【エヴァ】シンジ「逆行」【前編】
42: 2008/07/12(土) 14:33:44 ID:???

――シンジのケガは、実際に大したことはなかった。
擦過傷がいくつかと、何箇所かの軽い打撲。
保険医からそれを聞き、治療を任せると、レイはすぐに立ち上がった。
「それじゃ、碇くん。わたしはもう行くから」
そう言って、保健室を出ようとする。その、背中に、
「あ、ありがとう、綾波…」
シンジはそう声をかける。
だが、その感謝の言葉に、レイはしかし、
「…ごめんなさい」
なぜか謝罪の言葉を残し、廊下に消えていった。

廊下に出ると、レイは教室とは逆方向に数歩、歩いて止まり、
「彼のケガ。大したことないそうよ」
誰もいない廊下に向かって、そう言った。
いや、無人、ではなかった。
バツの悪そうな顔をして、柱の影からアスカが出てくる。
「な、なんで…」
「そのために、ここにいたのでしょう?」
まるで温かみのないレイの言葉に、アスカはひるみながら、
「な、なんでアタシに、そんなこと教えるのよ」
精一杯の虚勢を込めて、そう問い質す。すると、
「わからないの?」
「…え?」
「教えたのだから、帰って、と言っているの」
それだけ言うと、今度こそ、レイは教室に向かって歩き始める。
アスカのことは、もう振り返りもしない。
ただ、階段を登り、アスカの姿が見えなくなってから、
「……イヤな感じ。これは、なに?」
レイは一人、胸を押さえた。

43: 2008/07/12(土) 14:39:14 ID:???


昼休みの終了間際。
治療を終え、教室に戻ろうとしたシンジの前にも、
待ち伏せていた人影が現われた。
「そろそろ来るころじゃないかと思ったんだ。
まだ休み時間が終わるまで、五分くらいなら時間はある。
ちょっと歩こうぜ?」
「……うん」
シンジはその人影、相田ケンスケについて、歩いていく。
「さっきの、見てたよ。碇、ほんとにあいつが大切なんだな」
「……うん」
やはり、素直に。とりつくろうことなく、うなずく。
「オレだって、他人のことをあんまりとやかく言いたくはないんだ。
……だけど碇。やっぱりあいつは普通じゃない」
「アスカには、何か秘密があるの?
一体ケンスケは、何を知ってるんだよ…!?」
かみついてくるシンジに、ケンスケも足を止めた。
シンジを振り向き、とつとつと話し始める。
「オレ、見たんだよ。オーバー・ザ・レインボウで使徒が襲ってきた後、
オレは甲板に出て色々見学してたら、その時ちょうど惣流がやってきて…」
「やってきて? それで、どうしたのさ?」
ケンスケはしばらく躊躇うように沈黙した後、
「あいつ、いきなりとんでもないことを始めたんだ。
そこにあった重そうな瓦礫を持ち上げて…」

そうしてケンスケは話を始める。
レイにあれだけ言われても、結局その場を離れられなかったアスカが、
物陰で話を聞いているのも気づかずに。
――そしてアスカも、思い出す。
『その時』のことを。

44: 2008/07/12(土) 14:42:27 ID:???


――オーバー・ザ・レインボウでの第六使徒との戦いの後、
「ちょっと一人で風に当たりたいから」
と断って、アスカは一人で甲板に出ていた。
もちろんシンジやミサトに、
「絶対ついてこないでよ!」
と釘を刺すことも忘れない。
実際に後ろを振り返って、誰もいないことを確認しておく。
そこで改めてきょろきょろと辺りを見回し、使徒との戦闘で出来た、
剥離した甲板の一部、つまりは大きな瓦礫、を持ち上げて、
「これが頭になんて当たったら、きっと余裕で氏ねるわね」
そう呟いて不敵に笑ってから、それを思いっきり上に放り投げた。
それは与えられた運動エネルギーを消費しつつアスカの頭上へと飛んでいき、
やがて全ての力を使い果たして、まっすぐに落下する。
――バン、という音がして、しばらく。
瓦礫はアスカから二メートルほど横に落ちた。
「……なんでよ!」
アスカが壁に向かって拳を振り抜く。
ドン!
しかし、アスカの拳は、壁まであと一センチという所で止まっていた。
拳を落として、歯を食いしばる。
「くそ、くそ、くそ、くそ、くそぉっ!」
噛み締めた歯の間から、呪詛の言葉が漏れた。

45: 2008/07/12(土) 14:45:16 ID:???

――あなたが消えたら、碇くんが哀しむもの。
それが、あの世界でアスカが最後に聞いた言葉だった。
「助けられたっていうの? アタシが、あの、ファーストに…!」
あの、赤い海の中で、アスカは一度、氏を、自分の存在の消滅を覚悟した。
シンジに似せられた何かよく分からない物に囲まれ、
心をズタズタにされ、自己の存在の消滅を願わされた。
――その時だ。
ファースト、綾波レイがやってきたのは。
レイはアスカにまとわりつく影を吹き散らし、
消えかけていたアスカの元までやってきて、……アスカと同化した。
自分と他人の境界がなくなって、お互いの心と体が溶け合って混ざり合う、
あの不快な感触は、いまだに忘れようとしても忘れられない。
「……っく」
その時の感覚を思い出して、アスカは思わずぐっと自分の拳を握り、
……しかし今はもう、自分の中に異物が入り込んでいるような違和感はない。
かつてレイだったモノは、完全にアスカの中に吸収されていた。
それは、アスカの意志がレイのそれに打ち勝った、と考えることも出来る。
だがアスカには、どうしてもそうは思えなかった。
――きっとそれすらも、レイの意志。
「アタシのこと、嫌いなはずなのに。シンジに会わせないように、
一度は争いもしたっていうのに」
だがレイは、自分の身を投げ打ってまで、アスカを救うことを選んだ。
アスカには、そう思えてならない。
レイにとって、アスカがいない方がきっと、都合がいいはずなのに…。
「それでも、アタシを助けるの? シンジのためだからって、
自分を犠牲にしてまで…! アンタはどうして、そこまで自分を殺せるのよ!
そんなに、そんなことが出来るくらい、アイツのこと…」
言葉は、最後まで口に出来ない。
はっきりと口に出してしまえば、敗北感に、膝が折れてしまいそうで…。

46: 2008/07/12(土) 14:50:42 ID:???

アスカが氏に物狂いでシンジの元へ進もうとしたのは、
そこにシンジと、自分自身の幸福を求めていたから。
……つまりは、それだって自分のため。
アスカにはどうしても、レイのような選択は出来ない。
出来る気がしない。
そして、レイのその献身の結果が、またアスカを戸惑わせる。
あれから、アスカに吸収される形で、レイとの同化が終わって、
「その結果が、この、ワケ分かんない世界で…」
気がつくと、アスカはドイツに『戻って』いた。
ただ単に、ドイツという国に戻っただけではなく、
まだ人がいなくなる前の、過去のNERVドイツ支部に、
文字通り『戻って』きていたのだ。
それもまるで、計ったように来日の直前というタイミング、つまり、
――アスカにとって、全てが始まる前に。
「これが、アンタの意志なの、ファースト? アタシを過去に飛ばして、
あの結末を変えろって、そう言いたかったの、アンタは…?」
どういう理屈が働いたのかは分からない。
時間移動なんてナンセンスだと思っていたし、
今でも完全に信じているとは言いがたい。
だが、レイが自分の全存在を懸けて、アスカを過去に送ったのだとしたら、
「嫌なのよ、こういうのは…! 自分の命が、自分の物じゃないみたいで…」
アスカには、それを受け止めるだけの覚悟がまだ、なかった。

144: 2008/07/25(金) 01:59:13 ID:???

――シンジには、ケンスケの話はどこか要領を得ないように思えた。
(アスカが甲板の上で自分を傷つけるようなことをしたり、
いきなり壁を殴ったり、色々と情緒不安定だったのは分かったけど)
しかし、それがシンジの聞きたかったことではないと、
シンジは本能的に悟っていた。
(だってそれは、ケンスケがアスカを人間じゃない、
なんて言う理由にはならない。
まだ僕は、ケンスケから全部を聞かされたワケじゃないんだ)
一体ケンスケが何を考えているか、それは分からなくても、
(僕は僕のやれることをしよう。
とりあえず、綾波とアスカの仲を取り持たなくちゃ…)
シンジはそう決めて、そのために動き出したのだが、
(……なんか、どっちもつかまらないんだよな)
アスカが気まずそうに視線を逸らすのはともかく、
あの一件以来、レイが妙に余所余所しい気がするのだ。
その心境の変化は、シンジには察することはおろか、
想像することも出来ない。
それでも、ほとんど同じ生活圏で、
ほとんど同じ生活パターンで暮らしているのだ。
どうしたって、会話する機会は出てくる。
シンジは結局、NERVに向かう道の途中でその機会を得た。
しかし、
「綾波!」
と声をかけても、レイは振り返らない。
仕方なく、シンジはレイに駆け寄って、至近距離から声をかけた。

145: 2008/07/25(金) 02:00:32 ID:???

「どうしたんだよ、綾波」
「……なにが?」
いつもと同じ、そっけない返事。
だが、シンジはその返答がいつもよりずいぶんと遅れていることに気づいていた。
「気のせいだったら、ごめん。
……最近、綾波が僕を避けてるような気がするんだ。
もし、僕が何か、綾波を怒らせるようなことをしてしまったんなら…」
「気のせいだわ」
シンジの言葉を一言で切り捨てて、シンジから離れて歩いていこうとする。
そのレイに歩調を合わせながら、シンジは尋ねる。
「その言葉、信じてもいいの?」
「…………」
レイは無言だった。
しかし、それが答えでもある。
「それは、やっぱりあの時アスカと言い合いになったことと関係があるの?」
「…………」
また、無言。
だがやはりシンジは、それを肯定と捉えた。
言葉を継ぐ。
「お節介だと思うけど、綾波とアスカがケンカしているのが心配なんだ。
そりゃ、綾波はあんまり気にしてないかもしれないけど、でも…」
そんなシンジの言葉をさえぎって、
「そんなに、セカンドが大切?」
レイの言葉が、シンジを射抜いた。

146: 2008/07/25(金) 02:03:55 ID:???

「い、いきなり何を言うんだよ…」
その言葉に込められた意外な敵意か、振り向いたその瞳の光の鋭さか、
とにかくシンジはレイからの圧力を感じ、思わず目を逸らした。
しかしレイは、それすら許さなかった。
『こっちを見て』とは言わない。
ただ無言で、シンジの瞳を直視し続ける。
瞬きもしないそんな目でずっと見詰められて、
シンジが耐え切れるはずなかった。
ふてくされた子供のように渋々と、しかし怖々と、視線を戻す。
それを見届けて、レイの唇が厳かに動く。
「セカンドとわたしが、ケンカするのがイヤなんでしょ?」
「そ、それは……そんなの、当たり前じゃないか」
シンジの狼狽を、しかしレイは気にも留めない。
ただ、淡々と、淡々と言葉をつむぐ。
「セカンドがわたしに暴力をふるうのを見たくないんでしょ?」
「だ、だから、そんなのは…」
当たり前だ、と口にすることも出来なかった。
それより前に放たれたレイの次の言葉が、その口を縫い止める。
「そうなれば、あなたは彼女に腹を立てるから。
セカンドのことを、好きでいられなくなるかもしれないから。
……それを、あなたはおそれているのよ」
「違う!」
シンジは思わず叫んでいた。
「いいえ、ちがわないわ」
「違うよ!」
もう一度叫んで、シンジはレイに詰め寄っていく。

147: 2008/07/25(金) 02:05:59 ID:???

「何で、何でそういうこと言うんだよ!」
常になく、シンジに芽生えているのは、
その体を動かしているのは、強い怒りだった。
しかし、その怒りに突き動かされるまま、声を荒げても、
「わたしがそう、思っているから」
レイの口調は変わらない。
変わらず淡々と、シンジの理解を突き放して、
「そんなはずないじゃないか! 僕は、綾波を心配して…」
「そうなの? わたしにはわからないわ。
わたしは、あなたじゃないもの」
だがその言葉、態度に、シンジはレイの意図を感じる。
レイがシンジを遠ざけようとしていると、分かってしまう。
自分でも正体の分からない苛立ちと憤りが、募る。
「ズルイよ、綾波は…!」
その正体不明の感情が、そんな言葉を生み出した。
「ずるい? わたしが? ……どうして?」
レイのトゲのある無関心さが、シンジの心をささくれ立たせる。
「だってそうじゃないか! そうやって、
人に心配されるのを嫌がって、壁を作って…」
加速した怒りに、シンジの口調も熱くなって、だが、
「……それの、なにがいけないの?」
あまりにも平然とした返しに、シンジは固まってしまう。
(それは…、その言葉だけは、口にしちゃ、いけないのに…!)
思いは、明確な言葉にはならない。
突き進もうという意志だけが、前に出て、
「約束したじゃないか! あの時、二人で一緒に…」
レイの手を、つかもうとする。そして、
――パシン、と。
シンジの手が、振り払われた。

148: 2008/07/25(金) 02:07:33 ID:???

なすすべもなく、じっと払われた手を見つめるシンジを、
レイは無表情で見つめる。
「あや…なみ…?」
こんなのは、何かの間違いだろ、というみたいに、
すがるように問いかける視線にも、レイは眉一つ動かさない。
そして、レイは、
「今、あなたは…」
それでもやはり変わらぬトーンで、
冷淡とも、酷薄とも感じる口調で、
「わたしにうらぎられた、と思った?」
容赦のない言葉を吐き出す。
「綾波、僕は…」
だがレイは、最後までシンジの言葉を聞かない。
どうせそこから続く言葉など存在しないのだ。
聞く意味なんてなかった。
だから平然と、言葉を続ける。
「わたしのことも、好きでいられなくなると思った?」
「僕は、僕は…!」

「なら、それでいいんだと思うわ」

それが、最後の拒絶だった。
レイはそれきり立ち尽くすシンジに一瞥もくれることはなく、
静かにその場を立ち去った。
その背中が遠くなっていくのを目の当たりにしても、
シンジには叫ぶことも、その場に崩れ落ちることも出来ない。
ただ、うつむいて、
「僕、は……」
続きのない言葉を、ずっと独り、呟いていた。

149: 2008/07/25(金) 02:10:50 ID:???


NERVに向かっていたはずのシンジは、今、全く場所を歩いていた。
これからNERVに行って、レイの顔を見る勇気が、シンジにはなかった。
かといって、学校に戻る訳でも、家に帰る訳でもない。
むしろ出来るだけ知らない方へ、知らない方へと、シンジは進んでいく。
今はどうしても、自分を知っている人間と会いたくなかった。
――シンジだって、自分に護衛と監視がついているのは知っている。
今ごろ、NERVにいるミサトかリツコ辺りに、
連絡がいっているかもしれない、とは思う。だが、
(どうでもいいんだ、そんなこと)
無目的に、街を歩く。
他人ばかりの街が、今は少し心地いい。
何も考えず、この街の背景の一つに溶け込みたかった。
なのにほとんど無意識に、シンジの目は右手の小指を見つめていた。
ぐっと、唇をかみしめる。
(……約束なんて、役に立たない)
所詮そんな物は、きっかけにしかならない。
(約束なんて物が役に立つのは、お互いにそれを認めてる時だけだ。
どちらかが、それを嫌がったら…)
小指を握り潰すように、ぎゅう、と拳を握り締める。
「……なん、で」
唇からそんな声が漏れて、レイに手を払われた時の鮮烈な衝撃が、
シンジの胸によみがえる。
(……前の世界では、うまくいっていたんだ。
二人目の綾波とは、何の問題もなく、付き合っていけた)
前の世界を思い出す。
短い間に過ぎていった、レイとの思い出を。
(なのに、綾波が、変わってしまったから。
前の綾波とは、違ってしまっていたから、だから…)
しかし、
(違う、そうじゃない。そうじゃないんだ)

150: 2008/07/25(金) 02:13:52 ID:???

(もしあの時、綾波が自爆なんてしないで、ずっと生きていたら。
きっと、今と同じようなことが起こってたんだ)
だってそんな、何かがずっと、うまくいくはずなんてないから……。
喜びという物は、つらいこととつらいことの間にだけ、ある物だから。
だからいつか、絶対、つらいことに塗り潰される。
(……なのに)
シンジは、自分の右手を見る。
――ちっぽけで、無力な手。
(どうして僕は、人と触れ合えるなんて思ったんだろう。
そもそもどうして、人と触れ合おうなんて思ったんだろう)
ぎゅっと、目を閉じた。
(無理だったんだ、僕には最初から。
僕に、そんな資格はないんだ。そんな権利はないんだ。
……もう傷つきたく、ないんだ)
自覚した途端、体から、すぅっと力が抜けていく。
気負ったり悩んだりしていたことが、バカみたいに思えた。
(……もう、やめよう。
いつものように、笑っていればいいんだ。
笑って、みんなの望むことだけ、してればいいんだ)
シンジは足を止める。
きびすを返し、NERV本部へと向かう。
(綾波とは、距離を取ろう。
僕が話しかけていかなければ、きっと向こうだって、
何も言ってはこない。
それが、一番いい。
一番、居心地がいいから)
考えながら、シンジは足を速める。
――なぜか右手の小指が、じりじりとうずいた。

151: 2008/07/25(金) 02:16:22 ID:???


「うーん…」
モニターの前で、ミサトがうなり声みたいな音を出した。
「どうしたの? そんなに難しい顔をして」
リツコに聞かれ、ミサトの困り顔がモニターのシンジに向けられた。
「シンジ君の様子がちょっちねぇ…。
指示は素直に聞くんだけど、反応が妙に機械的っていうか。
最近、いい感じにくだけてきたと思ってたんだけど…」
「あら、そう? でも、そんなに心配することはないんじゃない?
シンクロ率はむしろ、順調に上がっているわよ。
……それより今日、調子を崩しているのは」
リツコは体を前に乗り出して、零号機へのスピーカーをオンにする。
「レイ、集中が乱れてるわよ」
「すみません」
素直な謝罪は、しかしそれ以上の言葉を封じていた。
思わず嘆息するリツコに代わり、ミサトがマイクに向かう。
「レイ、今日は調子悪い? もし、何かあるのなら…」
「なにも問題ありません」
取りつく島もなかった。
ミサトはリツコと顔を見合わせ、軽く頭をかいて、
「……そう。でも、あなたの不調は、あなただけの問題じゃないのよ。
エヴァが負ければ、人類が滅ぶわ。……それだけは忘れないで」
「はい」
その返答にも、態度の変化は見られない。が、
「そんなの当たり前、か。……ダメね。
こんなことしか言えない自分が、ほんと嫌になるわ」
「仕方ないわ。大人には、立場という物があるもの」
興味を失ったように手元の書類に戻るリツコを横目にして、
「そうね。……でも、それを盾にするようになったら、本当におしまいだわ」
ミサトはひっそりと、強く唇をかみしめた。

156: 2008/07/26(土) 01:27:24 ID:???


「待ちなさいよ!」
本部を出たところで、シンジは後ろから呼び止められた。
振り向く。
「……あぁ、アスカか。めずらしいね、
アスカの方から僕に話しかけてくるなんて」
シンジには似合わない、流暢で、よどみのない口調だった。
だが、アスカにそれを深く考えられるほどの余裕はない。
「…っ! どうでもいいでしょ、そんなことは!
今までは用がなかったから話してなかっただけよ。
それより…!」
取り繕うように大声を出して、それからギッとシンジをにらみつけ、
「アンタ、ファーストと何かあったワケ?」
そんな言葉を投げかけられても、シンジに変化はなかった。
少なくとも、表面上は……。
「別に、何もないよ」
「ウソよ! 前はあんな、気持ち悪いくらいベタベタしてたじゃない!
なのに今は、目を合わせようともしない」
「誤解だよ。もともと、綾波とはそんなに親しいワケじゃないから」
その言葉に、アスカは目を見開いた。
「親しいワケじゃないって、アンタねぇ…!
とぼけるんでも、もう少しまともなこと言いなさいよ。
あんなに二人で…」
普段なら、シンジを押し切ってしまえるような、強い口調。
だが、
「綾波とは同じエヴァのパイロットで、
だから一緒にいることが多いだけだよ。
アスカだって訓練で綾波とはよく一緒にいるけど、
それほど仲がいいワケじゃないだろ?」
「それは、そう、だけど」
思わぬ反撃にあって、逆にアスカが言葉に詰まってしまう。

157: 2008/07/26(土) 01:29:02 ID:???

この時点になってようやく、
アスカはシンジの様子がいつもと違うのに気づいた。
だが、振り上げた矛は止められない。
「とにかく! アンタたちがピリピリしてるとアタシが居心地悪いのよ!」
感情のままに言葉をぶつけられても、シンジは少しも動じることなく、
「それが本当なら、確かに申し訳ないとは思うけど。
……でもやっぱり、アスカには関係のないことだから」
そう言って、その場を立ち去ろうとする。
それに慌てたアスカが口にした、
「ちょっと、逃げるつもり?!」
という言葉に、シンジの顔が初めて歪んだ。
痛みをこらえるような表情を、しかし背中で隠して、
「そういうんじゃないよ。でも、僕はもう帰るから…」
そのまま歩いて行こうとして、
「分かったわ。アンタ、ファーストとケンカして、
いじけてるんでしょ」
しかし、アスカは足を速めてシンジについてきた。
元々、二人の目的地は一緒だ。
同行を断る理由もない。
「そんなんじゃないって言ってるだろ」
シンジはそれをわずらわしいと思いつつ、そう否定を重ねるしかない。
「ふぅん。でも、どうかしらねぇ?
あの優等生が、めずらしく怒られてたみたいじゃない。
それって、アンタと…」
「うるさいな! もういいだろ!
何でいちいち、人のことそんなにかぎまわるんだよ!」
とうとう、シンジが爆発した。
今まで蓄積した苛立ち全てを吐き出すように、アスカを怒鳴りつける。

158: 2008/07/26(土) 01:30:31 ID:???

シンジの激しい言葉に、アスカは一瞬だけ鼻白むが、
「そ、それは……!
あ、アンタがウジウジしてて、見ていられないからじゃない!」
すぐに持ち直し、怒鳴り返した。
そこでシンジがアスカに怒鳴り返せば、いつも通りだっただろう。
だが、
「……お願いだから、ほっといてよ」
「え…?」
予想外の言葉に、アスカの動きが止まる。
「アスカが僕のこと気に入らないっていうんだったら、謝るよ。
僕のことが嫌いだっていうなら、もう必要以上に近づいたりしないから」
怒るでもなく、怯えるでもなく、シンジは疲れた声でそう告げる。
「僕はもう、アスカに迷惑かけないから。
だからその代わり、関係ないアスカに、色々言われたりとか…」
しかしそれ以上、シンジは言葉を続けられなかった。
ぐっと首元をつかまれ、強い力で顔を引き寄せられる。
「この! アンタ、寝ぼけてんじゃないわよ!?
アンタがアタシのこと、アスカって呼ぶって決めた時から、
もう、無関係だなんてこと…!」
その至近距離で、それでもシンジはアスカから目を逸らした。
そして、
「…ごめん。だったら、もう、呼ばないから」
口から漏れた決定的な言葉に、はっきりとアスカの表情が変わった。

159: 2008/07/26(土) 01:32:28 ID:???

「……アンタ。それ、本気で言ってんの?」
さっきまでとは打って変わった、静かな、
落ち着いているとさえ錯覚してしまうような口調で、アスカが問う。
対して、シンジは決してアスカと目を合わさないままで、
「…うん。僕が無神経だったんだよ。もう二度と呼ばない。だから…」

バキン!

容赦のない音がシンジの頬で弾け、シンジは体勢を立て直すことも出来ず、
そのまま地面にしりもちをついた。
そのシンジの前に、握り拳を怒らせた影が立ちはだかる。
「ふざっけんじゃないわよ!
アンタは、アンタはアタシが、どんな気持ちで…!
どんな…っ!」
しかしそこで突然に声を詰まらせ、アスカは額の辺りを手で押さえて、
不自然に顔を逸らした。
「アスカ…?」
殴られた時より呆然としたシンジの目が、
アスカの手からこぼれる雫を捉えた。
「アス、カ…? もしか、して…」
押さえた手から、こぼれ落ちていった物は……。
「違うわよ!
こんなことで、泣いたりするはずないでしょ!
ぜったい、泣いてなんかないわよ!」
叫んで、アスカはシンジに背中を向けて、
「……先、家帰るから」
そう残して、歩き去っていった。

160: 2008/07/26(土) 01:34:02 ID:???

アスカの姿が見えなくなって、
今さらながら、アスカに殴られた頬が熱を持ってくる。
焼けるようなその感触を頬と手のひら、両方で感じながら、
シンジはおかしそうに笑った。
「なんだ。どっちにしろ、結局、殴られるんじゃないか。
だったら……」
だったら、どうだと言うんだろうか。
そんなことにすら、答えを出せないまま、
「……アスカ。謝りたいな」
押さえられた手の隙間から、涙と一緒にのぞいたアスカの顔を思い出し、
素直にそう思った。
――でも、出来ない。
もう一度アスカに踏み込んでいく選択肢なんて、
今のシンジには最初からなかった。
「アスカからは、絶対に逃げないって誓ったのに…」
追いかけようという気力は、全くわいてこない。
今だって必氏に考えているのは、アスカとの和解の方法ではなく、
アスカと会うのを少しでも遅らせる方法だけ。
「……やっぱり、約束なんて役に立たないや」
自嘲気味に笑って、シンジは立ち上がる。
そうして、
「お金。持って来てて、よかったな。
これなら夕食まで、なんとでも時間を潰せそうだ」
今日はぎりぎりまで、街でねばることを決めた。

161: 2008/07/26(土) 01:35:26 ID:???

