505: 04/09/28 00:42:37 ID:???
「ざけんじゃないわよ!!」

バンッ

激しい音を立て、まわりの机を巻き込みながら
一人の男子生徒が弾き飛ばされた。

クラスメイトは教室を囲むように、遠巻きにその姿を眺め
冷ややかに嘲りの声を上げている。

『ケッ!ちょーしにのってんじゃねーぞ』
『ちょっと可愛いからって、ムカツク!』
『信じられない。何考えてんのアイツ』
『馬鹿じゃないの』

ヒソヒソと

しかし、本人には聞こえるように。

そんな教室の中央で、少女は只一人立ち尽くしている。
肩で激しく息をし、ととのった眉を険しくつりあげ
美しい顔は怒りに震えている。

顔をうつむかせて、頬を押さえている生徒に向けている。
けれど、少女の意識は今や教室全体に向けられていた。

口から血を流しながら倒れている男子生徒の
馬鹿にした態度にむかついていたから、思いっきり殴ったのだ。

506: 04/09/28 00:46:49 ID:???
しかし、少女の怒りは、なにも男子生徒に向けられたものではない。

ただただ、怒りがこみ上げてくるのだ。
努力をしないクラスメイトに
嫌らしい目つきの教師たちに
そしてなにより、自分自身に、だ!

すべてに対して怒りを感じ
そのすべてをむちゃくちゃに壊してやりたい。
男子生徒は言わばキッカケでしかない。

歯を食いしばり、行き場の無い怒りに身を任せ
転がっている机を思いっきり蹴飛ばした。

ガッ!

あわてて逃げるクラスメイトを横目でみつめ
ほんの少し気分が良くなる。
しかし、怒りの炎はそのことを許さず、さらに激しく少女の胸の中で
燃え上がる。

気に入らない。

この世のすべてが。

世間体を気にして、表面上優しい義母も
一流の会社に勤めていることだけが心のよりどころの父も
そんなすべてを受け入れられない、屑な自分も。

そう、アタシはこの社会に受け入れられない『不適合者』だ。

507: 04/09/28 00:50:16 ID:???
クラスの外も騒ぎを聞きつけ、騒がしくなってきた時
アタシは倒れている生徒を思いっきり蹴り飛ばし
カバンも持たずに、教室を飛び出してきた。

今は只、あても無く町をさまよっている。
間違いなく学校では騒ぎになっているだろう。
日本でも有数の名門校。
おそらくは学校内だけで問題を解決するだろう。
それはアタシのためではなく、学校のために。
義母は学校の連絡を受け、泣いて謝るのだろう。

口の端が皮肉のためにあがる。

ざまーみろ。

悲しくも無いくせに、娘の非行を悲しむのだろう。
表面上だけで。
己にふってきた突然の不幸にでもよってろ。

携帯はカバンの中だ。
アタシに連絡を取ることはできない。
そもそも、かかってくるのはどこかの馬鹿が
アタシの容姿を気に入ってかけてくる程度だ。
惜しくも無い。

508: 04/09/28 00:59:40 ID:???
町を意味もなく歩いていると
どこの学校だかもわからない制服を着た少女たちが
歩き回っている。
明らかに学校へ行っていなければならない、こんな時間に。
そして、社会はそれをいまや当然のこととして受け入れている。

流行の音楽を聴き。
顔の良い芸能人の話をし。
おいしいお菓子のお店をまわる。

それが、平日の道端でおこなわれていると言うだけだ。

立ち止まり、胡坐をかいて座っている少女たちをみつめる。
視線に気づいたのか、あからさまに此方に悪意のこもった
態度を見せる。

今更、喧嘩になってもかまうものか。
このまま、どうとでもなってしまえ。
けれど、少女たちはペッとつばを吐き大声でアタシを馬鹿にしながら
場所を移動していった。

509: 04/09/28 01:06:23 ID:???
アタシはしばらく、誰もいなくなった場所を睨み付けていたが
ひとつ息を吐くと、また当てもなく歩き出した。

道を歩き、足を進める。
通り過ぎていく人間に、意識を向けることは無い。
じゃまならば、石ころをよけるように避けていくだけだ。
ぼやけたテレビ画面のように、通り過ぎていく人間たちは
モノクロのはっきりとしない世界だ。

向こう側の人間にしても、アタシは只の障害物でしかないのだろう。
自分が特別な人間なんだと思うことは、母が氏んだときに思うのをやめた。
子供にだけ許される、小さなちいさな世界。

ときおり不審な目で見てくる人間もいるが
あいつ等が見ているのは、アタシの制服だ。
こんな時間に街中を歩いていることに不振がっているのだろう。
だが、声をかけてくる奴はいない。
それが当たり前の町。

510: 04/09/28 01:13:25 ID:???
『アイツ』

そんな声を聞いた気がして、意味もなく立ちり
周りをぐるっとながめる。

さっき道で座っていた少女たちが、いかにも柄の悪そうな
男たちをつれ、此方を指差して何かわめいている。

いかにも社会のつまはじき者。
帰る家もなく、又帰る気も無い。
今がよければそれでいい。
そんな屑どもだ。

ハッ

思わず苦笑がもれた。
自分とどこが違うのというのだ。
アタシも結局はこいつらと同じ屑だ。

男達はしかし、アタシの苦笑を馬鹿にしたととったのか
大声でわめきながら、石ころを弾き飛ばし走ってくる。

その姿があまりにも滑稽で、アタシは今度こそ本当に笑い出した。

「アハハハハハハハハ!!!」

周りにいた人間が、何事かとアタシをみる。
まるで、さっきまでいた教室のようだ。

512: 04/09/28 01:56:00 ID:???
どこかキがふれたように、アタシはさらに意味の無い笑い声を
あげていく。

顔を思いっきり空にむけ、この世界そのものを笑い飛ばすように
アタシは笑った。

涙を流しながら。

声が枯れるほど大声をわめき散らし
触れるほど近づいた男達をすんででかわし
雑踏の中を走り出した。

ハァハァハァ

どれだけ走っただろう。
こんなに汗をかいたのはいつ以来だろう。
眩しいほどの夕日が道を照らしている。
見たことも無い家々を足を引きずる
ように走り回り。
男達の追っ手を振り切った。

513: 04/09/28 01:57:50 ID:???
すがすがしい。
体に溜め込まれた不純物は
すべて汗となって外に排出された。

ただただ純粋な世界への敵意が
水をほしがる体に、変わりにしみこんでいった気分だ。

夕暮れに輝く道をこえ。
虹色にはえる橋を渡る。

橋の中腹くらいまで来たとき
アタシは誰かの声を聞いたような気がして
疲れた足を止める。

それは只の幻聴だったのかもしれない。
ただ、足を止めるキッカケがほしかったのかもしれない。
橋の手すりに両手をつき、夕日に反射し
色をくるくると変え、きらきらと光る。

なんて綺麗なんだろう。
どろどろと腐った水が流れているのに
水面だけは、まるで聖女のよう。

手すりについた指を爪がはがれるほど握り締め。
白く色が変わっていく手をみつめ。
左手にしている、不釣合いな大人の時計に目をとめる。

514: 04/09/28 01:58:39 ID:???
まるでゴキブリが手に張り付いているかのように
アタシは物凄い速さで右手を腕時計にもっていき
思いっきり引っ張る。
ベルトが手首に食い込み、思わず痛みに顔をしかめる。
ブチッ
ブチブチ!!
嫌な音を立てて、とめ具が捻じ曲がり、時計が引きちぎられていく。
いよいよ手首にも金具がめり込み
皮膚を裂き血が噴出していく。

「あああああああああぁぁ!!!!」

痛みをこらえ肉が裂けるのを意識し
アタシは時計を引きちぎった。

血にまみれた時計をみ、逡巡したのち、アタシは川へと
時計を投げ捨てた。

『バイバイ…ママ…』

夕日に文字盤がキラキラとひかりながら、時計は
川へと落ちていく。
アタシの大切なたった一つの宝物。
アタシの最後の良心。
アタシのヒトカケラ。

516: 04/09/28 02:03:07 ID:???
「君…」

ばっ

慌てて後ろを見る。
男達が追いついたのかと思ったからだ。

しかし、まともに夕日を背にしていて
そいつの顔は、ぼんやりとしてはっきりとしない。

「アンタ誰よ!!」

敵意をむき出しに、アタシは叫ぶ。

男、といっても少年は、明らかにびっくりとした
態度をし、急におどおどと体を揺らしだした。

あたしはその姿に、少し落ち着きを取り戻し
目を細め、手をかざし、モノクロの夕日に目をなす。

そんな中、少年はどこか意を決したように
アタシに話しかけてくる。

「き、、きみ、、、手を怪我しているよ?」

その声ではじめて痛みを意識する。
ズキッ
そんな痛みを最後に、アタシの意識は遠のいていった。

どこかでママの声を聞いた気がした。

528: 04/09/29 16:12:28 ID:???
『…ママはね…アス…』

まどろみの中、白と黒の光がぐるぐると回っている。

『あなた…だいじょ…』

靄のかかる記憶の中で、ママがあたしに何かを言っている。

『安心して…』

あぁこれは夢。

どこまでも優しくて、それでいて残酷な。

そう

これは、悪夢だ。

529: 04/09/29 16:16:30 ID:???
「知らない天井…」
ぼんやりとすっきりとしない頭で考える。
ここはどこだろうか。
薄暗く、だけど清潔感のある部屋。
すこし消毒の匂いがする。
パッ パパッ。
2.3度の点滅のあと、蛍光灯がつけられた。
おもわず眩しさに目を細める。
「あら、目が覚めた?」
優しい女性の声。
どこか、ママに似ている。
コツ…コツ…コツ…
っとこちらを安心させるような、ゆっくりとした足音。
アタシが寝かされているベットへと近づいてくる。
その人の顔を確かめようと、未だ光になれていない
目に影を作るために、左腕を顔の前に持っていく。
「眩しかった?」
どこか笑っているような、だけど不快ではない声で
可笑しそうに、アタシへと話しかけてくると
今度はタッタッタっとアタシから離れていった。

531: 04/09/29 16:32:17 ID:???
「あっ…」

小さな声を出してしまった。
つい、その行為がアタシをおいていってしまった
ママとかぶってしまったから。さっきの夢のせいかもしれない。
アタシは無意識のうちに、影にしていた腕を伸ばしていた。
そのことに気づいて、苦笑いがうかんだ。
時計の合った場所には、きれいに包帯が巻いてあった。

すっと部屋の明るさ少し落ち、眩しさが緩和された。
「これで大丈夫かな?」
この人は、何でこんなに優しい声なんだろう。
ベットの傍らにおいてある、丸イスにゆっくりと腰をかけと
アタシが伸ばしていた手を両手で優しく包んでくれた。
アタシは慌てて手を振り払おうとしたが
フフフっと笑うと、手をしっかりとつかまれてしまった。
「だめよ。これは治療行為も兼ねているんですからね」
治療行為というものの、その女性は特に何をするでもなく
アタシの手を優しく握ってくれている。
アタシが観念して、力を緩めると嬉しそうに笑った。
『だめ、どうもこの人苦手』
なんだか、何を言っても無駄なんだなって気がする。
「あっ!今笑ったわね」
チッとしたうちをする。初対面の人に油断してしまった自分
が悔しい。
「あら、女の子なのに舌打ちなんかしたらダメよ」
なんだか会話がかみ合ってないし、そもそも
自分がまだ何も言葉を口にしていないことに
今更ながらに気がつく。

538: 04/09/29 18:37:13 ID:???
「ここは…?」
うまく言葉が出てこない、どこか頭に霞がかったように
ぼんやりとして、はっきりとしない。
「ここはね、病院」
病院と言われ、あぁそうだろうと思う。
そんなことは解ってる。
そんなことじゃなくって――。
そうアタシが喋ろうとすると
握っていた手を片方放し、静かにアタシの唇にそえた。
何をするんだ。という抗議も含め、女性の顔を見る。
その時、初めてこの女性の顔をまともに見るんだというこ
を意識した。
清潔感のある白衣。けれど、威張ったり堅苦しい雰囲気が無い。
全体的に、うそ臭い。
それはすべて年齢不詳の顔のせいだろう。
やわらかそうな黒い髪
頬に少しかかるようにシャギーがはいっている。
優しそうな黒い瞳に長いまつ毛。
どこか医者というよりも、看護士のほうが似合いそうだ。
案外、医者の白衣を勝手に着ているだけかもしれない。

