1: 2010/08/21(土) 23:35:02.07
髪を撫でる風にほんの少しだけ秋の気配を感じる午後

川面に反射する穏やかな陽光

壊れ物を優しく包む様に抱きしめてくれる憂の腕が温かくて…

でも…お願い…これ以上優しくしないで…

私にはそんな資格なんてないよ…

どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう…

強かった私は壊れた…もう、戻る事は無いんだ…

憂「我慢しなくていいよ、私が受け止めてあげる」

梓「…優しくしないで…お願い」

涙が溢れる…ダメだよ、こんなの…なのに憂の優しさに甘えようとしている

自分が…嫌いだ

7: 2010/08/21(土) 23:38:18.76
視線が交わる…憂の目には憐れみの影なんて一片も浮かんでいない

ひたむきなまでに真剣なまなざし…そこにあるのは吸い込まれそうな透明さと優しさ

お願いだよ…そんな目で見つめないで

思わず瞳を逸した…

憂「…梓ちゃん」

梓(!?)

戻した視線の先には瞳を閉じた憂だけ

重なる唇から伝わるぬくもり…優しさ…身体の奥深く…凍えてしまった私の心まで溶かすように染みわたっていく

凍った時が動きだす…でも、壊れた夢は戻らないよ、きっと…

9: 2010/08/21(土) 23:40:40.21
きっかけはクラスメートとの他愛も無い会話

「中野さん、今年も学園祭ライブするんでしょ?」

梓「うん、良かったら見に来てね」

「もちろん!楽しみにしてるよ」

これが先輩方との最後のライブになるかも知れない
そんな一抹の不安を胸の奥に抱きつつも、私は張り切っていた

「でもさ、中野さんも色々大変だよね」

「だよね。ほら、さっきの子達だってさ」

「あぁ、あんなのただのやっかみだってば」

梓「え?どうかしたの?」

10: 2010/08/21(土) 23:42:30.32
「さっき廊下で聞いちゃったんだ」

梓「だから、何を?」

「他の組の子達がね、中野さんの事を…」

「よしなよ、そんな事言うの。告げ口するみたいで嫌じゃん」

「でもさ、こういうのって見知らぬ誰かにいきなり聞かされるよりは知ってたほうがよくない?」

梓「ハッキリ言ってくれていいよ。そのほうが私もスッキリするし」

「あのね、中野さんの事を軽音部の先輩達に可愛がって貰ってるからって、いい気になってるんじゃないかって」

梓「…え?」

11: 2010/08/21(土) 23:45:46.57
「ほら、軽音部ってウチでは目立つ存在じゃん」

確かにこれは否定しない。桜ヶ丘の部活の中でも軽音部が目を引く存在なのは薄々承知している

「そのバンドメンバーだからって注目を浴びて、自分はみんなとは違うって感じで、ちょっと勘違いしてるんじゃないかってさ」

正直驚いた…そんな事は考えた事すら無いのに

純「ちょっとあんた達さぁ、さっきから梓に何の恨みがあるって言うのよ!」

呆然としていて気付かなかったが、いつの間にか純がクラスメート達の後ろに立っていた

12: 2010/08/21(土) 23:47:47.11
「わっ私達じゃないわよ!他の組の子達が」

純「だったら、何組の誰よ!ハッキリ言えばいいじゃん」

「その、廊下ですれ違っただけだから。それに私達もよく知らない子達だったし、だよね!」

「う、うん。そうそう」

「うん、うん」

梓「純、私は平気だから。とにかく少し落ち着こう、ね?」

純「でもさぁ、梓」

梓「本当に私は気にしてないから。あの、みんなも教えてくれてありがとうね」

「う、ううん。なんかゴメンね」

「ライブ頑張ってね」

「じゃあ、ね」

13: 2010/08/21(土) 23:49:39.96
純「もう、梓は優しすぎんのよ!私ならあんな事言われた日にゃあ」

梓「ありがとう、純、心配してくれて。でも私は平気だよ」