ミサト、アスカ、シンジ。
三人がそろった食卓はしかし、いつもにも増して、
ぎくしゃくした雰囲気だった。
食事を終えたミサトは、その原因の大元がシンジにあると見当をつけ、
「あのね、シンちゃん。レイやアスカと何があったか知らないけど、あんまり…」
と話を始めようとするが、
「やめてください。今はそういう正論、聞きたくないんです」
すっと、シンジは意図的にミサトから目をそらして、
「そりゃ、ミサトさんは立派ですよ。
でも、僕はそんな風には生きられませんから」
「…! あんたねぇっ!」
一番癇にさわる態度を取られ、思わず振り上げられるミサトの手を、
「ミサト!!」
大声をあげて制止したのは、アスカだった。
「……ほっときなさいよ、そんなの」
だがその口から出てくるのは、
もちろんシンジをかばう言葉などではない。
「放課後からずっと、いじけてんのよ、そいつ。
構ってほしくてやってるだけなんだから、相手するだけ無駄よ」
「あ、アスカ…。だけどねぇ…!」
そうしてミサトの注意がアスカに向けられて、
「おやすみなさい」
その隙に、シンジは自分の部屋へと入っていく。
「シンジ君っ!」
ミサトが叫ぶが、それでシンジが止まるはずもなく、
シンジを飲み込んだ扉は、無情にも音を立てて閉じられた。
「なんなのよ、もぉ…!」
扉の前で、ミサトが苛立った声を出して、
――アスカはその様子を、ひどく冷めた目で見つめていた。

162: 2008/07/26(土) 01:37:18 ID:???

「シンジ、いるわね。開けるわよ」
簡潔に、それだけを宣言して、シンジの部屋の扉が開かれる。
アスカの姿が扉の間からのぞく前に、シンジは何とか音楽を止め、
扉に背を向けて眠ったフリをすることが出来た。
「シンジ。アンタに話があるの」
アスカがそう言っても、シンジは微動だにしない。
閉じこもるように体を丸めて、寝たフリを続ける。
まるでこの前、シンジがアスカの部屋を訪れたのと真逆の構図。
だがその状況を、アスカは気にしなかった。
「シンジ。そのままでいいから、聞いて」
そう、前置きして、
「昼間のことは、アタシが悪かったわ。
たぶん、アンタの言い分の方が正しいと思う。
勝手なこと言ったと思ってる」
吐き出されたその言葉に、シンジはまた少し、身を縮める。
自分の言い分が認められてうれしいはずなのに、なぜか、胸の塞ぐ思いがした。
「…………」
「…………」
沈黙が続いた。
戸口に立つアスカの存在は、今のシンジにとって、ただ苦痛だった。
シンジはひたすら、アスカが一刻も早くその場を立ち去ってくれることを祈った。
その期待に反するように、アスカはすぅっと息を吸い、
「でも今度、アタシのこと名前で呼ばなかったら、またぶっとばすから」
「…!」
予想してなかった言葉に、刹那、シンジの息が止まる。
そこにアスカは、たたみかけるように、
「勝手でも何でも、このままなんて、絶対に許さないから。だから、だから…」
部屋に差し込む影が、少しうつむいて、
「……早く元気になんなさいよね、バカ」
その言葉を残して、扉が閉められた。

163: 2008/07/26(土) 01:38:26 ID:???

扉が閉められて、部屋が暗闇に閉ざされて、しばらく。
横たわるシンジの耳に、小さな嗚咽が聞こえてきていた。
聞きたくないと耳を塞いでも、その音は止まらず、
執拗にシンジを責めたてる。
シンジはさらに強く耳を押さえ、
そして、ようやく、気づいた。

――泣いているのは、シンジだった。

気づいたことで嗚咽はさらに大きくなって、
シンジを悩ます。
そっと、体を転がし、扉を見つめる。
その向こうからはかすかに明かりが漏れていて、もしかすると、
その奥にはアスカが待っているのかもしれなかった。
シンジは一瞬、立ち上がりかけ、
「だけどアスカ、怖いんだ。
人と触れ合うのが、怖いんだよ…」
結局果たせず、そのままそこで布団をかぶる。

――布団の中、押し頃した嗚咽は一晩中やむことがなかった。

230: 2008/08/06(水) 01:50:43 ID:???


結局昨夜、一睡も出来なかったシンジは朝早くに起き出し、
せめて腫れて熱くなったまぶたを冷やそうと洗面所に向かった。
しかしそこで、
「……ぁ」
「…………」
ばったりと、アスカと鉢合わせしてしまった。
狼狽するシンジとは対照的に、目が合っても、アスカは何も言わない。
ただ不機嫌そうな目で、じろりとシンジをねめつける。
「あ、あの、その……」
そこで、シンジはなけなしの勇気を振り絞り、
「お、おはよう。その、…………アスカ」
はっきりと、そう口にした。
しかし、アスカはそれでも無言。じっと、シンジをにらみ続ける。
それで焦ったのはシンジだ。決氏の覚悟で口を開き、
「あ、アスカ。あの、き、昨日は、悪かったと思ってるんだ。
ぜ、全部、アスカの言う通りで、ミサトさんに怒ってもらおうって、
昨夜はわざとあんなこと言ったりして、ずっと、独りでいじけてて……」
どもりながら、懸命に、自分の気持ちを伝えようとするが、
――ドン!
アスカは思わずシンジが「ひっ」という声を漏らすほどの勢いで足を踏み鳴らし、
最っ高に不機嫌な顔で、こう言い放った。
「もぉおおおおう! ほんっとに気の利かない奴ね!
アタシはトイレに行きたいの!
そんなとこ立たれたら、中、入れないじゃないのよ!」
「え? ……わっ! ごめん!」
そこでようやく、シンジは自分がトイレの前に立っていたのに気づいて、
慌てて横にどいた。
それを見て、アスカはふんっと鼻を鳴らして、
わざと乱暴に肩をぶつけながらシンジを押しのける。

231: 2008/08/06(水) 01:52:09 ID:???

そして、トイレの前に立つと、ぎろり、と振り返って、
「何? アンタ、ずっとそこに立っとくつもり?
アンタにそんなトコいられると、すっっごく気になるんだけど」
何も考えられずにその場に立ち尽くしていたシンジを追い立てる。
「あ、わわ、ご、ごめん…!」
シンジはまた謝って、いそいでトイレから距離を取る。
アスカはそんなシンジの様子を目をすがめて見届けて、
「バッカみたい」
と冷たく言い放った。
「ご、ごめん…」
さらに首をうなだれさせるシンジを無視してアスカは言葉を続ける。
「アンタはね。どうせバカなのよ。どこまで行ってもバカシンジ。
……だからたまには、他人を頼りなさいよ」
が、その口から発せられた思わぬ言葉に、シンジはびっくりして顔をあげた。
「…え?」
それを照れくさく思うみたいに、アスカは不自然に斜め上を向いて、
「あいかわらず、察しの悪い奴ね! ……だ・か・ら!
相談されれば、ちょっとした手助けくらいはやってやってもいい、
って言ってんのよ!」
そんなアスカからの最大の歩み寄りに、しかしシンジは素直にはうなずけない。
「でも、そんな、悪いよ。アスカには、関係ないのに……」
「関係ないぃ…?!」
眼光鋭くシンジを貫く視線の圧力に、シンジは鼻白み、
「…う。だって、その、僕が、やらなきゃいけないことだし」
アスカに「はあぁ」と特大のため息をつかせる。
「そんなの、当たり前でしょ。そんな過保護な真似、こっちから願い下げよ。
そうじゃなくって、アンタの話聞いてやったり、落ち込んだアンタに発破かけたり、
アンタが自分で動くチャンスを作ってあげたり、って話。
それとも、そんなの手助けにならないとでも言うつもり?」
「そ、そんなことないよ!」

232: 2008/08/06(水) 01:54:23 ID:???

シンジの言葉に、ようやくアスカは少し満足そうな表情を浮かべ、
「そ。とにかく、ま、そういうこと」
とムリヤリ話を締めくくった。
『これで話は終わり』という態度で腕組みしながら、でも、
どこかシンジの反応を待っているような、アスカはそんな状態で…。
それを察して、シンジは慌てて口を開く。
「う、うん。でも、アスカ…」
「何よ! これ以上うだうだ言うんだったら…」
そうじゃなくて、とシンジは首を振り、アスカの背後を指差して、
「その、トイレ。今、ペンペンが入っていったみたいだけど、いいの?」
「………え?」
バタン。…ガチャ。
背後から、トイレのドアが閉まる音と、カギのかけられる音。
アスカは弾かれたように振り返り、
「ぺ、ペンペン!? って、ちょ、ちょっとアンタ!
鳥類の分際で何いっちょ前に人間様のトイレ使ってんのよ!
こ、こら! カギ開けなさい! 開けなさいってのに、こらぁ!!」
さっきまでの真面目な顔はどこにいったのか。
ペンギン相手に本気で怒鳴り散らすアスカの目が、少しずつ据わっていく。
そこに危険の匂いをかぎとったシンジは、
「あの、それじゃぁ、僕は、もう行くから…」
一応小声でそう断って、抜き足差し足でその場を離れ始める。
「いーい、ペンペン。冗談とかじゃなく、アタシは限界なの!
感情的にも、その、…せ、生理的にも、ね。だから……、
って、聞いてんの、アンタ! ……く、そうだシンジ!
アンタも黙ってないで、何か…っていない?!
逃げたわね! 後で覚えてなさいよ!」
聞こえてきた言葉に、シンジはびくりと肩をすくませながら、
「とにかく早くしてよ! 漏れちゃうでしょぉ!!」
アスカのいつもと変わらぬ賑やかな様子に、わずかに頬を緩めたのだった。

233: 2008/08/06(水) 01:55:38 ID:???

しばらくして、アスカが居間に戻って来た。
「あ、おかえり。
よかったぁ。その様子だと、無事に…」
言いかけたシンジに、ゴン、と無言で拳骨をお見舞いすると、
頭を抱えて倒れ伏したシンジの前に仁王立ちして、
アスカは言った。
「……で?」
ストレートかつ、端的に。
「で?、って、何が?」
だが、それで伝わるシンジではない。
能天気に首をかしげ、疑問符を浮かべる。
それに、かぶせるようにして、
「アンタ、ファーストと仲直りしたいんでしょ?」
「え…?」
アスカはやはり、直球なことを言って、
「そ、その、それは……」
シンジの言葉を詰まらせる。
――こうしてアスカとは普通に話せるようになっても、
シンジは別に立ち直ったワケでも、開き直ったワケでもなく、
いまだ、レイに歩み寄る自信も勇気もないのだ。
口ごもるシンジに、焦れたように、
「いいわ! だったらアタシが協力してやるわよ」
「えっ? アスカ、が…?」
アスカがそう宣言して、シンジを驚かせる。
シンジの驚き様に、『じゃあさっきアンタとしてた話はなんだったのよ!』
という思いが一瞬、アスカの表情に出るが、懸命に制御して、
「どうせアンタだけじゃ、色々考えるだけで動けやしないんでしょ。
ファーストと二人きりになるまでは、アタシがサポートしてやるから、
――アンタはその時、何を言うかだけ考えときなさい」
まるで決定事項のように、そう告げる。

234: 2008/08/06(水) 01:57:05 ID:???

「ちょ、ちょっと待ってよ、アスカ!
いきなり、そんなこと言われたって、心の準備が…」
シンジは当然、狼狽するが、
対照的にアスカはいつも以上に落ち着いていた。
「だから、それを今しときなさいって言ってるのよ」
静かな口調で、シンジをたしなめるように、
「うまく行くかどうかなんて、正直アタシにだって分からないけど、
せめて、後悔だけはないようにしてもらうわ。
そうじゃなきゃ、わざわざアタシが骨を折る意味がないもの」
言葉の中身とは裏腹に、アスカの口調はどこか気遣わしげで、
それが逆にアスカの本気をシンジに思い知らせた。
……逃げ道を塞ぐアスカの言葉が、シンジの心の声をえぐり出す。
「そんな、待って、無理だ、無理だよ…。
分からないんだ。綾波に会って、何を言えばいいか。
自分がどうしたいのかも、分からないんだよ…!」
半ば叫ぶように訴えるシンジを、しかしアスカは冷たく見下ろした。
「ほんと、バカね。分からないから、考えるんでしょ。
考えることからも逃げてちゃ、答えなんて見つかるはずないわよ」
その言葉に、シンジはうつむくしかない。
「分かってる。それは、分かってるよ。だけど、僕には……」
そうして、うなだれるシンジに、
「でもアンタは、アタシの名前、ちゃんと呼べたじゃない」
「え…?」
意外なほど暖かい声が降り注ぎ、シンジは目を見開いてアスカを見上げる。
アスカはそんなシンジの肩をつかんで、
「ほら、しゃんとする!」
「あ、アスカ…?」
シンジを半ば無理矢理立ち上がらせ、視線を合わせるように、
その目を覗き込んだ。

235: 2008/08/06(水) 01:58:00 ID:???

「いいからもう一度、徹底的にやってみなさいよ。
精一杯やって、それでもうまくいかなかったら……」
「うまく、いかなかったら?」
シンジのオウム返しの言葉に、アスカはにやりと笑顔を作り、
「その時は、アタシがあの澄ました顔に一発ガツンとやってやるから」
「そ、それは…」
強張っていたシンジの顔が固まった。
「そもそもアタシ、ファーストのこと、キライだし。
……そうよ! アタシがあんな奴のために何かするなんて、
本当はすっごくイヤなんだからね!
ただ、アンタにはこの前の借りがあるから…」
勝手に盛り上がるアスカを、シンジは呆然と眺め、
やがて、そのまま力なくその場に座り込んだ。
「……アスカは、勝手だよ。
僕の都合なんて、全然考えてくれない」
「それは…っ! ……ううん。分かってるわよ。
一方的なこと言ってるって言うのは。でも、それでもアタシは…」
唇を噛み締めるアスカに、シンジは初めて自分から目を合わせ、
「……だけど、ありがとう」
そう告げたシンジの顔には、笑顔が浮かんでいた。
それはほとんど苦笑としか言えないような苦い笑いで、
だけどそれでも、それは確かに笑顔には違いなかった。
「どこまで出来るか分からないけど、やれるだけやってみようと思う。
……アスカのこと、頼りにしておくから」
一瞬、なぜかぽかんとシンジを見ていたアスカだったが、
すぐに我に返る。そして、
「当っ然! このアスカ様に任せておきなさいよ!」
いつもの不敵な笑顔で、そうシンジに答えたのだった。

――それから、

236: 2008/08/06(水) 01:59:19 ID:???

「――ねぇファースト。アンタに大事な話があるのよ。
だから、次の休み時間にでも、屋上に…」
「イヤ」
……即答だった。
翌日の学校。シンジが見守る中、レイに近寄っていったアスカは、
数秒も経たずに撃墜されていた。
(あ、アスカぁ…!)
後ろで見守るシンジの声なき声にプライドを刺激されたのか、
それは分からないが、当然この程度で引き下がるアスカではない。
「あ、アンタね! 用事が何か聞いてから…」
いきりたって、何か言おうとするが、
「碇くんにたのまれたの?」
機先を制した質問に、思わず、
「ちがっ…! シンジは関係な…」
と言ってしまい、
「そう。関係ないのね」
「…ぅう!」
致命的な言質を取られてしまう。
シンジであれば、この時点で勝負は決していただろう。
だが、アスカは食い下がった。
「か、関係ないっていうのはそういう意味じゃないわよ!
つまり、話があるのはシンジなんだけど、
シンジに頼まれたワケじゃなくて、」
「そうね。彼、そんなことする人じゃないもの」
「ッ――!!」
アスカの話の途中に入れられた横槍の言葉に、
挑発と知りつつアスカはぎりっと歯ぎしりする。
そして、今にも怒りを爆発させてしまいそうに見えたが、
(アスカ! 頼むから抑えて…!)
必氏で念を送るシンジの期待に応え、アスカは何とか思い留まった。

237: 2008/08/06(水) 02:00:09 ID:???

呼吸を整えて、アスカはもう一度、
レイに向き直る。
「……とにかく。
シンジがアンタと話をしたがってんのよ。
だから…」
そして、またしてもレイは、
アスカが最後まで言い終える前に、
「そう。なら、碇くんに伝えて」
その言葉をさえぎり、アスカの言葉を封じると、
明らかに、その視線の向ける先をシンジへと変えて、

「――迷惑だ、って」

掛け値なしの拒絶の言葉を、吐いた。

238: 2008/08/06(水) 02:04:44 ID:???

「……悪かったわよ」
失敗したくせに、なぜかふてくされたような口調で、アスカはそう言って、
「あ、あのさ。任せておいて、って言ってたけど。
もしかして、綾波を呼び出す方法、特別に考えてたワケじゃなくて…」
「うっさいわね! 悪かったって言ってんじゃない!
……大体ねぇ、相手はたかがクラスメイトよ!
そんなの呼び出すのに、特別な作戦なんてフツー考えないでしょ!」
おずおずと尋ねたシンジに、無策だったことをバラし、あっさりと逆ギレした。
「でも、それで失敗してるんじゃないか…」
それでもさすがに収まりがつかないのか、さらに文句を言うシンジに、
「あーあーあー! 聞こえない。聞こえないわ」
と大人気のない対応をしてみせてから、一瞬、
何か考えるような表情になって、
「でも、脈はあると見たわ」
そんな言葉を言い放った。
「どこがさ!? 思いっきり嫌がられてたじゃないか!」
しかしその言葉はシンジには妄言としか思えない。
シンジは思い切り叫び声を上げるが、
「そこよ。アイツがあんな感情剥き出しにするなんて、
そうそうあることじゃないわ。
それだけアンタを意識してるってことじゃない」
アスカはあっさりとそれを受け流し、自説を展開する。
だが、それをシンジが簡単に信用出来るはずもない。
「それって……それだけ、僕と話すのが嫌だったんじゃないかな…」
思わず口から出た弱気なシンジの言葉に、
「まあ、そうとも言うわね」
あっさり首肯するアスカ。
「そうとも言う、って……」
もはやシンジには言葉もない。

239: 2008/08/06(水) 02:06:55 ID:???

「しかし、困ったわね。
ファーストだってもうアタシを警戒してるだろうし、次は…」
「……ごめん。もう、いいよ」
何かを言いかけるアスカから、微妙に視線を外しながら、
「このままムリヤリ話をしたとしても、きっといい結果にはならないよ。
もしかすると、時間が解決してくれるかもしれないし、今日はこのまま…」
「ダメよ!」
口にされたシンジの弱気な提案は、アスカの怒声に一蹴された。
「いーい? これはもうアンタだけの問題じゃないのよ。
アンタが頼んで、アタシが引き受けた。
一度受けた以上、これはアタシが取りかかった作戦、ミッションよ。
失敗は絶対に許されないの!」
「そんなぁ、メチャクチャだよ…」
ワケの分からない理屈を並べられた上、いつのまにかシンジが頼んだことになっている。
シンジとしてはたまったものではないが、おまけに、
「もう色々考えるのも面倒ね。……シンジ。アンタ、行ってきなさい」
今までの議論全てを覆すようなことを口にされ、さすがに抗議の声をあげる。
「え、ええっ? さ、最初と言ってることが…」
「ほらほら。次の休み時間でいいから、ファーストに話しかけて来なさいよ」
「だ、だからそれが出来ないから…」
「うるさい! そもそもアンタの問題でアタシが頭悩ますってのが間違ってるのよ。
だから、アンタが行きなさい。……ほら、もう休み時間も終わるわ。
分かったら、さっさと席に戻りなさいよ」
最後まで横暴なアスカは、問答無用でシンジを追い払う。
――だが、ぶつぶつと言いながらシンジの背中が遠ざかると、アスカの表情も変わった。
能天気にも見えたその顔には物憂げな色が深まり、鋭さを増したその視線はシンジを離れ、
もう一人のチルドレン、綾波レイの元へと向けられる。
その目に捉えるのは、頑なにこちらを、シンジのいる方を向こうとしない、その姿。
「ふん。まるでハリネズミみたいにツンツンしちゃってさ。
……一体何を怖がってんのかしら、あの能面」

245: 2008/08/07(木) 00:43:29 ID:???


次の授業が終わり、休み時間。
シンジが次の授業の教科書を用意していると、
「でっ…!」
顔面に、消しゴムの欠片が飛んでくる。
涙目になって飛んできた方向を見ると、しかめ面をしているアスカが、
手の動きでレイの方を指して、「行け!」と命令していた。
(無視、するワケにも、……いかないよなぁ)
仕方なく、シンジは席を立ち、まだ自分の席にいる綾波の隣までやってくる。
それだけで、心臓がばくばくと高鳴り、足ががくがくと震える。
だがそれをどうにか押さえつけ、口を開く。
「あ、綾波ぃ!」
……見事に裏返った声が出た。
それでも頑としてこちらを見ようとしないレイに向かって、
シンジはとにかく話を切り出した。
「あ、綾波に、は、話があるんだ」
今度は少し、きちんとした声。
だが、
「そう。でも、わたしには話すことはないから」
レイはそう言って、立ち上がってしまう。
カバンを手に取って、そのまま教室を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこか行くなら、僕も一緒に…」
シンジは何とか食い下がろうとするが、
「……お手洗い。いっしょにくるの?」
「え? あ…」
口ごもる。
まさか、一緒に行くと言えるはずもなく、
「あ、あの、ごめ…」
狼狽するシンジをあいかわらずの冷たい視線で一瞥し、
レイはスタスタと教室を出て行った。

246: 2008/08/07(木) 00:45:00 ID:???

今日はやけにトイレ絡みの失敗が多いなぁ、とシンジが落ち込んでいると、
更なる不幸の元が向こうから歩いてきた。
肩を落としているシンジにあてつけるつもりはないだろうが、
こっちは肩を怒らせ、ドスドスと大股に歩いてくる。
「あ、アスカ、その…」
とりあえず何か弁解しないと、と思い、シンジは何か言いかけるが、
「バカ! 何で行かせちゃったのよ!」
その言葉を最後まで待たず、アスカはシンジを怒鳴りつけた。
「え? でも、トイレだって……。
まさか、ついていくワケにはいかないし」
アスカは「キィー!」とか何とか、いささか前時代的な感のある奇声を発し、
「なぁんでアンタはそんなに間が抜けてんのよ!
トイレ行くのに、カバン持ってくはずないでしょ!」
「あ、そういえば……」
そんなことは、全く考えていなかった。
「逃げたのよ。たぶん行き先は、NERV本部か自宅か…」
「えぇ…? で、でも、綾波に限って……」
シンジの口から情けない声が出る。
レイに嘘をつかれるなんて、シンジの想像の埒外だった。
しかし、そんな甘い希望を打ち砕くように、アスカは断言する。
「アンタがファーストのことをどう思ってるかは知らないけどね。
ファーストが歩いていったのは、少なくともトイレとは逆方向だったわよ」
「そ、そんなぁ……」
こんな状況で、アスカが嘘を言うとも思えない。
レイに逃げられたことや、アスカの言葉云々よりまず、
シンジはレイに嘘をつかれたことに落ち込んだ。
(そんなに、そこまでするほど、僕と話したくないの? ……綾波)
その時、消沈したシンジとシンクロするような声が、
「アンタ、そんなに…」
目の前から聞こえた気がして、シンジは顔をあげた。

247: 2008/08/07(木) 00:47:04 ID:???

ハッと口元を押さえるアスカを見上げて、シンジは眉をたわめる。
さっきの言葉は、アスカが言ったのだろうか。
「ねぇ、アス…」
確かめようと、シンジが何か疑問の声を発する前に、
「だからまぁ、そんなに気を落とすことでもないんじゃない、って言ったのよ」
アスカとしてはめずらしく、どこか優しげな口調で、そう先回りして答えた。
「え? で、でも……」
「アンタの言う通り、お互いに距離を取った方がいい時期ってのはあるわ。
冷静に見てみると、今がその時なのかもしれないわね」
百八十度方針を変えたアスカに、シンジは目をぱちくりとさせる。
もちろんそれは、シンジにとっては都合のいい言葉で、でも…、
「…でも、アスカは、いいの? 作戦は絶対失敗出来ない、とか言ってたのに…」
様子をうかがうように、上目遣いに尋ねてくるシンジに、
アスカは薄く笑って返した。
「ファーストのこと、これからも時々なら相談に乗ってやるわよ。
ま、長期戦、ってことね。そうしたら、作戦失敗ってことにはならないでしょ」
あいかわらず、シンジには分からない理屈だったが、
言葉から、アスカの労わりが心に染みてくる気がした。
「それとも、何? 今から追いかける? アタシはそれでもいいわよ」
アスカの言葉に、シンジは首を振る。
今のシンジに、とてもそんな気力は残ってなかった。
「でしょ。……さぁってと、今日くらいなら、アタシも付き合ってやってもいいわよ」
「付き合う、って何に?」
きょとんとするシンジに、アスカはあっけからんと。
「そりゃもちろん、シンジがファーストに振られた残念会よ」
「ふ、振ら……ってまだ振られてないよ!
というより、だからそんなんじゃないってば!」
シンジは真っ赤になって叫ぶが、そんなものはまるで取り合わず、
「はいはーい。お大事にぃ…」
シンジを慌てさせるだけ慌てさせ、アスカは勝手に遠ざかっていく。

248: 2008/08/07(木) 00:51:22 ID:???

