1: 2008/07/26(土) 01:48:31.13 ID:fyCYkZhP0
今日も世界は平和である。

平和イコール退屈である、という論理は、俺としても分からなくはない。
だが今の俺には成り立たない論理だ。
ある日教室に呼び出されて宇宙人に襲撃されたり、タイムトラベルの挙句に銃型注射器を人に打ちこま

にゃならなくなったりする状況下はスリリングではあるが、
長らく続けばどんな飽き性の人間でも平穏な日常が恋しくなるもんだろう。
平和は世界を救うのだ。
平和がいかに貴重な日々であるか、傍若無人かつ天上天下唯我独尊なSOS団団長涼宮ハルヒを説き伏せ

てやりたいところだが、今は話を変えよう。

3: 2008/07/26(土) 01:51:19.76 ID:fyCYkZhP0
俺は今ボードゲームをしている。
麗らかな気候には似合いの微笑みフェイスを引っ提げた、副団長職古泉一樹を相手にである。
最近は閉鎖空間の出現もほとんど無くなり、神人狩バイトに借り出されることもないらしい。
こいつは何も言わないから俺としても推論でしかないが、恐らくハルヒの能力の大部分が消えつつある
のだろう。
近頃では、あいつのトンデモパワーが発揮されることもほとんどない。
朝比奈さんは3月に卒業し、それから涙ながらに未来へ帰って行った。
いつハルヒの力が収束するか分からず、そうなってからも朝比奈さんが此処に滞在し続けることは規定
違反になるとのことだ。
ハルヒには、朝比奈さんのご両親が海外へ転勤になり、朝比奈さんも一緒についていくことになった――と、
説明した。

5: 2008/07/26(土) 01:53:20.33 ID:fyCYkZhP0
ハルヒは愚図っていたが、朝比奈さんの吹っ切れたような瞳を見て、引き止めるのは諦めたようだった。
別れ難かったのは勿論で、俺も彼女を見送るのは勇気が要った。
最後まで事情を深くは知らされなかった鶴屋さんは空港でもずっと笑顔でいらっしゃったが、朝比奈さんの
姿がゲートの向こう側に見えなくなった途端、ハルヒと二人抱き合って大泣きしていたのが印象に残っている。
勘の良い御方だ、もしかしたらもう二度と彼女とは会えないことも、直感的に悟っていたのかもしれない。

8: 2008/07/26(土) 01:55:10.64 ID:fyCYkZhP0
ああ、話が逸れたな。
何はともあれそうやって、朝比奈さんのお茶が飲めなくなっちまった日常の哀しみに浸りつつ、ハルヒには相変
わらず扱き使われ、情報統合思念体からも完全に脱却した人間長門の読書風景に和み、
間近の受験を意識するようになりながらも部室でだらだらと古泉とボードゲームをしている本日。
俺が古泉にその話題を振っちまったのは、要するに、冒頭文に帰結する。
あまりに平和であったので、幾らかそういう緩い話を持ちかけてみても許されるような、そんな気がしたのだ。

「なあ、古泉。お前の好みのタイプってどんなんだ」

古泉は、俺の言葉に眼を見開いて固まった。

9: 2008/07/26(土) 01:56:59.98 ID:fyCYkZhP0
「あなたがそのような極めて個人的な関心事を僕に向けて下さるとは、驚きです」
「いいだろ、偶にはこういう話も」

悔しいが、古泉は所謂イケメンである。
俺よりは恋愛的な場面に出くわす機会も多かろう。
ラブレターを受け取ってる所にも遭遇したしな。
女なんて選り取り見取りと言わんばかりなモテっぷりだが、こいつが誰かと付き合っているなんて話は耳にし
たことがない。

10: 2008/07/26(土) 01:59:25.58 ID:fyCYkZhP0
週刊誌にこれでもかとスクープされるアイドルじみた立ち振る舞いからして、色恋沙汰の一つや二つぐらい噂
になってもよさそうだが、それもない。
一年前までなら分かる。神人狩に忙しくて付き合う暇もなかったんだろう。
だが、昨年以降はそれほど忙しそうでもなし、誰かと付き合うことも可能なはずだ。

「確かに。今なら可能でしょうね」
古泉はさらりと俺の疑惑を肯定し、
「ですが、現在はそのような気分に中々なれない……と心境を語ったら、納得して頂けますか?
実を言いますと、どなたかとお付き合いして頂くという行為そのものに、僕は現実感が得られないのですよ」

11: 2008/07/26(土) 02:01:29.37 ID:fyCYkZhP0
と、すまし顔に若干の…何ていえばいいんだろうね、憂いのようなものを混ぜて呟いた。
注釈しておくと、この間、ハルヒはPCに接続したヘッドホンで何かを聴いてるらしく此方の会話には口を挟ん
でこない。
長門は聞こえているかもしれないが、まあ長門だ。気にしなくてもいいだろう。

「現実感?」
「この四年間、色々とあったことはあなたもご存知でしょう。あなたもこの二年の間は当事者だったのですからね。
高校生活における恋愛模様というものは、ドラマにも多く題材として取り上げられるように青春のファクターとも
言うべき代物です。
そして僕は青春というものを僕自身からは程遠いものと認識していました。僕が体感できるものとは思っても見な
かったといいましょうか。何せ、余りに忙しい毎日でしたから」

12: 2008/07/26(土) 02:03:31.44 ID:fyCYkZhP0
よく「青春、恋愛、いいじゃないですか」と土地物件を薦める詐欺師のように何でもかんでも相槌を打って「青春
万歳」的なことを口にするこいつだが、
それなりに思うところがあってのことだったらしい。

「青春に憧れつつ、手に入らないだろうと思っていた…か」
「そう。ですから今は、それが手に入り掛けた喜びに胸一杯で、恋愛事にまで手を回そうという余力がない、という
のが本音でしょうか」
言い終えて、古泉は登頂に成功した登山家のような一層爽やかな笑みを見せる。
これでよろしいでしょうか、とばかりに話を畳もうとするな。俺はまだ納得してねえぞ。

13: 2008/07/26(土) 02:05:24.24 ID:fyCYkZhP0
「……嘘だな」

俺の一刀両断に、古泉は眼を眇めた。

「何故そう思われるのです?」
「勘だ」
「勘、ですか」

あとは根拠には薄いが、お前のその言い回しだな。お前は自分自身に関わりのある話題は、延々遠まわしにするか、即座
に終わらせようとするだろ?
今回は後者だと踏んだのさ。俺だって伊達にお前の下手糞な演説に付き合ってきた訳じゃないんだ。
それくらいの読み取りは出来るようになってるんだぜ。
俺の追及に手を大袈裟に広げてみせて、古泉は「参りました」と苦笑しながら頭を下げた。

14: 2008/07/26(土) 02:07:03.86 ID:fyCYkZhP0
「あなたには敵いませんね。まさかあなたに看破されるとは思いもよりませんでした」
「ってことは……」
「ええ、嘘です。まあ、実際お付き合いをしている方が居ないのは本当なんですが」
じゃあ、何だ。思いを寄せている相手は居る……そういうことか?
古泉は曖昧に微笑んだが、それ以上答える気はないらしい。
おい、そこでだんまりはなしだ。気になるだろう。

「そうは言われましても。どうあっても想いを明かせない相手というのはいるものですよ」
まるで他人事のように呟いた男は、何処か遠い目をして笑うのみだった。
それはもしかして、ハルヒのこと……なのか?
問い返したい気もしたが、ハルヒが部室内にいる状態で、んなことを声に出すのは躊躇われる。
俺はその場は問い質したい気持ちを抑え、口を噤んでおくことにした。
後日に、どうにかして洗いざらい吐かせてやろうと思い巡らせながらな。

15: 2008/07/26(土) 02:08:44.69 ID:fyCYkZhP0

そう、今思えば――
継がれたその一言に、俺はもっと注意を払うべきだったんだ。


「平和であれば、尚更に続けられない恋もあります」

古泉は言った。
古泉の諦観に満ちた声と、その眼差しの意味を、俺が知るのはまだ、先のことだ。

17: 2008/07/26(土) 02:11:23.19 ID:fyCYkZhP0
………
……


その日、雨が滲みた廊下を渡り、文芸部室を訪れると、珍しく自分が二番手の到着であることを知った。
彼や涼宮さんはHRの遅れか掃除当番、もしかしたら進路指導かもしれない。
彼らのいずれかを差し置いて僕が部室に来れるなんて、非常に稀なことだった。
二月に差し掛かろうとしているこの時期は、一段と冷え込みも厳しい。
だけど室内の据え置きストーブが熱を放射している。
部屋で凍える心配はしなくてもよさそうだ。

「こんにちは、長門さん。相変わらずお早いですね」

19: 2008/07/26(土) 02:13:43.18 ID:fyCYkZhP0
此処は彼女の城に等しい。
そして恐らく、「寒さに外的温度を調節する」ことを必要としない彼女が「ストーブを点けておいている」
意図を考えるとき、自然と僕の頬は緩むようにできている。
そこに、彼女の人らしさを、成長を形に見るからだ。
無表情に隠れてしまう気遣いは、視点を移せばこれ以上分かり易いこともない。
声を掛けられた長門さんは定位置で本を繰る手を一時止め、面を上げる。
目線はほんの数秒、僕の視線を捉え、――また、彼女の眼差しは書物の上へ滑るかと思いきや、
今回は些少、事情が違った。

21: 2008/07/26(土) 02:17:38.91 ID:fyCYkZhP0
二つの小宇宙を思わせる深い色の瞳は、僕が学生鞄を持つ手とは反対の、左腕に抱えられた白い箱へと向けられる。

「ああ、これは」

興味の対象を判別して、箱を彼女の傍に持ち寄った。

椅子に腰掛けての彼女の姿勢に合わせて屈み、中身を示すように蓋を外す。

「頂き物なんですが、新装開店したばかりの洋菓子店の、特製シュークリームだそうで」

機関の上司からの餞別だったが、特に不要な解説であったため、説明からは省く。

中にはサイズのやや大きめな、綺麗な黄金色をしたシューが五つ、整然と並んでいた。

アクセントに塗された砂糖が、高級感をしのばせる。

22: 2008/07/26(土) 02:20:22.24 ID:fyCYkZhP0
「丁度人数分ありましたから、お茶請けになるかと持参したんですよ。
お一ついかがでしょう」

