだ。

「だから、さわ子先生も頑張ってください」




「私が真面目になればなるほど、相対的にさわ子さんは不真面目になるでしょう?」

本から目を離さずに和ちゃんは言った。
私の肺から出て、和ちゃんの肺に入った空気が、私の鼓膜を震わせる。

「そうしたら、私はもっとさわ子さんのことを好きになれるでしょう?」

私と彼女の視線は出会わない。彼女の声は、私の唇を震わせない。
和ちゃんは横目に私を見て、呟いた。

「だから、あなたも頑張って」

あの日、二人して見た安っぽい恋愛映画。
帰りに立ち寄った喫茶店に置き忘れた、彼女の言葉の意味は、風に乗ってやっと私の元へたどり着いた。
それをしっかりと掴んで、私は微笑んだ。

13: 2010/10/23(土) 23:23:08.31
和ちゃんの顎に手を伸ばす。

「22回」

和ちゃんは私の手を軽くはたいて、今までと同じ声で言った。
私は今までとは違って、おどけた調子で言った。

「何回言われても繰り返すなんて、不真面目でしょう?」

彼女は今までとは違って、足を組んだり、読書をしたりはせずに、柔らかそうな唇を私の耳に近づけた。
近づけるだけ。触れはしない。
柔らかそうな唇。私が触れたことのない唇。

「23回」

そっと、小さな声が、鼓膜も耳小骨も全部すっ飛ばして、直接脳髄を溶かした。
柔らかそうな唇。私がずっと触れようとしてきた唇。

「さわ子さんが、不真面目なことをした回数。私が、さわ子さんを好きになった回数」

柔らかそうな唇。きっと、これからも触れることはない唇。
固そうな心。多分、今までもずっと触れていた心。

視線は出会わず、体は触れず、共有するのは空気だけ。
そんな空間の中で、確かに私たちは結びついていた。

14: 2010/10/23(土) 23:24:40.45
さわ子「ごめんね」







「先生、今日、先生の家に泊まってもいいですか?」

放課後の教室。夕陽が差し込む。
教室には二人だけ。私と、彼女。
私は自分の机に腰掛けて、彼女は教卓に腰掛ける。

「和ちゃん、机に座るのは行儀が悪いわよ」

また、はぐらかす。
怒鳴りつけたいのを我慢して、私は搾り出すように言った。

「先生こそ」

彼女は私の眼を真っ直ぐに見て、眉を下げて笑った。
震えた声が空気を震わせる。

「和ちゃん、ごめん」

また、謝った。先生、なんで謝るんですか。
初めて私の口を塞いだ時も、それから毎日、私と二人きりになったときも、
どうしてあなたは謝り続けるんですか。

15: 2010/10/23(土) 23:26:35.16
怒りは、情欲も恋慕も全て飲み込んで私の胸の内で暴れる。
心臓の動きを乱して、近くの肺を震わせて、外に出たいと訴え続ける。
ぎゅっと胸を掴んで、私は努めて明るく言った。
さっきも言った言葉。

「先生、今日、泊まっても?」

彼女は目を伏せて、長い艶やかな茶髪を軽く撫で付けて、笑った。

「うん……いらっしゃい」

軽い音を立てて、彼女は教卓から降りた。
一度も振り返らずに、教室を出る。

「ちょっと待ってて……車の準備してくるから。親御さんには自分で連絡入れてね」

長い廊下を歩いていく。私はそれを、窓から乗り出してじっと見つめ続ける。
彼女が階段に向かい、私の視界から消えた。
彼女は最後まで振り返らなかった。私はさっきより強く胸をつかんだ。


「ん……シートベルト締めてね。イヤだから、捕まるの」

あまり柔らかくないシートに座って、彼女を見つめる。
彼女は私を見ずに、前だけ見つめて車を発進させた。

「ねえ、先生」

16: 2010/10/23(土) 23:28:28.36
私が呟いても、彼女は返事をしない。
話題を振っても、曖昧な返事ばかり。
だから私は、信号が赤になったとき、彼女の手に自分の手を重ねた。

「和ちゃん、危ないよ」

そう言って、彼女はもう片方の手で、私の手を優しく払った。
私は嬉しくなった。彼女は泣きそうな顔をしていた。


「いらっしゃい」

アパートの、彼女の部屋を開けて、彼女は振り返らずに入っていった。
いらっしゃい、の言葉は、さわ子先生から壁へ、壁から私へ届けられた。

「お邪魔します」

私は彼女の後ろ姿に向かって返した。
彼女は立ち止まって、それでもやはり振り返らずに、掠れた声で言った。

「和ちゃん、ごめんね」

私はドアを閉じて、口を開けた。

「……どうして」

17: 2010/10/23(土) 23:30:18.49
「……どうして」

茶色い短髪のその娘は、震えた声で言った。
怒りなのか、恐れなのか、私は彼女じゃないから分からない。

「どうしてあなたは謝るんですか」

あなたから奪っているものがあるから。
あなたの眼が、いつも真っ直ぐに私に向かってくる視線が、怖いから。
けれども私が口にしたのは、幾度も繰り返された短い言葉。

「ごめんね」

胸に手を当てて、指でとんとんとリズムを取って、彼女は続けた。
彼女がこの後どうなるか、私は知っている。
どんな顔をするのか、私は知っている。

「どうして今も振り返ってくれないの?」

振り返っても、過去が見えないから。
貴方から奪おうとした若さは、根拠のない自信は、進み続ける活力は、私のものになってくれないから。
私の内にある、重ねただけの時間が、先の見えない恐怖が、歩みを止める諦観が、確実にあなたを蝕んでいるから。
前にも後ろにも、私が捨てようとしたものがあるなら、せめて前を見ていたいから。
言いたいことを全部込めて、私は短く呟いた。

「ごめんね、和ちゃん」

18: 2010/10/23(土) 23:32:56.33
和ちゃんは、きっと今、胸を強く掴んで、何かと戦っている。
多分、それは、私が彼女に植えつけたもの。

「ごめん、だけじゃ、なにも分かりません」

小刻みに震えた、ところどころしゃくりあげる声が、私の脳髄を麻痺させる。
もう少し、もう少し踏み込めば、手に入るんじゃないか。
失って久しい、けれどもかつては確実に持っていた何かを、
泣き虫で真面目な彼女を、短髪で色気のない彼女を、
隅から隅まで捜し回って、橋から橋まで壊し尽くして、
最後に残る何かが、きっとそれが私の求めている何かなんじゃないか。

「おいで、和ちゃん」

私は両腕を広げて、彼女に振り返った。
彼女は涙で濡れた顔を輝かせた。
そのまま私の胸に飛び込んでくる。

「さわ子さん」

一度だけ、和ちゃんは呟いた。

一晩中、唇を重ねて体を重ねて、壊して探して見つけたものは、
抱き合う彼女と私だけだった。
微笑む彼女と目を伏せて俯く私だけだった。

だから私は、今日も呟いた。

「ごめんね」

19: 2010/10/23(土) 23:34:59.25


さわ子「和ちゃんの罪と罰」


「和ちゃん、今度私達、文化祭でライブやるんだ。聞きに来てね」

高校に上がって、数ヶ月が立った頃、ある日の放課後、私の幼馴染が嬉々として私に報告した。
いつも私や、彼女の妹に頼りっきりで、一人では何も出来なかった幼馴染の成長を、私は喜ぶべきはずだった。

「そっか、観に行くね。頑張って」

私は搾り出すように、やっとのことで言った。
胸の中で、何かがのたうち回るような感じがした。
幼馴染は屈託の無い笑顔を見せて、小走りで教室から出て行った。
いつも私の指定席だった、彼女の傍には、今は彼女のギターと、部活の友人がいた。
胸を抑えて、私は生徒会室へ向かった。


