6: 2012/12/14(金) 09:14:39.62
その日の朝は、とても気持ちのいいものだった。
俺の担当アイドル、天海春香が全てのアイドルの頂点を決めるIUの予選を勝ち抜き、本選に進んだ日の翌日だったからだろう。
アイドルランクもAに昇格し、名実共に先頭集団の仲間入りだ。
真のトップまであと少し、その興奮のせいだったのかもしれない。
目が覚めた時はいつもに比べてかなり早い時間だった。
二度寝を考えたが、せっかく早起きしたのだからたまには優雅に朝食を楽しもうと思い、着替えて外に出た。
春香の人気も上がるのに比例して、俺の給料も上がったおかげで白飯に漬物というひもじい飯に悩まされることもない。

「さて、何を食べるかなあ」

和食か洋食かと悩んでいると……

ズシーン!! ズシーン!!

「な、なんだ? この地響きは……って、うわああああ!?」

地響きのする方向、後ろを振り返ってみると黒い影が俺を覆う。
次の瞬間には、俺の体は黒い影に飛びつかれて倒れていた。
振り払おうと、無我夢中になってもがきあがく。
しかし、黒い影の主にがっちりと組み敷かれてしまっているためうまく力を入れることができない。

「いぬ美―! どこ行った、いぬ美―! 自分が悪かったからさー!」

遠くから聞きなれた声が聞こえてくる……この声は、我那覇響?

「あ、なーんだ! 765プロとじゃれていたのか!」

じゃれている? 襲っているの間違いじゃないのか?
だけど、今の響の言葉でつかめてきた。こいつ、また動物を逃がしたんだな。

「またお前か、響! なんなんだ、このクマみたいなバカでかい生き物は!?」
「クマじゃないよ。いぬ美はセントバーナードっていう種類の大型犬だぞ。まあ、いぬ美はその中でもかなり大きい方なんだけどね。普通の3倍くらいあるんだから」

3倍って、どっかの専用機じゃないんだぞ。あれは乗り手の技術の賜物らしいが。
にしたって、いくらなんでもこの犬は大きすぎる。
というか、いぬ「美」?

「なあ、響、ちなみにこの子の性別は?」
「そんなの当然メスだぞ。でなきゃ、いぬ美なんて名前つけないし」
「そ、そうか……」

顔を上げて、目の前の巨大な犬の股の間を見てみる。
なるほど……ついていない。確かにこの犬はメスだ。

「いぬ美は朝早くじゃないと歩かせられないんだ。いぬ美をみると、なぜか皆悲鳴をあげるんだよ」

おかげで健康診断に連れて行くのにも一苦労らしい。
まあ、こんなのが日中の街中を歩いたら大騒ぎになるだろうな。

「そうだ、765プロがいぬ美を隠しながら動物病院まで歩いてくれると助かるぞ!」
「犬が巨大すぎて俺の体じゃあ隠しきれないと思うけど、時間もあるし別にいいぞ」
「やった! 765プロって時々いいやつだよね。変態のくせに!」
「変態は余計だ。それより、はやくこの犬をどかしてくれ……重い」
「あっ、うん。ほら、いぬ美おいで」

響の言葉で、いぬ美が俺の上からどいてくれる。
俺は立ち上がってスーツについた、いぬ美の毛を払う。
一応、あとでクリーニングに出しておこう。

「それじゃあ行くぞ、765プロ! しっかりいぬ美を隠してくれよ!」
「はいはい、わかったよ」

7: 2012/12/14(金) 11:30:20.13
「……」
「……」
「ぷっ……くすくす」
「笑うなよ!」

ただ普通に響と並んで歩くだけでは、いぬ美の大きすぎる体なんて隠せるわけもない。
そうなるといぬ美を隠すために体全体を使わなくちゃいけないわけで。

「765プロの歩き方……カニみたいで、アハハハハ!」

手足を大きく開いて横に歩く俺を見て、爆笑する響。
道路沿いのカーブミラーを覗いてみると、いかに自分が間抜けな格好をしているかわかる。
くそぅ……なんなんだよ、もう。

「いやー、でも、ちょっと変な感じだぞ。もうIUも本選だっていうのにライバル事務所のプロデューサーと犬をつれて歩いているなんてさ」
「ああ、全くだな」
「いぬ美を移動させる時には便利だね、プロデューサーがいると」
「一応いっておくが、こういうのはプロデューサーの仕事じゃないからな」

小間使いか何かと勘違いしてるんじゃないか?
まあ、果汁100%のオレンジジュース買ってこいとか言って、そういう扱いをしてくるアイドル候補生が身近にいるが。

「じゃあ、どういうのがプロデューサーの仕事なんだ?」
「そう…だな」

カニ歩きをしながら自分のやっている仕事を思い返してみる。
春香の売り込みの企画をすることもあるし、仕事におけるタイムキーパーもするし、レッスンの指導だってやっている。
プロデューサー、マネージャー、トレーナーと三職一体になっているのは、高木社長の「アイドルと共に歩んでいく」という考えが強く表れているからなのだろう。

「とりあえず仕事は色々とあるが……アイドルに的確なアドバイスをすることが一番の仕事かな」
「ふーん、それなら自分にも的確なアドバイスしてみてほしいぞ」
「それなら、一つだけ言わせくれ。響、黒井社長から離れろ」

響の顔があからさまに嫌なものになる。それもそうか、会うたびにしつこく言っているからな。

「またその話か。何度も言ってるだろ、自分は961プロのやり方でトップになるだって!」
「その961プロのやり方が響に合わないと思ったから、こうしてアドバイスをしているんだ」

以前の俺はプロデューサーとしての自信がなくて言葉にできなかったが、今ならハッキリと響に伝えられる。

「今の響は、黒井社長に利用されているだけだ」

以前、テレビ局の方に新作のPVを渡しにいった時に黒井社長と話したことがあったが、
あの人は自分の名誉のことしか考えていない。
自分の事務所のアイドルに金をかけているなどと言う人だ。
おそらく、かけた金に見合う働きが出なくなったら簡単に捨ててしまうに違いない。

「響にも思うところがあるんじゃないのか?」
「くぅ……」
「今の俺なら少しは響の力になれる。思い切って黒井社長のやり方から離れてみないか?」
「でも、黒井社長の元を離れたとして、その後どうすればいいかわからないよ」
「その時は、響のプロデューサーについて一緒に頑張ればいいと思う」
「一緒に……でも自分、今までほとんど一人でやってきたからなあ。プロデューサーなんてついたら息が詰まるんじゃないかな?」
「なるほど、そういう考え方もあるか」

一人で何かするっていうのは、自分のやり方に文句を言う人がいないということだ。
そんな状況でやってきた響に、プロデューサーがついてあれこれ言ってくる。
響からしてみれば、自分のやり方にケチをつけられたようなもので気分が悪いものになるかもしれない。
それでも、やっぱり何かを言ってくれる、指摘してくれる人間は必要だと思う。
俺は春香との活動の中で、確かにそれを実感していた。
仕事の都合で、春香一人のセルフレッスンをさせた時はやっぱり俺とレッスンした時ほどの効果が得られなかった。
そして、何よりアイドルの支えとしてプロデューサーの存在は不可欠だ。

「よしっ!」

響にプロデューサーがいるってどういうことか。一人じゃないってどういうことか。
俺がそれを響に教えてやるには一つしかない。

「俺に響のプロデューサーをやらせてくれないか?」

10: 2012/12/15(土) 11:42:35.42
そうそう、そうだった。
いぬ美を動物病院に連れて行く途中でプロデューサーの仕事がどんなものかって話になって、
それで765プロが自分のプロデューサーをやらせてくれだなんて言い出したんだった。

「765プロ、春香の方はどうするつもりなんだよ」

そうだ、765プロには担当アイドルの春香がいるはずなんだ。だから、自分のプロデュースなんかする意味なんかないはずだ。

「もちろん、春香のプロデュースは継続するさ。ただ今週はオフにしてあるんだ」
「えっ!?」

アイドルが休みをとる? 信じられないぞ。
だって、アイドルなんだから周りにはライバルばっかりなんだから活動し続けないと
ファンにアピールし続けないと、あっという間にライバルに抜かれていくぞ。
765プロ、IU本選に進んだからって気が抜けているんじゃないのか?
そんなだらしない人が、自分のプロデューサーにつくのか。
断った方がいいかも……

「ここのところさ……」

自分がそんなことを思っていると765プロは少し申し訳なさそうな、暗い顔をして話し始めた。

「生放送だ、武道館ライブだ、特別オーディションだ、IUの予選会に出場するためのファン数を獲得するために、春香にはオーバーワーク気味で仕事をやらせちゃっていたんだ」

IUの最終予選、それに出場するためにはかなりのファン数が必要なのは自分も黒井社長から聞いているぞ。
まっ、カンペキな自分にとっては大したことじゃなかったけど、765プロみたいな貧乏事務所は苦労したかもな。

「それでいて、昨日の本選の出場をかけた戦いだったろ。
勝ったからよかったけど春香にはかなり重たいもの背負わせてしまってたから、
張り詰めたものを一旦緩んでもらおうと思ってたんだ」
「でも、それじゃあ休んでいる間にライバルに先を行かれちゃうぞ」
「しっかり休んだ後に、しっかり追いついてやるさ」
「ふーん」

そういう考え方もあるのか。765プロも色々と考えているんだな。

「春香がオフのこの一週間だけ……そうだな、響にとってはお試し期間だな」
「お試し期間……」
「そう、765プロのやり方を通して響が何かを感じ取ってくれれば嬉しいよ」

できることなら、961プロを離れて欲しいけど……と小さく言う765プロ。
本当にそればっかりだな。

「765プロ、何か企んでいるんじゃないだろうな?」
「そんなことはないって……信用ないんだな、俺」

変態事務所の変態プロデューサーなんだから当然だよ。
でも……

「そうだね、貴音も言ってたんだ。オノレノケンシキを広めるのは良いことだって」
「貴音……あの銀髪の子か」
「それって見方を変えてみたり、別の方法をやってみるってことでしょ?」
「まあ、そういう意味だな」
「だったら、ちょうどいい機会なのかも」
「それじゃあ……」
「うん、一週間……一週間だけ765プロに付き合ってやるぞ」
「そっか……ありがとうな、響。こっちの急な申し出を受け入れてくれて、とにかく一週間、よろしくな」
「自分は、765プロのやり方に付き合うだけだ。765プロと馴れ合うつもりなんて全然ないんだからな」
「わかってるよ」

うぅ、なんでそんなニコニコしているんだ、765プロ……

「ほら、さっさといぬ美を動物病院に連れて行くぞ!」
「あっ、待ってくれよ、響!」

こうして、自分と765プロの一週間が始まったんだ。

13: 2012/12/21(金) 11:00:42.97
「待たせたな、765プロ」
「おっ、終わったか」
「765プロ、病院の外で何してたんだ?」
「たいしたことじゃないさ、少しな」

響が動物病院にいぬ美を預けている間、俺は高木社長に響のプロデュースについて連絡していた。
初めは何事かと驚かれたが、俺の考えを話すうちに俺の意図を理解してくれたようだ。
高木社長自身も響のことを気にかけているみたいだし、少し渋い声をしていたが了承してくれた。

「それで765プロ、自分をプロデュースするっていうけど具体的にはどうするんだ?」
「そうだな……とりあえず初日だから、まずは響の実力を知りたいかな」

IUの予選でも、いつも先に合格されて遂には本選まで直接対決することはなかった。
もちろん、テレビで響の姿は何度も見ることはある。
でも、それはあくまで画面越しであって間近で見る機会はなかった。
響の実力を知るチャンスは何度かあった。
765プロの下に送られてくる961プロからのオーディションへの招待メール。
大手芸能プロダクション961プロが参加するということもあってか、合格すればかなりのファンを獲得できる番組のオーディションだった。
魅力的ではあったが、高木社長は罠の危険性が高いと、俺に忠告をしてくれたこともあってメールは無視していた。
そういった事情もあってか俺自身、響の実力はほとんど知らないようなものだった。

「自分の実力か。でも765プロ、今更そんなの知る必要なんてないと思うぞ」
「それは、またどうして?」
「トップアイドルになる! それが自分の実力だぞ!」

目の前で胸を張って、堂々とそんなことを言う響。
正直、驚いた。
春香を含めて、予選という篩にかけられて名実共に実力者が周りにいる。
そんな先頭集団の中にいるというのに、響は物怖じせずに自分がトップアイドルになると言ってのけた。
それどころか、自分がトップアイドルになることを当然のように信じて疑っていない。
このある種の傲慢さ、961プロは王者を育てる場所と言われているが、確かに響の自分に対する絶対の自信は王者に相応しい。
そんな響の、その圧倒的な自信に、王者としての風格に、俺は言葉を奪われた。

「……」
「どうした、765プロ。ボーッとして」
「あっ、いや、何でもない。それより響、言いたいことはわかるけど、それだと漠然としすぎている」
「ええ~、だって本当のことだぞ」
「さっきも言ったけど、プロデューサーの仕事はアイドルに的確なアドバイスをすることだって言ったろ? そうなると、やっぱり細かいところまで知っておかないと、的確なアドバイスも何もないからさ」
「それは……まあ、そうだね」
「よしっ……それじゃあ、レッスン場へ向かおう。場所は、普段765プロが使っている所でいいよな」
「あれ、961プロが使っている場所じゃないのか?」
「そこだと黒井社長が来るかもしれないだろ」
「あっ、そうだね。黒井社長に765プロと一緒にいるところなんか見つかったら、また怒られちゃうぞ」

17: 2012/12/27(木) 11:04:21.14
765プロに連れられてきたレッスン場、そこは広くてとても清潔感のあるところだった。
普段、自分が使っている961プロのレッスン場ほどじゃないにしろ、このレッスン場が質の高い所だってことは理解できたんだ。

「どうだ、響? 765プロが借りているレッスン場は?」

765プロが少し得意げな顔をする。
貧乏事務所の765プロが、こんないいレッスン場を借りられているなんて少し不思議だったぞ。
そのことを765プロに聞いてみると、

「765プロは女の子の夢を叶える事務所だからな。アイドルや候補生たちがいいレッスンを出来るように、質の高いレッスン場を提供しているわけだ」
「貧乏なのに?」
「削るところを削れば、意外にお金は集まるものさ。そう例えば……プロデューサーや事務員の給料とか」

おかげで昔は白飯に漬物が、と765プロは言葉を続けていたけど、どうでもよかったので聞き流した。

「それより765プロ、レッスンを始めようよ」
「それもそうだな。響、着替えてきてくれ」
「はーい、わかったぞ」

バッグを持って、更衣室に向かう。
あっ、そうだ……言い忘れていたことがあったぞ。
相手は変態事務所の変態プロデューサーだからな、ちゃんと言っておかないと。

「覗くなよ、765プロ」
「覗くか!」

トレーニングウェアに着替えて、765プロの前に立つ。
765プロは自分に、どんなレッスンをするのかな?
まっ、どんなレッスンでも完璧な自分にかかれば楽勝だけどな。
自分の実力を765プロに見せつけてやるぞ。



我那覇響というアイドルのレッスンの指導をしてみて、わかったことがある。
彼女は間違いなくトップアイドルの座を掴めるだけの実力を備えている。
ボイスレッスンではピアノの音に合わせて高音、中音、低音それぞれを巧みに使い分け、
表現力レッスンでは歌詞の意味を正確に理解し、歌詞に出てくる登場人物の心情を見事に表現してみせた。
そして、ダンスレッスン。
俺の手拍子に合わせて、響がステップを踏む。
手拍子の間隔は短いはずなのに、響の顔には疲労の色は見えず涼しい顔をしている。

「765プロ、もっとペースを上げていいぞ!」
「えっ、今でも十分早いぞ?」
「いいから! 自分、まだまだ動き足りないぞ!」
「わかった、ならペースを上げるぞ!」
「ふふん、望むところだね!」

響の要望に合わせて、俺は手拍子を更に早める。
これについていくのは、春香でもかなり難しい。最初はついていけるのだが、途中で足がもつれてしまい、転んでしまうのだ。
正直、このハイペースに完璧についてこれるのは765プロの中でも体を動かすのが大好きなあの子くらいしかいないだろう。
しかし、響はそれに安々と食いついてくる。
響と目があう……響は俺に向かってニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「もっと凄いのをみせてやる」

そんな声が聞こえた気がした。
次の瞬間、それまで俺の手拍子に合わせてステップを踏んでいるだけの響に変化があった。
響のダンスがより大きく力強いものへとなる。
見るものを圧倒するようなダイナミックな動き、それでいて雑じゃない。
指先までに神経を通わせ、流れるように綺麗に踊る。
大胆さと繊細さ、真逆の二つが見事に混ざり合っている。
気がついたら俺は、ダンスレッスンを終わらせるのが惜しくて、響のダンスがもっと見たくて、
子供みたいに夢中になって手を叩いていた。

18: 2013/01/12(土) 13:08:07.56
レッスンが終わり帰り道、俺と響は動物病院に預けてきた、いぬ美を連れて歩く。
もう外は暗いせいか、人の通りも少ない。また無様なカニ歩きをしなくてすむことにちょっと安心した。

「あー、踊ったぞ」

隣にいる響は楽しそうに笑う。あの後、響はレッスン場が使える時間いっぱいまで踊り続けた。
本当にダンスが好きなんだな。というか、あれだけ踊り続けられるなんてすごい体力だな。

「自分、毎朝動物たちの散歩ついでにトレーニングしてるからな!」
「というより、逃がした動物を追いかけているだけだろ」
「なっ……そんなことないよ」

たじろぐ響をみて、俺の指摘が図星だと確信した。
……わかりやすい奴。

「響、きょう一日俺と、プロデューサーと過ごしてどうだったかな?」
「どうだった……う~ん、そう言われても自分よくわからないよ」

響は頭をかきながら言う。
嘘を言うような性格でもないと思うので、よくわからないという響の言葉は率直な感想なのだろう。

「そうか、よくわからないか。そうだよな……」
「うん……」

765プロのやり方は、アイドルとプロデューサーの間で信頼関係を築いていくことで、二人が成長していく。そういう狙いがあるということを、高木社長から聞かされていた。
だが、信頼関係は一朝一夕で出来るものではない。長い時間をかけて築き上げるものだ。
普段から一緒に活動している春香ならともかく、これまでIUの予選会や俺が寄り道をした時にたまたま出会った響とでは一緒にいた時間が大分違う。(まあ、俺の申し出を聞き入れてくれるほどには信頼関係はできているが)
だから、きょう一日765プロのやり方を経験したからって響の中で何かが変わることなんてないのかもしれない。
よくわからないという感想も当然だと思えた。

19: 2013/01/12(土) 13:08:54.69
「あっ、でも……」
「ん?」
「なんていうかさ、今日のレッスンは……その、上手くは言えないんだけど、いつものレッスンとは違っていたんだ」
「それって、俺がいたからか?」

自惚れなのはわかっていたが、そう聞かずにはいられなかった。
響は「どうだろうね」と曖昧に返して、話し続ける。

「いつも一人でレッスンしているとさ、トップアイドルになることしか考えないでやっているんだ。ライバルに勝つことばかり考えて」
「本当に高い意識をもって臨んでいるんだな」

それなら、あの高い実力にも納得がいく。
トップアイドルになることへの、王座につくことへの執着のようなものが、今の我那覇響というアイドルの原動力なのだろう。
そして、それを引き出したのは間違いなく……。
黒井社長のやり方は間違っていると思っているが、こうして響の実力を目の当たりにした身としては、黒井社長がいかに凄まじい人物かを改めて認識した。

「でも、たまにそれが疲れる時があるんだ」
「疲れる?」
「うん、勝つことばっかり考えて必氏になって……自分は何をしているんだろう、そう思った時とかね」
「黒井社長からのプレッシャーが辛いのか?」
「そういうわけじゃないんだけどね。ほら……わかるでしょ?」
「まあ……な」

要するに認識の違いというやつなのだろう。
俺も高木社長からいくつか仕事を任されると、「頼りにしてもらえる」と感じる。
だが、その仕事の量が多くなると、「都合よく使われているだけなんじゃないか?」と感じる時がある。
響の場合も、黒井社長からのプレッシャーが自分への期待だと感じる時もあれば、それが重苦しく鬱陶しいと感じる時もあるということなのだろう。

「だからかな、今日765プロと一緒にレッスンしていた時は気が楽だったんだ。あまり色々と考える必要がなかったんだ」

それは俺の存在が、響にとっていい感じにクッションになれたということなのだろうか?
だとしたら、プロデューサーとしては嬉しいものだ。

「765プロ……自分の中にあるこの感じ、なんなのかな?」
「それは残りの6日間で見つけよう。まだ、俺の響のプロデュースは始まったばかりだからさ」
「そうだね。よろしく頼むぞ、765プロ」
「ああ、また明日もよろしく、響」
「うん、765プロもな!」

そう言って、響はいぬ美と一緒に去っていった。

「我那覇響か……」

まだ初日だから響を理解したわけではないけれど、響の内面を見ることができたのは収穫だった。
「それにしたって……凄かったな」

レッスン場での響を思い出す。
響の圧倒的な実力、今の春香では恐らく勝つことはできないだろう。
それがわかるほどに、二人の実力差は開いていた。
あの響に勝つため、春香にしてやらなくちゃいけないことは……って、危ないあぶない。
今の俺は、響のプロデューサーだ。春香には悪いが、響のことを考えてやらないと。
響への対策は、響のプロデュースが完了してからだ。

「そう言えば……まだプロデューサーって呼んでもらってなかったな」

22: 2013/01/20(日) 04:01:10.12
二日目の朝、昨日のレッスンが終わった後に伝えておいた待ち合わせ場所の公園で響と合流する。

「おはよう、765プロ!」
「おはよう、響。今日もよろしくな」
「765プロ、早いんだな。自分、待ち合わせの時間より早く来たのに」
「俺がいて少し驚いたか?」
「765プロ、いい加減そうだし」
「相変わらずひどい言い様だ」
「ちょっと見直したぞ。えらい、765プロ!」
「そりゃあ……プロデューサーだからな」