539: 04/09/29 18:38:47 ID:???
そして、白い肌。
しろいはだ?おかしい。あれ?
何この違和感。唇の色は、柔らかな桜色。
そう、そんな『感じ』だ。
けれど、目にうつるのは只の灰色。
ぼんやりと霞のかかっていた頭が
無理やりに現実へと追いやられていく。
ガンガン鐘を打ち鳴らすように頭痛が激しくなる。
世界はアタシをおいてまわりだす。
激しい嘔吐感。
「ィャ…」
喉がヒリヒリと痛みだす。
口の中はからからに乾き、舌が張り付いたように動かない。
「いやああぁぁああああぁあああああああ!!」
声にならない絶叫を血を吐くようにしぼりだした。

世界はそれが当然というように

モノクロのままだった

544: 04/09/29 21:42:20 ID:???
片手で握られていた手を強引に振りほどく。
その拍子で巻かれていた包帯が裂けるが
そんなことに、今はかまっていられない。
女性は突然のアタシの行動に驚愕の表情を張り付かせたまま
固まっている。
ベットから転げ落ちるように逃げ出すと
ベットの横にあった医療器具を乗せたキャスターつきのワゴンとぶつかり
ワゴンは滑稽なほど派手な音を立て部屋中に医療器具をぶちまけた。

恐慌状態に陥っていた頭が、派手な騒音で逆に冷静さを取り戻していく。
先ほどまで固まっていた女性も幾分冷静さを取り戻したのか
あらあらと視線を床にさまよわせている。
片付けるのかと思ったが、女性は席を立つと
近くに置いてあった水差をとり、コップに液体をそそいだ。

液体を見て、強烈に自分の喉が渇いていることを意識した。
女性からコップを奪うように受け取るが
一瞬だけ迷う。うすく灰色に光る液体が
自分では何かわからなかったからだ。
けれど、喉の渇きは、そんなことをおかまいもなく
訴え続ける。
結局は欲望に負けて、口の周りから水がこぼれるのも気にせずに
一気に飲んでいく。
コップが空になるまで一気に飲み干すと
後味の無かった液体が、おそらくは只の水であろうことがわかった。

545: 04/09/29 22:02:01 ID:???
「おちついた?」
今度は暗に優しい声を出そうと心がけているのが
わかるような、柔らかな声で話しかけてきた。

幾分は落ち着いてはいるものの、自分の目に見える世界が
白と黒でしか構成されていないことが変わったわけではない。

「私の名前は碇ユイといいます」

見ての通りお医者さん。
そう紹介できることが、なぜか嬉しいことのように
胸を張って答える。
それは、自分の仕事に誇りを持っているかのように
アタシには見えた。

「貴方がね。橋で血を流して倒れていたのを偶然私が
見つけてね」
ここまで運んできたのよ。
この女性――。
確か碇ユイといったっけ。
は、こともなげに話した。
しかし、アタシが意識を失う前には
オロオロとした態度のガキがいたはずだけど。
『怖くなって逃げたのか』と思い
自覚しながら嫌な笑みを浮かべる。
当然だろう。
逆に救急車なんて呼ばれなくて良かったわ。
それだけで面倒ごとが増える。
アタシが思考の渦にとらわれそうになっていると
「貴方、目に違和感があるの?」
と、唐突に本題をきりだしてきた。

546: 04/09/29 22:07:52 ID:???
バッとうつむき加減になっていた顔をあげ
碇と名乗る女医の顔を見る。
「当たりね」
してやったり。
まさに顔にそう書いてあった。
「なんでわかったの?って顔してるわね」
まるで子供に算数の問題の解き方を教えるかのように
得意げに話し出す。
「貴方は目が見えないわけではないでしょう?
私のことを観察していたものね」
そんなことは当たり前のことだ。
と言わんばかりに話を続けていく。
「でも意識がはっきりしないなかで、周りの景色
を見る余裕ができてから、態度が変になった」
それに…
「水を飲むときにね。確信したわ
貴方、色彩がおかしい。もしくは、そのものが無い」
そうでしょう?
と研究者然とした態度ではっきりと言い切った。



迷った。
こんな状況で、誰かに頼りたくなる気持ちが
アタシを弱くしている。
さっさとこんなところを抜け出さないと、おそらくは
警察や学校に(忌々しいことに又この制服のせいで!)
連絡がいっているだろう。

550: 04/09/29 23:04:18 ID:???
「色が…わかりません」

自分の弱さより、女性の有無を言わさぬ態度
そしてなによりも、目の奥に潜む優しさに負けて
アタシは話し出した。
「色がわからないって言うのは、頭で理解できないということ?
例えば『赤』という色と言葉が一致しないとか?」
少しずつ、こちらの反応を促してくる。
「…いえ…色そのものが…というか」
うまく説明できない自分がもどかしくなってくる。
けれど、彼女はゆっくりとアタシが話すのを待っている。
「だから…全部が…白と黒だけで…」
「あぁ!」
なるほどっと納得したようにうなずくと
「つまりは貴方は今、昔の映画の中に入り込んでしまったような
状況なのね?」
もっと、医者として言いようが無いのものなのか?
という、釈然としない気持ちをよそに。
「原因は精密な検査をしてみないとなんとも言えないけれど
まぁサングラスをかけてると思えば、ね?」
相変わらず、年齢不詳なはなし方だ。

551: 04/09/29 23:05:59 ID:???
「倒れたときに頭を打ったのかしら」
アタシに聞くというよりは、独り言が
口から漏れた(変な言い方だとは思うが、そんな感じだ)
「なら、直ぐにでもリッちゃんのところに連絡したほうが…」
その発言を聞いて、アタシは慌てて説明を加える。
「いえ、あの倒れる前からです」
一人意識を飛ばしていた女医は、アタシの発言を聞き
「倒れる前から?どのくらい前?」
矢継ぎ早に質問をあびせてくる。
アタシがモノクロの世界しか見えないということが
彼女を少なからず焦らせているのか
アタシはその様子を見て逆に落ち着いてく。
「はい。倒れる前というか、正確にはその直前…手を怪我したあたりから」
なぜ手を怪我したのか。
一瞬、そう聞きたそうな顔をしたが
とりあえずは、目のほうが重要とおもったか
「そう。でも一応精密検査をしたほうがいいわね…」
「いえ。そこまでご迷惑をかけるわけには…それに早く帰らないと」
目のことは、確かに心配だが、この状況で
忌々しい義母と父がかかわってくるのは
くだらない感情だが、冗談ではない。
「私の主人はね。警察官なの」
『警察官』その単語の意味するところに気づいて
アタシは身構える。
けれど、話の流れを無視するようにつづける。
「しかも結構えらいのよ?」
自分が医者だと言ったときよりも
むしろ嬉々として言う。
笑うとね。とても可愛い人なのよ。
聞いてない。
断固として。
そんなことは、聞いてない。

555: 04/09/30 00:07:05 ID:???
けど、その幸せそうな姿にアタシは嫉妬した。
もうここには用がない。
警察がくるなら、こんなところにいつまでもいられない。
ベットから抜け出そうとするが
「主人には、もう電話してあります」
女子中学生が怪我をして、倒れていたのだ。
警察に連絡が行っているのが当然だろう。
理性ではそう思う。
けれど、少しだけ裏切られた気がして胸が痛んだ。
もう誰にも期待しないと決めたはずなのに。

アタシの表情が険しくなったのを見てとったのか。
少し話題をずらしてくる。
「その前に、ひとつだけ教えてくれる?」
アタシの返答を目で促してくる。
アタシの沈黙を了解ととって、話を進める。
どんな話題なのか、すこしだけ体をかたくする。
「貴方の、その手首の怪我はだれかに傷つけられたもの?」
何気ないふうを装ってはいるが、目はそうでは無いことを物語っている。
質問の真意を見極められなかったが、いつまでも
だまっていると、傷害事件ととられかねない。
警官に話がいっている以上、さらにややこしくなる可能性が高い。

556: 04/09/30 00:08:50 ID:???

「いえ…」

ワケは言わなかったが、彼女はじっとアタシの目をみつめ
ふっと表情を緩めると安心したように話した。
「本当はね。傷口をみてなんとなくわかっていたんだけど
貴方から聞いて安心したわ」
そういう姿は、本当に安心したようだった。
それは、なにか自分に迷惑が降りかかるのではないか?
という保身のためではなくて、純粋に
アタシの体を心配してしていたことがつたわってきた。
「時計か何かを、引きちぎったんでしょ?」
そう言うと、ジェスチャーで時計をちぎる様子を
おどけて見せた。
いたずらを見つけた母親のように――。

しかし、あたしが考えていたのは別のことだ。
この人は、頭が良い。
しかも、恐ろしく。

ぶるっと体が震えた。

557: 04/09/30 00:11:30 ID:???
「安心して。貴方が襲われたのではないとわかった以上
いきなり警察官がここに来て、どうこうはならないから」

主人に任せておけば、悪いようにはしないわ。

そういってくるのを聞きながら、あたしは猛烈な勢いで
考えをめぐらせていた。
おそらくこの人の旦那が警察官だというのは本当だろう。
ここで、アタシをだますメリットは無いはずだ。
もっとも、アタシの知らない理由があれば別だ。
このままアタシをここに引き止めておいて、警察が来るまでの
時間稼ぎをしているのか?



それも違う気がする。
部屋に時計は見当たらないが、倒れたのが夕方で
今、部屋に明かりをつけている。
外の様子はカーテンによって見えないが、外が闇に包まれている
ことは、想像に難しくない。
時間的には、すでに警察なり学校の関係者が
来ていてもおかしくない。
ということは、ひとまず誰かがここに来るという
ことは無いだろう。
そこで、一つの思いが浮かんだ。
『あぁ…この人がご主人のことを信頼している以上に
この人のご主人は、この人を信頼しているのだ』っと。

559: 04/09/30 00:39:22 ID:???
考えることを放棄したわけじゃない。
けれど、この人の前で自分が謀略を考えたとしても
それは無駄なことだと、なんとなくそう思った。

「手の怪我は…碇さんの言うとおりです
自分でやりました」

一瞬、この女性のことをなんと呼んだらいいのか
迷ったが、とりあえずは無難に呼んだ。

「あら、ユイさん。でいいわよ」

そう言うと、急に寂しそうに目を伏せた。
なぜ急にそうなったのか、理解できずにいた。
アタシが驚いたのを見て
「ごめんなさいね。貴方くらいのこと話をするのが、懐かしくて」
その話だけで、この女性の過去に何かがあっただろう
ことは予想がついた。

561: 04/09/30 00:42:58 ID:???
何故かはわからない。けれど、無性にそのわけが気になった。
「あの…こんなこと聞いて失礼だと思いますけど…何かあったんですか?」
アタシの問いに、女性…ユイさんは、少し驚いたように
顔を上げ、美しく微笑みながら言った。
「ふふっ。アタシにもね、貴方くらいの年の息子がいたの」
なんともいえない、嫌な予感がした。
「14歳の誕生日にね。当時私も主人も忙しくてね…」
聞いてはいけない。
全身がそう警告を発している。
しかし、体は金縛りに合ったように動こうとしない。
止めに入るより先にユイさんは話を続けていく。
「強盗が入ってね。…私達が帰ってきたと思ったのかしら…
玄関で刺されて…ね」

帰ってきたときには、もう手遅れで…

ユイさんの瞳から流れる、ひとすじの涙をみて
アタシは場違いにも、美しいと思った。
そして、自分の目が今更ながらに
白と黒しかうつさないことがもどかしかった。

598: 04/10/05 17:02:44 ID:???
「あっ…ごめんなさいね。突然」

ユイさんは自分が何を喋ったのか、理解してから
誤魔化すように笑っていった。
とても頭の良い女性。
アタシの態度、表情をよんで、こんな話をしたのかもしれない。
お子さんの氏。それ自体が作り話かもしれない。
けど、ユイさんが流した涙は美しかった。
それで嘘なら、かまわない。そう思わせるほどに。
「いえ…。アタシも変なこと聞いちゃって…」
なんと答えたら良いのか、一瞬迷ったが
それだけ答えると、言葉に詰まった。
「ふふふ、かわいいのね。うちの息子が生きてたらお嫁さんに
なってほしかったわ」
息子の話をすることが、なんともない
気にすることの無いことなのよ。
だから、貴方も気にしないで。
ユイさんは、そういっているように聞こえた。
「…」
だまってうつむいたアタシに――。
「さっ!当面の問題は貴方の目ね!」
ぜんぜん簡単な問題ではないのに
ユイさんがいうと、夕食の献立を考えているかのように
聞こえるから不思議だ。
アタシが本当にパニックにならずに
いや、常識からすれば考えられないくらい
冷静でいられるのは、ユイさんのおかげだろう。
「…はい」
アタシはそんなことがなぜか嬉しくて、少し笑いながら返事をした。