生徒会の雑務を済ませて、私はそそくさと帰りの準備を始めた。
もしかしたら、今なら幼馴染と一緒に帰ることができるかもしれない。

「あら、真鍋さん、帰るの?」

少し釣り上がり気味の目をした先輩が、大人びた笑顔で私に声をかけた。
学生というものは、学年が一つ違えば、まるで十歳も年上に見えるもので、
少なからず私はこの先輩に畏敬の念を抱いていた。

「はい、もうしわけありませんが、お先に帰らせていただきます」

20: 2010/10/23(土) 23:36:45.45
私のかしこまった言い方がおかしかったのか、先輩はくすりと笑った。

「そう、お疲れ様。真鍋さんは随分と丁寧な言葉づかいをするのね、立派よ」

私も、先輩と同じように小さく笑って、生徒会室を後にした。
夕陽が差し込む長い廊下を歩いていると、前から、長い茶色がかった髪をした、長身の、端正な顔立ちの女性が歩いてきた。
その人は、私の姿を認めると、先輩と同じように優しく笑って、私に尋ねた。

「生徒会の子かしら」

私が、またかしこまって、そうです、と澄まして答えると、その女性は、先程とは打って変わって、
子供っぽく微笑み、明るく言った。

「肩の力抜いて。せっかく可愛いんだから」

それから、彼女に、ねっ? と同意を求められると、私は気恥ずかしくなって黙りこんでしまった。
それを見て、また彼女は優しく目を細めて、私の頭を軽く撫でた。

「お仕事、お疲れ様」

ふふっ、と笑って私から遠ざかっていくその女性の後ろ姿を暫く見つめて、私は首を横に振った。
自分がどうしようもなく子供に思えて、何だか悔しかった。

下駄箱から外へ出ると、グラウンドは夕陽で真っ赤に染まっていた。
いわゆる、青春の汗というものを流しながら走りまわる女の子たちには目もくれず、
別棟の音楽室を見ると、人影が動いているのが見えた。
どうやら、あまりに早く切り上げすぎたらしい。
今更生徒会室へ戻るのもみっともないので、私はひとりでとぼとぼと、赤く染まった帰路を歩いた。

21: 2010/10/23(土) 23:38:36.15
先輩と、先程の長身の女性を思い出して、彼女たちと道行く人を比べると、皆が幼く見えた。
ベンチに座って携帯をいじるあの男性は、振る舞いが幼稚だ。
あそこで下品な声で笑っている女性は、表情と、精神が幼稚だ。
そうして、私は今日も、自分の学校と、生徒会と、またそれに属する自分への自信を強め、家に着いた。

家についてからは、なんということもない、ただ、明日の学校の準備をするだけ。
提出物を仕上げて、予習と復習をし、そして遅刻など決してしないように早めに寝る。
ルーチンワークの中で変化するのは、献立と、寝る前に読む本と、その夜見る夢くらいなものだった。
私は早々と眠りに落ちた。


嫌な夢を見た。

「今日は部活があるんだ」

幼馴染の唯が、幼馴染で無くなる夢。

「ごめんね、部活があるんだ」

私の手を払って、五線譜のバリケードで区切られた世界へ駆けてゆく夢、
その夢のなかで、彼女は私に言うのだ。

「今日も、明日も部活があるの。
 明後日も、明明後日も、和ちゃんのために使える時間なんて無いよ」


23: 2010/10/23(土) 23:41:07.99
日々の習慣からか、休日にも関わらず、早くに目を覚ました。
今日も唯は部活があって、私には時間を割けないらしい。
自嘲気味に笑って、かと言って家に篭もりっきりというのも体に悪いだろうと思い、結局当てもなく街をうろつくことにした。

午前7時。
朝の空気は澄んでいて、誰もいない通りは、根拠のない全能感を私に与えた、
早朝に営業しているのはコンビニくらいなもので、とは言え何かを買うつもりもないので、私はただ街を歩き続けた。
しばらく歩いていると、何故か息苦しくなってきた。
自分が周りに溶け出すような、いいようのない喪失感と、それに対する嫌悪感を感じて、周りを見渡すと、
いつの間にか通りには人が現れていた。

「ああ、ぼうっとしすぎてた」

一人で呟くと、かろうじて、溶け出す自分を固定することが出来た。
胸を抑えて、早足で、なるべく人通りの少ない場所を探して歩き続けていると、突然、肩を掴まれた。

「ごめんなさい、人違いだったら悪いんだけど……名前、分からないわ。ごめんね」

言葉とは裏腹に、悪びれもせずにその女性は言った。
先日、学校の廊下で出会った女性、音楽教師の山中さわ子先生だった。

「真鍋和です。まなべ、のどか」

先生に、そして自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、一言ずつ区切っていった。
先生は、また声を出さずに笑った。

「そう、和ちゃんね、昨日会った。顔色が悪いようだけれど、どうかしたのかしら」

24: 2010/10/23(土) 23:42:31.03
私は呼吸を整えて、平静を装いながら言った。

「いいえ。先生こそ、こんな時間に街で何をしているんです?」

私の言葉を聞くと、先生はきょとんとして、それから困ったように笑った。

「あのね、和ちゃん、今、午前十時よ。こんな時間って言うような時間じゃないと思うわ」

どうやら、私は三時間ほど歩きっぱなしだったらしい。
さっき息苦しく感じたのは、きっとそのせいだろう。
そう頭の中で繰り返して、私は胸から手を離した。
顔を上げると、先生は人差し指を口に当て、微笑んで私を見つめていた。

「ねえ、和ちゃん、一緒におでかけしましょうか」

正直言えば、私は直ぐにも先生の手を掴んで、そして離さないように、縄で縛りたいくらいだったが、
私は体を意志で固めて、直立したまま言った。

「先生は、何か用事があったのではないのですか」

遅ればせながら、よく見てみると、先生はスーツに身を包み、いかにも仕事中といった雰囲気だった。
私の問に対して、先生はにこりと笑った。

「ただのルーチンワークよ。繰り返し聞いた音楽よりは、新しい音楽を聞いてみたいの、私は」

そう言って先生は、私の手を引いて、規模を増そうとする人ごみの中を歩いていった。

25: 2010/10/23(土) 23:44:40.15
先生が私を連れてきたのは、街の外れにある、寂しい雰囲気の喫茶店だった。
本を読む大学生と、新聞を広げる中年だけしかいないような、クラシックな店だった。
先生はコーヒーを、私は紅茶を頼んで、向い合って座った。
先生の綺麗な目が私の視線を受け止めて、私の幼い眼球は先生の視線に耐えきれず、しきりにまばたきを繰り返した。

「和ちゃんは、さっきは何をしていたのかしら」

コーヒーに入れた砂糖をかき混ぜながら、先生が私に尋ねた。

「なにも、ただうろついていただけです」

「へえ、人ごみの中が好きなタイプなの?」

「逆です。誰もいない街が好きなんです」

かき混ぜるのをやめて、コーヒーを少し啜ってから、先生は続けた。
私も、飲める程度にまで冷めた紅茶を、ゆっくりと口に入れた。

「でも、もう十時よ?」

「家を出たときは七時だったんですけどね」

先生は、今までとは違って、口を大きく開けて、明るい声で、快活に笑った。
歌のように綺麗な笑い声の間に、先生の言葉が混ざった。

「和ちゃん、変なの」

そのとき、何を思ったのかはっきりとはしないが、ともかく、
紅茶とコーヒーから立ち上る白い湯気の間に、白い先生の肌を見て、
そして、先生の子供のような笑い方を目にして、私は母親のように微笑んだ。

