1: 2011/03/02(水) 22:12:16.34 ID:owQiyhiC0
キャンパス内の落葉樹が次々に色付く季節。
今年は比較的暖かい日が続き、暦の上ではとっくに秋だというのに
街にはまだ夏の名残が漂っている。

今週最後の講義から解放され、ぶらぶらと正門に向かって歩く。
皆と約束した待ち合わせ時間までにはまだ時間がある。

スキニージーンズの後ろポケットから携帯を抜いてメール画面を開き、
必要最低限の内容だけ打って送信ボタンを押す。
多分まだ受講中の2人にメールが送信されたことを確認して、携帯を仕舞う。


きゃあ、という小さな悲鳴に顔を上げたら、真正面から強い風がぶつかってきた。

2: 2011/03/02(水) 22:15:54.32 ID:owQiyhiC0
「! いたっ……」

右目に痛みを覚え、咄嗟に手で押さえて風上に背を向ける。
風に巻き上げられた砂でも入ったんだろうか、
涙腺が異物を追い出そうと、私の意思を無視して涙がこぼれる。

……おーい りっちゃーん

遠くから私を呼ぶ声が聞こえたが、目を開けられない。
ばたばたと近づいて来た足音は私の正面で止まった。

「りっちゃん、おっす!」

「おー、ちょいまち」

下を向いて目をこすりながら、左手だけで応じる。

3: 2011/03/02(水) 22:19:50.86 ID:owQiyhiC0
「……あれ、りっちゃん、泣いてる?どうしたの?」

「……唯に会えなかった時間が……寂しくて……うっ」

「! り、りっちゃん……私も、私も会いたかったよぉぉ」

「唯ぃぃ!」

「りっちゃん!」

涙をぽろぽろこぼしながら両手を広げたら、ひし、と唯が抱きついてきた。
少し離れた場所からクスクス笑い声が聞こえるが気にしない。

ひとしきり情熱的なハグを交わして小芝居終了。

4: 2011/03/02(水) 22:23:56.07 ID:owQiyhiC0
「そんで、目、どうかしたの?」

「風吹いてなんか入った」

「大丈夫?目薬あるよ?」

「ん、もうちょいで取れそう」

まだ少しゴロゴロしているけれど、なんとか瞼を開けることができた。
潤んだ視界の中、至近距離で私の目を覗き込む唯が見えた。


ギターケースを背負った唯と並んで大学最寄りのJR駅に向かう。
今日も暑いね、と、唯は空を見上げてうんざりした顔で呟いた。

5: 2011/03/02(水) 22:28:24.61 ID:owQiyhiC0
「秋ってなんだっけ?って感じだよなあ」

「それでも食欲にはしっかり秋がきてるよ」

「それ澪の前で言うなよ。体重気にしてるみたいだから」

「ねぇりっちゃん、アイス食べない?」

「……みんなと合流する前に食っちまうか」

コンビニに寄り道して、アイスを買う。
私はガリガリ君ソーダ味、唯はチョコモナカジャンボ。

「ガリガリ君、一口ちょうだい」

「がっついてるとお腹壊すぞ」

差し出したアイスの角を、唯は器用に齧り取った。

6: 2011/03/02(水) 22:31:48.44 ID:owQiyhiC0


JRの駅が見えてきた。駅舎の白いタイルに照り返す光はまだ夏のそれだ。
まぶしくて思わず目を細める。

そういえばさあ、と、口の中にモナカを入れたまま唯が喋る。

「りっちゃん、澪ちゃんと一緒に住んだりしないの?」

「澪と? まあルームシェアしたほうが家賃は助かるけどなー」

「うん、それもあるけど」

唯は一度言葉を切る。ごくんと喉が動いた。

「いつも一緒に居たいって思わない?」

「えっ、なんで?」

「だってりっちゃん、」

「唯、寂しいのか?」

唯の言葉を遮って、質問を質問で返す。途端に唯は口をへの字に曲げた。

9: 2011/03/02(水) 22:35:17.98 ID:owQiyhiC0
「……そりゃあ寂しいよ」

「でも来週こっちに来るんだろ?夏休みは唯が行ったって言ってたじゃん」

「あのね、りっちゃん。恋人との時間は逢い貯めできないんだよ」

「アイダメって……」

「逢うたびに、もっと逢いたくて逢いたくて寂しくなるんだよ」

遠恋ってやつはさ……。
遠い目をしてそう呟くと、唯は突然携帯を取り出して物凄い勢いでメールを打ち始めた。

「……ああ、うん、なんかごめん」

メールを送る相手は訊ねるまでもなく、内容は想像に難くない。
……あいつも大変だな。

ずいぶん長いこと打ったメールを送信し終わり、軽く放心したような顔。
西はあっちかな……とトリップし始めた唯の肩を、私は黙ってぽんと叩いた。

10: 2011/03/02(水) 22:39:25.54 ID:owQiyhiC0





【 紬 】

基礎経済学のテキストを仕舞って携帯の電源を入れると、メールが3件届いていた。
最初に母から。次にりっちゃんと、それに返信した澪ちゃんからの同報メール。

ふたりに返信してバッグを肩に掛ける。
一旦キーボードを取りに部屋に戻ってから待ち合わせ場所に行くまでの時間を計算してみる。

「……うん、急がなくても大丈夫そう」

顔見知りになった子と挨拶を交わして教室を出た。
日当りの良い廊下に、Pタイルを踏むローヒールの音が反響する。

「今日も暑そうだな……」

ロビーの大きな窓越しに見える芝生がまぶしい。

11: 2011/03/02(水) 22:43:29.17 ID:owQiyhiC0
携帯を開いて母の番号を選ぶ。3コールで、もしもし紬?と母の声が聞こえた。
大切な用件は来週末の予定のことくらいで、
あとは私の生活のこととか、父の様子とか、普段通りの他愛ない話。

母のやわらかな声に耳を傾けながら、駅への近道を歩く。

4人で同じ大学に入学したものの、私の学部が入っているキャンパスは
3人が通う場所とは私鉄とJRを乗り継いで40分ほど離れている。
けれど、そのことについてはさして寂しいとは思わない。

……正直に言うと、最初の頃はちょっぴり寂しかったけれど。

同じキャンパスに通う3人もそれぞれ別の学科を選び、皆アルバイトをしている。
4人が顔を揃えるのは週に1度、金曜の夜。


電車に乗るからまた掛けるね、と通話を切ってバッグのポケットに仕舞い、改札を通る。
ホームに上がるといいタイミングで銀色の電車が滑り込んできた。
すいた車両の中、乗客たちは静かに目を閉じているか携帯の画面を眺めている。

シートの端に腰掛け、バッグから読みかけの文庫本を取り出す。
栞を挟んでいるページを開いて物語に意識を落とそうとしたところで、携帯が着信を告げた。

12: 2011/03/02(水) 22:47:22.89 ID:owQiyhiC0


「梓ちゃんだ」

送信者の名前を見て顔がほころぶ。
乗車した特急列車が遅延していることを簡潔に告げた文末に、汗の絵文字が揺れる。

返事を打とうと思ったら携帯が震えた。唯ちゃんからの返信はいつも早い。
あずにゃん今夜何食べたい?今りっちゃんと一緒にいるよ。絵文字いっぱいのメール。

続けて私もメールを送る。
時間は大丈夫だから気をつけて来てね。梓ちゃんと会うの学園祭ぶりだね。
文末に十六分音符の絵文字をひとつ。

梓ちゃんからまた着信。
ご飯は先輩方にお任せします。お会いできるの楽しみです!どの改札から出ればいいですか?

南口改札だよ。迷ったらすぐ電話するように。律はご飯の場所頼む。私もそろそろ出ます。
澪ちゃんも、ベースを取りに一度部屋に戻ったのかな。

13: 2011/03/02(水) 22:51:05.67 ID:owQiyhiC0
5人の手の中で飛び交う会話。
短いメールのやりとりは、みんなの声が聞こえてくるようで楽しい。

りっちゃんからのメールは、了解!のひとこと。りっちゃんらしいな。


結局、一度も文庫本に目をやることなく目的の駅に着いてしまった。

「ま、いっか。ふふ」

携帯と文庫本をバッグに仕舞って立ち上がり、ホームに降りる。
フレアスカートの裾がふわりと広がって慌てて押さえた。今日は風が強い。

15: 2011/03/02(水) 22:55:40.18 ID:owQiyhiC0





【 唯 】

ねえ寂しいよ早く逢いたいよ。長々と綴った想いに返ってきたのは、
「私もよ」の、たった3文字と、署名代わりの赤い眼鏡の絵文字。

メールがそっけないのはいつものことだけど、
ちょっと泣きそうにもなるよね。

「んー?どした?」

無意識に落とした大きな溜息に気付いたりっちゃんが
既に食べ終えたガリガリ君の棒を口元で揺らしながら私を見た。

17: 2011/03/02(水) 23:00:57.22 ID:owQiyhiC0
「ねー見てよこれ。いくらなんでもあっさりし過ぎだよね?」

「……3文字に全ての想いを込めるとは、なかなかやるな赤眼鏡」

「その解釈は予想外だよ」

「送ったメールを私に見られてるのはあいつも予想外だろうな」

「……重いのかな、私」

「澪とムギの前では言うなよ?」

「もー、そっちの重いじゃなくてさぁ」

「いしし」

りっちゃんは意地悪そうに笑って、
はずれと書かれた棒を駅前に置かれたゴミ箱に投げ込んだ。

18: 2011/03/02(水) 23:04:21.01 ID:owQiyhiC0
「今更重いとか言ってたら、唯の恋人やってられないだろ」

「あれ、私、今さらっと重い女認定された?」

鞄に付けているパスケースを引っ張って、ギー太をぶつけないように改札を抜ける。
りっちゃんはジーンズの後ろポケットから出したSuicaをべしんとセンサーに当てた。

「褒めてんだよ。和をな」

「……」

言い返せず、複雑な顔で応える。

ホームまでの長い通路を並んで歩く。内回りの車両がホームに到着するのが見えた。
開いたドアから一斉に人が吐き出され、こちらに向かってうねりを作る。

私の左隣にいたりっちゃんがふと視界から消えて、すぐに右後ろから現れた。
肩で小突くように押されて、私は通路左側の壁際まで体を寄せる。

19: 2011/03/02(水) 23:07:40.49 ID:owQiyhiC0

「……ん、梓からだ」

二人同時に、それぞれの携帯画面を覗き込む。

「あずにゃん、ちょっと遅れるのかぁ」

「今日は風が強いから、そのせいかもな」

「あーそうかも」

喋りながら、すぐに返事を打つ。りっちゃんと一緒にいることも付け加えて送信。
外回りの車両が車体をきしませながらホームに入ってくる。

ここからホームまでの距離は、ギリギリあの車両に乗れるかどうか。
どうせ次の電車はすぐに来るし、待ち合わせまで時間はたっぷりある。
りっちゃんも急ぐ様子を見せないし。