599: 04/10/05 17:05:18 ID:???
「ふふふ。やっぱりかわいい!貴方は…」
そう言うと、少し考えてから
「いつまでも、貴方っていう呼び方も変ね。
名前、教えてくれる?」

今まで、自分の名前も話さずにこんな話をしていたのかと思うと
驚きを隠せなかった。
「惣流…アスカ…です」
間違いなく、知っているだろう。
だけどアタシに自分で言わせてくれたことが嬉しい。
大切なのはユイさんが知っていたかどうかではなく
アタシがきちんと言った。ということだとおもう。
「アスカちゃん」
優しく呼ばれて、アタシは不思議な気持ちになった。
うれしくて、そして悲しい。

遠い昔に、大好きだったママに言われた言葉。
言われたであろう言葉。
なのに、涙も出ない。

でるのは、引きつった笑顔だけだ。

アタシの大切なママは氏んで――。
ユイさんの大切な息子さんも氏んだ――。
これ以上の皮肉はない。
そんなことが、ただただ、おかしかった。

600: 04/10/05 17:16:05 ID:???
もう逃げたかった。
「アタシ、帰ります」
落ち着いて言う。
「目の検査は、明日必ずうかがいます」
何か言われる前に――。
(これ以上優しくされたら、この人を頃してしまいたくなるから)
ユイさんはアタシの眼をじっと見つめている。
その目が、何かを迷っているように少し揺れた。
(何に迷っているかなんて、考えることもないわね)
アタシが明日くるかどうか、それを信じられるかどうか
ユイさんはそれを迷っている。
なんのことはない。
アタシ自身が迷っているんだから。
さらに一瞬の迷いから、ユイさんはにっこりと笑い
明日、待ってるわね。
そういってくれた。


その後は、財布も無いアタシに診察代はいらないといってくれ
駅までの地図も書いてくれた。
別れをつげ、ドアを開けると、外はもう闇に支配されていた。

617: 04/10/07 16:47:51 ID:???
見知らぬ町。ユイさんに書いてもらった地図を見ながら
駅へと向かっていく。
光り輝くネオンも、色鮮やかな明かりも
今のアタシには、只のモノトーン。
アタシがこの世界に適合できない人間なんだと
強く感じさせる。色を失った眼。
そのうち、色は只の文字へと、その意味を変え
アタシの感情もまた、モノクロになっていくのだろうか
と、考えてしまう。
目に眩しい新緑の森も
喜びに栄える春の花も
そんなものも、アタシにはもう見えないんだろうか
そう考えて、可笑しくなった。
今までだって、そんな景色を見たいと思ったことが無いからだ。
「さて」
これからどうしようか。
駅に着いたって電車賃なんて無いし。
(さすがにユイさんに、そこまで頼めなかった)
そもそも家に帰るつもりが無いんだから
あっても無くてもどちらでも良いんだ。

618: 04/10/07 16:49:01 ID:???
家にいるのは忌々しい義母だけだろう。
(向こうだってそう思ってるんだから、なんて呼んだってかまうもんか)
仕事を途中でやめてまで帰ってくるほど愁傷な父ではない。
学校に呼び出されたことをひどく怒るだろうけど―。
結局はそれは、自分が学校に呼ばれたことが怒りの理由であって
他人に怪我をさせたからとか、アタシに何かがあったから
そんなことには、これっぽちも気が回らないに違いない。
(言ってやったらどうなるだろう)
『アタシのことが心配じゃないの』と。
ふと、そんなことを考えてしまう。
『こいつは、いったい何を言っているんだろう』
きっと呆けた顔をして、アタシを見るんだろう。
あいつ等のそんな顔をみられるのなら
それはそれで、やってみる価値はあるかもしれない。
そんなことを考えて、少し笑った。

619: 04/10/07 17:13:26 ID:???
考えのまとまらないことを、むしろ楽しみながら
町を歩いていく。
どんな景色を見てもモノクロなら
人間の顔など見る気にもならない。
俯きながら人ごみを歩いていくと
ドン
っと道を急いでいたサラリーマンに肩で
跳ね飛ばされた。
「ちょ!!」
文句を言ってやろうと、顔を上げると
視界の隅に鮮やかな白いカッターシャツを着た
少年が目に飛び込んできた。
イライラとこちらを見ていた会社員は
こちらの態度をいぶかしんだ様子をみせながら
さっさと歩いていった。
アタシは怒りも忘れて、一瞬見た。
カッターシャツの少年の姿を追い求めていた。
会社が終わる時間帯なのか、道にはどんどんと人が増え
少年の後姿を覆い隠してしまった。
アタシは帰宅への途につく人たちの波を押し分けるように
駅とは反対の方へと一瞬見た少年を追いかけていく。
嫌な顔をするが、気にはしていられない。
とにかく邪魔だ。
半ば強引に体当たりするように突っ込ませながら
進んでいく。
チラチラと白のシャツが見え隠れする。
向こうもよろけながら、人ごみを歩いている
みたいだ。
(追いつける)
一瞬頭にそうよぎったとき、ふっと
少年の姿が消えてしまった。

708: 04/10/13 18:08:58 ID:???
「たくっ!」

少年を見うなったあたりまで来て、あたりを見渡すが
人波はさらにその勢いを増し、いよいよ押し出されるように
道路とは反対側のビルの壁際まで流されてしまった。
前ばかり見ていたために気づかなかったが
ビルとビルとのあいだに、人が一人やっと通れるくらいの
隙間が合った。
騒がしいメインストリートから、少し外れただけの
それは、別世界に通じていそうなほど、不気味な雰囲気を
かもし出していた。
「なんか、やな感じ」
目を細めて、暗闇の中を探るように見渡すと
曲がりくねった細い道の奥から、少年がひょいっと
顔を出したのが、暗闇の中のはずなのに、なぜかはっきりと見えた。
「あっ!」
アタシが小さくそう叫ぶと
わっと驚いた顔を見せて奥に引っ込んでしまった。

一瞬の間も空けることなく、アタシは奥へと走っていった。
疲れ果てていた体が嘘のように軽かった。
ハッハッハっと小刻みに息を吸い、暗闇に目を凝らし
道に落ちているゴミを飛ぶように避けていく。

なんで自分がこんなことをしているのか、まったく理解はできないでいる。
『おにごっこ』
頭の隅に浮かんだ言葉に、一瞬なんともいえない思いが胸に込みあがってきた。

709: 04/10/13 18:23:01 ID:???

思わずとまりそうになる足を強引に動かして
曲がりくねった道を進んでいく。
姿は見えないけど、まだそう遠くにはいっていない気がする。
いよいよ、奥まった場所まで来たときには
ビルからもれる明かりだけが、道を照らしているくらいで
このまま進んでいっても、どこかの道に抜けていきそうな
感じがしない。
「鬼ごっこ…」
思わずつぶやいてしまって、さらに暗澹たる気分になった。
小さいころに、ママと二人で鬼ごっこをしたときの記憶が
よみがえってくる。
(かくれんぼだったかな…)
どちらだろうと、たいした差はない。
重要なのは、ママがいなくなってしまったこと。
最初はゲームだとわかっていたはずなのに
しだいに恐怖が自分の中で暴れだした。
(まるわかりの場所に隠れていたんだけどね、ママは…)
泣いてしまったアタシを見て、すごい勢いで飛んできたママを
思い出して、少しだけ心があったかくなった。
(結局、ママは『見つかっちゃったわね』といって、晩御飯に
アタシの大好きな物を作ってくれた)
「アタシ、何食べたんだっけ…」
小走りだった足は、もうすでにゆっくりとした歩調にかわっていて
アタシはゆっくりと道なりに角を曲がった。

710: 04/10/13 18:46:26 ID:???
暗闇の中、探るように足元に注意してゆっくりと進んでいく。
悲鳴を上げたとしても、誰にもその声は届かないかもしれない。
街の中にありながら、隔絶された場所。

結局、数歩進んだところで、道は途切れた。
なんのことはない、只の行き止まり。
進路を阻んでいる、正面の壁に手を当ててみると、ひんやりとした感触が
伝わってくる。
「ふむ」
なぞるように手を下に動かし、そのまま壁から手をはなした。
左右を見れば、右側はただのビル。
左側には、もうひとつのビル。
しかし、左側のビルの壁には
錆びたような鉄の扉
そこには赤色のペンキで『非常口』と、かすれた文字で
書かれている。
(道を間違えた?)
暗かったし、自信は無いが、他にいける場所があったとは思えない。
そもそも、一本道だったはずだ。
ここから出るためには、アタシが入ってきた場所しかない。
とすれば、少年はまだこのどこかにいるはず。
すれ違ったり、隠れたりする場所が無かったいじょう
少年もここまでは来たはず。
錆び付いた非常ドアのノブに手を当てようとして
少しだけ迷う。手に錆の茶色い色がついてしまいそうだったからだが
こんな状態でも、そんなことを気にしていることが
ばかばかしかった。
一気にドアノブに手をかけ、手首を内側に捻るようにまわしてから
ドアを引っ張った。
しかし、ガンッ!と言う音がするだけで、ドアは開かなかった。
今度は、手首を外側に捻るようにまわして、ドアを開けようとしたが
結局同じことの繰り返しだった。

711: 04/10/13 19:08:45 ID:???
それから、数回同じ事を繰り返したが、結果が変わることは無かった。
目線を上に移せば、ビルのどの部屋からも明かりは漏れていない。
いくら社員が帰宅する時間帯といっても、どの部屋にも明かりが
ついていないというのはおかしい。
恐らく、現在では使われていないビルなんだろう。
ひとつ息を吐いてから、今度は周りを良くみわたしてみる。
よくあるパターンを考えてみる。
つきあたりの塀をのぼって、向こう側に逃げる。
そう思って、壁を見てみるが、とても人間がのぼれる高さではない。
あとは、マンホールを開けて、下水道へと逃げる。
暗い足元を探してみるが、都合よくマンホールなどあるはずも無い。
そもそも、女の子一人から逃げるために、マンホールを開けて
下水に逃げ込むなどという少年は、存在しないだろう。
なんだか、本格的にばかばかしくなってきた。
(なんでアタシが追わなきゃいけないわけ?)
だいたい、なんで逃げるんだ。
逃げるから、追ってしまったんだ。
「ばっかみたい…」
少年に言ったのか、それとも自分に言ったか…。
結局少年は、自分が気づかなかった道から逃げたんだろう。
そう思うことにして、未だ足元を見つめていた視線を
スッと正面に戻した。
擦れた『非常口』の文字の横。
錆びた非常ドアの中から、顔だけがこちらを見ていた。
瞬間、少年にしては、まつ毛の長い瞳と目があった。

「うわっ「いやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」

アタシの意識は、ゆっくりと闇の中へと落ちていった。

749: 04/10/18 00:10:18 ID:???
ポツ…ポツ…。
『アスカちゃん』
だれ?
『…できる?』
ママ?
『約束…』
ママなの?
まって。

「置いていかないで!!」

ポツ…。
どうも、意識を失っていたみたい。
ポツ…。
なにか夢を見ていた気がする。
漠然としていて、よく思い出せない。
意識を失うのは、今日で二度目。
最悪だ。
グワングワンと頭の中がまわっている。
ハァっとひとつ息をつけば、うっすらと白くなる。
ポツっと頬とに雨があたる。
上を見上げれば、真っ黒な雲が夜空を覆い隠している。
今にも本格的に降り出しそうだ。
「だ、、だいじょうぶ?」
「!?」
突然の声に体に緊張が走る。
体勢は倒れたままだ。襲われたら、抵抗するのも難しい。
血液の回りが悪い。二回の失神のせいだろう。
口の中を噛むほどに歯を食いしばる。
うっすらと血の味が広がってくるが気にはしていられない。
倒れた原因を思い出せば、阿呆のように空を見上げていた
自分が恨めしい。

750: 04/10/18 00:12:16 ID:???
体に力を込める。痛む箇所は無い。
頭が猛烈に痛いが、意識の外に強引に押し出す。
戦える。瞬時にそう結論を下し、声のしたほうを見る。
そこにいたのは――。
真っ白な少年だった。
いや、正確には、真っ白なカッターシャツを着た少年が
アタシの横に屈むようにして様子を伺っている。
とりたてて目立つ少年ではない。
さらさらの黒髪。
頬は健康そうにうっすらとピンク色をしている。
目はどこかで見たことのある雰囲気をもっているが
おどおどと左右にゆれている。
女の子みたいに長いまつ毛。
そう、それは、間違いない。
気を失う瞬間に見た顔だ。