26: 2010/10/23(土) 23:46:36.53
「先生も」

時間の流れが狂ったような、立場が逆転した空間で、私たちはしばらく談笑した。
先生が愚痴をこぼし、私がそれを頷きながら聞いた。
店を出たのは、およそ二時間ほど後だった。

「そういえば、」

喫茶店の前で、私は、背伸びをするさわ子先生に訊いた。

「先生は、確か軽音楽部の顧問だったの思うのですが」

「そうよ、ものしりね」

くつくつと笑って先生は私を見つめた。
何故か、探るような視線に感じられた。

「練習で忙しいと聞いたのですが、こんなところで油を売っていても構わないのですか?」

真っ直ぐに先生の目を見て、私が言うと、先生はまた、快活な笑い声を上げた。

「あはっ、あんなもの、半分はお茶のんで駄弁ってるだけよ。別に私がいなくても構いやしないわ」

それからすぐに、心配そうに声を落とし、私の顔を覗き込みながら言った。

「……どうしたの、和ちゃん、大丈夫?」

「ええ、なんでもありません」

私は胸を強く抑えて、掠れた声で言った。

27: 2010/10/23(土) 23:48:41.22


嘘つき幼馴染。私のために、お喋りとお茶に費やす時間を割いてくれない幼馴染。
綺麗な先生。私と、お喋りとお茶を楽しんでくれた綺麗な先生。


「あら、和ちゃん、おはよう」

あれから、先生は頻繁に私に声をかけてくれるようになった。
よく気をつけて彼女の表情を見ると、時折、子どもっぽい、いたずら好きな彼女が顔を覗かせた。
私は、何故だかそれが好きだった。

「おはようございます、先生」

私が返すと、彼女は、時には大人びた、子供を見守るような表情で笑うのだった。
そして、そんなとき、私は、虚勢を張る子供のように凛とした表情で彼女を見つめるのだった。
また時には、新しい玩具を見つけた子供のような顔で笑うのだった。
そんな彼女に、私は十年来の親友のような気持ちで微笑むのだった。


「最近さ、なんか仲いいよね、和ちゃんとさわちゃん」

文化祭の数日前、昼休みに、頬杖を突いて、じとっと私を睨みながら幼馴染が言った。
私が答える前に、彼女は席を立った。

「私、軽音部のみんなと御飯食べる約束してたんだ」

28: 2010/10/23(土) 23:50:44.47
そう言って、ぱたぱたと彼女は教室から出て行った。
彼女がいなくなると、私は教室の中で、ただの生徒になってしまう。
真鍋和ではない、桜が丘高校の一年生になってしまう。
私は胸に軽く手を添えて、鞄から出しかけた弁当を鞄に押し込み、教室を出た。

ふらふらとどこを歩いても、学校の中には鬱陶しいほどに人が、音が、唾液臭い匂いが溢れていた。
教室にいるときには気にならなかったのに、時間が経つごとに、その雑多な、下品な空気に、
身体の境界線が侵されていくような気がして、私は気づけば小走りになっていた。

階段を降りて、廊下を駆け抜けて、階段を登って……
周りに人はいなかった。私は、痣になりそうなほど強く掴んでいた胸を離して、深く息を付いた。
しばらく、階段の踊り場で、手すりに寄りかかって天井を見つめていると、あら、と声をかけられた。

「和ちゃんじゃないの。こんなところで何をしてるの?」

さわ子先生だった。長い髪を上下に揺らして、ゆっくりと階段を登ってきた。
こんなところ、と彼女が言ったのは、どうやら、音楽室の前のようだった。
私は彼女の目が、いたずっぽく光っているのに気づいて、彼女の気分を害さないように、なるだけ明るく言った。

「この学校にも、無人の音楽室でピアノを弾く幽霊はいるのかな、と思いまして」

私の言葉を聞いて、私の顔を見て、彼女は眉尻を下げた。

「うそつき」

そう言って、私の手を引いて音楽室へと入っていった。

29: 2010/10/23(土) 23:52:13.51
音楽室は無人だった。
群衆と喧騒の代わりに、空気と静寂が私を囲んだ。
唾液の匂いが私の鼻を刺す代わりに、古い木の匂いが深く肺まで入ってきた。

「落ち着いた?」

音楽室に何故だか置いてある茶器を並べて、さわ子先生は私に座るよう促した。
さわ子先生と向い合って座ると、彼女の後ろに楽器が並べられているのが見えた。
軽音楽部のものだ、と先生は言った。

「音楽教師としては、もうちょっとメンテナンスに気を遣って欲しいのだけれど……
 その話は今はいいわ。和ちゃん、大丈夫なの」

へらっと笑って、私は言った。

「はい、何でもないですよ」

「うそつき」

先生は、さっきと同じ言葉を繰り返した。
彼女は今までにないくらい、真剣に私を見つめていた。

「和ちゃんはそんな笑い方しないもの」

「先生が、知らないだけかもしれませんよ」

すると、先生は、悲しそうに笑って、小さく言った。

「そんな悲しいこと言わないでよ」

30: 2010/10/23(土) 23:53:59.70
一瞬後には、先生は、いつものような子供とも大人ともつかない笑顔を作って、私の立ち位置をかき乱した。
彼女の前では、私は、大人びた保護者的な立場にも、甘やかされる子供の立場にもなれない。
先生はどこからか、たくさんの衣装を持ってきて、笑いながら言った。

「これ、メイドさん。和ちゃん着てみてよ」

私は先生のなすがまま、着せかえ人形のように様々な衣装を着た。
薄手の服もあり、体調を崩しはしないか心配だったが、先生の顔がころころ変わるので、
私は彼女の顔ばかり見つめていた。

音楽室から教室へ戻った時には、匂いも音も人も、全く気にならなかった。
周りの人は、私とは違う、小さな子供のように感じられた。
席に着くと、いつの間にか教室に戻ってきていた幼馴染が言った。

「和ちゃん、どこ行ってたの」

私は、ちらとだけ彼女に目をやって、小さく笑って答えた。

「秘密よ」

彼女は目を見張り、子供のように頬を膨らませて顔を背けた。
ごめんね、と言いながら私が頭をなでると、彼女はようやく機嫌を直してくれた。

「あのね、もう演奏は殆ど完璧なんだ」

彼女はおもむろに部活の話を始めた。
私はそれを、微笑みながら聞いていた。

「あとはね、りっちゃんのドラムが走り気味なのを直して……りっちゃんは周りを気にしなさすぎなんだよね、
 私が法だ、みたいな感じで……」

31: 2010/10/23(土) 23:55:40.73


天才は、法だ。
非凡人は、凡人の作った法を乗り越えても構わない。
なぜなら、彼が新たな法を打ち立てるから、すなわち、彼が法だから。

「っていう、話があるのだけれど……」

私は目の前の長い黒髪の女の子に向かって言った。
私が顧問をしている軽音楽部のベースの娘で、作詞も手がけている。名前は秋山澪と言う。
どうやら、他の部員たちに歌詞が甘すぎると言われたのが気になるらしく、
社会的提言を暗示するような歌詞を……と、私に相談を持ちかけてきた。