めまぐるしく状況が変わる現場、予定通りとは行かず不測な事態だって起きてくる。
そういった時に時間に余裕があれば、落ち着いて考える時間もあるし、そこから的確な対処もしやすい。
プロデューサーという仕事を始めてから、俺は何事にも時間に余裕を作るようになった。
いわゆる職業病だ。

「でも765プロ、自分が来ないとか思わなかったのか? 自分、ライバル事務所のアイドルだぞ?」
「そこら辺は心配してなかったさ」

響の疑問に俺は即答する。
自分を見出してデビューさせてくれた黒井社長の言いつけを守ろうとしたり、期待に答えようとしたり義理堅い性格なのだろう。
だから響は俺との約束を、765プロのやり方につきあうという約束を破らないという確信があった。
まあ、一番の理由は俺自身、響が来ることを信じていたことだけど。
無条件の信頼。
アイドルと信頼関係を築くためには、まずはこっちがアイドルのことを信用してやらないと始まらない。

「今日の調子はどうだ?」
「もちろんバッチリに決まってるでしょ! トップアイドルになるなら自分の体調管理くらい出来て当然なんだからな!」
「違いない。それじゃあ、今日も活動がんばろうか」
「はーい。今日も765プロに完璧な自分を見せつけてやるぞ」
「ははは、お手柔らかに頼むよ」

昨日、あれだけ驚かされたんだからな。

23: 2013/01/20(日) 04:37:28.39
今日の活動は響の出演する歌番組の収録だ。
ステージの上で響は、昨日のレッスンで俺に見せた実力を惜しげもなく発揮している。

「……凄いな」

お前は、それしか言えないのか?と自分にツッコミを入れつつも、俺はそう呟くしかなかった。
アイドル我那覇響は、歌いながら、自分を映すカメラつまり放送する時に自分をみる視聴者に向かって、歌詞に沿った絶妙な表情をみせる。
そして、我那覇響といったらダンスだ。
ダンスレッスンで踊ることに集中していた時と違い、今は歌うこと、表情、カメラワークの把握と複数のことに意識を向けなければいけない分、ダンスのグレード自体は下がっている。
だが、それでもかなりのレベルだ。十分すぎるパフォーマンスともいえる。
響が歌っているのは「オーバーマスター」という楽曲だ。
我那覇響の衝撃的なデビューを飾った曲であり、同時にこれ一曲だけで戦い続け、今のアイドルとしての地位を掴み取った。
我那覇響といったらこの曲と表現してもいいくらいだ。
まあ、オーバーマスターしか出していないのだから当然といえば当然だが。
普通に考えて、新譜を定期的に出さなければファンは飽きてきてしまう。
だから俺も、春香の新譜を2~3ヶ月の間のスパンでプロデュースしていった。
だが、我那覇響の楽曲は一曲のみだ。
一曲に力を集中させることで、楽曲としての質を上げているのだろう。
魅力が更新されていき、やがて一つの完成形へ至る楽曲。
それは圧倒的なクオリティを誇る一曲で、強大な力でライバルをねじ伏せるという黒井社長の考えが見え隠れするものだった。

「響のパフォーマンスは凄い。でも……」

ステージの上の響が歌い終わる。
目を閉じて、荒げた息を整えている。
それは傍から見れば、全てを出し切って高翌揚している自分を落ち着けているように見える。
実際、俺にもそう見える。
だけど、これは俺の直感でしかなかったが、

「なんか……楽しんでなさそうに見えるんだよなあ」

26: 2013/01/25(金) 12:55:53.28
収録も終わり、スタジオを出てからの帰り道。
俺の隣を歩く響は、大層ご満悦な顔だ。
収録が自分でも納得のいくものだった証拠だ。

「見たか、765プロ! 自分の完璧なパフォーマンス!」
「ああ、完璧だったよ」

確かに響の言うとおり、パフォーマンス自体は完璧だ。
だから、普通に考えて俺がプロデューサーとしてアドバイスすることなどない。

「……ただな」
「むっ……なんだよ、自分のパフォーマンスに何か問題があったのか?」

俺の言い回しに響は不満気に口を尖らせる。
それでも、俺は自分の中にある違和感を口に出さずにはいられなかった。

「なんて言うかさ、歌っている時の響が楽しそうに見えないんだよ」
「楽しそう? 765プロ、アイドルは遊びなんかじゃないぞ?」
「そういう意味で言ったわけじゃない。俺が思うに響はオーバーマスターという楽曲の枠に自分を組み込みすぎていると思うんだよ」
「……」

オーバーマスターという楽曲の持つ、挑発的でアダルティーなイメージ。
それを10代半ばの少女が表現するには、無理があるのではというのが正直な俺の感想だ。
そんな俺の考えを知る由もない響は、やれやれといった具合のため息をついて「わかってないな、765プロ」と呟いた。

「765プロ……」
「うん、どうした響?」

響は不意に立ち止まって俺のことを呼ぶ。
遅れて反応した俺と響の間に微妙な距離が開く。

「楽曲っていうのは自分の色を抑えなくちゃダメなんだぞ」
「はあ?」

突然、なにを言い出すんだ?
響のいう自分の色、恐らく個性のことだろう。それを抑えなくちゃいけないって、どういう意味だ?
響は俺に向かって話し続ける。

「765プロ、自分は我那覇響なんだ。いつでも、どこでも、他の誰でもない我那覇響なんだ!」
「まあ、そりゃあそうだろうさ。響が響じゃないなら、なんだっていうんだ」
「そうだぞ……どんなことをしたって自分は我那覇響にしかなれないんだ。だから、どんなことをしたって、楽曲の中の人物にはなれないんだ。でも、自分は楽曲の中の人物にならなくちゃいけないんだ」
「それなら……響はどうやって楽曲の中の人物になるんだ?」
「……」

響にしては説明が回りくどかったので、俺は疑問を直球で投げつけて、さっさと答えを聞こうとする。
響は少しの間黙っていたが、やがて自分に言い聞かせるようにポツポツと語り始めた。

27: 2013/01/25(金) 12:57:47.81
「自分をね、薄めるんだ。誰にも見えないくらい透明に。そうすれば、楽曲と混じりあった時に自分はその楽曲の登場人物に、オーバーマスターそのものになれるんだ」
「響……」

だから、お前はオーバーマスターをあれだけのレベルで表現できるというのか?
自分を薄めるだって?
自分の色を薄めて、楽曲に混ぜられて無理やり自分を染め上げてでも、その楽曲の色になれればそれでいいのか?
そんな自分を頃してまで歌って楽しいのか?
……っ!
無数の疑問と同時に、俺の頭にひとつの考えがよぎる。
これは聞くべきじゃない……というより、俺自身が聞きたくない。
響が俺の考えを肯定するのが怖かったからだ。
だけど、これは聞かなければいけないことだと思った。

「響……もしかして、アイドルとしてのイメージも」
「そうだよ。世間で知られているクールなアイドル我那覇響、それだって黒井社長が自分に示してくれたアイドル像に薄めた自分を混ぜているだけだぞ」

それじゃあ、今までの響のアイドル活動は響らしさの欠片もない、黒井社長の作り出した偶像「我那覇響」がやっているに過ぎないということか。
そこに響の意思なんか何処にもない、ただの操り人形だ。
そんなの絶対におかしいだろ。

「響、もっと自分の色を大事にしろ」
「765プロ、自分の話きいていたのか?」
「もちろんだ……だが、それでもだ」

響は自分を薄めて、楽曲の色に染まり上がると言っている。
だが、俺に言わせてみれば楽曲というのは元々色などついてないものだ。
もちろん作詞家に作曲家の意図というのはあるし、歌うアイドルの向き不向きの問題もある。
だが、その楽曲を歌い、踊り、表現するのは他の誰でもないアイドルだ。
色のついてない楽曲にそのアイドルの色を塗ることで、その楽曲はそのアイドルだけの楽曲になり得る。

「それじゃあ、765プロは自分にピッタリな楽曲をプロデュースできるのか?」
「もちろんだ。少し待っていてくれ」

プロデューサーとして響のために、ここで下手なことはできない。
目の前にいるひたむきにトップアイドルを目指し続けるこの女の子が、自分を薄めようとしないで、ありのままの自分を表現できる楽曲。
俺は、カバンの中から1枚のCDを取り出して響に渡す。

「響には、この楽曲が合っていると思うぞ」
「本当か?」

胡散臭そうな顔をして、CDを受け取る響。
まあ、それもそうだ。いきなりポンとCDを手渡されて、それがお前にピッタリな曲だと言われても納得はいかないだろう。
詐欺だと疑われても文句は言えない。
だけど、とりあえずは聞いてもらわなくちゃ始まらない。

「家に帰ったら聞いてみてくれ。きっと響の心に訴えかけるものがあるはずだから」

俺の言葉に響は興味を持ったのか、「ふ~ん」と言いながら手にあるCDを眺めている。

「わかったよ。765プロのプロデューサーとしての手腕が本物かどうか、これを聞けばわかるしね」
「うっ……」

にやりと不敵な笑みを浮かべる響。
自信はあるが、響のそんな表情をみてしまうと少し心配になってくる。

「じゃあ、自分はやく帰ってこのCD聞かなくちゃいけないからもう帰るな! 明日もよろしく765プロ!」
「あっ、ちょっと待ってくれ! やっぱ考えなおさせ」

俺が言い終える前に、響は駆けていってしまった。
大丈夫か?
これで響の機嫌損ねてプロデュースに付き合うのはヤメだなんて言われたら、俺ショックだぞ。
いやいや、そういうネガティブな考えはやめろ。
こういう時こそ、春香のように明るく前のめりにだ!

「と言うか……今日もプロデューサーって呼んでもらえなかったな」

32: 2013/01/29(火) 02:36:59.32
CDをプレイヤーにセットして、再生ボタンを押す。
デモテープとして試しでとったのかな?
前奏が終わると、春香の歌声がスピーカーから流れ出す。

お気に入りのリボン うまく結べなくて 何度も解いてやり直し
夢に似てるよ 簡単じゃないんだ
妥協しない 追求したい 頑張るコト探して
ねぇ 走るよ
君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない
手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい
私 shiny smile
君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない
手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい 私
君へと届きたい! 転びそうでも
ブレーキを我慢して 石ころをかわして
泣きそうな思いを 乗り越えたら
いつだって キラキラでいるよ
私 君とshiny smile

……なんだろう、この曲「shiny smile」は凄く自分にしっくりくるぞ。
アイドルとしてデビューした頃、自分は必氏だった。
妥協しないで、追求して自分の出来ることを精一杯にやって、オーディションに挑んだ。
厳しい戦いの時もあったけど、絶対に諦めないで勝ちぬいてきた。
そして、ファンのみんなに最高の、輝いている自分を見せていた。
その時は、周りなんて全く気にしなかった。
でも、いつからかな……。
自分の周りを意識し始めたのは、ライバル達に勝つことばかり考えるようになったのは。
この世界は弱肉強食、それは知っていたことなんだ。
黒井社長に教えてもらった、勝者の足元には常に敗者が転がっていること。
今は勝っていても、次で負ければ全てが終わってしまうの?
自分も負ければ夢も何もかも失って、そんな惨めな姿を晒すの?
怖い……怖いよ。
気がつくと、自分はライバル達に勝つためにパフォーマンスの質を上げていた。
そのために黒井社長の求める「我那覇響」にもなったし、自分を薄めて「オーバーマスター」にもなった。
だから、自分はいま必氏なんだ。
shiny smile……輝く笑顔か。
窓の方を見て、そこに映る自分、我那覇響の顔をじっと見つめる。

「今の自分は笑顔なのかな?」

33: 2013/01/29(火) 02:41:39.83
プルルルル……

テーブルの上に置いてあるケータイから着信音が鳴る。
誰かと思って、通話ボタンを押して耳に当てる。

「はいさい! 自分、我那覇響だぞ!」
「私だ、響ちゃん」
「あっ、黒井社長!」

電話をかけてきた相手は黒井社長だった。
こんな時間に何の用だろう?
まさか765プロと一緒にいることがバレたとか!?
だとしたら、厄介だぞ。黒井社長のお説教は長いから。
でも、黒井社長は自分の考えていることとは全然違うことを言ってきたんだ。

「響ちゃん、明日の活動の予定は決まっているのかね?」
「ううん、まだだよ。収録は今日で終わらせちゃったしね」
「なら、ちょうどいい。響ちゃん、明日はオーディションを受けたまえ」
「オーディション?」
「ウィ、全国放送のかなり大きな歌番組のオーディションでね。響ちゃんの人気を上げるためのまたとないチャンスだ」
「ぜ、全国放送……」

そのスケールの大きさに、おもわずケータイを握る手が強ばる。
そんな自分の緊張が電話越しに伝わったのか、黒井社長はしばらく黙ったあと、自分を試すような口調でしゃべり始める。

「響ちゃん、君は王者になるべく存在だ」
「と、当然だぞ、自分は絶対にトップアイドルになるんだ!」

声を強くして、緊張を隠す。
トップアイドルになること、それはあの頃から変わってない目標だぞ。

「やる気があって大いに結構。だがね、王者に無様な姿を晒すことは、敗北は許されない」
「うん……わかってる」
「頂点に君臨するものは、その下を這う虫けら共がどうあがいても手に届かない存在、そう……太陽にならなければいけないのだよ」
「太陽……」

確かに黒井社長の言うように、トップアイドルになれるのは太陽のような誰も寄せ付けない凄い輝きを持っているアイドルなのかも。

「焼き尽くしたまえ、響ちゃん。君のその輝きで、君の周りをうろちょろする虫けらどもを!」
「うん! 自分の完璧な輝くパフォーマンスでライバルをみんなやっつけてやるさ!」
「おお、これは頼もしい。響ちゃん、やはり君は私の太陽だよ。それでは、いい結果を期待しているよ」

黒井社長はそう言って愉快そうに電話を切った。
そうだぞ、自分は太陽みたいな輝きを持っているんだ。
だから、黒井社長は自分をデビューさせてくれた。
自分はトップアイドルになれるんだ!
王者になるため、トップアイドルになるために、いま自分は負けることが許されない時だ。
今の自分に笑顔なんて必要ない。
輝く笑顔は自分が全てのアイドルの頂点に立った、その時までとっておこう。
自分は勝たなくちゃいけないんだ!

37: 2013/02/03(日) 15:25:37.35
三日目の朝、響から黒井社長からオーディションを受けるようにという指示を受けたらしく、オーディションに出場することになった。
ケータイにも社長から961プロからのオーディションへの招待メールが来ていることを伝えられていた。
響としても断ったりすれば黒井社長に怪しまれるし、
俺としても961プロの招待するオーディションの実態を知るチャンスだったので、響の申し出を了承した。

「しかし……まあ、凄いな」
「そうか?」

驚く俺とは対照的に、響は平然としていた。
会場にいる、つまりこのオーディションに出場するどのアイドルもAランクやBランクといった、テレビを点ければ誰かしら映っている大物だ。
春香を負かしたことのあるアイドルもちらほら見かける。
なるほど……確かにこれだけの強豪が揃っているオーディションなら、春香でも合格することは難しい。
黒井社長の誘いにのって、もし不合格になってしまえば間違いなくアイドルの活動に支障が出ていただろう。
だが、それは響も同じ条件のはずだ。
それにも関わらず、黒井社長が響をこのオーディションに出場させるということは、響がこのオーディションを制するという確信があるからだろう。
実際、響を隣にする俺に不安の二文字は全く浮かんでこない。
むしろ浮かび上がるのは勝利の二文字だ。
それだけ響の実力が、俺に安心感を与えているということなのだろう。
響のアイドルランクはトップアイドルの証明でもあるAランクを超えたSランクだ。
響のオーバーマスターのパフォーマンスを考えると、このオーディション既にもらったも同然だ。
響とまともに競いあえるアイドルなどそういない。
いるとすれば、それは……

38: 2013/02/03(日) 15:27:51.30
ガチャっとドアが開く音がする。

「?」

オーディションの審査員が来たのか? そう思った俺と響は、ドアの方に視線を移す。
瞬間、俺と響は絶句した。
いや、俺たちだけじゃない。ここにいる全てのアイドルとプロデューサーが息を呑んで会場に入ってきた人物のことをみる。
カツカツ……と、彼女たちの足音だけが会場に静かに響きわたる。
自信に満ち溢れて歩く姿は、まさにトップアイドルのようなオーラを醸しだしていた。
そのオーラに気圧されて、誰もが彼女たちに道を開けた。

「チッ……」

彼女たちを見て、俺は思わず舌打ちをしてしまった。
最悪だ……よりによってアレが出場するなんて。
何度か彼女たちとオーディションでは戦うことはあったが、春香は勝つことができなかった。
彼女たちの実力は折り紙つきで、彼女たちがオーディションに出るという情報を掴んだだけで、出場を辞退するアイドルがいるほどだ。
そんなせいで、裏ではオーディション荒らしなんて言われている。
先頭集団の中でのトップ、それが彼女たちの立ち位置だ。
彼女たちこそが現時点での名実ともにトップアイドルであり、IU優勝候補の筆頭に挙げられている超大型アイドルユニット……

「Sランクアイドル、魔王エンジェル……」

響は自分がこれから戦う、自分を唯一脅かす実力を持つ相手の名前を静かに口にした。

42: 2013/02/05(火) 12:24:22.47
黒井社長に聞かされた要注意アイドルユニット「魔王エンジェル」。
いつも自信たっぷりな黒井社長でさえ、戦うことは極力避けるようにと自分に言っていた。
自分の経歴に傷がつく可能性が高いかららしい。
自分の実力は信用しているけど、相手が魔王エンジェルなら話は別ということなんだろうな。
その証拠に、今までも961プロの情報網で魔王エンジェルの出場するオーディションの情報を掴んで、黒井社長は意図的に自分を魔王エンジェルと対決することを避けていた。
でも、いまこの場に魔王エンジェルがいるということは、どうにかして961プロの情報網をかいくぐってきた……そういうことなんだろうな。
それだけこの全国放送のオーディションが魔王エンジェルにとっても重要ってことか。
魔王エンジェルが会場に入っていくのと反対に、それまで審査員を待っていた何十人のアイドルがぞろぞろと会場を出て行く。
広い会場に残ったアイドルは、自分を含めてたった6グループだけになった。

「随分と減ったな。これならオーディションもすぐに終わって早く帰れそうだ。響、どうする? 今ならまだ……」
「冗談キツイぞ、765プロ。知らないのか、敵前逃亡は銃殺刑なんだよ」
「違いない」

魔王エンジェルが、かなりの強敵だということ、それは自分の肌に来ているピリピリとしたものでわかる。
だとしても、自分は絶対に逃げないぞ。
王座につく自分が背中を見せるなんてありえない。
どの道、トップアイドルになるためには魔王エンジェルとの対決は避けられないんだ。
それならいっそ、今日ここで自分の完璧なパフォーマンスでIUの本戦の出場を辞退したくなるくらいに徹底的に叩きのめしてやる!
会場に三人の審査員が入ってくる。
オーディションが始まった。

43: 2013/02/06(水) 11:05:43.90
ステージの上で、四人目のアイドルがパフォーマンスを終える。
中々いいパフォーマンスだったと思う。
でも、そこまでだ。
審査員を「おおっ!」と唸らせるようなものではない。
良くも悪くも無難といった感じだ。
最もオーディション合格のために必要な審査員の評価を貰うのに、1位は狙わなくていい。どのジャンルも最悪、3位に食い込めればいい。
そう考えると、今のアイドルのパフォーマンスもプロデューサーからの指示だったのかもしれない。
3回行われる審査の中、全てのジャンルで審査員の評価をもらえれば理論上は満点をとれる。
だが、それは理論上であって実現はかなり困難だ。
俺は少し離れた所にいる響に視線を移す。
響のアピールする順番は最後の六番目だが、入念に準備したいのかトレーニングウェアに着替えて、ストレッチをしている。
俺は響の元によって声をかける。

「響、大丈夫か?」
「うん、平気だぞ。今のアイドル、正直大したことなかったし」
「そうか……」
「それより765プロ、今はあまり話しかけないで。自分、集中してるから……」
「あっ、ああ……ごめん」
「自分が倒す相手は……魔王エンジェルだけだ」

獲物を狙う獣のような鋭い目だった。
確かに響の言うとおり、このオーディションを制するには魔王エンジェルを攻略しなければならない。
魔王エンジェルの実力ならば満点を狙いにいけるだろう。
それは同じSランクアイドルの響も同じのはずだ。
魔王エンジェルを意識しすぎなんじゃないか?
そう言葉に出しそうになったが、俺はこらえた。
今はやめておこう。
俺の余計な言葉で、響のモチベーションや集中を乱したくない。
ここはプロデューサーらしく響のことを信じることにした。

「次……五番、魔王エンジェル」

審査員に呼ばれ、魔王エンジェルがステージに立つ。
俺はステージの外にいるスーツ姿の女性を一瞥する。
視線に気づいたのか、彼女は一瞬こちらを見たが、また直ぐに魔王エンジェルと向かい合った。
さて、今回の魔王エンジェルはどんなパフォーマンスを見せてくれるんだ?
そして……あなたはどんな戦略で彼女たちを輝かせるんだ、真・最強プロデューサー?

