1: 2020/09/13(日) 20:25:31.73 ID:L32KXTsp0
♪~

少年(ずっとピアノを弾いていた)

少年(ピアノを弾く事が、僕の全てだった)

少年(鍵盤を通して奏でる音は、美しいと思えた)

少年(楽しかったし、人よりも才能があった。努力を欠かした事は無い)

少年(ピアノは僕の人生だった)

少年(でも)

少年「……駄目だ、どうして」

少年(ある日突然、僕はピアノを弾けなくなってしまった)

 https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1599996331

2: 2020/09/13(日) 20:28:49.03 ID:L32KXTsp0
少年(どうしても、途中で指が動かなくなってしまう)

少年(この前のコンクールで、優勝してしまってからだ)

少年(スランプ、って言うんだっけ)

少年(向けられる期待に対するプレッシャー、どうしようもない焦り)

少年(気の抜けたガスのようなものが、僕の心の中で広がり続けている)

少年(僕は、燃え尽きてしまったのだろうか)

少年(ピアノは僕の心臓のようなものだ。それが無くなってしまったら)

少年「僕は、どうやって生きればいいんだ?」

少年(頭の中がぼんやりとする。答えを出す為の思考を形作る事が出来ない)

少年(僕は目を閉じる)

少年(部屋の電気を消してしまうように、世界は何も無くなってしまう)

少年(そうすれば、苦しみも悲しみも無い)

少年(勿論、それは永遠には続かない)

少年(僕だけの世界に逃げたって何も変わらない)

少年(そんな事は、分かっているんだけれど)

3: 2020/09/13(日) 20:31:30.03 ID:L32KXTsp0
「少年、コンクールで優勝したって?」

少年「あ、うん」

「すごいじゃん! 良かったね」

少年「あはは、ありがとう」

少年(素直に喜べない自分がいる)

少年(優勝出来たのは嬉しい。嬉しいけれど)

少年(ピアノを弾けなくなってしまうなら、優勝なんてしたくなかった)

少年(優勝出来なかった人に失礼だから、こんな事は言えない)

少年(それでも、頭によぎってしまう)

少年(コンクールに挑む前の自分に戻れたら)

少年(そんな事を考えたって、どうしようもないんだどさ)

少年(ああ、どこか遠くへ行きたいな)

4: 2020/09/13(日) 20:33:42.13 ID:L32KXTsp0
少年(最近、よく眠れない)

少年(このままではいけないと言う不安で頭が一杯になる)

少年(考えてはいけないのに、より一層強く考えてしまう)

少年(マッチを擦るみたいに、ぼっと心の火をつけれたら良いのに)

少年(寝るまでの呼吸すらも、とてつもない重労働のように感じる)

少年(昼間と違って、夜は目を瞑っても世界が変わらない)

少年(むしろ、より窮屈に感じてしまう。不安がどんどん強くなる)

少年(止められない。止められない)

少年(ああ、どこかへ逃げ出したいよ)

少年「……」

少年(……いっそ、本当に逃げ出してしまおうか)

少年(まあ、行く当てなんて無いんだけれど)

少年(馬鹿げた考えはやめて、さっさと寝てしまおう)

5: 2020/09/13(日) 20:37:19.57 ID:L32KXTsp0
少年(……眠れない)

少年(不安だけじゃない、心のどこかがさわさわとしている)

少年(原因は分かっている)

少年(けれど、実行に移すなんて出来っこない)

少年(でも、眠れないんだ)

少年(そうした自問自答を何十回も繰り返す。その間にも夜は深さを増していく)

少年(僕は……)

少年(……)

少年「……何もしないよりは、何かした方が良いよな」

少年(行動に移す事は難しい。だから、やりたいと思ったことはすぐにやる方が良い)

少年(そんな言い訳を、誰が見ている訳でも無いのに並べて)

少年「……行こう」

少年(僕は、ベッドから起き上がった)

6: 2020/09/13(日) 20:40:53.99 ID:L32KXTsp0
少年(いつものスニーカー、いつものシャツ。ズボンに飴玉をいくつか入れる)

少年(着替えはあっという間に済んだ。それ以外は何も要らない)

少年(どきどきする。こんな時間に外に出るなんて初めてだ)

少年(家族に見つからないように、音を立てないように、そっとそっと)

少年(僕は、扉に手を掛けた)スッ



……カチャ

7: 2020/09/13(日) 20:42:05.40 ID:L32KXTsp0
少年「ああ……」

少年(外に出た瞬間、夜風がふわりと僕を包み込んだ)