そんなアスカを、シンジは怒りにも似た面持ちで眺め、
(……でも、きっとアスカなりに僕を励まそうとしてくれたんだよな。
一応お礼、言っておいた方がいいのかな?)
それだってうまく持続させられず、一言だけでも声をかけようと、
アスカの背を追いかける。
すぐにアスカに追いついて、何か声をかけようとした、その時に、
「……分かってる、自分でも。優しいフリして、つけこんで、遠ざけようとしてる。
アタシは、卑怯だわ。でも、仕方ないじゃない。だって…」
小さくそんな言葉が聞こえた気がして、シンジはかけようとした言葉を留めた。
しかし、黙っているのも気が咎め、
「あ、あの、アスカ? 今、何か言った?」
やはり声をかけると、アスカが一瞬、全身を強張らすようにして動きを止める。
が、すぐに振り向くと、シンジと目を合わせ、穏やかすぎるほど穏やかな顔で、
ゆっくりと左右に首を振った。
「ううん。何も言ってないわよ。……シンジこそ、何か聞こえたの?」
あまりにも穏やかで、ひどく優しいアスカの顔に、不自然なものを感じながら、
「う、うん。でも、気のせいだったのかもしれないや。
僕も、ちゃんと聞いてたワケじゃないから」
シンジもそれに、笑顔で答える。決してそこに、踏み込まない。
――そうするだけの勇気と覚悟は、レイの言葉に吹き散らされて戻ってこない。
「…そう。なら、いいけど」
二人の間を流れる空気は、不自然に穏やかなまま。
「それで何か、用事なの? 何か言い忘れてたことがあったなら、アタシも…」
「あ、い、いいんだよ。ただ、色々ありがとう、って言おうと思っただけで」
その言葉を聞いて、なぜか驚いたような、傷ついたような顔をするアスカを、
なぜかこれ以上、見てはいけない気がして、
「そ、それだけだから、それじゃ…!」
シンジは慌てて背を向け、その場を離れる。
まるで目に見えない何かに、追い立てられてでもいるように……。

249: 2008/08/07(木) 00:52:38 ID:???

アスカから離れ、シンジは何の気なしに窓際へと進んでいく。
だから、そこから窓の外を見ようと思いついたのはほんの偶然で、
強いて言うならちょっとした未練だった。
レイが教室を出て行った時間から考えると、
彼女はとっくに学校の敷地の外にまで出ているだろうし、
あのレイが嘘をついてまで校舎を出たのだから、
わざわざ教室から見えるような場所を通るはずなんてない。
そう、思ってはいたのだが、
「―――ッ!」
休み時間の、誰もいないはずのその場所には、はっきりと一人の少女の姿があった。
そこに見えたのは、紛れもなく蒼い髪の……

「綾波っ!」

考えるより先に、口が動いていた。
シンジの叫びと同時に、レイは身をひるがえす。
逃げ出すように、走り去っていく。
(僕に、気づいた? いや、今、見つけたというより、むしろ…)
シンジが窓から下を見た瞬間、
そこに立っていたレイと、目が合った気がした。
つまり、

(――綾波は、僕を見ていた?)

そう考えるのが、自然な気がした。

250: 2008/08/07(木) 00:53:22 ID:???

「あや、なみ…!」
知らぬ間にぐっと食いしばった口から、その名が漏れる。
理由も分からず、心臓が早鐘を打つ。
なぜかじっとしていられず、シンジは自分を押さえ込むように、
あるいは駆け抜ける悪寒をこらえるように、体の前で腕を交差させる。
無意識の内に、自分の制服の袖を、跡が出来るほどに強く、握り締める。
(なんで、こんな……。
関係ない、関わりたくない、って、
綾波のことは放っておこう、って、
そう、思ってたはずなのに……)
自問する。
その、答えは……
(……綾波が、僕を見てたから?)
いや、それだけじゃない。
この熱さの源泉は、そこじゃない。
(だったら、僕は…)
遠目に一瞬だけ見えた、レイの姿が、
その表情が、シンジの脳裏によみがえる。
(……あぁ、そうか)
そして突然、シンジは理解した。
もちろんそんなもの、目の錯覚かもしれないし、
シンジの願望が作用して、そう見えただけかもしれないし、
あるいはもっと単純に、ただの気のせいだったのかもしれない。
それでも、シンジは思ったのだ。

――こちらを見ていたその赤い瞳が、ひどく寂しそうだ、と。

そしてそれだけで、シンジの腹は決まった。

251: 2008/08/07(木) 00:54:18 ID:???

考えていたのは、たぶんほんの数秒にも満たない間。
シンジの異変に気づいたトウジが近づいてきて、
「センセ、どない…」
そう言いかけた時には、シンジはもう動き始めていた。
「ごめんトウジ! 今日は早退するから…!」
自分の席に駆け寄って、一瞬、考えてから、
「これ、頼むよっ!」
自分のカバンをトウジに放り投げる。
受け取ったトウジは目を白黒させて、
「ちょ、待たんかいシンジ! こんなもん、どないせえって…」
しかしもうシンジは聞いていない。走り始めている。
止まれない。止まるヒマはない。
「……ごめんっ!」
最後にせめてそれだけ言って、教室を飛び出していった。

残されたのは、カバンを手に呆然とするトウジに、
状況を悟ってメガネを光らすケンスケに、
突然のシンジの行動に、事情も分からず騒然となるクラスメイトに、
それを抑えようと、必氏で声を張り上げるヒカリ、

そして、そして――

252: 2008/08/07(木) 00:55:34 ID:???

「……ごめんっ!」
叫びながら走るシンジは一瞬、アスカの目の前をかすめ、
しかしそれにも気づかないまま、教室を飛び出していく。
――アスカはそれをじっと、瞬きもしないまま、じっと見ていた。
自分の目の前を通り過ぎていくシンジを見送って、
シンジの巻き起こした風と怒号もまた、アスカの前を通り過ぎて、
それからようやく、アスカはぼそりと呟く。
「……何よ、バッカじゃないの。
怖いとか、分からないとか、さんざん言ってたくせに……。
いざとなったら、アタシのこと、気づきもしないで」
そうしてアスカは、本当の愚か者が誰なのか、自分に染み込ませるように、
「……バカ。ホントバカね、アスカ」
ゆっくりと、自嘲に満ちた表情を作り、その顔を決して誰にも見られないよう、
深く深く顔を伏せた。
そんなアスカを、嘲笑うみたいに、
「お、ナニナニ? 愛の逃避行?」「碇くーん! しっかりね!」
「碇ぃ! 綾波は左行ったぞ!」「なんや分からんけど、きばりやセンセぇ!」
窓際で沸き起こる、無責任な喧騒に背を向ける。
今窓に近寄れば、アスカはつい外を覗き込んで、シンジの姿を探してしまう気がした。
だから、代わりに、かすれた声でシンジを励ます。
「行きなさいよ、シンジ。答えなんて、最初から出てたのよ。
それがアンタの、本当にやりたかったことなんだから…」
言いながら、そう心の底から思いながら、けれどアスカは、
窓に、シンジに背を向けて、決してその姿を直視しようとしない。
だってそんなもの、認められるはずがない。
「――これじゃまるで、道化じゃないの、アタシは…!」

だが、そんなアスカの呟きなど、届くはずもなく、
一途にひた走る背中は見る間に、迷いなく遠ざかっていく。
……ただ一人の少女の、姿だけを求めて。

287: 2008/08/10(日) 01:50:00 ID:???


校舎を飛び出して、途中クラスメイトの声援を受け、シンジは走り続けた。
自分の頑なだった気持ちや、傷つきたくないという思い、
そんな物が、錯覚かもしれないレイの視線一つで砕けてしまったのが、
なぜかひどく愉快だった。
もはや後先は考えない。
勢いだけでもいい。たとえ今日のことをいつか後悔するとしても、
その後悔すら受け入れてやろうと、そういう気持ちだった。
(綾波は……)
学校の外に出て、シンジは反射的に辺りを見渡す。
確かケンスケの声が、左に曲がったと教えてくれたが、
そこから綾波の目的地を逆算して……と、そんな風に考えていたのに、
「――っ!?」
探していた人は、そこにいた。
「あ、綾波っ?!」
シンジから、十メートルも離れていない場所で、
カバンを両手に、所在なさげに立っていて、
「いかり、くん…?」
魂を抜かれたような顔で、シンジがこの場にいるのが信じられない、
というように、目を見開いている。
だが、それも束の間、
「あ、あの、綾波…っ!」
シンジが話を切り出そうとしたのを察知すると、
くるり、踵を返し、奥へと消える。
だが、シンジも逃がさない。今度ばかりは逃がすつもりはない。
レイの後を追って、角を曲がる。
追いすがって、至近距離、レイまで三メートル。
「――っ?」
振り返ったレイが言葉にならない驚きの声をあげる。

288: 2008/08/10(日) 01:52:01 ID:???

レイの顔には、シンジがほとんど見たことがないような、
驚愕と狼狽が浮かんでいるようにも見えて、
シンジはとうとう、レイをつかまえたと思った。
だが、レイのそこから先の決断は、シンジの予想を越えて迅速だった。
いささかの逡巡もなく、手にしたカバンを放り捨てる。
宙を舞ったカバンが近くの植え込みに落ちるのも、最後まで確認せずに、
「………っ」
カバンという制約が消えて一層身軽になったレイは、
さっきまでとは違う、本気の速度で走り出した。
「ま、待ってよ!」
などという声には、耳も貸さない。
「……くっ!」
だが今回ばかりは、シンジも弱音は吐かない。
そんなことで、足を止めたり、引き下がったりはしない。
――当然、追いかける。
そして、振り返ったレイは、それを確認して、
「……」
全速力だと思っていたレイの速度が、さらにあがる。
「綾波! 僕は話がしたいんだよ! 綾波!」
シンジはレイの背中に向かって、もう一度制止の言葉を投げかけるが、
レイはほんの時折、後ろを振り返ること以外に余計なことは一切しない。
ひるがえるスカートも気にせずに、ひたすらに走る。
(……説得は、無理? なら、追いついてつかまえるしか!)
それを見て、シンジは口をつぐみ、あらためて地を蹴る足に力を込める。
今度こそ、たぶんお互いに全力。こんな速度で長く走れるはずもないが、
こんな街でもし一度姿を見失えば、もう一度見つけるのは難しいだろう。
つかまったら終わりなレイだけでなく、シンジにとっても後がない。
……だからこその、全力。
そうして、シンジとレイの本気の追いかけっこが始まる。

289: 2008/08/10(日) 01:53:25 ID:???

さすがに男子であるシンジが、レイより走るのが遅い、
などとは思わないし、思いたくない。だが、
(……速い!)
シンジとレイの距離は、縮まるどころか広がる一方だった。
――普通、グラウンドと同じようには、街の中は走れない。
それは、地形の凹凸や、車道や人が障害物になるだけでなく、
状況や周りからの視線が意識を散漫にさせ、集中を阻害するからだ。
――だが、レイは違った。
他人の目がある市街地を走ることに対して、一切遠慮や照れがない。
人の視線などというものを、全く問題にしていなかった。
時々すれ違う人に接触しそうになり、罵声を浴びせられても、
何の反応も返さない。謝罪はもちろん、視線を返すことすらしない。
それは彼らを無視しているのではなくて、きっと本当に、意識の端にも上っていないのだ。
……想像するだけで、鳥肌が立つほどの一途さ、ひたむきさ。
今、たぶんレイの頭の中には、逃げることしか、ない。
何が彼女をそこまで駆り立てるのか、そもそもどうしてシンジから逃げるのか分からない。
分からないが、
(……追いかける!)
シンジを動かす想いだって、そう軽いものではなかった。
今だけは、衝突を避ける生き方を捨て、目を丸くする通行人を無視して、
シンジはとにかくレイを追った。
だが、意識してねじ伏せるのと、端から問題にしていないのでは、
やはり速度に差が出てくる。
最初、レイがカバンを捨てた時は三メートルほどにまで詰められていた距離が、
今はもう、十メートル以上開いてしまっている。そして、
「!? すみませっ…!」
ドン、と道を歩いていたサラリーマン風の男にぶつかってよろけ、
次にシンジが視線を戻した時には、
「いない…?」
綾波の姿は、シンジの視界から消えていた。

290: 2008/08/10(日) 01:55:20 ID:???

しかし、パニックになりかけたのは一瞬。
「綾波だってスーパーマンじゃないんだ。
ただ、僕が見てない間に角を曲がっただけ。
だから…」
すぐに起き上がり、レイが消えた曲がり角まで走る。
……ここまではいい。
問題は、
「右か、左か、どっちだ?」
左右を見渡す。
どちらにも、レイの姿はない。
――考える。
ここで間違えたら、レイを追うのは絶望的になる。
だから、ゆっくり冷静に。
シンジにはもう、自分がどこにいるかなんて分からない。
レイだってきっと、目的地を定めて逃げていたワケじゃないはず。
なら、道を決めたのは、この道がどこにつながっているか、ではない。
焦る心をなだめながら、もう一度、観察する。
右の道は長く、一本道だ。
途中でビルの中にでも入らない限り、遮蔽物がない。
いくらなんでも、この短時間でレイがこの道を最後まで駆け抜けたとは思えない。
だったら、
「……左だ!」
シンジは左の、途中に横道のある短い道を選ぶ。
レイはこっちに向かって走って、途中でどこかの路地に入った。
そうとしか考えられない。
シンジは迷いを振り捨てて左の道に足を踏み出した。

……だが。
走り抜けたその先、そのどこにもレイの姿はなかった。
――シンジが選んだ道は、完全に不正解だった。

291: 2008/08/10(日) 01:57:39 ID:???

シンジが左の道を選んで、駆け出した直後。
ほんの数秒前、シンジが走り抜けたその道に、レイがひょい、と顔を出す。
――正解は、右の道でも、左の道でもなかった。
シンジが人にぶつかってバランスを崩し、レイを見失ったちょうどその時、
レイは最後まで道を進まず、狭い脇道に入り込んでいた。
……目だけで左右を見渡し、シンジの姿がないのを確認すると、
レイはさっと路地から身を抜け出して、元来た方向へと駆け出す。
悲鳴をあげる体を無視して、学校への道を戻るように、いくつかの角を曲がり、
……レイは不意に、立ち止まった。
「わたしは、なにをしているの…?」
強く、胸を押さえる。
頭が冷静さを取り戻すと共に、限界を越えた体がふらりと傾ぐ。
それは軽い貧血の症状で、今さらそんなもの、騒ぎ立てるつもりもないが……、
よろめいたその先、ガラスに映った自分の姿に、つい目を向けてしまう。
「……滑稽ね、わたし」
痩せこけてみすぼらしい体に、味気なく無表情な顔が載っていて、
なのにその目だけは赤く、炯々と光っているのだ。
全身で世界を拒絶して、全身で生きることを投げ出しているようでいて、
その目だけが全てを裏切っている。
その瞳は、まるで追い詰められて怯えているようにも、
狂おしく何かを求めているようにも見えた。
「……なぜ、そんな目をするの?」
鏡越しの自分に問いかける。
しかし問いかけの言葉は、ただ自分に返って反響し、

――だが、わからない。わからないのだ、自分でも。

自分を肯定して欲しいくせに、自分が認められるのが怖くて、
人形を演じるしかないと決めたくせに、その務めすら放り出して、
こうして無様に逃げ回っている。

292: 2008/08/10(日) 01:59:26 ID:???

――しかし、なればこそ、
いつまでもここで呆けている訳にはいかなかった。
「く、ぅ……」
ふらつく体を立て直す。乱れた呼吸を整えて、
狂ったビートを刻む心臓の音をなんとかなだめる。
理由の分からない胸の疼きには気づかないフリをして、
綾波レイは再び歩き出す。
無言で来た道を戻り、一つの植え込みの前で足を止めた。
そこに一つの影を認め、何のためらいもなくその植え込みの中に、
自らの左腕を差し込む。
「……っつ」
腕をつつく枝や葉に、ほんのわずかだけ苦痛の色を見せて、
しかしその間も腕は遅延なく動作する。
まもなく、レイは茂みに放置されていた自分のカバンを取り出した。
目的の物を手に入れ、立ち去ろうとしたその時に、

「つ、つかまえた…」

後ろから、聞こえるはずのない声。
だがしかし、今、レイの右手をつかむ、この手の主は……
「碇、くん…?」
振り向いたその先に、確かに彼はいた。

碇シンジが困ったようにはにかみながら、そこに立っていた。

293: 2008/08/10(日) 02:44:56 ID:???


だが、レイの顔を彩る一瞬の驚きが過ぎ去ると、
レイはすぐにシンジがこの場にいる理由を察したようだった。
「……そう。まちぶせていたのね、ここで」
その言葉に、シンジはうなずく。
「うん。ここにいれば、綾波はきっと戻ってくると思ったから」
レイを見失ったと気づいたシンジは、すぐに決断した。
路上の標識や地図を頼りに、すぐに学校まで戻り、
そこからレイがカバンを投げ捨てた場所までやってきた。
……正確には、そこでカバンを取ろうとしているレイを見つけただけで、
待ち伏せていたのではなかったのだが、細かい訂正はしない。
それよりも、今は、
「話を、聞いてほしいんだ」
レイの右手をつかんだ手に、わずかに力を込める。
「……わたしは、聞くつもりはないわ」
振り払おうと揺すられる手にすがるように、
シンジはレイの右手にもう一方の手も重ねる。
「僕には、あるんだ」
シンジはそう言いながら、強い想いを乗せて、レイの瞳を見据えた。
その突然の行動にレイは一瞬、戸惑ったように目を逸らし、
だが次の瞬間には倍加した鋭さでシンジを射すくめる。
「…はなして」
冷たく戻った口から、そんな言葉が漏れる。
「は、放さないよ」
どうしようもなく気圧されながら、シンジは必氏に首を振る。
「…どうして?」
「ど、どうして、って…」
あまりに当たり前の質問に、わずかにどもってから、
「は、放したら、綾波はまた、逃げるじゃないか」
やはり当たり前の答えを返した。

294: 2008/08/10(日) 02:46:18 ID:???

だが、シンジの言葉に、レイは首を振った。
「にげないわ」
「……本当に?」
シンジの質問に、
「ええ」
今度はうなずく。
こちらを直視してくる瞳に、揺らぎがないことを確かめて、
「……分かった。なら…」
ついにシンジがぱっと腕を放し…た途端、レイが駆け出した。
「えぇ? あっ、待っ……!?」
驚きが、すぐに言葉にならない。
それでも反射的に伸ばされるシンジの腕を、すり抜けていき、
「――っ!?」
だがその直後、レイは足をもつれさせ、転倒した。
「綾波っ!!」
シンジが悲鳴のような声をあげ、駆け寄る。
レイは地面に手をついていて、どうやら頭を打ったりはしていないようだが、
すぐには立ち上がれないようだった。
「だ、大丈夫?」
そんな気遣わしげなシンジの言葉を、こんな時でもレイは、拒絶しながら、
「問題、ないわ…」
一人で何とか、立ち上がろうとする。だが、
「問題ない、って…」
そんなはずはなかった。
シンジはレイの手を、半ばひったくるようにしてつかみとる。
「手、血が出てるじゃないか! 早く、手当てしないと…」
「…あ」
途端、レイが小さく声をあげ、数瞬遅れて、シンジも気づく。
握ったその手に、しかし、この時ばかりは気づかなかったフリをした。

295: 2008/08/10(日) 02:47:48 ID:???

シンジは、レイの手をつかんだまま、
けれど、レイと目を合わすことはしないままで、
「ごめん、今、これくらいしかないけど…」
血のにじんだレイの手のひらに、数枚のティッシュを押し当てる。
「べつに、かまわないわ。本部に行けば、医務室があるから…」
レイもまた、シンジから視線を逸らし、それでも手を放せとは言わない。
どこか冷たくなりきれない声で、弁明のための言葉を紡ぐ。
「…………」
レイは、自分の手を必氏で押さえる、シンジの手の動きを眺めながら、
「……どうして?」
自然と生まれ出た疑問を、そのまま口にしていた。
「どうして、わたしに近づこうとするの?」
――気がつくと、レイはまっすぐ、シンジを見ていた。
敵意も拒絶も、それどころか一切の意図が削げ落ちた、無垢そのものの瞳で。
それを目にして、シンジは悟る。……ここが、分岐点だと。
ここを逃せば、これ以上レイの心がシンジに近づくことはない、と。
そして、それを知って、シンジが口にしたのは、
「……分からないよ、そんなの」
ひどく、いい加減な答え。
だがそれは、シンジの本心だった。
「わから、ない…?」
きょとん、とした顔で、
「そう、なの…?」
歳相応の、いや、それ以上に幼い表情で、レイは聞き返す。
あらためて聞き返され、シンジはどこか落ち着かない風に口をとがらせた。
「そうだよ。……だって、しょうがないじゃないか。
理由なんて分からなくたって、そうしたいものは、そうしたいんだから」
その答えはもしかすると、レイにとって、想像もしていなかったもので、
「……そう。…そう、なの」
自分の中に沈み込むように、レイは何度もうなずいた。

296: 2008/08/10(日) 02:49:28 ID:???

「綾波…?」
不思議な綾波の反応に、シンジは心配そうに眉をたわめた。
とっくに血の止まっているレイの手をつかむ自らの手に、わずか、力を込める。
しかしレイは、そのことにすら、気づいた様子もなく、
「でも、わたしは……、わたしは、わからないのがこわいわ」
おそらく誰にも打ち明けたことのない気持ちを、
ぽつりぽつりと語り出す。
「碇くんといると、わからなくなる。
自分の中に、知らない自分がいるのに気づくの」
それは確かに、今までに見たことのない彼女の姿で、
「胸の中にある空っぽが、あんなにイヤだったはずなのに…。
今は、変わるのがこわい。
……空っぽじゃなくなるのが、こわい」
そっと握った手から、レイの震えが伝わってくる。
それはまるで、レイ自身の心の震え、そのもののようで、
どんな言葉より雄弁に、レイの怯えを伝えていて、
「……ごめん、綾波」
それでもシンジは、そう言うことしか出来なかった。
その言葉は、ゆっくりと時間をかけてレイに染み渡り、
やがて彼女は、
「……そう、ね」
安堵と諦観の混じった響きで、握られていた手を、離す。
レイの手が、逃げていく。
自分の手の届かない所へ、すり抜けていく。
それを、何よりも肌で感じながら、シンジは……

297: 2008/08/10(日) 02:52:30 ID:???

……シンジは、離れようとするレイの手に、ぎゅっと力を込めた。
引き止めるように、逃がさないように、……しっかりとつかまえる。
そして、驚きに見開かれた瞳に、シンジはもう一度、言った。
「……ごめん、綾波。
でも、僕はそれでも、この手を放したくないよ。
放したく、ないんだ」
その言葉、宣言に、今度こそレイは驚きに硬直する。
そうして、息を詰めて見つめるシンジの前、
レイはその視線の重みに耐えかねたように目を伏せて、
囁くほどの小さな声で、目も合わせないまま、

「わたしも…」

――それでもその手が、きゅっとシンジの手を握り返してくる。
そのささやかな感触が照れくさく、くすぐったくて、
「……うん」
なぜか突然胸が詰まって、シンジにはそれしか言えなくなる。
……だが、それで充分だった。
互いの手のひらの、確かな感触。
そのわずかな接触面から、二人の体温が溶け合っていく。
――もはや、言葉は必要ない。
どちらから、ということもなく、自然と二人の視線が交差し、そして、

「ヒューヒュー! お熱いねぇ、お二人さん!」

そんな二人をはやし立てる野次馬の声に、二人は同時に我に返った。
すぐにここが街の往来だということを思い出す。
概して他人に無関心な人間の多い都市部だということもあり、
さすがにシンジたちの周りに人が集まっているなどということはなかったが、
通り過ぎる人たちがみな、自分たちの方を好奇の眼差しで眺めているのが見えた。

299: 2008/08/10(日) 02:59:16 ID:???

シンジの顔が、たちまちの内に赤く染まる。
「わ、う、うわわわわわ?! ち、違うんだ綾波!
僕は、その、そんなつもりじゃなくて…」
弾かれるようにレイから身をもぎ離す。
そして自分がまだ、レイと手をつないだままだということを思い出し、
「ご、ごめっ…」
急いで手を離そうとして、
「え? あ、綾波?」
一層強く自分の手を握ってくる、レイの存在に気づいた。
わたわたと慌てるシンジとは対照的に、
「来て。…こっち」
レイは機敏に立ち回って、シンジの手を引いていく。

――そして、そのまま手を引かれ、シンジが連れて来られたのは、
「あ、ここ……」
レイの自宅だった。
あいかわらず郵便受けに色々な物が満載にされた無骨な扉。
それを空いている方の左手で無造作に開け放つと、
「…入って」
戸惑うシンジを、レイは招き入れる。
「う、うん…」
その言葉に導かれて家に足を踏み入れるものの、
やはり気後れして玄関で立ち止まってしまう。
「……なにをしているの?」
純粋な疑問の言葉。
だが、この状況ではそれは催促と同じだった。
「お、お邪魔します」
やはり抗い切れず、シンジは奥へと進む。

300: 2008/08/10(日) 03:08:52 ID:???

――殺風景を通り越して、殺伐とした部屋の光景は、以前来た時と同じだった。
「そうだ。すりむいた手、ちゃんと手当てしないと…」
病院に似た雰囲気に触発され、レイの怪我を思い出したシンジはそう提案するが、
「……このままでいいわ」
レイは首を振る。
「で、でも…」
食い下がろうとするシンジに、レイはもう一度首を振り、
「わたしは、」
そこで、つないだ手に、少し力を込めて、
「このほうがいい」
告げられた言葉の意味を正しく読み取って、シンジの顔が赤く染まる。
「後で本部に行ったら、ちゃんと見てもらわなきゃダメだよ」
「ええ」
それでも一応そう釘を刺して、引き下がる。
シンジが納得したのを確認して、
「待ってて。お茶、いれてくるから」
レイはシンジを残して台所に向かおうとして、
「……ぁ」
つながれた、二人の手を見る。
「…………」
お茶を淹れるためには、もちろん手を放さなくてはいけない。
当たり前のことだった。
黙ってしまったレイを見かね、シンジが先に切り出す。
「やっぱり、お茶はいいよ。
綾波も一緒にここで、ゆっくりしよう?」
「……碇くんが、それでいいなら」
「うん。……僕も、その方がいい、かな」
シンジは恥ずかしそうにはにかみながら、先ほどのレイとほとんど同じ台詞を吐いた。
――結ばれた二人の手が、さっきより少し、強くなる。

304: 2008/08/10(日) 23:43:51 ID:???

