1: 2016/06/19(日) 21:37:33 ID:UVVe14Us
「愛していたんだっけ?」

僕がそう言うと、その女性は泣きだしてしまった。
戸惑いもあったが、僕は「やはりな」とも感じていた。
その言葉が彼女を傷つけるという予感があった。
でも、それでも、その言葉が口を突いて出てしまった。

僕は目の前の女性が誰なのか、わからない。
それは、僕がプレイボーイだからではない。
記憶を失ってしまったからだ。
目の前の女性のことも、僕自身のことも、全く覚えていない。

3: 2016/06/19(日) 21:46:35 ID:UVVe14Us
医者に見せられた鏡の中の僕は、しっくりこなかった。
少し癖のある髪も、自信がなさそうな目も、しっくりこなかった。
20歳くらいだろうか。
もう少し歳をとっているだろうか。
それすらも、よくわからなかった。
ただ、僕の意思で鏡の中の「僕」の表情が変わることを、少し気持ち悪く感じた。

手のひらを見ても、体を見下ろしても、しっくりこなかった。
中肉中背。
特徴のない、普通の体だ。
お腹に少し傷痕があるが、医者曰く、やけどの痕のようだ。
昔、やけどをして、皮膚移植をした痕。

もちろん僕には、そんな記憶はない。
傷痕を撫でてみても、まったく感傷はよぎらない。

4: 2016/06/19(日) 21:52:17 ID:UVVe14Us
僕を探しに、病室を訪れた彼女。
彼女が呼ぶ僕自身の名も、しっくりこなかった。
彼女が名乗った名前にも、聞き覚えがなかった。

小さなアパートで一緒に暮らしていたらしいが、まったく覚えがなかった。
ベランダから見る夕陽も、湧いたヤカンも、畳に敷いた布団も、頭に浮かんでこなかった。

ただ、彼女の顔には少しだけ見覚えがあった、気がした。
どこかで見たことがあるような。なんだか懐かしいような。
僅かな感覚。

でも、僕自身に関することよりは、ずっと鮮明だ。

5: 2016/06/19(日) 21:59:02 ID:UVVe14Us
どうして記憶を失ったのか、医者も頭を悩ませているらしい。
新しい大きな外傷はない。
脳のスキャンについては、医者も口を濁した。
両親はいないのか、見舞いにも来ない。
僕はどうしたらいいのだろう。

「愛していたんだっけ?」

僕は、この女性を愛していたのだろうか?
なぜそう思いついたのかも、わからない。

6: 2016/06/19(日) 22:09:45 ID:UVVe14Us
途方に暮れて、泣き続ける彼女を見つめる。
僕のことを知るのは、彼女一人だ。
上手く話をして、僕のことをもっと教えてもらわなければ。
そのためには、まず泣き止んでもらわなければ。
僕は記憶を失ったが、女性が一度泣き出すとなかなか泣き止まないことは覚えていた。

そういえば、名前を聞いた時、僕の名字も、彼女の名字も、彼女は言わなかった。

7: 2016/06/19(日) 22:17:04 ID:UVVe14Us
僕は恐る恐る、彼女に名字を尋ねた。

彼女は泣きながら、一つの名前を告げた。

「それは僕の? 君の?」

その問いに、彼女はかぶりを振りながら、小さな声で言った。

「……どっちも、一緒」

「……どうして?」

「……だって、家族じゃん」

8: 2016/06/19(日) 22:22:47 ID:UVVe14Us
家族。

両親は見舞いに来ないが、彼女は僕の家族だという。
そういえば、見覚えのないこともない顔だと思ったんだっけ。
彼女の顔には、どこかしら懐かしい雰囲気がある。

少し癖のある短い髪。
自信のなさそうな目。
小さく結ばれた口。

ああ、そうか。

彼女の顔は、鏡の中の「僕」に似ていたんだ。

11: 2016/06/20(月) 21:24:42 ID:l1Osb9BA
―――
――――――
―――――――――

何日か経って、僕は退院になった。
彼女と家に帰り、週に一度以上通院する、という条件で。

「自宅療養ってやつか」

「自宅療養ってやつよ」

「まだ全然記憶戻らないのに?」

「身体は健康でしょ」

「頭は不健康なのに?」

「病院に置いておくスペースがないのよ、きっと」

「置く」とはひどい表現だ。
でも彼女は、なんだか少し嬉しそうだった。

12: 2016/06/20(月) 21:33:53 ID:l1Osb9BA
家への帰り道は、真新しいことだらけだった。
靴が小さくて歩きにくい。
「電車」は知っているが、僕らが乗った車両に見覚えはない。
当然駅の名前も、風景も、初めて見るものだ。

スーパーも、コンビニも、通い慣れた感じはしない。
いつも何を買っていたっけ。
いつも何を好んで食べていたっけ。
それすらも思い出せない。

僕は幼児のように、彼女をあとをふらふらついていくだけだった。

13: 2016/06/20(月) 21:39:19 ID:l1Osb9BA
アパートの外観にも、きしむ階段にも、ちゃちな表札にも、懐かしさが感じられない。

本当に、僕はどうしてしまったんだろう。
本当の僕は、どこにいるのだろう。
気持ちが悪い。
居心地が悪い。

常に地に足がついていない。
そんな感覚。

ガチャリ、とドアが開けられる。
生活感のある部屋にそろそろと上がり込む。

……部屋の匂いだけは、なんだか僕を安心させた。

14: 2016/06/20(月) 21:47:12 ID:l1Osb9BA
彼女が呼んだ僕の名前は、なんだか女みたいだった。
どんな漢字を当てるのだろう。

「もしかして僕は、12月24日に生まれたの?」

「……よくわかったね」

「……僕の両親は、随分ストレートに名前を付ける人だったみたいだね」

「……そうね」

「じゃあ君は、3月3日生まれ?」

「そういうこと」

15: 2016/06/20(月) 21:56:20 ID:l1Osb9BA
「両親はどこに?」

「もういないの」

「……そう」

僕らよりも先に亡くなっていたということだろうか。
彼女だけが病室を訪れていたことを考えれば、納得できる話だ。
このアパートに二人で住んでいたというのも、納得できる話だ。
両親の収入なくして、大きな家やマンションに住むことは不可能だろう。

