⑨どうやら由比ヶ浜結衣は初デートを楽しんでいるらしい。


ディスティニーランドでデートしたカップルは別れる、というジンクスがある。そんなジンクスが流布するようになった

理由として考えられるのは主に二つある。まず、その母数の多さである。ディスティニーランドは千葉を代表する、いや

日本の代表的なテーマパークといっても過言ではないが、当然のことながらそこを訪れるカップルは多い。そうなると、

その中から別れるカップルというのも必然的に数が多くなる。そして別れたカップルがその理由として押し付けるのが、

ディスティニーランドというわけだ。もちろん、そこでデートして上手くいくカップルも大勢いるのだろうが、そんな

カップルのことはそもそも話題に上ることがない。だから、別れたという話ばかりが広まってあたかもディスティニー

ランドのデートが原因であるかのようにいわれてしまうのだ。もう一つは、以前俺が由比ヶ浜に指摘した理由だ。つまり

待ち時間が長いことによって話す話題がなくなってつまらなく感じたり、イライラしたりするのが積み重なって一緒に

いる相手をも不快に感じるようになるというパターンだ。幸いにして、由比ヶ浜は修学旅行中に俺に向かってそのことを

否定してくれた。今、こうして入口で待っている間も彼女はルンルン気分といった感じだ。


477: 2013/09/10(火) 21:36:56.53 ID:3xKNrynr0
しかし、結果的に由比ヶ浜が喜んでくれたのはいいものの、俺がデートの場所にここを選んだのはあまり前向きな理由

ではなかった。まず、俺と由比ヶ浜の接点の少なさが理由として挙げられる。俺と彼女では、残念ながら趣味や嗜好に

ついてかなりの隔たりがある。由比ヶ浜は付き合う相手にある程度は合わせられる性格の人間だとは思うが、あまり

そうしたことで負担をかけるのは俺としても本意ではない。したがって、興味の重なっているであろうディスティニー

絡みの場所でデートをすることに決めた。それにここなら、どちらが主導権を握ってもたぶん問題ない筈だ。由比ヶ浜は

年間パスを持っているユーザーだし、知っている場所ということで安心感もある。俺が上手くリードできなかったとして

も相補性が期待できるというわけだ。また他の理由として、仮にデートそのものが失敗に終わったとしてもその原因を

ディスティニーランドに押し付けることができるというのもある。ジンクスは当っていた、というわけだ。そこまでして

自分の責任を回避したいのか、と思われるかもしれないが本当は違う。そうやって考えでもしないとやってられない、と

いうことだ。今日の俺の行動は全て自分の責任だ。誰のせいにもできない。何故なら――――。


478: 2013/09/10(火) 21:39:38.63 ID:3xKNrynr0
「ヒッキー?…………もうそろそろゲート開くみたいだよ?」

「え?ああ、そうだな」

不意に話しかけられて、生返事を返す。というか入る前に色々と訊いておかないといけないことがあるのを思い出す。

「由比ヶ浜ってアトラクションでこういうのはダメっていうのあるか?乗り物酔いするのは無理、とか」

「う~ん……お化けとかの怖い系は苦手だけどダメってわけでもないし…………それ以外は特にないかな?」

「そうか…………あとお前ってガイドツアーって使ったことある?」

「何それ?」

きょとんとした表情でそう答えられてしまった。こいつ、本当に年間パス持ちなのか?いや…………いつでも行けると

思っているからかえって効率良く回ろうという発想が出てきにくいのかもしれない。俺はスマホでサイトの画面を見せる。

「ほら、こういうのがあって…………これならあまり待たずにアトラクションにもいくつか乗れるみたいだし、お昼に

やるパレードも専用の場所で見れるらしいぞ」

「へぇ~。でも、これお金かかるんじゃないの?」

「まぁな。でも、今日はどのみち俺が出すから由比ヶ浜が気にする必要はないぞ」

479: 2013/09/10(火) 21:42:24.76 ID:3xKNrynr0
「それはそうかもしれないけど…………でも、せっかくの機会だし……う~ん……わかった」

お金がかかると聞いて少し逡巡した様子を見せた由比ヶ浜であったが、普段できないことをできるというのもあって了承

してくれた。こちらとしてもそうしてくれた方がありがたい。

「じゃあガイドツアーは決定な。あと、パレードの時間から計算するとこのツアーが始まるまでしばらくは時間がある

みたいなんだ。由比ヶ浜、何かそれまでに乗っておきたいアトラクションとかあるか?」

「やっぱりパンさんの奴は乗っておきたいかも」

「なるほど。まぁ確かにアレは人気あるみたいだし、ツアーの申し込みしたらまずはそっちに行くか」

「うん!」

お昼までのだいたいの予定が決まったところで、入口のゲートが開き始める。さぁ、ここから先は夢と魔法の王国だ。

由比ヶ浜には良い夢を見てもらって、俺にも何か良い魔法がかけられるといいかな、なんて。そんなことを思いながら、

俺と彼女は手を繋いだまま中へと入っていったのだった。


480: 2013/09/10(火) 21:50:14.94 ID:3xKNrynr0
ガイドツアーの申し込みを済ませた後、さっそくパンさんのバンブーハントの方へ歩きはじめる。もう目的地はわかって

いるので、今度は由比ヶ浜の方が先を進む。そしてその手はずっと繋がれたままだ。クリスマス仕様の園内を眺めつつ

歩いていくが、彼女の足取りはやけに軽い。こっちが男なのについていくのに精一杯といった感じだ。そんな歩幅の違い

に由比ヶ浜も気づいたのか、いったん手を離して足を止めてこちらに振り返る。

「……どうしたの?」

「いや…………ずっと手を握ってないといけないのかなーと思って、さ」

「い、嫌だった?もし、そうなら別に無理にとは……」

いえ、決してそんなことはないんですけどね。その……まだなんか恥ずかしいし、この流れだと屋内でも手を握ったまま

ということに……。しかし、捨て犬が元飼い主を見るような由比ヶ浜の濡れた瞳を見てそんなことを言える筈もなかった。

「や、そ、そんなことは……ないんだけどよ……まだ慣れてなくて……悪い」

「じゃあ早く慣れるためにも……ほら」

481: 2013/09/10(火) 21:52:11.93 ID:3xKNrynr0
そう言って由比ヶ浜はまた俺の方に手を伸ばしてくる。まぁ、慣れるためだからね。仕方ないね。俺が彼女の手を手袋

ごしに握ったところで、再び足を踏み出す。先を行く由比ヶ浜は、こちらをチラッと見てぽつりとつぶやく。

「なんか……手を握ってないと今日のヒッキーは……勝手にどこかにいっちゃいそうな気がしたから」

一体どこからそんな発想が出てきたのか皆目見当もつかないが、俺は自分の心を見透かされているような気がして、胸が

チクリと痛んだ。悟られるのを避けるためか、俺は冗談交じりにこう答える。

「お前ん家の犬じゃあるまいし……せめてどこかにいってしまう時には先に一声かけるよ」

「そういう問題じゃないし」

「わかってるよ…………今のは冗談だ。由比ヶ浜がこうしていたいのなら、今日はずっとそれに付き合うよ」

「ほんと?」

「ほんとほんと」

俺がそう答えると、手を握ったまま由比ヶ浜はぱぁっと笑顔になった。ま、そりゃいつ自分の元を去ってもおかしくない

ような相手だしな。俺も今日くらいはこんなことを言ってみたりもするさ。

482: 2013/09/10(火) 21:56:06.88 ID:3xKNrynr0
――――それにしても。

俺が由比ヶ浜と恋人同士になって、ディスティニーランドにデートに来て二人で手を繋いで歩いているというこの状況。

なんだか現実感があまりない。場所が場所だからだろうか…………まるで夢の中にでもいるみたいな気がしてしまう。

そんな感情が顔に出てしまっていたのか、由比ヶ浜に怪訝な目で見られる。

「え?あ、いや…………俺の方から告っておいてこんなこと言うのもアレなんだが、なんかまだ実感が湧かないというか」

「そう?あたしはそうでもないけど」

俺の言葉に由比ヶ浜はハッキリとした口調でそう答えた。

「そうか…………まぁ、それなら別にいいんだけどな」

「ヒッキーが……その……す、好きでもない人にわざわざこんなこと…………しないと思うし」


あぁ、なるほど。俺が普段から屑人間アピールをしてきたせいで、甲斐性のある人間みたいな行動をするとそのギャップ

にプラス補正がかかるという仕組みか。……そんなんでいいのか、自分は。それで過剰評価されるのもなんか嫌だな。

ただ、そうは言っても由比ヶ浜が今言ったことに間違いがあるわけではないので、そこは肯定しておくことにする。

「まぁ…………好きな人にしかこんなことしないのは、確かにそうだな」

「う、うん……」

“好き”という単語が俺の口からさらっと出てきたのに由比ヶ浜は一瞬驚いたような顔を見せ、次の瞬間にはまた彼女は

頬を染める。こちらまで気恥ずかしくなる前に、今度は俺の方から手を繋いで再び歩き始める。

483: 2013/09/10(火) 21:59:30.00 ID:3xKNrynr0

しばらく二人とも黙ったままで中を進んでいると、後ろからまたぽそっと声がかかったので俺は少し歩を緩める。

「さっきの話の続きなんだけど……」

「お、おう……」

「あ、あたしに先に告白したのも…………そういうことなんでしょ?その……ちゃんと恋人同士になってから……ここに

入りたかったっていうか……」

「それは違うな。なんか…………そんなまともな理由じゃない」

俺の返答が意外だったのか、由比ヶ浜は一度その歩みを中断した。自然と自分の足も止まり、後ろに向きを変える。

「えっと……今になってこんなこと言うのは……逆に由比ヶ浜のこと信じきれてないみたいで言うのが少しはばかられる

ような気もするが…………告白とデートの件は切り離しておきたかったというか」

「切り離す?」

「そう。可能性の話として、俺が告白して拒否されるということだって充分考えられた。だからむしろ、成功率を上げる

ならここで告白した方が良かったのかもしれない」

「じゃあなんでそうしなかったの?」

由比ヶ浜は俺の案を聞いて納得しかけたが、実際はそうしなかったことについて顔にはてなを浮かべた。

「俺は……ただ、純粋に由比ヶ浜の気持ちがききたかっただけだから。だから、デートの場所とかで左右されるような

ことはしたくなかったんだよ。それに、あの時点なら後腐れなく断ることもできただろうし」

「やっぱりヒッキーはヒッキーだ……」

484: 2013/09/10(火) 22:03:00.99 ID:3xKNrynr0
由比ヶ浜は少し肩をすくめてそうつぶやいた。その言葉は褒めているわけでも貶しているわけでもなく、ただ俺の有り様

について素直に感じたことを口にしただけのことだったのだと思う。でも、そのことが俺にとっては何故かとても嬉しく

感じられた。俺の表情が緩んだのを見て、由比ヶ浜はふふっと笑った。そして、こう言う。

「とりあえずそれはわかったけど…………じゃあ、何か……その……恋人になった実感が湧くことしない?」

「えっ?」

彼女の唐突な言葉に俺の声は裏返ってしまった。瞬間的に何かイケナイ妄想が頭の中で広がった気がしたが、そんなもの

はすぐに投げ捨てる。男ってほんとバカ。俺の頭の中など知る由もなく、由比ヶ浜は目を逸らし気味にこう続ける。

「た、例えば、さ…………名前……で、呼んでみるとか」

あぁ、そういう…………以前も自分にあだ名をつけてほしいと言っていたあたり、彼女は人の呼び方に色々とこだわりが

あるのはなんとなく伺える。普段の俺なら絶対に断っているところだが、まぁ今日のところは致し方ないか。


「わかったよ……結衣」


「ぅえ!?」

「ぅおう……急に大声出すからビックリしたぞ、おい」

「だ、だって…………ヒ、ヒッキーが……そんな……素直に……」

485: 2013/09/10(火) 22:05:36.19 ID:3xKNrynr0
結衣は驚きながら照れるという器用なことをした。まぁそういう色々な表情を見たいから呼んでみたのも否定できないが。

しかし何もそこまで驚かなくても…………。俺の顔が少し曇ったのを見てすかさずフォローに入る。

「あ、いや、ごめん……少し驚いただけだし……うん…………ありがと」

「それはどういたしまして」

「ねぇ…………これからは、その……二人の時は……そう呼んで……くれる?」

「……わかった」

二度目の承諾にはもう驚きの顔を見せることもなく、彼女はこちらからは少し視線を外して頬に手をあててえへへと

はにかんでいた。俺の方は今になって恥ずかしくなってきたのか指で頭を掻いてしまう。結衣は満足げな表情を浮かべた

後で、俺の正面に向き直る。そして上目遣いでこう尋ねてきた。

「あ、あたしも…………そうした方が……いいのかな?」

「……何が」

「な、名前で呼ぶの……」

由比ヶ浜に名前で呼ばれるのを想像して、それも悪くはないと思ったがそれだと他の人間とかぶるんだよな…………。

「由比ヶ……結衣、は……そのままでいいと思うぞ。俺のことそうやって呼ぶのはお前だけなんだし」

「そ……そっか。うん……わかった、ヒッキー」

「ああ……」

486: 2013/09/10(火) 22:08:03.38 ID:3xKNrynr0
呼び方談義が終了したところで、また二人で手を繋いで歩き出す。しばらくして、目的のアトラクションの入口が見えて

きて結衣のテンションも上がってきた。最後の方はほぼ走るようにして辿り着くと、もう結構な人の行列ができていた。

「人気アトラクションは開園直後でもこんななのか……」

「う~ん…………でも今は空いてる方だから、もう普通に並んじゃおうよ。たぶんその方が早いと思うし」

「そ、そうか」

彼女に促されるままに、列の後ろに並ぶ。しかし、これでも空いている方なのか……さっき待ち時間を見たら一時間近く

あったような気がするんだが。まぁ、とりあえず午前はこれ以外はガイドツアー使うんだし間が持たないという心配は

あまりしなくてもいいのかしら。一応暇つぶしグッズもいくつか持ってきてはいるし、たぶん大丈夫だろう。


その後、しばらくは適当にパンさんの話だとかディスティニー作品の話だとかを結衣としながら列を進む。とはいっても

雪ノ下じゃあるまいし、そう何十分も話し続けられるものでもない。時々沈黙が訪れることは何度かあった。ただ、結衣

もさすがにそういう沈黙も奉仕部で慣れていたのか、特に気まずい空気になることもなくお互いの時間を過ごす。幾度か

の沈黙の後で不意に結衣がこんなことを尋ねてくる。少し手を握る力が強くなったような気がした。

「ねぇ、ヒッキーは……その……あたしの……ど、どこが……好きになったの?」

「えっ!?」

487: 2013/09/10(火) 22:10:25.09 ID:3xKNrynr0
まさかこんな列に並んでいる最中にのろけ話を要求されるとは思っていなかったので、俺は思わず彼女の顔を見る。俺の

反応を見て自分の言ったことの意味を自覚したのかポッと赤くなった。いや…………言いだしっぺに照れられても困るん

ですけど…………。

「ま、まぁ……ここで言うのもアレだし…………乗り終わってから、な。そういうのは」

「ご、ごめん……あ、あたし…………周り見えてなかったみたいで」

あれ?それって今は俺以外は眼中になかったってこと?結衣の言葉の言外の意味に気づいてしまった自分は、思わず頬を

手で撫で付ける。その仕草を見て結衣は目を逸らした。おい、こいつまた無自覚にそういうことを…………。

こんなやり取りをしていて話が続くわけもなく、二人ともうつむき加減になって列を進むほかなかった。う、嬉しいこと

は嬉しいんだけどね、まぁ…………。


しばらくして屋内に入ってますます熱くなってきたので、俺と結衣は来ていたコートを脱ぐ。上着を着ている間は特に

何も感じなかったが、セーター姿の彼女には自然と目が吸い寄せられてしまう。ほら、その……結構セーターって体の線

が出るでしょ?それで…………。クソッ、万乳引力の法則はここでも健在なのか!目が泳いでいるのを悟られまいとして、

俺は視線を反対側に頑張って向ける。幸いにも結衣もこちらを向いていたわけではなかったのでここは何事もなく済んだ。

488: 2013/09/10(火) 22:13:19.11 ID:3xKNrynr0
それからまた十数分が過ぎ、ようやくアトラクションに乗る場所に到達した。営業スマイルなんて月並みな表現をはるか

に超越したキャストの笑顔に戦慄を覚えつつ、案内に従って俺たちはライドに乗り込む。このライドにはレールも車輪も

見えないのだが、調べてみるとどうやら電磁誘導で決められたコースを動かしているらしい。夢を売るのにもまた技術は

必要なのである。というか、そもそもディスティニーランドをアメリカで最初につくった人が鉄道マニアだったとか。

それで、園内に電車だのモノレールだの走っているのね。そんなことを思い出しているとライドが進みだした。


実際にアトラクションが始まるとそこからはあっという間に時間が過ぎてしまった。一応設定とかストーリー的なものは

あるんだろうが、ライドが回転して結衣と体が触れるのが気になってそれどころではなかった。なんか夢の中って設定

だったとは思うが、まるで途中からヤク中の頭の中でも見てるような気分だった。しかしまぁ、本日の主役である結衣は

満足げな表情で「面白かったね」と小学生並みの感想を何度かつぶやいていたので、これはこれで良しとしよう。

489: 2013/09/10(火) 22:16:34.20 ID:3xKNrynr0
待ち時間で結構時間を使ってしまったので、今からガイドツアーのスタート地点に戻るにはちょうどいい頃合いになって

いた。そのため、他のアトラクションには乗らずに再び歩き出す。しばらくすると、結衣がさっきの話を蒸し返してくる。

「ヒッキー……それで……さっきの話の……答えは?」

「答えって?」

彼女の質問の意図はわかりきっていたが、俺はわざととぼけたふりをしてみた。すると、結衣は少し膨れ顔をしてから、

「も~……わかってるくせに…………だから、その……あたしの……す、好きなところ」

だんだん声が小さくなりながらそう言った。まぁ、単に俺がその質問を言わせたかっただけなのかもしれない。これ以上、

誤魔化しようも何もないので俺はなるべく平静を装いながらさらっと答えることにする。

「優しいところ、かな?」

「な、なんかそれって今適当に考えたみたいな感じ、するんですけど……」


再び不機嫌な様子になる結衣。まぁ「優しい」って言葉は社交辞令的にもよく使われるし、彼女がそう思うのも無理は

ない。というか、わざとそういうことを答えてみた。でも、この返答は決していい加減な意味ではない。

「それは違うぞ、由比ヶ……結衣。お前は基本的に八方美人で、その……みんなに対して優しいんだが……でも、それは

……どっちつかずってわけでもない。いざという時には選ぶこともできる強い優しさだ」

「……選ぶ?」

490: 2013/09/10(火) 22:19:16.96 ID:3xKNrynr0
結衣はまだ何やら納得できていないような表情をする。というか、俺の言いたいことがイマイチ伝わってないような感じ。

俺はもっとわかりやすく説明するために、ある例を挙げることにする。

「まだお前が奉仕部に入って間もない時に、三浦や葉山とテニス勝負になったことがあっただろ?」

「う、うん……」

「正直なところ、三浦に悪く思われないようにするためだったら別にお前が無理に勝負に参加する必要もなかったと思う」

「そ、そうかな…………で、でもその時はもうあたしも奉仕部に入ってたわけだし……」

「そうだな。でも……それで筋を通せる人間もまた、なかなかいないと思うんだよ……俺は。わざわざ三浦に嫌われると

いうリスクを冒してまで、さ」

結衣は思い出話を聴いて、理解してくれたような雰囲気にはなったが、何故か少し申し訳ないような顔をする。

「そ、そんなんじゃないと思うけど…………あたしはたぶん…………ゆきのんにもヒッキーにも嫌われたくなかっただけ

だと思う。だから、リスクを冒して選ぶとか……そんな大げさな……」

「俺は大げさだとは思わない。結衣が…………この俺を恋人に選んだって時点でな」

「そ、そうなのかな……」

「……そうなんだよ」

491: 2013/09/10(火) 22:22:11.37 ID:3xKNrynr0
結衣は基本的には”みんな”とうまくやっていける人間で、彼女自身が大切だと思える人の数もまた多い筈だ。だからこそ、

人から嫌われる恐怖は増すし、そう考えて身動きが取れなくなることだってあるだろう。現にそういう状況になっていた

奴を俺は見ていたわけで。そういう、誰とでも仲良くできる人間が恋人として俺のような人間を選んだ。その選択の意味

がとてつもなく重いことを、彼女はまだ自覚していない。はじめから周りの人間を全部切り捨てているような俺や雪ノ下

が誰かを選ぶのとはわけが違う。ぼっちが自分に好意を寄せてきた人を――まぁ、それも今までは勘違いだったわけだが

――好きになるのとは全く意味合いが異なるのだ。彼女の場合、別に恋人が俺でなくても大抵の人間とはたぶんそれなり

に付き合えただろうと思う。おまけに結衣はモテるから好意を寄せてくる人間も多いわけで、選択肢は多い。なのに、

それにも関わらず――――。


「…………どうしたの?ヒッキー。黙り込んじゃって」

俺が勝手に思索を始めてしまったせいで、結衣は心配そうにこちらを覗き込んできた。

「いや、なんでもない…………まぁ、とにかく結衣が俺のことを好きになってくれたのは…………本当にありがたい話

ってことだよ」

「あ、あたしも…………そう思ってるよ」

不意に発せられた彼女の言葉に、なんだかまた顔が熱くなるのを感じる。俺はポットか何かかよ。照れるのを誤魔化す

ために、今度は俺が質問を投げかける。

492: 2013/09/10(火) 22:26:08.54 ID:3xKNrynr0
「そういうお前はどうなんだよ…………一体俺の……どこが、その……好きに……」

「カッコ悪いところ」

自分から先に訊いてきた手前、その返答はもう準備してあったようで満面の笑みで彼女はそう言った。なんだその答えは

…………リアクションに困るんだが。俺が眉間にしわを寄せていると、結衣の笑みが穏やかなものに変わる。



「ヒッキーはね…………人からどう思われるかとか全然気にしないし、カッコつけたりしないんだけど…………。でもね、

そんなことは関係なく人を助けちゃうところが…………あたしは好き」



「そ、そうか……」

その一言だけを発して俺は思わず彼女から背を向ける。この瞬間にこれ以上たたみ掛けられたら、たぶん俺の涙腺が崩壊

してしまうから。さすがにこんなところで泣くのは、その…………カッコ悪いし。

「ヒッキー?…………あ、あたし何か……気に障るようなこと……言っちゃったかな?もし、そうなら……」

後ろから結衣の声が小さく聞こえてきて、その間に俺は空を向いてどうにか感情があふれ出すのを堪えきった。上げた顔

を戻して俺は結衣の方に向き直る。胸の前で手を握って心配そうな表情を浮かべる彼女を見て、俺はこう告げる。

「気に障ってなんかいない。むしろ…………嬉しかったぞ、俺は。ただ、お前は俺のことを少し誤解しているようだ」

「……どういうこと?」

493: 2013/09/10(火) 22:28:31.10 ID:3xKNrynr0
安堵から疑問の顔に変わった結衣を見ながら、俺は話を続ける。

「俺にだって…………カッコつけたい時くらいあるってことだよ。実は、俺がさっきそっぽ向いたのは……嬉しくて泣き

そうになったからだったりする」

「え~?そうなの?でも、それを言っちゃうのがヒッキーらしいというか……それに……いいじゃん、別に泣いても」

目を見開いて驚いた様子を見せた後、あきれたのかと思えば今度は照れ出した。まぁ、よくこんな瞬間瞬間で表情を

変えられるものだと何故か感心してしまう自分がいた。

「いや、さすがにこんなところで…………それに……今日くらいはカッコつけたいかな、なんて」

こんな公衆の面前で泣くのはさすがにはばかられるし、たぶん結衣の前で涙を流す時はいずれ来るのだ。だから、その時

まではどうにか…………。

「ふぅん?…………まぁ、ヒッキーがいいならそれでいいけど」


俺の言葉に何か含みがあるのを読みとったのか、結衣はそれ以上追及してくることはなかった。話が一段落したところで、

また二人は歩き出す。もちろん、互いの手はしっかりと握られたままで。

504: 2013/09/13(金) 00:23:42.85 ID:CYYoNZQK0
それから昼過ぎまでは、ガイドツアーに参加することにほぼ時間を費やした。結果的にこの選択は正解だったように

思う。アトラクションに乗るまでの間はキャストの人が話しながら案内してくれるので、二人きりで喋っていて話題に

困るみたいな事態にはならずに済んだ。待ち時間も少なめで定番のアトラクションに三つも乗れたし、時間効率的な面

からも良かった。それと、副産物的な効果として結衣がこれ以上ベタベタしてくるようなこともなく、俺が恥ずかしい

思いをしなくて済んだというのもある。まぁ、見てる方が恥ずかしいんだよね…………ああいうのって。一緒にガイド

ツアーに参加していたカップルの一組は俺たちよりも周囲の目を気にしないタイプの人たちだった。しかしまぁ……俺も

だいぶ変わってしまったものだとしみじみ思う。以前の俺だったら絶対に「リア充爆発しろ」などと心の中で思っていた

筈だ。それが今や…………確かに過剰にイチャイチャしているカップルは気になりはするが、それが羨ましいとか全く

思わないし、それより何よりも今は結衣のこと以外は割とどうでもいいと感じている自分がいる。だから、ガイドツアー

が終わって思い出すのもアトラクションやパレードの感想というよりは、結衣と話したことだったり、ちょっとした仕草

だったり、表情の豊かさとかだったりする。下の名前で呼ばれ慣れるまでは、いちいちピクッと反応するのが小動物的で

可愛いとか、パレード中にキャラクターたちに全力で手を振って楽しんでいる様子とか――――。

505: 2013/09/13(金) 00:26:22.13 ID:CYYoNZQK0
俺がベンチに座ってそんなことを考えていると、手にチュロスを持った結衣がこちらにやってくるのが見える。トイレ

って言っていた筈なのに、何故そんなものを持っているのでしょうか。

「おいおい…………まだ食べるつもりなのかよ」

「ダ、ダメ?」

「いや……なんでもない」

別にダメじゃないけどさぁ…………どうせまた先に結衣が半分食べてからこっちに渡すパターンでしょ、これは。ガイド

ツアーが終わった後、結衣が方々でポップコーンだのホットドッグだのを勝手に買って食べるので、昼食はそんな感じで

済ませることになってしまった。まぁ、いいんだけどね。当の本人は実に美味しそうに頬張っていたから。それに、彼女

が先に口をつけたものを食べるという行為を今さらそんな気にする必要もないのだ、本来なら。もう恋人同士なんだし。

そんなことを思いながら、横目でチュロスを食べている結衣を見ているとこちらとふと目が合った。

「ヒッキーにもあげる」

案の定、半分くらいの長さになったチュロスをこっちに差し出してきた。

「俺ももう結構お腹いっぱいなんだけどな……」

「まぁまぁ、そんな遠慮しないで」

506: 2013/09/13(金) 00:27:32.78 ID:CYYoNZQK0
ほらほら、と言いながら結衣はニコニコしながら半ば強引に俺の手にチュロスを収めてしまう。その笑顔に俺が勝てる筈

もなく、仕方なく食べかけのそれをかじり始める。すると、

「またヒッキーと間接キス、しちゃったね」

「!……ぶふぉ、ごほっ……うっ……」

「ヒ、ヒッキー!?大丈夫?」

俺が盛大にむせてしまったのに驚いて、結衣が背中をさする。それはありがたいのだが、こうなった原因は…………。

少し落ち着いたところで、俺はチュロスを持ったまま不機嫌そうに彼女の方に顔を向ける。

「お前な……」

「あっ!」

「今度はなんだよ」

「今こっち見た時にチュロスのチョコが口の横に…………」

意地悪をされて、なんだか仕返しがしたい気分だったので何を血迷ったのか俺はこんなことを口走ってしまう。

「じゃあ、結衣が拭いてくれよ」


507: 2013/09/13(金) 00:29:18.52 ID:CYYoNZQK0
そう言えば、結衣は少し照れながら紙ナプキンで唇の横についたチョコを拭いてくれる…………みたいなことを俺は想像

していたのだが。次の瞬間、結衣は俺の頬に指を滑らせる。そして、

ペロッ

という音こそ聞こえなかったものの、そんな感じで結衣はその指を自分の口に入れてチョコを舐め取ってしまった。

「……」

俺が絶句したまま硬直していると、結衣は頬を紅潮させてささやくようにこう言う。

「ふ、拭いたよ……」

こいつ…………。ガイドツアー終わって二人きりになってから、またスキンシップのリミッターが外れかかっている気が

するぞ。こんな調子ではスピード違反で捕まってしまうな、俺が。ここで感情的になると互いにさらにドツボに嵌るのは

確実なので、理性的な、即物的な対応をどうにか模索する。

「いや……拭けてねーから。指で完全に取れるわけないし、お前もその指これで拭いとけよ」

そう言ってから俺は投げるようにして紙ナプキンを結衣に渡す。結衣はそれを両手で受け取ると、俺のそっけない態度に

不満なのかむすっとした顔になった。

「そんな……怒るみたいな言い方……しなくても……」

508: 2013/09/13(金) 00:30:59.90 ID:CYYoNZQK0
「お前が俺に期待した通りのリアクションをすれば、ますますエスカレートしかねないからな。時と場所をわきまえろよ」

「……ふぅん?」

俺の返答に、何故か結衣は不満顔から一転してその目に笑みを浮かべる。そして、口角を上げながら、

「じゃあ、時と場所をわきまえればそういうことしても…………いいんだよね?」

「わ、わきまえれば、の話だぞ…………さっきのはわきまえてるとは言わない」

「なら……ヒッキーが教えてよ…………いつだったらそういうことしてもいいのか。あたしわかんないから」

ねだるようにこちらに顔を近づけながら、結衣はそう言った。チュロスがお前の顔につきそうだからいったん離れてくれ、

頼む。というか、なんだこの状況は。もともと結衣の行動を抑えるために言った筈なのに、いつの間にか俺の方からそう

いう行為をしなければいけないことになっているぞ?こういうところが本当に結衣は怖い。ああ、この怖いはまんじゅう

怖い的な意味じゃないですよ、ほんとですよ。俺は顔がこれ以上近づかないように引っ込めてなんとか答えを絞り出す。

「わ、わかったから……」


その言葉に一応結衣は満足したのか、体勢を元に戻して正面に向き直った。それにしても、まだこれ初日なんだよな。

俺と結衣が恋人同士になって。少し飛ばし過ぎなんじゃないだろうか。というより、焦り?まさか…………な。それと、

今の結衣の態度を見ていて俺は心配の種がまたひとつ増えてしまう。

509: 2013/09/13(金) 00:32:38.68 ID:CYYoNZQK0
「あ、あのさ…………今は二人きりだから、俺もそんなにとやかくは言わないが学校とかでは……」

「わかってる。今までどおりに接してほしいってことでしょ?」

「わかってるなら……別にいいんだけどよ」

理解しているのなら、それでいい。むしろ、今日の結衣の態度は普段抑えていたものの反動って見方もできなくもないか。

もしそうであるのならば、今日は結衣の好きにさせたほうが良いのかもしれない。もともとそういうつもりだったのだし。

俺と結衣が学校内での互いの立場は気にしないとはいっても、それがそのまま二人の関係を大っぴらにするってことに

直結するわけでもない。そのことは知っている人が知っているだけでいい。もっとも、そんな事態が訪れることになるの

かどうかさえ今の俺にはわからないのではあるが。まぁ、あまり先の心配をしても今の俺には意味がない。それからは、

俺は黙ったままチュロスの残りを片づけることにした。


間食のような昼食を済ませてベンチから立ち上がろうとすると、まだ座っていた結衣が俺の服の裾を引っ張ってきた。

「……どうした?」

「あ、あのねヒッキー……今まであたしも忘れてたし、ちょっと言い出しづらかったんだけど……」

裾を引っ張ったまま迷子の子供みたいな瞳でこちらを見つめてきた。……なんかマズいことでもしたのかな?俺。いや、

“忘れてた”ってことは何かをしていない…………はて。俺が首を傾けると、結衣がその先を続ける。

「写真…………まだ一枚も……撮ってない」

「あ……」

510: 2013/09/13(金) 00:35:10.44 ID:CYYoNZQK0
思わず開いた口から間抜けな声が出てしまった。なんという失態。…………やっぱり慣れないことはするもんじゃないね。