45: 2013/02/11(月) 13:36:02.27
スピーカーから音楽が流れ出し、魔王エンジェルのパフォーマンスが始まる。
始まりは、穏やかな曲調だ。
魔王エンジェルの動きも曲に合わせて、ゆっくりと大きく動く。
表情も歌も優しくて温かみのあるものだ。
聞いている俺も気分がよくなる。
天使の歌声っていうのは、こういうものを指すんじゃないだろうか?
楽曲が中盤に差し掛かる。
瞬間、曲が跳ねた。
スピーカーから流れる音楽は先ほどまでの穏やかな曲調から一転、激しいものへと変わった。
変化があったのは、曲調だけじゃない。
ステージ上の魔王エンジェルは、何かに取り憑かれたように踊り、歌う。
大音量のサウンドに負けない聴く者の魂までも震わす力強い歌声。
野性的とも思える荒々しいダンス。
嗜虐的な、狂気を感じさせる笑み。
そのパフォーマンスは暴力的だ。
良くも悪くも、力を振るう快楽に呑まれている。
なんて恐ろしくて、美しい……。
俺は、そんな魔王エンジェルのパフォーマンスから目を離すことが出来ない。

「魔王だ……天使が魔王になった」

自分が何を言っているかわからなかったが、その言葉は俺の中から自然と漏れ出てきた。
曲も終盤、最後の盛り上がりどころに入る。
真・最強プロデューサーが、空中で三角を描いた。
その合図を視界に捉えた魔王エンジェルはトドメと言わんばかりに、パフォーマンスのクオリティを更に上げた。
嘘だろ……まだ、いけるのか!?
このアピールには、それまでどんなアイドルのパフォーマンスを見ても座っていた審査員たちも、思わず身を乗り出した。
そして、スピーカーから流れる音楽が止むのと同時に魔王エンジェルのパフォーマンスもピタリと終わる。
会場には、時間が止まったかのような、痛いほどの静けさだけが残った。

46: 2013/02/11(月) 13:59:53.26
体が熱い。
首に手を当ててみると、じわりと湿り気を帯びている。
汗をかいている……興奮しているってことか。
胸に手を当ててみても、鼓動が早い。やっぱり興奮している。
確かに魔王エンジェルのパフォーマンスは見ているこっちまで熱くなるようなものだった。
魔王エンジェルと真・最強プロデューサーが、こちらの方にやってくる。
彼女たちは、俺に向かって不敵な笑みをする。
かかってこい……そんな声が聞こえた気がした。
上等だ。こっちだってオーディションに合格するために受けに来ているんだ。
響の方を見てみる。
あれだけのパフォーマンスを見せつけられても、目つきは鋭いままだ。
モチベーションは維持できているようだし……それなら、勝機はあるな。
魔王エンジェルに、真・最強プロデューサーに勝ちたい。
こんな凄いユニットに響を勝たせてやりたい。
闘志が、頭からつま先まで隅々まで伝播していく。
審査員から響を呼ぶ声が聞こえる。

「よし……行くぞ、響!」

47: 2013/02/11(月) 15:06:39.84
体が冷たい。
首に手を当てていると、じわりと湿り気を帯びている。
汗をかいている……興奮しているってことかな?
ううん……これは冷や汗だ。だから、こんなに冷たいんだ。
魔王エンジェルとそのプロデューサーが、自分と765プロの方にやってくる。
魔王エンジェルが自分に向かって笑う。
かかってこい……そんな声が聞こえた気がした。
その目には勝者の余裕みたいな、相手を見下す冷たさがあった。
さっきのパフォーマンスが頭に浮かぶ。
こんな凄いユニットに自分は勝てるのかな。
ダ、ダメだぞ……自分。相手に飲まれたら本当に負けちゃうぞ。
自分は完璧なはずなんだ。負けるはずがないんだ。
魔王エンジェルに精一杯の抵抗とばかりに睨み返す。
でも、魔王エンジェルは自分の睨みに怯むこともなく、冷たい笑だけを浮かべている。
向こうから見たら、今の自分はひどく惨めに見えているのかもしれない。
胸の鼓動がうるさいくらいに鳴る。
緊張しているんだ……自分。こんなこと今までなかったのに。
怖い……

「次……六番、我那覇響」

審査員から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
えっ、もう? そんな……まだ。
でも、オーディションは自分のことなんて待ってくれない。
焦りと不安、逃げ出したい気持ちが自分の体中に広がっていくのがわかる。
誰か、誰か……助けて!
自分が押しつぶされそうな時、

「よし、行くぞ……響!」

誰かの大きな言葉が聞こえてきた。
声の方を向いてみると、765プロだった。
765プロの顔は、笑っていた。
どうして、こんな時に笑っていられるんだ?
魔王エンジェルがこわくないのか?
でも、自分はすぐにわかったんだ。

ああ……そうなんだ。
765プロ、諦めてないんだ。
本気で勝ちにいこうとしてる、あれだけのパフォーマンスをした魔王エンジェルに対して。

静かに瞳を閉じる。
そうだ……自分はここに勝ちにきたんだ。負けるつもりでオーディションなんか受けにこない。
ここまで来たら、後は全力でやるだけだ。
途端、さっきまでの自分の中にあった焦りや不安が嘘のように消えてしまった。
よし……これなら勝てるぞ!
自分の最高で完璧なパフォーマンス見せてやる!

「おい、どうした、響? 早くステージに」
「アハハハ、わかってるよ!」

765プロの背中を追いかけて、ステージに向かって走る。

「にふぇーでーびる、765プロ!」
「に、にふぇ……?」

765プロを追い越す瞬間、自分は沖縄で「ありがとう」っていう意味の言葉を送った。

52: 2013/02/19(火) 02:10:40.23
スピーカーからオーバーマスターが流れ出す。
楽曲に合わせて、自分は歌い、踊りだす。
収録の時に自分を映すカメラのランプを意識するように
視線を一瞬、審査員たちの向こうにいる765プロに向ける。
765プロは指を2本、ピッと立てている。
わかったよ。流行2位のビジュアルをアピールすればいいんだな。
審査員たちに向かって、挑発的な笑みを投げかける。
途端、自分に集まる視線が強くなるのを感じた。
手応えあり。765プロの指示が的確だってことだ。
今度の指示は、指は1本……1位のボーカルだな。
体の動きや表情に向けていた分の意識を歌に向ける。
うん、バッチリとアピール出来たぞ!

どうしてかな?
いま、自分がやっていることはいつもと変わらないはずなんだ。
オーディションで、いつも通りに自分の完璧なパフォーマンスをしているだけだ。
ただそれだけなんだ、違いはない。
違いがあるとすれば……

視線を765プロに向けて指示を見る。ボーカルアピールだ。
ダンスのアピールは無しか。
まあ、自分なら普通に踊っていれば余裕で三位以内に入れるしね。
一人でオーディションに挑んでいる時は、審査員にどのジャンルのアピールをするかも考えなくちゃいけない。
でも、今はそんなことを気にしなくていい。765プロが全部引き受けてくれる。
自分のすることが一つ減っただけで、こんなに自分に余裕ができるなんて驚きだぞ。
おかげで余計なことを考えないで思いっきりパフォーマンスもできる。
それに何か安心する。
765プロが両手を使って三角形を作った。

「一気に決めてやれ、響!」

765プロの視線が、自分にそう訴えた。
ふふん……いいぞ、765プロ。なら、しっかり見ておくんだね。
自分の最高で完璧で太陽みたいに輝くアピールを!

53: 2013/02/20(水) 02:23:16.75
輝いている。我那覇響という女の子が輝いている。
この輝きを俺は知っている。
響のプロデューサーを受け持った最初の日に、俺を夢中にさせたダンスを披露した時の輝きだ。
俺の三角形の指示―審査員の記憶に強烈に残すという意味で「思い出アピール」と名づけている―に従い、ステージの上で猛アピールする響。
存在感が半端じゃない。
これが収録とかだったら響のバックでフラッシュが起きて、後光が指している構図になっていたに違いない。
響は輝いている、太陽のようだ。
でも、その輝きは直視できないような、ジリジリと地上を焼きつけるそれとは違った。
優しくて温かい。うん、太陽じゃなくてお日様っていう方がしっくりくる。
まあ、意味は同じだしオーバーマスターに優しくて温かいという表現は合わないからチグハグな気もするが。
響の顔を見る。表情こそ昨日の収録の時と同じだが、雰囲気が違う。
楽しめてる……そういうことなのかもな。
スピーカーから流れる音楽が止み、響のパフォーマンスが終了する。
ああ、終わっちゃったか。もっと見てたかったんだけどな。
ステージから降りてきた響が俺に駆け寄ってくる。

「お疲れ、響」
「うん、765プロもお疲れ様」
「俺は指示を飛ばしてただけだよ。実際にパフォーマンスしてた響ほどじゃないさ」
「でも、指示を飛ばすにだって頭は使うだろ?」
「まあな」

アピールするジャンルの配分を間違えたりすると勝てるオーディションも負けるからな。

「だったら、やっぱりお疲れ様だよ」
「そ、そうか……」

少し意外だった。まさか響から労いの言葉がもらえるとは。



「皆さん、お待たせしました。それでは本日の審査結果を発表します」

会場の中で審査員の声だけが聞こえる。
オーディションの結果を聞くこの瞬間だけは、何度経験しても緊張する。
合格者は響か魔王エンジェルのどちらかだ。

「今回の審査結果ですが……」

審査員が一旦そこでためる。
そういう煽りはいいから早くしろ。どうせ結果は出してるんだから。

「六番、961プロ所属。我那覇響さんに決まりました」

よっしゃ!
審査員の言葉を聞いた瞬間、俺は小さくガッツポーズした。

「響、やったぞ。俺たちが勝ったんだ!」

俺は周りの視線をはばからず、はしゃぐ。
大人気ない男と思われるかもしれないが、こればかりは勝者の特権だ。

「やったね、765プロ!」

そう言って響は、俺に向かって右手の肘を曲げながら上げた。
俺もそれに合わせて、自分の右手の肘を曲げながら上げる。
何故そんなことをしたのか。それが分からないくらいに俺の動作は自然だった。
無意識の内に響のして欲しいことを察知してやれたのかもしれない。
響は笑顔だ。たぶん、それを見ている俺も笑顔だ。
お互いの腕が軽くぶつかり合う。
響と何かが繋がった気がした。

「……やったね」
「……ああ、やったな」

54: 2013/02/20(水) 23:53:32.23
凄くいい気分だぞ。やっぱり勝つっていうのは気持ちいい。
黒井社長、驚くだろうなあ。
なんて言ったって、魔王エンジェルに勝ったんだから。
まっ、自分なら当然だけどね。
事実上のトップアイドルの魔王エンジェルを倒したってことは、今は自分がトップアイドルってことなのかな。
やっぱり自分は黒井社長の言うとおりトップアイドルになれるってことだ。
自分にいい波が来てる。この波にのっていけば、IU優勝もきっと簡単だな。
ああ~早く正真正銘のトップアイドルになって、故郷のみんなに会いたいぞ!
おっと、その前に765プロに会いにいかないとな。外で待ってるみたいだし。

「ちょっといいですか、我那覇響さん」
「えっ?」

突然、後ろから声をかけられる。振り返るとオーディションの時に合格者を発表した審査員がいた。
なんだよ、せっかくいい気分って時に。

「何の用ですか? もうオーディションは終わって、自分の合格のはずですけど」
「ええ、それはわかっています。大変、素晴らしいパフォーマンスでした」
「そう……ですか」

じゃあ、なんでわざわざ呼び止めるんだよ。

「それで要件ですが、これを我那覇さんに渡しておきたくて」

そう言って審査員の人は、自分に二つ折になっている一枚の紙を差し出す。
手にとって見てみると、そこには自分が今日出たオーディションの番組名が書いてあった。

「これは、オーディションの」
「はい、結果用紙……というより審査員の評価用紙です。そこにはアイドルがアピールで得た評価、我々は星と呼んでいるんですが、そこにはそれをとった数が載っています。それに加えて、各審査で得たアピールを数値化したデータ、ジャンル毎の順位も載っています。普通はこれを各アイドルに分けて渡すのですが、これは審査員用ですのでオーディションに参加したアイドル全ての情報が載っています」
「そ、そんなに詳しいことまで載っているんですか?」

思わず言葉が上ずった。
だって、これを見れば今日のオーディションに参加したアイドルの苦手ジャンルとかが分かっちゃうじゃないか。

「それで、自分にこれをどうして欲しいんですか?」
「我那覇さんには、この評価用紙を黒井社長に渡して欲しいんですよ」
「えっ? でも、それって……」

違反行為じゃないのか?
自分の疑問に対して審査員は心得ているとばかりにしゃべりだす。

「961プロ……いえ、黒井社長にはとてもお世話になっていますから。これはそのお返しですよ」
「そ、そうですか。でも、それなら黒井社長に直接渡せばいいじゃないですか?」
「もちろん普段は黒井社長の元へ郵送で送っているのですが、今回は何分事情が違いますから。なので、我那覇さんに直接渡していただける方がいいと思いまして」
「?」
「まあ、とにかくその紙を黒井社長に渡してくださいね」
「あっ、はい……」

勢いに流されて、思わず了承してしまった。
自分の返事を聞くと審査員は「黒井社長によろしくと伝えてください」とだけ言って、足早に去っていってしまった。
一体、なんだったんだろう?
まあ、いいか。要はこれを黒井社長に届ければいいんだからね。
オーディションの評価用紙か。
自分は勝ったけれど、実際のところ審査員たちにどういう評価をされていたんだろう?
いやいや、見ちゃダメだぞ。これは黒井社長に渡す大事な書類だ!
でも、やっぱり気になる。
辺りを見回す。右よし、左よし、前よし……後ろもよし。
ドキドキしながら、紙を開く。

「さーて、自分の完璧なパフォーマンスの評価は……」

57: 2013/02/22(金) 01:51:21.76
会場の外、ベンチに座り自販機で買ったカフェラテを飲みながら響が来るのを待つ。
口の中で程よい苦味と甘味が広がる。ブラックは飲めない。苦いだけだからだ。
慣れれば美味しいという人もいるが、俺にはあの苦味を慣れる前に飲みたくなくなる。
スーツのポケットから畳まれた一枚の紙を出して、広げる。
今回のオーディションにおける響の評価用紙だ。
若干折り目が深いのは、俺が何度も開いては見たからだ。
用紙には、全部の審査におけるジャンルごとに獲得した評価の数が載っている。

我那覇響
1次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆
2次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆
3次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆

3回全ての審査で、全ジャンルの星を獲得している。
総計30点、つまり満点だ。
最初に見た時は目を疑った。
今日のオーディションに参加したアイドル達、魔王エンジェルが飛びぬけた実力を持っていただけで、その他のアイドルの実力だって決して低くない。
響が勝つ自信はあったが、まさか満点を取れるとは思わなかったというのが俺の本音だ。
でも、用紙には響の功績を讃えるかのように満点分の数の星がある。
全国放送のオーディションの合格枠という狭き門を響は満点で通ってみせたのだ。

「凄いな」
「ええ、本当ね」
「?」

独り言のつもりで言った言葉を誰かが返してきた。
頭を上げて声の主を見てみるとスーツ姿の女性がいた。

「し……真・最強プロデューサーさん!?」
「隣いいかしら?」
「えっ、あっ、はい」

驚き、ベンチからずり落ちそうな俺に反して、真・最強プロデューサーは冷静なまま俺の隣にストンと腰を下ろした。
な、なんで、どうして、こんな所に?
というか、何の用だ?
直接的な面識なんてないはずだ。

「あ、あの……真・最強プロデューサーさん?」

やばい……緊張している。デカい所に営業をかけている時みたいだ。

「その呼び名はあまり好きじゃないわ。周りが勝手に呼んでいるだけのものだし」
「そ、そうですか。でも、周りがそう言っているってことは、周りから認められているってことじゃないですか。異名みたいなやつですよ」
「うちの魔王エンジェルが裏で「オーディション荒らし」って言われているように?」
「はい」
「ふふっ、そう言われると悪い気はしないわ」

58: 2013/02/22(金) 01:51:58.61
「俺に何か用ですか?」
「用がなければ話しかけてはいけないの?」
「いえ、そういうわけではないですけど。でも、俺たちって面識ないですし。オーディションの時に顔をみたぐらいで」
「あなたに興味がわいたの」
「えっ?」
「961プロのアイドルにプロデューサーがつくなんて珍しいから」

真・最強プロデューサーの何かを探るような目つき。俺は身構えた。
確かに真・最強プロデューサーの言うとおり、961プロのアイドルにはプロデューサーはつかない。
だが、今日は何故かついている。誰の目にもおかしいというのは明らかだ。
記者がいれば、面白おかしく脚色して記事を一つ書けそうなネタだ。

「ああ、安心して。別に今日のことを誰かに言うつもりはないから」
「……」
「そんな風に睨まないで。本当なんだから」
「そう……みたいですね」
「信じてくれて嬉しいわ。ところで、あなた幾つ?」

真・最強プロデューサーは突然、そんなことを聞いてきた。
その質問にどんな意図があるかは、わからなかったが俺はそれに答えた。

「なるほど……それならオーディションの時にみせた目つき納得だわ」
「は、はあ」
「まだ10代の頃の血の気の多さが抜けきってない……若いということと。でも、それが武器になる」
「武器ですか?」
「魔王エンジェルが出場する、それだけで出場を辞退するアイドルもいる。そして魔王エンジェルのパフォーマンスを見て、残ったアイドルたちも「勝てるわけがない」と思ったでしょうね」
「……」
「でも、あなたは違った。オーディションに向かう直前の顔、氏んでなかった。気迫が伝わってきたわ」
「それが若さと何が関係あるんですか?」
「プロデューサーに求められるのは冷静さよ。そして冷静さというものは経験からくると私は思っている」
「若い俺には経験が足りないと?」
「ええ、その通り。でも、経験が足りない、冷静な判断ができないからこそ、思考にとらわれない。無謀とも思えることが……魔王エンジェルに勝つなんてことを考えられる」
「響なら平気だと思ってましたから。魔王エンジェルに挑発された時も睨みかえしていましたし」
「気づかなかったのね。あれは強がりよ」
「えっ?」

俺の「えっ?」に真・最強プロデューサーは「そういう所が若いわね」と言いながら笑う。

「魔王エンジェルの番が終わった後、あなたはともかく我那覇響を見た時、このオーディションは勝ったと思ったわ。本人は必氏になって隠していたけど、私には彼女の不安や怖れが手に取るようにわかった」

女の勘……いや、単純にプロデューサーとしての技量の差か。俺に読み取れなかったものを、真・最強プロデューサーは読み取った。
ハッキリ言って悔しい。そうか……響、不安だったのか。
あれ?
でも、それならどうして響はあの時……

「にふぇーでーびる、765プロ!」

笑っていたんだ?
ステージの上でも楽しそうで、とても不安に駆られていたとは思えなかった。

「真のプロデューサーというのは、自分が気づかない所でもアイドルの支えになっている」
「なんですか、それ?」
「私の理想とするプロデューサー像よ。アイドルのことをフォローするという意識がなくても、自然にアイドルのフォローをしている。究極的には、「そこにいる」だけでアイドルの支えになる存在になれればいいと思っているわ」
「それって、なんだか天然ジゴロみたいですね」
「言い得て妙ね。でも、もしかして……」

真・最強プロデューサーは何か言おうとしたが止めた。一瞬、俺の方を見た気もするけど気のせいか。

「さて……そろそろ事務所に返って、今後のプロデュースについて考えないと。あなたと話せて楽しかったわ」
「いえ、こっちこそ色々と聞けて良かったです」
「これからは天海春香が、魔王エンジェルにとって最大の障害になるかもしれないわね」
「えっ!?」
「ふふっ、そうやって驚くところが若いわよ、それじゃあ」
「ちょ、ちょっと待ってください。どうして!?」
「格下とは言えAランクアイドル……ちゃんとチェックしているのよ」
「うぅっ……」

振り返って小さくウインクする真・最強プロデューサー。少しドキッとしてしまった。

「さっきも言ったけど、あなたには経験が足りないわ。だから、もう少し961プロ……いえ、この世界の影の部分を知っておいた方がいいわよ」
「影ですか?」
「ええ……それじゃあ、次に戦える時を楽しみにしているわ」

59: 2013/02/22(金) 01:54:31.31
黒いハイヒールが一定のリズムで地面を叩く。
後ろの方で765プロの天海春香のプロデューサーと961プロの我那覇響が何かを話している。

「おっ、来たか、響。それじゃあ帰るか」
「うん……」

どうやら、我那覇響を送っていくようだ。

「765プロのプロデューサーか……」

自分とは別の方向へ歩いていく彼に向かって彼女は呟いた。
今日のオーディション、もちろん合格して自分のプロデュースするアイドルを世間にアピールすることも視野にはいれていた。
だが、彼女の目的は別にあった。
961プロの持つ圧倒的な情報網。その隙間を縫って、我那覇響のでるオーディションに出場することが出来る。
つまり、「その気になれば、我那覇響はいつでも倒せる」ということを961プロに伝えられれば十分だった。

「でもまあ……勝たせてはくれないわよね。961プロには媚を売りたいだろうし。次に戦う時は、心変わりするほどのパフォーマンスを見せなくちゃいけないか」

彼女は頭の中で、自分に手渡された評価用紙の結果を思い出した。

魔王エンジェル
1次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆
2次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆
3次審査:ボーカル☆☆☆☆☆ ビジュアル☆☆☆ ダンス☆☆

64: 2013/02/23(土) 00:27:37.86
帰り道、隣にいる響は妙だった。
何が?と聞かれたら上手く答えられない。でも、違和感がある。それだけは確かだ。

「響、どうしてそんな顔をしているんだ? せっかくオーディションに合格したのに」
「……」

響の性格なら「自分ならどんなオーディションもなんくるないさー!」とか言うと思ったが、響は黙ったままだ。
響は見事オーディションを制した。
魔王エンジェルに勝った。しかも、評価は30点つまり満点だ。
なのに、どうして響は嬉しそうな顔をしてないんだ?
考え事でもしてるかのように、顔が下を向いている。勝者の顔じゃない。

「ねえ、765プロ」
「ん?」
「今日の自分どうだった?」
「もちろん完璧だった」

即答した。
オーディション中の響を思い出す。
二日目の収録の時に感じていた、響が楽しんでいないという部分に関しては問題ない。
とてもイキイキしていたと思う。
アピールにミスもなく、俺の指示にもしっかり従ってくれた。
これを完璧と言わないで何て呼ぶ。