純「…ホントに?」

梓「本当に本当」

純「うーっ、それでもなんかイライラするぅ!絶対許せないっていうかさぁ」

私の為に本気で怒ってくれる、これが純の良い所でもあるけど、今は事を余り荒立てたくない

憂「ほら、純ちゃん落ち着いて。それじゃ返って梓ちゃんを困らせちゃうよ?」

こんな時にすかさずフォローに入ってくれるのが憂だ。どうやら憂も一連の会話を聞いていたらしい

14: 2010/08/21(土) 23:51:29.95
純「…まぁ、梓が気にしないって言うんなら」

梓「全然。朝日のように爽やかに、だよ」

純「おやおや、ジャズ研にはそんな洒落たナンバーを会話に混ぜる小粋な子はいないわ。だから梓って大好きなのよね」

さっきまでのお怒りモードはどこへやら。満面の笑みを称えて大好き、なんて恥ずかしい台詞を平気で言っちゃうのも、これまた純の良い所だ

純「さってと、それじゃ私は部活に行くわ。梓もお茶ばっかり飲んでないで練習頑張りなさいよ」

梓「大きなお世話ですぅ」

純「まっ、軽音部はライクアローリングストーンよね」

15: 2010/08/21(土) 23:53:02.33
梓「…純。あんた本当にジャズ研?」

純「…未だにもって、ジャズとは何なのか分かんないわ」

憂「SMOKE GETS in The EYEsだね、純ちゃん」

梓「憂のほうがよっぽどスイングしてるわ」

純「…これ以上いたら目どころか、心までやられるわ。では、サラバじゃー」

なんと言うか、純は平和だ。それもまたよし

梓「ふぅ」

憂「梓ちゃん」

優しく微笑みながら、机の上の私の手に温かな掌を重ねる。余計な言葉で飾らない優しさ、これが憂だ

16: 2010/08/21(土) 23:54:50.21
梓「ありがとう、憂」

重なる掌が心地よい。こんな時いつも思う、憂にはかなわないって

憂「ううん、私はなんにもしてないよ。それにしても純ちゃんは優しいよね」

梓「だね」

重なった互いの掌を見つめる。これが…って、私まで恥ずかしい台詞を口にしそうになって思わず笑みがこぼれた

梓「純なら言いそうだよね。これが青春だぁ!なーんて」

憂「アハハ、きっと言っちゃうよね」

梓「だよね」

この時の私はまだ笑えていたんだ…

17: 2010/08/22(日) 00:00:22.62
それは突然だった

帰宅する憂と別れ、いつものように音楽室へ続く階段に向かう廊下。不意にその声は聞こえた

「いい気になってんじゃないわよ」

思わず声のした方向を見る…でも、そこには誰もいない

梓「気のせい、だよね」

気を取り直して階段を昇る。楽しそうに会話をする二人の生徒達とすれ違う。背後で彼女達の笑い声が響いた

梓「…別に私を笑った訳じゃないし。感じすぎだよ、私」

降り積もり始めた心の澱に、まだ気付いていなかった…

19: 2010/08/22(日) 00:04:26.87
音楽準備室、いつもの賑やかで楽しい軽音部への扉を開く

梓「こんにちはー」

穏やかな陽光の降り注ぐ室内。しかし、先輩方の姿は無い

梓「まだ誰も来てないんだ…」

特別意識する事も無く、自然と足が部屋の片隅に向かう

梓「トンちゃん、今日も元気かな」

水槽の中でゆらゆらと泳ぐトンちゃんと目が合う。軽く水槽を指で弾く

梓「ねぇ、トンちゃん。私って嫌な子なのかな…」

勿論トンちゃんは答えてくれない

梓「アハハ、何を考えてるんだろう、私」

誰もいない部室、ふと胸の奥が軽く痛んだ…

20: 2010/08/22(日) 00:06:37.17
梓「…遅いな、先輩方」

長椅子に腰掛けて、室内を見渡してみる


いつもの見慣れた室内。ホワイトボードに描かれた他愛の無い落書き

梓「唯先輩の絵って、結局進歩しなかったなぁ」

少し驚いた…進歩しなかった…なんで過去形なの、私?

