3: 2010/12/16(木) 14:25:30.61
季節は気付かないうちに移り変わっていくものなのだと、最近私は知った。
本当に知らない間に、もう一年の半分は過ぎている。思えば高校の三年間、
長いようで短かった。よく言われていることだが、まさにそのとおりだと実感するくらい。
ついこの間高校に入学したと思ったら、もうあとものの数ヶ月で卒業。
笑ってしまう。

「な、梓?」

私は前にいた梓に、何となくそう声を掛けた。
今私が巡らせていた考えが梓に伝わっているはずもなく、案の定梓は怪訝そうな顔をして
私を見た。

「何がですか?」

「ううん、なんでもない」

「なら早く、他の先輩方が来るまで勉強しててください」

4: 2010/12/16(木) 14:29:31.49
へーいと軽い返事をして、私は再び目の前に広げたノートと向き合う。
梓は頬杖をつきながら、私のノートを呆と見ていた。

梓と部室で二人きりになることは珍しくない。
寧ろ、他の誰よりも多いんじゃないかと思う。掃除当番や呼び出しを無視して
部室に来てるからなんだろうけど。

いつだったか、梓に聞かれたことがある。
「どうして律先輩はいつも一番に部室に来てるんですか」と。
私は答えた。「部長だから」と。
ただ単に、掃除当番をサボりたいから、なんて言って後輩に示しがつかないのが嫌で
咄嗟に口をついて出たことなのだが、後になって、本当にそうなのかも、と思うようになった。

「梓ぁ」

「また何でもないって言ったら怒りますよ」

「うぅ……」

最近、梓が随分と冷たくなったように感じる。
これまでも、梓の私への態度が他の人と違っていた気がするが、梓が力を抜いて
接してくれるのは私だけだと知っていたからそれでよかった。

6: 2010/12/16(木) 14:33:30.11
しかし、今の梓は肩の力を抜くどころか、この時期になってもっと重いものを
背負っているように見える。
冷たい、というより何かを考え込んでいるようだった。
けど何より私を心配させたのは、私と二人だけのときは特に、暗い顔をしている
ことだった。

こうして滑り止めの受験勉強をしている今も。
理由がわからないほど私は鈍感じゃない。
ただ、気の利いたことを言ってやれたり、何かしてやれるほど器用でもなく。

だから今日も私は、睨むようにして私の真っ白なノートを見ている梓の前に、
何もわからないふりをして座っているしかない。

不安なんだと思う。
自分が一人、軽音部に残されることが。
寂しいんだと思う。
私たちが卒業してしまうから。
だけど、それがわかっているからと言って、無力な私が何か出来るわけでもないから。

7: 2010/12/16(木) 14:36:18.51
「今日も寒いな……」

「そうですね」

部室にいても、白い吐息が漏れるくらい、この部屋は冷えている。
まるで梓みたいだな、と冗談半分に思いながら梓のほうを見ると、同じようにして
私を見ていた梓と目が合った。
暫くそのまま見詰め合った後、慌てたように視線を逸らされた。

「先輩……」

「なに」

「やっぱ……何でもないです」

なんだよ、と私は笑った。
梓も今日初めての笑顔を見せてくれた。
その後、梓はまた何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
だから私も何も聞かなかった。

――――― ――

8: 2010/12/16(木) 14:41:09.08
「あずにゃんのために何かしてあげられること?」

「うん、卒業前にさ、軽音部として何か梓に残してやりたいなと思って」

私は何となく、皆にぼやいていた。
珍しく梓のいない帰り道。
「用事があるので先に帰ります」と頭を下げていった小さな後姿を思い出す。
唯は私の言葉にほわっと首を傾げた。
隣を歩いていた澪が、確かになあと頷く。

「私たち、今まで何も先輩らしいことしたことなかったし」

「そうねえ」

ムギもそう言って頷くと、唐突に何かの曲を口ずさみ始めた。
私たちがきょとんと立ち止まると、ムギは「ごめんなさい」と苦笑した。

9: 2010/12/16(木) 14:43:40.01
「曲が思い浮かんだから」

「曲?」

「えぇ、新しい曲だけど……澪ちゃんも何か詞が浮かんだの?」

「ううん、詞じゃないんだけど……」

ムギの質問に、澪は首を振りながら私を見た。
唯も「あぁ!」と声を上げた。

「りっちゃん、軽音部らしいことであずにゃんに出来ることって言ったら、歌うことだよ!」

「そう、梓のために、新しい曲を秘密で作るのはどうだ?」

――――― ――

その日の夜。
私は机の前で、まっさらなノートを広げたまま頭を抱えていた。
さっきから一向にペンは動いていない。
あの後、それぞれ詞を考えてこようという流れになり、それを実践するべくかれこれ一時間、
ずっとこうしているわけだが、全くと言っていいほど何も浮かんでこなかった。

「よく澪の奴、あんなに歌詞思いつくよなあ……」

10: 2010/12/16(木) 14:47:26.97
ふう、と大きく息を吐くと、私は前髪をかきあげて呟いた。
前にも歌詞を考えることがあったけど、今更ながらその時ちゃんと考えておけば良かったと
後悔した。
その時考えておけば、少なくともアイディアは何か浮かんできただろうに。
(澪なんてネタ張なんてものがあるらしい)
それに勉強もしなきゃという焦燥感が、よけいに私の普段素晴らしいアイディアばかりが
浮かぶ頭の動きを鈍らせていた。

気分を変えるため何か飲もうと思って、部屋に流していた音楽を消すために立ち上がると、
カーテンの隙間から細い糸のようなものが一瞬見えて消えていった。
音楽を消してみると、案の定雨の音がした。

「傘、学校に置きっぱだったよな……」

学校の下駄箱か、ロッカーに入れたままであろう折りたたみ傘。
この音じゃひどい雨なんだろう。明日の朝までに止む気配がない。

11: 2010/12/16(木) 14:50:54.59
私は基本、大きな傘は使わない主義だった。
誰かの傘に入れてもらうのはいいけど、自分が持つとなると別だった。
大きな傘は私にとってはとてつもなく重く感じられる。
大きければその分、雨をはじく範囲が広くなる。私の心は広くない。
受け止められる事だってきっと少ない。
大きな傘が沢山の雨をはじくみたいに、自分は沢山のことを受け入れられない。
そんな思いが心のどこかであるからなのだと思う。