ためていた力を爆発させるように、両手に力をこめ
屈んでいた少年の足をなぎ倒すように、蹴りを放つ。
体勢は悪かったが、まともに食らえばしばらくは立てないはずだ。
手加減をするつもりはない。
ビュ!!
改心の一撃だった。
体調がすぐれないことを考えてみれば、ベストの選択。
そう思った瞬間。それはおこった。
無理な体勢からはなった蹴りは、見事に
目標の少年の足に一撃を加えたかに見えた。
しかし、蹴りはそのまま少年の足をすり抜けていった。
『かわされた!?』
なぜ。
考えがまとまる暇も無く、アタシはもんどりうって倒れた。

752: 04/10/18 00:14:01 ID:???
「わっわっ!!」
横で声が聞こえたが、どうしようもない。
息が止まる。地面をこするように体が動き
数回回転してから壁にぶつかって、ようやくとまる。
全身に痛みが走り、身動きが取れない。
むちゃな体勢からの蹴り。
しかし、痛みのおかげで、思考は逆にはっきりとしてきた。
体を丸めるように抱えて、痛みをやり過ごす。
壁から顔を出すような奴だから、躊躇無く攻撃を加えたのだ。
蹴りがすり抜けたところで、不思議ではない。
物質をすり抜けるという現象自体が不可思議なのだが
それは、事実として受け止める。
それを否定したところで、事態が良い方向に向かうわけではないからだ。
オカルトを信じる信じないは関係ない。
今ある事実に対して、どう対処をするか――。
「ね、、ねぇ大丈夫?」
反射的に、体をさらに丸める。
「何にもしないよ?」
その言葉をきいたとき、なぜか体の力が抜けた。
やさしかったから?
確かにそれもある。
しかし、決定的だったのは、その声が震えていたから。
丸めていた体から、頭だけ少年のほうに向ける。
たったそれだけで、ズキリと痛んだ。

754: 04/10/18 00:15:17 ID:???
少年はびっくりしたように、数歩後ろに下がった。
「アンタ、なに?」
だれ?ではない。
何者か?でもない。
その質問の意味を理解してか、少年はその目に涙をためるようにして
俯いてしまった。
(これじゃ、まるでアタシが悪者みたいじゃない)
泣きたいのはこっちだ。
頭の中で愚痴をいいつつ質問を変える。
「こんなところで、何してたのよ」
ビクッと体をこわばらせてから、きょろきょろと
左右を見渡し、やっと聞き取れるような声で
「き、、君が追いかけてきたから…」
その答えに、アタシは本日三度目の失神ができないものかと
本気で考えてしまった。

809: 04/10/19 20:41:37 ID:???

痛む体をひきづって、壁に体をよりかける。
肺から大きく息をだし、全身の力を抜いていく。
なかば、少年を無視するように、再び空を見上げれば
小降りだった雨が次第にその勢いを増してきた。
「なんで、アタシが追いかけたら逃げるわけ?」
見ようともせずに、問いかける。
「だ、、だって僕を追いかけてきたから」
おどおどした言い方に、頭痛が激しくなる。
「何でアタシが追いかけたら逃げんのよ!!」
ストレスに毛が逆立つ錯覚さえ覚え、顔を少年に向ける。
怒鳴り声に驚いた顔をした少年が、そこにはいた。

『さらさらの黒髪』

『頬は健康そうにうっすらとピンク色をしている』

さっき自分に与えた印象が、再びやってくる。
寒空のしたでも、青くなることなく、つややかな
桜色の唇。
モノクロの世界で、少年だけは衰えることの無い
スポットライトをうけているかのように
はっきりと色がついている。
「ア、、アンタ、、なんで色が…」
声がかすれて、うまく喋れない。
そもそも、ここは薄暗い路地裏だ。
厚い雲に覆われ、月明かりなど期待できない。
なのに、はっきりと浮かび上がるように少年は存在している。
触れることのできない体。
ドアをすり抜ける体。

810: 04/10/19 20:56:58 ID:???
「お、、ばけ?」
あまりに陳腐な結論に、現実感がない。
少年は、悲しそうに自分の両手をみぎり締める。
「わかんないんだ…」
でも!でもさ!
勢いをつけて、言葉をつむいでいく。
「だれにも僕のこと見えないみたいなんだ!でも、君だけは僕が見えたみたいで
それで、突然おってきたから
なんだか、怖くて、それに君怖い顔してたし!すごく!」

相手も考えがまとまらないのか、支離滅裂なことばかり
を繰り返している。
雨はいよいよ本格的に降り出し、アタシだけを濡らしていく。
打撲で熱を持っていた体に、心地よい。
モノクロに沈む世界、その中で唯一輝き、色鮮やかに存在する
ものは、幽霊。
さらに現実感は喪失していく。
自分の存在が、すでに現実より『あちら』側に近づいている
のか。そんなふうに思ってしまう。
「じゃアンタ自分がお化けかどうかもわからないってわけ?」
「うん!」
なんなのよ!その期待に満ちた目は!
そういう目で見られるのは、ウンザリなのよ!
「はっ」
意図的に、侮蔑の意味を込めて意味をなさない言葉を吐き捨てる。
だが、めげることも無く、アタシに聞いてくる。
「君には、僕が見えるんだろ?だから追ってきたんじゃないの?」
「見えるわよ。だから?」

811: 04/10/19 21:13:28 ID:???
なにか、アンタに意味があるのか?そういう意味を込めて
言い放つ。
「なにか、僕のことわからないかなって、そう思って」
「そう思って?アンタ逃げたじゃない!」
「あれは…君がすごく怖い顔をしてたから…つい」
でも、気になったから、顔だけ出してみたんだけど…。

まだ、馬鹿が馬鹿なことをのたまっている。
アタシはといえば、がくっと力が抜け膝の間に顔をうずめてしまう。
「僕のこと…わからない?」
「わかるわけ、ないでしょ…」
もう、体力と精神力は限界に近づいているのか
妙に素直に答えてしまう。
怒や憤りを持続させるには、今日はいろいろなことがありすぎた。
雨は勢いを増すばかり。今夜は、嵐になる。
このまま濡れていると、肺炎にでもなるかもしれない。
良くても、風邪はひくだろう。
でも、僕のこと、追いかけてきたじゃ…」
「それは…」
(アタシ、なんでコイツのこと追いかけてたんだっけ)
特に理由があったわけではないことに、今更気づく。
しいて言えば、光る白いシャツをみて無意識のうちに
モノクロとの違いを見つけ、追わなければいけない。
と行動に出たのかもしれない。
(でも、コイツにそんな事いったってねぇ…)
そう思う。

812: 04/10/19 21:14:42 ID:???
「どうだっていいでしょ」
それきり、無視を決め、体を縮めるようにして
両手で膝を抱える。
体育座りみたいだけど、体温をにがさないように
するには、一番いいような気がした。
膝の上にあごを乗せ、これからどうしようかと考える。
馬鹿はとぼとぼとこちらに歩いてきたかと思うと
少し間をとるようにして、アタシの隣に同じようにして
座った。
ほんのりと、暖かさを感じたが、錯覚だろう。
もう、お互い何も言葉を交わすことなく
雨の降る路地裏で、膝を抱え座っている。
幽霊少年と家出少女。
世界からはじき出された。不適合者たち。
笑えるくらいに、シュール。
それも、まぁいいかな。そう思ってしまった。

816: 04/10/20 17:42:25 ID:???
もう、どれだけこうしていただろう。
感覚が麻痺していく中。沈黙を破るように喋りかけられた。
「ねぇこのままじゃ、風邪引くよ?」
「…」
「僕さ、今日君に会うの実は二回目なんだ」
その言葉に、わずかに首だけ動かして、反応する。
「橋の上にいたでしょ?」
どこか、ぼんやり、あのときのことを思い出し
手首に巻かれた、包帯をみる。
雨にぬれ、うっすらと血が滲んでいた。
「あっそ…」
少年の背格好からすると、受ける印象よりどこか幼い喋り方が
少し気になる。
「あのあとさ、実は…」
言いにくそうにしているのを感じ取り、頭の中に
嫌な想像がよぎったが、どうでもよかった。
「母さんにも合ったんだ」
君を連れてった人…。
さすがに、その発言には多少ショックを受けた。
「アンタ、ユイさんの子供なの!?」
「う、、うん」
「確かアタシと同じくらいの年の時に…」
(殺されたんじゃ)
最後の言葉だけは、何とか飲みこむことができた。
そして、別の質問をする。

817: 04/10/20 17:43:02 ID:???
「名前は?」
「…碇シンジ…」
聞いてから、しまったと思った。
名前など聞いてしまうと、あとあと面倒なことになりそうだと思ったからだ。
すでに、かなり面倒な事態になっているというのに。
話題を変えるように、質問を浴びせる。
「なんで、こんな所にいんのよ」
(幽霊でだって、ママの傍に入れるなら、アタシは絶対に離れないのに)
「何度も母さんを呼んだんだけど、ぜんぜん答えてくれないし
何か怒らせちゃったかなって、思ったけど思い出せないし。
知らない町だし」
そこまで一息に言うと、少し恥ずかしそうにしてから、あたしをチラッと見て
「だから、とりあえず一緒についていったんだ」と付け加えた。

「病院の中にもいたの?」
なんだか、アタシとユイさんの会話を聞かれたかもしれないと思うと
少し嫌な感じがした。
「最初はね…でも君が寝てる間に、何度も母さんを呼んだんだけど
ずっと見えてもないみたいだったし…それで、なんか変だなって思ったんだけど
傍にいるのが悲しくて、ずっと外で待ってたんだ」
「で、アタシをつけてたってわけ?」
コクッとうなずく。
「橋の上で声をかけたとき、君は聞こえてたみたいだったから」
「アンタ、いつから幽霊やってんの?」
言ってから、なんて馬鹿な質問だろう。と自分にあきれてしまう。
「今日君に会うちょっと前。気づいたら知らない町の中にいたんだ…」
道歩いてる人に聞いても、だれも答えてくれないしさ―
そう言うとハァっとため息をひとつついて、ちっとも深刻そう
な雰囲気をださないで「どうしよう」なんていっている。

818: 04/10/20 17:44:07 ID:???
アタシは、幽霊云々よりも、さっきから気になっていることがある
この横にいる少年、どうしても見た目より幼い印象が拭えない。
とてもじゃないが、中学生の喋り方には聞こえない。
「アンタ、何歳?」
「え?10歳だけど?」
何の疑問も無く、答える。
「アンタ自分の格好みていってんの?」
そういうと、コイツは初めて自分の格好を見るとでもいうように
着ているものに目を向けた。
「なに、この服?」
「アタシに聞くんじゃないわよ。どうみたって学生服でしょ」
すでに、学校でのテンションを保つのは不可能。
不思議なほどに落ち着いている。
「だって、僕小学生だよ?」
「アタシに聞くんじゃないっていってんでしょ!!」
つい、大きい声を出してしまう。
怒りからとかムカついたから、とかではない。
ゴホッゴホッと咳がでた。
なんとなく――。
なんとなくだけど、こう思ってしまったから。
こいつが殺されたのはアタシと同じくらいの年齢のとき
そうユイさんは言った。
幽霊はこの世に未練がある。そんな話をどこかで聞いた気がする。
殺されたときのショックで、記憶が飛んでしまった。
きっと、それが正解なんだと、どこかで確信していたから
なぜか悲しくて、声を荒げてしまった。
コイツの未練。それはいったいなんだろう。
どうしようもなく、悲しかった。

831: 04/10/27 23:13:49 ID:???
「ねぇ君は?」
だれ?なに?その質問の続きはなんだったんだろうか。
咳が出そうになるのを無理やりに押し込める。
のどが引きつって、ひりつくような痛みに顔をわずかにしかめる。
軽く反動をつけるようにして、立ち上がる。
予想していたよりも体が揺れたのは、疲れのせいか、熱のせいか。
(どこかで雨宿りをしなきゃ)
瞬間うかんだのは、ユイさんのいた病院。
軽く頭を振って、いつの間にか横にいるた碇シンジという少年
をみる。
どこにいったって、きっとこいつは着いてくる。
幽霊から――。まぁまだ幽霊と決まったわけではないけれど。
幽霊から逃げるなんていうのは、言葉遊びにもならない。
(状況が把握できてもいないのに、ユイさんにあわせるわけにはいかない)
今度こそ、はっきりと熱のせいで体が揺れたことを自覚した。
このまま雨に当たっていれば、最悪自分は氏ぬ。
『氏』
そういうことに対して、現実感があったことは一度も無い。
ママが氏んだとき。そう、ママが氏んだときでさえ
アタシは自分もいつかは氏ぬんだなんて考えもしなかった。
だから今も氏というものにたいして、恐怖感はない。
このまま、雨にうたれて結果として氏んだとしても
別にかまわない。
恐怖の無いものに対して、無理やり虚勢を張る必要も無いのだから。
ただ、このまま氏ぬつもりも、また当然無い。
判然としない、父と義母の顔が浮かんでくる。
あいつらを喜ばせるだけだからだ。
体の一番奥が燃えるようにあつい。
ブルッと体が震えた。
一度震えだした体は止めることもできず、小刻みに震え続けていく。
ばれない様にした、小さなため息は、真っ白な軌跡を残し消えていった。

