1: 2010/12/25(土) 20:44:11.17 ID:5VkwxU0d0
五月一日 晴天

抜けるような青空。
街路樹の上の白い鳥、きれいな声でないている。
道端に咲いた黄色い花、そよ風にゆれていた。

そんな春の光景とは対照的に色のない部屋があった。
カーテンは締め切られ、日は差し込まない。
ベッドの上、パジャマ姿、下ろした前髪、少女は膝を抱えて座っている。
表情からはいつもの快活さは失われ、力なくうなだれていた。

(うう……)

(こんなの……私らしくない、おかしーし……)

「助けてよ……澪」

消え入りそうな声で、祈るように呟いた。


4: 2010/12/25(土) 20:47:55.84 ID:5VkwxU0d0
――

四月二十日 晴天

廊下を歩く二人の人影、窓からは春の気持ちのいい日が差し込んでいる。

『冬はいみじうさむき。夏は世に知らずあつき』

清少納言の言葉で、冬の寒さと夏の暑さを詠ったものである。

太古の昔京都は湖の底にあった。現在では名残として豊富な地下水があり
その湿気が冬の冷え、夏の蒸し暑さという形で現れているというのだ。

そんな歴史はさておき、二人はどちらでもない春が好きだった。

「なあなあ澪、志望校どこにするー?」

「まだ一年近くあるし決めてないよ」

「わかってないな~澪しゃんは、一年後には花の女子高生だぜぃ」

「そう言うお前はどうなんだよ?」

「……」

「……」

「律っちゃん隊員は先に理科室に向かうでありますー」

「あっ、こら律」

6: 2010/12/25(土) 20:49:59.41 ID:5VkwxU0d0
「高校か……」

澪は誰に聞かせるでもなく呟いた。
中三の春ではっきりとした志望校があるという生徒は少ない。
事実彼女もその一人だ、しかしその胸中にはしっかりとした思いがある。

(律と同じ高校に行きたい)

親友である少女もまた同じ思いなのだろう、彼女は少し笑顔を浮かべながら
春の校舎を歩んでいった。

7: 2010/12/25(土) 20:53:20.67 ID:5VkwxU0d0
「みーおー、放課後勉強教えてくんない?」

律がそう話しかけたのは昼休みのことだった。

「これは明日は雨が降るな」

「ちょ、どーゆう意味だってば?」

「珍しいなって意味だよ、本気か?」

「本気本気、おかしくねーし」

(なんせ澪と同じ高校行きたいし)

「なんか言ったか?」

「うんにゃ」

(志望校はともかく澪との学力差は埋めとかないとな)

「わかったよ律、放課後図書室でな」

「やたっ、澪しゃんマジ天使!」

「誰が天使だっ!」

そうして昼のひとときは過ぎていった。

9: 2010/12/25(土) 20:58:20.49 ID:5VkwxU0d0
放課後、図書室

「まずはこの-9を右辺に移項してだな……」

「ふんふん」

「3で両辺を割る」

「ほうほう」

「するとⅩ2乗イコール9となる、後はわかるな?」

「はい先生、答えはⅩイコール3であります」

「おしい正解は±3だ、でも基本はわかってるじゃないか」

「へへへ~、それはもう愛の力でっ」

もともと律は出来が悪いほうではなかった、性格というか
やる気というか、ともかく澪に教えてもらう事態になったのは確かだった

「でもどうして急に勉強なんか」

11: 2010/12/25(土) 21:04:50.63 ID:5VkwxU0d0
「澪と同じ高校に行きたいからだよ~」

「なっ! 本気か?」

澪は思わず赤面しうつむいた、だが次第に笑顔に変わっていくのを悟られないよう
顔を上げなかった。

律の笑顔の前では自分の将来への不安など
小さな事のように思えてくる。
彼女は平常心を取り戻し、ようやく顔を上げた。

「あのー澪さん……、嫌だった?」

「仕方ないな! 律は私がついてなきゃダメダメだからな」

「たはっ、手厳しい」

12: 2010/12/25(土) 21:10:57.57 ID:5VkwxU0d0
二人が校舎を出るころ、すでに日は低くなっていた。
交わす言葉も少なめに、家路を進む。

背後から差す夕日は二人の前に長い影を作っている。

「これからもよろしくな、澪」

澪はまっすぐ前を見ていた。その二つの長い影のように
これから歩む二人の道も同じなのだと、そのときは思っていた。

13: 2010/12/25(土) 21:18:43.80 ID:5VkwxU0d0
四月二十七日 薄曇り

突然のことだった、律が勉強はもういいと言ったのは。
どうやら因数分解の理解に苦しんでいるらしい。

「律、ここは私もつまずいたんだ」

(私が文部大臣だったら因数分解なんて中学から除外してやる)