「大学、休まなきゃね」

そう言って彼女は、少し笑った。
諦めの笑いか。
なんか、そんな感じだ。

16: 2016/06/20(月) 22:01:04 ID:l1Osb9BA
「僕は大学生だったのか」

「そうよ、まだ20歳よ」

「君は?」

「私はOLよ」

「花の、ね」と付け加えて、彼女はまた笑った。
泣いていた姿からは想像できない、綺麗な笑顔だった。
僕の状態にも少し慣れてきたのだろう。

17: 2016/06/20(月) 22:09:18 ID:l1Osb9BA
「『君』って呼ばれるの、ちょっとイヤなんだけど」

「……そっか」

「まあ、私のことも思い出せないだろうけど、なんかさ、他人行儀で」

「僕はいつもなんて呼んでたの?」

「『ねぇね』」

「は?」

「『ねぇね』って呼んでくれてた」

18: 2016/06/20(月) 22:15:11 ID:l1Osb9BA
「恥ずかしくない? それ」

「知らないわよ、あんたが子どもの時からずっとそう呼んでたんだもん」

「ええー」

「ねぇね」か。
そう呼ぶのはちょっと、いやかなり恥ずかしい。
記憶にない女性を気安く呼べるほど、僕は社交的ではない。

19: 2016/06/20(月) 22:23:39 ID:l1Osb9BA
「……まあ、少しずつ、思い出していこうよ」

そう諭してくれる。

「休学届とか、ややこしいことは、やっといてあげるから」

ありがたいことだ。

「ここでゆっくり、身体も頭も休めて、さ」

何日も病院にいたけれど、不思議と身体は元気だった。
頭は、そうはいかないようだけれど。

「ありがとう」

僕の言葉は、よそよそしくなかっただろうか。
少し居心地が悪くなって、僕は目を逸らした。

20: 2016/06/20(月) 22:31:15 ID:l1Osb9BA
その日の夕食は僕が好きだったというハンバーグだった。

「ほれ、いっぱい食え」

彼女は最初よりも砕けた口調になっている気がした。
笑顔も増えた。

「まーあれだね、記憶ないっつってもさ、退院できたんだから大丈夫でしょ」

「もとの生活をして脳を刺激して、思い出させようってことでしょ」

「だから、大丈夫なんじゃないの?」

「これで効果がないってなったら、きっとまた入院だよ」

「え、それはヤだ」

彼女は、言葉が幼い気がする。
僕と対等に喋るからだろうか?
僕はもうちょっと落ち着いた喋り方をしていると思うのだけれど。

21: 2016/06/20(月) 22:42:16 ID:l1Osb9BA
「おやすみ」

「おやすみ」

布団を並べて横になる。
彼女は明日も仕事だそうだ。
僕は、大学の授業があるのだろう。
でも、こんな状況で学校に行く気にはなれない。

「明日はゆっくりしてて」

そう言ってくれていたし、お言葉に甘えようと思う。
慣れない環境で眠れないかと思っていたけれど、意外とすぐに睡魔が襲ってきた。

そうして僕は、この家で、見知らぬ女性の隣で、眠りに就いた。

27: 2016/06/21(火) 20:21:37 ID:f6ZZZEIM
―――
――――――
―――――――――

変な夢をみた。

僕と、彼女が、二人並んでいる。

その前に、神様が座っている。

なんだか偉そうな言葉を並べているけれど、何一つ頭に入ってこない。

怒っているような、悲しんでいるような、変な表情を浮かべていた。

僕と彼女はそれを神妙に聞いている。

―――――――――
――――――
―――

28: 2016/06/21(火) 20:30:22 ID:f6ZZZEIM
「おはよう」

「おはよう」

ほぼ同時に目が覚めた。

「ほら、布団畳んで」

「万年床なんて、ダメだからね」

見よう見まねで布団を畳み、片づける。
親戚の家に泊まるような居心地の悪さが少しだけあったけれど、うまくできただろうか。

29: 2016/06/21(火) 20:44:31 ID:f6ZZZEIM
じゅうじゅうと卵が焼ける音と匂いがする。
トーストの香ばしい匂いもする。
カーテンの隙間から入る日差しが健康的だ。

「ほい、朝ご飯」

彼女は二人分の朝食をテーブルに並べ、言う。

「卵に何をかける派だったか、覚えてる?」

彼女はニヤニヤしている。
僕は無意識に手を伸ばしていた。

「塩と胡椒」

それを聞くと、彼女は「やっぱり」と言って嬉しそうに笑った。

30: 2016/06/21(火) 20:53:16 ID:f6ZZZEIM
「記憶がなくなってさ、あんたが別人になっちゃった気がしてたけど……」

「でもそういうとこ見ると、やっぱ変わってないなって、安心した」

そう言いながら、彼女はケチャップとマヨネーズをたっぷりかけた。

「なにそれ、変な食べ方」

「いいでしょ、ずっと私は、こうなんだから」

味が濃いんじゃないか。
どっちか片方でいいんじゃないか。
そう思ったけれど、それ以上言わなかった。
多分記憶がある頃の僕も、そう言っていただろうから。

31: 2016/06/21(火) 21:00:11 ID:f6ZZZEIM
「じゃあ、行ってきます」

そう言って彼女は玄関で靴を履く。

「早めに帰るから、それまでゆっくりしてて」

「鍵はそこね、出かけるなら持って出て」

「でもあんまり覚えてないなら、ふらふら出歩いちゃだめよ」

「お昼は冷凍かなんかで我慢して」

「夜、なんか食べたいものある?」

出る直前にも、彼女は色々と喋っていった。
僕は特に食べたいものはなかったので、いつも通りの感じで、と注文しておいた。

32: 2016/06/21(火) 21:16:47 ID:f6ZZZEIM
テレビをつけてみると、外国人が日本人を殺して埋めたニュースをやっていた。
コメンテーターが憤っていた。
街の人のコメントを羅列していた。
ネットの意見を羅列していた。
知事が遺憾の意を示していた。