「完璧か……765プロ、自分と魔王エンジェルのどっちがすごかった?」
「響がオーディションに合格した。それが答えだ」
「うん、そうだよね。自分はオーディションに合格したんだ。でも……」

響が俺に一枚の紙切れを差し出す。
俺は、それが審査員用の評価用紙だとすぐに理解した。おそらく他のアイドルたちの結果も載っている。

「どうして、これを響が持っているんだ?」
「……」

答えたくないのか? それとも、まずは見てくれってことなのか?
たぶん後者だ。でなきゃ、渡した意味がわからない。
俺に何かを伝えたいのだろう。用紙を開いて見ることにした。
一番下の6番、響の欄を見る。満点だ。
その上の5番、魔王エンジェルの欄にある星を数える。30個だ。
魔王エンジェルが響と同じように満点を取っている。
これは別に驚くことじゃない。響に劣らないパフォーマンスをしておいて、満点を獲得できないはずがない。
問題なのは順位だ。
響と魔王エンジェルの決定的な違い。
響の順位は全て「2位」だった。
全ての審査において、全てのジャンルが魔王エンジェルに負けている。

「ねえ……どうして全部2位の自分が選ばれたの?」
「えっと、それは……」

響の質問に俺はどう答えればいいかわからなかった。
だって、そうだろ?
普通に考えれば、同じ評価なら実力つまり順位や点数が高い方を選ぶ。

「この世界の影の部分を知っておいた方がいいわよ」

頭の中で、真・最強プロデューサーの言葉を思い出す。
……まさか。

「ねえ、答えてよ、765プロ」
「響……初めに言っておくけど、これは俺の予測でしかない。だから、あまり気にしなくていい。聞き流す程度の」
「765プロ……そういうのはいいから」
「わかった」

俺は響に自分の考えを話すことにした。
なぜ、響がオーディションで選ばれたか。答えは簡単だ。響の方が、視聴率をとれるからだ。
我那覇響……15歳という若さで才能に恵まれ、破竹の勢いでSランクに到達したアイドル。
いま、もっとも勢いのあるアイドルと言っても過言ではない。
ファン数や売上といった形なら魔王エンジェルの方が上だが、注目度や話題性ならば今年からデビューした響の方が上だ。
毎年のように出てくる一発あてた芸人がメディアでチヤホヤされるように、話題性の高い分、響を起用した方が番組としては数字をとれる。
だから、響が選ばれた。響は大人の事情で勝たされた。
それが俺のプロデューサーという観点から出した結論だった。

「じゃあ、765プロ……その評価用紙は?」
「961プロに、恩を売るための献上品だな。響を起用してやったことに加えて、貴重な他のアイドルたちのデータ。これだけの物を渡してくれたなら……まあ、次に向こうから仕事のオファーがあったら黒井社長は断らないだろうな」

そして、また番組側は他のアイドルの情報を渡して、響を番組に出れるようにするわけだ。
響は、いわば旬なアイドルだからな。テレビに出演するだけで高視聴率は期待できる。
黒井社長には情報が、番組側は数字が……響をダシにして甘い汁を吸うということだ。
胸糞悪い……

65: 2013/02/24(日) 04:02:59.29
「そっか……じゃあ、自分は魔王エンジェルに勝ったわけじゃないのか」

俺の話を聞いた響は、納得した様子で自嘲気味に笑った。


「浮かれて……馬鹿みたいだな。765プロ、自分のこと笑っていいぞ」
「笑えないよ。それに魔王エンジェルの結果は一位だったけど、俺にとっては響のパフォーマンスが一番よかった」
「そんなんじゃ意味ないんだよ!」

俺の言葉に響が怒鳴った。

「自分は完璧なんだ! だから負けちゃいけないんだ! 誰からにも認められる凄い結果を出さなくちゃいけないんだ! 765プロ一人にそう思われたって意味ないんだよ!」
「響……」
「悔しい……悔しいよ……765プロ」

震える声で俺に訴えてくる。
余程、魔王エンジェルに負けたことが堪えているのだろう。
響の目には涙が浮かんでいた。
目の前でアイドルが泣いている。
なら、俺のすることはなんだ?
決まっている。俺はプロデューサーだ。
泣いているまま放っておくことなんて出来ない。

「響は魔王エンジェルのパフォーマンスを見て、どう思った?」
「……怖かった」
「怖かった?」
「うん。あんなとんでもないパフォーマンスをやられて、自分は勝てるのかなって思った」

確かにあの凶暴なまでのパフォーマンスは、他のアイドルを恐怖させるものだ。

「でも765プロ、自分……怖かったって思った以上にね……凄いって思ったんだ」
「響はあのパフォーマンスを見て凄いって思ったんだな……良かった」
「良かった?」
「ああ……魔王エンジェルのパフォーマンスをそう思えるなら、響はもっと強くなれる」
「えっ?」

キョトンとする響。どういうことか分かっていないようだ。


「言葉の通りだよ。いま響が俺に向かって吐き出した想い。それがある限り、響はまだまだ強くなれる……絶対に」

自分より優れた人間がいる時どうするか。
その人を尊敬するか。
その人を妬むか。
妬む人間はそこで終わりだ。もう精神的に負けている。だから、相手を貶すことしか出来ない。負け犬の遠吠え、惨めなものだ。
だが、尊敬する人間は違う。確かに端から見れば妬む人間と同じ敗者かもしれない。でも、尊敬する人間は相手を目標にすることが出来る……言ってみれば向上心があるということだ。
春香が響のことをテレビで初めて見た時、春香ははしゃいでいた。同じ新人である響の実力を純粋に褒め称えた。
それがきっかけで、春香は響のことを目標にするようになった。
響の背を追いかけて、春香はAランクアイドルにまで上り詰めた。

「響は魔王エンジェルのような誰からにも認められる凄いパフォーマンスが出来るようになりたいんだろ?」
「うん……自分もあんな凄いパフォーマンスが出来るようになりたい!」

力強い返事が返ってくる。

「なら、魔王エンジェルに並ぶことがトップアイドルになる前に、響が達成しなくちゃいけない目標だな」
「並ぶ? 勝つじゃないのか?」
「壁を乗り越えるためには、まず壁に手が届かなくちゃダメだろ?」
「そっか……そうだよね。魔王エンジェルにランクとか売上じゃなくて実力で並ぶ……それが自分の目標」
「そうだ。響の目指す目標だ。後はそれに向かって」
「妥協しない、追求したい?」
「そういうことだ」

隣から響の笑い声が聞こえた。もう泣いていなかった。
春香が教えてくれた。目標がある限り、人は成長し続ける。
だから、響だって……きっと!

66: 2013/02/24(日) 05:48:35.29
人も車も通っていない道。夜の都会でも、そういう場所がある。
彼はそこを歩いていた。
冬馬は彼に対して引きこもりのような発言をしているが、別に彼は一日中家に籠っているわけじゃない。
確かにベッドの上で氏んだような目で、起きては寝てを繰り返すような時期はあった。
だが、律子に対して自分の鬱憤をぶつけて大切なものを奪ったことが原因か、それとも単に流れた時間の影響か、今の彼はそういう時期を脱していた。
ただ鬱々と落ち込んで引きこもっているだけでなく、失敗した過去と向き合い自分を分析することが出来た。
気持ちにある程度の整理がついた。
それでも、突然自分を責める声が聞こえてくるときがある。

―お前がProject Fairyを潰したことには変わりない。彼女たちの夢を奪った。挙句、貴音の未来まで奪った。それにお前が律子にしたことはどうする? 響や美希には対しては? 誰から償う? どうやって償う? 気持ちの整理……そんな耳に優しい言葉で自分を許そうとしているだけだろ?―

頭の中、声が粘液になって湧いてくる。頭の中は粘液でいっぱいになってしまう。
だか、粘液は止まることなく湧き続けた。
粘液が耳や鼻、口、瞼から溢れ出る。顔中の隙間から溢れ出す。
そんな時、彼は外に出て頭の中の声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けた。
時間は決まって夜。夜の静かさと冷えた空気が彼を落ち着かせた。
それが逃避であることを彼は理解していた。

静かな夜を歩くことで逃避をするか、かつての同僚を欲望の捌け口にして逃避をするか。
それが彼のここ最近の夜の過ごし方だった。
過去とは向き合ったが、今とは向き合おうとしていない。
それが今の彼だった。

69: 2013/02/28(木) 02:27:42.25
魔王エンジェルに並ぶ、それが今の自分の目標か。
凄い目標だと思う。
それでも、今まで持っていたトップアイドルになるっていう漠然とした目標よりもずっとわかりやすい。
先を走る魔王エンジェルを追いかける。
背中は見えているはずなんだ、絶対に追いついてみせるぞ。
でも、今までみたいに一人でやっていったら追いつけない。
どうすればいい?
答えは簡単……

「765プロ、自分に力を貸して! 自分、もっと強くなりたいんだ!」

今の自分は一人ぼっちじゃない。こうして、頼みごとを出来る人がいる。

「ああ、もちろんだ。今の俺は、響のプロデューサーだからな」

そして、その人も嫌な顔をしないで協力してくれる。
もちろんか……765プロなら、きっとそう言ってくれるって思った。
分かっていることなのに嬉しい。
自分に対して親身になってくれる人がいる安心感、こっちに来てから自分が失くしたもの。
今はそれがある。
あっ……そうか。
だから、レッスンも気楽にできたんだ。
だから、オーディションの時もちゃんとパフォーマンスできたんだ。
765プロは……自分を安心させてくれる人。
あれ?
なんだか顔が熱い。さっきまでは、そんなことなかったのに。

「どうしたんだ、響?」

765プロが顔を近づけてくる。ち、近い!
思わず、顔をそらす。

「えっと、ほら……今になってオーディション合格の興奮がグアーって!」
「そ、そうか」
「そ、それじゃあね! また明日!」
「ああ、また明日」

なんだかわからない勢いのまま自分は走り出す。
たぶん、765プロはちょっと変に思うかも。
そうだ、言い忘れてたことがあった!
これだけは、しっかり伝えないと。
沖縄の言葉じゃあ伝わらなかったみたいだし、今度は765プロにも伝わるように……いや、もう765プロって呼べないか。
だって、765プロは自分を、アイドルを支えてくれる人だってわかったから。
振り返る。
不思議そうな顔、やっぱりちょっと変に思われてた。
息を大きく吸い込む。

「今日はありがとーなー! プロデューサー!」

大きな声でそれだけ言って、自分はまた走り出した。

74: 2013/03/01(金) 01:10:39.57
四日目の朝、なんだか気分が良かった。
やっぱり昨日の夜のことが原因だな。
ようやく響にプロデューサーと呼んでもらえたのだから嬉しくないはずがない。
響の背中が見えなくなった後に、思いっきり「よっしゃー!」と大声を上げてしまった位だ。
やっぱり765プロと呼ばれるより、プロデューサーの方がしっくりくる。認めてもらえたということなのかもな。
今日で約束の一週間の折り返し地点。
俺のことをプロデューサーと呼んでくれた響のために一層力をいれてプロデュースしていこう!
そんなことを考えていると遠くの方から響がやってきた。

「おはよう、プロデューサー」
「ああ、おはよう……響」

う~ん……今まで765プロって呼ばれていたから、プロデューサーという呼ばれ方が少しこそばゆい。

「今日は何をするの、プロデューサー?」
「そうだな……」

響は、俺に強くしてくれと言ってくれた。それに対して俺は約束した。
昨日のオーディションの疲れも考えて、今日はオフにするべきかもしれない。
でも、昨日の今日でなあ……肩透かしに思うだろうな。
響の方をみる。指示を待つ犬のように黙ってじっと俺を見ている。
しっぽでもついていたら振っていたかもしれない。
……決まりだな。

「今日はレッスンをしよう」
「本当か! 自分も今日はレッスンをしたい気分だったんだ!」

そりゃあ、あの様子ならな。

「早く行こうよ、プロデューサー!」
「おいおいレッスン場はそっちじゃない、こっちだ」
「あっ、ごめん……つい」

響が笑いながら、バツが悪そうに舌をだす。
まったく……そそっかしいな。
そう思いながらも俺の顔は笑っていた。

75: 2013/03/07(木) 20:03:25.95
「プロデューサー、今日のレッスンは具体的に何をするんだ?」

トレーニングウェアに着替えて、プロデューサーにレッスンの方針を聞いてみる。
プロデューサーは、いったい自分にどんなレッスンをしてくれるんだろう?
ちょっとワクワクする。

「響に合った楽曲のレッスンだな」
「自分にあった楽曲? オーバーマスターのレッスンじゃないのか?」

自分の疑問に「ああ、そうだ」とプロデューサーが返す。

「正直、響のオーバーマスターは完成していると言ってもいいくらいの領域にある。だから、これ以上オーバーマスターのクオリティを上げるのはかなり厳しいものだと思う」
「うーん……そう言われると確かに」

レッスンとかでも上手くできたと思うことはあっても、上手になったと思うことはほとんどないんだよなあ。

「そういうわけだからさ……気分を切り替えるという意味も兼ねて、他の楽曲のレッスンをしてみないか」
「他の楽曲か……あっ、それってshiny smileのこと?」
「俺はあの曲が響に合っていると思うんだ。響は、あの曲を聞いてどうだったんだ?」
「うん……あの曲、すごい自分にしっくりきた。自分、shiny smileを歌いたい」
「それを聞いて安心した。正直、少し不安だったからさ」

へえ、プロデューサーにも不安な時があるんだ。
ちょっと意外だぞ。オーディションの時は、全然そんな風には見えなかったし。

「よし、それじゃあレッスンを始めるか」
「はーい!」

76: 2013/03/07(木) 20:08:04.87
鍵盤を叩く音に合わせて響が歌う。

「お気に入りのリボン、上手く結べなくて、何度も解いてやり直し 夢に似てるよ 簡単じゃないんだ」

自分で合っていると言っただけあってか、響はかなり早いペースでshiny smileを吸収していく。
だけど、これは予想以上のスピードだ。才能が後押ししているんだろうな。
おかげでこっちの指導にもつい熱が入ってしまう。

「妥協しない! 追求したい!」
「そこはもっと強くだ。自分の色を出せ!」
「は、はい!」

少し厳しい口調の俺に驚いている。ピアノに合わせて、再び響が歌いはじめる。

「妥協しない! 追求したい!」

よし、さっきよりいい感じだ。

「頑張ること探して」
「多少音がズレてもいいから、力強く歌ってくれ」

響が目線で頷く。

「ねえ、走るよ! 君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない 手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい
私 shiny smile」

間奏の間に俺は次の指示を飛ばす。

「一旦、弱く歌ってくれ。そうだな……疲れたり、不安になったりした自分に言い聞かせる感じで」
「君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない
手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい 私」
「最初のサビ以上に思いっきり、迷いなく歌ってくれ」
「君へと届きたい! 転びそうでも
ブレーキを我慢して 石ころをかわして
泣きそうな思いを 乗り越えたら
いつだって キラキラでいるよ
私 君とshiny smile」

響の歌い終わりと同時に演奏も止まる。

「ふう……どうだった、プロデューサー?」
「最初と最後のサビだな。真ん中は特に問題ないと思う」
「ああ~やっぱり」

俺の言葉に響は残念そうな声をあげた。
自分でも問題点を理解しているということなのだろう。
shiny smile。それは一人の女の子の想いが込められた楽曲。
女の子がどこか勢いに任せて「君」の元へ走っていくけれど、上手くいかずくじけそうになってしまう。
そんな時、女の子は自分の中の想いを言い聞かせることで迷いを振り切る。
再び女の子はひたむきに「君」に向かって走っていく。そして「君」の元にたどり着いた時、女の子は最高の輝く笑顔をみせる。
それを3回続くサビで表現するのがこの楽曲の肝とも言える部分だ。

77: 2013/03/07(木) 20:22:28.38
「プロデューサーの言った通り、真ん中のサビはバッチリなんだ。表現しやすいから」
「俺としては真ん中のサビの方を心配していたけどな」

基本的に元気で明るい響に、弱々しさとか繊細な表現ができるのかという不安があったが、それは杞憂だったようだ。

「プロデューサー、もしかして自分が弱々しい演技ができないとか思ってたのか?」

響がムッとした顔でこっちの顔を見てくる。やばい、バレてる。

「いつも言ってるでしょ、自分は完璧だって。とは言っても、shiny smileはまだ完璧にマスターしてないけど」
「やっぱり難しいか?」
「最初と最後のサビ、プロデューサーの言う通り、どっちも力強く歌わなくちゃいけないんだけど違いをつくらなくちゃいけないから」
「最初のサビを雑に歌えってわけでもないからな」
「わかってるよ。最後のサビは純粋に自分の全力を出し切る感じで歌えばいいと思うんだ」
「そうだな、そこの所は単純に数をこなして質を上げていけばいいさ」

問題は最初のサビだ。後先考えないような体当たり的な危うさが表現できていない。
響くらいの年の女の子なら一番表現しやすいと思ってたんだけどな、体育会系っぽいし。
今までオーバーマスターだけを歌ってきたから、こういう表現が難しいのかもしれない。

「う~ん、危うさ危うさ……上手く歌っちゃダメだけど、雑に歌っちゃダメか。プロデューサー、何かいい方法ないかな?」
「そう言われてもなあ。俺もあくまで表現に対してのアドバイスで響の目指す方向性を示すことは出来るけど、技術的なものまではな……」
「そっか……自分で考えなくちゃダメか」
「そうだな。力になれないのは残念だけど、こればっかりは響自身に答えを見つけて欲しい。自分の歌い方や表現の仕方で、この楽曲に響だけの色を塗ってほしい」
「自分の色……か。わかった、自分頑張ってみるよ」
「よし、その意気だ……と言いたいところだけど、一旦休憩にしよう」

そう言って、俺は響に腕時計をみせる。時刻は午後1時を回っている。俺も響もレッスンに夢中で昼になっていることに気づいてなかった。

「もうこんな時間だったんだ。なんだかあっという間だったね」
「それだけ密度のあるレッスンができたってことだ。早く昼を食べて、午後のダンスレッスンにとりかかろう」

81: 2013/03/08(金) 23:56:49.56
レッスン場の隅、スポーツバッグから取り出したお弁当箱を開ける。

「いただきます」

箸で卵焼きをつまんで、口に入れてみる。
うん、フワフワだぞ。ちゃんと火が通っている証拠。

「へえ、随分と美味しそうじゃないか」
「あっ、プロデューサー」
「隣いいか?」
「うん、別にいいよ。どうせ自分たち以外は誰もいないし」
「それもそうだな……よいしょっと」

プロデューサーが、自分の隣であぐらをかく。
手には白いビニール袋、コンビニで買ってきたんだろうな。

「プロデューサー、自分でお弁当とか作ってこないの?」
「わざわざ朝おきて作るのが面倒なんだ」

だるそうな声でプロデューサーは包みを破って、おにぎりを食べる。
包みには鮭って載っていた。

「冷凍食品だってあるでしょ?」
「それでも面倒なものは面倒なんだよ。買って済むなら、それでいいしさ」
「作ってくれる人とかいないの?」
「そういう相手を作る暇もないくらい忙しかったからなあ。たまに春香がお菓子を作って持ってきてくれるくらいだ」
「春香が?」
「そうそう。春香の特技でさ、美味しいんだよ」

春香のお菓子の味を思い出しているのか、プロデューサーは笑顔で二つ目のおにぎりの包みを破った。鮭で梅……シンプルなのが好きなのかな?
ふ~ん、春香はお菓子が得意なんだ。
まあ、自分もお菓子作りくらい楽勝だけどな、サーターアンダギーとか。
って、なんで張り合ってるんだ、自分!?
春香がプロデューサーにお菓子を作ってくることなんて気にしなくていいじゃないか。
別にお菓子作りの腕はアイドルには必要ないんだし。
でも、プロデューサーが春香のお菓子を美味しそうに食べている所を想像してみると嫌だった。
理由はわからないけど、とにかく嫌だ。何かムカつく。
自分はそのイライラをぶつけるように、お弁当にがっついた。

「響、そんな急いで食べなくても」
「むぐぐ、むぐぐぐぐぐむぐぐぐぐ(早く、ダンスレッスンしたいから)」
「何を言ってるか、さっぱりだぞ?」

83: 2013/03/17(日) 02:29:45.42
「それじゃあ、午後のレッスンを始めるか」
「はーい」
「まずは基本的な動きを覚えてくれ」

俺は響に振り付けの資料を渡した。
さっそく響は資料を読みながら、小さな声で「お気に入りのリボン」とshiny smileの歌詞を口ずさみながら、空いた手を動かし始めた。
ダンスの動きを頭の中で再生して、再現しているようだ。
本格的に踊っているわけでもないのに、様になっているのは流石と言ったところだ。
10分程経ち、ひとしきり覚えたのか響は俺に資料を返した。

「けっこう簡単だね」
「そうなのか?」
「これくらいなら楽勝だよ。見てて、プロデューサー!」

言うが早いが、響はラジカセの再生ボタンを押した。
スピーカーから曲が流れ出して、響も踊りはじめる。
たった10分で……無理だろ。
そんな俺の考えは、あっという間に打ち砕かれた。
響の踊りは完璧だった。
ステップやターンのタイミング、力の入れどころ、文句のつけようがない。
忘れていた。目の前にいる女の子は、ただの女の子じゃない。我那覇響なんだ。
才能があるのはわかりきっていたことだったけど、ことダンスの才能に関しては郡を抜いているな。

「どうだった、プロデューサー?」
「参ったな……指導するために、どうにか粗を探そうと思ったんだけどさ」
「うんうん」
「まさか、ここまでのレベルのものを見せつけてくるなんてな。しかも、たった1回でさ」

俺は降参といった感じで両手をあげた。
響は俺の様子に機嫌を良くしたのか、腕を組んで自慢げな顔をした。

「じゃあ、ダンスはこれで完璧かな?」
「う~ん、そうだな」

確かにダンスは完璧だ。後は、反復練習で完成度を上げればいい。
ただ、それだけだと何だか物足りない気がする。
せっかく、響はダンスが得意なのだから活かしたい。

「ねえ、プロデューサー」
「ん……どうした、響?」
「自分、今のダンスちょっと動きを変えていいかな?」
「どういうことだ?」
「なんていうのかな。ちょっと動き足りないっていうかさ。この曲はもっと動きを大きくしてもいいと思うんだ。その方が、自分らしい気がするし」

響としては今のダンスに何か思う所があるらしい。
ダンスセンスが非常に高い響の意見は貴重だ。俺は響の意見を聞き入れてみることにした。再び響が、shiny smileの音楽に合わせて踊りだす。
基本の形に、響が独自のステップを混ぜてアレンジを、響の色をつけていく。
動きが全体的に大きくなったダンスになった。躍動感が、先ほどのものとは大分違う。

「どう、プロデューサー?」
「そうだな。アレンジ自体は良いものだと思う。ただ、動きを大きくすることに意識が行きがちになっているから、繊細に動くべき所が雑になってるぞ……ここの辺りとか」

俺は、資料の響がアレンジを加えた部分の動きがのっている箇所を見せる。
それを見て響は、しばらく悩むと「じゃあ、こう動いたらどうかな?」と言って、俺に新しい動きを見せる。
そんな風に、俺と響はshiny smileのダンスについて試してみては議論するを繰り返した。
俺は「見る」という立場で、響は「見せる」という立場で意見をぶつけ合った。
お互いに納得したものが出来上がった頃には、レッスン場の窓の外は真っ暗だった。


84: 2013/03/21(木) 03:03:07.89
いつもの帰り道、つい最近まではこの道をひとりで歩いていた。
でも、今は違う。隣を見れば、自分のことを支えてくれる人がいる。
うーん……こうして見るとプロデューサーって、意外と顔が整っているかも。

「?」

プロデューサーは視線に気づいたのか、自分に顔を向ける。
ばっぺーた……じっくり見すぎてたぞ。
自分が慌てて顔をそらすと、プロデューサーは小さく笑った。
それもそうだよね。さっきからこのやりとりを何回もしてるし。

「ねえ、プロデューサー。明日は何をするんだ?」

恥ずかしさを隠すように、自分はプロデューサーに明日の予定を聞いた。

「明日はオフにしよう」
「オフって……どうしてだよ!」

思わずプロデューサーに食ってかかった。
プロデューサー、わかっているの?
自分、まだshiny smileを完璧にマスターしていないんだよ、未完成なんだよ?
それなのに休むだなんておかしいよ。

「ま、待ってくれ、響」

プロデューサーは「落ち着いてくれ」と言いたそうに、手で自分を制止する。

「ただでさえ、魔王エンジェルとやりあった翌日の今日で、ハードなレッスンをしたんだ」
「それがどうしたって言うのさ?」
「響の体には、かなり疲労がたまっているはずだ」
「そんなわけないよ!」
「疲れてないって思うのは、響が自分の体が疲れていることに気づかない位に集中していたってことだよ。密度のあるレッスンを長時間やったんだ、疲れていないはずがない」
「うぅ……」

確かにそうかもしれない。夢中になっている時って疲れとか感じないから。
脳内ああああああああああっていうんだっけ?