ていうかお前これカレー1択じゃないか、と
携帯の画面に視線を落としたままりっちゃんが苦笑いした。

20: 2011/03/02(水) 23:12:09.16 ID:owQiyhiC0





【 梓 】

今朝からの強風で路線全体のダイヤが乱れているらしく、
目的地への到着予定時刻を告げるアナウンスが二転三転している。
予定時刻が延びるたびに溜息を吐いて、脇に置いたギターケースを撫でる。

遅延を知らせたメールに、先輩たちからすぐ返信が来た。
唯先輩からの返信には、カレーライスの絵文字が5つ並んでいる。
人に食べたいものを聞いておいてこれはないですよ唯先輩。
とりあえず、当たり障りなく返信する。


先月の学園祭ライブで私の部活動は終わった。憂と純と、スリーピースのステージ。
1年生のみんなはすごく頑張って、憂と純には今も感謝しきれなくて、
見に来てくれた先輩たちに頭を撫でられて、胸が一杯になってたくさん泣いた。

21: 2011/03/02(水) 23:17:23.65 ID:owQiyhiC0
「……当分、律先輩にからかわれるだろうな」

思い出したら恥ずかしくなってきた。頬が熱い。

部室はもう1年生に譲り渡して、3人一緒に図書室に通う放課後。
時々は、寂しがるさわ子先生に付き合ってお茶を飲みに行くけれど。


徐行運転中の特急は無駄に気持ちを焦らす。
次第に緑が減り建物が密集していく街が、傾き始めた太陽を反射してぴかぴか光っている。

気持ちが焦れているのは、遅延のせいだけじゃないことは自覚している。
今日は先輩たちに話したいことがある。
それを話したとき、先輩たちはどんな顔をするだろう。

「……」

期待よりも、不安のほうが大きい。そう思ってしまう自分に少し落ち込む。

22: 2011/03/02(水) 23:21:19.77 ID:owQiyhiC0

深呼吸をして携帯を仕舞って、
アナウンスを聞くため外していたイヤフォンを耳に押し込む。
足元に置いたボストンバッグから手書きのコード譜を出して、膝の上に置く。

先週送られてきた曲の予習。久し振りの ” 放課後ティータイム ”の新曲。
澪先輩はまだちょっと作詞に頭を悩ませているらしい。

iPodに入れておいたムギ先輩のデモ音源を聴きながら、コードを目で追って行く。

「……あ、ここには格好いいリフ入れたいな」

唯先輩だったらどんなふうにするかな。練習の時に相談してみよう。
無意識に動いてしまう左手の指に、隣席のサラリーマンがちらりと目線を向けた。

24: 2011/03/02(水) 23:24:51.33 ID:owQiyhiC0





【 澪 】

この街はあまりにも人が多い。

上京してきた当初は、駅構内を歩くだけで何人もの肩にぶつかって疲れ果てた。
それでも半年暮らすうちにコツを掴めてきて、ぶつかる頻度は随分減った。

対向してくる人とは目を合わせない。合わせると互いに牽制して立ち止まってしまうから。
なんとなく前を向いて、なんとなく自分が進めそうな流れを見つけて
微妙に体の向きを変える。ベースを背負っている時はすり抜けられる幅も考慮しながら。

流されるように早足で歩きながら、袖擦る他人を気にしないように努めている。
皆が他人を気にしないから、人波に紛れていると緊張することもない。


JRの南改札口を出て、改札を見渡せる柱の近くに移動する。
ベースを背負ってここに立っていれば、必ず私を見つけてくれる。

「お、いたいた。澪ー!」

ほらね。

「澪ちゃんやっほー!」

手を振りながら人波を逆流してくる二人を、片手を挙げて迎える。

25: 2011/03/02(水) 23:30:10.86 ID:owQiyhiC0
「律、ご飯の場所決めた?」

「先々週行ったカレー屋でどう?」

「ああ、あそこ美味しかったな。スタジオも近いし、いいんじゃないか?」

「カレーをご所望のお姫様もいらっしゃるし、な」

にやりと笑った律を見て、ふたりで視線を唯に向けた。
今日はそんな気分だったので……と唯が眉尻を下げる。

「みんなー、お待たせー」

おっとりした声に振り返ると、柱の陰からムギが顔を出した。
キーボードを人にぶつけないよう、縦にして抱えている。

「ムギちゃんやっほー!」

「唯ちゃんやっほー」

唯とムギが、バシンとてのひらを合わせた。

26: 2011/03/02(水) 23:34:44.65 ID:owQiyhiC0
「今日も暑かったねえ」

「ねー」

「梓は仕方ないとして、今日は珍しく遅刻ゼロか」

そう言った私に、唯が得意げな顔を向ける。

「やれば出来る子ですから!」

「いや、多分褒められてねーから」

「ふふっ」

遅刻常習犯の唯に同じく常習犯の律が突っ込み、ムギが笑う。
その様子に、私も思わず笑みを漏らす。


ジーンズのポケットに入れている携帯が着信を知らせた。
4人同時に、それぞれの携帯に手を伸ばす。

27: 2011/03/02(水) 23:38:33.97 ID:owQiyhiC0
「梓はあと30分くらいか」

「電車、結構遅れちゃったね。梓ちゃん疲れてないといいけど」

「待つ場所変えるか?楽器持って固まってると結構邪魔だし」

「じゃあ、あそこのスタバに行かない?」

ムギが、駅の外、幹線道路の向こう側に見えるサザンテラスを指さす。
夏の色を残した空のきわに、気付けば夕暮れの気配が迫っていた。

「……そうだな、お茶しながら待つか」

「あずにゃんにメール打っとくね」

唯を見ると、既に携帯のキーを両手の指で器用に叩き始めている。
私たちは楽器とバッグを肩に掛け直して、メールを打ち終わるのを待つ。

唯が顔を上げるのとほぼ同時にまた携帯が震えた。

「……いや、これは一斉メールじゃなくていいだろ」

呆れ顔をした律のツッコミに、あそっかぁ、と唯は照れた笑いを見せた。

28: 2011/03/02(水) 23:42:27.36 ID:owQiyhiC0





【 梓 】

予定時刻より35分遅れた特急列車は、ようやく終点に着いた。
ギターをかついでボストンバッグを肩に掛け、小走りでホームに飛び出したら
携帯を操作しながら歩いていた男の人にぶつかった。

「あッ、すみません!」

男の人は面倒臭そうにちらりと私を見ただけで、再び携帯に視線を落とす。
ちょっと、ヤな感じ。私も悪かったけど。
相手の背中を一瞥すると、その向こうに南口と書かれた案内板が見えた。

何度来ても、この駅は人が多すぎる。みんなどこから来てどこに向かっているんだろう。
そんなことを考えながら、階段を駆け上がる。

正面に改札が見えて、ポケットに入れておいた切符を取り出す。

「あ、」

再び顔を上げると、改札の向こう側で手を振っている律先輩の姿があった。

29: 2011/03/02(水) 23:46:45.94 ID:owQiyhiC0
「よ、おつかれ」

律先輩はそう言って、私の肩からひょいとバッグを取った。
大丈夫ですと口に出す前に律先輩は歩き始めて、慌てて後を追う。

「遅くなってすみません」

「今日風強かったもんなー」

「ですね」

複雑に流れる駅構内の雑踏を、律先輩は器用にひょいひょいと抜けて行く。
律先輩の肩で揺れる私のバッグに手を伸ばして、置いて行かれないように端を掴む。

律先輩は、大学に入ってからカチューシャを着けなくなった。
6対4くらいの割合で分けた前髪をラフに後ろに流しているので
オデコが出ているのは相変わらずだけど、なんだかちょっと大人びて見える。

「あ、そうだ。腹減っちゃったから先にご飯行くけどいいよな?」

「はい。でもスタジオの時間大丈夫なんですか?」

「ん、予約時間ずらしてもらったから」

「そうですか」

駅を出て横断歩道の前で立ち止まり、バッグから手を離して隣に並ぶ。
晩ご飯ってカレーですか?と問うと、律先輩は前を向いたまま声を上げて笑った。

30: 2011/03/02(水) 23:50:18.66 ID:owQiyhiC0

「あれ、唯がいないな」

スターバックスのオープンテラスに、談笑している澪先輩とムギ先輩の姿を見つけた。
ムギ先輩の右隣、空いている椅子に唯先輩のギターが立てかけられている。

先に澪先輩が私たちに気付いて、次いでムギ先輩が振り返る。
大きく手を振ってくれるふたりに、ぺこりと会釈で応える。

「唯先輩、トイレですかね?」

「待ち合わせの前にアイス食ったからなー。あ、あのふたりには内緒な」

「はあ、」

右手の親指で澪先輩とムギ先輩をこっそり指さした律先輩に、曖昧に相槌を打つ。
先輩たち、また体重とか気にしてるのかな。

31: 2011/03/02(水) 23:55:18.20 ID:owQiyhiC0
「あーずーにゃんっ!!!」

突然後ろからギターケースごと抱きつかれ、猫のような悲鳴がこぼれた。

「ちょ、唯せんぱ……」

私の鎖骨辺りに絡まった唯先輩の両手にぎゅっと力が入る。
隠れてたのかよという律先輩の呆れ声と、ニシシと唯先輩の笑い声が耳に届く。
私たちの横を歩いていたカップルがこちらを見て小さく笑った。