普段、他人と遊びに出かける習慣はないし、出先で写真を撮る習慣もない。だから、ここに来てもそんなことはまったく

考えていなかった。まぁ、初デートで浮かれていたというのもあるのだが。しかし、よく考えてみると園内でカメラを手

に持っている人は見かけた筈だし、何よりあのガイドツアー中も例のベタベタカップルが写真を撮っていたではないか。

…………なんで気がつかなかったんだろう。


「悪い……あんまりそういう習慣、なくてさ……」

俺は自身の至らなさに申し訳なくなって、顔を逸らして頭を掻いてしまう。そんな様子を見て、結衣は手を横に振る。

「い、いいよいいよ。別に……あたしが気づいてすぐ言わなかったのも悪いんだし……」

「結衣はいつから気づいてたんだ?」

「ガイドツアーの時にカップルの人たちが撮ってたでしょ?それで…………でもヒッキーは嫌なのかな、と思って」

「……なんで?」

そもそも写真を撮ること自体を失念していたのに、写真を撮るのを嫌がるような行動でもしていたのだろうか、俺は。

「だってその時のヒッキー……そのカップルを睨んでたというか、怖い目で見てたというか……」

…………あぁ、なるほど。そういうことか。

「いや……たぶんそれは人目を全然気にしないでイチャイチャしていたのに嫌悪感があっただけだ。写真は関係ない」

「そうだったんだ…………良かった」

511: 2013/09/13(金) 00:37:25.75 ID:CYYoNZQK0
俺の答えにほっとした様子で結衣は胸をなで下ろした。そもそも、もし結衣の思っていたことが本当なら修学旅行の時

だって断っていた筈であって。ただ、彼女の考えがまるっきりあてはまらないかというとそうでもない。

「まぁ、とはいえ俺が写真を撮る習慣がないのは…………」

そう言いかけて途中でやめる。今さら過去に写真がらみで嫌な思いをしたとか、そんなこと喋ってもしょうがないのに

ついいつもの癖で言葉が出てしまう。俺が急に黙ったので、結衣がはて?とこちらを見やる。

「……なんでもない。確かにこういう場所で写真を撮るのも楽しみのひとつではあるよな。特にお前の場合なんかだと

写真に撮られ慣れてるみたいだし、可愛く写るだろうからいいよな」

「可愛く……あ、うん…………ありがと」


自虐ネタではなく彼女を持ちあげるという方向にどうにか軌道修正できた。結衣も不意を突かれてさっきまでの気分を

どこかにやってしまえたようで、少し上気した顔がなんとも可愛らしくて思わず写真に収めたいと思ってしまった。

「俺も今はスマホしか持ってないから道具は仕方ないが…………まだ、キャラクターと一緒にも撮ってないからこれから

ニッキーマウスの家に行くっていうのはどうだ?そこなら確実に撮影できる筈だし」

「うん……じゃあ、そうしよう」

うつむき加減のままで結衣も立ち上がり、また手を繋いで二人は進みだしたのだった。


512: 2013/09/13(金) 00:39:09.36 ID:CYYoNZQK0
「結衣はパンさんだけじゃなくてニッキーも好きなのか?」

無事に写真撮影を済ませた後、スマホで撮ったニッキーと彼女の記念写真を見ながら俺はなんとなく訊いてみる。

「好きだけど?なんで?」

そんなことはさも当然であるかのような口調で結衣はこちらに問い返してきた。

「いや、あまりにも嬉しそうに写ってるもんだから…………」

「そうかな?うーん…………ヒッキーが撮ってくれたからかな?」

「そんなこと言ってみても、何も出ないぞ」

「あたしは思ってることをただ口にしただけだよ?」

「……」


もうなんか今日はずっとこんな調子である。俺はプラスの感情の応酬には慣れていないので、あまり会話が長く続かない。

俺の方が褒めても、向こうが照れて黙ってしまうし。まぁ、ありがたいことではあるんだが…………。

「ねぇ、ヒッキー」

「……何だ?」

「もっとこう…………別にいつも通りでもいいっていうか…………」


513: 2013/09/13(金) 00:41:30.59 ID:CYYoNZQK0
俺が自らに会話の内容に制限を課していることは彼女にはバレバレなのであった。自虐ネタと過度に現実的な、悲観的な

ことを言うのはなるべく避けていたのだが。

「いや、ほら……こんなところで、その……あまり夢を壊すようなことを言うのもアレかな、と思ってさ」

「大丈夫。別にあたし、ヒッキーに夢とか見てないから」

「それ、俺は喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、困る言葉だな…………」

俺が口を歪ませていると、並んで歩いていた結衣がこちらの前方に回り込んできて正面から見つめてくる。

「あたしは夢見てないけど、でも……ヒッキーが見せようとして気、遣ってくれたのはすごく嬉しいと思ってるよ」

「そ、それは…………どうしたしまして」

俺は顔を逸らして頬を掻きながらそう答えるのがやっとだった。結衣は猫なで声でこうたたみかける。

「でも、ヒッキーが思ってることそのまま聞かせてくれるのもあたしは嬉しいかな?」

「そ、そうですか……」

「うん、そうだ」

結衣は俺の返答に満足したのか頷きながらそう言って、また俺の手をひいて歩き始めた。

514: 2013/09/13(金) 00:43:15.66 ID:CYYoNZQK0
「まぁ、大した話じゃないんだけどな……」

「うん」

「俺は別にニッキー自体は特に好きでも嫌いでもないんだが…………キャラクターの成り立ちの話を考えると、素直に

好きにはなれないというか」

「成り立ち?」

首をかしげる結衣。

「これも噂の範疇を出るものではないが……このキャラクターのデザイナーはわざと人間に嫌われがちなネズミという

動物を選んだらしい」

「ふ~ん…………何で?」

「何でネズミだったのかまではよく知らないが……まぁ、嫌われ者ということで何か思うところがあったんだろうよ。

それで、もっと誰からも愛されるような存在になってほしいということで目や耳を大きくしたりとかして、みんながよく

知るニッキーマウスの誕生と相成ったわけだ」

「…………なるほどね」

そこまで話を聴いて、結衣は何か含みのある笑みを浮かべた。もうオチがわかったとかそんな感じか?彼女はまたこちら

の目をじっと見つめてこんなことを言う。


「ヒッキーは別にヒッキーマウスにならなくても…………あたしは好きだよ。だから、安心して?」

「あ…………うん……」

515: 2013/09/13(金) 00:45:56.62 ID:CYYoNZQK0
もうなんか俺が予想していた反応の三歩先くらいのことを言われ、とっさに返す言葉が思いつかなかった。まず、ネズミ

本人が人間に愛される存在になりたいと思ったわけではないということ。次に、姿かたちを変えたそれはもはやネズミと

呼べるような存在とはいえなくなってしまったということ。そして、ネズミそのものが愛されるようになったわけでは

ないということ。それらを踏まえた上で、結衣は俺に「そのままでいい」という趣旨のことを言った。一体どうなって

いるんだ、彼女の頭の中は。これじゃあとてもじゃないがこれから先、アホとか言えなくなっちまうだろうが。いや、

まぁそれはともかくとして。


「とは言っても、可愛いのもある意味生存戦略だからある程度は致し方ないとも思うけどな」

「生存戦略?」

生存戦略、しましょうか。俺のピングドラムはどこにあるんですかね?いや、もう場所はわかっているんだ。問題なのは、

その方法。俺だけで完結していても意味はない。

「例えばそうだな…………結衣は犬が好きだけど、その中でも特に犬の赤ちゃんって可愛いと思わないか?」

「うんうん、そうだね~。テレビとかでやってるとつい見ちゃうし」

「でもそれは、別に人間を癒すためにそんな見た目をしてるわけじゃない。もっとシビアな理由があるんだよ」

犬の赤ちゃんの話をされてにへらっと間抜け顔になっていた結衣の表情が少し曇った。悪いな、こんな話しかできなくて。

「犬に限らず、哺乳類というのは総じて子育てに時間がかかる。親が子に構う時間が長いってことだな」

「えっ……じゃあ……」

516: 2013/09/13(金) 00:49:47.79 ID:CYYoNZQK0
「そう。親に愛されるために犬とかの赤ちゃんは可愛いってことになるな。外部からの攻撃を避けるためでもあるが」

答えを言うと結衣は完全にうつむいてしまった。いかんな…………ここはちょっとからかって乗り切ることにするか。

「だから、俺は結衣にはなるべく冷たくあたることにする」

「あたし、赤ちゃんじゃないんですけど……」

むすっとした表情で俺の方を見てきた。もうそこに悲しげな顔はなかった。

「赤ちゃんであろうがそうでなかろうが、可愛い存在ってことには変わりはないだろ。だからお前の場合、絶対甘やか

されてるって。間違いない。最近じゃ、あの雪ノ下でさえお前には甘いしな」

「そ、そんなことないよ……」

と、口では否定しつつも妙に嬉しそうなのがまたなんとも可愛らしくて憎いくらいだ。だから、また憎まれ口でも叩こう

と思ったら先に結衣が口を開く。

「でも、ヒッキーがそんなこと言うのもあたしのことちゃんと考えてくれてるからなんでしょ?」

「えっ?ま、まぁ…………」

なんかやりづれぇ……。俺のネガティブエネルギーは彼女に吸収されてポジティブに返されてしまった。結衣が魔法少女

だったらグリーフシードなしでもソウルジェム浄化できそう。俺の反応を見て笑みを浮かべ、彼女はまた足を踏み出した。


517: 2013/09/13(金) 00:51:46.54 ID:CYYoNZQK0
その後、また別のアトラクションに乗り、次にシンデレラの城の中にあるガラス工芸の店に行き、名前入りのグラスを

ねだられるが恥ずかしいといってそれを断り、また他のアトラクションに乗って――――。

道を歩く人やその脇に植えてある樹木、アトラクションの構造物から影が伸び始め、その角度がキツくなる頃には俺の体

も相当キツくなってしまっていた。普段遊び慣れていないことや、ここ数日の準備の疲労、前日の睡眠不足がたたって

彼女よりも早く疲れてしまった。今の自分はワールドバザー内のカフェで一人で夕日を見ながらコーヒーを飲んでいる

という体たらくである。常識的に考えればデートのホストとしてあるまじき行動だが、何やら結衣は一人で買いたい物が

あるそうで約一時間は別行動ということになってしまった。お土産を買うにしては早すぎるのではないかという指摘を

したが、遅くなると混むからという理由でこの時間になったようだ。買った物はコインロッカーに預ければいいという

ことらしい。紅くなった空を屋内から眺めながら、今はただ時間が流れるのを感じているだけであった。



518: 2013/09/13(金) 00:53:36.96 ID:CYYoNZQK0
しばらくして少しは体の調子も回復し、目も冴えてきたので俺もカフェを出て少しショップを見て回ることにした。小町

へのお土産も買わないといけないことだしな。お菓子などを売っている店で適当なものを見繕って買っていると、不意に

後ろから声がかかる。


「やっはろー。ヒッキーもここにいたんだ」

そこには手に袋をいくつも提げた結衣の姿があった。

「ん?ああ、結衣も買い物か…………なんか、多くないか?」

俺はあいている方の掌を上にして手招きをするが、彼女は微笑を浮かべたまま「ん?」と小首をかしげる。あまり直接的

に言うと遠慮されると思ったのでこんなジェスチャーをしてみたが、どうやら伝わらなかった模様。

「ひとつかふたつなら、俺が持つぞ」

「え!?あ、いいよいいよ。ずっと持ってるわけでもないし」

「そ、そうか……?」

519: 2013/09/13(金) 00:55:25.49 ID:CYYoNZQK0
何故か結衣の声は大きくなって、首を激しく振って断られてしまった。何もそんなに強く拒否しなくてもいいのに……。

俺の表情が曇ったのに気付いたのか、彼女は慌てて言葉を繋げる。

「あ、いや、別に嫌とかそういうことではなくて…………ちょっとこれは自分で持っていたいっていうか……」

「……わかったよ」

ふむ。まぁ、確かに気持ちはわからんでもない。何か他人には預けたくない大切なものでもその袋の中には入っているの

だろう。それがなんなのか、まったく気にならないかといえば…………それもまた嘘になるんだろうけど。これ以上追及

されるのを避けたかったのか、先に結衣が口を開いた。

「待ち合わせの時間より少し早いけど……ヒッキーはまだ、買い物する?」

「いや、俺の方はもう必要なものは買ったからな。結衣の方こそどうなんだ?」

「あ、あたしも一通り見て回れたから、とりあえず今はいいかな…………」

「そうか…………じゃあ、いったん荷物を預けにいくか」

「うん」

結衣の方が荷物が多いので、俺はゆっくりめのペースで足を進め始めた。

520: 2013/09/13(金) 00:58:02.46 ID:CYYoNZQK0
コインロッカーに買ったものを一度入れた後、結衣と買い物前に別れる時に話をしてあらかじめ優先席権を取っておいた

レストランに向かう。彼女も行ったことがないという店だったのでちょうど良かった。


そのレストランに入る頃には、もうすっかり日も落ちていて入口にいるキャストの人も「こんばんは」と挨拶をしていた。

しかし、どうやらここに限っては一日中その挨拶をしているらしい。設定としてこのレストランの中は”ずっと夜”という

演出とのことだ。確かに中に入っても結構薄暗い雰囲気で、結衣も感心した様子で「へー」とか「ほー」とか思わず声に

出てしまっていたくらいだ。少し待ってから二人席に案内されるが、ラッキーなことに水辺側の方に通される。二人とも

席に着いたところで、結衣が水辺の方を指さしてはしゃぐようにこう言う。

「ねぇねぇ、ヒッキー舟だよ、舟!」

「俺は舟じゃねぇ……」

「へぇ~、ここってアトラクションの舟が見えるようになってるんだ。面白いね。ヒッキーは知ってたの?」

「まぁ、一応はな。でもこっち側の席に案内されるかわからなかったから、あえて言わなかったんだよ」

「ふ~ん……なるほどね」

何がなるほどなのかよくわからないが、なんかニコニコしながらこちらを見ているのでとりあえずは良しとしよう。

521: 2013/09/13(金) 01:00:05.29 ID:CYYoNZQK0
俺が少しウンザリするほど結衣が「美味しい」を連発していた夕食も終わりを告げ、いよいよ今日の最後の予定となる

夜のパレードを見るため、俺たちは場所取りに向かっていた。事前に調べておいたところに近づくにつれて、人の数も

増えてきているような気がする。先に何も言ってなかったせいか、結衣が不安そうな顔になってこう言う。

「ね、ねぇ……この近くで見るの?もうベンチとか埋まっちゃってるみたいだけど……」

「さすがに今日はレジャーシート持ってきてるから、そう心配すんな」

「あっ……そっか……そうだよね」

いつぞやの花火大会の時と同じ轍は踏むまい。少しほっとした様子になった結衣を見て俺も一安心といったところだ。

お目当ての場所に到着して俺は周囲を見渡す。事前の情報通り、ここからなら城も見えるしパレードコースのカーブ地点

にあたるからフロートもよく見える筈だ。しばらくして、キャストの人が合図をして場所取りOKとなるやいなや周囲の

人たちもシートなどを広げ始める。自分たちもそれに合わせてシートを出して無事準備完了した。しかしそうはいっても

まだパレードが始まるまで一時間近くもある。今日はこの季節の割には気温も高く比較的風も穏やかだったが、さすがに

場所が場所だけに夜は冷える。しかもじっと座ったままなので、体が温まるということもない。そのせいか、さっきから

やたらと結衣に手をさすられる。


522: 2013/09/13(金) 01:02:14.33 ID:CYYoNZQK0
「……寒いのか?」

「え?だ、大丈夫大丈夫」

結衣は慌てて首を振るが、手の動きはそのままだ。俺は彼女の手を握り返す。

「じゃあ、この手はなんだ?」

「……」

「そう無理すんなって。君には良いものをあげよう。さぁ、手を出したまえ」


「何今の口調……もしかして平塚先生の真似?あんまり似てないし」

結衣があきれ混じりに笑っている間に、俺は鞄からあるものを取りだして彼女の掌にそれを置く。

「貼るのも貼らないのもあるから好きに使え」

「あっカイロか!ありがとうヒッキー」

パッと結衣の表情が明るくなって何故かこちらまで体が温まるような感じがした。

「ちょっと貼るやつ使いたいから…………しばらく席離れても大丈夫かな?」

「え?ああ、そういうことか。まぁ、そのためのシートだからな。俺はここで待ってるから」

「うん!じゃあヒッキー待っててね」

俺がそう答えると、結衣はおもむろに立ち上がり小さく手を振ってから鼻歌交じりに雑踏の中に入っていく。その後ろ姿

が小さくなるにつれて急に自分の体に冷えが襲ってくるような気がした。だ、大丈夫さ。まだ他にも防寒用具はある。

…………そういう問題なのか?

523: 2013/09/13(金) 01:04:46.08 ID:CYYoNZQK0
“しばらく”と彼女が言った通り、結衣はすぐに戻ってくることはなかった。待ち時間の半分近くが過ぎた頃にようやく

彼女の姿が見えてきた。待たされたイライラとは違う感情が自分の中に渦巻いている気がするが、その気持ちがなんなの

かまだわからずにいた。そんな俺の様子に気づいたせいなのか、結衣の足取りが少し速くなった。よく見ると両手に何か

持っている。俺のシートの横まで来て、彼女は少し申し訳なさそうな顔でこう言う。

「ごめんね、ヒッキー。これ買ってたら遅くなっちゃって」

「……飲み物かなんかか?」

「そうそう。はい、ホットココア」

白い息をはきながら結衣が容器を手渡してきたので、俺はそれを受け取る。

「そりゃどうも…………悪いな」

「いいのいいの……さっきのカイロのお礼ってことで」

そう話しながら、俺のすぐ隣に座り直す。そうした後、何故か結衣は俺の顔を見てニヤリと笑って

「あたしがなかなか戻らないから、ヒッキー……もしかして寂しかった?」

「ハァ?そんなわけ…………いや、…………そうなのかも」

「えっ?あっ……うん……」

524: 2013/09/13(金) 01:06:54.54 ID:CYYoNZQK0
結衣の方からしかけてきたのに、俺がそれを否定しなかったら今度は彼女が赤くなって下を向いてしまった。少し沈黙が

続いた後、少し話題を変えるのも兼ねてこちらから話しかける。

「買い物の時は…………悪かったな。一人にさせてしまって」

「え?いや……まぁ、それはしょうがないよ。ヒッキーは予定立てたり準備してたんだし、あの時はほんとに疲れてそう

だったし……。それに、一人で買いたいものがあったっていうのも本当だし」

「まぁ……お前がそう言ってくれるなら俺としては助かるが…………」

安堵からふっと息をつくと、結衣は心配そうにこちらを覗き込んでくる。俺の表情を確かめると彼女は正面に向き直った。

「ほんとのことを言うと…………今日のデートね、あたし、ちょっと後悔してるんだ」

「えっ?」

思わぬ発言に、俺は飲み物の容器から手が滑りそうになってしまった。な、なんかマズいことでも……してしまったの

だろうか?や、やっぱり夕方のことか?俺の頭が混乱しかけていると、自由になっている方の手を握られる。

「ヒッキーに何か問題があるわけじゃないの。むしろそれはあたしの方で……」

目を逸らし気味にそんなことを言う結衣に俺はますますはてなマークを浮かべていると、彼女はこう続ける。

525: 2013/09/13(金) 01:09:08.11 ID:CYYoNZQK0
「今日はあたしの好きなようにさせてもらったけど……その……ヒッキーにだいぶ無理させちゃった、から」

…………なんだ、そんなことか。それは最初から織り込み済みの話だ。むしろそんなことを悟られる方にこそ、問題が

ある。何故なら、いや…………まだ言うわけにはいかない。俺はまた嘘にならない程度の話のすり替えをして答える。

「もともと俺がそういう予定を組んでたんだ。結衣が気に病む必要はない。それに、今まで色々とお前のことを傷つけて

しまったからな。その謝罪という意味もある」

「そ、そんな謝罪なんて…………」

…………どうもいかんな。話が重くなり過ぎる。彼女には今はあまり何も考えずにただ楽しんでほしいだけなのだが。

「今の俺にとって一番嬉しいことは、結衣が楽しんでくれることなんだ。だから、あまり俺のことは気にしないでほしい」

「ヒッキーがそういうなら……」

まだ完全に納得したわけではなさそうだったが、一応の着地点を見出したので今はこれで良しとする。結衣もまた笑顔に

戻り、俺に飲み物を勧めてきたので一緒に飲むことにした。

526: 2013/09/13(金) 01:12:20.63 ID:CYYoNZQK0

実際にパレードが始まってからは、こちらの心配も杞憂だったようで結衣はただただ楽しんでいる様子だった。薄暗い中

を大量の電飾をつけたフロートが目の前をゆっくりと通って行く。そのたびに、結衣の頬や瞳にその光が映り込む。その

様子はパレードそのものよりもよほど美しかった。俺はそんな彼女の横顔を見て思わず小声でつぶやいてしまう。

「綺麗だ……」

俺の声が聞こえたのか、結衣はこちらをチラッとだけ見てまた視線をパレードに戻した。どうやら何を言ったのかまでは

聞こえずに済んだらしい。俺もパレードの方に顔を向けると、不意に頬に何か柔らかいものがあたる。あたった方に俺が

向くとそこには至近距離で顔を真っ赤にした結衣の姿があった。おい、今のまさか…………。



「ちゅー……しちゃった」



彼女はささやくようにそう言って、両手で顔を覆って目以外を隠す。視線だけはまだこちらに向いたままだ。

「いや……しちゃったってオイ……」

突然の出来事にそれ以上の言葉が口から出ず、俺の顔も熱くなるのを感じていると彼女はそのままの体勢でこう続ける。

「さっきあたしのこと綺麗って言ってくれたから…………ね?」

ね?って…………。やっぱりさっきの聞こえてたのかよ。硬直したままの俺に結衣はさらに攻勢をかけてくる。

527: 2013/09/13(金) 01:17:21.93 ID:CYYoNZQK0
「ヒッキーも…………して?」

上目遣いの潤んだ瞳でそう言うと、彼女はいったん両手を顔から離した。そしてパレードの方に向き直ってから自分の頬

をちょいちょいと指さす。え?なに?これ俺もやらないといけないの?さすがにそこまでは…………。逡巡している間に

結衣は指を頬から離して下ろしてしまい、むすっと膨れてしまう。不機嫌そうな顔の結衣は俺にこんなことを尋ねる。

「ヒッキーはさ、…………ディスティニーランドのこういうジンクス知ってる?」

「……こういうって?」

「初デートで夜のパレード中にキスしたカップルは別れないっていうやつ」

「いや……知らんけど…………お前、そんなこと信じてるのか?」

俺の少々無遠慮な発言に、結衣はこちらを見て少し口を歪ませながらこうつぶやく。

「別に信じてないけどさ…………こうでも言わないと……その……キスしてくれないのかなって」


そう言いながら、少し悲しげな顔になる結衣を見て俺は自分の臆病さを恥じる。今日は、今日だけは向こうが踏み込んで

ほしいところまでこちらも踏み込むと自分は決めたのだ。せめて今だけは、彼女を不安にさせるようなことはあっては

ならない――――。

「ごめん…………すぐ行動できなくて。さっき俺のことは気にしなくていいって言ったばかりなのにな」

俺は覚悟を決めてこちらに向いたままの結衣の肩に手をかける。すると、顔を少しこちらに近づけて彼女は目を閉じた。



528: 2013/09/13(金) 01:23:32.22 ID:CYYoNZQK0
「い、いいか?」

俺の問いかけにほんの少しだけ首を上下させて肯定の返事をする結衣。俺は彼女に顔を近づけつつ、周りを見やる。周囲

は薄暗いしゲスト同士ではあまり顔もよく見えないくらいだった。でも、結衣の顔はよく見える。もう鼻と鼻がくっつき

そうだ。上気した頬やリップを塗った唇がやけに色気を感じさせる。目を閉じたままなので睫毛の一本一本がくっきりと

見える。俺はさらに近づいて顔を少し傾けて、そして――――



唇と唇が、触れた。



その感触を味わうまでもなく、ほんの二秒くらいで俺は唇を離してしまう。数秒は結衣もそのままだったが、終わったの

がわかるとその目をゆっくりと開く。薄目のまま、彼女はうっとりとした顔で吐息が混じったような声を俺にかける。

「…………もっかい」

そんな誘惑にもはや俺が勝てる筈もなく、再び顔を近づける自分がいたのだった。

544: 2013/09/15(日) 17:38:30.54 ID:a096b7Nq0
⑩ついに彼と彼女の終わりが始まる。


帰りの電車の車内、ディスティニーランドの袋を抱えて幸せそうに眠る結衣の寝顔を俺は吊革に掴まりながら眺めていた。

ついつい、視線がその唇に向かってしまう。あれから結局五回くらいねだられて、その…………キスしてしまった。今頃

になって何やら罪悪感のような寒気が全身を襲う。これが夢から現実に還るということなんだろうか。肩がかすかに上下

に揺れている彼女はたぶんまだ夢の中にいるのだろう。もう少ししたら、目を覚まさせてやらないといけないのが辛い

ところだ。そう、俺は結衣を醒めさせないといけないのだ。今日の今までがむしろ夢みたいなものだったのだから。


電車は幾度か駅に停まるのを繰り返し、次が結衣の家の最寄り駅になった頃に俺は肩をぽんぽんと叩いて結衣を起こす。

左右にゆっくりと頭を揺らしながら、むにゃむにゃと何かつぶやいているようだがその内容はわからない。しばらくは

結衣はそんな様子で俺が起こすのを諦めかけたその時、彼女の頭がピタッと止まりハッとしてその目が見開かれた。パチ

パチとまばたきをした後、顔を上げて申し訳なさそうにこちらを見た。

「ご、ごめん…………あたしだけ寝ちゃって……」

「疲れてるんだからしょうがないだろ、そんなことでいちいち謝らなくていい。それよりそろそろ着くぞ」

「あっ……うん……」

返事をしてから彼女はまだ眠そうなその目を手で擦り、あくびが出そうになった口を手で隠した後、拳を胸の前で握り

しめて「よし!」と小声で言って立ち上がる。俺は邪魔にならないように脇に移動し、結衣と一緒に網棚の上に置いた

袋を下におろした。


545: 2013/09/15(日) 17:40:54.65 ID:a096b7Nq0
電車が駅に着き、結衣の後に続いて俺も一緒に降りる。土曜日の夜で帰宅ラッシュの時間を過ぎたとはいっても、俺たち

のように行楽帰りの人もいて駅はそれなりに混雑している。先に続く人の歩調に合わせて自分たちも外の方に向かう。駅


から出ると、冷たい空気が顔や手にあたる。しかし、俺と結衣の手が繋がれるようなことはない。俺がひとつ袋を持つと

言ったので、今は二人とも両手に袋を提げた状態だ。今の彼女の歩みのテンポは遅い。それは疲労とか寝起きとかだけで

説明できるようなものとはまた違う理由があるような気がしないでもなかった。横に並んで歩き、半歩だけ先を進む彼女

は時々こちらに視線をやる。

「……どうした?」

「え、う、ううん……なんでもない……」

……わかっててそのセリフを言っているのかねぇ?君は。人がそう言う時は大抵は何かあるんだよ。それに、彼女の顔に

も何かあると書いてある。実にわかりやすい。

「……何か言いたいことがあるなら遠慮しなくてもいいぞ」

「えっと……その……こんなこと言ってもどうしようもないというか、なんというか……」

「お前が口にすることって割と言ってもどうしようもないことの方が多いような気がするけどな」


546: 2013/09/15(日) 17:43:17.08 ID:a096b7Nq0
俺がそう言うと、結衣はむすっと顔を膨らませて「ひどい」とつぶやいた。仕方がないじゃない、だって本当のことなん

だもの。彼女が言うことというのは基本的には何か目的があるというよりは、感情の発露みたいなことが多い。だから、

それによって何か新たな知識を獲得したりだとか問題が解決したりだとかそういうことは直接的にはない。だが、それが

肯定的なものだったらそれは人を元気づけたり、傷を癒したりする効果がある。どうしようもなくてもそれが直接無意味

な行為を意味するかというとまたそれも違うのだ。


「ま、この世の中どうにもならないことの方が多いからな。だから、そういうことを言うお前が悪いとかいう話ではない。

口にしたら気が済むってこともあるしな、今さら躊躇することもない」

俺の言葉を聞いて、結衣の膨れ顔は元に戻ってふっと少し笑みをこぼす。

「うん……だから……今からあたしが言うことも別にヒッキーに何かしてほしいってことじゃなくて……ただあたしが

そう思ってるってだけだから」

「お、おう……」

「帰りたく……ないな」

「は?」

547: 2013/09/15(日) 17:47:11.35 ID:a096b7Nq0
俺に何か要求するわけではないと先に断っていたにも関わらず、結衣の言葉に俺は間抜けな声を出してしまった。こちら

の反応は織り込み済みだったのか、彼女は無視して話を続ける。

「今日のことは本当にヒッキーに感謝してて…………今のあたしは……今まで生きてきた中で、一番幸せだよ」

「さすがにそれは大げさなん……」

「大げさなんかじゃないよ」

俺が言い終わる前に、結衣は俺の正面に回り込んできてこちらを真っ直ぐ見て目を細めた。その微笑はさっきの言葉を

これ以上ないというくらい裏付けるかのような幸せそうなものだった。俺は何故か彼女から視線を逸らしてしまう。

「だから…………この時間が終わってほしくない」

「そうか……」

「うん…………ヒ……ヒッキーは?……その……」

もちろん、俺もそう思っているさ。だからこそ、それが意図しないところで、自分の意思とは関係ないところで終わって

しまうのはとてもじゃないが耐えられるものじゃない。しかし、そのことは…………まだ…………。


「まぁ、俺なんかそもそも人と一緒にいられたことが少なかったし、いられたところで幸せだと感じたことなどあまり

なかったからな。今まで生きてきた中で俺も、今が一番幸せだ」

「……そっか……」

俺のいつも通りのセリフに、結衣もまたいつものように少しあきれるように笑って肩をすくめた。二人で想いを共有して

満足したのか、彼女はまた振り返って俺の隣に戻って前に進みだした。

548: 2013/09/15(日) 17:50:09.34 ID:a096b7Nq0
「あたしもまた…………お返ししないといけないね」

「何を?」

「今日のこと。さすがにハニトーとディスティニーランドじゃ、釣り合ってないでしょ」

「二か月以上も待たせてしまったんだから……これは利子みたいなものだと思ってくれればいい」

結衣は俺がそう言ってもまだ何か納得していないような表情でこちらに視線をやる。まぁ、仕方ないよな。彼女はまだ

知らないのだから。今日、俺が多少の無理をしてでもあそこに行った理由を。いや……待てよ?向こうからそう言って

くれているというのは…………もしかしたら、これは使えるのかもしれない。


「じゃあさ、ちょっとこれから…………俺のわがまま、というかお願いをひとつ……聴いてくれよ」

「お願い?」

小首をかしげる結衣。

「そうだ。それでチャラってことで……どうだ?」

「ヒッキーがそれでいいなら、あたしは別にいいけど…………」

……一応、これで言質は取れたな。まぁ、俺には最初から言うとおりにしてもらう以外のシナリオは考えていないのだが。

「で、そのお願いって?」

「ん……歩きながらというのもなんだし、ここで言うのもちょっとな……」

そう言って俺は両手に提げている袋を少し持ち上げる。すると彼女の歩みが止まり、ぽそっとこんなことをつぶやく。

549: 2013/09/15(日) 17:52:56.30 ID:a096b7Nq0
「じゃ、じゃあ…………うちで話す?」

「え?」

彼女を見ると頬を染めて少しうつむいていた。……さすがにそれはマズい、色々と。恥ずかしいだとか、もしも家族に

会ったらどうしようだとかそういう理由も挙げられるのだが、何よりもたぶんこのまま家に上がってしまったら俺の考え

ていることがうまくいかなくなる。それだけはなんとしても避けたかった。断る理由を適当に考えながら俺は口を開く。

「いや、たぶんすぐに終わるし…………別に立ち話じゃダメってわけでもない。だから……」

「す、座る場所があればいいってこと?」

「そんな感じかな……」


俺がそう答えると、彼女は「ふーん」と言ってまた先に歩き始めてしまった。これはついて来い、ということでいいの

だろうか?さっさと先に行ってしまいそうな感じの足取りだったので、仕方なく俺もその後に続いた。しばらくは俺も

結衣も黙ったまま道を進む。二人の歩く音以外は、たまに通る車の音か風の吹く音くらいのもので静かだった。しかし、

夏休みの花火大会の帰りの時と通っている道がまったく同じなのは気のせいだろうか?もうそろそろ彼女のマンションも

見えてくる頃だ。さすがに俺も気になってきたので、結衣に声をかけることにした。

550: 2013/09/15(日) 17:55:28.81 ID:a096b7Nq0

「あの……今向かっているのって……」

「あたしの家だけど?」

「いや……そういうことじゃなくてだな……」

「大丈夫。家の中には入らないからヒッキーが心配するようなことはないよ」

そう言って彼女はマンションの裏口の方へ進んでいく。敷地内にはもう入ってしまっているのですが……。通路を進んで

いくと、途中で左右の生け垣がなくなり小さい遊び場のようなところに出る。砂場の隣には滑り台とブランコが設置して

あった。そして、その遊び場の隅にはベンチがひとつだけぽつんと置いてある。近くに街灯があったのでその場所は周り

よりも明るくなっていた。その光に連れられるように、結衣はそちらに向かっていく。

「ここなら、座れるしちょうどいいと思って。……ダメだったかな」

「ダメじゃない…………ここで話そう」


二人ともベンチに辿りついたところで、手に提げていた袋をその上に置く。結衣は先に腰掛けて、手で横をぽんぽんと

叩いて俺にも座るように促した。立っている理由も特にないので、俺もそこに座ることにする。腰を落ち着けると、疲労

のせいかふぅ~っとため息が出てしまった。結衣は隣でそんな俺を見てふふっと笑う。

551: 2013/09/15(日) 17:58:00.49 ID:a096b7Nq0
「ヒッキーもさ……疲れてるなら、うちで休んでいってもいいんだよ?」

「それは断る。この時間にいったん落ち着いたらそれこそ本当に帰れなくなるし、好きな子の家に初めて入るんじゃ緊張

して休憩どころじゃなくなるわ」

「そ、そう……」

少し意地悪そうな顔をして誘ってきた彼女だったが、俺の返答にそれ以上は何も言わなくなってしまった。今さらこんな

セリフで照れられてもなぁ…………まぁ、可愛いからいいんだけど。俺はふと彼女の隣に置いてある袋を見てあることを

思い出す。

「ところでその袋の中身……友達へのお土産とかも入っているのか?」

「……そうだけど?なんで?」

「あ、いや……できればそのお土産を渡すのは……来週の火曜日以降にしてもらえないかな、と思ってさ」

「それは別にいいけど…………今のがさっきヒッキーが言ってたお願いってこと?」


あ。マズいな……確かにこれもお願いといえばお願いか……う~ん……後々色々とトラブルになるのは避けたいから、

思わず言ってしまったが……。結衣は俺の顔を見て何か理解したのか、こちらが答える前に口を開く。

「いいよ、それくらいのこと……さっきのお願いとは別でも」

「そうしてもらえると助かる……結衣」

「わかった……」

552: 2013/09/15(日) 18:03:00.78 ID:a096b7Nq0
お土産の話が済み、また二人の間には沈黙が流れる。俺はどうにも次の話を切り出せずにいた。俺が地面の方を見ている