「なあ律、受験勉強は因数分解だけじゃないんだぞ」

(お前なら他の教科で十分カバーできるよ)

「やっぱりムリなんだ、私が澪と同じ高校に行こうだなんて……」

「律、お前が言い出したんだろ」

「ゴメン澪、今日はちょっと」

「律、待っ……」

早々と教科書をまとめると、足早に去ってしまった。

14: 2010/12/25(土) 21:23:41.73 ID:5VkwxU0d0
律は部屋で教科書を眺めていた。
国語、数学、理科、社会、英語。
受験科目はこんなにある。

「はあ、どうしよ……」

(こんなの一人じゃムリだよ)

(澪と同じ高校にいけない……)

「ヤダよ……そんなのヤダよぅ……」

とりあえず明日澪にあやまろう。
このままではいけない、それだけはわかっていた。

わずかに開いたカーテンの隙間から夕日が差し込んでいる。
二人で同じ影を見ながら帰った日のことが、遠い昔のように感じられた。

15: 2010/12/25(土) 21:30:25.97 ID:5VkwxU0d0
四月二十八日 薄曇り

朝の通学路、ためらいがちに声をかける。

「おはよう澪、あのさ……」

あやまるとは言ったものの、なかなか言葉が出てこない。

そうしているうちに、澪が口を開いた。

「どうしたんだ、同じ高校に行くのは諦めたのか?」

(負けず嫌いの律だ、こう言えばやる気を出すはず)

「あーそうですね、私ごとき最初っからムリだったんですよ」

「おい律」

「勝手に進学校でも行くがいいさ」

(澪のバカ人の気も知らないで)

律は思わず口を滑らせ、そのまま学校へ向かってしまった。

16: 2010/12/25(土) 21:44:34.45 ID:5VkwxU0d0
四月三十日 曇天

昼休みの教室

澪と律はそれぞれ違う女子と、昼のひとときを過ごしている。
あの日を境に、二人は一人と一人になってしまった。

「ねえ澪ちゃん、律っちゃんと仲直りしなくていいの?」

隣のクラスメイトがためらいがちに声をかけてきた。

「いいんだよ……あんなやつ」

(なんで素直になれないんだ、私たちは)

弁当を食べながら、悲しげな表情を浮かべて言った。
律は、澪の席の四つ後ろで談笑している。

「ねえ澪ちゃんってば」

(……そんなに悲しそうに見えたのか)

(私は)

17: 2010/12/25(土) 21:58:05.48 ID:5VkwxU0d0
彼女はよく知っている、律の性格を。
何か悲しいことがあると不自然なほど明るく振舞う。

ケンカしてからというものの、他の生徒から見て
律は澪といるとき以上に明るく写った。
かたや澪は捨てられた子猫のように思われていた。

(ちがうんだ、本当は律のほうが……)

誰も気づいていない、律の本心を
ただ一人をのぞいて。

19: 2010/12/25(土) 22:04:13.36 ID:5VkwxU0d0
「それでさそれでさ~聡のやつ~」

「えー、マジで~」

あいかわらず律は会話に花を咲かせていた、
わざと澪に聞かせているようにも見える。

「なあ律」

「ん?」

「澪と仲直りしなくてもいいのか?」

「なんで~? そんなのコッチから願い下げだよぉ~」

(澪、こっちを見てくれ)

「あんな根暗女、ちょっと成績がいいからって図にのってんだ」

(いつものように一発頼むよ、澪)

「……あはは…だよね~」

周囲の女子は笑っていなかった。
そうしているうちに澪が律に近づいていく。
律は世界で一番優しい拳骨を期待した。

「よう、どうした? 座敷童」

20: 2010/12/25(土) 22:12:04.86 ID:5VkwxU0d0
突然、乾いた音が教室に響いた。

「いいかげんにしろ、律!」

何が起きたか解らなかった。

衝動的に鞄をつかみ教室を後にし、玄関で靴を履きかえ校門に差し掛かった頃
ようやく少女は現実を認識した。

(澪に叩かれた)

――

澪がいつもの様に頭を小突く。

「誰が座敷童だっ! 大体お前はいつも…」

「ごめーん」

律が笑う。

――

想像していたやり取りは脆くも崩れ去り、
少女は泣きそうになっている自分に気がついた。

22: 2010/12/25(土) 22:22:00.52 ID:5VkwxU0d0
昼休み明けの教室、窓の外は雨模様になっていた。

「何だ田井中は休みか?」

「はい、体調が優れないらしいので早退しました」

クラス委員がそう誤魔化した。
誰も昼休みの事件に触れてはいない、皆が気をつかってくれている。

肝心の彼女は上の空で、肘をつきながらグラウンドの水溜りを見つめていた。

(本当は怒ってなんかないのに)

(どうしてあんなことしちゃったんだろう……)