梓「…練習しようかな」

ギターケースを開き、ムスタングを取り出す。なぜだろう…少し違和感を感じてしまう

梓「なんかシックリこない…ネックがモタレたかな?」

軽くフィンガーボードを押さえて、水平に構えてみる。

指が…手が…震えていた

21: 2010/08/22(日) 00:11:08.05
梓「集中、集中しよう、私」

目を閉じて意識を指先に集中…出来ない

不意に誰かの視線を感じた気がして、慌てて目を開き周囲を見渡す

梓「…誰…もいない」

不快なノイズが響く…震える指先が弦を擦る音だと気付くまでに数秒を要する程に動揺していた

梓「どうしよう…震えが止まらないよ」

指先から全身へ伝播する震え…決して暑くない室内で前髪が額に張り付く程に汗を浮かべていた

梓「…気持ち…悪いよ」

降り積もる澱が心を、身体を浸食していた…

22: 2010/08/22(日) 00:14:17.04
耐え難い不快感…駄目だ…今日はもう帰ろう

梓「先輩方にメールしないと」

震える手を励まし、携帯のメールキーを押す…空白の画面を見つめた途端、思考が停止する

梓「なんて…書けばいいの」

嘲るような声が耳の奥に響いた

「あんたなんて必要無いんじゃないの?」

そうだ…元々軽音部は先輩方4人だった
私がいなくても…

虚ろな意識の片隅に、様々な記憶の欠片が浮かんでは消える

やめて…今は思い出したくないよ

23: 2010/08/22(日) 00:20:34.74
真っ白だった…

気がつけばギターケースを抱えて、部室を飛び出していた

梓「こんなの…嫌だよ」

すれ違う人々が私に嘲りの視線を向けているようで…怯えた子犬のように家路を急ぐ

自宅の玄関に飛び込む…息苦しさは消えない

静まり返った家…靴を脱ぐのももどかしく、階段を駆け上がって自分の部屋に入る

制服のままでベットに潜り込み…身体を丸めて全身の震えを止めようとした

何も見たくないよ…聞きたくないよ…考えたく…ないよ

降り積もる澱は、小さな私から溢れようとしていた…

24: 2010/08/22(日) 00:26:46.26
まどろみの中で先輩方の姿が浮かぶ

見知らぬ校舎…桜が咲き誇る道を私服姿の4人が並んで歩いている

「しっかしまさか、軽音部どころかサークルすらないなんてなぁ」

「ここって結構お嬢様学校だしな。バンドよりクラシックて感じだろ」

「なければ作ればいいんだよっ!」

「そうよね。高校の時だって、私達4人で始めたんだから」

「だな。よっしゃー、いっちょやるかぁー!」

「相変わらず私の参加は決定事項なのか?」

「当ったり前じゃん!大学でもファンクラブが出来るくらい大活躍してやれぇい」

25: 2010/08/22(日) 00:28:22.25
「それだけは絶対に嫌だっ!」

「んー、でもそうなりそうな気がする」

「嫌だっ!」

「まぁまぁ、人気者の宿命ってやつだな」

「嫌だっ!」

「先ずは部室を確保しないと、ティーセットも運び込めないわ」

「いや、それは微妙に間違えている気がするぞ」

「えー、お茶とお菓子の無い軽音部なんて軽音部じゃないよっ!」

「いや、それは絶対に間違えているぞ」

「あら、それじゃティーセットは無しにする?」

「いやーん、イケズゥ。分かってる癖にぃ」

26: 2010/08/22(日) 00:30:09.43
やっぱり私は要らない子なんだ…

頬を伝う涙の感触に意識がまどろみの中から引き戻される…

梓「…嫌な夢」

鉛が入ったかのように重たい身体…なんとか両腕で支えて上半身を起こす

暗闇の中で携帯の着信を示すランプが明滅している、確認することも無く電源を切る…

壁掛け時計の蛍光に彩られた長針と短針が深夜3時を報せていた

梓「酷い寝汗…最悪だ」

シワクチャになった制服を脱ぎ捨て、着替えもそこそこにバスルームへ向かう

27: 2010/08/22(日) 00:33:31.70