832: 04/10/27 23:55:34 ID:???
子供だったんだと思う。
そして、今もまだアタシは十分に子供だと思う。
どこからどこまでが子供で、どこからが大人なのか。
そんな、どうしようもない事ばかりが、さっきから
頭の中を駆け巡る。
(結局は、他人、第三者から大人に見られるか、子供に見られるのかって
ことで、きまる)
自分がいくら虚勢を張ろうとも――。
ずぶ濡れになった中学生がいたら、偽善という善を持った
人間に通報されるだろう。
それが、当人にとっては、どれほど迷惑なのかを考える前に。
24時間やっているコンビニだろうとレストランだろうと
体を温められればどこでも良いのだけれど、入ることはできない。
居場所が無い。それはすでに嫌というほど考えたことだったはず。
頭から追い出そうとしても、いつだってそれは無駄だった。
「ねぇ風邪引くよ?」
そんなことは、わかってる。そう言いそうになって、やめる。
幽霊らしき少年。いい加減、中学生の自分が少年というのも
どうかとは思うが、自分が十歳だというのなら、
外見はともかく、少年といっても間違いではないのかもしれない。
「…そうね」
どこまでも呑気にみえる少年。
(本人は精一杯心配している顔をしているつもりなんだろうけど)
自分だけがシリアスになっているのが、馬鹿馬鹿しくなってくる。
「でも、行く場所も無いのよ。お金も無いしね」

833: 04/10/27 23:56:38 ID:???
おどけたように、両手を広げる。
そんな態度が、似合わないかなっと、少し顔があつくなるのがわかったが
少年は気づいた様子も見せない。すこしだけ、そのことに感謝した。
アタシからまともな答えが返ってきたのが嬉しいのだろう。
満面の笑みで、非常口と書かれたドアを指差した。
笑い顔を見て、心臓が跳ね上がった。
怒りのせいではない。ただそれだけはわかった。
わかったのは、たったそれだけだったのだけれど。
初めての感情。表情に、戸惑いが出るの止めることはできなかった。
隠すように、顔だけ非常口のほうに向けた。
「さっきアンタを探してたときに、開けようとしたけど
開かなかったわ」
つとめて冷静に言ったつもりだった。うまくいった自信は
まったくなかったが。
「え?中から見たとき鍵なんかかかって無かったよ?」
そう言うと、さっさと自分だけ吸い込まれるように
ビルの中に入っていってしまう。
「ちょっ!!」
慌てて声をかけるが、すでに遅かった。
少年の言ったことを信じるわけではないが
もう一度取っ手を握り、手前に引いてみる。
結果は変わるはずもなく、ドアは開かない。
2.3回繰り返すが、結局開かない。
視線をノブにむけたとき、なんとなく嫌な予感がして
顔を上げた。
「!?」
少年の顔が目の前にあった。
悲鳴を上げなかったことは、賞賛に値すると思う。
たとえ、しりもちをついていたとしても。

834: 04/10/28 00:24:50 ID:???
思う存分、罵詈雑言を浴びせたあと、アタシは立ち上がる。
けれど、不思議と悪い感情はわかなかった。
子供のけんか、そう、子供同士の―。
不思議そうな顔をして、それでもまだ妖怪のように
ドアから顔を出したままの少年。
不思議と暖かいものが、胸にあふれてくる。
少しだけ、体に活力が戻ってきた気がする。
それが、たとえ錯覚だったとしても、気にはならなかった。
「アンタ!ちょっと顔引っ込めてなさい!」
笑顔になることを、今度は隠そうともせずに、正面にいる
少年に言い放つ。
顔に『?』マークをつけたまま、迷っている少年に
アタシはわざとらしく、眉間にしわを寄せる。
それでも、引っ込もうとしない少年。
少年少年少年少年少年少年!!
もう呼びにくい!アタシがなんと呼ぼうと
それは、自分の勝手なのだと、理由をつけ叫ぶ。
「顔を引っ込めろって言ってんのよ!ヴァカシンジ!!」
あまりのことに、一瞬顔を引きつらせ。
そのあと慌てて引っ込んでいくシンジを見届けると、アタシは
自分でも不思議なほど笑顔になっていく。
体ひとつ分ドアから離れ、すっと腰をおとす。
そしてアタシは確信を持って、ドアノブに蹴りをはなった。
ガツッ!!
鈍い音とともに、わずかにドアに隙間が開くのが見えた。
何のことは無い、さび付いていただけなのだ。
蹴ったせいで開いたのか、何度も引っ張っていたときに
すでに緩んでいたのか、そんなことはわからないけど
アタシは、ドアノブつかむと勢いよく開いた。
その中にいる少年。
ついさっき、言い訳よろしく、シンジと呼ぶことに決めた少年が
どんな顔をしているのかを、想像しながら――。

840: 04/10/28 21:51:57 ID:???

はたして、そこにいたシンジの顔は自分にとって
どんな意味を持っていたんだろうか。
もしかしたら、意味があったのかもしれない。
「中もたいして暖かくないわね」
薄暗い廊下を進んでいくと、程なく小さな部屋に着いた。
部屋の中には書類の束などが、無造作に捨てられていて
隅には凹んだ小さな金属製の丸いゴミ箱が倒れていたりする。
他には、足のひしゃげた机とそれに、はまるようなイスが
ワンセット放置されているくらいか。
何かに怯えるようにしながら、シンジはアタシの後ろについてくる。
僅かに町の街灯でも差し込んでいるのか、不思議とうっすらとした
明るさを保っている。
だいぶ前に放置されていたらしいビルの中は、人が入った気配
が感じられず、取りあえずは朝までいるくらいなら
安全なのかもしれない。
小走りに、捨てられた机にいくと、いくつかある引き出しをあさる。
耳をふさぎたくなる、嫌な音を上げながら、上から順番に
開けていくが、目当てのものが見つからない。
雑然と要らなかった小物が詰め込まれていて、探しづらい。
アタシは、引き出しを全部机から引き抜いてしまって、床の上に
ぶちまける。
「何してんの?」
相変わらず、幽霊の癖にあたりをビクビクと見回しながら
聞いてくる。けれど、取りあえず今はかまわず
アタシは他の引き出しも同じように床に中身を出していく。
使えそうに無いものは、適当に端によせていき、数回
そんな作業を繰り返すと、目的のものを見つけることができた。

841: 04/10/28 21:53:39 ID:???
「あった!」
自分の予想が当たったことに多少嬉しさを感じつつ
シンジに対して、解答を見せる。
「…ライター?」
「そ、使い捨てライター」
タバコを吸っていた人が、捨てていったんだろう。
そういって、ふってみせると、幸いなことに
多少は中身が入っているのか、液体がゆれている
様子が見えた。
「なんに使うの?」
コイツさっきから、質問しかしてこないわね。
そんなことを考えながらも
「忘れてるかもしれないけど、アタシは寒いのよ」
それだけ言うと、すぐに歩き出す。
部屋に散らばっていた紙くずを集め、隅に転がっていた
ゴミ箱の中に、無造作にいれていく。
適当な一枚を手に取り、使い捨てライターで火をつけようとするが
かじかんだ手でうまくできない。
手を丸め、息を吹きかけてから、再度挑戦する。
心配していたような、火がつかないということも無く
数回繰り返したときに、うっすらとした火がともった。
紙に火が燃え移るのを確認してから、火種をゴミ箱の中に入れる。
一瞬の間があってから、火は他の紙にも燃え移っていく。



842: 04/10/28 21:57:33 ID:???

わーっというシンジの歓声を横に、アタシはモノクロの炎を
不思議な気持ちでみつめていた。
紙はまだいくらか手元に残っている。
いくらかも持たないだろうが、体を温めることくらいは
できるかもしれない。
今は何時だろうか。昼まではしていた時計は
すでに、手元には無い。
学校でのことは、もう遠い昔の出来事のようだ。
シンジのこと、アタシのこと。
考えなければいけないことは、山ほどある。
雨降る夜は、まだ長い。
ひとまず、体を休めよう――。
汚れた床に腰を下ろし。
色の無い炎の暖かさと、横にシンジが座るのを
感じながら、アタシはゆっくりと眼を閉じた。


907: 04/11/05 21:24:32 ID:???
トクン…トクン…。
一定のリズムで聞こえてくる心地の良い音。
不思議な暖かさに包まれている。
火のはぜる音が心地よいリズムを乱した。
「ん…」
うっすらと目を開けると、水中から空を見るような
滲んだ景色のなか、鮮やかな炎がゆらゆらと揺れているのが見えた。
ぼんやりと、はっきりとしない意識の中、数秒ほど炎の美しさに
目を奪われてしまう。
気付けば、寝ている間に横に倒れていたのか、赤子のように丸まって寝ていた。
両手で体を抱きしめるようにして、さらに体を小さくしていく。
先ほどまで感じていた、不思議な暖かさは、この炎のせい?
などと、とりとめも無く考える。
けれど、今も感じる包み込まれるような
暖かさは、この炎とは違う気がしてならない。
それに、今もはっきりと聞こえるトクン…トクン…という音。
初夏の頃、ベランダで日に当たっているような――。
そこにあって初めて愛しさに気付く。
いつまでも、このぬくもりに包まれていたい。
そんな気分の中、視線は美しい赤い炎へと惹きつけられていた。
その色は、とても気高いアカ。
暖かさに、再び眠りにつこうと瞼を閉じようとしたとき
アタシの意識は一気に覚醒した。
目の前に広がる、赤い色。
「色が見える!」
自分でも気付かないうちに叫びながら、アタシは勢い良く体を起こした。
しかし、不意に炎はその色を失った。
何度目を閉じても、失われた色は戻ることは無い。
夢だったのだろうか。
自分では、大して気にしていなかったが。
色が見えないという精神的なストレスが見せた幻覚だったのだろうか。

908: 04/11/05 21:29:04 ID:???
失望と落胆。
さっきまで感じていた暖かさは、もう無い。
チラリと横を見れば、膝を丸め顔をうずめるようにしてシンジが寝ている。
「呑気なもんね」
幽霊でも寝るのか――。
と考えてしまい。少しだけ気分がよくなった。
けれど、さっきまで自分が横になっていた位置とシンジが座っている位置
との関係に気付いたとき、アタシは自覚して顔を赤くした。
(シンジと重なるような位置で、アタシは寝ていた!)
壁をすり抜けることができるのだから、人だって通り抜ける。
実際、蹴ろうとして失敗したじゃないか。
なら、アタシが聞いていた、心地よいトクン…トクン…という音。
あれはシンジの…心臓のおと?
感じていた暖かさは?

いてもたってもいられなくなったアタシは座ってみたり、立ってみたりを繰り返す。
けれど、視線だけはシンジからそらすことができないでいる。
「もう!なんなのよ!」
わざとらしく、声に出してみるが、シンジが起きるそぶりは無い。
相手は、自分が10歳だと名乗る記憶そーしつだ。
ちょっと笑顔がかわいいかな、とは思ったが。
ほとんど会話らしい会話もしていない。
ユイさんの息子だっていうし無下にはできないが―。
感じたことの無い感情に、頭がうまく回転しない。
意味の成さないことばかり浮かんでは消えていく。
何度目かの上下運動ののち、アタシは意を決して、シンジの横に座り
そっと手を体の中に入れた。
「暖かい…」

909: 04/11/05 21:30:56 ID:???
不思議な感覚だった。自分の手が人の体の中に入っている。
ホラーの世界だが、不思議と怖さは無かった。
シンジが寝ているのを確認してから、アタシは服が汚れるのもかまわず
先ほどまで、自分が寝ていたようにシンジと重なっていく。
中は、思わず、うっとりとしてしまいそうなほど、心地よかった。
トクン…トクン…。
確かに聞こえる、心臓の音。
シンジの中から見える世界は、夢ではなく。赤い炎が揺れていた。
景色はぼんやりと、水中から見ているかのよう。
自分が見えている世界を他人も見ているとは限らない。
自分が感じる色彩を他人が感じているとは限らない。
どこかの本で読んだ一説が思い出された。
アタシの目に色が見えていたとき、アタシにはこんなに美しく
赤い色は見たことが無かった。
シンジはこんな色の世界に生きていたのだろうか。
色の無い世界に取り残され、幽霊が見えるようになってしまった。
その幽霊の中からだけは、アタシは色を見ることができる。
シンジと同じ世界を感じることができる。
けれど、シンジは氏んでいるのだ。
湧き上がる気持ちを、だからアタシはけして認めることはできない。
シンジのためにも、ユイさんのためにも。
アタシは生まれて始めて
他人のために、何かをなさなければならないと感じていた。
それはきっと、アタシにしかできないこと。
これは偶然ではなくて必然。夜が明けたら、会いに行こう。
シンジをつれて――。

914: 04/11/06 20:33:49 ID:???