「もうっ、離れて下さいっ!」

腕を振りほどき、体を反転して2、3歩後ずさると、
唯先輩は宙に浮いた両手を所在無さげに揺らして口を尖らせた。

「ちぇーっ、まだあずにゃん分の補給完了してないよ」

「場所を考えてくださいよ、恥ずかしいです」

「えー、じゃあ他の場所ならいいのー?」

「揚げ足取らないでください!」

32: 2011/03/02(水) 23:59:24.74 ID:owQiyhiC0
「はいはい、お約束はそこまでなー」

律先輩が私の頭をぐしぐしと撫で、澪先輩たちのところに歩いて行く。
あずにゃん、行こ?と唯先輩に手を引かれ、小さく溜息を吐いて私も続く。

「ムギ先輩、澪先輩、こんにちは」

「梓ちゃんこんにちは。疲れてない?」

「はい、いえ、大丈夫です」

「これからご飯なんだけど、ここでちょっと休んでからにするか?」

私の顔を覗き込んだ澪先輩に、もう一度大丈夫ですと応えた。

33: 2011/03/03(木) 00:03:59.58 ID:8KpYZro40





【 律 】

5人全員が揃って、あっという間に夜の色に変わり始めた街を移動する。
先々週4人でスタジオ練習した帰り道、気まぐれに入って ” あたり ”だったカレー屋。

4人掛けと2人掛けのテーブルに3人と2人で分かれて座り、
テーブルの間と空いている椅子に楽器と荷物を押し込む。

「梓、好きなの頼めよー」

メニューを睨んでいた梓が、はっとした顔で私を見る。

「あっ、あの、今日は自分で払います!」

「ん?」

「だっていつもごちそうになってますし、スタジオ代も私だけ……」

「梓。梓が交通費を出す代わりに、スタジオ代と食費は私らが持つって決めただろ?」

梓の言葉を、澪がやんわりと遮る。

34: 2011/03/03(木) 00:08:23.62 ID:8KpYZro40
「でも、」

「そうよ梓ちゃん。私たちがしたくてしてることだから」

「……」

「あずにゃーん、私たち、月に1回あずにゃんに会えるの楽しみなんだよー」

梓の隣に座っている唯が、助け舟を出すように梓の顔を覗き込んでニッコリ笑う。
月に1度とはいえ、高校生の小遣いではこの街までの往復交通費は決して軽くない。

「そういうことだ。だからお前は遠慮せず甘えとけばいいんだぞー?」

「あ、えと……、わかりました。みなさん、いつもありがとうございます」

申し訳なさそうに下げた梓の頭を、唯がイイコイイコと撫でる。
微笑んだ澪とムギをちらりと見てから、手を上げて店員さんを呼ぶ。

「すいませーん、注文お願いしまーす」

35: 2011/03/03(木) 00:12:18.26 ID:8KpYZro40


最後まで迷っていた澪がようやく注文を終えて、皆一息吐いた。
なんとなくみんな黙って、出されたお冷やを一口飲む。

「あっ、あずにゃん、こないだの学園祭ライブほんとに良かったよ!」

唯が最初に沈黙を破り、澪とムギが大きく頷く。

「そうだな。1年生の音もまとまってたし」

「きっと梓ちゃんの指導がよかったのね」

「あずにゃんのオリジナル曲にはびっくりしたよ。憂も教えてくれなかったし」

梓は頬を染めて下を向くと、消えそうな声でどうもです、と呟いた。
普段は生意気だけど、こういう時は本当に素直で可愛い奴だ。

37: 2011/03/03(木) 00:16:31.91 ID:8KpYZro40
「……梓はほんとに、いい部長になったなー」

「えっ」

しみじみと言った私に、梓は驚いた顔を向けた。
あれ?そんなに驚くような発言だった?私もびっくりして梓を見返す。

「あっ……、いえ、律先輩に褒められたのがちょっと意外で」

「おい中野」

手を伸ばして、荷物を挟んで隣に座っている梓の頭を乱暴に撫でる。
やめてくださいよ、という梓の声と唯の笑い声に重なって、
携帯が振動する低い音が響いた。

「ん……、あーちょっとゴメン、電話」

澪は着信の相手を確認すると、立ち上がって出口に向かう。
店の外に出る直前、「はい、秋山です」というよそいきの声がかすかに聞こえた。

澪と入れ替わりに、注文したカレーが運ばれてくる。
……これはやっぱり、やるしかない……ですよね?

38: 2011/03/03(木) 00:21:18.93 ID:8KpYZro40





【 澪 】

「……で、これはなんだ」

電話を終えて戻ってきたら、テーブルには全員分のカレーが運ばれていた。

「キーマカレーですね」

私の席に置かれた皿をまっすぐ見つめ、律が真顔で答える。
唯とムギは顔を逸らして肩を震わせ、梓は溜息とともに視線を落とした。

「もう一度聞くぞ? 律、これはなんだ」

「……ちょーっと澪ちゅわんにサービスをしようと思っアフン!!」

ゴッ、と鈍い音とともに、律がテーブルに沈む。

私が注文したはずのキーマカレーには、オムライスのケチャップよろしく
紅い福神漬けで巨大なハートマークが描かれていた。

39: 2011/03/03(木) 00:26:30.01 ID:8KpYZro40
「大学生にもなって食べ物で遊ぶな!」

律の石頭を殴って痛む左手をさすりながら席に座り、
スプーンで福神漬けだけ掬って律のカレー皿に放り込む。

「あっ、ちょっ、澪やめっ!」

「うるさい!自己責任だ!」

皿いっぱいのハートマークを作るのに結構な量を使ったらしく、
律が頼んだカツカレーの、カツの上に福神漬けがてんこもりになった。

「うわぁ……ひでえ……」

「お前が言うな」

「……なんか、たこ焼きにのってる紅ショウガみたいですね」

梓がそう呟いた途端、唯とムギが盛大に噴き出した。
誰か止めようって気にならなかったのか、と、私は溜息を落とす。

40: 2011/03/03(木) 00:30:35.14 ID:8KpYZro40
「じゃ、いただきまーす」

皆で手を合わせ、各々スプーンを手に取る。

「残さず食べろよ?律」

対面に座った律に笑いかけてやると、律は黙ったまま涙目を私に向けた。



「……さっきの電話、誰から?」

しかめ面で福神漬けを咀嚼しながら、律が私を見る。

「ん?バイト先の親御さん。あ、そうだ、来週の練習参加できなくなった。ごめん」

「あー、カテキョの日程ずれたのか?」

「うん、木曜がどうしても都合つかないから金曜夜にしてくれって」

「そっか、了解」

唯とムギも、頷いて了承してくれた。
それぞれアルバイト先でシフトが組まれているので、
私ひとりの都合で簡単に練習日をずらすことができない。

41: 2011/03/03(木) 00:35:02.95 ID:8KpYZro40
「カテキョ?澪先輩、バイトしてるんですか?」

スプーンを持つ手を止めて、梓が私を見る。

「梓にはまだ言ってなかったっけ。夏休みの終わりから家庭教師のバイト始めたんだ」

「家庭教師ですか」

「子供ひとりが相手なら澪も緊張することないし、勉強教えるの上手いしなー」

「その節は、秋山先生に大変お世話になりましたっ!」

唯がぺこりと頭を下げ、律とムギが笑う。
世話したのは律、お前もだから。

43: 2011/03/03(木) 00:40:15.05 ID:8KpYZro40


接客が苦手な私に家庭教師のアルバイトを勧めてくれたのは律だった。
私の長所と短所をふまえた上で、出来るんじゃね?と背中を押してくれた。

アルバイトを始めてみると、実際、私の性格には合っていた。
初めて家を訪問した時はやっぱりガチガチに緊張したけれど、
担当している中学2年の女の子は飲み込みが早く、教えるこちらも楽しくなってくる。

「じゃあ、来週は練習休みにするか。唯も大切な用事があるしなー」

律はそう言って、ちょっとにやついた顔で唯を見た。
唯は口に入れようとしていたスプーンを止めて、あ、うん、と相槌を打つ。

「用事?」

「和が来るんだって、来週末」

ああ、なるほど。そういうことか。

44: 2011/03/03(木) 00:44:46.11 ID:8KpYZro40


高校の卒業式の日、つぼみが綻び始めた校庭の桜の下で、唯は和に想いを告げた。
そのことにも驚いたし、和があっさり受け入れたことにもっと驚いた。
泣きじゃくる唯と、柔らかく微笑んでなだめる和の姿を思い出す。

私はそんな二人の姿を、離れた場所からぼんやりと眺めていた。
隣にいた律とムギがどんな顔をしていたのかは知らない。

あの時の私は、友人の恋が実って嬉しかったのか、それとも、


「……、……おい、澪!」

「……あっ。え、何?」

はたと気付くと、律が私の顔を覗き込んでいた。

「どうしたんだ?ぼーっとして。みんな食べ終わったからそろそろ行くぞ?」

「あ、うん」

みんな既に立ち上がって店を出る支度をしている。
私はひとつ息を吐いて、ぬるくなった水を飲み干した。

46: 2011/03/03(木) 00:50:20.91 ID:8KpYZro40





【 紬 】

久し振りに作った新しい曲を、鍵盤でなぞっていく。
先週4人で一度合わせて、今日は梓ちゃんが加わって初めて全員での演奏。
まだ歌詞はできていないから、澪ちゃんがラララで唄う。

「……今の、すっごい、いい感じだったね?」

音の余韻を残すスタジオ内で、唯ちゃんがぽつりと呟く。
その言葉に皆が顔を見合わせ、次第に笑顔になる。

「ねえあずにゃん、さっきの間奏のリフって考えてきたの?」

「あ、はい。今日電車の中で思いついて。あと、ここなんですが……」

「ん、どこどこ?」

ギターパートの二人が床に座り込んでコード譜に何か書き始めた。
感覚で弾くリードギターの唯ちゃんと、基本を外さないリズムギターの梓ちゃん。
二人のバランスは、私たちのバンドの大切な特徴のひとつ。

47: 2011/03/03(木) 00:54:17.86 ID:8KpYZro40
りっちゃんは主旋律を口ずさみながら、スティックを太ももの上で弾かせている。
あ、ちょっと首を傾げた。あの様子だと2コーラス目の導入部に悩んでるのかな。

「なんか、弾いてるとワクワクしてくるな、この曲」

澪ちゃんが私を見て微笑んだ。ありがとう、と笑い返す。

「歌詞、遅れてごめんな。なかなか浮かばなくて」

「ううん大丈夫。どんな詞を考えてるの?」

「ちょっと待って」

澪ちゃんは作詞用のノートを手に取って目当てのページをめくる。
こんな感じなんだけど、と控えめに差し出されたノートを受け取る。
ノートに走り書きされた散文は、
クジラさんとかカモメさんとかハシビロコウさんとか。……スランプなのね。

48: 2011/03/03(木) 00:57:38.15 ID:8KpYZro40
「えーっと……、うん、急がなくていいから、ゆっくり考えてね」

「……ウン、」

あ、ちょっと涙目になっちゃった。上手くフォローできなかったみたい。

「あ、澪ちゃん、えっと」

「あ、わ、私、ちょっとベースのアレンジ考えてみるなっ!」

「う、うんっ、わかんないところあったら聞いてっ!」

「……なんでそんな慌ててんだお前ら」

りっちゃんからいいタイミングでツッコミをいただきました。

49: 2011/03/03(木) 01:01:41.25 ID:8KpYZro40

「ねえねえムギちゃん、ちょっといい?」

呼ばれて振り返ると、私を見上げるギターの二人。
私も一緒に床に座って真ん中に置かれたコード譜を覗き込む。
ここなんですけど、と梓ちゃんが譜面を指さし、
跳ねる感じのギターソロ入れたいんだけどどうかな、と唯ちゃんが続ける。

背中越しに、りっちゃんと澪ちゃんの声も届く。
軽くリズムを刻みながらアイデアを出し合っているみたい。
勢いだ、安定感だ、の言い合いはいつも通り。

こんなふうに、自分の曲がみんなの手で成長していく様子を見ているのがとても好き。
ついさっき、澪ちゃんにはゆっくりでいいって言ったけれど、
ほんとうは歌詞が乗ったこの曲を早く演奏してみたい。

50: 2011/03/03(木) 01:05:26.63 ID:8KpYZro40
何度か合わせてみて、りっちゃんの号令で練習は一時休憩。
スタジオの外にあるソファに座って、いつものティータイム。
持参したステンレスポットから甘い湯気が立つ。

「今日も美味しー!ムギちゃんありがと」

「どういたしまして」

「今日の練習はなんか充実してるーって感じだな」

「やってる!て感じだよね」

りっちゃんと唯ちゃんが握りこぶしを作って頷き合う。

「先月梓は学園祭があったから、全員で練習するの2ヶ月ぶりだもんな」

澪ちゃんがそう言って、梓ちゃんがハイ、と頷く。
……あれ、梓ちゃん、なんだか表情が固い?

