1: 2012/08/12(日) 23:29:42.87 ID:lVty5Qy70
ハルヒは突然そう言うと持っていた傘をぶんぶん
と振り回し、妙に勝ち誇った顔をこちらに差し出した。
留具の紐がボタンの重みで勢いよく回り今に引き千切れそうだ。
こいつがこういう顔をしている時は、大抵が訳の
わからん閃きを発表、もしくは知識をひけらかす時である。

「何をだ」

「桜の花びらの落ちるスピード」

6: 2012/08/12(日) 23:32:04.77 ID:lVty5Qy70
季節は春。
街の至る所には満開の桜が咲き乱れている。
人々の話題はこれで持ちきりであろうがそれはハルヒにも同じらしい。

「そんな事を俺が知るわけないだろ」
「秒速5センチなのよ、なんだかぴんとこない数字よね」

満面の笑みはどうだと言わんばかりである。
その笑みに呆れながら、何となく幸せを感じた俺を誰が責められよう。


7: 2012/08/12(日) 23:34:15.13 ID:lVty5Qy70
「お前は無駄にそういう事をよく知っているな」

「無駄とはなによ。これは立派な一つの知識でしょ。それに話の種にもなるじゃない」

「まあ、それもそうだな」

9: 2012/08/12(日) 23:35:15.96 ID:lVty5Qy70
車同士がすれ違うのがやっとの細道を俺達は歩いていく
厚い岩壁の上には、一段と大きい桜の木が生えていた。
桜は威風堂々と立ち、その栄光の代償のように花びらを地面に落としている。
きっと花びらはハルヒの言った速度で舞い落ちているんだろう。

その短い時間の中にはどんな時間の積み重ねがあるのだろうか。
膨大に積み重ねられた時間は、たった数週間数秒の中で輝きながら終っていく。
永遠はこの世には無い。
だがら人は永遠を想ったり感じたりするんだろう。
今が正にその瞬間なのかも知れないな。

10: 2012/08/12(日) 23:37:07.64 ID:lVty5Qy70
「ねえ、まるで雪みたいじゃない?」

ハルヒは落ちてくる花びらを手に取りそれを見つめる。

「そうか?」

俺の言葉など聞くそぶりも見せず突然ハルヒは走り出した。
赤いランドセルは大袈裟に上下していて、
教科書や筆箱の揺れる音が何かを急かすように辺りに響いている。

11: 2012/08/12(日) 23:38:20.08 ID:lVty5Qy70
「おい待てよ」

軽い音で揺れる黒ランドセルがそれを追う。
俺は無駄なものは入れないようにしている。
どう考えたって教科書は無駄じゃないがな。
緩やかな坂道をハルヒは黒髪を揺らしながら駆け下りていく。
髪はまるでそれぞれが意識を持ったように方々に揺れていた。

12: 2012/08/12(日) 23:39:40.47 ID:lVty5Qy70
全くハルヒの足の速さには驚くばかりで、
全力で追っているにも関らずどんどんと離れていきやがる。
追う方の身にもなってもらいたいもんだ。
別に追う必要もないんだが、追わなきゃあいつは多分怒る。

坂を下りた先にある踏切が報知器を鳴らしていた。
構わずハルヒは渡り切る。
俺が手前へ来たと同時に遮断機は折りだした。
ハルヒは振り返ると、散らばる花びらを雨に見立て傘を開きながらくるりと一回転。
眩しい笑顔を湛えた。

13: 2012/08/12(日) 23:41:04.15 ID:lVty5Qy70
「キョン、来年も一緒にこの桜を見るわよ。約束だからね!」

言い終えたハルヒを隠すように電車が眼前を通過する。
風が花びらを舞い上げ、通過音が澄み切った空に怒号する。
全く偉そうに。嬉しい事を言ってくれるじゃねえか。
俺も恥ずかしながら同じ事を考えていたところだ。

「そうだな」

通り過ぎていく電車を見つめながら俺はそう答えた。

14: 2012/08/12(日) 23:43:02.46 ID:lVty5Qy70

キョンへ
久しぶり。こっちの夏も暑いけど、東京に比べたら大分マシかしら。
でも今にして想えば東京のあの蒸し暑い夏も感慨深いもんがあるわね。
足が溶けるんじゃないかってぐらいクソ熱いアスファルトも、陽炎のむこうに見える高層ビルも。
デパートとか地下鉄の寒いくらいの冷房もね。

あんたと最後に会ったのは確か小学校の卒業式だったから
あれからもう半年くらい経ってることになるわね。
ねえキョンあんた私の事覚えてる?忘れてたら承知しないわよ。
私はちゃんとあんたのこと覚えていてやってる上に
手紙まで書いてあげてるんだからありがたく思いなさいよ。

15: 2012/08/12(日) 23:44:12.49 ID:lVty5Qy70
前略バカキョンへ
ちゃんと返事だしてきたのね。偉いじゃない。
出してこなかったらどうしてやろうかと考えてたけど。
ところでもうすっかり季節は秋ね。
こっちは紅葉がとても綺麗であんたにも見せてやりたいくらい。
そうそう、今年最初のセーターをおとといだしたわ。
セーラーの上に着るんだけど、色はクリーム色でね。温かくて重宝してるわ。
あんたの学生服姿どんなんかしら。
まあ大体想像はつくけど。
屁理屈こねてばかりいるあんたでも多少は大人にみえるかもしれないわね。



16: 2012/08/12(日) 23:45:03.76 ID:lVty5Qy70
最近は部活で朝早いのよ。
だからこの手紙は電車で書いてんの。
部活のことは今度詳しく書くけど、
既存のがつまらないから自分で立ち上げたのよ。
どうせ「お前らしいな」とか言って呆れてんでしょ。
あんたの呆れ顔がありありと浮かぶわ。

この前髪を切ったんだけど、結構伸ばしてたじゃない?
だから思い切ってバッサリいってやったわ。
中途半端なのは嫌いなのよね。
どうせなら豪快にやらないとつまらないし。
だからもし会っても私って解らないかもしれないわよ。

あんたも少しずつ変わっていくのかしら

17: 2012/08/12(日) 23:46:39.90 ID:lVty5Qy70
拝啓
最近寒いけど、あんた風邪とか引いてない?
別に心配して言ってるんじゃないのよ。
こっちはもう何度か雪が降ってて、その度に
めちゃ重装備で学校に通わなきゃいけないわけ。
その度にあんたの事が浮かんじゃうから聞いといただけ。

引っ越して来てからも癖で東京の天気予報まで
見てしまうようになっちゃったけど、雪はまだみたいね。

18: 2012/08/12(日) 23:47:53.38 ID:lVty5Qy70
今度はあんたの転校が決まったんですって?
正直ちょっと驚きね。
お互い転校には慣れっこだけどさすがに鹿児島は遠すぎるわ。
あんたもそう思うでしょ?

いざという時に電車で会いに行ける距離じゃないし。
ほら、寂しがり屋のあんたが私に会いたくなった時に困るじゃない。
私は別に近かろうが遠かろうがどっちでも構わないけどね。
まあ暇があったらあんたが元気でやれるのを願っておいてあげるわ。

21: 2012/08/12(日) 23:49:52.85 ID:lVty5Qy70
前略キョンへ
三月四日の約束、あんた忘れるんじゃないわよ。
約束してきたのはそっちなんだから破ったら承知しないからね。
いい?絶対よ。

あんたと会うのは一年ぶりくらいかしら。
あんた緊張してんじゃない?
そりゃ緊張してもおかしくない一大事だもの。
なんてったってこの私に会えるんだから。
緊張の一つでもしてもらわないと私の価値が下がるってものだわ。

22: 2012/08/12(日) 23:50:49.31 ID:lVty5Qy70

そういえば家の近くに大きな桜の木があんのよ
春にはそこでもきっと秒速5センチで花びらが降ってるのよね。
あんたとついでに春もやってきてくれればいいのにって
たまに思ってしまう自分が恥ずかしいわ。
なし 今の無し 今のは書いてないことにする。
あんたも読んでないことにしなさい。


──────────────────────────

23: 2012/08/12(日) 23:52:04.79 ID:lVty5Qy70
三月四日。
ハルヒとの約束の日は午前中から雨が降っていた。
昼になるとそれは雪へと変わり寒さをより一層強くする。
どんよりと灰色の厚い雲が地上を覆っていて、
そこから雨交じりに雪が降っていた。

その雪が今日の日をより鮮明な記憶にしてくれるだろうと思いつつ
ハルヒへの手紙を封筒に収め、それから新宿から岩舟までの列車
の乗換えや発着時間を書き記した紙をコートに突っ込んだ。

24: 2012/08/12(日) 23:56:31.86 ID:lVty5Qy70
「キョン部活行こうよ」

教室の外には国木田がいた。

「すまん、今日は部活は無理だ」
「引越しの手伝いとか?」
「ああ、そういうところだ。悪いな」

暫く下を向いていた国木田は、寂しそうな笑顔を俺に向けた。

「ねえキョン、引越しってしまっても僕たちずっと友達だよね?」
「当たり前だろう」

国木田の肩に手を置き、自分に言い聞かせるように俺は言う。

「うん……、そうだよね」

26: 2012/08/12(日) 23:57:36.30 ID:lVty5Qy70
国木田と別れ、学校をでた俺は急ぎ足で駅へと向かった。
降り続く雪は木の枝や葉に僅かながら積もり始めている。
この調子でいけば明日には東京の街一面に雪が覆いそうだ。

15時54分、時刻表通りに電車は新宿駅へと向かいだす。
客は少ないが座席は綺麗に埋まっている。
俺は窓際に立ち、流れていく風景をぼんやりと眺めた。

27: 2012/08/12(日) 23:58:57.85 ID:lVty5Qy70
ハルヒと俺は精神的にどこかよく似ていたと思う。
俺が東京に引っ越してきた一年後にあいつが転校してきた。

体が弱いとか運動が苦手だとかそういうことではない。
俺もハルヒも外で遊びまわる方が好きな人間だ。
しかし俺達二人は多くの時間を図書室で過ごした。
後々負うことになる傷から無意識に自分を守っていたのかもしれん。
今でも東京にいるからあまり意味はなかったようだが。


28: 2012/08/12(日) 23:59:52.79 ID:lVty5Qy70
当初険しい顔をして本を睨むハルヒに俺は当然に興味を抱いた。
誰もいない図書室に仏頂面の美人がいるんだから抱かない訳にもいかんだろう。