心地よい、羊水の中。揺らめいている炎を見て目を閉じる。
軽く息を吸い込んで、アタシは行動に出た。
体に溜まっていた疲れは、数時間の眠りで嘘のように消えていた。
窓からは見える景色は、もうすぐ夜明けが近いことをうかがわせる。
軽く伸びをすると、頭がすっきりした。
余っていた紙を火の中に入れ、当面の暖を確保する。
炎に色は無い。白と黒の濃淡で構成された『それ』さえ
今のアタシには愛しい。
アタシは一生、あの美しい色彩を忘れることは無いだろうと思う。
「シンジ」
初めて名前を呼ぶような、気恥ずかしさを感じながら、アタシは
少年の名を呼ぶ。
揺すって起こすことも、叩いて起こすこともできないが
声をかけることはできる。
声を聞くことができる。
「シンジ!」
今度は、少し力を込めて、名前を呼ぶ。初めて呼ぶ名前なのに、どこか親しみを持って。
「シン…」
さらに大きな声を出そうとしたとき、シンジはゆっくりと頭を上げた。
まだ眠いのか、しきりに目をこすりながら、大きなあくびをして
アタシに目を向ける。
ぼんやりとした表情、どこか抜けているようで、でも愛嬌のある、そんな顔。
軽くあくびをしようとして、何が恥ずかしかったのか、慌ててかみ頃していた。
アタシと目が合ってから、部屋の中を見わたして、再びアタシに顔を向ける。
その表情は、困惑にいろどられていた。
「君は…」
そうつぶやいてから、慌てて立ち上がり、自分の体を見回した。
そこには、寝ぼけていただけのせいではない、困惑がある。
そのことを多少疑問に思ったが、取り合えづは、シンジが次に何を言うか
を待った。

915: 04/11/06 20:34:49 ID:???

「君は…」
再び、同じ質問を繰り返し――。
「君は…だれ?」
一瞬、何を言われたのか、理解ができなかった。
確かに、知り合ってから数時間しかたっていないし、ろくに会話もしていないが
これでは、まるで――。
そういえば、自分の名前さえ、まだアタシは言っていないことに気付いて
恥ずかしさに、顔が赤くなった。
「アタシは、アスカ」
一拍の間をおいて、胸をはり、腰に手を当て
「惣流アスカ!」
その名前を誇るように、はっきりと言った。
「そうりゅう・・・あすか?」
オウム返しのように、アタシの名前を数度つぶやく。
その姿は、自分がなぜここにいるのか、アタシが誰なのかもわかっていない
そんな態度だった。
視線をさまよわせ、何かを思い出そうとする姿に、アタシは自分でもわからない
焦りを感じた。
「アンタは、アタシから逃げて、それに雨に濡れるからってここに入って」
焦りからか、うまく説明できないでいる。
そもそも、アタシ達の関係は何なのだ?と聞かれても、説明もできない。
会ってから、数時間一緒にいたに過ぎないのだし――。
「ちょっと、大丈夫?」
苦しそうにしているシンジにアタシは駆け寄る。
だが、手を差し伸べることも、介抱することもアタシにはできない。
「うぁ…」
突然、シンジは頭を押さえうずくまる。
膝をつき、頭を抱えるようにして、うめき声だけを上げる。
手で、髪の毛をかきむしり、引きちぎるように乱暴に動かす。
肩で激しく息をし、喘ぐように、何かをつぶやいている。

916: 04/11/06 20:38:35 ID:???

「僕は…!」「ぼくは…!!」「ボクハ…!!!」
その後に続く言葉は、叫び声との区別もつかづ、聞き取ることもできない。
動揺するアタシを横に、一際大きな声をあげたあと、嘘のようにシンジは黙り込んだ。
大きく肩で息をしているが、発作のような症状はみられない。
どれくらいの時間、そうしていたのかはわからない。
気付いたときには、窓からは、うっすらと光が差し込み、朝の到来を告げていた。
なすすべも無く、アタシは膝をつき俯いているシンジの横で
落ち着くのを待つしかなかった。
「大…丈夫…?」
途切れ途切れに聞こえてくる、息遣いを気にしながら、アタシは恐る恐る
シンジに声をかけた。
一瞬、ビクッと体を硬くした様子をみせたシンジだが
ゆっくりと、顔だけアタシに向けてくる。
その顔は、真っ青になり、唇が小刻みに震えていた。
「君は…」
再び繰り返される質問に、不安を覚えながらも
「アタシはアスカ、昨日会ったでしょ?」
意識して、やさしく声をかける。
シンジは、考えるように瞼をぎゅっとつぶり、大きく言いをはいた。
「昨日…。そう、昨日、会ったね」
そう言うシンジの態度は、昨日までの子供らしさがどこか抜け落ちていた。
いや、十分子供っぽいのだけれど、昨日までの無邪気さ、年齢につりあっていない
子供っぽさが抜け、急に年齢どおりの雰囲気をもった――。
そのギャップのせいで、逆に年齢以上の雰囲気もどこか持っていさえする。
ゆっくりとした動きで、シンジはアタシと向き合うように腰を下ろした。
気付かぬうちに、アタシは自分の唇をなめていた。
優しげな雰囲気はかわらず、シンジは優しい目でアタシをみつめてくる。
「僕は、シンジ。碇シンジ」
昨日聞いたわよ。アタシは、そう言おうとした。しかしそれをさえぎるようにして――。
「13歳、だと思う」
どこか自虐めいた苦笑いをしながら、そう付け足した。

917: 04/11/06 22:31:19 ID:???
「あ、、え?」
突然のことに、言葉が出ない。
昨日は確かに自分のことを10歳だと言っていた。
たしかに、子供っぽい雰囲気だったし、ユイさんが言っていた
ことと関連して、記憶が飛んでいるんだろうと、推測していた。
おそらく、それは正しかったのだろう。
アタシが眉を顰めるのを見て、シンジはさらに付け加えるように言った。
「自分でも、自信が無いんだけど」
そういうと、照れたように頭をかいた。
「取りあえず13歳までの記憶はあるんだ」
ぜんぜん緊張感が感じられない雰囲気だけは変わらず。
「昨日、君は…惣流さんだっけ。惣流さんは僕と会ったのは
昨日なんだろうけど、僕にとっては十歳の頃」
シンジのいっている言葉がうまく理解できずにいる。
アタシの表情を読んだのか、自分でもうまくいえていないことを自覚しているのか
さらにシンジは説明をくわえていく。
「僕には十歳くらいの頃の、惣流さんと会ったっていう記憶があるんだ
前後のことは、何にも覚えてないし、きっと、記憶がごちゃ混ぜになってるんだとおもう」
シンジの説明を、アタシはどこか釈然としない気持ちのまま聞いていた。
「でも、不思議と良く覚えてるんだ。実際には昨日会ったんだから
当たり前なのかもしれないけど」
記憶の混乱や、自分の境遇で、何でコイツはこんなに落ち着いていられるんだろうかと
アタシは頭の隅で考えた。
(13歳。ユイさんが言っていた。アタシと同じくらいの年齢)
しかし、シンジの様子から、何があったかまでは思い出していない
だろうということは、察しがつく。
思わず、心の中で嘆息する。
「惣流さんの髪の色が、すごく綺麗だったから」
思考の渦にはまっていたとき、不意をつかれた言葉に
アタシは体がカッと熱くなった。

918: 04/11/06 22:32:17 ID:???
無意識のうちに、自分の髪に指をはわせ、色を確かめるように
毛先を目の前にかざす。
ママに褒められた髪の色は、今は白黒にしかみえない。
シンジの中から見た炎の美しさを思い出し、シンジには自分の赤みがかった
髪の色は、どんなふうに見えるのだろうか。と思う。
昨日からの汚れを思い出して、急に恥ずかしくなった。
「アスカでいいわよ…」
「え?」
「だから、アタシはアンタのこと、シンジって呼んでるわけだから
アンタも特別に、アタシのことをアスカって呼んで良いって言ってるのよ!」
誤魔化すように、少し口調を強めて、早口に言う。
「で、、でも」
それでも戸惑うシンジに。
「アタシが良いって言ってるんだから、良いのよ!」
「わ、、わかったよ」
顔を引きつらせていたのは、テレのせいだろう。
「……」
「……」
なんとも気まずい沈黙。
「……」
「……」
アタシの眉毛は、おそらく限界まで上がっていただろう。
凍りつくように引きつった顔のシンジをみれば、想像できる。
「あ、、あすか」
いまのところは、これで許すことにした。

919: 04/11/06 22:33:20 ID:???

「で、シンジは何で自分が13歳だと思うの?」
アタシが話を変えたことに、あからさまにほっとして
シンジは話をあわせてくる。
「中学に入ったときの記憶はあるし、13歳の誕生日が
あったことも覚えてるんだ。でも、昨日、えっとア、アスカと会った昨日じゃなくて
僕にとっての『昨日』なんだけど――」
自分の名前を呼ばれた気恥ずかしさよりも『13歳の誕生日』という
キーワードにアタシは体を硬くした。
幸い、シンジはアタシの名前を呼んだことが恥ずかしかったのか
目線をそらしていたので、そのことに気づいた様子は無い。
「自分が昨日なにをしていたのか、思い出せないんだ。
その、アスカと会ったのが昨日なら、辻褄はあうんだけど…」
そういうと、今度は覗き込むようにアタシを見る。
その姿は、昨日のシンジのようで、可笑しかった。
結局は、シンジも自分の現状はまったく理解できてはいない。
13歳の誕生日の記憶があるということは、事件があったのは
それ以降、アタシと同い年の14歳、もしくはひとつ上の
15歳の誕生日のときだろう。
胸が痛くなるのを、意識的に無視して、考えをまとめていく。
何がキッカケで、シンジの記憶が10歳から13歳まで進んだのか
それは、わからない。
昨日と今日。
アタシの目に色が見えなくなったこと、ユイさんとであったこと
そして、シンジと出合ったこと。
すべてが昨日あった。日常と非日常。その境が、どこかにあったはず。
教室で暴れたとき?たしかに、あんな事をしたのは初めてだが
あれに、特別な意味があったとは思えない。
知らぬ間に乾いていた、唇をなめる。
何かが動き出した…。そのキッカケがわかれば…。
頭の悪い馬鹿に追いかけられ、つかまらぬことだけを考え
町の中を逃げた。気付けば、そこは見知らぬ町。

921: 04/11/06 22:34:31 ID:???
汗に張り付いた腕時計は、それ以外のせいで、アタシに不快感だけを
あたえた。すべてが馬鹿らしくなって、アタシは橋の上で…。

アタシはママの時計を、捨てた。

その考えにいたったとき、ふいに手首の傷を思い出した。
見れば、未だに包帯が巻かれている。しかし、昨日の夜の雨で
滲んでいた血は、見当たらない。
どろの汚れも無く、清潔そうな白い色。それが一層、違和感を与える。
昨日は感じた、痛みも嘘のようにない。
包帯が巻かれた、むず痒くなるような圧迫感だけがある。
アタシは震える手で、包帯をとっていく。

はたして、現れた手首には、傷ひとつ無かった――。
目が回るような錯覚に陥る。
動悸が早くなり、喘ぐように体は空気を要求している。
視界が狭くなっていく。声にならぬ叫び声をあげる。
「―――――――!!」
涙いている。視界がぼやけていることで、それだけはわかった。
「アスカ!!」
再び、声にならない叫びをあげそうになったとき
シンジの声だけは、はっきりと聞こえた。
嘘のように動悸が治まっていく、何度も深く深呼吸をし
体に必要な酸素をとっていく。
カラカラになった口に、僅かな湿り気をもたそうと
つばを飲み込む。
「…大丈夫」
不安げに見るシンジに、それだけ言うと、アタシは立ち上がった。
(シンジの記憶が戻ったとき、何かがおこる)
それは、すぐそこまで来ている。
窓からは、光が差し込んでいる。夜はもう明けた。