飛び出してしまった少女のことばかり思い浮かぶ。

(律濡れてないかな? あいつ傘持ってきてたのかな)

雨音は強さを増している。

23: 2010/12/25(土) 22:27:45.41 ID:5VkwxU0d0
昼下がりの街、少女はうつむきながら家路を急ぐ。

春時雨が容赦なく打ちつける、道路には水溜りが作られていた。

傍らを車が通り盛大に水をかけられたが気にも留めない。

なにも考えないように、彼女のことを考えないように、ただ、歩いた。

24: 2010/12/25(土) 22:35:30.53 ID:5VkwxU0d0
「…ただいま」

返事はなかった。
家族がいないことを確認すると、
濡れた制服を脱ぎ捨て暖かいシャワーを浴びた。

着替えを済ませ階段を上り、力なく部屋に入る。
ベッドにもたれ込み、枕を引き寄せ顔をうずめた。
雨音はますます強くなっている。

「ううっ……」

(おい、泣いてるのか? 私)

「ひぐっ……」

(澪に嫌われた……)

「……うぇぇ」

「うわああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

28: 2010/12/25(土) 22:50:02.97 ID:5VkwxU0d0
五月一日 晴天

澪は一人で学校に来た。

抜けるような青空は、彼女の心を躍らせはしなかった。

(今日こそは律に謝ろう)

(あんな顔は見たことがなかった……)

思い出すと胸が塞がる、これ以上立ち入れない気がしてくる。

(……でも)

重い足取りで校門のあたりに差し掛かると
他クラスの友達が声をかけてきた。

「おはよう澪ちゃん」

「ああ、おはよう」

「いい天気だね」

「うん、そうだね」

我ながらつまらない受け答えをするものだ。
そのまま足早に別れると親友の居るであろう教室に向かっていった。

29: 2010/12/25(土) 22:56:11.67 ID:5VkwxU0d0
朝の十時を過ぎたころ、律が目を覚ました。

(あれ? 私ゆうべどうしたんだっけ…)

布団に潜りながら記憶をたどった。
澪に叩かれた事を思い出し、また泣きそうになる。

布団からは這い出たものの、膝を抱えるしかなかった。

(うう……)

(こんなの……私らしくない、おかしーし……)

「助けてよ……澪」

ごめんな澪、素直になれなくて。
分かったろ、私なんてただの子供なんだ。
だから澪、大丈夫だよな私なんかいなくても。
あの頃に比べたら成長してるよ、人見知りもだいぶ直ったし。
そうだろ澪、一人でも大丈夫だよな。

(でも、寂しいよ……)

私の心は深い海に沈んでしまったんだ。
お前は潜ってくれるだろうか、私の手を掴んでくれるだろうか。

もう一度笑いたいんだ、澪と一緒に。

30: 2010/12/25(土) 23:01:01.00 ID:5VkwxU0d0
「律?」

気づいた時には飛び出していた、校舎を背に律の家へと向かう。

呼ばれたんだ、私は。
呼んだんだ、律が。

脇目も振らずに走った。

わかったんだ。
強いはずのあいつが、本当は強がっていること。
誰も傷つけないあいつが、誰よりも傷ついていること。

気づいたんだ。
私たちは二人だって事を、もう一人と一人には戻れないんだ。

(ハァ、ハァ……)

(体力ないな、私)

どこまでも潜るつもりだ、律が待っているんだから。

32: 2010/12/25(土) 23:07:41.76 ID:5VkwxU0d0
階段を昇る音が聞こえる。

(わかるよ、足音だけで)

足音は部屋の前まで近づいてきた。

(あやまりに来たんだろ? 私が呼んだから)

ドアが開いた。

「澪」
「律」

声が重なった。
沈黙が部屋を支配したあと、やがて律が声を発した。

「そっ、そちらからどうぞ!」

澪が返す。

「おっ、お前こそ!」

「じゃあ同時に言うぞ?」

もう二人はいつもどおりに戻っていた。

「「……せーの」」

「「ごめんなさい」」

33: 2010/12/25(土) 23:13:47.08 ID:5VkwxU0d0
「まだ泣いてるのか? 律」

澪は律と寄り添うようにして座っている。
顔は見ていない、触れた肩でわかった。

「うっ、うるへー」

「もう泣くなよな」

「へへっ、恥ずかしいところをお見せしました」

ようやく律にも笑顔が戻り、澪の肩に寄りかかる。

「なあ、澪」

律は正面に向き直り、静かに口を開いた。

「また勉強教えてくれる?」

「いいよ」

「同じ高校行こうな」

「もちろん」

「穿いてるパンツの色教えて」

「ああ、今日は……」

34: 2010/12/25(土) 23:19:36.32 ID:5VkwxU0d0
「……っと」

澪はそう言うと、こめかみを傍らの少女に優しくぶつけた。

「あいたっ」

「あぶないあぶない、口車に乗るところだった」

よかった、やっぱりいつもの澪だ。

「そんなことより寝てなよ、風邪なんだろ?」

はて、私は風邪なんかひいてたっけ?