少年(重苦しい部屋の中とは、全然違う)

少年(静かな落ち着いた世界。温かみを感じるのは、空に浮かぶ満月のせいだろうか)

少年(どこへ行ってみようか)

少年(今の僕はどこへだって行ける。僕は夜の世界に居るんだ)

8: 2020/09/13(日) 20:46:55.25 ID:L32KXTsp0
リリリリリ……リリリリリ……

少年(僕は歩く。こんなにも足が軽いのは初めてだ)

少年(コオロギの澄んだ鳴き声が夜に染み渡る)

少年(無意識の内にコオロギの声に合わせて、指先が宙を弾いてしまう)

少年(何だかとても良い気分だ。僕はさらに鼻歌を重ねる)

少年(僕は今、自由な演奏をしている)

少年(いつもの見慣れた景色が、夜の中では全く違って見える)

少年(何もかもが新鮮だ。一匹の猫の目が闇の中で光っているのが見える)

少年(さあ、もっともっと歩こう)

少年(夜の空気をすうっと吸い込み、僕はまだまだ歩く)

9: 2020/09/13(日) 20:50:16.00 ID:L32KXTsp0
少年(ポケットに入れておいた飴玉を一つ、口に含む)

少年(舌の上に甘さが広がる。こんなにも飴玉に意識を向けた事は初めてだ)

少年(甘い幸福感が心地良い。飴玉ってこんなに美味しかったっけ?)

少年(僕は草むらに目をやる。深夜の草むらは、露を蓄えてしっとりと湿っている)

少年(草も生きているんだなあ。そんな当たり前の事を実感する)

少年(瑞々しい空気を感じた後、僕は道路を横断する)

少年(こんな所に車なんて一台も来ない。何なら寝そべったって良い。全ては僕の自由だ)

少年(夜の高揚感に胸が躍る。僕はどんどん町はずれに向かう)

10: 2020/09/13(日) 20:54:52.40 ID:L32KXTsp0
少年(僕はどこかの公園のブランコに座る)

少年(こんな時間に遊んでいる人なんて居ないだろうな)

ギー、ギー

少年(そうして一人でブランコを漕ぐ)

少年(少し冷たい秋の風を受ける。歩いたからそんなに寒くない)

少年「あはは、楽しい!」

少年(誰かに見つかったら、すぐに補導されてしまうだろうな)

少年(それでも、きっとこれは必要な事なんだ)

「やあ少年」

少年「!」バッ

11: 2020/09/13(日) 20:56:57.71 ID:L32KXTsp0
少年(僕の近くで、落ち着いた声が放たれる)

少年(僕は焦って辺りを見回す、けれど)

少年「え……居ない……?」

少年(居ない。そんなはずは……)

「こっちだよ、こっち」

少年(その声は、僕の頭上から聞こえた)

少年(僕が目線を真上に上げると、そこには)

シーラカンス「やあ少年。深夜のブランコは楽しいかい?」

少年(一匹のシーラカンスが居た)

12: 2020/09/13(日) 21:03:14.48 ID:L32KXTsp0
少年(シーラカンス。生きた化石。恐竜の居た時代から生きている)

少年(絶滅したと考えられていた魚……だっけ。魚の図鑑で読んだ)

少年「う、浮いてる……」

シーラカンス「まずは会話が成立している所に驚くべきだと思うが……」

少年「君は……何?」

シーラカンス「そう言う君こそ説明出来るのかな? 君とは一体何だ?」

少年「えっと……僕は……人間で、えーと……」

シーラカンス「質問されると意外に答えられないだろう」

シーラカンス「誰でも、自分についてよく知らないものだ。だから他者を通して自己を確立する」

少年「つまり、どういうこと?」

シーラカンス「一人で鏡を見てるだけじゃ、自分なんて分からないって事さ」

少年「なるほど……?」

シーラカンス「私は夜の一部だよ。満月の夜にこうして散歩をする」

少年「夜の一部?」

シーラカンス「ああ。身体は宇宙で出来ている。肌の白い模様は星の光だ」

少年(確かに、彼の身体は夜空をそのまま切り抜いて作ったかのようだ)

少年(うっすらと光るあの白い点は、星の光なのか……)

少年(あまりにも神秘的だ。ずっと眺めていると吸い込まれてしまいそうになる)

