1: 2012/01/15(日) 13:46:46.38 ID:VDPHx96f0
 心地よい暖かさのなかで目覚めた。

 上半身を起こし、背筋をいっぱいに伸ばすと、眠気も飛んですっきりする。
冬の朝とはいえ、起床前には暖房が作動するように設定してあるので部屋の中はそう寒くない。
朝が苦手というわけではないが、やはり起き抜けの寒さは大敵だ、布団とおさらばするためには、全身にじんわりと感じられるような暖房の温度がありがたい。

 時刻は6時30分。いつも通りの時間だ。
8時には家を出たいところだったのでちょうどいいくらい。

 布団をめくってベッドから降り、靴下を履いていない素足に少しだけ冷たさを感じながら、窓のほうまで歩く。
カーテンを開けると、冬でも暖かい陽の光が入ってきていい気分だ。
天気は快晴。

 出かけるには絶好の日和になりそうだな。

5: 2012/01/15(日) 13:53:39.74 ID:VDPHx96f0
澪「おはよう、ママ」

 洗面所で顔を洗ってから居間に行く。トーストにバターを塗っていたママは、いつもの笑顔で「おはよう」と返してくれた。

澪母「今日は?」

澪「うん、ご飯食べたら出かけるよ」

澪母「そう。早いのね」

澪「うん」


 確かに、学校もない日にこんな早くから外出なんて、珍しいかもしれない。
でも、今日くらいはそんなこともしてみたい気分なんだ。

澪母「ふふ、そう。寒いから暖かくしていくのよ」

澪「はーい」

 今日は一年で一度しか来ない、特別な日だから。

6: 2012/01/15(日) 14:01:23.56 ID:VDPHx96f0
 朝食を食べてから洗面所に向かい、歯を磨く。
 後ろで洗濯機を動かしていたママは、ひととおり操作を終えると私のいる洗面台のほうに歩いてきた。

澪母「ちょっと手洗わせて、澪」

澪「ん」

 歯磨きの時はうまく喋れないのが少し恥ずかしい。
 ママは洗った手をタオルで拭き取ると櫛を持ち、

澪母「澪、少し寝癖ついてる」

澪「ん……」

 私の襟足をときはじめた。
今日でまた一つ大人になったんだ、こういう子供がされるみたいなのは……やっぱり少し恥ずかしい。

「大丈夫だよママ、あとで自分でやるから」
と言えないのは、歯磨きの途中でうまく喋れないからだけじゃなくて。
 私の髪をとくママが、とても楽しそうだったから。

8: 2012/01/15(日) 14:08:06.21 ID:VDPHx96f0
 部屋に戻ってパジャマから着替える。
今日は、そうだな……うんとおめかしするのもいいけど、動きやすい服装のほういいかもしれない。
 昨日の夜のうちに考えておくんだったな。クローゼットを開けてから迷う癖はなんとかしたいものだ。

澪「とりあえずセーター……いや、でも暑くなってきたらすぐ脱げたほうがいいからなぁ。じゃあパーカーかな?でもこんな日にパーカーも、なあ……」

 はあ、と息を吐く。
たぶんこのままじゃ、いつまでたっても決まらない。

 結局はいつも通りが一番なのかな。

11: 2012/01/15(日) 14:18:13.57 ID:VDPHx96f0
玄関で靴箱を開けると、私は再び硬直した。

澪「靴、か……」

 いつもより多めに歩く予定なので、靴選びは慎重にならざるを得ない。
 ヒールは問題外だ、となるとスニーカー……は今日の服には合わない。

澪「ママー……」

 と、ママを呼ぼうとしてはっとした。
だめだだめだ、もう大人にならなきゃ、いつまでも親の助言を借りてばかりじゃだめなんだ。
 考えろ、私。
ヒールはダメ、スニーカーはダメ、他に残るは学校に履いていくローファーと……

澪「あ、そうだ……」

 靴箱の下段を見やる。
買ったはいいものの、よくよく考えると自分には似合わないんじゃないかと思ってお蔵入りになっていたムートンブーツがあった。
 ……改めて履いてみると、悪くいようにみえた。これなら大丈夫かな。

澪「……よし」

 さあ、準備は整った。
ドアノブに手をかける。

澪「……行ってきます!」

 8時過ぎに家を出る。

 今日は私の、誕生日。

13: 2012/01/15(日) 14:25:52.16 ID:VDPHx96f0
 駅までは歩いて行くことにした。
いつもは、近道だからって住宅街のなかを抜けて行く。