「だから、明日はゆっくり休んでくれ」
「うん……わかった」

自分が疲れているっていうプロデューサーの言葉が嘘だとは思えない。
正直、納得しきれなかったけど自分は頷いた。
自分の少し不満そうな顔を見たプロデューサーは、何も言ってこなかった。
でも、オフか……随分と久しぶりな気がする。
今までは黒井社長のもってくる仕事をひたすらこなしてきたから録に休みなんてなかったし。
明日は久しぶりに買い物にでも行こうかな。
そう言えば、プロデューサーは担当アイドルがオフの日はどうしてるんだろう?
今までプロデューサーのいないアイドル活動だったから、何となく気になる。
いや、違うかな。
自分は、この人が休みの日に何をしているのかが気になるんだ。
そのことをプロデューサーに聞いてみると、

「そりゃあ、もちろん仕事をしてるな」
「えっ?」

自分のまったく予想してなかった答えが返ってきた。
プロデューサーは驚く自分に気づかないまま話を続ける。

「オフって言っても、それは担当アイドルの休暇であってプロデューサーの休暇ではないだろ? だから、普通に仕事をしているよ。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それじゃあ、プロデューサーはいつ休んでいるんだよ!」
「仕事していない時だけど」
「……プロデューサー、自分のこと馬鹿にしてる?」
「そんなわけないだろ」

この顔……プロデューサー、本気で言ってるよ。
疲れがたまっているのはプロデューサーの方なんじゃないか。
このままだと明日も仕事をするだろうな。
心配だな。せめて、明日一日だけでもいいからプロデューサーに仕事をしないでもらう方法はないかな?
…………あっ、ひらめいたぞ!

86: 2013/03/22(金) 04:10:44.85
「プロデューサーは明日、仕事しないこと!」

響は俺に向かってビシィっと指をさしながら宣言した。
いきなり何を言い出すんだ?

「自分、明日買い物にいくつもりなんだ。服とかアクセサリーとか」

へえ、響は休日をそうやって過ごすのか。春香はケーキ屋とかを巡っていたりしてるんだよな。

「それでプロデューサーには荷物もちになってもらうからね!」

ちょっと待って。いま、なんて言った。
荷物もち?
頭の中に昭和のドラマとかにある男が大量の箱をもちながら女についていく1シーンが思い浮かぶ。
流石にあそこまではいかないだろうけど。
でも、待てよ。なんといっても響はSランクアイドル。俺なんかよりずっと高いギャラをもらっているだろうし、ありえるかもしれない。
……って、そうじゃない。

「どうして、俺が響の荷物もちをしなくちゃいけないんだ!」
「自分、言っただろ。プロデューサーは明日、仕事しないことって」
「いやいや……俺にはやることがたくさんあってだな」

春香のライブの企画や、今後の売り方とか。

「それは「我那覇響のプロデューサー」として必要なことなの?」

響が小さな声で何かを言ったけれど、よく聞き取れなかった。

「どうした、響?」
「ううん、なんでもない。とにかく明日は自分の荷物もちは決定だからね」
「あのなぁ、俺は響の小間使いなんかじゃなくて」
「いいでしょ。こんなこと頼めるの、プロデューサーしかいないんだ」
「うぅ……」

目をウルウルさせて見つめてくる響。芝居がかっていて胡散臭かった。
それでも女の子の涙を見せられるとどうも弱い。なんだか罪悪感が湧いてくるんだよな。
結局、俺は折れることにした。

「よしっ! 狙い通り!」

響、心の声が漏れてるぞ……

「じゃあ、明日は」
「駅前ね!」

どこで会うんだと聞く前に即答された。

「それじゃあ、また明日ね。プロデューサー!」
「あ……ああ……」
「ちゃんと来てね!」

響はまくし立てるように言い終えると、いつものように走っていた。
響の背中が小さくなっていく……と思ったら、戻ってきた。
忘れ物でもしたのか?

「どうしたんだ?」
「待ち合わせの時間、決めてなかったよ。しっかりしてよね、プロデューサー」
「俺のせいではないだろ。何時にするんだ?」
「10時がいいかな。それと……」
「まだ何かあるのか?」
「うん……あのさ、鮭と梅干以外で何が好きなの?」
「は?」
「だ~か~ら~、おにぎりの具だよ。鮭と梅の他に何が好きなの?」
「なんでそんなことを聞くんだ?」
「いいから答えてよ!」
「えっと……おかか」
「本当にシンプルなのが好きなんだね。でも、わかったぞ!」

そう言って響は今度こそ俺の元から走り去っていった。
なにがわかったって言うんだ、いったい?

87: 2013/03/27(水) 23:29:48.71
デジタルの置時計が午前6時を表示すると電子音が鳴り始めた。
いつもならすぐに目が覚めてアラームを止めるのに、今日はもう少し眠っていたかった。
プロデューサーの言うとおり疲れがたまっていたのかもしれない。
まだ少し眠いけど起きなくちゃ。
だって、今日は……
自分はスイッチを叩いて部屋に鳴り響くうるさい音を止めた。
ガバっと毛布をはいで、パジャマ姿の自分は跳ね起きる。

「よしっ! やるぞ!」

両腕を上げて伸びをしながら気合をいれた。
姿見の前で、タンスから出した服をパジャマの上から合わせる。

「う~ん、これは違うな」

ポイっとベッドの上に投げ捨てて、タンスから別の服を出してまたパジャマの上から合わせる。

「これも……違うかな」

気に入らない服をまたベッドの上に投げて、別の服を合わせてみる。
そんなことを繰り返すうちにいつの間にかベッドの上は自分の服でいっぱいになった。

「うん、これがいいかな」

ようやく自分のインスピレーションに合ったものを見つけると、今度はタンスの一番上を開けてリボンを取り出す。
濃淡のついたお気に入りだ。
鼻歌で「お気に入りのリボン、上手く結べなくて、何度も解いてやり直し」って歌うけど、歌詞とは違ってちゃんと上手く結べた。
そこまで来て、自分の中にある考えがよぎった。
プロデューサーだって男の人なんだよね。
もしかしたら、もしかしたら、今日の買い物の後とかに何かあるかもしれない。
その……ロマンスみたいな。
って、いやいやいや! 何を考えているんだ、自分!?
た、確かにプロデューサーのことは嫌いじゃないけど、もっとそういうことは慎重にいきたいし……ああ、でも自分、プロデューサーに迫られたら。
しばらく考えると、自分はタンスの下着が入っている箇所を引き出した。
興味本位でこっそり買ったものだし、使う機会なんてないと思ったけど……

「寄せて……あげる……」

自分はパジャマを脱いで、いそいそとタンスから出したそれを付け始めた。

91: 2013/03/28(木) 05:18:20.18
着替え終わった自分は、キッチンに向かう。
炊飯器の蓋を開けるとモワッと湯気が出てきた。
白いご飯がキラキラ光っている。炊きたてだ。
しばらく蒸らしておこう。その間にイヌ美たちにエサをあげなくちゃ。



「や、やっと終わった……」

ペットたちのエサをやるだけで一仕事だ。
捨てられていたりするペットとか見つけちゃうと、つい拾っちゃたりしちゃうからどんどん増えちゃうんだよな。
でも、自分に放っておくことなんか出来ないよ。一人ぼっちの辛さは自分が一番良く知っているから。
……おっと、そろそろおにぎりを作らなくちゃ。
自分から言い出したことだけど買い物に付き合ってくれるんだし、これくらいのお礼はしないとね。
炊飯器からボールにご飯を移して、しゃもじで少し混ぜる。
濡らして塩をすり込んだ手でご飯を掴み取って昨日の内に焼いた鮭をほぐしたものを入れて握る。
ふふん、我ながら完璧な三角形。
一つが終わったら、また一つおにぎりを作る。今度は梅干しを具にする。
鮭と梅のおにぎりをいくつか作り終わると今度はボールに残ったご飯に鰹節と醤油をふりかけて混ぜ合わせる。
後はこれを握ればおかかのおにぎりは完成だ。
ガスコンロに火をつけて一瞬だけ海苔を炙る。こうすると海苔がよりパリパリになるとか。
おにぎりはラップで丁寧に包んで、炙った海苔は真空パックに入れて終わりだ。

「う~ん……なんだかなあ」

プロデューサーのお昼ご飯を自分の作ったおにぎりだけで済ませるのはどうなのかな。
おかずとか欲しいよね。
冷蔵庫を開けて、中身を見てみる。
あっ、ワニ子のエサとして買ってあった鶏のもも肉が残っている。

「……からあげ」

まだ家を出なくちゃいけない時間まで余裕がある。
自分は腕をまくって、戸棚から片栗粉の入った袋を取り出した。

95: 2013/03/29(金) 18:42:11.14
ケータイのディスプレイには約束の時間の10分前、10:50と表示されていた。

「響のやつ、そろそろかな?」
「やあ、青年!」

誰かが後ろから声をかけてきたので、振り返ってみる。

「おはよう、プロデューサー!」

お日様のように笑う女の子、響だった。

「おはよう、響」
「やっぱり約束の時間より前にいたね」
「まあな。それにしても中々似合っているじゃないか」
「ちちち。わかってないな、プロデューサー。中々じゃなくて完璧に似合っているだぞ!」

指を振りながらそんなことを言ってのける響だが、大言壮語でもなく本当のことだ。
普段はショートパンツにシャツというラフなスタイルにアクセサリーを加えることでクールかつアクティブに決めている響だが、今日の響は白のノースリーブに同じく白のスカート。
こういう清楚系な響というのは初めて見た。
お茶好きのアイドル候補生がこんな感じの格好していたな。
アクセサリーもいつもみたいに多くつけているわけでもなく、ネックレスだけだ。
だが、逆にそれがいい具合にアクセントとなって目立っている。
手には木で編んだカゴを持っている……カゴ?

「なあ、響……」
「うん?」
「今日は響の買い物に付き合うっていう話だよな?」
「そうだよ。しっかり荷物もち頼むぞ、プロデューサー」
「じゃあ、そのカゴはなんだ? ピクニックにでも行くのか?」
「ああ、これね。後でのお楽しみってやつだよ」
「お楽しみってなんだよ」
「後でわかるよ。それよりプロデューサー、この近くに服屋はないかな?」
「自分で場所を決めてなかったのかよ。しかし、服屋か……」

都会に服屋なんていうのは腐るほどある。だが、問題は響のお気に召すかどうかだ。
響ほどのアイドルが来るにふさわしい服屋……そうなると絞り込めてくる。
あそこだな。
俺は行き先を決めると響にそれを伝える。

「この近くにさ、俺がお世話になったスタイリストの人が個人でやっている服屋があるんだ」

今でもステージ衣装やアクセサリーの新作が出来上がるたびに765プロに連絡を入れて、見せに来てくれる。

「有名人もお忍びで来ることもあってさ。きっと響も満足できると思うよ」
「ふ~ん、それはちょっと楽しみだぞ」

96: 2013/03/29(金) 18:43:50.72
プロデューサーに連れられて、目的の服屋に入ると向こうから派手な服をきた細身の男が体をくねらせながらやってきた。

「いらっしゃい、あら……あなた765プロの」
「お久しぶりです」
「もう来るなら、来るって一言連絡入れてちょうだいよ!」
「ははは、すみません。なにせ急だったものなんで」

プロデューサーはオカマみたいな話し方をする男と親しげに話す。
ま、まさかプロデューサーって、そっちの人!?

「それでうちに何の用? ビジネスのお話なら、奥の事務所でゆっくりと」
「そ……それはまた別の機会に」

プロデューサーは、男の誘いに両手を少し前に出してやんわりと断った。
ビジネス……ああ、そういうことか。
このオカマみたいな男が、さっき言っていたお世話になったスタイリストの人なんだ。
あと、プロデューサーの反応を見るかぎり、プロデューサーはそっちの人じゃないみたい。
安心したぞ。

「それにしてもあなた、相変わらず地味な服装ね。靴と」

スタイリストの男は値踏みするような目つきでプロデューサーを上から下まで見渡すと、いきなりプロデューサーのシャツの裾をまくり上げる。

「うわぁ!」
「……ベルトはそれなりに良いものを使っているみたいね」
「お、お、お、男が男の服を剥かないでくださいよ!」
「あら、失礼。いい男だったから、つい」
「俺なんかよりカッコイイ男のモデルとか仕事で会うでしょう」
「そういうのとは、また違うのよ」
「勘弁してください。そういう趣味はないんですから……」
「でも、冗談は抜きにあなたの服を見立ててもいいわよ。あなたなら、この店の服を買うだけのお給料はもらっているでしょ?」
「いや、今日見立てて欲しいのは」

そこまで言って、プロデューサーは自分の方を見た。
つられて自分の方を見たスタイリストの男は不思議そうな顔をする。

「あら……この娘って961プロの」
「ええ、我那覇響ですよ」
「……大丈夫なの?」
「今日はお互いにオフで、たまたま同じところにいるだけですよ」
「……まあ、あなたがそれでいいなら構わないけど。うちは先客万来だから」
「ありがとうございます」
「ふふっ、それにしてもあなたも隅におけないわね。春香ちゃんというものがいながら」

スタイリストの男は、含み笑いをしてプロデューサーの方を見る。
どういうこと?
自分のそんな気持ちに、気づいたのかスタイリストの男は自分に向かって話しかけてくる。

「あなたが初めてなのよ。このプロデューサーが自分以外に誰かを連れてきたの」
「えっ?」
「春香ちゃんも連れてこなかったのに。あなた、この人に相当惚れ込まれているんじゃない?」
「ほっ……!」

自分がプロデューサーに惚れ込まれている。つ、つまり、それってプロデューサーは自分のことがすすすす……好きってことか?
寄せて上げるをつけてきて正解だったかもしれない。

97: 2013/03/29(金) 18:44:31.99
「ちょ、ちょと、響に変なこと吹き込まないでくださいよ!」
「じゃあ、あなたはこの娘に何も感じないわけ?」
「うぐっ……そ、そりゃあ響はとても才能に溢れていて魅力的だし、可愛いし」
「あう……か、可愛い」

可愛いなんて耳にタコができるくらいに言われているのに、プロデューサーの言ってくれた「可愛い」は何か違った。
胸にキュンと来る。
自分で自分の耳まで赤くなるのがわかった。

「……ふむ」

そんな自分の照れている顔を見て、スタイリストの男は

「ねえ、この娘の服の見立て……あなたがしたら?」

プロデューサーに向かってそう言った。

「えっ? なんで俺が」
「別に不思議なことじゃないでしょ? あなた、いつも春香ちゃんのステージ衣装のコーディネートしているじゃない」
「ステージ衣装と女の子の私服が一緒とは思えませんよ」
「可愛いという点では一緒でしょ。それじゃあ、お会計の時になったら呼んでね」
「あっ、ちょっと!」

スタイリストの男はプロデューサーの制止の声も聞かず、そそくさと店の奥へ消えていった。

「響、今の言葉は気にしなくていいからな」
「う~ん、でもプロデューサーの服選びはちょっと見てみたいかも」
「そうは言ってもなあ、さっき言われたけど俺は地味な服装しか選べないと思うぞ」
「それは自分の服のことだから、無頓着になっちゃって地味な服を選んじゃうんじゃないかな?」
「そういうものか?」
「きっとそうだよ。だから、自分の私服のプロデュースよろしくね、プロデューサー!」

笑顔でそう言う自分に、プロデューサーもフッと小さく笑う。

「結局、オフでも仕事か。まっ、いつもと変わらないといえばそうだな」

どこか楽しそうな顔だった。

102: 2013/03/31(日) 06:30:45.14
手に取った服を響に重ねてみる。

「う~ん、これも違うな」

俺は服を戻して、店内を回りだす。
響は俺の一歩後ろを子犬のようにひょこひょことついていく。
俺が良さそうな服を見つけて立ち止まると、響もピタリと立ち止まった。
響は俺が響に合うサイズを探している間、黙って待っている。
視線が向けられているような気がするが、気のせいか?
気づかれないように、一瞬横目で響を見る。
響はワクワクした顔をしている。しっぽでもあったら振ってそうだ。
それだけ、俺の選ぶ服に期待しているのか?
だとしたら、変なものは選べないよな。
おっ、あったあった。
俺は響に合うサイズの服を見つけると、それを響に重ねてみる。
……やっぱり違うな。
俺は服を元にあった場所に戻した。
こんなことがさっきから1時間以上も続いている。
素材が素材なだけに大抵の服が似合ってしまうというのが問題だ。

「なあ、やっぱり俺が選ぶより響が選んだ方が良くないか?」

どうしても自分で選んでしまうと似たような服になってしまう。
やっぱり女の子の服は女の子が自分で選んで決めるべきだ。

「えぇ~プロデューサー、自分の服を選んでくれないのか?」
「いや、選んでいるんだけどさ。さっきから中々決まらないんだよ」
「うん、それだけ自分のことを真剣に考えているんだよね?」
「あ……ああ……」

響の言葉に、俺はしどろもどろに答えた。
そうだ、俺は響のことを真剣に考えている。
ここ数日の付き合いも俺が響のためを想って提案したことだ。
765プロでプロデューサーとして働いていくうちに、アイドルのことばかり考えることが自然になっていたが、いざこうやって面と向かってそれを告げられると何だか背中がムズ痒い。

「だったら、もっと自分のことで悩んでよ!」
「はあ?」
「だって、プロデューサーは自分のプロデューサーでしょ」
「響……」
「大丈夫、プロデューサーなら、なんくるないさ~! 絶対に自分にピッタリな服を見つけられるはずだよ」

……どうやら俺の考えている以上に、響は俺に期待してくれているようだ。
それなら、プロデューサーとしてアイドルの期待には応えてやらないとな。
俺は気合を入れ直して、響のことを観察する。
そもそもどういうコンセプトで響を着飾ろうか?
活動的? 清楚系?
普段の響はショートパンツ、今の響はロングスカート……なら、普通にスカートを履かせてみるのはどうだ?
色々と思考を巡らしていくと不意にオーバーマスターが浮かんできた。
オーバーマスター、挑発的でアダルティー……響に合うのか?
いや、待てよ。
GentleよりWildに WildよりDangerous
デンジャラス……試してみるか。

103: 2013/03/31(日) 06:32:00.99
試着室のカーテンが開いて、響が姿を見せる。
こういう服を着るのは初めてなのかもしれない。響の頬は少し赤かった。
俺も誰かにこういう服を着させるのは初めてだ。
白いワイシャツと赤いネクタイの上から黒のレザーコート、赤地に黒の格子模様のスカートに黒のオーバーニーソックス。
デンジャラスな服装とは何かと考えた時に、我ながら安直だと思ったが駅で見かけたりするパンクファッションの女の子を思い浮かべた。
その結果が目の前の響というわけだ。
専門的な知識はないし、本物のパンク服はなかったので店にあるもので見立てた所謂、素人のイメージするなんちゃってパンクファッションだ。