51: 2011/03/03(木) 01:09:47.78 ID:8KpYZro40
「梓ちゃん?」

名前を呼んだら、梓ちゃんの肩が小さく跳ねた。

「! は、はい。なんですか?」

「梓ちゃん、どうかしたの?」

りっちゃんたちが私を見て、視線を梓ちゃんに移す。
全員に見つめられた梓ちゃんは少し居心地悪そうに前髪を直して、
紅茶の入ったカップを置いた。

「梓?」

りっちゃんが優しい声で名前を呼ぶ。

「あ、あの。今日は、みなさんに聞いていただきたいことが」

「なあに?」

のんびりと返した唯ちゃんの顔をちらりと見てから、梓ちゃんは背筋を伸ばす。

「私の、進路のことなんですけど……」

52: 2011/03/03(木) 01:13:06.57 ID:8KpYZro40





【 梓 】

「……そっか。すごいな、梓」

一瞬の沈黙のあと、澪先輩はそう言って口角を上げた。
実践的な音楽を学ぶため、大学ではなく専門学校を目指すことを
今日初めて先輩方に伝えた。

「あずにゃんは、ちゃんと将来のことを考えてるんだねえ」

唯先輩が眉尻を下げて微笑む。

「私なんて、大学入ってもぼーっと過ごしちゃってるよ」

「唯だって子供に関わる仕事したくて児童学科にしたんだろ?」

「んー、選んだ時はそう思ったんだけど」

「それは、ちゃんと考えてるってことじゃないのか?」

「そうなのかなあ、よくわかんないや」

そう言って唯先輩は首を傾げた。自分のことだろ、と律先輩が呆れる。

53: 2011/03/03(木) 01:17:33.46 ID:8KpYZro40
「じゃありっちゃんは?食物学科選んだのは理由があるの?」

「んー?……料理するのも食べるのも好きだから、かな」

「りっちゃんも曖昧だねえ。ふふふ」

「るせっ」

「……まあ、二人の事はともかく」

軽く流した澪先輩に、唯先輩と律先輩が唇を尖らせてブーイングする。
澪先輩は意に介さず、私を見て言葉を続ける。

「音楽の仕事って言っても色々あると思うけど、明確な目標はあるのか?」

「あ、えと、」

改めて先輩方に見つめられ、緊張の度合いが高まる。

今日はこのことを話しにきたんだ。
気持ちを落ち着けるためにゆっくり息を吸って、吐く。

54: 2011/03/03(木) 01:21:36.15 ID:8KpYZro40
「……あの、そのことで、先輩方にお聞きしたいことがあります」

「ん?何?」

聞き返した律先輩と視線を合わせ、それから澪先輩、ムギ先輩、最後に唯先輩を見る。
先輩方は私の気持ちを察したのか、黙って次の言葉を待っている。

「先輩方は、バンドのこれからのこと、どう思っていますか?」

「……どう思う、って?」

「律先輩、」

「お、おう」

私が名を呼ぶと、律先輩はちょっとかしこまって応えた。

「武道館で演奏するって言葉、あれは冗談ですか?それとも本気ですか?」

「え、」

律先輩が面食らった顔で沈黙する。

55: 2011/03/03(木) 01:25:49.27 ID:8KpYZro40
「……私は、」

一度言葉を切る。コクリと唾を飲み込んで、もう一度勇気を出す。

「私は、このバンドをずっと続けて行けたら嬉しいと思ってます」

「……」

「いつかは、プロのミュージシャンとして、です」

そうはっきりと言葉にしたら何故だか視界が潤んで、慌てて下を向いた。

「……放課後ティータイムで、メジャーデビューしたいってこと?」

穏やかな声で澪先輩が言葉を繋いでくれた。私は下を向いたまま頷く。

57: 2011/03/03(木) 01:30:33.98 ID:8KpYZro40
「先輩方にそのつもりがないなら、他のバンドを組むってことも考えました。でも、」

「……」

「私やっぱり、一緒にやるなら、この5人じゃないと嫌なんです」

「……」

「子供じみた願望だって、自分でも分かってるんですけど」

ぽたり、と、握りしめた手の甲に雫が落ちた。

あ、私今泣いてる。そう自覚するのと同時に、ふわりと抱きしめられた。

「あずにゃん、ゆっくりでいいよ」

唯先輩が私の肩を抱いて、やんわりと微笑む。

58: 2011/03/03(木) 01:34:21.14 ID:8KpYZro40
「すみません、全然、泣くような話じゃないのに」

「いいよ、大丈夫」

「すみません」

先輩方は何も言わず、私が落ち着くのを待ってくれる。
やさしく頭を撫でられて、次第に肩の力が抜ける。
目を閉じて、鼻をすすって、もう一度顔を上げた。

「父の仕事柄、音楽業界でやっていくのが厳しいのも少しは分かってるつもりです」

「……」

「……だから、先輩方の気持ちをお聞きしてから、何を学ぶか決めようって」

「……梓」

「お返事はすぐじゃなくていいです。皆さん、一度考えてみていただけませんか?」

私の言葉に、先輩方は戸惑った様子で顔を見合わせた。

59: 2011/03/03(木) 01:38:56.76 ID:8KpYZro40





【 律 】

練習時間を終えて皆でJR線に乗り、
先に降りる唯と、唯の部屋に泊まるムギと梓を車内から見送った。

ドアが閉まり、ホームに立つ3人の姿が見えなくなるまで手を振る。
それから最寄り駅に着くまでの間、私も澪も一言も喋らなかった。

改札を出て、駅前の商店街を抜ける。
金曜の夜だからか、アチコチで酔客の笑い声が響く。
もうすぐ日付が変わるこんな時間でも、この街は明るい。

「……賑やかだな」

特に感情も込めず呟いた澪に、ああ、と相槌を打つ。

61: 2011/03/03(木) 01:43:09.10 ID:8KpYZro40
「でも、驚いた」

「梓のこと?」

「うん」

あんなふうに私たちとのことを考えてくれてたんだ。
澪はそう言って、少し口角を上げた。

「澪は嬉しいのか?」

「あそこまで好きでいてくれたことは嬉しいし、正直ちょっとドキドキした」

「……」

「でも、律が乗り気じゃないのは意外だったな」

「え?」

「よっしゃーじゃあいっちょやるかー!みたいに言うかと思った」

澪は左手で小さくガッツポーズを作って、私を真似た仕草をしてみせる。

「あー……。なんか、そういう空気じゃなかったしな」

「……うん」

苦笑いをした私を見て、澪は振り上げた手を力なく下ろす。また沈黙。

62: 2011/03/03(木) 01:47:16.43 ID:8KpYZro40
騒がしい商店街を抜けて、静かな住宅街の路地に二人の足音が響く。
私は足元に落ちた自分の影を追うように歩く。

「……でもさ、」

「うん?」

「もしバンドを続けていけば、ずっと一緒に居られるんだよな」

「……」

「……律とも」

聞き取れないくらいの小さな呟きに、弾かれたように澪を見た。
澪は少し顎を上げて、灰色の空にぼんやり光る月を眺めている。

63: 2011/03/03(木) 01:51:27.42 ID:8KpYZro40
「私さ、律には感謝してるんだ」

「え」

「大学入る前、ルームシェアしようって言ったのを律が断っただろ?」

「……ああ、」

「私、初めて実家離れて、初めての街で一人暮らしをするのが怖くて」

「……」

「あの時律がOKしてたら、きっと律に依存して、ひとりじゃ何も出来ずにいた」

「……」

「ありがとうな、律」

澪がこちらに顔を向けて微笑んだ。
私は出来る限り平静を装って目を逸らし、再び自分の影を見る。

65: 2011/03/03(木) 01:55:37.55 ID:8KpYZro40
「……別に、私は何もしてねーし」

「うん、だからそれを感謝したいって話」

「なんだそれ」

顔を見なくても、声色で澪が微笑んでいるのが分かる。
……そんなこと、笑顔で言わないでくれ。頼むから。


「それじゃ、おやすみ」

「ああ、おつかれ。おやすみ」

澪のマンションの前で、手を振ってわかれる。
オートロックを開け自動ドアをくぐる前に、澪は振り返ってもう一度私に手を振った。
澪の姿が見えなくなるまで見送って、私は再び歩き出す。

澪の部屋から歩いて3分ほど先にある、自分の部屋に向かう。
静かな路地。我ながら足取りが重い。溜息をひとつ吐いて、空を見上げた。
月の光に薄く照らされた雲が滑るように流れて行く。上空はまだ風が強いようだ。

梓の話に戸惑った本当の理由を、澪が知ったらどう思うだろうか。
そう考えただけで、ちょっと泣きそうになった。

66: 2011/03/03(木) 02:00:41.71 ID:8KpYZro40





【 唯 】

「上がって上がって。ちょっと散らかってるけど」

玄関の白熱灯を点けて、ムギちゃんとあずにゃんを迎え入れる。
二人は靴をきちんと揃えて部屋に上がり、壁際に荷物を置いた。

「……確かに散らかってますね、主に洗濯物とお菓子の袋が」

あずにゃんが呆れた声を出して、ムギちゃんが少し困った顔で笑う。

「いや~今朝家を出るとき、ちょっと時間がなくってねえ」

普段は片付いてるんだよ、と言わなくてもいい言い訳をしながら急いで片付ける。
ちゃんとご飯食べてるんですか?お菓子じゃダメですよ、
服もすぐ畳まないと皺になるし、と、あずにゃんが続けざまに駄目出しする。

