3: 2013/07/31(水) 19:53:34.91 ID:FdvpavaL0
①彼と彼女はまだそれに気づいていないのかもしれない。


修学旅行後の代休の翌日、つまり学校の通常の授業が再開される日。本来であれば俺は学校にいるはずだった。この際、

いるはずなのにいないもの扱いされるとかそういう細かいことには言及しない。いないもの扱いしないとクラスの人間が

氏ぬとかじゃないのにどうしてなんだろうね。いや、むしろそういう扱いを受けてるおかげで氏なずに済んでいる人間が

いると考えよう。もしかして俺、救世主?

まぁ、救世主というのは大げさにしても半ば強制的に入れられた部活のせいでこの半年間、色々な人間の「問題の解決を

するための『お手伝い』」とやらをやらせていただいたので、あながち間違った言い方でもないのかもしれない。しかし、

手伝いという割に何故こんなに負担を感じているのか…………そのせい、とは言わないが今の俺は絶賛風邪引き中である。

4: 2013/07/31(水) 19:55:02.66 ID:FdvpavaL0
だるい……そしてまだ熱い。

とりあえず、家にあった市販の風邪薬を飲み冷却シートを額に貼ったので本当にただの風邪ならそのうちよくなるだろう。

まだ、風邪――かどうかは本当はわからないが、をひいて2日目なので医者にかかるのはまだ早い。俺の場合、医院でも

持ち前のステルス能力がいかんなく発揮されてしまいナチュラルに順番が飛ばされ、むしろ体調を悪くすることが多々あ

った。したがってそういう場所に行くのは最終手段である。まだこんなことを考えていられる時点で余裕はある。

本当に体調悪い時って何も考えられないか、同じ考えがループし続けているだけだからね。…………ん?

5: 2013/07/31(水) 19:56:42.30 ID:FdvpavaL0
いや、今俺の中での嘘と欺瞞について考えても仕方ないし。たぶん風邪なんて引いてなくても堂々巡りになるだけだ。

俺がしたことは問題の解決でも手伝いでもなく、ただ時間稼ぎをしただけに過ぎない。そしてあの時点ではそれが一番

良かったのだ。葉山や海老名たちにとっては…………いや、とって”も”なのか…………?

自分としては上手く調節しているつもりだったんだが…………あんな反応返されても困るっつうか。今まで散々相手の考

えを読めずに失敗してきて今度こそは多少は理解してるつもりだったのにね。やっぱりつもりはつもりに過ぎなかった。

相手が自分との距離をどう捉えてるかなんてわかるわけがない。ただ、ひとつ言えるのは今の状態は近すぎて色々と危険

だということ。ここはお互いのためにも少し離した方が良いのだろう…………自分が退くか、相手を退かせるかは後々

検討するとして…………そんなことをベッドの上で考えながら俺は再び眠りに落ちた。

6: 2013/07/31(水) 20:00:18.08 ID:FdvpavaL0
コンコン


唐突に部屋の扉をノックされる音で俺は目を覚ました。

寝転がったまま体勢を変えて窓の外を見やるともう空が紅くなり始める時間だった。近頃はますます日が短くなっている

のでそう遅い時間というわけでもない。ノックした人間が誰かは明らかだ。

「小町、か?」

「うん……お兄ちゃん、入っても……いや入れても大丈夫?」

「ん、大丈夫……入れても?え」

ガチャリ

違和感のある小町の受答えに疑問を持つ間もなく生返事をしてしまったせいで俺の物理的な最終結界は破られてしまった。

8: 2013/07/31(水) 20:04:00.99 ID:FdvpavaL0
「……こんにちは」

「こ、こんにちは」

俺が上体を起こしている間に小町に続いて部屋に入ってきたのは誰あろう、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣だった。

いや、おかしいだろ。あんなことがあった後で。

彼女らにどういう感情があるにせよ、しばらくは俺となんか顔も合わせたくないぐらいに思っていたのに。

マズいな、こういう時に来られると。うっかり本当のことを喋ってしまいそうで。

そんなことを考えているうちに小町は二人を俺のベッドの横に来るように促し、自分は再び扉に向かいながらこう言った。

「じゃあ、あとはお三人でごゆっくり~」

「あ、おい小町!俺は二人を中に入れるのを……」

ガチャン

無情にも扉は閉められ、部屋には俺と雪ノ下と由比ヶ浜だけが残された。

9: 2013/07/31(水) 20:08:41.53 ID:FdvpavaL0
「や、やっぱりまずかったよね……ごめんねヒッキー。あたしたちもすぐ出るから……」

最初に口火を切ったのは由比ヶ浜だった。

いや言ってることはすごく真っ当なんですけど、そんな捨てられそうになってる子犬みたいな目で見ないでもらえます?

この子は口調やらも賑やかだが、表情もやたらと雄弁なのであまり無碍にできないので困る。

なにせあの雪ノ下雪乃が拒否できないレベルだからな。

「いや…………どうせ小町のいらん計らいだし」

「それに何かその……用事があったんだろう?ここでさっさと済ましてもらった方が俺にとっても幸いだ」

本音を言えばこんな状態のしかも自分の部屋になんぞ入れたくはなかったが、とりあえず雪ノ下に関して言えばお互い様

みたいなものなのであまり強く拒否することはできなかった。

「あ、あたしは別に……用事がなくても来てもいいけど、さ……」

「だからそういうこと言うのやめろって……」

「え?」

10: 2013/07/31(水) 20:11:09.95 ID:FdvpavaL0
ヤバい。今思ったことがそのまま口に出てたか。いかんいかん。どうも自分の部屋だと独り言の感覚で喋ってるな。

「あ……いや……俺自分の部屋に人入れるのとか……慣れてないから」

微妙にズレた話題にシフトさせつつこれ以上関係ないことを言わせないように牽制した。

「ご、ごめん……」

「……そろそろ本題に入ってもいいかしら?由比ヶ浜さんと風邪引きさん」

「……また変なあだ名つけられるのかと思ったらほんとのこと言われたからビビッたぞ」

「何か期待を裏切ったようでごめんなさい。でも今日は本当に……あまり喋らせるわけにもいかないから、ね」

ふむ。部長さんには部長さんなりの気遣いがあるようだ。

驚くべきはそんな雪ノ下の変化なのか、それともそんな存在になってしまった俺という人間なのか――――

11: 2013/07/31(水) 20:13:26.21 ID:FdvpavaL0
「それで、具合はどうなの?」

「ん、まあ熱も下がってはきてるし明日には行けるんじゃないか」

「よ、良かった……」

ホッとした様子で胸に手をあてて胸をなで下ろす由比ヶ浜。雪ノ下の表情も少し和らいだように見えた。

「それで、その…………この間は……ごめんなさい」

「あ、あたしも……ごめん」

そう言って雪ノ下は長い黒髪をしなだり落としながら俺に向かって頭を下げ、由比ヶ浜は手を胸の前で合わせる。

「…………な、何のことだよ」

“この間”が何のことかは推測できるが、この二人に謝られるという状況が理解できないので訊いてみる。

13: 2013/07/31(水) 20:16:35.52 ID:FdvpavaL0
「えっと……よく知らずに……ちょっと言い過ぎた、というか……」

「私も……少し言い方が不適切だったと思うので……あなたに謝るわ、比企谷くん」

心の内を素直に吐露する由比ヶ浜と、あくまで表現にのみ問題を絞って謝罪する雪ノ下。実に彼女たちらしい。

しかし、よく知らずに……とはどういうことだろうか。まるで今は知っているかのような言い方である。

「もしかして今日……何か話したのか?その…………海老名とかと」

「い、今もあんまり詳しいことは分からないけど……」

「姫菜に『比企谷くんをあまり責めないであげて。悪いのは全部私だから』って言われちゃって……」

…………なるほど。直接俺と海老名の間に何かあったと言ったわけではないが、それを示唆することを告げたのか。

“内容はわからないが何か事情があってそうなった”。世の中案外それで納得できることも多いのかもしれない。

そして、お互いに踏み込んでいいと思っている領域がわかっているならそれで上手くいくものなのかもしれない。

14: 2013/07/31(水) 20:19:02.98 ID:FdvpavaL0
しかし、他人の事情なんてそもそもあるのかどうかさえも分からないことの方が多い。そして、普通はそんなことは

気にしないで口に出すものだ。それこそ、あの時の彼女たちのように。だから、そこまで気を遣われる必要はない。

「……そんなに気にするようなことでもないけどな。別に間違ったことを言ったとも思わんし」

「うん。あたしも今でも自分の言ったことが間違いだとは思ってないよ。でも、結局それでヒッキーを……」

先に答えたのが由比ヶ浜だったのでいささかたじろぎそうになったが、俺は続ける。

「仮に正論で相手を傷つけるようなことがあったとしても、俺はそういうのには当てはまらない。だから気にするな」

「それは、その相手のことを何とも思っていないからではなくて?」

出し抜けに発せられた雪ノ下の言葉に一瞬胸が止まった気がした。

16: 2013/07/31(水) 20:22:25.72 ID:FdvpavaL0
だから、だからお前たちのことも何とも思っていないから……俺は傷ついてなんかいない、とはさすがに言えなかった。

俺が沈黙してしまった間に雪ノ下が続けた。

「この際、あなたがどう考えているかは気にしないわ。だから、この謝罪は自己満足と思ってもらって全く構わない」

「……そうですか」

先に向こうからそう言われてしまってはこう返すしかない。

まぁ相手が俺のことなんて気にしていない、という体の方が自分も気が楽でいい。

これはこれでぼっち同士の気の遣い方としては一つの解なのだろう。俺が奉仕部の活動でそうしてきたように。

俺の自己満足で他人を助けてきたんだから、それで自分がどんな目に遭おうともそれは自己責任の範疇だ。

17: 2013/07/31(水) 20:26:37.95 ID:FdvpavaL0
「あ、あたしは気にしてるけど……ヒッキーが……何考えてるのか」

「え?」

「だって最近のヒッキー……思ったことそのまま言ってくれてない……気がするから」


……全くそういうことには相変わらず目ざといのな、由比ヶ浜は。つい最近まで俺自身すら自覚してなかったことなのに

もうお見通しなの?あなたはエスパーか何かですか。絶対可憐とか言い出しちゃうの?

「……それはお前の気のせいじゃないか?というか思ったこと言うかどうかなんて俺の勝手だろうが」

嘘にはならない程度の言い回しで適当に誤魔化してみるテスト。

「それはそうかもしれないけど…………今のヒッキーは……文化祭の時のゆきのんみたいだから……その」

「その程度のことならこの男の場合、別に心配するほどのことではないわ」

「そ、そうだ。心配することのほどではない。俺と由比ヶ浜があの時のお前をどう思っていたかは置いておくにしても」

ここまではいつもの雪ノ下の気を遣わないという気遣いだと思っていたのだが。



18: 2013/07/31(水) 20:30:41.91 ID:FdvpavaL0
「”本当にその程度のこと”だとしたら、ね」

「ゆきのん……」

意味ありげな視線をこちらに向けた雪ノ下の表情は……何故か文化祭後の平塚先生のことを思い出させた。

今まで散々皮肉を言い合ったりあてこすりをしてきた相手だ……その言外の意味するところがわからないはずがない。

しかしその内容を口に出すことははばかられた。認めてしまうのは怖かった。だから俺はまた黙るほかなかった。

「まあそういうことだから……私はそろそろ失礼するわ」

「じゃ、じゃああたしも……あ、あと来る途中でポカリ買ってきたからもしよかったら飲んで」

「小町ちゃんが冷蔵庫に入れておいてくれたと思うから」

「……そりゃどうも」

19: 2013/07/31(水) 20:33:42.19 ID:FdvpavaL0
雪ノ下が向きを変えて扉へ歩いていく中、由比ヶ浜はリュックをおろして何か取りだそうとしている。

「あと、これも」

取り出して掌の上に乗せられていたのはSDカードだった。由比ヶ浜とこういう物の組み合わせってなんだか妙だ。

「……何か由比ヶ浜が俺に渡すようなデータなんてあったか?」

「しゅ、修学旅行の写真だよ……一緒に撮ったでしょ?」

そういえばそうだった。普段写真なんて撮る習慣がないからすっかり忘れて…………いや、珍しいことなら覚えてなきゃ

むしろおかしい。修学旅行は……最後の記憶がインパクト大きすぎだったからだ。それを認めてしまっていいのか俺は。

「そうだったな……これはデータだけコピーして明日にでも返せばいいのか?」

「うん、そうして」

「了解」

20: 2013/07/31(水) 20:36:59.28 ID:FdvpavaL0
俺が受け取ったSDカードを机の上に置いたのを見ると由比ヶ浜もリュックをしょい直して扉の方に向かって歩き出す。

「じゃ、じゃあヒッキーお大事に」

「……お大事に」

「ああ」

扉の前で待っていた雪ノ下は頭を下げ、由比ヶ浜は小さく手を振って部屋から出ていった。



「……ふぅ」

部屋の中が静かになり、また横になると安堵か寂寥か自分でもよくわからない変なため息が出る。

「…………寝よ」

俺は再び視界を暗くした。


21: 2013/07/31(水) 20:41:31.23 ID:FdvpavaL0
夕飯を済ませた後くらいには熱もほぼ下がっていたので由比ヶ浜が渡したSDカードのデータをコピーすることにした。

が、いいのかよ、これは…………俺と由比ヶ浜が写ってる写真だけじゃなく修学旅行中の他の写真もあるんですが。

いや、それだけならまだしも…………由比ヶ浜のデジカメで撮ったものたぶん全部見れちゃうんですけど…………

これってたぶん夏休みに行った家族旅行の写真だよな…………てかそれ以外にも色々撮ってるのね、この子は。

わざと?…………と言いきれないのが由比ヶ浜の所業…………明日返す時なんて言おうか。黙っとけばいいのか?

あ、さすがに良心が咎めたので俺が写ってる写真以外はコピーしてないですよ。ホントですよ。



…………なんだか寝る前にまた熱の上がりそうなものを見てしまった気分だ。

27: 2013/08/01(木) 23:25:01.89 ID:NeeBP40/0
②これでも比企谷八幡の学校生活は平穏に過ぎていた。


とりあえず昨夜の心配は杞憂だったようで、熱がまた上がるようなことはなくだるさもほぼなくなり、普段より少し早い

時間に目を覚ますことができた。リビングに向かうともう小町が朝食の準備を済ませたところだった。例によって親二人

はもう出払っている。仕事なのでまあ致しかたないところではある。

「あ、お兄ちゃんおはよう。もう治った?今日は学校行けそう?」

「おはよう小町。まぁほぼ治ったみたいだから今日は行けそうだ」

一緒にテーブルに着くと小町は何やら口元を押さえてニヤニヤし始めた。いくら千葉名物?のシスコンの俺としてもこの

表情はちょっと擁護できないできないレベルでキモい。さすがは俺の妹。

「……どうした小町。何か悪いものでも食ったのか?」

「いいえ?ただ、昨日小町が呼ばせた薬の効果があったのかな?と思いまして」

「……薬は飲ませるもんであっても呼ばせるもんではないはずだが」

28: 2013/08/01(木) 23:27:52.64 ID:NeeBP40/0
「またまた~。みなまで言わせるなど野暮なことをお兄ちゃんは要求しちゃうんですか?」

……何を言いたいのか全くわからん。まぁわざと相手に伝わらないことを言って話を続けさせることは俺も時々やるので

あまり人のことはいえないのだが。とりあえずここは首をかしげておこう。

「昨日はお楽しみだったじゃないですか」

「誤解を招くような言い方をするな」

「まぁ事実としてはお兄ちゃんが美女二人を自分の部屋に連れ込んで……」

「それも事実じゃねえから。連れ込んでないから。あの二人を呼んだのはお前だろうが」

美女二人……というところまでは否定しませんけど。

29: 2013/08/01(木) 23:31:48.76 ID:NeeBP40/0
「まあまあ……細かいことはいいから。それで元気になったのなら結果オーライってことで」

「……むしろ熱が上がるかと思ったけどな」

夜に見た写真のことも頭に浮かんで思わず俺は小声でつぶやいた。

「え?」

「な、なんでもない。それよりさっさと食おうぜ」

「お兄ちゃんのケチ!話したことくらい喋ってくれてもいいじゃん!修学旅行の話もまだ聞いてないのに」

小町はべーっと舌を出して顔をしかめた後トーストを手にとってかじり始めた。

そういえば思い出話をみやげに……なんてことを言ってたっけかな。帰って早々に寝てしまっていたから忘れていた。

「まあ、そういうのは今日以降な」

「むー」

話すとは一言も言っていないけれど、まだ本調子でない自分を気遣ったのかそれ以上はツッコんでこなかった。

30: 2013/08/01(木) 23:35:55.55 ID:NeeBP40/0
朝食を終えて片付けと準備を済ませ、玄関に向かう。

「忘れ物とかないか?」

「大丈夫大丈夫。あっ……お兄ちゃんの修学旅行のみやげ話なら」

「後だ後」

「ちぇー」

「あ」

っと。危ない危ない、俺が忘れ物するところだった。

修学旅行という単語で思い出したが、由比ヶ浜のSDカードを鞄に入れるのを忘れていた。

いったん鞄を下して階段を上がって自分の部屋に戻り、机の上に置いたままだったそれを手に取った。

「やっぱり口に出して確認するもんだな……電車の運転士じゃないけど」

「……珍しいね、お兄ちゃんが忘れ物なんて」

「!」

31: 2013/08/01(木) 23:39:51.03 ID:NeeBP40/0
突然背後から聞こえた声に思わず振り返る。いつの間に俺の部屋に入ったんだよ。

いくら血の繋がった兄妹とはいえこんなステルス能力まで受け継がなくていいから。怖いから。

「ビックリさせんなよ小町」

「むしろ小町がビックリだよ。お兄ちゃんいつも念入りに持ち物確認してるし」

そう。ぼっちにとって忘れ物というのは致命的な問題なのだ。「忘れたから誰かに借りればいいや」というような

甘ったれた考えの持ち主には想像できないかもしれないが。そこ、借りる相手がいないだけとか寂しくなるツッコミ

は控えるように。それに教科書など俺なんかが隣の席の人に見せてもらえたところでどうにも不自然な状態である

ことには変わらず、見せた人が衆目に晒されるのもかわいそうな話である。だから、忘れ物はしないよう最大限の努力

を払ってきた、つもりだった。

「あ~……まだ病み上がりだからかな」

「大丈夫?やっぱり休む?…………ところでそれ何?」


32: 2013/08/01(木) 23:43:55.35 ID:NeeBP40/0
妹なりの優しさを見せたかと思えばさっそく地雷を踏みに来るとは。マインスイーパなら即ゲームオーバーだぞ。

「見りゃわかんだろ」

手に取っていたものを指でつかんで小町に見せる。

「そうじゃなくて…………あっ!もしかして」

「いいから下降りよう、な!」

「はいはい……」

手にSDカードを握ったまま、渋る妹を押しやりながらまた階段を下りて玄関に戻る。

俺が鞄の中にそれをしまい直すと小町が何やら嬉しそうな様子で言う。

33: 2013/08/01(木) 23:47:31.18 ID:NeeBP40/0
「それ、修学旅行の写真が入ってたりする?……昨日雪乃さんか結衣さんにもらっちゃったりして」

何でそんなことまで分かっちゃってるの?この妹は。もしかして探偵だったりする?名探偵コマチ……語呂は悪くないな。

「まぁ……昨日由比ヶ浜から借りたんだよ」

否定したところでどうしようもなく、嘘をつく理由も特にないので事実を簡潔に告げた。

「え~小町も見たいなあ、そのSDカードの中身」

……さすがにそれはマズい。小町がこれの中身を見るということは俺が由比ヶ浜のアレコレの写真を見たことがバレる

のに等しい。しかし、幸いにして断る理由を見つけるのはごく簡単だった。


34: 2013/08/01(木) 23:50:26.36 ID:NeeBP40/0
「先に今日返すって約束しちまったんだよ」

「それにデータはコピーしたから後で見ればいいさ。少なくとも俺が写ってる写真しかないが」

「まぁそれなら後で見せてもらえばいいか…………ん?」

「それよりもう外出よう」

俺の最後の言葉に少々の疑問を感じたようなので、さっさと妹を玄関から外に追い出して扉の鍵を閉めてしまう。

「じゃあいってきます」

「……いってきます」

もうカマクラの他に誰かがいるわけではないが習慣となっている挨拶をしてから家の外に出る。

「お兄ちゃん……写真とみやげ話、忘れないでよね」

「……はいはい」


……なんだか出かける前から疲れてしまった。

35: 2013/08/01(木) 23:55:45.92 ID:NeeBP40/0
自転車通学はこのぐらいの季節になってくると再び辛くなってくる。速く走れば体は温まるが風圧はキツくなるし、

ゆっくり走ればそれはそれで寒いままだ。再び、というのは夏は夏で暑くて辛いからだ。というか温暖化だの異常気象

だの散々言われているが最近はホントに季節的に辛い時期が増えてるような気がする。夏・冬が長くて春・秋が短い。

生きるだけでも充分辛いのに勘弁してほしいです、地球よ。

自然も人間も優しくないのなら、やはり自分で自分を甘やかすしかないな。

あ、でもこの季節に飲む温かいMAXコーヒーは至高だと思います。なんだ、冬もやればできるじゃないか。

そんなことを考えつつ学校の駐輪場に着き、俺は自転車に鍵をかけていた。すると、背後から聞きなれた声がする。


「お、おはよー……」


36: 2013/08/02(金) 00:02:12.44 ID:/zWn4Kie0
向き直るとそこには茶髪にサイドを団子にした、いかにもイマドキの女子高生って感じの容姿の由比ヶ浜結衣がいた。

寒くなってきたせいなのか今日はピンクのマフラーを首に巻いている。

どうでもいいがこいつにピンクが似合うのはアホっぽいせいなのか、と余計なことを考えてみたりする。

しかし、風邪というわけでもあるまいにその声はあまり元気な様子ではなかった。

「おはよう…………なんか調子でも悪いのか?」

「え!?い、いや違うし……ヒッキーはもう、風邪大丈夫なの?」

「まぁ熱も下がったし、まだ本調子ではないがほぼ治ったかな」

「良かった…………ところで、……えっと……その……見た?」

胸の前で指で三角形をつくる、恥ずかしがる時にやるいつもの癖で目を逸らしながら彼女はそう言った。

38: 2013/08/02(金) 00:06:40.19 ID:/zWn4Kie0
「……何を」

“見た”という言葉に心当たりがないわけでもなかったが、俺が先に言うのも負けな気がしたのでこちらから訊き返す。

「しゃ……写真」

「ああ、修学旅行の。見たけど、それが何か」

嘘は言ってないぞ、嘘は。

「そ、そうじゃなくて…………その……他の…………」

どんどん声が小さくなっていき、最後の方は聞き取れなかったが彼女が言いたいことは理解した。

39: 2013/08/02(金) 00:09:43.90 ID:/zWn4Kie0
そこまで訊かれては仕方ないので由比ヶ浜の視線から顔を背けつつ、俺は頬を指で掻きながらこう答えるしかなかった。

「ま、まあ……フォルダとかに分けられてなかったから……その……」

見る見るうちに紅潮していく由比ヶ浜の顔に連動してこちらの顔の温度も上がっていく気がした。

「ご、ごめんねヒッキー…………」

てっきり「キモい」「変態」「ストーカー」などと罵倒されるかと思ったのに意外なことに謝罪されてしまった。

「い、いやこっちこそ…………その、知らずに見て…………悪かったな」

「……」

「……」

40: 2013/08/02(金) 00:13:38.68 ID:/zWn4Kie0
「「あ、あの」」

沈黙を破ったのが同時だったので、由比ヶ浜がどうぞどうぞと手を差し出す。

「あ、えっと……俺の部屋に由比ヶ浜が入ったことと写真のことで差し引きゼロってことにしないか」

「もしそれでまだ不満があるなら……何か要求してもいいけど、さ」

お互い意図しないところでプライベートな領域に踏み込んでしまったのだ……これでどうにかならないか。

「……わかった。とりあえずそれでいいよ。でも……大丈夫?」

「大丈夫って何が」

「その……写真見てあたしに対する……イメージとか変わったり…………」

41: 2013/08/02(金) 00:17:12.21 ID:/zWn4Kie0
……まだそんなことを気にしていたのか、この子は。以前から他人の目を気にしすぎるという特徴はあったのだが、

奉仕部に来てそんなことは意に介さない人間――それはそれで問題あるのだが、を見て多少はそういったものから解放

されたものだと思っていた。ここは俺のような人間を他山の石としてもらって大いに学習してもらうことにしよう。

ちなみに写真自体はイメージ通りのものしかなかったと記憶している。

「あのな、前にも言ったと思うが……俺の他人に対する印象なんてそうそう変わるもんじゃないぞ」

「……それは印象そのものがないか、嫌ってるだけなんでしょ?」

そういえばそんなようなことも言ったっけ。あ、この展開はマズいことになりそう。


「ヒ、ヒッキーは…………あたしのことも……嫌い?」

42: 2013/08/02(金) 00:21:47.76 ID:/zWn4Kie0
「…………いや……嫌いではないが……」

そんな頬染めて目潤わせながら、上目使いで訊かれて嫌いなんて言えるわけないでしょう、ほんとに困るからやめて。

「そもそもだな…………自分の他人からの印象をコントロールしようと思う時点で間違ってんだよ」

個人的な感情の話になると収拾がつかなくなりそうなので、無理やり話を一般論に戻す。

「……別に俺だって最初から人に嫌われようと思って行動してぼっちになったわけじゃないからな」

「好かれようと思って嫌われることなんていくらでもあるんだから、そんなこといちいち気にしなくていい」

「自分の他人からの印象はコントロールできない…………か」

人差し指を顎に当てて何か思案している由比ヶ浜。一転して何故かその表情はどこか楽しげだ。

「じゃあその逆もあり得るってことだから…………」


43: 2013/08/02(金) 00:27:35.67 ID:/zWn4Kie0
手を下して俺の顔を正面から見据え、彼女は確信めいた顔で力強くこう言った。


「……もしヒッキーがわざと嫌われるようなことしても、あたしのヒッキーに対する印象は変わらないからね」


ダメダメダメダメ!そういうこと言っちゃダメだって!…………いかん、落ちる。何がとは言わないが。

多分これカウントダウン入った。じゃあ落下じゃなくて打ち上げか。俺はロケットか何かか。

大気圏脱出してランデブーに入る前に爆発炎上が関の山、かな…………やっぱり落ちるのか、俺。

「そ…………そうですか」

「うん、そうだよ」

変な汗が出ておそらく目も泳いでたであろう俺は、そう答えるのがやっとだった。

44: 2013/08/02(金) 00:34:55.67 ID:/zWn4Kie0
俺の反応などまるでなかったかのように彼女はニコニコしながら話を続ける。

「あ、あとさっき言ってた要求の話だけど…………ヒッキーあの約束忘れてないよね?」

「な、なんでしたでせうか」

頭が回って何のことやらわからない。そういえば宇宙飛行士って平衡感覚を養うために回転椅子に乗せられてたっけ。

「もう…………文化祭の時の!」

そこまで言われてやっとハッキリした。由比ヶ浜にハニトーを奢られたので何かお返しをしないといけないんだった。

もちろん忘れてなんかいないさ。ちょっと今は頭の中が混線していただけで。ジャムってただけで。ハニーではなく。

「わかってる。今はその……色々考え中でして……」

「ふぅん?まあ忘れてないならいいけど……」

「あんまり時間かけ過ぎると自然とハードル上がっちゃうからそこら辺は気をつけてね」

45: 2013/08/02(金) 00:44:05.50 ID:/zWn4Kie0
……確かに。人ってあんまり待たせられると期待値が上がっちゃうのよね。俺自身の経験でもそういうことはあった。

長期休載してた漫画が連載再開して、いざ読んでみるとあれ?こんなもんだっけ?と思うみたいな。

「その場合、ハ、ハードルをくぐるというのは……」

「ダメに決まってるでしょ?そんなの」

「……ですよねー」

笑顔であっさりと却下されてしまった。ま、当然ですが。

46: 2013/08/02(金) 00:50:12.01 ID:/zWn4Kie0
「じゃあそういうことでよろしくね、ヒッキー」

「お、おう」

「……そろそろ行こっか」

俺が返事をする前に鼻歌交じりに昇降口に向かって歩き出す由比ヶ浜。

「あ、おい!SDカード!」

ステップの軽い彼女と対照的に、その後姿を追いかける俺の足取りは何故か重かった。

病み上がりとかそういう理由ではない。どうすりゃいいんだよ、これから先…………


53: 2013/08/02(金) 23:27:25.07 ID:/zWn4Kie0
先を行く由比ヶ浜と適当に距離をあけつつ、さも別々に来たかのように彼女の後で教室に入る。するといくつかの

あまり心地よくない視線が俺に刺さる。まるで何か痛々しいものでも見るかのような目だ。ま、別に間違ってるわけ

じゃありませんが。1級拒絶鑑定士だけでなく1級視線鑑定士も取得している自分にはその視線の意味するところが

すぐに理解できた。憐憫と嘲笑――――あぁ、もうクラス内では周知の事実なのね、修学旅行中のあの出来事は。

あれを見たのはごく限られた人間だけだった筈なのにな。まぁ壁に耳あり障子に目ありと言うくらいだしね。竹藪では

それこそ筒抜けみたいなもんだ。おまけに独立してるのかと思いきや地下茎で繋がっていたりもする。俺のような”林立”

しているぼっちなどとはたとえ地面を共有していたとしてもまるで違う世界で生きているのだ、この辺りの住人は。

54: 2013/08/02(金) 23:30:15.37 ID:/zWn4Kie0
しかし、この様子だと戸部が海老名さんに告白しようとしたことは公になっていないようだ。そもそもそうでないと俺の

したことにも意味がなくなるしな。葉山や三浦や海老名さんの懸念はとりあえずは解消された。そして、このグループ内

ではひとまずその話題は封印することになったらしい。教室の後ろの方で喋っていることも全然関係のない話のようだ。

そういう意味では文化祭後とは結構状況が違う。トップカーストが話題にしなければ情報の伝播も弱くなるし、今回は

俺が悪人になったということでもない。だから、”クラス内”での俺の立場はそこまで悪くはなっていなかった。

席についてふと、また別の視線が刺さったのでそちらを向くとまたもや目を逸らされてしまった。

川崎沙希。普段も弟とメールしている時以外は、不機嫌そうな表情をしている彼女だが、今は本当に何かに怒っている

ような様子だった。…………俺、何かマズいことでもしたのかな。

55: 2013/08/02(金) 23:33:35.97 ID:/zWn4Kie0
身に覚えのないことをいくら考えても仕方ないので、荷物を取り出して机の中に入れロッカーに鞄をしまいに行く。

自分の席に戻り、寝る体勢に入りかけた頃に横から声がかかる。その心地よさたるや思わず昇天するかと思った

レベル。しかし実際問題天使なのだからしかたない。瞼を開けて顔を向けると微笑を浮かべる戸塚彩加の姿があった。

「おはよ、八幡」

「お、おはよう戸塚」

「由比ヶ浜さんから風邪って聞いてたんだけど……もう治った?」

心配そうにこちらを覗きこんでくるその表情を見て思わず言ってしまう。

「ああ……たった今完治したよ。戸塚のおかげでな」

「ええ~それどういう意味?」

少しあきれたような感じで笑って返してくれる。この子はこの子で”林立”している感じなのに地下茎がないわけでもない

不思議な存在だ。ただでさえ俺に話しかけてくれる人間というだけでも貴重なのに。

56: 2013/08/02(金) 23:37:29.93 ID:/zWn4Kie0
俺がさっきの質問に答える前に戸塚は話を続ける。

「ところで、その……どうだったの?結局……修学旅行の」

ああ、そういえば戸塚は知ってたんだったな。戸部の好きな相手が海老名さんだということに。立場を変えて考えてみる

と今の状況はいささか変である。何故か彼女に告白したのが俺になっているのだから。

「なんというか……まぁ、その仕切り直しになったというか。ほら、」

そう言って葉山たちの方を指さす。彼らは傍から見れば修学旅行以前と何ら変化がないように感じられる。

「……そっか」

これでとりあえず戸部の告白の件については納得して頂けたようだ。できればこのままスルーしてほしい、俺のことは。

57: 2013/08/02(金) 23:43:45.95 ID:/zWn4Kie0
「でも…………大丈夫なの?」

心優しい戸塚大天使様のことだ、そうは問屋が卸さない……わかっていたけど、俺はこう答えるしかない。

「……大丈夫だ。俺のことは気にするな」

「い、いや……八幡もそうだけど……僕はむしろ由比ヶ浜さんの」

「え?」

アレ?今とっさにフォローしてくれたみたいだけど、俺のことじゃないのか……自意識過剰かよ、なんか恥ずかしい。

ハハハ、別に戸塚が見知った相手だからといって俺が心配されるような存在じゃないのは自分が一番よくわかってる

つもりだったのに。……なんか俺、落ち込んでる?