こんなことを考えていると、私も随分と詩人なんだなと笑いたくなる。
澪のことを笑ってられないくらい。

明日は大きい傘で登校か、と再びカーテンの隙間から外を覗いたとき、
突然机の上にあった携帯が震えた。唯からの着信だった。
携帯を開けると、電話に出る。

13: 2010/12/16(木) 14:55:10.36
「唯ー?」

『りっちゃん!?』

心なしか、唯の声は少し……いや、かなり焦っているようだった。
いつものどうでもいいようなことだろうと思っていた私は、少しだけ顔を引き締めると、
どうした?と訊ねた。

『あずにゃんがね!』

「梓がどうした?」

『あずにゃんがまだ家に帰ってないって……!』

――――― ――

雪に変わりかけのべたべたした雨の中、私は走っていた。
父親の地味な色の大きい傘を差して。

唯の声が蘇る。

『今さっき、歌詞書くのに煮詰まったからあずにゃんの声でも聞こうと思って
携帯に電話かけたら出なくって。それで家に掛けたらね、お母さんが出てまだ帰ってないって……!』

家を出たのは九時過ぎだから、今はもう半は過ぎているはずだ。
梓の家族も、普段真面目な梓が遅くまで帰ってこないため酷く気が動転していたらしい。
何度も唯に梓の居場所を尋ね、しまいには警察に連絡しようとまでしていたのを、
唯(というか同じく気が動転していた唯を助ける為話を聞いた憂ちゃん)が止めたそうだ。

14: 2010/12/16(木) 14:59:25.16
「ったく、どこ行ったんだよ……」

走りながら何度もコールするが、全く電話に出る気配がない。
出ないんなら留守電にしとけよな、とかどうでもいいようなことに憤慨しながら
私は梓の姿を求め走り続けた。

自分でもなんでこんなに必氏なんだろうと思う。
これが澪やムギ(……は違う意味で心配かも知れない)なら、華の女子高生なんだから
たまにこんなこともしたくなるだろ、なんて思ってここまで心臓をバクバクさせながら
走ることもなかったはずだ。

たぶん、梓だから。
梓の、暗い表情を見てしまったから、なのかも知れない。

しかし、一向に梓は見付からない。
私は走ったせいで濡れてしまった髪や顔から滴る水滴を拭いながら立ち止まる。
もう雨は、すっかり雪に変わっていた。
このままこの辺りを宛てもなく走ったって見付かるはずが無いと気付き、私は梓の
行きそうな場所を考えてみた。
そして、行きそうな場所ではないが、いつもと違う行動をしていたのを思い出す。

15: 2010/12/16(木) 15:02:39.81
そういえば今日の帰り、梓は突然先に帰ると言い出した。
普段なら部室に入ってきたらすぐに誰かに律儀に伝えるのに。
ということは急に思い立ったということか。ますます私は途方に暮れてしまった。

その時、携帯が鳴った。
梓からかと思って悴んだ手で慌てて携帯を開けると、梓ではなく澪からだった。

『律、今どこ?唯から聞いたんだけど……』

「商店街の前らへん。まったく見付かんない……」

『ムギも探してるらしいけど……律、私も今から』

「澪、梓の行きそうな場所、わかる?」

『え?っと……』

私は澪の言葉を遮って、ダメ元で訊ねてみた。
すると澪は、少し不安そうな声で『……神社』と呟いた。

16: 2010/12/16(木) 15:05:55.27
「神社?」

『ほら、商店街の突き当たりに小さい神社、あるだろ?あそこ、野良猫とか結構いて。
前に梓がそこにいるのを見かけたんだ。中に入れなくて声掛けられなかったんだけど……』

「幽霊さんが出るから?」

『お、思い出させるな!』

澪の大きな声に笑いながら、私はありがと、と礼を言って電話を切った。
最後に「すぐ帰るから怖がりな澪しゃんは来なくていいぞ」と付け足して。

私にはまだまだ知らないことが沢山ある。
梓のことを少しでも知ってると思っていた自分を呪いたくなった。
私は携帯をコートのポケットに戻すと、悴んだ手にふっと息を吹きかけて澪に
教えられた神社へと走り出した。

――――― ――

17: 2010/12/16(木) 15:09:16.76
「梓」

賽銭箱の前にしゃがみ込み猫に触れていた後輩の上に傘をさしかける。
梓は大袈裟だと思うくらいにびくっと身体を震わせ私を見た。

「律先輩……」

「何してんだよ、こんな時間まで」

「先輩こそ」

「私は梓を探してたの。梓のお母さんとか、凄い心配してたらしいぞ?」

「すいません……」

梓は申し訳なさそうに謝って立ち上がる。
私は傘を持っていた手を入れ替えた。

「ほんとはすぐに帰るつもりだったんですけど、急に雨降って来ちゃったから
雨宿りしてたんです。それで雪になったし今から帰ろうかなって」

「そっか」

頷くと、また傘を持つ手を変える。
そろそろ手が限界だった。感覚なんてほとんどない。
梓はそれに気付いたのか、「傘、持ちましょうか」と手を出してきた。
「いいよ」と手を引く前に、梓の手が傘の柄を掴んでいた。

19: 2010/12/16(木) 15:14:13.86
「冷たっ」

二人同時に、驚いてそう声を発してしまった。
傘を掴んだ梓の手が、同じく傘を掴んでいた私の手に微かに触れていた。
その触れた手があまりにも冷たくて、私は呆れてしまう。
しかし自分の手も同じようなものらしく、すぐに変な感じに温かく感じた。

「律先輩、凄い冷たいですよ?」

「梓こそ」

傘を持つ手をそっとずらして、梓の手にちゃんと自分の手を重ねてみる。
もう冷たさは感じなくなっていた。
氷のように詰めたい梓の手で、感覚がすっかり麻痺してしまったのかも知れない。

「……先輩、何でさっき、何も聞かなかったんですか」

梓は、私が重ねた手にもう一方の手も重ねると、言った。
私はおどけながら「聞いて欲しかったのか?」と訊ね返す。

「先輩なら絶対に問い詰めてくると思ってました」

20: 2010/12/16(木) 15:20:18.43
「ひどっ」

「……だって、部長ってそういうものだと思ってましたから」

意味がよく理解できなくて、私は曖昧に「そっか」と濁した。
梓は私をちらりと見やると、「帰りましょうか」と言って神社の出口に目を向けた。

「傘、私が持ちますし」

「いいよ」

首を振る。
後輩に対する意地だとかそんなこともあるけど、何より今の梓を見て、私は初めてこの
大きな傘を誰かのためにさしたくなった。
誰かのことを、ちゃんと受け止めたいと思った。
梓は迷うように私と傘を見比べると、私の手の下にある自分の手を抜き取った。
よし、と梓を傘に入れながら歩き出そうとすると、梓は立ち止まったまま、「律先輩」と
私の名前を呼んだ。