「……」

長門さんは無言のうちに膝上のハードカバーを閉じ、差し出されたシュークリームを手に取った。

一口で食べきるには少し余るような大きさのそれを、ちまちまと、けれど驚嘆の速さで小さくしていき、
生クリームは零れる間もなく気が付いたら手元から消えている。

魔法のような食べっぷりだが、彼女の食事風景も随分と馴染み深いものになってしまった。

消化量の半端ない彼女が、淡々と、けれど膨大な量を栗鼠のように食べていく姿を眺めるのも楽しいものだ。

「美味しいですか?」

声はない、が、微かに首が上下に振られた。

反応があったことに地味に感動してしまう自分のお手軽さが少し悲しい。

23: 2008/07/26(土) 02:22:21.23 ID:fyCYkZhP0
すると少女の双眸がまた、此方に向いた。

微動だにしない瞳が心なしか、お腹を空かせて路頭に迷っている捨て犬のつぶらな黒瞳を連想させるというか、欲求に忠実な色が窺えるというか。

「……もう一つ、召し上がりますか?」

長門さんは僕の真意を問うように、顎を持ち上げた。

僕は少し笑っておくことにする。

「実は僕の方は既にひとつ、頂いていまして。一個分余分にあるんですよ。
僕はそれほど甘いものが得意ではありませんから、長門さんに食べて頂けると助かります」

「もらう」

やや虚言を入り混ぜた遠回りな勧め方になったが、こくり、と頷き一つと共に、手に取られたもう一個のシュークリームにほっとした。

機嫌がいいように見えるのは希望的観測からなる単なる錯覚だろうか。

提供した菓子に彼女の不快度指数ならぬ快度指数を僅かにも上げることが適ったなら、それ以上に望むこともない。

僕は少女が、淡々と二個目のシューを消化していく様を、座席に落ち着いてからもそっと眺めた。

25: 2008/07/26(土) 02:26:25.56 ID:fyCYkZhP0

けれど、その穏やかな時間は長くは続かなかった。

ポケットに入れて置いた携帯電話が鳴ったのだ。

こんな時刻に僕に連絡を寄越す相手など、一つしか思い浮かばない。

取り出してみれば、案の定、液晶画面には「機関」を示す人の名が示されていた。

此処最近は閉鎖空間の発生も殆どなく、何もかも順調と報告書に記す以外に仕事という仕事も無かった。

久方ぶりの閉鎖空間か、はたまた、何らかの事件が起きたのか……

不安が胸を掠めたが、其の場を即座に立ち上がって長門さんに一声かけ、廊下へ出た。

通話ボタンを押す。

28: 2008/07/26(土) 02:31:56.37 ID:fyCYkZhP0

「もしもし、古泉ですが」

『―――集会だ。すぐに本部に来い』

「何か、あったのですか。閉鎖空間ではなく?」

『閉鎖空間ではない。が、超能力者は全員収集だ。詳しい事情はまだ不明だが』

「……了解しました。すぐに向かいます」

何か起きたらしい。だが、何だろう?

朝比奈さんは三月に未来へ帰ることが確定している。未来人組織との諍いの線はない。

天蓋領域、及び他超能力機関との争いもノーだ。凡そのことは夏の事件で決着が着いている。


30: 2008/07/26(土) 02:37:33.40 ID:fyCYkZhP0

考えていても仕方が無い、か。

僕は部室にUターンし、長門さんに今日の部は欠席することを告げた。
涼宮さんも最近は落ち着いているし、僕一人が抜けても問題はないだろう。

「言い訳は、バイトで急病が入ったという事にしておいてください」

「……了解した」

「では、皆さんによろしく」

「古泉一樹」

呼び止められるとは、正直、思わなかった。
今日は思いもよらない事ばかり起きるなと思いながら、微笑んで振り返る。

「何ですか?」

「……美味しかった。ありがとう」

31: 2008/07/26(土) 02:42:17.51 ID:fyCYkZhP0

信じ難い一言だった。余程機嫌がいいのだろうか。
彼女が自ら「彼」に話し掛けることはあっても、僕に進んで謝礼を述べるなど、今までは考えられなかった。

「……どういたしまして」

声を掛け、名残惜しさを振り切って室を出る。
このままでは機関の急務も一時忘れて、この場に居ついてしまいそうだった。

貴重な、幸運の一日が最悪の一日になるなんてよくある話だというのに、僕はそれを完全に失念していたのだ。


校舎外に待機していた車に乗り込んで、僕は本部へ向かった。
そこで知らされることになる「未来」を、何一つ知らぬまま。

33: 2008/07/26(土) 02:47:32.44 ID:fyCYkZhP0
………
……



さて、どうしたものだろうか。

俺は授業中から思案し続け、結果的にハルヒに殴打され問い詰められるという愚を犯したが、
知らぬ存ぜぬで何とか切り抜けた。

実際、俺は別に何かを隠しているわけじゃないからハルヒに腹を探られようもない。
何かをしよう、と思ってはいるがな。

俺が延々考えていたのは、あのいけすかないポーカーフェイスエスパー野郎の腹をどうやって割らせるか。
この一点である。

俺だって普通なら、相手が秘めておきたい恋路を無理に暴こうなんて邪な考えは起こさないさ。
無理やり探り出すなんてデリカシーの欠片もないからな。

だが、あいつは「恋をしてる」事実そのものを隠蔽しようとしやがったのだ。

35: 2008/07/26(土) 02:51:30.13 ID:fyCYkZhP0

俺はこの二年の間に、古泉の奴とは結構話せる間柄だと思っていたのだ。

少なくとも超常現象関係はあいつにしか相談できない上、
それ以外、学業やら、考えたくも無いようなトラブルの数々のアドバイザーが古泉がやっていた。

男の友人で言えば……高校生活で最も話したのは、やはり古泉ということになるだろう。

だから、俺はそれなりに自分の心情をあいつに語る機会も多く持っていたし、
古泉からの愚痴や、非難や、そういったものも聞き続けていたつもりでいた。

だから、あいつが一つ恋心を抱え込んでるなら、
それに協力してやりたいなんて想いもないではなかったのだ。

37: 2008/07/26(土) 02:55:29.92 ID:fyCYkZhP0
それが、古泉の返答は「恋なんてしちゃいません」である。

俺が突っ込みを入れなかったら、それきり知らん振りをし続けるつもりでいたのだろう。

俺の憤懣は俺にしか分かるまいが、何となく、裏切られたような気がしたのは確かだ。

勝手な感情なのは重々承知さ。

だがあいつの恋情が誰かに向いてるなら、俺はあいつが躓いたときの相談窓口になってやりたいし、
あいつが青春の仕方が分からなくて迷ってるなら背中を押してやったって良い。

そう思っていた。

もしあいつの想い人がハルヒなら―――

それはそれで、あいつが俺に相談できないのも、想いを明かせないのも納得がいくんだが……。
それは本人が口を割らないことにはどうにも分からん。

39: 2008/07/26(土) 03:04:42.84 ID:fyCYkZhP0

……と、休み時間の間まであれこれ考えていて、気付いた。

英語の辞書がない。

ちなみに、次の授業が英語である。……参ったな。

「何、この時期に辞書忘れるって」

そう睨むなハルヒよ。自覚が足りねえって言うんだろ?

確か、部室に置き辞書があったよな。……取りに行くか。

「あと五分で始まるわよ。早く行ってきなさい!」

ハルヒの罵声を心地よく感じる自分は既に末期かもしれんと思いつつ、俺は教室を飛び出した。

42: 2008/07/26(土) 03:16:42.49 ID:fyCYkZhP0



老朽化の激しい廊下は、走るだけで床が軋む。

最近頓にボロさが増していってるような気がするが、せめて俺たちが卒業するまでは持ってくれよ。

念じながら全力疾走の甲斐あって残り3分。大急ぎで戻れば授業にはギリギリ間に合うだろう。

部室を開けて、さて目指すは本棚と壁際に眼をやったところで先客に気付いた。

………長門。


「どうしたんだ、長門。もうすぐ授業じゃないのか」

「……」

「長門?」

椅子に腰掛けた長門は、窓を見ていた。窓を見据えたきり此方の声に反応すらしない。

まさか、寝てるとか?

俺は長門の表情を覗き込むように回り込み、息を呑んだ。

そこにあったのは、虚ろな眼だった。
手が汗ばんだ。喉が急激に冷える。心臓がシェイクされるように激しく引っ繰り返った思いがした。


43: 2008/07/26(土) 03:25:23.93 ID:fyCYkZhP0

「おい、長門、……長門っ!」

「………」

「長門、返事してくれ、長門っ!!」


肩を掴んで思い切り揺さぶる。どうしちまったんだよ、おい!

必死に長門の名を連呼しながら、俺はいつかに一戦交えた『周防九曜』、あいつを相手取った時のような
底知れない畏怖を感じていた。

黒く塗り潰された瞳が、あの宇宙人を喚起させたのだ。

今の長門は思念体からは完全に独立していて、ほとんど人間に近くなっていると長門本人から聞かされている。

また敵襲があったのか、ハルヒの能力が消えちまいそうなこんな時節に?

俺の焦りが膨れ上がって、手におえないところにまで行き着きそうなレベルの境界線――


長門の瞳に生気が戻った。

46: 2008/07/26(土) 03:34:21.00 ID:fyCYkZhP0

「……長門、大丈夫なのか…?」

「………大丈夫」

――いつもの長門だ。

俺はジョーズから逃げ惑い命を取り留めた冒険者もかくやの安堵の溜息をつき、
脱力して、後ずさる間もなく床にへたり込んだ。

へたり込んだところで、授業開始を告知する軽快なチャイムの音。

……完璧に遅刻、いやこの場合は授業放棄になるのか?

どのみち、このまま「また後で」などと長門を残し、何事もなかったかのように授業に戻れるわけもない。



「何があったんだ、長門」

放った俺の声は、随分久方ぶりのシリアスだったと思う。

平和惚けするくらい、ここ最近は平穏そのものだったのだ。

48: 2008/07/26(土) 03:39:58.19 ID:fyCYkZhP0


俺の知らぬ所で、また何らかの情報生命体と競い合う事態が発生しているのか?

それとも長門の親玉が、ハルヒパワーが無くなることを恐れて何かしでかしたのか?

長門は、緊張しながら返答を待つ俺の眼をじっと見詰め、―――

「……何もない」

俺には余りに予想の外の外であった答えを、寄越した。




「何もない、って……」

そんなわけがないだろう。さっきのあれは、どう考えても常人がする眼じゃなかったぞ。

俺が引き下がらないのを見て取って、長門は沈黙の後、言葉を付け足す。

「ただ、……試しただけ」

試した?何をだ?