澪「……ふう」

 でも今日はそうじゃない。
少し遠回りになるけど、別の道を通って駅に行くことにした。

 見慣れた風景をただ歩くだけじゃ物足りない。
まして、今日みたいな日には……ちょっと冒険もしてみたくなるんだ。

 新鮮な風景が続く。

うっそうと木が茂る、静かな神社。
知らない人の、ちょっと変わった外観の家。
通学路の一本向こうの橋。
赤い色のコンクリート。

 知らない道を歩くのは、それだけでどこか楽しい。

16: 2012/01/15(日) 14:36:51.77 ID:VDPHx96f0
 駅に着いた。

 切符売り場の手前まで行って、頭上の路線図を確認する。
街までは駅5つ分で、片道230円。

澪「……よし」

 100円玉を二枚、機械に入れた。
……押すのは、190円ぶんの切符のボタン。

 190円区間の切符で行ける駅まで行って、そこからは散歩がてら街まで歩く。
 いや、お金がないというわけではない。
昨日のうちに予定しておいたことだ。

 冬の散歩は気持ちがいい。

 凛とした寒さのなか、身体のうちに微かな温かみを感じて歩く。
 知らない土地を、知らない景色を見ながら歩く。
 ……少し地味だけれど、私はそういうのが好きなんだ。

 買った切符を改札に通した。

17: 2012/01/15(日) 14:43:12.78 ID:VDPHx96f0
 電車が出る。
車内はずいぶん空いていて、四人がけのボックス席に一人で座ることが出来た。
隣のシートに鞄を置き、窓辺に肘をかけてみる。
少し贅沢だな、と思うと笑みがこぼれそうになった。
このままのんびり車窓を眺めながら、終点まで座っているのも悪くはないかもしれない。
 ……いや、それじゃ予定が崩れてしまう。
暖房が効いて暖かい車内は居心地がいいけど、降りる駅に到着したらちゃんと降りなきゃな。

20: 2012/01/15(日) 14:50:33.49 ID:VDPHx96f0
 3つ目の駅で電車を降りた。
普段あまり使わない駅なので、改札がどこにあるのか……少し混乱しそうになる。

 人の波を追って改札を見つけ、切符を通す。
少し歩けば、そこはタクシーやバスの停まるロータリーだった。
向かって右には大きな道がある。
この道に沿って歩いていけば、街のほうに着くはずだ。

 ケータイを開いて時計を見る。
時刻は午前9時を過ぎたくらいで、ゆっくり歩いても予定していた時間には間に合うだろうな。

 ちょっとくらい寄り道してもいいかもしれない。

24: 2012/01/15(日) 15:01:03.50 ID:VDPHx96f0
 大通りは街までまっすぐ続いているようだった。
遠くに駅ビルが見えるのを目印にすれば迷うことはないだろうな、と少し安心する。
 広い交差点で信号待ちをしていると、反対側の歩道にはスーツを着たサラリーマンがたくさんいるのが見える。
気がつけば自分の周りにもスーツ姿が多い。
この通りだてビジネス街なのかな。私服の私は場違いじゃないだろうか。

澪「……はは」

 そんなことを考えると、苦笑が漏れた。

 ……まあ、公共の場に私服でいて場違いということもないだろう。

信号が青に変わり、人の波と一緒に歩き始めた。

26: 2012/01/15(日) 15:11:43.64 ID:VDPHx96f0
 乾燥した冬の空気のせいか、喉が乾いてきた。
 一人でいると歩くスピードも早くなってしまうのかもしれない、あまり時間は経っていないのに、一本道をだいぶ歩いたような気さえする。

澪「……ちょっと休憩しようかな」

 ぴた、と足を止めて辺りを見回すと、ちらほらと自動販売機があるのを見つける。
 一番近くにあった赤い自販機の前まで行って、ポケットから財布を出し、小銭を自販機に入れて……

澪「……ん?」

 暖かいお茶を買おうとした指を思わず止めた。
自販機でお茶を買うのも散歩らしくていいけど……。

 横断歩道の向こう側に、喫茶店の看板が見えた。

澪「喫茶店、か……」

 朝から、一人で、喫茶店。

 なんだかそれも……いいかもしれない。
おつりのレバーをひいて小銭を回収した。

27: 2012/01/15(日) 15:18:50.74 ID:VDPHx96f0
からん、と音がなるドアを閉める。

澪「一人で。……はい、禁煙席でお願いします」

 たばこを吸うか、なんて訊かれたのは初めてかもしれないな。
……そんなに大人っぽく見えただろうか?