「へえ、それは、何かの小説ですか?」

放課後の音楽室には、私とこの娘しか、まだいない。
傾きかけた陽が照らす彼女の顔は綺麗だったが、どことなく幼く感じられた。

「ドストエフスキーの、罪と罰、ね。本、もっと読んでみると良いわよ。
 作詞の世界観が深まるから」

黒髪を小刻みに揺らして、澪ちゃんは笑った。

「凄い、なんか、音楽の先生みたいですね」

私は苦笑した。

「音楽の先生よ、私は」


33: 2010/10/23(土) 23:57:27.05
そうでした、と笑って、澪ちゃんは扉に目をやった。
先程からそわそわしているのが見て取れた。

「来ませんね、みんな。文化祭まで何日もないっていうのに」

それから、深く息を吐いて、私に尋ねた。

「先生は、どう思いますか、私たちの演奏。正直、まだ人前で出来るレベルではないと思うんですけど」

やけに謙虚な彼女の姿勢に、私は笑った。

「あのね、さっきの小説で、主人公は自分の信念……あるいは、論理に従ってね、人を頃すのよ」

ひっ、と小さく声を上げて、澪ちゃんは耳を覆った。

「そ、そんな小説、私は読みませんからね」

「まあ、最後まで聞いて欲しいわ。結局彼はね、自首するのよ。
 監獄の中で、彼は独白するの」

結局、おれはひとふんばりが出来なかったのだ。

「どういう意味でしょう」

耳を抑えていた手を離して、彼女は上目遣いに私を見ながら、尋ねた。

「彼はね、耐えられなかったの。法を否定して、新たに法を打ち立てるには、天性の力がいるって考えてたの。
 けれど、自分にはそれがない……ってことじゃないかな」

感心したように声を上げて、それから眉をひそめて澪ちゃんは返した。

34: 2010/10/23(土) 23:59:33.78

「それが、なんの関係が?」

「うん、だからね、あなた達はまだ若いから、きっと何とかなるよってこと」

拍子抜けしたように、澪ちゃんは苦笑した。
飛躍しすぎた論理を補完しようとすると音楽室の扉が開き、続々と部員が入ってきた。

「どうも、放課後ティータイムです。リーダーは私、ドラムスの田井中です!」

カチューシャを着けた短髪の女の子が、入ってくるなり大きな声を上げた。
続いて、癖毛の茶髪の女の子が、

「アイスマイスターは私、ギターの平沢です」

と言い、最後に金色の長髪の女の子が柔らかく言った。

「微笑係、キーボードの、ムギこと琴吹紬です」

澪ちゃんはだんまりを決め込んだ。
すると、三人に続いて入ってきた、短髪の、眼鏡をかけた女の子が投げやりに言った。

「眼鏡要員、生徒会の真鍋です」

私の新しい友達、玩具、着せ替え人形の、和ちゃんだった。
ムギちゃんが和ちゃんを席に座るように促し、いつものように紅茶の準備をし始めた。
和ちゃんはきょとんとして、遠慮がちに言った。

「あの、練習は?」

35: 2010/10/24(日) 00:00:29.51

唯ちゃんも、りっちゃんも、悪びれる様子もなく、あっけらかんと言った。

「いつもこんな感じだよお」

「だよな。まずはお茶しないとな」

それから和ちゃんは何も言わなかった。
しばらくして、紙切れをりっちゃんに渡して、

「これ、講堂使用許可届け。早く出してね、もう随分遅れてるんだから」

とだけ言って、ふらふらと音楽室から出て行った。彼女は胸を抑えていた。
軽音楽部のみんなは、茶を飲み終わった後、しばらく練習して、帰路についた。

次の日、和ちゃんは学校へ休んだ。



36: 2010/10/24(日) 00:02:49.42


37.1度というのは、正直、学校へ行こうがまったく構わない程度の微熱だ。
けれど、私は学校を休んだ。しかも、布団に入って暖まるでもなく、机に向かって黙々と勉強をしている。
全く、我ながら訳の分からないことだ。
どれだけ時間がたったか分からないが、ただコツコツとシャープペンが下敷きにぶつかる音だけを聞いていると、
その音を、車のエンジン音が遮った。
インターホンの音が鳴った。しばらくしても返事がないことを考えると、親はどこかへ出かけているらしい。
私は、すこしおぼつかない足取りで、玄関へと向かった。
やけに心臓の鼓動が大きく聞こえた。
ゆっくりと、扉を開けた。

「やっほ、和ちゃん」

その幼い喋り方と、茶色がかった髪から、私は幼馴染が来たかと思った。
嬉しくて、心の臓が体全体を震わせるかと思った。
流れていく血の、全ての赤血球が歌い出し、白血球もこの時ばかりは外敵と手をとりあって歌い……

「ちょっと、なんだかぼうっとしてるけど、大丈夫?」

けれど、全ては私の妄想だった。
私の目の前に立っているのは、長髪の、眼鏡をかけた、さわ子先生だった。

「……はい。微熱、ですから。それより、先生は何故私の家に?」

失礼だが、私はこのとき、非常に失望した。
体中の熱が、外へ逃げていくような気がした。

「ええっと、唯ちゃんがね、和ちゃんが風邪ひいたっていうから、アレかなと、私のせいかなと」

37: 2010/10/24(日) 00:05:38.76

私はさわ子先生に背を向けて、家の中へ入るよう、どうぞ、と促した。
お邪魔します、と先生は言って、丁寧に靴を揃えて家へ上がった。
居間へと先生を案内して、私は訊いた。

「唯たちは、今は何をしているんでしょうか」

ちらちらと辺りを見ながら先生は笑った。

「練習してるわよ、一生懸命ね。流石に、もうすぐ文化祭だからねえ」

私も、けらけらと笑った。狂ったように笑った。
落ち着いた後で、私は目を丸くしている先生に尋ねた。

「先生、私は唯の幼馴染で、今私は風邪をひいています。ねえ、先生は私のことが心配でしょう?
 それなのに、唯は……どうして、でしょうね」

先生は、今までとは打って変わって、真剣な顔で、慎重に言葉を選びながら言った。

「ええ、私は、ね。昨日の着せ替えごっこのせいで和ちゃんが風邪を引いた、ってのもあるからね。
 でも、もう高校生だもの。普通は、友達が風邪を引いたくらいじゃそんなに驚かないわよ」

そう、でも、私は、私はきっと……
私が頭の中で混ざり合った感情を、掬って言葉にする前に、先生はにこりと笑って、言った。

「でもね、きっと来るわよ、唯ちゃんは。なんたって、仲良し幼馴染だものね。
 部活の時も、よく和ちゃんの話をしてるわよ」

脳内の感情は、いつもと同じように胸の奥に沈み、私はそれが漏れ出ないように、胸を強く抑えた。
私は、頬に力を入れて、唇を釣り上げ、無理に笑って言った。

38: 2010/10/24(日) 00:07:40.04

「じゃあ、先生、それまでここで待っていてくれますか。その、"きっと"の時まで」

先生は、自然に微笑んで、言った。

「喜んで」

結局、"きっと"の時は来なかった。
私は先生の隣に座って、彼女の手を握った。
彼女は、

「きっと来るわよ、きっとね」

と繰り返してくれたが、もう、私にとってはそんなことはどうでも良かった。
彼女の手を握って、彼女が、五線譜の中へ、私の理解出来ない言語域へ、行ってしまうのを、
彼女がおたまじゃくしの様に、音の海の中へ泳いでいってしまうのを、防ごうとした。

「先生は、音楽の教師ですか、それとも、私の、学校の教師ですか」

そう言うと、先生は、目を伏せて、言った。

「和ちゃんの友達、じゃあ駄目かな?」

それでいいや、と呟いて、私は目を閉じた。
次に目を開けたのは、ベッドの中で、明くる日の早朝だった。

39: 2010/10/24(日) 00:09:28.65

私は、今日は学校へ行くことにした。
道中、幼馴染には会わなかった。

教室は相変わらず唾液臭かった。空気中に充満する、内容のない会話が私を苛立たせた。
私には、楔が必要だった。この、くだらない時間と空間から、私を切り離すための楔が。