「……再接続」

52: 2008/07/26(土) 03:47:05.72 ID:fyCYkZhP0

再接続――

その単語を持ち出されれば、俺にも分かる。その件で色々と騒動もあったからな。

長門の親玉、情報統合思念体との連結解除。

あれは次々起こる大事件の内でも、トップクラスに難解だった。

最後には「ジョン・スミス」の切り札でごり押しをして通した、ハルヒ様様な結果に終わったのだが…。

あの一件で接続を切ったのは、長門自身の独立の意思の現われでもあったはずだ。

それが、今更になって何故、また接続をし直そうなんて思い立ったんだ?


「……わたし個人の力では、追いつかないから」

長門はぽつりと、何処か辛そうな色が滲んでいたのは俺の錯覚じゃなかったはずだ――、呟いた。

「だから、教えてくれ。長門、一体何の話をしてるんだ?」

「……まだ、言えない。望んでいないから」

53: 2008/07/26(土) 03:52:25.67 ID:fyCYkZhP0


誰が?何を?

問おうとしても、無駄だと分かった。

俺に決してその場凌ぎの嘘を言うことのない長門の眼は、はっきりと、回答を拒否していたからだ。


「わたしの行為も、わたしが勝手にやったこと。まだ、わたしが知っていることを、知らないから」

長門は最後に、俺に囁いた。

「わたしには何もできない。……あなたに事情が説明される日は、必ず来る。もうじき。
……それまで、待って」


正直、俺には何がなんだかさっぱり分からなかった。分からなかったのだが、

「……分かったよ」

長門がここまで言うんだ。信じるしか、ないんだろう。

54: 2008/07/26(土) 03:54:29.65 ID:fyCYkZhP0
ここで一旦打ち止める
支援くれた人ありがとう

少し書き溜めてみるよ
昼くらいにできたら投下したい

56: 2008/07/26(土) 04:08:20.85 ID:fyCYkZhP0

………
……



――寒気で眼が覚めると、僕はここが現実なのだ、と思い起こした。

朝焼けが眩しい。四年前から、一人暮らしを続けてきた「機関」提供の自宅。

カーテンレールが外れ、揉みくちゃになったカーテンが床に落ちている。
本棚の中に収めていた本も散在。壁に投げつけた時計は、盤面がひび割れている。もう動かないだろう。

足の踏み場もない、といった惨状を呈した部屋を、僕はぼんやりと一人眺めた。

眠れていたことが驚きだ。

どんな時でも、人は睡眠を忘れないものらしい。

超能力者として目覚めたあとも、そういえば不眠症なんかにかかることはなかった。

気が狂いそうなほど荒れた、と思っていたけれども……

意外に自分は図太い方だったのかもしれないな。



58: 2008/07/26(土) 04:15:37.46 ID:fyCYkZhP0



零れ出たのは自嘲だった。

もう、何も考えたくない。けれど、考えなければならない朝がやって来る。

今日は平日。
また淡々と授業をこなし、僕の愛しいSOS団の人々は放課後に部室に集うことだろう。

なにせ、朝比奈さんの卒業を控えている。
皆、一秒足りとて彼女と過ごせる時間を無駄にはしたくない筈だった。――それは僕も同じだ。

彼女の柔らかな手が淹れてくれる御茶で、胃を満たしたい。

別れがもうすぐならば尚更のこと。



物を避けながら、怠い足を引き摺って洗面所に立つ。

鏡に写る、恐ろしく腫れてしまった赤い眼は隠せそうにもない。

―――あんなに泣いたのは久し振りだった。
一人きりの時とはいえ、あんなに、感情を露出させたこと自体数年ぶりだったから当たり前だろうけれど。

僕は顔を水で何度か洗い、深呼吸を繰り返した。

59: 2008/07/26(土) 04:20:30.03 ID:fyCYkZhP0


「……笑えよ、古泉一樹」

鏡の自分に暗示をかける。

僕は楽しい。僕は満たされている。僕は幸せだ。

例えその掛け替えのない幸運の日々に、避けようのない終わりがやって来ようとも。

僕は何度だって、「古泉一樹」を選択する。

この四年余りの月日に後悔など決してない。


「お前は、笑うんだ。最後まで」


僕は古泉一樹。

涼宮さんのために、彼のために、長門さんのために、朝比奈さんのために微笑っている存在。

彼等の日常の内で、怯まず変わらず、常に笑顔を纏う者。


――笑っていよう、最期まで。

61: 2008/07/26(土) 04:33:27.99 ID:fyCYkZhP0


それは偶然だったのか、それとも天の計らいだったのか。

……其の日、決意を固めて訪れた部室には、やはり長門さんしか居なかった。


「こんにちは。近頃は、よく二人きりになりますね」

結局治り切らなかった眼は、目薬とメイクで誤魔化した。
それでも少し腫れて見えてしまうが、何もしないよりはマシだ。

いつもの調子で居ようと誓ったことを実行し、ごくごく普通の挨拶の後は将棋盤を取り出して長門さんに背を向ける。

さり気なく、気付かれぬように。

そう胸中に念押しをしながら、平常心を保とうと駒を並べる。

「……古泉一樹」

……見事に、無駄に終わった。

ひっそりと声を投げ掛けられて、心臓が縮み上がる。

「は、い……?」

長門さんは思念体からは既に離別している。現在は単体としての能力も薄れ、人に近しい個体であると聞いていた。
ならば、彼女の能力で僕のことが悟られることはないだろうと踏んでいたのだが……
見通しが甘かったろうか。

63: 2008/07/26(土) 04:39:59.44 ID:fyCYkZhP0
僕の内心の不安など素知らぬように、長門さんは言った。

「……ありがとう、と、言っていた」

「は」

「涼宮ハルヒと朝比奈みくる」

――何のことやら、と思い返して、「ああ」と思い当たった。

「昨日のシュークリームですか」

「……そう」

「いえ。喜んで頂けたなら何よりでしたよ。昨日、朝比奈さんの御茶を味わえなかったのは
聊か残念ではありましたが」

僕は微笑んだ。ぎこちなくはなかったと自負できる。

今の僕は演技でなく、心から嬉しいと感じて、笑うことができる。

――幸せなことじゃないか。

単純なことを長門さんの一言に気付かされ、僕はふかぶかと辞儀をしたい気分だった。

ささくれだった心から、棘が抜け落ちていくような気がした。

64: 2008/07/26(土) 04:45:59.89 ID:fyCYkZhP0


「長門さん、ありがとうございます」

「……何?」

「彼等の言葉を、僕に伝えて下さったでしょう」

長門さんの瞳が瞬く。理解できない事項を投げ掛けられた、というように。

「礼を述べられる理由がわからない」

「……そうですか?」

きっとすぐに分かるようになりますよ。あなたは、人になるのだから。

あなたに告げる事の出来ない言葉は、このまま最期まで仕舞っていこう。

僕はもう一度仮面ではない微笑みを、長門さんに向けた。


差し迫る残り時間のことは、余り考えないようにして。

85: 2008/07/26(土) 11:46:04.80 ID:CzlJiVud0

………
……


もう大丈夫と繰り返す長門を信用し、一旦は教室に戻った俺を待っていたのは、
ハルヒの阿修羅のような顔と、英語教師から繰り出された垂直落下式拳骨だった。

先生よ、これは体罰にはならないのか?

「愛のムチだ」

一言で俺の反論は却下された。ドナドナでも唄いたい気分だ。

授業が終わったら終わったでハルヒに吊り上げられ、
おかげで俺は「戻る途中でいきなり腹が痛くなって」と情けなさ満点の言い訳をクラス全員の前でするハメになった。

何なんだ、今日は厄日かと思わずにはいられない。

それにしても、だ。今や古泉の恋愛模様は考えてもどうでもいいランキング最上位に君臨した。

思考の優先事項を入れ替えねばなるまい。即ち、長門である。

長門はああ言ったし、俺も長門の言を全面的に信じてはいるが――

長門はどうも一人で色々と抱え込む傾向にあるし、俺たちに迷惑をかけまいとして何かを隠しているのかもしれない。

どうする、今回も長門に任せっきりでいいのか?
それで後悔はしないか、俺?

88: 2008/07/26(土) 11:57:02.90 ID:CzlJiVud0
古泉。

そうだ、古泉に聞いてみりゃいいんじゃないか?

長門のことを丸っきり直接話すのではなく、あくまで婉曲に。

最近は何か異常は見当たらないか、長門とかハルヒとかに変わった様子はないか、そういうことをさり気なく聴いてみればいい。

あいつなら適切な助言か、もしくは遠大な解説にもならん推論をくれることだろう。

水面下で何かが起きていたとしても、平々凡々の俺よりずっと機関は頼りになる。

未来人の朝比奈さんが帰ってしまった今は、他に訊ねる相手も思い浮かばない。

よし、そうと決まれば……


「ちょっとキョン、人の話を素通りとは良い度胸じゃない」

――俺の勢い込んだ決心を、出鼻から挫くのはご覧のとおり、涼宮ハルヒである。

89: 2008/07/26(土) 11:59:30.29 ID:CzlJiVud0

「なんだハルヒ、俺はちょっと忙しい」

「なんだ、じゃないわよ。あんた、今日は朝からずっと変じゃない。ぼーっと授業上の空で何か考えてたかと思えば、
授業には青ざめて戻ってくるし、意味わかんない。
何隠してんのよ!団長たるあたしには団員の背景事情まできっちり聞く権利ってもんがあるわ!」

人の話を聞かない度で言えば、お前が堂々のトップを飾るだろうよ。人の振りみて我が振り直せと思うが、
そんな気は露一つも起こさないのがハルヒのハルヒたる由縁といえよう。