 ともあれ。通りに面した窓際の席に通される。
 鞄をおいて、上着を脱いだら椅子に腰掛ける。

 ゆったりした雰囲気の、いいお店だ。
暗めの明かりと、床や壁の木の色に落ち着きを覚える。

澪「ブレンド、ください」

 ブレンド、なんて言い方はちょっときざだったかな?

29: 2012/01/15(日) 15:24:20.63 ID:VDPHx96f0
 しばらくして、コーヒーが運ばれてくる。

 澪「どうも」

 ……さて、これは考えものだ。

 誕生日。

 今日でまたひとつ大人になった私は、このコーヒーに、

澪「……ミルクと砂糖を入れるべきだろうか」

 ……いつもならどっちもたっぷり入れて甘さを楽しむ。
でもそろそろ、そんな子供みたいな真似も卒業したほうがいいんじゃないかと思うんだ。

 ブラックコーヒー。

 未知の領域だ。
パパも「眠気覚まし」なんて言ってたまにしか飲まないくらいだから、たぶん美味しくはないんだろうなと思う。
 ……このまま何も入れずに飲むのは、けっこう勇気がいる。

34: 2012/01/15(日) 15:31:35.45 ID:VDPHx96f0
 ……このままじゃせっかくのコーヒーが冷めちゃうな。

 少し飲んでみて美味しくなかったら砂糖とミルクを入れればいい、たにかくものの試しに、ちょっとだけでもブラックで飲んでみよう……。

澪「え、えいっ……」

 ……。

 ………。

澪「……あれ」

 ……美味しい。

 苦いばかりだと思っていたけど。

澪「……美味しい」

 まさか、甘さがなくてもこんなに美味しかったなんて。

 ブラックコーヒーが、美味しい。
ちょっとどころじゃない、だいぶ驚きを禁じえない。

 ……何より、ブラックコーヒーを美味しく感じた自分自身に。

澪「ひょっとして……?」

 ひょっとして、私、大人の味覚ってやつがわかってきたのかな。

39: 2012/01/15(日) 15:38:48.63 ID:VDPHx96f0
 ……二杯目のおかわりを頼んでしまった。
おかわりは二杯目まで無料サービスみたいだから、これはちょっと意地汚くて子供っぽかったかな。

澪「……でも」

 コーヒーでお腹が暖まると、あることに気づく。

澪「……ちょっと、ちょっとだけ……お腹空いたかも」

おかわりのコーヒーが来るまでの間、手持ち部沙汰なのもあるけれど……気がつくとメニューを開いて小腹を満たせそうなものを探していた。
 見たところ美味しそうなのは、ミックスサンド、パンケーキ、それにガトーショコラ……。

 誘惑が多い。負けてしまいそうになる。

澪「うーん、でもなあ……今日、誕生日だしたまには……」

 いや、誕生日という言葉を便利な言い訳にしているのは分かっている。
 でも。

42: 2012/01/15(日) 15:44:37.63 ID:VDPHx96f0
「お待たせしました、コーヒーのおかわりと……」

 ガトーショコラ。

 ……結局頼んでしまった。

澪「ま、まあ、頼んじゃったからには仕方ないよな……!」

 そう、目の前に出されてしまったのだからもう後にはひけない。
思う存分、ガトーショコラの味を楽しませてもらおうじゃないか。

 さて、一口サイズに切って、口に運ぶ。

澪「……!」

 これも美味しい!
控えめな甘さがとてもいい。
むしろ苦味といってもいいのかな、これは?
なんだかまたひとつ、大人になった気分だ。
 コーヒーも美味しい。

46: 2012/01/15(日) 15:50:38.31 ID:VDPHx96f0
 からん、と音がなるドアを閉める。

澪「はあ……美味しかった」

よくよく考えてみれば、ブラックコーヒーに甘さ控えめのガトーショコラなんてバランスが傾いている気もするけれど。
 美味しかったんだからそれでいい、気にしないことにしよう。

 時計を見ると、時間は11時の少し前。
街の集合場所まであと1時間、か。
ふつうに歩いていれば間に合う頃合いだ。

 大通りはそろそろ市街地に入る。

48: 2012/01/15(日) 16:00:19.06 ID:VDPHx96f0
 大通りが国道を横断すると、そこからはオフィスや公園、飲食店に銀行……雑多な雰囲気の市街地だ。