929: 04/11/07 00:33:45 ID:???
「シンジ」
未だ、たち膝のような格好で固まっていたシンジに
声をかける。
朝日を背にしているアタシを見ると、眩しそうに目を細めた。
「アタシとアンタ」
一拍の間をおいて、話し出す。
「なんで出会ったのか、それに意味があったのか、アタシにはわからない。
ただの偶然だったのかもしれない」
シンジは只黙って、アタシの話を聞いている。
「アタシ達があって、まだほとんど時間がたってない。話だって、ほとんどしてない」
視線をそらすことも無く、アタシは只シンジを見る。
どこで生まれ、どんな友達がいて、何を考えて生きていたのか。アタシはまったく知らない。
アタシにとっての昨日が、シンジにとっての三年前だということの意味も
アタシにはわからない。
全部がモノクロの世界で、シンジだけが色鮮やかに見える。その現象も説明できない。
だけど…。
「アタシ達が出会ったこと。それは只の偶然で、何の意味も無いのかもしれない。
でも、それに意味を持たせることができるとしたら、それは、アタシ達にしか出来ない」
シンジに感じる親近感。
その正体は、お互いが世界から捨てられた。不適合者同士だからかもしれない。
「アスカ…」
不思議と、まるでずっとそう呼び合っていたかのように、自然と声が出る。
「シンジ…」
「僕は、何で自分がココにいるのか。ぜんぜんわからない。
アスカのいったみたいに、僕達、話もほとんどしてない」
「すごく不安だし、アスカと出会った意味もわからない。
でも、なんとなく思うんだ。最初に会ったのが10歳の僕じゃなければ
こんなふうに、女の子と話は出来なかったかなって」
そう言うと、恥ずかしそうに視線をそらした。

930: 04/11/07 00:34:19 ID:???

こんなときに、そんなことを言うシンジが可笑しかった。
確かに、シンジはおくてっぽい。女の子に積極的に話しかけれないタイプ
だと思う。それに今のシンジに話しかけれたとしても、昨日までのアタシが
ここまで相手にしていたかと聞かれれば、それは怪しいだろう。
無邪気さで、アタシの中に入り込んできたって言うことか。
「なに?アタシを口説いてるわけ?」
おもしろくて、からかうように言う。シンジの反応は、手に取るようにわかった。
「そ、、そんなんじゃないってば!」
「そんなんじゃない!?」
わざと、怒ってみせる。
「いや、そうじゃなくて、アスカはすごく可愛いと思うけど…いや、だから、そうじゃなくて」
手を握ったり閉じたりしながら、真っ赤になって説明するシンジが
可笑しくて、アタシは大きな声で笑った。
こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。
可笑しくて、悲しくて、涙が出た。
「あー、お腹痛い」
アタシは、お腹を抱えるようにして座り込んで、涙を拭いた。
「もう、そんなに笑わなくたって良いじゃないか!」
からかわれていた事に気付いて、シンジが文句を言ってくる。
「アンタが、馬鹿だからいけないのよ。馬鹿シンジ!」
「ま、また、、ばかしんじ…」
それだけ言うと、観念したようにガックリと肩を落とした。

気を取り直して、アタシは再び立ち上がる。
「さて、当面できることは…」
ひとつは、原因になった可能性のある、ママの時計を探すこと
もうひつとつは、シンジをつれて、もう一度ユイさんに会いに行くこと。
「外に出ましょ」
そう言って、シンジがついてくるのも見ずに、アタシは部屋を出て行く。

931: 04/11/07 00:35:04 ID:???

非常口を開け、昨日シンジと鬼ごっこをした細い路地を抜けていく。
外は、昨日の雨が嘘のように、さわやかな風に包まれている。
大通りに出る。
「だれも、いないわね…」
通りには、人が誰もいなかった。朝早いからだろうか。と
一瞬思ったが、それにしても、この静けさは異様だ。
だけど、どこかで、誰もいなくて当たり前だ。とも思う。
拗ねた様についてきていたシンジも誰もいない様子に気付いて
しきりに辺りを見回している。
「変だね」
真剣な表情。
本人は真面目なつもりなんだろうが、その顔を見ると
アタシはどこか安心した。
「とりあえず、駅のほうに行ってみるわよ」
「アスカ、道知ってるの?」
その質問に、アタシの方がびっくりした。
「あんた、知らないの?」
つい、責めるように聞いてしまった。
「知らないけど…」
どこかすまなそうに、そういう。
さらに、質問を続ける。
「この町で生活してたんじゃないの?」
「…知らない町だよ」
何かをあきらめたように、素直に返事をしてくる。
何をあきらめたのか、時間があればじっくりと聞いてみたいところではある。
「アスカは知ってるの?」
この町のことだろうか。
それとも、駅への行き方だろうか。
アタシは勝手に前者ととる。

932: 04/11/07 00:37:17 ID:???

「知らないわよ、こんな町」
「…へー」
なにが、へーなんだろうかと、一瞬本気で考えてしまった。
おそらく、何にも言うことが無かったからなんだろうと思って、ガックリときた。
そんなアタシを見て、慌てて付け加える。
「じゃ駅までどうやって行くの?」
ちらりと横を見れば、不安な瞳が目に入る。
こういう場合、男と女の立場は逆なんじゃないか。そんなことも思う。
「昨日、ユイさんに地図かいてもらったのよ」
そう言うと、あーそうなんだ。とだけ言って、またあたりを見渡した。
「とりあえず、駅まで行くわよ」
この町がどこかを確認して、ママの時計を捨てた場所を探す。
橋があった場所は、知らないところだったが、学校帰りだったことを考えて
川の位置を地図で確認すれば、場所はわりと簡単にわかるだろう。
問題は、川の中に落とした時計が見つかるかどうか――。
難しいかもしれないが、取りあえずは、ついてから考えることにする。
そうきめて、ユイさんにもらった紙を探すが、ポケットのどこにも見当たらなかった。
シンジと馬鹿なことをしていたときに、落としてしまったのだろうか?
とりあえず、昨日見た地図を思い出して、町を歩いていく。
「ねぇアスカ…」
いまだ、キョロキョロと周りを見渡しながら歩くシンジ。
「なによ」横目だけで、その姿を確認する。
「変だよ」
「何がよ」
あまりにも早いアタシの返事に、少し驚いたように、こちらを見て。
「人がいないし、何より動物もいない」
鳥とか…。
つぶやくようにそう言うと、再びあたりを見渡している。
「寝てんじゃない?」適当に、そう言うと、アタシは歩くスピードを速めた。

937: 04/11/07 13:37:26 ID:???

「ちょ、ちょっとまってよ」
慌ててついてくるシンジの気配を感じながら
後ろを見ることもせずに言う。
「ほら、さっさと行くわよ」
これ以降は、お互い無言で駅へと歩いていった。


「駅…だよね?」
シンジの声もどこか遠くで聞こえる。
「見りゃわかるでしょ」
そういうアタシにも不安が襲ってくる。
「でも、誰もいないね」
今度の質問には答えず、視線だけをシンジに向ける。
「ご、、ごめん」
ふんっと鼻息だけ荒くして、アタシは辺りを見回した。
(シンジの言うとおり、誰もいないわね)
「駅まで来れば、誰かいるかと思ったんだけど」
誰にも向けづ一人、口の中でつぶやく。
(それでも、汚れた服やボサボサの髪を不躾な視線を浴びなくても良いことが
唯一の救いか。シンジは、まぁ今更しょうがない)

ただ、さっきも感じた感覚。
誰もいなくて『当然』なんだ――。という思い。
アタシは軽く頭を振り、恐ろしい妄想を振り払う。
改札はしまっている。電気がきているのかどうかは、外側からでは判断がつかない。

938: 04/11/07 13:39:47 ID:???

来る途中にあった信号は、確かについていた気がするが…。
思わず後ろを振り返るが、見える範囲に信号は無い。
(いまさら、信号を探しにいくっていうのも…ね)
昨日の夜には、嫌というほどついていた町のネオンも
朝もやの中では、静かに哀れな姿を晒しているに過ぎない。
取りあえずは、ある考えを持って切符売り場へと
歩いていくことにした。
横で、自分なりに何か思うところがあったのか
考え込んでいたシンジは、アタシが歩いていくのに気付いて
慌てて駆け寄ってくる。
横に追いついてくるのを確認しながら、しっかりと前を向いて
歩みを進めていく。残り数歩の距離が、嫌に長く感じられた。
「路線図を見てみましょ」
自分達が今どこにいるのか、まずはそれをはっきりとさせたい。
路線図の中にいくつもある、四角いプレート達。
複雑な線と線の間に、当駅と言う文字だけが
異様に浮かび上がっていた。
嬉しくも、悲しくも無く、静かな気持ちでアタシはそれを見た。

939: 04/11/07 13:40:28 ID:???



「えーっと…」
数瞬の間。
今度は学習したのか、アタシに質問してくることは無く
唸る様に考え込んだシンジ。
そのシンジの態度について、くだらないことを考えながら
アタシはさっさと駅から背を向けた。
何も言うことなく、シンジもついてくる。
無言で歩くアタシに、何か話題を探そうとしているのは気をつかってるのかもしれない。
「…ホント、馬鹿なんだから」
デートもしたことも無ければ、女の子と二人で歩いたことも無かったのだろう。
こんなときにさえ、自分のことよりアタシのことを気にかけているシンジに
むず痒くなるような思いがわいてくる。
自分にさえ聞こえないように、アタシはそっと呟いた。
「やるわよ。アスカ」
駅の路線図には、すべてに名前がついていなかった。
それは、見る前から想像がついていたことだった。

残る場所は、後一つ。
ユイさんのいた、病院だけ――。

940: 04/11/07 17:54:42 ID:???

「シンジ」
気持ち、歩く速度を緩めながら隣にいるシンジに声をかける。
「なに?」
「アンタ…」
ほんのすこしだけ、言いよどんでから。
「アンタ、生きてて楽しかった?」
あんまりといえば、あんまりの質問に、それでもシンジは笑いながら答えてくる。
「楽しかったかどうかわかんないや」
「わかんないって、アンタ…」
その答えに、幾分肩を落として。
「アタシは生きてても楽しくないわ。ママが生きていた頃は楽しかったけど」
シンジはなんと答えて良いのか迷っている様子だった。
「シンジと最初にあったときのこと覚えてる?」
突然、話題が変わったことにほっとしながら、はっきりと答えてくる。
「覚えてるよ。橋の上でしょ?赤い夕日の中で、髪のキラキラ光って凄くきれいだったから…」
そこまで言うと、恥ずかしそうに笑った。
「あの時、アタシ時計を捨てたの…」
「うん」
「あの時計、ママの遺品だった。アタシ小さな頃ママがしてる時計が欲しくてたまらなかった
パパから貰ったのよって、嬉しそうにいってた、あの時計が」
「そんな大切なもの…なんで?」
シンジの疑問は当たり前のことだと思う。
確かに、最近までは大切にしていたんだから――。
「パパがね…」
あの男。それをパパと呼ばねばシンジには伝わらないとはいえ
嫌な気分しか沸いてこなかった。
「この間、再婚したのよ」
アタシの答えを真剣な、今までのようなどこかぼけぼけっとした雰囲気ではなく
シンジが聞いている。
「…再婚」シンジの態度が今までと違うことに、気付きながら
アタシは話を続ける。

941: 04/11/07 17:55:51 ID:???

「そっ再婚。今までは、パパがママにあげた時計は家族の証だと思ってた
だけど、アイツ――」
忘れかけていた怒りが、ほんの少し身体の中を満たした。
「アイツ、再婚したとたん、あの時計を処分しろっていうのよ!!最初は許せなかった。
ママへの思いも、すべてが嘘だったように思えて、アタシは気持ち悪くなって」
それで
「アタシは時計を捨てた――」
アイツの思惑とは違うやり方で。
誰もいない通りに、アタシの声だけが響いた。


どれくらい、歩いたときだろう。
あれきり、言葉も無く二人で歩いていたとき
ふいに、シンジは立ち止まった。
数歩あるいてから、アタシも立ち止まり、シンジと向き直る。
ユイさんがいた病院までは、あとひとつ角を曲がればつく。
「アスカが捨てちゃった時計さ」
シンジの言葉に、アタシは只黙って先を促す。
「あとで、探しに行こうよ」
透き通るような笑顔で。

942: 04/11/07 17:56:22 ID:???