「おはよ、和ちゃん。聞いてよ、昨日りっちゃんがね……」

私には楔が必要だった。この、十年来の幼馴染以外の楔が。
この楔は、もう、ギターの弦にからまって、抜けてしまったのだ。

「そう」

私は気のない返事を繰り返した。
先生が保証してくれた"きっと"の時は、きっと、これから先もずっと来ない。

今日の授業が終わった。
教材を鞄に詰め込んで、教室から出ようとすると、幼馴染が私に声をかけた。

「和ちゃん、今日、音楽室来ない? お茶とお菓子があるよ」

私は彼女の方を向かずに、遠慮しておくわ、と答えて、生徒会室へ向かった。
後ろで、幼馴染が不満そうな声を上げているのが聞こえた。


40: 2010/10/24(日) 00:11:22.24

生徒会室には、既に、あの目のつり上がった先輩がいた。
先輩は私を見ると、驚いたように口に手を当てて言った。

「真鍋さん、掃除はしたの? 私は今週は休みだけれど」

私が、あっ、と声を上げると、先輩は眉尻を下げて言った。

「サボっちゃ駄目よ。生徒会として示しが付かないでしょう」

それから、にっこりと笑って、仕事に戻った。

「まあ、いいわ。それより、体調は大丈夫なの?」

ええ、と答えたあとで、そういえば、唯はこんな台詞を、今日言わなかったなと思った。
けれど、もう、どうでも良かった。私は先輩を、値踏みするように見つめた。

「あら、なあに、顔に何か付いているのかしら」

先輩は私の視線に気づくと、ぺたぺたと手で顔を触った。私が笑うと、拗ねたような顔をした。

「だって、人に顔を見つめられると、なにかあるのかと思うじゃない」

とても優しく、見守るような表情で見つめられて、私は口をつぐんだ。
日頃から尊敬するこの先輩を、ふと、違うと思った。大人すぎる。

「さあ、ちゃっちゃと仕事を終わらせちゃいましょう。
 文化祭の見回りのシフトに、講堂の設備、やることはいくらでもあるんだから……」

先輩の声は、生徒会室の壁に、窓に、扉に、空気に溶けこんで、もう掬い出すことは出来なかった。

42: 2010/10/24(日) 00:13:38.20

生徒会の仕事も終わった。
つまり、私の一日はもう終わったことになる。
けれども、私の輪郭はまだ書かれていない。楔はまだ見つかっていないのだ。
このまま街を歩いたら、私は、人ごみと融け合ってしまう。

そして、私は私でない何かになる、というより、何かの一部になる。
蛇に飲み込まれるような、胃酸に溶かされるような光景を思い浮かべて、私は身震いした。

「ああ、そうだ、真鍋さん。これ」

そう言って、先輩は腕章を差し出した。
生徒会、と書いてある。私はそれを鞄に入れて、先輩を見た。

「文化祭の見回りのときに着けるのよ。なくさないでね」

頷いて、私は生徒会室を後にした。


通りは、臭いこそないものの、やはり私の神経を逆撫でした。
例えば、もし、私のことを知らない誰かが、今私を見たら、
私の隣にいる下品な金髪の女性と私を、ただ同時刻の同じ空間、同じ人ごみの中にいるというだけの理由で、
いっしょくたにしてしまうのではないか……

私は途端に胸がむかむかしてきたから、そこを強く抑えた。
鞄の中を探って、先程もらった腕章を取り出して、見つめた。

「流石に、これを着けるのはねえ……」


43: 2010/10/24(日) 00:15:40.32

そう呟いて苦笑するが、これを持っていれば、ひとまず、人ごみに溶けてしまうようなことはないだろう。
右手にしっかりと腕章を掴んで、私は早足に歩道を歩いた。
すると、後ろから能天気な声が聞こえた。

「あっ、和ちゃんだ」

さわ子先生かと思ったが、違った。幼馴染の唯だった。
その後ろには、軽音楽部の部員3人が続いていた。私はちょっと見ただけで、視線を腕章に落とした。

「唯たちも、今から帰りなのね」

「そうだよ、和ちゃんも一緒に帰ろうよ」

「ごめんね、今から本屋に行くの」

自分でも自覚する前に、私は、笑って嘘をついた。


自分でも、さっき何故嘘を付いたのか、分からなかった。
けれど、しばらく考えると、すぐに答えは出た。
ため息を付いて、自嘲気味に笑った。

「ごめんね、唯」

ベッドに仰向けになって、呟いた。
私の声は、部屋の空気に溶け込まず、いつものように、私の胸の奥に潜っていった。
それを掻き出そうと、胸に手を当てたが、いつも蓋にしかなっていない私の手は、
突然機能を変えることなど出来ず、虚しく、ただ寝間着だけを掴んだ。

44: 2010/10/24(日) 00:18:27.16

嫌な夢を見た。

「ごめんね」

幼馴染の唯が、幼馴染で無くなる夢。

「ごめんね、貴方じゃもう駄目なの」

彼女の視線を避けて、知識と論理の塔の高みへ、虚構の誇りの階段を登っていく夢。
その夢のなかで、私は彼女に言うのだ。

「今日も明日も、私は進むの。あなたに頼らなくてもいいように。
 明後日も、明明後日も、あなたは私のことなんて思い出さないだろうから、だから、私も……」


目を覚まして、いつも通りの天井を見た。
今日も続くかと思われた繰り返しの日々に、円循環の輪に、いつもと違うものが割り込んだ。
ちかちかと光る携帯電話が、私に、一歩進め、と、ただ重ねただけの年月に、
実は仲が良いわけでもなかった幼馴染にいつまでも頼るな、と非難がましく私を呼ぶ。

『やっほー、山中さわ子です。唯ちゃんにアドレスを聞きました。
 又聞きは悪いかとも思ったけど、友達としてよろしくね』

受信時間は、昨日の深夜。
私は携帯電話を握りしめて、部屋の中、一人で呟いた。

「……よろしくお願いします」


45: 2010/10/24(日) 00:19:55.14

「和ちゃん、今日、お菓子食べに来ない?」

昼休み、幼馴染が私に言った。

「ごめんね、私も忙しいの」

弁当箱を鞄から出しもせずに、私は教室から出て行った。


教室から随分と離れた音楽室へ、階段を降りて、一人で向かう。
携帯電話を強く握りしめて、何度も時間を確認した。
亀の置物に手を触れて、階段を登り、音楽室の扉を開けた。
彼女がいた。

「あら、和ちゃん。急に音楽室に呼び出したりして、どうしたのよ」

さわ子先生が、茶器に熱湯を淹れながら私に言った。
長い髪が、開いた窓から入ってくる空気に揺れている。

「いえ、今朝のメールが、本当に先生からのものだったのか、確認したほうが良いかと思いまして」

扉の傍で立っていると、先生に手招きされた。
先生と向い合って椅子に座ると、先生がお茶を出してくれた。
強すぎない臭いと、濃すぎない色が、私の気持ちを和ませた。

「そう……まあ、せっかく二人きりなんだし、少しお話しましょうか」

頷いた私に、遠慮がちに先生が語ったのは、私の幼馴染のことだった。

47: 2010/10/24(日) 00:21:49.02

「昨日、唯ちゃんがぼやいてたわ。和ちゃん誘ったのに来なかった、って」

まだ熱い紅茶を口に入れて、先生が顔をしかめた。熱い、と小さく言って、舌を外に出した。

「和ちゃん、まだ怒ってる?」

的外れな質問に、私は思わず笑って答えた。

「なにが?」

すると、一瞬の間をおいて、先生も笑った。

「和ちゃん、敬語、忘れてるよ」

「これはすみません。ですが、先生、私は別に怒ってなんかいませんよ」

「そうなの? じゃあ、寂しい?」

くつくつと声を頃して笑って、私は言った。

「いいえ、別に……むしろ……」

どうでもいい、です。


私の顔を覗き込んでいた先生が、表情を曇らせた。
私は胸を抑えた。


48: 2010/10/24(日) 00:24:05.62


「どうでもいい、です」

目の前の、成績優秀、容姿端麗――ただし、色気があるというわけでもないが――の模範的な生徒が、
私の予想だにしない言葉を、吐き捨てるように言ったので、私はたじろいでしまった。
気づくと、彼女は胸を抑えていた。