――通常、平日におけるエヴァの実験開始時刻は、
シンジたちの学校が終わる時間に合わせて設定されている。
だから、学校の途中で抜け出してきていたシンジたちには、
その時間まではもう少し余裕があった。
レイの部屋には椅子が一脚しかないため、
二人はベッドによりかかるように並んで座り、時を過ごす。
「…………」
「…………」
会話は、ほとんどない。隣にいても、お互いを見ることすら稀で、
ただ時折、シンジが左手に力を込めると、レイが右手で握り返し、
レイが右手でシンジの左手をつつくと、シンジがやり返して、
などといった、あまりにもささやかなやりとりがあるだけだった。
それでも、この状況への罪悪感に駆られたのか、
不意にシンジが口を開いた。
「……みんな、今ごろまだ勉強してるのかな?」
「……そうね」
二人、前を向いたまま、ぽつり、ぽつりと会話する。
「何だか、悪い気がするね。僕たち二人だけ、勉強、さぼって…」
「……だったら、今からもどる?」
その言葉は辛辣なようでいて、イタズラっぽい響きを伴っていて、
シンジだってすぐに、レイが本気で言っているのではないと分かった。
だからシンジも、冗談で返してみる。
「そう、だね。……が、学校でも綾波と席が隣なら、考えた、かも」
「…そうしたら、ずっと手をつないでいられる?」
「う、うん」
「………ばかね、碇くん」
たどたどしく、手探りで、会話を進める。
お互いに、慣れないことをしているという自覚はあって、
でもそんな距離感を共有しながらこんなことを言い合える関係を、
二人共楽しんでいた。酔っていた、と言ってもいい。

305: 2008/08/10(日) 23:45:15 ID:???

ただ、一つ、学校のことで本気の懸念があるとしたら、
「アスカ、怒ってるかなぁ…」
ということ。
半ば強制されたとはいえ、レイとの仲直りを頼んでいたのに、
勝手に飛び出してきてしまってよかっただろうか。
いや、仲直りのために飛び出したのだから問題ない気はするのだが、
不思議となんとなく、気が咎めるのだった。
だが、まるでアスカに気持ちを飛ばすシンジをいさめるように、
「……その話、今はしないで」
レイが、不機嫌そうに言い放った。
だが、半ば以上フリとはいえ、レイがそんな風に機嫌を損ねてみせるのも、
普通では考えられないことで、
「そういえば、アスカとはケンカ中だったね。…ごめん」
シンジはそう口では謝りながら、愉快な気持ちが込み上げるのを抑えられない。
今までずっと前を見ていたレイが、初めてシンジの方を向いて、
「……そういうの、感じわるいわ」
とこぼすのを聞いて、とうとう耐えられなくなった。
「あはははっ!」
笑い出す。
それを見て、レイはしばらくあっけに取られていたが、
「ふ、…ふふふっ」
シンジにつられるように、笑い始める。
それは努力して笑っているのが分かるようなぎこちない笑いで、
だがそんなこと、気にならなかった。
二人共、苦労して楽しんでいる人を演じているようで、
傍から見れば不自然で滑稽にすら見えたとしても、
楽しんでいる気持ちは本物だった。
――まるでママゴトのような二人の時間が過ぎていく。

306: 2008/08/10(日) 23:46:02 ID:???

笑いの発作が収まって、同時に場を支配する奇妙な緊張感が影をひそめる。
急速に弛緩する空気の中、シンジは強い眠気を覚えていた。
(そういえば昨夜、全然寝てなかったから…)
まぶたが重くなる。どうしても意識を、保っていられなくなって、
「……ぁ」
気がつくとシンジは、レイの肩に、頭をくっつけていた。
「あ、ご、ごめん…!」
シンジは慌てて、体を戻すが、
「……………ぅ、んん」
しばらくするとまた、レイにもたれかかっていた。
「ご、ごめん…!」
シンジはまたすぐ、体を離すが……、さすがに今度は、ごまかしきれない。
「…碇くん?」
気遣わしげな、レイの瞳。
至近距離で見つめるその綺麗な顔立ちに、勝手に顔面が赤くなるのを感じながら、
「ご、ごめん。気分が悪いとか、そういうんじゃないんだ。
ただ、実は昨夜、ほとんど眠れなくて…」
そう、告白する。
「…そう」
レイはうなずき、そして空いている方の手で、自分の後ろを指し示した。
「時間、まだあるわ。……ベッド、使ってもいいから」
「そ、そんなワケにはいかないよ…!」
さすがに遠慮する。いや、遠慮とかいったものだけじゃなく、
レイが普段使っているベッドに寝るなんてことは、シンジの理解の範疇を越えていた。
「……なら」
つながれた手が、ぐいっと意外なほど強い力で引かれる。
疲れていて無防備だったシンジは、為す術もなく体勢を崩し、
「――あ、や…なみ?」
何がどうなったものか、その頭をレイの太ももの上に預けていた。

307: 2008/08/10(日) 23:46:50 ID:???

そして、自分の状況を悟るや否や、
「う、うわ! あ、あの、これは、わざとじゃなくて…」
慌てて起き上がろうとするが、
「あばれないで」
レイの手に額を押さえられ、動きを封じられる。
「この部屋、代わりになるもの、ほかにないから」
代わり、というのは、ベッドの代わりということだろうか。
「だ、だからって…」
「それにこうしていれば、手を離してもだいじょうぶだから」
大丈夫、などと言われても逆効果だった。
その言葉に、レイと触れ合っていることが、一層意識させられる。
「だ、ダメだよ、やっぱり…!」
もう一度起き上がろうとするのに、額を押さえる力は意外に強く、
起き上がれない。
シンジは実力行使をあきらめ、
「あのさ、綾波。寝るんだったら、僕は別に床…」
「話していては、ねむれないわ」
「だ、だから…」
とにかく必氏で反駁しようとして、
「だまって」
……黙った。
「力をぬいて」
妙な迫力に押され、言われるがまま、力を抜く。
「目、とじて…」
ぴとり、と目の上に指が置かれる。光が完全にさえぎられた。
「あ、綾波? その…」
「だいじょうぶ。時間になったらおこすから」
このままではいけないと、起きなくちゃ、説得しなくちゃ、と思うのに、
レイの温もりが疲れた体に染み入ってきて、レイの声が、心地よく耳を震わす。
そしてそのまま、シンジは……

308: 2008/08/10(日) 23:48:41 ID:???

……レイの膝の上で、シンジはそのまま、
小さな寝息を漏らしていた。
「…つかれていたのね」
言いながら、レイはほとんど無意識の内に、
シンジの髪をなでる。
そんな自分に、驚きながら、
「……そう。これもまた、はじめての気持ちね。
今まで感じたことのない……」
そして、今度は意識的に、もう一度シンジの髪をなでる。
それは先ほどと比べて、幾分かぎこちなく、
しかしそれ以上に、価値のある行為で……。
「碇くん。あなたはわたしを、どこにつれていくの?」
ささやいた言葉に答える声はない。
しかし、レイにはそれさえも満足で、もう一度、
さっきよりは手慣れた所作で、シンジの髪を触る。
……それは、特に反応を期待した行為ではなかったのに、
刺激を受け、眠り込んだシンジの口が、小さく動く。
「――かあ、さん」
と。
レイは、その言葉に一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべ、
「おやすみなさい、碇くん」
だがすぐに穏やかな顔になって、そう呟いた。

309: 2008/08/10(日) 23:53:24 ID:???

『やっぱり疲れてたのかしら。シンジ君、完っ璧に寝ちゃったわねぇ』
『ええ。それも、良く知りもしない女の部屋の、おまけに膝の上でね。
……全く、よくもまあ眠れるものだと思うわ』
『あ、あー。ま、それはともかく、これでレイとは和解、ってことでいいのかしらね。
あの子に限っては、ちょーっち何考えてるか全然よく分からないっていうか…』
『ミサト。どうでもいいけど日本語、破綻しているわよ』
『うるさいわねぇ。言葉なんて意味が伝わればいいでしょ、べつに。
それよりこの状況、あんたはどう思うのよ?』
『どう思う、って何がかしら? 別に、見たままじゃないの?』
『そりゃ、他の子が相手だったらあたしもそう思うけど……。
あの子、複雑そうっていうか、理解出来ないところあるじゃない?』
『そう? 優しくしてくれる男に簡単になびく、とても単純な女だと思うけど?』
『……あんた。言葉にトゲがあるっていうか、なんか私怨入ってない?
中学生の小娘相手にその態度は正直どうかって思うわよ』
『あら、人の評価なんて、元を辿れば好きか嫌いか。綺麗に修飾したって根底は変わらないわ』
『リツコ先生らしからぬ暴論ねぇ。
嫌いだけど能力は認めてるとか、色々あるでしょうが…』
『認めているっていう表現自体が、既に嫌悪の中の好意を認めていると思うのだけどね。
まあ、その話はもういいわ。レイが何を考えているか、という話だったかしら?』
『そ、そうよ。それよそれ。あの子、いかにも怪しいじゃない。
シンちゃんへの態度に裏があるとは思えないけど、一体何を隠してんだか…』
『まあ、何かあるのは確かね。
でも、レイに関しては魂の変質という事で説明出来るかもしれないわ』
『魂の変質? 何よそれ。あんた、この期におよんでもまだあたしに隠しごとしてるワケ?』
『……そんな大した事じゃないわよ。
人一人に対して、対応する魂は基本的に一つだけ。知ってるでしょ?』
『当たり前よ。他ならぬあたしたちがそれを証明してるじゃない。それで?』
『別の体に入ったとしても、魂はそれを継承する。でも前の体で魂が変質していたとしたら…』
『新しい体も、その影響を受ける…? 待って、じゃあつまり、
あんたは記憶が残っているって言いたいの? この子に』

310: 2008/08/10(日) 23:54:43 ID:???
『体の記憶ではなく、魂の記憶だけどね。
とはいえ、所詮仮説よ。真実かどうかは分からないわ』
『……もうしばらく、様子を見るしかない、ってコト?』
『ええ。結局はそこに落ち着く事になるわね』
『……はぁ。こうして懸案事項だけが増えていく、って寸法ね』
『不満? でも、それが…』
『あたしたちの存在意義だ、って言うんでしょ。もう耳タコよぉ』
『まだ、一度しか言っていないわよ…』
『…う、そうだった?
ま、まぁあたしだって、そんなにワガママを言うつもりはないのよ。
シンジ君の安全と幸福のために動く。
それが、あたしたちのやるべきことなんでしょ』
『ええ、そうよ。……少なくともシンジ君の幸福が、
私たちのそれに重なっている限りは、ね』
『この、ひねくれもん』
『ふふ。……さて、あなたとのお喋りも楽しいけれど、
このくらいで切り上げなくちゃね。
ミサト、そろそろシンジ君を起こした方がいいわよ』

311: 2008/08/10(日) 23:56:42 ID:???

『え? もうそんな時間?』
『ええ、もうそんな時間よ。
今、本部にいる『私』の時計が狂っているのでなければ、だけど。
……時間になったら起こすって言ってたのに、
やっぱりあの子、意外と使えないわね』
『だから、大人気ないコメントは控えなさいってば……』
『あら、私は本当の事を言ったまでだけど』
『だっから、あんたのそういうところが…』
『はいはい。愚痴はまた後で。……とにかく、私はもう行くわ』
『行くわ、って。一緒にシンジ君起こしてけばいいでしょ。
どうせ、他にやることなんて……』
『あら、それはいつの話? 人の歩みは日進月歩。
今は私にだって他にやるべき仕事があるわ。
仕事内容は……そうね。
さしずめ、閃きという名の技術供与、という所かしら』
『ちょ、あんた、それって……』
『それに、これ以上ここにいると不愉快な映像を見せられそうな予感がするもの。
だから退散させてもらうわ。じゃ、シンジ君の監視、お願いね』
『あ、無視するんじゃないわよ、話はまだ…!
……もう、しょうがないわねぇ。
シンちゃん! シンジ君! 起きて! ほら!』

312: 2008/08/10(日) 23:58:41 ID:???

「ん? ミサト、さん?」
どうしてだか、ミサトの声を聞いたような気がして、シンジは目を覚ます。
そうして目を開けて、シンジの視界に入ってきたもの。
それは見知らぬ天井と、そして、
「綾、波…?」
ベッドに寄りかかるようにして眠る、レイの姿だった。
(綾波、寝てる時は、こんな顔してるんだな…)
ただあどけない、というのとも少し違う、
起きている時の険の強さや全方位へ向けた無関心さが抜け落ち、
どこかおっとりした、見ているとほっとするような顔をしていた。
「……ん」
シンジの声に反応したのか、レイが少し身じろぎをする。
すると当然、シンジが頭を乗せているレイの太ももだって揺れて、
「わ、うわわ…!」
その揺れと、その拍子に感じたレイの体のリアルな質感に驚いて、ずり落ちて、
ガゴン!
聞くだけで痛みを感じるような凄惨な音を立てて、床に頭をぶつける。
「い、いったぁ…」
痛みに、転げ回る。
「碇、くん…?」
その騒ぎで、起こしてしまったようだった。
レイは目をこすりながら体を起こし、すぐにハッとする。
「碇くん、時間…!」
レイの言葉に、シンジも時間を確かめた。
「あ、うん。そうだね。そろそろ、行かなくちゃ」
その言葉にレイはうなずいて、やはり自分が起こすと言っていた手前、
責任を感じているのだろう。めずらしく少し眉を寄せ、険しい顔で、
「……ごめんなさい」
少し沈んだような声で、謝った。

313: 2008/08/11(月) 00:00:54 ID:???

「いいよ。僕が先に寝ちゃったんだし、こうして起きられたんだから。
でも、めずらしいよね。綾波が、こんな…」
言いかけて、困ったような綾波の顔に、言葉を止める。
「わたしも…」
しかし、違った。困っているのではなかった。
そうではなくて、まるで共通の秘密を、打ち明けるみたいに、
「わたしも昨夜、ねむれなかったから」
少しだけ照れたように、レイがそう告げる。
「そ、そうなんだ…」
そして照れは伝染する。
レイの顔を、もうまともに見られない。
眠る前の、あの濃密な空気の中では出来ていた色々なことが、
今のシンジにはもう、出来なくなっていた。
それでも、それを認めるのは嫌で、
「じゃ、じゃあ、一緒に行こうか」
言いながら、レイに向かって手を伸ばす。
勇気を出せば、今からだって自然に手をつなげるような気がした。
だが、
「……ぁ」
シンジがレイの手に触れた途端、レイはびっくりしたように手を引いた。
それを見て、シンジもあきらめる。同時に、後悔もした。
「ごめん。嫌だった…?」
しかし、その言葉には、レイはかぶりを振って、
「イヤ、じゃないわ。でも…」
その時の、顔を反対側に向けていたレイの表情は、当然シンジには見えない。
だが、賭けてもいいとシンジは思った。

「はずかしい…から」

そう口にした瞬間のレイの頬が、羞恥で赤く染まっていたことを。

314: 2008/08/11(月) 00:03:29 ID:???

「――わたし、やっぱり先に出るわ」
あっというまに身支度を整えたレイにそう告げられて、
「…え?」
シンジは間の抜けた声を出した。
「実験スケジュール。今日、碇くん最後だから、
もうすこしゆっくりしていられるはず」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、
シンジはその言葉の中にレイの優しさを感じて、
「う、うん…」
と思わずうなずいていた。
しかし、ふと思いついて尋ねる。
「そういえば、綾波ってこういう実験の時、一番に入ることが多いよね。
それなのに、僕たちより長く本部にいるみたいだし…」
「……それは、わたしだけが協力している実験もあるから。
それに、今は実験に模擬体も使っているから…」
「あ、そうか」
ヤシマ作戦で大破した零号機はまだ修復されていない。
その間、レイのシンクロテストや訓練をするのに、リツコがずいぶん骨を折っていると、
シンジも以前、ミサトから聞いた覚えがあった。
「それじゃ…」
シンジがそんなことを考えている間に、レイはもう玄関の辺りまで出ていってしまっていて、
――だがその時、シンジはとんでもないことに気づいた。
「ま、待って! カギ、僕持ってないよ…!」
それは、それなりに大変なことのように思えたのだが、
「しなくていいわ。いつも、してないから」
あっさりと答え、レイは全く頓着しない。
「で、でも…」
尚も渋るシンジに、
「なら、持っていて」
ひょい、とレイは何かを投げ寄越す。

315: 2008/08/11(月) 00:06:25 ID:???

投げ渡されたのは、もちろんカギで、
「これ、もしかしてここのスペアキー?」
シンジの質問というより確認の言葉に、
しかしレイは首を振って、平然と、
「いいえ。カギは、それひとつしかないわ」
などと言う。
「それじゃ…」
…ぜんぜんダメじゃないか、そう、シンジは思うのに、
「持っていて」
「で、でもさ…」
「碇くんに、持っていてほしいの」
なんて言われてしまえば、受け取るより他ない。
そうして、今度こそ、
「わたし、行くわ。……碇くん。また、あとで」
扉に手をかけるレイに、
「あ、うん。……行ってらっしゃい」
そんな言葉をかける。
そのあいさつに、レイはしばし、目を見開いて、
「……いってきます」
そう律儀に返してから、外へと踏み出していく。
そして、扉が閉まる直前、

「ありがとう。……碇くんに会えて、よかった」

シンジはレイの微笑みを見た、気がした。

457: 2008/08/27(水) 02:32:56 ID:???


(あー、もう。勘弁してよぉ…)
ミサトのマンションの食卓。ミサトの前には豪勢な食事にいつものビールが並んでいて、
しかし、にも関わらずミサトは心の中で悲鳴をあげていた。
「――それでですねミサトさん。……ミサトさん? 僕の話、聞いてます?」
「ん? あ、うん。もちろん、もちろん聞いてるわよ。続けて続けて」
「そうですか? それでですね、綾波が…」
嬉々として話を再開するシンジに適当に相槌を打ちながら、
(……この話、いったい何回目かしら)
ミサトは内心では深い深いため息をついていた。
――そもそもの間違いは、今日に限って早目に帰宅してしまったことだとミサトは振り返る。
今日は色々な実験があって疲れていたはずなのに、
元気いっぱいのシンジに迎えてもらった時は、
特におかしな気配は感じなかった。
いや、それどころか、『今日は早く帰ってきてよかったなぁ』、
なんてことをのん気に考えていたのだ。
おまけに、夕食はシンジが奮発したらしくいつもより豪勢で、
『やっぱり持つべきものは料理の出来る同居人』、
などと不覚にも喜んでしまっていた。
――だが。
そんな気分は、食事を始めて一分足らずで粉々に砕け散った。
いつもは食事中一番しゃべらないはずのシンジが、怒涛の勢いで話を始めたのだ。
たぶんもう二十分以上、ほぼノンストップで。
それでも、話の内容が別の、もっと無害なものだったらまだ救いようはあった。
シンジにウィットに富んだトークを期待するのは難しいだろうが、
話し下手であってもミサトなら何とか合わせていく自信はある。
だがシンジは、たった一つの話題を無限ループでひたすら聞かせてくるのだ。
それもよりにもよって、この状況では、最悪の話題。

――すなわち、ファーストチルドレン、綾波レイの話を。

458: 2008/08/27(水) 02:36:32 ID:???

シンジの話は感情ばかり先に立ってイマイチ要領を得ないのだが、
これだけ聞かされていれば、どうやら仲違いしていたらしいシンジとレイが、
今日になって仲直りをしたことくらい分かる。
――まあ、それはいい。
ミサトだって、シンジとレイが円滑な人間関係を築ければ、
それはそれで素晴らしいことだと思う。
だが、シンジが「綾波」という言葉を発する度に苛立ちを増す、
隣の劇物をなんとかしてもらいたいのである。
(ほんと、鈍感ってのもここまで来ると罪よねぇ…)
キラキラした目でレイの話をするシンジに仕方なしに目をやりながら、
ミサトは心中でそう独りごちる。
隣には目を向ける気もしない。というか正直、怖いので見たくない。
しかしわざわざ見なくても、隣から断続的に聞こえてくる押し頃した舌打ちの音や、
確か今日三本目になる箸を折る音、手に持った茶碗がみしりと軋む音、
などなどの諸々の効果音が、アスカの今の状況を如実に物語っていた。
どうやら表面上、アスカはまだにこやかな声で受け答え出来ているようだが、
その声は隠しようもないほど所々不自然に震えていて、
耳を澄ませば作り笑顔の頬の端がひきつる音さえ聞こえてくるような気すらした。
一応隠そうとする意志は感じられるが、あまりにあからさまな不機嫌っぷりで、
こんなものを無視出来るのは、逆にもう神か仏くらいのものだろうとミサトは思う。
なのに、
「あれ? どうしたの、アスカ。お茶碗持って震えたりして……。
あ、分かった。おかわり迷ってるんだよね。
いいよ。ご飯、僕がついで……痛っ! な、なんで叩くんだよ!?
あ、そうか、今アスカ、ダイエットしてるんだろ!
だったら最初から……痛っ! なんでまた叩くんだよっ!?」
……このシンジの鈍感ぶりはどうだろうか。
何故神はこんな罪深い生き物を作りたもうたのだろうか。
というかこれ、いいんだろうか、人として……。
――などと、ミサトが思わず考え込みたくなってしまうほどのシンジの態度だった。

460: 2008/08/27(水) 02:40:00 ID:???

しかし一方、心底呆れながらも、そんな二人の様子を冷静に観察しているミサトもいた。
(――それにしても、シンジ君のこの喜び様。
いくらなんでも、少し大げさすぎる気もするわね)
シンジの話を右から左に受け流しながら、その理由を追求する。
(それは、なぜ? 綾波レイのことが好きだから?
……いえ、もっと単純か。
きっと人間関係のトラブルを自分から能動的に動いて解決したのが初めてなんだわ。
初めて自分で手にした心地よい人間関係。
……それならこの浮かれ様も納得がいく、か)
次に、横目でアスカを眺める。
シンジの話におもしろいくらい素直に反応して、苛立っている。
気になるのなら聞かなければいいのに、彼女的にはそうもいかないらしい。
(はぁ。こっちはこっちで、という感じだけど……。
でも、アスカはプライド高いものねぇ。目の前で身近な同世代の男の子が、
ずうぅっっと他の女の話ばっかりしてたらそりゃイライラもするわよ。
……それとも、そればかりとは限らないのかしら)
事ここに至ってもまだ、ミサトはシンジとアスカの関係を量りかねていた。
初対面の時からなにやら普通でない雰囲気があったように思うが、
それが何に起因するものなのか、となると、
そこから考えを進める材料がないのだ。
(最近の印象では、シンジ君が一方的に寄って行って、
それをアスカが拒絶する、って形だったと思うけど……。
それがいざ他人に向かうとなると、
アスカとしては心穏やかではいられない、
といったところかしら?)
ミサトがそんな考察をしていると、何か気配を感じたのか、
アスカが急にミサトをにらみつけてきた。
ミサトはあえて正面から見返して、シンちゃんにも困ったわねぇ、と共犯者の笑み。
――前回はわざとらしくごまかそうとして失敗しているのだ。
ここで同じミスをしたら、それこそ自分の底が知れる。

461: 2008/08/27(水) 02:42:05 ID:???

ミサトの対応に、それ以上の追及は断念したのだろう。
アスカは不機嫌そうにミサトから目をそらし、ぎらつく視線を伏せて隠して、
下を向いたままもそもそと食事を再開した。
そんな健康的とは言いかねるアスカの様子を見て、
(それに、アスカのあたしへの態度も気になるところなのよねぇ。
シンジ君なんかと違って、きちんと取りつくろってはいるけど、
どうもあたしに対してわだかまりがあるというか何というか。
……はぁ、前途多難だわ)
ミサトは今度こそ隠しもせずにため息をついた。
しかし、いつまでもそうしていても事態は解決しない。
まだ話し続けているシンジと苛立ちを募らせているアスカを視界の隅に入れ、
とりあえずミサトも食事を再開した。
(ええい! もうこうなったらさっさと食べ終わって仕事に逃げるに限るわ。
……まあでも、せっかく豪華な食事なんだし、元は取らないとね)
半ばやけっぱちに、だが、そうして開き直ってしまえば、気持ちも上向きになる。
「へぇー! うんうんなるほどぉ、それはすごいわねぇ…!」
相槌の言葉も中身がないだけに軽やかに、言葉と一緒に気持ちも弾む。
そうなると今まで味なんて分からなかった食事が急に色を取り戻し、
「へぇ、レイってかわいいとこあるのねぇ」
(へぇ、これってこんな味するのねぇ。
うんうん、これは意外といけるかも。
今度お祝いごとの時にでも作ってもらおうかしら)
相槌と一緒に舌鼓も打つ。
それにつれて、自然とミサトの顔もほころんでいく。
――しかし、その一方で、
「それでね、アスカ。そこで綾波が言ったんだよ。
『ばかね、碇くん』って。だけど、それなのに全然……」
ミサトと違って、シンジの言葉をうまく聞き流せないらしいアスカは、
「……………………………もういいわ」
ついに限界を迎えようとしていた。

462: 2008/08/27(水) 02:46:23 ID:???