21: 2010/12/16(木) 15:21:44.41
「なに?」

私は振り返った。
同じ傘の下だから、暗くてもよくわかる。
梓の瞳は、ゆらゆらと濡れていた。

「梓……?」

「一つだけ、聞いていいですか?」

「……うん」

頷くと、梓は言った。
私は、何も答えられなかった。

――――― ――

23: 2010/12/16(木) 15:25:22.99
『先輩たちが卒業しても、軽音部は無くなりませんか?』

わかってる。
梓が『新しい部員がいないから廃部するんじゃないのか』とかそういう意味のことを
言っていたわけじゃ無いと。
だからこそ、私は答えられなかった。
未来のことなんてわからないし、澪たち四人で同じ大学を受けたものの、同じところに
行けるとは限らない。
仮に同じ大学に行けたとしても、いつかは離れ離れになってしまう。

きっと唯なら、「当たり前だよ、あずにゃん」なんて言って、梓を笑顔にしていたんだと
思う。それがたとえ気休めだとしても。
私は頭の中で、適当なことを言って梓をよけいに不安にさせたらどうしようとか色々考えて
しまい、梓の顔を少しでも明るくすることが出来なかった。

「部長失格じゃん、私……」

温かいシャワーが、私の冷え切った身体を温めていく。
なのに、いつまで経っても心は温まらなかった。

25: 2010/12/16(木) 15:30:54.73
梓の寂しさや不安全部を受け止めたいと思ったはずなのに、私は出来なかった。
大きな傘が、もっと嫌いになった。

あの後、半ば強引に歩き出し、辺りを車で巡回していたムギに拾われ、梓を家まで
送り届けた。梓はムギの顔を見て、さらに瞳を潤ませていたのに、結局最後まで
泣かなかった。
梓がずっと神社なんかにいた理由も、聞けずにいた。

 部屋に戻ると、暗い部屋で携帯が青白く光っていた。
梓を心配した唯や澪からメールが届いていた。
そういえばまだ梓が無事に帰ったことを伝えていない。
けどそれを伝える気にならなくて、私は携帯を閉じた。
それにムギがちゃんと唯たちにメールしただろう。

ムギの車を降りた時、ムギは私に何も聞かずに、ただ黙って笑いかけてくれた。
それだけで心を落ち着かせたり、安心させたり出来るムギは凄いと思う。
私は梓に、何も言えなかったし安心させるように笑いかけてやることも出来なかった。
自分自身が、もうすぐ訪れる『別れ』を思い描いて固まってしまった。

明日はちゃんと、笑えるだろうか。
ちゃんと梓と、皆と話せるだろうか。
私はベッドに寝転がりながら、再び震えた携帯を開けた。唯からのメール。
私はそれも開けずに携帯を閉じると、重い目蓋も一緒に閉じた。

26: 2010/12/16(木) 15:37:42.97
――――― ――
翌朝、珍しく澪が私の家の前に立っていた。寒そうに手を擦り合わせながら。
昨日の雪は、夜中も休むことなく振り続けていたのか、辺り一面銀世界。
その上に新しい雪が積もっていく。
私はおはようの代わりに、少し背伸びをして澪の頭に積もった雪を払ってやる。

「おはよ」

澪は目を細めながら言った。私は「ん」と大きい傘を開くと、澪と自分の上に
さした。
昨日の梓とは反対で、私のほうが背が低いので腕が痛くなる。
澪もそれを知っているので、二人で傘に入るときは必ず澪が傘を持つ暗黙の了解が
あったりする。
大きい傘なら尚更。
それが私たちの関係と同じ気がしていたから澪には悪いし変な言い方だけど、
気に入っていた。

澪のさす傘の下を歩いていると安心した。
私は、澪に支えられてる。
澪がいたから軽音部もここまで続けてこられた。たぶん私は、澪を守ってるんじゃなくって
澪に守られているんだと思う。それが私たちの関係。

澪は一瞬珍しそうな顔をして私の持つ傘を掴むと、片手で濡れた髪に触れた。
どちらともなく歩き出す。
沈黙が続く。
昨日の梓の顔が頭にちらつき、声が過り、私は我慢しきれなくなって口を開いた。

27: 2010/12/16(木) 15:42:52.23
「何で傘持って来てないんだよ?」

「律を待ってる間に降ってきたんだよ。家を出たときは降ってなかった」

「折りたたみくらい持って来いよなあ、昨日からずっと止みそうになかったんだし、
天気予報でも言ってただろ」

「忘れてた」

澪は俯き加減にそう答えた。
澪らしくない返答。朝、私の家の前で待っている事だって、小学校以来ほとんどない。
あるとしたら何かあったとき――私はそこまで思ってハッとした。
何で気付かなかったんだろうか。澪はきっと何か言いたくて私を待っていた。
なのに私は。

「澪、あのさ。どうかしたのか?」

28: 2010/12/16(木) 15:45:13.36
私は澪の顔を覗きこむようにして訊ねた。
すると、澪は苛立ったような声で言った。

「こっちの台詞だ、バカ」

「え……?」

「昨日ムギが電話してきて、律の様子も梓の様子もおかしかったから何かあったのかもって」

澪がさっきから何も言わなかったのは、私から何か言うのを待っていたからなのか、
それとも恥ずかしがり屋な澪だから、自分から訊ねられなかっただけ。
澪が自分が何かあったんじゃなく、私や梓のことを心配して来てくれたらしい。
やっぱり澪は、私にとっての大きい傘みたいな存在だと思った。
何でも受け入れてくれるし受け止めてくれる。
だから私は、梓の言葉を澪にぶつけた。梓が言ったことはもしかして、私自身の
言葉だったのかも知れない。