それにしても、何で戸塚が今回の件で由比ヶ浜のことを心配するのだろうか……よくわからないな。

58: 2013/08/02(金) 23:46:59.14 ID:/zWn4Kie0
「な、何故そこで由比ヶ浜のことが話題に出てくるんだ?」

「えっ!?…………だってそれは八幡が……ううん、なんでもない。気にしないで」

「お、おう……」

人間見るなと言われたら見たくなるもんだし、気にするなと言われたら気にしてしまうものである。しかし、この場合

相手が戸塚だ…………戸塚が嫌がる姿は見たくないのでそれ以上追及しないことにした。

ごめん、今自分に嘘つきました。戸塚が嫌がる姿も見てみたいです…………が、とりあえずここは我慢します。

59: 2013/08/02(金) 23:51:24.81 ID:/zWn4Kie0
「……ところで、八幡は今日部活に行くの?」

「そのつもりだけど」

「ふぅん…………それなら別にいいのかな」

戸塚は軽く頷きながら何か一人で納得したようだった。

「じゃあ頑張ってね、八幡」

「……と、戸塚もな」

部活の事なのか何なのかいまいちハッキリしない激励をし合って戸塚との話を終えた。……そろそろHRの時間か。

他の人も教室に戻ってきたり、席につき始めている。……俺のこの状態もしばらくの辛抱だ。この先良くなるとわかって

いるのなら今悪くてもそんなに憂鬱にはならない。自分の存在がちっぽけ過ぎるとかセカイがつまらないとかそういう類

の悩みではないのだ。だから、ここにいる間はそんなに気分は落ち込んではいなかった。

73: 2013/08/04(日) 23:52:22.97 ID:dJldF2Mi0
③その均衡を壊すのが誰なのか、彼らはまだ知らない。


特に何事もないまま午前の授業、昼休み、午後の授業と時間は過ぎていった。ただ、いくら教室が俺にとってのアウェイ

で冷たいといっても病み上がりの状態でこの季節に外で昼飯を食べたのは手痛いミスだったような気がする。

教室は冷たく、外は寒い。八方ふさがり。いや、ふさがってるなら暖かそうだな。体調が良くないのなら保健室という手

もあったのかもしれないが、あの独特な臭いの中で飯を食べるのもどうなんだという気がしてやめておいた。

そろそろ他にどこかいい場所を見つけないとな、屋内で。奉仕部部室などは最初から選択肢に入らない。あそこは部長

である雪ノ下雪乃の領土みたいなものだからな。俺のような不審者が下手に近付けば領海侵犯で即射殺されるレベル。

74: 2013/08/04(日) 23:55:06.46 ID:dJldF2Mi0
しかし、周りの永久凍土を融かしてまんまと氷の女王のテリトリーの侵入に成功してしまった奇特な方もいないことも

ないですが。彼女は固有の領土こそ持っていないものの持ち前の空気読みスキルと八方美人ぶりを発揮して色々な

ところにしっかりと自分の居場所を確保している。あれで頭が良ければ優秀なスパイになれたんじゃないだろうか。

おっOいは大きいからハニートラップには向いているかもしれないな。まぁそんなことしなくても彼女の場合、男子に

とっては存在そのものがトラップみたいなものですが。俺も危うく引っかかりそうになったことがある。今でもそうなの

かは知らないけど。



75: 2013/08/04(日) 23:57:35.09 ID:dJldF2Mi0
冬場の昼食の場所の候補を思案しながら部室の扉を開けると、そこには件の氷の女王もとい雪ノ下雪乃がいつものように

椅子に座って本を読んでいた。不思議なもので、部屋の体感温度というものは人間がひとりいるだけでもだいぶ温かく

感じられるものだ。たとえそれが彼女であったとしても。

「うす」

「こんにちは、比企谷くん。鬼の霍乱はもう治ったのかしら」

「まぁほぼ治った感じだけどな……だが俺は鬼なんかじゃねぇぞ。ゾンビと間違えられることはあっても」

「……確かにほぼ治ったみたいね」

何か安心した様子でふぅっと息をつき、彼女は続ける。

76: 2013/08/04(日) 23:59:47.39 ID:dJldF2Mi0
「案外由来を考えると間違っていないのかもしれないわよ。元々『鬼』という単語は『おんに』つまり陰を表す言葉から

派生したものだそうだから……比企陰くん」

「また、変なあだ名つけやがって……それが病み上がりの人間に対する仕打ちかよ」

「……だったら、大人しく黙っていることね」

「……」

少しは雪ノ下が優しくなってくれることを期待して、俺は黙ることにした。断じて論破されたからではない。どうでも

いいけどダンガンロンパって彼女にこそふさわしい言葉のような気がする。実際のその言葉の使われ方は知らんけど、

なんとなく字面的に。俺が席についた後はしばらくの間、またいつもの沈黙が続く。

77: 2013/08/05(月) 00:03:05.54 ID:rJWw4fQ40

「ゆきのん、ヒッキーやっはろー!」

「こんにちは」

「うす」

扉が開いていつもの頭の悪そうな挨拶をして由比ヶ浜が部室に入ってくる。

部員が揃えばもうやることは決まって放課後ティータイムである。軽音部ではなく。

めいめいに机の上に菓子を取り出し、雪ノ下は紅茶を淹れる準備をする。

しばらくしてお湯が沸いた後、慣れた手つきでティーカップとマグカップと湯呑みに紅茶を淹れていく雪ノ下。

……湯呑み?そんなものあったっけか。俺が怪訝な目で前に置かれているそれを見ていると彼女はつぶやいた。

78: 2013/08/05(月) 00:05:40.65 ID:rJWw4fQ40
「……これは部活動の備品の支給よ」

「そ、そうなんですか」

「ええ、そうよ」

「……」

そう言われてしまってはあえて反論するのも受け取るのを拒否するのも何かおかしいので、少し冷ましてから手に取り

紅茶を飲む。美味い。季節が寒くなると温かい飲み物のありがたみというのはますます増すというものだ。

雪ノ下は雪ノ下でさっきの会話などなかったようなそ知らぬ顔でティーカップに口をつけ紅茶を飲んでいた。

そんな様子を横目で見ていた由比ヶ浜は少しあきれたような微笑で肩をすくめる。

79: 2013/08/05(月) 00:07:05.57 ID:rJWw4fQ40
しかし、部活動の備品ねぇ……その湯沸しポットもティーポットもソーサーもカップも私物にしか見えないんですが。

マグカップはマグカップで由比ヶ浜のものだろうし……

「雪ノ下」

「……何か?」

件の湯呑みを持ち上げて雪ノ下に見せながら疑問に思ったことを訊いてみることにした。

「さっきこれを部活動の備品として支給すると言っていたが……」

「言ったわよ」

「ということは、別にこれは俺のものになったというわけではないよな」

80: 2013/08/05(月) 00:09:39.73 ID:rJWw4fQ40
一瞬だけ顔を下げて目を瞑り思案する様子を見せた後、雪ノ下は告げる。

「……そのように解釈してもらっても別に構わないけれど」

「ただ、どのみちもう一度あなたが使ってしまったのだから、これを他の人間が使うことはないと思うわよ」

「……確かにそれもそうだな」

さすがに比企谷菌と呼ばれる実力があるだけのことはある。自分でも納得してしまった。

「そ、そうとも限らないんじゃないかな?」

湯呑みを見ていた由比ヶ浜が唐突に口を挟んできた。

「そういう訳のわからないフォローとか別にいらないから。それとも何?お前この湯呑み使いたいの?……変態?」

「えっ!?そっそういう意味じゃなくて……ばっ、バカじゃないの?ヒッキー」

そう言いながら胸の前で激しく手を振り否定した。カップに当たりそうで危ないからやめろ。

81: 2013/08/05(月) 00:11:23.99 ID:rJWw4fQ40
「はいはい、俺は馬鹿ですよ……」

「そ、そうだよ……ヒッキーはバカだよ……」

あ、別にそこは否定とかしてもらえるんじゃないんですね。さっきフォローされたからつい期待してしまった。その程度

のことも予測できないとはやっぱり馬鹿ですね、自分は。

「そうね、比企谷くんは馬鹿ね」

そこ、誰が追い打ちをかけろと言った。しかし発せられた酷い言葉とは裏腹に二人は似た表情で俺のことを見てくる。

ハハハ、そんな目で見ないでくださいよ……まるで俺が可哀相な人間みたいじゃないですか。

何故か修学旅行の時の記憶がフラッシュバックする。

これ以上二人のこんな顔は見たくないので、俺は話題を元に戻すことにした。

82: 2013/08/05(月) 00:13:20.74 ID:rJWw4fQ40
「しかし、なんでわざわざこんな湯呑みを?俺は別に紙コップでもよかったのに」

「数える程度にしか飲まないのなら、それでも別に構わないわ。しかし、使い捨てを続けるのは環境的にも……」

「……ま、俺がいる時点で環境的には悪いんですけどね。菌とか言われることもありましたが」

「また出た……ヒッキーの自虐……」

「あら、そんなこともないわよ?比企谷菌」

「フォローしてるのか追い打ちかけてるのかどっちなんだよ、それ……」

「あら、フォローしてるつもりだったけれど?主に菌の方を」

「それ、フォローしてる対象間違っているから……」


83: 2013/08/05(月) 00:16:33.57 ID:rJWw4fQ40
俺じゃなくて菌のフォローしてどうすんだよ……雪ノ下はツッコミを無視して続ける。

「別に菌といっても菌糸類など色々あるし、環境的に有害とは限らないわ。比企茸くん」

「俺はキノコか何かか!?ちなみに俺はキノコ派でもタケノコ派でもどっちでもないぞ」

「あ、あたしはキノコ派かな……?」

そういえば由比ヶ浜、キノコ好きそうだもんな。なんかそういうカンバッジを鞄につけてたような記憶もあるし。

しかし、何故キノコ…………初期の彼女の料理の腕前は確かに毒キノコレベルだったが。


84: 2013/08/05(月) 00:19:14.53 ID:rJWw4fQ40
雪ノ下は初めて聞いた用語が出てきたせいか、首をかしげて由比ヶ浜に耳打ちしながら尋ねる。どうでもいいけど

誰かの悪口でなければ女の子が耳打ちしてる姿ってなんかいいよね。……なんならされるのも悪い気分しない。

「あ、あの……キノコ派タケノコ派って何のことかしら?」

「え?ああ、きのこの山とたけのこの里のどっちが好きかってだけの話だよ」

「そういえば、前に由比ヶ浜さんが持ってきてたお菓子にそんな名前のものがあったかしらね……」

「そうそう、それそれ!……で、ゆきのんはどっち派?」

「わ、私は特にどっちが、ということは……」

85: 2013/08/05(月) 00:22:46.63 ID:rJWw4fQ40
ほう。無派閥が二人、つまりは俺が多数派に属したことになるのか。珍しいこともあるもんだな。……それ多数派か?

「……今回は由比ヶ浜がぼっちということみたいだな」

「むぅ……た、たかがお菓子の好き嫌いくらいで大げさだよ」

「その通りだ由比ヶ浜。お前も少しは世の中の仕組みとやらがわかってきたようだな」

頭にクエスチョンマークを浮かべた顔と怪訝そうな顔で彼女たちはこちらを見やる。

「いいか?世の中の派閥争いなんて大概がくだらんものだ。争うこと自体がすでに馬鹿馬鹿しい」

「やれ犬派だの猫派だの、好きなアイドルはどっちだ、だのそんなもの個人個人が勝手に決めりゃ済む問題だろ」

「……それは確かにそうね。私もよく意味の分からない同調を求められて困惑したことは何度もあったわ」

86: 2013/08/05(月) 00:25:10.14 ID:rJWw4fQ40
「そ、それはたぶん……みんなと一緒ってことで安心したいんだ、と思う……」

「「みんな、ね……」」

同時にため息が漏れ、同じことをつぶやく俺と雪ノ下。”みんなと同じ”でいられるのなら、それはそれで安心できたの

かもしれない。しかし、それができなかった人間もいる。そういう人間は、むしろ”みんなとは違う”ということに価値を

見出していき、自分のアイデンティティもそういったところに求めていく。ただ、そういう考えはますますぼっちを加速

させることにもつながったのだが。

「そ、そりゃヒッキーやゆきのんは違うんだろうけどさ…………ところで世の中の仕組みって?」

87: 2013/08/05(月) 00:28:30.32 ID:rJWw4fQ40
「ん……話を元に戻さないとな。そうだ由比ヶ浜、ギャンブルで絶対に賭けに負けない方法って知ってるか?」

「え?な、なんで急にそんな話に?……う~ん……ヒッキーの考えそうなことだから……」

腕を組んで唸りだす由比ヶ浜。体の一部分が強調されて、別の意味で俺が負けそう……煩悩的に。

「あ!わかった。そもそも勝負しないんだ!」

自信満々に人差し指を突き出して答える由比ヶ浜。ほう……なかなかこの子もヒキガヤイズムがわかってきたみたい

じゃないか。だが、惜しい。

「……それもある意味正解といっちゃ正解だ。手を出さなきゃ負けることはないわな、確かに」

「しかしギャンブルそのものをしないわけじゃない、はいどうする?」

88: 2013/08/05(月) 00:31:47.37 ID:rJWw4fQ40
さすがにもう何も思いつかないのか隣の雪ノ下に助けの視線を送る。するととっくに正解を知っていたかのような素振り

で彼女はこう答えた。

「胴元になること、とでも言いたいのかしらあなたは」

「どうもと…………剛?」

「某アイドルユニットのメンバーじゃねぇよ……体の胴体の胴に元気の元の方の胴元だ」

たぶんここまで説明しても意味わかってないよなあ……由比ヶ浜の場合は。

「由比ヶ浜さん、胴元というのはギャンブルの親や元締めのことよ」

「親、元締め……」

おうむ返しになってるだけだな、わかってませんねやっぱり。

89: 2013/08/05(月) 00:34:27.55 ID:rJWw4fQ40
「親なら……ほら、カジノでカード配ったりルーレットで玉転がす人のことだよ」

「元締めで身近なところで言えばパチンコの経営してる人だ」

はっとした様子で手を打つ由比ヶ浜。ようやくピンときて頂けたらしい。

「要するに場所や道具を貸してお金を取っている人のことよ。こういう人たちはギャンブルの参加者が勝とうが

負けようが関係なく儲けられる。それでいいのよね?賭けに負けない方法というのは…………比企谷くん」

「その通り。おまけにこの理論はさっきの派閥争いにも使えるというわけだ」

「……どういうこと?」

90: 2013/08/05(月) 00:36:28.59 ID:rJWw4fQ40
またしても首をかしげる由比ヶ浜……さすがに雪ノ下の方は話の結末が見えたようでふんふんと頷いている。

「つまり、争いごとをわざと起こして儲けてる奴がいるってことだよ。きのこたけのこなら製菓会社、アイドル総選挙

ならプロデューサーや芸能事務所。参加者がハマればハマるほどいわば胴元が儲かるという寸法だ」

「な、なんか嫌な話だなあ……」

「だから、そういうものは遠巻きに見てるぐらいでちょうどいいってことだよ。ぼっちでいる限り負けることはない!」

「……結局そういう話のオチになるのね、あなたは」

由比ヶ浜と雪ノ下は微妙に違うニュアンスで苦笑いをした。




91: 2013/08/05(月) 00:38:54.67 ID:rJWw4fQ40
「……そう、一人でいるだけなら、つまり孤立しているだけなら他の生態系に影響があるわけじゃない」

「だから、環境的にも悪影響とは必ずしもいえないんじゃないかしら」

「そうですか……」

ぼっちという単語で思い出したのだろう……俺が環境的にどうのこうのという話に戻す雪ノ下。悪影響がない、と彼女

は言っているのだからこれは喜んでいい場面なんだよな?そうだよな?

「あ、あたしは影響あったと思うけど……」

ぽそっとつぶやく由比ヶ浜。まぁ、奉仕部に入って一番変わったのはたぶんお前だろうしな。俺の影響がないと否定

しきれるものでもない、のか……?

92: 2013/08/05(月) 00:41:53.43 ID:rJWw4fQ40
「そうか?それは悪かったな由比ヶ浜。素直なお前に色々とひねくれた考えや悪知恵を仕込んでしまって」

「へ?べ、別にそういう意味じゃ…………す、素直?」

困惑した後に笑みを浮かべる彼女。どうやら素直という言葉で褒められたと思ったらしい。

「あ、ここでいう素直ってつまりは馬鹿ってことだからな。勘違いするなよ」

「はぁ?な、なんでヒッキーっていつもそういうこと…………あ!」

「なんだよ?」

なんか由比ヶ浜のこの表情は見覚えがあるな。ああ、小町がロクでもないことを思いついた時の顔とそっくりだ。

「今ヒッキーは素直と馬鹿を同じ意味で使ったって言ったから……これからは馬鹿じゃなくて素直って言ってよ!」

93: 2013/08/05(月) 00:44:33.70 ID:rJWw4fQ40
「え~……」

やっぱりロクでもないことだった。そんな改まって言えるかよ、素直とか……

「確かに由比ヶ浜さんは素直だと思うわ。でも、この男にストレートにそんなお願いして聞いてくれるわけないじゃない」

「この男自身が素直じゃないんだから。素直って言えと言ったところでそのまま従うと思う?」

「ん……確かにそれもそうだね。ヒッキーは捻デレだもんね」

「でしょう?だから、ここは素直に諦めなさい」

「わかった……ゆきのんがそういうなら諦めるよ」

おい、なに勝手に二人で笑顔で納得しちゃってんの。あと小町の作った変な造語をこんなところで定着させないでくれ。

だいたい雪ノ下は他人のこと言えた義理なのか?…………いや、やめておこう。それを考え始めるとたぶんドツボに嵌る。

……この湯呑みもただの備品の支給と言っていた。彼女がそういうのなら、おそらくはそうなのだろう。

それならそれで、俺も言うべきことがあったのを思い出す。

94: 2013/08/05(月) 00:47:31.62 ID:rJWw4fQ40
「ところで雪ノ下。この湯呑みは部活の備品と言っていたが……」

「ええ、そうね」

「それならそれで、俺はその対価を払う必要があるんじゃないのか?」

「そのことなら気にしなくてもいいわ。この部活にも部費というものが一応あるのだから」

ぶひ?ブヒ?……確かに俺は萌えアニメも見ないこともないが、さすがに「シャルぶひいぃぃぃ」とか言ってないぞ。

心の中では言ってたかもしれないが。……うちの部活に部費なんてものがあったのか。初めて知った。由比ヶ浜も知ら

なかった様子でこちらを見て首を振り、そんな二人の様子を見た雪ノ下はこめかみに指をあててため息をついた。

95: 2013/08/05(月) 00:50:41.15 ID:rJWw4fQ40

「あなたたち……今まで夏休みの合宿の費用などはどのようにして賄われていると思っていたの?」

そう言われればよく考えてみると俺、あの合宿のお金とか特に払ってなかったな。由比ヶ浜ははっとした様子で何かを

思い出したようだ。どうやら彼女の方はただ単に忘れていただけみたいだ。

「いや……専業主夫希望の俺としては、直接金銭のやり取りをしていないところだと養われるのがデフォルトだったから

まったく意識しなかったというかなんというか」

「それ言い訳になってないし……それにわざわざクズみたいなこと言わなくても」

「おい由比ヶ浜!お前だってさっきまで忘れてたみたいなのによく言うよ、まったく」

「そ、そんなことないもん!……開き直るよりまだマシっていうか」

96: 2013/08/05(月) 00:52:53.18 ID:rJWw4fQ40
「……あなたたちにはもう少し高次元での争いをしてほしいところだわ」

「……」

目を瞑り首を振りながら答える雪ノ下。そう、争いとは同じレベルの間でしか発生しない。ということでここは鞘を

収めるのが吉だ。由比ヶ浜と同レベルと思われないようにするには。向こうも同じことを考えたらしく黙ってくれた。

しかし、あの合宿の費用が部費で賄われているのはいいとしても、葉山グループの分はどういう計算になっているの

だろう?確か三浦あたりがタダとか言ってたような。そっちの分まで部費から支払われていたとするならなんか嫌だな。

小町や戸塚のためならいくらでも使って構わないが。なるほど……そこをツッコむと墓穴を掘ることになるのか。小町

なんて完全に部外者なわけだし。……己の保身のためにもあまり深いことは考えないようにしよう。

97: 2013/08/05(月) 01:05:47.76 ID:rJWw4fQ40
「しかし雪ノ下……部費というものがあるんだったら、さ。例えば」

「あなたに平塚先生をだまくらかす能力でもおありとお考えで?」

使途不明金にすることまでしっかり先読みされてました。……怖えよ。

「ありません。何でもありません。部費は正当な目的でのみ使用されるべきですね」

「よろしい」

「……」

意外にも俺ではなく由比ヶ浜が何か釈然としない様子で雪ノ下の方を見た。

98: 2013/08/05(月) 01:13:32.46 ID:rJWw4fQ40
「……何か?」

「えっと……ゆきのんは……今日部活終わったあと時間ある?」

「あまり長くならないのなら……それが?」

「ちょっと二人だけで話があるというか……」

「……わかったわ」

次に続く言葉を待っていたのが顔に出てしまったのか、雪ノ下がこちらを向く。

「別に急ぎの用事というわけでもないんだから、あなたが心配するようなことはないわよ」

「え?ああ……」

てっきり今すぐ追い出される勢いだと思ってたぜ。まだ紅茶も全部飲んでないしそれは困る。

……困るポイントはそこでいいのか?