「え? アスカ、何か言った?」
小声だったので聞き取れなかったのだろう。
聞き返したシンジに、しかしアスカは何も言わない。
うつむき、唇を噛み締めて、ただ目を伏せている。
それだけで雄弁に何かを語っているとミサトは思うのだが、
「? ……何でもないならいいけど。
それで、話の続きだけど、綾波が――」
シンジだけは全く気づかずに、能天気に話を続け、

「――だから、もういい、って言ってんのよ!!」

……とうとう、アスカの逆鱗に触れた。
「あ、アスカ…?」
すっかり脳の中がお花畑なシンジにも、アスカのこの怒声は届いた。
驚いた顔のシンジを苦々しげに見据えながら、アスカは続ける。
「これ以上何も言わなくたって、アンタとファーストがバカみたいに仲がよくて、
気持ち悪いくらいラブラブだってのはよっく分かったわよ!!」
「そ、そんな……。ラブラブってほどまでは……」
と言いつつ、満更でもない様子のシンジにアスカの苛立ちはマックスにまで達する。
「ハッ! よく言うわよ!
たっかが手をつないだくらいでそんなのぼせちゃって、バッカみたい!
交際一週間目のカップルだってもっと落ち着いてるわよ!」
そこでアスカの目が、ようやく獲物を見つけた、というように底意地悪く光って、
「大体、あのファーストが本気でシンジに熱をあげるなんて、
どうも信じられないのよね。
あんまりアンタがうっとうしいから調子合わせてるだけなんじゃないの?
そうとも知らずにそんなに舞い上がっちゃうなんて、
アンタもかわいそうな奴ねぇ」
「ちょ、ちょっとアスカ…」
普段のアスカには見られない、どこか粘着質な物言い。
そのあまりにシンジを挑発するような内容に、傍観していたミサトも割って入る。

463: 2008/08/27(水) 02:53:58 ID:???

綾波のことで、シンジは前例がないくらい浮かれて有頂天になっているのだ。
それなのに、よりにもよってそこを前面から否定されれば、
普段温厚なシンジでも、いや、普段おとなしいシンジだからこそ、
どんな反応をされるか分からない。
――しかし、
「綾波は、そんなに器用じゃないよ」
ミサトの予想に反し、シンジの反応は穏やかだった。
「アスカはあの場にいなかったから、そんなこと言うんだよ。
あの時あの場にいて、あの綾波を見てたら、絶対にそんなこと考えないと思う」
確信に満ちた言葉で、むしろアスカを諭しにかかる。
その声は、ミサトが思わず、おや、と目を見開くほど、揺れがなかった。
そして逆に、シンジに揺さぶりをかけたはずのアスカが動揺する。
「な、なによそれ…! 僕はいつだって綾波を信じてます、みたいな顔して……。
今日の学校でだって、アイツに嘘つかれて騙されたばっかじゃない!
……アンタ、本格的にファーストに頭やられてんじゃないの?」
そう言われても、シンジは駄々ッ子の扱いに困ったように、眉をたわめるだけで、
「アスカが色々言うのも分かるけど、……でも、本当のことだから。
そうだ! アスカも綾波と話をしてみるといいよ、そしたら…」
バン!
シンジの声を途切れさせるように音を立てて、アスカがイスから立ち上がる。
「アスカ…?」
突然のアスカの不可解な行動に、シンジが首を傾げ、
「……っ」
それはアスカ本人も意識していなかった動作らしく、
一瞬だけ自身でも戸惑ったような表情を見せ、
……しかし、アスカのプライドの高さが、その困惑を見せ続けることも、
立ち上がったのをなかったことにすることも許さなかった。
「うるっ、さいのよ…!」
苦し紛れの言葉を吐いて、立ち上がったまま後ろを向く。

464: 2008/08/27(水) 03:03:45 ID:???

その時、アスカの真正面に座っていたシンジには見えなかっただろう。
だが、横にいるミサトの視点からは、後ろを向いたアスカが、
剥がれ落ちかけた心のメッキを懸命に塗り直しているのが分かった。
そして、
「つまり、アンタやファーストのために、
アタシがわざわざ労力を使うのはイヤ、ってことよ」
もう一度振り向いたアスカの目からは焦りの色が消え、
抑制され、冷たく燃える苛立ちの炎が戻ってきていた。
「っていうか、アンタと優等生がどうなろうと、べっつに興味もないわ」
そう言って、一度今までの話の流れを断ち切ってから、
「ただアタシが言いたいのはねぇ、そこまでお膳立てしてやったアタシに、
お礼の言葉もないってのはどういうことかしらってコトよ!!」
両手をテーブルに叩きつけ、新しい論理でもってシンジを怒鳴りつけた。
(でかしたっ、アスカ!)
持ち直したアスカに、ミサトは心の中でスタンディング・オベーション。
あらん限りの(心の)声を振り絞って、惜しみのない喝采を送る。
さっきのようなことを言って万が一にでも本気のケンカになってしまったら困るが、
これくらいなら許容範囲だ。
今までの会話の流れを変えてくれるならむしろありがたい。
――これでシンジがたじたじになって謝りモードに突入すれば万万歳。
シンジが言い返して再びアスカとの口ゲンカになるとそれはそれで厄介だが、
どちらにせよまた延々と綾波話を続けられるような状態にはならないだろう。
一番うれしいのは色々うやむやになって、違う話題に移ることだが、果たして…。
――ミサトが期待を込めて見守る中、しばらくぽかんとしていたシンジが我に返り、
口にした言葉は……

465: 2008/08/27(水) 03:06:14 ID:???

「うん、ありがとうアスカ! アスカには、すごく感謝してるんだ!!」
――アスカどころか、ミサトすらも想像していなかった、
どこまでも素直な感謝の言葉だった。
「な、あ、アンタ、ま、待ちなさいよ! あ、アタシはそういうことが…」
狼狽するアスカの両手を、ムリヤリに握り締めて、少し照れたように、
「本当は、一番にアスカにありがとうって言いたかったんだ。
色々と、疑うようなこととか言っちゃってごめん。
綾波とあんなにうまくいったのは、全部アスカのおかげだよ!」
たぶんシンジの生涯において最高レベルのさわやかさの笑顔を浮かべる。
そうしてそんな言葉をかけられて、しかもそんないい笑顔を向けられては、
アスカにこれ以上何か言えるはずもない。
「――は、放しなさいよ!」
アスカはかろうじて身をよじってシンジの手を無理にもぎ離すと、
「明日も早いし、アタシはもう寝るわ! ご飯も、もういらないから!」
そのまま足早に自分の部屋に歩いていってしまう。
「い、いらないって、そんな……」
そしてアスカは、追いすがるシンジを精一杯の気力でにらみつけて、
「うるさい! もう知らないわよ! バカ!!」
逃げ込むように部屋に入るのとほぼ同時、
――バン!
思わず耳を塞ぎたくなるような暴力的な音がして、扉が閉められた。

466: 2008/08/27(水) 03:08:36 ID:???

そこまでの一部始終を特等席から観覧して、ミサトは顔を覆った。
(あちゃぁ……。アスカ、最後ちょっと涙目になってたわね。
いくら怒ってみせても、鈍感という名の凶器には勝てない、か)
そうしてミサトが同情の視線をアスカが消えた部屋のドアに向ける中、
その原因を作った張本人たるシンジは、
「素直にお礼言ってるんだから、胸張ってればいいのに。
アスカも案外、照れ屋ですよね。
……ミサトさん?」
そんなことを言って笑い、あまつさえミサトに同意を求めてくる。
「………………シンちゃん。あたし、時々あなたが恐ろしくなるわ」
「…??」
それだけ言われても最後まで何も理解せず、ただ首を傾げるシンジを見て、
――ミサトはついに堪え切れず、テーブルの上に突っ伏すのだった。

544: 2008/09/13(土) 17:08:17 ID:???

「も…う! なんなのよ、あれは…!」
自室。アスカはやり場のない怒りを目の前の机にぶつけ、
ギリギリと歯を食い締めていた。
綾波綾波と、心底うれしそうに語るシンジの笑顔がどうやっても頭から離れない。
思い出せば苛立ちが募るだけと分かっているのに、何度も何度も頭に浮かぶ。
それがあまりにもイライラするから、涙が出そうになる。
その度にグスっと鼻をすすって、泣いてない、と自分に言い聞かせた。
――もう、何もかもが気に入らない。
能天気なバカシンジも、もちろんファーストも、ミサトの同情したような視線だって。
だが、アスカが本当に一番、怒りを覚えているのは……。
「分かってるわ。みじめね、アタシは」
アスカは何より、そんなシンジにうまく対応出来ず、
無様な態度を取ってしまった自分自身に憤っていた。
「シンジには、本当の意味じゃ相手にだってされてない。
なのに、ミサトの方には勘づかれたかもしれない。
ほんっと、カッコワルイ。恥ずかしい。消えたい…!」
一度、机にガンと額を打ちつけて、
「でも、みじめなままじゃ終わってられないのよ、
この、惣流・アスカ・ラングレー様はね!」
顔を上げ、ぐっと体を起こす。
「やれること、一つずつやっていかなくちゃ…!
アタシが今優先しなきゃいけないのは、あのバカシンジのことじゃない。
この世界の現状を理解するために、
……まずはあの女、ファーストと、向き合う」
そこで、ぐっと唇を噛み締めて、
「だけど、そのためには…」
渋い顔を崩さないまま、アスカは数秒黙考して、それから不意に動き出すと、
荒っぽくメモを一枚破り、そこに何かを書きつけ始めた。

545: 2008/09/13(土) 17:09:59 ID:???


――深夜も零時を回ってしばらく、
「…………アスカ?」
真っ暗なリビングに、シンジの姿。
シンジは暗がりの中、明かりも点けず、手探りで、
「アスカ? アスカぁ? ……いる?」
小声で呼びかけながら、たどたどしく奥へ進む。
指定された場所までゆっくりと歩を進め、
「――ッ!」
突然、暗闇から手が伸びてきて、シンジは『その部屋』に引きずり込まれた。
その腕はシンジの体を絡め取るように動きを封じ、
また一方の手は口を塞ごうと動いてきて、
「静かにしなさ…わ、ちょっと、この、あっ…!
アンタどこさわって、きゃあぁぁ……ふご、ふも…!」
叫び声をあげそうになったアスカの口を、逆にシンジが塞ぐことになった。
だがすぐさま、がじり、指を噛まれ、シンジは慌てて手を離す。
「ぷはっ! アンタ、いきなり何すんのよ!」
「な、何するって……。アスカだって同じことしようとしてただろ!
第一、最初に静かにしろって言ったの、アスカじゃないか!」
「う、うっさいわねぇ! アンタがどさくさに紛れて、
アタシに変なことしようとするのがいけないんでしょ!
全く、これだから男ってのは…!」
「ご、誤解だよ! いきなりこんなところに連れ込まれて、
そんなこと考える余裕…」
シンジは必氏に己の無実を主張するが、アスカはまるで取り合わず、
「まあ、そんなことはどうでもいいのよ」
ムリヤリ軌道修正。本題へと移ろうとする。
シンジは小声で『全然よくないよ』と訴えるが、当然黙殺された。
「アンタ、ここに来たってことは伝言読んだんでしょ。
だったら用事は分かってるわね」

546: 2008/09/13(土) 17:11:37 ID:???

無論、シンジだって用もなしにこんな深夜、
電気も点けずにこの暗闇を徘徊するはずもない。
シンジは古風にもドアの隙間に差し出されたアスカからの手紙を読み、
その指令に従ってここまでやってきたのだ。
しかし、その考えている間の沈黙をアスカは違う意味に取ったらしく、
「なによ! アレに気づかなかったワケ?
こぉのウスノロシンジ! あぁ、もう、信じらんない!
……って、ちょっと待ちなさいよ。
それじゃ、アンタがここに来た理由って、単に用を…」
「ち、違うよ!」
こちらを見るアスカの視線に、
段々と軽蔑の色が混じっていくのを見ていられなくて、
それとまあ、なんとなく、
一応女の子であるアスカにその先を口にさせたらまずい気がして、
シンジは慌ててアスカの言葉をさえぎった。
「……手紙は、読んだんだ。でも、」
そこで、言いよどむ。
ドアに挟まれた小さなメモ書き。
そこには簡潔に、他人に知られたくない話があることと、
集合の時間と場所が書かれていた。
しかし、シンジには、何度首をひねっても、
理解の出来なかったことが一つ。

「でも、どうして集合場所がトイレなの?」

――なぜ、トイレに集まる必要があったのか。
それだけが、シンジにはどうしても理解不能だった。

547: 2008/09/13(土) 17:13:08 ID:???

「……盗聴対策よ」
口にされたアスカの返答は、シンジが想像の斜め横に行った言葉だった。
「と、盗聴?!」
しかし、聞き間違いではない証拠に、アスカは軽くうなずいて、
「そ。分かったら、もう少し声落としなさいよ。
そうしないと、ここで話す意味、なくなるじゃない」
だがそんなことを言われても、シンジが易々と納得出来るはずもなかった。
「で、でもまさか、家に盗聴器なんて……」
「アタシだって、確実にしかけられてる、なんて思ってないわ。
むしろない可能性の方がずっと高い、って思ってる。
だけどアンタは、ここに盗聴器は絶対にない、って言い切れる?」
「そ、それは……」
シンジは口ごもった。
自分たちに監視がついているというのは知っているし、知らされている。
だがそれでも、盗聴まではされていない、と思いたい。
「それに、もしそうならここだって…」
「いくらなんでも、トイレとバスルームの盗聴はミサトがさせないでしょ。
その辺りの最低限の良識だけは、ミサトに期待してるのよ」
それは、盗聴がミサトの関知しない所だとしたらここも安全ではない、
と言っているのだが、シンジはそこには異論は唱えなかった。
それよりも、避けて通れないもっと大事なことは……。
「そんな、今まで気にしてなかった盗聴器の警戒までして、
アスカは本当にこれから、人に聞かれたくない話を、
……聞かれちゃいけないような話を、するつもりなの?」
「そうよ」
アスカに即答され、シンジは息を飲む。

550: 2008/09/13(土) 17:19:01 ID:???

「構わないわよ。アンタにはどーせ、
告げ口する度胸も、何か推理する頭もないだろうから」
あっけからんとそんな風に言われて、
さすがにシンジもムッとくる。
その表情をアスカはつまらなそうに眺めてから、
「そんな顔、するんじゃないわよ、バカ。
……信用、してんのよ。そのくらいは、一応」
そう口にしたアスカは照れるワケでも、微笑むワケでもなく、
まだつまらなそうな顔を崩していなくて、
だからこそ、シンジはそれを信じた。
「…うん。ごめん、信じるよ」
それを、アスカは今度は無表情に受け止めてから、
「それでいいのよ」
と短く言った。
「それじゃ、話、続けるわよ…」
とアスカが言いながら心持ち顔を近づけてきて、
「あ、アスカ、顔、近いよっ…」
シンジを大いに慌てさせる。
「そんなの今さらでしょ。……なに、アンタ。
シンジのくせして、いっちょまえに意識しちゃってんの?」
「そ、それは…」
どこか愉快そうに問い詰めてくるアスカに、
シンジは口ごもるしかない。

551: 2008/09/13(土) 17:21:21 ID:???

――そうなのだが、そうではないのだ。
実は問題なのは顔でなく、わずかに前屈みになったアスカの姿勢から、
薄手の服に包まれた胸の谷間がわずかにのぞいていることなのだ。
だが、そんなことを正直に言えるはずもない。
「そ、そういうんじゃないけど…」
(む、胸元見てたことが分かったら、絶対殺されるよ)
シンジは自然と胸元に吸い込まれそうになる視線を必氏に押さえつけ、
あからさまに目を逸らしながら訴える。
「だ、だけどさ、アスカ。
ここ、ちょっと狭いんじゃないかなって思うんだ。
お風呂場でもいいならさ、そっちに移った方が…」
苦境に立つシンジの必氏の訴えだったが、しかしアスカはそれを一蹴。
「アンタバカぁ? 使ってもいないのに二人でお風呂場にいたら、
一発で怪しいことしてるって思われるでしょうが!」
「……夜中に二人でトイレにこもってても、大概アウトだと思うけど」
それは、シンジとしては当然の返しをしたつもりだったのだが、
「あーもー細かい! 男のくせに小さいことをうじうじうじうじと!」
「お、男は関係ないだろ?! そういうの、男女差別…」
それがなぜかアスカの気に障って、言い争いになってしまう。
しかし、それが口ゲンカに発展する前に、
「……シッ!」
表情を険しくして、アスカが指でシンジの口を止めた。

552: 2008/09/13(土) 17:24:43 ID:???

「今、何か聞こえなかった?」
「……さあ、僕には何も」
それよりも、唇に触った指のひんやりとした感覚に、
シンジはドキドキを抑えるのに精一杯だった。
ドクン、ドクン、ドクン、鼓動の音だけが、時を刻む。
――息の詰まるような数秒間が過ぎ、
「……気のせいだったみたいね」
ほっと息を漏らして体を離すアスカに、シンジも弛緩する。
「もしかすると、ペンペンかも。時々、冷蔵庫の中で寝返り打ってるらしいし」
「……あんのペン公」
恨みがましい声で、アスカ。
この前のトイレの一件を、まだ根に持っているらしい。
「え、ええと、それで、聞きたいことって?」
不穏な空気を払拭するため、シンジは慌てて先を促す。
アスカは、むすっとした顔を崩さないまま、
「……ファーストのことよ」
と答えた。
その返答を聞いた途端、シンジの顔が輝き出す。
「あ、綾波の?! なんだ、だったらそうと早く言ってくれれば…」
「――ストップ!」
嬉々として話し始めようとするシンジを手で制し、
「アタシが聞きたいのは、アンタが今日してたような無駄話なんかじゃないの」
そう話す内にエキサイトしてきたのか、
「だいったい、綾波、綾波、綾波、綾波って、気持ち悪いのよ!
アンタ、綾波教の信者か何かなワケ?!」
「そんな……僕はただ……」
「うるさい! とにかく、アンタの都合なんてどうでもいいわ。
アンタはアタシが訊いたことにだけ、答えてればいいの!
……分かった?」
やたらと激しいアスカの剣幕に、シンジは渋々うなずく。

553: 2008/09/13(土) 17:28:28 ID:???

「――それで、綾波の何を聞きたいの?」
そこで、アスカは誰かが外で聞き耳を立てていないか、
もう一度確認してから、小さな声で話し始めた。
「……だから、前にも訊いたでしょ。
ファーストがタイムマシンの話をした時何て言ったか、
それを聞きたいのよ」
「あぁ、そういえば、そんなこと言ってたね…」
この世界のアスカと初めて会った時、空母の中で同じ質問をされたのを、
シンジはかろうじて覚えていた。
「ええと、でも綾波は、そんなに詳しいことは言ってなかったよ。
確か僕が、『タイムマシンとか信じるか』みたいなことを言ったら、
綾波は『信じない』、って」
「信じない?! あの女…ファーストは、本当にそう言ったの?」
「うん。『時計の針は元には戻せない』からだって」
そこで、シンジは軽く首を傾げて、
「だけど、それだけじゃなくて、他にも何か言ってたような……えーと」
「それだけじゃなくて、何て言ったの?!
重要なことなの、さっさと思い出しなさいよ!」
アスカに肩を揺さぶられる。
グラグラと肩を、そして脳を揺さぶられ、考えに考えて、

「そうだ! 覆水盆に返らず、だ」

シンジはようやくその言葉を思い出した。

555: 2008/09/13(土) 18:01:40 ID:???

「覆水、盆に…?」
戸惑った様子のアスカに、シンジはうれしそうに説明する。
「あ、ことわざでね。一度やってしまったことは、
もう取り返しがつかないっていう…」
「知ってるわよ、そのくらい!
こぼれたミルクは戻らない、って話でしょ!
それで? その他には、何か言ってなかったの?」
「あ、ええと、そうそう、
『だけど器に水を入れなおすことなら、出来るかもしれない』って」
「器に、水を入れ直す?」
「う、うん…」
シンジの言葉に、アスカは一人、ぶつぶつと考え始めた。
「覆水…は……時、の流れ、で…戻せないなら、時間移動は……、
だけど、入れ直す? 時間、を…? いえ、でも、針は戻らない、
のだから、なら、…水は、時間、ではなく、きっと、だったら、
――それって!!」
そうして、シンジが驚くほどの勢いで顔をあげると、
「これはもう一度、ファーストに会う必要がありそうね」
アスカの顔には、不敵とも言える笑みが浮かんでいた。

556: 2008/09/13(土) 18:03:10 ID:???

――ちなみにその頃。

「あー、もー! あんの二人、一体中でなぁにやってんのかしら…!」
ミサトはトイレのドアの前で人知れず煩悶していた。
夜中トイレに起き出してきたところ、なぜかトイレからは明かりが漏れていて、
オマケに中から二人分の声が聞こえてくるのだ。
一応話し声には気をつけているらしく話の内容までは分からないが、
中にいるのがシンジとアスカであることは疑いようもなかった。
「……にしても何でトイレなのかしら。
近頃の子供の考えることはワケが分からないわ」
密談するにせよ、その……青少年にあるまじき行為におよぶにしろ、
どちらかの部屋でやればいいのだ。
わざわざ場所をトイレに指定する意味なんて……
「――まさか、どっちかにそういう趣味が?
いやいや、ただ、トイレでしかやれないことがあるのよね、きっと」
そう考え、試しにミサトは『トイレでしか出来ないこと』を想像してみて……やめた。
考えれば考えるほど、ろくでもないことしか思いつかない。
「……あー。なんかアッタマ痛くなってきたわ」
最初に驚いて声を漏らしてしまった以外ほとんど音も立てず、
ミサトはずっとこの場所に頑張っているのだ。いい加減疲れてもくる。
それに、もし仮に中で二人が『いかがわしー行為』におよんでいたとして、
自分はそこに踏み込んでいくべきなのかどうなのか。
一応保護者という立場ではあるが、そこまで口出しする権利が自分にはあるのか。
というか、その後で自分はどんな顔をして二人に接していけばいいのか。
押し頃した話し声と明かりの漏れるドアを見つめ、ひたすらミサトは懊悩する。

その扉が開き、最高に気まずい瞬間が訪れるまで、あと数十秒。
――ミサトの煩悶は続く。

559: 2008/09/14(日) 01:09:59 ID:???


「用事って、なに?」
放課後の屋上。
拍子抜けするほどあっさりと、レイはアスカの呼び出しに応じた。
「アンタにちょっと聞きたいことがあんのよ」
アスカはあくまでストレートに。
そこに何かの気配を感じたのか、レイは先に伏線を張る。
「……機密に関することなら、話せないわ」
だが無論、レイが危惧しているようなことを話題にするワケではない。
アスカはその言葉には鷹揚にうなずくと、
「それは大丈夫よ。たぶん碇司令も知らないことだから」
「碇司令も知らない? それを、わたしが…?」
戸惑いを見せるレイに対し、
「ええ、そうよ。……さぁ、答え合わせといきましょうか」
そう口にして、自分に気合を入れ直す。
(さて、と。ここが一つの正念場よ、アスカ)
――もう一度周りを見渡す。
そこにはアスカとレイ以外、誰の姿も見えない。
屋上の入り口はシンジに命令して見晴らせているし、
これでシンジを含め、誰かに話を聞かれる心配はない。
それを確認すると、アスカは一気呵成に言葉を紡いだ。
「単刀直入に言うわ。
アンタが、アタシを過去に戻したワケじゃないのね?
アタシは、時間を飛び越えてはいない。
過去に戻ったのは、世界の方」
「…なにを、言っているの?」
レイは表情を変えないまま、戸惑いの言葉を示す。
だが、アスカは気にしなかった。言葉を続ける。
「器から水がこぼれた事実は消えない。時間は戻せない。
でも、水を入れ直すことは、世界を作り直すことは出来る」

560: 2008/09/14(日) 01:11:10 ID:???

「きっとサードインパクトの時と同じね。
シンジとエヴァ初号機の力で、世界は再生された」
言いながら、アスカは油断なくレイを注視している。
少しでもその無表情に異変があれば、それに気づけるように。
「――それも、ただ再生しただけじゃない。
意図的だったのか無意識だったのか分からないけど、
シンジは直前の世界ではなく、それよりもっと昔、
もう思い出の中にしかないはずの過去の世界を完璧に模倣した。
まるで、時間を戻したみたいに……」
レイの表情に変化はない。
だから、ここからが勝負だった。
「だけど、その世界だって完全に昔と同じってワケじゃないわ。
以前の世界の記憶を持ってるアタシがまず一つ目の例外。
……そして、前の世界と違う反応をしている人間を、
少なくともアタシはもう一人知っている。
それは……アンタよ、ファースト!」
アスカはビシッと腕を振り上げる。
その指の先は、レイをまっすぐに示していた。
「数多くの人間の中で、
アンタだけが前の世界のアンタと不可解な相違を示している。
シンジや加持さんが前の世界と違う反応を示すのは分かる。
だって、前の世界とは違う今のアタシと接しているから、
違う反応をするのは自然だわ。
でも、アンタは違う。アタシと深い関わりもなく、
アタシが以前と同じように接触しているのに、
アタシの記憶とは違う対応を取った」
そうして揺るぎない確信を込めて指を突きつけたまま、
「さぁ、とぼけるのはもう終わりよ、ファースト!
本当のことを話しなさいよ! 今すぐ!」
アスカはレイに、弾劾の言葉を告げた。

561: 2008/09/14(日) 01:12:03 ID:???

そこまで詰問して尚、レイに全く動きはなかった。
アスカにとっては、耳に痛い沈黙が続く。
ただ、屋上に吹き抜ける風の音だけがその鼓膜を揺らし、
「……わるいけど」
ゆっくりと、レイは首を振る。そうして、
「あなたがなにを言っているのか、わからないわ」
そうして口にされたのは、さしものアスカでも、
それ以上食い下がる気も起きないほどの完全な否定。
おまけに、さらにアスカの意気をくじいたのは、
――この反応。演技じゃ、ない、わね。
レイの態度から感じた、否定しようもないそんな印象。
アスカはずっとレイの様子を観察していた。
それでもレイからは予想外の言葉をかけられた戸惑い以外の、
いかなる不自然さも見つけ出すことが出来なかった。
――少なくとも今目の前にいるこのファーストは、何も知らない。
どんなに不本意でも、そう結論づけるしかなかった。
それを悟った途端、失望と安堵、苛立ちと困惑、落胆と安らぎ、
様々な矛盾した感情が、アスカを駆け抜ける。
だがアスカは一瞬でそれを押さえ込み、
「……そう。ジャマしたわね」
それだけを会話の終わりとして、きびすを返す。
レイが何も知らないなら、これ以上ここにいる意味はない。
「――ハズレ、か」
口に出してしまった事実に、虚脱感だけが残る。
本来なら今の話の口止めをしなくてはいけないのに、それさえ今はわずらわしい。
構わずアスカはそのまま屋上を後にしようとして、

「――この世界は、碇くんの意思だけでできたモノではないわ」

突然背後からかけられた言葉に、その足が凍りついた。

562: 2008/09/14(日) 01:19:15 ID:???