「私たちが卒業しても軽音部は無くならないよな?」

真っ白な雪を踏みしめながら、私は言った。
澪が困惑したように立ち止まる。
私の頭が少し、傘の外に出てしまう。
出っぱなしの額が、冷たい風に吹かれて痛い。

29: 2010/12/16(木) 15:48:17.13
「当たり前だろ」

澪は少し迷うような素振を見せた後、はっきりとそう答えた。
澪だってきっと、この言葉の意味はわかっているはずだ。
それでも澪は当たり前だと言い切った。誰よりも現実を見据えてるはずの澪が。
もしかしたらただの願望なのかも知れない。だけど澪は頷いた。
私はなぜか、酷く自分に対して嫌悪感を感じた。
遠くの方で、チャイムが聞こえた。
私たちは顔を見合わせると、走り出した。

――――― ――

「りっちゃんりっちゃん!」

何とか遅刻を免れ、一時間目の授業をクリアすると、唯が私に走り寄ってきた。
その手にはノートが握られている。

「歌詞考えてきたんだけどね」

「歌詞?あ……」

「忘れてたでしょ?」

唯の言葉に小さく頷く。
昨日帰ってからすぐに寝てしまったから、歌詞なんて全く考えてない。
梓に贈るための歌。

30: 2010/12/16(木) 15:51:42.38
「で、唯は考えてきたのか?」

「えへへ、ちょっとだけだけどね!」

「どれどれ、私が見てやろう」

「うん、“卒業”をコンセプトに考えてみました!」

「唯がコンセプトだと!?……ていうかサビは?」

「サビの前で躓きましたっ」

得意げに言うことじゃないだろ、と思いながら私は唯の字を読み進める。
けど“卒業”を意識したらしいその歌詞は、今の私には辛すぎた。
流し読みしただけでノートを閉じて唯に返す。
唯はどうだったとは聞かず、別のことをたずねてきた。
たぶん唯が私に話しかけてきた本当の理由は、歌詞を見せるためじゃなくって、
私に訊くためだったんだろう。

32: 2010/12/16(木) 15:57:27.81
「あずにゃん、昨日泣いてた?」

「……なんで?」

「あのね、あずにゃん、最近よく寂しそうな顔、してたでしょ?」

私は頷いた。唯だって、もちろん澪やムギだって、梓のことは気付いていたはずだ。
だから昨日、突然梓のために何かしたいと言ってもなんでかは訊かなかったんだろう。

「だけど学園祭の時だって、あずにゃん、一度も泣いてない。泣くのを我慢してるみたい。
見てて私まで苦しくなってきちゃうくらい」

そういえばそうだった。
学園祭の時だって、梓は一度も涙を流してない。昨日だって、今にも泣きそうなくせして
泣かなかった。

「だから昨日あずにゃんが帰って来なかったのって、泣きたかったからなのかなって、
そう考えたんだけど」

「梓、昨日も泣かなかった」

私は答えた。唯はそっか、と言って俯いた。
もしかすると、梓が昨日神社にいた理由は、唯の言う通りなのかも知れない。
でも、梓が私たちの前で泣かない理由は、わからなかった。

33: 2010/12/16(木) 16:01:42.62
昨日よりも一層冷えたように感じる部室に、梓はいた。
唯と澪は呼び出し、ムギは掃除当番でいない。
トンちゃんに餌をやる梓の横顔は、光の加減でよく見えなかった。
私は声を掛けずに部屋の置くまで進むと、鞄をソファーに置く。
なんと言えばいいのかわからなかった。
梓は私が鞄を置いた音で、やっと誰かが来たことに気付いたのか、トンちゃんから
私に視線を移した。

「あ、律先輩」

「……ん、最近来るの早いな」

私は梓から視線を逸らすと、梓の横にあった椅子を引いて座った。
いつも梓が座っているその椅子は、少し低かった。

梓が入ってきた頃、唯と二人で私たちより小さい梓のために椅子を低くしたのを
思い出す。
梓のため、というのは私たちのただのイタズラに対する言い訳なのだが。
梓は今でも、自分の椅子が低くなった琴似気付いていない。

梓は再びトンちゃんのほうを見ると、「律先輩」と私の名前を呼んだ。
私も前を向いたまま、聞き返す。

34: 2010/12/16(木) 16:04:08.07
「なに?」

「……なんでもないです」

「梓」

「なんですか?」

「……やっぱなんでもない」

そんな会話を繰り返す。
お互い大事なことは何も言わない。言わないというより言えなかった。
昨日のこと、何も答えなくてごめん、と。
軽音部が無くなるわけないだろ、と。
そう言えたら良いのに。
喉まで出掛かっているのに、声が出てくれない。

まだ自分の中で整理がついていない。
卒業後のことを考えただけで不安になる。
だからよけいに、こんな地に足のついてない私には梓を安心させる権利すら
ないような気がする。

35: 2010/12/16(木) 16:11:14.09
「お茶、淹れましょうか」

「あ、頼むわ」

やがて梓は、トンちゃんの前から立ち上がり言った。
入部したての頃は、「お茶なんて飲んでないで練習しましょう!」なんて怒っていたくせに
今ではすっかりそれに馴染んでいる。
また、私たちの間に沈黙がおりた。
梓がお茶を淹れる音と、私が暇潰しにスティックで机を叩く音しか聞こえない。
以前は、梓がギターを弾く音と、私が梓をからかう声が響いていたのに。

随分と変わったなと思った。
梓だけじゃなく、多分私も。随分と変わってしまった。

「律先輩」

「……ん?」

36: 2010/12/16(木) 16:15:17.74
梓はお茶の入ったカップを私の前に置きながらまた、私の名前を呼んだ。
顔を上げると、いつも私が座っている椅子に腰掛け、私を真剣な顔で見ている梓と
目が合った。私はつい視線を逸らすと、「ばれちゃったのか?」とふざけてしまった。
梓は「何がです」とは訊かずに、「前から知ってましたよ」と苦笑した。

「椅子のこと、ですよね」

「あぁ、うん」

「ずっと気付かないわけないじゃないですか。唯先輩か律先輩じゃあるまいし」

「わ、私は気付くし!」

むっとしてプロレス技を掛けると、ぷっと梓は噴出した。
それから首に回した私の腕に触れながら、梓は呟くように言った。

「私、もうすぐ独りになっちゃうんですね」

それは多分独り言。
だから私は聞き返さなかった。何も聞かない振りをした。
澪みたいになりたいと思った。梓の寂しさや悲しさや、何もかも全部受け入れてやりたいと
思った。あの大きな傘のように。
だけどまた私は、何も言えなかった。
梓は独りじゃないと。