着替えたばかりの服を脱衣所で脱ぎ捨てる

鏡に映る姿…泣き腫らした目、涙の筋がついた頬

自分でも嫌になるくらい未成熟な身体に視線を移す

華奢な肩と薄い膨らみしかない胸、緩やかなラインの腰

身体が心を写すのなら、私は全てにおいて子供だと実感させられる

鏡に映る誰かが呟く

「大嫌い」

その醜悪な表情に恐れを感じて、慌てて鏡から視線を逸してバスルームに飛び込む

シャワーを全開にして叩き付けるような水の奔流に身を委ねる

梓「…汗と一緒に全部流れちゃえばいいのに」

28: 2010/08/22(日) 00:35:47.78
翌朝、ドアをノックする音に目覚める

「梓、もう起きないと遅刻するわよ」

時計は7時30分を報せていた

相変わらず重たい身体を引摺り起こし、母に答える

梓「起きてるから大丈夫だよ」

大丈夫…嘘だ。ちっとも大丈夫なんかじゃない

「時間が無くても朝食はちゃんと取りなさいよ。あなた昨日は夕食も取らずに寝ちゃったんだから」

いつもなら優しい母の声も今日は違って聞こえるのは…きっと私自身のせい

思わず苛立ちをぶつけそうになる自分をなんとか律する

梓「はーい。分かってるよ」

嘘で固めた自分…降り積もる澱はもう私を押し潰そうとしていた

29: 2010/08/22(日) 00:40:43.75
ダイニングテーブルで母と他愛の無い会話を交わしながら食事を取り、学校へ向かうべく玄関を出る

「いってらっしゃい、梓」

梓「行って来まーす」

母の姿がドアの向こう側に消えた途端、なんとか体裁を繕っていた空元気も消え失せた…

背負ったギターケースがまるで罪人の枷の如く、私を戒める

梓「…こんなに重かったんだ」

分かってる、重いのはギターじゃない

我侭で臆病な自分自身

結局昨晩の着信やメールは確認することなく全て消去してしまった

梓「…もう先輩方に会わせる顔もないよ」

31: 2010/08/22(日) 00:42:41.78
いつもと違う道を選んで学校へと向かう

遅刻ギリギリのタイミングで校門をくぐり、教室に入った

純「おっはよー、梓。珍しいじゃん、遅刻寸前なんて」

今朝も元気な純だ。今の私には眩しいくらいに…

梓「おはよー、純。昨日はちょっと夜更かししちゃってさぁ」

純「ふーん、どうせまたネットで怪しげなグッズを探してたんでしょ」

梓「そんな事言っていいのかなぁ。折角安くて効きそうな縮毛矯正コンディショナーを見つけたのに」

純「なっ!マジで?」

大丈夫…こんな嫌な私を誰にも知られたくない…笑うんだ、例えそれが偽りの笑顔でも

32: 2010/08/22(日) 00:46:15.25
憂「おはよう、梓ちゃん」

梓「お、おはよう、憂」

ヤバい…今一瞬声が震えそうになった
唯先輩から昨日部活をサボった事、きっと聞いてると思うとつい…

憂「…少し寝不足みたいだね。目の下が少しクマってるよ」

梓「ちょっとネットに熱中しちゃってさぁ」

始業を告げるチャイムが鳴る…助かった

憂「それじゃまた後でね」

梓「うん」

自分の席に戻るべく振り返った憂から、なんだかいい香りがした
なんだったかな…花の香りだよね

33: 2010/08/22(日) 00:49:46.96
私の不安をよそに、時間は流れた

休み時間の他愛もないおしゃべり

憂と純と食べる昼食

いつもと変わらない穏やかな学校生活

…嘘。いつもと変わらないフリをしているだけ

まるでもう一人の自分を見るように、心は少し離れた位置にある

本当は泣き出したかった…お願いだよ、誰か偽りの私に気付いて…

誰か…助けてよぉ

そんな心の叫びとは裏腹に、もう一人の私はいつもと変わらない笑顔を浮かべている…

降り積もった澱は、もう私を壊してしまったのかな…

35: 2010/08/22(日) 00:52:18.66
最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る