「どうかな、プロデューサー?」
「ああ……似合っているよ」
「あはは! プロデューサーが言うなら、そうなんだろうね!」

響が嬉しそうに笑う。どうやら気に入ってくれたようだ。

「やっぱりプロデューサーに任せて正解だったね」

笑顔のまま響は両手を後ろで組んで、俺のことを見上げた。
それは響にとっては何でもない動きだったのだろう。
だが、俺を見上げることで響は若干上体を逸らすことになり、結果的に胸を前につき出す形になった。
公式プロフィールでは確か86……83の春香より大きいんだよな。
あの真っ赤なネクタイをシュッと解いて、ワイシャツの第一ボタンを開けると谷間が見えるのか。
腰周りも引き締まっていて、それを活かしてかステージ衣装もヘソ出しルックだし。

「プロデューサー……なんだか顔がいやらしい」
「はっ! ち、違うぞ、響!」
「やっぱりプロデューサーって変態だよね」

響のジト目が心に刺さった。



プロデューサーの選んだ服をもって、会計を済ませるために店の奥のレジに行く。
スタイリストの男は、服のタグについているバーコードをリーダーで読み取りながら自分の方を見る。
自分とプロデューサーの選んだ服を、重ねて見ているみたいだ。

「ふ~ん。まあ、あなたらしいコーディネートじゃない? 面白みに欠けるけど」
「ハッキリと言ってくれますね」
「いまさら遠慮するような仲じゃないでしょ?」

スタイリストの男は「んふ」と言いながら、プロデューサーにウインクをする。
プロデューサーはウインクを避けるようにスタイリストの男から目を逸した。
バーコードの読み取りが終わって金額が表示される。
プロデューサーはその数字を見て、目を見開いた。
……そんなに高い金額かな?
自分は財布から金額通りのお金を支払った。

「それにしても、あなたって罪作りな男よね。いえ……だからこそ春香ちゃんは」
「なんのことですか?」
「わからないなら別にいいのよ。また来てね」
「はい、また衣装のデザインを頼むかもしれません」
「ふふっ、楽しみにしているわ。あなたもまた服を買う時は、是非うちに来てね。961プロのアイドルちゃん」
「あっ……はい」
「それじゃあ行くぞ、響」

プロデューサーは自分の買った服の入った袋と木編みのカゴをもつ。

「いいの、プロデューサー?」
「元々、荷物もちで来たわけだからな」
「それもそうだね」
「そろそろお昼か。この時間だと」
「あっ、だったらプロデューサー……」

自分とプロデューサーは、この後の予定を話しながら店を出た。

「春香ちゃんにつきっきりだったから無意識なのかしらね。赤いネクタイ、赤チェックのスカート。赤……春香ちゃんの色じゃない」

スタイリストの男は何か言ったような気がしたけど、自分たちには聞こえなかった。

104: 2013/04/04(木) 09:50:43.92
お昼に何を食べようかと響に相談してみると景色が良いところに行きたいと言われた。
俺は響を765プロからそう遠くない場所へと連れて行った。
雄大に流れる川と、野球やサッカーのグラウンドよりもずっと広い河川敷。
レッスン場が使えない時は、この河川敷で春香のレッスンをしている。
短くて緑の草が広がる河川敷には、午前中で学校を終えたのかボールで遊ぶ小学生や、犬を連れて歩く老人がいた。

「響、こんなところに来てどうするんだ?」
「ちょっと待ってて」

響は俺が持っている木編みのカゴから、何かを取り出して目の前でバッと広げてみせる。
デフォルメされた可愛らしい動物たちが描かれたビニールシートだった。

「プロデューサー、そっちの端もって!」
「ああ、わかった」
「いくよ、せーの!」

響の掛け声を合図にビニールシートの四隅を伸ばしながら地面に敷く。
ビニールシートに座ると響はカゴから透明なタッパーを取り出して、並べていく。
タッパーの中身は料理だった。

「お昼ご飯、わざわざ作ってきてくれたのか?」
「荷物もちのお礼には、ちょうど良いかなって思ってさ」

恥ずかしさを誤魔化すように響は頭をかいた。

「ほら……食べなよ、プロデューサー」

俺はタッパーに入っている綺麗な三角形のおにぎりのラップを剥がして、響が渡してくれた真空パックの中に入っている海苔で包む。
パリパリとした小気味いい音がした。
おにぎりを一齧りして、咀嚼する。中の具は鮭だ。

「響、このおにぎり美味しいよ」
「ホントか!?」
「響も食べてみろよ」
「うん、いただきます……あっ、美味しい! 流石、自分!」
「でも、何でわざわざおにぎりと海苔を別々にしたんだ?」
「海苔を巻いちゃうとご飯の水蒸気を吸っちゃって、せっかくの海苔が濡れちゃうでしょ」
「なるほどな」
「食べてもらう以上は美味しく食べてもらいたいからね」

響は別のおにぎりに海苔を巻いて、俺に手渡す。

「プロデューサー、ほら」
「おっ、悪いな」

おにぎりを食べると、醤油の味と鰹節の香りがした。おかかだ。

「響、これ……」
「昨日、好きだって言ってたでしょ……だから」
「そっか、ありがとうな」
「こ、これくらい自分にかかれば楽勝だね。プロデューサーの好みが単純で助かったよ」
「それは褒めているのか?」
「うん、褒めてるよ。トップアイドルになる自分の貴重なありがたい言葉だぞ」
「ははは、ありがたくもらっておくよ。ついでに作ってきてくれた料理もな」
「あははは! どんどん食べていいぞ、プロデューサー!」

青空の下で笑い合う俺と響。
その後も、俺は響の作ってきてくれた料理―からあげは冷めてしまっていたが、とても美味かった―を食べた。
普段は一人で食べてばっかりだからか、響との昼食はとても楽しかった。

105: 2013/04/04(木) 11:10:02.97
風に煽られて草と草が擦れ合う。ザザッていう音がした。
ゆっくり流れる川の向こうには、こっちと同じ河川敷と土手。その向こうには高いビルがいくつも建っている。
特に目的もなく、ただそれを見つめる。
お昼を食べ終えた自分とプロデューサーは河川敷でウダウダしていた。
午後に行きたい場所はあるけれど、プロデューサーが食べてすぐ動くのは嫌だと言ったから、こうしている。
プロデューサーは穏やかな表情で、建ち並ぶビルを見ている。
ねえ……プロデューサー、何を考えているの?
誰のことを考えているの?
自分? それとも春香?

「こんなに落ち着いて過ごす休みの日は久しぶりだよ」
「そうなの?」
「ああ、昨日も言ったけど俺にとってオフの日なんていうのはいつも同じように仕事する日みたいなものだから。自然とそれが当たり前になってた」
「働きすぎだよ」
「響がそれを言うなよ」
「うぐっ……」
「まあ……とにかくさ」

プロデューサーは大きく伸びをして、ビニールシートの上で大の字になる。

「響が俺にわがまま言ってくれたおかげで、俺はいま仕事もせずにダラダラ出来ているわけだ」
「休みの日は休むべきだよ。アイドルもプロデューサーも」
「違いない」

プロデューサーのフッと笑う声がした。
自分は空を見上げる。

「空、青いね」
「ああ……大きくて綺麗で空の海だ」

気持ちのいいそよ風が頬を撫でる。

「風、気持ちいいね」
「ああ……」

それだけで会話は終わってしまう。
お互いに何も話さなくなる。それでも沈黙がどこか心地いい。
いま、プロデューサーと同じ空を見ている。
いま、プロデューサーと同じ風を浴びている。
いま、プロデューサーと同じ場所にいる。
いま、プロデューサーと同じ時間を過ごしている。
自分とプロデューサーで、なにもかもを分かち合っている、繋がっている。
空を見ながら、何かを探すように手を動かす。
プロデューサーの手が握りたかった。
もっと深く強く繋がれるような気がした。
手と手が重なる。暖かくて、大きい手だ。
ギュッと少し力を込めてプロデューサーの手を握る。
突然こんなことされたらプロデューサーはどんな顔をするんだろう?
出来たら握り返してほしいかな。
でも、自分の手が握り返されることはなかった。
だって、プロデューサーは

「……んぅ」

眠っていたから。
呆れたぞ。緊張して手を握った自分がなんだかバカみたいじゃないか。
プロデューサーは心地よさそうに寝息を立てている。
……手のかかるプロデューサーだ。

「まったく疲れがたまっているのはどっちだよ」

自分は静かにプロデューサーの近くまで動くと、プロデューサーの頭を自分の膝の上にそっと乗せた。

108: 2013/04/10(水) 02:12:46.69
プロデューサーを膝で寝かせて、どれくらい経ったんだろう。
1時間、2時間……いや、もっとかな?
河川敷で遊んでいた子供は遊び疲れて家に帰ったのかとっくにいなくなっていた。
太陽は大分傾いて、もうすぐこの辺りも暗くなるんだろうな。
それだけの時間は経っているはずなのにプロデューサーはバカみたいに大口を開けて寝ていた。
品の欠片もない。兄貴みたいだ。
うりうり、とっとと起きろ。何度か足、崩してるけど、ずっと動けなくて辛いんだぞ。
何度か頬を突っついてみると、プロデューサーは違和感に反応して顔を一瞬だけしかめる。
でも、その後はまた気持ちよさそうでマヌケな寝顔に戻る。

「プロデューサー」
「……」
「ねえ、プロデューサー……自分、いつも完璧とか言っているけど、本当は完璧なんかじゃないんだ。完璧だ、完璧だ、って自分に言い聞かせているだけなんだ」
「……」

こんな時に自分は何を言っているんだろう。聞こえているはずないのに。
例えるなら、ペットに愚痴る感じのアレ。反応が返ってくるわけでもないのについつい喋ってしまう。

「だって、そうでしょ? アイドルに失敗は許されないんだ。オーディションに負ければ、勝ったアイドルと差がついちゃうし、ライブで失敗すれば、ファンはがっかりして自分のファンをやめちゃうかもしれない。よく大人は失敗したっていいなんて、カッコイイこと言ってくれるけど、失敗しないに越したことはないでしょ? 黒井社長は自分に言ったんだ。失敗する人間は弱いって。失敗する位なら、どうして最初から失敗しないほどの努力をしないのかって。努力が足りない、だから失敗する。そんな雑魚は961プロには必要ない、そう言ってたよ。うん、間違ってはいないと思うんだ。だから、自分もいっぱい努力して、失敗のない完璧なアイドルでいようとして、その結果が今の自分なんだよ。でもさ、……自分、まだ15なんだよ。いや、誕生日は過ぎてるから16か。誰にも祝ってもらえなかったけど。とにかくさ、自分はまだ子供なんだよ。そんな自分が自分に自信を持てるかって聞かれたら微妙なんだよ。別に自分の力に自信がないわけじゃないんだ。ただ、自分より凄いものを見せられると、その自信が崩れそうになっちゃうんだ。この間の魔王エンジェルとのオーディションもそうだった。もし、自分が本当に完璧で強い人間なら動揺なんかしないで、しっかりと完璧なパフォーマンスを出来たはずなんだ。でも、自分はダメだった。プロデューサーがいてくれなきゃ、潰れてた。自分は完璧なんかじゃない。失敗することが、傷つくことが怖い……ただの臆病者なんだ」

心の中身を膝に乗ってる顔に向かって吐き出す。
もちろん返事はない。何か期待しているわけでもないけどさ。

「臆病者か……」
「えっ?」

突然の言葉、それは自分のすぐ下から聞こえてきた。プロデューサーだ。

「悪い。突っつかれる少し前から起きてた」
「だったら起きてよね」
「膝枕が気持ちよくてさ」
「そう……でも、プロデューサー、盗み聞きは酷いよ」
「響がベラベラ喋ったんだろうが」
「それもそっか」
「……」
「……ねえ、何か言ってくれないの?」
「それを考えているんだよ。あのさ……響」
「何、プロデューサー?」
「こういう言い方だと身も蓋もない言い方かもしれないけどさ。あんまり重たく考えない方がいいぞ」

驚いた。まさか、ここまでアッサリとしたものが返ってくるなんて。本当に身も蓋もない答えだ。

「失敗しちゃいけない。それはわかる。でも、何かをする前から失敗なんていうマイナスなことを考えるのは疲れないか?」
「それは……」
「響が沖縄から東京に上京する時、響は失敗することなんて考えたか?」
「ううん。そんなこと考えてなかった。絶対にトップアイドルになってやるぞっていう気持ちでいっぱいだった」
「そうそう、そういう気持ちが大事だ。失敗しちゃダメだって、自分を追い詰めるのは間違っていると思うぞ。それに響には、失敗しちゃダメだ、なんて言葉よりも、もっと似合っている言葉があるじゃないか」
「自分に似合っている言葉?」
「そう、「なんくるないさ」っていう言葉がさ。これって、なんとかなるさっていう意味なんだろ?」
「うん……」
「だったら、それでいいじゃないか。先のことなんて、結果なんて終わってみなければ誰にもわからない。でも、どんなことだって、きっと……なんくるないさ」

プロデューサーは自分に向かって、ニカッと笑った。
なんくるないさ……か。
いつも当たり前のように使っていたから気づかなかったけど、不思議な暖かさと力強さのある言葉だ。
そうだね、自分ならなんくるないよね。
あっ……

「わかったよ、プロデューサー」
「?」
「shiny smileの最初のサビの歌い方。余計なことを考えずに、「なんくるないさ」の気持ちで走り抜く気持ちで歌えばいんだ!」
「……そうだな。後先考えないで、まずはやってみる。そういう思い切りの良さっていうか、猪突猛進というか……とにかくそういう表現で歌えばいいと思う」
「なんくるないさ……えへへ、見つけたぞ、自分の色!」
「違うな。薄められてしまった響が自分の色を取り戻したんだ……よっと」

プロデューサーは、上体を起こして立ち上がる。
自分の膝から離れるプロデューサーが、ちょっとだけ名残惜しかった。

「それじゃあ、そろそろ帰るか。結局、服屋を紹介してやったぐらいか。悪かったな、午後は俺のせいで潰してしまって」
「ううん、気にしてないよ。今日は付き合ってくれてありがとう、プロデューサー」
「そうやってお礼を言ってもらえるのは2回目だな」
「クスッ……」
「なんだよ?」
「ううん、なんでもない」

だって、プロデューサー、自分が「ありがとう」を3回言っていることに気づいてないから。何だかおかしくて、笑っちゃう。
プロデューサーは、首をかしげているけど教えないでおこう。
こうして、プロデューサーと過ごす5日目が終わった。
家に帰ったら、プロデューサーに選んでもらった服、もう一度着てみよう。

117: 2013/04/18(木) 14:10:16.59
「プロデューサー、今日はレッスンがしたい!」

六日目の朝、響が開口一番にそう言ってきた。
恐らく昨日掴んだ感覚を早速shiny smileで表現してみたいのだろう。
気合は十分といった感じだ。

「よし! それなら今日でshiny smileを完成させちゃうか?」

冗談混じり、だけど半ば本気でそんなことを言ってみる。
一昨日と今日のレッスン。それだけの短時間でshiny smileが完成するなんて、普通に考えれば不可能だ。
だが、響なら出来てしまいそうな気がする。

「shiny smileを完成させちゃうか……任せてよ、プロデューサー! 自分なら、なんくるないさ!」

……この様子なら本気で完成させられそうだな。
だったら、明日の最終日の予定は決まったも同然だ。
響をレッスン場に送ったら急がないとな。



「……私 君とshiny smile」

スカイブルーの特徴的なトレーニングウェアを着た響が歌い終わる。
これで何度目かとなる一曲通してのレッスン。
響はレッスンをする度にshiny smileの完成度を高めていく。
問題となっていた最初のサビも、いい具合に表現できている。
音を外してしまっている点はあるが、逆にそれがshiny smileの登場人物である女の子の勢いを上手に表現していた。
技術だけで歌うのではなく、感情を、色をつけて歌う。
shiny smileは確実に響のものになっていった。

「うん……手応えあり」

響もそれを実感できているようだ。

118: 2013/04/18(木) 14:10:51.56
「調子、良さそうだな。これなら心配はなさそうだ」
「心配って何が? shiny smileの完成なら、もう目の前だよ」
「そうじゃないさ。ただ……完成するなら、ちゃんとお披露目をしないとな」
「あっ……それって、もしかして」

俺の言葉に、響が嬉しそうな顔をする。俺の言いたいことを察してくれたようだ。

「明日、響には歌番組のオーディションを受けてもらう。当然、使う楽曲はshiny smileだ」
「やった! 流石プロデューサー、そうこなくちゃ!」

本当はライブで派手にお披露目をしたかったが、765プロ名義では961プロのアイドルである響を使うことが出来ない。
だからと言って、961プロと偽って勝手にライブをするのは危険すぎる。
その点オーディションならば、あくまで響が自分の意思で出場するという建前を使える。
出場の登録が間に合うか心配だったが、響の名前を出しただけで出場を承諾してもらえた。
こういうズルが通ってしまうのは響の影響力のおかげなのか、それとも961プロの影響力のおかげなのか。
……ヤメだ、考えてもしょうがない。
俺は頭から余計な考えを追い出して、この後のレッスンについて考える。

「午後はダンスを中心に仕上げていこう」
「いいの? 自分、ダンスは余裕だからこのまま歌中心のレッスンでもいいと思うけど」
「言いたいことはわかる。でも、やっぱり響と言ったらダンスだ。強みである部分だからこそ、より完成度の高いものにしておきたい」
「なるほど。確かにどれも中途半端は不味いもんね」

その後、俺と響は昼飯を食べて、午後のレッスンに臨んだ。

「ターンが早い!」
「はい!」
「次の動きへの繋ぎが雑だ。集中だ、集中!」
「はい!」

響のアレンジの加わったダンスを見て、俺がアドバイスを送る。
ダンスに関してはほぼ完成形ではあったが、そこから更にクオリティの高いものにするため、俺は響に対して厳しく指導した。
ターンのタイミングや体の動きによる表現などの、響が意識を向けきれない細かい部分を俺はいやらしい程に指摘していった。
端から見れば難癖をつけているようにも見えるだろう。
それでも響は俺の指導に嫌な顔をすることなく、むしろ真剣な表情で聞いてくれた。

「よし……今日はここまでにしよう」
「えっ、もう終わりか? いつもより随分早いぞ」
「明日のオーディション、響には最高の状態で挑んで欲しいからな」
「しっかり休めってことだね」
「そういうことだ」
「休みなら昨日もらったけどね」
「それとこれは違うだろうが」
「それもそうだね……んっ?」

響の視線が、俺の胸元あたりに集中する。

「どうした?」
「……」

響は黙ったまま視線を変えずに、目を細めてジッと見てくる。

「何かゴミでもついているのか?」
「いや、ちょっとね。着替えてくるね、プロデューサー」
「あ、ああ……」

そのまま響は更衣室の方に行ってしまった。
何かあったのだろうか?

「プロデューサーさん」

後ろから声がする。
振り返ってみると黄色のリボンをつけた可愛らしい女の子がいた。
俺はその女の子をよく知っている。
俺と同じ夢を持っている女の子だ。
ここ一年で、一番多くの時間を共有した女の子だ。
歌とお菓子が大好きな女の子だ。
俺の担当アイドル、天海春香がそこにいた。

120: 2013/04/19(金) 02:12:05.51
「おお、春香か。こんな所でどうしたんだ?」
「自主トレですよ、自主トレ。いくら一週間のオフだからって、体を動かさないわけにはいきませんから」
「それもそうだな」

体が資本のアイドルにとって、日々の体力作りは当たり前か。そう考えると一昨日や五日前と、このレッスン場で春香と会わなかったのが珍しいくらいだ。

「春香は、ここ数日のオフはどう過ごしてたんだ?」
「学校に行ってました。久しぶりにみんなに会えて、良かったです」

なるほど、それなら会うこともないか。学校にいけば確実に午前と午後は潰れるわけだし。

「それで、勉強とかついていくのが大変でした」

春香は俺に嬉しそうに学校のことを話す。うん、ちゃんとゆっくり休めてるようで良かった。

「それにしても……」

ひとしきり話し終えた春香が、そこで一旦くぎった。視線を響が走っていった更衣室の方へ向ける。

「本当だったんですね。響ちゃんのプロデュース」
「……ごめんな」

俺はそれだけ言った。何に対しての謝罪なのかは春香も分かっているだろう。
いくら社長から許可を得ているからといっても、俺のやっていることは春香への裏切りだ。
ここ数日だって、ライブの企画や雑誌取材の日取り決めなど、春香に対してしてやれたことはあったはずだ。
だが、響のプロデュースに専念していた俺はそれをやらなかった。
それは本業を、春香のプロデュースをおろそかにしていたということだ。
悪いのは俺だ。
俺は言い訳をすることなく、春香に頭を下げた。

「いいんですよ……私、わかりますから。プロデューサーさんの誰かを放っておけない優しい気持ち。だから、謝らなくてもいいですよ」
「……ありがとうな、春香」

許してもらえたからか……ホッとする。
パートナーの言葉だからだろうな。

「でも……」
「?」
「今度、同じことをやったら、絶対に許してあげませんからねっ?」
「……」

サァーっと血の気が引いていく。
春香のやつ……本当はかなり怒っているんじゃないのか?

「会えなくて、寂しかったんですから……」

小声で何か言っているようだが、よくは聞き取れない。
恨み言か? だとしたら相当だな。
今度、限定のケーキかシュークリームでも買ってこよう。

121: 2013/04/19(金) 02:13:01.46
「あれ……プロデューサーさん」
「どうした?」

突然、春香が何かを見つけたかのように俺の胸元を覗き込んだ。
響もそうだったが、何かあったのか?