そして意を決し、とある日に俺はハルヒに声を掛けてみた。
よくそんな勇気があったもんだと我ながらに思うね。
内容は特筆するもんでもないさ。
その本面白いか?そんなもんだ。

まあ当然と言えば当然なのだろうが、
華麗過ぎるほどあっさりとハルヒは俺を無視しやがった。
だから俺もあっさりとハルヒとお近づきになると言う考えを捨てた。

29: 2012/08/13(月) 00:00:23.57 ID:V2OaPt4c0
しかしどうも俺が読みたい本はハルヒの読みたい本でもあるらしく、
図書室を訪れ本を探せばハルヒの手元にある、という事が多々あった。
その逆もまた然り。

そんなこんなで紆余曲折を経て、俺とハルヒは親しくなっていった。
このまま俺達は同じ中学に通い、それなりに仲良く過ごしていくんだろう
と思い込んでしまう程に。

31: 2012/08/13(月) 00:01:08.42 ID:V2OaPt4c0
車内に流れるアナウンスが下車を促す。
電車はいつのまにか新宿駅に到着していた。
早々に切符を購入し、それからトイレへと向かう。

手を洗いながら自分の顔を鏡で見る。
そこで初めて俺は自分が緊張していることに気付いた。
顔が引きつっている。思わず笑いそうになるくらい不細工だ。
そうか。俺は緊張しているのか。
良かったなハルヒ。これでお前の価値は下がらずに済むようだぜ。

32: 2012/08/13(月) 00:02:02.24 ID:V2OaPt4c0
「転校?学校はどうするんだよ」

それは唐突な電話で、ハルヒの声は震えていた。
あいつのそんな弱々しい声を聴き、得体のしれない恐怖に怯えたのを憶えている。

「栃木の公立に手続きすることになった」

泣いているような声でハルヒはそう言った。

「おばさんの家から通うからっていったのよ」

耳元で聞こえる泣き声はいつものハルヒを必氏に演じているようだった。

34: 2012/08/13(月) 00:03:32.55 ID:V2OaPt4c0
「大きくなってからじゃなきゃ駄目だって。全く、子供扱いしすぎなのよ」

むせる様なハルヒの笑い声は、周りの雑音に消え入りそうだった。

「分かった。もういい、気にするな」

励ますつもりで掛けた筈なのに、
言葉は意識していたより遥かに冷たい感触だった。

「別に気にしてなんかないわよ馬鹿。キョン……、ごめんね」

耳が痛くなるほど押し当てた受話器越しに、
ハルヒが傷ついていくのが手に取る様にわかった。
俺にはどうすることもできなかった。

35: 2012/08/13(月) 00:04:22.44 ID:lVty5Qy70
ターミナル駅は帰宅を始めた人で込み合っており、誰の靴も雪の水を吸い濡れていた。
床は滑りやすくなっていて、俺は何度かこけそうになった。
その度にハルヒのあの笑顔が浮かんでは消えていく。
こんなところまで現れやがって。もう少しで着くから大人しく待ってろ。

足早にホームに出ると、湿った冷気が雪の日の都市独特の匂いを放っていた。
早く電車に乗って暖房の効いた車内でのんびりしたいもんだぜ。
そう考える俺を嘲笑うように、電車の到着が遅れる事を知らせるアナウンスが流れる。

36: 2012/08/13(月) 00:05:00.31 ID:V2OaPt4c0
その瞬間まで電車が遅れるなんて事は一度たりとも考えはしなかった。
到着は八分遅れ。
そんなに焦ることはないのだろうが、不安が大きさを増していく。
俺がどうしようと遅れた時間を取り戻すことは不可能だが、
それでも到着した電車に少しの期待を込め素早く乗り込んだ。

電車は十分遅れで発車した。

37: 2012/08/13(月) 00:06:22.24 ID:lVty5Qy70
大宮を過ぎ暫くすると人家はまれになり、外の風景は白銀ばかりになった。
その白銀世界は自分とは全く関係の無い別の世界の景色なのでは?
俺の世界とこの世界は、果たして交わることがあるのだろうか。
暖房の効いた車内は、そんな考えを引き起こすに充分な環境だった。
まあ各駅停車し、電車の扉が開くとその考えもすぐに吹き飛ぶわけだが。

扉を開けたまま停車する車内には風が吹き込んできている。
背後の席に座っていたおっさんが、ドア付近にあったボタンを押し扉を閉めた。
少量の冷気を残した車内は再び熱を蓄えようと試みている。
はっとするのも束の間に、俺はすぐにおっさんに謝る。
構わないという素振りを見せたおっさんは、腕を組み銅像のように固まった。

40: 2012/08/13(月) 00:08:01.70 ID:V2OaPt4c0
約束の時間は既に過ぎている。ハルヒは多分怒っているに違いない。
虫歯をこらえたような顔をしたハルヒが腕を組んでいる姿を想像した。
更に想像を膨らませながら、俺は座席に倒れるように座り大きく息を吐いた。

41: 2012/08/13(月) 00:08:54.59 ID:V2OaPt4c0
「遅い!罰金!」

こう言うに違いない。
悪かったよ。ちゃんと時間通りに到着する筈だったんだがな。
ただこの雪じゃしょうがない。そう怒るなよ。
お前に土産がある。それで許してくれ。
この俺が、だ。お前へ特別仕様の手紙を書いたんだ。
喜ぶかは解らんが、俺からのとっておきのプレゼントだ。

42: 2012/08/13(月) 00:10:31.22 ID:V2OaPt4c0
ポケットから出した手紙はヨレて皺ができていた。
しかしこんな些細なことは何も影響を及ぼさない。
要は中身で、読んでくれさえすれば何も問題はないからな。
この手紙には口では言えないような言葉が書き連ねてある。
読んだあとにハルヒは笑って俺を馬鹿にするかもしれない。
別にそれでもかまわんさ。

43: 2012/08/13(月) 00:11:18.59 ID:V2OaPt4c0
乗り換えの駅についた頃には、約束の時間から一時間近く経っていた。
雪は止むどころか吹雪へと変貌し、より激しく地面へ覆いかぶさっている。
構内に流れるアナウンスは発着が遅れていることを
しつこく繰り返し、その一々に俺は苛立ちを覚えた。

今更引き返すことはできん。
なにしろそれをハルヒに伝えることすらできないからな。
次の電車が最後だ。とにかくあいつの元へ向かうしかない。

44: 2012/08/13(月) 00:12:14.31 ID:V2OaPt4c0
電車が来るまで吹きさらしの構内で待つことにしたが、
正直いつ凍氏してもおかしくは無いと覚悟するほどの寒さだった。
遺書でも書こうかと考えていると、屋台が目に入った。
二人の男性客は飯より酒を飲むことに情熱を注いでいるようだ。

俺も何か、まあ飯を食う金は無いから熱い茶でも飲むか。
自販機へ向かい、財布を取り出す為にコートのポケットに手を突っ込む。
疲れていたし、目前の欲に気を取られていたこともあったんだろう。
財布と一緒に手紙が出てきていたことに俺は全く気付かなかった。
咄嗟に掴もうとした時にはもう手遅れだった。

45: 2012/08/13(月) 00:12:59.38 ID:V2OaPt4c0
手紙は地面へ落ちる間も無く一気に十数メートル向こうへ
吹き飛び、雪の白へ混じり闇に消えてしまった。

本当に一瞬の出来事だった。
あまりにも短すぎた為に、その光景の意味が暫く理解できなかった。

「くそったれ!」

振り上げた拳を自販機へと叩きつける。
構内に空疎な音が響き渡り、怯んだ様に風が一瞬弱まった。
怒りが際限無く溢れだす。何に対しての怒りか。当然ながら自分にだ。

46: 2012/08/13(月) 00:13:58.36 ID:V2OaPt4c0
あの手紙はこの体よりも何よりも俺そのものだった筈だ。
あいつに自らの手でそれを渡すことが最大の目的だった。
ただ会いに行くだけじゃ意味がない。何やってんだよ馬鹿野郎。
どうして気付かなかった。どうして鞄に入れておかなかった。

47: 2012/08/13(月) 00:15:09.27 ID:V2OaPt4c0
……ああ、そうだ。こんな風に一人で遠出するのは初めてだ。
たとえ行き着いた先にハルヒがいたとしてもだ。
それでも俺は不安だったんだよ。
昨日から落ち着かなかいし、体が強張って今日は肩が凝ってる。

情けねえ。お守り代わりにポケットに入れてたって言うのかよ。
そもそもその手紙はハルヒから貰ったもんじゃない。自分で書いたもんだ。
そんなもんが何で俺を守ってくれんだよ。
それでも……、それでもそれは俺に自信を与えていたんだ。
そういう風に揺らぐ精神を保とうとしたっていいじゃねえか。
そんなに俺は強くないんだ。

48: 2012/08/13(月) 00:15:50.39 ID:V2OaPt4c0
俺は、どうしたらいい。
あいつに会って俺はどうしたらいい?
どんな顔をすればいい。どんな瞳であいつを見つめればいい。どういう風に喋ればいい。
俺は笑っていられるか。あいつの言動に、呆れつつも幸せを感じる事ができるのか。

答えの出ない自問を何度も繰り返す。
いや、寧ろ答えから逃げたい一心で思考を徘徊させていた。

50: 2012/08/13(月) 00:16:32.87 ID:V2OaPt4c0
視界の端が白く光る。
仄暗いホームを直線的なライトが照射している。
電車が到着したようだ。
眩しく鋭い光は、俺の前を通り過ぎ間もなく停止した。
これから進んでいく闇の向こうを、予感と期待を込めて力強く照らしている。
車内の蛍光灯はそれとは種類の違う光で、構内を明るく染めている。
その明かりは屋台の、自販機のそれよりも遥かに優しく柔らかだった。
だが現実にはそれはとても冷酷に違いない。
この電車とそれの行き着くところは俺にとって答えだからだ。

51: 2012/08/13(月) 00:17:44.98 ID:V2OaPt4c0
手紙を探すのはもう不可能だ。
どのみちこの吹雪じゃ探しようもない。

足取り重く俺は到着した電車に乗り込む。
時計の針が8時15分を指すと同時に発車した電車は、
掻き分ける様に吹雪の中を進んでいたが、40分程すると突然停車した。

降雪によるダイヤの乱れの為に停車する
復旧のめどは立っていない
大変恐縮である

アナウンスはそう告げる。
今日ほど駅や電車のアナウンスに意識を傾けた日もない。

53: 2012/08/13(月) 00:18:16.42 ID:V2OaPt4c0
腕時計を外し、指で時計の感触を確かめる。
こんな時まで正確に時間を刻むとは律儀な奴だ。
普段なら絶対にそんなことは思わんだろうが、
こんな状況ではその正確さがとても痛い。

54: 2012/08/13(月) 00:19:26.30 ID:V2OaPt4c0
                                        
─キョン元気?部活で忙しいからこの手紙は電車で書いてんの─

手紙から想像するハルヒはいつも一人だった。俺の思い込みだろう。
なんせ自分で部活を立ち上げて忙しいなんて言うんだ。
それなりに普通の生活を楽しんでいるに違いない。
だが心の奥深くに空白がぽっかりとあって、折に触れてそれが
全てを呑み込もうと襲い掛かってくる時があるんだと思う。
それは俺にもあるし、誰にでもある筈だ。
ハルヒにとっては窓の外に流れる日常の風景が、揺れる車体が、
誰もいない座席が、堅苦しく窮屈な制服が、その空白の代理人なんだろう。

なあハルヒ。
今この電車の中で感じる孤独は、お前がいつも感じているものと一緒なのか?