と、不意に片方の手に生温かい感触が走る。いつの間にか手袋を外していた結衣の手が俺の手の上に覆いかぶさっていた。

そちらの方に頭を向けると、結衣はこちらに少し身を乗り出してきていて顔が触れそうになり、俺は思わず顎を少し引く。

結衣はそのままの体勢で、こちらをじっと見つめる。そして耳が溶けるかと思うくらいの甘い声でこうささやいた。


「ねぇ……これからは……ずっと……一緒、だよね?」


ああ…………ダメだ、俺は…………。やっぱりそのような質問には…………まだ、肯定の返事ができない。結衣の言った

言葉は、別に恋人同士なら普通に交わせる類のものだ。もしも俺がもっと平凡で、素直で、楽観的で、人と自分を信じる

ことができて、失うことを恐れず、表面上の人間関係を取り繕うことのできる人間だったのなら、いとも簡単に同じ答え

を彼女に返せていたのだろうに。そうできたのだとすれば、結衣も安心できるし喜んでくれたのだろう。だが、今の俺に

とってその言葉は嘘であり、欺瞞に他ならない。だから、ここでYESと言うのは俺の考える誠意ではない。しかし、これ

から先も同じようなことは訊かれ続けるのだろう、おそらくは。その誘惑に、自分は耐えられる自信がなかった。そして、

その瞬間から真実は失われ始める。お互いがお互いのためを思って嘘をつく。それが優しさであると勘違いをして。いつ

の日にかそれが日常となり、お互いの本当の気持ちがわからなくなっていることに気づきもしない。恋人というレッテル

に安住し、真に関係を続けるための努力をしなくなる。仮に途中で自覚することができたとしても、十中八九そんな関係

は破綻する。俺はそんな将来は絶対に見たくない。そんなことにならないように、俺は”今”をも捨てる覚悟をしたんだ。

554: 2013/09/15(日) 18:09:21.20 ID:a096b7Nq0
俺が黙ったままなのを見て結衣は心配そうな視線をこちらにやる。ワンクッション置くために他に言っておくべき言葉を

自分はとっさに考える。

「ヒ、ヒッキー?」

「あ、あのさ……俺……来週の月曜日から……また奉仕部に……行くつもりだ」

「あっ……う、うん……」

直接返事をしてもらえなかったことに結衣はガッカリしたのか、俺から視線を外してうつむき加減に前の方を見る。俺は

結衣に握られている方の手を持ち上げて、彼女から離した。彼女の手の横に自分の手を置き直し、俺はこちらを見るよう

に言った。結衣は顔をこちらに向けてくれたものの、その視線はさっき離れてしまった手の方にあった。一度、深呼吸を

して息を整えてから、俺はこう切り出す。

「由比ヶ浜。俺はお前に、ひとつ聴いてほしいお願いがある」

「え……や……やだ……」

由比ヶ浜は、俺の表情と呼び方で何かを察知したのか声を震わせながら、首を何度か振った。俺は彼女の制止を無視して

先の言葉の続きを言う。



「俺と、別れてほしい」



俺の彼女――いや、彼女だったその女の子――は、崩れ落ちた。

579: 2013/09/19(木) 21:56:18.61 ID:OKmaXPvV0
「やだ……そんなの……やだ……」

由比ヶ浜は俺の方にしなだれかかり、子供が駄々をこねるみたいな言い方でそんなことを口に出し続ける。彼女の顔が、

自分の胸に触れて俺の鼓動は速くなり、そのたびに突き刺すような痛みが胸に走る。それに耐えきれず、俺は彼女の肩を

掴んで少し体を引き戻させた。由比ヶ浜は口を半開きにしたままこちらをじっと見つめた。街灯に照らされているので、

彼女の顔はよく見えた。しかし俺が顔をしかめているせいなのか、彼女の目が潤んでいるせいなのか、由比ヶ浜の瞳に

映った俺の姿は酷く歪んでいたのだった。俺が黙ったままでいると、由比ヶ浜はまた声を震わせる。

「ねぇ……ヒッキー……嘘、だよね?こんな、こと……」

「……ジョークでこんなタチの悪いこと、言えるかよ」

「ジョークじゃない方が……タチ、悪いよ…………」


彼女は再び体を俺の胸に預け、嗚咽を漏らしだした。俺は自分のコートが湿るのを感じていた。今度は体を引き戻させる

ようなことはせず、由比ヶ浜が落ち着くまで俺はただ虚空を見上げるだけだった。

580: 2013/09/19(木) 21:59:08.05 ID:OKmaXPvV0
しばらく経っても由比ヶ浜の様子は変わりないので、俺は体勢はそのままでポケットから使っていない方のハンカチを

取り出して彼女の頬を流れる雫を撫でるように拭いた。すると、俺の胸に預けていた頭を彼女はいったん離した。

「これ…………使え」

俺がハンカチを由比ヶ浜の手に渡すと、彼女は何も言わずにこくんと頷いた。手に持ったそれで自分の目を隠すような

感じで涙を抑えると、彼女は途切れ途切れに言葉を紡ぎだす。

「わかんないよ……ヒッキー、が何……考えてるのか……あたし……」

「……今はそれでいい……わからなくても……」

俺の慰めとも諦めとも突き放しとも取れるような返答に、由比ヶ浜はハンカチを目から離して濡れたままの瞳でこちらを

じろっと見やる。怒りや悲しみ、困惑がごちゃごちゃに混ざった瞳だった。彼女が口を開くとき、またその目から雫が

流れ、頬をつたっていく。


「あたしは、ヒッキーのこと……わかりたいのに……」

「そうだな。由比ヶ浜はそういう人間だ。だが、知るにもタイミングってものがある。結局のところ、俺は人の気持ちを

わからずに、いやわかろうとせずにきて、意図しないところで知ってしまって失敗したといってもいい」

「…………どういうこと?」

また自分の悪い癖、わざと相手に伝わらないような言い方をして話を続けさせるという行為を俺は無意識にやってしまう。

ここは…………まぁ、具体的にいっても問題にはならないか。俺は慎重に言葉を選ぶためにゆっくりと話し出す。

581: 2013/09/19(木) 22:03:03.00 ID:OKmaXPvV0
「正直なところ、俺は奉仕部というぬるま湯にもう少しダラダラと浸かっていたかったのかもしれない。部員二人との

関係ももっと緩やかに進展させることもできたのかもしれない。でも、俺は意図せずその状況を自分で壊してしまった。

二人の気持ちを読み切れてなかった。そして自分で期限を決めてしまった。二人との関係をどうするかについて。だから、

進む以外の選択肢はなかった」

「それは…………ヒッキーが……その時は嘘だったけど……ゆきのんに告白した時のこと?」

俺は声を出さずにただ首を上下に動かして返事をする。話の内容に神経が向き始めたのか、彼女の目からもう涙は流れて

いなかった。


「そして俺は自分の気持ちに整理をつけ…………由比ヶ浜結衣に告白をした。でも、俺はこの先お前と普通に恋人として

うまくやっていけるとはとてもじゃないが思えない。たとえ由比ヶ浜が俺にずっと一緒にいようと言ってくれたとしても、

俺はその想いに応えられない。もしも俺がお前の言葉を信用したとしても、俺は何よりも自分のことを信用してないから

お前にずっと一緒にいようなどとはとてもじゃないが言えない。お前にそんな嘘はつけない」

思わぬところで自分の発言が引用されたのに驚いたのか、由比ヶ浜は一瞬ハッとした顔をした。そしてすぐにこちらから

目を逸らして下を向き、申し訳なさそうな顔に変わる。彼女のそんな表情が、また俺の胸を締め付ける。


「ごめんなさい……あたし、ヒッキーがそんなことを考えてるとは、おも、わなくて……」

582: 2013/09/19(木) 22:05:46.96 ID:OKmaXPvV0
再び潤んでいく由比ヶ浜の目を見て俺は居たたまれなくなり、思わず少し身を乗り出してしまう。

「お前は何も悪くない。別に恋人同士ならそんな言葉を交わしたくなるのは不思議でもなんでもない。悪いのは…………

そんなごく当たり前の言葉でさえ返せない俺の方だ……」

そんなことを口に出している間に、俺の頭は自然と下に下がっていってしまう。俺の言葉が途切れると、今度は由比ヶ浜

が頭を上げてこちらを向いてあきれ混じりにこう言う。

「それは…………わかった、から……だから……あたしが……勝手に言うだけにする。ヒッキーが同じ言葉を返してくれ

なくても、別にあたしはいい」

「いや、それじゃあ駄目だ」

「え?」

「俺はあくまで由比ヶ浜結衣とは対等な立場でいたい。それに…………一方的な関係はやはりいつか破綻する。俺は……

お前との関係を……そんな形で壊したくはない」

俺の言葉に対し由比ヶ浜は怪訝な顔になり、当然湧く筈の疑問を口にする。

「壊したくないって…………今、ヒッキーが……自分から壊そうとしてるんじゃん……」

「……そうだよ」

583: 2013/09/19(木) 22:10:15.23 ID:OKmaXPvV0
「だから…………どうしてそんなこと、するの?」

俺を上目遣いで見た後、彼女は両手をこちらの肩に置き、また自分の頭を俺の胸に預ける。俺は手を肩の方に持っていき

彼女の手首を掴んで元のポジションに戻させる。そして両肩を掴んでこちらに預けた頭も離させた。由比ヶ浜は俺の行動

に諦めたのか、少し俺から引いて体全体を正面に向き直した。俺も同じように正面に直り、二人とも前の地面を見つめる

ような体勢になったところで彼女の疑問に答えることにした。


「正直なところ……今の幸せは……俺の手に余る……余り過ぎる」

俺はそう言って、両手を前に出して水を掬うようなジェスチャーをした。両手で椀をつくりながら、俺は話を続ける。

「俺は今のこの幸せを絶対に逃したくはない。でも、この手からはどうしても零れてしまう。それはたぶん……自分の

意図とは関係ないところで、だ。そうなるのはとてもじゃないが耐えられない。だから、まだ自分が納得できるような

方法でそれを零すことにする。つまり――――」

俺は手でつくっていた椀の形を崩し、両手を広げて見せる。


「自分の意思で…………それを手放すことにする」


俺の出した答えに対し、由比ヶ浜はこちらとは反対側を向いてしまう。だから次の言葉を言った時の表情はうかがい知る

ことはできなかった。

「そんなの…………おかしいよ……」

小声でそうつぶやいた後、彼女はこちらに向き直って俺の手の上に両手をかぶせてきた。そして、何か決意をしたような

表情で俺の目をじっと見つめる。

584: 2013/09/19(木) 22:12:50.24 ID:OKmaXPvV0

「……わかった。あたし、もうヒッキーにこれ以上期待したり何かしてほしいとか思わないから…………だから…………

別れよう、だなんて言わないでよ…………。あたし、ヒッキーと恋人でいられるなら何でも……するから……」

彼女がいったん見上げた顔は、言葉を発するたびにどんどん下の方に向いてしまう。俺は彼女の肩に手を置き、首を横に

振ってこう答える。

「俺はお前にそういうことを言ってほしくはないし、してほしいとも思わない。俺と一緒にいるために無理をするな。

それに、そのために自分を曲げたりするな」

俺の言葉に、由比ヶ浜は頭を半分だけすっと上げて肩に置かれた俺の手を振り払い、こちらを睨むような視線を送った。

そして、少し語気を強めてこう言う。

「曲げるのが……あたしだもん。あたしは…………一緒にいたい人のためなら、多少の無理もする。ヒッキーも…………

あたしがそういう性格だっていうこと、知ってるよね?ヒッキーは知ってると思ったから…………だからこそ、ヒッキー

があたしのこと好きって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだよ。今日の告白は……」


これ以上彼女に話を続けさせないために、俺は途中でそれを遮る。

「もちろん、知っている。知った上で、由比ヶ浜のことを…………好きだと言った」

「じゃあ、どうして……」


585: 2013/09/19(木) 22:16:25.67 ID:OKmaXPvV0
「逆にお前に尋ねる。俺のことを好きだと言ったのは、どういう意味だ?残念だが、俺は”こういう人間”なんだ。だから、

俺がさっき下した判断をお前があくまで拒否するなら、俺は由比ヶ浜の告白を嘘だと解釈するか俺に対する認識不足だと

思うだけだ」

「そんな………」

由比ヶ浜は目を逸らし、拳を胸の前で軽く握って次に言う言葉を考えているような仕草をする。俺は今伝えるべきことを

さっさと全部言ってしまおうと思い、彼女が口を開く前に話を続ける。

「由比ヶ浜。お前は俺と恋人になれさえすれば、それで満足だったのか?そういう関係になって、たとえ嘘や欺瞞だらけ

になったとしても……いくらすれ違っても……俺に対して”恋人”というレッテルを貼れるのなら、それでいいのか?」

「そんなの……いい、なんて思わないけど……」

最初から肯定の返事をさせない疑問を突き付けるあたり俺もだいぶ卑怯だとは思うが、こうでもしないと現時点での自分

の主張は通しきれない。今ここで折れるわけにはいかないんだ。


「単に恋人というレッテルを貼れる相手が欲しいのなら、別にそれは俺でなくてもいい。お前はモテるからな。俺は……

嘘や欺瞞ではなく本当の意味で互いの存在を認めあえて、心を通わせられる…………そういう相手が欲しい。俺にとって

由比ヶ浜結衣は…………それができる相手だと信じたい」


586: 2013/09/19(木) 22:20:02.95 ID:OKmaXPvV0

「心を通わせるって…………でも、ヒッキーは……言ってくれないじゃん……何を考えてるのか。ヒッキーは……あたし

のこと……信じてくれないの?」

「…………」

もちろん俺は、由比ヶ浜のことを信じている。むしろ、信じているからこそこんなことができてしまう。全く人を信じる

にしたってこんなやり方しか思いつかないのか?俺は…………。つくづく自分の捻くれっぷりに嫌気がさす。ただ、それ

ももうおしまいにする。

「俺の考えは…………俺は由比ヶ浜と恋人かどうかということに関わらず、俺はお前との関係をこれから先もずっと続け

たいと思っている。それができるように、現時点での自分なりの答えは出したつもりだ。それを、来週の月曜日の放課後

に話す。その答えについてお前が納得してくれるのかどうか、期待に添えるものなのかどうかは正直なところわからない。

ただ、それ以上お前を待たせるようなことはもうない。だから…………」


そこまで言いかけて、俺は言葉につまった。途中で沈黙したのを見て、由比ヶ浜は小首をかしげてこちらに視線をやる。

あんなことがあった直後なのに、彼女の顔は街灯に照らされて何故かとても綺麗な気がしてしまった。それを見て、俺の

心の中のもやもやがストンストンと言語化されていくのを感じる。

587: 2013/09/19(木) 22:23:40.56 ID:OKmaXPvV0
そうなんだよ…………ずっと日陰者だった俺にとって由比ヶ浜結衣という存在は眩しくてとても直視できるものじゃない。

まともに見たら、それこそ目が焼けてしまう。まったく、恋は盲目とはよく言ったものだ。このまま感情のおもむくまま

に、恋に溺れてしまうというのも一つの手ではあるのだろう。でも、俺は自分自身を見失いたくない。だから向こうの側

から近づいてこられても、俺はそちらの方を見ることができない。でも、それでも近づきたいと思った。そうするには、

たぶん後ろ向きに手さぐりに進むしかない。傍から見れば、後退しているように受け止められても仕方ない。いや、傍

だけならまだしも当の由比ヶ浜にもそう思われる可能性もある。だが、これが俺のやり方だ。どうか言葉を尽くして理解

してもらえるように努めることとしよう。だから今は、どうか今だけは――――。



俺は正面に向き直っておもむろに立ち上がり、自分の分の袋を手に持った。そして、由比ヶ浜に背中を向けて、






「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」

620: 2013/09/24(火) 23:09:48.77 ID:dKbYp/nq0
パシッ


俺の視界のすぐ下で、乾いた音が響いた。頬を叩かれた勢いで、俺の顔は正面から逸らされてしまう。正面?俺が頬を手

で押さえながら、向き直るとそこには目に涙を浮かべた雪ノ下雪乃の姿があった。彼女は怒りと悲しみの混じった表情で

俺を睨む。…………ああ、そうか。もう俺の行為が雪ノ下にも伝わったのか。俺が部室の後ろの方を見やるとうつむいた

まま椅子に座っている由比ヶ浜がいる。……結局、彼女にあの言葉を告げて別れてからどうやって自分が過ごしていた

のかよく覚えていない。俺がぼんやりしたままでいると、雪ノ下は歪んだままの口を開いてゆっくりと言葉を紡ぎだす。

「約束と…………違うじゃない。あなた、言ったわよね?由比ヶ浜さんとのこと……決着をつけるって。彼女の想いに

……応えるって。それなのに、どうして、こんな…………」

「いや、それは…………だから……そのことで、これから話が……」

「話?あなた、まだ由比ヶ浜さんを傷つけるつもりなの?もし、そうなら……」


そうじゃない、と言いかけて俺は口をつぐむ。今の言葉を否定しようとしても、それはただの言い訳にしかならないから。

俺が由比ヶ浜結衣を傷つけたのは、紛れもない事実だ。今さらそれをどうこう言っても仕方ない。それについては俺は

ただ謝るほかない。俺は由比ヶ浜の方を向き、頭を下げる。

「すまない…………由比ヶ浜……」


621: 2013/09/24(火) 23:12:32.98 ID:dKbYp/nq0
「い、いいよ……あたしは、……別に……」

彼女は少し顔を上げて、手を横に振った。声が震えているのが、全然よくないことを明白に表していた。言葉に詰まると、

由比ヶ浜は俺から顔を逸らす。その動きで、端的に俺を拒否しているのがすぐに理解できた。だから、今までそうして

きたのと同じように俺は後ろに振り返る。……何も、無理に理解してもらう必要はない。俺の考えは、俺ただ一人がわか

っていればそれで充分なのだから。とうの昔に俺は、彼女らに甘えすぎた。彼女らに期待しすぎた。……一般的な常識に

照らし合わせて考えれば、俺のやっていることが最低なことは明らかなのだから。拒まれても致し方ない。それに……

誤解が解けないのは何より俺が一番よくわかっていたことじゃないか。もう、いい。別に…………。俺が黙ったままで

いると、後ろからまた声がかかった。


「…………比企谷くん?」

「ん…………今まで、悪かったな。色々と迷惑をかけて……色々と傷つけて……。安心しろ、雪ノ下も……由比ヶ浜も。

これからは、もうそんなことは起きないだろうから。俺は…………もうここには来ない」

「え?…………そ、それじゃあ私との勝負の件は……」

彼女らが期待したであろう俺の返答に、何故か雪ノ下は困惑ぎみの声で俺に尋ねてくる。

「そんなの……俺の負けでいいだろ。平塚先生によれば、途中棄権もできるらしいから」

「で、でも…………平塚先生が、あなたが奉仕部を抜けることを容認するとは……」

622: 2013/09/24(火) 23:15:02.21 ID:dKbYp/nq0
雪ノ下は俺のほうに一歩近づいたのか、彼女の声が少し大きく聞こえるようになった。……何故、そこであたかも引き

留めるようなことを言うんだ。こっちは未練が残らないようにさっさと済ませたいのに。

「もう今は強制ってわけでもないらしいからな。……お前が先生に言ってくれたとはいえ、俺が部活をしばらく休んで

いたのも認めていたわけだし」

「あの……私は……あなたに……」

「ああ、何でもひとつ命令できるっていう奴……あれは平塚先生経由で伝えといてくれ。じゃあな」

俺は彼女の言葉を遮り、扉の方に向かって歩き出す。後ろでガタッと椅子の動く音が聞こえる。

「……ヒッキー……」

由比ヶ浜が、子犬が飼い主を引き留めるような声を出すが俺はそれを無視して進み、部室の扉を開ける。


「今までありがとうな……雪ノ下……由比ヶ浜……」

「比企谷くん!」

「ヒッキー!」

623: 2013/09/24(火) 23:19:11.06 ID:dKbYp/nq0
語気の強くなった二人の声を後ろに反響させながら、俺は部室を出て後ろ手で扉を閉めた。廊下を進んで階段の方に歩い

ていく。…………まぁ、仕方ないさ。しょせん俺みたいな人間がまともな人間関係を構築しようとしたのが間違いだった

んだ。だって俺自身がまともでないのだから。俺が、俺自身の理屈だけで納得していたって相手もそう思ってくれなけ

れば、相手も理解してくれなければ何の意味もない。それに、俺も相手に絶対に理解してもらおうとまでは思わなかった。

だから…………仕方ない。仕方のないことなのに……何故俺の視界は歪んでいるんだ…………何故こんなに足が思うよう

に進んでいかないんだ…………。俺は顔を少し上げ、足を引きずるようにして無理やり階段まで自身を辿りつかせた。

あとは……ここを下りればいいだけだ。この時、ますます歪んでいく視界に俺はまだ気づいていなかった。


一瞬、体が浮遊するような感覚に飲み込まれる。


次に襲ってきたのは激しい頭の痛みだった。


何故か俺の前の視界には階段の踊り場の床が広がっている。

…………はて?俺はさっきまで階段を下りていて…………足を動かそうとするが何故かぴくりともしない。というより、

何で床が垂直になってるんだ?俺が痛みから小さく呻くと、視界に見慣れた顔が二つ、見える。雪ノ下と、由比ヶ浜。

ああいうのを、顔面蒼白と言うのだろうな。そんな暢気なことを頭に思い浮かべていると、二人は何かを口にしている。

しかし、その内容がよくわからない。俺の視界が暗くなるにつれてその声が大きくなるような気がしたが、俺は自分の目

を開けていることができず、次第に意識が遠のいていった。

624: 2013/09/24(火) 23:23:09.12 ID:dKbYp/nq0

…………名前を呼ばれている?


…………体を揺すられている?


再び自分の意識がハッキリしてくると、俺はその声の主を判別できるようになった。それは、由比ヶ浜と雪ノ下のどちら

でもなかった。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!起きて!」

「…………小町、か」

「ねぇ…………大丈夫?さっきから何かうなされてたみたいだけど。あと、これ……」

そう言って心配そうにこちらを覗き込んできて、何故か小町はティッシュを手に持って俺の頬を拭いた。

「…………な、何だ?」

「何だって……だってお兄ちゃん……泣いてるから……」

「え?」

目が覚めた直後で自覚はなかったが、自分の手で頬を撫でつけると確かに何やら濡れていたのだった。小町が持っている

ティッシュを自分の手に取り、俺はその雫を全て拭き取ってしまう。正直なところ、まだ頭はぼんやりしていたが俺は今

無理やり起こしに来た妹に言うべきことがあるのを思い出す。俺は寝た体勢のまま、頬とは逆に乾ききった口を開く。


625: 2013/09/24(火) 23:28:36.44 ID:dKbYp/nq0
「ところで…………今日は……たぶん疲れてるから起こさなくていいって言った筈なんだが……昨日……」

俺はじろっと小町を見ると、片手を空手チョップみたいな格好にして顔の前に出して申し訳なさそうな表情をした。

「小町もそうしたかったのはやまやまなんですがね…………ちょっと今家にお兄ちゃんに会いに人が来てしまっていて

……玄関で待たせたままになってるんですよ」

「ハァ!?」


いやいやいやいや、何故そんなことになっている。そもそも今日、つまり日曜日は色々な意味で疲れていることが事前に

わかりきっていたのでどこかに出かける予定も誰かと会う予定もなかった。それが、何故…………。しかも、小町がわざ

わざ起こしに来たということは、居留守を使うにはマズい相手ということになる。そんな人間は今の俺には二人しか思い

浮かばなかったのだが、しかしどうしてなのか俺はすぐにその相手が誰か確かめようとはしなかった。とりあえず、俺は

その来訪者に伝言を頼むことにする。


「あ~…………事情はえ~と……わかったから……その……来た人にあと五分か十分か待っててもらうように伝えて

もらえないか?着替えたりするから……」

「ラジャー!」

小町は元気よくそう答えて左手でビシッと敬礼をしてから、振り返ってパタパタとスリッパの音をさせながら俺の部屋

から出ていった。…………俺は氏人じゃないぞ。さっき夢の中で氏にかけたかもしれないけど。

626: 2013/09/24(火) 23:31:00.96 ID:dKbYp/nq0
どうにもさっき見た夢の内容が頭から離れずに憂鬱な気分のまま、俺は顔を洗ったり着替えたりして件の来訪者に会う

準備をした。正夢にならないように手すりに掴まりながら、階段を慎重に降りていくとそこには意外な人物の姿があった。

俺の姿を見るにつけ、その人は玄関に腰かけたまま笑顔で片手を上げてこう挨拶をする。


「やっはろー」

「お……おはようございます……」


俺も軽く会釈をして挨拶をする。それにしても、何故この人が…………。

今の俺が会いたくない人間ランキングをつけたとしたら、まずこの人がダントツで一位だろう。それは、雪ノ下雪乃でも

由比ヶ浜結衣でもない。



そこにいたのは雪ノ下陽乃だった――――。

643: 2013/09/28(土) 23:44:33.74 ID:ZIkVuWD80
どうしてこうなった…………。


数十分後、自宅の最寄り駅にあるカフェのカウンター席に俺と雪ノ下陽乃は隣同士に座り、二人してコーヒーをすすって

いたのだった。わけがわからないよ。よりにもよってこのタイミング…………。偶然なのだとしても謀ったのだとしても

こんなことってできるのか?今ここでこの人間に向かって話をするのは色々とマズいことになりそうだ。彼女が何を企ん

でいるのか、そして何を知っているのかはサッパリわからないが、向こうに主導権を握られる前にとりあえず今回のやり

方について文句を言っておくことにする。


「アポもなしに突然家に来るのは…………どうなんですかね」

「あれ~?私、一応妹ちゃんには先に連絡しておいたんだけどな」

「そ、そうなんですか……」

おい、小町!…………何故そんな重要なことを俺に伝えていないんだ!どうでもいいことはいつもペラペラ喋るくせして

…………いや、待て。よく考えると”先に”とは言ったが、いつ連絡したのかは言及していない。もしかすると、あまり間

がなくて話すタイミングを逸してしまったのかもしれない。受験生だし、時期的にもアレだし…………。ほんと俺って妹

に“は”甘いな。MAXコーヒーばりに甘い。甘くすりゃ本人のためになるかといえば、そういうことでもないのに。いや、

もっと単純に自分に甘くしてほしいからそうしているだけなのかもしれない。…………そう考えると、俺が彼女にああ

いう形で甘えるのももう終わりということになるのかしら。

644: 2013/09/28(土) 23:46:50.34 ID:ZIkVuWD80
ともあれ、今そんなことを考えてもしょうがない。もう現に本人に会ってしまったのだから。余計なことを話さないよう

に神経を集中させた方がいい。あまり頭も働いている状態ではないのだし…………。俺が黙りこむと、陽乃さんが意地悪

そうな笑みを浮かべて少し顔をこちらに寄せて口を開いた。

「それに、呼び出すだけだと君のことだから来てくれないかもしれないと思ってね」

「ははは…………そんなこと、しませんよ」

俺の口から乾いた笑いが出て、またもや心にもないことを言ってしまった。相手が相手だから、嘘をついたところですぐ

にバレてしまってあまり意味はないのに。むしろ、バレるとわかっているからこんなことを言ってしまえるのだろうか?

「ふ~ん…………まぁ、別にいいんだけどね。もうこうして会えたから」

顔を逸らす俺に対し、彼女は微笑みながらすべてを見透かすような目でこちらを見つめてくる。その視線に耐えきれず、

俺はまた口を開いてしまう。

「ところで…………何の用ですか?俺に。少し疲れているんで……できれば手短にお願いしたいところなんですが」

「それは、比企谷くん次第だよ」

「はぁ……」


…………この展開はなんか身に覚えがあるぞ。ああ、葉山に屋上に呼び出されて尋問された時か。あの時は、自分が認め

たくないものを無理やり認めさせられて、退路を断たれて釘を刺されたのだった。そう考えてみると、心配するような

ことはもうあまりないのかもしれないな。どのみち既に認めてしまって、とうの昔に退路はなくなっていて、刺される

ような釘もないのだから。

645: 2013/09/28(土) 23:48:56.63 ID:ZIkVuWD80
「手短にって言われたから、単刀直入に訊くけど…………比企谷くん、雪乃ちゃんのこと振ったっていうのは本当?」


最初からあまりに核心に迫られたので手許が狂いそうになり、持っていたカップのコーヒーに波が立つ。中身が零れない

ようにしてどうにかソーサーに置き直すと、俺は直接返答せずにこちらも質問を返す。

「…………何故あなたがそんなことを?」

なるべくこちらが話さなくて済むように、わざと曖昧な訊き方をする。これなら「何故そんなことを知っているのか?」

とも「何故そんなことを尋ねるのか?」ともどっちにも解釈できる。ちなみに、俺は最初の質問に対して本当とも嘘とも

答えていない。陽乃さんが俺のはぐらかしに気づかない筈もなく、少し声音が冷たくなって彼女はこう答える。

「ん~…………雪乃ちゃんにきいたから」

「……雪ノ下があなたにそんなことを言うとはとても思えないんですが」

「まぁ、普段の雪乃ちゃんならそうかもしれないけど…………今はひとつ、貸しがあるからね。私に対しては」

「それで…………ああ……」

646: 2013/09/28(土) 23:51:59.09 ID:ZIkVuWD80

まさか文化祭の時の雪ノ下姉妹のあのやり取りを、こんなところで思い出すことになるとは…………。文化祭実行委員長

の相模を捜す時間を稼ぐために、雪ノ下がバンドの手伝いを姉にお願い――いや、命令――した。この私に一つ貸しを作

れるというメリットがあると言って。…………陽乃さんからしてみれば、そのメリットは十二分にあったのだろうな。

しかし、そのことに関して俺まで巻き込まれるなんて。まぁそういう事情なら十中八九雪ノ下本人が話したとみて間違い

はないのだろう。この人間が、どんな手練手管を用いて雪ノ下の口を割らせたのかも気になるところではあるが、もう

起こってしまったことをどうこう言っても意味がない。ただ、何をどういう風に話したのかまでは俺にはわからない。

陽乃さんは本当のことをわかっていてわざとこんな質問をしたのかもしれない。まぁ、いずれにせよここで嘘をつくこと

もないだろう。どうせバレるのだし。


「俺は…………雪ノ下雪乃を振った覚えは……ないんですがね。むしろ振られているのは自分の方ですよ」

「そうなの?でも、おかしいな…………比企谷くんは由比ヶ浜ちゃんと付き合うんでしょ?」

別に今さらこの人にそれを知られたところで何か不都合があるわけではないが、どこからボールが飛んでくるのか相変わ

らず想像ができないので、仕草でものを言わないために俺はソーサーに置いていたカップから手を離す。それから、一度

すっと息を吸ってから質問に答える。

「もう…………別れましたけどね」

「えっ」

「……」

647: 2013/09/28(土) 23:54:23.95 ID:ZIkVuWD80
さすがに俺の返答が意外だったのか、陽乃さんは計算ではない素のリアクションをした。彼女は俺の言ったことを反芻

するためか、しばらく沈黙する。周囲の空気が止まり、冷気が襲ってくるような気がして俺はもう一度カップを手に取り

コーヒーを一口飲む。ソーサーに置き直したところで、陽乃さんは怪訝な目でこっちを見てこう尋ねる。

「比企谷くんは…………雪乃ちゃんも由比ヶ浜ちゃんも……どちらも選ばないつもりなの?」

「選ぶとか選ばないとか…………そもそも俺に、そんな贅沢を言う権利はありませんよ」

「そう?でも仮にどちらも選ばないとして…………例えば、私が比企谷くんと付き合ってほしいって言ったら……あなた

はOKするの?」

「それは、…………というか、冗談でそういうこと言われても困ります」

またしても想定外の質問に俺が答えをはぐらかすと、陽乃さんは深海のように吸いこまれそうな瞳でこちらを見つめる。

その目に溺れてしまう前に、俺が顔を逸らすと彼女は少し哀しげな微笑を浮かべて口を開く。


「半分くらいは…………本気だったんだけどな」

「それは本気とは言わないのでは…………」

「うわ~ん、比気谷くんの意地悪~」

一瞬しおらしくなったのかと思いきや、今度はまたニッコリと笑って俺の肩をポカポカと叩き始めた。彼女の普段通りの

計算づくの行動に、何故かほっとしている自分がそこにいた。…………さっきのアレを本気とか言われても困るしね。

しばらく叩いて満足したのか、彼女は拳を俺の体から離して正面に向き直り、目を合わさずに質問をし直した。

648: 2013/09/28(土) 23:56:45.85 ID:ZIkVuWD80
「それで……もしもの話として…………OKするの?選ぶ権利のない比企谷くんは」

「…………しませんよ。それに選ぶ権利がないといっても、拒否する権利がないとは言ってませんし」

「……なるほどね」

俺の相変わらずの屁理屈に、陽乃さんは安堵ともあきれともとれるような笑みをふっとこぼす。そして、再びこちらの顔

を見て小首を傾げ、目をすっと細めて彼女はこう尋ねる。

「それは…………雪乃ちゃんのことも?」

「……いいえ。あなたが雪ノ下と……何を話したのかは知りませんが…………そもそも俺と彼女はそんなことにはなって

いませんよ。というか当人同士ではほぼ既に解決を見ているんです。あなたが心配するようなことはないと思いますよ」

「そう…………雪乃ちゃんに関しては……そうなのかもね。じゃあ、…………比企谷くんは?」

「はい?」


またしてもなんだかよくわからないところからボールが飛んできて俺は当惑する。彼女が――といっても真意を理解して

いるわけでもないが――彼女なりに妹である雪ノ下雪乃のことを気にかけているのはなんとなくわかる。そして、俺が

心配する必要はないと言ったら一応納得した。それで、「じゃあ」って…………それではまるで陽乃さんが俺のことを気に

かけているみたいじゃないか。どういうことなんだ?