「あっ……そっか……じゃあ、あの」

私は言うべき言葉を探そうと、辺りに目をやった。
彼女が胸を抑えている。急がないといけない。

「先生、一つ聞いてもいいでしょうか」

私は気づいていた。彼女が、何かを言おうとするとき、何かを考えたとき、
その何かが、彼女の中で暴れまわるとき、彼女は胸に手を当てて、その何かに蓋をするのだ。
どこからも出てこないように、誰にも聞かれないように。

「ねえ、先生、私たちは……私と唯は……どうして、」

彼女の胸は限界だった。はちきれんばかりに膨れていて、彼女は呼吸もできずに喘いでいた。

「どうして、友達だったんでしょうか」

疑心が生じた暗鬼は、彼女の指の間から、ぎょろぎょろと周りを見回していた。

「いや、私たちは、友達だったのでしょうか、そもそも。
 私と唯は幼馴染だったけれど、幼馴染は、友達でしょうか。
 私と彼女の間には、十数年という時間のほかに、どんな繋がりがあったの?」

49: 2010/10/24(日) 00:25:40.90

彼女が置き忘れた敬語を拾うこともせず、私はただ、笑うことしか出来なかった。

「いくらでもあるわよ、探せば。だから……」

私が言い終わる前に、彼女は、目にかかった前髪を払って、眼鏡の奥から、
刺すような視線を、明らかに敵意を持った眼差しを私に向けた。

「違いますよ、先生。私は先生に、そんなことを言って欲しいんじゃない、そんな先生が好きなわけじゃない。
 いくらでもあるだなんて言わないで、いくつあるのかを言ってください。
 それが言えないなら、もっと別のことを」

私はどうすればいいのか分からず、しかし、その姿を見ているのも嫌だったから、
手を伸ばし、彼女の手を胸からどけた。

「ファック……知ったこっちゃないのよ、そんなこと。
 アンタもグダグダ言ってんじゃないわよ、股にギター突っ込むわよ?」

和ちゃんは、大きな声を上げて笑った。目から涙が溢れるほど笑っていた。
そして、人差し指で目尻を拭って、震えた声で言ったのだった。

「先生、格好良いよ」



51: 2010/10/24(日) 00:27:30.66
文化祭の前日、私は和ちゃんを家に、というより、アパートの一室に招いた。
彼女は眉をハの字にして笑って、軽音楽部はいいのか、と訊いてきた。
もちろん、放ったらかしていいわけはないけれど、彼女たちは強いから、
私は、目の前の、このクッキーのように簡単に壊れてしまいそうな彼女を、なんとか守らなければいけないと思った。

「なんか、狭いですね」

和ちゃんは私の部屋に入るなり、こう言った。

「和ちゃんの家だって、そんなに広くないじゃないの」

私が口を尖らせて言うと、和ちゃんは、目を細めて言った。

「そういう狭いじゃないんです……なんていうか……」

棺桶みたい。

彼女はそう言って、すぐに、ごめんなさい、と謝った。
私はテレパシストじゃあないから、彼女の言ったことの意味はわからないけれど、
酒が、人間の意思伝達の潤滑油になることは知っている。

「ということで、じゃーん、ビールです」

私が部屋着に着替えて、ビールの瓶を持って行くと、和ちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。

「それは、教師としてどうなんでしょうね」

私は頬を膨らませて言った。

「でも、友達としてなら別に良いでしょう」

52: 2010/10/24(日) 00:29:34.01

すると、彼女は優しく笑った。
彼女が棺桶と言った部屋の中で、私たちはお酒を飲んだ。
和ちゃんはちびちびと舌でビールを舐めていて、そんな彼女を見て、私は笑った。
私が小さく笑うと、彼女は大きく笑い、私が声を上げて笑うと、彼女は声を頃して笑うのだった。

「ねえ、先生、キスして、くれませんか」

彼女がどうしてこんなことを言ったのかは分からない。
ただ、私は、言い訳するつもりはないが、アルコールで頭が回らなかったのと、ただ、
彼女を悲しませてはいけないと、彼女に胸を抑えさせてはならないと、そればかり気にかけて、
簡単に、唇をあげてしまった。

酒は潤滑油だった。動きのいい絡繰人形のように、滑らかに、けれど、なんとなく機械的に、
私たちはキスをした。



53: 2010/10/24(日) 00:31:41.49


「和ちゃん、今日、ライブ見に来てよね」

私は幼馴染に、眼鏡をかけた聡明な彼女に、私より厚い時間を過ごしてきたであろう、
大人びた表情の和ちゃんに言った。

「え、ああ、うん……きっと行くわ。ていうか、何その声、すごく嗄れてるけど」

和ちゃんはぼうっとしたような表情で、気のない返事をするのだった。

最近、いつもこうだ。
部活を始めてから、和ちゃんと過ごす時間は減っていったし、たまに部活が休みの時があっても、
和ちゃんは私に構ってくれない。
けれど、きっと、明日からは元通り。
ギターが上手になった私を見て、彼女は感心して、けれどやはり私には和ちゃんが必要だから、
いつものように、和ちゃんが私を見守って、私が和ちゃんに甘えるような、そんな毎日が流れる。

「じゃあ、私見回りしなきゃいけないから」

和ちゃんは、生徒会と書かれた腕章を指で摘んで、警察のものを模した帽子をかぶり直してから、
私を置いて歩いていった。

各クラスの出し物は、どうにも、別に文化的でないものばかりだった。
多分、和ちゃんはこういうのは嫌いだと思う。
和ちゃんとは違う、子供っぽい人たちの横を通りすぎて、私は講堂へ向かった。

講堂には、軽音楽部の皆がいた。

55: 2010/10/24(日) 00:34:23.88

「流石にライブの時は遅れないんだな」

なんて言って、澪ちゃんはくつくつと笑っていた。
今朝は随分と緊張していたけど、今では少し落ち着いたらしい。

「次は軽音楽部によるバンド演奏です」

アナウンスが入り、私たちはステージへ上がって、演奏を始めた。

ステージから見て、講堂の奥のほう、入り口のそばに、和ちゃんがいた。
私は精一杯ギターをかき鳴らした。カッティングは完璧だった。
コードチェンジのときにノイズが入ることもなかった。
リズムにも完全に合わせた。お客さんも楽しそうにしてくれた。