56: 2012/08/13(月) 00:20:59.56 ID:V2OaPt4c0
結局電車は二時間近くも何もない広野に停まり続けた。
一分一秒はそのものとは思えない程長く感じられ、
時間ははっきりとした悪意を持って俺の上をゆっくりと流れた。

割れた空の破片が落ちるように、途切れることなく雪は降り続く。
アナウンスは幾度となく近況報告をし、
その間にも狂い無く時計は時を刻み、体には孤独が覆いかぶさる。
俺はきつく歯を食い縛り、とにかく耐えているしかなかった。

「ハルヒ……」
頼むからもう家に帰っていてくれ。

57: 2012/08/13(月) 00:22:38.16 ID:V2OaPt4c0
古ぼけた建物の明かりが、窓の外に流れ込んでくる。
動き出した電車が、白い闇の中を掻き分けて間もない頃だった。
どうやら目的地である岩舟駅の駅舎のようらしい。

甲高いブレーキの音は全てが終った事を俺に知らせる。
結局駅に到着したのは11時15分だった。

アナウンスは暫く停車すると言ったが、それに何の感情も抱かない。
勝手にしたらいいさ。
これから二時間この駅に停まろうが、今すぐ発車しようが
今来た道を戻り始めようが、何かの拍子で車体が
転げようが爆発しようが、俺の知ったことではない。俺には一切関係ない。

58: 2012/08/13(月) 00:23:16.28 ID:V2OaPt4c0
構内の階段を上り、そそくさと駅舎へ向かう。
俺は先ほどハルヒに帰っていてくれと願った。何故か。
そう、こいつは待ち人が来ないからと言って、簡単に帰る女ではないからだ。
自分を何時間も待たせる人間が、どんな表情で眼前に現れどんな言葉を発するか。
それを見届け、尚且つ自分の感情を相手にぶつけないと、気が済まないのである。
つまり俺は間違いなくハルヒがここで俺を待っていることを確信していた。
だからこそそう願ったのである。

59: 2012/08/13(月) 00:24:50.52 ID:V2OaPt4c0
駅舎の中はどこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
なにがそう思わせるかわからない。
しかしその一因は確実にこいつにあるだろう。
石油ストーブを囲うように置かれた待合の椅子。
その椅子の二番目に白のコートを着た女がいた。勿論ハルヒだ。

61: 2012/08/13(月) 00:25:45.50 ID:V2OaPt4c0
俺が入って来たことに気付かないあたりどうやら寝ているらしい。
腰に届きそうかと言うほどの長髪は肩の辺りで切り揃えられていた。
本当にバッサリいったな。それはそれで似合っているからまあいいが。

「ハルヒ」

小さく呟いたが、反応は無い。
静寂を保った寝顔には緊迫の空気が漂っている。
水風船に針を刺すようなもんだ。俺はハルヒの額にかるくでこピンをかました。

「……おが!?」

ハルヒは慌てて立ち上がり辺りを見回す。
そして正面に俺を認めて目を見開いた。

63: 2012/08/13(月) 00:28:11.28 ID:V2OaPt4c0
口をぱくぱくさせ、指先を勢いよく俺の顔に差し向ける。

「……こおらこのバカキョン!来てるんなら来てるって言ってから起こしなさいよね!
 こっちにも準備ってもんがあるんだから」

顔を赤くしたハルヒは腕を組みそっぽを向いた。
それは一見すると怒っているように見えるが嬉しそうにも見える。

「だからそれを教える為に起こしたんだろうが」

「起こす前に知らせなさい」

「どうやったらそんなことができるんだよ」



64: 2012/08/13(月) 00:29:19.36 ID:V2OaPt4c0
「まあいいわ。それよりまず言うことがあるでしょ」

「ああ、遅れて済まなかった。許してくれ」

呆れたいのはこっちだが今は素直にしといた方が身のためだ。

「私が寝起きでよかったわね。どんな風に懲らしめてやろうかと思ってたけど」

勝利宣言とも言うべき笑顔をしているが、目は赤くなり潤んでいるように見える。
まるで涙を必氏で堪えるようだ。まあ寝起きだからだろう。
ハルヒは再び席に座り鼻を鳴らす。

65: 2012/08/13(月) 00:30:13.58 ID:V2OaPt4c0
俺も椅子に座りストーブの前で冷えた手を温める。
近づけすぎると熱い。かといって離すといまいち温かくない。
妙なもどかしさと決闘していると、

「ねえ何か飲む?と言っても選べる訳じゃないけどね」

ハルヒは鞄の中から水筒をだし、コップに注ぎ俺に手渡した。

湯気が出ている。文明と言うものに感謝しなければなるまい。
魔法と言う言葉がこれほど現実味を帯びた響きを持ったことは一度もない。
魔法瓶。本当に魔法のようだ。
一口で飲み干す。体の中にじわじわと染み渡る。
その感覚は痛みすら伴う程で、空の腹は悲鳴を上げていた。

66: 2012/08/13(月) 00:31:35.42 ID:V2OaPt4c0
「よほど喉が渇いていたみたいね」

二杯目を注ぎながらハルヒは言った。

「どっかの駅で飲む暇なかったわけ?」

「小山駅で買おうと……いや、そんな暇なかった」

ハルヒは言葉に詰まった俺を訝しそうな顔で見たが、
特に気にするわけでもなく水筒のシールの端を爪で引掻いた。

「でもよかったじゃない。今日本で一番おいしいお茶を飲めてんだから」

「日本一、ねえ。普通のほうじ茶にしか思えんのだが」

「そうかしら」

言い返す気力もないという風にハルヒは言った。

67: 2012/08/13(月) 00:32:57.94 ID:V2OaPt4c0
「そうだな。世界一美味い、の方がしっくりくるぜ」

「大袈裟ね馬鹿」

「そうか?」

「そうよ」

「そうかい」

俺達はくすりと笑いストーブの中で揺れる炎を見つめた。
それからね、とハルヒは鞄の中から弁当箱を取り出す。

「味の心配はしなくていいわ。
 私が作ったものがまずいなんてことはありえないから」

抑揚のある声からは自信が溢れている。
ハンバーグ、卵焼き、ウインナー、それからちょいとでかめのおにぎり。
うむ。見た目は確かに美味そうだ。

68: 2012/08/13(月) 00:34:11.87 ID:V2OaPt4c0
「すまんなハルヒ。ありがたく頂くぞ」

俺はおにぎりを手に取り一口含む。
涙を流しながら飯を食ったことがあるか。
どっかでこんな言葉を聞いたことがある。
今の俺にはその言葉の意味するところが解る気がする。
零れそうになる涙をぐっと堪えそれを食べきった。

「ハルヒ。俺は嘘は言わん。今まで食った中で一番美味いぞ」

「それは大袈裟じゃないわね。当然のことだから」

ハルヒは満足そうな笑顔を浮かべ、

「あたしもお腹すいてんのよね」
とおにぎりを手に取り豪快にほおばった。
それから二人で、特に俺が夢中で弁当を食った。

69: 2012/08/13(月) 00:36:09.49 ID:V2OaPt4c0
結局、答えなんてのは無かったのかもしれない。
確かな不安が胸に巣食ってはいた。
手紙を失ったあの瞬間は絶望としか言いようが無かった。
だけどそれはささやかなもんでしかなかったんだ。
俺は普通に喋れている。笑えている。臆することなくハルヒを見つめている。
目的を一つ失いはしたが、それは二人の時間が拾い取ってくれている。
俺はここにいて、ハルヒもここにいる。それが一番大切なんだ。
ハルヒの横顔がそれを教えてくれている。

70: 2012/08/13(月) 00:37:14.66 ID:V2OaPt4c0
「もうすぐ引越しだっけ?」

「ああ、来週だ」

「鹿児島かあ」

ハルヒは懐かしいものでも思い出すように呟き、
椅子に体重を預けて天井を眺めている。

「遠いよな」

そう言い俺も天井を眺めた。

「そりゃそうよ。東京の隣にあったらそれは神奈川だもの。
 遠くて九州にあるから鹿児島なのよ」

よく解らん理屈を言うと、ハルヒはお茶を一気に飲み干した。

71: 2012/08/13(月) 00:37:45.28 ID:V2OaPt4c0
「まあ栃木も遠かったがな」

息を吐き俺は言う。
ストーブの上の盥の湯気が天井を隠した。

「帰れなくなっちゃったしね」

悪戯っぽく歯を見せながらハルヒは笑う。

72: 2012/08/13(月) 00:38:30.69 ID:V2OaPt4c0
しかしこいつ本当に大人っぽくなりやがったな。
ハルヒの顔を見れば見るほどそう思う。
離れている間の年月はハルヒを確かに変えていた。

幼さはまだ残っているが、子供から美少女へと確実に変貌し、
スカートから生える両脚は、健康的で白い色気をまとっている。
コートに隠れてはいるが胸の膨らみも確認できる。
顔の輪郭はしっかりとし、鼻梁は形良く瞳は力強い。
変わること無いのは黄色のカチューシャだけか。
俺もちょっとは成長しているのだろうか。