だがまあ、俺もこの二年で学んださ。

ハルヒの唾を飛ばすような大声の裏に何があるかくらいはね。

「心配してくれてどうも。さっきのは、本当に腹を下しただけだ」

「しっ……!」

一本取ったり。

ぱくぱくと口を開けたハルヒは、顔面を紅潮させるかと思いきや怒りに眉を益々尖らせ、

「こんのバカキョン!分かってるなら弁えなさい!」

珍しく素直に、怒髪天を突きながらそう応じた。
……分かってますとも。

91: 2008/07/26(土) 12:01:57.03 ID:CzlJiVud0
「あーもう」

くしゃくしゃと黒髪を苛立たしげに掻き混ぜて、ハルヒが机に顔面を伏せる。

「妙な夢は見るし、あんたは変だし、今日は厄日かしら」

「……妙な夢?」

なんだ、引っかかるフレーズだな。

俺はハルヒの座席に顔面を寄せて、うー、と唸っているハルヒを覗き込む。

「夢」という単語に想起したのは思い出すのも恥ずかしきかな、一年の頃のアレ、灰色の閉鎖空間でのことだ。

古泉の様子を見るに、閉鎖空間自体が最近は発生してないみたいだったが……。

俺の反応が意外だったのか、ハルヒが面を上げる。

「どんな夢なんだ?」

「……別に、普通の夢よ」

お前が妙だって言ったんだろうが。

94: 2008/07/26(土) 12:05:34.14 ID:CzlJiVud0
ハルヒはむくれ顔で「よく憶えてない」と話し、

「ただ、何か、事故の風景を見てるの。小さい頃のあたしが」

「……」

「ぼんやりしててよく見えないのよ。だけど、凄い爆発音っていうか…火が吹き上がって…あれ、現実の風景だったのかしら?」


事故の夢、か。

望んで見たなら物騒な話だが、さすがにハルヒも望んで事故現場を夢見たいとは思わないだろう。
そういう常識はある奴だからな。

「最近、そういうニュースなんかを見たんじゃないのか?それが夢に投影されたのかもしれんぞ」

夢のメカニズムなんてさっぱり知らないが、現実の経験が夢に反映されることもある、
という話くらいなら聞いたことがある。

尿意を催したらトイレに行く夢を見る現象と同じだ。

「喩え話をもうちょっと考えなさいよ。品位が知れるのよ、そういうのは」

口をヘの字にしてハルヒが言う。煩いな、これ以上なく適切な例えだろうが。

ああ、勘違いなきように。こういう話は相手が遠慮のいらんハルヒだからするんであって、
間違っても他の不特定多数の女子の前では言わん。俺はセクハラで訴えられたくないからな。

96: 2008/07/26(土) 12:10:53.79 ID:CzlJiVud0
「ま、そういうのは気にしないのが一番だろ。すぐに忘れるさ」

「……そうね。そうかも」

ハルヒは言い聞かせるように、そう繰り返していた。

こいつのこの様子も気になるところだが、今は別件が先だ。

俺は授業の合間に手早くメールをしておくことにした。

無論、対古泉である。

用件は……「一緒に昼飯食わないか?」だとベタすぎるかね。

大体前触れもなくいきなりこれだと不審すぎるか。だけど上手い口上は思い浮かばんしな…

よくよく考えてみれば、俺から古泉を呼び出す行為自体が珍しい。

それを飯を食いに行こうぜなんて普通の友人付き合いのような振りをするのも初めてときているのだ。

やはり、止めておこう。本題は別にあることを明らかにしておくべきだな。

「話がある。ついでに一緒に昼飯食わないか?」

これでいいだろう。悩んだ挙句本文はカラ送信する。

97: 2008/07/26(土) 12:13:31.90 ID:CzlJiVud0

さすがに部室、長門の目前で長門にナニがあった、という話題を持ち出すのは憚られるしな。

長門は「待って」と言っていたが、俺自身待つだけは性に合わん。

全て長門に丸投げで、取り返しがつかなくなっていたなんて事態だけはもう勘弁だ。

何度も言うが長門を信頼してないからじゃない、こればかりは俺の心の問題である。



返信はすぐに来た。

「珍しいこともあるものです。昼の件は了解しました。ご一緒しましょう」

相変わらず御丁寧な返信だ。

第一段階はクリア、と俺は心中につぶやいた。

あとは昼を待つとしよう。そこで望む情報が得られるかはまだ分からんがね。

100: 2008/07/26(土) 12:21:52.90 ID:n9UfIo+k0
………
……



『古泉。残念なお報せよ』

この半年の間に、森さんの声は悲痛を通り越して、義務的なものへと移り変わっていた。

無理もないだろう。森さんは超能力者専属のサポート係だった。

機関所属の超能力者たちを取り纏め、指示する役割を負っていたのが彼女だ。

そんな彼女が半年前、己の無力さに歯噛みし、悔し涙を流していた姿は瞼の裏に焼きついている。

あの気丈だった彼女が……

僕は現実を受け入れたけれど、それは彼女の挙動に起因するところも大きい。

もう駄目なのだ、という意識は、仲間達の間に蔓延していった。

誰もそんな諦めを望んでいたわけでは、なかったのに。


「そうですか。……これで、三人目ですね」

101: 2008/07/26(土) 12:26:51.92 ID:n9UfIo+k0

『少しずつペースが上がってきているみたい。それから、記憶の再現もね。

――あなた、どれくらい思い出した?』

「まだ片鱗ですが、徐々に思い出してきています。事実と記憶の一致を、喜びこそすれこれほど……」

ごく自然に零れそうになる弱音を、『いいわ、吐き出しなさい』と森さんは繋げた。

僕は震えながら息を吸う。

「……これほど、恐怖として捉える日が来るとは、思いませんでした」

『そう。……古泉、私思うんだけれど、あなたはきっと最期になるわ』

「それは、僕が涼宮さんの傍にいるからですか」

『そうよ。あなたもある種、我々とは違った【選ばれた者】なのだろうから』

僕は彼女の仮説に、賛同することも否定することもできなかった。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

分かっているのは、変化のない一つの終わりが来るということだけだ。

102: 2008/07/26(土) 12:35:14.50 ID:n9UfIo+k0

『そうそう。古泉、少し年長者の私からアドバイスよ』

森さんは、義務口調を和らげて、長年連れ添った姉のように僕を宥めすかす。

『恋も青春も今のうちしかできないわ。後悔するなら、やってしまいなさい』

「……森さん」

『想い人がいるなら尚更ね。傍で想いを育むのも、きっと恋愛のカタチなのよ』

想い人、か。

こうなってしまった以上、一生心を打ち明ける機会はないだろうけれども。

そう、想うだけならきっと自由なのだ。

『残り半年、【機関】はあなたを感情面で束縛しない。あなたの自由はあなたのものになるわ。
いいわね、古泉。終わりまで挫けないで……』

「はい。ありがとうございます」

想いは自由。

僕は笑みの底に、暫く想いを溜め込むための入れ物を用意した。

あふれる前に終わるだろうけれど、それまでSOS団の副団長として、彼らを見守っていこう。

それが僕の選択だ。

103: 2008/07/26(土) 12:40:30.17 ID:n9UfIo+k0

………
……


待ちに待った昼休みが到来し、俺はそそくさと弁当箱を持って教室を出た。

「何処行くの?」

「ああ、先約があってだな」

先約というか、俺が無理やり取り付けた約束事だが。

ハルヒは「ま、いーわ」と不機嫌面ではあったが俺を止めることはなかった。

「こそこそしてる理由は、後で絶対吐いて貰うからね」

奇しくも俺が古泉に対して思い描いた台詞と、似たような台詞をハルヒは俺に吐く。

ああ、そうだな。全部が終わったらな。

ハルヒの力が完全になくなった日には、話すことができる日も来るだろう。

七夕の日のことや、どんな奇奇怪怪な出来事がお前を中心に回っていたかってことを。

俺は片手を挙げてハルヒの元を去り、指定しておいた前庭ベンチへと向かった。

105: 2008/07/26(土) 12:47:22.96 ID:n9UfIo+k0

そこは古泉が「僕、実は超能力者なんです」と愛想笑顔で俺に電波発言をした場所である。

あの頃から良くも悪くも、随分と変わったもんだ。

ハルヒも、俺も。長門や古泉や朝比奈さんも――

まだ人の入りの少ないそこでつらつらと回想しながら待機していると、背後から影が差した。

「お待たせしました。購買に立ち寄ったのですが、混雑に手間取ってしまいまして」

別に構わん。昼休み開始から五分と経っていないしな。

木造ベンチに腰掛けて、半年前も一年前も二年前からも、内面は変わっても中身は変わらぬスマイリーぶりの
古泉のハンサム顔を眺めながら、俺は箸を手に取った。

いただきます、と軽く合掌。

「それで、ご用件の方を先にお伺いしておきたいのですが」

飯をぱくつき始めた俺を見やり、穏便に古泉が切り出してくる。

慌てはしない。事前に前振りは用意しておいたからな。

106: 2008/07/26(土) 12:53:33.41 ID:n9UfIo+k0


「昨日の話だ」

「昨日……」

古泉がふと陰るような表情になったのを、俺は見逃さなかった。一瞬だったから、大抵の奴は見過ごすだろう。

なんだなんだ、えらく深刻な気配だ。やはり、何かあるのか?

「昨日の、僕の想い人が誰か、というお話ですか」

「それだ。お前が中途半端にしか答えないせいで、俺は考え過ぎて昨晩ろくに眠れなかった。このクマを見ろ」

「はあ……。しかし、お答えする気はないと僕はお話しませんでしたかね」

「知るか。俺の安眠妨害をした責任はお前なんだ。少しは償え」

こじ付けもここまで来ると天晴れだ。良心は痛むが仕方ない。

「別にお前に話せって言ってるわけじゃないさ。ただ、例えばそう、お前が部内の誰かにどうこうって気持ちがあるなら、
俺も心境整理をつけておきたいっていうだけの話なんだ」

112: 2008/07/26(土) 13:04:59.40 ID:n9UfIo+k0

俺はすっと外界の空気を吸い込み、心臓を落ち着かせた。

さて、ここからが本番だ。

「最近、ハルヒも長門も何か妙なんだ。お前は気づいてないかもしれんが、様子がおかしいっていうかさ。
もしかしたら、お前が言ってた秘めておきたい気持ち云々と、関わりがあるんじゃないか?
――そんな突飛なところにまで結びつけちまうくらい、俺は悩んでいる」

多少強引な気もするが、今は形振り構ってもいられん。

これで一応長門について古泉に訊ねる題目は立った筈だ。

「古泉、お前自称ハルヒの精神分析家だし、長門についても心得があるだろ?
何か……気づいたことはないのか?」

お前、ハルヒが好きなんじゃないのか、とは言い出せなかった。

それを訊ねることも今回呼び出した理由には含めていたんだけどな。

臆病風に吹かれちまった。……それは、後に置いておこう。

今は、長門の件についてだ。こいつの目線で長門に何の異常もなかったというなら、
本当に俺の思い過ごしか、はたまた昨日中に長門に何かあったということである。

古泉がどう応じるかと俺が注視する中、

俺は、古泉の顔色に驚かされることになった。

116: 2008/07/26(土) 13:45:44.97 ID:n9UfIo+k0

「長門さんと涼宮さんの様子がおかしい、ですか。あなたに今お話されるまで、僕の方は全く気が付いていませんでした。
もし何らかの理由付けを必要として居られたのなら、お力にはなれそうもありません。
お役に立てず申し訳ありませんが」

あなたがそう深刻な調子でお話し下さったということは、真実なのでしょう。
原因を究明したいところですが、現在僕には手持ちの情報がろくに無く……

ぺらぺらと喋り続ける古泉は、凍りついた俺の様子に空気を緩和させようと励んでいるようだが、
無為そのものである。

なにせ、俺はその古泉の、素に間違いないであろう『驚愕の表情』なんてものを、初めて見ちまったのだから。


俺の厳しい視線の意図に気付いて、口舌を垂れ流していた古泉は、ようやく口を閉ざした。

どうやら、観念したらしい。

「……僕は、あなたの前では失策ばかりです。
はは。もしかして、人を油断させる超能力でもお持ちなんですか?」

俺は平民生まれの平民育ちの普通代表だ。大体んな能力があったら、何度も殺されそうな事態に陥りやしねえよ。

117: 2008/07/26(土) 13:52:17.73 ID:n9UfIo+k0
「それは、ごもっともですね」

古泉は、俺の眼を見、意識して微笑を作ったようだった。

「お前、心当たりがあるんだな?ハルヒと、長門の変化に」

「それは分かりません。僕の杞憂、考え違いということも有り得ますのでね。確実なことは言えませんが……。
殊に、長門さん。彼女は、もしかしたら気付いたのかもしれない」

何にだ?