37: 2010/12/16(木) 16:20:43.62
――――― ――

いくら頭を絞ったって、歌詞なんて何も浮かんでこない。
あの日から私はしばらく、受験の為に部室に行ってなかった。
滑り止めの受験を昨日終え、午後から学校に行く前に滞っていた作詞ノートを広げて
みたが、やっぱり何も浮かんでこない。

そういえば昨日の夜から携帯を開けていなかったことを思い出し、私は気分転換に携帯を
開いた。メールが二通、届いていた。一通は唯から、もう一通は梓からだった。
唯は「明日学校に行くよ」というものだった。
唯と私は同じ、澪とムギは別の大学で滑り止めの受験を受けていた。
携帯の時計を見ると、もう昼過ぎ。今から返信しても遅いだろう。
唯のメールを閉じ、梓のメールを開けた。「受験お疲れ様です!」とあった。
一斉送信じゃないところが梓らしい。

昨日、澪と学校に行っていたらしいムギから、「梓ちゃんが無理しているように見える」と
メールを貰った。
暗い顔はしていないけど、無理して笑ってたんだと澪の心配そうな声が蘇る。
ふと時計を見ると、そろそろ下級生の授業が終わる時間だった。
私は携帯を閉じると、重い身体を上げた。

38: 2010/12/16(木) 16:27:34.59
――――― ――

校門の前で、ムギの後姿が見えた。
私は走り寄ろうとすると、ムギのすぐ手前で溶けかけた雪に滑ってかっこ悪く
転んでしまった。

「大丈夫!?」

「なんとか」

慌てて傍によってきたムギの手を借りて起き上がる。
激しくしりもちをついてしまったせいで痛いお尻を擦りながら、滑ったとき放り投げて
しまった鞄を拾い上げる。雪のせいで少し濡れていた。
雪を払い、再び鞄を肩に掛ける。そして何食わぬ顔をしてムギに向き直った。

「ムギも今来たとこ?」

「えぇ、午前中は家で少しゴタゴタがあったから」

「大変だな、ムギも」

39: 2010/12/16(木) 16:30:45.04
二人並んで校門をくぐる。
今日最後の授業が終わり、部活をしようと運動場に出て行く生徒がちらほら見え始める。
梓もきっと、寒々しい部室にいるのだろう。
そう思うと、なぜか早足になるのではなく、足が重くなってしまった。
梓に合いたくないわけじゃ無いし、部室に行きたくないわけでもない。
ただ、あの広い部室に一人でいる梓を見るのが怖いと思った。
私たちの軽音部がもうすぐばらばらになってしまう、そんな感覚に陥りそうで。

慣れない受験勉強と最近の頭痛がするほどの悩みのせいなんだろう。
だからそんなふうに思うのかも知れない。
怖がり、弱虫、へたれ。そんな風に自分を貶めても足は鉛のように重いまま。
それでも私は靴を履き替え、何も言わずに部室の方向へ歩いていく。
しかし、職員室の前まで来た時、とうとう私の足は止まってしまった。

「りっちゃん?」

「あ、えーっと」

自分の中でコロガル色々な気持ちを整理するための――否、逃げるための言い訳を
必氏で考える、そんな自分が情けなくなる。

「ほら、私一応第三志望まで合格したし言いに行こうかなって、さわちゃんに!」

一昨日、一応受けておいた短大から合格通知が届いていたことを思い出す。
本当は昨日受けた第二志望、そして皆一緒の第一志望の合格発表を終えてから、
唯たちと一緒に報告しに来ようと思っていたが、今私が職員室に寄る理由なんてそれくらいしか
思いつかなかった。
ムギは特に何も疑問に思わなかったのか、「わかった」と頷く。

40: 2010/12/16(木) 16:36:00.50
「先部室に行っててくれていいし」

「ううん、待っとくね」

ムギは私の言葉に首を振ると、そう言って微笑んだ。
それを見て、罪悪感や何かで胸が押しつぶされそうになる。
私は「ありがとな」と言って職員室のドアを開けた。

「あら、りっちゃん」

ドアを開けて中に入るとすぐに、だらけるさわちゃんの姿が目に入った。
三年生が自由登校とはいえ、受験のこの時期、仕事が多いのか職員室にある
教師の姿は多い。
さわちゃんの机の上にも山積みの書類の束が置かれている。
さわちゃんは私を見つけると、いらっしゃいと言う様に手を振った。
私が近くまで行くと、机に突っ伏していた身体をしゃんと伸ばした。

「一人で職員室に来るなんて珍しいわね。いつもは必ず澪ちゃんとか、誰かを従えてるのに」

「いや、従えてるってさわちゃん……。今はムギが外で待ってる」

「ムギちゃんなら着いて入ってきてもおかしくないのに」

「さわちゃん、ムギをどんなふうに見てんだよ……」

「とっても良い子よ、りっちゃんよりも数倍ね」

「ひどっ」

41: 2010/12/16(木) 16:40:47.83
本当のことじゃないの、とさわちゃんは笑いながら机に頬杖をつくと、
「それで?」と話を変えた。
私が職員室に来た理由を訊ねているんだろう。

「あ、一応第三志望までは受かったって言いに来た」

「そう、良かったわ。りっちゃん第三志望までは合格、ね」

さわちゃんは私の言葉を繰り返しながら、ファイルを広げてそれを書き込む。
それから緩慢な動きで私に向き直ると、「第一志望受かってなかったらここで進学で良かったのよね?」と
訊ねてきた。

「……うん」

「何深刻そうな顔してるのよ。自信ないとか試験できなかったとか今更くよくよ
後悔したって遅いでしょ?まありっちゃんはよく頑張ってたと思うし受かってると
思うんだけど」

違う。
受かってないかもとか、もっと勉強しておけばよかったとか、そんなんじゃない。
もし受かってなかったら私は一人違う大学に進むことになる。
そうしたら、私たちはどうなってしまうのか。ここ数日ずっと考えていたことがまた
頭に浮かんだ。