73: 2012/08/13(月) 00:39:34.51 ID:V2OaPt4c0
「昔は緩い顔してたけどちょっとは大人びたわね」

ハルヒは心を読み取っているかの如く観察的に俺の顔を見た。

「身長はいまどれくらい?」

背が伸びたことを実感してはいるが、実際の数字は出てこない。
頭に何となく浮かんだ数字を答えると、それは小学生の時の身長だ、とハルヒは言った。

「あんた小学生で時間止まってんじゃないの」

冗談ぽくハルヒは言ったが、その言葉は妙に重く響いた。

74: 2012/08/13(月) 00:41:32.77 ID:V2OaPt4c0
「それよりお前本当にバッサリいったんだな」

「まあね。これくらい当然よ」

ハルヒは髪先を指で触りどうでもいいような顔をした。

「それが当然なら俺は坊主にしないといけなくなるな」

「だったらそうしなさいよ」

「検討しておこう」

「それ政治家なんかの逃げ口じゃない。結局やらないんでしょ」

「検討した結果がそうなるんだからしょうがないだろ」

ハルヒは更に反論する素振りを見せていたが、
仕切りガラスを叩き喋りかけてきた駅員に阻まれる。

75: 2012/08/13(月) 00:42:46.03 ID:V2OaPt4c0
「そろそろ閉めますよ。もう電車も無いですし」

駅員は雪だから気をつける様にと優しい声を掛けてくれた。
俺達は揃って返事をし、ハルヒは弁当箱と水筒を鞄に入れる。
そして俺達は駅を後にした。

外の白銀世界は濃厚に密度を増していた。
ひどく吹き荒れていた風の行方はもうどこかに消えている。
目を瞑れば気付きもしない程静かに雪は降り続いており、
辺りに響くのは雪を踏みしめる俺達の足音だけだ。

建物の屋根、自転車のサドル、その他の全ての頭に雪は積もっている。
その積雪の厚みは流れた時間の長さを示す一つの証でもある。
街灯の光は雪の白をさらに鮮明に白く染め上げ、
明かりが消えた民家の沈黙を浮き彫りにしている。

76: 2012/08/13(月) 00:44:28.34 ID:V2OaPt4c0
「やっほう」とハルヒはスキップしながら先へと一人で進んでは、
俺の側へ戻って手を引いたり地面の雪を投げつけたりして遊んでいる。
しばらくそうやって歩く内に景色は段々と変化した。

大きな送電線と電柱が等間隔に並び立ち、
辺り一面を畑が占め、遠くにはなだらかな山々がうっすらと佇んでいる。
少し離れた場所に大きな木があり、ハルヒはそれを指差した。

「ねえあれ見える?あの木」

「手紙で言ってた木か」

「そう、桜の木」

枝はまるで根のように伸びている。
葉も花も無いが、代わりに白い結晶が咲いている。
ハルヒは落ちてくる雪を手に取った。

77: 2012/08/13(月) 00:46:28.21 ID:V2OaPt4c0
─ねえ、まるで雪みたいじゃない?─

夜の帳を突き破る光のように思い出されるあの瞬間。
明るい日差し、満開の桜、ランドセルの赤色。
落ちてくる桜を手にとるハルヒ。走り出す二人……。

─そうだな─

あの時とは時間も場所も違う。当然俺もハルヒも。
それでも見つめあう瞳の奥にある感情に、心に変わりはない筈だ。

言葉はいらなかった。
緊張とか恥ずかしいとかそういう感情はどこにもない。
求め合う衝動が体をゆっくりと動かしていく。
ハルヒは目を閉じた。ハルヒの鼻先に雪が落ちる。
その綺麗な顔を、その綺麗な瞬間を見逃したくはない。
その雪を見つめながら、ハルヒの唇に自分のそれを重ね合わせる。

78: 2012/08/13(月) 00:47:28.44 ID:V2OaPt4c0
その瞬間、永遠や心、魂なんてものがどこにあるのか解った気がした。
13年間生きてきたことの全てを分かち合えた様に思い、
それから次の瞬間……、堪らない悲しさが俺を襲った。

ハルヒのその温もりを、その魂を、どう扱えばいいのか。
どこにもっていけばいいのか、俺には解らなかったからだ。
俺達はこの先もずっと一緒にいることはできないとはっきりと分かった。
俺達の前にはいまだ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間がどうしようもなく横たわっている。

だが、俺を捉えたその不安はやがて緩やかに溶け、後には
ハルヒの柔らかな唇だけが残っていた。

82: 2012/08/13(月) 00:49:38.60 ID:V2OaPt4c0
唇を離すと、ハルヒは勢いよく俺に抱きついてきた。
カチューシャのリボンが抱きついた瞬間に顔にぶつかって……。
いや、今はそんな下らない事を言うのは野暮ってもんだな。
俺もハルヒを抱きしめた。冷え切った肌は心地よい温もりに包まれる。
コートは溶けた雪の水分で湿っていて、触れる髪はひんやりとしている。

83: 2012/08/13(月) 00:50:45.26 ID:V2OaPt4c0
しばらくそうしたあと、体を離す。
ハルヒの頬は朱に染まっている。
触れば火傷しそうなほど赤い耳朶。
当然火傷はしないがかなり熱い。

「なっ、なに触ってんのよ」

「真っ赤だからついな」

悔しそうな顔で俯くハルヒ。

「寒いんだろ?」

「そそっ、そう!そうよ、寒いのよ。そう……、寒いの」

しどろもどろになったハルヒは、にやにやしている俺の顔を見るなり
雪を丸め思い切り投げつけてきた。

86: 2012/08/13(月) 00:52:00.29 ID:V2OaPt4c0
「なにしやがるっ」

「あんただって真っ赤じゃない!」

「そりゃそうだろ。恥かしいんだから」

「こんな時だけ素直になるんじゃないわよ。このあほんだらけっ」

「素直で何が悪い」

俺は両手をひらひらさせハルヒの顔を覗く。
「もう一回やっとくか?照れもなくなるぞ」

その言葉を聴いたハルヒは、
不適な笑みを見せたかと思うと突然走り出した。

「あんたの思い通りにはさせないわよ」

やれやれ。追わないと怒るんだろうなこいつは。
それ以前になぜ逃げる。

87: 2012/08/13(月) 00:52:38.19 ID:V2OaPt4c0
「待てよ」

雪が積もった道を俺達は走り回った。
あの日の様にハルヒは無邪気に走り、あの日のように俺は追う。
冷気を切り、雪が積もった地面を必氏に踏み、舞い散る雪を体に浴びながら。

「捕まえれるもんなら捕まえてみなさい」

ハルヒは立ち止まり振り返る。
そして無邪気な笑顔を見せ、幼い子供のようにあかんべーをした。

89: 2012/08/13(月) 00:54:03.32 ID:V2OaPt4c0
その後俺達は畑の脇にあった小さな納屋で過ごした。
古い毛布に二人でくるまり、長い時間話し続けた。
今日までのそれぞれの生活や、出し合っていた手紙の事。

それから団活のこと。SOS団……だっけかな。
ハルヒによると俺は団員第一号で、役割は雑用らしい。
しかし今現在は、活動目的すら知らんのに東京支部団長になってるそうだ。
結局役に立たんから近いうちに鹿児島に左遷されるらしいが。
そういう事を話しているうちにいつのまにか俺達は眠っていた。

そして朝が来て、俺は動き始めた電車に乗ってハルヒと別れた。

90: 2012/08/13(月) 00:54:57.16 ID:V2OaPt4c0
ハルヒはえらくしんみりとしていたが、
「あんたなんて顔してんのよ」
と言嘲笑してみせた。

「お前の真似をしただけだ」

「私がそんな顔するわけないじゃないの」

強がりは俺達の特権だ。寂しさは心の奥に突っ込んで、
最後まで馬鹿みたいに意地の張り合いをしなきゃいけない。

「キョン、あんたはこの先も大丈夫だと思うわ。絶対」

ハルヒは真っ直ぐに俺を見据えてそう言った。
そうであって欲しいと願いを込めるように。

「ありがとうハルヒ。お前も元気でな」

91: 2012/08/13(月) 00:56:31.14 ID:V2OaPt4c0
電車の扉が閉まりだす。
いざとなると感情は昂った。
目の前にハルヒがいる。
手を伸ばせば届く距離なのに、物凄く遠くに感じられる。
俺はハルヒに触れたくなった。
突き出した手は、ハルヒの頬に触れる事無く窓に遮られる。

92: 2012/08/13(月) 00:57:46.00 ID:V2OaPt4c0
「手紙書くからな。それから電話も」

素直な感情は軽々と意識を飛び越える。
自分でも驚くほど大きい声を俺は吐き出した。
もどかしい程ゆっくりと電車が動き出し、
ハルヒは窓越しに俺の手と自分の手を合わせる。

温もりも感触もわからない。感じるのは硬い窓の冷たさだけだ。
鮮明にハルヒの柔らかい手の温もりが甦る。
思い出せば出すほど、触れたい衝動は強くなる。
裏腹に電車は少しずつ離れていく。

93: 2012/08/13(月) 00:59:01.76 ID:V2OaPt4c0
ハルヒは唇をかみ締めている。時折り風が吹くのかハルヒの髪の毛が揺れた。
その度に電車を追って急に走り出すんじゃないかと俺は思った。
だがハルヒはそこに立ち尽くし、ただこちらを見つめているだけだった。
次第に駅は遠くなっていき、緩やかな曲がり道が俺の視界からハルヒを消し去った。

94: 2012/08/13(月) 01:00:23.27 ID:V2OaPt4c0
手紙を失くしてしまった事はハルヒに言わなかった。
あのキスの前と後とでは、世界の何もかもが変わってしまった様な気がしている。
窓越しに当てられたハルヒの手を想い、窓に手を添える。
あいつを守れるだけの力が欲しい……。
そう強く思った。
それだけを考えながら、俺はいつまでも窓の外の景色を見続けていた。

96: 2012/08/13(月) 01:03:49.30 ID:V2OaPt4c0
日差しはあまねく降り注ぐ。
黙々と漂う雲は目的を持たない。
青空は遠くまで広がり、やがて海と重なる。

その海へと続く一本道。
私はバイクを走らせる。

背後から車が近づき横付けた。
反対車線にはみだした所で何も問題は無い。
この道の一日の通行量は無に等しい。
大音量の音楽が車内から外へと滑り出している。
LINDBERGの「君の一番に…」