純「んーっ、今日も勉学に勤しんだぁ」

梓「うむ、偉いぞ、純くん」

純「ははぁ、有り難き幸せです、梓大先生!って、誰?」

梓「私が知る訳ないじゃん」

純「アハハ、そりゃそうだ。さってと勉学の後は、音楽に勤しみますか」

ギターケースを背負う純の姿を見て、なんとか押さえていた胸の痛みが甦る…

純「途中まで一緒に行く?」

梓「先に行っていいよ。私はちょっと用事を済ませてから行くわ」

純「ほいほーい。じゃあまた明日ー」

梓「うん、ばいばい」

…嘘つき。用事なんてない癖に

36: 2010/08/22(日) 00:55:09.52
三三五五教室を出るクラスメート達

どれくらいの時間が経ったのか…人影がまばらになった教室で、机の上に視線を落とした私の鼻腔に微かな甘い香りが届いた

…憂の香り

憂「梓ちゃん」

内心の動揺を悟られないように、偽りの笑顔を貼り付けて声のした方向に視線を向ける

梓「なんか、ボーッとしちゃった」

大丈夫…いつもと変わらない私だ…

憂「ふふっ、ちょっぴり秋の気配を感じる午後って、ついボンヤリしちゃうよね」

梓「だよね」

…お願い…もう少しだけ…いつもの私でいさせて…

37: 2010/08/22(日) 00:58:11.02
罪人の枷のように重たいギターケースを背負い、憂と並んで教室を出る

帰宅する憂と階段の前で別れた

憂「それじゃ梓ちゃん、また明日ね」

梓「うん、ばいばい」

結局憂は何も言わなかったな…

遠ざかる甘い香り…思わず叫びたくなる…

イカナイデ

ヒトリニシナイデ

鼻腔をくすぐる甘い香りが消え失せると同時に、あの不快感が心も身体も覆い尽くしていく…

梓「…今日は先輩方来てるかな」

音楽室へと続く階段が険しい急峻の如く感じられる

白濁していく意識の片隅で先輩方の姿が浮かぶ

39: 2010/08/22(日) 00:59:46.17
「あれ?ケーキが6個もあるよ」

「さわちゃんの分だろ、ってそれでも1個余るか」

「あら、私ったら何か勘違いしちゃったのかしら」

「お茶の心配もいいけど、少しは練習もしような」

「あら、私の午後の優雅なティータイムにケチをつけるつもり?」

「って、さわちゃんいたのかよっ!」

「相変わらず神出鬼没ですね」

「アハハハハ」

…やめて…こんなの見たくない…もう…嫌だ

後退りするように階段の前を離れ、気がつくと誰もいない教室に戻っていた…

41: 2010/08/22(日) 01:05:11.38
誰もいない教室…

ギターケースを机の脇に立て掛け暫く放心したように立ち尽くしていた…

梓「…帰ろ」

重たい身体を引摺るように教室を出る

音楽室へと続く階段の存在を無視して、エントランスへと向かう

上履きを履き替え、校舎を後にする

部活の喧騒を背に聞いて、初めてギターケースを置き忘れた事に気付いた…

梓「もう…いいよ」

振り返るのも煩わしく、校門をくぐり抜ける…

近付く秋の気配を秘めた微風に乗って、あの甘い香りが届く

振り向くと門柱を背に憂が空を見上げて立っていた

42: 2010/08/22(日) 01:08:07.56
梓「…憂」