68: 2011/03/03(木) 02:04:55.75 ID:8KpYZro40
「ま、まあまあ。お風呂の用意してくるから、のんびり座ってて」

「唯ちゃん、キッチン借りてもいい?」

「いいよ~、好きに使って」

ムギちゃんはありがとうと笑って、バッグから小袋を出した。


順番にお風呂に入って、ほかほかと暖まったところで
ムギちゃんが美味しい紅茶を淹れてくれた。
戸棚に入れておいたクッキーをお皿に出して、テーブルに置く。

「もう唯先輩、こんな時間に食べたら太りますよ」

あずにゃんの言葉にムギちゃんが小さく反応して、
クッキーに伸ばしかけた手を引っ込めた。

70: 2011/03/03(木) 02:08:34.32 ID:8KpYZro40
「で、でも、ムギちゃんも泊まりに来るなんて珍しいね」

「あ、うん、梓ちゃんとも、もうちょっとお話したかったから」

ムギちゃんの言葉に、あずにゃんが背筋をぴんと伸ばした。

「……あ、あの、先輩」

「なあに?」

「今日はいきなりあんなこと言って、すみませんでした」

「えー?別にあやまることじゃないよ?」

また緊張した顔を見せるあずにゃんに笑いかける。
ムギちゃんも、そうよ梓ちゃん、と微笑んだ。

「私ね、梓ちゃんの気持ちが嬉しかったの」

「えっ、」

71: 2011/03/03(木) 02:12:39.36 ID:8KpYZro40
「私も、みんなとずっと一緒にやりたいわ。放課後ティータイム」

「ムギ先輩……」

あずにゃんは瞳を潤ませて、スタジオの時みたいにまた下を向いた。
洗いたての長い髪が頬にかかる。

「……あの、ちょっと、正直に言ってもいいですか?」

「うん?」

「私、ムギ先輩がいちばん難しいんじゃないかって思ってたんです。バンド活動」

「あら、どうして?」

ムギちゃんは笑顔のまま、あずにゃんの次の言葉を待っている。

「ムギ先輩、将来はきっとご実家のお仕事を継がれるんだろうなって思って……」

72: 2011/03/03(木) 02:17:17.09 ID:8KpYZro40
「そういうこと、ね」

そう言われるのを予想していたように、ムギちゃんはニコニコしている。
それから眉をキュッと上げて頬を膨らませ、わざとらしく怒った顔を作った。

「もう、梓ちゃんもみんなも、私の家のこと誤解しすぎよ!」

「えっ」

思わず出た声が、あずにゃんと揃う。

「大学で経済学とかを学んではいるけど、家の事業を継ぐのはまた別の話」

「……」

「確かに父と母はどこかで期待してるかもしれないし、説得に骨が折れるかもだけど、」

「……」

「私の未来は、私のものでしょ?」

「!」

「……なーんちゃって」

ムギちゃんは眉を下げて、テヘッと舌を出した。
私は思わず拍手する。ムギちゃん、カッコイイよ。

74: 2011/03/03(木) 02:22:10.52 ID:8KpYZro40

「それで、唯ちゃんはどうなの?」

ムギちゃんは笑顔のままで、私に話を振る。

「んー?私もいいよー」

「えっ」

あずにゃんが驚いた顔で私を見る。あずにゃん、今日はびっくりし過ぎだね。

「私もみんなと音楽やるの大好きだし、他にやりたいこと思いつかないし」

「そ、そんな……そんな軽い感じでいいんですか?」

「えー?いいんじゃない?」

紅茶が冷めてしまう前に、一口啜る。

「……唯先輩を見てると、緊張してた自分がばかみたいです」

はあ、と溜息を吐いて思い切り脱力したあずにゃんと私を交互に見て、
唯ちゃんらしいねとムギちゃんが笑った。

75: 2011/03/03(木) 02:27:15.70 ID:8KpYZro40
「でも、りっちゃんの反応はちょっと意外だったかな」

「……私も、律先輩は大丈夫かもって、ちょっとだけ期待してました」

「今日のあずにゃんは正直だねえ」

「もう、茶化さないで下さい」

あずにゃんの話を聞いていちばん戸惑っていたのは、多分りっちゃん。
平気なふりをしていたけど、あのあとの練習でもなんだか上の空だったし。

「律先輩、何かやりたいこととかあるんでしょうか?」

あずにゃんの質問に、私とムギちゃんは顔を見合わせる。

「んー? 聞いたことないねえ」

「私も。……あ、でも、」

「うん?」

「りっちゃんって、結構冷静っていうか、現実的なところあるから」

あー、うん。そうだね。

76: 2011/03/03(木) 02:32:00.27 ID:8KpYZro40
「澪先輩は、どちらとも言えない感じでしたね」

「そうねえ」

「澪ちゃんは真面目だから、ちゃんと考えて返事してくれるよ」

そう言った私に、あずにゃんは少しほっとした顔で相槌を打った。

「……でもなんだか新鮮ね、この3人で話してるの」

「あ、そうですね。あんまりなかったですね」

ムギちゃんとあずにゃんが視線を合わせて、ちょっと照れ笑いをする。

「ふふ、子猫ちゃんたち、今夜は寝かさないよ?」

「そんなこと言っておいて、きっと唯先輩が最初に寝ちゃうんですよ」

「なにおう、生意気なあずにゃんめ!こうしてくれる!」

「あっ!ちょっ、やめっ、」

抱きついて、脇の下をくすぐってやる。
あずにゃんは泣き笑いしながら、やめてください唯先輩と必死に抵抗する。
わーいじゃあ私もー、と後ろから声が聞こえて、ムギちゃんにギュッと抱きつかれた。

77: 2011/03/03(木) 02:38:04.24 ID:8KpYZro40

あずにゃんは軽い感じでって言ったけど、
私、こんなふうにずっとみんなで過ごせたらいいなって思ったんだよ。

音楽が仕事になったら、多分想像もつかないような大変なこともあるんだろうけど、
でもね、みんなと一緒ならそれも楽しめるんじゃないかなって。

そう考えるのは、まだ私が子供だからなのかなあ。
それでも、やりたいと思うことをやるほうが幸せになれる気がするよ。

りっちゃんと澪ちゃんも、そう思ってくれるといいね。

79: 2011/03/03(木) 02:42:21.89 ID:8KpYZro40





【 律 】

「んーっ、……はぁ、だりぃ」

大きく背伸びをして溜息を吐く。これから一旦部屋に帰って、20時からバイト。
明日のスタジオ練習は休みだから、何をしようかなぁなんてぼんやり考える。

……梓への返事も、早くしてやらないとな。

ふと、視界の先に見慣れた後ろ姿を見つけた。小走りで追いついて肩を叩く。

「ゆーいっ、駅まで一緒に……、唯?」

振り返った唯の表情を見て驚く。
小刻みに震える手には携帯が握られている。

80: 2011/03/03(木) 02:46:25.49 ID:8KpYZro40
「……りっぢゃん……」

「どうした、なんかあったのか?」

そう訊ねると、唯はぽろぽろと涙をこぼして私に抱きついた。

「お、おい、唯」

「和ぢゃんが、和ぢゃんが……」

「?! 和がどうした!」

「……風邪引いて、明日、来られなくなったって」

あちゃー。

81: 2011/03/03(木) 02:50:30.34 ID:8KpYZro40

大学近くのカフェに入って、唯にロイヤルミルクティーを奢ってやる。
自分のカフェオレを啜りながら、唯が落ち着くのを待つ。
今日は部屋に帰らずバイト先に直行だな。

和は熱も出ているらしいから長旅は無理だろう。
さすがに唯も我が侭言えず、ドタキャンした恋人を想ってさめざめと泣くしかない。
唯は鼻をかんで、ありがとうりっちゃん、と小さな声で言った。