そのどれにも、見覚えはなかった。

33: 2016/06/21(火) 21:24:36 ID:f6ZZZEIM
お昼のバラエティは主婦向けの内容だった。
まあ、平日の昼にテレビを見る若者は少ないだろう。

商店街でB級グルメを食い歩くお笑いコンビは知っていた。
代表的なコントも思い出せた。

「覚えてることもあるんだなあ」

ぽつりと口に出す。
僕が忘れてしまったものは、一体何だろう?

34: 2016/06/21(火) 21:33:38 ID:f6ZZZEIM
昨日から充電しっぱなしの携帯を、充電器から外してみる。

あれからぼーっとすることが多かったので、携帯をいじる時間はほとんどなかった。

電源を入れてみる。

パスコードを入力する際、なんのためらいもなく僕の指は動いた。

「……覚えてる」

携帯に関することは覚えている。

35: 2016/06/21(火) 21:41:17 ID:f6ZZZEIM
インターネットに接続し、最近のニュースを順に見ていった。

芸能人の不倫スキャンダル。

アイドルのお泊りスクープ。

野球選手のケガ。

知事の汚職。

そのうちのいくつかは僕も知っていた。
入院するより前に起こったニュースだ。
そういえばこんな風に報道されていたな、と思い出すことができた。

36: 2016/06/21(火) 21:49:51 ID:f6ZZZEIM
僕が忘れていることは、なんだ?

自分のこと。

学生であることも、名前も、顔も、家も、忘れていた。

彼女のこと。

OLであることも、名前も、顔も、関係も、忘れていた。

そのほかには?

37: 2016/06/21(火) 22:02:49 ID:f6ZZZEIM
部屋の中を見回す。
小さなキッチン、本棚、押し入れ、クローゼット。
冷蔵庫、レンジ、壁にかけられているフライパン。
漫画に雑誌に、僕ら二人の写真。
押し入れの中は布団。
僕と彼女の服。

僕はとりあえず、本棚を漁る。

「……読んだこと、あるな」

本棚に並んでいる漫画は、僕が子どもの頃から好きだった少年漫画だった。
大きなサイズになって加筆され再発行されたもので、表紙に覚えがあった。
一冊、目を通し始めると止まらなくなって、僕は夢中で読んでいた。
いつの間にか、主人公の親友が死ぬシーンまでぶっ通しで読んでいた。

38: 2016/06/21(火) 22:15:46 ID:f6ZZZEIM
「……熱中しすぎた」

ふと時計を見ると、もう昼だった。
冷凍パスタをレンジに放り込み、漫画の続きを読む。

「この後、確か……」

死んだと思った親友と夢の中で会うのだ。
そして、主人公の進むべき道を示してくれる。
生きていた時も夢で会うことがあったが、その夢とこの夢が繋がっていることがここで示される。

「ああ、ああ、そうだそうだ、ここで泣いたんだった」

子どもの頃も、大きくなってからも、同じシーンで泣いた覚えがある。

39: 2016/06/21(火) 22:23:34 ID:f6ZZZEIM
冷凍パスタを頬張りながら、どんどん読み進める。
やっぱり名作だ。
何度読んでも面白い。
なぜこの漫画があまり有名にならないのか、理解できない。
子どもの頃、これを友だちに薦めてもあまりいい感触は得られなかった。

「あれ」

そういえば、この本棚にあるということは、彼女も読んでいるはずだ。

「なんて言ってたんだっけ?」

彼女はこの漫画に対して、どう言ったのだろう。
気に入ってくれたんだっけ。
それとも微妙な反応だったっけ。

友達に薦めたことは覚えているのに、彼女に薦めたことは覚えていなかった。

40: 2016/06/21(火) 22:29:34 ID:f6ZZZEIM
漫画を読み終えると、家の中を隅々まで探索した。

レンジや調理器具の使い方は覚えている。
冷蔵庫の中にある調味料の味も覚えている。
蛇口のひねり方も覚えている。

だけど買い置きのシャンプーの置き場所は覚えていなかった。
砂糖壺の仕舞い場所も覚えていなかった。
クローゼットの服のほとんどに、見覚えがなかった。
僕の物らしい下着の色さえも違和感があった。

「変な記憶喪失」

そう、なにかが変だ。

42: 2016/06/22(水) 19:57:55 ID:HxZEQtoI
思い立って僕は、携帯で検索をしてみることにした。
同じような症状の人が世の中にいないかどうか。

医者は明言してくれなかったが、未知のウイルスとか、一時的な現実逃避とか、
同じような症状で困っている人がいるかもしれない。

『変な記憶喪失』

とりあえず、そう検索してみる。

43: 2016/06/22(水) 20:04:38 ID:HxZEQtoI
膨大な、記憶喪失に関するページがヒットする。
僕にはよくわからない専門用語が羅列されているサイトもある。
記憶喪失をテーマにした小説もたくさん見かけられた。
明らかに創作話と思われるブログもたくさんあった。