穏やかな微笑みを称えた憂が空を見上げたままで口を開いた

憂「空が高いね、梓ちゃん」

私も見習うように視線を空に向ける

梓「うん」

午後の風に前髪をくすぐられるままに、瞳を閉じた憂が続ける

憂「吸い込まれちゃいそうだね」

梓「うん」

…甘い香り…その透明さを隠す事無く佇む憂の存在にこそ吸い込まれそうになる…

ゆっくりと私に視線を移した憂がいつもの柔らかい微笑みを浮かべる

憂「一緒に帰ろう」

不意に込み上げて溢れそうになる涙を押さえて、ただ静かにうなづいた

梓「うん」

43: 2010/08/22(日) 01:10:07.99
昨日は怯えるように走り抜けた帰路を、今日はゆっくりと歩みを進める

私を覆い尽くした心の澱は消えてはいない…それでも昨日とは違って嘲るような視線に怯える事もない

ただ憂がそこにいてくれる…並んで歩いてくれる…たったそれだけなのに

微かな甘い香りが、記憶の片隅に眠る幼い日の自分を見せたような気がした…

キラキラと穏やかな午後の陽光を反射する川面を下に見る土手の道を無言で歩く

不意に憂の柔らかくて温かな手が私の手を包んだ

憂「少し寄り道しちゃおうか?」

44: 2010/08/22(日) 01:14:12.06
川面を間近に見る芝生の斜面に並んで腰を降ろす

お互いの掌は重ねたまま

この場所で、唯先輩と2人で演芸会の演目を練習したあの日が遠い過去のように浮かんで消えた…

ただ黙って川面を見つめる…重ねた掌から憂の存在が流れ込んでくる

…駄目…だよ、こんなの

私は憂の優しさに甘えているだけだ…

分かっていても離れられない…

甘い香りが不意に私に近付いた気がした

振り向くと視線の先には憂の透明な存在だけ…

…お願い…優しく…しないで

46: 2010/08/22(日) 01:16:29.10
瞳が揺れる…駄目…泣いちゃ駄目だよ…

こんなのは狡い…憂の優しさに付け込むような真似だけはしたくないよ…

重なる視線…どこまでも透明で吸い込まれそうな憂の瞳

…私なんかに…どうして…

不意に重ねた掌が離れた

…嫌…お願い…離さないで…

まるで時間の流れがゆっくりになったような世界の中で、憂が私を優しく抱きしめてくれた

押さえていた全てが溢れ出す…嗚咽が耳に届く…泣いてるの、私?

…駄目だよ…こんなのは…嫌だ

47: 2010/08/22(日) 01:19:00.13
抱きしめてくれる憂の全てが心地よくて…

でも…お願い…駄目だよ…私の存在が憂の透明さを汚してしまったら…私は自分を許せなくなってしまう

憂「我慢しなくていいよ、私が受け止めてあげる」

梓「…優しくしないで…お願い」

抱き締めてくれる憂がほんの少しだけ離れる…互いの顔を至近に見つめられるだけの間に

瞬間、透明さを称えた憂の瞳に鮮やかな色彩が浮かんだ気がした…

これが本当の憂の色…なのかな

あまりの鮮やかさに瞳を逸す…

憂「…梓ちゃん」

互いの唇が触れ合う

48: 2010/08/22(日) 01:21:42.81
重ねた唇から伝わるぬくもり…優しさ…身体の奥深く…凍えてしまった私の全てを溶かすように沁みわたっていく