42: 2010/12/16(木) 16:44:07.74
「さ、りっちゃん、部室行くんでしょ?」

「え?あぁ、うん」

「私もムギちゃんのお菓子貰いに行こうかしら」

さわちゃんはそう言って、ファイルをパタンと閉じた。
その時、何かの写真がポ口リと私とさわちゃんの足元に落ちた。

「あ……!」

「何々?彼氏の写真?」

私はいつもの“明るい自分”に戻りたくて、さわちゃんをからかう種を
見つけたとさわちゃんが動く一瞬前にそれを拾い上げた。

「……これ」

表を向けると、その写真には、高校時代のさわちゃんと、組んでいたバンド仲間の
人たちが写っていた。
さわちゃんを弄る絶好の道具のはずなのに、私は何も言えなかった。
伸びてきたさわちゃんの手が写真を奪い返す。私はその写真を急いで隠そうとしている
さわちゃんに訊ねた。

「なあさわちゃん。さわちゃんが昔組んでたバンドの人たち、皆違う大学に行ったの?」

さわちゃんは、突然の私の問い掛けに首を傾げながらもそうよ、と頷いた。

「私たち全員、やりたいこと違ったから」

43: 2010/12/16(木) 16:47:27.26
「嫌じゃなかった?怖くなかった?」

「怖いって何で?」

「だって、今まで見たいに話せなくなっちゃうじゃん!ずっと一緒にいられない、
もしかしたらそのままもう二度と会えなくなるかも知れないのに!」

考えたくも無い、そんなこと。
だけどそんなふうに考えてしまう。
梓の言葉がずっと頭に残っている。梓のほうが私なんかよりずっと寂しいはずなのに、
部長である私は自分のことで精一杯でたった一人の後輩を笑顔にすることさえ
出来ない自分が嫌になる。

「それは確かに思ったわよ。でもその頃はまだ高校生で、一応未来だって明るかったんだから、
なんだかんだずっと私たち全員一緒なんだろうなって。そんなふうに漠然と思ってたわ」

さわちゃんは、肩を竦めてそういうと、写真をファイルに戻した。
そのままファイルを引き出しに仕舞う。

「実際、私たち高校生のときみたいじゃないけど今でも親交あるし」

44: 2010/12/16(木) 16:51:53.81
離れたくても離れられないものなのよ、とさわちゃんは言った。
そういうものなの、仲間って、と。

「りっちゃんたちも、きっとこれからも嫌になるくらいずーっと一緒よ。もちろん、
梓ちゃんだってね。離れたって今までの絆なんて消えるわけないんだもの」

そうだ、少し離れたぐらいで私たちが全員、心まで離れ離れになるわけがない。
わかってたのに。
私は自分自身のその言葉が信じられなかった。
だからずっと怖くて怖くて仕方なかった。

「私、いいこと言っちゃった?」

「今ので全部台無し」

キャハッと笑ってさわちゃんにそう言うと、
さわちゃんは唇を尖らせながら立ち上がった。

「いいわよ別にーっ。あとりっちゃん」

「なに?」

部室に行くんだろう、足を弾ませながら職員室の扉を開けたさわちゃんは、
私を振り向いた。

「もう少し、軽く考えなさいよね」

「……うん」

――――― ――

45: 2010/12/16(木) 16:58:15.70
職員室の外に出ると、待っていたムギのほかに、
なぜか唯と澪までがいた。

「待たせてごめんな、ムギ。ってか何で唯と澪もいるんだよ?」

「りっちゃん隊員が遅いからだよっ!」

「唯がな、梓に贈る曲の歌詞考えたから、まず律に見て欲しいって」

唯が自信たっぷりな顔をして、私にいつか見たノートを差し出してきた。
何で私が最初なんだ?と訊ねると、唯は「何となく!」と得意げな顔で言った。
私は呆れながら、ノートを開ける。

「先生、この曲のことは梓ちゃんにはまだ内緒にしててくださいね」

「わかってるわよ。その代わりお菓子二倍ね」

「お、大人気ないっ」

私は、あるフレーズのところで止まってしまった。
唯がえへへと笑う。

「“卒業は終わりじゃない”」

「“これからも、仲間だから”……?」

「そうだよりっちゃん!あずにゃんも私たちも!」

さわちゃんを見ると、さわちゃんはただ、
優しく微笑んだだけだった。

46: 2010/12/16(木) 17:00:04.72

「このフレーズね、ほんとは和ちゃんが考えてくれたんだーっ。和ちゃんがね、
私にそう言ってくれたから」

唯は誇らしげな顔でそう言った。
そうだ、唯の幼馴染の和は違う大学に行くんだ。それなのに和は。
今まで悩んでいた自分が急に恥ずかしくて馬鹿らしくなる。
和はいつも、私が出来ないことをやってのける。
もちろん唯もムギも。私を受け止めてくれていた大きな傘は、澪だけじゃない、
皆や、それに梓だって。
今更そんなことに気付いた私は、ぐっと唯のノートを抱き締めた。

そして、梓のことを思い出す。
私は伝えなきゃいけない。皆が私に伝えてくれたことを。
そして、今度はちゃんと、部長として、一人の先輩として、そして仲間として、少しでも
梓のことを受け止められたらいい。皆や、梓が私にしてくれていたように。

――――― ――

48: 2010/12/16(木) 17:04:44.11
窓の外では雪が降っていた。
部室には、誰もいなかった。

「あれ、あずにゃんは!?」

「唯、梓さっきはいたのか?」

「いた!私たちが律とムギ探しに行くって言ったら部室で待ってるって言ってたんだけど……」

久しぶりに戻った部室に、梓の姿はどこにも見えなかった。
ムギが「鞄はあるわ!」と言って携帯を開けた。梓に連絡してみるつもりなのだろう。
さわちゃんが椅子に座りながら呑気に「トイレじゃない?」と言ってぼんやりした視線を
外に向けた。「あら、すごい雪」と呟く。

「でもでも、今日のあずにゃん変だったし……」

私は踵を返していた。
玄関に向かって走る。後ろからムギや澪の声が追いかけてきたが振り向かなかった。
もしかして、という思いが私を突き動かす。
玄関まで来ると、和と会った。

「律?」

「悪い、今急いでるから」

靴を履き替え、雪野降る中飛び出そうとした私を、和が呼び止める。
「律、これ!」と和は何も訊ねることなく、私に和の持っていた大きな傘を
貸してくれた。それを受け取り、「ありがとな」と礼を言って、改めて外に飛び出した。
後で和にはちゃんとお礼を言わなきゃ、と思いながら。

49: 2010/12/16(木) 17:09:24.91
コートを着たままだとはいえ、雪でおまけに風もあるから震えるくらい寒い。
それにまだ夜ではないのに、天気のせいか暗かった。
それがあの日の夜と重なる。
でも、大丈夫。今の私は、ちゃんと信じられる。ちゃんと梓に言える。
そう自分に言い聞かせて、私は進んだ。