99: 2013/08/05(月) 01:31:30.57 ID:rJWw4fQ40
とりあえず話すこともなくなり、ティータイムを適当なところで終わらせた後は相談メールがないかの確認をする。

しかし今日のところはそういったものも特になく、残りの時間は例によって読書をして過ごす。

近頃は日が短いせいか、ますます時の流れが速く感じられた。

部活動の終了の時刻の鐘が鳴ると、ぱたっと本の閉じられる音がする。

「……では今日はこのあたりで。私は鍵を職員室に返しに行くから由比ヶ浜さんは昇降口で待っていてくれる?」

「うん」

皆が帰る支度を済ませ、扉の前に立つと雪ノ下が挨拶する。

「比企谷くん、また明日」

あ、そっか。由比ヶ浜はまだ一緒にいるんだっけか。

「おう、また明日、由比ヶ浜も」

「うん、また明日ね」



こんなルーチンでしかなさそうな挨拶でさえ、1週間しかもたないとはこの時の自分はまだ気づいていなかった。

109: 2013/08/05(月) 21:47:26.19 ID:rJWw4fQ40
④彼はまだ、元来た道へ引き返せると思っていた。


それから1週間ほどは、この初冬の寒々しい空と同じく”千葉県横断お悩み相談メール”も寒々しい限りであった。散発的

に無意味なPNのメールが送られてはくるが、まぁその場ですぐ返信できるような類のものばかりだった。というか

メールじゃなくて原稿を書けよ、材木座。もういっそのことメールを小説にしたらどうなんだ。ケータイ小説なんて

ものがあるくらいなんだからメール小説があってもよかろう。スイーツ(笑)な人たちにウケること間違いなし。しかし、

材木座の筆力ではせいぜい『変空』となるのが関の山か……。

今日も三人して机の上のPCを覗き込む。

「また来たわよ、比企谷くん」

「最初から俺に投げること前提ですか……」

「あら?こういうことは経験者に任せるのが一番良いと思ってそうしているのだけれど」

「経験者、ねぇ……」

110: 2013/08/05(月) 21:49:14.65 ID:rJWw4fQ40
確かに俺はいわゆる中二病を患っていないこともなかったが、作家病になったことはないんだよな。ちゃんとした小説

を書いたことがあるわけでもあるまいし。しかし、材木座のそれもとてもちゃんとした小説などと呼べるような代物

でもないので、俺程度が相手してればそれでいいのかもしれない。俺が思案に暮れていると、由比ヶ浜がメールを

読み上げていく。

<PN:剣豪将軍さんのお悩み>

『小説で恋愛シーンを書きたいのだが、我は恋愛をしたことがないのでどうやって書いたらいいのか途方に暮れている。

書き方をご教示願いたい』

「何を言ってんだ、こいつは」

思わず、口に出してツッコミを入れてしまった。しかし今回は意外にもこいつに共感した人間がいたらしい。

「え?普段来るメールに比べたら、内容わかるような気がするけど……」

「確かに、未経験なことを書くというのが難しいという意見はわからないでもないわね」

111: 2013/08/05(月) 21:50:44.66 ID:rJWw4fQ40
ふむ。どうやら三人とも小説という物を何か勘違いしておられるようでいらっしゃる。読書家の雪ノ下なら気づいても

よさそうなものなのに。俺の密やかな優越感が顔に出てしまったようで、雪ノ下は不満気に言う。

「あなたはこのメールに答えられる用意ができているようね」

「ヒッキーのことだから、どうせまたロクでもないことなんでしょ?」

なかなかストレートに酷いことを言うな、由比ヶ浜は。むしろこのやり取りに関して言えばロクでもないのは大抵が

材木座のような気がするんだが。

「失礼な。確かに俺はロクでもない人間かもしれないが、自分の主張することに関しては一定の正しさがあると思って

いつも発言するように心がけているぞ」

「そもそもその”正しさ”というのが既にロクでもないもののような気がするのだけれど……」

こめかみを指で押さえる雪ノ下を無視して俺は続ける。



112: 2013/08/05(月) 21:52:34.88 ID:rJWw4fQ40
「いいか?小説なんてものは伝記とかルポとかを除けば基本はフィクション、つまりはウソだ。だから、作者が経験が

ないからといって書けないなどというのは言い訳にもならない」

「なるほど。小説が想像の産物である以上、現実にそれを体験してなければ書けないというものではないわね」

「で、でもさ~……い、一応小説っていっても何?リアリティっていうか、そういうのも必要なんじゃないの?」

由比ヶ浜にしてはえらくマトモな指摘をしてきたので驚いた。雪ノ下も目を丸くしている。

「確かに、小説のジャンルによってはそういうのも必要だな。医療ものとかはある程度の専門知識が要求されるだろうし

実際の医者が書いているなんてことまである」

「しかし……しかしだな。今回の相談相手は材木座だ。奴の書く小説は基本的にファンタジー要素が強いし、それに

こいつに恋愛経験を積めというのも酷な話だろう」

「……言っていることはかなり酷いのに、それに反論できないのがもどかしいところね」

「中二が恋愛…………姫菜とかなら意外と……いや、やっぱりないか、ないないないない」

113: 2013/08/05(月) 21:54:31.94 ID:rJWw4fQ40
全力で首を振る由比ヶ浜と頭を抱える雪ノ下。ほらな、俺は別にロクでもないことを言っているわけじゃない。

「だからそんなものは想像というか妄想して書くしかないんだよ、方法としては。むしろ自由度でいえば未経験者

の方が有利とさえいえるのかもしれん」

「それは過去の経験……つまり現実に縛られなくていい、ということかしら」

「そういうことだ。例えば、海老名さんなんか見てみろよ……BLなんて妄想の極致ともいえる自由さじゃないか。

書いてる本人が女だから経験しようがないし」

そう、あんなものはリアリティの欠片もないし、またそこがいいんだろう。だから、はやはちとか絶対にあり得ない。

「た、確かにそうかも……」

「以前も断片的には聞いたような気がするけれど……それは、その……男性同士の恋愛ものってことでいいのかしら」

「まぁ端的にいえばそうだな。ただ、オリジナル作品でそういう設定というよりは勝手にファンが妄想してカップル

をつくって遊んでるものが多いみたいだが」

「つまり、フィクションの中でまたフィクションをやっているようなものなのね」


114: 2013/08/05(月) 21:56:36.06 ID:rJWw4fQ40
そういう言い方もできるのか。なんかほんとに表現の仕方ひとつで印象って変わるもんなんだな。なんだか賢い人間

がやっている遊びのように思えてくる。由比ヶ浜も同じ感想だったのか、何か感心した様子でつぶやく。

「姫菜って普段そんなことしてたんだ……な、なんか凄いかも」

「まぁ凄いことは凄い、か……別の意味で。ともかく、俺が言いたかったのは下手に経験してない方が自由に想像できて

理想を追求できるってことだな。だから、むしろその方が好きなように書けていいはずだ。材木座にとっても」

そうさ。小説なんて一種の願望実現器なんだからそれくらいのことをしてもいいはずだ。

「想像の中で理想を追求…………私にはいまいち理解しがたい発想ね。私は想像して済ませるよりそれを現実のもの

とするべく努力した方が良いように思えるけど」

……そうか。なんで雪ノ下が小説を書く側の発想に立ったことがないのかがわかった。彼女は「人ごとこの世界を

変える」とか言っちゃう子でした。超リアリストなのか誇大妄想狂なのか、もはや俺には区別できん。

115: 2013/08/05(月) 21:59:18.03 ID:rJWw4fQ40
「ゆ、ゆきのんみたいに考えられる人は少ないよ……」

「そう……なのでしょうね」

そりゃいくら自分が正しいと思ったとしてもだからといって世界ごと変えようなんて考える奴は稀だよな。ただ、

雪ノ下の周りの世界はこの半年だけでもだいぶ変わったような気はする。それは単に俺が雪ノ下のそれこそ妄想

じみた考えにあてられてしまっているだけなのかもしれないが。

「とりあえず、比企谷くんの考えは概ね理解したわ」

「……じゃあ、返信してしまうけどそれでいいか?」

「あなたに任せる」



<奉仕部からの回答>

『小説は想像の産物なので、経験とは直接関係ありません。むしろ自分のしたいと思う恋愛模様を描写すればよいかと

思います。具体的な描写の仕方は他の恋愛小説でも参考にすればいいでしょう。どうしても恋愛経験を積みたいの

であれば、今はいくらでも擬似的な体験ができるのでそういうものを利用するのも一考です。金銭はかかりますが』


116: 2013/08/05(月) 22:03:37.51 ID:rJWw4fQ40
「途中まで良いこと言ってると思ったのにどうして最後にそういうこと書いちゃうのかな、ヒッキーは……」

「もうこれはこの男の習性みたいなものだから修正は困難よ……」

キーを叩く俺の目の前のPC画面を見ながらあきれている二人。もはやこの様子も完全に日常の一部と化してしまって

いる。だから、その反応も無視してメールの送信をする。

送信画面からホームに戻ると、今日はもう1件メールが届いていた。普段はほぼ知っている人間からしか来ないので、

発信元もよく確認せずにそのメールを開いてしまった。その途端、ガタッと椅子の動く音がした。……雪ノ下か?

PCの画面を見るとこんなメールが表示されていた。





<PN: 愛の次 さんのお悩み>

『奉仕部の部長と部員が付き合っているという噂は本当なんですか?教えてください!』

126: 2013/08/07(水) 22:01:34.38 ID:1jG+FfZy0
「えっ!?これって……」

隣から画面を覗き込んでいた由比ヶ浜が口に手をあてる。雪ノ下は肩をすくめて何故かこちらを向いた。

「……」

「え?何?……なんか俺が悪いとかそういう流れなの?これ」

「……まだ私は何も言ってないわよ」

雪ノ下はふうっと息をついてからそうつぶやく。困った表情、なんだよな……これは。別に怒っているのではないらしい。

「……ゆきのん?」

俺と雪ノ下を交互に見た後、心配そうな顔で彼女に後の言葉を促す由比ヶ浜。

「ん……私のクラスの女子が面白半分に送った、そんなところでしょう。別にあなたが気にするようなことじゃないわ」

「でも…………あれ?ゆきのんどうして自分のクラスの人ってわかったの?」

……そういえばそれもそうだ。見覚えのあるPNというわけでもないし。J組の人にならわかるような言葉なのか?

127: 2013/08/07(水) 22:04:32.68 ID:1jG+FfZy0

「簡単な話よ。この『愛の次』の音を読んでそのまま解釈すればいいだけのこと」

「『愛の次』……『アイノツギ』……アルファベットでIの次はJ……ってことか」

「な、なるほど……」

「そういうこと」

「で、でも……なんでこんなメールを直接奉仕部に送ったりしたのかな?」

「それは私にもわからないわ。ただ、こういう噂話が好きな人はどこにでもいるから……」

いや全くその通りだな。ゴシップが好きな人間というのは本当にどこにでもいるから困る。そうじゃなきゃ週刊誌は

こんなに売れてないだろうし、俺の黒歴史もここまで量産されていないはず……いないはず、多分。むしろそういう

話にちょっと興味のありそうな由比ヶ浜は雪ノ下の言葉に少ししょんぼりしていた。J組の人間の仕業というのを聞いて

俺は修学旅行の夜の雪ノ下との会話をなんとなく思い出す。

「雪ノ下……お前もしかしてクラスでも……何か言われているのか?」

「…………そういうことがなかったとは言わないわ」


128: 2013/08/07(水) 22:08:24.61 ID:1jG+FfZy0
……どうも歯切れが悪いな。雪ノ下ならたとえそういう噂が流れたとしてもバッサリと否定すればそれで済みそうな気が

するんだが。ただ、噂自体がなくなるかというとそれはまた別問題か。だからこそ、このようなメールという形で真相を

問い質しにきたのかもしれない。

「……なんか悪かったな。風評被害みたいなことになってて」

「い、いえ……あなたが謝る必要は……」

声が小さくなり反対側を向いてしまったので、その表情はうかがい知れない。しかし何故雪ノ下と俺なんかがそんな噂

に巻き込まれるんだ…………彼女の言っていた”文化祭の時”という言葉を考えると、やはり雪ノ下が男子と一緒に

いること自体が珍しいから、ということになるのだろうか。俺も男女二人組を勝手にカップル認定して呪詛を唱えて

いたことがあるから発想としては全く理解できないものでもない。それにJ組の中では文化祭の相模の一件と俺のこと

はイコールで結ばれてはいないのだろう。部活と文実が同じで俺が彼女の補佐をしていたことは事実だ。状況証拠と

しては十分なのか…………。さて、どうしたものかな。

129: 2013/08/07(水) 22:11:13.06 ID:1jG+FfZy0
「そ……それで……とりあえずこのメールは……どうするの?へ、返信……する?」

黙ってしまった二人に代わって口を開く由比ヶ浜。

「……いや、たぶんそんなことをしても無駄だろう。その前に噂になっている本人が否定している筈だから」

否定している筈、だよな。……そうであると言ってくれよ、雪ノ下。当の本人は黙ったままなので俺は話を続ける。

「それでもまだこんなことをしているということは、送った本人の中で勝手に事実が積み上げられているんだろう」

「お、思い込みが激しいとかそういうこと?」

「まぁ、そんな感じだろうな」

「じゃ、じゃあ……このまま……何もしないの?」

「まぁ……時間の流れに任せて噂が風化するのもひとつの手ではあるんだろうな。でも、それは嫌だろう?雪ノ下」

彼女は顔を窓の外の方に向けたまま、何も言わずにただ頷いた。

「噂を否定する方法なら他にもある。すぐに終わることだから、俺に任せてくれないか?」

「え?で、でも……」

由比ヶ浜が俺と雪ノ下の方を交互に見ながら不安そうな顔で何か言いかけるので、俺はそれを遮る。

「これは由比ヶ浜や雪ノ下が事前にやり方を知っていると意味がないんだ。だから……」


130: 2013/08/07(水) 22:14:18.13 ID:1jG+FfZy0

「……わかったわ。私はあなたに任せる」

今度は俺の言葉が終わる前にこちらに向き直った雪ノ下が口を開く。彼女が俺に何かを託す時のいつもの表情だった。

「……ゆきのんがいいって言うなら……あたしは……いい、けど……」

一方の由比ヶ浜はまだ何か納得していない様子。その顔は明らかにNOと言っていた。しかし俺はそれを無視する。

「じゃあそういうことで。とりあえずこのメールはそのままにして、俺の作戦は今日帰る時にやる。だから、雪ノ下

は鍵を返したら昇降口に来てくれ。俺と由比ヶ浜で待っているから」

「え?あ……うん……」

由比ヶ浜は急に自分の名前が出てきたせいか一瞬驚いたようだが、既に了承してしまったのを思い出したのかそれ以上

は何も言ってはこなかった。

「では、そういうことでよろしく頼むわ」

「ああ」

131: 2013/08/07(水) 22:17:57.72 ID:1jG+FfZy0
今日はもう他にメールが来ていたわけではなかったので、ティータイムを適当なところで切り上げると残りの時間は

いつものように読書に費やした。誰か依頼者が来るということもなく、鐘が鳴って部活の時間は終わる。

全員が帰る準備を済ませ、部屋から出ると雪ノ下が部室の施錠をする。その後ろ姿を尻目に俺は確認のため声をかける。

「じゃあ雪ノ下。あとで昇降口に」

「はいはい」

「じゃ、じゃあまた……」

すぐにまた合流するのにもう別れるような挨拶を何故か雪ノ下に向かって言う由比ヶ浜と先に昇降口に行く。

廊下を歩いている途中、後ろから急に俺の制服の裾をつままれたので一度足をとめる。

「……ねぇ」

「なんだよ」

「ゆ、ゆきのんは……本当にあの噂のこと……否定したいのかな」

「はぁ?何を突然言い出すんだお前は」

132: 2013/08/07(水) 22:21:09.14 ID:1jG+FfZy0
ほんと突然後ろから吐息がかかるとか胸がドキドキしてハートキャッチされてしまうからやめてほしい。ついでに話の

内容もチグハグなので振り返って訊き返してみる。

「だ……だってさ……ゆきのんだったらこんなことになる前にきちんと否定しそうな感じするし……」

由比ヶ浜もさっき俺が抱いた疑問と同じことを思ったらしい。しかしその言葉を言っている時の彼女の表情は何かもっと

確信があるような感じさえした。まぁ、だから何だというのだ。雪ノ下があの噂を否定したくないなんてことは万が一

にもないとは思うが、仮にそうだったとしてもこれから俺がやることに変化があるわけでもない。

「否定したところで、噂ってすぐやむものでもないしな。それに俺にとっても雪ノ下がそんな噂に晒されているのを

見ていい気分はしない。俺と付き合っているだなんて悪評以外の何物でもない」

「そういうことじゃなくてさ……そういうことじゃなくて……」

由比ヶ浜は目を逸らしてスカートの裾をいじっている。次の言葉がなかなか出てこないので俺が話を切る。

「当の雪ノ下からはもう了承を得たんだ。お前がそんなに気にするようなことでもないだろ」

「そうかもしれないけど……」

「話は後でな。ここで時間つぶしてたら雪ノ下の方が先についちまう」

「う、うん……」


133: 2013/08/07(水) 22:24:20.70 ID:1jG+FfZy0
話す予定などないという社交辞令を由比ヶ浜に告げると、彼女も諦めたのかまた足が動きだす。それ以降はお互いに

黙ったままでそのまま昇降口に着いてしまった。この時間帯のこの場所は部活終わりということで授業後の次の混雑の

ピークだ。別れの挨拶をする人や雑談、ロッカーがバタバタいう音や靴を下に落とす音などで少し騒々しい。反対側の

壁際で雪ノ下が来るのを二人で待っていると、ほどなくしてその姿が現れる。J組の女子もいたのかこちらに向かって

くる途中で挨拶を交わしていた。まぁ、その方が俺としても好都合だ。こちらと目が合うと由比ヶ浜の方から

「ゆきのん、やっはろー」

「さっきまで一緒にいたじゃないの……」

「まぁまぁ、いいじゃんいいじゃん」

彼女は先ほどの浮かない表情とは一転して元気に見えるように挨拶した。俺も軽く頭だけ下げる。

「それで……私はどうすればいいのかしら」

「そうだな……とりあえず先に靴は履き換えちゃってくれ。その間に俺が声をかけるから返事をしてくれればそれでいい」

「……了解」

「あ、あたしは…………?」

「俺のそばで雪ノ下との会話が終わるまでただ見ててくれ」

「わ、わかった……」

134: 2013/08/07(水) 22:27:27.33 ID:1jG+FfZy0
「じゃあさっそく今から頼むよ」

喧噪のなかで雪ノ下と由比ヶ浜以外には聞こえない程度の大きさの声で指示を出す。雪ノ下が自分のクラスの下駄箱に

向かうと俺と由比ヶ浜があとに続く。ロッカーを開けて靴を取りだし、下に置く雪ノ下のその手の動きに思わず目がいく。

ただ靴を履き替えるってだけの行為にこんなに身のこなしというものが現れるもんなのだろうか。どうでもいいけど

雪ノ下って靴も上履きもいつも綺麗にしてるんだな。俺なんて前にいつ洗ったのか思い出せないくらいなのに。そんな

ことを考えているうちにロッカーの閉じる音がして彼女の帰り支度は整う。なんとなくこちらの雰囲気を察したのか

周囲の喧騒が大人しくなった。それではいきますか――――





「2年F組、比企谷八幡。俺は雪ノ下雪乃さんのことが好きでした。付き合ってください」

135: 2013/08/07(水) 22:32:43.09 ID:1jG+FfZy0
さてここで問題です。誰かと誰かが恋仲である、あるいは付き合っているという噂を否定するにはどうしたらよいで

しょうか。本人たちがその噂を否定する、というのはあまり効果がありません。"今"そうでないにしてもこの先の"未来"

にいつそうなるともわからない可能性がある限り。それならばさっさとその"未来"を否定してしまい"過去"のものとすれ

ばいい。つまり、"恋仲にはなれなかった"という事実をもって。少なくともこれで両想いという噂はハッキリ否定できる。

俺が短期間に二人の女子に告白したとかは瑣末な問題だ。元から俺の評判など地に落ちているも同然だし。そして相手は

校内一との呼び声も高い美少女である雪ノ下雪乃。男子に告白されるということ自体が珍しいというわけでもない。した

がって、彼女の評判が落ちるなどということはなくむしろ『また身の程知らずな男子が雪ノ下雪乃に告って玉砕した

らしいよ~ケラケラケラ』と告白した方が馬鹿にされるだけである。何も問題はない。

だから、"いつもの雪ノ下雪乃"らしく。氷の女王らしく。冷めた目で。見下ろすように。突き刺さるような言葉で。もう

希望など持てないような言葉で。ハッキリと断られると思っていたのに。なのに……


どうしてその目に涙を浮かべているんだ。どうして目を逸らすんだ。どうして鞄を持つその手が震えているんだ。

どうして……



「ごめんなさい……」



136: 2013/08/07(水) 22:37:49.42 ID:1jG+FfZy0
消え入るような声で一言だけ謝罪の言葉を告げるとすぐに出口の方に向きを変え、雪ノ下雪乃は昇降口から外に歩いて

出ていってしまった。その背中は頼りなげでとても氷の女王などと呼べるようなそれではなかった。


「ハッ」

想定外の反応に俺は自嘲じみた変な笑いが出てしまい、後ろを振り返った。その瞬間


パシッ


左頬に衝撃が走った。痛い。反射的に手を頬にやって向き直ると肩を震わせている由比ヶ浜の姿が見えた。その目から

は今にも涙が零れ落ちそうだった。周囲の目がこちらに来るのを感じていると由比ヶ浜は途切れ途切れに話しだす。

さっきまで噛んでいた唇が離れて無理やり口角を上げようとしているのが見るからに痛々しい。

「確かに……確かにあたしは……あたしの……ヒッキーの印象は変わらないって言ったかもしれない」

「けど…………何もこんなことしなくても…………誰もこんなこと望んでないよ……」

涙をこらえるためか伏していた顔を上げてこちらを真正面から見据え直す。さっきより声が大きくなり


「それに……ゆきのんはヒッキーのこと……」



137: 2013/08/07(水) 22:42:40.73 ID:1jG+FfZy0
そこまで言いかけて何か気付いたのか口に手をあてて顔をそむけた。はぁっとため息をついた後、俺に背を向けるとF組

のロッカーに向けて足早に去って行ってしまった。


止まっていた時間がまた動き出したかのように周囲の喧騒が元に戻る。俺にとってはある意味日常のヒソヒソ声も。肩に

かけている鞄がやけに重い。カタオモイ。


終わったな。色々な意味で。……なんか自分の思っていた展開と違うけれど、当初の目的は達成されたのだから良しと

しよう。始まりがあるものにはいつか終りが来る。それがほんの少し早くなっただけのことだ。大丈夫だ、問題ない。

ただ……ただ単に元に戻っただけの話だ。いや、俺の評判はますます落ちるんだろうがそんなことはどうでもいいか。

…………自分も帰るか。明日から部活、どうしようか。行かなかったら平塚先生に無理やり連れ戻されるのかな。そんな

ことになったら他の部員が可哀相だ。何か理由を考えとかなきゃいけないな。


ふぅーっと長い息をついた後、自分のクラスのロッカーの方へ歩き出す。その途中で俺に視線を突き刺す人間の存在

に気づく。こんなところで出くわしたくなかったな……。いや、そもそも俺はこいつのことが嫌いだった。


確かお前もそうだっただろう……………………葉山隼人。

151: 2013/08/09(金) 09:17:22.67 ID:DhAdM5VR0
⑤とうとう彼は選ばないことを諦める。


目で頃す、とはああいう視線のことを言うんだろう。三浦がコブラなら葉山はバジリスクか何かなの?リア充グループの

リーダーになるには自身に蛇でも宿らせないといけないの?

一瞬だけ目が合ったので殺されない程度に睨みかえし、そのまま彼の横を通り過ぎようとする。すると鞄の持ち手が

引かれて肩から落ちそうになった。慌てて引き戻していったん足を止めて文句を言う。

「何すんだよ、いきなり」

「話がある。比企谷、ちょっと来い」

「ちょっ、痛い痛いって!おい!」

今度は服の袖を掴まれて無理やり引っ張られていく。腕を振ってその手を払いのけるとさっきと変わらない目つきで彼は

言う。また周囲の目がこっちに向かっている。勘弁してくれよ、もう。

「じゃあ大人しく俺の後について来い」

「……わかったから……」

152: 2013/08/09(金) 09:19:00.67 ID:DhAdM5VR0
俺は潔く諦めてずんずん進んでいく葉山の後を追う。昇降口から遠ざかり、校舎を移動し階段を上り、だんだん人気も

少なくなっていき、とうとう特別棟の屋上に辿りついてしまった。葉山が扉を開けると寒風が吹きこむ。

「……ここなら誰にも話を聴かれる心配もないだろう」

「はぁ……」

女子の間では鍵が壊れていることは割と有名なんじゃなかったっけ?確か川崎がそう言っていた。まぁ、この時間帯なら

他に人はいないんだろうけどさ。というか色々と寒いからさっさと終わらせてほしい。

「……話なら手短に頼む」

「それは君の返答次第だよ」

まるで警察の取り調べでも受けている気分だ。いや、単なるイメージでしかないけど短く済ませようすると罪を認めない

といけないみたいな。それでも僕はやってない。……と、とりあえず犯罪行為はしてないぞ。それともこれから罪を犯す

のかな。マイノリティ・リポートかよ。確かに俺はマイノリティかもしれないけど。

「何を考えている」

「いや、どうでもいいことだよ」

「どうでもいいってことはないだろ」

急に語気が強くなる葉山。あ、これは食い違ってますね。何を考えているってさっきの行動の意図を訊いていたのね。

153: 2013/08/09(金) 09:20:31.01 ID:DhAdM5VR0
「どうでもいいっていったのはちょうど今頭の中に浮かんでいたことだよ。さっき下で俺がやったことについてじゃない」

「ん、それは悪かった……勘違いしてしまって。……それで、何を考えてあんなことをしたんだ」

「最近のJ組の間で『俺と雪ノ下が付き合っている』なんて妙な噂が流れているらしくてな、それを否定するためだ」

「俺もそういう噂を耳にしたことがないとは言わないが…………雪ノ下さんがこんなことを頼んだのか?」

「まさか。今日奉仕部に直接それを尋ねてきたメールがあったんだよ。だから俺が対策を立案し、実行した」

「…………また、事前には何も言わず、か」

「そりゃそうだ。あの雪ノ下に演技させるなんて酷な話だろ?」

俺のその言葉を聞いて、下におろしていた葉山の手がぎゅっと握られる。

「その結果があれ、か。君は何も思わなかったのか?二人の反応を見て」

だんだん答えたくない領域の質問になってきたな。俺は頭の向きを少しだけ横に変えて答える。

「何も……………………………ってこともないが」

154: 2013/08/09(金) 09:22:24.27 ID:DhAdM5VR0
「まだ認めないつもりなのか。それなら俺が言ってあげよう。雪ノ下さんと結衣は」

「やめろ」

やめろ。それ以上聞きたくない。それを葉山の口からなんて。本人ならまだしも。それを言われてハッキリ否定できる

自信が俺にはもうないのに。






「比企谷のことが…………好きなのに」


扉の横にもたれていた俺は、崩れ落ちた。




155: 2013/08/09(金) 09:24:16.28 ID:DhAdM5VR0
もう、戻れない。昨日までの奉仕部には。既にわかっていたことではあった。しかし、まだ自分の中だけなら誤魔化す

こともできたのに。もう、それも叶わなくなってしまった。

「なんで……わざわざそんなこと言うんだお前は…………」

しゃがんだ状態の俺を見下ろしていた葉山は自分も腰を落として目線を同じにして真顔でこう答える。

「君に……幸せになってほしいからだよ」

「ハッ!何を言い出すかと思えば……その白々しさには反吐が出るわ。お前にだけはそんなこと言われたくなかった」

そう。こいつは”みんな”と”自分”が大事で今まで何一つとして選ばなかった男だ。そんな奴に……そんな奴に……

「確かに、今の状態ではそう言われても全然おかしくない。むしろなじられるべきなのは俺の方だ」

「じゃあ、どうして…………」

「君にいつまでもこんなことをさせ続けられては俺としても困るからね…………もはや君の問題はとうに君自身だけの

問題ではなくなっている」

ああ……なんか文化祭後の平塚先生にも似たようなことを言われたっけな。でも、それをただ口に出されても俺としては

どうしようもないんですけど。

156: 2013/08/09(金) 09:26:21.69 ID:DhAdM5VR0
「そういう風に思ってくれるのはありがたいお話かもしれないがな……お前が俺のために何かできるわけじゃないだろう」

「今までの俺なら、そうだった。でも、もう決心がついた。このままじゃ、比企谷くんだけじゃなく結衣や雪ノ下さん

まで壊れてしまうから」

別に俺は壊れない、と言おうとしたのにその二人の名前を出されて何故か反論できなくなってしまった。

「俺は選ぶことにするよ」

「……何をだよ」

一度深呼吸をして息を整え、再びこちらを真っ直ぐ見据えて葉山はこう言った。



「俺は、君を選ぶよ」



157: 2013/08/09(金) 09:29:20.25 ID:DhAdM5VR0
いやいやいやいや、何言っちゃてんのコイツ。頭イッチャッたのか?君を選ぶとか言われても訳分からんし。同性愛の

趣味でもあったんですか?もしそうだとしたら海老名さんは類稀なる慧眼の持ち主だな。俺が困惑の表情を浮かべて

いると葉山は話を続ける。

「そりゃ今の君にはわからないだろうさ。でも、上手くいけば明日のこの時間にはその意味が理解できるはずだ」

「ずいぶんと持って回った言い方だな。先に何をするか教えてくれてもよさそうなものなのに」

「…………君と同じことをするだけだ」

「そうですか……」

そう言われてしまうとそれはそれでお互い様なので追及のしようがない。しかし、俺が取った方法というのは俺だから

できるのであって普通の人間には……ましてや葉山みたいなトップカーストの人間には無理があるんじゃないのか?

怪訝な顔の俺をよそに葉山はまた立ちあがり、少しだけ屋上の中央側に歩き、こちらに背中を向けてこう語る。

「……君たちはまだやり直せる……いや、もっと先へ進めるといった方が正確かな。それは俺が今までどんなに望んでも

できなかったことだ。結局のところ俺は他人に嫌われるという覚悟があまりにもなさすぎた」

「何を言ってるんだお前。誰からも好かれるのならその方がいいに決まってんじゃねぇか。それはそれでひとつの才能

みたいなもんだろ」

なんか贅沢な悩みを聞いているような気がした。まるで俺が好き好んで他人から嫌われているみたいじゃないか。


158: 2013/08/09(金) 09:31:31.37 ID:DhAdM5VR0
「本当に誰からも好かれるのであれば、そうかもしれないな」

似たような言葉をどこかで聞いた覚えがある。奉仕部という部活に足を踏み入れて間もない頃、部長である雪ノ下雪乃

が言っていたな…………しかし、それは嫉妬や恨みを買うとかそういう話だった。それなら、葉山の方はというと?