触れた唇が離れると同時に凍っていた時間が動きだす…

梓「憂、いまの…」

憂「素直になれるおまじない」

いつもと変わらない透明な笑顔…色褪せた世界が鮮やかに色を成していく

それからはよく覚えていない…ただ憂の胸に身を委ねて全てを溢れさせた

出会いの喜びと別れの予感の辛さ…
不安と増長した己の醜さ…
我侭で臆病な私…

気がついた時には降り積もり溢れた澱が全て消え去っていた

50: 2010/08/22(日) 01:24:50.46
胸一杯に広がる憂の甘い香りが、さっき一瞬垣間見せた幼かった頃の記憶を鮮やかに甦らせてくれた

アルトサックスを携えて私に微笑む若き日の父
隣りには真紅のドレスに身を包んだ若き日の母
私と同じ黒くて艶やかな髪に鮮やかな花が飾られていた
甘い香り
母が己の髪に飾られていた花を私の髪に挿してくれた
無邪気な笑顔を浮かべる私

梓「そうか…クチナシの香りだ」

初めて父と母の立つステージを見たあの日、いつか自分も…音楽の道を志した瞬間…

51: 2010/08/22(日) 01:27:29.06
何も言わずにただ優しく抱きしめてくれた憂の胸から身を起こした

照れ隠しに笑顔を浮かべてみせる

梓「エヘヘ」

偽りなんかじゃない、心からの笑顔だ

そんな私を優しく見つめた憂が、胸のポケットから小さな紙片を取り出して私に差し出す

憂「梓ちゃんにあげる」

受け取った小さな紙片は紙包みになっていた

甘い香り…憂の香り

クチナシの花びらが押されたそれを自分の胸ポケットにそっとしまう

憂と同じ香りになった自分に少し照れたりもする

52: 2010/08/22(日) 01:29:59.39
寄り添うように座り、川面を見つめる

浮かんだ疑問を素直に聞ける私がいた

梓「ねぇ、憂は知ってたの?この花がビリー・ホリデーの代名詞のような存在だって」

小さく小首を傾げる憂

憂「有名な女性ジャズシンガーだよね?でも、クチナシの花の事は知らなかったなぁ」

偶然なんだ…ううん、むしろこの花を憂が好きな事が必然に感じられた

憂「それじゃあ梓ちゃん、クチナシの花言葉って知ってる?」

今度はこっちが小首を傾げる番だ

憂「私は幸せです」

最高の笑顔、やっぱり憂にはかなわないよ

54: 2010/08/22(日) 01:31:42.44
突然土手の上から大きな声が上がる

純「やーっと見つけたぁ!」

土手を下る階段を純が駆け降りてくる

梓「どうやって見つけたのかな?」

憂「野生の本能?」

顔を見合わせて笑いあう、なんの屈託もない笑い声が耳に心地よい

純「なによそれー。人が折角…って、梓いい顔してんじゃん」

梓「そうかな?」

分かっていて少し惚けてみせる

照れ隠しだよ、うん

56: 2010/08/22(日) 01:33:56.40
純「まぁ、いいや。ほい」

両肩に1本ずつ、2本のギターケース
そのうちの1本、紛れもなく私のムスタングが入ったケースを私の膝の上に置く

梓「純、わざわざこれを?」

純「教室に忘れ物を取りに帰ったら、梓の机に立て掛けてあんじゃん。これはおかしい!と思ってさぁ」

憂「それで野生の本能で駆け出した、と」

純「そうそう!って、その野生はやめてよねっ」

憂「アハハ、ごめーん」

憂、純…何を悩んでたんだろうね、私

57: 2010/08/22(日) 01:36:06.15
私の隣りに腰掛ける純
ケースからベースを取り出すと、おもむろに弦を弾く

アンプを通さなくても伝わる
秋の訪れを拒むように奏でる盛夏のリズム

梓「Summertime bluesって…それでいいのか、ジャズ研?」