「……」

また黙りこくる古泉に、俺はムカッ腹が立った。

紛らわしい主語目的語抜きの掛け合い相手は、長門だけで十分だ。

お前みたいに趣味みたいに長文解説を連ね続ける奴が分かりにくい物言いをするんじゃあ、
さすがの俺も限度を越えるぜ。

「すみません。……そうですね。そろそろ、潮時だったんでしょうか」

119: 2008/07/26(土) 13:55:58.53 ID:n9UfIo+k0


もう隠すのも限界ならば、お話しましょう、……と。

ようよう腹を括ったらしい古泉が、伏し目がちに笑ってみせた。

そして、俺の許容範囲を軽々と飛び越えた、まるで冗談のような発言をした。


「あと、暫くなんです。


……僕が、この世から消えるまで」



120: 2008/07/26(土) 14:03:59.86 ID:n9UfIo+k0

何の三流ジョークだ。

もうちょっと笑えるのにしろよ。俺を驚かせたいならな。

それかもっと現実味を帯びた感じにしてみろ。病の進行が酷くて余命三ヶ月ですとか、医学用語を散りばめてさ。

それも悪趣味な冗談には間違いないが、もうじき消えるなんて曖昧表現よりは、リアリティってもんがあるだろ。

お前がやりそうな性質の悪い、そう、悪ふざけだ。だから撤回しろよ。意味が分からんぞ。


……俺は、笑おうとして笑えなかった。

古泉は、デフォルトの微笑みから全くブレていない。さっきの素みたいな表情からは嘘みたいだ。

「からかいました」なんて余裕の、腹立たしい声を文末に付け加える、

それを幾ら待ってみても、古泉は何一つ俺に返しやしなかった。


「なんだよ、それ……」

どういうことだよ、と訊ねようとする声が掠れる。

古泉は本気だ。

122: 2008/07/26(土) 14:15:39.53 ID:n9UfIo+k0

本気で、言っている。


「……始まりは、四年前でした」

世間話でも始めるかのようだ。古泉は微風に前髪をぴんと弾いて、いつもの仕草で、手持ちのコーヒー
に口をつけた。

「僕らは超能力者として目覚めた。僕らは機関に集い、救われた。戦い続ける宿命を負わされ……それでも、
苦しさの中に僕らは生き甲斐を見出した。僕らの神、涼宮ハルヒに選ばれたからこそ」

俺は疑う。こいつはどうして、

「僕らは涼宮さんのために戦った。僕らには、身寄りがなかった……。帰る場所も。機関が僕らの『家』だった」

どうしてこんなに、落ち着いていやがるのか。

「最近になってやっと少しずつ、思い出しました。超能力者となる以前に、一部分、欠けていた記憶のことを。
まあ、この話は後に回しましょう。――前置きが長いのは僕の悪い癖ですね。

僕らが同僚の異変を察知したのは、涼宮さんの超能力が確実に減少傾向にあると判明した、
……半年前のことでした」

126: 2008/07/26(土) 14:26:58.52 ID:n9UfIo+k0

半年と少し前……。

朝比奈さんが未来に帰ることが決まって、てんやわんやしていた頃か。

長門は思念体からの離脱を果たし、他の次元生物の戦争も終了して、平穏が戻った頃の話だろう。

聞くに、その頃に機関はどうにも不吉な現象に見舞われていたようだった。

余り、聞きたくない気もするが……先延ばしにするわけにもいかないだろう。

「同僚ってことは、超能力者か?」

「……そうです。仲間の一人が、突如、消失しました」

俺は咄嗟に、その台詞の意を飲み込めなかった。

「消失?」

「僕らが閉鎖空間で戦う際に転じる、赤い光。あなたもご存知ですね?
話によれば、その同輩は急激に人としての姿が保てなくなり、赤い光と化した後、
蝋燭を吹き消すように彼は消えてしまったらしいのです。

閉鎖空間ではなく、この現実世界においてね」


132: 2008/07/26(土) 14:46:30.07 ID:n9UfIo+k0

……最後の爆弾は、刺激が強過ぎた。

すでにオーバーヒートした頭を、更に熱する暴挙をかます古泉も、

本当のところは投げやりなのかもしれないと、俺は思った。

165: 2008/07/26(土) 20:09:07.36 ID:0HIuE5330
愕然とした。人間が消失?何故だ?

「おい、待てよ。超能力者っていったって基本は人間だろ。
ハルヒが閉鎖空間を作らなくなったなら、その超能力自体は不要物になるかもしれん。
だがそれは、人間からその「超能力」を剥奪すればそれで済む話のはずだ。
宇宙人、未来人は残存しているのに、超能力者だけ消滅するなんて、そんな馬鹿な話が……」

「其処は僕も疑問だったんですが……消滅は一人に留まらず、また一人、一人と、人数を重ねていったんです。
機関の超能力者はもうパニックでしたよ。いつ自分の番が回ってくるのか分かりませんでしたから。

消えていく同僚の統計を取るうちに、どうやら古参の超能力者から消えていくらしい、ということは
データで裏づけが取れました」

おい、それってまさか……。

俺に変わり映えのない微笑を向けたまま、古泉は「そうです」と頷く。

「僕らは超能力を行使する度に、自分の命を削っていたんです。それも――

涼宮さんから与えられた、かりそめの命をね」

166: 2008/07/26(土) 20:10:12.19 ID:0HIuE5330


古泉の何ら普段と違いの見出せない笑みに、俺は、やっと古泉の真意が分かった気がした。

自分がもうすぐ消えるかもしれないのに、何でもないように笑っていられる理由。

こいつはもう全部を諦め、受け入れ、終わらせる覚悟でいるのだ。

……最後の爆弾は、刺激が強過ぎた。

すでにオーバーヒートした頭を、更に熱する暴挙をかます古泉も、

本当のところは投げやりなのかもしれないと、俺は思った。



どういうことだ、と発そうとした瞬間に、狙い澄ましたように予鈴が鳴り響いた。

気付けば、周囲に居た人だかりも居なくなっている。

授業前だ、昼食に野外に出て屯していた連中も皆引き上げたらしい。

話し込んでいたせいか、周囲にまでさっぱり眼が行っていなかった。

167: 2008/07/26(土) 20:11:44.47 ID:0HIuE5330

「ああ、……もう昼休みが終わりますね。教室に戻った方がいいでしょう」

さっきまで語っていたこと全部を、今にも「実は、嘘でした」と手振りつきで種明かししてくれるんじゃないかと、
そんな都合のいいことを期待しちまいそうな、恒常的古泉一樹。

こんな風に半年前からずっと振舞ってきたんなら、気付けないのも道理だ。……気付けるわけがない。

感情の一切をこいつは仮面の下に隠してきたんだ。

絶望も、悲哀も、塗りこめてきたのだろう。
俺たちに気付かせないため、そんな馬鹿馬鹿しい一点のためだけに。

「どうしますか、僕はこの会談を放課後に回しても構いません」

ふざけてんのかこいつは。

「授業なんざどうでもいい…!続行だ。『かりそめ』ってのは、一体何のことだ」

168: 2008/07/26(土) 20:12:18.18 ID:0HIuE5330
この期に及んでまだ逃げを打とうとする古泉を、俺は怒鳴りつけた。

かりそめの命。

まるで――「本物の命」が存在していないかのような口振りじゃないか。

古泉は何事もなかったように颯爽と立ち上がり静かに微笑んでいる。

憎らしいくらいに平素の古泉だ。

媚びず悪びれず、人畜無害なスマイルを貼り付けたSOS団副団長。

「かりそめは、かりそめに過ぎません。

僕らが無に帰すのは、極々自然な世界の理故のことなのです。
そう、寧ろ今までが摂理に反していた状態であったといっていい。僕らは元に戻るだけなんですよ」

「だから、そいつはどういう――」

「涼宮さんの能力で繋ぎとめられた『命』……こう言えば分かりますか?」

古泉は笑っている。

「僕らは、死んでいる人間なんです」

169: 2008/07/26(土) 20:13:41.27 ID:0HIuE5330
………
……



季節は疾風のように巡り過ぎていった。
引き止めておきたい時間ほど、早く流れていってしまう。

求め続けた平穏な日常が、僕の日常の終わりに訪れるなんて、なんていう皮肉だろうか。

僕は元々、平然を装うことに慣れていた。機関に従属する者としてドラマツルギーは頭に叩き込んできている。

表層の演技ならプロフェッショナルとまでは行かなくとも、多くの聴衆を騙し果せる自信はあった。

挫けそうになっても、僕はその獲得した演技で笑っていられる。

心から楽しいと思えば、演技でなく、自然と笑うことだってできる。


それに突然に居なくなるとしても、まだそれまで時間はあるのだ。

僕は無為な時間を過ごす訳じゃない。

居場所をくれた楽しい人達と一緒に、まだもう暫くは一緒にいられる。

せめて彼らの傍らでは、最後まで気付かれることなく笑って居たいと願った。

172: 2008/07/26(土) 20:14:52.70 ID:0HIuE5330


本当は、……必死に考えないようにしていたけれど、怖かった。

少しずつ蘇る記憶、「爆撃」が、「炎」が、「叫び声」が――
思い出すたびに消滅が近付いていることをはっきり自覚して、僕はみっともなくベッドに縮こまり、
震え上がっていた。

だけど、僕は古泉一樹だから。

被り続けた仮面は既に僕自身になっていて、僕はもう、その他のものにはなれないのだ。





「なあ、古泉。お前の好みのタイプってどんなんだ」

……正直、彼の投げ掛けは、そんな内で大いに不意を突かれた一言だったと言っていい。

「あなたがそのような極めて個人的な関心事を僕に向けて下さるとは、驚きです」

「いいだろ、偶にはこういう話も」

頬杖を付きながら、特に深い意味はなさそうに駒を動かしている彼に、僕は胸を撫で下ろした。

妙に敏い彼だけれど、僕のことに関して特別何かに勘付いたという訳ではないらしい。
単なる興味本位、暇潰しの話題なのだろう。

173: 2008/07/26(土) 20:16:48.51 ID:0HIuE5330
乗るか反るかと考えてみたが僕の答えは決まっていた。
……好意の対象なら、存在する。

明確なタイプなんかで分類することのできない、人になりかけた少女がそこにいる。
けれど、

「ですから今は、それが手に入り掛けた喜びに胸一杯で、恋愛事にまで手を回そうという余力がない、という
のが本音でしょうか」

こんな胸の内を、曝け出して何になるというのだろう?