649: 2013/09/29(日) 00:00:09.56 ID:dlzKvi+G0
「いや、ね?例えば……もう別れちゃったとは言ってたけど……下手に由比ヶ浜ちゃんなんかと付き合って、比企谷くん

が普通になっちゃったら面白くないなぁ、と思って」

「面白くないって…………俺は陽乃さんのおもちゃじゃないんですが」


…………やっぱりヤバいな、この人。今の発言でさりげなく由比ヶ浜のことを牽制し、俺に対しては変化することへの

疑義を呈してきやがった。俺の答えに対し、何がおかしいのかわからないが彼女はケラケラと笑っている。なんか不愉快

だなぁ。でも、なんだろうか…………俺の一連の行動の理由が…………自分でも何故そうしたのかわかっていなかった面

があるような気がするのもまた事実だ。もう少しで腑に落ちそうな説明ができそうなのに……。俺は頬杖をついて思案

しようとしたが、その時彼女は再び話し始めた。

「ま、別に比企谷くんは今のままでもいいとは思うけどね」

「陽乃さんにそういうことを言われると、むしろ変わりたくなってしまいますね。天の邪鬼なもので。あなたの望み通り

になるのもなんか癪な気がしますし」


俺がそう答えると、彼女は少し目を見開いて嬉しそうな顔をする。あっ……これはまたマズいことを言ってしまったか。

「本当?私、実際のところは比企谷くんには変わってほしいと思ってたんだ。それで雪乃ちゃんのことを守ってくれたら

いいなあ、なんて…………」

「さっきと言ってることが真逆じゃないですか……」

650: 2013/09/29(日) 00:03:44.15 ID:dlzKvi+G0
ああ…………俺は彼女が本心でないことを平気で口にできるような人間であることを失念していた。しかし、さっきと逆

のことを言っている筈なのに何故かその時の口調や表情はまったく変わることがなかった。ということは、どちらも嘘?

もしくは――――?

「ま、人間誰しも真逆のことを同時に考えてはいるんじゃない?そうでなかったら、悩む必要なんてないのだし」

「それは、……そうですね…………」

それはまったくその通りだ。最初からどちらかに結論が決まっているのなら、悩んだり迷ったりすることなんてない。

俺自身も散々それでどうするのか決めかねて…………。

「それで…………比企谷くんは変わるつもりがあるのかな?それとも――――」

――――それに対する俺の答えはもう決まっている。しかし、それは単純にYESともNOともいえないようなものだ。

今ここでその具体的な方法を陽乃さんに言うわけにもいかない。ただし、スタンス的なものなら伝えられるだろう。彼女

にそれを理解してもらうのに、うってつけの例もたった今思いついたことだし。


「人間、そうそう簡単には変わりませんよ。それこそ、”あなたの妹さんのように”」


「ああ……そういう…………わかった。今はそれ以上は訊かないよ、私も」

「……そう言っていただけると、助かります」

どうにか追及から逃れることができたようで、俺は安堵の吐息を漏らす。それを見て陽乃さんはふふっと笑う。いつもは

その笑みに裏があるように感じるのに、今だけは何故かそれがないもののように思えてしまった。

651: 2013/09/29(日) 00:05:53.57 ID:dlzKvi+G0
「まぁ、比企谷くんには比企谷くんなりの考えがあるだろうしね。もし、それで守ることができるのなら……雪乃ちゃん

を守ってあげて」

「いや、俺は雪ノ下を守るとは一言も…………」

「それとも何?もしかしてあれかな?守るべき対象ができるのが怖い、とか?」


――――ああ、そうか。そういうことか。俺の今考えている方法は、そういう意味もあったのか。確かに、さっき自分で

言ったように人間そう簡単に変われるものではない。そんな状況の中でどうにか捻り出した現時点での俺の答え。自分の

頭で考えたものにも関わらず、そのアイディアを採用する理由が自分でもまだ完全に明確になっていなかった。このまま

だと、中途半端な説明を彼女にすることになっていたのかもしれない。でも、もう今の陽乃さんの言葉でハッキリした。

俺のやり方では彼女らの”あるもの”は絶対に守ることができない。だから、今のところはこんな方法しか思いつかない。

だが、先に限界を示しておくのは重要なことだ。際限のないものは苦しみの元になる。それこそ、昨日の――――。


「そうですね。正直なところ…………怖いです。でも、俺はその感情を隠そうとは思いませんよ。誤魔化してもいずれは

露呈してしまうものなので」

「そう…………本当に強いなぁ、比企谷くんは」

何故か感心した声を出されてしまった。彼女の真意が掴めず、俺は首をひねる。


652: 2013/09/29(日) 00:08:50.55 ID:dlzKvi+G0
「一体俺のどこが強いんですかね?むしろ弱いところ見せまくってるような気がするんですが」

「だから、そういうところだよ。本当に強くなければ、人に弱いところは見せられない。私には無理だもん、そういうの」

「あなたのような人に弱いところなんてあるんですか?」

よくよく考えると失礼な質問だが、俺が思わず発した問いに陽乃さんはハハッと笑ってからこう答える。どこぞの鼠かよ。

「も~……比企谷くん、私を何だと思ってるの?私も人間だよ?弱いところくらいあるよ~」

「全然そんな風には見えないんですが…………」

「ま、ここで何か具体的に言ったところで信じてもらえないだろうからそれは言わないけど…………でも、人に弱みを

見せられないということそのものがある意味弱点とは言えるんじゃないかな?」

「ああ、なるほど。そういうことならわかります」


ベクトルは違うといえど、やはりこの人は雪ノ下雪乃の姉なんだと実感するような回答だった。俺は”あの日”の雪ノ下と

の会話を思い出す。しかし、その理屈でも俺はやっぱり…………。

「そういう意味だとしても、俺も…………強くないですよ。結局のところ、見せる部分を選んでいるのは自分なわけで」

「でも、それも限界にきた…………みたいな?」

「そんな感じですかね……」

653: 2013/09/29(日) 00:11:23.56 ID:dlzKvi+G0
俺が今の偽らざる気持ちをつぶやくと、陽乃さんは頬杖をついてふっとため息をつく。その時の彼女は、珍しく何か憂い

を帯びているような感じがした。表情を変えずに、陽乃さんはこちらに顔を向ける。

「あ~あ…………私、雪乃ちゃんにちょっと嫉妬しちゃうかも」

「……はい?」

「ほら、なんというか……いつの間にか追い越されちゃったみたいでね。私もほとんど友達のいない身だからさ~」

「またまたご冗談を」

こんなリア充の権化みたいな人が友達がいないだって?それは何か、俺や雪ノ下に対する嫌味か。俺が怪訝な顔になると、

逆にこちらに向かって彼女の自嘲の視線が降り注がれる。


「本音を明かせないような人間に、友達なんてできるわけないよ」

「それは……今言った内容も、嘘ってことですか?」

「あれ?君がわざわざそんなことを言うとは…………もしかして比企谷くん、私と友達にでもなりたいのかな?」

「い、いえ……さすがにそれはちょっと……」

「あら、それは残念。また振られちゃったか」

654: 2013/09/29(日) 00:14:57.19 ID:dlzKvi+G0
陽乃さんはそう言ってから「あ~あ」とため息をついて両手で頬杖をついた。その後は、彼女は特に何か話すということ

はなく、しばらく沈黙が続く。陽乃さんはいったん片手を顔から離して、カップを手に取りゆっくりと液面を回転させて

いた。その様子がなんだかワインのテイスティングみたいに見えたのと、”また”という言葉が喉に引っかかったような気

がして俺は柄にもないことを口にしてしまう。

「えっと、なんというか……まあ……アレですよ。ワインをつくる時のように、熟成に時間を要する人間関係もあるって

ことですよ」

「何それ?もしかして、私を慰めてるつもりなの?」

「いえ、というよりは…………俺の遭った状況を喩えたものと考えてもらった方が正確かな、と」

「あら、そう。じゃあ…………雪乃ちゃんと比企谷くんのワインは?もうできそう?」

じゃあ、氏になさい。とか言われなくて俺は胸をほっとなでおろした。しかし、今の質問に答えるには肯定か否定かと

いうことに関わらず、必要不可欠な別の要素について言及しておかねばならない。


「それは……俺にもまだわかりません。それに、これは二人だけの問題ではないんで。俺と由比ヶ浜の問題が解決しない

限り、俺と雪ノ下とのことも構造的に決着しないんですよ」

俺の返答が意外だったのか、陽乃さんは目を丸くしてこう訊き返してくる。

「え?でも、もう由比ヶ浜ちゃんとは別れたって…………」

「……」

「ふ~ん……そう。でも…………ま、いいか」

655: 2013/09/29(日) 00:19:49.84 ID:dlzKvi+G0
何がいいのかはよくわからないが、今はこれ以上尋ねても無駄と判断したのか陽乃さんはそれ以降は何も話さず、カップ

に残っていたコーヒーを飲み始めた。それにつられるようにして、俺も自分の残りの分を飲み干してしまう。二人とも

カップが空になってしばらくは、そのまま静かな時間が流れた。カウンターの上の壁に掛けてある時計の針がカチッと

動いて正午を指すと、それにタイミングを合わせるかのようにして彼女はおもむろに伝票を持って立ち上がる。


「比企谷くんは比企谷くんで色々考えているみたいだし、今日はこの辺にしといてあげる」

「”今日は”って…………まだ会う予定でもあるんですか?」

「あれ?前に言わなかったっけ?比企谷くんが雪乃ちゃんの彼氏になったら三人でお茶しようって。私、期待してるよ」

陽乃さんはそんなことを言ってニコニコしながら、俺の方を見下ろしてくる。その視線が嫌だったのか、自分も椅子を

引いて席から離れた。

「そんな期待、しなくていいですよ……」

「別に私が勝手に期待してるだけだから、いいんじゃない?それを裏切るのもあなたの自由だし、あなたはそもそも私に

どう思われるのかなんて気にしていないのだし」

その物言いは彼女本人のことというよりは、暗に別の誰かがしている期待について同時に言及しているようだった。陽乃

さんの真意を俺がはかりかねていると、彼女はそのまま言葉を続ける。

656: 2013/09/29(日) 00:22:58.23 ID:dlzKvi+G0
「どのみち、比企谷くんが気にすることじゃないと思うな。それに、もともと期待を裏切ったら切れる程度の関係なら、

あなたは欲しいとは思わないでしょう?」

「それは、……まあ……」

「なら問題なし!今日は私がいきなり押しかける形になっちゃったし、ごちそうしてあげるよ」

陽乃さんは伝票をヒラヒラさせながら、俺が口を開く前に方向転換してレジの方へ歩き始める。ちょ、ちょっと待った!

この人間に貸しをつくらせるとロクなことにならないぞ。それこそ、雪ノ下雪乃のように。俺は思わず手を前に伸ばして

彼女を呼び止めようとする。

「い、いえ……結構です。自分の分は自分で払いますので」

俺がそう声をかけると陽乃さんは振り返り、人差し指を顎に当てて何か思案する様子を見せる。

「う~ん…………じゃあ、こうしようか。さっき言ったでしょ?比企谷くんが雪乃ちゃんの彼氏になったら三人でお茶

しようって。もしその時が来たら、今度は君がごちそうする」

「い、いや……だから…………そんなことは当分の間はあり得ないですって」

「あら、意外。絶対とはいわないんだ」

「未来のことなんてわからないですし…………あなたの前で絶対、なんて怖くて言えないですよ」


657: 2013/09/29(日) 00:25:24.60 ID:dlzKvi+G0
そんな答えを返すと、陽乃さんはまたお腹を抱えてケラケラと笑う。……周囲の視線が集まってくるのでやめてほしい。

ひとしきり笑ったところで満足したのか、一度片目をこすってからこちらを真っ直ぐに見据えてくる。

「まぁ、先のことなんてわからないよね。だから、”その時”が来るまではあなたは奢る心配をする必要はないし、”その時”

が来ないなら来ないでやっぱり奢る必要はない」

「……意外ですね。さっきはいつか来るみたいな言い方だったのに」

「いや、私としては来てほしいんだけどね。でも、比企谷くんも雪乃ちゃんもある意味自立しちゃってるから……」

「俺はまだ学生ですし、思いっきり親の脛かじってるんですが」

「そういう意味じゃなくて、精神的にってこと。孤独ともいえるけど」

「孤独……」


何故か彼女の口調にはそれほどネガティブな印象は感じられなかった。孤独という単語と、さっきのワインの比喩から

俺はある一節を思い出し、少し下を向きながらそれを諳んじる。

「……孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく……」

「……林の中の、象のように」


658: 2013/09/29(日) 00:31:56.42 ID:dlzKvi+G0
全て言い終わる前に、陽乃さんが後に続く言葉を先に口に出した。俺が顔を上げると、彼女は微笑を湛えていた。

「ブッダの言葉だったっけ?」

「あー……確か……そうらしいですね」

俺は一次資料からその節を知ったわけではないので、自信のなさが声に現れてしまう。そんな様子を見て、陽乃さんは何

やら意味深な笑みを浮かべる。

「比企谷くんがどこでこの言葉を知ったのかはわからないけど…………でも、君がそれを言うとはね」

「……どういうことですか?」

「今の言葉の直前に、もう一つ別の節があるって…………知ってる?」


俺が首を横に振ると陽乃さんはこちらに近づき、そっと耳打ちする。不意にされた行動と、彼女の話した内容に俺は全身

の汗が噴き出るような感覚に襲われる。

「ま、そういうことだから…………もし、比企谷くんがそう思える人がいるのなら、ね?」

俺が固まっていると、陽乃さんは肩をポンと叩いてから方向を変え、またレジに向かって歩き出した。


……やっぱり叶わないなぁ、この人には。今回は俺の無知が原因とはいえ。

659: 2013/09/29(日) 00:43:52.64 ID:dlzKvi+G0
結局、自分の分を払うタイミングを逸してしまい彼女の後ろに続いてカフェを出ることになってしまった。

「なんか……すいません。俺の分まで……」

「いいのいいの。また今度そういう時が来たら、奢ってもらうから。雪乃ちゃんの分も」

「はぁ……」

俺が生返事を返すと、陽乃さんは顎に手を当てて何か見定めるような視線をこちらに送る。そんな目で見られて居心地が

悪くなりそうになったところで、彼女はまた口を開く。

「ちょっとは…………元気になったのかな」

「え?」

「疲れてるとは言っていたけど、単に体がってわけでもなさそうだったし」

もしかして、俺のことを心配して言っているのか?今のセリフは。この人がそんなことを?俺の表情がそれを語ったのか、

陽乃さんはこんな言葉を返す。

「比企谷くんが元気なくなると、雪乃ちゃんにも影響出ちゃうからね。だから……頼んだぞ、この捻デレくん」

661: 2013/09/29(日) 01:16:56.94 ID:dlzKvi+G0
そう言ってこちらの後ろに回り込み、背中を軽く叩かれる。俺の頭の中は陽乃さんの言葉によって驚きとか嬉しさとかで

混乱していたが、ちょっとの間を置いてどうにか口を開くことができた。

「頼まれませんよ、そんなこと。俺が勝手に決めて、勝手にすることです。もちろん、雪ノ下に関することも。だから

…………あなたはあなたで好き勝手にやっててください」

「そう…………じゃあ好き勝手にやってる。比企谷くんも、……ね」

「ええ」

互いに好き勝手なことを言い合った後、陽乃さんは口角を上げて意地悪そうな笑みを浮かべていた。今は何故かその表情

にすら安心感を覚えるのだった。彼女は俺の顔を見てふむと頷いた後、手を胸の前で振って別れの挨拶をする。

「じゃ、またね。比企谷くん」

「また……陽乃さん」

俺も手を上げてそう言うと、彼女は振り返って背中を向けて駅の改札の方に歩き出していった。



まぁ、後は元々決めていたことをやるだけなんだ。今日、いくつか明確になったことがあるのは事実だが、結局のところ

自分のエゴを最後まで通すしかないことに変わりはない。もう変に諦めて悟ったふりをするのはやめよう。途中で理解

されるのを諦めるのもやめよう。ちゃんと伝わるまで…………言い続けよう。もう、信じると決めたのだから。


678: 2013/10/02(水) 19:49:25.28 ID:lvwBCCDU0
⑪思わぬところで彼の行為は彼女らに伝播する。


幸いにして日曜日の夜は昨日のような夢を見るようなこともなく、月曜日の朝はいつも通りに目を覚ますことができた。

土曜日以降のことについては俺の様子を見て何か察したのか、小町がそれについて尋ねてくるようなこともなく、今日の

朝は本当にどうでもいいルーチンの会話をするだけに留まった。ただ、出かける途中で「落ち着いたら、小町にも教えて

ね。待ってるから」とだけ告げられる。妹の心遣いに感謝の意を伝えてから、俺と小町は曇り空の下でそれぞれの道へと

向かった。


今日は放課後まで誰とも話すつもりはなかったので、俺は自前の光学迷彩と話しかけんなオーラを身にまといつつ、学校

で過ごすことにした。いや、むしろそれが本来の日常に近いものだった筈だ。今日は学校に着くタイミングをずらしたの

で、由比ヶ浜と鉢合わせになるようなこともなく、朝のHRや休み時間に戸塚に話しかけられるようなこともなかった。


何事もなく午前の授業は終わり、昼休みに入る。さすがにこんな時に奉仕部の部室で昼食を食べるのははばかられたので、

俺は以前のお決まりの場所である駐輪場脇の階段へ向かうことにした。どうやら由比ヶ浜は先に部室に行ってしまった

らしくその姿を見ることはできなかった。まぁ、その方が俺にとっても好都合だ。自分も教室から出て歩いて行き、渡り

廊下に差し掛かろうとした時に不意に後ろから声がかかる。



「ヒキオ、ちょっと待ちな」

俺はその声の主が誰かはすぐにわかったが、ヒキオなんて人間はここにはいないし自意識過剰と思われるのも嫌なので、

ただ立ち止まるだけにした。しかし、周囲を見ても他の人間がいるわけでもなく勘違いのしようもないことはすぐ明白に

なったので、俺は渋々声のしてきた方向にじりじりと向きを変えた。

679: 2013/10/02(水) 19:52:40.65 ID:lvwBCCDU0
振り返った先で腕を組んで軽く脚を開いて立っていたのは、うちのクラスのトップカーストでまたの名が獄炎の女王――

といっても俺が勝手にそう呼んでるだけだが――である三浦優美子であった。彼女と俺には直接の接点はなく、接点があ

るのは一人の人間のみで、そうであるが故に今ここで俺に何の用事があるのかは火を見るより明らかだった。三浦は獄炎

の女王らしからぬ冷たい目で俺を睨めつけた後、少し哀しげな表情で口を開いた。


「あんたさぁ…………結衣に何かしたん?」

「何かって……」

昨日会って話をした雪ノ下陽乃と同様、三浦も事情をどこまで知っているかわからないので俺は迂闊なことは口に出せず、

オウム返しをするしかなかった。というか口調が怖くてそれしか口から出なかった。俺の意味のない返答に、三浦は怪訝

な顔でこちらを見て言葉を続ける。

「昨日あーしが電話した時から様子がおかしかったんだけど…………でも、あーしがいくら訊いても結衣は何も言って

くれないし。ヒキオ…………結衣とデートしたんでしょ?土曜日に。だから、あんたなら何か知ってるんじゃないかと

思って……」


……ああ、なるほど。三浦は俺と由比ヶ浜がデートしたこと自体は知っているが、――たぶん由比ヶ浜が土曜日以前に

彼女に話したのだろう――それ以降のことは何もわからないという状態か。三浦の案外世話焼きな気質から鑑みて、今の

状態はとても彼女にとって耐えられるものではないのだろう。友達の様子がおかしいのに、それについて何も話してくれ

ないというのは。だから、わざわざ俺なんぞに――――いや、当事者なんだから当たり前なのか。

680: 2013/10/02(水) 19:55:27.59 ID:lvwBCCDU0
「由比ヶ浜の様子がおかしいのは…………俺のせいだ。もしそのことで、三浦の手を煩わせたのだったら申し訳ない」

俺は頭を下げて、あくまで自分と三浦の間に起こっていることのみに焦点を絞って謝罪をした。しかし、そんなことを

三浦が望んでいるわけではないのは薄々わかっていた。だから、彼女が次に発した言葉にも別段驚きはしなかった。

「別にあーしはあんたにそんなことして欲しくてこんなこと言ってるんじゃないんだけど。あーしが訊きたいのは……

結衣の……結衣とヒキオのこと。あんたは結衣のこと…………どう思ってんの?」

ここで俺が嘘をつく必要はなく、別に気恥ずかしさも感じなかったが、まだ三浦に伝えていない自分のした行為について

俺は後ろめたさを感じたせいか、彼女から少し目を逸らしてこう答える。


「俺は由比ヶ浜結衣が…………好きだ、……と思っている」

「だったら!」

語気が強くなり、眉をひそめて三浦は俺を睨んだ。そして、少し声を震わせながらこう続ける。

「だったら…………何で……結衣は……今あんな状態なん?あーしは正直、あんたのことよく知らないから結衣がヒキオ

のことをどう思うかとか何も言わなかったけど……でも、こんなことになってて黙っているわけにもいかないと思った。

結衣が……何かマズいことでもした?もし、そうなら――――」

「いや、由比ヶ浜は何も悪くない。問題があるとすれば、それは俺の方だ」



681: 2013/10/02(水) 19:58:26.30 ID:lvwBCCDU0
三浦が最後まで口にする前に、俺はそれを遮った。しかし、そんなことを言ったところで彼女が治まる筈もなく、

「あんたの問題は…………もうあんただけの問題じゃない。今も結衣を……巻き込んでる」

「そうだな。それは…………否定しない。……すまない」

「謝るんなら、あーしじゃなくて……」

望むか望まないかに関わらず、俺は、俺の問題について既に他の人間を巻き込んでいる。それは否定しようがない。いく

らそれを本人の意思だと突っぱねたとしても限界というものがある。俺はその人たちに対しては謝らなければならない。

それは重々承知しているつもりだ。


「当然…………由比ヶ浜にも謝るつもりだ。俺自身の問題に付き合わせていることについては……」

「それで、仮に結衣があんたの問題につき合ったとしても…………結衣は大丈夫なの?もし、結衣がこのまま……」

「いや、それはない。今の状態は一時的なものに過ぎない。そもそも結衣にすら、俺はまだ自分の問題を全部話したわけ

でもないからな。それで今日…………そのことについて彼女と話すつもりだ」

事実と予定を並べて話すことで、俺は三浦の不安をなるべく取り除こうとする。そのかいがあったのか、彼女の表情は幾

分硬さが取れたように見えた。しかし、こちらの表情が緩む前に三浦は再び牽制をしてくる。

682: 2013/10/02(水) 20:04:01.59 ID:lvwBCCDU0

「だとして…………。結局のところ、あんたは……結衣の気持ちに……応えるつもりがあんの?それともないの?」

その質問に対する答えはもうとっくに決まっている。たとえその応え方が、由比ヶ浜結衣の望むものすべてを満たすもの

ではなかったのだとしても。

俺は逸らしていた目を戻し、三浦を真っ直ぐ見据えてハッキリ聞えるように一度息を吸った。そして、


「俺は…………ある。由比ヶ浜の気持ちに応えるつもりが」


「そ。なら、いいんだけど」

三浦は少し声のトーンを上げてそう言い、少し安心したのか横を向いてふぅっと息をついた。彼女の反応に、俺も肩が

少し下がる。もうこのままさっさとお引き取り願いたかったので、俺はダメ押しとばかりに三浦への説得を続ける。

「とりあえず明日まで…………いや、今日の夜でもいいんだが……待っていてくれないか?その時になれば、たぶん由比

ヶ浜は話してくれる筈だ。もし本人が話さないようなら、その時は俺が直接話す」

「ほんとに?そんなすぐ…………解決するような……話せるような問題なわけ?」


三浦の反応は俺が思ったようなかんばしいものではなかった。むしろ、さっきの怪訝な表情に後戻りしてしまった。よく

考えてみたら、そもそもそんな簡単な問題ならば俺も由比ヶ浜に対してこんなことをしてはいないわけで、三浦がそういう

心配をするのも別に不思議な話ではなかった。しかし、今彼女にその問題のことを直接話すわけにもいかない。何か

わかりやすく伝える方法はないものだろうか。

683: 2013/10/02(水) 20:06:48.07 ID:lvwBCCDU0


「……問題そのものがすぐに解決するわけじゃない。俺の問題は、その……なんというか……海老名さんが抱えている

ものと似ていると言えばいいのかな。ただ、彼女と事情が違うのは…………俺の場合は最初から諦めるようなことはもう

しないってこと。だから……」

「ああ、もういい。喋んなくて。わかんないけど、わかったから」


俺が言い終わる前に三浦は組んでいた腕を離して手を上げ、掌をこっちに向けて制止のポーズを取る。彼女の短くも矛盾

したフレーズに俺が怪訝な顔を向けると、三浦は半ばあきれたようにこう話す。

「どっちみちあんた、今これ以上詳しく話すつもりないんでしょ?もういい。諦めた。あーし明日まで待つわ」

「そ、そうしてもらえると助かります……」

「別にあーし、あんたのこと信用したわけじゃないかんね。もし明日になっても結衣が……」

「…………わかってる」


正直なところ、まだ俺には三浦が満足する――つまりは由比ヶ浜が満足する――答えを用意できているのか不安があった。

いや、それ以前に答えを聴いてもらえるのかさえも…………ああ、いかんいかん。こればっかりは自分で蒔いた種だ。俺

一人でなんとかするしか方法はない。というより、そもそも俺が出した答えというのも答えらしからぬものだ。どちらか

というと方法論に近い。だから答えがわかってハイ終わり、メデタシメデタシという話にもなりにくい。むしろ終わりと

いうよりは――――。

684: 2013/10/02(水) 20:09:47.15 ID:lvwBCCDU0

「ちょっと」

「……はい」

俺が悶々としていると、不意に三浦に声をかけられて返事に間が空く。俺の様子を不審に思ったのか彼女の顔が少し曇る。

「なんか不安なんだけど…………とにかく……結衣のこと頼んだよ」

「……はい」

「結衣の問題は、あーしの問題でもあるから。わかった?」

「俺は由比ヶ浜には何も問題ない、とさっき……」

そう言いかけて彼女の真意に気づいた時にはもう遅く、またジロッと睨まれてしまう。

「だからさぁ…………結局それはあーしの問題になんの。さっきも言ったでしょ?」

「そ、そうでしたね……」

少しイライラしていそうな三浦の様子を見て、俺は何か機嫌の取れそうなことがいえないか思案する。しかし、結果論で

いえばわざわざ地雷を踏みに行くようなものだった。

「ゆ、由比ヶ浜は……いい友達を持ってるな」

「それはヒキオも同じでしょ」

「え?」


思いがけない三浦の返しに俺の声は裏返ってしまった。三浦が俺の交友関係を把握しているとは考えにくいし、自分に

とってそんな人物がとっさに思い浮かぶわけでもなかった。それで推測するなら戸塚か由比ヶ浜のことなのか…………?