「検索条件をもっと絞ってみた方がいいのかな」

今度は『記憶喪失 家族』で検索をしてみた。

これも結果は芳しくなかった。
いずれも「限定的な部分だけ忘れていることがある」「突然記憶が戻ることもある」ということだけはわかった。

44: 2016/06/22(水) 20:12:21 ID:HxZEQtoI
生活に必要なことは覚えているのに、知識が抜け落ちているというタイプが多いようだ。

例えば、言葉、服の着方、歩き方、身の回りの物の使い方は覚えている。
だけど、自分が誰で、昨日なにをして、家族がどんな顔かを忘れてしまう。

なんだか難しい言葉で説明されているが、僕はこれと同じタイプなのかな、と思った。
少なくとも言葉や携帯の使い方は覚えている。
喋り方を忘れてしまっていたら、誰とも意思疎通ができず、もっと辛い思いをしていたかもしれない。

45: 2016/06/22(水) 20:27:21 ID:HxZEQtoI
「……僕は喋れる、喋れる、喋れる……」

少し不安になって、言葉にしてみる。
誰も聞いていない。
僕だけの言葉。

「……日本語は忘れてない……」

「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ……」

「アメンボ赤いなアイウエオ、浮藻に子エビも泳いでる……」

アメンボも小エビも覚えている。
浮藻というのがどんな姿をしているのかはわからないけれど。
たぶんとろろ昆布みたいな藻のことだろう。

46: 2016/06/22(水) 20:58:22 ID:HxZEQtoI
それからまた、いろいろなサイトの記事を読んでみた。
明るい携帯画面から飛び出してくる嫌な言葉。

ショック。
フラッシュバック。
心的外傷後ストレス障害

医者は脳のことを詳しく話さなかったが、僕の脳に、もしかしたら深刻な障害があるのかもしれない。

「他の病院にも行った方がいいのかな」

セカンドオピニオン、という言葉を思い出す。
僕はまだ、自分の記憶について深刻に考えていなかったようだ。
もっと向きあった方がいいかもしれない。
彼女のことも、ちゃんと思い出さなければいけないかもしれない。

47: 2016/06/22(水) 21:03:51 ID:HxZEQtoI
と、一つのサイトが気になった。

『僕の彼女が、僕のことだけを忘れ去りました』

そんなタイトルの素人のブログ日記だった。

開いてみる。

青空が基調のさわやかなブログの見た目とは裏腹に、淡々と悲しい文章が続いていた。

48: 2016/06/22(水) 21:08:26 ID:HxZEQtoI
『ある日彼女に会いに行くと、僕を見ても知らんぷりをしました』

『前日に喧嘩をしていたので謝りに行ったのだけれど、まだ怒っていて聞いてくれないのかと思っていました』

『でも話し続けて、本当に僕のことを忘れていることがわかりました』

『彼女の両親は僕のことを覚えているのに、彼女は僕のことをすっかり忘れていたのです』

そんな内容だった。
僕と同じように、生活面で困ることはなく、過去の記憶が一切ないわけでもなく。
だけど恋人のことだけをすっかり忘れている。

僕に似ている。

そう思った。

49: 2016/06/22(水) 21:13:40 ID:HxZEQtoI
僕の場合は、彼女のことだ。
それがすっぽりと記憶から抜け落ちている。

いや、でも、と思う。

僕は僕の名前も忘れていた。

つまり、僕と彼女と、二人分のことを忘れている。

だけどこのブログの中の女の人は、自分のことは覚えていたようだ。
自分の両親のことは忘れていないようだ。

やっぱり関係ないのか。

50: 2016/06/22(水) 21:25:35 ID:HxZEQtoI
別に頭を打った訳でもない。
外傷もない。
だけどぽかんと記憶が抜け落ちる。

もしかしてあの女性が、天涯孤独のはずの僕を騙そうとしているのか、とも思った。
だけど現実問題、僕は僕の名前を忘れていた。
彼女の告げた名前と、僕の財布の中の保険証の名前が一致したから、病院は彼女を僕の親族として認めたのだ。

あれ?

そこで僕の思考は一旦停止する。

僕はどうやって、入院したんだ?

51: 2016/06/22(水) 21:31:05 ID:HxZEQtoI
外傷もないのに、なぜ病院にいたんだろう。
その辺の経緯を、医者に聞いただろうか。
聞いたような気もするし、聞いていない気もする。

上の空だったのかもしれない。

ちゃんともう一度、病院で、僕が入院した経緯を教えてもらいたい。
明日、昼のうちに、もう一度病院に行こう。

そう考えて、僕はこめかみのあたりをトントン、と二回指で叩いた。

忘れ物をしないようにするときの、僕の癖だった。

「忘れないための癖は覚えているのに、な」

なんだか笑えてきた。
やっぱり変な記憶喪失だ。

52: 2016/06/22(水) 21:39:24 ID:HxZEQtoI
その日の夕食は、ご飯にみそ汁、肉じゃがだった。
どれも出来合いの物ではなく、きちんと調理されたものだった。
彼女はわりに料理ができるらしい。