「明日は暇だし、なんなら私が泊まりに行こうか?話し相手くらいにはなるぞー」

和の代わりにはならないけどなと付け足すと、唯はちょっと眉を下げて笑った。

「いいの?あ、私もりっちゃんと話したいことあった」

「ん?……ああ、あの話か?」

唯はうん、と頷いた。

82: 2011/03/03(木) 02:54:14.35 ID:8KpYZro40
「ねえりっちゃん、澪ちゃんはどう思ってるのかな」

「んー、澪とはあの話してないからよくわかんない」

「ふーん、そうなんだ」

どうしてとは聞かず、唯はミルクティーを一口飲んで、ほうと息を吐く。

「唯はどう思ってるんだ?」

「いいよって言ったよ。ムギちゃんもやりたいって。あの日うちで話したよ」

「え、ムギも?」

「うん」

意外だった。唯はともかく、ムギも即答とは。
心臓のあたりがチリチリと痛む。

83: 2011/03/03(木) 02:58:44.63 ID:8KpYZro40
「りっちゃんは?」

「え、私?私は……」

言い淀んだ私を見て、唯が質問を重ねる。

「ほかに何かやりたいこととかあるの?」

「や、そういうわけじゃないけど……」

答えに窮して、頭をばりばりと掻く。
唯は少し首を傾げたまま私の言葉を待っている。

「なんていうか、ほら、やっぱ音楽で食ってくの、大変そうだし?」

「……うん」

「生半可な覚悟じゃ、できないだろうし」

「……」

「それに、えーと……」

85: 2011/03/03(木) 03:04:54.19 ID:8KpYZro40
「……りっちゃん、」

「ん?」

「りっちゃんが悩んでるのは、そんなことが理由じゃないよね」

唯はやけに真面目な顔で、確信をもってそう言い切った。
私はボケることもツッコむことも出来ず、唖然として唯を見る。

唯はしばらく私の顔を見て、それからふっと肩の力を抜いた。

「うーん、でも、まあいいや。りっちゃんが話したくないんなら聞かない」

「……」

「だけど、私で相談に乗れるなら、いつでも聞くからね?」

こいつは普段ぽやんとしているくせに、
どうしてこうピンポイントで鋭いことを言ってくるんだろう。

「このロイヤルミルクティーのお礼にネ!」

下手なウインクをしてみせた唯に、私は苦笑いを返した。
いろんな意味で、唯にはかなわない。

87: 2011/03/03(木) 03:09:00.42 ID:8KpYZro40





【 梓 】

「あーっ、もうダメ!エネルギー切れ!」

「純うるさい、ここ図書室」

参考書を投げ出してテーブルに突っ伏した純をたしなめる。

図書室の長机は、放課後には赤いタイを着けた生徒で半分くらい埋まっている。
日が経つごとに、漂う緊張感がほんの少しずつ強くなっている気がする。

「ちょっと休もうか」

純の向かい側で黙々と英文を訳していた憂が、顔を上げて苦笑いする。

89: 2011/03/03(木) 03:12:58.74 ID:8KpYZro40
「ねー、部室にお茶しに行こうよ?」

「1年の子たちの邪魔になるよ。……純を見てると、なんか律先輩を思い出す」

「えー、じゃあ大丈夫じゃない?律先輩も受かったし」

随分と暢気なことを言う。何気に失礼な発言だよそれ。

「律先輩には、澪先輩っていう専属家庭教師がいたからね」

「あっ、澪先輩カテキョのバイトしてるんだっけ。いいなー私も教えてもらいたい」

純は駄々っ子のように唇を尖らせ、束ねた癖毛をパタパタと揺らす。

「散々憂に助けてもらっといて、どの口が言ってんの」

「梓は専門学校だから入試もラクだし、いいよねー」

「梓ちゃんは、学校に入ってからが大変だね」

やんわりと憂がフォローに回る。

90: 2011/03/03(木) 03:17:29.08 ID:8KpYZro40
「あっ、バンドのこと先輩たちに言ったんでしょ?返事はなんて?」

「え?うん、唯先輩とムギ先輩は、一緒にやりたいって」

言ってくれたよと応えて、ちょっと憂を見る。
憂は私と視線を合わせてニッコリと微笑んだ。

「うん、お姉ちゃんから聞いたよ。嬉しそうだった」

「へーよかったじゃん。澪先輩と律先輩は?」

「あのふたりからは、まだ何も」

「そうなんだ?いい返事してもらえるといいね」

「……うん」

91: 2011/03/03(木) 03:21:59.06 ID:8KpYZro40

先輩方にあのことを話してから、今日で一週間。

いつものように一斉メールでの雑談はしていても、誰もその話には触れない。
唯先輩とムギ先輩はきっと律先輩と澪先輩への配慮からなんだろうけど。

……もしかして迷惑だったのかな。

こっちから切り出したほうがいいのかな。でも急かしてるようで申し訳ないし。
時間が経てば経つほど、不安な気持ちが大きくなる。

これじゃまるで、入試結果を待っている受験生の気分だ。

92: 2011/03/03(木) 03:26:13.43 ID:8KpYZro40





【 ー 】

窓の外から防災無線の時報が聞こえる。

5時になりました。みんなおうちに帰りましょう。

窓は夕焼け色に染まり、いつの間にか薄暗くなった部屋の中、
蛍光灯を点けようと立ち上がりかけた澪の腕を掴んで強く引っ張る。

短い悲鳴。

テーブルの上のグラスが倒れる。

グラスからこぼれたオレンジジュースが、
退屈な数式を書きなぐっていたノートと教科書と消しゴムとシャープペンシルを飲み込む。

93: 2011/03/03(木) 03:30:10.16 ID:8KpYZro40
澪。

仰向けに倒れた澪の顔の横に両手をついて、名を呼んだ。

なに、と、私を見上げたまま澪が応える。

桜高、一緒に受かるといいな。

澪が小さく頷く。

澪、

なんだ、と、少し眉を寄せて澪が応える。

バンド、一緒にやろうな。約束だぞ。

うん、と、澪がまた頷く。

94: 2011/03/03(木) 03:34:24.66 ID:8KpYZro40
……みお、

面倒臭そうに、なんだよ、と澪が応える。

キス、しない?

頭の後ろのほうで自分以外の誰かが言ったような、変な感覚。

嫌だ。少し怒った顔で、澪が返す。

しようよ。

嫌だって。澪の表情が歪む。

なんで?

変だよ。汚いものを見るような目。

……なんで

澪の頬にぽたりと落ちたのは、私の涙か。

変だよ、そんなの、おかしいよ。そんなの、女同士で、そんなの、気持ち悪い……

95: 2011/03/03(木) 03:38:35.93 ID:8KpYZro40





【 律 】

激しく体を揺すられる感覚に、はっとした。くわんくわんと意識が揺れる。

輪郭が曖昧な視界の中で、誰かが私を見下ろしているのがぼんやり見えた。
りっちゃん、と呼ぶ声で、それが唯であることを認識する。

ああそうか、今日は和の代わりに唯の部屋に泊まりに来ていたんだった。

97: 2011/03/03(木) 03:42:13.86 ID:8KpYZro40
「大丈夫?怖い夢見たの?」

「え……」

「りっちゃん、うなされてたから」

「あ、うん……」

久し振りにあの夢を見た。ここしばらくは見ていなかったのに。

右手の袖で両目を拭って体を起こす。
私のすぐ横に座り込んでいる唯の顔が近くなる。

「お水、持ってこようか?」

そう言って立ち上がりかけた唯の腕を掴む。

「いい、大丈夫。それより、話、聞いて欲しい……」

唯はうん、と小さく応えて、静かに座り直した。

98: 2011/03/03(木) 03:46:12.59 ID:8KpYZro40
「……唯、いつから気付いてた?」

「りっちゃんが澪ちゃんを好きなこと?」

唐突で曖昧な問いに、的確な答えが返ってくる。ほっとして、頷く。

「んと……軽音部に入って、みんなでギター見に行った時くらいから」

「ちょ、そんな前かよ。ってかほとんど会ってすぐじゃん」

驚きすぎて思わず笑った私を見て、唯がエヘヘと表情を崩した。

「なんで?私そんな分かりやすかった?」

「ううん、最初は普通に仲良しだなーって思ってたけど、」

「……」

「たまに、ほんとにたまーに、澪ちゃんとの距離測ってるような時があって」

「……」

「それで、りっちゃんも私とおんなじなのかなって」

「……そっか」

こくりと唯が頷く。

99: 2011/03/03(木) 03:51:14.65 ID:8KpYZro40
「でも私は全然気付かなかったぞ?唯のこと。いつも和に平気でくっついてたし」

「うーん、距離っていうのは、そういうことじゃなくって」

関係を崩さずにいられるギリギリの、気持ちの距離のことかな、と、唯が小さく笑う。


澪に対して幼馴染みのそれとは違う感情を抱いていることに気付いてから、
同じ夢を繰り返し見るようになった。

求めて、酷く拒絶される夢。

自分の願望とやましさが作り上げた夢の中の澪は
いつしか意識の奥底に居座って、どうしようもない絶望感を植え付けた。

100: 2011/03/03(木) 03:55:40.96 ID:8KpYZro40
「大学に入ったらさ、」

「うん」

「お互い新しい友達が出来て、バイトとかして、そのうち澪に好きな人が出来て、」

「……」

「澪との距離もいい具合に離れて、普通に幼馴染でいられるんじゃないかって思ったんだよな」

うん、と、唯が相槌を打つ。

「だから入学前、澪にルームシェアしようって言われたのも断ったし」

「……そうだったんだ」

「でも、逢う時間が減ると、もっと逢いたくなるのな」

唯が言った通りだ、と笑うと、愛しい人を思い出したのか、唯は少し寂しそうな顔で頷いた。

101: 2011/03/03(木) 04:00:29.75 ID:8KpYZro40
「ずっと一緒にバンド続けたいって梓が言った時、私嬉しかったんだ」

「うん」

「でも、そうなったら、澪との距離は変わんないままで、だから、」

「……うん、」

あれ?と思って、唯を見る。

「……唯?」

「うん?」

「なんで唯が泣いてんだよ」

「ふぇ?」

私と視線を合わせたまま、唯の両目からぱたぱたと大粒の涙がこぼれおちた。

「あ、あれ?」

「ああほら鼻水出てるって、ティッシュどこだ」

唯が座っているすぐ後ろにボックスティッシュを見つけて、
2、3枚引き抜いて鼻に押し付けてやる。
唯はティッシュを手で押さえて、思い切り鼻をかんだ。

102: 2011/03/03(木) 04:06:01.76 ID:8KpYZro40
「えへへ、ごめん……。自分が悩んでた時のこと、思い出しちゃった」

袖口で涙を拭って、唯が恥ずかしそうに笑う。

「つらいのに、誰にも相談できなくて、気持ちばっかり大きくなっちゃって」

「……」

「とにかく、ばれないようにって、もぉ、どっちにも、進めなくなっちゃうん、だよね」

語尾が震えて、唯の目からまた涙があふれだす。

「ああもう、また泣く……」

てのひらで涙を拭いてやると、唯はしゃくり上げながらちょっと首を傾げた。

「りっちゃんも、泣いてるよ?」

言われて、涙が頬を伝っていることに気付く。

首の後ろに手が回ってぎゅっと抱きしめられた。鼻がツンと痛む。
唯の肩に顎を預けて、両手を背中に回す。暖かくてやさしい匂い。

103: 2011/03/03(木) 04:09:38.92 ID:8KpYZro40
「私ね、りっちゃんのこと応援してるよ」

「……うん」

「それにね、」

「ん?」

「……ううん、りっちゃんが泣き止むまで、こうしててあげるからね」

「私も、唯が泣き止むまでこうしてる」

唯の背に回した手に力を込める。

「えぇー、慰めてるのは私だよ?」

「……ありがとな」

そう言った私に、唯はロイヤルミルクティーのお返しだよと笑った。

105: 2011/03/03(木) 04:13:13.58 ID:8KpYZro40



……どこからかメロディが聞こえる。
次第に意識が覚醒して、朝がきていることに気付く。

鳴っているのは唯の携帯。持ち主はまだ夢の中だ。
アラームなら止めてやろうと思い、ごそごそと布団を這い出て唯の携帯を手に取る。

「……あ」

アラームではなく着信だった。
表示された名前を見て一瞬考え、通話ボタンを押す。

『唯?おはよう』

久し振りに聞く声。様子からして、まだあまり調子は良くなさそうだ。

「おはよ~和ちゃん」

『……久し振りね、律。その様子だと寝起きかしら?』

唯の声真似はスルーされ、何時だと思ってるのと言われて時計を見る。

107: 2011/03/03(木) 04:17:43.93 ID:8KpYZro40
「おぅ……10時半過ぎとるやないかい」

『唯はまだ寝てる?』

「ああ、ぐっすりな。体調はどう?」

『あんまりよくないわね』

小さく鼻をすする音が聞こえる。

「唯の落ち込みようったらなかったぞ」

『私も、落ち込んでるわ』

声のトーンを変えず、和が言った。ああそうか、そうだよなあ。

108: 2011/03/03(木) 04:22:21.95 ID:8KpYZro40
『唯に付き合ってくれてありがとね』

「いや、私が唯に付き合ってもらったようなもんだから」

『え?』

「なあ和、」

『なあに?』

「私、唯のこと好きになっちゃうかも」

『……そう。それじゃ唯に伝えておいて、律に気をつけなさいって』

声を上げて笑ったら、りっちゃんどうしたのー?と寝ぼけた声で
携帯の持ち主が布団から顔を出した。

109: 2011/03/03(木) 04:26:56.36 ID:8KpYZro40





【 澪 】

昼過ぎに律からメールがきて、夕方過ぎてインターフォンが鳴った。
エントランスのオートロックを解除して1分、今度は玄関の呼び鈴が鳴る。

「いらっしゃい」

「おっじゃまっしまーす」

スーパーの買い物袋を両手に下げた律が、靴を脱ぎ散らかして一直線にキッチンに向かう。
ドアの鍵を掛けて、靴を揃えて私も後を追った。

「うちでご飯作らせろなんて、急にどうしたんだ?」

「新作料理考えてて。ほらうちのキッチン狭いじゃん?折角だし味見もしてもらおっかなーと」

「調理実習か何か?」

「んー?まあ、そんなとこ」

袋から出した食材をシンク横の小さな調理台に並べながら、律がニカッと笑う。

111: 2011/03/03(木) 04:33:46.67 ID:8KpYZro40
「ふーん、ちゃんとやってるんだな、律も。あっ、食材費、私も出すよ」

「いーって。澪はキッチンだけ貸してくれれば」

「そうか?」

「ん、作ってる間、歌詞でも考えてなさい」

「うっ……」

ほれ邪魔邪魔、とキッチンから追い出された。仕方なく部屋に戻ってソファに座る。
座ったまますこし背伸びすると、対面キッチンの中で忙しく動く律が見える。
溜息を吐いて、バッグから作詞用のノートとペンを出してテーブルに広げた。