もうじき終わってしまうことが、変更し得ない前提として確かにあるというのに。
僕は小心者かもしれないが、誰かを無駄に傷つけるようなことは決してしたくない。

僕が彼女に告白して、彼女はどんな感情を僕に対して持つかを考えてみればわかる。

……どう転んでも、彼女にとって楽しい思い出には、ならないだろう。



その後、嘘だということを看破された僕だったが、本来ならそれでも僕は彼を騙し抜くべきだった。
最後まではぐらかす様なスタンスを取るべきだった。

けれど、……思わず本音に近しい一言を、漏らしてしまった。

長門さんの視線を、背に感じたからだ。何かを感じ取ったような、微弱な視線を。

174: 2008/07/26(土) 20:17:46.27 ID:0HIuE5330


「彼」に長門さんへの感情を悟られていることは百パーセントないと、僕は自信を持って言える。

「彼」が在室の際には、僕は徹底して長門さんに向ける視線を廃していた。話題さえも調整した。

すべては気取られないための予防線だった。

万が一のことがあろうと、笑って誤魔化しきれるラインに留めておいたのだ。

だが、僕自らが、それを壊すような真似をしてしまった。

…理由は、わかっている。





その晩、機関からの定時連絡に、僕は眼を伏せた。

超能力者二名、同時消失を確認。涼宮ハルヒの能力の著しい減退を記録。

哀悼の間はなさそうだ。

――「機関」に現存する超能力者は、あとひとりだった。


188: 2008/07/26(土) 21:43:22.33 ID:0HIuE5330

………
……



俺は二の句が継げなかった。


「まだ記憶は途切れ途切れなので、曖昧なんですがね。近頃になってやっと思い出してきました。
超能力者として目覚める以前、僕らは……何かの、事故に遭っているんです」

無性に喉が渇いた。カラカラだ。
今からでいい、誰かドッキリの札を持って来いよ。誰が画策した嘘でも今なら拳一発で許してやるからさ。
誰か、嘘だと言ってくれ。


「思うに、僕らはそこで一度死んだのです。
超能力者とは、つまり涼宮さんの慈悲によって再度命を与えられた人間達なんです。
彼女の能力が喪われたなら、僕たちの寿命も同時に尽きる……」

それ以上は聞きたくなかった。叫びだして古泉の淡々とした解説を中断させたかった。

ああそうさ、認めたくない。子供じみた我侭だ。

平穏な日常、んなことをモノローグに語っていた昨日が懐かしくあり、
同時にそんな惚けたことを古泉の胸中も知らずに考えていた自分を張り飛ばしたかった。

189: 2008/07/26(土) 21:44:32.99 ID:0HIuE5330
何が平和だ。少なくとも古泉にとってこの半年間は地獄だったに違いない。
自分がいつ消えるか分からない恐怖に怯えながら、暮らし続けてきたんだからな。

「……ですから、気に病まないでください」

俺に気遣いながら微笑んだ古泉のそれは、俺には、まるで別人のものに見えた。
俺の見る限り、こんな風にこいつが笑った場面に遭遇したことはない。

困ったように眉を下げ、小皺の寄った目尻に、女性的とも言えそうな柔和な笑顔。

まさか、……これがお前の素の笑み、なのか?

愕然とする俺に、古泉がふふ、と言葉を続ける。

「僕は既に死んでいた。死んでいたものが黄泉に帰るだけです。
SOS団員として、束の間ではあれど、かけがえのない時を享受できた。感謝しています。
涼宮さんにも、あなたにも」

「古泉……」

「お話を聞いて下さって、ありがとうございました。
……少々煮詰っていましたので、幾らか楽になりましたよ」

「……っ…!」

191: 2008/07/26(土) 21:46:09.87 ID:0HIuE5330

掴み上げてこいつを殴れたら、どんなにかスッキリするだろうと思ったね。
なんて馬鹿野郎だ。
俺もお前も。


「なんで、…なんでだ。なんでもっと早く言わねぇんだよ!!」

張り上げた声がガキくさいのはわかってる。青臭いと笑うなら笑えばいいさ。

それでも俺は叫ばずにはいられなかったんだ。

悔しいなんてもんじゃなかった。
歯噛みしようが足りない、こんなのは憤りと虚しさは長門が世界改変した冬の日以来だ。

どうして言わない、古泉。

「半年前にはもう、消えるのが分かってた?
……お前、俺たちの前から、何も言わずに消えちまうつもりでいたのかよ……!」

こいつなりに仲間を想って、苦渋の決断だったんだろうことはわかるさ。
だけど、こいつは結局、締めのところで俺たちを信じちゃいなかったんだ。

相談してくれたっていいだろ。
辛いなら俺にでも長門にでも、当時は朝比奈さんだっていた、ぶちまければ良かったんだ。
こんなときまで優等生面して嫌な顔一つ見せないイエスマンでいるなんて、アホか。

193: 2008/07/26(土) 21:55:29.81 ID:0HIuE5330
古泉は微笑を剥がしはしなかった。もう何を言われるも最初から分かっていたと、
それを認識し切った上で、今の今まで黙っていたのだと……

古泉の笑みは、そう無言のうちに語っていた。

だから恨んでくれるなと、僕は何一つ後悔はしていないと、古泉は笑っていた。

俺が何をしようが古泉の意思は揺るぎはしないんだろう。

分かっちまったんだ。こいつはこういう奴なんだってことが。

「最後くらい、弱気な振りでも見せれば、俺の溜飲も下がるって腹の底じゃ計算してるんだろうに」

全く、大馬鹿だ。

「それでも頑としてやらないお前が、お前らしいよ」

「……すみません」


古泉の静穏な微笑は、決して、壊れなかった。


194: 2008/07/26(土) 22:08:05.88 ID:0HIuE5330

きっとそれが、俺の限界値だった。
古泉にとっての俺が引き出せる古泉は、結局、微笑み以外を俺に与えようとはしないのだ。

「僕は、古泉一樹のままでいたいのです。
あなた方と過ごしてきた、古泉一樹のまま逝きたいから。

だから、ごめんなさい。……赦してください」


俯き、前髪に隠れる表情。
微笑み以外を己に許さない古泉。

俺は――何ができるだろう。お前が他の奴らを、俺やハルヒや長門や朝比奈さんを悲しませないために、
苦難をひっくるめて飲み下してきたみたいに。

俺はお前のために、何ができる?

なあ、古泉。教えてくれよ。

無力感と情けなさで一杯になった俺の脳裏に、「待って」と言っていたあいつの姿が蘇る。

……長門。

196: 2008/07/26(土) 22:18:02.31 ID:0HIuE5330


『…わたし個人の力では、追いつかないから』

思念体に再接続をしようと試みていた長門。

『……まだ、言えない。望んでいないから』


ああそうだ、なんてこった。

長門の様子が妙だった理由。

俺の当てずっぽうも捨てたもんじゃないかもしれん。

そうだ、あの時の長門は、古泉を救おうとしていたんじゃないのか?
一昨日までの長門に可笑しなところは見受けられなかったから、
昨日の間に、古泉の置かれた事情を知ったとしたなら。

長門の生みの親は、ハルヒを除いても神様的な力を存分に振り翳してきた、近隣宇宙の支配者だ。

長門の親元の力を借り受けることができたら、古泉を存命……は無理でも、
延命させることくらいはできたのかもしれない。

198: 2008/07/26(土) 22:33:56.64 ID:0HIuE5330

――そう、今ならわかる。「誰が」「何を」望んでいなかったのか。



「長門は、気付いてたんだ。お前が消えちまいそうなこと……」

はっと伏せた面を上げ、古泉は「やはりそうなのですね」、と微苦笑を刻む。

「最初はどういうことか分からなかったが…。今思えばあれは、お前を助けようとしてたんだな」

「……長門さんが」

「そうだ、あの長門がだ」

お前がよく長々と質問を振っては無視を貰って、
その度にお前は「やれやれ」ってアメリカ人みたいなジェスチャーをしてたっけな。

無口と饒舌の凸凹コンビ。お前の好奇心の目線は大概、あいつには空振りで……。

話題は受け流されてるみたいだが、俺は結構バランスがいい組み合わせだ、と思ってはいたんだぜ。
お前が長門の台詞を翻訳してくれないと、意味が分からないこともしばしばだったしな。

201: 2008/07/26(土) 22:45:27.94 ID:0HIuE5330

俺の一連の貶してるんだか褒めてるだかの台詞は、一応、長門のフォローのつもりで添えたものだった。
だが、棚から牡丹餅というべきか、それとも瓢箪から駒というべきなのかね。

――俺は生涯、忘れないだろう。

古泉一樹の、

見るもの全ての胸をぎりぎりと締め上げるような、悲哀と幸福の間を彷徨う表情を。

長門のことを思い浮かべた古泉が、

俺相手には笑顔しか晒さなかった古泉が、

襤褸を出したときの、何ともいえないその切なさを。



「古泉、お前……」

俺は、またしても盛大な勘違いをかましていたのか。この顔を見りゃ、誰だって分かるだろう。
どんな恋愛音痴だろうが、少女漫画を毛嫌いする硬派主義者だろうが、理解せずにはいられまい。


「――長門が、好きなんだな」

203: 2008/07/26(土) 22:54:29.27 ID:0HIuE5330

そんな人の胸を突く表情を、思わず浮かべてしまうくらいに。
手を伸ばせば届くような、ほんの近くに居た。

こんなすぐ傍に、ハルヒよりももっと有力な伏兵が居たって訳だ。
……気付かなかった。
俺ほど細密に、SOS団を、その内部を見ている奴はいないだろうと思っていたんだが…。
それこそ過剰な思い込みだったのかもな。


古泉は、もう一度だけ、笑って見せた。
肯定も否定もせず。

だがこの局面において「否定しない」ということは、何よりの答えだったといえるだろう。

206: 2008/07/26(土) 23:06:21.85 ID:0HIuE5330

………
……




炎が燃え盛っている。

排気ガスの匂い。焼け爛れた何かの臭い。気持ち悪い。
熱い、熱いよう…!!