97: 2012/08/13(月) 01:05:41.20 ID:V2OaPt4c0
「有希、放課後もいくの?」

大きな声で姉は問う。音量を下げたらいいのに。
「うん」と私は頷いたがきっとこの声は届いていない。

「海に行くのもいいけど、勉強もちゃんとしなきゃ駄目よ」

にこりと笑顔を見せ、車はスピードを上げて先へと進んでいった。
多分、法定速度を大幅に超えている。

99: 2012/08/13(月) 01:07:02.88 ID:V2OaPt4c0
学校へたどり着いた私はそのまま駐輪場へと向かう。
既に数台のバイクが置いてあり、その中に彼のバイクもあった。

ヘルメットを外し、ミラーを覗いて髪を整える。
特に髪が乱れているという訳ではない。
それでも私は無意識の内に髪を整えてしまう。
ただのおまじないの様なものに過ぎない。

101: 2012/08/13(月) 01:08:41.28 ID:V2OaPt4c0
弓道部に朝の練習は無い。
しかし彼はいつも朝早くから一人で練習をしている。
弓構えの体勢で的を見つめる彼の姿は格好良い。
私に気付くと真剣な表情はたちまちに崩れた。

「おはよう、長門」

普段の無気力な顔で彼は口元をゆるめた。

「今日も海行ってきたのか?」

私は頷く。

102: 2012/08/13(月) 01:09:36.18 ID:V2OaPt4c0
「そうか。頑張るんだな」

じわりと汗がわく感触が背中に起こった。
彼の優艶な瞳はいつもそうやって私から冷静さを失わせる。
あの瞳に見つめられると私は何もできない。

「それ程でもない。また後で」

逃げるようにその場を離れる姿はどんな風だったのだろう。
そんな事を考えながら私は足早に教室へと向かった。

103: 2012/08/13(月) 01:10:40.47 ID:V2OaPt4c0
昼食の時間。
今朝のHRで担任から進路希望調査のプリントが配られた為、
二人の友人の話題は近い将来の進路のことに絞られていた。

「佐々木ちゃんは東京の大学に行くみたいっさ」

快活な声でそう言ったのは鶴屋という友人の一人。
無口でつまらない私にも何の隔たりも無く接してくれる。
彼女はいつも笑っている。とても無邪気に。
けれどそこには精巧な上品さがある。彼女の笑顔は誰も傷つけない。

「さすがですね。私は熊本の短大になりそうです」

おっとりとした声を出すのは喜緑江美里。
彼女も私にとってかけがえのない友人の一人。
物腰が柔らかく静かな彼女は、綺麗な人形を想わせる。

104: 2012/08/13(月) 01:11:57.08 ID:V2OaPt4c0
「有希っこはどうするのかな?」

一通りの順序を踏み話題の終着点は私になった。
首を斜めに傾げて答える。

「就職ですか?」 

江美里の問いに私はもう一度首を傾げる。
今の私はその問いに対する答えを持ち合わせていない。

「う~ん、そろそろ真剣に考えた方がいいにょろよ」

「キョン君に夢中で他の事は考えられないようですね」

江美里は心得顔で言う。

「キョン君は東京に彼女がいると思うにょろよ」

「それは憶測に過ぎない。勝手なことを言わないで」

二人は過剰に反応した私が面白かった様子。
鶴屋はけらけらと笑い、わかめは口元に手を添え一笑した。

105: 2012/08/13(月) 01:13:10.72 ID:V2OaPt4c0
さほど気を害しはしない。
私ははっきりと感情を露にできる性格でもない。
黙ってやり過ごす。一番賢明で一番私らしい。

それに彼女達に悪意が無いのはよく理解している。
私の為に彼の事を調べてくれたりしてくれている。
けれどそのほとんどがトイレに彼がいた、髪を切ったようだ、
友達と遊んでいた、と重要性がないものばかり。
それでも彼女達の好意には日々感謝している……筈。

106: 2012/08/13(月) 01:14:46.87 ID:V2OaPt4c0
放課後私は海へと向かった。
海に面した斜面へ向かう。
そこからは空と海を一望できる。
私のお気に入りの場所。
近づくにつれ潮の匂いと波音が、海の存在を予感から確信へと変えていく。

足早に登った斜面から見える景色は、満面に青の彩りを広げていた。
腰を下ろし、一冊のノートを開く。
小さな筆箱から、綺麗にとがれた鉛筆を取る。

108: 2012/08/13(月) 01:15:47.84 ID:V2OaPt4c0
子供の頃から読書が好き。
毎日本を読んでは幼い空想にふけり、内的な世界に身を置いた。
外界に引きずり出そうと企んだ姉は、ある日私をここへ連れてきた。
何かを無理強いさせられる訳でもない。ただ連れてこられただけ。
姉は自分の趣味であるサーフィンを楽しみ、私はそれをただ眺めた。
この海の壮大さに心奪われた私は、次第に自分から足を運ぶようになった

110: 2012/08/13(月) 01:16:30.10 ID:V2OaPt4c0
時を同じくして私の心境には変調の兆しのようなものが表れ始めた。
受け取ることよりも発する方に興味が移り始めている事を自覚したのだ。
だから内なる幻想的妄想的世界を小説という形で外界に解き放った。
そこからはまるで爆発したように私は私を放出した。
書いた数は少ないが、しかし種類において、それは豊富なものであったと思われる。
SF、ホラー、歴史、推理等、定番的なジャンルは抑えていた

116: 2012/08/13(月) 01:43:16.06 ID:i7bnGbDk0
今書いているものは、去年の冬の初め頃から書き出したもの。
例え書き終えて時間があっても、新たに書くことはない。
これが高校生活最後の作品になる。最後に選んだジャンルは「恋愛」

自分には恋愛小説など書けないとずっと思っていた。
小説もそれなりに読了し、映画や友人の恋愛話に耳を傾けたりと努力した。
それでも私には恋愛の概念や、一人の異性を愛する感覚を理解することができなかった。

今となってはそちらの方が理解に苦しむ。
むしろある日を境に私の中はそればかりで満たされている。

117: 2012/08/13(月) 01:46:41.22 ID:i7bnGbDk0
暫くの間海を眺めてはノートに視線を落とし、また海に視線を戻すという行為を繰り返した。
頭上に位置していた太陽は既に真後ろに位置し、空を茜色に染め始めている。
海からは白波が消え、静かに岸に寄せては引いていくばかり。

ノートには何も書き込まれていない。
鉛筆の芯は綺麗にその鋭利な形を保っている。
今日も進展はみられない。
ただ時間だけが過ぎ去り、文字にならない想像だけが頭の中を巡るばかりだった。


118: 2012/08/13(月) 01:48:17.09 ID:i7bnGbDk0
「どう、ちょっとは進んだ?」

背中に降りかかる柔らかい声に振り向く。
姉さんが迎えにきたらしい。

「う~ん、今日も書けなかったみたいね」

淡い栗色の長い髪が風に揺れている。
沈んでいく太陽の光が、その髪の毛をときおり金色に染め上げている。

「今度は有希がスランプになっちゃったのかしら」

「そうかもしれない」

姉の顔に見飽き、海に視線を戻す。
座る斜面が太陽の光を遮っている。
海はコーヒーを半分注いだグラスのように明暗を分けていた。

120: 2012/08/13(月) 01:50:52.12 ID:i7bnGbDk0
「主人公の花苗はスランプを抜け出すんでしょ?」

「当然その予定」

「じゃあ有希も大丈夫ね」

「姉さんは気楽でいい。スランプを抜け出した後が重要」

「貴樹君に告白するのよね。でも一人で悩んでいても上手くいかないわよ」

「私のことは私が考える。当然のこと」

「たまには相談してくれたっていいのにい」

「考えておく」

「可愛い妹の為ならこのみくるちゃん、どんな相談だって乗ってあげます」

121: 2012/08/13(月) 01:53:07.23 ID:i7bnGbDk0
そう言うと姉さんはくすりと笑い、人差し指を口にあてウィンクした。
その仕草はやはり楽観的な成分を多分に含んでいた。
姉は私が相談を持ちかけてくるなどと思っていない。
きっと私を励ましてくれているのだろう。
それ程今の私には焦燥が見て取れるのかもしれない。

「今日はこのくらいにしておいて、とりあえず学校に戻りましょう」

荷物を片付け車へと向かう。
思いついたようなメロディを鼻で歌いながら姉さんは陽気に歩く。
彼女はいつも注意力が散漫している。
お茶をこぼしたり壁にぶつかったり。
それすらも魅力になりえているのは、容姿と性格の賜物だと思われる。

そう考えていると待っていましたと見事に石に躓き盛大に転んだ。

122: 2012/08/13(月) 01:54:29.61 ID:i7bnGbDk0
「ふひゃっ、わあっ」

どうして?
姉さんにはあれだけ激しく揺れる胸があるのに妹の私には……。

「ちょっと有希!起こしてくれないの?」

「どうして姉さんだけに……」

「え?ちょっと待って。置いていかないで。ねえ有希!」

私に遅れて車に乗り込んだ姉さんの顔はくしゃくしゃになっていた。
帰りの道中、無視して先に行ってしまった事をしつこく責め立てられた

124: 2012/08/13(月) 01:55:58.81 ID:i7bnGbDk0
「ありがとう」

学校に着いても口が止まらない姉を礼の言葉で制止する。

「えっ、家まで一緒に帰るんじゃないの?」

「カブで帰る」

「ふええ」

「そんなに悲しい顔をしないで。家に帰ればまた逢える」

「うん……、じゃあまた後でね」

駐輪所へ向かい、バイクのミラーで髪を整える。
そのまま隣接する校舎の裏手へと周り、壁に寄りかかって空を眺めた。
夕焼けが一日の終わりを告げ、次第に空が暗くなっていく。
周りの明確な景色は、膜を覆ったようにぼんやりとした空間に変化する。

125: 2012/08/13(月) 01:57:31.72 ID:i7bnGbDk0
彼はまだ?
駐輪場には誰もいない。
古ぼけた外灯が紫色の闇に何かを虚しく提示している。