シーラカンス「さて、こんな深夜に公園で遊ぶ君が、あまりにも楽しそうなので姿を現した訳だが」

シーラカンス「これから、どこか行きたい所はあるのかい?」

少年「特には……」

シーラカンス「なら、私についておいで。面白いものを見せてあげよう」

少年「……うん!」

シーラカンス「さあ、一人と一匹でナイト・ウォークと洒落込もうじゃないか」

少年(こうして、僕は夜の魚と歩き出した)

14: 2020/09/14(月) 19:37:31.02 ID:H4zZvC5e0
少年「綺麗な満月だね」

シーラカンス「そうだな。月の兎もくっきりと見える」

少年「兎はお餅をつくのを嫌になったりしないのかな」

シーラカンス「どうだろうな。たまには嫌になるかもしれないね」

シーラカンス「でも、やっぱり最後は杵を握ってしまうだろう。餅つきは彼の全てだから」

少年「……」

少年「そんなものなのかな」

シーラカンス「そんなものさ」

少年「……でも、たまにはニンジンも見たくなるかもしれないね」

シーラカンス「はっはっは、ニンジンか! なるほど、面白い意見だ」

少年「ふふ」

15: 2020/09/14(月) 19:44:28.75 ID:H4zZvC5e0
少年(僕らは歩き続ける)

少年(シーラカンスが泳いだ跡は、光る粒子が軌跡となって闇の中を流れていく)

少年(まるで天の川を泳いでいるように見える)

少年(綺麗だな。どれだけ見てても飽きないや)

シーラカンス「君は何故深夜に歩こうと思ったんだい?」

少年「……逃げたかったんだ。何もかもから」

少年「僕、ピアノをずっと弾いてたんだけど……突然弾けなくなっちゃったんだ」

少年「だから、どこか遠くへ行ってしまいたかったんだ。何て言うか……」

シーラカンス「気分転換に」

少年「そう、それ」

シーラカンス「それも悪くない。同じ世界の繰り返しでは、深さと言うものは生まれない」

少年「君は何か好きなものはある?」

シーラカンス「私は炎が好きだ」

少年「炎? 意外だな」

シーラカンス「炎とは常に揺らめき、変化し続ける」

シーラカンス「その一瞬一瞬に、同じ形は一つとして無い。しかし「炎」と言う確かな形は存在する」

シーラカンス「炎とは変化と不変、両方を孕んだ中立的なものだ。だから美しい」

少年「……難しい話はよく分からないけど、僕も炎は好きだよ」

シーラカンス「それで充分さ」

少年(僕たちは歩き続ける。薄暗い路地を抜けていく)

16: 2020/09/14(月) 19:47:27.84 ID:H4zZvC5e0
シーラカンス「あともう少しだ」

少年「楽しみだな。何があるんだろう」

シーラカンス「少年。夜は楽しいか?」

少年「うん。色んなことが初めてで新鮮だよ」

シーラカンス「だが、夜には怖さだってあるだろう」

少年「うん。でも、もっと色んな夜のことを知ってみたいな」

シーラカンス「何故だ? 楽しさだけあればそれで良いじゃないか」

少年「確かにそうだけど……何て言うか、夜の色んな面を知れば、僕はもっと夜を好きになれる」

シーラカンス「そうだな。それはとても大切な事だ」

シーラカンス「夜もピアノも、色んな面がある」

少年「!」

シーラカンス「だからこそ、理解を深めることは大切なんだ」

シーラカンス「ほら、もう着くぞ」

少年「……!」

17: 2020/09/14(月) 20:41:42.07 ID:H4zZvC5e0


フワ……フワ……


少年「うわあ……」

少年(そこは、家の塀に囲まれた小さな空間だった)

少年(中央にはマンホールぐらいの水たまりがあって)

少年(たくさんのクラゲ達が、宙に浮かんでいた)

シーラカンス「どうだい、お気に召したかな?」

少年「す、すごい……! このクラゲ達も君の仲間?」

シーラカンス「いいや、彼らはただの水だよ」

少年「水?」

シーラカンス「クラゲは身体のほとんどが水分で出来ているんだ」

シーラカンス「だから、ここでクラゲが湧いたって不思議じゃない」

少年「いや……うん……そうだね」

少年(ありえないと言おうとしたけれど、魚が宙を泳いで喋る時点でありえない)

少年(そういうものだと割り切り、僕はクラゲ達を見る)

少年(ゆるやかに漂うその姿は、何だか見ていて落ち着く)