「昨日は大雨だったもんな。お前のことだから傘なんて持ってこなかったんだろ?」

やれやれ、そこまでお見通しか。

「それにちょっと熱っぽかったしな」

おいおい、今のでわかったのか?
でも澪が言うならその通りなんだろうな。

「うん、そうする」

短く言って私は布団に潜りこんだ。
そこでちょっとしたワガママを言ってみる。

「えっと……寝るまで手、握ってて」

35: 2010/12/25(土) 23:25:14.52 ID:5VkwxU0d0
(子供かおまえは、ああ恥ずかしい)

「ちょっと窓開けていいか? 五月って意外と暑いな」

「ねー、みーおー」

顔の火照りを冷ますため、私はわずかに窓を開けた。
さわやかな春風が吹き込んでくる。

「ん、すずし……。というわけで手、握って」

病人の頼みを断るわけにもいくまい。
私はベッドの脇に座り、右手を律の左手にそっと重ねた。

「ありがと」

目の前の少女はうとうとしその横顔を私は……
って、もう寝てるし。

よっぽど張り詰めてたのかな。私悪いことしちゃった、あんな態度とるなんて。
昨日の昼休みを思い出したとき、目頭が熱くなった。
さっき律に、『もう泣くなよな』なんて言ったのはどこのだれだっけ?
すすり泣く声を聞かれないよう、左手で顔を覆った。

バカ律、私だって寂しかったんだからな。昨日だって眠れてないし。
ああ、どうか泣いてることが律にバレませんように。
もう面倒だ、寝ちゃおう寝ちゃおう。

37: 2010/12/25(土) 23:32:25.43 ID:5VkwxU0d0
「ん……」

澪が目覚めたころ、すでに日は低くなっていた。
ベッドの上の少女はまだうとうとしている。

手をつないだまま、聞こえないように、でも少しだけ聞こえるように澪は語りかけた。

「これからもよろしくな、律」

茜色の夕日が二人を包んでいる。
少女は目を閉じたまま、少しだけ照れくさそうに笑った。

38: 2010/12/25(土) 23:42:13.22 ID:5VkwxU0d0
――

三年後

桜高音楽準備室

四人で始まった軽音部、新入生の梓が入部し五人となった。
とはいえ何か変わるわけではなく、
今日もミーティングという名のお茶会が行われていた。
いつものように律が澪を怖がらせている。

「でさでさ、糸ノコは鎖を切るためじゃなかったんだよ」

「ひいぃ」

「真ん中の氏体が実は……」

「コワイコワイコワイ」

「犯人は部屋の……」

澪が拳を振りかぶった。

39: 2010/12/25(土) 23:49:25.68 ID:5VkwxU0d0
「あれ、澪しゃん?」

「きょ、今日は勘弁しといてやる」

唯が紬に小声で話しかける。

「ねえねえムギちゃん、今日って何の日だったっけ?」

「うふふ、今日はメーデーっていうの。ヨーロッパで行われてる
春を歓迎するお祭りのことでね」

「ふんふん」

「若い女の子の中から『五月の女王』が選ばれるの、その日は国王も王妃も
その子に従ってみんなでお祝いするの」

「へえ~ステキだね、じゃあ澪ちゃんがお姫様かあ」

「うふふ」

40: 2010/12/25(土) 23:54:15.00 ID:5VkwxU0d0
「ねえ、あずにゃんはどう思う?」

「わ、私ですか?」

普通メーデーといったら労働者の日でしょう、
この人たちは授業で何を聞いてたんですか?

「でも……」

(意外とお姫様は律先輩のほうかも)

「えっ、あずにゃん何?」

「何でもないです、さあ早く練習しましょう」

42: 2010/12/25(土) 23:58:57.54 ID:5VkwxU0d0
「だとさ、律」

「もうちょっとあとでいいだろ~」

「あのことをバラされたければ別だけどな」

「何のことざんしょ」

「因数分解」

「さあ練習だ、皆の衆」

「え、あのことって何?」

「唯先輩、練習しましょう」

「あずにゃん……」

「じゃあ片付けるわね」

「ムギちゃんまで」

紬は律と澪を見つめていた。二人の間に何があったのか、
無理に聞くことはない。
むしろ秘密にしておいたほうが素敵かもしれない。

そんなことを考えながら、紬はティータイムの片づけをしていた。

おわり

43: 2010/12/25(土) 23:59:59.11

44: 2010/12/26(日) 00:01:47.26

終わり方が好きだ

引用元: 律「メーデー」