「本当に自分が好かれたいと思う相手には、絶対に好かれることはないんだ。俺の場合は」

驚いたな。葉山がそんなこと思うような相手がいただなんて。そういえば、好きな人がいるという話を以前夏休みの時

にしていたっけ。でもお前なら、たぶんまだやれることが色々とあるだろうに。

「その相手が今の葉山を嫌っていて、相手に心境の変化が期待できないんなら…………自分が変わるしかないだろ」

「君の言う通りさ。だから、俺は変わる…………ほんの少しかもしれないけど」

「……それはお前の勝手にすればいいが…………例えば、俺なんかのために何か犠牲にしたりするなよ」

「それはこっちのセリフだよ」

「……」

俺が自分で自分を犠牲にしている以上、葉山がそうすることに異議を唱える権利はなかった。

159: 2013/08/09(金) 09:33:41.91 ID:DhAdM5VR0
「それにこれは俺が勝手にやることだから、比企谷のためとは言っても君に直接何か関係あるわけじゃない。所詮

は自己満足に過ぎないことは承知している。だから、ただ君は俺の行動を見ていてくれればそれでいい。明日の部活

終わりの時間、君も昇降口にいてくれ」

「えっ?俺はまだ……」

一方的に告げられた待ち合わせに俺が口を挟もうとしたが、葉山はもう向き直って扉の前まで戻ってきた。こちらが

続ける前に彼がまた口を開く。白い歯を見せ爽やかな笑顔でこう言う。



「あとそうだ…………君は君でいい加減に他人から好かれる覚悟をすべきだと思うよ」



ただ呆然とする俺をそのまま残して葉山は扉を開けて階段を下りていってしまった。

「随分とまぁ…………好き勝手に言いやがって……葉山の奴……」

相変わらず寒風の吹く音で扉がガタガタと揺れていたが、その空は曇ってはいなかった。

160: 2013/08/09(金) 09:35:43.17 ID:DhAdM5VR0
翌日の俺の状況はというと、まぁ想定内というか予想通りというか案の定というか…………。視線の痛さとヒソヒソ話

が少し増えたくらいのことである。俺なら慣れてる。だから平気。うん、大丈夫。あらかじめわかっていることなら心の

準備というものができているから、それほど辛くはないのである。お化け屋敷だってお化けの出る位置と脅かし方が先に

わかっていたら怖くもなんともないはずだ。お化け屋敷……修学旅行で由比ヶ浜と川崎に服を掴まれたのを思い出す。

何気なく川崎の席の方に視線をやると、またしてもパッと目を逸らされてしまった。……なんかしたか?俺。しかし、

この前の視線とは違う感じがした。何か心配でもされているような…………ま、気のせいだろ。

2週間と経たずして違う女子に告るというなんともはや軽い男になった自分。これ以上軽くなったらヘリウム風船みたい

に浮いちゃうかな。もう存在自体はとっくの昔から浮いてるかもしらんが。

さすがに戸塚ですらこの空気を感じ取ったのか朝に俺に話しかけたりすることはなかった。それよりも何よりあの戸塚に

怪訝な目で見られることの方が自分にとっては衝撃だった。やっぱりある程度近しくなった人間にああいう視線を送ら

れるのはかなりキツイものがある。ああ、そうだ……こういうことが嫌だったから俺は人とあまり関わらないようにして

きたんだっけ。それだけが理由ってわけでもないが。

由比ヶ浜は…………そもそも俺が彼女の方を見れていないので、どんな表情をしていたのかはわかるはずもなかった。

161: 2013/08/09(金) 09:38:12.59 ID:DhAdM5VR0
結局その日は誰とも話すことなく――別に俺の場合は珍しいことでもないが、授業の時間はすべて終わった。俺が教室を

出る準備を終える頃には由比ヶ浜はもうそこから出ていってしまっていた。まぁ、俺としてもたぶんその方が好都合だ。

部活か…………とりあえず一日くらいなら体調不良とか適当な理由で誤魔化せるだろう。実際問題、今からあそこに行

ったら胃が痛くなりそうだ。保健室にでも行くか。いや……おかしいな、それだと。部活を休むくらいなんだからさっさ

と帰れという話になる。しかし、今日はこのまま帰るわけにも行かなかった。葉山から一方的に交わされた約束、という

より命令といった方が良さそうな…………とにかく部活が終わる時間に昇降口に行かなければならない。そうなると、

部活を休む口実として体調不良というのも使えないのか。まったく余計なことをしてくれやがって。ここで無視して

帰ろうとしないあたり、律儀というか由比ヶ浜の言う変なところ真面目ってやつなんだろうか。まぁ、俺としても何回

か彼の能力の助けを借りたことがないわけでもないから、あまり無碍にするのもどうかと思うしね。どのみちあの手の

人間に貸しをつくるのも癪だ。だから…………仕方ない。


教室を出て特に行くあてもなく廊下を歩き、人気のない方に進んでいくと、なんとなく昨日拉致された特別棟の屋上に

着いてしまった。やっぱり今日も誰もいないか。時々吹きつける寒風が何故か快く感じられる。そうだ、冷たい目も

冷たい風も自然現象と思えばそんなに辛くないはずだ…………たぶん。無理やりな理屈で自分を納得させていると不意

に上の方から足音が聞こえてきた。…………上?

171: 2013/08/12(月) 00:23:57.11 ID:fbYqBXpR0
足音のする方に振り返るとそこには以前に見たのと同じような光景が広がっていた。青みがかった長いポニーテールの髪。

冷めた瞳。すらりと伸びた長い脚。そして、アングル的にその…………スカートの中が…………幸いにも?今回は黒の

レースではなくて体操服のハーフパンツでした。パンツじゃないから恥ずかしくないもん!いやいや、そういう問題では

なく女子のスカートの中が見えてしまうというのは中身がどうとかいうことではなく気恥ずかしいものである。反射的に

目をそらすと、こちらの視線のことなど意に介せず川崎はもたれていた給水塔から離れて下の梯子を使ってこちらの方に

降りてきた。俺が顔を正面に向ける前に彼女は話し始める。

「何考えてんの?あんたは」

「な、何、というのは……」

こういうのは俺の嫌いなセリフだ。表面上疑問形だが、実態は反語でそのまま答えようとするとたいていの場合怒られる。

先生の言う「何で宿題やって来なかったんだ!」と種類的には同じである。したがって「ごめんなさい」でも「○○を

考えてました」でもなく第三の選択肢を模索した。この場合は”何”というのがそもそもわからなかったのでとりあえず

それを訊くことにする。

173: 2013/08/12(月) 00:26:04.91 ID:fbYqBXpR0
「修学旅行の時と昨日あんたがやったこと」

……彼女の場合、別に怒っているわけではないんだろうが無愛想で言い方がぶっきらぼうなのでどうしてもこちらは委縮

してしまう。いや…………やっぱり怒っている?

「お前には…………別に関係のないことだろ」

「確かにね。まったく事情を知らないならたぶんあたしもあんたにこんなこと訊かなかったと思う」

「でも、昨日…………あたしはあんたが葉山と話してるのを聞いてしまったから…………」

「え?」

彼女は少し気まずそうな顔をしてそう言った。おいおいおいおい、昨日俺と葉山が話しているのを聞いたってことは由比

ヶ浜や雪ノ下がどう思っているか、とかも…………いやいや、というかそもそもどこにいたんだっつうの。……まさか。

「お前……もしかして昨日もここに……」

彼女は何も言わずにただ頷いた。う~ん……ぼっちにはステルス機能が標準装備されてでもいるんだろうか。戦闘機か

何かか。いや、雪ノ下みたいな奴もいたか。彼女は存在そのものが爆弾みたいなものだが。


174: 2013/08/12(月) 00:28:33.91 ID:fbYqBXpR0
「い、いや……仮にそうだったとして……やはり俺がお前に自分の考えを言う必要性はないように思えるんだが」

「他人の事情には勝手に首を突っ込んでおいて……」

川崎にはそう言われると反論できないな。基本的に奉仕部の依頼は悩みのある本人が直接相談しに来るものだが、彼女の

場合は弟経由でこちらが一方的に家庭の事情を聞きだしたようなものだった。それは彼女からしてみれば知られたくない

ことではあったのだろう。そうなると、こちらも答えなくてはいけないのか?しかし…………何を?

「そちらの家庭のこととかをお前の望まない形で聞き出したのは、その……悪かった」

「あたしが言いたいのはそのことを謝ってほしいんじゃなくて……その…………本気だったの?あれは」

「あれって?」

「だ、だから……あんたが海老名と雪ノ下に…………」

「まさか。芝居だよ。ちょっと色々と込み入った事情があってだな……」

「そう……」

俺がそう答えると、川崎は残念と思ったのかほっとしたのか……何かを悟ったかのような顔をした。その表情はどこか

寂しげで、元々冷たかったというよりは何か熱が冷めて冷たくなったような感じがした。

175: 2013/08/12(月) 00:31:07.89 ID:fbYqBXpR0
「どういう事情かまで訊く気はないけどさ…………芝居でも……あまりそういうこと言うもんじゃないよ」

「はい……」

「あんたこのままだと…………たぶん狼少年になる」

……まったく耳の痛い指摘だ。たまたま俺は一人だったから嘘をつく必要性がなかったというだけであって、もう心の

どこかで人間関係を維持するための嘘というものを認めてしまっている気がした。しかし、結局はその嘘によって信頼

関係を失ってしまう。いずれにせよ失うのであれば、やはり本当のことを言った方がいいのだろうか。そういう考えが

浮かんでも、俺の口から出る次の言葉はまた心にもないことだった。

「俺は狼少年というより一匹狼って感じだと思うけどな」

「……あんたのどこが一匹狼なんだか」

「……」

ですよね。これではもはや単なる嫌味でしかない。本当の一匹狼の川崎からしてみれば。俺は否定することができず

に黙り込んでしまった。

176: 2013/08/12(月) 00:33:32.27 ID:fbYqBXpR0
「ま……本当のことを言った方が良い時もあるんじゃないの?あんたのためにもその周りの人間のためにも」

「…………そういうものですかね」

「さぁ?元々嘘でつながれた関係なら違うのかもしれないけど」

「……」

……彼女は既に理解している。俺とその周りの人間の関係の成り立ち方について。彼女自身も俺と似た考えを持って

いるせいなのかもしれない。嘘や欺瞞によってつくられた人間関係を嫌悪するという考えを。だから、今現在の俺として

はこう答えるしかない。

「本当のことを言うしかないか。その時が来たら」

「その時が来たら、か」

もうその時は来ていると言わんばかりの川崎の口調に俺も心の中では半ば同意せざるを得ない。しかし……俺にはまだ

考えなければならないことが山ほどある。それに、葉山が何をするかにもよってそれも変わってくるだろうし。だから

これが嘘でない範囲で答えられる精いっぱいだった。

177: 2013/08/12(月) 00:35:54.83 ID:fbYqBXpR0
「…………あんまり女子を待たせるもんじゃないよ」

「そうならないように努める」

「そ。…………じゃあさよなら」

「さ、さよなら……」

あきれたような表情の川崎は俺が挨拶を返す前にもう振り返ってしまい、さっさと扉を開けて足早に階段を下りていって

しまった。……思ってもみなかった人間に、着々と退路を断たれていっているような気がする。もうこれ以上人に会い

たくないな。まだこれから葉山に会いに行かなきゃいけないのに。ため息が出て、しばらくして俺は屋上を後にした。



一度誰もいない教室に戻り、あいている時間を適当に宿題などをやりながらやり過ごして部活が終わる時刻を待つ。そう

いえば、もう少ししたら期末試験だな。試験準備期間に入りさえすれば、部活にも行かずに済むんだが。学校の試験を

待ちわびるなんて俺の頭も相当イカれてきていると感じる。葉山みたいにイカしてればいいんだが。

178: 2013/08/12(月) 00:38:15.54 ID:fbYqBXpR0
そのイカした葉山に再び会わないといけない時間がやってきたので、やけに重く感じる鞄を肩にかけて俺は昇降口に

向かうことにする。……よく考えたら、というかよく考えなくても部活終わりに昇降口って普通に雪ノ下や由比ヶ浜と

鉢合わせになる可能性があるじゃないか。…………ますます肩の荷が重くなった。

猫背が余計に酷くなりながら、ようやく昇降口に辿りつくと壁際に立っているクールな爽やかイケメンと目が合った。

「やあ。君なら来てくれると信じていたよ」

右手を挙げて笑顔でこちらに手招きする葉山。これが大抵の女子なら喜んで傍にいくのだろう。残念ながら相手は俺なん

ですが。昨日のことと葉山が目立つということで既に周囲からの視線が集まり始めている。なんか嫌だなあ。

「はぁ……あまり信用されても困るんですが」

「……君らしい答えだね」

「そうですか……」


肩をすくめる俺にたいして葉山はまた笑顔を返す。しかし、何かいつもの調子と違う気がした。何だろう……そわそわ

している?動きに落ち着きがないというか……なんかやたら鞄を持ち直したりしているし。誰かが来るのを待っている?





179: 2013/08/12(月) 00:40:31.47 ID:fbYqBXpR0
「ところで……俺はいつまでここでこうしていればいいんだ?」

「ん……ちょっと人を待っていてね……たぶんもう少ししたら来ると思うよ。だから悪いけどここで……」

「……わかった」

五分くらいその場で待っていると、葉山のお目当ての人間が来たのかまた手を挙げる。その姿を見て思わず声が出る。


「げ」

「げ、とは失礼ね。今日はあなたがなかなか来ないからずっと待っていたというのに」

「そうだよヒッキー。授業にはちゃんと出てたのに…………どうして?」

「いや、今日はその……体調がちょっとアレで……その」

ロクな言い訳も考えられずにしどろもどろに俺が答えていると雪ノ下と由比ヶ浜は苦笑いをした。ついでに葉山も。

二人はともかくお前にそんな表情をされるのは腹が立つ。俺が怪訝な顔で葉山の方を見ると、

「俺が呼んだんだ。比企谷くんに見てもらうのに必要だったから」

「はぁ……」



180: 2013/08/12(月) 00:44:43.75 ID:fbYqBXpR0
俺がため息ともつかないような生返事をしていると雪ノ下が葉山の正面に来る。由比ヶ浜は迷子の子供みたいな顔で

ただ彼女の後ろについているだけで何も事情は知らなさそうだ。葉山のセッティング?が終わったのか彼はいったん

鞄を下に置いた。雪ノ下に用があるのかと思ったのに何故か先に由比ヶ浜に話しかける。

「結衣。事情を事前に話せなくてごめん。先に謝っておくよ」

「え?」


由比ヶ浜は雪ノ下の後ろからこちらを覗き込む。いやいや、俺も何も知らん。首を横に振ると今度は雪ノ下の方を見る。

しかしその視線に彼女は無反応を決め込んだ。由比ヶ浜も諦めたのか、少し顔をうつむかせる。

葉山と雪ノ下が無言で向き合っている様子が、周囲の人間を静かにさせる。既視感のある光景だ。……まさか。

昨日、葉山は俺に「君と同じことをするだけだ」と言っていた。それは、単にやり方が同じというだけの話であって

本当に文字通りの意味だとは思いもしなかった。そういえば、葉山の好きな女子はイニシャルがYって言ってたっけ。

葉山は雪ノ下に向かって頭を下げ、よく通る声で告げた。





「雪ノ下雪乃さん……俺はずっとあなたのことが好きでした。付き合ってください」

「ごめんなさい」

181: 2013/08/12(月) 00:48:38.03 ID:fbYqBXpR0

冷たい視線……冷たい声色……雪ノ下のあまりに無碍な反応に、周囲の空気が凍り付く。

あぁ……これこそ俺が彼女に期待していた反応そのものだ。”いつもの雪ノ下雪乃”がそこにいた。


「……そっか。……まぁそうだよね。悪いね、時間取らせちゃって」

「いえ……ただ…………私、あなたのこと……少し誤解していたみたいね」

口調は相変わらずだったが、その表情はほんの少しだけ眉が下がったように見えた。ふっと息をついて葉山が答える。

「いや、たぶん君の印象は正しいんだと思うよ。俺が変わったんだ…………ほんの少しだけだけど」

「……なるほど」

そう言ってこちらの方を見やる葉山。その動きで言葉の意味を理解したのか雪ノ下も顎に手をやりこちらに顔を向ける。

「い、いや……俺は何も……」

何故かこちらを見られたので、なんだかよくわからない言い訳めいた言葉をつい口走ってしまう。俺のその反応を見て

由比ヶ浜までやれやれといった顔をする。何でだよ……。

「葉山くんの用事はこれでもうお済みかしら」

「ああ」



182: 2013/08/12(月) 00:51:25.28 ID:fbYqBXpR0
「そう。じゃあ、さようなら」

雪ノ下は髪をかきあげて後ろに振り返り、自分のクラスのロッカーに向かって歩き出す。

「さようなら…………雪ノ下さん」

名残惜しそうに彼女の名前を呼んだ葉山のその後姿は、この俺ですら何か励ましたくなるような気がした。実際には

そんなことしてやらないが。下に置いていた鞄を重そうに持ち直すと、由比ヶ浜と俺に向かって挨拶する。

「じゃあ君たちも。さようなら……由比ヶ浜さんに比企谷くん」

「さ、さようなら」

「……さようなら」

背筋が伸びきらないまま、葉山も自分のクラスのロッカーに向かう。俺と由比ヶ浜だけがその場に残された。周囲の喧騒

は元に戻ったが、その話題はどう聞いてもさっきの告白話だ。由比ヶ浜は片手を胸の前で握りながら心配そうに言う。

「だ……大丈夫かな、隼人くん」

「相変わらず優しいんだな……由比ヶ浜は」

「えっ?」



183: 2013/08/12(月) 00:55:11.11 ID:fbYqBXpR0
俺の言葉が予想外だったのか彼女は驚きの声を上げて少し頬を紅潮させた。そうか……まだ由比ヶ浜は葉山の本当の意図

に気づいていない。雪ノ下への告白はそれが本心だったとしてもそれ自体が主たる目的ではない。そういえば、修学旅行

の時も戸部の告白に一番乗り気だったのは彼女だったな。クラスの人間関係に気を遣えるとはいっても、由比ヶ浜はあま

り恋愛がらみでそういうトラブルには遭ったことがないのだろう。だから俺や葉山、三浦が心配していたことに関しては

疎かったのだ。しかし、結局こうなるのかよ。これじゃああの時俺のやったことって…………

「い、今のはどういう……?」

俺がそんなことに考えを巡らせていると由比ヶ浜はこちらをちらっと見ながら訊いてきた。

「いや、なんでもない……」


ここで俺が葉山の意図について話すと結局は俺の考えている問題に行き着いてしまう。だからこうやって誤魔化すしか

なかった。それに、どうせ明日になればわかることだ。今あえて言う必要もない。ただ、由比ヶ浜が葉山のことを心配

することに関して一言だけ言うとしたらこんなことだろう。

「葉山は……たぶんこうなると全部わかっていて……それでも自分の意思でこうしたんだ。だから、まだそれほど心配

する必要はないと思う」

「そういうものなのかな……」

「そういうものだ」


184: 2013/08/12(月) 00:58:55.63 ID:fbYqBXpR0
それは、遠まわしに自分の意思以外で結果が左右されることの方が心配であるということが言いたかったが、今の彼女に

はそこまで伝わってないだろうし、また自分としても伝える気はなかった。

「それならいいけど…………ところで……明日はちゃんと来てよ」

「それは無理だ」


即答した俺に、由比ヶ浜は両手を胸の下でいじりながら目をそらし気味にぽそっとつぶやく。

「き、昨日のことならさ……あ、あたしもゆきのんも……もう気にしてないし……だから」

「いや、そういう問題じゃないんだ」

「ね、ねぇ……もしかして昨日のアレって本当は……本気で……」

「いや、それはないな。本気だったらあんな時にあんな場所でしてないだろうよ」

「そ……それもそっか……」

「……」

「……」


185: 2013/08/12(月) 01:02:57.68 ID:fbYqBXpR0
お互いが言っても大丈夫だと確信できる内容を探っているうちに沈黙が生まれてしまう。こういう種類の沈黙はあまり

好きにはなれないな。だから、もう話を切ってしまう。

「じゃあ、そういうことで。またな」

俺は由比ヶ浜の顔もよく見ずに先にロッカーに向けて歩き出してしまう。彼女も諦めたのかそれ以上話しかけたり追って

きたりすることはなかった。



葉山は葉山なりの”選択”を俺の目の前で見せてくれた。それならば、その覚悟に俺も応えなくてはいけない。しかし……

葉山の言った”覚悟”が俺にはまだできていない。だから、俺がその”選択”と”覚悟”ができるまで奉仕部には行けない

だろう。由比ヶ浜の言ったように、今の状態の俺でも彼女たちは受け入れてくれるのかもしれない。しかし、結局はその

行為がすべてを失わせることにつながってしまうのだろう。それこそ、葉山のように。

もう戻ることができない以上、留まるか進むかの二つの選択しかない。しかし、今の俺が留まっている場所は薄氷の上で、

じきにその氷も融けてしまうのだろう。それに、進んだところでどうなるのかもわかるものではない。何より、進んだ

ところで上手くやれる自信がとてもじゃないが今の俺にはない。そもそも、どの方向に進むのかもまだ決めきれていない。

戻っても、留まっても、進んでも、いずれは失ってしまう…………それならどうするべきなのか。まだ、俺はその答え

を見つけることができずにいた。

204: 2013/08/14(水) 00:43:13.92 ID:M+qnmSPO0
⑥彼と彼女はそうやって手がかりを拾い集めていく。


噂というものは、何を原動力にして伝播するものなのだろうか。まずは好奇心とか野次馬根性とかが考えられる。ただ

単純に何かを知りたい、どうなっているか気になる、という気持ちが人に噂の内容を尋ねる動機になる。わたし、気にな

ります!というやつだ。もうひとつは、他人と情報を共有したいという気持ちが人をそうさせるのだろう。同じ情報を

共有することは連帯感なんぞを高めるのに有効な手段だ。葉山も夏休みの合宿で小学生相手にやっていたしな。まぁ、

キャンプのオリエンテーリングや恋愛談義なら情報を共有しないことによる実害などそうそうはないだろうが、これが

業務となると非常に面倒なことになるので注意が必要だ。会社の上司とかが言う「俺はそんなこと聞いてないぞ!」と

いうやつだ。

ただ、いずれにせよぼっちの人間の場合には集団内の人間のことなんて関心が薄いし、他人と情報を共有することも

ないので基本的に噂とは無縁の存在である。自分がその噂の内容に関わらない限りは。

その点、最近の俺の行動はいささかぼっちにあるまじき様相を呈していたわけで、色々事情があるにせよ噂話の台風の目

になってしまっていた。しかし、台風の目というのも少し辛くなってきたかな。自らが無風状態であると自信を持って

言えなくなってしまっている気がする。そんな中、本日新たな台風がこの2年F組にも上陸した模様だ。

205: 2013/08/14(水) 00:45:32.50 ID:M+qnmSPO0
容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、温厚篤実と一見非の打ち所がないクラス内トップカーストの人間である葉山隼人。

そして容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、冷酷無比な校内一との呼び声も高い美少女、雪ノ下雪乃。この二人が関わる

噂話があったらどうなるのか。しかも、内容はみんな大好きな恋バナときたもんだ。瞬く間に広まるのは自明の理だった。

おとといの出来事は皆の記憶から見事に雲散霧消した。なにせ話題性が段違いだ。芸能記事でも熱愛している相手が一般

人と芸能人ではだいぶ関心のレベルには差が出る。そこからいけば俺など人間扱いされているかも怪しい存在なので、皆

興味のある情報の方に飛びつくというわけだ。それどころかおとといの話まで葉山が雪ノ下に告ったなどと混同されて

いるレベル。まぁ、その方が俺としてはありがたいことなのかもしれないが。

そんなわけで、今日俺が教室に入った時にはもうその話題で持ち切りになっていて自分の存在などあってなかったような

扱いを、要は無視されていた。ただ、なんというか…………昨日とだいぶ雰囲気違いませんかね?

206: 2013/08/14(水) 00:48:09.87 ID:M+qnmSPO0
机に突っ伏して音楽プレーヤーのイヤホンを挿したふりをし、件の噂話に耳をそばだてているとだいたいはこんな感じだ。

「葉山くん雪ノ下さんに告ったんだって!」「葉山くん雪ノ下さんのことが好きだったんだ、なんかショックかも」「でも

雪ノ下さん断ったみたいだよ」「え~!?でもあの二人ならお似合いだと思うけどなぁ~」「あたしだったら即OKしちゃ

うのになぁ」「そもそもあんたじゃ相手にされないよ」「アハハハハ」


なんかずいぶんと和やかじゃありませんか?他にも「葉山くん男らしい」だの「葉山くんカッコイイ」だの「雪ノ下さん

が羨ましい」だの…………俺の時はまるで犯罪の加害者と被害者みたいな扱いだったのに。まぁ、わかってはいたけど。

愛国無罪ならぬイケメン無罪か。かわいいは正義ならかっこいいもまた正義なのである。その理屈からいくと俺は悪と

いうことになるのか?いやいや、現実の世界は異なる正義と正義のぶつかり合いだ…………俺には俺なりの正義があると

声を大にして…………言いたいなんて思ったことなかったはずなのに。自分の正義など自分の中だけで納得できていれば

それでよかったはずなのに。他人から理解してもらおうなんてこれっぽっちも思ってなかったはずなのに。よりによって

あの葉山隼人が。俺とは絶対に相容れることのない存在であるはずの人間が。俺を…………俺だけを助けようとした。


207: 2013/08/14(水) 00:50:49.70 ID:M+qnmSPO0
あのタイミングで葉山が雪ノ下に告白した意味。それは、俺を女子両名への告白の噂から解放するのが目的に他なら

ない。ほとんどの人間はその真意についてもその行為の副作用についても気づいていない。みんな噂の内容に夢中に

なっていて、当の本人の様子にはあまり関心がないようだ。しかし、葉山に近しい人間ならその変化に向き合わざるを

得ないだろう。表面上、彼のいる位置は昨日とまったく変わっていない。だが、よく見ると彼は誰とも会話をしていない。

話を聞いて反応はしているが、自分から話すことはない。ちなみに葉山のガチっぽい雰囲気を察したのかグループ内では

ひとまず昨日の告白話は控えるようにしたみたいだ。ただ、そんな気遣いには関係なく葉山グループの時計の針はもう

その動きを止められない。特に葉山と三浦の間なんかは時間が倍速で進んでそうだ。


結局のところ、葉山グループが葉山のためのグループであったのと同じように三浦グループもまた三浦のためのグループ

に他ならなかった。だから、葉山と三浦の関係が壊れればおのずと他のメンバー同士の関わりにも影響する。こうなる

ことは戸部も海老名さんも望んでいなかったはずだ。そんなことは重々理解していたはずで、また自分もそれを望んで

いたはずなのに葉山は自分の手で壊すことにしたようだ。しかも理由が俺のためらしい…………意味がわからない。


208: 2013/08/14(水) 00:53:49.47 ID:M+qnmSPO0
いや、ロジックとしてはわからなくもないんだけど。心情的に。というか葉山ってそんなことするような人間だったっけ?