「うん、美味しい」

僕は素直にそう言った。
僕がもし、一人暮らしで、記憶を失っていたとしたら、こんな食事にありつけたとは思えない。

「……一人じゃなくて、よかった」

素直にそう言った。
彼女がそばにいてくれて、本当によかった。
彼女は嬉しそうに、微笑んだだけだった。

53: 2016/06/22(水) 21:49:31 ID:HxZEQtoI
「なにか、思い出した?」

「いいや、でも……」

「でも?」

「覚えていることもあるみたいだ、例えば……」

僕は漫画のこと、身の回りのこと、言葉のことをいろいろ、彼女に語った。
病院に入院した経緯を知りたくて、明日もう一度病院に行こうと考えていることも伝えた。

「それなら、明後日行こう」

そう彼女が言い出した。

「明後日なら、仕事が休みだから、一緒に行けるし」

僕としても異存なかったので、OKした。
確かに一人で行って、ここまで一人で帰ってくる自信がなかった。

54: 2016/06/22(水) 22:27:48 ID:HxZEQtoI
「き……ね、姉さんは……どういう経緯で病院に来たの?」

「違和感あるわね、その呼び方」

「……仕方ないじゃん……」

「……仕方ないね……ははっ」

そう笑って、彼女は病院に来た時のことを教えてくれた。

職場に病院から電話がかかってきたこと。
どうやら僕が記憶を失っているらしいこと。
身分証明はできても、本人がまったく埒が明かないので来てくれ、という話だったらしい。

「なんの冗談かと思ったわよ」

「ごめん」

「や、謝る必要はないけどね」

55: 2016/06/22(水) 22:35:36 ID:HxZEQtoI
でも、なぜ入院に至ったのかは要領を得なかったらしい。

救急の通報をした人曰く、

街中をふらふら歩いていて、突然叫んで、ぶっ倒れたらしい。

僕が。

僕が?

そんな恥ずかしいことがあったの?

「知らないわよ、又聞きの又聞きなんだから」

そりゃそうか。

56: 2016/06/22(水) 22:44:13 ID:HxZEQtoI
その時に、なにか大きなショックがあって、記憶がぶっ飛んだのだろうか。
大学のある日だったはずなのに、街中をふらふらしていて、急に、倒れて。

ううむ、その日、その時、僕になにが起こったのだろう?

「ショック」という言葉を聞いて、彼女の顔色がさっと青くなった、気がした。

「なにか思い当たる?」

「う、ううん、なんでもない」

彼女は少し動揺していた。
でも、その時彼女は働いていたはずだから、僕の遭遇した「ショック」のことなんて、知りもしないはずだ。
なにを考えたのだろう?

57: 2016/06/22(水) 22:52:32 ID:HxZEQtoI
なんとなく深く聞けず、それ以上その話をするのはやめることにした。

病院に行くのが一日延びたので、またやることがなくなった。

「明日はどうしよっかな」

そう言うと、さらさらと地図を書いてくれた。

「昔よく一緒に行ったお店、明日の昼にでも行ってみたらどう?」

「なんのお店?」

「お好み焼き」

ああ、それはいい。
お好み焼きは好きだ。
なんとなく、好きだった気がする。
明日やることが一つ決まり、少し安心した。

62: 2016/06/23(木) 20:54:50 ID:XCGKHQ/w
―――
――――――
―――――――――

また、変な夢をみた。

僕と、彼女が、二人並んでいる。

僕も彼女も、ほとんど裸だった。

その前に、神様が座っている。

昨日よりも、神様の小言が長い気がする。

まくしたてるように苦言を呈している。

やっぱり、なにを言っているのか、よくわからない。

―――――――――
――――――
―――

63: 2016/06/23(木) 21:03:10 ID:XCGKHQ/w
そのお好み焼きの店は、電車に乗って二駅ほどのところにあった。
病院よりも近かった。

昔よく行っていたということは、昔住んでいた家もこの近くにあるのだろうか。
一昨日電車に乗った時はなんにも感じなかったのに、そう思いつくと懐かしいような気がしないでもない。

古ぼけた看板、狭い入口、色の薄れたメニュー表、擦り切れたのぼり。

かろうじてなにを食べる店かはわかるが、彼女に薦められでもしなければ、きっと入らないだろう。

小学校が近くにあるらしく、校庭で遊ぶ子どもの声が聞こえてくる。

その声を背に受け、ためらいながら僕はゆっくりと暖簾をくぐった。

64: 2016/06/23(木) 21:11:48 ID:XCGKHQ/w
「はい、いらっしゃい」

威勢のいいおばちゃんの声が刺さる。

「あら、久しぶり」

ドキッとする。
この人は僕のことを知っている?

「あ、ど、どうも」

言いながら目を伏せる。
僕は覚えてないんです、すみません。
そうは言えない。

65: 2016/06/23(木) 21:28:35 ID:XCGKHQ/w
「一人? もう大学生だっけね?」

「あ、はい、えっと」

「今日は休みかい?」

「あ、はい、授業がなくて」

僕は一生懸命話を合わせながら嘘をつく。

「なににする?」

カウンター席に付きながら、メニューを見る。
まだなにも懐かしいと感じないが、よく来ていたというのは本当のようだ。
店員さんが僕をこうも覚えているというのは想定外だった。
焦りながらメニューを決める。

66: 2016/06/23(木) 22:07:50 ID:XCGKHQ/w
「あ、えっと、オムそば……」

僕は無意識に注文していた。
お好み焼き屋なのに、お好み焼きでないものを注文していた。

「あはは、やっぱりね」

店員のおばちゃんは笑って厨房に消えた。

「オムそば、ひとつー!」

『やっぱり』だって?

もしかして、僕はいつもこれを頼んでいたのだろうか。

無意識に、身体が覚えていたのだろうか。

いつものように、さらっと注文したのか?