程無くして無人の駐輪場から人の気配が感じられた。
小さな靴音がほとんど変化もないままに距離感を縮めている。

歩くというのは難しい。綺麗に歩こうとすると強張り疲れてしまう。
しかしその足音には一切の無駄がない。
その足が外灯の光に入り、そして全身を淡く照らした。

126: 2012/08/13(月) 01:59:31.70 ID:i7bnGbDk0
「今帰りか?長門」

彼がいる。その事実だけで気が遠くなりそう。
息が苦しい。心臓が悲痛にのたうちまわっている。

「あなたも」

呼吸が荒いことを悟られないように振舞う。それが苦しさを倍増させる。

「どうした。苦しそうだが変なもんでも食ったのか?」

「変なものは食べない」

「そうかい」

「そう」

「一緒に帰るか?」

127: 2012/08/13(月) 02:01:25.72 ID:i7bnGbDk0
もし私に犬のような尻尾があったなら
嬉しさを隠し切れずにぶんぶんと振っていたかもしれない。
私は犬じゃなくて良かった……。
そんな事を考える自分に呆れる。

彼は他の人とは何かが違っていた。
彼が転校してきたのは中学二年の時。
一目見た瞬間に私は心を奪われた。
今でもあの日の事を思い出すと体が震えてしまう。
一目惚れの体験はそれだけ衝撃があった。

同じ高校に通うために苦手な勉強にも挑戦した。
甲斐あって合格をし、同じ高校に通う事が出来ている。
彼の姿を見るたびに私は魅入られていく。
その溺れるような感覚は恐怖を生んだ。
毎日が苦しい。それなのに会う度に幸せも深まっていく。
もうどうしようもないこと。

128: 2012/08/13(月) 02:02:45.77 ID:i7bnGbDk0
「また同じもの」

「美味いからな」

彼と帰る時はよくコンビに立ち寄る。
彼はいつも決まってコーヒー牛乳を手に取った。

「長門はいつも真剣だな」

「それ程でもない」

「言っておくが、褒めてはいないからな」

そう言って彼は呆れるように笑う。

「先、行ってるぞ」

時間の掛かる私にそう告げ彼は店を出て行った。
恋人のようには行かない。


「宇宙から地球を見守る」

店の窓には大きなポスターが張ってあった。
衛星探査機と地球のイラストが描いてある。
この島は日本のどこよりも宇宙に近いのかもしれない。
でもそれはどこよりも遠く離れた場所、ということにもなる。

130: 2012/08/13(月) 02:05:08.53 ID:i7bnGbDk0
彼はバイクに腰掛けていた。手には携帯電話。
私に気付くと携帯を閉じ、わざとらしい笑顔を作った。
彼は時々誰かにメールを打っている。
それが私宛のメールだったら……。

「何を買ったんだ?」

「これ」

「なんだかんだで結局これ買うんだな」

「それ程でもない」

「いや、褒めてないぞ」

それでも、メールよりも何よりも彼と時間を共有できることが嬉しい。
同じ場所で同じ物を見て、同じ空気を震わせ言葉を交わす。
その間私は彼でもあり、そして彼は私でもある。
時間を通じて私たちは一つになれる。

132: 2012/08/13(月) 02:08:03.37 ID:i7bnGbDk0
彼の家と私の家は同じ道沿いにある。
私の家が先にあり、見送るのは常に私の役目。
玄関先には飼っている猫が無気力に横たわっていた。
三毛猫は私を見ても無関係な態度をとっている。

「ただいまシャミ」

体を撫でても何の反応も見せない。

「シャミセンはいつもこんな感じだな」

バイクから降りた彼もシャミセンを撫でている。
自分の頭を撫でられる妄想が沸き起こる。

「シャミはただ生きているだけ」

「ただって、そんな投げやりな奴なのか?」

「ただ生きていることに最大の喜びを見出している」

「なるほど。悟りを開いているわけか」

彼はクスリと笑い猫の頭を強引に撫でる。
シャミセンは面倒そうに一鳴きした。

133: 2012/08/13(月) 02:10:09.77 ID:i7bnGbDk0
そんな態度をとってはいけない。
彼に可愛がられているのだから感謝すべき。
彼に撫でてもらうと言うことがどんなに貴重なことか。
貴方は彼の素晴らしさを理解していない。
あとでお仕置き。

「おい長門。さすがに引っ張りすぎだろう」

「そう。手が勝手に」

無意識にシャミの耳をぐいぐいと引っ張っていた。
彼の前で恥を……。やはりあとでお仕置き。

「さて、帰るとするか。じゃあな長門」

もう少し一緒にいられたらいいのに。
彼の背中にそう呟き、姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
星が綺麗で夜風がとても気持ちのいい夜だった。

134: 2012/08/13(月) 02:12:53.00 ID:i7bnGbDk0
短い時間にも季節ははっきりと変化していく。
生温い潮風が大袈裟になっていく蝉の鳴き声を運んでいる。
天にも昇りそうな積乱雲が折にふれて日差しを遮った。
道を歩けば逃げ水が見え、海を見れば小さな島々が宙に浮かんでいる。

学校にいる間は常に胸元や背中が汗ばむ様になり、
女生徒は透けて見える下着や汗の匂い、日焼けのことなどに気を掛ける。
私は胸元にそれほど汗をかくことはない。

……ない。

135: 2012/08/13(月) 02:15:01.82 ID:i7bnGbDk0
「見つめるは、未来」

深太陽系観測衛星打ち上げ。
掲示板のなかでそのポスターは一際大きく目立っていた。

午後の教室には様々な匂いが漂よっている。
汗の匂い、制汗剤の匂い、お菓子やジュース、湿気を含む木製品の匂い。
開け放たれた窓からは海風が入り込んでいる。
カーテンがゆっくりと揺れる。
外の景色を悪戯に見せたり隠したり。
変わりなくゆったりと流れる日常。

136: 2012/08/13(月) 02:17:06.77 ID:i7bnGbDk0
突如教室に備えてあるスピーカーが、ノイズと共に人の声を発した。
声の主は担任の教諭。私に指導室へ来るようにと、淡々とした口調を校舎内に響かせた。
指導室に向かうと担任教諭が待ちわびた表情で、私に着席を促す。
期日を過ぎても一向に進路希望調査書を提出しない私にしびれを切らしていたよう。

「学年で出してないのはお前だけだぞ。
 こう言っちゃなんだが、そんなに悩む様な事じゃないんだよ」

悩むような事ではない。本当に?

「みくる先生はなんて言ってるんだ?」

私は首を横に振った。
行為の意味を理解した担任は、背をもたれ息を吐く。

137: 2012/08/13(月) 02:20:02.36 ID:i7bnGbDk0
「どうしても決められないなら県内の短大とかどうなんだ?」

その言葉通りに生きて私は幸せになれるの?
それにどうして姉さんが出てくるのか理解に苦しむ。
姉さんは確かに私に新しい世界をくれた。
しかしそれは私の認識が変わったところに重点がある。
私の全ては結果的には私が決める。

でも……、このままではどうにもならない。
そもそもどうすればいいのかがわからない。
何一つ自分の納得のいく答えが出てこない。
小説のことも将来のことも……、彼のことも。

139: 2012/08/13(月) 02:22:19.14 ID:i7bnGbDk0
放課後海へ向かった。当然進展はない。
普段はノートを破いたりはしない。
けれど今日は周りに幾つか丸まって皺になった紙切れがある。
自分の心が荒れているという事実が辺りに散乱している。
それを拾い集めて学校へと戻り彼を待った。

下校の時間を過ぎても彼は現れない。
案の定駐輪所に彼のバイクは無かった。

今日は一人で帰宅。
バイクに跨りヘルメットを被る。
セルボタンを押してもエンジンが掛からない。
久しぶりのキック。
仕方なく答えた様なエンジン音が力無く響く。
気持ちが重く沈んでいく。
全てが私を拒絶している様に感じる。
それとも私が全てを拒絶しているのだろうか。

147: 2012/08/13(月) 03:17:06.70 ID:J1lLdIA30
一人でよるコンビニ。
いつもより明かりが眩しい。
店内に流れる曲は「あなたのための世界」
おばさんはいつもお礼を言ってくれる。
彼女の笑顔は母性に満ちている。

外には誰もいない。
ベンチに座った彼が微笑みかけている。
家に帰ろう。



149: 2012/08/13(月) 03:24:14.63 ID:J1lLdIA30
一人で走る夜道は色んなものを見せてくれる。
彼の背中ばかり追いかけていた私にはそれが新鮮に感じられた。
同時に色々な形の寂しさが私の心に穴を空けていく。
思春期という簡単な言葉で今の精神状態を言い切りたくはない。
この苦しみが、この悲しみが、
同年齢の人間にほとんど平等に降りかかっているという事は想像もしたくない。

150: 2012/08/13(月) 03:31:51.96 ID:J1lLdIA30
道路の端に置かれた一台のバイク。
彼のバイク。
あまりよくない日だった、と結論付ける必要がなくなった。
総体的に見れば辛い一日であることに変わりはない。
しかし彼に会えるという事実だけでそれは大きく変貌していく。

151: 2012/08/13(月) 03:38:04.07 ID:J1lLdIA30
なだらかな丘を夏草が覆っている。
それは風に揺れさらさらと綺麗な音を立てている。
見るには緩やかな丘も、上るのには急だった。
途切れることなく吹く風が、スカートを舞い上げ私の邪魔をしている。
もしも彼に下着を見られたら私は正気ではいられない。


152: 2012/08/13(月) 03:44:14.67 ID:J1lLdIA30
上り終えると小さな草原が広がった。
置き去りにされた古い自動車のように彼は座り込んでいる。
手には携帯電話。
淡い緑色の光が、彼の口元と瞳を微かに照らしている。
暗い瞳に映る光は夜空に浮かぶ月のように見えた。


181: 2012/08/13(月) 11:07:01.17 ID:VY/AnHsf0
「長門じゃないか。どうしたんだ、よく解ったな」

彼は少し驚いている。そして携帯をしまった。

「貴方のバイクがあったから。……来ちゃった」

たまには私も女の子らしく。
幸いに赤面の至りも闇夜に隠れている。


185: 2012/08/13(月) 11:14:24.29 ID:VY/AnHsf0
「来ちゃ……ったのか。そうか来ちゃったのか。
 今日は単車置き場で会えなかったからな。嬉しいぞ」

彼は優しい。時々、泣いてしまいそうになる。



186: 2012/08/13(月) 11:18:19.10 ID:VY/AnHsf0
日没に消え入りそうな水平線。
場違いなように風力発電機がぽつりと広い大地に立っている。
遠慮がちなその姿を、スポットライトが明々と照らしていた。
晒されている以上は自分の存在の必然性を証明しなければならない。
発電機は風を受け、プロペラを回しながら自己主張をしている。
彼も静かにそれを眺め、展開を私に預けているようだった。