今まで葉山隼人という人物は周囲の期待する”葉山隼人”像を演じていたわけで、本人としてもそうすることに特にため

らいはなかった筈だ。それが何故……やはり結局のところ葉山に関することであっても他人については理解したつもりに

なっていただけに過ぎないのかもしれない。


そんなことを考えつつ、お昼休みに俺はまた例の場所でパンをかじっていると後ろから聞き覚えのある声がかかる。

「……やっぱりここにいたんだね、比企谷くん」

振り返ると、そこには本日上陸した台風の目があった。その目は少し寂しげに笑っていた。

「葉山…………むしろ何でお前がこんなところに」

「俺だってたまには一人になりたい時もあるさ」

そう言いながら階段に近づき、俺の横に腰かけた。戸塚ほどじゃないが距離が近い。思わず、体を少し横にずらす。

「俺の存在は勘定に入ってないんですね……」

「ああ、そうか……でも、君の場合は二人でいてもたいていは一人と一人って感じじゃないか?」

何気に酷いことを言われている気がするが、実際そうなので言い返すこともできない。俺は話題を変えることにした。

「それより…………どうしてここがわかった」

「結衣に訊いた」

「そうですか……」

なんかまた聞きたくもないことを訊いてしまった。別に葉山が由比ヶ浜と何を話そうが俺には関係のないことなのに。

209: 2013/08/14(水) 00:56:40.37 ID:M+qnmSPO0
「わざわざそんなことまでして……俺に何か用でもあるのか」

「ちょっと二人で話がしたかっただけだよ。あと、これあげるよ」

そう言いながら爽やかな笑顔で俺にMAXコーヒーを手渡す。俺の好みがわかっているとはこいつもなかなかやる

じゃないか。一体どこから情報を…………いや、それ以上考えるのはやめておこう。

「どうも……」

もう一本持っていた自分の分を葉山が手に取ったところで、二人同時にプルタブを開けて飲み始める。温かい甘さが

体中に沁みわたっていく気がした。一息ついたところでまた葉山が話し始める。

「……何か君の方から訊きたいこととかもあるんじゃない?」

「いや…………別に俺はお前のことそんなに興味あるわけでも知りたいと思っているわけでもないし」

そりゃないとは言わないが、わざわざそれを聞いてどうなんだという感じだし、たぶん俺にとっても不利な結果になる

ことはわかりきっている。おとといの屋上での会話を思い返す限りでは。

「そうか……俺は興味あるんだけどな、君のこと」

「……」

いや、そんなことこっち向いて真顔で言わないで下さいよ葉山サン。なんか色々な意味で怖いんですが。海老名サン的な

意味でも。…………はやはちとかあり得ない、よね?ダメ、絶対。

210: 2013/08/14(水) 01:00:30.95 ID:M+qnmSPO0
「俺になんぞ興味持ったところで何の得にもならんと思うけどな」

「そうか?自分の好きな人と仲がいい人間に興味を持つことはそんなに不自然なことかな?」

あぁ……やっぱり嫌だ。今のこいつと話したくねぇ。もう絶対避けられないもんね、話題的に。頼むから黙ってて

くれよ、マジで。俺の無言の拒否は無視して葉山は話を続ける。

「まぁ、こんなことをしたところで君の気持ちがわかるとも思えないけど…………ただ、そんなに悪い気分じゃない」

「そりゃお前のような人間の場合、自分の意思だけで決められることなんて少ないからな。自分の勝手だけで色々と

決められるっていうのもそんなに悪いもんじゃないだろ?」

「はは、まったくその通りだ」

以前にも考えたことだが、ここでさりげなく葉山にぼっちの道へと引きずりおろそうとする自分。このなかなかの策士

っぷりにはもう少し賞賛の声があってもよいのではいだろうか。いや、陰謀というのは明るみになったらダメなものだ

った。やはり日陰者の俺最強。…………最近は少し日向に出過ぎたか。


「俺は周りの人間のことなどどうでもいいから今まで好き勝手にやってきたが…………いいのか?お前がこんなことを

してしまっても。お前は自分の周りの人間の環境をどうしても維持したいものだと思っていたんだが」

それこそ、俺を犠牲にしてでも。そして、それは葉山だけでなく海老名さんや三浦の願いでもあったはずだ。

「確かにね。ただ…………修学旅行後に君と姫菜の噂が流れたときに、さすがにちょっと限界だと思い始めたんだ」

「……どういうことだよ」

211: 2013/08/14(水) 01:03:53.00 ID:M+qnmSPO0
「俺の知る限り、あそこにいたのは俺の友達と君と雪ノ下さんだけだった。それで、あんな噂が広がるということは

流したのは俺の友達以外ではありえない」

「……状況証拠的にはそうかもな。でも……それが何でお前の心境の変化につながるのかが俺にはわからん」

「あの出来事はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。ただ、俺の中での君への期待はますます天井知らずになって

しまった。このままだと、たぶんまた君を犠牲にするであろうことは容易に想像できた」

「それならどんどん犠牲にすりゃいいじゃねぇか。俺はどうせ他の方法を知らんのだし」

「もう…………それは自分が許さなかったんだよ」

「なんだそりゃ……それじゃあお前、まるでいい奴みたいじゃないか」

俺の言葉が何か癇に障ったのか、葉山がこちらに振り向く。その表情は普段のクールな爽やかイケメンとは程遠かった。

「そんなんじゃない…………俺は、君に嫉妬していた」

「……」

どこから見てもいい奴と思われている人間に、こんな負の感情を真っ直ぐぶつけられるとは思わなかった。伏線らしき

ものがなかったわけじゃないけどね。夏休みの合宿の時に君とは仲良くできなかっただろう、と言われたのを思い出す。

「…………俺なんかのどこに嫉妬する要素があるんだよ」

「雪ノ下さんに惚れられているだけで十分だろ、そんなものは」

「……」


212: 2013/08/14(水) 01:08:26.54 ID:M+qnmSPO0
……結局その話題になるのかよ。自分でそのことを認めるのと他人から言われるのはまた違うものだ。俺は、葉山にそれ

を言われることがまだ納得できていなかったのかもしれない。だから、こんな言葉を返す。

「お前に雪ノ下の…………何がわかるんだよ」

「わかるよ。ずっと彼女のことを見てきたんだ。君が、彼女にとって特別な存在であることくらいすぐわかる」

「……」


“ずっと”という言葉の重みに、俺はその場しのぎの軽い言葉など返せるはずもなかった。小さい時から好きだった女の子

は自分には全くなびくことはなくて、ぽっと出の捻くれたぼっちに好意を寄せている。そもそも、そんな状況すら認めた

くもないはずだ。でも、目の前にいるこの男はその現実から目を背けず、認めたうえで彼女に想いを告げて敗れ去った。

そういう人間の発した言葉を無碍になどできるものだろうか。……葉山は俺の言葉を待たずに話を続ける。

「俺は、ずっと彼女のことを見てきてどうにかしてあげたいと思っていた。でも、どうやらそれは無理らしいことが

わかってきた。……君が、雪ノ下さんを救ってあげてくれ」


これは葉山なりの誠意なのだろう。できれば俺もそれに応えたいところではある。しかし、それは間違いをそのままに

していいということにはならない。だから、こう返す。

「そもそも、その認識が間違ってんじゃねぇのか。雪ノ下は”救われる”ような存在じゃない」

「そうか……そうかもしれない。やっぱり俺は…………雪ノ下さんや比企谷のことなんてまだまだ全然理解してない

みたいだ」

213: 2013/08/14(水) 01:11:26.67 ID:M+qnmSPO0
……なんでさりげなく雪ノ下と俺がセットになっているのでしょうか?彼女と俺が似た人間だとでも思っているのか?

「そうだな。ただ……俺だって雪ノ下のことなんて全然理解してないぞ。だから、あまり変な期待すんな」

「確かにね。ついおとといまで雪ノ下さんの好意の対象が誰かわかってなかったくらいだから」

「……」

こいつ……俺が認めるまで同じ話題を何度でも出す気だろ……モグラ叩き状態だな。仕方ないので俺は話題を変える。

「ところでお前…………いいのかよ?あんなことして。あれじゃあ海老名さんや三浦は……」

「姫菜には先に事情を説明して謝っておいた。一応納得してくれたみたいだ。彼女も君のことを心配していたよ」

「そうなんですか……」

あ~あ、最初からこうなるってわかってたらここまで無理しなくてもよかったんじゃね?俺。というか無理してたのか、

やっぱり。ただのやせ我慢だったか。武士は食わねど高楊枝って言うしね。材木座曰く、武神らしいから仕方ない。

「で、三浦の方は…………あいつ、たぶんお前のこと……」

「わかってる。だから…………しばらくは以前と同じように接することはできないと思う。ただ……時間はかかるかも

しれないけど俺は優美子と友達に戻れることを信じている。君が心配することじゃない」

「ああ、そう……」

214: 2013/08/14(水) 01:14:32.19 ID:M+qnmSPO0
葉山に心配するなと言われたらこう返すしかない。しかし、こいつの言うこともあまり信頼できたもんじゃないけどな。

ただ、俺が葉山の周りの人間関係の修復なんてできるわけがないので放っておくのが一番だろう。

「そもそも君にこれ以上手を煩わせないためにこんなことをしたんだ。こちらの問題はこちらでどうにかするよ」

「それならいいんだが……」

「それよりも、君は自分や彼女たちの心配をすべきだろ?」

「……心配してどうにかなるんなら大した問題じゃないんだがな」

「それもそうだったね」

はにかみながらそう答える葉山。今はこいつの笑顔がなんだか無性に腹が立つ。自分だけ先に言いたい放題言って

スッキリしやがって。俺にどうしろっつうの。表情でこちらの意図をくみ取ったのか葉山はこう続ける。

「君は…………雪ノ下さんと結衣の想いに応えてあげればそれでいいんだよ」

「……何をしたら応えたことになるんですかね」

「それは比企谷くんが考えることだよ。それとも俺がこうしろって言ったらその通りにするの?君は」

「いや……」

「だろ?…………いいじゃないか、君は周りの人間のことなんて気にせず好きなように選択できるのだから」

「……」

その周りの人間の中に雪ノ下や由比ヶ浜が含まれていなかったら、確かにそうだったんだろうな。でも今は…………

215: 2013/08/14(水) 01:34:06.58 ID:M+qnmSPO0
俺が黙ったままでいると、葉山は話題を変えつつもまた答えにくい質問を続けてきやがった。

「ところで、君は今日も部活には行かないつもりか?」

「……当分は行けない、と思う」

「気まずくなるのが嫌だから?」

「あいつらに関してはそういう心配はしていない。それに気まずい空気なら俺はもう慣れっこだしな」

「ははっ。まったくそういうところが君の羨ましい限りだよ」

一体今の答えのどこに葉山の羨ましがる要素があるんだか……やっぱり葉山って人間のこともよくわからんな。

「そうじゃないとすると……?」

「……言い方は悪いが、お前と同じ失敗をするわけにもいかないもんでな」

表面上、取り繕って嘘や欺瞞に満ちた関係を続けることは、奉仕部の部員はたぶん誰も望んでいないのだろうし。

「なるほど、そういうことか。その答えを聞いて少し安心したよ」

「……どういうことだ?」


「逃げるわけでも嘘をつくわけでもなく、彼女たちの想いに応える用意があるってことだろ?それは」

「!……」

「その沈黙は肯定と捉えるよ。ただ、あんまり女の子を待たせちゃダメだよ」

「……そうだ、な」

218: 2013/08/14(水) 01:53:31.29 ID:M+qnmSPO0
あぁ、昨日もなんか似たようなことを言われたな。駄目だ自分……早くなんとかしないと……俺が頭を掻いていると

葉山は何かもう満足したのかおもむろに立ち上がる。

「じゃあ、そういうことで。雪ノ下さんと結衣のこと……よろしく頼むよ」

「え……ああ……」

もはや返事なのか呻き声なのかもよくわからない音しか自分の口からは出なかった。ええいああ、もうなんかもらい泣き

でもしたい気分。いや……自分が泣く分には一向に構わないけど……たぶん俺は……

「もうそっちのも空?空なら俺が捨ててくるけど」

「えっ?ああ……じゃあ頼む」

普段の俺なら絶対に遠慮しているところだが、もう頭が正常に働いていなかったせいか反射的にMAXコーヒーの空き缶

を葉山に手渡してしまう。葉山はそれを手に取るとすぐに振り返って校舎の中に入っていってしまった。



一体自分は何をしたら……彼女たちの”想いに応えた”ことになるんだろうか…………

それに、彼女たちへの”俺の想い”は…………

231: 2013/08/17(土) 13:01:26.06 ID:g3KX1uql0
「比企谷、ちょっと今日の放課後に職員室まで来たまえ」

「は、はぁ……」

俺が奉仕部に行かなくなって4日目のことだった。現国の授業の終わりに唐突に平塚先生に呼び出しを食らう。いや、

唐突ではないか。そろそろ来る頃合いかな、とは思っていた。そう言えば俺は受刑者だったんだ。今の俺はいわば脱獄囚

みたいなもので、すなわちプリズンブレイクなわけでむしろ今まで放置されていたことの方がおかしかったのだ。しかも

相手は俺をこの部活に強制的に入れた張本人である。何されるんだろ……また可愛がられるのかな、相撲部屋的な意味で。

ただ、逆に考えると今まで放っておかれたという見方もできるわけで、本当に行動が読めない。考えても仕方のないこと

をいくら考えてもムダなので、また俺は例の思考のループに頭を落とし込む。どうやって奉仕部に戻るべきなのか。


先に自分でループと宣言してるあたり、答えがそんなすぐに見つかるわけもなく早々に放課後になってしまった。どこぞ

の主人公は宿題をやってループを脱出したようだが、俺の宿題はいつ終わるのかな?そんなことを考えつつ職員室の扉を

開ける。

「し、失礼します……」

「おお、来たか。こっちに来い」

232: 2013/08/17(土) 13:08:14.86 ID:g3KX1uql0
いつものパンツスーツに白衣のいでたちの先生がまた例のついたての奥に俺を手招きする。促されるままにソファに座る

とおもむろに煙草を取り出して吸い始めた。ふぅーっと口からはき出された白い煙が上に立ち昇っていく。そういえば、

そろそろ息も白くなる季節だな……。

「ところで先生は煙草やめようと思ったことはないんですか?」

「いや、ないことはないんだが…………しばらくは無理だろう。ここで吸われるのが嫌なら遠慮なく言ってくれて

かまわないが」

「俺は煙草は好きじゃありませんが、吸っている姿を見るのは割と好きだったりもしますよ」

「す、好き……あ、いや」

一瞬、灰皿に灰を落としていた指が止まる……がすぐに動き出す。さすがに二度目となると反応も鈍いか。面白くない。

「おほん……自分で言うのもおかしいが、確かに人が煙草を吸っている姿というのは絵になるものだ。だから、映画でも

よく使われる」

「それもそうですね……某ジブリの映画など実に美味そうに吸ってましたしね」

「おっ、比企谷もそう思うか。あれは禁煙中の人間は絶対見てはいけない映画だな。あんなものを見たら絶対に吸いたく

なってしまうよ」

そりゃそうだろうな。なにせ一度も吸ったことのない自分ですらちょっと吸ってみたいと思ったほどだもの。まぁ、思う

だけでそんな前時代的なものにわざわざ手を出すわけないし、あえて吸う理由もない。

「映画自体はどう思ったかね?比企谷は」

「……映画談議をするためにわざわざ呼び出したんですか?」

233: 2013/08/17(土) 13:15:14.40 ID:g3KX1uql0
俺がそう尋ねると先生は口を開けてはっはっはと笑い、短くなった煙草を灰皿に追いやるとこちらに顔を近づけて今度は

何か見透かしたようにニヤリと口角を上げた。

「まぁ、いいじゃないか。どうせ君は今日も部活には行かないんだろう?」

「それはそうですが……」

「で、…………感想の方は?」

「え?ああ……まぁなんというか……純粋さや美しさは残酷というか……あれをただ感動したというのはちょっと後ろ

めたい気がしましたね」

俺の答えを聞いた先生は得心がいったのかふんふんと頷く。

「確かに。純粋なものや美しいものは残酷だ。逆に残酷なものこそ美しいともいえるんじゃないかね?この私のように」

いや、そんな冗談をドヤ顔で言われても反応に困るんですが。たぶん俺は口を歪ませながら、それに応える。

「先生もキレイだとは思いますよ…………年の割には」

「比企谷……」

またしても先生による”可愛がり”が炸裂するとまずいので俺は腹筋に力をこめた…………が。

「比企谷……」

こちらを恨めし気に見て唸るだけだった。あぁ…………なんかフォローしないと。


234: 2013/08/17(土) 13:24:40.27 ID:g3KX1uql0
「あ、ええとあの主人公も結局は自分の夢が第一で家庭をあまり顧みなかったわけじゃないですか。でも、その生き方

こそ美しく見えたわけで先生もそのように美しく生きられればよいのではないでしょうか」

「つまり、私に仕事以外は諦めろと……」

どんどんか細くなっていく声。いや、もうほんと誰かもらってやってくれ!早急に。美しさは残酷だし。

「こ…………これでも俺は一応先生には感謝してるんですよ」

「ほう……君がそんなことを言うようになるとは……明日は雪でも降るのかな?」

俺が先生に対する偽らざる気持ちを述べると顔を上げ急に声も元気になった。とりあえず良かった…………のか?

「……俺は感謝する機会があまりなかっただけで別に感謝の言葉を言えない子ってわけじゃないですよ」

「そうかもしれないな…………この捻デレくん」

「……」

いや、なんでその変な造語、ここまで広まってんの?小町か?これも小町の仕業なのか?…………とりあえず、先生は

この言葉を言って満足したのかそれ以上追及することはなく、本来の話に戻る。

235: 2013/08/17(土) 13:34:45.14 ID:g3KX1uql0
「ところで比企谷……あと数日で試験準備期間に入るんだが…………まだ君は部活を休むつもりか?」

「それはなんとも…………というか参加させたいのなら、無理やりにでも連れていけばいいじゃないですか。俺は受刑者

でしたっけ?確か…………」

俺がそう答えると、先生は頬杖をついてふっとため息をつく。

「まぁ私としてもそうしたいのはやまやまなんだが…………他の看守からちょっと釘を刺されているものでね」

「はぁ……」

……なるほど。俺が強制的に部活に参加させられなかったのは看守――こんな単語ですぐ連想できるのもどうかと思うが

――雪ノ下の差し金だったか。

「ただ…………このままずっと行かないのであれば例の勝負は君の負けということになってしまうが、それでいいか?」

「あれ、まだ続いてたんですか……」

雪ノ下との勝負――――元々俺は捻くれた根性と孤独体質を”更生”するという依頼で奉仕部に連れて来られた。しかし、

俺がそれを拒否し雪ノ下はそれを逃げと断じた。そしてそれでは誰も救われない、とも。その結果、先生が仲介に入り

どちらが人に奉仕できるか勝負することで自らの主張を通せるのか決めると言った。勝負に勝った方は負けた方に何でも

命令できるらしい。勝負の結果は先生の独断によって裁定される。……そもそもこれってどこがゴール地点として設定

されているんだろう?それに、もう最近は先生も奉仕部の個人の活動を全て把握しているとも思えないし……



236: 2013/08/17(土) 13:43:19.58 ID:g3KX1uql0
「当然続いているさ。双方がやめない限りこの勝負は続いていくよ」

「”双方”?……ということは、例えば俺と雪ノ下が勝負を終わらせようと言ったら先生はそれを了承するってことですか」

「ま、そういうことになるね。ただ、どちらか一方がやめるのであれば言い出した方の負けということになるが」

「……」

……驚いた。たぶんこの時の俺は口を開けたままぽかんとしていたのだろう。この勝負の件はてっきり俺を奉仕部に

引き留めるためのアンカーのようなものだと思っていたから。だから、ただ漠然と終わりのないもののように感じて

いた。それが、自分の手で終わらせることも可能とは…………。この状況で俺が負けを認め、雪ノ下の命令を聞き

――何故かそれを悪くないと思えてしまった、奉仕部をやめることも選択肢としては有り得るのか。ただ、今となって

はもうそれは俺にとっては無理な相談だった。


俺は奉仕部のあの空間、あの仲間、あの空気を――――。


先生はこちらの考えを見透かすように、こんなことを言い出した。

「何故君は今も休んだままなのかね?たぶん今の君でも他の部員たちは受け入れてくれるだろうに」

「仮にそうだとして…………それは先生の考える奉仕部のあり方に沿っているんですか?」

「さぁ……それはどうだろうね」

「……」

237: 2013/08/17(土) 13:56:50.38 ID:g3KX1uql0
いやいやいや、この人絶対わかってて言ってるだろ。以前に由比ヶ浜が部に来なくなったとき、やる気と意志のない者

は去るしかないと口にした。また、奉仕部は自己変革のためのものであってぬるま湯に浸かるのが目的ではない、とも。

今のまま俺が戻ったとしてもどうなるかは目に見えている。それは部の方針とは相容れないものだ。いや、まて…………

俺はいつの間に奉仕部のこの方針を受け入れたのだろう。この俺が…………自己変革なんぞを望んでいたのか?よく考え

るんだ……俺はぬるま湯に浸かるのを否定しているから今の自分のままでは部に戻れないだけだ……”今の自分のまま?”

“戻る”ために”変わる”?なんか矛盾しているようにも思えるが…………なんだかだんだん混乱してきたぞ。俺が黙った

ままでいると先生は微笑を浮かべながら次の言葉を発する。

「君は聡い子だ。私としても今の君が部活を休んでいることは間違っているとは思わないよ」

「"間違っているとは思わない”って…………じゃあ正しいことは何だと言うんです?」

「何も答えを教えるだけが教師の仕事ではないよ。思考の種を蒔いたり、環境を整えたりするのもその中に入るだろう」

「"環境を整えたり”?それって奉仕部のことを指しているんですか?」

俺の質問に先生は顔を少し横に向けてふっと笑みをこぼして答える。


「私はただ、半ば有名無実化していた幽霊部活に約二名……部員を入れただけにすぎないよ」

“部員を入れた”?それって……まさか雪ノ下も?……でも俺のように強制ではなさそうだし……こちらの怪訝な顔を

察知したのか、先生は話の補足をした。

238: 2013/08/17(土) 14:02:09.00 ID:g3KX1uql0
「もちろん彼女の場合は君とは違って本人の意思だよ。ただ、どうにも人ごとこの世界を変えると本人が口にする割

にはそれができていない気がしたものでね。試しに見せてみろと言ってみたら乗ってきた」

おいおい、そのセリフ先生にも言ってたのかよ…………痛々しいってレベルじゃないぞ……いや、俺が奉仕部に強制

入部させられるきっかけになった作文と似たようなものか……しかしまあ、その挑発に乗る姿がありありと想像できて

しまうのがなんかおかしい。あきれなのか笑いなのかよくわからない音が口からふっと出る。

「はは……しかし、ただ見せろと言ったんじゃ本人の問題の自覚につながらないのでは?」

「さすがにこちらとしても彼女にそう指摘した以上、何もアドバイスをしなかったわけではないよ」

「アドバイスした結果がアレなんですか……?」


俺は雪ノ下と最初に会った時の会話を思い出す。……なんか罵倒しかされなかったような。どう考えても素だった

よな……アレは。疑念に満ちた表情に先生は話を続ける。

「私は何も雪ノ下に自分を変えるように言ったわけではないよ。ただ……鏡のままでは世界を変えることはできないと

助言しただけのことだ」

「鏡?……鏡って鏡の法則のことですか?他人は自分の投影だとかなんとかって言う。詳しくは知りませんが」

「ん、今はそういう意味合いでも使われるか、そういえば。私はもっと単純に好意に対しては好意を、悪意に対しては

悪意を返すという意味で鏡という言葉を使った。ただ、彼女の場合は……」

「悪意を返し過ぎる……」

239: 2013/08/17(土) 14:08:26.28 ID:g3KX1uql0
「「はぁ~……」」

俺が先生の言葉の続きを言うと何故か二人同時にため息が出てしまった。

「まぁ、彼女は彼女でずっと一人だったから自分の身を守るためにはある程度は仕方ないことだとは思うんだが……」

……明らかに過剰防衛のこともあったんだろうな。夏休みの時の三浦への対応などを考えると。やられたらやり返す。

倍返しだ!いや、倍返しで済めばいいんだが…………彼女の場合。

「それで……その……少しは悪意を善意に変えるように、みたいなことを言ったんですか?」

「そんなところだよ。ただ、彼女は罪と罰を与えるのも本人のためではないですか、と反論してきたが」

「うわぁ……」

「彼女の言い分も間違ってはいないさ。だから、そういったことに関しては教師である私に任せろと言っておいた」

え、やだなにこの先生カッコイイ。俺が女だったら惚れちゃってるかも。……それ褒めてんのか?さすがに今思った

ことを口に出すことははばかられたので黙っておく。

「……それで雪ノ下は納得してくれたんですか?」

「まぁ、一応はな」

「でも……仮にそうだったとして俺が最初に雪ノ下に会った時に先生のアドバイスに従っていたようにも思えない

んですが」

240: 2013/08/17(土) 14:19:26.69 ID:g3KX1uql0
俺がそう尋ねると、先生はまだわからないのかね?というような顔をしてこう続ける。

「先ほども言ったように、私は彼女に自分を変えるように助言をしたわけではない。善意といっても色々ある。あれは

彼女なりの善意の発露の仕方だよ」

「ああ、なるほど……」

まぁ、別に俺に対して努力しろだの変われだの言ったのも悪意があったわけじゃないしな。たまたま俺が素直に応じな

かっただけの話であって、由比ヶ浜の時みたいに上手くいったケースもある。俺の納得した様子を見たのか先生は目を

細めて穏やかな口調でこう告げる。


「だから、君も君なりの正しさを発揮すればいいのさ。どうにも間違っていると私が思ったらその時は叱ってやる」

「……そうですか」

何故か俺はその言葉を聞いて先生の顔を直視できなくなり、下を向いてしまう。


241: 2013/08/17(土) 14:33:56.66 ID:g3KX1uql0
話が一段落したのか、先生はまた煙草を吸い始めて煙をたなびかせる。

「なに、そう深刻になりすぎることもないだろう。いざとなれば一人に戻るという選択肢もある」

「それって…………最初に先生が雪ノ下に依頼した内容と矛盾してませんか?」

「私はあくまで孤独"体質"の更生を雪ノ下にお願いしたのであって孤独そのものを否定しているわけではないよ」

「どう考えても一緒にいて自分に悪影響しか与えない存在というのも確かにいる。そういった人間と無理に付き合う

必要もないだろう」

また意地悪なこと言うなあ……この先生は。俺がそんなこと思っているはずがないというのをわかっていてあえて

こんなことを……。俺の眉が歪んだところでこの人はさらに追い打ちをかける。

「それに、友達作りに失敗するのも青春と作文に書いたのは君だ。これからも大いに青春を謳歌してくれたまえ」

「どんな嫌味ですか、それ……」


俺がそう言うとまた先生ははっはっは、とおっさんみたいな笑い方で大笑いをし、煙草を灰皿に置いたところでぱっと

両ひざに手を置き、おもむろに立ち上がる。

「さて、今日はこんなところで許してやろうかね、比企谷」

「許すって…………今までのこの時間は刑罰かなにかだったんですか?」



242: 2013/08/17(土) 14:47:46.39 ID:g3KX1uql0
「おや?先生に呼び出しを食らって時間を拘束されるなど学生にとっては罰のようなものだと思っていたのだが……

それとも比企谷は何か?もっと私とお話したいのかな?」

「い、いえ……そんなことは……」

いや……そんな妙に嬉しそうな顔でそんなこと言わないでくださいよ……否定しづらくなっちゃうでしょうが。俺も

立ち上がり、扉の方に向きを変えると先生はばしっと俺の背中を叩く。

「ま、君が奉仕部に戻った時はまたお話を聞かせてくれることを期待しているよ」

「いや……あんま期待しないでください……俺に」

「別に良い結果を知らせろと言っているわけじゃない。ただ、話ができればそれでいいんだよ」

「そうですか……でも悪い結果の方が人には話しづらいんじゃないんですか?」

俺のその返答に何故か先生は意外さを感じたのか顎に手をやる。

「ほう……君も少しは見栄を張ろうという気が起きてきたのか。感心感心」

「!……あ、いや、俺はただ一般論を言っただけで…………な、は、話せばいいんでしょう、話せば」

「……そうだ。……私”も”待っているよ」

243: 2013/08/17(土) 15:10:09.43 ID:g3KX1uql0

「では……失礼します」

その背中に若干のプレッシャーを感じつつ俺は職員室から出る。疲労と安堵の混じり合ったようなため息が、ふぅーっと

口から思わず出てしまう。…………帰るか。いつの間にか部活終わる時間も過ぎているし。昇降口に向かいながら窓の外

を見るともう空は夕焼けを下に追いやって夜が今にも覆わんとしていた。なんとなしに先生と話題になった映画のことを

俺は思い出す。美しさは残酷で、優しさも残酷。純粋さも残酷。でも、そこに自分は惹かれてしまったのだ。それならば、

自分も残酷なままでいるほかないのだろうか。


風立ちぬ いざ生きめやも――――。

風が立つどころの話じゃないな。暴風だよ、誰かさんのせいもあって。今の俺は台風の目じゃないし。

そんなことを考えつつ、人気の少なくなった校内を歩き、昇降口に辿り着くとそこに見慣れた人影を見つける。

こんなところで何やってんだ…………。また何やら風が吹きそうな予感。



そこにいたのは由比ヶ浜結衣だった。

265: 2013/08/20(火) 19:33:30.28 ID:2PQsvWzg0
⑦戻るか進むかに関わらず、彼はこの先の道を見定める。


由比ヶ浜は、出入口とは反対側の壁に寄りかかって誰かを待っている様子だった。携帯電話をいじっているせいかこちら

の存在にはまだ気づいていない。さすがに同じクラスのロッカーを通るのに無視するのも不自然すぎるので、仕方なく

こちらから声をかける。そう何日も話してないわけでもないのに、上がりそうになる口角を抑えながら。

「何してんだこんなところで。……靴でも盗られたか?」

「あ……ヒッキー……って、く、靴なんて盗られてないし!ヒッキーが来るの……待ってただけっていうか……」

携帯をパッと閉じて目を見開いてこっちを見たかと思えば、次の瞬間にはまたうつむいてしまった。


「何?あなた、いくら自宅で待ち伏せするのが法律に触れるからといってそれは学校でやっていいという理由には

ならないのよ、このストーカーさん」

「なんかまたゆきのんの物真似うまくなってるし……というか私ストーカーじゃないし」

おお、場を和ませようとあれからも風呂場で練習に励んだかいがあったか、雪ノ下の物真似は。由比ヶ浜は少し緊張の

取れた表情になってこちらもちょっと安心する。

「ストーカーじゃないならなんだ……用事があるならメールでもすりゃいいだろ」

「そ、それはそうかもしれないけど……ええと……サプライズ的な?アレで……」

そう言って視線を斜め上にやって人差し指で空を指す仕草をする……いかにもデタラメな言い訳だったが何故かその話に

乗っかってしまう自分がいた。

266: 2013/08/20(火) 19:36:46.32 ID:2PQsvWzg0
「ふぅん…………そういうことやるってことは……お前サプライズとか好きなのか?」