67: 2016/06/23(木) 22:19:02 ID:XCGKHQ/w
オムそばの味は、僕を懐かしい気分にさせた。

ソースの味も、卵の柔らかさも、麺の量も。

確かにこれは、過去、食べたことのある味だ。
僕の好きだった味だ。

「懐かしいかい?」

僕の表情を見て、だろう。
おばちゃんがまた話しかけてきた。
オムそばの味を懐かしんでいる顔をしていただろうか。

「ええ、美味しいです」

無難に答えるしかない。
だけど、うまくやれば、少し情報が得られるかもしれない。

68: 2016/06/23(木) 22:25:53 ID:XCGKHQ/w
「僕が最後に来たの、いつぐらいでしたっけね?」

これは賭けだ。
この間来たじゃないか、なんて言われたら怪しまれる。
だけど彼女の言葉では、「昔よく行っていた店」だから、きっと子どもの頃のことだろう。

「さあてねえ、小学校高学年くらいまでだったかねえ」

「いっつもオムそばだったねえ」

「お姉ちゃんとお母さんと、よく来てたよ」

「あ、ごめんよ、お母さんのことは、ご不幸だったねえ」

……やはり母は亡くなっているようだ。
……事故か、病気か。
でもここで僕がそれを聞くのは怪しい。

「いえ……」

そう言って微笑むだけにした。

69: 2016/06/23(木) 22:48:08 ID:XCGKHQ/w
「お姉ちゃんは、どうしてるんだい?」

「働いてますよ」

「ああ、そうかい、そんな歳かい」

「花のOLです」

僕は彼女の受け売りでそう言った。
おばちゃんはころころと笑ってくれた。
『懐かしいねえ』と何度も言ってくれた。

70: 2016/06/23(木) 22:56:33 ID:XCGKHQ/w
「また来ます」

そう言って、店を後にした。

「いつでもおいで!」

おばちゃんは店の外まで見送ってくれた。
気持ちのいい店だった。
また来たい。
そう思った。
懐かしい、という気持ちもないではないが、『この店が気に入った』という気持ちの方が大きかった。

今度は彼女と一緒に来よう。
そう思った。

71: 2016/06/23(木) 23:04:01 ID:XCGKHQ/w
―――
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「お好み焼き屋のおばちゃん、僕のことを覚えていたよ」

彼女が帰ってくるなりそう言うと、驚いたようだった。

「わ、マジで!? もう10年くらい行ってないのにね」

「うん、小学校高学年くらいが最後かな、っておばちゃんも言ってた」

「どう? 変わってなかった? おばちゃんも味も」

「覚えてないって」

「あ、そっか」

彼女と普通に会話できるようになったが、やはりまだ違和感が大きい。
僕は正座で、彼女は土足で、話をしているような錯覚をする。
もちろんそんな差異を感じさせれば彼女が悲しむだろうから、僕は努めて平穏を演じているけれど。

72: 2016/06/23(木) 23:18:20 ID:XCGKHQ/w
「なに食べた?」

「……オムそば」

「あー、あー、そうだったそうだった、あんたはいつもそうだった」

「おばちゃんにも、『やっぱり』って言われたよ」

「覚えてたの?」

「無意識に選んでた」

「じゃあ、やっぱり心の奥底に、残ってるのかもね、記憶が」

77: 2016/06/24(金) 19:46:37 ID:YJtQOqCg
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変な夢がどんどん鮮明になっていく気がする。

僕と、彼女は、どんな罪を犯したのだろう。

神様はなぜ怒っているのだろう。

周りの天使や神官も、神妙な顔でうつむいている。

今日の小言も長い。

ふと下を見ると、僕のお腹には、やっぱりやけどの治療の痕があった。

手で撫でてみる。

夢とは思えない、ざらっとした嫌な感触が指に残った。

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78: 2016/06/24(金) 19:52:29 ID:YJtQOqCg
「実は最近、同じような症例が増えているようでね」

僕を担当してくれていた医者は、言いにくそうに、そう打ち明けてくれた。

「外的ショックもなく、スコンと特定の記憶が抜け落ちた人がね、いるんだよ」

僕に似ている。
ブログの人の事例にも似ている。

「ただね……いや、これはまだ関連付けるわけにはいかないか……」

さらに口を濁す。
気になって僕と彼女は問いただす。
関係ありそうな話は全部聞いておきたい。
僕も彼女も、このまま僕の記憶が戻らないと困るのだ。

79: 2016/06/24(金) 20:03:36 ID:YJtQOqCg
「どうもね、失うのは記憶だけじゃないようなんだ」

「……?」

「ああ、いや、言葉が足りないな」

ボリボリと頭を掻きむしり、医者はさらに言いにくそうに言葉を続けた。

「例えば、言葉をすっかり忘れてしまった人や、味覚を失った人、聴覚を失った人……」

「ちょちょちょ、それはちょっと違う病気なんじゃないですか?」

「僕もそう思うよ、だけどね、変に共通点があるんだ」

「……共通点?」

「それを確かめるためにも、今日は君の脳をもう一度スキャンさせてもらいたい」

80: 2016/06/24(金) 20:18:17 ID:YJtQOqCg
入院していたころ、スキャンは一度受けていたけど、その結果はよくわからなかった。
もう一度とって、どうなるというのだろう。

彼女は不安そうに僕を見ている。

僕も不安そうに彼女を見る。

なにか、掘り出してはいけない記憶が、そこにあるような気がする。

モヤモヤと不安が大きく渦巻く。

目を閉じてしまいたくなる。

81: 2016/06/24(金) 20:28:14 ID:YJtQOqCg
「……結果が出たよ」

「……やはり……同じ症例のようだ」

同じというのは、どういうことだろうか。

「脳にね、植物の芽のようなものができているんだ、ほらここ」

そ、それは、腫瘍とか、そういうことなのか!?