けれど、和ちゃんは、私のことをたまにしか見ていなかった。
和ちゃんは終始、隣のさわちゃんと楽しそうにお喋りをしていた。

演奏が終わって、澪ちゃんがパンツ丸見せですっ転んでも、私はそのことばかりを考えていた。

軽音楽部のみんなと談笑しながら、私は文化祭の出し物を見て回った。
今は、和ちゃんも見回りをしている時間だ。うろついていれば会えるかもしれない。

「あれ、和じゃないか、あそこにいるの」

りっちゃんが指さしたところに、私が会いたかった和ちゃんがいた。
彼女を追っていくと、私は物陰に隠れて、見たくなかった光景を見た。

人通りのない校舎の裏で、さわちゃんが困ったように笑って、和ちゃんの頭を撫でている。
和ちゃんは、見回り用の帽子を脇に挟んで、顔を赤らめて下を向いている。

56: 2010/10/24(日) 00:37:55.54

「あらあらあらまあまあまあ」

隣でムギちゃんがうっとりとした声を上げる。
りっちゃんと澪ちゃんは、至って常識的な意見を述べた。

「これって、あれだよな」

「ああ、律が言ってるあれだろうな。所謂大人の……あれだ」

そんな中、私の声は、虚しく目の前の壁に吸い込まれていくのだった。

「嘘だよ……嘘だ」



57: 2010/10/24(日) 00:40:32.64


「あのね、嘘って言うか、勢いって言うか……」

私は頭を掻いて、目の前の女の子に言った。
眼鏡をかけた聡明な、ずる賢い、実は肝心なところで子どもっぽい和ちゃんに言った。

「そんなこと言っても、駄目です」

彼女はくすくす笑って、人差し指で眼鏡を上げた。

「だって先生は、私のファーストキスを返してくれないでしょう?」

「そりゃあ、まあ、無理よね、そんなことは」

「だったら」

和ちゃんは脇に挟んでいた警察帽を深くかぶって、目元を隠して言った。
顔はほんのり赤かった。

「せめて私が飽きるまで、付き合ってくれないと駄目です。でないと、」

それから人差し指を私に突きつけて、親指を立てた。
口で小さくバン、と言って、無邪気に笑った。


58: 2010/10/24(日) 00:43:14.12

「逮捕しちゃいますよ、先生。もちろん児ポ法違反で」

私は、観念した、というように両腕を広げて見せて、言った。

「和ちゃん、それは射殺よ」

すると、彼女は何を勘違いしたのか、私の胸に飛び込んできた。
また、バン、と呟いた。

「悩殺出来ました?」

「和ちゃん、悩殺の音はズキューンよ」

そう言うと、和ちゃんは私の胸に顔をうずめて、子供っぽく言った。

ズキューン。

多分、その瞬間、私は教師でいられなくなった。
和ちゃんは生徒でいられなくなった。
和ちゃんの若さは、それに起因する無責任な優越感は、氏んでしまったのだ。



59: 2010/10/24(日) 00:45:42.71


「ねえ、和ちゃん、今日は絶対に音楽室に来て」

唯が真剣な表情で、真っ直ぐに私を見つめて言った。
その手は強く私の手首を掴んでいる。まるで、手錠のように。

「えっと、今から行こうか?」

「違うよ、放課後」

「分かったけど、何か用かしら」

私が顔を見ずに、本を読みながら答えると、彼女は言った。


「話があるんだ。とっても、大事な話」


私は思わず顔を上げた。
彼女はもう後ろを向いていて顔は見えなかったが、明らかにその声は怒気を帯びていた。

「そう、大事な話ね……」

私は少し怖いと思いながらも、おとなしく放課後を待つことにした。


60: 2010/10/24(日) 00:48:18.85
放課後になると、唯は私を置いてさっさと音楽室へ行ってしまった。
勝手なものだと思ったが、私もそそくさと音楽室へ向かった。

「お邪魔します……」

恐る恐る扉を開けると、軽音楽部の皆と、さわ子先生が、机を囲んで座っていた。
ムギは残念そうな顔をして、律と澪は狼狽えたような顔をして座っていた。
さわ子先生は無表情に、そして唯は親の敵でも見るような目で、互いに見つめ合っていた。

私に気づくと、先生は笑顔をこちらに向けた。

「あら。ダーリン、お帰りなさい。和風呂にする、和食にする、それとも和……」

茶化したように言う先生を、唯が怒鳴りつけた。

「さわちゃん!」

さわ子先生はビクっとして、肩をすくめた、
何よう、と呟く先生を尻目に、唯は私に厳しい口調で言った。

「和ちゃん、座って」

私は唯に促されるままに、席に着いた。私が席に着くと、開口一番、唯は言った。

「和ちゃん、さわちゃんと付き合っちゃあ駄目だよ」

訳が分からなかった。何を言っているのか分からなかった。
律は頭を抱えて、馬鹿か、と呟き、澪は気まずそうに私から顔を背けた。
ムギは、別にいいじゃないの、と口を尖らせていた。

63: 2010/10/24(日) 01:17:17.47

「唯ちゃん、貴方は馬鹿よ」

先生だけが、唯を真っ直ぐ見つめていた。

「あなたがこれから何を言うつもりかわからないけど、壊れるかもしれないわよ。
 あなたと和ちゃんの十数年間が。ただでさえヒビだらけなのに」

唯は、青筋を立てて、怒鳴った。

「直すんだよ。ヒビは、先生なの」

それから、私を見つめて早口に捲くし立てた。


65: 2010/10/24(日) 01:22:47.84
「ねえ、和ちゃん、よく考えてよ、二人共女同士なんだよ」

どこで知ったのか、いつ知ったのか、そんなことはどうでも良かった。

「気持ち悪いよ、はっきり言ってさ」

彼女がどう思おうが、そんなことはどうでも良かった。

「それに、先生と生徒なんだよ、二人は」

ただ単純に、五線譜の中で泳いでいる彼女が、さわ子先生を音符の中に溺れさせようとしているのか、

「学校にバレたらただじゃ済まないんだよ、和ちゃんも先生も」

それとも、今更五線譜から出てきて、私と彼女が過ごした、無意味な、ただの積み重ねに過ぎない、

「先生はクビになっちゃうよ。和ちゃんだって、いじめられるかもしれないよ」

あの十年間を、簡単に抜けてしまう楔を、リピート記号をつけようとしているのか、ともかくどちらかを企んでいるのが分かって、

「ねえ、和ちゃん、幼馴染だから言ってるの。和ちゃんのために言ってるの」

私はただただ笑うしか無かった。
けたたましく、狂ったように笑うしか無かった。
胸に手を当てて蓋をすれば、あるいは、いつものような、大人びたくつくつ笑いを再現できたかもしれなかったが、
さわ子先生がどけてくれた右手を、再び胸に当てることはしたくなかった。

ひとしきり笑って、私は言った。

「唯、あなた馬鹿よ」

66: 2010/10/24(日) 01:28:06.97

唯は目を丸くして、それから、顔を真赤にして何かを言おうとしていた。
律と澪は、おどおどするばかりで何も出来ないようだった。
ムギは怪訝そうに眉を潜めていた。

「私が学校辞めればいいだけじゃないの」

さわ子先生だけが、目を伏せて、小さく笑って言った。
その声は震えていた。

「和ちゃん、あなたも大馬鹿よ」

私は先生を見据えて、はっきりと言ったのだった。

「でも格好良いでしょう? 先生みたいに」



67: 2010/10/24(日) 01:34:46.84

「さわ子さん、行ってくるね」

あれから数日が経った。和ちゃんの親は、娘にあった水準の教育を、とか言って、あっさりと転校を認めたらしい。
和ちゃんの親は、自主性を尊重するとかで、あっさりと独り暮らしを認めたらしい。もっとも、独り暮らしではないけれど。