「ボタン、取れかかっていますよ」
「えっ、本当か?」

ワイシャツを少し引っ張って見てみると、春香の言う通りボタンの一つが取れかかっている。
全然気づかなかった。

「ちょっと待ってください。今、縫い針を出しますから」
「裁縫セットなんてあるのか?」
「女の子の必需品ですよ。まあ、実際は衣装に何かあった時のために持っているだけなんですけどね」

そう言いながら春香は鞄から桜色の小箱を取り出した。

「やりにくいだろ? ワイシャツ、脱ぐよ」
「いいですよ、そのままやっちゃいますから。動かないでくださいね、プロデューサーさん」

縫い針で、俺のボタンを器用につけていく春香。
目下に春香の頭が見える。
ふんわりとした柔らかいというか甘い匂いがした。

「はい……出来ましたよ、プロデューサーさん」
「おっ、本当だ。ありがとうな、春香」
「あっ……」

俺の手は自然と春香の頭を撫でていた。

「おっと、せっかくのセットが崩れちゃうか」
「い、いえ、構いませんよ。むしろ、もっと撫でてもらいたいかな~~って」
「そうか……」

俺は春香のリクエスト通り、手ぐしを続けた。サラサラとした髪だ。
そこで会話が途切れる。
俺は無言で春香の頭を撫でて、春香もそれを無言で受ける。
心地いい沈黙だ。

「なあ、春香……」
「なんですか、プロデューサーさん?」
「俺は、春香のプロデューサーだよ。今までだって、これからだって」

俺の言葉に春香は短く「はい」とだけ答えた。
たった二文字の言葉なのに、春香の想いがとても詰まっている。
俺と春香は、通じ合っていた。

コトッ……

遠くで音がする。何かが落ちた音だ。
俺は音のした方へ顔を向ける。
小さな箱が転がっていた。
何もないところから箱は落ちたりしない。必ず落とした人がいる。
箱を落としたのは、俺のよく知る女の子だった。
ここ数日で、一番多くの時間を共有した踊ることが何よりも好きな女の子。
俺の担当アイドル、我那覇響だった。

125: 2013/04/22(月) 00:38:30.94
ついさっきまで、広いレッスン場には俺と春香がいた。
そこに響が、人ひとりが加わった。ただ、それだけだ。
それなのに、どうして空気がこんなに重たいのだろう。

「……っ!」

どこか思いつめた表場をする響はその場から逃げるように駆け出した。
俺と春香の横を走り去っていく。尋常じゃない雰囲気だ。
俺は一瞬、春香の方を見る。
春香は何も言わずに頷いた。行ってくれということなのだろう。
俺はすぐに響を追いかけた。



「待ってくれよ、響!」

長いポニーテールが目立つおかげで見失わずにすんだ。
前を走る響のペースが落ちてくる。
だが、響の背中は強ばっている。

「響……」
「嘘つき!」

声をかけようとした途端、響の怒鳴り声が遮った。
嘘つき……どういう意味だ?

「俺は春香のプロデューサーだよ……今までだって、これからだって」
「……聞いていたのか」

それは俺が春香に向けた言葉だ。響に向けたものじゃない。

「プロデューサー、自分のプロデューサーだって言ってくれたのに……酷いよ」
「聞いてくれ、響、俺は……」
「嫌だ! 聞きたくない!」

響は頑なに拒絶を続ける。

「プロデューサー、自分のことを笑っていたんだろ? 自分はプロデューサーの本当の担当アイドルじゃない。偽物なのに……あんな、楽しそうに笑って馬鹿な奴だって!」
「そんな訳あるか!」

叫ぶ響に俺も大きな声を上げてしまった。
大人が子供相手に怒鳴る。みっともない姿なのかもしれない。
それでも、俺は響の言葉を否定せずにはいられなかった。

「俺にとっては春香も響も、俺の担当アイドルだ!」
「でも、ずっとじゃないよね……春香と違って」
「それは……」

否定のできない事実が、鋭利なものとなって心に突き刺さる。

「自分、何を浮かれていたんだろうね。どうせ、この一週間の関係でしかないのに」

自嘲気味に笑う響の声が聞こえてくる。

「ねえ、プロデューサー……」

響は振り返って、俺と向き合う。響は虚ろな目で、涙を流していた。

「どうしてプロデューサーは765プロのプロデューサーなんだ? どうして961プロのプロデューサーじゃないの?」

光のない冷たい、氏んだような目で見つめられる。
俺は顔を逸らした。何も答えられなかった。
響は踵を返し、歩いていく。

「響!」

俺は叫んだ。
俺の言葉が届くかは分からない。でも、今なにかを言わなければ響が永遠に俺の元から去ってしまうような気がした。
たとえ、どこかで顔をあわせても、響の心には出会えない。
俺はプロデューサーとしての想いを、担当アイドルの響にぶつける。

「俺、待ってるから! 明日のオーディション、響が会場に来るの……待ってるからな!」

響は立ち止まることも振り返ることもなく歩く。
6日目が終わる。
響から「また明日」とか何も言ってもらえないまま終わるのは、初めてだった。

128: 2013/04/26(金) 02:26:51.41
7日目の朝、目覚めは最悪だった。うん……本当に最悪。
ゲンナリしているっていうか、猛烈にお腹が空いていた。
「泣く」って、かなりエネルギー使うんだよね。
昨日のから、ずっとプロデューサーと春香のことが頭から離れない。
アイドルがプロデューサーの繕いをする。
どう考えても普通じゃない……
春香はプロデューサーのことが好きなんだ。
それに多分、プロデューサーも春香のことが……本人は意識してはないんだろうけど。
二人は惹かれあっている。
自分は蚊帳の外、とんだピ工口だ。
自分、春香に嫉妬しているんだ。
プロデューサーから、あんなに優しい顔を向けてもらえるが春香が気に食わない。
春香は自分の知らないプロデューサーの顔をたくさん知っているんだ。
プロデューサーも自分には決して向けない、春香だけに向ける特別な顔を持っているんだ。
ズルいよ、ヒドイよ……どうして自分じゃないんだ。
なんだか頭の中がグチャグチャした。
このまま、もう一度寝ちゃおうかな。
でも、そんな風に部屋の中で腐っているのは嫌だ。
だからって、素直にプロデューサーの元へ行くのは、もっと嫌だ。
自分は何度か寝返りをうって考えた後、とにかく外へ出ようとだけ決めた。



ダラダラと知っている道をただ歩きまわる。
何の意味もない。
目の前には見慣れた光景が広がっている。それもそうか、知っている道なんだから。
何の感動もない。
隣をみる。誰もいない。
何の変化もない。
ほんの一週間前までは、自分は独りだった。それが普通だった。
独りが二人になって、二人が独りになって、元に戻っただけなんだ。
今まで通り、自分は独りなんだ。
なのに、どうしてこんなに物足りないんだろう。
つまらない。
しばらく歩いた自分は、公園のベンチに座っていた。
公園に建てられている時計を見てみると12時半を指している。
オーディションは午後からなので、時間的にもうすぐかもしれない。
プロデューサー……どうしてるんだろう?
会場で待っているのかな。
……って、どうして自分がそんなことを気にしなくちゃいけないんだ。
765プロのプロデューサーのやることなんて、961プロのアイドルの自分には関係ないじゃないか。
むしろ、信用を落としていい気味だ! 清々する!
でも、もしそうなったら……それは自分のせいだよね。
自分のせいで、プロデューサーが悪く言われちゃうのか。

「ああー、もう!」

プロデューサーは嘘つきで、自分を傷つけた人なのに……

「どうして、こんな時にまでプロデューサーのこと考えちゃうんだよ!」

自分の叫びが空に響き渡る。

「荒れていますね、響」
「へ?」

突然かけられる声に、自分は思わずマヌケな声を出してしまった。
その声は、静かだけど不思議とよく通る声だった。
声をかけてきたのは、自分と同じ961プロのアイドル、四条貴音だった。

129: 2013/04/27(土) 15:24:45.90
「貴音、どうしてここに」
「午前のレッスンを終え、帰る途中に響を見かけたので……ここ最近、961プロの方にも顔を出さずに、どうしたものかと思っていましたが」
「黒井社長、心配してた?」
「いえ、特には。やるべきことをやっていれば、それで良しとだけ」
「そっか……」

黒井社長、自分のことは気にかけてくれてないのか。
まあ、そういう人だよね。
自分と一緒にいる時は凄く褒めてくれるけど、どこか胡散臭い。
自分って、黒井社長にとっては961プロの商品でしかないんだろうなあ。

「それで、どのような理由で961プロに来なかったのですか? いつもなら黒井殿に活動の報告をしていたはずですが」
「ああ、うん……実はさ」

自分はこの一週間のことを貴音に話した。
デートのことは恥ずかしいから喋らなかったけど、それ以外は全部話した。
一緒にレッスンをしたこと、仕事のこと、魔王エンジェルとのオーディションのこと、shiny smileのこと、昨日のこと、今日のオーディションのこと。
貴音は、口を挟まずに聞いてくれた。

「なるほど……そのようなことが」
「うん」
「響、あなたは弱くなりましたね」
「なっ!?」

自分を侮辱する貴音の言葉に腹が立った。
貴音を睨んでみるけど、その表場は崩れない。

「弱くなったって、どういう意味だよ!」
「言葉の通りです。レッスンも、仕事も、オーディションも、響は己独りの力でやってきました。ですが、今の響はプロデューサーと二人でなければ己の力を発揮できない。それが弱くなったと言わず何と表現すればいいのでしょうか」
「……っ!」

言葉が詰まった。
貴音の言っていることを否定しきれないからだ。
独りなら足を引っ張られることだってない。自分の好きなように活動できる。
でも、本当にそう思っている?
違う……そんなことはない。

「自分は弱くなったんじゃない! 765プロのやり方に触れて、変わっただけなんだ!」
「響……」

自分の雰囲気に気圧されたのか、貴音は少し驚いた顔をする。

「961プロの考え方、頂点は一つ、だから王者は孤独な道を歩むべき。正しいよ。でも、間違っているんだ! 独りって、辛いんだよ、苦しいんだよ。誰かに吐き出したいのに出来なくて、どんどん嫌な気持ちが積もっていって、押しつぶされて泣きたくなるんだ。でも、泣いている時もひとりぼっちで余計に虚しくなるんだ。貴音は独りが辛いって思ったことはないのか? 助けて欲しいって叫びたくなったことはないのか?」
「……それもまた頂点を目指す者の宿命と思えば耐えられます。孤独ではなく、孤高の道です」

貴音は一瞬目を逸らしたけど、すぐに自分と向き直った。
でも、それだけで貴音にも自分と同じでどうしようもなく寂しくて不安になる時があることがわかった。

「貴音、誰かが一緒にいてくれているっていうのも悪くないよ。自分のことを考えてくれるって、すごく安心できる」
「そこまで言うのならば、響……何故、あなたは今ひとりなのですか?」

うぐっ、痛いところを突いてこられた。

「傷つけられたからですか?」
「……だってさ」

何とか言い返そうとするけど、言葉が出てこない。
それだけ貴音の指摘が図星だったからだ。

「確かに、あの方は響を傷つけたかもしれません。ですが、響がこの一週間で961プロ以外の、二人で歩むことの可能性を見出したというのなら、最後までそれに付き合うのが筋だと思います」

貴音の言葉が重くのしかかってくる。
どうしようもない程の正論に、最初の勢いはすっかり消えて黙りこくってしまう。
貴音は厳しく言い放つ。

「いま、響のいるべき場所はここではありません」
「……」
「私は、あの方とほとんど顔を合わせたことがありません。ですが、響はあの方のことをよく存じていると思います」

自分を見つめて、貴音は言った。

「響の知るプロデューサーは、今どこにいると思いますか?」


133: 2013/05/05(日) 04:15:51.74
プロデューサーが今どこにいるかだって?
そんなのオーディション会場に決まっているよ。
プロデューサーは「待っている」って言っていたから。
多分、自分が来るまで待ち続けるんじゃないかな?
貴音の言うとおり、自分はこんな所で油を売っている場合じゃない。
プロデューサーの所へ行って、ちゃんと話さなくちゃいけない。
短い間だったけど、二人で作ったshiny smileをおもいっきり披露したい。

「……ふぅ」

小さく息を吐いて、ベンチから立ち上がる。
よしっ……決心はついた。

「貴音、自分いってくるよ」
「それでこそ響です」

貴音は小さく笑った。

「ねえ……貴音はどうしてそこまで自分を気にかけてくれるんだ?」

今すぐにでも走り出してプロデューサーの待っている会場に行かなきゃいけないのに、自分は貴音に疑問をぶつけてみた。
自分と貴音は961プロの所属で同期のアイドルだ。でも一歩、事務所から外に出れば頂点を争うライバルだ。
ライバルのことを、敵のことなんて放っておけばいいのに、貴音はわざわざ自分に声をかけた。
まるでプロデューサーみたいに……それが不思議でならなかった。

「実はよくわからないのです」
「は?」
「同僚のよしみなのか、頂点を目指す同胞なのか……私自身も己を図りかねています」

貴音は真顔で顎に手を当てて考えている。本当にわからないって感じだ。

「今は黒井殿の計画、Project Fairyの第一弾として響が積極的に売り出されていますが、来年度からは私が本格的に投入されるでしょう」
「それは自分がダメだった時、トップアイドルになれなかった時の保険ってことか?」
「黒井殿は……恐ろしい方ですから」

貴音は否定も肯定もしなかったけど、答えを言っているようなものだ。
貴音の実力は自分にも全く見劣りしない。
むしろボーカルに関してなら貴音の方が上だ……ダンスなら自分が勝つけれど。
それだけの力を持つ貴音がジッと息を潜めているかのように世間から注目されていない。
やっぱり、そういうことなんだろうな。
ダメだったら代わりを使えばいい……全くもって理にかなってるよ、黒井社長。

「響、ハッキリ申し上げますと私にとって黒井殿の思惑はどうでもよいのです。私が目指すべき頂点に君臨する王者……越えるべき相手。それに相応しいのは響です!」

いつになく貴音が感情的に言う。
貴音、自分のことをそういう風に見ていたんだ……ちょっと意外だ。
貴音が自分を気にしてくれた理由、少しわかったぞ。

「あのさ、貴音……」
「なんでしょうか?」
「自分、一足先にトップアイドルになっているから……貴音は後からゆっくり自分に追いついてくればいいよ。でっ、その時になったら、きっちり倒してあげるから!」

相手をしてあげるからとは言わない。
だって、勝つのは自分だ。いくら貴音でも、これは譲れない。
ニッっと貴音に向かって不敵に笑ってみせて、自分は走り出す。
後ろから声が聞こえる。

「それは……真、楽しみです。勝つのは私ですが」

ハハハ、ちゃっかりしてるよ。
さて……急ぐぞ!
間に合わない?
そんな考えをしたって、しょうがない。
先のことは、結果なんて終わってみないと誰にもわからないんだから。
まずは行動。
きっと大丈夫だから。
自分なら、どんなことだって……

「なんくるないさ――――っ!」

136: 2013/05/07(火) 04:26:08.07
スーツの袖をまくって腕時計を確認してみる。
短針は1、長針は12とそれぞれ真逆の方を指している。
午後1時、俺はオーディション会場にいた。
会場には既にたくさんのアイドルとプロデューサーが、オーディションの開始を待っている。
視線を一瞬、腕時計から会場のドアの方に動かす。
響はまだ姿を表さない。
辞退するべきか?
本格的にオーディションが始まってしまったら、アイドルいませんじゃ洒落にならない。
今ならまだ間に合う。

「……っ!」

目を覚ますかの様にピシャリと自分の頬を張る。
俺は馬鹿か?
響は今まで無敗で上りつめてきたんだぞ。
それを俺の勝手で辞退するなんて申告して、響の戦績に泥をつけるような真似が出来るか。
プロデューサーが、アイドルに対してマイナスになることをしていいはずがない。
来てくれよ、響……俺は嫌だからな。
だが、俺の想いとは別に時計の針はドンドン進んでいく。
待つというのは苦痛だ。
それは多分こちらが動けないからだ。
しかも、待ち人が来るかどうかもわからないから余計にだ。
正直、焦る。そして、イラつく。
大して進んでもいない時計の針を何度も見てしまう。
響は来る。俺は、そう信じている。
それでも現実的な問題として時間が経てばたつほどに、その想いが揺らいでくる。
信じ「ている」という相手へ向けた気持ちが、信じ「たい」という自分に向けたものに変化してきてしまう。
午後1時半、審査員たちも来てしまった。
恐らく、あと5分もしない内にオーディションは始まるだろう。
俺の「待っている」という言葉は響に届かなかったのか?
……ちくしょう。
わきあがる悔しさを顔の裏に隠して、俺は審査員の元へ向かう。

「あの……すみません」
「はい、なんでしょうか?」
「実は……」

そのときだった。

バアアアアン!

オーディション辞退の申告を遮るように、激しくドアが開かれる音がする。
俺の元へドアを開けたショルダーバッグを掛けている女の子、響が向かってきた。

「プロデューサー……」

意志のこもった目で見つめてくる。
小さく息を吸う響。何かを言おうとしたのがわかった。

「遅れてごめんなさい!」
「……随分とかかったな」

色々と言いたいことはあったが、響の謝罪に俺はそれだけ答えた。
安心したからかもしれない。俺って、現金な男だな。

「走ってきたから。公園から家に戻って、そこからずっと」

それって相当な距離なんじゃないか?
だが、響の顔は紅潮してはいても疲労の色は窺えない。

「準備は出来ているか?」
「えっ?」
「オーディション、もうすぐ始まるからさ」
「……大丈夫だよ。ちょうどいい準備運動もしてきたしね」
「それなら早く着替えてきてくれ」
「うん。じゃあ、行ってくる」
「響!」
「どうしたの、プロデューサー?」
「来てくれて……ありがとうな」
「待っているって、言ってくれたから。プロデューサーのこと、信じていたからね」
「……やっぱり、お前はすごい女の子だよ」
「当然だよ。オーディションの指示、しっかり頼んだよ」
「ああ、任せてくれ」

140: 2013/05/08(水) 03:21:05.07
ステージの上、目を閉じて静かに待つ。
shiny smileのイントロが流れくる。それを合図に自分は踊りだす。
ステップをする足取りは軽い。いい波に、ノリに乗れてるよ。

「お気に入りのリボン、上手く結べなくて、何度も解いてやり直し」

プロデューサーの指示を見てみる。
あっ、やっぱりそのアピールで行くんだ。
自分も同じことを考えていた。

「夢に似てるよ。簡単じゃないんだ」

プロデューサーの指導を思いだす。自分の色を強く出すんだ。

「妥協しない! 追求したい!」

審査員に、その向こうにいるプロデューサーに向けてビシッと指を指すポーズをとる。
よしっ、バッチリ!

「頑張ること探して」

もうすぐだ……自分の掴んだ、あの感覚を。

「ねえ……走るよ!」

瞬間、プロデューサーから「行け!」という声が聞こえたような気がした。
大丈夫だよ、プロデューサー。
自分なら、なんくるないさ!

「君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない
手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい
私 shiny smile」

プロデューサーの指示と自分のダンスが重なっていく。
楽しい。
ここにいたい。
このまま、ずっとプロデューサーとshiny smile踊っていたいな。

「君まで届きたい! 裸足のままで
坂道続いても 諦めたりしない
手に入れたいものを 数え上げて
いつだって ピカピカでいたい」

自分は声のトーンを落として、儚げに歌う。
ハハハ……まさか一人ぼっちの寂しさのおかげで、こういう表現が出来るなんてプロデューサーには言えないかな。

「わたし!」

プロデューサーが両手で三角系を作る。
見ていて、プロデューサー。
自分の完璧なshiny smileを!

「君へと届きたい! 転びそうでも
ブレーキを我慢して 石ころをかわして
泣きそうな思いを 乗り越えたら
いつだって キラキラでいるよ
私 君とshiny smile」



歌い終わった自分は、ステージを降りていく。
最高の出来だった。まだ気持ちの昂ぶりが抑えられない。
プロデューサーが近づいてくる。

「すごくいいパフォーマンスだった。輝いていたよ」
「へへ……shiny smileって、そういう意味でしょ?」
「違いない」

プロデューサーは小さく笑いながら、肘を曲げた腕を自分に突き出した。
自分も同じように腕を突き出して、プロデューサーの腕に軽くぶつける。
オーディションの結果は、自分の1位だった。

141: 2013/05/14(火) 03:33:26.54
俺は響と肩を並べてゆっくりと歩く。
いつもの帰り道……だけど、それも今日で終わりだ。
約束の7日目、今日で響との関係は終わるのだ。
思い出してみれば、俺はひたすら響の凄さに驚いていた。
とは言っても、響はそういう力を持っているから仕方ないことなのだが。

「今日はありがとうね、プロデューサー」

響は俺のことを見ず、歩きながら言う。
横顔を覗いてみる。いい顔をしている。
こう言うと怒られるのだろうけど、春香に似ていた。
側にいてくれると安心できる……パートナーとして信頼できる感覚だ。
響と関わった時間は春香に比べればかなり短い。
なのに、俺の中でこういう感覚が生まれるのはそれだけ響と密のある時間を過ごせたということだろう。

「どうだった、響? この七日間、765プロのやり方を体験してみてさ」
「う~ん。それはまだ自分にはよくわからないかな」
「……えっ?」

マジで!?

