75: 2018/04/20(金) 22:47:20.52 ID:V1dr6Dvpo

 あの時、ああしていれば良かった。


「っ……!」


 誰であれ、そう思った事があるだろう。
 老若男女関係なく、自分が選択した行動を悔いた事位は、あるはずだ。
 私は、あまり人の気持ちを察する能力が高くは無い。
 それ故に、コミュニケーションの面での失敗は数多い。


「うっ……ぐ……!?」


 突如、強い吐き気に襲われ、手に持っていた携帯電話を取り落とした。
 口を手で抑え、歯を食いしばり、一瞬だけ思考する。
 トイレまで走っていては、絶対に間に合わない。
 事務所の隅に設置されている大きなゴミ箱に駆け寄り、頭を突き入れ、


「お――えええっ!」


 吐いた。
 胃の内容物だけでなく、そのまま、口から内臓が飛びててしまうかと、そう、思った。
 もしもそうなったら、私はどうなってしまうのだろう。
 ……いや、そんな事を考えている場合ではない、か。


「うっ、ぷ……おええっ……おっ、う……!」


 早く、全て出しきり、これを片付けなくてはいけない。
 私が、ここで嘔吐したという事を彼女達に知られてはいけない。
 ゴミ箱の中身を片付け、部屋の換気をし、何事も無かったように。
 そう、これは、誰にも知られてはならないのだ。


「……はぁ……はぁ、っ……!」


 何故ならば、これは、私の問題なのだから。
 かつて、私が犯してしまった過ちへの、後悔。
 それは、私が思っていた以上に、私の中に強く在ったようだ。
 その証拠に、その後悔が少し揺り動いただけで、この様。


「……はぁ……はぁ……っ」


 落ち着いた、だろうか。
 自分でも、よく、わからない。
 わからないが、床の上に落ちている携帯を見て、思う。



 ――何故、今になって……と。



「っ!? う、お、えええっ……!」


 危うく、床に吐瀉物をぶちまける所だった。
 鼻の奥がツンとするのは、吐いているからだけでは、無いだろう。
 私は、人知れず、泣いた。
アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(12) アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場 (電撃コミックスEX)
76: 2018/04/20(金) 23:16:54.73 ID:V1dr6Dvpo
  ・  ・  ・

 ひとしきり吐いた後、すぐに片付けを開始した。
 ゴミ箱には袋がしてあるので、吐瀉物そのものに関しては、
袋の口をしばり、そのまま処理するだけ。
 部屋の匂いも、頭ごとゴミ箱に突っ込んでいたので、そこまでひどくはなかった。
 少し換気をすれば済むだろうし、まだ、メンバー達が来るまで時間があるのも幸いだった。


「……んっ……んぐっ」


 だが、いつまたあの嘔吐感に襲われるか、わからない。
 なので私は、一人、トイレに籠もり、水を飲んでいる。
 喉をひんやりとした水が通り抜けていく。
 二リットルのペットボトルを三分の一程飲み干した所で、体を折り曲げ、


「お……おぁ、ええっ……!」


 手を口につっこみ、指で喉を突き、


「っ、ぶ、お、ええええっ!」


 先程吐ききっていなかった残りを飲んだ水の助けを借り、吐き出す。
 水分がほとんどなため、とても、勢いよく口から飛び出した。
 しぶきがスーツに飛ぶとまずいと思ったので、顔を便座の位置まで慌てて降ろした。
 トイレの水が、どんどん濁っていく。


「……っ……はぁ、ぁ……はぁ」


 これを最低でもあと二回は繰り返す。
 吐き出すものが無くなってしまえば、嘔吐感があっても、そうする可能性はほぼ無くなる。
 今日も、やるべき事は、山程あるのだ。
 こうやって中断していては、メンバーの方達に迷惑をかけてしまう。


「……んっ……んぐっ」


 口を端から涎を垂らしながら、水を飲む。
 どうせすぐに汚れるのだから、拭う必要は無いだろう。
 吐いた後に飲む水が、こんなにも涼やかに喉を通り抜けていくとは思わなかった。
 しかし、これは水分を補給するための行為では、無い。