「え?……う~ん……いいサプライズなら好きかな?」

いきなり想定外の質問をされたせいなのか、ちょっと迷いながら彼女はそう答えた。その表情は少しうれしそうに見える。

「そりゃそうだな。むしろ悪い意味で驚くことの方がこの世の中多いからな。俺なんて友達の友達からサプライズ誕生日

パーティやろうって誘われて当日行ったら当の誕生日の奴に『なんでこいつがいんの?』って驚かれたしな。まったく

こっちがサプライズだったよ」

「……」

あれ?いつも通りの会話をしたつもりなのにどうしてニコニコして黙ったままなんでしょうか?何か心の中に混沌が

這い寄ってきそうだったので思わず声が出る。

「あ、あの…………由比ヶ浜さん?」

「え、え?ああ……いつものヒッキーだなって思って安心して……その……」

彼女はそう答えてふっと息をついた。その時自分も一緒に安堵から息をついてしまったので、なんかおかしくてまた二人

してぷっと吹き出してしまう。少しの間のあと、また俺が話を切り出す。


267: 2013/08/20(火) 19:41:33.80 ID:2PQsvWzg0
「で、何の用事だよ」

「あ……その……もしよければ……途中まで一緒に帰らない?」

「嫌だ」

「え……?」

自分でも思ってたより語気が強くなったせいか、由比ヶ浜はびくっとしてからオドオドし始めた。い、いや……そんな

大した理由でもないんですけど…………でも口から出たのはもっと即物的なことだった。

「いや一緒に帰るって……俺チャリでお前バスだろ?別に今日俺がバス乗る理由ないし…………」

「あ、あたしが乗るバス停ずらすだけだから。ヒッキーはそのまま自転車でいいよ」

「お前そんなことして道わかるのか?」

「えっ?……もうヒッキー、あたしのことバカにし過ぎだから!真っ直ぐな道くらいわかるから!」

由比ヶ浜は眉をひそめながらそう言った後、ぷいっと横を向いてしまった。


いや、それはそれは失礼いたしました。何せ同じ部活にちょっと方向に怪しい人物がいたものですから…………しかし

先に断る理由を言ったのはまずかったな。こう答えられてしまっては俺からは拒否するのが…………他にも心配事が

ないわけでもないし。……とりあえず校門までなら偶然も装えるだろう。承諾の返事もしないまま俺は次の言葉を言う。

「悪かったよ。俺これからチャリ取りに行くから……」

「あ、あたしも行く……」

268: 2013/08/20(火) 19:43:49.02 ID:2PQsvWzg0
「ひゃっ」

靴を履き替えて外に出ると寒風がびゅっと吹いて直接体にあたってくる。思わず手で襟を掴んで服の隙間を塞ぐ。今の

悲鳴はおそらく由比ヶ浜のスカートが…………いやいや、俺の視界に入ってなくてよかったぜ。……ついでに言うと

周りに人もいなくてよかった。なんで俺がそんなこと気にしなきゃならんのだ…………

「さみっ」

「もうすぐ12月だもんね」

「……そうだな」

そろそろコートが欲しくなってくる時季だな。どういうわけか年中コートを着てる頭のキテる奴も俺の周りにはいるの

だが…………そういえば、材木座からはまたメールが来てるんだろうか。もし来ていたとしてもあの二人では……まぁ

無視がいいところだろう。そんなことを頭に浮かべつつ先に歩き始めた俺の後にとてとてとついてくる由比ヶ浜。その後

駐輪場に着くまでは特に会話らしい会話もなく俺は鍵を取り出して自転車の錠を開ける。

前のかごに鞄を入れて自転車を引いて出すと、いつの間にか横にいた由比ヶ浜の視線が俺にぶつかる。

「……なんだ?」

「え?い、いや、なんでも?ない、よ……」

269: 2013/08/20(火) 19:46:35.83 ID:2PQsvWzg0
由比ヶ浜はほんのり頬を染めながら、目を泳がせながらそう答えた。正直言って彼女の顔は口よりもよく喋る。黙って

いたとしてもその目が、眉が、頬が、唇が雄弁に語ってくれる。だから、みんなそれを無視することはできないのだ。

あの雪ノ下雪乃でさえもそうだった。当然、俺もそう。

「何か言いたいことがあるなら言えよ。今さら遠慮するようなもんでもないだろ」

「あ……いや……でも……あたしが今それを言うとヒッキーはたぶん困るから……」

由比ヶ浜は遠慮がちに手で髪をいじりながらそう答える。…………あぁ、困るな。確実に。それが何かとはいわないが。

「じゃあ黙っててくれ、というしかない、な……」

「そ、そうだよね……」


二人にまた沈黙が訪れると、そのまま俺は自転車を手で押していく。由比ヶ浜はその斜め後ろをついていく。

校門まで来たところで、一度足を止めて俺はさっきの心配事の話の続きをすることにした。

「それよりお前、いいのかよ…………俺と一緒にいるところを誰かに見られても」

「え?あたしは別に気にしないけど」

やけにあっけらかんとした様子で答えられてしまって、かえってこっちが困惑する。

「え……あ、いや……お前が気にしなくても俺が気にすんだよ」

270: 2013/08/20(火) 19:49:58.60 ID:2PQsvWzg0
いつぞやの花火大会の時、文化祭の後の時、あるいは修学旅行から帰った後、それとここ数日間。いつだって彼女は

俺と一緒にいる時には常に周りの人を顔色を伺いながら――気遣いながらと言った方がいいのかもしれないが――俺と

接してきた。それはいくら狭い教室の中とはいえ棲む世界の違う人間が関わる場合には不可避の行動だ。俺のような

カースト最底辺の、最近じゃ底すら抜けてるような人間とトップカーストにいる彼女では尚のことそうである。俺個人

がいくら侮蔑されようが憐憫の目を向けられようが構わないが、彼女がそういう目で見られるのは俺の本意ではない。

だからこそ、距離を取りあぐねているという面も否定しきれない。でもその当の本人は――――

「ねぇ、ヒッキー」

「?……なんだよ」

「ヒッキーが言ったんだよ?自分の他人からの印象をコントロールしようなんてことは無理だって」


……一度口にしたことは取り消すことはできない。そんなことわかりきった話なのに。だからこそ、決定打になるよう

なことは言わないように自制してきたつもりなのに。でも、何気なく言った一言がこんな形で効いてくるだなんて……

黙ったままでいると、由比ヶ浜は俺の前に回り込んできて微笑を浮かべてこう告げる。

「だからね……あたしがヒッキー以外の人間にどう見られているかなんて、ヒッキーが気にすることはないんだよ」

「………………そうか」

「うん、そうだ」

271: 2013/08/20(火) 19:53:12.50 ID:2PQsvWzg0
顔が熱くなるのを感じて思わず手を頬にやって撫で付ける。微笑んだままの由比ヶ浜を横目に俺は自転車を押して歩き

出す。遅れて彼女も後をついていく。……とりあえず頭に浮かんだ疑問をぶつけでもしないとやってられん。

「お前アホのくせになんでそんなこといちいち覚えてんだよ……」

「ヒッキーはいつも変なことばっか言うからあたしの頭でも記憶に残りやすいんだよ」

「ああ、そうですか……」

そんな変なこと言ったつもりはないんだがな……しかし、言ったことが変じゃないと仮定したところで由比ヶ浜の言う

ことに変化があるとも思えなかった。だから、また俺は黙るほかなかった。

そしてまたしばらくは沈黙が続く。聞こえてくるのはカラカラと鳴る自転車のチェーンの音と車道のクルマの音くらい

のものだ。この辺りは住宅街なので街灯はあってもそこまで明るくはない。だから、向こうから俺の表情を読み取ること

もできないだろう…………いや、少し後ろを歩いているからどっちみち氏角か。


「……ねぇ」

後ろから声がかかるとなんとなくその歩みを止めてしまう自分がいる。

「……なんだ」

「まだ……無理そう?」

“まだ”という単語には二つほど身に覚えがあるので誤魔化しということではなく、ただ単純に訊き返す。

272: 2013/08/20(火) 19:55:51.24 ID:2PQsvWzg0
「何が」

「その……奉仕部の」

「まだ無理、だな…………」

「そ、そっか………………顔だけ出すってわけにもいかない?」

由比ヶ浜は少ししょんぼりした後、また顔を上げて少しこちらに近づいて尋ねてきた。その質問の意図をいまいち量り

かねていると、彼女はこう続ける。

「あ、あたしとヒッキーはクラスが同じだからとりあえず学校に行けば顔は見られるけど…………ゆきのんは部活がない

とヒッキーに会えないから……」

ああ、そういうことか。しかしそんな日にちが経ってる訳でもないし俺が来ないからといって寂しがるような人間とも

思えないのだが…………

「ああ見えてゆきのん、ヒッキーが来なくて寂しがってんだからね!」

俺の考えを先読みしたのか少し声が大きくなってこちらへの追及が飛ぶ。しかし、ああ見えてって……

「ゆきのん……たまたまあたしがドアを開けてすぐあいさつしなかったら『比企谷くん?』って言ってたし……」

「おい、それは俺に言っていい情報なのかよ…………」

273: 2013/08/20(火) 19:59:19.02 ID:2PQsvWzg0
「いいよ、別に。……もう隠すつもりもないと思うよ。ゆきのんが――――」

以前にも同じような光景を見た気がする。由比ヶ浜が雪ノ下のことで何か言いかけてやめるところは。お前は優しいから

まだ言い切らないでくれるんだよな。中には意地悪にも言い切ってしまう奴もいるわけで。…………あまり彼女の優しさ

に甘え続けるわけにもいかない。拳を口にあててえへん、と軽く咳払いをしてから由比ヶ浜はこう続ける。

「と、とにかく…………奉仕部のことはもうあたしとゆきのんの間では答えは出てるの。だから、今はヒッキーを待って

るだけっていうか…………ヒッキーのいいようにして」

「いいようにしてって…………何でそんなすぐバレるような嘘つくんだよ」

これは由比ヶ浜の優しさからくる嘘だ。でも、それを追及する権利など俺にはない筈なのに、つい癖でそういうことを

言ってしまう。かえって自分の首を絞めるだけだというのに。だから、彼女の後に続く言葉を止められない。

「そ……そりゃ本当のところはヒッキーに早く戻ってきてほしいって思ってるよ。だってあたしは……」

「あ、あのさ……由比ヶ浜……」

ダメだ。この子は感情が溢れると、胸がいっぱいになると――いやこれ以上いっぱいになられては困るけど、別の意味

でも――思ったことを口にせずにいられないところがある。由比ヶ浜にとってはもう待つのも限界か…………しかし、

ただ遮るのでは意味がない…………俺はもう一つ、彼女を待たせていることにタイムリミットをつけることにした。



「ええっと……その……期末試験終わって次の土曜ってあいてるか?もしあいてるなら1日あけておいてほしい」

274: 2013/08/20(火) 20:02:50.15 ID:2PQsvWzg0
由比ヶ浜は口をぽかんと開けてこちらを見ている。いや、そりゃそうだろうな。俺も数秒前までこんなこと言うつもり

じゃなかったし。顔を逸らしたくなって横を向いて返事を待っていると、彼女はにっこりと笑ってこう答える。

「今のところあいてるよ。だから…………絶対あけとく」

「い、いや……絶対じゃなくてもいいけどよ……」

「ううん、絶対。後から他の予定入ったら代わりの約束してくれると思えないもん、ヒッキーの場合」

そこまで信用されてないのか俺って…………いや、今までの行いを考えると仕方ないのか。

「その時は振り替えするって…………さすがに、さ」

「そう?ならいいけど」

由比ヶ浜は納得したのか、足取りも軽やかに俺の先を歩き始める。今度は自分が彼女の後ろをついていく形になった。

俺は自転車を押しながら、さっき由比ヶ浜に言ったことを頭の中で反芻していた。彼女の言葉を遮るための方便、とは

いっても…………どういたしましょう、これ。まだ何も考えてないぞ。白紙も白紙、ホワイトペーパー。いや、ホワイト

ペーパーは白書という意味もあるんだったか。なんでこう重要なことを考えるときに限って頭ってどうでもいいこと

ばかり思いつくんだろうか。何やら試験勉強の合間に部屋の片づけを始めるのと似たメカニズムが働いている気がする。


…………どうやって奉仕部に戻るのかも決めてないのに、いいんだろうか?由比ヶ浜と、その…………デ、デート……

まがいなことをしても。……いや、まだ彼女に予定を尋ねただけだ。現段階では約束をしたわけじゃない。いくらでも

どうとでもなる…………とは言えなかった。何でそんな嬉しそうな顔して歩いてるの?果たして俺はアライブできるのか。

275: 2013/08/20(火) 20:05:37.93 ID:2PQsvWzg0
「とりあえず今日はここまででいいよ」

隣のバス停に辿り着くと由比ヶ浜はくるっとこちらに振り返ってそう言った。”今日は”という言葉になにか含みがある

ような気がしてならないが、そこは藪蛇っぽいのでスルーすることにする。

「そうか…………じゃあ、また明日な」

「うん……また明日。あの…………ごめんね」

「……何が」

由比ヶ浜は胸の前で手を振った後、ちょっと頭を下げて上目遣いでこちらを見てくる。い、いやそんな目で見られたら

心当たりがなくてもこっちが謝りたくなってしまう…………それどころか心当たりもいくつかあるような。

「この間、あんまり待たせるとハードルが……みたいなこと言っちゃったから……」

「え?ああ…………まぁそれは待たせてる俺が悪いから由比ヶ浜がそう思ったとしても仕方ないだろ。そういう気持ちも

わからんでもないし」

「で、でも…………もしそれでヒッキーが重荷に感じちゃったんなら……その……」

あぁ……なんだろうこの気持ち。ちょっと気を遣いすぎだろう……由比ヶ浜。でもそういう態度を取らせているのは間違

いなく自分に原因がある。しかし、今の俺では彼女を安心させることはできない。もしそれができるとしても…………

276: 2013/08/20(火) 20:08:17.83 ID:2PQsvWzg0
「別にそんなこと思ってないから気にするな。それに……ええっと……前にも言っただろ、俺の他人に対する印象なんて

そう簡単に変わらないって。だから、そういうこと言っても俺が特別に何か思うことはない」

「そ……そっか。……そっか。……うん、わかった」

そんな俺の返答を由比ヶ浜は何か噛みしめるようにして頷いた。とりあえずはこれでよかったのか?納得した様子を見せ

た後、彼女はじゃあねと言ってまた手を振る。俺も手を振った後、自転車のハンドルを掴み、サドルに腰を下ろし、ペダ

ルに足をかけてこぎ出す。後ろに由比ヶ浜の視線を感じつつ、俺はペダルをこぐ速度を速める。


俺は……これからもずっと由比ヶ浜にこんな思いをさせ続けるんだろうか?仮に俺に何かしらの答えが出せたとして、

それで彼女を安心させられるようになるとはとてもじゃないが思えなかった。何故ならこの俺自身が不安を抱えたまま

だからだ。結局失ってしまうのなら、はじめから捨ててしまう…………その誘惑が今も頭を離れない。しかしこの時の

俺は、そんな考えですらぬるいというのを思い知らされることに、まだ気づいていなかった。

277: 2013/08/20(火) 20:11:36.60 ID:2PQsvWzg0
それからまた数日が過ぎ、あと二、三日で試験準備期間に迫ろうというのにまだ色々なことに答えを出せないまま、俺は

悶々とした思いを抱えつつ昼食のために教室を出た。今日は小春日和なので外で食べるのもそんなに苦にはならない筈だ。

ところで小春日和ってなんか人名みたいだな……あのNHKで季節の擬人化キャラが登場する昨今、そういうキャラが

いたとしてもおかしくないな。後でPixivで探してみるか……そんな益体もないことを頭の中でグルグルさせながら廊下

を歩いていると後ろから魔法陣、ではなく魔法少女でもなく…………戸塚彩加から声がかかった。

「八幡!」

振り返るといつものジャージ姿があった。後から追いかけてきたせいか、少し息が上がっている。

「……どうした?」

「ねぇ……今日の昼休み、時間ある?」

その小首をかしげて上目遣いでこっち見るの、やめてくんない?俺にとっては疑問形ではなく命令形みたいなものだよ

それは。……別の方法で同じようなやり口をする御仁もいらっしゃいますが。まぁ、それはともかく。

「あるけど?何か用か?」

「少し……運動してみる気、ない?」

「え?」

278: 2013/08/20(火) 20:14:33.67 ID:2PQsvWzg0
戸塚の話によると、今でも昼休みに時々テニスの練習をすることがあるそうなのだが、いつもペアを組んでいる部員が

休みということでこちらにお鉢が回ってきたらしい。特に断る理由もないし、何より戸塚のお願いということで、俺は

ホイホイついていってしまう。…………俺はゴキブリか何かか。自分をそんなものに喩えるなど卑屈もいいところだが

人に嫌われている割に生命力強いところなんて似てるかもね。何故かいつぞやの雪ノ下雪乃の言葉が頭に思い浮かぶ。


――――いつか比企谷くんのことを好きになってくれる昆虫が現れるわ。


た、蓼食う虫も好き好きっていうし…………とりあえず今このことを考えるのはやめとこう。しかしゴキブリホイホイと

いうのは後から考えるとあながち間違った話ではなかったのだ。…………戸塚彩加は意外と策士だったのだ。

そんなことには全く気づくこともなく廊下を歩いていき、外に出てテニスコートに向かいラケットを戸塚から借り、いつ

かの授業の時のようにラリーを始めたのはいいのだが…………


「ハァ……ハァ……」

なんか…………戸塚、上手くなってね?球速も速くなってるし、スイングする時の重さが違う。そりゃ授業でちょろっと

やった人間と部活を継続してやってる人間じゃ差が出るのは当たり前のことなんだが…………なんだろう…………戸塚が

遠いところにいってしまった気分だよ。体力的なダメージと精神的なダメージを両方受けて息の上がっている俺を見か

ねたのか、戸塚がこちらに駆け寄ってくる。良かった…………やっぱり戸塚は天使のままだった。彩加ちゃんマジ天使。

279: 2013/08/20(火) 20:17:21.24 ID:2PQsvWzg0
「八幡…………大丈夫?」

「大丈夫だ……問題、ない。…………続けようぜ」

俺が返し損ねたボールを取りにラインの外に走り、戻ってくると戸塚が横についてきた。……なんで汗かいているのに

こんないい匂いすんの?君は。

「は、八幡は制服のままだし……今日はこれくらいでいいよ。少し話したいこともあるし」

「そ……そうか…………わかった」

そ、そう言われれば仕方ない。べ、別にこれ以上やるのがキツいとかそんなんじゃないんだからね!……そういえば、

ここ数日は挨拶くらいはしてもあまり戸塚とも話していなかった気がする。まぁ、ちょうどいいのか。戸塚が校舎の方に

向かって歩き始めるので俺もその後ろをついていく。戻る間は特に会話らしい会話もなく二人で歩いているだけだった。


ところが、昇降口にさしかかる頃になって戸塚はこちらを振り返ってこう切り出した。

「八幡がいつもお昼食べてる場所、あるでしょ?……そこでちょっと待っててくれない?」

「え?ああ……わかった」

「じゃあ、待っててね!」

そう言って手を振ると、戸塚は先に校舎の中へとぱたぱたと走り去っていってしまった。しかし、わざわざあの場所で

話がしたいってことは…………他の人に聞かれてはマズいような内容なんだろうか?

280: 2013/08/20(火) 20:21:42.44 ID:2PQsvWzg0
それから戸塚の言われた通りに例の階段で座って外を眺めていると、不意に右頬に冷気が走る。

「ひっ!」

何が起こったのか、思わず振り返るとそこにはスポーツドリンクを手に持った戸塚彩加の姿があった。あぁ……そう

いえば、この子はこういうイタズラもするんでしたっけ。戸塚はニコニコしながら俺に話しかけてくる。

「冷たかった?」

「そりゃ冷たいにきまってるだろ……」

「これ、八幡にあげる。さっき付き合ってくれたお礼」

い、今、このお方何とおっしゃいましたか?つ、つ、付き合ってくれた?お、俺が戸塚と付き合う…………わ、悪くない

お話だが…………だが、男だ。戸塚彩加は。いやいや、そうじゃなくてテニスのことに決まってるでしょうが、文脈的に。

相手が相手なので思わず変なことが頭の中を高速回転してしまった…………ふぅ。

「そりゃどうも……」

俺がペットボトルを受け取ると、戸塚はもう一本持っていたのを持ち直して俺の横に腰掛ける。だから近いって。

しかし遠ざける理由もないのでそのままのポジションで黙っていると、戸塚はこちらを向いて思わぬことを訊く。

「は、八幡は……最近部活には行ってないの?」

「え?……まぁ……そうだな」

「やっぱりそっか…………」

281: 2013/08/20(火) 20:24:58.29 ID:2PQsvWzg0
俺の返答に戸塚は少し伏し目がちになった。”やっぱり”という単語に多少の引っ掛かりを覚える。俺が休んでいる間に

奉仕部に足でも運んだのだろうか?もし、そうなら悪いことをしてしまったな…………。そんなことを思っていたら

さらにキャッチしにくいボールが戸塚から飛んでくる。

「は、八幡は……その……由比ヶ浜さんのこと…………どう思ってるの?」

「え?」

さっきよりも顔をこちらに近づけて、目をじっと見られる。そ、そんな濡れた瞳で見られても困ります…………。

ただ黙ってやり過ごすわけにもいかず、無難な返答をどうにかして頭からひねり出す。

「ど、どうって言われてもな……俺とは部活が同じで……その……いい奴だとは思うが……」

「ふぅん………………わかった」

俺のその場しのぎもいいところな答えを聞いて、戸塚は正面に向き直り膝に手を置いた。そのままの体勢で彼はこう続ける。






「実は僕……八幡に相談があって……その…………僕は……由比ヶ浜さんに告白しようと思ってるんだ」

「…………はい?」

――――戸塚から飛んできたのはとんだデッドボールだった。

323: 2013/08/23(金) 23:51:30.50 ID:IgLqBEl80
返事をするのに気を取られて俺は手に持っていたペットボトルを落としてしまう。一度立ち上がり、中腰になって拾う

体勢になったところでようやく次の言葉が口から出た。首筋に冷や汗が流れるのを肌が感じ取る。こちらからは戸塚の

表情はうかがい知ることはできない。

「それは…………本気なのか?」

「……うん」

思わず振り返ると戸塚は真剣な表情でこちらの目を見てきた。俺はその視線に耐えきれず、目を逸らしてしまう。戸塚と

由比ヶ浜が付き合ったらどうなるのか、というイメージが自分の頭の中を高速で駆け巡る。由比ヶ浜は三浦の友人という

ことやその容姿、誰にも優しいことなどが影響してか、クラスでもトップカーストの存在だ。そして彼女はモテる。好き

になる男子がいくらいても全然不思議じゃない。ちょっとアホっぽいところもあるがそれすらも可愛さを引き立てている

ように見える。一方の戸塚は、男子なのに女の子のような可愛らしさでクラスの中ではマスコット的な扱いをされている。

だからカーストなどとは無縁の存在だ。そして彼もまた、とても優しい。モテる、というのとは少し違うがみんなから

好かれていることに変わりはない。そんな二人が付き合ったとしたら…………案外うまくいくのかもしれない。それに

おそらくこの二人のカップルの誕生を祝福できない人はいないだろう……それが本心かどうかは別にしても。



だが、俺はそんな由比ヶ浜の姿を見るのは――――――――――――――――嫌だ。

324: 2013/08/23(金) 23:53:42.02 ID:IgLqBEl80
この時の俺がどんな表情をしていたのか、自分には覚えがない。しかし、戸塚は俺の方を見て何か納得したのかふっと

息をついて少し下を向き、こちらから視線を外した。

「…………やっぱり、ね」

「や……やっぱり……というのは……?」

「もう…………まだ迷ってるの?八幡は。あんまりのんびりしてると、由比ヶ浜さん他の誰かに取られちゃうよ」

「ど…………どういう意味だ?」

本当に意味がわからない。さっきの告白話と相まって俺の頭はとっくに真っ白になっていてまともに思考できるような

状態じゃなかった。戸塚は由比ヶ浜への告白が本気であると言った。その後、何故か俺の顔色を見て由比ヶ浜が他の誰か

に取られてしまうと言った。

…………

何が何だかわからない。

…………

呆然としている俺を見かねたのか、戸塚は話を補足する。先ほどとは違い、あきれ混じりの笑みを浮かべながら。

325: 2013/08/23(金) 23:56:33.30 ID:IgLqBEl80
「八幡……僕は由比ヶ浜さんに告白するって言ったけど……何を告白するのかなんて一言も言ってないよ?」

「え?」

え?普通この状況で告白といったら「あなたのことが好きでした。付き合って下さい」とかそういうのじゃないの?

「それなのに八幡……僕が由比ヶ浜さんのことが好きだと思い込んであんなにショック受けて……わかりやす過ぎだよ」

「と、いうことは……別に戸塚は……由比ヶ浜のことが……好きってわけじゃない、のか?」

ようやく頭の回転が戻りつつあったので、体勢を戻して向き直り、俺は戸塚の隣に座り直すことにした。

「由比ヶ浜さんのことは好きだけど……でも、付き合いたいとか恋人にしたいって意味の好き、じゃないよ」

「そ、そうなのか…………」


安堵から俺は腕を下して脚の上に乗せ、前かがみになってはぁぁ~っと長いため息が出てしまう。ペットボトルを当てて

額を冷やしていると、だんだん頭の冴えも戻ってきた。戸塚が何をしたかったのか、その意味も今ならわかる。

「戸塚は…………俺に……迷いを断ち切らせるために……こんなことを?」

「……そんなところかな。最近の八幡と由比ヶ浜さん…………ちょっと見ていられなかったから」

「そ、そうか…………」

戸塚にそんなこと思われるほど様子がおかしかったのか?俺たちは。”たち”?……いや、そもそもおかしいと思われる

ほどここ数日は彼女とは関わってない…………関わってないから見破られたのか。恐るべし戸塚彩加の人間観察能力。

326: 2013/08/24(土) 00:00:17.72 ID:AqEbN6PG0
しかしまぁ…………何もこんなやり方しなくてもよかったんじゃないか?以前から多少思っていたことだが、戸塚って

若干Sの気があるような感じがする。SAICAだけに。……どこぞのICカードかよ。JRさん、いかがですか?

それにしても…………いつの頃からだろうか、俺が自惚れていたのは。どうして、由比ヶ浜が誰とも付き合わないなんて

思いこんでいたのだろう。よく考えたらまだ何の確証もないんだ。由比ヶ浜が俺に好意を抱いているかどうかなんて。

ましてや、俺と付き合ってくれるかどうかなんてことは。でも、もうそんなことは関係ないんだ。由比ヶ浜が俺のことを

どう思っているかなんて。ただ、ただ自分自身がそう思えるなら今はそれでいい。



俺は、由比ヶ浜結衣のことが――――――――――――――――好きだ。



「戸塚は……その…………いつから気づいていたんだ?俺が……」

俺が自分の気持ちを明確にできたところで、素朴に感じた疑問を尋ねてみることにした。

「う~ん…………ハッキリいつって言うのは別にないんだけど……でも修学旅行の時にはもう確信してたかな?」

「そうだったのか……」

……そう考えると、修学旅行後に俺が不可解に感じた戸塚の反応も納得がいく。俺が雪ノ下に告白した次の日に怪訝な

目で見られたのも、そういう意味だったのか。…………雪ノ下とも一度きちんと話をしないといけないな。


327: 2013/08/24(土) 00:03:33.71 ID:AqEbN6PG0
「なんか…………すまないな。戸塚にこんなことまでさせて……」

「八幡が気にすることじゃないよ。それに、友達の恋路を応援するのはそんなに変なことかな?」

「へ、変じゃない…………と……友達?」

あぁ……何言ってんだ、自分は。今まで散々勘違いしてきたから戸塚にさえそういうことを確認したくなる気持ちを

抑えられない。俺の発した疑問に、戸塚は目を逸らして下を向いてしまう。

「あ、あれ?…………僕は八幡のこと、友達だと思ってたんだけどな…………」

「ち、違わない!お、俺と戸塚は……と、友達だ……」

「ありがとう!八幡」

「お、おう……」


戸塚は再びこちらを向き、ぱぁっと目を輝かせてニコッと微笑んでくれた。――――守りたい、この笑顔。

な、なんで友達宣言されただけでし、心臓がバクバクいってるんでしょうか?い、イカんでしょ……落としてから上げる

とか…………この先が思いやられるな、こんな調子では。と、とりあえず落ち着くために飲み物でも飲もう。俺はペット

ボトルのキャップを開けてスポーツドリンクを喉に流し込む。さっきテニスをしたのと変な冷や汗を流したせいか、普段

より吸収力が早い気がする。しかしそんな俺の様子など露知らず、戸塚はさらに侵略してくるのだった。

328: 2013/08/24(土) 00:05:38.59 ID:AqEbN6PG0
「それで…………八幡はいつ由比ヶ浜さんに告白するの?」

「!ぶふっ……ごっ……げほごほっ……」

「はっ八幡!……だ、大丈夫?」

戸塚の不意打ちに俺はむせかえってしまう。ゼイゼイ言っていると大丈夫?と声をかけながら背中をさすってくれた。

そうしてくれるのはありがたいんだが…………ちょっと今日の戸塚はテニスといい攻め過ぎなんじゃないですかねぇ?