「なんで…?」
アタシの話を聞いていなかったの?
「アスカのパパが、どんな気持ちでアスカに時計のことを言ったのか
僕には想像しかできない。だけど、アスカのママが――」
シンジは自分の声が、大きくなっていたことに気付いて
少し恥ずかしそうにしてから、声のボリュームを幾分落として
先を続ける。
「アスカのママが、パパから貰って大切にしていた思いは、消えたりしないでしょ?」
だからさ――。
「だから、後で探しに行こうよ」
シンジの声は、確かに聞こえていた。シンジの笑顔も想像はできた。
でも、シンジを見ることはできなかった。
「僕、ほら、幽霊だからさ。川の中に入っても濡れないし」
アタシはただ、口に手を当てて、自分の泣き声がもれないように
うずくまることしかできなかった。
『こんど』なんて、ない。
あの角を曲がれば、もうそこは病院だ。
シンジも、うすうす何かに感ずいている様子だった。
なにかを思い出しているのかもしれない。
呻くような声の中
「アンタ、やっぱ馬鹿よ…」
それだけ言うのが精一杯だった。
涙は、当分とまりそうも無かった。

944: 04/11/07 18:26:55 ID:???

うずくまって、こらえているアタシの傍に
シンジが膝をつくように寄ってきたことは
足元を見れば、わかった。
シンジの手が、フラフラと揺れていることは
なぜかある、その影からわかった。
アタシがシンジに触れることも、シンジがあたしに触れることもできない。
ただ下を向いて、揺れる影を追いかける。
その影が、引っ込もうとした瞬間。
アタシは泣いている顔を見られることもかまわず、顔を上げた。
「まって!」
手を引っ込めようとしていシンジの手に。
アタシはそっと、ほお擦りするように顔を寄せた。
暖かい。朝日の暖かさよりも、その手は暖かかった。
このまま、シンジと一緒に引き返してしまおうかという、甘い誘惑。
ママの葬儀のときでさえ、アタシは泣かなかった。
その涙を、止めることもできずに、ただシンジのぬくもりを感じている。
「そうね。馬鹿シンジが一緒に捜しに行こうって言うんだったら
それも良いかもね」
かすれる声で、それだけ言う。
シンジに聞こえているかどうか、それは怪しいほど小さな声だったけれど
確かに伝わったという確信だけはあった。

制服の袖で、涙をぐっと拭う。
立ち上がると、できる限りの笑顔でシンジに言う。
「さぁ行くわよ!馬鹿シンジ!」
アタシの声に、シンジも続いていう。
「うん。行こう。アスカ」
シンジも笑顔だ。
一緒に歩き出し、角を曲がる。
もう引き返そうという。誘惑は無い。

946: 04/11/07 18:40:56 ID:???

キィ―。
不思議なほど静かに、病院の入り口のドアは開いた。
中は、電機もついておらず、朝日が差し込むだけで
うっすらとした暗闇に覆われていた。
受付の窓にもカーテンが引かれ、中に人がいる様子は無い。
待合室にある長椅子は、いつから人を待っているのだろうか。
ゴクッと、つばを飲み込む。
軽く息を吐くと、隣のシンジの顔が見えた。
シンジが頷くのを確認してから、アタシ達はゆっくりと病院の中へと
入っていく。
ゴミひとつ無い、清潔に保たれた病院。
独特のアルコールの匂いが鼻をついた。
「僕、この匂い嫌いなんだなぁ」
一人ごちるようにつぶやくシンジに、アタシは
匂いはわかるのか、不思議な気分だった。
しかし、昨日から動き回って汗だくのままの自分を思い出し、顔が赤くる。
微妙に、シンジから距離をとろうとするが、不思議そうに寄り添ってくる。
「ちょっと、離れなさい!」
小声のつもりだったが、人のいない病院では、その声は驚くほどよく響いた。
慌てて口に手をあてる。恥ずかしさで、顔から火がでそうだった。
今だに、不思議そうな顔をしているシンジが憎たらしかったが。
「別に、泥棒に入るわけじゃないんだから、堂々と入ればいいのよ」
というと、アタシは幾分足音をたてながら、進んでいった。

949: 04/11/07 20:49:12 ID:???

前に、といっても昨日だが――。
来た時にも思ったことだが、住宅地にある病院ということもあって
こじんまりとしていて、それほど広さは無い。
待合室を抜ければ、細い廊下があり、両端と突き当たりに
ひとつずつ、ドアがある。
どのドアか迷う必要は無かった。
ひとつだけ、昨日アタシが寝かされていた部屋のドアの小窓から
だけ、光が漏れていたから。
心臓の音が、不思議なほど耳についた。
ドクッ。ドクッ。という鼓動。
おさまれ。と思う反面、アタシは生きているんだ。という実感も
もてた。
(そういえば、シンジの心臓の音も聞こえたわよね)
その事を、多少疑問に思ったが、シンジの顔を見ると
吹き飛んでしまった。
ドアまで歩いていくと、シンジの顔を見てから
ゆっくりと、ドアを開けた。
光の帯が伸びていくように、廊下にも光が漏れていく。
最初にアタシが入っていく。続いてシンジがためらいがちに
ついてきた。
「母さん…」
シンジの口から、決して本人には聞こえることの無い呟きがもれる。
明るい光に包まれた中に、椅子に背を預けたまま
ゆっくりとこちらを向いた、ユイさんがいた。
「あら、アスカちゃんいらっしゃい」
その様子は、まるで親戚の子が遊びに来たように、自然としていた。
チラッとシンジを見てから、慎重に言葉を選ぶ。
「…おはようございます。ユイさん」
アタシのとぼけた答えに、それでもユイさんは可笑しそうに
笑っていった。

950: 04/11/07 20:50:11 ID:???

「うふふ、そうね。おはよう、アスカちゃん。目の調子はどう?」
手の傷について、聞いてこないことを不思議だとは思わなかった。
「まだ、白黒にしか見えません…」
アタシの答えに、ユイさんは少しだけ寂しそうな表情をみせたように思えた。
「ほら、そんな所にたってないで、こっちにいらっしゃい」
今だ、入り口から一歩ほど入った場所にいたアタシに
ユイさんはそういって椅子をすすめた。
少しも躊躇わなかったかといえば、嘘になる。
けれど、それに気付かれる前に、アタシは歩き出した。
ユイさんと向かい合うように、アタシは椅子に座る。
「お茶を入れるわね」
アタシが断る隙を与えず、ユイさんは立ち上がって
近くにあるポットへと歩いていった。
シンジは、その様子をただ黙ってみている。
何か言いたそうで、でも、何もいえない。
部屋に、ほんのりと甘い紅茶の香りが広がっていく。
危なっかしく、ティーカップを二つ持って、ユイさんは
歩いてきた。
「はい。どうぞ」
「…ありがとうございます」
視線を、紅茶の中へとむける。
口元にもってくると、さらに良い香りがした。
そっと口をつける。
「…おいしい」
ほんのりとした甘さをもった紅茶は、とてもおいしかった。
「よろこんでもらえて、よかったわ」
本当に嬉しそうに、微笑むとユイさんもゆっくりと口をつけていく。
(シンジの笑った顔にそっくり…)
そう思いながら、隣に立つシンジへと、そっと視線を投げかける。
シンジは、アタシの視線に気付くと、何も言わず寂しそうに笑った。

951: 04/11/07 20:51:27 ID:???

だれも話しをすることも無く、時間が過ぎていく。
減っていく紅茶。やわらかな時間。
きっと、アタシ達三人にとって、最後の時間。
最後の一口を飲み干すと、アタシはティーカップを机においた。
「ご馳走様でした」
「おそまつさま。おいしかった?」
「はい。とても」
お互いに、先に進めなければいけないことを知っている会話。
けれど、進めたくない会話。
「あの…外に誰もいないんです」
その質問だけで、ユイさんにはわかった様子だった。
「そう…」
と、一言だけ言うと、朝日の入ってくる窓を眩しそうに見た。
「シンジも、いるんでしょ?」
ユイさんの言葉に、一瞬アタシ達は固まった。
「シンジが見えるんですか?」
母さん!というシンジの声とともに、アタシは聞いた。
しかし、ユイさんは寂しそうに首を振る。
「いいえ。残念だけれど。見ることも話すこともできないの」
その言葉の意味が、アタシには直ぐにはわからなかった。
慌てて、シンジをみると、ガックリと肩を落としうなだれていた。
「シンジはいます。アタシの横に!」
そう言うと、ユイさんはアタシの横に視線をもっていく。
けれど、それだけで何も言わなかった。
「何か言うことは無いんですか!?」

952: 04/11/07 20:53:26 ID:???

会いたかったはずだ。話したかったはずだ。
アタシの問いに、ユイさんはゆっくりと言った。
「アスカちゃん。本当に貴方にあえてよかったわ
シンジも私も、ね」
それだけ言うと、ユイさんはまた、シンジのいるであろう
場所を見た。
それはまるで、本当に見えているかのように。
「シンジ、ごめんなさいね。ちゃんと伝えてあげることができなくて
あなたの事を、本当に愛していたのよ。私もゲンドウさんも」
その言葉に、シンジは顔を上げ、叫んだ。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」と何度も何度も。
シンジの態度と、ユイさんの言葉。アタシは意味がわからなかった。
「どういうことですか?シンジは氏んだんですよね?襲われて!」
アタシの叫びに、しかし答えたのはユイさんではなかった。

「違うんだ!氏んだのは僕じゃない!!」

すべてが、スローモーションのようにアタシには感じられた。
「シンジは、氏んでない?」
再び、アタシの鼓動は痛いほど早くなっていく。
「…どういうこと?」
誰に聞くわけではなく、つぶやく。
シンジの姿は、まるで幽霊のようだった。
そのシンジが、氏んでいない?
ユイさんは、ただ寂しそうに微笑んでいる。
「あの日、母さんは帰ってきてくれたんだ!
でも、父さんが帰ってこないことで僕は母さんを責めた!
今まで、家族が揃って誕生日を祝ってもらったことが無かったから
たったそれだけのことで、僕は母さんと喧嘩をした!」

血を吐くような、シンジの告白。

953: 04/11/07 20:55:32 ID:???

「母さんが、ご飯を作ってくれても、僕は部屋に閉じこもっていて
出て行こうとしなかった!チャイムがなったことに気付いて
僕は父さんが帰ってきたのかと思った。でも、恥ずかしくてでられなかった。
そしたら、母さんの叫び声が聞こえて!」

シンジの叫びを何とか聞いていく。
ユイさんを見れば、胸に黒いシミが広がっていくのが見えた。

「慌てて飛び出していったら、母さんは倒れていて、包丁をもった
男が血だらけになって僕を見てたんだ!僕は怖くて、部屋に逃げて
鍵をかけた。そのままずっと部屋にいたんだ!!すぐに母さんを助けていれば
母さんは氏なずにすんだかもしれなかったのに!!」

涙をながして、叫ぶほど大きな声で、シンジは土下座をするように
頭を下げながら独白していた。

「うぅ…ごめんなさい!ごめんなさい!」
もう、言葉にもできず、シンジはただ誤り続けている。
アタシは、シンジの横に膝をついた。
ユイさんを見ると、美しい顔は涙に濡れている。
「シンジ…貴方は悪くないわ」
それだけ言うと、ゆっくりとアタシとシンジの隣に膝をつく。
「ゲンドウさんは、貴方のパパは不器用な人だから。
シンジとどう話したらいいのか、わからなかったのよ。許してあげてね」
泣きじゃくるシンジに、ユイさんは優しく言った。
シンジとシンジのパパとの間に、何があったかは知らない。
けれど、アタシとパパのように、シンジ達にも溝があったんだと思う。

954: 04/11/07 20:56:29 ID:???

ユイさんは、今度はアタシを見つめて言う。
「アスカちゃん。貴方は時計を捨てた後、倒れたときに頭を
ぶつけたの。ここは貴方がいるべき世界じゃない。
だから、この世界の色が見えてしまう前に、お帰りなさい」

急激にうすまる意識の中で、ユイさんはアタシの頬に手を添えて
最後に言った。

「私に、シンジが見えないように。貴方の大切な人も傍で貴方を見守っているわ」

すべてが真っ白になるなかで、あたしはママとの約束を思い出していた。


『アスカちゃん貴方を幸せにしてくれる誰かが見つかったときに、この時計をあげるわね』


ママ…。

そう、確かにアタシは愛されていた。
アタシ達は、愛されていた。
ねぇシンジ――。

955: 04/11/07 20:57:35 ID:???
終わりです。ありがとうございました。

引用元: 落ち着いてLAS小説を投下するスレ