皮膚が千切れそうに痛かった。隣に座っていた友達が泣いている。
呻き声が連なって、何度も僕の鼓膜にしみこんでくる。


助けて助けて助けてたすけてたすけてタスケテタスケテ……!!!


喉が潰れてしまったみたいだ。もう声が出ない。
手と足を引き摺って火の中から這い出る。

熱い、寒い、眼がちかちかする。

爪をコンクリートに突き立てると、炭化した欠片がぼろぼろと砂みたいに崩れた。

207: 2008/07/26(土) 23:11:56.69 ID:0HIuE5330


ほとんど何も見えない視界を巡らせて、路上の向こう、
立ち竦む野次馬たちを見遣る。


「事故だ、救急車を、消防車にも早く連絡を……!」

誰かが叫んでいる。誰かが走っている。
煩い、と思った。
わんわん反響して、まともに聴覚も機能を果たしていない。

ずるずると這って、一緒に乗っていた皆はどうなったかな、と思いながら目を閉じた。

閉じた瞬間に、威勢のいい一喝が飛んできた。



「諦めちゃダメ!――死んじゃだめ!」


「すぐ、助けが来るんだから。だから、それまで…ねえ!」


209: 2008/07/26(土) 23:14:06.91 ID:0HIuE5330

最後の力を振り絞って抉じ開けた瞳の奥に、黒髪の、小さな女の子の怒ったような眼に出遭った。

それきり、意識は途絶えた。

223: 2008/07/27(日) 00:05:12.88 ID:YpowW+8P0

………
……



あんなに、取り繕いなく古泉と話を弾ませたのは初めてだった。

それからその時間の授業を完全にエスケープすることにした俺は、
古泉と、長らく話したことのなかったようなことを具に語り合った。

生徒二人が校舎外に居たんじゃ人目につくだろうから、場所を屋上に移してな。

古泉が小さい頃買っていた犬に、噛み付かれて暫く恐怖症になった話だとか、
望遠鏡の使い方も分からずに闇雲にぐりぐりと鏡筒を回転させて壊しちまった話、
それからテストで満点を取ろうと頑張りすぎて風邪を引いた話――

おいおい、聞いてみりゃ、結構間抜けなエピソードだらけじゃないか?
てっきり「昔は神童と呼ばれたこともあったのですよ」なんて自慢話が椀子蕎麦みたいに引っ切り無しに
出てくるかと覚悟してたのに。

「以前にもお話しませんでしたか?僕は、ごく普通の子供だったんですよ。

取り立てて特筆するところもないような――ごく、普通の」

226: 2008/07/27(日) 00:16:53.68 ID:YpowW+8P0

笑んでそう言うお前の態度が、今一信用ならなかったんだよ。前はな。

今はどうかと言えば、聞かれるまでもないだろう。

「それは、光栄ですとお答えしてもいいんでしょうかね」

楽しげに口元を緩めて、古泉は屋上から遠方を見下ろしている。
俺もその隣に並び立って、よく晴れた空を眺めた。

――いい日和だな。

「そうですね」

リラックスしている様子の古泉に、俺は、聴いてみることにした。
質問内容は変えたけどな。


「お前の『想い人』……さ。お前はその人の何処が好きになったんだ?」


227: 2008/07/27(日) 00:25:45.26 ID:YpowW+8P0

名前を出さなかったのは俺の譲歩だ。

お前が最後まで明かさずに想いを持っていくんなら、俺に止める権利はないからな。

ただ、……お前も、本当は打ち明けたかったんじゃないのか。
これは俺の勝手な推測に過ぎないが、あながち間違ってはいないんじゃないかと思っている。

昨日、好きな人がいるって事自体、隠し続けようと思えばできたはずなのだ。
お得意の弁舌を駆使して、問題点から眼を逸らさせるのは古泉の最も得手としているところだからな。

だが古泉は俺の追求に折れ、心の端を明かして見せた。片恋の存在を匂わせた。
それは、きっと、そういうことなんだろう。



古泉は瞬き、「そうですねぇ……」と背伸びでもするように天を仰ぐ。

「……ここだけの話にして頂けますか」

「……ああ」

「約束ですよ」

230: 2008/07/27(日) 00:37:47.40 ID:YpowW+8P0

ひっそりと笑い、こほん、と咳払いをする。
古泉は流暢に、水のように留めるところなく語りだした。


「……彼女が頁を繰るときの、心なしか穏やかな眼差しが好きです。

それから静寂に繰り返される紙の音と、行きつ戻りつの視線。

雨や雪が降り出す様を認めた瞬間の、瞳孔の輝き。傘を手に取ったときの不可思議そうな眼の揺れ。

特に相合傘を目の当たりにして、何度も瞬いているときの彼女の挙動の可愛らしさ。

食事の際に、特にカレーを目の前にしたとき、物欲しそうにじっと皿を見つめているときの表情。

小動物を膝に抱き込んだとき、そっと丸めた指で毛を擦る仕草。

知識欲が旺盛で、気掛かりなことを逐一検索してみていたことも知っています。

繊細でありながらも一本通した決して折れることなき芯の太さ。

表層は平坦な人格と見せかけて、意外に負けず嫌いで意地っ張りなところ。

あなたの隣に居るときの、彼女の上目遣い。

優しい、言葉……」

232: 2008/07/27(日) 00:49:17.97 ID:YpowW+8P0

語り尽くせぬ想いを、可能な限り言語にして風に流してしまおうと、
古泉は懸命に言葉を紡ぎ続けた。

俺の方が恥ずかしさで身悶えそうなぐらい、これでもかと吐き出し続けた。

今時、口説き文句にしたって此処まで挙げ連ねる奴はいないだろう。

古泉の勢いは止まらなかった。

まだ出し足りないと言わんばかりだ。

大切にしたい、護りたい、できるなら抱き寄せてしまいたい。

切々とした語りに滲んでいたのは、古泉の生々しくも切ない感情の数々だった。

これ以上聴き続けたら胸焼けを起こす。どっかへ病院送りだ。間違いない。

……俺は溜息をついた。


「だ、そうだ。……どう思う、長門」

235: 2008/07/27(日) 01:04:01.82 ID:YpowW+8P0

古泉が全身を強張らせ、停止する。
顔面蒼白で固まった古泉ってのも珍しいな。……凄い睨まれ様だが。

俺がのらりくらりとんなことを考えてる間に、屋上のドアが開いた。



いらないお節介だと、目の前の男から張り手を食らうくらいは覚悟してのことだ。
近頃携帯電話を所持するようになった長門を、メールにてお呼び出し。

詳細は書き加えなかった。
送信してみたはいいが即座の返信はなかったし、長門が授業に戻っていたら携帯を見る暇すらなかったろう。

だからタイミングよく此処へ訪れるかどうかすら、賭けみたいなもんだった。


対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース改め、
「ただの人間」に限りなく接近した「擬似人間」長門有希は、

古泉を見据え、俺を見据え、屋上にスパイガールの如き抜き足で降り立った。

243: 2008/07/27(日) 01:24:31.02 ID:YpowW+8P0

「……長門さん」

眩しいものを見るように眼を細める古泉。

長門と古泉の両者を視界に収める俺。

そして俺に視線を固定した長門。


長門は小階段を越え、石畳を歩みながら、俺の無茶振りに冷淡に応じた。


「……わたしは、古泉一樹の『想い人』が誰かを知らない。
だから、『どう思うか』という問いに対して適切な形で回答できない」

そりゃそうだろうな。俺も、そこを配慮して名前を出さなかったんだから。
そして例え長門にその予測が付いていたとしても、長門は決してそれを口にはしないだろう。
長門は、知っているのだ。

「古泉一樹」が。
「自身の『消滅』と、長門への想いを長門に知られること」を……

望んでいなかったことを、知っているのだ。

247: 2008/07/27(日) 01:39:40.60 ID:YpowW+8P0


「……でも」

零れた呟きは、川のせせらぎをそのまま声にしたような極ささやかなものだ。

……聞こえているか、古泉。

長門が古泉の方へ、ゆるりと視線を這わせる。

古泉は惚けたように立ち尽くしているが、恐らく一音も漏らさぬように、聴力を研ぎ澄ませているに違いない。

長門は古泉に向かい合い、古泉を見上げ、立ち止まる。

その立ち姿は聖書に描かれた挿絵の一ページを飾れそうなほど、神々しいものだった。
現実に「聖母」が存在したら、もしかしたらこんな風なのかもしれないな。

母が子を抱き込んで、ただ、安らぎを言葉にしてみせる聖人のように。


「それほどに想われた、……『想い人』は、幸運であると思う」

250: 2008/07/27(日) 01:49:32.99 ID:YpowW+8P0


……古泉がその際にどんな表情を浮かべて見せたかは、ご想像にお任せするとしよう。

多分古泉も、事細かに公表されたくはないだろうからな。
あんな顔をしてみせるのは、長門相手限定でいい。


俺は二人を置いて屋上を後にすることにした。
別れの瞬間が迫っているというなら、そういう今こそ、募る話もあるだろう。
この際俺はお邪魔虫扱いでいい。


長門が古泉のことを恋愛的に好きだとは、俺の認知における限りでは思えない。

古泉もそれを知った上で告げることを思い止まっていた節があったからな。

それでも――

一瞬、一時の心の交流が、想いを根付かせることだってある。
いつかの俺が、ハルヒと初めて出遭った刹那みたいにさ。

251: 2008/07/27(日) 01:56:03.75 ID:YpowW+8P0

……祈っていいか、ハルヒ。

俺はお前が神様だなんて未だに半信半疑だが、
お前が与えた命なら、もう少しだけ力を持たせてやってくれ。

どうか幸せを噛み締められる、その実感を得られるだけの時間を古泉に。


――古泉に、あいつの命を賭してきた働きに見合う恩寵を。

254: 2008/07/27(日) 02:14:43.22 ID:YpowW+8P0

………
……




「彼」に残された屋上で、僕は、長門さんと対峙していた。

確かに「ここだけの話」というのが約束であり、長門さん本人が「ここだけの話」を聴いていたという図式ならば、
嘘とは糾弾できないけれど。
彼もまた、あくどい遣り方を選ぶものだ。

――そして、そんな彼のお節介焼きに僕はいつも救われる。


「……折角ですから、少し、お話しませんか」

彼女は、微かな首肯をくれた。
彼女にとっては何の利にもならない行為だというのに、報いてくれるのは彼女が優しいからだ。
長門さん自身には、未だ意識にない概念であろうけれども。