澪「やっとここまできたか、って感じだな」

 普段は電車を乗り継いで来るような場所だ。
そんなところに、こうやって徒歩で訪れるというのも不思議な感じがする。

澪「……日陰が多いんだな」

 背の高い建物が多いからか。
歩道にはほとんど陽の当たる場所がない。
 普段だと気づかないものなんだな、と思った。
 歩いていると色々新しい発見がある。

49: 2012/01/15(日) 16:04:15.04 ID:VDPHx96f0
澪「あっ……」

 看板を見つけて立ち止まる。
ライブハウスの看板だ。

澪「この雑居ビルの……地下一階、か。こんなところにもあるんだなあ」

 ライブハウスで演奏した経験は少ないけど……こういうところでやってみたい気もする。

澪「……はは」

 放課後ティータイムには合わないか。

50: 2012/01/15(日) 16:10:08.72 ID:VDPHx96f0
 目的地の周辺に到着した。
時間は……集合の30分前か。
思っていたよりはやく着いちゃったな。

 ……となると、この30分はどこでつぶそうか。
外で待つのは寒いから本屋かなにかがあればいいけど、辺りはファーストフードの店くらいしか見当たらない。

澪「……まあ、いいかな?」

 なにか食べるわけじゃないけど、適当に飲み物でも買って飲んでいれば時間は潰れるだろう。

 私は近くに見えるハンバーガーショップに向かって歩き始めた。

51: 2012/01/15(日) 16:13:48.61 ID:VDPHx96f0
澪「はい、ここで食べます。……コーヒーをホットで、ひとつ」

 「食べる」なんて言いつつ注文はコーヒーだけ、というのもおかしかったかな。
 まあ、いいか。私はまたブラックコーヒーが飲みたくなったんだ。

 ふふ、ムギに頼んで、たまには部室でもコーヒーを出してもらおうかな。

53: 2012/01/15(日) 16:21:21.83 ID:VDPHx96f0
 すぐに紙コップに入ったコーヒーが、トレイに置かれる。
店員さんが、どうやら砂糖やフレッシュを出そうとしているようなので、

澪「あ、ブラックでいいです」

 やんわり断った。
今の私はブラックコーヒーの味を楽しめる大人なんだ、使わないものを無駄にもらうわけにもいかない。

 手頃なカウンター席に腰を下ろす。
集合時間の10分前には待ち合わせ場所にいたいから、これを飲んで店を出れば丁度いいくらいだな。

 さて、蓋についた飲み口を開ける。
 またあの味を楽しめるんだ、と思うと少しだけわくわくした。
 火傷しないように、ゆっくりと紙コップをあおる。

54: 2012/01/15(日) 16:29:14.44 ID:VDPHx96f0
澪「……あれ」

 ……。

 ………。

 ……苦い。

澪「……美味しく、ない」

 もう一度コップを傾ける。

澪「……」

 コーヒーの味は変わらない。
 変わらず、ただただ苦いまま。

澪「……なぁんだ」

 ……よく考えてみれば当たり前のことかもしれない。
喫茶店のコーヒーとファーストフードのコーヒー。
 味に差があるのは当然じゃないか。

 あのお店で私がブラックコーヒーを飲めたのは、私が大人になったからじゃなくて。
ただ単純に、あのお店のコーヒーがいいものだったからなんだろう。

澪「はは」

……まだまだ子供だな、私は。

55: 2012/01/15(日) 16:39:16.37 ID:VDPHx96f0
 その後はちょっとずつ、すするようにしてコーヒーを飲み干した。

 待ち合わせの時間にはぎりぎりになっちゃったな。
こんなんじゃ、大人だなんてとても言えない。

 待ち合わせ場所に、みんなの姿が見えた。

唯「あ、澪ちゃん来たー!」

紬「こっちよ、澪ちゃん」

律「みーおー、ぎりぎりじゃん時間んー」

梓「そういう律先輩が、いつもは時間ぎりぎりじゃないですか。こんにちは、澪先輩」


「「「「誕生日、おめでとう!!」」」」


澪「……ありがとう、みんな」

 まあ、別に急いで大人になる必要はないのかも。
 みんなが一緒にいるから、みんなで一緒に大人になればいい。

 これが、今日が私の誕生日。
 ひとりで過ごした時間も悪くなかった。
 今度はみんなで過ごす、私の誕生日。

56: 2012/01/15(日) 16:41:51.09 ID:VDPHx96f0
おわり。です。
読んでくれたかたはありがとうございました。
澪はなんか一人の時間を大切にしてそうな娘なので一人で自分の誕生日楽しんでるのもいいんじゃないかと
オチが妙な感じになりましたがすいません

またどこかで好き勝手なSSかきます、そのときはよろしくね

では

59: 2012/01/15(日) 16:42:31.38

穏やかで良かったよ

60: 2012/01/15(日) 16:43:28.49
190円に230円・・・>>1は東京メトロ沿線民とみた

引用元: 澪「ひとりの時間、ひとりの誕生日」