振り向いて、声の主を探す。
――そこに立つ人影は、当然ながらたった一つ。
つい数秒前、無関係と断じた少女、綾波レイただ一人。
だが、そこに立っている彼女は決して先刻までの少女ではなかった。
こちらを見つめるあいかわらずの無表情な顔。
しかしそこには、無感動とは違う、何かの想いが渦巻いている。
「ア、ンタ…」
かろうじて、乾いた舌がそれだけを発音する。
だが、レイはそれを黙頃する。
相手の反応を無視して話し続けるのは今度は彼女の方だった。
「この世界では体がはなれていても、人の魂がつながっている。
肉体はもう、魂をとどめる枷とはならないわ。
それは、人がバラバラでいながらひとつでもありうるということ」
アスカの理解を超越して、レイは淡々と、言葉を紡ぐ。
「世界は、『彼ら』の意志によってそう作り変えられた。
例外は、前の世界から心と体を引き継いでいる、あなたと碇くんだけ」
あまりにアスカの理解を越えた言葉に、
アスカはただ何も言えずに立ちすくむしかない。
そんなアスカを置き去りに、異様な雰囲気をまとったレイは、
「碇くんを『彼ら』に、初号機にわたさないで」
その警句じみた言葉を最後に、口を閉ざした。

563: 2008/09/14(日) 01:20:02 ID:???

アスカがそれでも我に返れず、ポカンとレイを眺め続けていると、
「なに? まだ、用事?」
レイが怪訝そうにわずかに眉をあげてそう訊いてくる。
そこでようやく、アスカは自分を取り戻し、
「いいえ。用はもう、済んだわ」
乾いた唇をそう動かして、もう一度レイに背を向ける。
(まるで憑き物が落ちたみたいね…。
いるんだわ、きっと。ファーストの中に、もう一人)
そんなことを考えながら、アスカは校舎に続く扉に手をかけて、
「……!」
レイが口にしたことの意味に気づいて、思わず振り返る。
そこには、先ほどと全く変わらない位置、
変わらない格好でたたずむ彼女の姿があって、
当然ながらそこに答えはない。
――そう。
もし答えなんて物が、あるとすれば……。
扉の前で一呼吸。
アスカはドアノブに手をかけ、屋上の扉を開け放つ。
その向こうには、怒っているような、ほっとしたような、見慣れた顔。
――そう。その顔はあまりに見慣れすぎていて、
だからこそ、こんな簡単なことにも気づけない。
(ねぇシンジ。アンタはアタシと赤い海で暮らした、あのシンジなの?)
心の中、目の前で人がよさそうに笑うシンジに問いかける。
――そんなこと、今まで想像もしなかった。
だが、確かにレイは言ったのだ。
前の世界から心と体を引き継いでいる、あなたと碇くん、と。
それがもし、本当なのだとしたら……。

564: 2008/09/14(日) 01:21:23 ID:???

(でも、分からない。そんなの、分からない…!)
例えばそれが、長年を一緒に過ごした家族であったなら、
あるいは互いに心の最奥を見せ合った恋人同士であったなら、
もしや見ただけ、共にいるだけで、その違いを見抜けるのかもしれない。
だけど、自分たちは……、
惣流・アスカ・ラングレーと、碇シンジは、
――今まで心が通じ合ったことなんて、ただの一度もなかった。
自分を隠して、あざむいて、時には近づきたいと願って、でも出来なくて、
状況に流されるまま、最後には深く互いを傷つけた。
二人の思い出をたぐれば、つらいことや嫌なことばかりが思い起こされる。
(――それでも!)
たとえやり直したいような過去ばかりがあったとしても、
(それでも、もし、そうなのだとしたら……。
違う! その可能性が、たとえほんのわずかでも、あるのなら……)
前に立って階段を下りていく、能天気な背中を眺めながら、

(――向き合わなきゃいけない。今度こそアタシは、コイツと…!
だって、アタシは……)

言葉に出来ない想いを噛み締めて、アスカは独り、強く拳を握り締めた。

571: 2008/10/05(日) 02:14:53 ID:???

全てを押し流し、全てを飲み込んだフォースインパクトの波。
レイに守られ、アスカは自分を保ったままこの新しい、
だが古い世界に放り出された。
それは時間の遡行としか思えない不可思議な現象で、
アスカは自分に起こった事態を受け止められずに混乱した。
あっけなくパニックに陥り、意味もなく物に当たり散らし、
逆に言い様のない恐怖に襲われて、
部屋の隅から一歩も動けなくなったこともあった。
――そして、
そんな狂乱と興奮の時期が過ぎ去り、アスカが一番初めに考えたのは、

――これで全部、やり直せる、

ということだった。
(もう二度と、失敗なんてしない。アタシは今度こそ全部、うまくやる)
使徒に負けて、無様な姿をさらしたこと。
エヴァにうまく乗れなくなって、誰彼構わず当り散らしたこと。
そのせいでシンジに嫉妬して、険悪な仲になったことも。
――それら全ては、自分が弱かったから、うまくやれなかったから起こったこと。
だからアスカは情報を集め、今まで以上の努力をして、
全ての準備を整えて日本へやってきた。
……完璧な自分をみんなに、シンジに見せるために。
最初から全て、やり直すために。
けれど思い描いた通りに使徒を倒して、それでも気持ちが満たされなかったのは、
それがアスカの本当の望みではなかったから。
(アタシは、アタシと一緒の時間を、あのつらい日々を一緒に過ごして、
お互いにひどく傷つけ合った、あのシンジとやり直したかった)
意識していなかったとしても、たぶんそういうことなのだ。

572: 2008/10/05(日) 02:17:49 ID:???

だから、そう考えていたからこそ、シンジが自分のことを『惣流』と呼ぶ、
と言った時、あれほど狼狽もした。
……無意識に、だろうか。
それとも、決別の意を込めて、だったのか。
最後にシンジが「頼むよ、アスカ」と自分の名前を呼んだ時、
どうしても我慢が出来なかった。
その言葉が本当の最後になることを、
もうシンジが二度と自分を『アスカ』と呼ばないと考えると、
いたたまれなかった。
身を裂かれるような恐怖を感じた。
前の世界での経験からシンジに名前を呼ばれることにトラウマを持っていたにも関わらず、
それでもほとんど迷いはしなかった気がする。
自分の、「アスカ」という呼び名を捨てることは、
それが前の世界のシンジとのつながりを捨ててしまうような気がして、
どうしても、本当にどうしても無理だったのだ。
しかしそれは、裏を返せば……
(アタシを惣流と呼ぼうとしたシンジは、
『アタシ』のことを忘れたがっている、ということ?)
どうあっても、アスカの思考はそこに行き着く。

この世界のシンジとは初対面だと思っていた頃は、
そんなこと想像もしなかった。
だが、レイは言ったのだ。
『前の世界から心と体を引き継いでいる、あなたと碇くん』と。
それは、つまり、
(この世界にいるシンジは、あっちの世界でアタシと一緒に暮らした、
あのシンジってことよね)
――そして、確かに、
話を聞いた今になって思い返してみれば、さして考えずとも、
色々と不自然な部分が浮かび上がってくる。

573: 2008/10/05(日) 02:19:20 ID:???

初対面でありながら、自分のことを『アスカ』と呼ぼうとしていたこと。
オーバー・ザ・レインボウを襲った使徒への対応の早さ。
レイに話したというタイムマシンの話題。
……自分のことばかり気にしていなければ、
アスカだってその不自然さに気づけていたはずだった。
今ここにいるシンジが前の世界のシンジであるならば、
当然シンジも前の世界から学習している。
前の世界で失敗したことを、うまくやりたいと思ったことを、
今度こそは成功させようと動き出すはず。
――それは、アスカと同じだ。
アスカは何度も、この世界での行動を、前回の経験から学んで改変している。
小さいことで言えば、
オーバー・ザ・レインボウで風でめくれるスカートを押さえたことや、
大きいことで言えば、
オーバー・ザ・レインボウを襲った使徒を、単独で倒したことなど。
その行動を見れば、その人の望みが見える。
何を望んで、どうして変わったか、それが分かってしまう。
それはもう厳然と、データとしてはっきりと、見えてしまうのだ。
そう。だからアスカは、

「――アンタはアタシじゃなく、ファーストを選んだってことね」

痛みと共に、その言葉をしぼり出した。

574: 2008/10/05(日) 02:20:55 ID:???

シンジの行動で、過去の世界と一番違った部分。
――それは、シンジとレイの関係だ。
シンジが積極的にレイに関わっていかなければ、
そもそもレイと仲違いすること自体なかっただろうし、
その結果としてあんなに親密になることもなかっただろう。
――その一方で、シンジはアスカとは距離を取ろうとしている。
『アスカ』という呼び慣れた名前をやめようとしたり、
自分がレイと仲がよくなったことをずっとアピールしたり、
自然と自分とアスカの仲が、冷え切っていくように……

「バッカらし。アイツにそんな器用なマネ、出来るはずないじゃない」

一言で、その迷走した思考を断ち切った。
――アスカにだって本当は分かってる。
今のは全部、ひがみだ。あるいはただ、混乱しているだけ。
本気でそんなことを考えているワケじゃない。
アスカのことを『惣流』と呼ぼうと決めたのはアスカへの気遣いのため。
レイと親しくなったからと言って、アスカを蔑ろにしているはずもない。
わざと自分とレイが仲良くなったことをアスカに聞かせていた、なんて、
あの鈍感なシンジにあっては妄想もいい所だ。
それに、シンジは何度も、アスカに歩み寄ろうと努力していた。
――だから、シンジがアスカを遠ざけたいと思っているなんて、全くの勘違い。
自然と、そういう結論になる。
「でも……」
そう、思うのに、そう考えているのは、決して嘘ではないのに……。

575: 2008/10/05(日) 02:22:13 ID:???

なのにこうして、不安に押し潰されそうになっているのはなぜだろうか。
おそらく以前の自分なら、鼻で笑って一蹴出来たはずのことが、
今はもう出来なくなっている。
「……アタシ、弱くなってるのね」
つぶやくが、しかし、それも当然だった。
――サードインパクトの後。
長いシンジとの二人だけでの生活でようやく獲得し、
取り戻した精神の平衡は、あの赤い海の中で粉々に砕かれた。
それでもこの時代にやってきてから、
バラバラになった心を偽りの目的意識で奮い立たせ、
前だけを見つめて、癒えない過去を振り返らないようにして、
自分を騙して進んできたのに……。
(いきなりこんなこと、急すぎるのよ…)
組み上げようとした心の基盤の、その根底を崩された。
すぐには立ち直れない。立ち直ったフリすら出来ない。
シンジに本当のことを聞かない限り、そこから一歩も進めない。
だが、そう思えば思うほどに、シンジが自分を必要としていないという予感、
いや、不安が込み上げてきて、アスカの行動を縛る。
(前にしか道はない。それを分かってるのに……)
――なぜ、自分はこんなに弱くなってしまったのか。
問いかけではなく、ただの愚痴として心の中でそう漏らし、
頭を抱えた、その時、

「アスカ、あんまり思いつめない方がいいよ」

まるでその心を読んだかのようなタイミングで、シンジの声がかかった。

576: 2008/10/05(日) 02:24:07 ID:???

「えっ…!?」
あまりのタイミングに、もしや自分の心が生んだ幻聴かもしれない、
と瞬間的に思ったが、もちろんそんなことはなかった。
驚いて顔をあげたその先、アスカのすぐ近くに、シンジの顔があった。
「え、あ…?」
周りを見渡してみると、もうとっくに授業は終わっていた。
考えごとに熱中しすぎて、気づかなかったようだった。
「な、なによアンタ。学校ではあんまり話しかけてこないでって言ってるでしょ」
動揺を隠すためと牽制のため、ついキツイ言葉が漏れる。
というより、学校ではあまり話しかけるな、ということ自体、
少なくとも『この世界』では言ったことがない気がしたが、
出てしまった言葉は止められない。
それを聞いてシンジは、
「それは、ごめん。すぐ、行くから。……でも、」
言葉の通り、アスカの机から体を離して、
「アスカが何を隠しているかは知らないけど、僕は、アスカの味方だから……」
そんな言葉を言い残して、自分の席に戻っていった。
「…………」
シンジの残した爆弾のような言葉に、悩みも、
自分の態度を取り繕うことも忘れて、アスカは呆然とする。
――たぶんシンジは誤解している。
アスカの悩みが、前回トイレで話したアスカの秘密に拠る物だと考えている。
そういう意味ではシンジのアドバイスは、ほとんど見当外れで、
――しかし、その一言でアスカの悩みは解決した。
あっさりと、解決してしまっていた。
……今のやりとりで、別段何か状況が変わったワケではない。
あるいは新しい何かが分かったワケでもない。
だが、さっきの一言で心は決まった。
――話そう、と思った。

577: 2008/10/05(日) 02:27:27 ID:???

シンジが前の世界のシンジであっても、そうでなくても、関係ない。
最初から全部、話してしまえばいい。
結局、そうすれば全て解決するのだ。
……色々と考えるフリをして、ただ逃げて、先延ばしにしていただけだった。
答えなど、初めから出ていた。
あと必要だったのは、それを実行する勇気だけ。
そう、それは自分には最後まで足りなかった勇気。
素直になって、ありのままを見せる勇気。
それが出来れば今度こそ本当に、シンジとの間に何かが始まる気がした。
世界が戻ったとか戻ってないとかとは関係なく、
シンジと新しい関係が築けるような気がした。
(……話すわ。今日、絶対に)
密かにそう決意を固め、計画を練る。
大げさな、と思うかもしれないが、さすがにこんな話、
他人のいる前では出来ない。
また、護衛兼監視としてついている情報部の連中もいる。
彼らに話を聞かれるのはどうしても避けたい。
すると、チャンスは……
「放課後、か」
――幸いにも今日はシンジが日直で、帰るのは少し遅くなる。
シンジの性格上、トウジやケンスケを待たせたりはしないだろうし、
それはもちろん、レイについても同様だろう。
その間、自分は他所で時間を潰し、
シンジが学校を出る時にでも偶然を装って話しかければいい。
そうすれば邪魔者は入らない。
仮にどこかで失敗しても次の機会を待てばいいだけで、こちらにリスクはない。
「うん。我ながら完璧な計画ね」
そんな軽口まで口をつく。
気持ちが上向いている証拠だった。

578: 2008/10/05(日) 02:30:02 ID:???

放課後。
シンジが一人で教室に残ったのを横目でしっかりと確認し、
アスカもヒカリと別れて職員室へ向かう。
適当な国語の教諭を見つけて、お勧めの漢字の問題集を聞く。
もちろんアスカとしてみれば、
こんなレベルの低い教師に物を尋ねなければならないなんて、
ちょっとした屈辱だが、勉強熱心をアピールして、
教師のポイントを稼いでおいても損はない。
優等生は一日にして成らず、だ。
感想でも聞かれたら厄介なので、
問題集の題名はメモしておく。
これは後でシンジにでも買いに行かせよう、
と密かに決める。
そして、
(……そろそろ頃合ね)
時間を見計らい、教師との退屈な話を切り上げる。
話し込んでいた教師には残念そうな顔をされたが、
これ以上無駄話を聞く気はなかった。
(さて、と。これだけ時間を置けば、いくら要領の悪いアイツでも、
そろそろ終わってるわよね)
よしんばもし終わっていなくても、
シンジが一人きりでいるならむしろ好都合だ。
(見ててじれったいとか何か適当な理由をつけて、
残った仕事をアタシがパッと片づけて一緒に出ればいいワケだし……)
なんてことを考えながら、アスカはとりあえず教室へと向かう。

587: 2008/10/06(月) 01:46:54 ID:???

まずはシンジのカバンを確認しようと教室に向かうと、
折りよくシンジが階下に下りていく所を見つけた。
(なるほど、ついてるわ。これもアタシの日ごろの行いって奴かしら)
辺りにシンジと自分以外の人影はない。
別にここで声をかけてもいいのだが、
(いーえ、ダメね。
それじゃまるで、アタシがシンジを待ち構えてたみたいじゃない。
あくまで偶然、偶然追いついて声をかけただけってことなんだから…)
そう言い訳して、シンジの後をゆっくりと追いかける。
(……言い訳?)
自分の思考に混じった言葉の選択に、言いようのない違和感を覚えながら、
アスカの集中力のほとんどは、シンジに向いていた。
よくよく見ればシンジは、自分のカバンを持っている。
これから学校を出ようとしているのは間違いがない。
(よし。これなら、計画通りね。
アタシがちょっとスピードを上げれば、玄関で追いつく。
そうしたら、全部話して、シンジの話を聞いて…)
そう、考えているのに……、
(何で? 遠くなってる?)
最初にシンジを見かけた時より、シンジとの距離が開いていた。
(シンジが急いでる? いや、違う。
……アタシが、遅れてるの?)
そこで、気づく。
自分が考えているよりずっと、足がうまく動いていない。
それどころか、シンジに追いついて話をすることを考え始めた途端、
進む足の勢いはさらに弱まり、今にも止まりそうなくらいになっていた。

588: 2008/10/06(月) 01:55:29 ID:???

自分の思い通りにならない両足を、にらみつける。
「……な、」
その目に映った自分の両足は、かすかに震えていた。
……愕然とした。
(びびってるっていうの? このアタシが?
たかが、シンジと話をするくらいのことを?
――冗談じゃないわよ!)
最後に残った意地がアスカに呪縛を破る力を与えた。
すくむ足を意志の力でねじ伏せ、まるで怒っているような大股で、
ほとんど走るくらいの勢いで玄関へ。
バクンバクンと心臓は無意味に早鐘を打ち、呼吸が苦しくてたまらない。
吸っても吸っても酸素が足りなくて、それでもいくら息を吸っても、
それが満たされないことは心のどこかで分かっていた。
一歩一歩、歩みを進める度にその苦しさと重みは増していき、
だがアスカはそれを精神の昂揚のせいだと説明付ける。
――玄関までは、あと少し。
あと少しで、着いてしまう。
知らない内に、手に汗がにじんでいた。
「ええい、情けないわよアスカ!」
そんな葛藤を、無鉄砲なプライドだけで打ち破り、
「……いた」
――見つけた。
幸いにも、シンジはまだ下駄箱の前にいた。
見慣れた制服の背中に向かって、
「あ、シン…」
そう、声をかけようとして、

「なん、で…?」

――今度こそ、足が、凍った。

589: 2008/10/06(月) 02:07:21 ID:???
その場に足を縫いつけられたように、アスカは一歩も進めない。
ただ、目の前に広がる光景を前に、呆然とつぶやく。
「どうしてよ…」
アスカが逡巡した、ほんの数秒の間に、
「なんでアンタが、そこにいんのよ…」
シンジの横には、別の人影。
そこには、

「なんでそこにいるのよ、ファースト!」

――そこには、レイが立っていた。
「なん、で…!」
どうしても抑え切れず、アスカの口から同じつぶやきが漏れる。
何が起こったのかくらい、もちろんアスカにだって分かる。分かっている。
玄関でレイがシンジを待っていたという、言葉にすればただそれだけの話。
だが、それでも『なぜ』という言葉が脳裏から離れないのは、
それが信じがたい事実で、信じたくない真実だから。
――なぜならそれは、今まで一度だって他人の都合を気にしたことのないレイが、
シンジのために時間を使ったということ。
ただ、シンジと一緒に歩くというだけのために、わざわざずっと、
こんな場所でひたすらにシンジを待っていたという、その……。

590: 2008/10/06(月) 02:27:27 ID:???

「――ッ!」
その時突然、レイが振り向いて、アスカの体が硬直する。
――見られた!
その視線の動きに、アスカは確信する。
屈辱と羞恥に顔が赤くなる。
しかしレイは、それからアスカについて何の反応もしはしなかった。
まるでそこに誰もいなかったかのように、ただシンジに向き直り、
そしてレイは、アスカの見ている前で、
――アスカがいるはずだった場所に立って、
――アスカが思っていたように話をして、
――アスカが望んでいた通りのシンジの笑顔を受ける。
そして最後まで、アスカのことは意識にものぼらせぬまま、
ただシンジに向けて『行きましょう』とレイの口が動く。
シンジがうなずき、そして、
「……ぁ」
並んで歩くその小さな手に、シンジがそっと、手を伸ばす。
数度、シンジの手はためらうようにレイの近くをかすめ、
それを受け入れるようにわずかにレイから手を寄せて、
そこで、二人の目が合って、どちらからともなく、
二人、まるで示し合わせたようなタイミングで手を触れ合わせる。
それでもその手はまだ躊躇って、シンジがレイの指の先を包むように、
じれったいほど控えめな、淡い結びつきをようやく作る。
それでそのまま、手をつないだまま二人は校舎の外へ歩き去って……

592: 2008/10/06(月) 03:01:57 ID:???

「……ゆるさ、ない」
ただ立ち尽くすだけだったアスカの口から、ぼそりと言葉が漏れる。
(――行くのよ、アスカ!)
自分を叱咤する。
――他の、何が許せても、自分を無視することだけは、絶対に許されない。
嫌われても、遠ざけられてもいい。
けれど、まるで自分を、いない物のように扱うのだけは、絶対に…!
「許しちゃ、いけないのよ! アタシは…!」
そう声をあげて、アスカは――

……穏やかで、幸せそうな二人の空間に、割って入る。
ずんずんと、二人に向かって進んでいき、
「アンタたち、まだこんなトコにいたワケ?
もうとっくにNERVに着いてるかと思ったわよ」
手をつなぐ二人に無神経に声をかける。
それで二人の間の甘い空気なんて一瞬で吹き飛んで、
「なぁんて。さっきの、見てたわよ。
ずいぶんとアッツアツじゃない」
そんなことを言いながら、あいかわらず無表情なレイと、
狼狽するシンジの間にムリヤリに体を割り込ませる。
それで二人の仲が変わるワケではなく、だが少なくともそこにはもう、
二人の間に広がる特別な雰囲気などない。
「ああそうそう、シンジ。アンタに後でちょっと相談があるんだけど…」
だからアスカはそこで、自分から一歩を踏み出して……

――なんてこと、出来るはずもなかった。

593: 2008/10/06(月) 03:03:06 ID:???

前になんて、一歩も進めないまま、
楽しげな二人の姿を、直視することすら出来なくて、
現実のアスカは、ただ全てに背を向けて、
逃げて、隠れて、
追われるように逃げ込んだ教室の陰で、
震えながら膝を抱え、
何も出来ずにうずくまっていた。
そして、

「……ちく、しょう」

抱え込んだ膝の上に、悲しみの欠片がぽつりと落ちた。

603: 2008/10/13(月) 11:56:52 ID:???

――シンジは困惑していた。
昨日から、アスカの様子がどうもおかしいのだ。
何が原因なのだろうかと、少し思い返してみる。
……そういえば昨日は、学校にいる時から何かに気を取られているようだった。
特に一度は、授業が終わったにも関わらず席に座ったままぼうっとしていて、
迷った末に思わず声をかけてしまったくらいだ。
とはいえ、シンジとも何度か話をしたし、多少ぎこちなかったものの、普通に会話が出来た。
今までのぎくしゃくした付き合い方を思うと昨日はうまくいっていた方だったはずだ。
――決定的な何かがあったとすれば、たぶん授業が終わった後。
放課後、シンジは日直の仕事を終え玄関に行くと、驚くべきことにレイが待っていてくれた。
今思うと、ただシンジが日直だということを伝え忘れていたせいなのだろうが、
その時のシンジはすっかり舞い上がり、まだ校内だというのに手をつないでしまったりもした。
……まあそれは恥ずかしかったので、校門を出る前に人目を感じてすぐに離してしまったが。

なんにせよNERVへの道中、シンジはレイとぽつりぽつりと会話をしながら歩いていた。
会話をしていると言っても、話をするのはもっぱらシンジで、
レイはそれに対し一言二言コメントをするという程度。
シンジはレイがそういう性格だと分かっていたし、
この会話を楽しんでいるようだというのも雰囲気で分かったが、
傍から見ればシンジがよっぽど舞い上がっているように見えただろう。

604: 2008/10/13(月) 11:58:56 ID:???
だが、ふとした拍子にアスカの名前が出て来た時だけは違った。
「……セカンド」
「え?」
「最近、なにかあった?」
今まで寡黙に相槌を打つだけだったレイが、少しトーンの違う言葉で応じたのだ。
そしてその後、
「アスカのこと? どうして?」
「…いいえ。ただ、昨日すこし様子がおかしかったから」
事情を聞こうとしたシンジに対し、そう突き放すように会話を終わらせたのを、
シンジははっきりと覚えている。

その時レイが口にしたアスカについての言及はそれだけで、
「やっぱり昨日、屋上で何かあったの?」とシンジが尋ねても応じなかったのだが、
少なくとも、レイが気にするほどにアスカの様子はおかしかったということだ。
――結局、レイからアスカのことを聞き出せないままNERV本部に着いて、
シンジは先に学校を出たはずのアスカがまだ本部にやってきていないことを知った。

そして、シンジとレイからたっぷり三十分は遅れてやってきたアスカは、
その時からもう、ひどく様子がおかしかったのだ。

605: 2008/10/13(月) 12:00:14 ID:???