「ハァ……ハァ…………少しは……落ち着いたが……」

「それで…………いつするの?」

ここで「する」とハッキリと言えないところが自分の弱いところで、微妙にはぐらかしつつも戸塚の期待に沿えるような

ことを伝えることにする。


「じ、実は俺…………期末試験の後の土曜日に由比ヶ浜と二人で会おうかと思ってて…………」

「あっ!そうだったんだ…………それは……由比ヶ浜さんとはもう約束したの?」

「い、一応予定をあけとくようには言ってあるんだが……まだ約束とまでは……」

「じゃあ早く約束した方がいいよ!たぶん由比ヶ浜さんにとってもその方がいいと思うし」

「そ……そうか……」

329: 2013/08/24(土) 00:08:53.83 ID:AqEbN6PG0
もう俺は完全に戸塚の掌の上で遊ばれているような状態で、いつの間にか由比ヶ浜と会う約束をすることにされてしまっ

ていた。戸塚も俺の言葉を承諾と捉えたのか、満足した様子で自分の分のペットボトルのキャップを開けて飲み始める。

戸塚のその様子に、なにやら目がそちらの方に向かってしまう。かすかに開けられた唇、上下に動く喉……なんか妙に

艶めかしいんですけど。こちらの視線に気づいたのか、一度ペットボトルの口から離し、俺の方に向き直る。

「もしかしてまだ足りなかった?もしよかったら僕の分もあげるけど」

「え?いえいえ……とんでもない……そんな恐れ多い……自分の分もまだ残ってますし」

「なんで突然敬語?八幡は時々言葉遣いが面白いよね」

「そ、そうか?」

「うん」


そう言って戸塚はまたふふっと笑った。い、いやいや……ほんとに恐れ多いんだもの……戸塚が口をつけたペットボトル

に俺なんぞが……。もしそんなことする奴がいたら絶対に許さない。俺に許さない権利あるのかよ。独占欲強過ぎだろ。

俺にとっては特別な人間でも、相手から見たらそうでないことなんていくらでもある。そのことを忘れないようにしない

と行動に自制が効かなくなる。当然それは戸塚以外にも当てはまることなんだが…………さて、どうしたものかな。

告白、ねぇ…………もういい加減嫌だぞ、失敗するのは…………そういえば告白といえば。

330: 2013/08/24(土) 00:12:17.70 ID:AqEbN6PG0
「ところで戸塚…………お前が最初に言っていた由比ヶ浜に告白するっていうのは…………嘘ってことでいいのか?」

「う~ん…………まるっきり嘘かっていうとそうでもないんだけど」

「え?」

どどどどどういうこと?や……やっぱり戸塚は由比ヶ浜のことが好きってことなのか?それこそドドドドという擬音が

聞こえてきそうなところで戸塚がまた口を開く。


「由比ヶ浜さんは優しいからね…………僕も……気になったことがないわけじゃない。ただ…………割と早くに僕は

気づいちゃったから。僕が彼女を目で追っている時に、その本人の視線の先は……」

そう言ってこちらの目をじっと見つめられる。数秒間の沈黙の後、俺が耐えきれずに視線を外すと戸塚はふっと息をつく。

「そういうことだから…………早くしないと僕が告白しちゃうよ。八幡は由比ヶ浜さんが好きだってこと」

「戸塚大菩薩様、それだけは勘弁して下さい」

俺が手と手を合わせて拝むようにお願いすると、戸塚はあきれ顔でまたこちらを向く。


「じゃあ、八幡がさっき言ってた次のデートで告白することだね」

あれれ~?おかしいぞ~?俺はただ由比ヶ浜の予定を尋ねただけなのに、いつの間にか彼女に告白することになっている。

コナン君もビックリの誘導尋問。これは逃げられない。ヤバイ。今日の戸塚はヤバイ。YAIBAじゃなくて。


331: 2013/08/24(土) 00:15:15.72 ID:AqEbN6PG0

「う…………ぜ、善処します」

「そんなこと言って誤魔化してもダメだよ、八幡。…………はい」

戸塚はそう言って小指だけ伸ばした状態の手をこちらに向けてくる。

「ゆ、指きりしろってことか?」

「そうそう。ほら…………」

今度は自分の手が掴まれて戸塚の指の方へ持ってかれる。仕方ないので俺も小指だけをピンと伸ばす。すると、向こうの

白くて細い小指がこちらに向かってきて俺の小指と絡める。そして手でリズムを取りながら戸塚が例の呪文を唱えだす。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます。指切った!」

言い終わるとパッと指が離される。も、もう少しこうしていても…………ま、待て。や……約束させられちまったのか、

俺が由比ヶ浜に告白すると。ど、どうしよう…………。こちらの不安を察知したのか、戸塚がまた声をかける。


「そんなに心配しなくても、大丈夫だと思うけど……」

「あ……いや…………俺が由比ヶ浜に告白すること自体はそんなに問題にはならないと思うんだ。ただ、今回は言いっ

ぱなしというわけにはいかないし…………奉仕部にどうやって戻るのかもまだ決めていない……」

俺の答えを聞いて、戸塚はふむと顎に手をやる仕草をする。少しばかり思案すると、またこちらを向いて言う。

332: 2013/08/24(土) 00:18:16.95 ID:AqEbN6PG0
「雪ノ下さんか…………う~ん……でも、僕はどちらにしてもそんなに心配してないよ。八幡ならたぶん大丈夫」

「そ、そうなのか…………?」

戸塚にそう言われると、たとえ根拠がなくても信じたくなってしまう。しかし、それだけでフォローは終わらない。

「まぁ…………もしも、何か悪い結果になったとしたら…………僕のところへ来てよ。慰めてあげるから」

「と、戸塚…………」


微笑んでいる戸塚の顔を一瞬見た後、俺はまた下を向いてしまう。あぁ…………ヤバイ、なんかよくわからないものが

胸にこみ上がってきた。今の言葉は嘘でも欺瞞でもない。でもこれは間違いなく…………”優しさ”というものなのだろう。

戸塚もまた、残酷な真実を受け入れた人間の一人といってもよいのかもしれない。ただ、俺との表面上の関係性を維持

したいならわざわざこんなことをする必要はなかった筈だ。最悪、俺に嫌われるという可能性も否定できなかった。それ

でも、こうすることが俺のためになると戸塚は信じて行動したのだろう。そうであるのならば、やはり俺は俺で自分の

信ずる道を行くしかない。エゴではないか、という自問自答を常に忘れず自分と相手、双方のためになると信じられる

ことを俺はしたい。それがたとえ相手に嫌われるようなことであっても傷つけるようなことであっても…………。

しかし今は、とりあえず――――


「ありがとう…………戸塚」

「……どういたしまして。……といっても僕は八幡をけしかけただけなんだけどね」

333: 2013/08/24(土) 00:22:00.38 ID:AqEbN6PG0
「逃げ道があるとどこまでも逃げる癖があるもので…………今となってはむしろ塞いでくれた方がありがたい」

「そう?それならいいんだけど…………」

また戸塚はこちらの顔を覗き込んできた。いや、ホントですって…………今回ばかりはもうどうしようもない。何もしな

ければ他の人にも迷惑がかかってしまう。違う…………もうかけているのか…………。俺の問題で関係のない人間をこれ

以上巻き込めない。当事者同士で早く決着をつけないといけない。そうなると…………

「たぶん雪ノ下とも話をつけないといけないと思う。その結果によっても色々と状況は変わってくるだろうし」

「それもそうか……じゃあ先に雪ノ下さんとお話するんだね」


戸塚はニコニコしながらさらに追い込みをかける。さりげなく日時指定した由比ヶ浜より早くしろと言われてしまったぞ

…………頼む、誰か戸塚を止めてくれ。動画は止まらなくてもいいから。

「ま、まぁ……そうなるな…………」

俺が戸塚の笑顔の威力に勝てるはずもなく、雪ノ下と先に話をすることになってしまった。この追及の仕方は若干私怨が

入ってませんかねぇ?…………戸塚に限ってそんなことはないと信じたい。いや、もう既に追いつめられてるからどう

でもいいことか、そんなことは。俺の反応が何か不満だったのか、戸塚は少し眉を尖らせながらこちらを咎める。

334: 2013/08/24(土) 00:36:22.14 ID:AqEbN6PG0
「さっき八幡が言ったんだよ?逃げ道を塞いでくれた方がありがたいって」

「そ、そういえばそうでした…………」

いかん……今の俺は迂闊なことは言えない。戸塚大菩薩様のこれ以上の追及を避けるためには現状で必要なことを潔く

諦めて俺の口から話すしかない。

「お……俺は……雪ノ下と話をつけて…………それから由比ヶ浜と会って告白する…………そういうことでいいのか?」

「うん、今のところはそうなるね」

戸塚の笑顔と頷きをいただけたので、当面のところはこれで良しということになったようだ。俺は安堵と疲労でため息を

ついてしまう。そんな様子をやれやれといった顔で見ていた戸塚はおもむろに立ち上がってこちらを向き、再び口を開く。

「早めに雪ノ下さんに会って…………それから由比ヶ浜さんには約束するんだよ」

「はい……」

「じゃあ…………八幡が奉仕部に戻った時は…………また僕に教えてね」

「…………戻れたら、な」

335: 2013/08/24(土) 00:54:38.07 ID:AqEbN6PG0
俺の相変わらずなネガティブな反応に、戸塚はまたポジティブな答えを返す。

「きっと戻れるよ。僕は由比ヶ浜さんと雪ノ下さん…………それに何よりも八幡を信じているから」

「そ、そうか…………」

俺ほど信用のできない人間もいないと思うのだが…………しかし俺が戸塚を信用している以上、その言葉を否定する

ことはできなかった。戸塚の信じる俺を信じろってことか…………。

「うん。じゃあ…………僕はそろそろ戻るよ。頑張ってね…………八幡」

「お、おう……」

戸塚は手を振って校舎の中に戻っていった。俺はペットボトルに残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干す。その味

はさっき過ごした時間と同様、妙に濃く感じられたのだった。



まずは一度、奉仕部ではなく奉仕部の部室に戻らないといけないのだろうな…………雪ノ下雪乃と話をつけるためにも。

350: 2013/08/27(火) 01:02:35.18 ID:pCUidH1j0
俺が由比ヶ浜に告白するのを決心……いや、戸塚に決心させられた翌日の昼休み、俺は雪ノ下の居場所を探すべく廊下を

歩いていた。普段は由比ヶ浜とお昼を一緒に食べているはずだから、奉仕部の部室にいるはずだ。放課後に行けば部活に

参加させられることになってしまうだろうし、他の休み時間にJ組の教室に行くのもなんだか気が引けた。俺と雪ノ下の

噂が葉山によって解消されたとはいっても、わざわざ危ない橋を渡ることもあるまい。由比ヶ浜を使って雪ノ下を呼び出

すというのも何かやり方が間違っている気がしたのでやめておいた。何より、このタイミングでメールや電話などしたら

間違いなく俺との約束の話に触れられてしまうだろうし…………。


そういうわけで奉仕部の部室に着いたのはいいのだが、ノックをしても返事がない。部屋の電気は点いているから、誰か

いると思ったのに。しかし雪ノ下はすぐ返事をしないときがあるんだったな。まぁ、とりあえず開けてみるか。ガラッと

という音とともに扉を開けるが、部屋の中には誰もいなかった。窓の脇の机に雪ノ下の手提げがあるということは、ここ

で食べる予定はあるということか。ここで待っていれば確実に彼女は来る。しかし俺はここでお昼を食べる予定はなかっ

たので、自分の分は教室に置いてきたままだ。もしもずっとこのままここに来なかったとしたら…………というよりは、

まだ俺の心の中で雪ノ下と会うことに準備ができていなかったせいもあるんだろうが…………俺はまたF組の教室に戻る

ことにした。


特別棟からの渡り廊下を歩いていると、褐色のコート姿が目に入る。思わず方向転換するが、もう遅い。俺の姿を見るや

いなや指ぬきグローブをした右手の人差し指をこちらにビシッと向けられる。

351: 2013/08/27(火) 01:05:07.36 ID:pCUidH1j0
「ぬぬっ、もしやそこにいるのは…………八幡!?」

「材木座……」

俺は錆びたナットを回すようにぎこちなく首をそちらに向ける。そうしている間にこちらとの距離をどんどん詰めてくる。

「ふむん、最近メールをしても全く音沙汰ないのでな。奉仕部の部室に行っても八幡は暫く来ないとの訓示を賜るし」

「訓示って……お前将軍のはずだろ。その上って帝か何かかよ」

「主も彼奴を氷の女王などと呼んでいるではないか、似たようなものではなかろう?」

「まぁ…………そうかもな。というか急にぞんざいな人称に……」

話しながらとうとう目の前にまでこられたので、また視線を逸らす。あんまりこっちジロジロ見んな。ひとしきり俺の

挙動を見て満足したのか、スチャッと眼鏡の鼻の部分を持ってかけ直した。いや、お前がやっても絵にならんって。

「どうやら異常は認められぬ。それならば、何故…………」

「手短に言え。俺は用がある、もういくぞ」

「ちょ、おま、待ってください八幡大菩薩様~」

材木座は、歩き出そうとする俺の制服の裾を引っ張って止める。うわぁ、こんなこと男子相手にやられても全然嬉しく

ねえ……。そういや葉山にも袖を引っ張られたっけ……。俺、もしかしてモテるのかな?男子に。戸塚以外はお断りだ。

352: 2013/08/27(火) 01:08:08.41 ID:pCUidH1j0
「で、なんなんだよ材木座……」

「は、八幡が悪いんだぞ!部活にも来ずメールを無視するから!おかげで部室に行ってあの帝に話さなきゃいけなくなる

わ、何故か我の姿を見られてガッカリされるわ、」

またこっちを指さし材木座は高速でまくし立てる。唾が飛ぶからやめろ。

「あ~……悪かったよ。それで、早く本題を言えって」

「ふむん…………とうとう完成したのだよ。我の最終奥儀が」

「いや、こんなところでそんなことを言われても困るんだが…………」


残念ながら今の俺に材木座の戯言に構っている余裕は正直あまりなかった。やることがほんの一部決まっただけでまだ

考えなきゃならんことが色々あるし、期末試験の暗記もしなきゃならんし……。面倒そうな顔を見て察したのか材木座

は持っていたタブレット端末を俺に渡してくる。

「いいからこれを見よ。我の新作のプロットであるぞ」

「あぁ…………前メールであった恋愛がどうとか言ってた奴か」

「左様」

「まぁとりあえず見てみるか……」

353: 2013/08/27(火) 01:11:46.71 ID:pCUidH1j0
タブレット端末のパネルを撫で付けるようにスクロールさせていくとだいたいこんな内容であった。

『マイコミライカ』

時間移動を伴う恋愛もの イマ・カコ・ミライのアナグラム My 小未来力という意味も持たせる
狭間 瞬……主人公
後先 巡……ヒロイン

高校生の主人公はヒロインに一度告白するが、玉砕
ヒロインが事故に遭い、昏睡状態に

失意の主人公の元に二人の天使が現れる 一人は未来への時間移動、もう一人は過去への時間移動が可能で
ヒロインを救って欲しいと頼まれる ただし、移動する時間ぶんだけ対価として自分の寿命を渡さないと
いけない その過程で主人公は二人の天使に恋をする

時間移動を繰り返してヒロインの運命を変えようともがく主人公。しかし、事故に遭ったという事象を変える
と次々に出来事が変化して収拾がつかなくなることが判明。ヒロイン一人を救えばいいという問題ではないと
気づく

失敗を繰り返していくうちに、今のこの運命を受け入れるしかないと悟る。自分の力でヒロインを目覚めさせ
ることを決意し、二人の天使に別れを告げる
その数年後、ヒロインが覚醒する

ヒロインが元気になっても二人の天使のことが気にかかっていた主人公。しかし、ある時ヒロインに二人の
面影がある事に気づく。あの天使は自分を救うために生まれてきたヒロインの人格の一部であるということに
そして、ヒロインが覚醒するまでの時間が今まで自分が削ってきた寿命であることに

そして、もう一度ヒロインに告白することを決意するところで物語は終わる

354: 2013/08/27(火) 01:14:31.47 ID:pCUidH1j0
「……」

俺の無言の反応に、材木座は目を輝かせながらこちらを見てくる。いや……何を期待しているんだ、こいつは。プロット

というものは物語の枠組みを記すものだから別に間違ってはいないのだが、これでは…………。

「この話……主人公はヒロインのどこが好きになったんだ?」

「……ほぁ?」

先ほどの瞳の輝きはどこへやら、材木座の目は急速に泳ぎ始めた。その眼球の動きの速さならバルキリーのパイロットに

でもなれそうだな。そういや材木座の声ってロボのパイロットでありそうだな。いや、ないか。

「み……見た目……とか?」

「あぁ…………一目惚れって線もあるか……それならそう書いてもらわんと。というかこれ、一応恋愛メインのつもり

なんだろ?ヒロインと仲良くなる過程とかどうすんだよ」

痛いところを突いてしまったのか、材木座は下を向いてしまう。そして腕を下して人差し指をつき合わし始めた。いや、

その仕草はお前がやってもムカつくだけだから。

「ど、どうやって仲良くなるのかわからないし…………」

「……」

355: 2013/08/27(火) 01:17:13.71 ID:pCUidH1j0
なるほど、そうきたか……。確かにそう言われてしまうと俺としても何を答えたらいいのかよくわからんな。それは何も

恋愛に限ったことではなく友人関係についてもそうだ。少なくとも現実世界の記憶ではサンプルが少なすぎる……今の俺

の状況も偶然に偶然が積み重なってできたようなもんだし……。そもそも自分で言っておいてなんだが、どういう状態を

“仲が良い”というんだ?もう少し別の概念に置き換えないと無理だな……。

「八幡よ」

「……」

「八幡よ!」

「おおぅ!急に大声出すなよ!ビックリするだろうが」

「主が返事をせんのが悪いのである。この質問…………八幡にも酷なことを訊いてしまって真に済まなかった」

「今考えてんだよ……」

いや、そんな改まってお辞儀とかすんな。慇懃無礼って言葉を知らんのか。このまま黙っているのも癪なのでどうにか頭

を回転させて置き換え作業を進める。逆に仲が悪いという場合は、お互いに嫌いあっているということになる。仲が良い

なら好き同士…………結局どうやって好きになるかって話に戻っちまうな。人に好かれる方法……そんなもの俺が一番

知りたいところだが、今必要なのは一般論だ。……相手の喜ぶことをする、とかか?どういうことをされたら嬉しい?

356: 2013/08/27(火) 01:20:59.40 ID:pCUidH1j0
登場人物のキャラが設定されていないから、あまり具体的な話にはできないな。…………やっぱり自分に置き換えない

と実感に欠けるか?俺がずっと一人だったのは打算的にいえばメリットがなかったからだ。俺が人を好きになった時、

というのはどういう場合だ?一緒にいてくれたりとか、話かけてくれたりとか、困っていたら助けてくれたり、とかか?

結局それはどういうことなんだ?それは…………自分にはできないことだ。だから必要なんだ…………その相手が。

「基本的には助け合いで…………いいんじゃないか?特に自分のできないことについて」

「ほぅ……」


俺の回答はごく単純なものだったが、材木座はふむと頷いてくれた。とりあえず納得してもらえたのだろうか?

「やはり我の見立てに狂いはなかったようだな、一人で考えることには限界がつきもの」

材木座はそう言って腕を組んで胸を張る。なんでお前がドヤ顔してんだよ、答え考えたの俺だろうが。

「まぁ納得したんならそれでいいんだが……高校生って設定なら学校の行事とか色々使えそうだし。それで……仲良く

なった後の描写の方は?」

「……は……恥ずかしい……」

「は?」

357: 2013/08/27(火) 01:23:37.66 ID:pCUidH1j0
何故そこで顔を赤らめて目を逸らすんだよ…………。

「そ……その…………我も小説のキャラがイチャイチャするのを妄想しないこともないのだが……結局それは我の頭で

考えたことになるわけで……」

おいおいおいおい、今さら何言ってんだよこいつは…………。そもそも小説なんてものは自分の頭の中を晒してるような

ものだろうに。だいたい何故恋愛描写に限って…………俺は追い打ちなのか慰めなのかよくわからないことを口に出す。

「今までも散々痛々しい妄想晒してんだから、今さら恥ずかしがったってもはや関係ないだろう……お前の場合。それ

に恋愛の妄想が恥ずかしいっていうならリアルでそれやってる奴らはどうなるんだ?」

「た、確かに…………リアルでキャッキャウフフしてる連中などこっちが目を逸らしてしまう、嫉妬と憤怒で」

「いや、そこまでは言ってないんだが…………だいたい俺に見せたところで他に広まりようがないんだから安心しろ。

こんなこと話すような友達もほぼゼロだしな」

“ほぼ”と言ったのはもちろん戸塚が除かれているためです。それに、友達になりたい奴がいないこともないですし。

「そうか…………うむ、そうだな!では主の教えに従って存分に筆を躍らせることに致しやしょう」

「お、おう…………まぁ……プロット自体は俺も嫌いではないしな」

358: 2013/08/27(火) 01:29:28.95 ID:pCUidH1j0
まぁ、正直なところ設定自体はどこかで見たようなものの寄せ集めだが、諦めたからこそ見える希望があるという展開は

悪くない。諦めないというのは同じ方法に固執し続けるという見方もできるしな。それに基本的に時間移動なんてチート

なんだからそう簡単に使われても困る。対価が自分の寿命というのはまぁ妥当なところか。いや…………そもそも、そう

いうものなんだ…………誰かと一緒にいることは、その分だけ自分の寿命を削っていることと同じなんだ。だからこそ、

ぞんざいに扱うことは許されない。ましてや自分が大切に想う相手に対しては、なおさらそのありがたみを忘れてはいけ

ない。それを忘れてしまうと、ただ空間を共有しているだけの関係になってしまう。いつの間にか、それ自体が目的と

なってしまい一緒にいても幸福と思えなくなる。そして、失ってしまう…………。失った過去は、変えられない。勿論、

遠い先の未来も同じこと。結局変えられるのは、過去でも未来でもなく今だけだったってことか。――――そうか。






あぁ…………まったく癪に障る話だ。なんでこうこいつといる時に限ってロクでもないことを俺は思いつくんだろうか。

376: 2013/08/29(木) 21:23:23.47 ID:nll560B/0
点と点とが一本の線につながるような――――パズルの最後のピースがはまるような――――頭に電撃が走るような、

そんな感覚。たまにあるんだよな、こういうの。これだから考え事をするのはやめられないんだ。ああ、もうダメだ、

自分のこの衝動は抑え切れない。自然と笑みがこぼれる。

「クククク…………」

「は、八幡……?」

そっぽを向いて端末を持ったまま肩を震わせている俺を不審に思った材木座が小声で様子をうかがう。いかんいかん、

このまま自分を客観視できなかったらどこぞのマッドサイエンティストのような高笑いをするところだった。とりあえず

心を落ち着けるために俺は一度深く息を吐く。そうしてから、材木座の方に向き直る。


「悪いが材木座…………俺はお前を裏切ることになるかもしれん」

「……ふぁい?」

材木座はぽかんとして気の抜けた声を出した。まぁ、その反応はわからんでもないけどさ。

「試験が近いからすぐに、というのは無理だろうが…………その小説、さっさと書きあげたほうがいいぞ」

「ぬぬっ!?まさかおぬし、我のこの最終奥儀を窃取せんことを試みようとしているのか!?」

材木座はそう言ってタブレット端末をズビシッと指さす。いや、小説とか書く気ないから安心しろ。俺は手に持っていた

端末を材木座につき返した。



377: 2013/08/29(木) 21:27:05.58 ID:nll560B/0
「そういうことじゃなくてだな…………早くしないと……その……お前の妄想じゃなくて俺の……リアルな……あ~と

イチャイチャ話を聞くハメになるという可能性が、ないとも言い切れないというか……」

喋っているうちに妙に恥ずかしくなってしまったせいか、俺はつい頬を指で掻く。というか何を言っちゃてんの?自分は。

まだ思いついた策がうまくいくともわからんのに。だいたい自分で退路断ってどうすんだっつうの。そんなことを思った

が材木座は微動だにしない。あ~…………これはキレられるか泣かれるかどちらかの流れかな?そう思って身構えると、

左腕をこちらに伸ばしてきて俺の肩がポンと叩かれる。


「それはつまり…………主が奉仕部に再び戻る、という解釈で構わないのかね?」

「あ……まぁ……うまくいけば、の話だがな」

俺がそう答えると、材木座はニヤリと笑って腕を戻し、サムズアップをしたかと思ったら次は親指を下に向けてきた。

おい、どっちに解釈すりゃいいんだ?そのジェスチャーは。

「我としても主が部に戻ってもらわぬと困るのでな。正直なところ一人であの者どもを相手にするのは荷が重すぎる」

「お前はどっちかっていうと相手してもらってる立場だろうが…………だいたい俺にとったって軽いものじゃない」

378: 2013/08/29(木) 21:31:25.69 ID:nll560B/0
これは材木座の言った”重い”の意味とはまた違うものだ。意図するかどうかに関わらず、自分にとってそういう存在は

つくらないようにしてきたつもりだったが、もうとっくにそんなことは言えない程度には手遅れだ。手遅れなら手遅れ

なりの処置を施すしかないのだろう。

「ともあれ八幡が奉仕部に戻るというなら、それは目出度いことである。ただし、この小説は我一人の独力で書きあげる

ことにしよう。主の惚気話なんぞ聞いたらこっちが氏んでしまうわ。フゥーッハッハッハッハッハ!」

…………何故そこで笑いだすのかよくわからん。というか一人の独力って意味かぶってんだろ。漢字が違うのかしら。


「まぁ……なんだ、さっきは俺も血迷ってあんなことを言ってしまったが、よく考えたら材木座にそういう話をするとも

思えないしな。え~と…………小説、また完成した頃に見せに来いよ。その時にはもう試験も終わってるだろうし」

「確かに。今はいかにも試験に注力すべき時期。我としてもまた別の意味で八幡大菩薩のお導きが必要と存じておる」

「いやいや、ちょっと今それどころじゃないんで…………」

本当にそれどころじゃないから困る。たった今、全体の方針が決まったのはいいが、それならそれで細かい予定を立てる

必要があるからな。まぁ結果的に材木座は知恵を貸してくれたようなものなのでありがたい話ではあるんだが。

「試験終わってしばらく経つまでは色々と余裕がない。だから、また今度、な」

379: 2013/08/29(木) 21:35:36.62 ID:nll560B/0
「むぅ…………まぁ仕方あるまい。そもそも主が部活に来ていないこと自体が異常であるとも言えなくもない」

あぁ…………もはや材木座にもそういう風に見られるようになってしまったのか、俺と奉仕部の関係というものが。これ

も自分ではどうにもできない問題だ。どうにもできないことをいくら考えても仕方ない。今は早く考えなければいけない

ことがあるのでこちらから話を切る。

「それはともかく…………俺も用事があるからそろそろ退散するわ。ま、なんだかんだ言ってお前のそのロクでもない

小説やら下卑た策やらでも結構役に立ってたりするもんだ。そこは感謝しておく。……じゃあな」

「ほぅ…………」


何か感心した様子の材木座を尻目に俺は振り返り、もともと進もうとしていた方向に足を踏み出す。ある程度急いでいる

のを察したのか、それ以上声をかけてくることはなかった。俺はそのまま歩いて教室に戻り、パンと飲み物を手に持って

改めて奉仕部の部室に向かうことにした。さっき材木座と話していた渡り廊下にまで辿りつくと、なんとなく窓の外を

見たくなってその歩みを一度止める。ここからだと校舎以外に特に見えるものがあるわけではない。空模様はいかにも

初冬という感じの薄い青空だ。ただ、いつもとは違う場所に飛行機雲が何本か浮かんでいる。風向きが変わったせいか?

そういえば、飛行機が離着陸する時は順風より逆風の方が良いんだっけ?そんなことを思い出す。自分がこれからやろう

としていることも似たようなものなのかな。飛ぶためにわざと逆風を吹かせる。はたしてその風に耐えてくれるのだろう

か、自分と彼女は――――――――。

380: 2013/08/29(木) 21:38:24.46 ID:nll560B/0
さっきまであんな大口を叩いていたのに、急に不安になってくる自分がいるのに気づく。それを振り払うようにして、俺

はまた歩き出す。でも、その足は何故かいつも昼食を食べる場所に向かっていた。雪ノ下雪乃に会うのが億劫になった

から?いや、違う。むしろ――――――――。



「由比ヶ浜さんの言う通りだったわね。あなた、こんな寒いところでお昼を食べるなんて物好きもいいところだわ」



例の階段に着くと、そこには先客がいた。長い黒髪が風でさらさらと揺れている。俺がいつも座っている場所に何故か

雪ノ下雪乃の姿があった。俺の姿を見て開口一番にそう言うと、立ち上がってこちらに近づいてくる。

「こんなことをしていてまた部員が体調を崩されても困るから…………これからは部室に来なさい。どうせあなたのこと

なんだから、自分の教室にも居場所はないのでしょう?」

「居場所がないのはいまさら否定する気もないが…………俺はまだ奉仕部に戻ることは……」

俺のやんわりとした拒否に対して、雪ノ下はやれやれとも言いたげな顔でこう続ける。

「勘違いしてもらっては困るわ。私はただ、昼食を部室で食べてもいい、と言っただけよ」

「いや、今”来なさい”って……」

「あなたの場合、来いと言わなければ来ないでしょう?」

「そ……そうでしたね…………」



381: 2013/08/29(木) 21:41:27.00 ID:nll560B/0
予想以上に自分の思考が読まれていることに戦慄を覚えつつ、先にすたすたと歩き出した雪ノ下の後ろを俺がついていく。

時間が惜しいと思っているせいか、彼女の足取りは速い。時計を見るともう昼休みの時間の半分近くが過ぎていた。あれ?