259: 2008/07/27(日) 02:23:44.71 ID:YpowW+8P0

さすがに次の授業までサボタージュさせる訳にもいかないだろう。
僕は残り僅かな時間を、ただ、共有したかった。

下らない語り事で。

読書談義で。

SOS団の思い出話で。



……僕は、長門さんが好きだった。

傍に居たかった。

できれば彼女の隣で彼女を見ていたかった。

「彼」のように、彼女の頭を撫でてみたかった。

彼女に許可を求められる立場になりたかった。

僕は「鍵」ではなかったし、「彼」ではなかったから、それらは全て高望みというものだった。

263: 2008/07/27(日) 02:40:12.38 ID:YpowW+8P0

「僕は、彼になりたかったのかもしれません」

「……何故」

「ないものねだりですよ。無いものばかり、無闇に欲しくなってしまうんです。
ないからこその僕だということも、分かっているんですけどね」


風に煽られる長門さんの素顔は白く、透明感のある髪色が、とても綺麗だ。

元が宇宙人だからだろうか。
彼女からは草原に寝転んで見上げた宙の、懐かしい匂いがした。

「長門さんに、欲しいものはありませんか」

「……特には」

「何でもいいんですよ。物でも、逆に実体でないものでも構いません」

前屈みになって、長門さんと目線の高さを合わせ微笑む。
星のような瞳が、僕を見つめた。

264: 2008/07/27(日) 02:48:04.60 ID:YpowW+8P0

「……五人」

細い声が、薄い唇から放たれる。

もう一度、と、長門さんは言う。

「もう一度。五人揃っての、不思議探索」



……今この場の僕の心境を告白すれば、
僕は、すぐにでも泣いてしまいそうだった。


朝比奈みくるは未来へ帰還し、僕にも未来という未来は残らないけれど。
叶うならば不思議探索をもう一度と、長門さんが願った。

あの賑やかで笑い溢れた、日常。

それを人と成った長門有希が望んでくれていることが嬉しい。
寂しいと、言ってくれていることが、どんなにこの世で僕らにとって幸いなことか。

266: 2008/07/27(日) 02:51:50.36 ID:YpowW+8P0



「長門さん。無理なお願いをしてみてもいいですか」





ありがとう。僕は今、幸せです。


―――きっとこの世の誰よりも、幸せです。


269: 2008/07/27(日) 03:04:09.34 ID:YpowW+8P0

………
……




授業中も寝こけていたハルヒが、授業の終了と同時に起き出したかと思ったら、
俺の襟を掴んで椅子から引き摺り落としやがった。

脈絡のない暴走も程々にしといてくれと流石に怒鳴ろうとしたら、
俺の方が息を飲み込む羽目になっちまった。

何故かって?

……涼宮ハルヒが泣いていたからだ。




「……思い出したのよ。あの夢が何だったか」

眼が兎みたいに真っ赤だ。
掃除当番も放り出して、文芸部室に駆け込み寺よろしく避難したハルヒと俺であった。

後で担任やら同じグループの女子やら叱られるのは眼に見えているが、今回は大目に見てもらおう。

俺はハルヒにハンカチを放り投げてやった。

278: 2008/07/27(日) 03:15:21.54 ID:YpowW+8P0


「………ふん。偶には気が利くじゃない」

その口は相変わらず少しも可愛げがないなハルヒよ。

遠慮なく俺のハンカチで涙を拭い、鼻水を噛んだハルヒは、
いつもの団長席にふんぞり返る様に腰を落ち着けた。

「事故。あたしが小学校卒業するかしないかって辺りの話よ」

ついさっき「夢で見て思い出した」という、その事故のことを、ハルヒはこう評した。

「――かなり大きな事故だったわ」


――定期バスに、居眠り運転の大型トラックが突っ込んで、大破。

ハルヒは偶々そのバスを待ち合わせていて、事故現場を目撃したのだという。

衝突、それから原油タンカーに火がついて大爆発。
破片が吹っ飛び、物凄い熱波が押し寄せてきた、と神妙にハルヒは語った。

280: 2008/07/27(日) 03:32:19.85 ID:YpowW+8P0
「あたり一面、酷い有様だったのよ。特に横転したバスは炎上してて……
外に投げ出された人が何人も、呻いてるの。たすけて、たすけて、って。
真っ黒になってもう動いてない人も居たし、助けを求めて手を伸ばすみたいにしてる人もいた」

俺の妹なら一発でトラウマものの体験だろうな。俺は茶々を入れられずに、黙ってハルヒの話を聴いていた。

俺も、そんなシーンに遭遇したらその場で嘔吐するくらいはしたかもしれん。

ハルヒの身振りを交えつつの体験談は、それくらい強烈だった。
下手すると、想像だけで再現映像が目の前に迫ってきそうだ。

「周囲に人は大勢いたけど、倒れてる人達を助けようと走り回ってた人間はごく一部。
他は遠巻きに見てるだけだった。
あたしも家に引き返そうかって思ったぐらいよ。……そのときは、本気で怖かったの。
目の前で死んでいく人たちが、怖くてたまらなかった。
あたしの家、お爺ちゃんもお婆ちゃんもいなかったのよね。あたしが生まれた頃にはもう死んじゃってた。
だから、……人を死ぬのを見るの自体、生まれて初めてだったのよ」

だがハルヒは、死に行く人々を前に、逃げも隠れもしなかった。

「同い年くらいの男子がいたの。あたしが居る方向に這いずって来た。
……生きたいって、全身が叫んでた」

勇ましく駆け出した少女は、恫喝するように子供を叱り飛ばした。

生きたいなら生きなさい!諦めてるんじゃないわよ、馬鹿!


――それでも子供は、生き返りはしなかったのだ。
まだ、そのときは。

284: 2008/07/27(日) 03:42:27.89 ID:YpowW+8P0

「その子だけ病院まで何とか持ち応えたけど、……やっぱり助からなかったって聞いたわ。
そのとき、何でか分かんないけど、悔しくて仕方なかった。
なんでよって。あんなに叫んだのに、あたしの声、届かなかったのって……!」


俺は知っている。
ハルヒの能力が、そのときのハルヒの無邪気で強い、一途な願いを、期間限定とはいえど叶えたことを。

死者は蘇らない。
そう、確かにそれは世の紛うことなき摂理だ。
如何にハルヒが神的存在であろうとも、曲げることの許されない真理だ。

古泉たちが超能力者として目覚めても、ハルヒが力を失えばそこで終わるだけの生しかもたらせなかったように。

ハルヒも、それを分かっている。


288: 2008/07/27(日) 03:58:47.89 ID:YpowW+8P0


「……その子の顔、今でも覚えてるか?」

「ううん。何年も前だし、煤けてたから顔までは分かんないわ。
だけど……」

吊り上げた眉に、癇癪を炸裂させる直前の怒りっぽい女の瞳で、ハルヒは俺に言う。

「あの子が生きたがってたことは、あたしきっと、忘れないでいると思う。
……忘れちゃ、いけない気がするの」


そうだな。
――覚えておいてくれ、ハルヒ。

その子の名前は多分古泉一樹って言って、……
話は長いが笑顔の似合う、気の良い奴なんだ。

怖い目に遭いながら世界のために戦い続けたヒーロー少年だ。

暢気に高校生活を営んでる生徒にやっかみも持たず、
自己犠牲精神が強くて、忍耐深くて、どんなに疲れても笑顔でいる、そんな奴だからさ。


だから……

292: 2008/07/27(日) 04:07:55.80 ID:YpowW+8P0

「キョン……?

なんで、あんたが泣いてるの」



知らねえよ、勝手に涙が出てくるんだ。
流れて止まないそれに、レンズを通したみたいに視界が歪む。

壁貼りの写真、ぽっかりと一人分が抜け落ちた写真。

なあ、早すぎるだろう。
お前ついさっき俺に打ち明けたばっかりじゃねえか。


俺は歯を食い縛って嗚咽を堪えた。
食い縛っても、漏れる声はどうにもならなかった。


机に腕を叩きつける。


畜生、畜生、畜生…!


295: 2008/07/27(日) 04:13:01.95 ID:YpowW+8P0


「畜生……ッ!!」


みっともなく泣き喚いて、俺は、思った。

古泉。

お前、幸せだったか?

少しはお前の生も報われたか?

長門と、ほんのちょっとは会話できたのかよ?



いけ好かない奴だって思って邪険にしたこともあったな、悪かった。

今度会えたら、そのときにまた謝らせてくれよ。

次はもっと早くに本音を言い合える仲になりたいもんだな。

な、古泉。

297: 2008/07/27(日) 04:17:08.52 ID:YpowW+8P0


「どうしちゃったのよ……ほら、キョン。あたしのハンカチ貸してあげるから」

ハルヒは少しも疑わずにいる。
この部室から消えたボードゲームの山のことも、一人分の茶碗がなくなっていることも、
写真に埋められない穴が空いてしまったことにも。


俺はいつ、伝えられるだろう。

古泉一樹、俺たちの副団長の軌跡の話を。


307: 2008/07/27(日) 04:26:49.38 ID:YpowW+8P0

………
……





屋上に、ひとり。
赤い光は既に消滅していた。


現在のわたしには彼を繋ぎとめる力も、先延ばしにする力すらなかった。
彼はもう先が長くないことを悟った上で、わたしに「願い事」をした。


……わたしには、理解不能。解析も不能。
叶わない約束を、願ったところで何の効力も発揮されはしないのに。

308: 2008/07/27(日) 04:29:34.24 ID:YpowW+8P0

『長門さん。無理なお願いをしてみてもいいですか』

はにかむように笑った彼の願い。
「無理」と先刻承知で、それでも口にせずにはいられなかった言葉。


『次の不思議探索のときには……僕とペアになって頂けませんか?』

そんな、単純なこと。
彼がわたしに望んだ、ほんの小さな望み事。



わたしが構わない、そう彼に告げて。

途端、花開くように幸せそうに微笑んでいた彼の笑顔の意味。

わたしにはまだわからない。



頬を伝う、この水の意味も、まだ。





終わり

309: 2008/07/27(日) 04:30:24.57
乙。

314: 2008/07/27(日) 04:32:00.76 ID:YpowW+8P0
終わりました…
遅筆&gdgd&長時間のトリプルに
お付き合いくださってありがとうございました。
支援してくれた人には本気で頭が上がりません。

幸せENDを望んでくれた人には申し訳ない結末ですが、
少しでも楽しんでもらえたら幸いです……

318: 2008/07/27(日) 04:33:17.87
乙です!
切ないけど良かった。

引用元: 古泉「長門さん。無理なお願いをしてみてもいいですか」