189: 2012/08/13(月) 11:24:56.39 ID:VY/AnHsf0
「貴方は受験?」

「ああ、東京の大学を受ける」

「東京……。そうだと思っていた」

「何故だ」

「遠くに行きたそうだったから」

191: 2012/08/13(月) 11:29:44.82 ID:VY/AnHsf0
夜空に浮かぶ様々な形の雲が強引な風に流されていく。
灰色の雲の中に黒くよどんだものも混じっている。
はるか向こうの大きな雲の表面が、紫色に閃光している。
雨の前兆が溢れだすのが見てとれた。

「長門はどうするんだ?」

乾いた息を一つ吐いて彼は言った。

192: 2012/08/13(月) 11:34:54.69 ID:VY/AnHsf0
「私には明日のこともよくわからない」

「だれだってそうだぞ、多分」

「貴方も?」

「当たり前じゃないか」

自分の耳を疑った。そんな風にはとても。

193: 2012/08/13(月) 11:40:09.80 ID:VY/AnHsf0
「貴方には迷いなどないように見える」

「まさか。迷ってばかりだぞ、俺」

「できることをなんとかやってるだけだ。余裕なんてものは一切ない」

「できることをなんとか」

「そうだ。不安もあるし時々訳がわからなくなるんだが、それも
 前に進んでるからこそだろ?」

201: 2012/08/13(月) 12:27:26.04 ID:VY/AnHsf0
「だから長門も大丈夫だと思うぞ」

深く息を吸い吐き出す。
空気はゆっくりとそして確実に体の隅々までに行渡り、不要な物を取り去っていった。
悩みや不安と言うものは消極的なものではない。
私は悩むことに悩み、不安を覚えることに不安を感じていたのかもしれない。
彼は言った。私は大丈夫だと。
それは気休めではない。少なくとも私にとっては。

202: 2012/08/13(月) 12:37:37.42 ID:VY/AnHsf0
「飛行機か」

「そう」

「それ進路希望の調査書だよな。岡部に怒られるぞ」

「構わない。彼はハンドボールだけに情熱を注いでいれば良い」

「そこは同意しかねるな。注ぎすぎても問題だ。何度勧誘させられたことか」

「ハンドボールで汗を流す。それはそれで幸せなものかもしれない」

「岡部は間違いなく幸せだろうな」

203: 2012/08/13(月) 12:52:05.96 ID:VY/AnHsf0
やれやれといった表情の彼は溜息を一つ吐く。
勧誘に熱心な岡部の顔でも思い出したのだろう。
 
折り上げた飛行機を投げる。
私の思いを乗せた小さな飛行機は、風に乗り高く高く飛んでいく。
いずれその思いは宇宙の奥深くへと進み、闇を照らす一筋の光になるのかもしれない。
その光が彼に届くことを私は強く願った。

205: 2012/08/13(月) 13:02:18.18 ID:VY/AnHsf0
しばらくの間取り留めのない会話をし、それから私達は帰宅の途についた。
いつものように二人バイクを走らせ、十字路に差し掛かる。
二人並んで停止したが、それは「止マレ」の標識だけによらない。
コーンバーが道を塞いでいる為、横断することができないでいる。

207: 2012/08/13(月) 13:15:00.99 ID:VY/AnHsf0
封鎖された道を我が物顔でゆっくりと闊歩するそれは、横倒しになったビルのようにも見えた。
トレーラーが牽引する巨大なコンテナには「宇宙開発事業団 NASDA」の文字。

「時速5キロ」
私がぽつりと呟く。
その言葉に反応した彼の顔はどことなく動揺しているようだった。

208: 2012/08/13(月) 13:31:19.87 ID:VY/AnHsf0
「南種の打ち上げ場まで時速5キロで進んでいく」

「ああ……そうか」

「打ち上げるのは久しぶり」

「太陽系の奥深くまで行くんだってな。何年もかけて」

「そう」

209: 2012/08/13(月) 13:39:51.62 ID:VY/AnHsf0
衛星探査機を載せたトレーラーが通り過ぎる頃には雨が降り出していた。
私達はずぶ濡れになりながらバイクを走らせ家路を急いだ。

212: 2012/08/13(月) 13:57:46.55 ID:VY/AnHsf0
彼を見送り、家に入ると体に纏わりつくびしょびしょの制服を洗濯機に放り込み、
縁側で気だるそうにしているシャミセンの隣に下着のまま座り込んだ
シャミセンの頭を撫でる。眠そうな目をこちらにちらりと向け「にゃあ」と一言。
視線を戻し、ぼんやりと見るともなしに庭を眺めている。

「シャミ、私と一緒。彼も私と一緒でわからない」


214: 2012/08/13(月) 14:07:32.34 ID:VY/AnHsf0
あの日から幾つかの台風が通り過ぎ、その度に島は少しずつ涼しくなっていった。
砂糖黍を揺らす風が微かに冷気を孕み、
少しばかり高く感じられる空に流れる雲は、柔和な表情を見せるようになった。
そんな秋の気配が多分に感じられつつも、夏の余韻が踊る十月の半ばに私は
小説を書き上げた。

216: 2012/08/13(月) 14:14:37.57 ID:VY/AnHsf0
「佐々木さん、谷口くんから告白されたらしいっさ」

学校での昼食時、快活な声で鶴屋はそう言った。

「流石ですね」

牛乳を飲みつつ反応したのは江美里
しっとりとした声には興奮が色付いている。

218: 2012/08/13(月) 14:19:56.79 ID:VY/AnHsf0
彼女達には他人の恋が自分の恋のようらしかった。
私には私の恋があり、それは誰のものにもならない。
ただそれだけの事が優越の小波となって私の胸を撫でる。

221: 2012/08/13(月) 14:28:09.88 ID:VY/AnHsf0
「有希っこ、なんだか機嫌が良さそうさね。キョン君と何かあったのかなっ」

私は今どんな顔をしているのだろう。
無言を押し通したのを彼女達は肯定と受け取ったようだった。

「にょろろ。こりゃ当たりみたいっさ」

「そのようですね」

二人の笑顔は、やはり自分自身の喜びを表したように眩しく輝いている。


222: 2012/08/13(月) 14:37:15.94 ID:VY/AnHsf0
……この恋は私だけのものではない。私一人で独占していいものでもない。
とても大切な事を私は見落としていた。

もしも、もしも彼と私が素敵な関係になれたなら、
その時は彼女達とその喜びを共有しよう。きっと二人はこう言ってくれる。
「おめでとう」と。
その時私はこう言おう。心の底から「ありがとう」と。

224: 2012/08/13(月) 14:52:03.24 ID:VY/AnHsf0
花苗は貴樹に想いを告げ、そして結ばれた。
私も想いを告げ、二人のように幸せになる。
そしてそれを実現するのは小説を完成させた今日しかない。


226: 2012/08/13(月) 15:07:52.44 ID:VY/AnHsf0
放課後トイレへと足を運ぶ。
手を洗いながらふとみた鏡には、私の姿は見当たらなかった。
この梅干のようなそれが自分の顔だとはとても思えない。
何となく私は笑いたくなった。けれどやめた。
笑うのはとっておく。この後の為に、彼の為にとっておく。

231: 2012/08/13(月) 15:57:38.16 ID:VY/AnHsf0
校舎をぬけ出し駐輪場の裏手へと向かい、
火照った顔を風に晒して、気分が落ち着くのを待った。
けれども冷されていくのは足元ばかりで、余計に熱度を感じざるを得ない。
幾度となく息を吐いてみても特に何かが変わるわけでもなかった。

233: 2012/08/13(月) 16:05:59.51 ID:VY/AnHsf0
そろそろ彼の来る時間。
そう思いそっと校舎の影から駐輪場を覗き見る。
やるべきではなかった。

「今帰りか長門」
「そう」

一本しっかりと筋を通したように彼と目が合った。
咄嗟に隠れてしまったのはしょうがない。
愛嬌と言うことにしておいてほしい。

234: 2012/08/13(月) 16:15:25.83 ID:VY/AnHsf0
「よし、じゃあ一緒に帰るか」

いつものように私達はコンビニへとやってきた。
店内には気分を害さない程度の音量で音楽が流れている。

「君の一番に…」
私の気持ちそのままだった。

236: 2012/08/13(月) 16:20:44.05 ID:VY/AnHsf0
数ある飲料品から彼はさらりといつもの品を手に取る。
普段なら彼は私を置いて会計をすませる。
しかし今日は待たせる訳にはいかなかった。
同じ銘柄の物を選び手に取る。
彼の反応は予想通りだった。

238: 2012/08/13(月) 16:32:05.72 ID:VY/AnHsf0
「今日はもう決まりか。えらく速いな」

私の行動の意味を彼はどう捉えただろう。

彼に続いて店を出る。
今言うべき、そう強く思った。
意を決し彼のシャツの袖を掴んだ

「どうした」

振り向いた彼の瞳はとても綺麗だった。

239: 2012/08/13(月) 16:43:47.14 ID:VY/AnHsf0
「優しくしないで」

「すまん、なんだって?」

「……なんでもない。気にしなくていい」

こんな不自然な行動を気にしない方が難しい。
けれど私は何事も無かったように振舞った。
その押し付けに彼も同調してくれた。

308: 2012/08/13(月) 22:32:42.54 ID:VY/AnHsf0
これでいい。きっとこれでいい。
このまま家路を急いでバイクを走らせ、
部屋の隅っこで明日を渇望すればいい。
それで今日は終わる。
それで全て無かったことになる。
そしてまた明日からは今までと変わらずに……。
それでいい。

312: 2012/08/13(月) 22:34:46.34 ID:VY/AnHsf0
それでいいのに明日は未だ遠い処から
今日を見下ろしている。
バイクが動かない。
何度試してもエンジンがかからない。
みかねた彼はバイクを降りてしまった。