「おっ、おえっ……!」


 一度、強引に吐いてしまえば、二回目は指で喉を突く事もなく、
ただ、吐こうと思って胃の所に力を入れるだけで済む。
 脂汗をかいているのが、自分でもわかる。
 頭に血が回っていないのか、首から上にだけ、妙な寒気を感じる。


「うぶ、お、えええっ!」


 だが、吐く。
 誰にも言えない、このざわつきは、胸に残したまま。
 吐瀉物も、あまり色はついていず、水に近くなっている。
 だが、まだ、足りない。


「はぁっ、はぁ……んっ……んぐっ」


 全て吐き出すには、足りていない。

77: 2018/04/20(金) 23:39:30.77 ID:V1dr6Dvpo
  ・  ・  ・

「……」


 トイレの大きな鏡で、身だしなみの最終確認をする。
 服が少し濡れてしまっている所もあるが、すぐに乾くだろう。
 問題は匂いだが、これは、どうするか。
 ……ああ、そういえば、彼が香水を使用していたな。
 プロデューサーたる者、匂いも身だしなみの一つだ、と。


「……」


 そうと決まれば、プロジェクトルームに戻る前に、彼の所へ行こう。
 私が香水を借りたいと言ったら、彼はどんな反応をするだろうか。
 それに、私が香水をつけているとわかった時の、彼女たちの反応は?
 ……何にせよ、この鼻につく匂いよりは、良いだろう。


「……」


 トイレに入る時は、誰にも見られないように確認した。
 だが、出た時に、誰に出くわすとも限らない。
 なので、明らかに手に持っていてはおかしい、二リットルの空ペットボトルを小さく潰していく。
 中の空気を抜いて、丁寧に折りたたんでいく。


「……よし」


 出来るだけ、小さく折り畳めた。
 スーツの上着のポケットにそれをしまい、
すぐ近くのペットボトル用のゴミ箱が設置されている場所を頭に思い浮かべる。
 ここに置いて行くと、清掃員の方に、迷惑がかかってしまうかもしれませんから。


「……」


 無理矢理吐いたおかげか、嘔吐感はなりを潜めている。
 足取りが少しフワフワとしているが、歩行に支障が出る程では無い。
 だが、早くどこかに座って、落ち着きたい。
 もっとも、落ち着けるとは思わないが。



「プロデューサーさん?」



 想定しうる限り、最悪のケース。
 今、この場面で、最も会いたくない人物が、居た。
 だが、決して怪しまれてはならない。
 自然な風を装い、廊下に出て、挨拶をする。


「おはようございます、千川さん」


 少し、声がかすれてしまったが、許容範囲内だろう。
 千川さんが、


「はい、おはようございます」


 と、笑顔で挨拶を返してくれたのだから。

79: 2018/04/21(土) 00:06:50.30 ID:pK1qKcNgo

「プロジェクトルームへ戻る所ですか?」


 少し、違和感のある微笑みを向け、千川さんが聞いてくる。
 その違和感がなんなのかはわからないが、気のせいかもしれない。
 今の私は、動揺しきった後で、まともな精神状態とは言えないだろうから。
 そんな私が、誰かの笑顔を疑うのは、あまりにも愚かだろう。


「はい。その予定です」


 戻って、やらなければならない事がある。
 誰にも気づかれないようにと、痕跡を消し去る事にだけ意識を割いていた。
 だが、向き合わなければいけない。


 ――かつて、私の元を――城を去っていった、彼女と。


「あっ、その前に……少し、屈んでもらえますか?」


 千川さんが、チョイチョイと、手で屈むようにと指示してくる。
 何、だろうか。
 身だしなみの確認は十分に行ったはずだが、見えていない所に、問題が?
 私が見なかった場所に、おかしな所があるのだろうか。


「はい。あの、何か問題でも――」



 バシンッ!



「……?」


 顔が、自分の意志とは関係なく、横を向いた。
 続いて、頬に、じんわりとした痛みが広がっていくのが、わかった。
 何が起こったのだろうか。
 あの、


「千川さん?」


 何故、私は、頬を叩かれたのでしょうか?