放課後になってから、アスカがNERV本部にやってくるまでの数十分。
この間に何かが起こったとしか考えられない。
(空白の数十分、か。……その間、アスカに一体何があったんだろう。
もし僕がアスカの異変に気づいていたら、何か変わったのかな?)
つい、そんなことを思ってしまう。
しかし、現実にはシンジは、その時どこかでアスカが悩んでいることも知らず、
レイと二人きりで歩けることに胸を躍らせ、喜んでいたのだ。
そんな自分の能天気ぶりが今は憎らしい。
(もちろん、アスカの悩みは僕には関係ないかもしれないけど、
でも、少しくらいなら相談してくれたっていいのに……)
部外者だからこそ客観的な判断も出来るし、話すことで楽になる悩みもある。
だから、
(少し強引にでも迫って事情を訊いてみようか)
そんな風に思って、実際、朝は声をかけたのだが、
「……朝からうるさいのよ、アンタは。
少しでもアタシのことを思うなら、その口閉じててくれる?」
不機嫌そのもののアスカにシンジは思わず鼻白み、
「待ってよ、アスカ! 何か事情があるなら…」
それでもあきらめきれずにアスカを引き止めようと腕をつかむと、
「さわんないでよ!」
ヒステリックな声と共に、つかんだ手がすさまじい勢いで振り払われて、
「『アスカ、アスカ』って、アンタ、キモチワルイのよ!
みんながみんな、アンタに手を引かれて喜ぶなんて思わないでくれる?
少なくともそんなの、アタシはぜっったいにゴメンだわ!!」
手酷い罵倒の言葉を残して、アスカはシンジの前から駆け出していった。

606: 2008/10/13(月) 12:01:28 ID:???

あれから数時間経った今でも、その時のことを思い出すと心が痛む。
アスカからのあれほどの拒絶は、シンジにとっても久し振りだった。
教壇から聞こえる教師の平坦な声を聞き流しながら、
「……僕はまた何か、失敗、したのかな」
シンジのことなど眼中にないように、一心に黒板を眺めるアスカを盗み見る。
――アスカに何か秘密と悩みがあることは分かっている。
そしてその解決に、シンジはおそらく役には立たないだろうということも。
きっとアスカは何か大きなトラブルを抱えていて、
そのせいでシンジに関わっている余裕がなくなっているのだろう。
(それでも……)
シンジはもう一度、アスカと話をしてみようと決意をした。
――だって、困った時には他人を頼れと言ったのも、
レイに拒絶され、臆病になった心に喝を入れてくれたのも、
全部アスカだったから。
(だから、アスカ。僕は、あの時のアスカの言葉通りにするよ。
もう一度、君にぶつかってみる。……その結果が、たとえ拒絶だとしても)

――そうして。
チャイムが鳴り、教師が授業の終了を告げると共に、シンジは立ち上がった。

727: 2008/11/28(金) 20:49:54 ID:???

――アスカは苦悩していた。
昨日から、どうしても自分の感情がコントロール出来ないのだ。
いや、感情どころか……。
アスカは今朝の出来事を思い起こす。
朝、シンジに腕をつかまれた時、襲ってきたのは掛け値なしの恐怖だった。
「さわんないでよ!」
自分でも声が出せたのは暁光だと思う。
とにかくシンジの腕を振り払って、それから何とか罵倒の言葉を言いつくろい、
シンジの前から逃げ出すのがアスカの精一杯だった。
「なんで、なんで止まらないのよ。克服、したはずなのに…!
トイレで話した時だって、あんなに近くにいても大丈夫だったのに…!」
逃げ込んだ部屋の中で、アスカは震えていた。
どんなに強く体を押さえても、全く収まらない。
――捨て去ったはずのトラウマが、治り切ったはずの心の傷が、
再びアスカに舞い戻り、アスカの心を押し潰そうとしていた。

728: 2008/11/28(金) 20:51:20 ID:???

それから、アスカはシンジを避けた。
避けることしか、出来なかった。
……だって、話なんて出来ない。
向かい合っているだけで怖くて震えそうなのに、
逃げる以外に何が出来るというのか。
――いっそその怯えすらも全てぶちまけて、シンジと向き合えたら、
と夢想することくらいはある。
だがそんなこと、今まで一度としてやってこなかった。
一人ではどうしても乗り越えられない壁にぶつかった時、
アスカはいつだって自分の殻に閉じこもって、
自分以外の全てを拒絶してきた。
……だからアスカは、それしか知らない。
それ以外のやり方があるなんて、アスカは考えもしなかった。
――でも、そのくせ心の隅、無意識の領域では常に望んでいる。願っている。
自分を分かってもらうこと、この苦しさを、胸の痛みを、誰かに、
いや、あるたった一人の少年に、理解してもらうことを……。

729: 2008/11/28(金) 20:53:04 ID:???

そして、もしかすると、だから、なのかもしれない。
チャイムが鳴り、教師が授業の終了を告げ、そして彼が、
シンジがこちらに来ようとしているのが分かっていながら、
アスカが動けなかったのは。
「……アスカ」
アスカの席までやってきたシンジが、こちらは少し緊張に硬くなった声で、そう声をかけてくる。
『なによ』
と返そうとして、喉の奥が強張って、声が出せないことに気づいた。
――情けない。
そう自分を罵るが、仕方ない。
一層気まずくなることが分かっていても、一度は開いた唇を貝のように固く切り結んで、
アスカはだんまりを決め込む。
「あ、あの……」
そのアスカの拒絶に、気弱なシンジは何も言えなくなってしまう。
シンジは何度か口を開こうとして、それでも結局何も言えない。
そしてアスカも、何も言えない。
(もういいから早く、早くどっかに行ってよ!)
心の中、そう叫ぶ気持ちの一方で、
――シンジと話がしたい、全部伝えてしまいたい。
そういう思いもまた、拮抗して存在していた。
それが二重の呪縛となって、アスカからは何も出来ない。何も言えない。
そしてそのまま、時間だけが過ぎ、
「……ごめん。大した話じゃないから」
シンジはやっとそれだけを口にして、アスカの前から歩き去って……

――シンジの歩き去る先、視界の奥にレイの姿が見えた。

730: 2008/11/28(金) 20:54:39 ID:???

フラッシュバックする、あの時の光景。
『待って!』
アスカの奥のアスカが、声をあげる。
『待って、シンジ!』
手をつないで、アスカの前からいなくなる、シンジとレイ。
行かせてはいけない、そんな気がして、
行かせたくはないと、心が叫んでいた。
「……っ!」
それでもいまだ声は出せず、手だけが伸びていた。
遠ざかっていくシンジに、アスカは必氏で、その手を伸ばし、
「……ぁ」
――しかし、届かない。
まだ、何も伝えてなどいないのに、
伸ばした手は、何もつかむこともなく、
「キャッ!」
バランスを崩したアスカは、無様に地面に倒れ込んだ。

「アスカッ?!」

慌てたようなシンジの声で、シンジがこちらに戻って来たのが分かったが、
(……かっこわるい)
アスカに残ったのは、苦い悔恨と羞恥の思いだけ。
シンジに手を伸ばした瞬間の勇気は、
もうどこかに行ってしまっていた。

731: 2008/11/28(金) 20:59:12 ID:???

「やめて。大丈夫だから、アンタの助けなんか…」
地面に両手をついたまま、顔も上げず、
アスカはシンジの助けを拒んだ。
触れられるのが、怖い。
伝えるのが、怖い。
また拒絶されるのが、……怖い。
――だから、シンジにはこれ以上、近づいて欲しくはなかった。
しかし、
「こんな時に、意地張るなよ!」
驚きすら感じるヒマもなく、
「え、あっ…」
意外に強い力で、腕を引き上げられる。
反射的に上を見上げると、そこに立つシンジの顔は、
なぜだか怒っているように見えた。
そして、こみ上げる怒りを、吐き出すように言う。
「アスカが最近様子が変なのは、アスカの隠してることと関係してるんだろ!
そりゃ、僕には話せないことなのかもしれないけど、」
「…は?」
全くかみ合わない言葉に、思わずアスカの口から間の抜けた声が漏れるが、
怒っているシンジは全く気づかない。
いや、元より鈍感なシンジが、気づくワケがない。
「だからって、体の調子が悪い時まで、人を遠ざけようとするなよ!」
ただそう言って、正面からアスカの顔を覗き込んでくる。
見当違いの心配をされてると分かっても、
それよりもまずそのまっすぐな視線に、アスカは動揺してしまう。
「ち、違うわよ。アタシは、アタシが悩んでるのは……」
それでもよく分からない誤解を解こうと、アスカもようやく口を開き、
――その時になって、やっと気づいた。
いつのまにか、震えも緊張も、びっくりするほどあっさり抜けていた。
今ここにいるシンジを、アスカを真剣な目で見つめてくるシンジを見ていると、
どうして、何を悩んでいたのか、そんな理由がもう思い出せなくなってしまう。

733: 2008/11/28(金) 21:01:25 ID:???
そんな驚きからアスカが顔を伏せて黙ってしまうと、
そこでシンジも我に返ったのか、
「あ、ご、ごめん…!」
アスカの腕から慌てて手を放す。
そうしてまるで思い出したかのように急に照れ始め、
「と、とにかく、理由とか、話とかはいいから、まずは保健室に行こう。
つらいなら、僕が付き添っていくから、すぐに…」
それでもアスカを気遣い、そんな提案をしてくるが、
「ああ、もう! それこそどうでもいいのよ!!」
そう、どうだっていいのだ、もうそんなことは。
どうしようもないことや、どうでもいいことばかり、気にしすぎていた。
……もちろんアスカは分かっている。
これが一時の感情で、後になったら後悔するだろうということも、
冷静になればすぐ気弱の虫が戻ってきて、悩むことになるだろうということも。
だが、それでもやっぱり、どうでもいいのだ。
――だって自分はここにいる。
だったらそれを、この惣流・アスカ・ラングレーという存在を、知らしめなくちゃならない。
「いーい、シンジ。とにかく――」
それが自分を騙す口実で、目の前の少年に伝えたいワケが別にあったとしても、
それだって大して重要じゃない。
大事なのは、話すこと、伝えること、……自分から、歩み寄ること。
だから、アスカは、

「――昼休み、屋上に来なさい!」

ようやくその最初の一歩を踏み出したのだった。

734: 2008/11/28(金) 21:05:42 ID:???

「我ながら意気地がないわね。
こんなになるまで、決心がつかなかったなんて」
誰もいない屋上で、アスカはそうひとりごちる。
授業が終わり、昼の休憩時間が始まった途端、
アスカはわき目も振らずに教室を出て、まっすぐに屋上へとやってきた。
こんな精神状態で昼ご飯が喉を通るはずもないし、だったら早めにここに来て、
シンジが来るまでに少しでも心を落ち着かせたかった。
「……ふぅ」
特に目的もないまま屋上の端まで歩いていき、手すりに背中を預ける。
体を反らすと、目の前に高い空が広がった。
「ほいっ、とね」
なんとなく思いついて、飛び上がって手すりの上に腰かける。
肩越しに下を見れば、目に入るのは十数メートル先の地面だけ。
何かの拍子にバランスでも崩して落ちてしまえば、
十中八九、助からないだろう。
落ちる想像をしていたせいだろうか、なんとなくアスカは、
弐号機で火口に下りていった時のことを思い出し、
「あぁ。そう、か。そういう手も、あるわね」
そんな風に呟いた時だった。
鉄の軋むような音を立てて、屋上の扉から、シンジが姿を現わした。

735: 2008/11/28(金) 21:06:12 ID:???

「……来たよ、アスカ」
シンジがそう呼びかけるが、アスカは答えない。
「アスカ…?」
訝しげな声。
それにも答えがないと知ると、シンジはそのまま、
少しずつアスカの方に近づいてくる。
――ゆっくりと縮まっていく、二人の距離。
そしてその距離が、五メートルを切ろうとした時、
突然アスカはふっと笑って、
「……ねぇ、シンジ、見て見て」
まるで、いつかの時のように、

「バックロール・エントリー」

手すりに腰かけたまま、頭をぐるりと後ろに倒す。
――空が遠退き、耳元で風がうなりをあげ、
「アスカッ!!」
聞こえる、悲鳴のようなシンジの声。
駆け寄ってくる気配。
――だが、遅い。遅すぎる。
その時にはもう、アスカの視界は百八十度回転、
頭は既に地面に向かって一直線に伸びていて……
「……なあんてね」
アスカは逆さになった視界のまま、そう呟いて笑った。

736: 2008/11/28(金) 21:08:16 ID:???

「よ、っと」
勢いをつけ、体を元に戻す。
飛び降りるつもりなど、端からさらさらなかった。
さっきは上体を逸らしただけで、アスカの足はまだ屋上の内側に残っていたし、
両手でしっかりと手すりをつかんでいた。
高所に対してことさらな恐怖心もなく、運動神経も良いアスカにとって、
特に気負う必要すらない行為だった。
「あ、アスカ…ッ!」
駆け寄ってきたシンジが、何が何だか分からない、という顔でアスカを見ていた。
そんなシンジの顔を、アスカは余裕の笑みで迎え撃つ。
「あははッ。なんて顔してんのよ。
もしかして、アタシが自頃するとでも思った?」
それでも驚きが大きすぎたせいか、シンジはパクパクと口を開閉させるだけで、
とっさには何もしゃべれなかった。
「なによ、心臓ちっちゃいわね。そんなに焦ったの?」
そんなシンジに、アスカはそう罵倒の言葉を吐く。
しかしこの時、アスカの心臓こそが暴れるほどに高鳴っていた。
「あ、焦るに決まってるだろ!
あ、あんなこと言いながら、体を倒したりしたら……」
――そう、その一言を聞きたくて。
「ふぅん。あんなこと、ねえ。……なら、覚えてたんだ、前にアタシがやってみせた、アレ」
「前にプールでやってたじゃないか。バックロール何とかって。それくらい…」
言葉を続けようとするシンジを、さえぎって、

「――ねえ。ほんとうに、覚えてるの?」

アスカは決定的な言葉を叩きつける。

737: 2008/11/28(金) 21:10:56 ID:???

「え?」
固まってしまうシンジに、一言ずつ、言い聞かせるよう、思い出させるように、
「……本当に、アンタは覚えてるの?
まだ、修学旅行の話すら出ていない今の時期に、
アタシとプールに行ったこともないシンジが、
『ソレ』を本当に覚えてるの?」
「あ、あ……」
ようやく、アスカの言いたいことが分かってきたのだろう。
シンジは言葉にならない声を出す。
(決まり、ね。これで決定的だわ)
バックロール・エントリーという言葉は、行けなくなった修学旅行の代わりに、
シンジたちがプールに行った時に口にした言葉だ。
もちろん今回の世界では、一度も言ったことがない。
「なん、で。なんで、アスカが、君が、それを知って……」
呆然と、シンジは尋ねる。
だがアスカは、無駄な問答をするつもりはなかった。
事ここに至っては、結論など一つだろう。
……本当は、シンジだってそれを分かっているはずなのだ。
「ねえシンジ。分からない? 本当に、分からないの?」
だからアスカは、それだけを問う。
もちろんシンジにとっても、それで充分だった。
長い、間。
アスカにとっては、数分にも思えるくらいの、長い長い間があって、

「……アスカ、なの?」

やっとしぼり出した、というような声で、
シンジはようやく、アスカの望み通りの言葉を発した。

739: 2008/11/28(金) 22:01:49 ID:???

「ええ、そうよ」
アスカは胸を張る。
しかし、シンジはその言葉では誤解の余地があると思ったのだろう。
少し言葉を考え、言い直す。
「本当に、本当に僕の世界のアスカ?」
だが、もちろんその質問への答えもイエスだった。
「あったり前でしょ! 前の世界のことだったら、何でも覚えてるわよ。
アンタが命令無視して使徒に取り込まれたことから、
アンタとやったくっだんないケンカまで、全部ね!」
「じゃあ、ほんとに……」
そう呟いたきり、シンジはまるで金縛りにあったかのように、
動かなくなってしまう。
一秒、二秒……アスカにとって、まるで拷問のような時間が過ぎる。
一向に何のリアクションも示さないシンジに、アスカはすっかり焦れていた。
お互い、もう会えないと思っていた相手に再会したのだ。
泣いて喜べ、とは言わないが、もう少し何か反応があってもいいとアスカは思う。
――それとも、やはりシンジは自分を、『この』アスカのことを、
邪魔に思っていたのだろうか。
そんなアスカの思いに気づかないまま、シンジがもう一度尋ねる。
「最後に、もう一回だけ、訊くけど……。
ほんとのほんとに、君は、『あの』アスカ…?」
「だからそうだって言ってるでしょうが!
いい? アンタが何考えてようと、アタシは…」
焦れていたアスカは叫ぶようにそう答え、しかし次の瞬間、

「アスカッ!!」

それに倍する声でシンジが叫び、突然アスカに飛びついてくる。
「ちょっと、な…!? キャア!」
その勢いに耐え切れず、アスカはシンジと折り重なるようにして倒れた。

740: 2008/11/28(金) 22:02:32 ID:???

「な、何トチ狂ってんのよ! こら! この、離れなさいって!」
アスカは暴れ、シンジのわき腹に手加減なしの膝蹴りを叩き込む。
だが、それでもシンジは離れない。
この細い腕によくもここまで、と思うほどの強さで、
アスカに必氏にしがみついてくる。
そして、
「よかった! よかったよ! アスカ!!」
――そんなシンジの言葉を聞いた途端、
シンジを押しのけようとしていたアスカの足から力が抜けた。
いや、それどころか、全身からどんどん力が抜けていく。
体全体に感じるシンジの重みがなぜだか嬉しくて、
背中に回された腕のキツささえ、何か幸せな痛みに感じられた。
「アスカ、アスカァ…!」
気がつくと、胸の中のシンジの言葉は、いつしか嗚咽に変わっている。
それを聞いて、アスカは笑った。
「なによ。こんなことで泣いちゃって。……なっさけないヤツ」
そう突き放すアスカの顔には、しかし侮蔑の色はない。
あるのはただ、純粋な喜びだけ。
「だっ、て、ずっと、心配して……。
僕が、とんでもないことを、って……」
嗚咽混じりの、途切れ途切れの言葉。
支離滅裂で、聞き取りづらい言葉だったが、
それだけでも想いは伝わった。
それはアスカの胸にじんわりと染み込んでいき、
その心を温めてくれる。

741: 2008/11/28(金) 22:03:29 ID:???

「それじゃ、何言ってんだか分かんないわよ、まったく…」
口ではそう言いながら、アスカはやっぱり笑っていた。
屋上でシンジに押し倒されているという状況も、
体に回されたシンジの腕の力強さも、嗚咽と共に聞こえる情けない声も、
背中に感じる屋上の床の熱さすらも、何もかもを心地よく感じてしまう。
――そして、首筋に感じる、ぽつりと水の滴る感触。
「なに、泣いてんのよ、バカ。こんなことで……こんな、ことで…」
しかし、アスカの目にも熱い何かが込み上げてくる。
(ばか。泣けないわよ。こんなことで、アタシは…!)
だから慌てて上を向いて、それを堪える。
ただ、それでも込み上げるもう一つの衝動は堪えようがなく、
アスカは目の前に見えるシンジの肩に、ゆっくりと自分の両腕を回し……

「ええと、これ。何がどないなってこうなってこうなっとるんや?」
「…さあ?」
「アスカ、碇君……フケツだわ」

――観客に、気づいた。

742: 2008/11/28(金) 22:04:25 ID:???

見ると、屋上の入り口辺りにクラスメイトたちが集まって、こっちの様子を窺っていた。
……考えてみれば、教室であれだけ派手にシンジを呼び出しておいて、
野次馬好きなクラスメイトたちが様子を見に来ないはずもなかったのだ。
「~~~ッッ!」
今の自分たちの行為が見られていたと悟り、アスカの顔はカアーッと赤に変わる。
……だが、それからがアスカの本領発揮だった。
正に電光石火。恐ろしい力でシンジをもぎ離し、

「――キャアアアアアア! チカン、ヘンタイ!!」

今さらな悲鳴をあげて、シンジをそのまま蹴り飛ばす。
「あ、アスカ……。はは、ひどいや」
シンジはアスカの突然の行動に多少驚いたようだが、蹴られて転がされたのに、
まだ嬉しそうにアスカを見上げる。
それを見て、アスカは一瞬「…う」と漏らして鼻白むが、すぐに立ち直り、
「あ、アンタってやっぱり最悪の男ね、シンジ!
か、か弱いアタシが無抵抗なのをいいことに、ムリヤリ押し倒して…!!」
ビシッと指を突きつけて、まあそういうことにしようとした。
「ムリヤリて、思いっきり背中に手、回そうとしてたやないか…」
「うんうん」
だが、こんな時ばかりは冷静に、トウジとケンスケがツッコミを入れる。
「う、うっさいわね! あれは油断を誘うための演技よ、演技!」
油断ってなんだよ、と屋上に様子見に来ていたクラスメイトたちは一様に微妙な顔をするが、
「い、いい? 今、起こったことはねぇ…!
さいしょっから最後まで、全部、嘘!! 冗談なの!!」
アスカはもう勢いだけでそう言い切る。……が、
「いまさら、そないなこと言われてもなぁ…」
「まあ、アスカがそう言うなら、そういう事にしてあげても…」
「惣流って意外と熱いヤツだったんだな。正直、見直したよ」
いくらトウジたちが鈍くとも、今さらそんなことを信じるはずもない。

743: 2008/11/28(金) 22:04:56 ID:???

ただ、一人だけ、
「嘘、だったなんて…」
シンジだけがアスカの言葉を信じ、呆然としていた。
「って、アンタが真に受けてどうすんのよ!」
それにはアスカも思わず、ツッコんでしまう。
それに対してクラスメイトたちが反応し、アスカが怒鳴り返して、
と、もはやしっちゃかめっちゃか。
どうにも収まりがつかなくなった所で、

「おい、一体何の騒ぎだ!? もう昼休みは終わりだぞ!」

騒ぎを聞きつけたのだろうか。
屋上の扉を開けて、教師までやってきた。
「げっ!」「…へ?」「うわっ」「やば…!」
束の間、時が止まる。
――真っ先に動いたのは、やはり機を見るに敏なアスカであった。
「な、何でもありません!
アタシ、NERVの仕事があるので早退します!」
そう言うと、制止しようとする教師の横をすり抜け、
アスカは一人、校舎に戻っていってしまう。

一方の主役がいなくなり、さらに教師の前だということもあって、
屋上での騒動はすぐに鎮静化した。
みんな表向きはおとなしく教室へと戻っていく。
その間、もちろんもう一人の当事者であるシンジは、
男子連中につつかれたり女子たちに小声でひそひそと何か言われたり、
そこだけはとてもいつも通りとは言えなかったが。

744: 2008/11/28(金) 22:05:27 ID:???

それでもクラスの全員が教室に戻り、ざわめきも収まって、
ようやく授業が始まったくらいの頃だった。
――バン、という音と共に教室の扉が開く。
入ってきたのは、アスカ。
教室に入るなり、きょろきょろと辺りを見回し、
「あ、アスカ…! これ……」
困ったような表情で、アスカのカバンを手に立ち上がるヒカリに、
ドスドスと音を立てて近づいていく。
そうしてヒカリの前まで来ると、アスカは顔を真っ赤にさせたまま、
ヒカリからカバンをふんだくるように奪ってUターン、迷わず扉に向かう。
そのあまりの迫力に、教師すら言葉をかけることを思いつかないまま、
再びのバン、という音で教室の扉が閉まる。
「……ッッ!」
それでも苛立ちは収まり切らないのか、アスカはそのまま止まることなく、
まるで怪獣のように乱雑で破壊的な足取りで廊下を進む。
「あぁ、もう、もう、もう、もう、もう!!
せっかくクラスで作りかけてたキャラも、これで全部台無しじゃない」
顔を下に向け、すっかりゆだってしまった顔を隠しながら、誰が見ても苛立っているのだと分かるように、
あんなの嫌だったのだと知らせるように、全身で怒りを主張しながら歩く。
「これもそれもあれも、とにかく全部全部、ぜぇーんぶ、あのバカシンジのせいだわ」
こぼれる言葉とは裏腹に、その口元はどうしようもなく弛み、前髪で隠した目元はかすかに潤んでいる。
「もう、ほんとにもう、バカ、なんだから!」
そうやって口に出していないと、内側から弾けて、どうにかなってしまいそうだった。
角を曲がり、人が誰もいないのを確認して、アスカは立ち止まって壁に背中を預ける。
「あぁああぁ! もう! バカシンジ! バカシンジ! バカシンジ!」
カツン、カツンと頭を壁に何度もぶつける。
それでもシンジの本当に嬉しそうな笑顔が、抱き締められた感触が、どうしても頭から抜け切らない。
だからアスカは、最後に、もう一度だけ。
「……バカ、シンジ」
まるで舌の上で蕩かすみたいに、そう、呟いた。

60: 2009/03/30(月) 02:10:40 ID:???

『リツコ? いるー?』
『どうしたのよ、ミサト。今日は特に話す必要のある事もなかったと思うけど』
『はぁ。そんなだからあんたは冷血とか冷徹とかって言われるのよ。
シンちゃんとアスカのことよ! 感動的な場面だったじゃない!』
『ああ、あれね。陳腐な青春ドラマみたいな展開だったわね。ミサトが好きそう』
『……あんた、あれを見てそれ以外の感想ないワケ?』
『正直、めでたしめでたしね、としか言い様がないけれど。
でも、あなたも分かってるでしょ。本当に大変なのはこれからよ。
あれは再会というスパイスがお互いの気持ちを盛り上げた結果に過ぎないわ。
冷静になってもう一度相対した時、同じような態度が取れるとは思えないわね』
『そりゃ、そうでしょうけどね……。でも、二人は前に進んだわ。確実にね』
『ええ。それは否定しない。けれど、進んだからこそ見える辛さもある』
『それは……』
『もう一度言うわよ。――あなたも分かってるでしょ。
普通に好き合うのでも、あの子達には障害が多いわ。
そして近い将来必ず、恋愛ごっこをやっていられなくなる状況がやってくる』
『だからって、今の喜びを享受もしないで何も考えず、何もせずに生きてろって言うの?
それが正しいなんてあたしは思わない』
『別に、正誤や善悪の問題を話している訳じゃないわ。
ただ、過度な期待をしたって、いつか裏切られるだけだと言いたいの。
だからあなたと、無意識の領域でこの話を聞いているシンジ君に言うのよ。
もういい加減、学ぶべき頃合でしょ。人生、いい事ばかりが続くはずない、ってね』
『…………』
『あら、白けさせちゃったかしら。ごめんなさい、私はもう行くわ』

61: 2009/03/30(月) 02:11:49 ID:???