しかし、次に彼女の口から告げられた人物はそのどちらでもなかった。三浦は嫉妬と寂寥の混ざったような眼差しで俺の

方をチラッと見る。

685: 2013/10/02(水) 20:12:33.35 ID:lvwBCCDU0
「隼人のこと。修旅の後に隼人が雪ノ下さんに告白したのって…………あんたを庇うためためだったんでしょ?」

「な、何故お前がそれを……」


俺のこめかみから冷や汗が流れる。さっき彼女が言っていた俺の問題が巡り巡って三浦の問題になるという話。それを

端的にわかりやすくここで披露されてしまった。そういう事情をわかっていたからこそ、今回俺に対してここまで踏み

込んだことを尋ねてきていたのか。しかし結局これも自分がきっかけを作っていたことに、俺は申し訳ない気持ちになる。

しかも彼女の立場からしてみれば、葉山は三浦より俺を選んだようなものなのだ。そんな俺に対して良い感情を抱く筈が

ない。そのことが、流れる冷や汗をさらに増やした。


「すまない…………結局それも……俺があんなことをしなければ、葉山も……」

「それは隼人が自分で決めたことっしょ。ヒキオは関係ない。それに、修旅のことを考えるとお互い様みたいなものだし」

「そ、そうか……」

“お互い様”という言葉がかろうじて自分の行為に対する慰めになっている気がしたのか、俺の頭から出ている変な汗が

どうにか止まる。こちらの生返事を聞いて三浦はさらに話を続ける。もう俺に対して意味ありげな視線を送ってきたりは

せず、自分の言いたいことをただ喋るような感じに口調が変わる。


686: 2013/10/02(水) 20:17:04.52 ID:lvwBCCDU0
「ま、薄々気づいてはいたんだよね。あーしが雪ノ下さんのこと嫌いなのってそういう理由もあったんだと思う。だから、

むしろハッキリわかって良かったかもしれない」

「でもお前、そのせいで今は葉山と……」

「確かに今はビミョーかもしれない。でも、あーしは……少し時間はかかっても隼人と元通りに戻れるって信じてるし、

別に隼人のこと諦めたわけじゃない」


ああ、少なくともこの二人の関係に関しては元通りに修復できる。何故ならまったく同じことを互いに想い合っているの

だから。もし仮に元に戻ったとして、それよりも先に関係が進展するのかはわからないが、彼女の決然とした表情はそれ

を自分の意志で成し遂げようとする強い熱情が感じられた。そんな三浦を見て俺は思わず、こんなことを口にしてしまう。

「なんか……カッコイイな。未来のこと真っ直ぐ見据えてて」

「じゃあ、あんたも早く結衣との未来なんとかしろよ」

「ま、まったくおっしゃる通りで……」


俺が顔を少し引きつらせながらそう答えると、三浦は両手を広げて「やれやれ」とジェスチャーをして、あきれたように

肩をすくめた。とりあえずお互いに言いたいことも尽きたのか、しばらく沈黙が流れる。しかし、こういう沈黙に慣れて

いないであろう三浦に早々にそれは破られる。

687: 2013/10/02(水) 20:20:30.93 ID:lvwBCCDU0

「じゃ、そゆことで。結衣のこと……よろしく」

「あ、はい……」

「もし明日になっても結衣がああだったらその時は……」

三浦は一瞬笑顔になったのかと思ったが、今度は脅すような視線をこちらに向けてくる。カツアゲでもされるような圧力

に気押されて、俺は少し後ずさりしながらこう答えるしかなかった。

「た、たぶん……だ、大丈夫です…………」


俺の返答はどうにか彼女を満足させられたようで、三浦はまた元の笑顔に戻った。落差がある分だけ怖さが増している気

がする。ある意味雪ノ下陽乃と同じテクニックを使っているともいえる。やはりトップカーストに君臨できるのにもそれ

なりの理由というものがあるものだとしみじみ思ってしまった。

俺が黙っていると三浦はいつの間にか振り返り、「また」とだけ言ってこちらが言葉を返す前に歩いていってしまう。挨拶

をするタイミングを逸してしまい、俺は遠くなっていく彼女の後姿を見ながら「また」とつぶやくほかなかった。



完全に一人きりに戻ったところで渡り廊下からふと外を見ると、空模様は朝の時のようにどんよりと曇ってはおらず、ほん

の少しだけ薄日が出始めていた。

713: 2013/10/06(日) 20:05:32.46 ID:LeQZFUAM0
⑫彼と彼女はもう一度始めることができるのか。


昼休み以降は、また誰と話すこともなく時間は過ぎていき、帰りのSHRも終わっていよいよ部活の始まる時刻が迫って

きた。俺は修学旅行後に起こった出来事に思いを巡らせる。一か月程度しか経っていないのにその間にずいぶんと色々な

ことがあったように思える。脳裏には自分に対してかけられた言葉の数々が浮かび上がってくる。


――――もしヒッキーがわざと嫌われるようなことしても、あたしのヒッキーに対する印象は変わらないからね

まったく……いくらこんなことを言われたからといって実際にそれをやる奴がいるかっつうの。もし、いるとし
たらそいつは愚か過ぎる。まぁ、自分のことなんですが。


――――あとそうだ…………君は君でいい加減に他人から好かれる覚悟をすべきだと思うよ

とりあえず、好かれる覚悟はもうできたと思う。あとは自分が好く、好きでい続ける覚悟をするだけだ。


――――ま……本当のことを言った方が良い時もあるんじゃないの?あんたのためにもその周りの人間のためにも

多少時間はかかったが、ようやく本当のことが言えそうだ。たとえそれが自分にとって、あるいは相手にとって
少しばかり都合の悪いことであったのだとしても。


――――だから、君も君なりの正しさを発揮すればいいのさ。どうにも間違っていると私が思ったらその時は叱ってやる

一応、自分なりの正しさというものを考えてはみたんですがね…………果たしてそれは先生のお眼鏡に適うもの
なのかどうか、俺にはまだよくわからないです。


――――なに、そう深刻になりすぎることもないだろう。いざとなれば一人に戻るという選択肢もある

どうやら、もうその選択肢はなさそうです。あるいは、最初から最後まで一人は一人、という言い方も無理やり
しようと思えばできないこともない。


――――あんまりのんびりしてると、由比ヶ浜さん他の誰かに取られちゃうよ

ああ、わかっているさ。だから、ずっと自分のことが好きだと、何をしても自分のことが好きだなんて自惚れた
ことはもう金輪際考えないようにする。


――――我としても主が部に戻ってもらわぬと困るのでな。正直なところ一人であの者どもを相手にするのは荷が重すぎる

正直なところ、俺にとっても荷が重い。だが、もう背負わないということは許されなくなった。だからどうにか
して、その荷を少しでも軽くする方法を考えてはみたんだ。


――――もしも思慮深く聡明で真面目な生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難
に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め

ともすれば、彼女は浅慮で愚昧で不真面目な生活をしているようにも見えるかもしれない。でも、本当はそうで
ないことくらいあなたならわかるでしょう?ねぇ、陽乃さん。


――――じゃあ、あんたも早く結衣との未来なんとかしろよ

その“未来”をなんとかするために、今はそのことを考えたり口にしたりすることが俺にはできない。未来が今と
して積み重ねられるようにする方法しか自分には思いつかなかった。



そんなことを考えつつ、これから彼女に伝えるべきことを整理していると、いつの間にか教室に残っているのは自分だけ

になっていた。

714: 2013/10/06(日) 20:08:30.78 ID:LeQZFUAM0
…………俺もそろそろ行くか。机から鞄に荷物を入れ直し、教室から出た。

廊下を歩き、渡り廊下を通って特別棟に向かう。

昼休みに三浦に会ったのと同じ場所から窓の外を見ると、空がピンクがかった夕焼けになっていて思わずその足を止める。

天気が良くなったとはいっても快晴になったわけではなく、空の半分くらいは濃い灰色の雲で覆われていた。

だが、それが明暗のコントラストを際立たせており、情感のある景色になっている。

その美しさ故か、夕焼けに感じる独特の寂しさ故か俺の口からはため息が出る。

そのまま少し立ち止まったまま空を眺めた後、また奉仕部部室に向かって俺は歩き出した。


しばらくして部室の前まで辿りついたが、何故か今日は人の気配がしない。中の電気も点いていないようだ。

一応、ノックをしてみるが何も反応はない。仕方ないので、俺はそのまま扉を開けて部室へと入る。


中には由比ヶ浜結衣一人がぽつんと椅子に座っていた。

俺が電気を点けて挨拶をすると、うつむいていた彼女はゆっくりと首を動かして笑顔でこちらを見る。

その表情は痛々しくてとても直視できたものではなく、思わず目を背けてしまう。

反射的に「ごめん」という言葉が喉まで出かかるが、それをどうにか引っ込める。今謝ってしまうと、また誤解を招き

かねない。謝罪するにしても、何に対しての謝罪なのかハッキリさせるのが先だ。

俺は机の横まで歩いていき、鞄を下に置いた。

二人の間に沈黙が流れるが、先にそれを断ち切ったのは由比ヶ浜の方だった。


715: 2013/10/06(日) 20:11:09.65 ID:LeQZFUAM0
「えっと……今日は……ゆきのん、遅いね…………いつもは一番先に来てるのに」

「雪ノ下は……少し教室で待たせている。俺と由比ヶ浜二人だけで話がしたい、と先に連絡しておいた」

「え?あっ……そうなんだ……」

俺が雪ノ下の居場所を知っているのが意外だったのか、少し驚いた様子を由比ヶ浜は見せる。一瞬だけ俺と目が合うが、

それもすぐ互いに逸らしてしまった。


さっき見た濃い灰色の雲が覆う空のように、重い空気が流れる。俺としても珍しく沈黙が怖くなったのか、あまり間を持

たせずに立ったままでまた口を開く。そして、彼女に向かって頭を下げる。


「由比ヶ浜。今日は、ここに来てくれて…………本当に……ありがとう。お前には感謝してもしきれない」

「え?あ……いや……そんな大げさなもんでもない、と思うけど……」

俺が頭を上げると、由比ヶ浜は横を向いてこめかみを指で掻く動作をする。それを見てほんの少しだけ空気が軽くなった

ような気がした。俺は一歩彼女に近づいてこう続ける。

「ちょっと由比ヶ浜も立って…………机の前に来てもらっても……いいか?」

「う、うん……」

716: 2013/10/06(日) 20:14:20.53 ID:LeQZFUAM0
俺は由比ヶ浜を促して席から立たせ、机の前まで移動させる。そうして、俺と彼女が正面で向き合う形となる。由比ヶ浜

の視線はこちらには向かず、目が泳いでいる。脚の震えを抑えるためなのか、彼女は太ももに片手をやる。

今は自分の心臓の鼓動の音しか聞こえない。俺は一度、由比ヶ浜の方を真っ直ぐ見据える。すると、それに彼女も応じて

体も視線もこちらに向けてくれた。

俺は胸に手をやって一回深呼吸をして息を整えた。そして、


「俺は由比ヶ浜結衣のことが、好きだ。俺ともう一度、恋人として付き合ってほしい。ただし…………一日だけ」


「え?……ど…………どういうことなの?」


俺の告白を聴いて一瞬表情が緩んだように見えたが、すぐにそれは困惑へと変わる。……そりゃそうなるよな。

「理由は今から説明する。とりあえず、最後まで話を聴いてもらっても……いいか?」

由比ヶ浜は俺に聞こえるかどうか微妙なくらいの小さい声で「うん」と言って頷いてくれた。俺は彼女の返答に感謝を

しつつ、話を続けることにする。


「俺は土曜日に、お前と恋人としてうまくやっていく自信がないと言った。そして『ずっと一緒にいよう』という由比

ヶ浜の気持ちには応えられない、とも言った。それは、俺の自分に対する信用のなさが原因であって、お前には嘘をつき

たくないからこんなことを口にした。それなら逆に、どういうやり方だったら自分は由比ヶ浜の気持ちに応えられるのか、

それを俺は考えた。その結果がこれだ。俺が口にできるのは“今”由比ヶ浜結衣のことが好きで、“今”お前と恋人でいたい。

それだけのことに過ぎない。ただし、それを今日だけで終わりにするつもりはない」

717: 2013/10/06(日) 20:17:34.59 ID:LeQZFUAM0

そこまで一気に言い切って、俺はいったん息をふっとつく。由比ヶ浜はまだ状況が飲み込めないのか、ぽかんとした表情

で口を半開きにしたままこちらの方を向いている。その口が動いてしまう前に、俺はある誓いの言葉を彼女に告げる。


「俺は……お前のことが好きで……二人でいることが、互いの幸福になると信じられる限り、俺はこれから…………

“毎日”由比ヶ浜結衣に告白し、お付き合いのお願いをする」


「え?……ま、……まいにち?え?……告白?…………え?」


由比ヶ浜は目を見開いて皿のようにしながら、こちらをじっと見つめて幾度か「え?」とつぶやいた。しばらくして俺の

言ったことを理解し始めると、彼女の顔はだんだんと外の夕焼けの色に同化していった。顔色が変わると、由比ヶ浜の

視線はこちらから逸れていく。少し横を向いて床の方を見るような状態になって由比ヶ浜はぽそっとつぶやく。

「い、今の…………本気、なの?……ヒッキーは……」

「……ジョークでこんなこと言えるかよ。本気だ、本気」

「ヒッキーって本当に…………タチ、悪いなぁ……」


俺と由比ヶ浜は、土曜日にしたのと同じようなやり取りをする。でも今の彼女は泣き顔ではなく、苦笑いとあきれが混じ

ったような表情だった。俺はそんな彼女の表情に少し安心しつつも、言うべきことを先に全部伝えてしまおうとする。

「由比ヶ浜の言った『ずっと一緒にいたい』という想い……俺もどうにかしてその想いに応えたい。でも、まだ自分は“今”

のことについてしか口にできない。だから、由比ヶ浜の想いに応えるには実際の態度で示し続けるしかないと思っている。

お前に信用してもらえるまで、そして俺が自分を信じられるまで…………俺は毎日お前に告白し続けたい。あ、いや……

ちょっと違うか……」

「え……?」

718: 2013/10/06(日) 20:20:09.05 ID:LeQZFUAM0
俺は話している途中で、後で言うことと整合性が取れないのに気づいて訂正しようとする。すると、由比ヶ浜の顔色が

みるみるうちに不安そうなものに変わっていったので、俺は慌ててまた口を開く。

「あ……えっと……その……俺が毎日告白し続けるのは、別に由比ヶ浜に信じてもらえるまでに限定するわけじゃない

っていうことが言いたかったんだ。好きって気持ちは常に言葉にしてちゃんと伝えないといけないと思っているから」

「そ、そういうこと……」


俺の言葉を聴いて、由比ヶ浜は手を胸に当ててほっと胸をなで下ろす。自分もまた息を整えて、このアイディアについて

考えていることをとりあえず最後まで言い切ってしまう。


「なんというか、その…………悪い意味で慣れてしまいたくないんだよ。自分が由比ヶ浜結衣と一緒にいられるという

ことに。一番最初に何かを話した時とか……一番最初に何かをもらった時とか……一番最初にどこかに出かけた時とか

……一番最初に、その……キスした時とか……そういう経験の最初に感じた喜び、というか胸のト、トキメキ、とでも

いうのか……そういう気持ちをこれから先もずっと忘れないように、俺はしたい。だから、常に“最初”で“最後”でいたい

んだよ、自分は。それで…………恋人として付き合うのも期間を区切ることを考えてみた。そうやって、最初の気持ちを

持ち続けられれば…………恋人としての関係も続けられんじゃないかと、そんな風に自分は思っている」

719: 2013/10/06(日) 20:23:35.75 ID:LeQZFUAM0
どうにかこうにか、これから先の二人の関係についての提案を話し終わり、俺の口からは安堵の息が漏れた。

由比ヶ浜はある程度納得しているようにも見えるが、案の定この質問が自分に向かって突き刺さってくる。


「……ヒッキーとあたしが一日限定?で恋人になるって話は……まぁ、だいたいわかったつもりだけど…………。でも、

そういうことなら……どうして土曜日の時にそれを言ってくれなかったの?あたし、今の今までずっと…………不安で

不安で…………やっぱりヒッキーは一人に戻りたいんじゃないか、とか……ほんとはゆきのんのことが好きなんじゃない

か、とか…………」

そう話しているうちに彼女の声は震え始め、目に涙が溜まっていく。そんな姿を見て俺は、由比ヶ浜を抱きしめたくなる

衝動にかられるが、先に伝えるべきことがあると自分に言い聞かせてそれを思いとどまった。

俺はもう一度、由比ヶ浜に向かって頭を深く下げた。

「そればっかりは本当にもう…………俺がどうしようもなくおかしくて、捻くれていて、悲観的で、人と自分を信じる

ことができなくて……失うことが怖くて、人間関係を表面だけ取り繕うなんてことができないのが原因で……由比ヶ浜を

こんなことに付き合わせてしまって…………本当に申し訳ない」


俺はお辞儀をした状態でそのまま言葉を続けようとするが、それは由比ヶ浜に遮られる。

「頭…………上げて?ヒッキー。ちゃんとこっち見て…………話してほしい」

「…………わかった」

721: 2013/10/06(日) 20:27:15.94 ID:LeQZFUAM0
俺は顔を上げて由比ヶ浜を見ると、彼女とまた見つめ合うような体勢になった。由比ヶ浜は怒っているようでも悲しんで

いるようでもなく、その顔からどんな感情かを読み取ることはできなかった。普段は表情や仕草などが饒舌なだけに、

そんな彼女の様子に違和感を覚える。唯一感じられたサインは、“話を聴く”ことただそれだけだった。

俺も由比ヶ浜の瞳に視線を真っ直ぐ合わせたまま、また口を開く。


「何を言っても言い訳にしか聴こえないだろうし……まぁ、実際そうなんだけれども…………。でも、俺は由比ヶ浜と

恋人として付き合う前に……もう全部曝してしまいたかったんだ。自分の良いところも悪いところも。俺は今まで、人

とうまく関わることができずに……多少仲良くなったと自分がそう思っても、結局どこかで失望させて去っていかれて

しまうことが何度もあった。もちろん、それはどちらか一方が悪いということではないし、そもそも相性が合わないと

いうこともある。だから、いつからか自分は他人に期待したり信用したりすることはなくなったし、自分にとって替え

のきかない大切な存在というのもつくらないようにしてきた……つもりだった」


そこまで一気に話してふっと一息つくと由比ヶ浜は俺の方に一歩近づいてきて、腕を伸ばしてきて何故かこちらの片手

を握った。俺が首をかしげると彼女は微笑を浮かべてこうささやく。

「言い訳でもいいから…………でも、ちゃんと……全部、話してね」

「……ああ」



722: 2013/10/06(日) 20:30:43.21 ID:LeQZFUAM0
俺は、視線をさっき握られた手から由比ヶ浜の目に戻して再び話し出す。

「でも、いつの間にか……俺にとって由比ヶ浜結衣は“そういう”存在になっていて……俺は、これ以上距離を詰められる

のが……怖かった。そういうこともあって……俺は修学旅行の時にあんなことをして……結果的に由比ヶ浜を傷つける

ようなことをしてしまった。俺は、俺が……臆病だったせいでお前を傷つけた。だから、もうこんなことはしたくない

……ちゃんと……自分の気持ちと由比ヶ浜の気持ちに向き合おうと思った。それで…………俺はお前に告白をした。

ただ、俺は由比ヶ浜と恋人として付き合っていくにあたってどうしても心のどこかで信じきれない気持ちがあった。

やはり彼女もいつか俺に失望して去って行くのではないのか、と。先に……」

「そ、そんなことは!」


由比ヶ浜は俺の不安に思っていることを否定するため、語気を強めてもう一歩こちらに近づいた。俺は自由になっている

方の手を前に出して制止させてから、そのままの距離で俺は言葉を発する。


「わかってる。先に言っておきたいが、これはあくまでお前の事を信じきれない俺の心の弱さに問題があるってことだ。

普通の人ならとっくの昔に由比ヶ浜のことを信じられただろう。もういい加減、俺もこの悪癖を治したいと思っている。

だからこそ、表面上取り繕ったり誤魔化したりするようなことはしたくなかった。俺はちゃんとこの問題と向き合った上

でそれをなんとかしたかった。それで、わざとそれを表に出すようなことをした。しかも由比ヶ浜にも見えるような形で。

つまり、後で失望されるのが怖いなら先にそういうことをしてしまえ、と」

723: 2013/10/06(日) 20:33:40.21 ID:LeQZFUAM0
「それで……土曜日に……『別れよう』って……そう、言ったってこと?」

「そうだ。さすがに今回ばかりは先に由比ヶ浜が悲しむということはわかっていたし、本当に失望されて離れられても

おかしくないと思っていた。そういう別の意味でも怖かったといえば怖かった。もうその時にはどうしようもなく俺は

由比ヶ浜のことが好きになってしまっていたから」

「す……う、うん……」


“好き”という言葉に反応して由比ヶ浜の頬がまた染まり、握られていた手の力が少し緩んだ。今度は俺の方からその手を

握り返し、少し声のトーンを上げて話を続ける。


「でも、それでも由比ヶ浜は今日…………ここに来てくれた。お前の立場になって考えてみれば、あんなことの後で何を

言われるかわかったものではないのに。俺だったら怖くて無理だっただろう。わざと由比ヶ浜を不安にさせるようなこと

をしてしまって本当に申し訳なかった。そして……ありがとう。由比ヶ浜にはなんというか……人を信じきる強さがある。

そういう人を信じきれるところは自分にはとても真似できない美点で、それに関して俺は本当に由比ヶ浜を尊敬している。

だから、今すぐには無理かもしれないがこれからは俺もそこに少しでも近づけたらいいと……そう、思っている。


これで、もう俺はこれから先どんなことがあってもお前を信じるし、俺の方から関係を絶つようなことは二度としない。


とりあえず…………土曜日にああいうことをしたのは……今言ったような理由だ」

725: 2013/10/06(日) 20:38:39.12 ID:LeQZFUAM0
言いたいことを言い終わって、俺は少し下を向いて安堵のため息を漏らしてしまう。顔を上げて由比ヶ浜の方を見ると、

瞳が少し濡れているのがわかった。俺がまた話しかけようとすると、手がほどかれて後ろを向かれてしまう。由比ヶ浜は

俺に背中を向けたまま何やらぶつぶつ言っていた。何をつぶやいているのかまでは聞き取れない。


「ゆ……由比ヶ浜…………あの……」

「なんか…………ほんっとうにもう!」

叫ぶようにそう言って振り返ると、キッと睨んで俺の方に飛びかかるようにして両手を伸ばし、俺の頬を強くつねった。

「どうしてもう……こんなに……ヒッキーは……」


痛いという間もなく由比ヶ浜は涙目のまま俺を上目遣いで見つめ、ぱっと手を離したかと思うと今度は顔を俺の胸にうず

めてくる。手が俺の背中に回されたので、俺の手もそれに応じることにした。髪の匂いが鼻孔をくすぐり、鼓動の音が

彼女に聞こえるような気がしてそれがますます心臓に早鐘を打たせる。そんな状態で何も言えない俺をよそに、由比ヶ浜

は俺の胸の中でまたぽそっとつぶやく。

「あたし……別に……強くないし……ここに来る時も、ずっと、不安だったし……」

「ごめん……」

「……」

726: 2013/10/06(日) 20:43:08.39 ID:LeQZFUAM0
二人の鼓動と息の音以外は何も聞こえない状態がしばらく続き、少し落ち着いたのか由比ヶ浜は両手を俺の体から解き、

顔も離して元の距離に戻す。正面に向き合う状態になって由比ヶ浜は両手を後ろに回し、ほんの少し毒のあるような笑顔

で小首をかしげて俺の方を見てこう尋ねてくる。

「それで、その…………もう一度……最初のヒッキーの告白とお願い……言ってもらってもいい?確認のために」

「え?あ、ああ……」

俺は彼女の表情からその意図が読め切れずに少し不安になるが、由比ヶ浜に応じることにする。


「改めて言う。俺は、由比ヶ浜結衣のことが好きだ。もし一日だけでもよければ…………俺と付き合ってほしい」


言い終わると、何故か由比ヶ浜はくるっと回って俺に背中を向けてしまう。彼女の表情などわかる筈もなく、スカートに

触れながら組んでいる手をちょこちょこと動かしている様子しか、俺からは見えない。声をかけようとしたその時、



「やだよ……そんなの。そんなの…………やだ」

743: 2013/10/08(火) 19:47:36.76 ID:lT0ghM6n0
ある程度は覚悟していた返答だったが、いざ実際に言われてしまうと瞬時に反応を返せない自分がいるのに気づく。答え

となる言葉を考えながら、俺はもう一度由比ヶ浜の後ろ姿に呼びかけようとする。

「由比ヶ浜。俺は……」

「あ~!もう……ほんとになんか……もう!」

そうやって唸りながら、彼女はまた振り向いてこちらに視線をやって睨む。それから、両手で自分の髪を掻きむしった。

「嫌に決まってんじゃん。一日だけの恋人なんて。そんなの……」

「そ、そりゃ……そう、だよな……」

突き刺さる視線と申し訳なさから、俺は少し目を逸らしてしまう。すると、由比ヶ浜はこちらにずいっと迫ってきた。


「もう……どうして『毎日告白する』なんてことが言えるのに、『ずっと一緒にいよう』とは言えないの!?」

「すまん……」

「それにヒッキーもさ……あんまりあたしのこと、言えないよね」

「え?」

唐突に言われた彼女の言葉に、つい疑問の声が漏れてしまう。な、なんかお互い様みたいなことって俺と由比ヶ浜の間に

あったっけか?人として、タイプ的には全然違うと思うんだが。俺の反応に彼女はあきれ混じりにこう続ける。

744: 2013/10/08(火) 19:50:13.27 ID:lT0ghM6n0
「ヒッキー、土曜日の時にあたしにこう言ったでしょ?『由比ヶ浜は優しいけど、男を勘違いさせるから悪い子』だって。

でも、ヒッキーも相当だよ。捻くれてほんとのこと言わなかったり、向き合ってくれたのかと思ったら逃げられたり、

上げたと思ったら落とされたり…………そういうことされたら“勘違い”しちゃうよ、あたしも……」

「すみません……」

彼女の指摘はまったくもって正しいので、俺はただ頭を下げるほかなかった。


「それにさ……ヒッキーは自覚してないんだろうけど……あたし、気分的には……ヒッキーに対してもう四回失恋してる

んだからね!」

「え?よ、四……」

次々にたたみかけられる由比ヶ浜の言葉に、俺はもうオウム返ししかできなかった。

「そう。あたしの誕生日の前の時と、修学旅行の時と、ゆきのんに告白した時と、この間の土曜日で四回」

「ごめん……」


最初の誕生日の時は由比ヶ浜の勘違いではないかとも思ったが、現に自分は勘違いさせるようなことをしてしまっている

ので、そんなことを指摘する資格などある筈もなく俺は頭を垂れて謝るだけだった。

由比ヶ浜はとりあえず言いたいことを言い切ったのか、一歩下がってまた後ろに振り返ってしまった。俺はどうにか彼女

に次々に言われたことを咀嚼して、返す言葉を考えあぐねていると先に向こうが小声でつぶやいた。

745: 2013/10/08(火) 19:52:37.95 ID:lT0ghM6n0
「とりあえず今は…………これでおあいこ、ね」

「え?」

由比ヶ浜は体は後ろを向けたまま、顔だけ横に動かして片目で俺の方をチラッと見る。

「さっきヒッキーが…………言ったでしょ?恋人になる前に、自分の良いところも悪いところも全部見せておきたいって。

だからね、あたしも…………あたし、普段は人の顔色うかがってることの方が多いのに……肝心な時ほど、その……自分

の感情を優先して……それを口に出しちゃうから……。それは、その……あたしの悪いところだと思うから……見せて

おいた方がいいんじゃないか、と思って……」


「そ、それで…………さっきあんなこと言ったのか?」

「う、うん……」

「い、いや…………でも、さっきのは……言って当然のことだと思うし、悪いのは俺で……」

「うん、だからね……。別にヒッキーに謝ってほしいとかじゃないんだ。ただ、あたしがそう言いたかっただけ」

「そ、そうか……」

なんだろう、この気持ちは…………。さっき俺は由比ヶ浜に怒りの感情をぶつけられた筈なのに、何故か全然悪い気が

しなかった。いや、俺が悪いのは確かなんだが……。その時の素直な感情をぶつけてもらえるって…………なんだか……

嬉しい。俺が嘘や欺瞞に満ちた人間関係を嫌っていたせいで余計にそう思うのかもしれないが。そんなことを考えると、

自分の体温が上がる気がして、つい額を指で掻きながら俺も思ったことをそのまま口にすることにした。

746: 2013/10/08(火) 19:55:37.44 ID:lT0ghM6n0
「いや、なんだろう…………俺としても……そうしてくれた方が嬉しいというか……。別にどういう感情でもいいんだ。

それを素直にそのままぶつけてくれればいいと思う。今さら由比ヶ浜に何を言われようが俺がお前を嫌うなんてことは

もうないだろうしな。それに、感情が昂ったらつい口に出るのは誰でもそうだと思うし」

「あたしもそう思ってるよ。だからね…………もうね……今回のことはしょうがないと思った。だってそれはヒッキーが

言いたいこと言うためには必要なことだったんだから」

「ごめん……」

「いいよ、もう謝らなくても。ちょっと話がズレちゃったけど…………さっきの返事、改めて答えるね」


由比ヶ浜は正面に向き直って、俺の方を澄んだ瞳で真っ直ぐ見据える。自分も視線でそれに応える。

「それに、本来はこれはあたしが先に言うべきだったんだ…………だから、言わせてください」

彼女は胸に手をあてて目を瞑り、一度深呼吸をしてから俺の方に目を見開き、ハッキリとした口調で告げる。


「あたしは、ヒッキーのことが……好きです。あたしと……恋人として、付き合ってください」


「一日だけなら、な」


「もう……」

747: 2013/10/08(火) 19:57:49.62 ID:lT0ghM6n0
相変わらずの俺の返答に、由比ヶ浜はあきれたように笑う。とりあえず、その表情から了承は得られたようなので俺の口

からは安堵の息が漏れる。少しだけ間のあいた後、由比ヶ浜はまたこちらに腕を伸ばしてきて俺の手を取った。

「あたし、まだヒッキーに色々話したいことがあるんだけど…………ちょっと座ってもいい、かな?」

「あ、う……うん……」


俺は彼女に手を引かれて机の後ろに回り込み、いつものポジションに腰を落ち着ける。二人とも椅子に座ると、由比ヶ浜

は椅子をこちらに寄せてきて肩がもう少しで触れ合うような距離にまで近づく。そして、改めて俺の左手が握られた。

手汗が気になるのを紛らわすために、俺の方から話しかけてしまう。


「そ、それで……由比ヶ浜……話って……」

「あっ……そうだ!」

「な、なんだ……?」

「とりあえず……今はもう……恋人に戻ったってことでしょ?だったら、また……その、名前で……」

声が小さくなるとともに、その頬に朱が差した。俺がその表情に見とれていると、彼女は顔をこちらに向けて上目遣いで

俺の方を見る。彼女の求めに応じるために、自分も少し顔を近づけて小さめに声をかける。

748: 2013/10/08(火) 20:00:06.63 ID:lT0ghM6n0
「わかったよ、結衣」

結衣はえへへと照れ笑いをして、左手で頬を撫でつけていた。土曜日に何度も名前を呼んでいる筈なのに、そんな彼女の

反応になんだか自分も恥ずかしくなって顔を背けてしまう。しかし、そんな甘い空気は早々に断ち切られる。

「ヒッキー、ちょっとこっち向いて」

「は、はい」


振り向くと、結衣は口角を上げてこちらを見つめてきた。でも、その目は笑っていなかった。

「ヒッキーもわかってるとは思うけど…………別に、あたし土曜日のこと許したわけじゃないからね」

「そ、そんなすぐ許してもらえるなどとは……」

「だから、その代わり……」


結衣はそう言いかけて、俺の方にどんどん顔を寄せてくる。鼻と鼻とが触れそうになる直前で、俺が顔を少し横に向ける

と彼女は吐息混じりにこう耳打ちをする。

「『好きって言う』約束…………ちゃんと、守ってね」

「も、もちろんです……」

749: 2013/10/08(火) 20:02:57.51 ID:lT0ghM6n0
顔と手に変な汗をかきながら、俺がたじろぎながらそう答えを返すと結衣は満足したのか、顔の位置を元に戻してから

ニッコリと妙に凄みのある笑顔で俺に微笑みかけてくれた。どうにも手汗が気になって俺は握られた手をほどこうとする

が、かえってそれが向こうの握る力を強めてしまう。俺は思わず結衣に話しかける。


「い、いいのか?たぶんベタベタしてるのに…………」

「いいよ、あたしは……。あたし、ヒッキーともっとベタベタしたいもん」

「そ、そうですか……それなら、まぁ……」

彼女の言った“ベタベタ”という音の響きになんだか変な気分になりつつ、俺と結衣は手を握り合っているのだった。


二人とも無言のまま時計の針を進めさせて、しばらく経つと結衣がまた口を開いた。

「ところで、さっき言ってた話なんだけどね……」

「お、おう……」

「実は……あたしもヒッキーと同じようなこと、考えてたんだよね」

「えっ?」

結衣の唐突な告白に、俺は困惑して首をかしげる。“同じようなこと”というのは具体的には何を指しているんだろうか?