「最近増えている、『なにかを失った』人たちは、みなこのように脳に……」

信じられない、気持ち悪い、頭がぎゅうっと痛くなる。

目の奥が疼いている。

顔の表面がかゆい。

顔の表面がぬるい。

雨が降ってきたのかと錯覚したが、僕の脂汗だった。

82: 2016/06/24(金) 20:40:05 ID:YJtQOqCg
どこをどうやって帰ってきたか覚えていない。

いつの間にか狭いアパートの一室の、布団の上に寝かされていた。

疲れているだろうから、寝て休め、と、彼女に言われた。

入院はしなくていいのだろうか。

「とりあえず、経過観察、だって」

「日常生活は一応送れているから」

「でも定期的に、カウンセリングとスキャン、だってさ」

「とりあえず、今はゆっくり休みな」

83: 2016/06/24(金) 20:55:05 ID:YJtQOqCg
僕は涙を流していただろうか。

半狂乱になっていただろうか。

単なる記憶喪失で、いつか戻ると、そう思っていたのに。

なんだって? 言葉を忘れた? 味覚や聴覚を失った?

僕もそうなるのか?

脳の障害なのか?

脳の病気なのか?

治るのか?

医者も困惑していたのだから、珍しい症例なのだろう。

僕だって、そんな病気は聞いたことがない。

84: 2016/06/24(金) 21:15:29 ID:YJtQOqCg
ぐるぐる回る頭。

冷えない頭。

流れる涙。

悲しいのかどうかも、よくわからない。

ただ、彼女は気丈に僕の世話をしてくれた。

いつの間にか、眠りに落ちていた。

85: 2016/06/24(金) 21:29:44 ID:YJtQOqCg
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しばらく、抜け殻のように暮らした。

彼女の作るご飯を食べ、彼女を送り出す。

昼間は家でゴロゴロするか病院へ行くか、その辺をぶらぶらして過ごした。

掃除や洗濯もし、必要であれば買い物にも行った。

笑うことが減った。

彼女も、楽しそうに話すことが減った。

86: 2016/06/24(金) 21:42:07 ID:YJtQOqCg
記憶が戻る気配はなかった。

そのかわり、言葉は忘れなかったし、味覚や聴覚は無事だった。

怖くなって、時々一人で発声練習をしてみる。

「僕は喋れる、喋れる、喋れる……」

「柿の木、栗の木、カキクケコ。キツツキこつこつ、枯れケヤキ……」

しばらくやって、虚しくなって、ごろりと寝っ転がる。

87: 2016/06/24(金) 21:54:20 ID:YJtQOqCg
彼女の作るご飯は、僕を安心させた。

彼女と話す日々のくだらない話は、僕を和ませた。

彼女と過ごす毎日は、僕の心を温かくさせた。

僕にはなにもなかった。

なにもなかった僕に、たくさんのことを教えてくれたのは、いつも彼女だった。

恩人だった。

それだけだろうか?

かけがえのない人だった。

それで言葉は足りるだろうか?

僕の胸の内に、徐々に大きくなる感情があった。

90: 2016/06/25(土) 21:48:40 ID:pgUsGCNg
―――
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「僕に恋人はいなかったの?」

その質問に、彼女はびくっと顔を上げた。

「い、いなかったと思うけど」

探るような目。
まあそうか。
いたらいたで、とっくに連絡が来ているだろう。

もちろん記憶を失ってから、そういった女性からの連絡はない。

91: 2016/06/25(土) 21:54:07 ID:pgUsGCNg
「姉さんは?」

僕はご飯を口に運びながら、軽い口調で聞いてみた。
これまでの同居生活で、一度もそういう雰囲気は出さなかったので、多分いないと思う。

「いませんけど、なにか問題が?」

「ありません」

ちょっと怒ってる。
可愛い。
箸をちょっと噛んでいるのも、可愛い。

92: 2016/06/25(土) 22:00:57 ID:pgUsGCNg
僕の中で、少し自分の記憶についての諦めがついた。

この間、ニュースで見た、記憶喪失についての話題のせいだ。

『記憶喪失の疑いが持たれる芸能人が、増えています』

僕だけじゃなかった。
一般人だけじゃなかった。
他にもいたんだ。
それも、こんなにぞくぞくと。

93: 2016/06/25(土) 22:15:42 ID:pgUsGCNg
不明瞭な政治活動費の使い道についての、政治家の釈明報道。

ファンとのお泊りデートをすっぱ抜かれた、アイドルの釈明報道。

どちらも、「記憶にない」と答えていた。
誰もが、見苦しい悪あがきだと感じていただろう。
だけど、それは真実だった。

「記憶にない」ことが、どうやら本当らしいということだった。

政治家の金の使い道は確かに不誠実で、お泊りデートは確かに行われたようだったが。

94: 2016/06/25(土) 22:25:40 ID:pgUsGCNg
不倫した芸能人は、相手に奥さんがいることを知らなかったらしい。

本当に知らなかったのか、それともその記憶を失ったのか。

都合良くその記憶だけを?

それが、あり得るのではないか。

その記憶だけを、うまく消去することが、できるのではないか。

……僕みたいに。

95: 2016/06/25(土) 22:35:35 ID:pgUsGCNg
「姉さん、好きな男はいるの?」

「……」

「僕は、好きな女性はいなかったのかな?」

「知らないよ、自分の胸に聞いてみな」

つれない返事だ。
だけど、僕は自分のことを覚えていない。
だから彼女に聞くしかない。

「僕は、姉さんのことが好きだったんじゃないの?」

96: 2016/06/25(土) 22:45:23 ID:pgUsGCNg
バンッ!!