「行ってらっしゃい。今日の晩ご飯は和ちゃんが作ってよね」

アパートの一室の玄関で、和ちゃんは私に微笑みかけた。

「うん、期待してて。さわ子さんが好きなもの作るから」

そう言って、ドアを閉めた。
彼女の制服は、私が勤める学校のものではなかった。
彼女の行先は、歩く通学路は、今までのそれではなかった。

「なあんで、こんなことになっちゃったんだか」

彼女が棺桶みたいだと言った部屋の中で、私は呟いた。
棺桶の外にあるのはなんだろう。彼女が扉をあけて足を踏み出したのは、どこへだろう。

土の中、草の陰、あるいは、煉獄か。
けれど、とにかく、地獄ではないだろう。
そんなことは、私が許さない。そんな神様の尻穴には、私がギターを突っ込んでやる。

「ふふっ、格好良いでしょう?」

私は携帯電話の待ち受け画面の和ちゃんに微笑んで、職場へ向かった。


68: 2010/10/24(日) 01:38:58.19

「なんだ、来てたのかよ」

放課後、ぞんざいな口調で私に言ったのは、軽音楽部部長だった。
私はピアノの演奏をやめて、彼女の方を向いた。

「先生にその口の聞き方は、ないんじゃないかと思うけど」

そう言うと、部長は、軽く私を睨みつけて、言った。

「和と唯のこと、半分は先生のせいなんだよ、今だって、さ。分かってる?」

私は思わず微笑んだ。

「あなたは、まだ若いのね」

「あぁ?」

ガラの悪い不良のような返事をする部長。

「若いわよ。あなたはまだ、原因と結果が一対一で対応してると思ってる。
 あなたはまだ、誰かが動けば、全ての問題は解決すると思ってる」

私はピアノを再開した。
悲しいのと、楽しいのとが、半分ずつ混ざったような、曖昧な曲調だった。

「……なんだよ、わかんないよ、私には」

そう吐き捨てて、部長は音楽室を後にした。

69: 2010/10/24(日) 01:44:33.20

「先生いらしてたんですね」

誰かが音楽室に入ってきた。
一応の敬語で、しかし、敬意はこもっていない言い方で言ったのは、軽音楽部のベースだった。

「そりゃあ、顧問だからね」

ピアノを止めて、私は答えた。
ベースは刺々しい口調で言った。

「今までは、そんなに足繁く通っていなかったくせに」

「これからは来るの。それだけ」



70: 2010/10/24(日) 01:48:37.85

苛立ったように、ベースは声を荒らげた。

「先生のこと、許しませんから。唯も和も、みんなを傷つけて」

私はまた微笑んだ。

「若いのね、あなたも」

ベースは相変わらず私を睨みつけていた。

「あなた、保護者気取りなのね。大人びた態度でいれば、大人になれると思っているのね。
 和ちゃんは、もうそんな勘違いは捨てたわよ」

私の言葉を聞くと、ベースは怒鳴った。

「和の話はしないでください……唯は来ませんよ、今日も、明日も……ずっと……」

それから、音楽室を出て行った。


71: 2010/10/24(日) 01:53:05.72


「先生、何になりたいんでしたっけ」

今までと同じように椅子に座って、笑って尋ねるのは、ムギちゃんだった。

「ん、幽霊よ。放課後の教室で、悲しそうにピアノを弾く幽霊」

いつもと同じように、紅茶を淹れながらムギちゃんは笑った。

「変なの。ポエティックですね、なんだか」

私は手を止めて、彼女に尋ねた。

「ムギちゃんは変わらないね」

「だって、みんなも何も変わってないから」

思いもよらない答えに、一瞬たじろいで、私は黙り込んだ。
ムギちゃんは続けた。

72: 2010/10/24(日) 01:57:46.52

「変わったのはみんなの関係だけだから……
 だから、もし私たちが本当に友達だったなら、きっとまた、友達になれます」

強いな、と思った。結局、私と和ちゃんの関係を知ったときに目を輝かせたこの娘が、
茶化すでも、照れるでも、怒るでもなく、一番私たちをよく見ていたのだ。

けれど、私は一言だけ、彼女から目を背けて言った。

「和ちゃんは、変わっちゃったかもしれない」

ムギちゃんは眼を閉じて、紅茶を啜りながら呟いた。

「じゃあ、唯ちゃんも変わるかもしれませんね」

私は今日も、放課後の音楽室でピアノを弾き続ける。
無人の音楽室でピアノを弾く幽霊を、もしかしたら、彼女が探しに来るかもしれないから。


73: 2010/10/24(日) 02:03:44.58

「真鍋さん、ばいばい」

髪を明るく染めた娘が、私に大きく手を振った。
下品だと思ったけれど、今ではそんなことは私の気分を害さなかった。
私はただの女の子で、他の人とは違う特別な者だなんてことは、無いのだと分かったから。
唯にとって、私はそうだった。ただ、十数年間過ごしただけの、身近にいる女の子だった。
先生にとっても、私はそうだ……

私は今日も人ごみに溶けて帰路を歩く。
心も体も何もかも、私は平均的な、ただの女子高生になる。
それでいいんだ、多分。

「和、ちゃん」

震えた声が私を呼んだ。
私は振り向かなかった。
私は、ただの、この時間この空間に、偶然存在している女子高生でしか無いから、
真鍋 和などという固有名詞に反応するなんてことはあってはならないから、ただ前だけを見つめて歩いた。

「ごめん……ごめんね、和ちゃん」

震えた声は私に追いすがってきた。
夕焼けが、時間を焼き尽くしそうなほどだった。
私は立ち止まって、独り言を零した。

「私も、ごめん、唯……」

夕陽に目と、心を焼かれないうちに、私は足早にアパートへ向かった。

77: 2010/10/24(日) 02:08:57.22


「桜ヶ丘高校にはね、今では幽霊がいるのよ。無人の音楽室で、ピアノを弾く幽霊」

私は和ちゃんに努めて明るく言った。
和ちゃんは、にこにこ笑いながら、カレーを煮込んでいた。

「へえ、ピアノは上手いの?」

敬語は桜が丘高校に置き忘れてしまったようだ。
今更それを拾ってきて、和ちゃんに渡すつもりは、私には毛頭ない。

「上手よ。私の折り紙付きね」

そうなんだ、と和ちゃんは笑った。

和ちゃんのエプロン姿は、とても可愛らしかった。
和ちゃんの作ったカレーは、とても美味しかった。
和ちゃんの笑顔は私の心を癒してくれるけれど、やはり今日も私は、唐突に彼女に言うのだ。

「ねえ、和ちゃん、違うのよ」

彼女のスプーンが止まった。彼女のカレーは、少し辛かった。



78: 2010/10/24(日) 02:12:34.23

「あなたは女として私が好きなの。けれど、それは、本来男の子に対して抱く感情なの。
 私は保護対象としてあなたが好きなの。けれど、それは、本来生徒に対して抱く感情なの」

今日も彼女は、笑って私に言うのだ。

「さわ子さんが私とキスをした時、さわ子さんはただの友達だったじゃない」

そうして、私は何も言えなくなったしまうのだ。

せめて飽きるまで、なんて彼女は言ったけれど、その時はきっと来ないのだろう。
いつだか私が彼女に保証した、"きっと"の時が訪れなかったように。
彼女は、この棺桶の中に横たえた、根拠のない優越感と、万能感を、この部屋の中でだけは思い出して、
彼女が子供だった時のように、私にキスをするのだ。

その優越感と万能感を、ちぐはぐな縫い目で私に縫いつけて、私にキスをさせるのだ。

棺桶の中に、私と彼女は二人きり、
氏体は、大人の私と、子供の彼女。

キスをする。いつまでも、いつまでも、キスをする……


畢。

79: 2010/10/24(日) 02:16:03.16
和さわ流行れ!和さわ増えろ!映画は和さわメインになれ!夢に和さわ出て来い!

82: 2010/10/24(日) 04:15:38.75
面白かった

引用元: さわ子「地獄の和さわ」