俺がそのことを尋ねようとして口を開きかけると、先に結衣が続ける。


750: 2013/10/08(火) 20:05:40.12 ID:lT0ghM6n0

「あのね…………あたし、土曜日にデートしてた時はその……浮かれてて、ヒッキーのことをあんまり気にかけてあげ

られてなかったんだと思う。だから、別れるって言われた時は正直ショックだったけど…………でもヒッキーが心配性な

こと、甘く考えすぎだったなって後で思い直した。今日、もしヒッキーがまた付き合おうって言ってくれなかったら……

……あたしはあなたにもう一度告白するつもりだった。それでもダメだったら、また明日も…………それこそ、ヒッキー

が本当に安心できるようになるまで」


自分は自分で結衣にそこまで気を遣わせていたことに、申し訳なくなりまた頭が下がっていってしまう。

「安心させられるようにって……それ本来は男が言うべきセリフなんじゃ……」

「それはそうかもしれないけどヒッキーは言ったじゃん、あたしと対等な関係でいたいって。それでヒッキーがあたしを

安心させようと頑張るならあたしも同じように頑張りたいと思う。だから、ヒッキーがあたしに一方的に告白することは

ないんだよ」

「由比ヶ浜……」

目頭が熱くなり、俺は彼女の心遣いに思わずそうつぶやく。すると、由比ヶ浜は何故か首を横に振る。

「ゆ、い」

「あっ……悪い…………結衣」

751: 2013/10/08(火) 20:09:09.50 ID:lT0ghM6n0
俺が名前を言い直すと、結衣はふふっと微笑みかけてくれた。その笑みに自分もつられて頬が緩んでしまう。しかし俺の

緊張の糸は、まだどうにか切れずに済んでいた。結衣は目を細めて話を続ける。


「あたし…………土曜日にデートしてる時にね……普段とは違うヒッキーをたくさん見ることができたと思ってたんだ。

そのことがとても……嬉しかったし、楽しかった。まぁ、あんなことがあったから無理してた、という言い方もできる

のかもしれないけど…………。だから、別れようって言われたのは嫌だったけど…………でも、それでヒッキーのことが

嫌いになるというよりは……もっと知りたかった。ヒッキーの考えを。好きとか嫌いとかいう前に、ヒッキーの考える

ことってちょっと普通ではありえなくて、変わってて……面白いから。だから、その……今日……まぁ、ずっととは言わ

なくてもヒッキーがこれからもあたしと一緒にいたいって言ってくれて……良かった。だって、一緒にいなかったら知る

ことさえできないでしょ?」

「結衣……」


同情でも憐憫でも気休めでもなく…………ただ、ただただ純粋に自分の存在に興味を示してくれていることに、俺は感嘆

の声を上げざるを得なかった。結衣が気遣いではなくそう言ってくれたことが、俺の感情をさらに揺さぶる。自分が平静

を保ちたいが故に、俺はこんなことを口にしてしまう。


752: 2013/10/08(火) 20:11:45.60 ID:lT0ghM6n0
「でも……その、なんというか…………もう、結構なんだ……お互いのこと知ることは、できてはいるんじゃないか?」

「“今”のあたしとヒッキーに関しては、そうかもね。でも、これから先のあたしたちのことはまだわからないでしょ?」

「そ、そうだな……」

今まで散々自分が心の中で思って、また口にしてきた“先のことはわからない”というセリフをこう使われるとは…………。

「あたし、楽しみにしてるよ。恋人同士になったあたしたちのことを。それで、もっとヒッキーがあたしのことを知って、

あたしがヒッキーのことを知ることができるのを…………」

「……」


これ以上感情の波に飲まれたくないので、俺は下手なことは言えずにただ黙るしかなかった。結衣の言っていることが

間違っているわけでもないのだし。俺と結衣が恋人同士という関係になって…………たぶん、その過程で由比ヶ浜結衣も

比企谷八幡も少しずつ変わっていくのだろう。でも、何だろうか……自分はもはやそういう“変化”というものに嫌悪を

感じなくなっていた。たぶん、それは――――。

「ヒッキー?」

少し間があいてしまったので、結衣に顔を覗き込まれる。あ、あんまり今近寄らないでくれよ…………目が潤んでいるの

がバレるから。

753: 2013/10/08(火) 20:13:31.49 ID:lT0ghM6n0

「ああ、悪い…………俺も……楽しみにしてるよ。自分と結衣とのこれからについて。少し怖いとも思うけど、な」

「そ、そっか…………でも、大丈夫だよ」

「……何を根拠にそんなこと言えるんだよ」

「あたしが大丈夫だと思ってるから」

「……そうか。なら、…………大丈夫だな」

「……うん」


俺と結衣は何やら曖昧でふわふわした会話を交わすが、でも何故か現時点でこれ以上とないくらい確実な言葉の応酬で

あると自分には感じられてしまった。何の混じり気もない澄みきった、ただただ純粋な感情のやり取り。なんだか胸が

ぞわぞわして、自分の中にある澱んだものが浄化されるような感覚に俺は襲われる。しかし、結衣の言いたいことはまだ

これで終わらなかったのだった。

「ねぇ、ヒッキー?」

「ん?」

「土曜日の別れ際に…………あたしに言ったこと、覚えてる?」

「え?」

754: 2013/10/08(火) 20:16:56.45 ID:lT0ghM6n0
あの時も結構色々なことを口にしていたし、思い当たる節が多すぎて一体何のことか判然としない。結衣は俺の反応を

見て少し眉根をひそめる。

「ヒッキー言ってたでしょ?今の幸せは自分の手に余りすぎるって。それで、それを逃したくないって。でも、どうして

も自分の手からは零れてしまうって。それで、ちょっと考えてたんだ。ヒッキーの言ったことを……」

「ああ、うん……」


確かにそんなことを言った気はするが、だからどうしたらいいとかそこまで考えて口にしたことではなかったので、結衣

が今その言葉を発したのが少々意外に感じられた。まぁ、結局は臆病だったからそんなことを自分は言っただけだと思う

のだが。しかし、頬を緩めて微笑を浮かべる結衣が次に告げたのは予想外の内容だった。


「それでね…………なんでヒッキーの手から零れちゃうのかっていうとね……それは、ヒッキーの手がボロボロだから」

「!」

「そうなったのはたぶん、人と関わって傷ついたり……自分の手のことは無視して困ってる人に手を差し伸べてきたから

なんだよ」

「ゆ、由比ヶ浜……もう、それ以上は…………」

なんとなく次に言うことが予想できてしまって、俺は反射的に“由比ヶ浜”と呼んでしまう。だが、彼女は俺の制止を無視

してそのまま続ける。



「でも、あたしは…………“そういう”手をしているヒッキーのことが、好きになっちゃったんだ」

755: 2013/10/08(火) 20:21:17.78 ID:lT0ghM6n0
そう言って結衣は握っていた手をいったん離し、両手を前に出すように促す。こちらがそれに応じると、彼女は俺の両手

を組ませる。そして、結衣に撫でるようにして触れられて俺の手が包み込まれる。

「だからね…………ヒッキーの手から幸せが零れなくなるまで、こうするんだ」

「こ、こうするって……」



「あたしがヒッキーを……“手当て”するよ」

「!!!」



――――ああ、いかん。もう…………ダメだ。抑えきれない、この感情は。

そんな言い方をしたら、“今”の俺の存在そのものを認めてしまったようなものじゃないか。

しかも、その“今”の自分というのは“過去”の出来事の積み重ねによってつくられたものだ。

人間関係がうまくいかなくて一人ぼっちだった自分。

斜に構えたり、捻くれたものの見方をするようになってしまった自分。

でも、いつもどこかで自分の“影”を他人に見出して、自身のことは無視してそれに手を差し伸べてしまう自分。

そういう過去の積み重ねを否定しないで、結衣はそのまま受け入れてしまった。

“今”の俺によって、結衣には色々と迷惑をかけたり、傷つけたりしてしまったのに。

それなのに、そんな自分を差し置いて俺を“手当て”するだって?

結衣は俺と一緒にいることで起きる悪いことも、不都合なこともすべて飲み込んでしまったかのようだ。

俺は今まで、自分の存在は自分が認められていればそれでいいと思っていた。

でも、今は違う。俺の一番好きな人が、俺の存在そのものを――――


756: 2013/10/08(火) 20:24:18.69 ID:lT0ghM6n0
今までずっと自分の中に溜めていた心情が、奔流のように襲ってくる。

俺の中の“引き出し”が、開け放たれてしまう。

感情の緊張の糸が、すべて切れてしまう。

溢れ出してくる思いに、俺は耐えきれなくなって手をふりほどき、椅子から立ち上がり、結衣に背中を向けてしまう。


「ヒ……ヒッキー……?」


少し不安げな声を出す彼女を無視して、俺は虚空を見上げる。でも、もう間に合わなかった。

堰を切ったように俺の目から涙が溢れ出した。

さっと制服の袖で拭き取ろうとするが、そんなことをしても次から次へと流れ出てくる涙に動きが追いつかない。

嗚咽が漏れてしまい、ガタッと音がして結衣の足音が近づく。


「な……泣いてるの?ヒッキー……」

「お、俺は……な、ないて……っ……なんか……」

そんなバレバレの嘘をつく俺に、結衣は後ろから優しくささやくように声をかける。

「ねぇ……こっち……向いて?」

「や、だよ…………こんなっ……カッコ悪いところ……好きな子、に……見せ……」

俺は往生際の悪い抵抗をするが、次の彼女の言葉にそれも無駄だと思い知らされる。

「ヒッキーはあたしの泣き顔を見たのに?それってなんか…………ズルくない?」

757: 2013/10/08(火) 20:27:14.69 ID:lT0ghM6n0

結衣の言ったことに反論できる筈もなく、俺は渋々彼女の方に振り返った。結衣は困ったような、ほっとしたような表情

で俺の方を見る。そして、ポケットからハンカチを取り出して手を伸ばして涙の流れる俺の頬を撫でた。

「い、いいよ……結衣……俺……自分のっ……あるし……」

「このハンカチ、ヒッキーのだよ」

「え?」

「土曜日の時、あたしに渡してそのままだったでしょ?だから……」

「ああ……そ、そうか……」


俺は結衣から自分のハンカチを受け取り、涙を拭く。自分がそうしている間に、彼女にはさらに距離を詰められてしまい

そのまま両手を背中に回されて抱きしめられてしまった。その行為が、俺の涙をさらに増やしてしまう。

俺はしばらく、結衣に「ごめん」とか「ありがとう」とかしか言えずに泣き続けるほかなかった。

その間、結衣は俺の頭をぽんぽんと触ったり、「大丈夫だよ」などとあやすように声をかけてくれた。


758: 2013/10/08(火) 20:30:01.73 ID:lT0ghM6n0
どうにかこうにか、流れてくる涙が収まってくると俺はいったん彼女から体を離そうとする。結衣も状況を理解したのか

それに応じて回していた手を戻して、再び二人で立って正面で向き合う形になる。

「……少しは落ち着いた?」

「ま、まあな……」

そう答えると、結衣は微笑んで少し首を傾けて涙の流れた痕のある俺の頬を指で優しく撫でる。俺は彼女に言うべきこと

があると思っていたのでそれを口に出そうとするが、泣いた後のせいなのかなかなか声が出てこない。先に口を開いた

のは結衣の方だった。


「ヒッキーもずっと…………辛かったんだね。なかなかあたしには……見せてくれなかったけど」

「やめろ、今そんなこと言うんじゃない。また泣きたくなっちゃうだろうが」

「いいじゃん、泣けば。良いところも悪いところも全部…………見せておきたかったんでしょ?」

「お前な……」

ちょっと意地悪な気遣いに、俺は苦笑いを返す。結衣は相変わらず微笑んだままだった。今度こそ俺は自分が伝えるべき

ことを言うため、ハンカチをしまって彼女の肩に手を置いた。結衣は少し驚いたような表情をする。

「ヒ、ヒッキー?」

759: 2013/10/08(火) 20:34:10.74 ID:lT0ghM6n0
今度は自分の方から近づき、手を回してそのまま結衣を抱き寄せる。

片手を頭の後ろにやって、彼女の髪を撫でる。

くっついた体で、彼女の柔らかい感触をその肌に感じる。

少し鼻で息を吸い、彼女の匂いを嗅ぐ。

俺は全身を使って由比ヶ浜結衣という存在そのものを味わう。


もういい加減、年貢の納め時か――――。


今の俺はこの子のためなら何だってできると、そう思える。

何を口にしたっていい。

何を実行したっていい。

何を犠牲にしてもいい。

自分のくだらないポリシーなんて投げ捨ててしまってもいい。

俺は自分で、お互いに対等な関係でいたいと、そう彼女に告げた。

その彼女は、俺が直接口にはしていないけれども、でも俺が心の奥底でもっとも望んでいたことをしてくれた。

そうであるのなら、俺もこの子が今一番望んでいることをするべきなのだろう。

今こそ、今をおいて彼女が一番に望む言葉を言わないで――――いつ言うというのか。


もう、覚悟は決めた。俺は一度深く息を吸ってから、由比ヶ浜結衣にこう告げる。



「これからは、ずっと一緒にいよう…………結衣」




781: 2013/10/12(土) 22:16:39.62 ID:uMgeVN9Q0
「ヒ、ヒッキー…………」

結衣は震えるような声で俺をそう呼ぶと、その後はちゃんとした言葉にならずに今度は彼女が嗚咽を漏らし始める。俺は

いったん抱き寄せていた体を引き離し、涙を流している結衣を見てポケットからハンカチを取り出そうとする。すると、

さっき自分が言ったのと同じ言葉を返される。

「あたし、自分の、ある……から……」

「そ、そうか……」

結衣はそう言って自分のをポケットから出してハンカチを頬に当てる。手持ちぶさたになった俺が考えあぐねていると、

先に彼女から声をかけられる。

「また…………ギュッて……して?」

「……わかった」

結衣の求めに応じて、俺は再び彼女を抱き寄せる。そうすると、嗚咽がより激しくなったように聴こえる。さっきと違って

俺はなかなか結衣に声をかけられずにいた。しばらくして、どうにか一言だけ口に出すことができるようになる。


783: 2013/10/12(土) 22:19:39.76 ID:uMgeVN9Q0
「もう……大丈夫、だから……」

「あ、ありがと…………その、……ヒッキーは?」

「え?」

彼女の思わぬ質問に、俺は思わず困惑の声を上げてしまう。その反応に、結衣は泣いたまま少し笑ってこう返す。

「ちょっと……さっき言ったこと……その、無理して言ったんじゃないかと、思って……」

「こんな時まで俺の心配かよ…………まぁ、正直なところ……ちょっと無理、というか……背伸びはしたかもな」

「そっか……」

「でも、それもお互い様……だろ?結衣がこのタイミングで泣いたってことは…………お前も背伸びしてたってことじゃ

ないか?本当はまず自分が安心したかったのに、俺のこと気遣わせて…………悪かったな」

「いいよ……それは、あたしが勝手に思ってしたことだし……」

「だから、俺も自分で決めて口にしたことだ。結衣が気にする必要はないよ」

そんなやり取りに、俺と彼女の口からは思わずふふっと笑いが漏れる。お互いがお互いのことを想って自分のことを差し

置いて少し背伸びをしてしまう。それで、また互いに心配し合う。そういうことは、本当は長続きしないから良くはない

のだろうけど、でも…………今はその状態が何故かとても心地よく感じてしまった。

784: 2013/10/12(土) 22:22:54.69 ID:uMgeVN9Q0
しばらくそんな状態に身をゆだねていると結衣の嗚咽も収まってきた。彼女が俺の背中に回していた手を引っ込めたので

自分もそれに応じて抱きしめていた結衣から体を離す。正面で向き合うようになって、また彼女から話しかけられる。

「ヒッキーもあんまり……無理しないでね。さっき言ったことも……別に、あたしは……」

「いや…………俺は一度口にしたことはちゃんと……その責任は取るつもりだ」

「ヒッキーは…………変なところで真面目だもんね」

「“変”は余計だ……」

さすがにもう互いに言うことも尽きてきたのか、ただ黙って見つめ合うだけになった。結衣の表情もさっきの笑顔に戻り、

俺の頬も緩む。もうこのままずっとこうしていたいとも思ったが、俺は彼女に言っておくべきことがあるのを思い出す。


「あ、あのさ…………とりあえず、俺は言いたいことはだいたい言えたが……お前は?」

「あ、あたしも言えたと、思う……」

「そうか…………じゃあ雪ノ下を呼んでくる。かなり待たせちまったし、早いとこ……」

「あ、あたしが行くよ!」

結衣は一瞬ハッとするが、すぐに俺の言ったことを理解して勢いよく手を挙げて叫ぶようにそう言った。彼女の反応の

良さに、俺はふっと息が漏れてこう返す。

「じゃあ……頼むよ」

「うん!」

785: 2013/10/12(土) 22:25:21.74 ID:uMgeVN9Q0
元気よくそう返事をして結衣は歩き出し、扉を開けて外に出るといったん振り返ってこっちを見て胸の前で手を振った。

俺も手を振って返事をすると、彼女はニッコリと笑ってからぱたぱたと足音をさせながら部室から遠ざかっていった。


一度に色々なことが起こり過ぎて自分の頭の処理が追いつかないせいなのか、倒れ込むようにして椅子に座り、俺の口

からは長いため息が出る。

これで…………良かったんだよな、たぶん。

少し自分が予定していたのとは違ってしまったが…………とりあえず、俺と由比ヶ浜結衣とのことはどうにかこうにか

答えを出すことができた。

あとは…………雪ノ下雪乃とのことだけだ、答えを出すべきなのは。



俺は、先週の期末試験終了日に雪ノ下の家で二人だけで話し合ったことを思い出していた。



796: 2013/10/12(土) 23:03:08.34 ID:uMgeVN9Q0


⑬雪ノ下雪乃が見つめる先にあるものとは。


「私…………あなたのこと、好きよ」


既にほぼわかっていたことではあったが、いざ本人から直接言葉にされるとなるとやはりそのインパクトはケタ違いの

ものがあった。俺は彼女のその言葉の重みをどうにか受け止めて返事を返そうとする。


「雪ノ下。すまないが……」

しかし、俺が言い終わる前に雪ノ下は憂いを帯びた笑顔のまま再び口を開く。

「でも、私は今のあなたをそのまま受け入れることはできないわ。だから、私の恋人になることは諦めてちょうだい」

「いやいや、今お前の方から告白してきただろ。なんで俺が振られたみたいになってるんだ」

「あら、先に告白してきたのはあなたの方でしょ?私はそれに対して『ごめんなさい』としか言ってないわ。それとも何?

あなたごときに私を振る権利があるとでもお思いで?」

「お前……」


ああ…………これは“いつもの”、そして“俺が望んでいる”雪ノ下雪乃という像そのものだ。彼女はそれをわかっていて、

今わざとそう演じてみせたのだ。そして、その行為に対して心地よく感じてしまっている自分がいる。そのことが、俺と

彼女がこのまま恋人としては付き合えないことを端的に表していた。彼女は彼女なりのやり方で、今それをハッキリさせ

てしまったのだ。俺の返事を聴くまでもなく。

だが、それはそのまま俺が黙っていていい理由になるわけではない。俺は俺で彼女にきちんと言葉で伝えなければなら

ないことがある。もちろん、それは雪ノ下も理解している。だから、彼女は俺から顔を背けてこう尋ねる。

787: 2013/10/12(土) 22:34:41.23 ID:uMgeVN9Q0
「比企谷くんは…………私のこと、好き?」

懇願するような彼女の声色に、胸の内が波立つような感覚に襲われる。しかし、その質問に対する答えはもう決まって

いた。俺は、雪ノ下の横顔に向かってこう告げる。


「俺は雪ノ下のことが、好きだ。でもそれは……………………恋人にしたい、という意味の……好き、ではない」


「そう…………そうね。そう……わかっていたわ」


雪ノ下は落ち着いた声でそう言った後、ふっと息をついてカップに手を伸ばす。少しうつむいた状態で、顔の近くまで

カップを引き寄せるとそこで動きが止まる。一瞬間を置いて、カップの液面に波紋が広がった。

「雪ノ下……」

「ごめんなさい、今……話しかけないで。こっちを…………見ないで頂戴」

「わ、悪い……」

雪ノ下は声を震わせながらそう言って、カップをテーブルに戻した。勢いよく置いたので、液面が波打って紅茶が零れ

そうになる。俺は彼女のお願いを聴いて、反対側に顔を逸らした。ソファがギッと音を立てて雪ノ下が立ち上がる。


「比企谷くん。私の方から呼びつけておいて、悪い、とは思うのだけれど…………少し……十分、いえ……十五分だけ

…………ここで座って待っててもらえるかしら。必ず…………もど、るから……」


途中から嗚咽が漏れ、声も途切れ途切れになりながらどうにかそこまで言い切ると、雪ノ下は俺の返事を待たずしてその

ままリビングから走るように出ていってしまった。俺は彼女の言葉が途切れる前に、手を伸ばして引き止めたくなる衝動

にかられるが、“必ず戻る”というフレーズを聴いてどうにかそれを思い留まった。

788: 2013/10/12(土) 22:38:38.60 ID:uMgeVN9Q0
足音が止まり、部屋のドアがバタンと閉められる音がした後は、しばらく何も聞こえなくなった。

何度か、部屋に様子を見に行こうかとも思ったが、さっきの彼女との会話を思い出してその気持ちを胸の内にしまう。

俺はただソファに座ったまま、窓の外を眺めて時が過ぎ去るのを待つほかはなかった。


しばらくしてドアの開く音と足音が何度かするが、彼女はそのままリビングに戻るということはなかった。


俺が時間を確認しようとスマホを取り出そうとすると、後ろから声がかかる。

「……待たせたわね」

「もう…………いいのか?そっち向いても」

「……いいわよ」

俺が振り返ると、穏やかに微笑を浮かべて立っている雪ノ下雪乃の姿があった。今日俺がここに来て彼女の様子を見た時

と同じ状態に戻っているかのようだった。雪ノ下はこちらに近づいて、また俺の隣に座り直した。最初に何を話すべきか

考えあぐねていると、ふっと息をついて先に彼女の方が口を開く。もう声が震えるようなことはなかった。


「比企谷くんが優しくなくて屑であるおかげで助かったわ。部屋に様子でも見に来られていたらどうなっていたことか」

「相変わらず反応に困る言い方だな…………とりあえず、その……大丈夫なのか?お前」

「大丈夫なふりができる程度には大丈夫……といったところかしらね」

789: 2013/10/12(土) 22:42:07.26 ID:uMgeVN9Q0
雪ノ下はそう答えると、少し毒のある笑顔でこちらを見つめてきた。その目は「大丈夫でないのはお前のせいだ」と

言わんばかりで俺が返す言葉に窮していると、彼女はいったんこちらから視線を外す。

「大丈夫よ、私は。さっきあなたが放っておいてくれたおかげで。これで私はあなたにこれ以上の好意を持たずに済んだ

のだし、自分を見失うようなこともなくなった。そして、おそらくあなたの……その……これからするであろう選択を、

鈍らせるようなことにも……ならずに……」

雪ノ下の声はだんだんと小さくなり、言葉に詰まる。さっきの俺の行動を彼女が肯定している以上、気休めの言葉や一見

優しく見えるような行為をするわけにもいかず、俺は雪ノ下が言葉を続けるのをただ待った。


「ありがとう…………比企谷くん。さっき私のことを好きと言ってくれて。たとえそれが……恋人にしたいという意味で

なくても。私は……それでも嬉しかった」

そこまで言い切って、雪ノ下は俺の方を見て微笑んだ。隠しきれない影のある笑顔が、俺の心を突き刺す。しかし、嘘

偽りのない彼女の言葉には自分も相応の言葉を返さなければならない。俺も雪ノ下の目に視線を合わせる。


「俺も…………嬉しかったぞ。雪ノ下が俺のことを好きと言ってくれて。それがどういう意味であっても。だが……」

「……あなたには今、他に恋人にしたい人がいる」

「ああ」

「それに、たとえ今の私とあなたが恋人同士になったとしても……うまくいくとは思えない」

「……ああ、そうだな」

791: 2013/10/12(土) 22:45:44.90 ID:uMgeVN9Q0
俺が二度目にした肯定の返事は、少し声がうわずった。嘘を言ったわけではないのだが、うまくいくとは思えないのは

別に相手が雪ノ下だからという理由ではない。どちらかというと俺の方に問題がある。だから、誰であっても似たような

返事にならざるをえないのだろう。それこそ、今週末に会う予定になっている人に対してでさえ。そんなことを考えて

いると、視線を外して前に向き直った雪ノ下がまた話し始める。


「私……あなたにはどうにかして幸せになってもらいたいと、心の底からそう思っているわ。だから私と同じ轍は踏んで

ほしくない」

「……同じ轍?」

「そう。自分本位の考えでこんなことを言うのも少しはばかられるけど……まぁ、仕方ないわね。私のクラスの人から

変なメールが来た日に、比企谷くんが私に告白をして……」

「あれは……本当に……悪いことをしたと思っている。俺はお前の……」


彼女の話が終わる前に、反射的に俺がそう答えると雪ノ下はこちらを向いてジロッと一瞬だけ睨む。

「比企谷くん。そういうのは私の話が終わってから。ね?」

「は、はい……」

「よろしい。実際のところ、問題があったのはほとんど私の方だわ。あの時まで自覚が薄かったという言い訳もできるの

かもしれないけれど……でも、私は自分の気持ちに正直に答えることができなかった。周囲の目を気にして……臆病に

なって…………変なプライドなんて捨ててしまってあそこでOKするということだってありえたかもしれないのに」

792: 2013/10/12(土) 22:49:10.68 ID:uMgeVN9Q0
不毛なことだとは思いつつも、俺と雪ノ下は過去の可能性について話を続けていた。まぁ、仕方ないさ。“今”は“過去”の

積み重ねによってつくられているのだから。“未来”のために、前に進むために、人が何かを諦めたり納得したりする必要

に迫られることはさして珍しい話でもない。そのためにはこういう行為も時には必要なのだろう。“諦める”ことに慣れて

いない人間にとっては尚更そうであると俺は思う。


「いや…………OKされていたら今度は俺の方が困っていたぞ、おそらく」

「ええ、それはわかっているわ。だから自分本位の考えだと言ったのよ。由比ヶ浜さんの気持ちだって無視しているの

だし。私が言いたかったのはたとえOKしていたとしても、その瞬間だけは良くてもたぶん長続きしない…………いえ、

それだけならまだしも……今よりももっと悪い状態になっていた可能性が高いということよ」

「それは、その……まぁ、そう……なんだろうな」


俺の立場からしてみると、最初から断られることしか想定していなかったので、雪ノ下の言うifの話がどの程度当たって

いるのか正直なところよくわからない面もあった。しかし、今彼女がこれを話しているのは“希望を捨てる”のが目的で

あることは明白だったので、俺は反論する気にもなれなかった。


言葉が途切れてしばらく沈黙が訪れた後、雪ノ下から唐突に質問を投げかけられる。

「比企谷くん。その……これは、あくまで参考までに訊きたいのだけれど…………あなたは……その……わ、私のどこが

……好きに…………」

「え?」

793: 2013/10/12(土) 22:53:07.26 ID:uMgeVN9Q0
思わず彼女の方を見ると、少し下を向いて頬をほんのりと染めていた。いや、その様子は可愛いんだけど何故急にそんな

話題に……?話題を転換するにしても雪ノ下らしくないような。…………そういう考え方はなるべくしないようにして

いるつもりなんだけどな。やっぱりどこかで俺は彼女に何かしらの幻想を見ずにはいられないのだろうか。これから答え

なければいけないのは実際の雪ノ下についてのことなのに。別に今からすぐ俺と彼女の関係が変化するというわけでも

ないのだが、そういうことを言うのはどこか照れくさいもので、俺は思わず頬を指で掻く。


「俺が好きなのは、え~と……その……強く、あろうとしているところ、とでも言えばいいのかな」

「…………そう」

俺の答えを聴いて、雪ノ下は少しだけ口角を上げてただそれだけを口にした。その表情を見るにつけ、俺の言った言葉は

一応彼女の期待したものの中に収まっていたようだ。俺は安堵から、雪ノ下に聞こえないようなくらいの大きさで一息

つく。少しの沈黙の後、雪ノ下はこちらを向いてまた質問をしてきた。

「あなたの方は…………その……訊かなくても、いいのかしら」

「え?」


催促するような彼女に対して俺が思わず困惑の声を上げてしまうと、雪ノ下はむすっとしてしまった。ああ、最初から

それが言いたいがために先に俺に質問してきたのね。彼女の機嫌をこれ以上損ねないために、言い方に気を遣いつつ、

俺は口を開いた。

794: 2013/10/12(土) 22:57:14.58 ID:uMgeVN9Q0
「ええと……雪ノ下さんが俺のどこを好きになったのか…………教えてください」

改めて俺がした質問に、彼女はうつむき加減で唇をかすかに動かしてこうつぶやく。


「……弱いところ」


「それ、素直に喜んでいいのか困る答えだな……」

「当然、喜んでいいわけないでしょう?もっとも、あなたが素直でないことくらいはわかっていたつもりだったから、

喜ばないのは想定内だったけれど」

「なんで俺の好きなところを言ってもらう話で俺の心がえぐられているのでしょうか……」


ある意味正常運転の雪ノ下に、安心とあきれで変なため息が出てしまう。そんな俺の様子に彼女はふっと笑みをこぼして

さらに言葉を続ける。

「比企谷くんは自分の弱いところをはっきりと認めてしまっているし、そうであるが故に人の弱いところも認めてあげる

ことができる人だと私は思っていた。そういう面においては私もずいぶんと救われた部分があると思うわ」

「そ……そうですか……」

「ええ、そうよ」


落として急に持ち上げられたので、俺は戸惑いを覚えると同時に体が熱くなるような感覚に襲われる。しかし、彼女の

言ったことの理解が進むにつれ、俺の心にはまた影が忍び寄ってきていた。案の定、微笑んでいた雪ノ下の表情が曇り、

少し哀しげな顔に変わってこう告げられる。


「でもね…………そういう意味では正直に言って、最近のあなたの行動に私は失望していた」

802: 2013/10/15(火) 22:21:56.43 ID:pnA9FjtQ0
雪ノ下の“失望”という言葉が俺の肩に重くのしかかり、自然とうつむきがちになってしまう。しかし、次の瞬間彼女は

俺の方を向いて顔をこちらに少し近づけてから、頭を下げた。どんな表情かはうかがい知ることができない。

「……ごめんなさい。私も反省しているわ。文化祭以降、あなたに過剰な期待を抱いていたことに。そして、結果的に

それがあなたを追いつめていたことに」

「いや、そう言われてもな…………俺もそういうところはあるし、期待するのも失望するのもお前の好きにすればいいん

じゃないか?」

つい口からそんな言葉が出てしまう。それがいけないことだとは自分でも半ば承知しているつもりなのに。俺の言葉を

聴いて雪ノ下は頭を上げ、眉をひそめる。


「それよ、それ。そういうことを言うところよ。本当はそんなこと思っていないくせに」

「……」

「比企谷くん……例のメールが来てあなたが私に嘘の告白をした時、本当に私を助けるつもりであんなことをしたの?」

「それは……」


改めてそう尋ねられると、俺は肯定の言葉を返すことができなかった。確かに、建前として雪ノ下を噂から解放すると

いうことがいえなくもないが、この件に関してはこれしか方法がなかったというわけではない。緊急性があるというもの

でもなく、自然消滅に任せることだってできた筈だ。俺は自分の行動にうまく説明をつけることができずに黙るしかなか

った。そんな俺の濁った目を、雪ノ下は何かを見透かすようにじっと見つめた。そして、俺の心を撫でるかのような声で

彼女はこうささやく。

803: 2013/10/15(火) 22:25:21.93 ID:pnA9FjtQ0
「本当に助けてほしかったのは…………何よりもあなた自身だったのではなくて?」

「!」


俺が反射的に雪ノ下の方に頭を振ると、こちらの反応は織り込み済みだったためか、彼女は穏やかな表情で目を細めて

そのまま言葉を続ける。

「そうでなければわざわざあんな行為をする必要がない。私にも責任の一端がなかったとはいえないわ。修学旅行の後、

私があなたにきちんと自分の気持ちを伝えていたら……」

「い、いや……あれはお前が何かしていたからといって……」


よく頭も回らないままに適当な言葉を返そうとするが、そんなことはお見通しに決まっていて俺が言い終わる前に彼女

は自分の言葉を話し続ける。

「あなた……私や由比ヶ浜さんに失望されて自分の元を去られるのが怖かったのでしょう?それこそ…………かつての

私のように。それであなたはあえて私たちを失望させるようなことをした。……違う?」

彼女の言葉は、まるで潤滑油のように頭の中の歯車の隙間に流れ込んできた。俺は修学旅行後に、彼女らとの関係をどう

するべきか考えていたのを思い出す。さっきとは違って口からすんなりと言葉が出始める。


「……たぶんそうだったんだと思う。俺はあの時、雪ノ下や由比ヶ浜にこれ以上距離を詰められるのが怖かったんだ。

親しくなればなるほど、その分離れていった時のダメージは大きいから。だから、お前たちと距離を取るという意味合い

もあってあんな方法を取ったんだ。……実際はうまくはいかなかったけど。むしろお前の言うように、俺はこんな自分で

あるということを、雪ノ下や由比ヶ浜に見てほしかったのかもしれない。そういう弱くて臆病な自分の姿を。でも、それ

はなんというか……ちょっと甘えてるよな」

804: 2013/10/15(火) 22:27:34.33 ID:pnA9FjtQ0
急に饒舌になった俺の姿を見て雪ノ下は少し目を見開くが、それも一瞬のことで終わる。俺はどうにも情けなくて彼女

から顔を背けるが、それについては何も触れずに雪ノ下は優しくこちらに声をかける。

「別にいいのよ、甘えたって。ただ、もう少し方法を考えてほしいというか……」

「それは…………その通り、だな」

「もう私も弱くて臆病なこと自体をどうこう言うつもりはない。私だって……あまり人のことは言えないのだし」

「そ……そうなのか?」


俺がぽかんとして彼女そう訊き返すと、雪ノ下は不機嫌そうな顔になる。

「あなた、人の話を聴く能力くらいは人並みにあると思っていたのだけれど。さっき言ったでしょう?私もあなたと同じ

だったって。私もあなたに失望されるのを恐れていたから…………夏休み明け、事故の件を黙っていたことで……」

「……ああ、そういうことか」

「だから、あなたの気持ちもわからないでもないの。でも、だからといってわざと失望されるようなことをして……

おまけにそれで自分は平気な顔をして……それはもう……ただの強がりよ。比企谷くんは自分の弱点を曝せるところが

強みなんだから、ちゃんと弱いところも見せなさい」

「そ、そうですね……」


次々と他人に自分の心の内を暴かれていくのでどうにもむず痒く感じるが、だがそんなに悪い気分ではなかった。そして

雪ノ下はいかにも彼女らしい言葉を俺に投げかけるのであった。

かつて「人ごとこの世界を変える」と言った彼女らしい言葉を。

805: 2013/10/15(火) 22:31:04.00 ID:pnA9FjtQ0
「むしろそういう……失望されるのが怖いということは、認めてしまった方がいいと私は思うわ。そして、その上でその