机が叩かれた。

彼女の顔色が蒼白になっている。

目を見開いて、机を見つめている。

でも、僕は冷静だった。

「その話はしないで」

彼女も、努めて冷静に、声を絞り出した。

97: 2016/06/25(土) 22:57:18 ID:pgUsGCNg
「僕はさ、姉さんのことが好きだったんだよね?」

「やめて」

「それとも、秘密にしていたのかな?」

「やめてってば! 大体記憶を失くしたくせに、なんで覚えてるのよ!?」

「覚えてないよ」

「じゃあなんで……」

「僕が今、姉さんのことを……好きになりかけてるからだよ……」

息を飲んだ音がした。

つばを飲み込む音がした。

僕は罪深いだろうか。

それとも、素直で正直だろうか。

98: 2016/06/25(土) 23:29:27 ID:pgUsGCNg
「悪い冗談ね、早く忘れて」

さっさと食卓を片付け始める。
僕の目を見てくれない。

「正直な気持ちを、言ったつもりなんだけど」

「それは胸の奥深くに仕舞っておくべき気持ちよ」

早口で言われた。

「決して誰にも、私にも、言うべきじゃなかったの」

「言うべきじゃなかった? それって……」

ハッとして、彼女は口をつぐんだ。
僕もだんだん、どうして記憶を失ったか、わかる気がしてきた。

100: 2016/06/25(土) 23:42:18 ID:pgUsGCNg
「僕は拒絶されたんだ、そうでしょ?」

「記憶を失う前に、今みたいに」

「やっぱり記憶を失う前の僕も、好きになっていたんだ」

「だけどきっとひどく拒絶されて」

「それがショックで」

バチンッ!!

ショックを受けた。
目の前が赤く染まった。
彼女に頬を引っ叩かれたんだってことはわかったけど、一瞬すべてが静止してしまって、動けなくなった。

101: 2016/06/25(土) 23:59:07 ID:pgUsGCNg
「ごめん、ごめん、ごめんね……」

「でもダメなの、私たちは」

「気持ちは嬉しいけど、ダメなの」

「それ以上言わないで、私のせいだってわかってる」

「記憶を失うほどのショックを与えたのは、私だって、わかってるの」

叩いた手のかたちはそのままで、彼女は涙を流して謝った。
堪えようとしても堪えられないらしい。
どんどん溢れてくる。
僕も、茫然と彼女の言葉に耳を傾けていた。
頬がピリピリと痛い。

102: 2016/06/26(日) 00:14:28 ID:PgWqWv1A
「ごめんね、あんたの気持ちには応えられない」



二度も彼女に拒絶させてしまった。
それは、きっと辛いことだろう。

その日、僕たちは背中を向けあって眠った。

明日、どんな顔をして謝ろう。

二度も好きになってしまった僕を、彼女は受け入れるだろうか。

腫物のように扱うだろうか。

103: 2016/06/26(日) 00:23:03 ID:PgWqWv1A
僕はきっと、望んで今のように記憶を捨てたんじゃないだろうか。
好きだったことを忘れられれば、辛い気持ちを忘れられるから。

ニュースで報道される芸能人や政治家のように。
忘れられれば、自分が楽だから。

でもそのかわり、彼女をまた傷つけてしまった。
苦しめてしまった。
それが僕にも、辛い。

明日、どんな顔をして謝ろう。

明日、どんな顔をして謝ろうか。

そればかり考えながら、僕は眠りに落ちていった。

彼女の寝息は、聞こえなかった。

110: 2016/06/27(月) 20:22:10 ID:6YY4feso
―――
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夢の中で神様が言った。

今度はちゃんと聞き取れた。

「もう、お前たちは十分に罰を受けただろう」

「あとは知らん。好きにするがよい」

そして立ち上がり、背を向けた。

周りの天使や神官も、神様についていく。

僕らは二人、取り残された。

真っ白な空間に。

喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。

許されたのか、見放されたのか。

わからない。

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111: 2016/06/27(月) 20:31:49 ID:6YY4feso
―――
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「おはよう」

僕は努めて明るい声で言った。

彼女の顔をまっすぐ見るのが怖かった。

彼女はゆっくりと瞼を開け、当惑の表情を浮かべ、こう言った。

「……誰?」

112: 2016/06/27(月) 20:41:13 ID:6YY4feso
困惑した。
悪い冗談だ。

「僕のこと、忘れたの?」

笑ってそう言ったが、少し声が震えた。
彼女はまだ笑わない。

「あれ……昨日……?」

眉をしかめる。
昨日のことを思い出そうとしているのだろうか。
酒なんて、昨日は飲んでいないのに。

「え……思い出せない……」

「あなた……誰? 私は……誰?」

僕は、もしかして僕も最初はこういう顔して困惑したのかな、と場違いなことを空想した。

彼女はまだ、笑わない。

113: 2016/06/27(月) 20:50:49 ID:6YY4feso
「……愛していたんだっけ?」

「っ!?」

その言葉には覚えがある。
彼女の口からそれがこぼれるとは思いもしなかったけれど。

「……愛されていたんだっけ?」

僕は言葉を失った。
なにも言えない。
彼女になんて言ってあげればいいのかわからない。

だから、そっと抱きしめた。

115: 2016/06/27(月) 21:04:54 ID:6YY4feso
少し体を固くした彼女だったが、やがておずおずと手を回してきた。

「大丈夫、僕がついてるから」

「心配しなくていいから」

「今までしてもらったこと、今度は僕がしてあげるから」

「だから、ね、心配しないで」

僕たちは、布団の上でしばらくそうしていた。
昨日まであんなに頼りがいのある人だったのに、今はこんなにも弱く脆い生き物に見える。
僕が、今度は、彼女の為にしてあげる番だ。

116: 2016/06/27(月) 21:14:50 ID:6YY4feso
「僕の名前は……」

僕は、彼女から教わった僕の名前を告げた。

それから、少しいいことを思いついた。

彼女に告げる、彼女の名前。

少し、嘘をついてみようかな、なんて考えたんだ。

「君の名前は、『アダム』だよ」なんてね。


★おしまい★

118: 2016/06/27(月) 21:44:50
おつおつ

119: 2016/06/27(月) 22:02:29
おつはむ
怖いけど暗くなく、ちょうどいい感じ

引用元: 男「愛していたんだっけ?」