――――― ――

「風邪引くぞ、あーずさ」

「っ!?」

降り頻る雪の中、寒そうに身を縮めながら祭壇の前に蹲る梓は、驚かそうという
魂胆は全くなかったのに、随分と驚いてくれた。梓の唇が「りつ、せんぱい」と動いた。
そして激しく咳き込む。私は慌てて傘をさしかけて、腕を引っ張り立たせた。

「って、もう風邪引いてるじゃん」

「すいません……」

「ほら、戻るぞ、コートも着ないでよくこんな寒い中いれたな」

「律先輩、部活は?」

「梓がふらふらどこかに行っちゃうから。何でこんなことしたんだよ?唯なんか
真っ青になってたし、梓が変な気でも起こしたんじゃないかって」

実際にはどうか知らないが、唯が梓を心配していたのは本当だ。澪もムギも、私だって。
梓はまた「すいません」と項垂れた。

73: 2010/12/16(木) 21:46:48.16
「最近の私、確かに変でしたよね。自分では明るくしようとしてたんですけど、
どうしても先輩たちがいなくなることを考えると怖くって」

「……そっか」

「だけど心配掛けちゃだめだって思ったんです、結局迷惑掛けちゃったんですけど」

支離滅裂な梓の言葉。
自分でもきっと、何が言いたいのかわからないのだろう、必氏で言葉を捜しているように
見えた。

「私、心配かけないように軽音部続けられるように、ちゃんと部長にならなきゃと思って」

「梓なら私よりいい部長になれるだろ」

ここでいつもの如く、「当たり前です」と言うんだと思っていた。
そう言って笑って欲しかった。
しかし違った。

「……違うんです」

「え?」

「律先輩じゃなきゃ、だめなんです……っ!ギターだって唯先輩じゃなきゃだめだし、
澪先輩やムギ先輩がいなきゃだめなんです!」

あの夜と同じ距離にある梓の大きな瞳は、
やっぱりあの夜と同じく濡れていた。

74: 2010/12/16(木) 21:48:05.03
「先輩方がいなきゃ意味ない……っ、こんなこと言っても困らせちゃうだけだけど……でも私、
いくら頑張ったって律先輩みたいになれないんです、先輩みたいな部長になりたいのに、私は……」

「梓」

私は最後まで聞かずに、梓の声を無理矢理遮った。
最後まで聞くことが出来なかったわけじゃない。
最後まで言わせたら、梓はずっと気にするだろうから。
なんて、これもやっぱり自分に対する単なる言い訳なのだが。

「いいよもう」

全部受け止められる自信がないだけだ。
梓の苦しみから、少しでも逃れようとしている自分がいる。

全部受け止めたいと思ったはずなのに。ちゃんと伝えなきゃいけないことがあるのに。
梓の不安が自分に乗り移ったみたいに怖気づいてしまう。
梓は私の声にはっとしたような表情を見せた。

77: 2010/12/16(木) 21:51:10.00
「すいません」

何度目だろうか、梓のすいません。
心なしか、梓の頬は赤く染まっているようだった。
それに足元もおぼつかない。

「梓、お前熱……!」

「律先輩、覚えてますか……?」

「……え?」

「私、が、……って、訊いた……と」

――――― ――

78: 2010/12/16(木) 21:52:52.32
『私が律先輩はどうして軽音部で演奏しているんですかって訊いた事』

『あの子、りっちゃんみたいな部長になりたいって言ってたの、健気ねえ。あぁ、でも納得だわ、だから
りっちゃんに似てきたなって思ったのね、私。梓ちゃんなんだかんだ言ってもあなたたちのこと大好きだし』

喘ぐような梓の声と、さわちゃんの声が重なる。
傍で穏やかな寝息をたてている梓の横顔を見詰める。
脳裏に記憶の断片が映し出されていく。

多分、私が二年生のときだったと思う。
初めて部室で二人きりになった日、梓は突然聞いてきた。

『律先輩はどうしてこの軽音部で演奏してるんですか』と。
その時の私は、なんと答えたのかよく覚えていない。
しかし、『自分のため』と言った気がする。

廃部しかけた軽音部を再建したのも、最後まで続けたのも、きっと自分のため。
今でもずっと。自分が、音楽が大好きだから。

80: 2010/12/16(木) 21:54:07.79
梓の汗ばんだ額に手を当てた。
外はもうすっかり暗い。倒れてしまった梓は、あの後すぐに追いついてきた唯たちが呼んだ救急車で
病院に運ばれた。一時期危険だったが、今は解熱剤のおかげで落ち着いている。
熱が完全に下がれば、明日にでも退院できるそうだ。
梓の家族は夜泊まりこみで梓を看ると言って荷物を取りに一旦帰って行った。唯たちも、
外に出たっきり戻ってこない。

「無理しすぎだっつーの」

私は呟くと、梓の眠るベッドに頬杖をついた。
さわちゃんや、唯伝いに憂ちゃん(救急車を呼ぶとき間違えて憂ちゃんにかけてしまったらしい)に聞いた話じゃ、
梓は私たちが四人とも同じ大学に行ける様に毎日お参りしていたらしい。
だからあの日の夜も、今日だって、お参りするためにあの神社に行ったんだろう。

ふと時計を見ると、面会謝絶時間までもうあと少しだった。
梓とは明日話せるし帰ろうかと立ち上がりかけたときだった。梓が小さく身動ぎをした。
ゆっくりと目を開けた梓は最初、自分がどこにいるのかわからなかったらしく、傍にいた私を見ると
ガバッと起き上がった。

「律先輩!?ここ……」

「病院。梓、ひどい熱出して倒れたんじゃん」

「あ……」

81: 2010/12/16(木) 21:56:21.08
徐々に思い出してきたらしい梓は、真っ赤ではなく真っ青になっていった。

「熱、まだある?しんどい?」

「あ、あの律先輩、私勝手に部室抜け出して……」

梓は私の問い掛けには答えずに、また「すいません!」と頭を下げた。
どうやら今日は一日ずっと熱があったらしい。
だからさっきの梓はやけに素直に話したんだなと納得する。