『…リツコ?』
『――――』
『行っちゃったの?』
『――――』
『……そう。リツコ、あなたの言ってること、分からないワケじゃないけれど』
『――――』
『……シンジ君。聞こえていないのは分かっているけど、聞いて。
これから何が起こるのか、あたしにだって、たぶんリツコにだって分かっていないわ。
でも、何かが起こることだけは間違いない。
だけど、それに負けないで欲しいの。
……ええ。勝手なことを言ってるのは分かってる。
でもね、シンジ君。人とも呼べないような、まがい物のあたしたちだけど、
それだけにあなたはあたしたちの希望なのよ。
……もしあたしたちがにらんでいる通り、この世界に何かが起こったら、
今日のあの出来事だっていつか、
とてもちっぽけで取るに足らないことだと思うようになるかもしれない。
けれど、今までのことも、これからのことも、
人と関わった記憶は決して無意味なんかじゃないわ。
今日手にした物、感じた想いを大切にして、ずっと胸を張っていなさい。
……あたしが言いたいのは、言えるのは、それだけ』
『――――』
『……またね、シンちゃん』

62: 2009/03/30(月) 02:25:36 ID:???


「ふむぅ……」
目の前の画面に映るデータとにらめっこをしながら、ミサトがうなる。
そんなミサトの姿に目を留めて、リツコはからかうように声をかけた。
「あら、心配そうね?」
「……む。まあ、そりゃ、少しはね。レイだって一時期調子を崩していたし、
修復作業のせいで、まともに零号機に乗るのは久しぶりでしょ」
そのふてくされたような表情を見て、リツコは性格の悪い笑みを浮かべた。
「少し、ね。ずぼらなあなたが休日返上で大して重要度の高くない実験に付き合う、
そのくらいの心配を少しって言うなら、きっとそうなんでしょうね」
「……そう思ってんならいちいち聞くんじゃないわよ、意地が悪いわね」
あくまでも小声での言葉の応酬だが、二人の口は軽い。
今回の起動実験は慣らしのようなもので、
あまり重要視されていないということもあり、
司令も副司令も立ち会っていないのだ。
「そういうあんたは心配なんてしてそうにないわね。
いつも通り、澄まし顔で座っちゃってさ。
……隙のない女って、案外モテないそうよ」
顔を寄せたまままだ笑っているリツコに、ミサトは軽口を切り返す。
「そう? 私生活がだらしなくて、
部屋の片づけも出来ないことを隙と言うのなら、
私は遠慮しておきたいものね」
「うぐ、あんた……」
手痛い反撃を食らって言葉を詰まらせるミサトに、
リツコは少しだけ表情をゆるめ、
「第一心外だわ。私だってレイのことは心配くらいしているわよ」
「レイを、じゃなくて、エヴァのパイロットを、でしょ」
さきほどの恨みからかミサトが皮肉っぽく返すと、あっさりと首肯した。
「それは否定出来ないわね。でも、心配しているのは本当よ。
たぶん、彼女がエヴァのパイロットだというのを抜きにしても、ね」

63: 2009/03/30(月) 02:34:53 ID:???

「へぇ、意外ね。あたし、あんたはレイのこと嫌いなのかと思ってたわ」
「あら? 私が彼女を嫌う理由があるのかしら?
……なんて言うのも、白々しいわね。好きに想像すればいいわ。
それも別に、否定はしないから」
「でも、心配しているのは本当だって?」
「ええ。好きや嫌いだけで世界が動いている訳ではないもの。
嫌いだけど認めているとか、惹かれているけど憎んでいるとか、
好き嫌いだけで割り切れるほど、世の中って単純じゃないでしょ?」
リツコがそう言うと、ミサトはなぜか額を押さえた。
「なんでかしら。あたし、あんたなら逆のことを言いそうだなって思ってたわ」
「どうかしら? 現実を生きてる女はそんな風には思わないものよ」
その言葉に、ミサトは「現実ねぇ…」と気だるげに息を吐き出して、
「それじゃとりあえず、当面の現実ってヤツを片づけますか」
と体を起こすと、零号機へのスピーカーをオンにした。

「レイ! 久し振りの零号機の調子はどう?」
「……わかりません」
「分からない? 分からないって、どういうことよ?」
てっきり『問題ありません』という答えが返ってくると思っていたミサトは、
少し口調を興奮させて問いかける。
珍しいわね、とリツコまでが身を乗り出す。
「…………」
その二人の期待を受け、何かを考えるような沈黙が続き、
しかし、結局自分の想いをうまく言語化出来なかったのか、
「……いえ、問題ありません。つづけてください」
いつもと同じ、そっけない返答がやってくる。

64: 2009/03/30(月) 02:35:49 ID:???

「いい、レイ。自分の調子を正確にこちらに伝えるのも、
パイロットの職務なのよ」
「はい」
「それで、何かあるんでしょ? いつもと違うところとか、何か…」
「問題ありません」
揺らぎのない、いつも通りの硬い声。
「そう。でも、何か気がついたことがあったら、すぐにあたしたちに言うのよ」
「はい」
これ以上レイの鉄仮面は揺るぎそうにないと見て取って、
ミサトは早々に会話を打ち切った。
「……あぁ、もう、すっきりしないわね」
しかし、依然引っかかっている何かが、ミサトを小声で毒づかせる。
それでも『どうするの?』と問いかけるリツコの視線に、
苦い顔で仕方なくうなずいてみせ、
「エヴァンゲリオン零号機、起動実験、始めるわよ!」
実験が、始まった。

65: 2009/03/30(月) 02:37:19 ID:???
 エヴァンゲリオン零号機 起動実験



――これは、わたし? 零号機の中にいる、わたし?


――いいえ、ちがう。いるのね、そこに。わたしじゃない、だれか。


――あなた、だれ?
――綾波レイ。かつて綾波レイとよばれた意志と記憶。


――綾波レイ? 綾波レイはわたし。あなた、だれ?
――わたしは、綾波レイ。あなたとおなじ。


――いいえ、ちがうわ。あなたとわたしはにているけれど、おなじではないわ。
――いいえ、ちがうわ。あなたとわたしはおなじだけれど、おなじではないの。


――わからないわ。あなたがなにを言っているのか、わからない。
――いいえ、あなたはわかっているはずよ。



――だって、あなたとわたしは、おなじ魂を持っているのだから。

66: 2009/03/30(月) 02:41:41 ID:???

「……おなじ、たましい? もうひとりのわたし?」
マイクが拾ったかすかなレイの言葉に、ミサトが反応した。
「レイ? 何かあったの!? 応答して、レイ?」
「――!」
その呼びかけの言葉が、まるで悪夢から覚めるように急速にレイの意識を浮上させる。
「……いえ、問題ありません」
意識を覚醒させたレイは、すぐさまそう言い切った。
「問題ないったって……」
ミサトは思わず髪をぐしぐしとかき回す。
レイの様子がおかしかったのは、時間にしてたったの数秒。
とはいえ、はいそうですかと看過出来るようなものでもなかった。
実験を中止させようか、わずかの間逡巡して、
「神経接続の際に意識の混濁が起こる事例は少なくないわ。
バイタルも正常値を示している。続行しましょう」
「リツコ?!」
さっさとゴーサインを出すリツコにミサトは抗議の声をあげた。
しかし、リツコはミサトの視線に微塵も揺るがない。
「やり直すにしても、準備にだって時間もお金もかかるのよ。
今の私たちにはどちらの余裕もないわ。負荷を下げて再開しましょう」
「ならせめて、一度中断して原因を探ってからでも……」
「あまりゴネないで、ミサト。実験の性質上、今回はあなたの主導でやらせてはいるけど、
この件に関する決定権は依然として私にあるのよ。
……同情と優しさを履き違えるの、あなたの悪い癖よ」
他の人間に聞かれぬよう、小声でささやかれた言葉に、結局はミサトが折れた。
「分かったわよ。……レイ、聞いていた? 実験を再開するわ」
「はい」
打てば響くような返事。しかし、今のミサトにはそれこそが不穏に響く。
「ただし、何か異常を感じたら、その場ですぐに中止するわ。
次は、問題ありません、では通らないわよ」
「はい」
返事はやはり変わらない。ミサトはあきらめて席に座りなおした。

67: 2009/03/30(月) 02:44:05 ID:???

(……口では何を言っていても、結局こうして従っている。
あたしもリツコのことは言えないわね)
ちらりと横目でリツコの様子をうかがう。
彼女は瞬きもせず、モニターの数字だけを見つめていた。
(いえ、取り繕わないだけ、リツコの方がマシか。最低なのはあたしだわ)
自嘲のあまりため息をつきそうになり、そんな自分にため息をつく。
「まったく、いつからあたしはこんなにおセンチになったのかしらね」
数ヶ月、いや、数週間前の自分は、もう少し割り切って仕事が出来ていたはずだ。
なのに、今の自分のこの変化。
それはまるで、もう一人の自分がどこかにいて、
それが自分の心に働きかけてきているような……。
「バカらし。……さ、仕事仕事」
ひとりごち、ミサトは切り替える。
たとえ自分がここにいる主たる動機が私怨だとしても、
自分たちの仕事が十四歳の少年少女の命を、そして、
世界の命運をも握っているのは事実なのだ。
手を抜くことなど許されない。
「モニター、しっかりチェックして!
少しでも異常があれば、必ず報告すること!
危険なようなら、独断での作業中止も許可するわ。
とにかくパイロットの安全を最優先で行くわよ!」
ミサトは部下を、自分を叱咤するように声を張り上げる。
(……パイロットの安全優先、か)
自分には零号機のパイロットと綾波レイという少女、
どちらが大切なのかという疑問に蓋をしながら……。

70: 2009/03/30(月) 21:28:47 ID:???

「あれが、今回の使徒。……よかった。
やっぱり『前の世界』で出てきたのと同じ奴みたいだ」
エントリープラグの中で、シンジはほっと息をつく。
(考えてみれば、僕が『こっち』に来てから、
まともに使徒と戦うのは初めてかも。
前の世界の時と同じ戦い方でいいのかな?
使徒出現の時期とかも正確には覚えてないし、
一度その辺をアスカとも話し合わなくちゃ……)
戦闘前という状況も忘れ、シンジは物思いにふける。
だが当然、そうなればミサトの怒号が飛ぶ。
「シンジ君! 聞いてるの?」
「は、はいっ! す、すみませんミサトさん!」
あわてて謝るシンジにかぶせるように、
「戦闘前にぼっとしてるんじゃないわよ。
ほんっと、アンタってバカシンジね」
いつも通りのアスカの声が辛辣に突き刺さる。
屋上での衝撃の告白から数日。
一時期はどこかぎこちなかった二人の関係も、
以前と同じように戻りつつある。
(それはちょっと、残念な気もするけど。
……でも、あのアスカが生きていてくれた。
今はいいんだ。それだけで)
そこで思考を一区切りつけると、
シンジは改めてモニターのミサトに向き直る。
「シンジ君、アスカ。作戦はブリーフィングで話した通りよ。
第3新東京市の防衛システムは修復中、零号機も調整不足でまだ出られないわ。
だから、今回の作戦は初号機と弐号機の二機だけでやってもらいます」
「はい!」「こんなヘナチョコ、アタシ一人で十分よ!」
威勢のいい二人の言葉に、モニターの中のミサトが軽くうなずく。
「頼りにしてるわ。次は役割分担だけど…」

71: 2009/03/30(月) 21:30:36 ID:???

「もちろんオフェンスはアタシが行くわ。
こんなひょろいの、一撃で真っ二つにしてやるから!」
そう言って、まだミサトの言葉が終わらないうちに弐号機が飛び出していってしまう。
「あ、アスカ?! 何考えてんだよ! アスカッ!」
「うっさい! アンタは適当に援護でもやっときなさいよ!」
「アスカってば!」
シンジはあわてて止めようとするが、アスカは聞く耳持たない。
(このままじゃ、前回の二の舞じゃないか!)
このコアが二つある使徒との戦いは、シンジだってよく覚えている。
この使徒との戦い、前もアスカが一人で飛び出していって、手痛い反撃を食らっているのだ。
しかし気をもむシンジの前で、
「だあああああっ!」
アスカの薙刀が、使徒を綺麗に両断する。縦に真っ二つにされ、左右に分かれていく使徒。
それはまるで、本当にそのままそっくり前回の再現のようで、
「ふふーん。どう? アタシにかかればざっとこんなもんよ!」
「アスカッ! まだ、動いてる!」
シンジの悲鳴に呼応するみたいに、二つに分かれた使徒が再び動き出す。
「ッ! 全く、しつっこい!」
しかし、背後から繰り出されたその使徒の攻撃を、
アスカはまるで予期していたかのようなタイミングで華麗にかわしてみせる。
弐号機はそのまま、距離を取って初号機の隣に着地した。
「何やってるんだよ、アスカ! 敵が増えちゃったじゃないか!」
あんなことをしたらこうなるのは分かっていただろ、という続きの言葉は飲み込む。
それが伝わっていないはずがないのに、アスカには全く動揺した様子も、
もちろん反省した様子もない。
「なーにおたおたしてんのよ。二つに分かれたって関係ないでしょ。
あっちも二人、こっちも二人。ちょうどいいじゃない」
「お互いが一体ずつ相手に出来れば、勝てるって言いたいの?」
「そうそ、分かってんじゃない!」
余裕の表情を崩さないまま、シンジを軽くあしらうアスカ。
しかし、そう話す間にも、ジリジリと使徒が迫ってくる。

72: 2009/03/30(月) 21:32:34 ID:???

二機のエントリープラグの中に、今度は切迫したミサトの声が響く。
「シンジ君! アスカ! 聞こえる?!
あんなのを見せられた以上、相手の能力を見極めずに戦うのは危険だわ。
とりあえず距離を取って、様子を……」
至極当然とも言えるミサトからの指令。しかし、
「はーい聞こえませーん! 電波の調子が悪いみたいでーす!」
アスカはそんなことを言って、司令部との回線を切ってしてしまった。
さらに、
「シンジも、電波、悪いのよね!」
「え? でも…」
「わ・る・い・の・よ・ね!!」
「…っ! ごめんなさいミサトさん!」
その迫力に負けて、シンジも続けてスピーカーのスイッチに手を伸ばす。
「ちょっ…シンジく――」
ぷつん。
怒り顔のミサトの顔が声と共に途切れて見えなくなる。
「あぁ。後で大目玉確定だよ…」
思わずシンジは頭を抱えたくなるが、さすがにそれほどの余裕はない。
「どうすんだよ、アスカ。ここまでやったってことは、何か考えがあるんだよね」
「もっちろん。要は勝てばいいのよ、勝てば!」
「でも、もしもあいつが攻撃する度に分裂する敵だったり、
同時にやっつけなきゃ倒せない敵だったりしたらどうすんだよ!」
「ハン、もし万が一そうだったとしても、最後まで負けなきゃいいのよ。
そうしたら、結局いつかは倒せるわ」
「むちゃくちゃだよ……うわっと」
分かれた使徒の一体が、とうとう初号機まで到達。攻撃をしかけてくる。
初号機は体をひねってかわし、その勢いを利用してキック。使徒を吹き飛ばす。
「これ、で!」
一方の弐号機は使徒が接近するタイミングを計って、
手にした武器で再度コアを破壊する。

73: 2009/03/30(月) 21:35:29 ID:???

しかし、というべきか、やはり、というべきか。
コアを破壊された使徒は、すぐにその損傷を修復してしまった。
そのまま何事もなかったかのように迫ってくる使徒を、弐号機は蹴り飛ばした。
「ふぅん。アンタの言う通りみたいね。コアをやったのにすぐ修復したわ。
きっとこの二体、同期してるのよ」
「……そうだね」
答えながら、シンジは全く別の感想を持っていた。
(まったく、アスカもよくやるよ)
前回の記憶があるシンジとアスカとしては、この敵がこれ以上分裂しないことも、
二体のコアを同時攻撃しないと倒せないことも、既に自明の事実だ。
だが、それをバカ正直に明かすワケにはいかない。
向こうからの音は入ってこないとはいえ、こちらの様子は常に本部でモニターされているのだ。
これはそのための演技、茶番だった。
(命令無視は、これをすぐに確認するためか。
でも、アスカはこれからどうするつもりなんだろう。
ぶっつけ本番で二体同時攻撃なんて、僕らに出来るのかな)
アスカの意図を確認して首をかしげるシンジの耳に、
「……十秒」
つぶやきのようなアスカの言葉が入ってくる。
「え?」
思わず聞き返すと、アスカは目を爛々と自信に輝かせ、モニター越しのシンジを見つめていた。
「三十秒で使徒を一対一でボコボコにするのよ。出来る?」
「それは……たぶん、今の僕たちなら、出来ると思うけど」
三十秒という時間はいかにも短いが、今の二人の技能なら、やってやれないこともない。
それに、無限の再生能力を持つ相手に長期戦は不利だ。
逆に、三十秒というのは自分たちが確実に使徒に対して優位に立てる時間帯でもある。
「でも、それからどうするのさ。同時に攻撃しないと、あいつらは…」
シンジの疑問に、アスカはこともなげに答えた。
「三十秒経ったら、お互いが相手にしてる使徒を、お互いの機体に向かってぶん投げるのよ」
「投げ…っ!?」
「それで、一ヶ所に集まった使徒を両側からドカン、ってね。簡単でしょ」

74: 2009/03/30(月) 21:38:04 ID:???

(そっか。事前に訓練してない僕らじゃ完璧なユニゾンなんて出来ない。
だから二体を一ヶ所に集めて攻撃すれば……でも、)
「うわ。なにそれ。すごく行き当たりばったりな気がするんだけど……」
「何よ! 文句があるのなら…」
口ではそう言いながら、目線だけで、
(これでいいんだよね)
と問いかける。
モニター越しのアスカの笑みが、
(アンタにしちゃ上出来よ!)
と語っていた。
(……よし!)
方針は決まった。だとしたら、もう長話は無用だ。
「大体アンタ男でしょ! なのにいっつも消極的なことばっか……」
演技のはずが、なんだか本気で腹を立て始めてる様子のアスカから、
じわりじわりとエヴァに近づいてきている使徒に注意を戻し、叫ぶ。
「使徒、来るよ! タイミング合わせ! 3!」
「もう、後で覚えてなさいよ! 2!」
「この使徒に勝ってからね! 1!」

「「……0!!」」

二機のエヴァが同時にスタートする。

75: 2009/03/30(月) 21:41:25 ID:???

「く、思ったより、堅い…」
エヴァの放つライフルの攻撃は使徒にクリーンヒットするのだが、
その硬い装甲に弾かれ大した効果をあげられない。
それを見て、シンジはついついぼやいた。
「こんなことならもう少し余裕を持って、一分くらいにしておけば…」
「まぁた弱音? いいからやんなさいよ!
アンタが遅れたら今月の家事当番、ずっとシンジだけにしてもらうから!」
「ど、どさくさ紛れにずるいよそんなの! 公私混同だ!」
「ごちゃごちゃうるさい! それが嫌ならさっさと倒す!」
などと互いに軽口をたたきながらも、エヴァ二機は見事な機動で使徒を圧倒していた。
弐号機は曲芸のような動きで使徒を翻弄し、手にした薙刀でその機動力を削ぐ。
初号機は堅実な位置取りで銃を連射し、明確なダメージはないものの使徒を封頃する。
そしてきっかり三十秒後、
「アスカっ!」
「分かってる!」
初号機が目の前の使徒の足を、弐号機は相手取っていた使徒の腕をつかみ、
「とりゃぁああああああ!」
「こん、のぉおおおおお!」
正にぴったりのタイミングで、使徒を投げつける。
二体の使徒は、初号機と弐号機、その中心で激突し、

「これで、」「フィニッシュ!」

左右からの攻撃に、あっけなくそのコアを破壊された。

76: 2009/03/30(月) 21:46:02 ID:???

「完っっ全、しょぉおおおおおっり!!」
弐号機から降りたったアスカがおたけびをあげる。
「……そりゃ、アスカは気分いいだろうけどね」
その横で、やはり初号機から降りたシンジがため息をついた。
「なによ。まるでアタシの作戦に文句があるみたいな言い方ね」
「も、文句、って。あるに決まってるだろ!
あんなことしといて、よくそんなこと言えるよ!」
最後の二機による使徒への両面攻撃の際、
弐号機の攻撃が勢いあまって初号機にまで当たってしまったのだった。
使徒による損害のなかった今回、それが初号機唯一のダメージとなる。
「いいじゃない。大した被害もなかったんだから」
「全然よくないよ! 一番の損傷が味方からの攻撃だなんて、どうかしてるよ!」
「な、なによ! だいたいね! あれはアンタがトロいからいけないんでしょ!」
「な…! 僕が悪いって言うの?!」
お互いに怒鳴り合う。
そのまま、シンジとアスカはしばらくにらみ合って、
しかし、今回ばかりは先に目をそらしたのはアスカだった。
「ふん。……にしてもアンタ、意外に茶番がうまいじゃないの。見直したわ」
「それはどうも。ま、アスカの猫かぶりには負けるけどね」
皮肉の応酬。そして、
「うふふ……」
「くふふ……」
邪悪な笑いで互いの健闘をたたえ合った。
二人の間に、甘いとはとても言えない、けれどどこか居心地のいい空気が広がって、
「…碇くん」
遠くから駆け寄ってくる声の気配に、それは一瞬で霧散した。
「あ、綾波っ」
シンジの声のトーンと雰囲気がころっと切り替わる。
後ろでアスカが不機嫌な顔をしているのにも気づかず、
シンジは満面の笑みを浮かべた。

77: 2009/03/30(月) 21:47:58 ID:???

「ブリーフィングルームに招集命令。いそいでこいって」
対するレイの声はいくぶんか硬く、あいかわらず言葉が足りない。
しかし、今日に限ってはシンジもすぐに理解出来た。
「呼び出し…? ああぁっ! ミサトさんか!」
使徒戦勝利の余韻ですっかり忘れていたが、
「独断専行、命令無視。変な嘘までついちゃったし、あぁぁ…」
今度こそ、シンジは深く頭を抱える。
が、そのまま心の迷宮にでも入りそうなシンジを、
手に感じた奇妙な感触が現実に呼び戻した。
「え? あや、なみ…?」
シンジが驚いて見ると、レイがシンジの手を、いや、
手の先、数本の指だけをかろうじてつかんでいた。
「あ、あや、綾波っ?」
レイの突拍子もない、彼女らしくない行動に、シンジが声を上ずらせる。
しかしレイは、少なくとも表情には何の動揺も示さない。
「……いそいで連れてこいって、言われたから」
いつもの無表情でまるで言い訳のような言葉をつぶやいて、
手を握る、とも言えないような控え目な握り方で、
それでも懸命にシンジを引っ張っていこうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あ、アスカは…?」
一人だけで説教されるなんてたまらない、慌てたシンジが必氏に訴えるが、
レイはただ、一度だけシンジを、それからその奥のアスカを見て、
「よばれていることは、伝えたから」
誰にともなく、やはり言い訳めいた言葉を口にして、
後はもう、振り返ることもしなかった。
心持ち顔をうつむかせ、決してシンジの方を見ようとせずに、
シンジの手を引いて歩いて行く。

78: 2009/03/30(月) 21:51:36 ID:???

「さ、先に行ってるから、アスカも早く来てよ!
僕一人だけ怒られるなんて……あ、待ってよ綾波っ!」
そう叫ぶシンジが角を消えていってもまだ、アスカは動けなかった。
別に何かに気後れしたとか、そういうことではない。
ただ、この状況でヒョコヒョコとシンジたちの後を追うのは、
なんとなく、そう、なんとなく面白くなかっただけなのだ。
「何よアレ。独占欲丸出しで、かっこわる…」
苦心して冷めた目を作って、さも呆れたようにつぶやく。
「心配しなくても、あんなモン誰も盗りゃしないってのに……」
そして、心底呆れたというジェスチャー。興味などないというポーズ。
誰が見ているワケでもないのに、アスカはそれを演じ続ける。
「あっちの世界ならまだしも、ここでは別にシンジと仲良くする必要なんてないもの。
こっちには加持さんだっているし、他にも色んな男がよりどりみどり」
そこで、にっこり、アスカは完璧な笑顔を作ると、
ブンッ!
当たれば殴られた相手どころか自分の拳まで壊してしまいそうな勢いで拳を振り、
「――ッ!?」
五指を襲った異質な感触に、アスカは自分の手を受け止めた壁をにらみつける。
「また、アンタなの、ファースト。アンタはどこまでアタシを……くっ!」
悪態を喉の奥に飲み込んで、アスカもまた、シンジたちを追って歩き出す。
……唇をかみしめて歩くアスカの顔からは、鮮やかに使徒を倒した喜びなど、
もう欠片も見出すことは出来なかった。

――そうして。
その場から、人が一人もいなくなって……。
壁に膜を張るように広がったオレンジの波紋もまた、
ゆっくりと空気に溶け込んで、消えた。

79:
以上。お目汚し。

81: 2009/04/04(土) 10:33:03 ID:???
これで終わりってこと?

引用元: ★エヴァ小説を投下するスレ(ノンジャンル)★