少年「クラゲ達は、昼でも見えるの?」

シーラカンス「いいや、昼は太陽の熱で消えてしまう。満月の夜のみ、その透明な姿を確認出来るんだ」

少年「そっか……」

シーラカンス「よく目を凝らして生きるといい。現実は形としてのルールに縛られているとは限らない」

少年「う、難しい。つまり……どういう事なの?」

シーラカンス「常識に囚われてはいけないって事さ」

少年「そっか。うん、そうだね……」

少年(確かに、夜のシーラカンスも居れば、水から湧くクラゲだって居る)

少年(常識に、囚われない……)

少年(うん、そうだ……その通りだ)

スッ

シーラカンス「? どうした」

少年「ここで、僕の演奏を聴いてほしいんだ」

シーラカンス「……ほう」

18: 2020/09/14(月) 20:51:25.76 ID:H4zZvC5e0
少年(深く深く、深夜のひんやりした空気を肺一杯に取り入れる)

少年(呼吸をする事は大切だ。自分の身体を十二分に使う為に)

少年(そうして、僕は時間をかけて息を吐いていく。身体の無駄な雑念全てを出し切るように)

少年(透明になれ。透明になっていけ)

少年(そして、最後に短く、鋭く息を吸う)

少年(脳みそが新しくなったような感覚)

少年(世界の全てが、変わる気がする)

少年(僕は両手の指をすっと宙に構える)

少年(楽器が無いと、演奏出来ないなんて誰が決めたんだろう)

少年(僕は指を夜に向けて、しなやかに躍らせた)

♪~

シーラカンス「お、おお……!」

少年(メロディーは僕にも分からない)

少年(ただ、自分が感じる全てを指に宿す)

少年(聴いた事の無い音が辺りに響き渡る)

少年(不思議な魚達に囲まれながら)

少年(僕は今、夜を弾いている……!)

19: 2020/09/14(月) 20:56:05.74 ID:H4zZvC5e0
シーラカンス「……お見事だ。まさか夜を弾くとは!」

少年「上手く言えないけれど……僕も、成長出来た気がする」

シーラカンス「全く持ってその通りだ」

シーラカンス「君は夜を弾く事が出来た。そんな事が出来るのであれば、ピアノなんて簡単さ」

少年「ありがとう……」

シーラカンス「自信を持て、少年。君はすごい奴だ」

少年(眠くなってきた……まだ眠りたくないな……)

シーラカンス「またいつか会おう。一緒に過ごせて楽しかったよ」

少年(待って……もう少しだけ……)

シーラカンス「草木も眠る丑三つ時。君もそろそろ眠る時間だ」

シーラカンス「おやすみ少年。グッド・ナイト」

20: 2020/09/14(月) 20:59:05.47 ID:H4zZvC5e0
少年(目が覚めると、僕はベッドの中に居た)

少年(あれは全て夢だったのだろうか)

少年(あの場所は一体どこだったんだろう)

少年(僕はピアノと向き合う。得意の曲を弾く事にする)

♪~

少年(不思議な出来事だったなあ)

少年(深夜にシーラカンスと歩いて、宙に浮かぶクラゲを見て)

少年(あれがもし夢だったとしても)

少年「……よし!」

少年(僕は、ピアノを弾けるようになっていた)

21: 2020/09/14(月) 21:05:23.71 ID:H4zZvC5e0
「少年! この前の演奏凄かったよ!」

少年「ああ、見に来てくれてたんだ。ありがとう」

「大人達が前よりも上手くなったって褒めてたよ」

少年「ほんと? だったら嬉しいな」

少年(ピアノを弾く事が、前よりもずっと楽しくてたまらない)

少年(あんなに動かなかった指が、すらすらと泳ぐように動く)

少年(最近はぐっすりと眠れるようになった。良い事だ)

少年(けれど、今日の夜はこっそりと家を出る)

少年(何故なら、今日は満月だから)

少年(僕は公園に向かう。ブランコに座る)

少年(そうして指を構える)

少年(前の僕とは違う点が二つある)

少年(一つは、夜を弾けるようになったこと)

少年(そして、もう一つ)


「やあ少年。今宵も良い夜だな」


少年「……やあ!」

少年(僕には、シーラカンスの友達が出来たんだ)

22: 2020/09/14(月) 21:07:33.95 ID:H4zZvC5e0
終わりです。ありがとうございました。

前作 男「虹色の珈琲」

23: 2020/09/15(火) 01:38:45.69

とても素敵だ

引用元: 少年「ミッドナイト・シーラカンス」