ムギに新曲をのデモ音源を貰ってから2週間。まだ歌詞は浮かばない。
頬杖をついて、窓の外に見える夕焼け空にのんびり漂う雲を追う。

113: 2011/03/03(木) 04:37:14.86 ID:8KpYZro40
「歌詞、ずいぶん苦しんでるみたいだな」

キッチンを見ると、ボウルを抱えてこちらを覗いた律と目が合った。

「ああ……久し振りの新曲だと思ったら、なんか気負っちゃって」

「ふぅん、別にいつもどおりでいいんじゃね」

律がなにやらバリバリと袋を開ける音が響く。

「簡単に言うなよ……」

「んー、じゃあ、英文学科らしく全文英語で、とか?」

「英語か……」

いいかも……と思いかけて、はたと気付く。
いや、だから、英語もなにも詞の内容が浮かばないと始まらないだろ。

私は額に手を当てて、真っ白なページの上に大きな溜息を落とした。

114: 2011/03/03(木) 04:41:24.16 ID:8KpYZro40



「……美味し」

「だろー?」

出されたのは、律特製のヘルシーハンバーグ。

「豆腐と鶏ミンチがベースだから、カ口リーも低いぞ」

「このしゃりしゃりしてるのは何?」

「レンコン」

付け合わせは蒸したインゲン、人参、ブロッコリー。素材の甘さが口にやさしい。
私が体重を気にしているのを覚えていたんだろうか。

「多めに作って冷蔵庫に入れておいたから、早めに食えな」

「うん、ありがとう」

本当に美味しくて、あっという間に食べ終わった。
律がカップに暖かいお茶を注いでくれる。

115: 2011/03/03(木) 04:45:03.00 ID:8KpYZro40
「ふぅ……。ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

手を合わせ、それから律と視線を合わせてちょっと笑う。

「ほんと料理上手くなったな」

「こう見えて、食物学科の学生ですわよ」

「……将来は、料理関係の仕事目指すのか?」

私の言葉に、律が少し眉を上げる。

一緒にバンドを続けていきたいと言った梓の言葉を忘れているわけじゃない。
だけど律は、いや、律も私も、まだ梓に返事をできないままでいる。

私の答えは決まっているんだ。だから、あとは律の答えを待つだけ。

117: 2011/03/03(木) 04:48:36.31 ID:8KpYZro40

「……澪、」

律が私の名前を呼ぶ。

「なに?」

「……あっ、えっと、コーヒー飲む?」

「あっ、うん」

なんだか慌てたふうの律に、こちらもちょっと返事がうわずる。

「食器片付けないとな」

律はそう言って、膝立ちになって食べ終わった食器を重ね始めた。

「あ、片付けは私がやるよ。ご飯作ってもらったし」

「そ、そか?じゃあ、その間コーヒー淹れるな」

「うん」

118: 2011/03/03(木) 04:52:09.59 ID:8KpYZro40
二人並ぶとちょっと狭いキッチンで、私は食器を洗い、
律は細口ケトルで湯を沸かしてドリップの準備をする。

洗い終わった食器を順に籠に立てていく。
最後の1枚を洗い終えて、蛇口をひねって湯を止める。
ケトルの口から水蒸気が噴き出して、律も火を止めた。

洗った食器を今度は拭いて、大きいものから順に食器棚に戻す。
律は沸騰した湯が少し冷めるのを待ちながら、
二人分のカップに湯を注いで温める。

手元から箸がこぼれ、カツンと小さな音を立てて床に落ちた。

119: 2011/03/03(木) 04:56:46.62 ID:8KpYZro40
あ、と同時に声を出して、かがんだ拍子に額がぶつかる。

「~~~ッ!」

目の前に星が飛んだ。あまりの痛みに声も出ない。
キッチンの床にしゃがみこんだまま、二人して額を押さえ痛みが引くのを待つ。

「……い、ったぁ。この石頭」

「お前もな……」

二人同時に噴き出す。

目を開けると、視線のすぐ先に落とした箸が転がっている。
拾い上げようと伸ばした私の左手を、律の右手が強く掴んだ。

120: 2011/03/03(木) 05:01:00.91 ID:8KpYZro40





【 律 】

目の前に伸びた澪の左手を、とっさに掴んでしまった。
掴んだはいいが、どうすればいいかわからない。

りつ?と、不安そうな声で、澪が私の名前を呼んだ。
右手が熱い。落ち着け心臓。何か言え私。

「み、みおっ」

顔を上げたら至近距離で視線がぶつかって、頭が真っ白になる。

「なに?」

「……澪、」

自分の声が頭の後ろのほうから響いて、
まるで自分以外の誰かが喋っているようだ。

「だから何」

「キス、しない?」

121: 2011/03/03(木) 05:05:08.04 ID:8KpYZro40

至近距離のまま澪は目を見開いて、私を見る。
澪の黒い瞳の中に映っている、自分の姿が見える。

「…………嫌だ」

澪は少し怒った顔をして私の右手を振りほどくと、立ち上がって私に背を向けた。
くらりと視界が揺れて、脳裏に夢の中の澪が浮かぶ。


……ああ、やってしまった。


力が入らない足で立ち上がって、シンクのふちに手を置く。
澪は背を向けたまま、黙って俯いている。

死刑宣告を受ける犯罪者のような気持ちで、澪の言葉を待つ。
こんな時でも、澪の髪はほんとうに綺麗だな、と思ってしまう。

122: 2011/03/03(木) 05:08:55.89 ID:8KpYZro40

「……違う、だろ」

絞り出すように、小さな声で澪が呟く。

「……」

「順序が、違うだろ」

「……へ?」

言われた意味が一瞬わからず、間の抜けた声が出てしまった。

「ばか」

きれいな黒髪から覗く両耳が赤いことに、ようやく気付く。

「……澪、」

その名前を呼ぶ声がかすれる。
澪はこちらを向かずに、もういちど、ばか律、と呟いた。

123: 2011/03/03(木) 05:12:30.09 ID:8KpYZro40

シンクから手を離し、1歩、足を前に出す。
手を広げて、私に背を向けたままの澪を後ろから抱きしめる。

「……っ」

抱きしめた体が一瞬震えた。自分よりも背の高い澪の肩に額を押し付ける。

「澪」

「……」

「澪?」

「……なに、」

「すきです」

自分でもびっくりするくらいすんなりと言葉が出た。
黙ったまま何も言わない澪に、もういちど、すき、と伝える。


消えてしまいそうな小さな声で、澪が、ありがとう、と言った。

124: 2011/03/03(木) 05:16:12.47 ID:8KpYZro40





【 梓 】

「梓ちゃん、大丈夫?」

「梓、落ち着いて」

息抜きしたいと訴える純に付き合った買い物帰り、
ハンバーガー店の2階隅っこの席。

なだめてくれる憂と純に応えられないくらい、こぼれる涙が止まらない。
握りしめた携帯の液晶パネルには、届いたばかりのメール。

126: 2011/03/03(木) 05:19:56.19 ID:8KpYZro40



 待たせてゴメン。私もみんなと一緒にバンド続けたい。
 梓ありがとう。新曲の歌詞はもうすぐできそうです。


お礼を言うのは私です、澪先輩。

震える指で受信箱をスクロールして、先に読んだもう一通を再び開く。


 遅くなってすまん!
 メジャーデビューしてもリーダーは私だからな!


「……もう、気が早いですよ、律先輩」

涙声で呟いた私に、憂と純がやさしく笑う。

128: 2011/03/03(木) 05:24:10.92 ID:8KpYZro40
返信しようと携帯を握り直したら、立て続けに2件の着信。

「あ、ムギ先輩と、唯先輩から」

「お姉ちゃんから?なんて?」

向かいの席に座った二人が腰を浮かせたので、
よく見えるようにテーブルの上に携帯を置いた。


 梓ちゃん、よかったね。これからもよろしくね。


ムギ先輩の笑顔がほんわりと浮かぶ。

続けて唯先輩からのメールを開いて、私たちは思わず顔を見合わせた。

129: 2011/03/03(木) 05:26:36.11 ID:8KpYZro40


本文には、楽器の絵文字が5つ。
それから、やさしく揺れるピンク色の八分音符がひとつ。


「……ほんっと、唯先輩らしい……」

ちょっと笑ってそう言ったらまた涙がこぼれて、
憂と純から二人掛かりで頭を撫でられた。






154: 2011/03/03(木) 13:29:49.55 ID:8KpYZro40
本文には、楽器の絵文字が5つ。
それから、やさしく揺れるピンク色の八分音符がひとつ。


「……ほんっと、唯先輩らしい……」

ちょっと笑ってそう言ったらまた涙がこぼれて、
憂と純から二人掛かりで頭を撫でられた。

156: 2011/03/03(木) 13:35:35.56 ID:8KpYZro40





【 紬 】

澪ちゃんから歌詞が出来たと一斉メールが届いたのが火曜の夜。
メールで送ってとお願いしたら、恥ずかしいからって言われた。

メールで送れないくらい恥ずかしい歌詞って、いったいどんなのだろう……。
ものすごく気になる。

157: 2011/03/03(木) 13:40:15.10 ID:8KpYZro40
サザンテラスにあるスタバのオープンテラスが、今日の待ち合わせ場所。
携帯の時計を見ると、約束の時間まであと30分ある。
読みかけの文庫本をバッグから出して、カモミール ティー ラテの隣に置く。