「熱でぼーっとしてて正直よく覚えてないんですけど……雪が酷かったから、あずにゃん三号を
助けにいこうとしたんです」

「あずにゃん三号?」

「あ……っ。えと……神社にいる、野良猫、です」

梓は上目遣いに私を見ながら言った。
私は笑いを堪えながら先を促す。

「そのあずにゃ……猫を神社の屋根があるところに避難させた後、動けなくなっちゃったんです」

「そこで私が颯爽登場ってわけか」

梓が「そうですね」と小さく笑った。でも何となく、
梓が部室を抜け出した理由は他にある気がした。一人の部室が嫌だったからなんじゃないか。
梓の横にある窓ガラスは曇っていた。短い沈黙の後、何か言おうと私は思考をめぐらせた。
しかしそれより早く、梓は口を開いた。

82: 2010/12/16(木) 21:58:48.98
「……先輩、私が言ったこと、気にしないでくれて良いです、あの、あれは単なる妄言って
いうかですね……だから」

「覚えてるよ」

「え……?」

「梓が私に変な質問してきたこと。自分がなんて答えたかはよく覚えてないんだけどな」

梓は驚いたように私を見て、恥ずかしそうに俯いた。
それから、言葉一つ一つを搾り出すようにして、梓は言った。

「『自分のためなんじゃない?私は部長とかそういうの以前に一人の音楽好きだからな』」

あぁそうだと思い出す。
確かに私はそういった。胸を張って誰かの為なんてことは言えないし、言う気もない。
好きでやってることなんだから、自分のため。
演奏することで私は自分の弱さやずるさを忘れていられる。音楽の土台であるドラムを
叩いていると、皆の全てを受け止められるような、そんな錯覚を覚えた。
だから、誰かのためとかそんなつもりで叩いてるわけじゃなかったけど、誰のためと
問われれば自分のためなんだろうと思う。

「私、律先輩がそう答えたとき、初めて律先輩が凄いと思ったんです。その日から、私は律先輩みたいな
部長になりたいって思うようになりました」

梓は「悔しいですけど」と付け足して、言葉を続けた。

83: 2010/12/16(木) 22:00:39.31
「でも……いざ先輩たちの卒業が近くなって、私が部長になるんだと思うとわからなくなって。だから先輩の真似しよう
と思ったんです、明るく笑って何があっても泣かないって」

『部長っつーもんは、皆のリーダーなんだし涙は見せちゃいけないんだぜ!』

ふざけて唯にそう言っていたことを思い出す。
そして、泣きそうになりながらもぐっと堪えていた梓を。
私のあの言葉が、梓の涙を塞き止めていたのか。

「けどやっぱり全然だめで、先輩たちが卒業の話をしてたりするだけで、
自分が置いてきぼりな気がして……」

馬鹿だなあ、と思う。
置いてきぼりなわけないのに。けど、自分だっていつか皆離れてしまうんじゃないかって
思ってた。本当は、今でも少し。
やっぱりまだ、私は弱いままで、梓にとっての大きい傘になんてなれない。
梓は言葉が欲しいんだと思う。確実な言葉が。

「律先輩、先輩たちが卒業しても軽音部はなくなりませんか」

84: 2010/12/16(木) 22:03:01.46
面会終了の報せが梓の声と重なった。
外から、誰かの走る音が聞こえた。梓の家族が戻ってきたんだろう。
私は何も言わずに腰を上げた。そのまま病室のドアを開ける。

「律先輩……」

梓の不安そうな声。
私はそれを聞かない振りをして、そして梓を振り向いた。
目に一杯の涙を溜めた梓と目が合う。

「梓は自分らしくでいいんだよ」

私は言った。今はこれしか言えない。
もし軽音部がばらばらになったら、なんて考えたくも無いし、そんなこと絶対にないけど。
もしものときは辛いから。自分を守るための予防線。
だけど、梓が新しい軽音部で部長になっても、私たちにとっては大切な後輩なんだから。
私の真似なんかしなくていい、自分らしく、今の梓のままでいて欲しい。

梓は何も答えなかった。
だから私はそのまま病室を出た。

ちゃんと「永遠に一緒」だと信じられたとき、その時に梓に、そして自分自身に伝えよう。
みんなが伝えてくれたことを。
それまでは、忘れないように、私たちの曲を歌い続ける。自分のためにも、梓のためにも。
そう思ったとき、私は気付いた。本当に簡単な答えに。

――――― ――

85: 2010/12/16(木) 22:04:14.50

「あ、りっちゃん!」

外に出ると、唯たちが待っていた。病院の人に追い出されたらしい。
けど私は、皆が気を遣ってくれたんだと勝手に思うことにした。
そういえば、いつのまにか雪は止んでいた。

「明日晴れるといいわねえ」
「合格発表の日だもんな」

ムギと澪が、暗い空を仰いでいった。
唯が晴れるよ!と自信満々に笑った。

「だといいな」

皆これからもずっと一緒にいれればいい。
今はまだ、わからないけど。

でも、私たちはきっと離れないんだと思う。
だって、私たちは私たちの歌で繋がってるんだから。

86: 2010/12/16(木) 22:05:04.43
何だかすっきりした。今なら梓にちゃんと言える気がした。
でも私は梓のいる病室の窓を見上げただけで何も言わなかった。
今度、梓が元気になって戻ってきたとき。
梓のために歌おう。
言葉ではまた臆病風に吹かれて上手く言えないかも知れないけど。
歌ならきっと、上手く伝えられるから。

私たちはずっと仲間だよと。

車のクラクションが鳴った。
見た事ある車が病院の駐車場に止まっている。
唯が「さわちゃん先生!」と駆け出していった。私も唯に負けじとさわちゃんの車に向かって走り出す。

「おい、律、唯!」

「そんなに走ると滑っちゃうよ!」

澪とムギの忠告もむなしく、私はさわちゃんの車のすぐ手前で勢い良く滑ってしまった。
一足早くさわちゃんの車についた唯が笑っている。
ムギと澪が慌てて駆け寄ってくる。
私は尻餅をついたまま、雪の上に仰向けに寝転がった。
さわちゃんが車から顔を出して「汚いわよー」と言っているのが聞こえた。

空には五つの星が寄り添うように輝いていた。

終わり

87: 2010/12/16(木) 22:07:13.94
最後まで付き合ってくださった方ありがとうございました。
途中、遅くなってしまいすいませんでした。

88: 2010/12/16(木) 22:10:29.18
お疲れ様

引用元: 律「君のために歌おう」