「何か? 問題でも?」


 千川さんの、こんな表情は初めて見た。
 目を大きく見開き、声は震え、片方の口の端だけ、釣り上がっている。
 向けられる視線は、強く、雄弁に物語っている。



「あるに決まってるじゃないですか!」



 バシリと、また、頬を張られた。
 それだけでは止まらず、手に持っていたクリップボードで頭を何度も叩かれる。
 たまらず立ち上がると、千川さんは手に持っていたものを投げ捨て、胸に拳をうちつけてくる。
 何度も、何度も……涙を流しながら。


「……」


 それを見つめながら、散らばった書類を片付けなくてはと、ボンヤリと考えていた。

80: 2018/04/21(土) 00:42:27.70 ID:pK1qKcNgo
  ・  ・  ・

「待ってください! 彼女は、また歩き出そうとしています!」


 千川さんとの一悶着は、ちょっとした騒ぎになった。
 しかし、それを見ていた人間はほんの数人で、それも、終わり際を見られただけ。
 ボンヤリと立ち尽くす私と、泣きじゃくる千川さん。
 私達二人は、すぐに専務に呼び出され、ここに居る。


「結構な事だ。だが、城の門は既に閉じている」


 専務は、パソコンの画面をつまらなさそうに見ながら、言った。
 そして、彼女のデスクに置かれている、私の携帯の画面を見て、フンと鼻で笑う。
 一体、何がおかしいというのか。
 夢を諦めきれずに、また、階段を登ろうとする事の、何が!


「しかし! 一時とは言え、彼女もまたここの人間でした!」
「それが、何か?」


 携帯の画面に映し出されているのは、一通のメールの画面。
 その内容は、


 また、私と――プロデューサーと一緒に階段を登りたい。


 ……そんな、願いだった。
 彼女は、私のせいで、一度はその道を諦める事になってしまった。
 だから……だから、私は――


「っ、うっ……!」


 頭から、血の気が引いていく。
 ソファーから浮き上がりかけた腰をおとし、ソファーに沈み込む。
 そんな私の様子を見つめる千川さんは、とても悲痛な表情をしている。
 専務は、ただ、無表情にそんな私を眺めている。


「彼女を346プロダクションで預かる事は、今後は絶対に無い」


 どこまでも冷たく、言葉は続く。


「逃げ出しておいて、戻りたい? 私がそれを許すと、君は思うか?」


 だが、それでも、


「シンデレラプロジェクトが成功しているのを見て、戻りたい……と」


 それでも――



「夢を見るのは結構だが、寝言を聞き入れる程、この城は甘くは無い」



 それでも、私は……!


「……」


 ……本当は、わかっているのだ。
 専務の言葉の方が、正しいという事を。

81: 2018/04/21(土) 01:19:11.47 ID:pK1qKcNgo

「君も、そう思っているのだろう。私よりも強く、そして、複雑だろうがな」


 専務は、私に言い聞かせるように、調子を少しやわらかくした。
 頬杖をつき、少し、面倒そうにしている理由は、わかる。
 彼女は、私の内心に気づいているのだ。
 そして、それをあえて言葉にする事により、ハッキリと認識させようとしている。


「降りた馬車が素晴らしいものだとわかっても、もう遅いのだよ」


 悔しいが、私は、何も反論出来ない。


「既に馬車は走り出し、遥か遠く、手の届かない所まで進んでいるのだから」


 したとしても、一笑に付されて終わりだろう。


「御者は、そのような者のために、馬車を止めるべきではない」


 だが、私は、諦められない。


「私には、城を守る義務がある」


 彼女の、あの、笑顔をもう一度――



「――その中には、君も含まれている」



 わかるね、と、とても優しい、諭すような口調。
 私はうなだれ、唇を強く噛み締めた。


「話は以上だ。この件は、私が預かる……下がりなさい」


  ・  ・  ・


「これで、彼が担当し、城を去っていった者達全員か?」


「はい。間違いありません」


「では、346プロダクションでは一切の関わりを持たぬよう、全部門に通達しよう」


「お願いします。それが、プロデューサーさんには、一番だと思います」


「他の馬車に乗り、彼の前に現れる可能性は?」


「有り得ません。だって、私も近くで見てたんですから」


「力があれば、今の彼女達の様に困難を乗り越え、輝いていただろうから、な」


「はい。それに、今更戻って来たいだなんて――」



「――虫唾が走ります」



おわり

引用元: 武内P「あだ名を考えてきました」