純「好きなんだからいいじゃん。んな事よりあんたも弾きなさいよ、どうせ弾けるんでしょ?」

梓「その挑発、乗った!」

ギターケースからムスタングを取り出す
もう指先が震える事もない
いつもの私とムスタングだ

梓「やってやるです!」

59: 2010/08/22(日) 01:41:14.99
ちょっぴりチープでマヌケなセッション
それでもなぜか満足感

乗ってきた純が憂にムチャ振り

純「ほら、憂も歌う!」

おいおい、ジャズ研。そりゃ無理ってもんでしょ

憂♪~O Lord,I got to raise a fuss

梓「にゃっ!」

純「うわおうっ!」

憂♪~sometimes I wonder
what I'm a gonna do

透明感溢れる歌声、それはまるで憂の存在そのものが音になったように耳に心地よく響いてくる

憂♪~Lord,there ain't no cure for the summertime blues

観客もいない、ちっぽけだけど最高のライブだ、うん

60: 2010/08/22(日) 01:48:59.48
純「梓はともかく、憂には参ったわ」

憂「エヘヘ、お粗末様でした」

純「なんで歌えちゃうの?」

憂「ナイショ」

本当に憂は宝石箱みたいだ
中に詰まったピッカピカの宝石で、時々私を驚かせてくれる
って…ヤバいヤバい!さっきの憂の柔らかい感触が甦って…アツいよ

純「んで、梓はなんで真っ赤になってんのよ?」

梓「ちょっと気合い入れすぎて、火照っただけだもん!」

純「本当かぁ?なーんかあんた達怪しいのよねぇ」

梓「な、なによそれ?」

純「んー、べっつにぃー」

61: 2010/08/22(日) 01:51:36.16
純「んで、憂。本当のところはどうなのよ?」

こらこら、変な所で鋭い奴め
まぁ、憂が何も言う訳が…

憂「あのね、梓ちゃんとキスしちゃった」

…え?憂?なにそのホッペを押さえて、照れ照れアピールは

純「なんだとぉー!」

憂がチラッと視線を投げてくる、悪戯な色が瞳に踊っている
…アハハ、やっぱり憂にはかなわないや

純「うーっ、憂ばっかりズルイー。私も梓にチューしてやるぅ」

おいおい、熱中症にやられたか、ジャズ研?

62: 2010/08/22(日) 01:59:05.00
憂「ダメだよ、純ちゃん!梓ちゃんは僕のものだよっ」

純「僕って…誰?」

憂「さぁ、分かんない」

梓「アハハハ」

おっかしい。笑いが込み上げてくる
胸ポケットにしまったクチナシの押し花の香りが教えてくれる

「私は幸せです」

純「よし、それじゃ半分こしよう!」

憂「それなら許す!」

いや、許すとか許さないとかそんな問題?

憂純「せーの」

憂と純が私を挟んで両側からホッペにキスをする

こらこら憂、その携帯のカメラは何を撮るつもり?

63: 2010/08/22(日) 02:03:44.52
その夜
自室のソファーに腰掛け携帯の画面を見つめる

両側から悪戯な微笑みを浮かべて、私の頬にキスする憂と純
困ったような戸惑うような、それでも笑顔の私

もう大丈夫だよ…ありがとう

憂の香り、テーブルの上に置いたクチナシの紙包みに視線を移す

昼間は気づかなかった、中に書いた文字がうっすらと透けて見える

ゆっくりと慎重に包みを開く
中には茶色く変色したクチナシの花びらと、一篇の歌

我が恋をなどて語らむ夕闇にクチナシの花はただ香るなり

梓「…大好きだよ、憂」

私は幸せです


お し ま い

64: 2010/08/22(日) 02:06:49.60
乙!!やっぱこの三人いいわ

引用元: 梓「…優しくしないで…お願い」~夏時間