ような弱い部分を変えられるのであれば、変えた方がよいのではないかと…………」

「……相変わらず雪ノ下は、雪ノ下だな」

あきれと安堵からふっとため息が出ると、雪ノ下はニッコリと笑ってこんな言葉を返す。

「あら、これも……あなたの期待に応えてみただけよ」

「そうかい……」

「ねぇ、比企谷くん」

「……なんだ?」

「もうこれからは、何かに理由をつけて私たちから遠ざかろうとするのはやめてもらえないかしら。私もあまり人のこと

を言えた義理ではないのかもしれないけれど、これからはありのままのあなたときちんと向き合っていきたいと思って

いるわ。たとえそれが私の中の幻想を壊すものであったとしても」

「…………わかった」


たぶん俺と雪ノ下は今でもほぼ同じ場所に立つことはできているのだろう。だから、距離自体はそれほど離れてはいない

のだ。でも、互いの姿を直接見ることはおそらくまだできていない。背中合わせになって見ているのは、自分の前にある

幻想という名の鏡だ。二人とも振り返って直接向き合うのには、おそらくまだ時間がかかる。しかし、現時点ではそれが

確認できただけでも充分だろう。俺もまだ、自分の中にある雪ノ下雪乃の幻想を見ているところがあるのだし。彼女の

そんな言葉を聴いて、自分も言わなければならないことがあるのを思い出す。

「それはたぶんお互い様だ。俺もお前に嘘の告白をした時、期待していたのは“いつもの”雪ノ下雪乃だったしな。まぁ、

結局それも幻想に過ぎなかったわけだが」

「……そうね」


806: 2013/10/15(火) 22:33:18.79 ID:pnA9FjtQ0
話が一段落つくと、再び沈黙が流れる。俺はその間にカップに残っていた紅茶をすべて飲み干してしまう。それを見て

雪ノ下がつぎ直すと言い俺は一度遠慮するが、彼女にまだまだ話したいことがあると言われてしまい、結局大人しく

従うことになってしまった。


しばらくして、再びテーブルに熱い紅茶の入ったカップが二つ並べられる。俺と雪ノ下が一口だけ口をつけたところで、

また彼女は話し始めた。

「比企谷くん。あなたは、その…………由比ヶ浜さんと付き合いたいと思っているのでしょう?」

「ま、まあ……それは、そうだが……」


一度話したこととはいえ、こうも直球で来られるとそうなかなか自信を持って返せない自分がいる。ああ、情けない。

しかし、たじろぐ俺の反応は予想通りだったようで、雪ノ下はふっと息をついてこんなことを尋ねてくる。

「でも、今のあなたはそれを躊躇している。もし私に遠慮しているというのなら、その必要はないと先に断言しておくわ。

さっきも言った通り、もし今の私とあなたが付き合ってもおそらくお互いのためにはならない」

「そ、そう……だな」

「そして、今のあなたが由比ヶ浜さんとこれ以上距離を詰めるのを恐れているということも確認できた。それについては、

まあ……あなたに勇気を出してもらうしかないとして……」

「……」

「もしこの二つの障害がなかったとして、あなたが彼女と恋人として付き合うことを躊躇わせるものは、もう何もない?」

「……いや、それは…………違うだろうな」

俺には思い当たる節がないわけでもなかったが、しかしそれをこちらから口にしてしまうのはなんとなくはばかられた。

だが、彼女にはあっさりとそれを言い当てられてしまう。

807: 2013/10/15(火) 22:36:19.61 ID:pnA9FjtQ0
「それはもしかすると…………あなたの……人助けの方法、かしら」

「……ああ。このまま同じようなやり方を続ければ、必然的にお前や由比ヶ浜を巻き込むことになってしまう。ただ……」

「自分にはそれしかできないって?」


俺は声を発することができずに、ただ頷くしかなかった。すると、雪ノ下はこちらを向いて少し身を乗り出した。彼女の

手が近づき、俺の小指の先に触れる。手の脈打つ動きが激しくなったように感じると、雪ノ下は俺の方をじっと見つめて

少し強い口調でこう話す。

「それは違うわ。確かに、自分の身を顧みず人を助けられるのはあなたの美点であることは認めるし、私自身もそこに

惹かれてしまったことは否定できない。でも、濫用していいような方法ではない。もはやあなたはあなた一人の身では

ないのだから」


“あなたはあなた一人の身ではない”、か…………。まさか雪ノ下にこんなことを言われるようになってしまうとは、な。

今まではぼっち同士の気楽さというものが互いにあった筈だが、いつの間にこんなことに…………。しかも、そうなった

理由のひとつが“ぼっち”にしかできない方法で人助けをしたこと、なのだからもう笑うしかない。俺の口からはため息

とも失笑ともつかない変な声がふっと出る。そんな自分の反応を見て、何故か彼女は頬を緩ませて話を続けた。

「それに、こんな方法をあなただけに押しつけるのは明らかに間違っているわ。いい加減、私も葉山くんもあなたの自己

犠牲に甘えすぎたと思う。だから彼もあんなことをしたのではなくて?」

「そう……そうだったな」


彼女が言っているのは、葉山が雪ノ下に告白して俺の噂を解消したことについてだ。結果的には自分の行動が引き金と

なって葉山グループが崩壊したといっても過言ではない。さすがにこんな状況になってしまっては俺のやり方も本末転倒

と言わざるを得ないだろう。しかし、そこまで言われても俺は最後の切り札を封じることに対してすぐに承諾の返事を

することは躊躇われたのだった。

808: 2013/10/15(火) 22:39:16.22 ID:pnA9FjtQ0
「まぁ、すぐに変われというのもあなたには酷な話ではあるし、今は濫用しないでほしいとだけ言っておくわ。それに、

私がさっき言ったことは確かにあなたの大きな武器ではあるけれど、何もそれだけがあなたの取り柄ということでもない

でしょう。他にも色々と美点はあると思うわ」

「へぇ、お前が俺の美点について話すようになるとはな。ちなみにそれって例えば何があるんだよ」

俺は照れ隠しの意味もこめてそんなことを雪ノ下に尋ねてみるのだった。彼女はそう訊かれて、指を顎に当てて思案する

様子を見せる。しかし、少し自分が期待した様子を見せたのが失敗だったらしい。


「……何かあったかしら」

「おい!今お前があるって言うから訊いてみたのに…………いや、いいよ別に……ないならないで」


俺はツッコミを入れつつ、少し拗ねてみると雪ノ下はこちらを見てふふっと笑う。何がおかしいんだよ……。

「例えば、今みたいなあなたとのそういうやり取り、私は好きよ。それと…………まぁ、ロクでもないけど自分だけの

正しさを持っているところとか。単に人に流されているだけの人よりはよほどマシだわ」

「また、そういう俺が反応に困るような褒めてるんだか貶してるんだか微妙な言い回し……。それに、最近の俺は人に

流されてないとはいえなくなっている気もするな」

「それもそうかもしれないわね。ただ、私もあなたに変わってほしいと言ったのは事実だし、もし変わることによって

そういうあなたの美点が失われるのだとしたら、その責任は私が持つわ」

「責任を持つって…………一体何するつもりなんだ、お前は」

「私が『あなたには色々な美点がある』と言った以上は、比企谷くんがもしも変わってしまっても私があなたの美点を

探してあげる、ということよ」

「雪ノ下……」

809: 2013/10/15(火) 22:43:07.89 ID:pnA9FjtQ0
「……そういうこともあるから、これからは私たちから勝手に離れるようなことをしては、その……駄目よ」

「……わかったよ」

俺は目頭が熱くなるのを誤魔化すために、また手を伸ばしてカップを取って紅茶を一口飲んだ。一応の承諾の返事が得ら

れたことで、雪ノ下も満足げな笑みを浮かべてくれた。


一息ついて再び沈黙が訪れたところで、俺は自分が変化することについての思索を巡らせることにした。


結局のところ、俺は変わらないと思い続けてそれを言い続けてきたわけだが、何故そうしてきたのかというとそれは自分

自身を守るために他ならなかった。どれだけ他人から否定されようが、自分が変わらないことで自分で自身の価値をどう

にかして守ってきたつもりだった。だから、他人から見た自分などどうでも良かったのだ。でも、今ようやく初めて他人

から見た自分というものに価値を見出せそうな気がしてきている。それは、その人本人が俺にとってもとても価値ある

存在であることに他ならないからだ。その人から見た自分を守るために、変わってもいいかもしれない、と思えるよう

な気分になった。実際にはそう簡単には変わらないのだろうが、そう思えた時点でもう変化は起こっている。今はその

思いをなんとかして後退しないように努めなければならないのだろう。それがたとえ、自分やその人を一時的に傷つける

ようなことであったのだとしても。

810: 2013/10/15(火) 22:46:17.59 ID:pnA9FjtQ0
しばらく俺が黙ったままでいると、再び横から声がかかる。

「比企谷くん」

「……なんだ?」

「あなたがそう簡単には変われないのは私も重々承知しているし、たぶんまたあなたは同じような方法で人を助けてしま

うのでしょうね。もし、それであなたが謂われのない非難を受けるようなことがあれば…………その時は、私が奉仕部の

部長として責任を持って“対処”してあげるつもりよ」

「い、いや……そんなことしなくていいですから…………勘弁してください、雪ノ下さん」


妙に凄みのある笑顔で彼女にそう迫られてしまい、どもりながら自分はそんな言葉しか返せなかったのだった。俺の反応

を見て、雪ノ下はまた表情を変える。一転して今度の笑顔は穏やかだ。そして、彼女は手を置き直して俺の手の上にかぶ

せてきてこんなことを言う。

「ま、さっきのは半分冗談みたいなものだけれど…………本当に……無理、しないでね」

「あ、ああ…………わかったよ」

「それなら、いいわ」

もはや何がいいのかなんだかよくわからないが、とりあえず雪ノ下は鞘を収めてくれたようでほっと一息つく。しかし、

彼女は話したいことがまだまだあるらしく次にはこんなことを言い出した。

811: 2013/10/15(火) 22:49:21.14 ID:pnA9FjtQ0
「ところで、さっき比企谷くんは『自分も人に流されてきている』と言っていたけれど、あれは…………」

「ああ、それはまあ…………ダラダラとぬるま湯に浸かっているような人間関係を自分も認めてしまったってことかな。

そんなことはただの時間稼ぎにしかならないのはわかっている筈なのに……」

「それもまた、あなたらしい優しさの発露の結果なのかもしれないわね」

「えっ?」


嘘や欺瞞を嫌う雪ノ下のことだから、てっきり非難ないしは窘められるくらいのことは言われるかと思ったのに。おまけ

にそれを認めてしまったのは自分自身が臆病なせいだ。決して優しさなどではない。俺が困惑の表情を浮かべると彼女は

こう返す。

「あなたは他人の弱さを認めてあげられるから、修学旅行の時にあんなことをしたのでしょう?それは、あなたなりの

優しさといってもいいと私は思うわ」

「それはちょっと過剰評価だろう。それに、俺がああいうことをしても結局あいつらは…………」

「……そうね、それも理解している。だから……だからこそ、私たちに対してそういうことをするのはやめて頂戴」

「ああ…………わかっている」


そう。だからこそ、俺たちの関係を嘘や欺瞞に満ちたものにしてはいけない。そうなってしまった関係は、結局のところ

壊れてしまうものだから。そこで、俺はあることを思い出す。

812: 2013/10/15(火) 22:52:58.07 ID:pnA9FjtQ0
「ああ、そうだ。あのさ…………俺が部活を休んでいる時、先生に無理やり連れて来させないようにお願いしてくれたの、

あれ雪ノ下なんだよな?そのことに関しては本当にお前に感謝している。ありがとう」

俺がそう言うと、雪ノ下の頬が少し紅潮する。俺の手の上に置かれていた彼女の手はさっと置き直されてしまう。

「あ、いえ……それも私が勝手にしたことで、その…………あなたには、多少時間がかかっても本当のことを言ってほし

かったから……」

「じゃあ俺にも勝手に言わせてくれ。ありがとう、とな」

「まったく、あなたは…………」


俺がたたみかけるようにしてそう言うと、雪ノ下はそっぽを向いて一人で紅茶を飲み始めてしまったのだった。

823: 2013/10/19(土) 23:21:25.88 ID:IdSKSuAc0
しばしの沈黙の後、何気なく外を眺めると俺が出かける頃には薄曇りだった天気はいつの間にか回復していた。しかし、

この季節らしく陽が傾くのは早かった。リビングの中は少し薄暗くなってきていて、部屋に伸びる影も徐々に長くなる。

雪ノ下は紅茶をつぎ直した後、部屋の明かりを点けた。俺の隣に座り直すと、彼女はため息をついてからこうつぶやく。

「やっぱり私は…………あなたのことが好き。自分ではどうしようもないくらいに」

「……」


雪ノ下の理屈を超えた“どうしようもない”という一言に、自分には返す言葉が見つからなかった。俺が黙ったままでいる

と、彼女はこちらに顔を向けてきた。仕方ないので自分も視線で応じることにする。雪ノ下は深海のような瞳で真っ直ぐ

俺の方を見据えて少し強い口調でこう言う。

「私……私のあなたを想う気持ちは……他の誰にも負けるつもりはないわ。――――それこそ、由比ヶ浜さんにさえも」

「……」

「でも、でもね……」


そこまで口にして、雪ノ下は言葉に詰まって俺から視線を逸らす。正面に顔を向き直して彼女は虚空を見つめる。

「雪ノ下……?」

「だからこそ、あなたには……本当に……幸福になってほしいと思っている。私は何も、あなたを幸福にできるのが自分

だけだなんて傲岸不遜なことは考えないわ。そういうわけで…………今回は由比ヶ浜さんに譲るつもりよ」

824: 2013/10/19(土) 23:24:00.66 ID:IdSKSuAc0
彼女の重みのある言葉にきちんと答えたいとも思ったのだが、今の俺はどうにも軽口をたたかずにはいられなかった。

「お前ほど傲岸不遜な人間もなかなかいないと思うんだけどな」

「あら、あなたほどじゃないわよ」

雪ノ下はまたこちらを向いてニッコリと笑ってそう答えた。守りた……くないな、この笑顔は。怖いです、雪ノ下さん。

おまけに自分は自分で最後までエゴを通すつもりでいるので、彼女の言ったことに反論するのも不可能なのだった。ただ、

雪ノ下の言葉には疑義を呈したい部分があったので、とりあえずはそこを指摘することにする。


「ま、それは置いておくにしても……俺自身も別に由比ヶ浜に幸福にしてもらおうなんて考えてはいないしな」

「どういうことかしら」

雪ノ下は小首を傾げる。

「結局のところ…………幸福に感じるかなんて自分の気の持ち方次第だろ?まあ、せいぜい他人の気を変える手伝いが

できるのがいいとこだ」

「……あなたらしい考えね。じゃあ、その手伝いを私は由比ヶ浜さんにお願いした、とでもいえばいいのかしら」

「……どういうことだ?」


今度は俺の方が尋ねる番となった。それを聴いて、彼女は待ってましたと言わんばかりにニヤリと口角を上げる。なんか

嫌な予感しかしないぞ、オイ。

「比企谷くん、私が奉仕部の部長として平塚先生にお願いされた最初の依頼…………覚えている?」

825: 2013/10/19(土) 23:26:46.32 ID:IdSKSuAc0
ああ、ここでその話題を持ち出されるのか。元々俺は捻くれた根性と孤独体質を更生するという目的で奉仕部に強制入部

させられたわけだが、俺がそれを認めなかったために雪ノ下と自分のどちらが人に奉仕できるか勝負することになった

のだった。勝負に勝った方は負けた方になんでも命令できるらしい。勝負の裁定は本来、顧問である平塚先生がする筈

だったのだが、この前に先生と話した限りでは別に当事者同士で決着をつけてもいいことになっているようだった。現状

において俺はもうあまり勝負の結果についての関心が薄かったので、ついこんなことを口走ってしまう。


「アレ、まだ続けるつもりなのかよ。もう個人的には俺の負けってことでもいいような気もするんだがな」

「それは駄目よ。まだあなた、更生したとは全然言えないじゃない」

「確かにそうかもしれないな。それに、よく考えたら俺は更生するのを認めたというわけでもなかった」

「……やっぱりね。それと、比企谷くん。勝負に勝った方は負けた方になんでも命令できるのよ。本当に今、あなたは

私に対して負けを認めてもいいと…………そう、思っているの?」

「……思っていません」

「それならよろしい」


眼光鋭くなる彼女の目つきに、とてもじゃないが俺は迂闊に肯定の返事など返せる筈もなかった。そして、雪ノ下の立場

からもこの答えで正解だったらしい。少し笑みを浮かべて穏やかな目に戻り、彼女は正面に向き直った。そりゃあ、俺と

しても今ここで雪ノ下に「私の恋人になれ」とか言われても困るしな。今のは自分の蒔いた種とはいえ、当面の危機が

回避されて俺は安堵の息を漏らす。しかし、まだ話が終わったわけではなかったらしく雪ノ下は再び口を開く。

826: 2013/10/19(土) 23:28:58.16 ID:IdSKSuAc0

「ところで比企谷くんは…………私が由比ヶ浜さんとあなたに言った奉仕部の理念、覚えているかしら」

「え?飢えた人に魚を与えるのではなく、捕り方を教えて自立を促すって奴だろ。それがどうかしたのか?」

「そう。でも、今の私にとってのあなたは…………いわば魚そのものなのよ。だから無闇やたらと近づくと、おそらく私

はあなたのことを喰い尽してしまうでしょう」

「喰い尽すって……」


……相変わらず言い方が物騒だなあ、この子は。好きなものを喰うってあんたは有頂天家族の弁天様かよ。布袋さんの

ように転向して喰うのをやめてくれればありがたいのだけれど。眉間にしわを寄せる俺の様子は無視して彼女は追い打ち

をかけるかのようにして話し続ける。

「たぶん今の私でも、今のあなたをそのまま受け入れることももしかしたらできるのかもしれないわ。ただ、その場合は

“今の比企谷くん”以外のものはすべて犠牲にしてしまうのでしょうね。そして、あなたは私の熱で茹でガエルになって

しまうんだわ」

「……」


さっきから魚にされたりカエルにされたり忙しいな、俺。化け狸じゃあるまいし。反応に困っている自分をよそに楽しげ

に話していた雪ノ下だったが、今度は一転して物憂げな表情になる。ああ……そういうギャップも俺が茹でられる原因の

ひとつになりそうだぜ。

827: 2013/10/19(土) 23:32:20.04 ID:IdSKSuAc0
「でも、だからこそ…………私には無理なのよ。あなたを変えることは。私は由比ヶ浜さんのように器用ではないから、

今の比企谷くんを受け入れたらたぶんあなたはそのままになってしまう。ましてや更生させることなどできない。その

二つを両立できるのは、彼女だけ」

「……雪ノ下が自分で無理だというのはわからなくもないが…………由比ヶ浜にならそれができる、というのは何が根拠

になっているんだ?」


単純に由比ヶ浜が雪ノ下にとって大切な友達で、信頼が厚いという答えでもたぶん俺は充分に納得できたのだろう。でも、

実際に彼女が告げた回答はもう少し違ったものだった。雪ノ下はほんのりと頬を染めてこう答える。

「それは…………私自身がそうだったから」

「……そういう、ことか。それはなかなか…………説得力のある……根拠だな」

「ええ。そういうわけで……彼女にお手伝いをお願いしたわ。私に最初に来た依頼のお手伝いを」

「……そうか」


俺も雪ノ下も、由比ヶ浜には頭が上がらないなあ…………こりゃ。おまけに彼女が今言ったことだけではなく、これから

俺と雪ノ下がきちんと向き合えるようになるためにもおそらく由比ヶ浜の存在が必要なのだろう。俺と由比ヶ浜が、また

雪ノ下と由比ヶ浜が向き合っているのと同じようになるためにも。

自分がこれからやろうとしていることを考えると、こんなことを思うのはおかしいのかもしれないが、でも……そんな

友達を持つことができた雪ノ下を……俺は少し羨ましいと感じてしまった。友達、か……。俺は何かを思い出そうとした

が、それは雪ノ下の次の言葉で遮られる。

828: 2013/10/19(土) 23:35:07.29 ID:IdSKSuAc0
「それで、比企谷くんはその……“変わる”つもりは…………あるの?」

「……」


“変わる”か……。俺は今まで、現状から逃げるための変化というものを否定してきた。でも、今の自分に求められている

変化とはそういうものではないのだろう。むしろ、現状にきちんと向き合い続けるために変わる必要があるといった方が

正しいのかもしれない。過去の自分も今の自分も否定することなく、変化する目的がそうであるのならば自分はそうする

こともやぶさかでない。でも、今それをハッキリと口に出すのは依然としてはばかられた。それはたぶん、自分が“変化

すること”そのものに対して二の足を踏んでいるのと、雪ノ下が俺に見ている幻想を壊すのではないかという懸念がある

からだろう。それに、今の文脈で“変わる”ということを肯定するのはたぶん雪ノ下が受けた依頼の内容そのものを肯定

することになる。そう解釈されると自分としてはちょっとマズい。揚げ足取りみたいで申し訳ないが、まあ致し方ない。


「“変わる”つもりがないとは言わん…………だが、俺が“更生”することはたぶんこれからもないと思うぞ」

「……なるほど。確かに更生というと間違っているものを正すというイメージがあるわね。私も今のあなたを否定する

つもりはないから更生しろとは言わないわ。というか、そもそも無理なのよ。あなたに更生なんて。そう……あなたには、

無理。更生するのは諦めなさい。それに、もしもあなたが生まれ変わったりなんてしたら、ますます気持ち悪いもの」


立て板に水でまくし立てる雪ノ下に俺まで流されてはたまらないので、なんとかしてこちらも言い返す。

「自分で言った手前、こういうのもなんだがそんな何度も無理って言わなくてもいいだろ?そんなこと俺が一番よく理解

してますから。それに“ますます”ってどういう意味だ?元から気持ち悪いってことかよ」

「えっ?違ったかしら?」

「いえ、いいです…………もう……」

829: 2013/10/19(土) 23:39:53.00 ID:IdSKSuAc0
結局彼女に押し切られてしまった。しかし、今まで諦めた経験などないような雪ノ下にそんな風に断言されるのは妙に癪

に障った。俺は口を歪ませながら彼女に向かってこんな嫌味を言う。

「『人ごとこの世界を変える』なんて大言壮語を言う割に、俺の更生は諦めるんだな。お前なんて他に諦めたことなど何

一つなさそうなのに」


「私にだって諦めたことくらい…………あるわよ」


「えっ?」


さっきとは一転して雪ノ下の声は弱々しくなった。俺の声に反応して、彼女は少し寂しげな笑顔でこちらを見る。

「私も生まれ変わりたいと思ったこともあったけれど…………結局無理だったもの」

「お、お前が……そんなことを……?」

また一つ、俺の彼女に対する幻想が壊されてしまった。雪ノ下雪乃という人間は、元来持っている能力が高かったり才能

があったりするのを考慮したとしても、自分が望むことは努力ですべて叶えてきたものだと思っていた。そうではないと

なると――――まさか。


「比企谷くん、文化祭で私と二人で見回りをしていた時のこと…………覚えている?」

「もちろん、そりゃ覚えてるが……」

「その時に言ったでしょ?姉さんみたいになりたかったって。あれは単に勉強や芸術関係のことだけではなくて、対人

関係についてもそう思っていたのよ」

「……」

830: 2013/10/19(土) 23:42:31.28 ID:IdSKSuAc0
……にわかには信じられなかった。雪ノ下雪乃の言った言葉が。対人関係についても姉のようになりたかった。つまり、

人とうまくやりたかった。俺は今まで勝手に、彼女にはそれをやる能力があるものだと思い込んでいた。でも、それより

も自分のポリシーを優先するためにあえてそれをしないものだと――――。

だが、本当はそうではなかった。はじめから、彼女に選択の余地などなかったのだ。彼女がそれを望んだところで不可能

だったのだ。それぞれアプローチの仕方は違うとはいえ、陽乃さんと葉山が雪ノ下を気にかける理由がようやくわかった

気がする。雪ノ下は強いから、いや強くあろうとしているから自分でそれを選択したという体裁を取っているというだけ

のことに過ぎなかったのだ。俺は彼女にかける言葉が思いつかずにいると、向こうが先に言葉を続ける。


「もちろん私だって最低限の社交辞令は身につけているつもりではあるし、多少のことなら…………。でも、結局は我慢

しきれなかったみたいね。悪意を受け流すとか、本音と建前を使い分けるとか、周囲に合わせるとか……」

雪ノ下が吐露したことに対する慰めになるのかはわからなかったが、彼女の澄んだ瞳を見て俺はこんなことを口にする。

「……水清ければ魚棲まずとも言うしな。まぁ…………お前の場合は清すぎて、魚が棲めなかったってところだろ」

「ありがとう……比企谷くん」

雪ノ下はそう答えて、ソファの座面に置いていた俺の片手を掴む。そして、両手で胸のあたりまで持ち上げると彼女は

目を少し潤ませて微笑みながら、こう続ける。


「だから、あの時…………あなたがそのままでいいって言ってくれた時、私は……本当に嬉しかった」

「ま、まぁ……あれは半分自分に言い聞かせるみたいなところもあったけどな」

831: 2013/10/19(土) 23:45:22.51 ID:IdSKSuAc0
俺は片手を雪ノ下に握られてどうにも気恥ずかしくて、照れ隠しにそんなことを口走る。

「それを考えると…………結局のところは生まれ変わることができなくて良かったのかもしれないわね。できなかった

からこそ、今の私はこうしてあなたと一緒にいられるのだから」

「そ、そう……だな…………」

もうなんだか体は熱いし、まともに彼女の顔も見られたものではなく俺はそう答えるのがやっとだった。


とりあえず話が一段落ついたのか、ようやく握られていた手が離されてほっと一息つく。しばらくの沈黙の後、再び彼女

の方から声をかけられる。

「とりあえず、比企谷くんに変化するという意思があることが確認できて良かったわ。そのついでといってはなんだけど、

その意思を後押しするために、私なりに屁理屈を考えてみたのよ」

「あえて理屈ではなく屁理屈と言ったのは何か意味があるのか?」

「……あなたのために考えたことだから」

「そういうことかよ……」

相変わらず反応に困る微妙な言い方をする雪ノ下に俺は苦笑しながらそう答える。彼女は何故か満足げな顔をしてまた

口を開く。

832: 2013/10/19(土) 23:49:09.54 ID:IdSKSuAc0
「あなたは自分が変わってしまうことを恐れるというか、どこか嫌がっているようだけれど…………でも、そもそも自分

にとっての自分そのものがブラックボックスみたいなところもあるでしょう?」

「ああ、確かに俺の中には黒歴史がたんまり詰まっているが……ってやかましいわ!」

そういう意味で言っていないのはわかっているのに、何故か俺はいつもの自虐ネタを口にしてしまう。すると、雪ノ下は

何か可哀想なものを見るかのような目をして、こう続ける。……そんな目で見ないでください。


「いえ、私はそんなことは一言も……中身が隠蔽、封印されているものの比喩として挙げただけのことであって」

「わ……わかってるよ、それくらい。それに、本物のブラックボックスは目立つようにオレンジだしな。日陰者の俺とは

無縁の存在だろ」

「……話を元に戻してもいいかしら。いくら比企谷くんがずっと一人でいたからといっても……でも、自分自身のことを

何から何まで知り尽くしている、なんてことは……ないでしょう?」

「要所要所で俺の心がえぐられているのはこの際スルーするとして……まぁ、そりゃそうだな。自分で自分のわからない

ところだっていくらでもあるだろう。後から振り返ってなんであんなことしたのか、って後悔することもよくあるし」

今度は彼女は俺の自虐には反応しなかった。俺に対する配慮なのか、単に面倒になったのかはまではわからない。


「だから……変化した、というよりは…………その……自分の新しい面が引き出された、と考えてみるのはどうかしら」

「……表に出ていなかっただけでそういう因子が元々あった、みたいなことか」

「……そんな感じかしらね」

833: 2013/10/19(土) 23:52:10.19 ID:IdSKSuAc0

なるほど。確かにそういう考え方もできなくはない。いや、むしろもっと早くに思いついていてもおかしくはなかった。

でも、今までそういう発想が何故自分になかったのかもなんとなくはわかる。それは俺がぼっちだったからだ。だから、

自分が自分に見せている面しか頭の中になかったのだ。普通の人間はそうではない。周囲の状況や人間に応じて自分の

見せる面は使い分ける。だから、複数の自分がいても特に違和感はない。それを突き詰めると、雪ノ下陽乃みたいなこと

になるのだろう。まぁ、人に合わせて見せる面を変えるかはともかく、人には色々な面があるのは確かだろう。それこそ、

自分が知らないような面であっても。

だから、この考えなら今の自分や過去の自分を否定するということにもならないわけか。俺が黙ったまま納得しかけて

いると、雪ノ下はこちらを覗き込んでくる。


「でも、今のあなたの心の引き出しはかなり歪んでしまっていて、その……なかなか開けられないのよ」

「……そういう話の展開をされるのか。お前の引き出しこそ、どうなっているのか訊きたいところだ」

「私のは、気密性が高いだけよ」

「気密性?気密性が高いのならタンスとしては高性能かもしれないが、お前の場合は機密性の間違いじゃないのか」

「字面を見ないとわからないような表現をするのはやめなさい。それに、私の引き出しの機密性はそんなに高くないわよ。

だって…………もう……由比ヶ浜さんやあなたに引き出しを開けられてしまったもの」

834: 2013/10/19(土) 23:55:16.10 ID:IdSKSuAc0
雪ノ下はそう言って顔を背けてしまった。こちらからは少し上気した頬しか見ることはできない。彼女が口にした内容

とその表情のせいでなんだか妙な気分になりかけていると、雪ノ下の方からまた声が聞こえてくる。

「それに、あなたは…………自分でそういう意図がなかったとしても……他人の引き出しをかなり開けてしまっている

のよ。私以外にも……由比ヶ浜さんや、葉山くん……」

「……」


俺は彼女の言葉を否定することができなかった。今挙げた人たちの、少なからずの変化に自分が無関係だと言い切る自信

はとうにない。そして、引き出しを開けた自分に対する次の言葉もなんとなく察しはつく。

「それで、雪ノ下は俺の引き出しを開けさせるために――」

「――由比ヶ浜さんにお願いした。そんなところね。彼女も引き出しを開けるのは上手だと思うから」

「……そうだな。しかし、他人に引き出しを開けられるのはあまりいい気分じゃない」


たぶん今言ったことも強がりと照れ隠しの混じった半ば嘘みたいな言葉なのだろう。雪ノ下はあきれ混じりに笑って話題

を一番重要なところに転換する。

「だったら、自分で開けるしかないでしょう。…………開けられそうなの?」

その答えは自分の中ではすでに決まっていた。しかし、その前にそれに関して俺は雪ノ下に伝えておかねばならないこと

があるのを思い出す。

835: 2013/10/20(日) 00:03:45.88 ID:tpDvOo3h0

「それは――――――――今は待っていてほしいということしか俺の口からは言えない。俺は来週の月曜日から奉仕部に

行くつもりでいるが、その日は俺が連絡するまで少し教室で待っていてもらってもいいか?」

「え、ええ……………それは別に構わないけれど」

突然、連絡事項を伝達されて少し驚いた様子を見せた雪ノ下だったが、すぐに元の表情に戻る。彼女がこちらの方を見つ

めてきたので、俺もそれに目で応じる。そして、一度深呼吸をしてから、


「俺はこの土曜日に由比ヶ浜に告白して恋人として付き合ってもらうことをお願いするつもりだ。でも、それでメデタシ

メデタシということにするつもりはない。その状態が二人にとって幸福でなければその関係を維持する意味はない。まぁ、

俺は由比ヶ浜と一緒にいたいからそうするための努力は惜しまないつもりだ。だが、そうするために……俺には俺なりの

考えがある」


俺がそう言い切ると、雪ノ下は少し寂しげな目で俺の方を見てぽそっとつぶやく。

「そして…………今回も先に教えてはくれないということね」

「悪いが、そういうことだ」

俺の答えに、彼女は正面に向き直って頬杖をついてふっとため息をついた。俺は雪ノ下に向かって頭を下げる。


「すまない…………雪ノ下。先にお前に教えると止められる可能性があるということもあるが、この考えに関してはまず

最初に由比ヶ浜が聴くべきだと思っている。だから、今のお前には教えられない。ただ、ちゃんと由比ヶ浜の気持ちには

応える意思があるということだけはここでハッキリ言っておきたい。そして、その方法は今の自分を否定せず、これから先

の自分を変えていくためだ。そのために、一時的には彼女を傷つけることになるかもしれない。でも、それはこれから先も

彼女と一緒にいられるようにするためにどうしても必要な過程なんだ。だから今は…………信じてほしいとしか言えない。

由比ヶ浜にも…………雪ノ下にも」

836: 2013/10/20(日) 00:07:09.85 ID:tpDvOo3h0
「…………わかったわ、比企谷くん。顔を……上げて?」

彼女の言う通りにすると、少しあきれ顔で雪ノ下は俺の方を見つめてきた。彼女が感情を表に出さなかったことが、

かえって俺の胸を締めつける。気休めにしかならないとは思うが、俺はこんなことを口にする。

「ただ、結果がどうなろうとも先に教えないのはもうこれで最後したいと俺も思っている。これからは、たぶん部の活動

でも先に二人に方法を教える。そうすることで、自分自身に対する枷としても機能するんじゃないかと……」

「枷?」

「そうだ。先に方法を教えなければならないんだったら、そうそう自分の身を捨てるようなことはしないと思ってな」

「……なるほどね。とりあえず…………来週の月曜日の放課後までは待っててあげるわ」

「ありがとう…………雪ノ下」


俺が感謝の意を伝えると、何故か雪ノ下の目つきは一転して鋭くなった。え?なんかマズいこと言ったか?