「くすっ、冗談だよ。765プロのやり方は、この一週間でよ~くわかったからさ!」
「そ、そうか……脅かさないでくれ」

いたずらっぽく笑う響に、おもわず安堵の息が漏れる。
流石にこの一週間で何も感じるものが無いと言われたら心が折れる。

「なあ、響……やっぱり今からでも黒井社長の元を離れようとは思わないか?」

響は765プロのやり方の方があっている。この一週間でそれを強く確信できた。
だからこそ、765プロとは真逆の961プロのやり方では響は輝ききれないと思う。
これほどの才能を持つ女の子がハッキリ言ってもったいない。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどね。自分、このまま最後までやってみるよ!」
「響……」

なんとなく断られるのはわかっていた。
我那覇響とは、こういう女の子だ。
自分で決めたことは曲げない。
一度961プロでやると言ったら、やる。
筋を通したいのだろう。清々しいほどにまっすぐだ。
shiny smileの「妥協しない、追求したい」という歌詞は本当に響のためにあるような気がする。
もし春香に会わなかったら、もし響が765プロにいたら。
……やめよう、今の俺には春香がいるじゃないか。
俺は響に近づいて、そっと響の手をとる。

「?」
「忘れ物だ」

俺はスーツのポケットから小さな箱を取り出し、響の手に渡す。
響が落とした携帯の裁縫セットだ。

「それじゃあ……」

渡すだけ渡して、俺はスッと踵を返し歩き出す。
何か別れの言葉を言うべきか迷ったがやめた。余計に名残惜しくなってしまう。
いつもは響の方から帰っているから、最後の日くらいは俺の方から帰ろう。

「765プロ!」

遠くから響の声が聞こえてくる。

「誰とは言わないけどさ―! この一週間、自分にはプロデューサーがついたんだよ! 自分にピッタリな曲をくれたり、オーディションで一緒に戦ってくれたり、買い物に付き合ってくれたり、色んなことを教えてくれたり、レッスンの時とかちょっと怖かったけど……すっごく、すっごく楽しかったよ! だから、だからさ!」

響の声は震えている。それでも響は俺にプロデューサーへの気持ちをぶつけてくる。

「そんな最高で完璧なプロデューサーに会ったら、伝えておいて! 自分、我那覇響は、にふぇーでーびる……ありがとうって、言っていたって!」

ああ……にふぇーでーびるって、そういう意味なのか。

「そうか……そのプロデューサーも今の響の言葉を聞いたら、すごい喜ぶだろうな!」

俺は響に背を向けながら、そう言ってやった。
にふぇーでーびる……響。
君と過ごした一週間は、暖かくて優しいお日様のようなshiny smileは、ずっと忘れない。
これが俺の長いようで短かかった響との一週間の終わりだった。


146: 2013/05/18(土) 03:42:35.94
響との一週間を終えた俺は、これまで通り春香のプロデューサーとして働いていた。
そんなある日のことだ。
俺が自分のデスクで仕事をしていると、事務員の音無さんが声をかけてきた。

「プロデューサーさん、お荷物が届いていますよ」
「俺に……ですか? ファンから春香へじゃなくて?」
「はい。プロデューサーさん宛です」

765プロに俺宛で差出人不明の荷物が届いた。
荷物とは言っても、茶色い小さな封筒だ。軽い。
封を切って中身を出してみると、それは一枚のCDだった。

「これ、なんのCDでしょうか?」
「さあ? 聞いてみないことには。音無さん、会議室にラジカセありましたよね?」
「ええ、どうぞ使ってください」



会議室には誰もいなかった。
普段だったら、ここにこもって音楽を聞いているアイドル候補生が一人いるけど、今日はいないみたいだ。
電気も点けずに聞いている時があるくらいに熱心だから、いたら家で聞こうと思ったがその心配はなさそうだ。

「ラジカセ、ラジカセ……っと。おっ、あった」

見つけたラジカセにCDを読み込ませると、特徴的なイントロと共に響の歌声が聞こえてくる。
shiny smileだ。
それは7日目のオーディションで合格した番組で放送されるはずの楽曲だった。
俺が自宅で録画した番組を見た時、テレビに映る響はshiny smileではなくオーバーマスターを披露していた。
恐らく収録時に黒井社長が横槍を入れたのだろう。
もしかしたら、俺と響の一週間の行動なんてとっくにバレていたのかもしれない。
shiny smileが終わり、再生が止まる。

「うん……やっぱりいい曲だ」

もう一度、再生ボタンをおして一から聴き始める。
shiny smileは元々、春香のプロデュースで使うかもしれなかった楽曲だ。
作詞家も、歌詞に「お気に入りのリボン」とか「転びそうでも」とか春香を意識したものになっている。
だが、CDを聞けば聞くほどに、この曲が響のために作られたのでは?と錯覚してしまう。
響はshiny smileに、自分の色をつけて響だけのshiny smileを作り上げた。
もちろん春香だって、shiny smileを歌えば春香の色のshiny smileを作り上げるだろう。
では、shiny smileを響の色の上から春香の色で塗り替えることができるか?と聞かれたら、俺はこう言うに違いない。
無理だ。
響の言葉を借りるなら完璧。響のshiny smileはそういう出来だ。

「春香と作詞、作曲家さんには悪いけどshiny smileはもう使えないな」

このCDは大切に持っておかないとな。
俺と響がプロデューサーとアイドルという関係だった証なわけだし。
俺はCDをラジカセから取り出して、会議室を後にする。
ふと、窓から空を見上げてみると太陽が穏やかに輝いていた。
……がんばれよ、響。
俺も響に負けないくらいに、春香を輝かせるからさ。

149: 2013/05/21(火) 01:14:04.83
IU本戦決勝。春香と響そして真・最強プロデューサーの率いる魔王エンジェルの勝負は熾烈を極めた。
圧倒的なパフォーマンスで魅せる響や魔王エンジェルに対して、春香は新曲「I Want」で対抗した。
I Want。春香とイメージチェンジについて話し合った際に生まれた「ビターな春香」を基に、それまで売り出してきた春香の女の子らしさを捨てたアダルティーで挑発的な楽曲。
方向性がオーバーマスターと被ってしまっているにも関わらず、この曲をプロデュースしようと思ったのは響と同じ土俵で春香を戦わせて勝たせてやりたいという気持ちからだった。もっともそのせいで春香のレッスンが過酷なものとなり、社長に心配されてしまったが。
アイドル達のしのぎを削る勝負に審査員達も判定を下すのを相当迷ったらしく、結果が発表されるまでかなり時間がかかった。
誰が勝ってもおかしくない状況の中でIUを制したのは俺のアイドル、765プロの天海春香だった。
真・最強プロデューサーは俺と春香を見て、「追う者から追われる者へ……責任は重いわよ。頑張りなさい」とだけ言って魔王エンジェルと一緒に会場を出て行った。敗者は去るのみということなのだろう。
そして、響は961プロをクビになった。

150: 2013/05/21(火) 01:14:48.65
IU本戦決勝。自分は負けた。
この時のために必氏になって頑張ってきたのに……積み上げたものが全て崩れた。
961プロもクビになった。

「私の経歴に泥を塗りやがって、勝てないアイドルはいらないんだよ!」

黒井社長は自分をいとも簡単に切り捨てた。貴音、黒井社長って貴音の言うとおり恐ろしい人だよ。
自分への黒井社長の扱いに春香はすごく怒った。
そんな春香の態度が、自分を哀れんでいるようで癇に障った。
春香が勝ったから、自分はこんなことになったんじゃないか!

「本当は春香も心の中では、自分のこと笑っているんだろ? 今まで散々酷いことを言ってきたし……いい気味でしょ」
「そんなことない!」

春香は自分の言葉を力いっぱい否定した。

「誰かが努力して出した結果を笑うなんて、誰にも出来ないよ! それに私が勝てたのは響ちゃんがいたからだよ!」
「春香……」
「だって私は響ちゃんを追いかけて、ここまで来たんだよ! 響ちゃんは、これからも私の憧れのアイドルだよ!」

春香の言葉が胸に刺さる。
同情とか哀れみとかじゃなくて、心からの想いが伝わってくる。

「……あはは、あっははははは!」

不思議と笑いがこみ上げてくる。
なんだろう、この雲が晴れた感じは。
多分、春香のせいだ。春香が凄いのがいけないんだ。
こんなに自分を包み込んでくれるなんてさ。
春の日の暖かくて優しい太陽みたいだ。

「今の春香、すごく大きく見えるよ。正にトップアイドルって感じだぞ」
「ええ、そんなことないよ。私なんてまだ全然だよ……」

はにかみながら春香は、少し後ろにいた765プロをチラリとみた。
765プロも春香の視線に気づいて、小さく笑う。
……やれやれ。勝てないはずだよ。
春香には色々と負けちゃっているんだな。……自分、負けたんだ。

「春香、おめでとう! 春香になら負けても悔しくないかな……あんまりね。いい勝負もできたし」
「響ちゃん……」
「そうだ! 自分を倒した春香には、「完璧」の称号をあげちゃうぞ!」
「私が完璧……響ちゃんみたいに?」
「完璧な自分を倒したんだから、春香こそ完璧なアイドルだぞ!」
「うわああ! 私、すごく嬉しい。ありがとう、響ちゃん!」
「うん。気に入ってもらえて良かったぞ。それじゃあ、バイバイ!」
「え、あ、響ちゃん! ちょっと!」

151: 2013/05/21(火) 01:16:37.62
「ここまで来れば、もう大丈夫かな……」

春香の前ではカッコ悪いから我慢していたけど、もう泣きそうだ。
泣きたい。今すぐ泣きたい。泣きたいのに。

「響……」
「765プロ……来たんだ」

どうして泣かせてくれないんだよ。ライバルの前じゃ泣けないよ。

「プロデューサーがアイドルのことを気にかけるのは当然だろ?」
「それはもう終わったことでしょ。それに自分は完璧だから負けたって、全然へっちゃらだぞ。……へっちゃらだぞ」

震える声で言っても説得力がないと思うけど。

「響。終わったってことは、過去ってことは、確かにあったってことさ。響と俺は、確かにアイドルとプロデューサーだった。そして、俺はその関係が今でも変わらないと思う」
「じゃあ、765プロは今でも自分のプロデューサーなのか? 春香じゃなくて?」
「俺は春香のプロデューサーであり、響のプロデューサーだよ。俺の助けを必要としてくれるアイドルがいるなら、俺はそのアイドルのプロデューサーだ!」
「八方美人だよ、それ」
「うぐっ、言ってくれるな」
「ふふっ」

たじろぐ765プロを見て、泣きたいのにちょっと笑ってしまった。
そっか……765プロはまだ自分のプロデューサーで、自分を支えてくれる人でいてくれるんだ。

「ねえ、76……ううん、プロデューサー。お願いがあるんだけど」
「……どうした、響?」
「ちょっとでいいから背中、かして」

プロデューサーは黙って振り返り、背中をみせる。
自分はプロデューサーの後ろからそっと抱きついて、声をあげて、おもいっきり泣いた。



「もういいか?」
「うん。たくさん泣いたからスッキリしたぞ。付き合わせてごめん」
「俺が自分から付き合ったんだ。気にしないでくれ。それに泣いている女の子を放っておくなんて出来ないからな」

プロデューサーは気障ったらしくカッコつける。
……に、似合わない。軽い冗談のつもりでやったのかもしれないけど、似合わなすぎる。
真面目なことを言っている時はカッコいいのに。

「これから、どうするんだ? 故郷に帰るのか?」
「それは出来ない。自分、トップアイドルになるまでは帰れないし」

貴音との勝負もあるし。

「だから、もう一度どこかの事務所に入って一からやり直すよ」
「諦めない限り、夢は続いてくからな」
「うん。そして、いつか春香に挑戦するんだ!」
「ははは! そいつは盛り上がりそうだ! だが、トップへの道は甘くないぞ。俺と春香もかなり苦労したからな」
「ふふん、すぐに追いついてやるぞ。それじゃあ、またどこかで!」

自分はサクッとプロデューサーに別れの言葉を伝えて走り出した。
ねえ、プロデューサー。自分たち、また会えるよね。
あと……諦めてないのはトップアイドルだけじゃないから。
春香には悪いけど、やっぱり譲れない。
欲しいものは自分の手で掴むもの。略奪愛って、ちょっと燃えるぞ。
まあ、その前にやらなきゃいけないことが沢山あるんだけどね。
まずは新しい事務所を急いで探さないと。
現実的な話、アイドルをやってお金を稼がないと家の家賃、電気代、光熱費、ガス代、食費、雑費、親への仕送り、それに今までは961プロがお金を出してくれていたけど、ペット達の餌代もかかる。
本当に急がないとな。
……だ、大丈夫だぞ。自分なら、きっとなんくるないさ!
自分が立ち止まって、頬を叩き気合を入れなおしていると、

「おお、君! そこの君だよ、君!」
「えっ?」


156: 2013/05/22(水) 01:44:25.32
IUを制した翌日、いつものように事務所に来るとそこには既に春香がいた。
なんでも社長に今朝の朝礼に参加するようにと言われたそうだ。
早く来るためにタクシーまで使ったらしい。

「後で、ちゃんと音無さんに報告しとけよ。会計から落としてもらえ」
「えっ、いいですよ。そんなタクシー代くらい」
「社長から言ったことで金がかかったんだから、それくらいは当然の権利さ。貧乏事務所の765プロに気を使ってくれたのは嬉しいけど」

貧乏とは言え、春香の活躍のおかげで765プロの財政もだいぶ立て直せている。
アイドルのタクシー代までケチる程には落ちぶれちゃいない。

「おはよう、諸君。今朝は音無くんが休みなので、私が朝礼を執り行うとしよう」

社長室から出てきた社長が、コホンと1つ咳払いをして、場の雰囲気が引き締める。
俺や春香、それに他の社員も姿勢を正す。

「まずはIU優勝おめでとう。我がプロダクションから、こうして真のトップアイドルを生み出せて誇りに思うよ」
「「はい。ありがとうございます、社長!」」

俺と春香は同時に頭を下げた。

「しかし、トップアイドルになった以上、これからは天海くんに憧れてたくさんの女の子が、アイドルが天海くんを目指すだろう。天海くんには、そういった女の子の憧れであり続けてもらいたい。それが追われる者の責任だ」
「は、はい! 頑張ります!」
「君も天海くんが天海くんのままでいられて、尚且つトップアイドルでいられるように精進してくれたまえ」

穏やかだけど低い励ましの声が、プレッシャーとなって俺と春香にのしかかる。俺と春香はもう一度、頭を下げた。

「「ありがとうございます!」」
「うむ。以上で朝礼を終える。では、今日も一日頑張っていこうか!」

社長の号令に、俺を含めた全ての社員が「はい!」と大きな声で応えた。
普段は気さくで笑みのたえない親みたいな人だけど、こういう時には、やっぱりこの人は、人の上に立つ人だなと実感する。
社長の下で働けて良かったと思う。こういうスイッチのオンオフみたいものを使い分けられる人を目指したいよな。
上司にアイドル……俺は恵まれているな。

157: 2013/05/22(水) 02:17:13.30
「おお! そう言えば1つ大事なことを忘れていたよ」

社長はさっきまでの態度とは一転、またいつもの気さくな社長に戻りながら言った。

「君たちに紹介したい人物がいるんだった」
「紹介したい人……新しい社員ですか?」
「いや、新人のアイドル候補生だ。しばらくは見習いとして、勉強をしてもらうが、いずれはデビューしてもらうことになるかもしれない。色々と教えてやってくれたまえ!」

社長が「入ってきたまえ」と言うと、社長室のドアが開いて、

「おはようっ! 自分、我那覇響! 今日から765プロでがんばるぞ! よろしく、先輩!」

響が出てきた。

「響ちゃん! どうしてここに!?」

突然の響の登場に春香は驚いている。
一方、響は「どうだ」と言わんばかりに胸を張っている。
でも、本当にどうしてだ?

「いやあ、なんかそこの社長が765プロに来ないか?って、聞いてきてさ。春香に挑戦するなら765プロが一番手っ取り早いし、これは決まりだなって思ってさ」
「な、なるほどな……」

しかし、もう一度どこかの事務所で再トライと言っていたが、まさか765プロにやってくるとは。

「社長、いいんですか?」
「我那覇くん程の実力者、フリーにしておくのは勿体無いだろう?」
「だからって、昨日までライバルとして戦った相手を……」
「昨日の敵は今日の友だよ、君。それに夢を追う女の子の力になれるのは嬉しいことじゃないか」

社長は腕を組んで、うんうんと頷く。よくそういうことを素で言えるよなあ。

「よろしくね、響ちゃん!」
「うん、こっちこそね。でも、自分、春香と友達になるつもりはないぞ!」
「えっ?」
「だって、自分は春香に挑戦にしに来たからね。……色々な意味で」

響が俺の方を見る。
なんだなんだ?
その様子を見て、春香は慌て出す。

「ひ、響ちゃん!」
「ふふん! 完璧の称号は春香にあげちゃったから、早く春香に勝って完璧な自分に戻らないとね。仕事も……それから恋も完璧にこなしちゃうくらいにね。さて、そのためには」

響は、つかつかと俺の元へやってきて手を差し出す。

「これから……末永くよろしくね、プロデューサー」
「えっ……ん、ああ。よろしくな」

俺は響の手に、自分の手を重ねて握手する。
何故か響の顔は真っ赤だった。

「……そ、それじゃあ、早速ミーティングをしよう、プロデューサー!」
「は?」
「だって、自分の再デビューに向けて色々と考えてもらわないとさ」
「いや、今日は春香と今後についてのミーティングが」
「そ、そうだよ! プロデューサーさんは、今日、私とミーティングするの! 私とプロデューサーさん、ふ・た・り・の今後について!」
「いや、話し合うのは春香の売り出し方であって」
「プロデューサーさんは静かにしていてください!」
「あ、ああ……」

どうしたんだ、春香。さっきからやけに慌てているけど。

「それにプロデューサーさんは、私の担当プロデューサーだよ!」
「え~? でもプロデューサーは765プロのプロデューサーだろ? なら、765プロのアイドルである自分のプロデューサーでもあるでしょ?」
「響ちゃんはアイドル候補生見習いでしょ!」
「そんなの自分なら、なんくるないさー!」

俺の目の前で、響と春香が騒ぎ出す。
……どうやら765プロはとても賑やかになりそうだ。

164: 2013/05/26(日) 02:11:29.82
響がアイドル候補生見習いとして、765プロにやってきて2ヶ月がたった。
季節は夏。その日、俺は社長から呼び出しをくらっていた。
何の用だ?
元プロデューサーという経験を活かして、俺と春香に指令を飛ばすこともあるが、基本的に社長はアイドルのプロデュースに関して全権を俺に委ねている。
だから、社長が俺を呼び出すのは珍しいことだ。

「君が現在プロデュースしているユニットがあるだろう?」
「パーフェクトサンですか?」

パーフェクトサン。
天海春香をリーダーに、菊地真と高槻やよいの二人を加えた765プロの新プロジェクトとも言えるアイドルユニットだ。
きっかけは、響が765プロに来た日に行ったミーティングで春香が新しいことに挑戦してみたいという一言からだった。
人選に関しては、春香と同じ明るく素直な女の子というタイプでまとめた。我ながら統一感があってベストなものだと思う。
……手のかからない無難な人選と言われてしまえば、それまでだが。
ちなみにユニット名は春香の発案だ。響から受け渡された「完璧」の称号を意識しているのは間違いなかった。
春香はトップアイドルという風格があるが、春香自身はそれを全く鼻にかけていないので他の二人は気後れすることなく活動に臨めている。
相変わらずコケるが、春香はアイドルだけじゃなくリーダーの素質まであるようだ。

「まさか……パーフェクトサンの活動に何か問題でもありますか?」
「いや、それは大丈夫だ。君を含めて、天海くん達はよくやっているよ」

社長の言葉に内心ホッとする。
ユニットでのプロデュースも活動も初めての経験のため不安があったが、どうやらパーフェクトサンの活動は元プロデューサーである社長から見ても合格ラインを越えているようだ。

「社長。なら、今日はどうして俺を呼んだんですか?」
「うむ。実は我那覇くんのアイドル候補生見習いを終了させようと思ってね。そして、彼女をパーフェクトサンの一員として本格的に再デビューさせようと考えているんだよ」
「響の再デビュー……」
「夏……我那覇くんの季節だ。タイミングとしてはベストでもある。だが、この話を受けるかどうかはパーフェクトサンのプロデューサーである君の判断に」
「やらせてください。響の再デビュー!」

俺は社長が言い終えるよりも早く社長の申し出を承諾した。
響がまたステージに戻ってくる。
あの歌を、あの表情を、そしてあのダンスを、もう一度間近で見ることができる。
そんな響をもう一度プロデュースする。
こんなに心躍ることはない。

「流石だね、君は。私が見込んだだけのことはある。それでだ、我那覇くんの再デビューにいたって、彼女のための曲をプロデュースする宛はあるのかね?」
「当然ですよ。響にしか歌えない最高の一曲があります」


165: 2013/05/26(日) 02:15:11.09
コンサートホールに凄まじい歓声が響き渡る。
最前、ステージの上でパフォーマンスを披露していた三人の少女たちは、歓声を全身で受け止めている。
そんな少女たちを舞台裏で見ている華やかなステージ衣装の少女とスーツの男がいた。

「うはあ、凄いな……まっ、自分ほどじゃないけどさ」
「今日に限ってトップアイドルのパフォーマンスは前座だ。主役は……」
「自分でしょ?」
「ああ。再デビューということもあるから、大々的な宣伝の意味合いも兼ねてソロで歌ってもらう」
「自分の独り舞台か。腕がなるよ。だから、いつもの……よろしく」

少女は自分の髪を結んでいるリボンを解き、男に渡した。
少女の後ろで、男は少女の艶やかな黒髪をリボンで結んでいく。
ステージの歓声が何処か遠くに聞こえる。
少女のリボンを男が結ぶ。
それが二人の間の儀式だ。

「終わったぞ」

男がそう告げると、少女はリボンが結ばれている辺りにある男の手に自分の手を重ねる。
男は少女の手を拒むことなく受け入れた。

「みなさーん! 今日から私たちに新しい仲間が加わりまーす!」

ステージの方から、三人の少女たちのリーダーの声が聞こえる。
それはリーダーからの少女へ向けての「来て!」という合図だ。
出番だな。男は少女にそれだけ言った。
うん……。少女も男にそれだけ返した。
少女と男の重なった手が離れていく。
ありがとう。想い、受け取ったよ。
少女は、光が溢れるステージへ向かって走り出した。


Fin

169: 2013/05/26(日) 21:06:04.88
乙でした

引用元: P「君と過ごす1週間」