314: 2012/08/13(月) 22:43:18.85 ID:VY/AnHsf0
「プラグの寿命だな」

しばらくの後、彼による診断がくだされた。
長い間無点検だった皺寄せが、よりにもより今日及んだことになる。
やはり姉さんは信用ならない。

「とりあえずここに泊めておいて、
 後で家族の人にとりにきてもらうといい。今日は歩いて帰ろう」

「貴方まで歩いて帰る必要はない」


315: 2012/08/13(月) 22:49:34.87 ID:VY/AnHsf0
「いや、いいんだ」

「私は一人で帰れるから気にしなくていい。だから──」

「ちょっと歩きたいんだ。だから気にするな」

彼は静かに歩いていく。
私はそれに黙って付いていった。
並び立つ電柱から伸びる電線は、
気の緩んだ定規のように秋の空を測っている。

317: 2012/08/13(月) 22:53:03.50 ID:VY/AnHsf0
辺りからはひぐらしの鳴き声が聞こえている。
その他にも虫の鳴き声は響いている。
次第にそういう音が聞こえなくなっていく。

涙が溢れる。
彼の姿がぼやけていく。
流れ出る涙を手で拭う。
際限がない。
覚束なくなって歩みをとめる。
必氏で抑えても嗚咽が漏れる程に悲しみが溢れ出てくる

321: 2012/08/13(月) 22:59:11.69 ID:VY/AnHsf0
「どうしたんだ」
「ごめんなさい、気にしないで」
「何でもない様には……」
「ごめんなさい、……ごめんなさい」

彼はただ立ち尽くし、私はただ泣いていた。
きっと彼は困惑しているに違いない。
そう考えると申し訳なくて、それが悲しみに変わって更に涙になった。

324: 2012/08/13(月) 23:04:27.50 ID:VY/AnHsf0
その時だった。
涙で透き通ってみえる空の色が一瞬暗くなる。
同時に轟音と共に地面が鳴動した。
空に一点の光が浮かんだ。

夕日に反射するその物体は赤い閃光を放ちながら空へ突き進んでいく。
跡に残った雲にも似た白煙は、空にできた亀裂のように見えた。
私と彼が交わることがない証明のようにできた亀裂。

325: 2012/08/13(月) 23:08:30.68 ID:VY/AnHsf0
必氏に、ただ闇雲に空に手をのばし、大きな塊を打ち上げ、
気の遠くなるくらい向こうにある何かを見つめて……。

彼が他の人と違って見える理由が、少しだけ解った気がした。
そして同時に、彼は私など見ていないんだということに、はっきりと気付いた。
だからその日、私は彼に何も言えなかった。

326: 2012/08/13(月) 23:14:16.69 ID:VY/AnHsf0
彼は優しい、とても優しい。
でもいつも彼は私のずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見つめている。

私が彼に望むことはきっと叶わない。
それでも私は彼のことをきっと明日も
明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく好きなんだと思う。

彼のことだけを想いながら、泣きながら私は眠った。

329: 2012/08/13(月) 23:21:30.07 ID:VY/AnHsf0
外は良く晴れているようだ。
朝日が優しく降り注ぎ、窓からは風がさやさやと入り込んだ。
手元にひらりと一片の花びらが舞い落ちる。
風はもう一吹きと言わんばかりに、レースのカーテンを押し上げる。
ひらひらと部屋の中には無数の花びらが舞った。
まるで俺を外へと誘うように

332: 2012/08/13(月) 23:26:50.35 ID:VY/AnHsf0
あの頃とは少しばかり変わった街の風景。
今の俺には見慣れた日常の景色だ。
桜の木は満開の花びらを湛え、それを惜しげもなく散らしている。

警報を鳴らす踏切。遮断機はまだ下りない。
前方から女性が向かってくる。踏切の中程ですれ違った。

336: 2012/08/13(月) 23:32:28.92 ID:VY/AnHsf0
今、振り返れば、あいつもきっと振り返る。
そう、強く感じた。

立ち止まり、振り返る。
彼女も立ち止まっていた。
振り返ろうとする瞬間、電車が通過する。
桜の花びらが風に舞い上がった。

340: 2012/08/13(月) 23:41:23.58 ID:VY/AnHsf0
「お正月までいればいいのに」

母は名残惜しそうにそう言った。

「まあそれでもいいんだけどさ、色々準備もあるから」

そうだな、と父は嘆息した。
「彼にも美味いもの作ってやれよ」

「いつも作ってやってるわよ。
 だって美味いものしか作れないしね、私」

344: 2012/08/13(月) 23:48:45.69 ID:VY/AnHsf0
「何かあったら電話するのよ、ハルヒ」

母はまだ心配の抜けない顔をしている。

「来月には式で会うんだから、そんなに心配しなくても大丈夫だって
 寒いしもう戻ったら。ほら、電車もきたし」



347: 2012/08/13(月) 23:55:16.34 ID:VY/AnHsf0
電車が徐々に速度を落としながらこちらへ向かってくる。
構内にはアナウンスが流れた。

電車の中は暖房がよく効いていて、寄ってくる
眠気を抑えながら本を読むのに苦労した。

読み終えた本を鞄にしまい、見るともなしに窓の外を眺めた。
冬の田園が寂々と続いている。白雪を冠した山には少しだけ
覗いた日が射している。

349: 2012/08/14(火) 00:00:12.10 ID:futOiyl/0
夕べ昔の夢をみた。
私もあいつもまだ子どもだった。
きっと、昨日見つけた手紙のせい。

350: 2012/08/14(火) 00:03:02.91 ID:futOiyl/0
空は灰色の雲に覆われ、高々としたビルが屹立している。
ベランダから見える景色は正しく冬の東京だった。
半ば義務化したように俺はそこでたばこをふかした。

背後で携帯の着信音が鳴る。
ビールの空き缶を蹴飛ばしながら、乱雑な部屋を進みゆく。
携帯を手に取る。着信はメールだった。

353: 2012/08/14(火) 00:08:26.10 ID:futOiyl/0
ただ、生活をしているだけで、悲しみはそこここに積もる。
日に干したシーツにも、洗面所の歯ブラシにも、携帯電話の履歴にも。

貴方のことは今でも好きです。
三年間付き合った女性、朝倉涼子はそうメールに書いていた。
でも私たちはきっと千回もメールをやり取りして、多分心は一センチくらい
しか近づけませんでした、と

354: 2012/08/14(火) 00:15:19.06 ID:futOiyl/0
この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、
それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いが
どこから湧いてくるのかも解らずに俺はただ働き続け、気づけば日々弾力を失って
いく心がひたすら辛かった。
 


356: 2012/08/14(火) 00:17:51.54 ID:futOiyl/0
そしてある朝、かつてあれ程までに真剣で切実だった想いがきれいに失われて
いることに俺は気づき、もう限界だと知った時、会社を辞めた。

359: 2012/08/14(火) 00:24:08.20 ID:futOiyl/0
昨日夢をみた ずっと昔の夢
その夢の中では俺たちはまだ十三歳で
そこは一面の雪に覆われた広い田園で
人家の灯りはずっと遠くにまばらに見えるだけで
降り積もる新雪には私達の歩いてきた足跡しかなかった
そうやっていつかまた一緒に桜を見ることができると
私も彼も何の迷いもなくそう想っていた

363: 2012/08/14(火) 00:32:20.32 ID:futOiyl/0
そう、ずっとそう想い続けてた。
あの頃の私はただひたすらにそう想い続けていた。
思い続けていればそれが現実になると本当に信じてたのよ。
でもね、それとは別にあの日あの雪の中で、桜の下で
キスした時、もう一緒にいられなんだなって、そうも思った。
だからあの時私はあんたに手紙を渡すことができなかった。

370: 2012/08/14(火) 01:14:12.14 ID:futOiyl/0
でもそれでもやってみなきゃわからないじゃない。
だから一生懸命手紙も書いた。
だけどいつからかしらね。
それがあんたを傷つけてるんじゃないかって、あんたを縛り付けて
しまってるんじゃないかって、そういう風な気持ちに変わってしまった。
そんな事ばかりずっと考えてたら何もできなくなった

372: 2012/08/14(火) 01:27:12.03 ID:futOiyl/0
ずっとやりとりしていた手紙が途切れて、それを繋ぎとめることも
できなくて、ただ待つだけしかできなくなった。

大好きだったのよ。あんたの事が大好きだった。
だから何もできなかった。
だから何もしかなった。
だってあんたの人生を邪魔する権利は私にはないんだもの。

374: 2012/08/14(火) 01:36:48.24 ID:futOiyl/0
そうやって過ごしていく内に目の前の自分の人生に忙しくなった。
勉強をして部活をして、いつしか恋もするようになった。
大学に入って、就職をして、それからこの世で一番大切な人に出逢った。
おかしいわよね。あんたの事を忘れない日なんてなかったのに。

380: 2012/08/14(火) 01:54:12.87 ID:futOiyl/0
でも私は後悔なんてしてない。
でも心残りが一つだけある。
ねえ、キョン。
あんたは私のこと好きだった?
私はね大好きだった。
本当に大好きだったのよキョン

384: 2012/08/14(火) 01:59:05.49 ID:futOiyl/0
ずっとずっと大好きでした。
だからこのままにしておくね。
優しい記憶のまま、遠い昔の想い出のままに。

さようなら大好きなキョン

386: 2012/08/14(火) 02:02:17.71 ID:futOiyl/0
列車は通過し轟音は細々として遠くへ流れていく。
遮断機の先には誰もいなかった。
彼女は、ハルヒはもうそこにはいなかった。
きっとあいつは幸せに生きている。
そうだよな、ハルヒ。

 さようなら
心の中でそう呟き、俺はまた歩き出した。

390: 2012/08/14(火) 02:08:30.10 ID:futOiyl/0
これで本編は終わりました。
古泉はハルヒの婚約相手です。
でも文面で名前出すとおかしくなるので
だしませんでした。
実は長門東京篇もあるのですが
さるさん地獄で疲れましたので
終りにします

391: 2012/08/14(火) 02:10:11.54

胸が痛い…

396: 2012/08/14(火) 02:19:07.00

そして鬱
なんだか泣けてきた

397: 2012/08/14(火) 02:28:25.78
秒速パロってるらしいが鬱か、これ?

399: 2012/08/14(火) 02:47:20.23 ID:futOiyl/0
秒速を見たことある人が
背景や状況を思い浮かべながら読む
という趣旨で書いたので正直読みにくかったと思います
文才の無さが拍車をかけていますしね

ちなみに長門東京篇は三話目以降の設定で
作家として東京で暮らす長門とキョンが再開し
最後に結ばれるという話です。
これで長門はハッピーエンドってことで

引用元: ハルヒ「ねえ、あんた知ってる?」