「……あ、」

体と背もたれの隙間にバッグを置こうとしたら、バッグのポケットから振動音。
上半身を少し後ろにひねった体勢のまま、携帯を取り出して画面を開く。

「電車、今日は順調みたいね」

ふふ、と笑みがこぼれる。気をつけてきてねと返信して、携帯を文庫本の上に重ねる。

158: 2011/03/03(木) 13:48:21.49 ID:8KpYZro40
ラテを一口飲んで、ほっと一息。柔らかく吹いた風に髪を遊ばれ、
前髪を直して見上げた空は、もうすっかり秋の色になっていた。

「あれ?ムギ、早いな」

振り返ると、左手に携帯、右手にカップを持った澪ちゃんが立っていた。

「澪ちゃんこそ」

「ああ、時間あったから、本でも読んで待とうかと思って」

「私もよ。でも、澪ちゃん来たから、本は仕舞っちゃおう」

澪ちゃんはちょっと笑って、私の左隣の椅子を引いてカップをテーブルに乗せ、
背負っていたベースを降ろす。
携帯を仕舞って腰掛けて足を組むところまで待って、澪ちゃんのほうに身を乗り出した。

159: 2011/03/03(木) 14:07:44.09 ID:8KpYZro40
「ねえ、澪ちゃん」

「ん?」

カップを取ろうとした手を止めて、澪ちゃんが私を見る。

「新しい歌詞、見たいな」

「え、」

ギクリという顔をして、澪ちゃんは宙に浮かせた手をぎこちなく膝の上に戻す。
ええと……と言い淀んで、なんだか一人であれこれ葛藤している様子。

160: 2011/03/03(木) 14:23:03.27 ID:8KpYZro40
「……うん、でも、ムギには、見て貰ったほうがいっか」

澪ちゃんの中で行われていた会議に結論が出たみたい。
バッグから4つに折り畳んだA4サイズの紙を取り出して、手渡してくれた。

「わ、英語の歌詞なのね」

「うん」

「訳詞はないの?」

「そっ……それは、恥ずかしいから……」

やっぱり、恥ずかしいんだ。
読んでいい?と聞いたら、澪ちゃんは頬を赤くして頷いた。

162: 2011/03/03(木) 14:32:14.19 ID:8KpYZro40

プリンタで出力された文字に目を落とす。
少し難しい言い回しもあるけど、なんとか意味は掴めそう。

「……あら、」

無意識に声がこぼれた。
そわそわとカップを揺らしていた澪ちゃんの両手がビクッとなる。

「あら、あらあら」

「……」

「……澪ちゃん、」

「は、はいっ」

顔を上げて澪ちゃんを見る。多分私、口元が緩んじゃってる。

「これ、誰のことを想って書いたの?」

ぼん、と音がしそうな勢いで、澪ちゃんの顔が真っ赤になった。

163: 2011/03/03(木) 14:43:13.38 ID:8KpYZro40





【 梓 】

定刻通り、終点に着いた。
ギターを背負ってボストンバッグを肩に掛け、ホームに降りる。

「人、多いねー」

私の後ろで憂が大きく息を吐いた。

「お姉ちゃんと律さんが改札のところで待っててくれるんだよね?」

「うん、そう書いてあった」

着きました、と携帯画面に打ち込みながら応える。
パチンと閉じてポケットに仕舞って、ホームを見回す。

164: 2011/03/03(木) 14:51:20.61 ID:8KpYZro40
「あ、あっち」

南口と書かれた案内板を見つけ、憂を促す。

「純ちゃん、すごく来たがってたね」

「純は多分練習より買い物とか観光したかったんだよ」

「ふふ、そうかも」

純にお土産買って帰らないとね、と話しながら階段を上がって切符を取り出した。
肩に掛けていたボストンバッグを一旦手に下げて、ぶつけないように改札を通る。

「あれー?いないね」

「うん……」

相変わらず目が回るような雑踏に、憂が尻込みする。
とりあえず人が少ない場所に移動しようと、憂の腕をとって歩き出す。

165: 2011/03/03(木) 14:59:41.10 ID:8KpYZro40

「うーいっ、あーずにゃんっ!」

「あっ、お姉ちゃん!……お姉ちゃん?」

「唯先輩?」

唯先輩は私たちの目の前で手を広げた状態のまま、何故か固まっている。
どうしたの?と憂が不思議そうに聞く。

「憂とあずにゃん、どっちから先に抱きつくかで迷った」

真面目な顔をしてそう言った唯先輩の頭を、
後ろにいた律先輩が苦笑いしながらポコンとはたいた。

166: 2011/03/03(木) 15:08:40.31 ID:8KpYZro40
律先輩にまたひょいとボストンバッグを取られて、
人波を抜け駅を出て赤信号で立ち止まる。

「お、いるじゃん、あそこ」

律先輩が指をさした先、道路を挟んだ反対側の歩行者信号の下で、
澪先輩とムギ先輩が手を振っていた。


「みんなおつかれ。憂ちゃん、久し振り」

「澪さん、紬さん、お久し振りです」

憂がペコリと頭を下げる。

167: 2011/03/03(木) 15:14:10.74 ID:8KpYZro40
「今日は無理言ってすみません、バイトのシフトまで変えてもらっちゃって」

続けて私も頭を下げる。

「いいんだよー、あずにゃん、次の練習まで待ちきれなかったんだよね」

唯先輩がニコニコしながら私を覗き込む。

はいそうです、と応えたら、梓が素直だ……と律先輩が大げさに驚いた顔をした。

169: 2011/03/03(木) 15:33:42.87 ID:8KpYZro40



【 唯 】

シールドをアンプに繋いで、電源を入れる。
隣にいるあずにゃんと視線を合わせて、お互いの音を聞きながらボリュームを調整する。

後ろではりっちゃんがドコドコとドラムの具合を確認していて、
あずにゃんの向こう側ではムギちゃんと憂が譜面を見ながら何か話している。

170: 2011/03/03(木) 15:40:43.96 ID:8KpYZro40
「よし、じゃ、とりあえず一度合わせてみるか」

りっちゃんに頷いて視線を追うと、
唇に柔らかくピックを挟んでベースのストラップを肩に掛け、
長い髪を整えている澪ちゃんの姿。

憂はスタジオの隅っこにある折畳み椅子に腰を降ろして、
ニコニコしながら私たちの演奏を待つ。


それぞれが軽く音を出して、一瞬の間。りっちゃんのカウント。

171: 2011/03/03(木) 15:50:35.10 ID:8KpYZro40
……おお、今日はりっちゃん絶好調だね。
そう思ってあずにゃんを見ると、あずにゃんがリズムを刻みながら小さく笑って頷く。

ムギちゃんの旋律に誘われるように、澪ちゃんのボーカルが乗る。
澪ちゃんは軽く目を閉じて、想いを込めるように唄う。

英語が不得意な私には、歌ってる内容はよくわからないけれど、
なんだか胸があったかくなるよ。

173: 2011/03/03(木) 15:56:24.24 ID:8KpYZro40


……

残響に酔ったみたいに、放心してしまって言葉が出てこない。
ゆるゆると振り返ってみると、みんなも同じ顔をしてる。

ぱちぱちと鳴る音がスタジオに響いて、はっと我に返った。
椅子から立ち上がった憂が、満面の笑みで手を叩いている。

「すごい……すごく、よかったです」

今日のオーディエンスはひとりだけど、鳴り止まない拍手がくすぐったい。
お互いを見回しながら、ちょっと照れて笑う。

176: 2011/03/03(木) 16:04:18.97 ID:8KpYZro40
「澪さん!」

「うん?」

「すごく素敵な、ラブソングですね!」

憂がそう言った途端、澪ちゃんが真っ赤になって固まった。
おお……、そういう内容だったのですか。

にやける顔を隠しきれないまま振り返ると、おでこまで赤くしたりっちゃんと目が合った。
りっちゃんは、やりずれぇ、と小さな声で呟いて、私から目を逸らして頬を掻く。

そんなりっちゃんを、ムギちゃんがニコニコと見ている。
もう澪ちゃんから聞いたのかな?

177: 2011/03/03(木) 16:11:12.01 ID:8KpYZro40
「あの、みなさん……」

あずにゃんが口を開いて、みんなの視線が集まる。
ちょっと興奮気味に、両手に握りこぶしを作って私たちを見渡した。

「この曲で、デモテープ、作りませんか?」

「デモテープ?」

聞き返した私に、あずにゃんは力強く頷く。

「デモテープって、音楽事務所とかに送るあれか?」

「はい。送るかどうかは別として、一度、ちゃんと作ってみませんか?」

178: 2011/03/03(木) 16:15:48.95 ID:8KpYZro40
「……楽しそう」

口元で両手を合わせて、ムギちゃんがキラキラした目で微笑んだ。
りっちゃんと澪ちゃんも、顔を見合わせて頷く。

「じゃあ、この曲がメジャーデビューへの第一歩になるかもだねあずにゃん!」

両手を握ってそう言うと、あずにゃんはちょっと戸惑った顔をして、
それから、気が早いですよ唯先輩、と満面の笑みを浮かべた。

179: 2011/03/03(木) 16:20:27.03 ID:8KpYZro40


スタジオの外のソファで、6人でのティータイム。
みんなのおしゃべりを聞きながら、携帯を開いてキーを叩く。


 和ちゃんあのね、すごくいい曲が出来たよ。
 あずにゃんがね、この曲でデモテープ作ろうって。
 ムギちゃんの紅茶は今日も美味しいよ。
 りっちゃんと澪ちゃんを見てると、ちょっとくすぐったいよ。
 今日は憂も来てるんだよ。今度和ちゃんが来る時は、3人で遊ぼうね。


文末にギターの絵文字を付け足して、送信。

携帯を閉じてポケットに入れて、紅茶を一口飲んだら、
ポケットからブルブルと振動が伝わってきた。

180: 2011/03/03(木) 16:24:03.59 ID:8KpYZro40
珍しく早い、和ちゃんからの返信。
紅茶の入ったカップを置いてもう一度携帯を取り出し、メール画面を開く。


 来週末逢いに行くわ。みんなによろしくね。


短い文章の後ろで揺れる赤い眼鏡の絵文字に、
私はこぼれる笑みを抑えきれなかった。







おしまい

182: 2011/03/03(木) 16:27:43.57
乙。

187: 2011/03/03(木) 16:48:37.16 ID:8KpYZro40
乙&支援ありがとうありがとう。
物足りないって感じのコメを戴けたのでここまで書けました。

またどこかでー。ノシ

131: 2011/03/03(木) 05:32:06.53 ID:8KpYZro40
支援、ありがとうございました。

以前投下した、和「桜の護り人」と同じ世界観で書いています。
読んで下さった方が少しでもいると嬉しいです。

自分語り失礼しました。
ではおやすみなさいノシ

133: 2011/03/03(木) 05:35:38.79 ID:8KpYZro40

引用元: 律「行こう!!!!!」