「でも、その代わり…………それ以上経っても由比ヶ浜さんの様子がおかしければ……」

「……煮るなり焼くなり鍋にするなり、好きにしてください」

「ええ、遠慮なくそうさせてもらうわ」

雪ノ下は満面の笑みでそう答えた。その目は完全に獣が獲物を見つけた時のそれだった。怖い。目つきはそのままに、

彼女はまだ話を続けようとする。

837: 2013/10/20(日) 00:10:28.84 ID:tpDvOo3h0
「比企谷くんはきちんと由比ヶ浜さんのことを幸せに…………いえ、そういう言い方は良くなかったわね。それでは、

ええと…………比企谷くんはきちんと由比ヶ浜さんに枷をはめてもらいなさい」

雪ノ下の目つきと口にした内容に俺は戦慄を覚え、頭から変な汗が出そうになる。


「な、なんだか前半と後半でずいぶんと言っている内容に差があるのは気のせいでしょうか…………?」

「あら、そんなこともないわよ。なんでも、“幸”という漢字は手枷をはめられた人の形を表しているらしいから」

「なんでそんな形の漢字が幸せを意味するようになったんだ?」

「それは確か……その程度の刑罰で済んだ、あるいはその刑罰から逃れることができたと解釈するもののようよ」

「へぇ……」


雪ノ下さんの相変わらずのユキペディアっぷりに俺は思わずそうつぶやく。銀の脳くらいならもらえそう。しかし、後者

の解釈はたぶんないだろうな。切れた鎖が足についている自由の女神じゃあるまいし。そう考えてみると、昔の人もずい

ぶんとペシミスティックな思考をしていたものだと感心する。だが、幸福というものの本質とは案外そんなものなのかも

しれない。現に、俺自身にも枷がはめられようとしているのだし。なんでも自分の自由に好きなようにできて、それを

相手も支持してくれる。そんなすべてに都合の良いことがいつまでも許されるわけではない。そういう意味でもやはり

“答えを出さなければ”いけないのだ、いい加減に。

838: 2013/10/20(日) 00:19:01.02 ID:tpDvOo3h0
「とりあえず、それはわかったが…………お前はいいのかよ?その……俺に枷をはめなくても」

「私もそうしたいのはやまやまなのだけれど…………先に由比ヶ浜さんにガッチリと枷をはめてもらってからでも遅く

はないのではないか、と思って……」

「そうですか……」

今は自分から言い出したとはいえ、いつも通りの物騒な言葉の応酬に俺はため息まじりに答えを返す。雪ノ下は何故か

こちらを覗き込むようにして俺を見つめ、催促するような表情でつぶやく。

「私は、むしろあなたの方こそ――――」

そこまで言いかけて、ハッとして彼女は目を逸らして前に向き直り、うつむき加減になってしまった。俺は少しだけ思案

して、彼女の真意を理解すると自然に口から言葉が出始めていた。


「雪ノ下。俺はお前に改めて言いたいことがある――――」


次の瞬間、俺の唇に雪ノ下の白くて細い人差し指が触れられ、続きの言葉を封印されてしまう。そして、彼女は笑顔で

こう言葉を返した。


「比企谷くん。そういうことは由比ヶ浜さんとの関係に決着をつけてからにしなさい」

839: 2013/10/20(日) 00:24:09.50 ID:tpDvOo3h0
――――そこまで思い出して、俺は意識を外界に戻した。


外を見ると、いつの間にか空はもうかなり暗くなっていた。


耳をすますとかすかに足音が二つ、近づいてきているのがわかる。


もう、“答え”はすぐそばにまで迫ってきているのだった。

848: 2013/10/22(火) 22:12:29.79 ID:0BVq5QXS0
⑭だから、俺の青春ラブコメはこれからもまちがっていける。


コンコン、と扉をノックされる音が聞こえる。

俺が「どうぞ」と返事をすると、ガラガラという音とともに扉が引かれる。

ほぼすべて扉が開いた状態になり、さっきの二つの足音の主が確認できる。

雪ノ下雪乃と、由比ヶ浜結衣。

「……こんにちは、比企谷くん」

「や、やっはろー」

「こ、こんにちは……」

毒のある笑みと、少し困り顔の彼女らに先に挨拶をされてしまい、自分も挨拶を返すがその口が歪んでしまう。


「……この私をここまで待たせるなんて、あなたもいい度胸してるわね」

雪ノ下はこちらから少し顔を逸らして、ふぅっとため息をついた後、俺の方に向かって歩き始める。反射的に俺は椅子

から立ち上がって彼女に向かって頭を下げる。

「すみませんでした。それと…………長いこと部活を休んでいたことも。ご心配とご迷惑をおかけしまして……」

雪ノ下は自分の席の前まで来て、肩にかけていた鞄を下におろした。そして、頭を上げた俺に向かって笑顔でこう返す。

「……別にいいわよ。部活を休んでいたことは私が許可したのだし、特に心配も迷惑もかかっていないわ」

「ゆきのん……」

“いつも通り”の俺たちの言葉の応酬に、由比ヶ浜はほっと胸をなで下ろしてこちらに駆け寄ってくる。

三人ともいつもの自分のポジションまで来たところで、雪ノ下はまた口を開く。

849: 2013/10/22(火) 22:15:15.87 ID:0BVq5QXS0
「……とりあえず座りましょう」

「そ、そうだね」

「……おう」

「……」

昼休みにここで昼食を食べていたのに、なんだかこうして部室で三人で座っている構図というのがずいぶんと久しぶりの

ことのように思えてしまった。他の二人もそう考えたのかはわからないが、少しばかり無言で時が過ぎる。


最初に沈黙を破ったのは由比ヶ浜だった。彼女は俺の方を向いて、頭を掻いて少し照れながらこう話す。

「ご、ごめんね、ヒッキー。あたしたちも待たせちゃって。ここに来る間にその……ゆきのんに……」

「由比ヶ浜さん、こんな男に謝る必要なんてないわよ。彼があなたにした仕打ちを考えれば」

途中で言葉に詰まった由比ヶ浜に、間髪入れずに雪ノ下が助け船を出す。俺を見る彼女の目はあきれかえっていた。

そんな視線に耐えきれず、俺は自然とまた頭が下がっていってしまう。


「すいません……」

「い、いいよ、もう……。ヒッキーにはさっき謝ってもらったし……その……」

「……最後はさすがの比企谷くんも由比ヶ浜さんの情に折れたみたいね。私もあなたの泣くところ、見てみたかったわ」

「……」

そんな素敵な笑みでそんな内容のことを言わないでもらえますかねぇ?雪ノ下さん。まだ俺の心を折るおつもりなんで

しょうか?おまけに本当のことだから反論もできやしない。

850: 2013/10/22(火) 22:17:57.92 ID:0BVq5QXS0
そう、俺は…………折れてしまったのだ。

臆病だから、ずっと踏み出すことができなかった。

でも、それを言い訳にするのも限界に来ていて臆病者なりの考えで告白して付き合う方法を考えてはみた。

しかし、その相手は思っていた以上に強くて、自分も強くなる必要があると思った。この人と並び立つためには。

だから、自分の考えを折ってしまった。

何故なら、自分は臆病だから。

でも、後悔はしていない。

その人は、“今”の俺という存在を認めてくれたから。臆病な俺でさえも。

だからこそ、踏み出すことを決めることができた。“過去”も“今”も否定することなく――――。


俺がそんな捻じれに捻じれた考えに思いを巡らしていると、またしても雪ノ下の声でそれは遮られる。

「由比ヶ浜さんも、ちょっと比企谷くんに優し過ぎるんじゃないの?」

「い、いや~……ヒッキーのあんなところ見ちゃったら、もうあんまり怒る気にもなれなかったというか…………それに、

最後はあたしとずっと一緒にいようって言ってくれたし……」

由比ヶ浜はそう話すうちに、だんだんと顔が紅潮していく。彼女の話す内容とその表情に自分も体が熱を帯び始める。

雪ノ下は掌を上に向けて「やれやれ」とジェスチャーをしてから、クールダウンを試みる。

851: 2013/10/22(火) 22:20:36.75 ID:0BVq5QXS0
「まぁ……由比ヶ浜さんがいいなら、私も今ここでこれ以上追及する気はないわ。ただ、これだけは言っておきたいの。

比企谷くん、あなたのせいで土曜日の夜は大変だったのよ。電話口での由比ヶ浜さんのあの取り乱しぶり……」

「わ、わ~!ゆ、ゆきのんそれ今言わないでよ~!」

慌てて由比ヶ浜は手を振って雪ノ下の口をふさごうとする。が、ひょいと向きを変えられてそれは阻止されてしまう。

かわされた由比ヶ浜は、机に突っ伏す格好になってしまった。こちらからはどんな表情かはうかがえない。


「一応その時は、『比企谷くんのことを信じましょう』と言ってどうにかこうにかなだめたのだけれどね」

「ゆきのん……」

由比ヶ浜はそのままの状態で、唸るように低い声で名前を呼ぶだけだった。どうやらもう諦めたらしい。雪ノ下もそれ

以上は口にすることはなかった。今の言葉を聴いて、俺はもう一度彼女たちに向かって少し頭を下げた。

「自分がここに戻って来られたのも、雪ノ下と由比ヶ浜が俺のことを信じてくれたおかげだ。本当に……ありがとう」

「比企谷くん……」

「ヒッキー……」

頭を上げると、少し心配そうに俺の方を真っ直ぐ見つめる二つの顔があった。どうにもそんな目で見られるのは気恥ずか

しくて、つい目を逸らしてしまう。そして、俺はさっきの雪ノ下の言葉を思い出して柄にもないことを口にする。

852: 2013/10/22(火) 22:23:21.51 ID:0BVq5QXS0
「あ、あと……そうだ。別に、その……なんだ?優しいのは由比ヶ浜だけじゃなくて雪ノ下もだろ?方向性は違うけど」

「え?」

唐突な俺のフォローに雪ノ下はきょとんとする。由比ヶ浜はそんな彼女の反応を見て笑みを浮かべた。

「駄目なことはハッキリ駄目だと伝えるところとか…………本人のためとは思っても、なかなかできる奴は少ないんだ

よな。嫌われたりするのが怖かったりして」

「い、いえ……そんなことは……。むしろ、私は人を遠ざけるためにそんなことをしていたと……否定しきれるものでも

なく……」


今度は雪ノ下の方が紅くなって下を向いてしまった。俺と由比ヶ浜が顔を見合わせて笑みをこぼすと、彼女はむすっと

して不機嫌そうな顔になる。そして、俺の方をチラッと見てこう返す。

「そ、そんなこと言ってご機嫌取りしようなんて思っても無駄よ。それに……あなたもあまり人のことは言えないのでは

なくて?」

「え?」

「それもそうだね。ヒッキーもわかりにくいけど……うん、すごく優しいと思う」

「……」

由比ヶ浜はうんうんと頷いてニコニコしながらそう言った。急に同時に二人から矛先を向けられて、俺は言うべき言葉が

見当たらずに黙ってしまった。俺が沈黙するのを見るや、雪ノ下は追い打ちをかけにくる。

853: 2013/10/22(火) 22:26:26.67 ID:0BVq5QXS0
「ああ、それとたぶん…………私は、またあなたに“そういう”優しさを発揮する時が来るのでしょうね」

「……どういうことだ?」

「つまり、さっきあなたは私たちに心配と迷惑をかけたと謝っていたけど…………今後そういうことが起こらないのか?

と訊いているのよ」

「……なるほど、そういうことか」


それは、例えば俺が自己を犠牲にして人を助けたりすることを指しているのだろう。そして、彼女の立場からはそれは

止めたい、と。しかし現時点では、何も保証できるものがあるわけでもない。それと、俺はこの件に関して由比ヶ浜に

伝えておかねばならないことがあるのを思い出す。日曜日に陽乃さんが言っていたように、今の俺には守るべきものが

できてしまった。それは雪ノ下と由比ヶ浜本人であったり、その二人の中にいる比企谷八幡という存在であったりする。

彼女らは俺のやり方を半ば追認するような形で認めてしまったが、しかしそれはこの二人を自分のやり方に巻き込んで

いいということではない。だから、自分は由比ヶ浜との表面上の繋がりをいつでも切れるような方法を取ったのだ。


「今のところはなるべく避ける、としか言いようがないな。まぁ万が一その時が来たら由比ヶ浜には悪いが、恋人という

ラベルは一時的に剥がさせてもらうことになるんだろうな」

「ぅえええ!?」

思わぬところから自分の名前が出たのと、その内容から由比ヶ浜はそんな声を出して俺の方を見る。驚愕と心配が入り

混じったような表情だった。彼女は胸の前で手をいじりながらぼそぼそと話し始める。

「ヒ、ヒッキー……さっきあたしに言ったじゃん。ずっと一緒にいようって。あ、あたしはもう別にヒッキーがそういう

ことするの気にしないっていうか、そりゃもちろんやめてほしいけど……それでヒッキーのこと…………嫌いになったり

しないっていうか……」

854: 2013/10/22(火) 22:30:07.86 ID:0BVq5QXS0
そんな彼女をよそに俺の口から出てきたのは、まぁ…………相変わらずな内容だった。

「確かに、さっき由比ヶ浜には『ずっと一緒にいよう』と言った。しかし、恋人としてずっと一緒にいようなどとは一言

も口にしていない。それに、俺の自分勝手な行動でお前やその周りの人間まで巻き込んだら悪いしな。だから……」

「まったく…………この男はこの期に及んでまだそんな屁理屈を……」

「……」


案の定、雪ノ下はこめかみを指で押さえて首を横に振りながらあきれていた。由比ヶ浜にも怒られると思ったのだが、

何故か彼女は黙ったまま少し下を向いて思案している様子だった。無言の間に俺は少し怖くなって声をかけようとする。

「ゆ、由比ヶ浜……?い、いや……まだそうすると決まったわけでもないし……あの……」

「いいよ!別にあたしは……」

「え?」

「ヒッキーが今言った…………ずっと恋人として一緒にいるわけではないっていうの」

顔を上げてこちらを向いてそう口にした由比ヶ浜の表情は、笑顔で何故か少し頬を染めていた。俺が彼女の予想外の反応に

戸惑っていると、向こうから「ハッ」と何かに気づく声がした。雪ノ下の方を見ると口に手を当てている。

「由比ヶ浜さん、あなたまさか……」

「えへへ~……」

855: 2013/10/22(火) 22:33:04.68 ID:0BVq5QXS0
「……さすがにここまでいくと由比ヶ浜さんの楽観的思考にも感心せざるを得ないわね。比企谷くんにはそんな意図は

まったくなかったのだろうけど。彼が折れるというのも頷ける話だわ」

「ど、どういうことなんだよ。二人だけで納得して……なんで由比ヶ浜はニヤニヤしてるんだ」

「べっつに~」

由比ヶ浜は顔が火照ったのか、頬を手で撫でつけたり、顔を手でぱたぱた扇いだりしながらそう答える。

「まぁ、あなたは…………由比ヶ浜さんが彼との恋人のラベルを剥がすことに同意している、という事実だけわかって

いれば充分なんじゃないかしら?」

「……」


雪ノ下は、また小憎らしい意地悪そうな表情になってニッコリと笑って俺に向かってそう言う。これ以上追及すると、

どうもドツボに嵌りそうな予感がしたのでもう黙っていることにした。

それに、自分は自分で独断専行で秘密裡にことを進めるきらいがあったので、あまり二人のすることに抵抗する権利も

なかったのだった。俺が沈黙すると、また彼女らは顔を見合わせてふふっと笑い合う。なんだか居心地が悪くて、二人

から顔を逸らすと不意にまた名前を呼ばれる。


856: 2013/10/22(火) 22:35:51.00 ID:0BVq5QXS0
「比企谷くん」

「は、はい」

「先週も言ったとは思うけれど…………これからは、なるべく先に相談してね。たとえ他に方法が見つからなかったと

しても……」

「はい……」

俺がまともに雪ノ下の顔を見れずにいると、今度は横からも視線が刺さる。

「ヒッキー……あたしにも、ね?」

「はい……」


もう嬉しさなのか恥ずかしさなのか、よくわからない感情がない交ぜになって俺はここから逃げたしたいくらいの気分

だったが、彼女の話はまだ終わらなかった。雪ノ下の眼光が少し鋭くなる。

「比企谷くん、由比ヶ浜さんのこと…………頼んだわよ。彼女は私の大切な友人なのだから。彼女を幸福にしろ……とは

いわないけれど、でも、もしあなたが原因で不幸になるようなことがあったら……」

そこまで口にして、彼女は俺の目をじっと見つめた。目を光らせるって表現がまさにぴったりな視線だった。今回ばかり

は目を逸らすわけにもいかず、俺は雪ノ下の光った目を見て膝の上で拳を握りながら、どうにか口を開く。


「わ、わかってます……」

俺の返事に満足したのか、今度は同じ視線を由比ヶ浜の方に送る。思わず、由比ヶ浜は顎をすっと引いた。

「由比ヶ浜さんも…………ね?」

「わ、わかってます……」

「それなら、いいのよ」

857: 2013/10/22(火) 22:39:54.48 ID:0BVq5QXS0
雪ノ下が元の笑顔に戻ると、俺と由比ヶ浜は揃って安堵のため息を漏らす。それを見て彼女もふっと息をついた。話が

一段落して、再び部屋の中は静寂に包まれた。



しばらくして、由比ヶ浜がパチッと胸の前で手を叩いて何かを思い出したかのような動きをする。

「あっ……そうだ!実は今日…………ゆきのんとヒッキーに渡したいものがあるんだった」

「「え?」」

唐突な彼女の言葉に、俺と雪ノ下は思わずそう口にしてしまう。そんな反応は無視して、由比ヶ浜は鞄とは別に持って

いた手提げから何かを取り出し始める。そうして机の上に置かれたのは、三つの箱だった。ラッピングされた赤い箱と

青い箱が一つずつ、何も包装されていない白い箱が一つ。由比ヶ浜はまず、赤い箱を雪ノ下の元に移動させてこう言う。


「これはゆきのんへのプレゼント」

「あ、ありがとう……」

そして青い箱を俺の元にやって、

「これはヒッキーに……」

「ど、どうも……」

「……」

突然の出来事に、自分も雪ノ下も状況がよく把握できずにただ自分の前に置いてある箱を見つめるだけだった。由比ヶ浜

は、俺と雪ノ下のそんな様子を見てから説明をし始める。

858: 2013/10/22(火) 22:42:33.54 ID:0BVq5QXS0
「えっと……これは、その……ヒッキーが奉仕部に戻った記念というか……あと、あたしの誕生日の時のお返し?みたい

な意味もこめて……奉仕部の備品にでもできれば、と……」

「由比ヶ浜さん……」

「由比ヶ浜……」

雪ノ下と俺は思わず、彼女の名前を同時につぶやいた。二人の視線が一度に注がれて、その視線の熱が彼女に移ったかの

ように由比ヶ浜の顔が赤くなる。照れ隠しのためか、彼女はすぐ両手を二つの箱の方に伸ばして掌を上に向けて「どうぞ

どうぞ」というように催促する。


「と……とにかくっ!早く開けちゃって!あ、あんまり今日は時間もないし……」

「そうね」

「そうだな」

急かすように言う彼女とは裏腹に、俺と雪ノ下は箱の包装紙を丁寧に剥がし始める。二人とも一度もラッピングの紙を

破らずに箱を出すと、どうやら由比ヶ浜と同じものであることがわかる。タイミングを見計らったのか、由比ヶ浜も同じ

ように箱を開け始める。

859: 2013/10/22(火) 22:44:29.30 ID:0BVq5QXS0
緩衝材を取り除いて、中から出てきたのはガラスのコップだった。

側面にはディスティニーのキャラクターがあしらわれている。雪ノ下に渡されたのは、当然パンさんだった。

俺がディスティニーランドの城の中のガラス工芸の店で彼女にねだられて、恥ずかしいと言って一度は断ったものだ。

由比ヶ浜のやつ、これを買うために俺と別行動をしていたのか。移動する時や帰る時に、俺が荷物を持つのを拒否したの

もそういう理由からだったのか。さすがに、これを中身が何か知らない他人に預けるわけにもいかないよな、そりゃ。

おまけに、このコップよく見ると…………。


「……由比ヶ浜さん」

「ん?なに?」

雪ノ下も同じことに気づいたのか、由比ヶ浜を少し怪訝な目で見てこう尋ねる。

「プレゼントしてもらったのは本当にありがたいと思っているのだけれど…………どうしてこのコップにはローマ字で

YUKINONと彫られているのかしら」

「え?だってそれはゆきのんのものだから」

「……は……恥ずかしい……」

由比ヶ浜のあっけらかんとした答えに雪ノ下はそう口にするしかなく、下を向いてしまった。

しょうがないから俺がフォローしてやるか。俺は彼女にコップの側面が見えるように置き直す。

860: 2013/10/22(火) 22:46:25.96 ID:0BVq5QXS0
「おい雪ノ下。お前なんてまだマシだぞ?俺なんてほれ……見ろ、HIKKYだぞHIKKY。引きこもりじゃねーっつの。

それにコップにニッキーマウスがついているから間違えて彫ったみたいになってんじゃねーか」

俺が言いたい放題言ってしまったので、由比ヶ浜は顔を膨らませてぷいっとそっぽを向いてしまう。俺のフォローが効いた

のか、雪ノ下はまた顔を上げてくれた。そして、次に疑問に思って当然のことを口にする。


「ところで由比ヶ浜さん…………あなたのは?」

「あ、確かにそれは…………ってお前だけ普通にYUIって彫ってあんのかよ、なんかズルくね?」

「だ、だってゆきのんもヒッキーもあたしのこと名前以外で呼ばないじゃん!だから……」

由比ヶ浜は少し声が小さくなり、寂しそうな顔になってしまった。慌てて雪ノ下がフォローしようとする。

「ま、まあ……確かにあなたの言うことにも一理あるし…………この部屋だけで使う分には特に問題もないでしょう」

「ゆきのん!」


由比ヶ浜は笑顔に戻って身を乗り出すようにして腕を伸ばして、雪ノ下の手を取った。何故かこっちに助けの視線を送ら

れるが、それは無視する。すると雪ノ下の表情が少し曇るが、今度は何故か由比ヶ浜が俺の方に向いてこう言う。

「ねぇ、ヒッキー?」

「な、なんだ?さ、さっきはちょっと俺も言いすぎたというか……」

「ううん、それはもういいの」

「そ、そうか……」

861: 2013/10/22(火) 22:49:11.07 ID:0BVq5QXS0
俺が少し安心してふっと息を漏らすと、由比ヶ浜は雪ノ下から手を離してさらにこちらに顔を近づける。そして、上目

遣いで俺を見ながらこう続ける。

「ヒッキーもやっぱり…………このコップ使うの、恥ずかしい?」

「恥ずかしくないと言ったら嘘になるが……」

「じゃあ、いい方法があるよ!」

「ほんとか?」

ここで食いついたのが失敗だった。彼女は口角を上げてニヤッと笑って自分のコップを差し出す。


「ヒッキーがあたしのを使えばいいよ!ほら…………ちゃんとあたしのはYUIって名前だし」

「いや、それはますます恥ずかしいんで勘弁してください。HIKKYで大丈夫です、HIKKYで」

「そう?ならいいけど」

由比ヶ浜は少し残念そうな表情をして、自分のコップを元の場所に引っ込める。

まったく、この子は…………油断も隙もありゃしない。もともと恋人同士でペアグラスなんて恥ずかしいと言って断った

筈なのに、もっと恥ずかしい目に遭うところだったぜ…………ふぅ。


とりあえず、三人とも由比ヶ浜が渡したコップを使うということでどうにか落ち着いた。しかし、部の備品として使うに

あたってもっともな質問を雪ノ下は由比ヶ浜に投げかける。


862: 2013/10/22(火) 22:51:28.03 ID:0BVq5QXS0

「これを使うのはとりあえずいいとしても…………ガラス製だから、温かい飲み物は入れられないわね」

「あっ……そ、そっか。ごめん、そこまで考えてなかった……」

「まぁ由比ヶ浜の頭がそこまで回るとは思えないし、それを責めるのは酷というものだろう」

「なに、そのフォローしてるのかバカにしてるのかわからない言い方!」

由比ヶ浜はこっちを向いて叫ぶようにそう言って、いーっと唸った。もうなんか最近はこういう反応が見たいがために

自分もわざとそういうことを口にしているような気がする。俺の頬が緩んだのを見て、彼女はそっぽを向く。雪ノ下は

やれやれといった表情で俺と由比ヶ浜を眺めた後、こうつぶやく。


「あまり気にすることでもないわ、由比ヶ浜さん。年が明けて、もう少し暖かくなるまで待つというだけの話よ」

「まぁ、その時に全員揃ってるかどうかはわからないけどな」

「ま~た、ヒッキーはそういうことを……」

由比ヶ浜はまた俺の方を向き、あきれながら笑って肩をすくめた。そして、彼女は思わぬことを口にする。

「ねぇ、ヒッキー」

「……なんだ?」

「壊さないでよ?…………このグラス」

「え?い、いや……俺そんなことするつもりないし、ちゃんと大事に……」


不意にされた質問に、そんな当たり前のことしか自分は答えられなかった。しかし、何故かそれを見て彼女は安心した

様子を見せた。俺の疑問は由比ヶ浜の次の言葉ですぐに氷解する。

863: 2013/10/22(火) 22:53:41.84 ID:0BVq5QXS0
「……良かった。じゃあ、あたしたちのことも…………そうしてね?」

「……そういうことか。それは…………うん、重々承知しているつもりだ。由比ヶ浜、雪ノ下」

俺は彼女らの方を向いてそう答える。俺の言葉に、二人とも安心した顔になって微笑み返してくれた。

由比ヶ浜がグラスに喩えたのは、俺たちの関係性のことだろう。このグラスのように、いつ壊れるかなどわかったもの

ではない。だから、それを扱うのは少し怖かったりもするのだ。でも、だからといって自分から壊すようなことをしては

いけない、と彼女はそう言いたかったのだ。しかしその理屈からいくと――――。


「ただ、俺があんなことをしたのは絶対に壊れないと信じていたから、なんだけどな」

「もう、ヒッキーズルいよ…………」

「そうね。本当にこの男は卑怯で狡猾で陰湿極まりないわ。……私だったら正々堂々と負けるのに」

あぁ、と呻きながら虚空を見上げる由比ヶ浜と、俺を睨めつけてそう言い放つ雪ノ下。含みを持った言葉に、俺が首を

傾げると彼女はこう続ける。

「どうしても今日、あなたに言っておかねばならないことがあるのを思い出したのよ。先週に少し話したでしょう?私と

あなたの勝負の結果について」

「それは確かに話したが…………」


正直なところ、今の雪ノ下が何を考えているのかよくわからなかった。結果についてと言われても、先週は俺が負けを

認めようとしたら彼女に断られて、でも雪ノ下がそんな簡単に負けを認めるとも考えにくいし…………結果の先送りでも

するんだろうか?ふと由比ヶ浜の方を見ると、もう何か彼女から話を聴いたのか、頬杖をついて微笑んでいるだけだった。

俺が沈黙しているのを見て、雪ノ下はすっと息を吸ってからまた話し出す。

864: 2013/10/22(火) 22:56:16.22 ID:0BVq5QXS0
「今回の勝負は、完全に私の負けよ。そもそも、平塚先生の依頼を比企谷くんが拒否したところから私とあなたの勝負は

始まったわ。私とあなたでどちらが人に奉仕できるか、とね。それであなたは相変わらず、更生することを認めていない。

それなら、おのずと勝負としてはどちらが人に奉仕できたのか?ということになる。その結果は火を見るより明らかよ。

私よりもあなたの方がずっと人に奉仕していた。だから、この勝負は私の負け。異論反論は一切認めません」


そこまで一気に言い切って、彼女はふっと息をついた。

俺は勝負の裁定そのものがどうであるかよりも、単純に雪ノ下が負けを認めてしまったことが気に入らなかった。だから、

ついこんなことを口走ってしまう。

「雪ノ下が負けをあっさり認めるってなんか…………お前らしくないな」

すると、彼女は少し下を向いて寂しげな目で俺の方を見つめてきた。なんだか悪いことをした気分に自分もなってしまい、

頭が下がってしまう。雪ノ下はちょっと不機嫌そうな声を出す。


「なにも、私だってただ負けを認めるって目的でこんなことをしているわけではないわ」

「えっ?」

俺の頭の上に浮かぶはてなマークがますます増えて思わずそんな声を出すと、雪ノ下はやれやれといった表情で話すの

を再開する。

865: 2013/10/22(火) 22:58:48.80 ID:0BVq5QXS0
「比企谷くん」

「は、はい」

「比企谷くんは、その……“らしくない”私とは…………向き合ってくれないのかしら」

「!……い、いや……違う……」

少し声が小さくなって、頬を朱に染めながらそう口にする雪ノ下を見て、俺の疑問は解消した。…………そういうことか。


「むしろ、そういう私とも向き合うという意思表明をあなたにはしてほしいから私は負けを認めたのよ。あなたが私に

ずっと前から言いたかった言葉がある筈だわ。今ならそれを私に断られる心配も必要ない。だって、勝負に勝った者は

負けた者になんでも“命令”できるのだから。これは、臆病なあなたに対する私なりの格別の配慮のつもりよ」


…………なるほどね。彼女は最初からこうするつもりで、先週の俺の“答え”を拒否したのか。先に由比ヶ浜との“答え”を

出させるために。それで今はその“答え”を出せる状態にある、と。俺が雪ノ下に対して望んできて、でも一度も叶えられ

なかった願いが今、実現しようとしている。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、俺が黙ったままでいると再び雪ノ下

から声がかかった。


「比企谷くん……それで…………どうするの?」

「……わかった。俺が勝者だということを、認めるよ」

「そう……」

俺の返事に雪ノ下と、何故か由比ヶ浜もほっとして胸をなで下ろした。

866: 2013/10/22(火) 23:01:05.42 ID:0BVq5QXS0
しかし、雪ノ下の言う“命令”というやり方に、抵抗がないわけでもなかった。だから、俺は彼女にこんなことを尋ねる。

「でも…………いいのか?雪ノ下は俺がこれから言うことは把握しているとは思うが……こんなこと、命令しても……。

命令するような類のお願いじゃないし、それにもしお前がそれを望まないのであれば……」

「その心配はいらないわ。命令というのは形式上のことであって、たぶん今の私なら普通にお願いされても肯定の返事を

返せる。だから、あなたがそれを気にする必要はないのよ」

「そ、そうか……」


“形式上”という言葉に、俺の抵抗感も幾分和らいだ。そして、彼女はダメ押しとばかりにこう続ける。

「私は比企谷くん……あなたのことを愛している。だから、私は今あなたが一番望むことをしてあげたいと思っているわ。

そういうわけで、…………大丈夫よ」

雪ノ下の告白と、俺に向けられる彼女の微笑にこっちの心臓が大丈夫じゃなくなりそうになるが、どうにかそれを堪える。

何回か深呼吸をして自分を落ちつかせた後、俺は椅子ごと雪ノ下の方を向く。彼女もそれに応じてくれた。

867: 2013/10/22(火) 23:03:35.47 ID:0BVq5QXS0
…………やっと俺はこの言葉が言える。

一度目は単なる拒絶。

二度目は今から思えば…………あれも照れ隠しだったんだろうか?

今は…………二人で“同じ答え”を出すことができる。

俺と雪ノ下の目が合う。

そのままの状態で俺はすっと息を吸ってから、



「では、勝負の勝者として敗者に以下のことを命じる。雪ノ下雪乃――――――――俺と、友達になってください」






「――――――――もちろん、いいわよ」






彼女はそう応えてくれた――――――――冬なのに、春に咲き誇る満開の桜のような笑顔で。

868: 2013/10/22(火) 23:06:10.24 ID:0BVq5QXS0
――――これで、ようやく“答え”を出すことができた。

とはいえ、実際にやったことといえば人間関係に適当なラベルを貼り付けただけのことなのかもしれない。

でも、それはとても意義のあることだと俺は思う。何故なら、俺と彼女がずっと避けてきたことなのだから。

俺は今まで正解を選んできたつもりで色々とまちがえて、取り返しのつかない失敗をしてきて、一人になって…………。

おそらく俺はずいぶんと前から諦めていたのだろう。まちがえることさえも、失敗することさえも。

そもそも、答えを出すことそのものから俺は逃げていたのかもしれない。

でも、今ようやくそれができるようになった。

正解でもまちがいでも俺が答えを出すことを尊重してくれる人たちが、ここにはいる。






――――――――だから、俺の青春ラブコメはこれからもまちがっていける。


                                                   了

869: 2013/10/22(火) 23:07:07.46
乙!!

870: 2013/10/22(火) 23:07:53.89
乙!
すごい楽しかった!!

引用元: 八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」