そもそも雪ノ下はなんであんなところにいたんだ?まさか……

「もしかして、お前俺のこと探していたのか?もしそうなら…………悪かったな、手間取らせて」

「私が勝手にやっていることだから…………あなたが謝る必要はないわ」

雪ノ下はそう答えてから、いったんその歩みを止める。そして、長い髪をたなびかせながらこちらに向き直る。真っ直ぐ

自分の方に目を向けられたので、思わず視線を外してしまう。美人は三日で飽きる、という諺があるがあれは絶対嘘だな。

全然慣れたりするもんじゃない。まぁ雪ノ下の場合、眼光鋭いから別の意味で慣れないというのもあるのかもしらんが。

「比企谷くん」

「は、はい……」

名前を呼ばれたのでとりあえず返事をすると、今度は向こうが目を逸らす。雪ノ下は右手を軽く握り、胸の前にあてて

ふっと息をつくとまたその瞳がこちらに焦点を合わせる。この雰囲気……どこかで…………。

「比企谷くん。その…………期末試験の最終日の午後、あいているかしら」

「えっ?あぁ……まぁ……あいているといえばあいているが」

382: 2013/08/29(木) 21:44:30.97 ID:nll560B/0
その日は試験だけで学校は午前だけで終わるから、午後に何か特定の予定があるわけではない。しかし、由比ヶ浜との

約束の日が迫っているから色々と準備しないといけないだろうし…………いや、待てよ?

「あいているのなら…………あけておいて頂戴。私、あなたと話さなければならないことがあるから」

「なるほど、そういうことか。俺も……実はそう思ってて……さっきすれ違いになったのはお前を探してて…………」

俺の言葉が意外だったのか、雪ノ下の目がさっきより見開かれる。そして何故かその口元が少し緩んだように見えた。

「……そうだったのね。それならちょうどいいし、よろしく頼むわ」

「お、おう……」

「それと…………これを」


雪ノ下は制服の胸ポケットから何かを取り出し、俺の両手がふさがっているのを見るやいなやこちらに向かってその腕を

伸ばしてくる。思わず一歩後ずさりするが、そんな挙動は無視して強引にこっちの制服の胸ポケットにそのものを入れて

しまった。

「え?あ、ちょっと……なんだよ、いきなり……」

俺が雪ノ下の行動に困惑していると、彼女はこちらを一瞬見た後ほんのりと頬を染めてぽそっとつぶやく。

「…………連絡先」

「え?」

383: 2013/08/29(木) 21:49:09.55 ID:nll560B/0
「今渡したメモに……私の携帯の番号と……アドレスが書いてあるから…………もし何かあれば、そこに……」

「あぁ……そういう…………わかった」

それはわかったが…………何もこんな渡し方しなくても。なんか髪が触れそうになったし、いい匂いがしたし、無駄に

胸がドキドキしてしまった。そして、今俺の制服の胸ポケットには…………いや、深く考えるようなことでもない。

そんなことより、訊かなきゃいけないことがあるだろうが。

「ところで、お……俺のは…………教えなくてもいいのか?」

「その必要はないわ」

……ですよねー。また自分の自意識過剰ぶりが炸裂してしまった。まぁ、必要になる場面が出てくるとも思えないし緊急

の用事なら他の人を経由させれば済む話だしね。しかし、次に彼女の口から出た言葉は意外なものだった。

「わ、私は……あなたのは……もう……知っているから……」

「え?」


ど、ど、どういうこと?おっかしいなー。俺が雪ノ下に自分の連絡先を教えたことはなかったはずなんだが。さっきの

他の人を経由、という考えから俺はひとつの仮説が思い浮かぶ。

「ま、まさか…………ひょっとして小町の奴が……」

「こ、小町さんにも悪気があったわけではないと思うわ。わ……私としてもそれをあえてあなたに言う必要が今まで

なかったから…………」

384: 2013/08/29(木) 21:51:28.56 ID:nll560B/0
珍しく雪ノ下の声がどんどん小さくなっていった。いや、まぁ確かにそれをわざわざ俺に言う必要はないよな。それは、

嘘をつくとかそういう次元の話ではない。俺が黙っているとこちらをチラチラ見られるのでさっさと言葉を返す。

「別に俺がそれを知らないからどうって話でもないしな。小町も同じ部活の人間ってことで渡しただけで、そんなに深い

意味はないだろうし気にすることもない」

「そ、そう…………」

雪ノ下は何か安堵した様子でふっと息をつく。とりあえずこの話はそれでいいだろう。

「まぁそれはそれとして…………早いとこ飯行こうぜ。ここで話していると時間がなくなっちまう」

「え、ええ……そうね」


今度は先に俺が歩き出し、その後を雪ノ下がついてくる形となった。歩いている途中で、また後ろから声がかかる。

「歩きながらでいいから…………聞いてほしいことがあるのだけど」

「なんだ?」

「試験が終わった後の週末に…………あなたは由比ヶ浜さんと会う予定なのでしょう?」

「……俺はそのつもりだ」

雪ノ下の言葉に、歩くテンポが少し遅れる。……彼女がそれを知っていたとしても別におかしくはないのに。

385: 2013/08/29(木) 21:54:26.15 ID:nll560B/0
「だからなのよ…………私が試験終了日を指定したのは。おそらくその方があなたにとっても都合が良いと思って」

「……そういうことか。……まぁ……そう、だな」

確かに元々俺は雪ノ下と二人で話をしてから由比ヶ浜に会うつもりでいた。しかし、いざそれが確定事項のようになって

しまうとそれはそれで不安に感じなくもない。だが、それもまた今に始まった問題ではなく俺のような人間が不安を解消

するのならば、それを現実のものとするほか方法はないのだろう。俺はそんなことを考えつつ、歩き続ける。先ほどの俺

の返答の後は、雪ノ下が話しかけてくるようなことも特になかった。


「比企谷くん」

特別棟の階段を上りきったところで、再び後ろから声がかかったので振り返る。先ほどとは違い、雪ノ下の表情はどこか

物憂げに見えた。その様子は、いつか雪ノ下のマンションに行った時のことを俺に思い出させた。何故だか妙に胸がざわ

つく気がする。彼女は普段は強気だから、こういうのもギャップ萌えとでもいうのだろうか?庇護欲をそそるというか。

「……比企谷くん?」

「あ、はい……なんでしょうか」

俺が黙ったままだったせいで雪ノ下の目つきは怪訝なものに入れ替わる。

「試験が終わる日のことについて言っておきたいことが…………」

「予定ならあけとくからそんなに心配しなくてもいいと思うぞ」

386: 2013/08/29(木) 22:10:55.37 ID:nll560B/0
「そういうことではなくて…………その……私と話をする時に……叶えられるかどうかはわからないけれど、できるだけ

あなたの希望していることを言ってほしい」

話している間に雪ノ下は下の方を向いてしまった。い、今さりげなく凄いことを言われたような気がするぞ。まるでそれ

だと俺が何かお願いしたらそれを雪ノ下が聞いてくれるみたいじゃないか。いやいやいやいや、あまり自分の良いように

解釈するもんじゃない。

「ええっと、それはつまり…………俺にあまり遠慮するなってことで……いいのか?」

「そ……そういう解釈でも構わないわ」

相変わらず雪ノ下はうつむき加減のままだ。俺はこの空気をなんとかしたかったので、それにふさわしいと思われる言葉

を彼女にかける。それは俺が希望していることでもあるのだし。

「まぁ……その…………雪ノ下の方も何か言いたいことあったら……遠慮しなくていいからな」

「そ……そうね」

387: 2013/08/29(木) 22:18:28.08 ID:nll560B/0
俺の言葉に雪ノ下は顔を上げてくれた。ただ、その表情は少し驚いているように見える。あれ?そういえば、いつから俺

は雪ノ下が自分に対して遠慮なんてするようになったと思うように…………?俺の疑問を感じ取ったのかはわからないが、

雪ノ下は部室の扉の方に歩いていく。

「中で由比ヶ浜さんを待たせているから…………」

「そ、そうだな……」

俺は彼女の後ろについていく。雪ノ下は扉の前に立ち、ノックをした。すると、中から由比ヶ浜の声が聞こえてきた。

「どうぞ~」

そして、奉仕部の扉が開かれる。まぁ…………まだ部活に戻れたわけじゃないが、冬場の昼食場所を新たに確保できたと

いうことで今はよしとするしかないのだろう。

396: 2013/09/02(月) 21:00:12.55 ID:KhUE3YQs0
雪ノ下が扉を開けると、そこにはもう既に机の上に弁当を広げていた由比ヶ浜結衣の姿があった。雪ノ下と俺の姿に

気づいてパッと表情が明るくなったように見えた。

「ゆきのん、ヒッキーやっはろー!…………あんまり遅いから一度電話しようかと思ったし」

「ごめんなさいね、由比ヶ浜さん。この男が何故かいつもの場所にいなくて探すのに手間取ってしまったのよ」

雪ノ下は部屋に入るやいなやそう言って由比ヶ浜に謝る…………のはいいんだが、何?これ俺が悪いの?

「わ、悪かったな…………俺も雪ノ下を探してたのと、途中で材木座に捕まっててだな……」

「……そういうわけだから、別に比企谷くんが悪いわけではないのよ」

「そ、そうなんだ…………ならしょうがないね」

由比ヶ浜は今の雪ノ下の言葉を聞いて、なんだか妙に嬉しそうな顔をする。なんでだよ。というか、雪ノ下は俺を責め

たいのか庇いたいのかハッキリしろよ。……どう反応していいかわからなくなるだろ。当惑しているのを見て、由比ヶ浜

は俺と雪ノ下を促す。

「ま、まぁ……それはともかく、二人とも早く食べちゃおう!今日はあんまり時間ないし」

「そうね」

「そうだな」

397: 2013/09/02(月) 21:01:24.90 ID:KhUE3YQs0
俺と雪ノ下は返事をして、各自いつも座っている席に着く。別にそう長い期間離れていたわけでもないのに、妙に懐か

しい感じがしてしまう。俺が感傷に耽っているのを横で見ていた由比ヶ浜がこちらを覗き込んでくる。

「ねぇ、ヒッキー…………もしかして泣いてるの?」

「ハァ?バッカお前、俺がこんなところで泣くわけないだろう?……もし泣くとしてももっと先の話だ」

「え?それって……」

俺の含みを持たせた返答に、由比ヶ浜の眉が歪む。雪ノ下まで怪訝そうにこちらを見てきた。ここでこれ以上追及されて

も困るので、状況の説明に終始して逃れようと思う。

「え~と、だな……今の俺はただ部室に戻ってきただけだ……それ以上でもそれ以下でもない。でも、俺はこれから先に

いくつか行動を起こすことを決めてしまった。だから……」

「私はこの男がこれから先、どの場面で泣くことになるかなんて興味ないわ。それよりさっさと食べましょう」

助け舟?なのかどうかはよくわからないが、雪ノ下は俺の話を途中で遮ってしまった。まぁ、そうしてくれた方が自分と

してもありがたい。食べる体勢に入らせるために、俺は机の上に置いたパンと飲み物を前にして手を合わせる。

「いただきます」

「え……あ、いただきます」

「……いただきます」

398: 2013/09/02(月) 21:02:33.20 ID:KhUE3YQs0
由比ヶ浜はまださっき言っていたことが気になっていたようだが、俺の挨拶で諦めたのか自らも食べる体勢に入った。

雪ノ下はいつものすまし顔といった感じだ。この”いつも”もなんだか久しぶりだな。食べているところじゃなかったら

頬が緩むのを誤魔化しきれなかったぜ。

別に特にこれといって何かがあるわけではない。むしろ何もなかったという方が正しいのかもしれない。部室で三人で

昼食を食べて過ごした。ただ、それだけのことだ。でも、”ただ、それだけのこと”を回復させるだけでもこんなに時間が

かかってしまった。そして、今こうして過ごしていることもどれだけ貴重なことなのかも自分はまだ完全には理解して

いないのかもしれない。それでも、俺はここに戻れて……………………良かった、と思う。

とりあえず部室に戻ることはできた。次は部活に戻る番だな。ただ、俺の方法はというと――――――――。


399: 2013/09/02(月) 21:04:55.01 ID:KhUE3YQs0
⑧ようやく比企谷八幡は彼女との約束を果たす。


12月に入ってますます日は短く、空気は寒々とするようになったが、幸いにも俺は部室で昼食を食べることを許される

ようになったため、以前のように外にいることはなくなっていた。初日こそ時間がなく何も話すことはできなかったが、

それ以降は依頼をこなすという行為以外は普段の奉仕部の様子とそう変わらない雰囲気に戻っていた。最近になって、

やっと雑談というものがどういうものなのかわかった気がする。ほとんどの人間はそんなに深く考えて喋ってはいないん

だよな、たぶん。でも、自分の場合はそれは許されなかった。話せば話すほど向こうから離れられるのが常だった。

だから、いちいち内容を頭の中で整理しないと話せなかった。ただ、いつの頃からか無視されるのも嫌悪されるのにも

慣れてしまったので、あえて自分を出すようなこともしてみたりした。案の定、ドン引きされるか話したことをなかった

ことにされるか、避けられたりした。

でも、そうはならなかった人間がここにはいる。…………しかも二人も。


おそらくもうこんなことは二度と起こらない。だからこそ、このままの状態が続けばいいと、ついそう思ってしまう。

だが、それももう許されない状況になってきた。進まなければ、現状を維持することすらできない。しかし、進んだ

ところで上手くいくかどうかなんてことはわかるはずもない。だから、それは自らの手でわかるようにしなければなら

ない。そうすることによってたとえ全て壊れることになったとしても。わからないでいるままよりはいい。どちらにせよ、

壊れる時は必ず訪れるのだから。


400: 2013/09/02(月) 21:06:30.95 ID:KhUE3YQs0
期末試験直前の日も、お昼休みは奉仕部の三人で過ごしていた。普段より早く弁当を食べ終わった雪ノ下は自分の荷物を

片付けてこう言った。

「私は少し教室ですることがあるから、今日は先に戻るわ」

「あ……そうなんだ。じゃあまたね、ゆきのん」

「ええ……」

雪ノ下は立ち上がり、部室の前の扉の方へ歩いていった。扉の取っ手に手をかけたところで体の向きは変えずにこう切り

出す。こちらからはその後ろ姿しか見ることはできない。

「比企谷くん」

「は、はい」

「試験終了日のことについてなのだけれど……」

「お、おう……」

このタイミングでその話をされるとは思っていなかったので、俺の口からはそんな言葉しか出てこなかった。俺は雪ノ下

の方を見ていたので由比ヶ浜がこの時どんな反応だったのかは知る由もない。

「学校が終わったら、あなたは一度家にまっすぐ帰りなさい。後で私の方から連絡を入れるから」

「そ、そうか…………わかった」


401: 2013/09/02(月) 21:08:17.98 ID:KhUE3YQs0
俺のその返事を聞いて、雪ノ下は安堵からなのかふっと息をついた。同時に自分も息をついてしまう。実のところ、少し

心配していたのだ。雪ノ下の指定した時間の方法について。今の彼女がそういうことに無頓着でなくなっているというの

はある程度は予想していたが、もし学校から直接一緒にどこかに行くとかいう話だったら俺としてはちょっと気が引けた

のだ。だから、雪ノ下の方から家に帰ってから出直してこいということを言われてそういう懸念はひとまず解消された。

「では、そういうことで…………よろしく」

「ああ……じゃあ連絡、待っているよ」

雪ノ下は振り返ることなく、扉を開けてそのまま部室から出ていった。俺と由比ヶ浜だけが部屋に残される。今の話の

流れで切り出した方がいいのだろうか。さすがにあれから何も言わないままというのもアレだし。


「あ、あのさ…………由比ヶ浜」

「ん?なになに?」

由比ヶ浜は椅子をこちら側に引き、少し身を乗り出してきた。近い近い。俺は彼女の方には顔を向けずに話を続ける。

「試験終わった後の土曜日のことなんだが……その……今も予定、大丈夫か?」

「うん、あけてあるよ。で、どうするの?当日」

「え~と…………とりあえず、朝の8時にお前ん家の最寄り駅で待ち合わせってことでいいか?」

「……わかった。それで、その後は?」

402: 2013/09/02(月) 21:10:07.08 ID:KhUE3YQs0
会話が進むたびに由比ヶ浜の顔が接近してくる。もうこれ俺が顔の向き変えたら…………って何を考えているんだ自分は。

落ち着け。というか由比ヶ浜がまず落ち着け。

「と、とりあえず体勢を元に戻してもらえませんか?…………ち、近い……」

「えっ?あ…………ごめん……」

今の行為は無意識だったのか、由比ヶ浜はハッとして乗り出した身を引っ込めた。そしてみるみるうちに顔が赤くなる。

いや、もうこっちはさっきから頭が熱っぽくて大変だったんですけど……。俺は頬を撫でつけながら、また口を開く。

「それで、その後は……と、当日の……お楽しみ、と言いますか…………」

「え?あ、あ…………そうなんだ…………なるほどね」

由比ヶ浜は一瞬怪訝な顔になった後、こんどは何故かニヤニヤし始めた。なんでだよ。顔の向きをこちらから前に戻すと

何やらブツブツ呟いている。あんまりよくは聞きとれない。


「ふ~ん……ヒッキーが……へぇ……そういう……」

何回かふんふんと軽く頷いてまた俺の方を見ると、由比ヶ浜は人差し指を顎に当てて何か尋ねてくる。

「それはわかったけど…………あたしの方は……何か準備しなくても……いいの?」

「準備、ねぇ…………特にこれといって必要な持ち物はないと思うが……むしろ荷物は軽くした方がいいかもな。あと、

なるべく動きやすい格好で来てほしい。それなりに歩くことになると思うから」

「…………わかった」

403: 2013/09/02(月) 21:11:43.48 ID:KhUE3YQs0
由比ヶ浜は俺の言葉に何か納得した様子を見せたと思ったら、今度は口に手を当ててふふっと笑う。

「俺なんかおかしいこと言ったか……?」

「い、いや?…………ヒッキーがこんなことするの……珍しいと思って」

「一応お前との約束だったしな…………でも、確かにそうかもしれない。たぶん二度目はないと思うぞ」

「え?……」

俺が何気なく言った一言に、由比ヶ浜の表情が固まった。あ~……やっぱりスルーしてもらえなかったか。

「あ、え~と……だな……二度目はない、くらいに考えていた方がたぶん楽しめるんじゃないかと思って、だな……」

「出た……いつものネガティブ発言…………でも……うん、それもそうかもね」

……とりあえずこの場はなんとかしのげたか。危ないな…………。あまり勘ぐられるようなことを言ってしまうと、それ

こそ当日に楽しんでもらえなくなるだろうから。

「ま、だから土曜日もあまり期待するんじゃないぞ。あとでガッカリされるのも嫌だしな」

「うん、ヒッキーのことだし期待しないでおくよ」

「あぁ、そうしとけ」

404: 2013/09/02(月) 21:15:48.18 ID:KhUE3YQs0
由比ヶ浜はその言葉と裏腹に、その表情は期待に満ち満ちていた。……ちょっと今日は色々と喋り過ぎたか。これからは

もう少し気をつけないと。失敗するにしてもタイミングというものがあるからな。特にこれ以上喋ることはなかったので

その後は昼食の残りを食べるだけとなった。


昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴ったので、俺と由比ヶ浜は教室に戻る準備をする。昼にここに出入りする時はいつも

二人で時間をずらしているので例によって今日も由比ヶ浜が先に扉に向かう。扉の前で彼女はくるりと俺の方に向き直る。

「ヒッキー、ありがとね。約束…………守ってくれて」

「いや、まぁ……約束しちまったものは仕方ないからな…………ずいぶん待たせたが」

「……それはもういいよ。その代わり、え~と…………そこそこ期待してるからね」

「あぁ……そこそこ、な」

俺の相変わらずの受け答えにも関わらず、由比ヶ浜はニコッと笑いかけてくれる。今はその笑顔に対して何も返せないの

がどうにももどかしく、胸がチクリと痛む。いや、それどころか俺のやろうとしていることは――――。

「じゃあ、また教室でね」

「おう……」

笑顔のまま踵を返して扉を開け、部屋を出ていく由比ヶ浜の姿を見て、俺の胸の痛みはますます強くなるばかりだった。

405: 2013/09/02(月) 21:18:07.73 ID:KhUE3YQs0
光陰矢のごとし。英語で言うとTime flies. まさに飛ぶようにして、それからの日々は過ぎ去ってしまった。

鐘が鳴って先生が「やめ」と言い、試験の解答用紙が集められる。この科目で期末試験ももう終わりだ。普段から勉強は

しているので、試験勉強自体はそれほど負担にはならないのだが、今回はちょっと他に考えることと準備しなければなら

ないことが多すぎた。そのおかげで今回の試験の結果はあまり自信がなかった。そういう意味でも、由比ヶ浜に今度の

土曜日の予定を教えなかったのは正解だったような気がする。今の俺みたいなことになられても困る。最近は少しは良く

なったとはいえ、由比ヶ浜の成績が悪いことには変わりないからな。周りを見渡すと、試験が終わってほっとしたのか

伸びをしていたり、答えを教え合ったりしている人たちが見える。葉山もいつもの男子の取り巻きに囲まれて、答えを

訊かれたりしているようだ。ただ、話を振られたら答える程度で自分から話しかけるような様子はもう見られない。最近

はもうずっとこんな感じだ。話しかけている方はそれで繋ぎとめているつもりなのかもしれない。もう葉山の心はそこに

はないというのに。心が近くにないのに、ただ距離が近いなんて俺にはとても耐えられないだろう。諦めが悪いというの

も考えものという印象だ。むしろ、諦めた先にしか見えないものだってある筈なのに。

406: 2013/09/02(月) 21:20:19.22 ID:KhUE3YQs0
そんなことを考えているうちに今日のSHRもさっさと終わってしまい、周りの席でも帰り支度が始まった。俺も帰る

ことにするか。雪ノ下からもそうするように言われているのだし。鞄を取りに行く途中で、ふと由比ヶ浜と目が合う。

俺は軽く会釈をし、彼女は胸の前で小さく手を振った。教室での俺と彼女もここのところはずっとこんな感じだ。葉山

が雪ノ下に告白して以降、三浦と葉山がつるむことが少なくなっていたため、必然的に由比ヶ浜と葉山の関わりも少なく

なっているようだった。まぁ、だから何だというのだ。いずれにせよ今の俺にそんなことまで感知している余裕はないの

だし、俺が自分の選択をすることが葉山の望んだことでもあるのだ。…………結果いかんに関わらず。


それから教室を出て、昇降口で靴を履き替えて駐輪場へ向かう。コートを着るようになっても寒いものは寒い。ただし、

試験期間中は昼には終わるのでいつもより気温が高い時に帰れるのは幸いだった。今日は薄曇りで日差しがほしいところ

ではあった。今のところ天気予報では土曜日も晴れになっていたが…………。

自転車に乗って学校を出て住宅街の横を走っていると、ちらほらとイルミネーションを飾っている住宅が見える。そう

いえば、もうすぐクリスマスもあるのか。…………まだ何も考えてないな、そういえば。クリスマスに何か考える必要が

あること自体が俺にとっては驚愕の事実なのだが、しかしそれも今日の午後と今度の土曜日と来週の月曜日次第だな。

状況によっては何も考える必要がなくなるという可能性も充分ありうる。今は午後のことに集中しよう。

407: 2013/09/02(月) 21:26:06.54 ID:KhUE3YQs0
ほどなくして家に着き「ただいま」と形式上挨拶はするものの、カマクラ以外には誰もいない。小町とは微妙に試験の

日程がズレているため、今日は通常通りの授業らしい。そういえば、ここのところあまり妹の勉強も見てやれてなかった

ような気がする。結果がどうなるにせよ、今の問題が片付いたら少しは付き合ってやろう。そんなことを考えつつ、俺は

昼食を適当に済ませた。


一休みしてから、俺はPCの前に向かう。今度の土曜日の参考にするためだ。しかし、こういうものは調べても調べても

キリがないように思えてくる。ある程度の準備は必要だが本人の要望もあることだろうし、あまりガチガチに予定を組め

るものでもない。時期が時期だし小町に助言を求めることもできない。それに、中途半端にこちらの状況を知られると

後々やっかいなことになりそうだ。……うんうん唸り始めたところで唐突に俺のスマホが鳴る。いや、電話というものは

いつも唐突に鳴るものではあるんですが、ぼっちの自分にはなかなか慣れないものでして…………。

「もしもし」

「もしもし、比企谷くん?雪ノ下です」

「比企谷です…………それで…………自分はこれからどうすればいいですか?」

408: 2013/09/02(月) 21:28:38.78 ID:KhUE3YQs0
「………………………」

沈黙が15秒ほど続く。沈黙が好きな俺でもさすがに電話でこれは長いので、待ちきれずに口を開いてしまった。

「雪ノ下?」「あの」

「あっ……すまん。ど、どうぞ……」

同時に喋ってしまったので反射的に謝ってしまった。すると、雪ノ下が息をすっと吸う音がかすかに聞こえた後、

「比企谷くんは…………今から私の家に来なさい」

「え?」

どこかに呼び出されることは想定していたが、まさかそれが自宅だとは思わなかった。……しかもあの雪ノ下が。

「え、じゃなくて…………あなたは来れるの?来れないの?どっち?」

「い、いや俺は行けるけど…………むしろお前はその……いいのかよ」

「何が」

俺の動揺が声に出ていたかはわからないが、雪ノ下は相変わらずのいつもの冷然とした声色で答える。

「何がって……その……お前の家、今誰かいるのか?いないんだったら、さ」

「いるわけないでしょう。話の内容を他の人に聞かれたくないから、私の家を指定しているのに。それとも何かしら?

ただの部活仲間の家に行くというだけで変な想像でもしておいでで?」

「そ、そんなことしてねぇよ…………ただ、お前が嫌なんじゃないかと思っただけだ」

409: 2013/09/02(月) 21:32:29.14 ID:KhUE3YQs0
ごめんなさい、雪ノ下さん。また嘘つきました。ホントはちょっとだけしました。しかしそんなこと言えるわけないし、

声がうわずったのもたぶん気のせいです。俺の反応はまるで無視して雪ノ下は話し続ける。

「今さらそんなこと思わないわよ…………それより…………早く、来てね」

「えっ?……お、おう……」

俺の答えを聞いて、雪ノ下は電話を切った。最後にぽそっと言われた言葉に俺の動揺はさらに大きくなった。心臓の鼓動

が向こうに聞こえてないか心配になったほどだ。あ、あんな喋り方もするんだな…………雪ノ下って。

胸の音が収まるまで、俺はさっきの調べものの続きをすることにしたが…………全然集中できねぇ。仕方ないのでPCの

電源を切り、また出かける準備をすることにした。ほら、あれだ。早く来いと言われたし、なんか今は体が熱いから外に

出てもそんなに寒く感じない筈だし。珍しく絡んできたカマクラを適当にあしらいつつ、俺はまた玄関の扉を開けた。


「マンションに自転車置くところあったか覚えてないし…………たまにはバスで行くか」

誰に言ったわけでもないよくわからない独り言をつぶやきながら、俺は雪ノ下のマンションへと向かうことにした。

410: 2013/09/02(月) 21:35:11.29 ID:KhUE3YQs0
バスに乗って十数分、雪ノ下のマンションの最寄りのバス停に着く。建物はすぐ見えているのに、ここからまたちょっと

歩くんだよな。敷地内の庭園を横目にしながら数分後、ようやく入口に辿りついた。自動ドアの前に立って中に入ろうと

するが…………開かねぇ。どうやら俺は機械にも認識されていない存在の模様。周りに誰もいなかったので、何度か立つ

場所を変えたらやっとドアが開いた。まったく…………高級マンションならドアセンサーも高度にしてもらいたい。

無駄な疲労をしつつ、これまた広いエントランスホールを進む。平日の昼間ということもあって人気もしない。それに

しても綺麗なマンションだな。この床なんてピカピカで映り込みが凄いし、もう少し頑張れば…………って何を考えて

いるんだ自分は。ともあれインターホンの前まで来たので、部屋番号を押して雪ノ下を呼び出す。以前訪れた時とは違い、

今回はすぐに反応した。

『比企谷くんね。……上で待っているわ』

中扉があき、俺はエレベーターに乗って15階を目指す。今は誰も使っていないせいか待たされることもなくすぐに来た。

ほどなくして15階に着き、雪ノ下の部屋の前まで来てもう一度インターホンを押す。

『比企谷だ』

『はい……少し待ってて』

411: 2013/09/02(月) 21:45:43.71 ID:KhUE3YQs0
複数の鍵が開く音と重厚そうな扉の音が聞こえて、雪ノ下の部屋の扉が開かれる。わざとなのかどうかよくわからないが、

以前文化祭前に俺と由比ヶ浜で彼女の家に行った時と同じような格好をしていた。単にこういう服装が好きなだけなの

かもしれない。俺が立ちっぱなしでいるのを見て、手招きする。彼女の表情はいつも通りといった感じだ。

「どうぞ、入って」

「お邪魔します…………」

用意されていたスリッパを履いて、雪ノ下の後に続く。さすがに今は暖房が入れられているようで部屋の中は暖かかった。

相変わらず生活感のないリビングに通されて、以前と同じようにソファへと促される。

「そこに座っていて。飲み物は……紅茶でいいかしら」

「……いいよ」

俺の答えを聞いて、雪ノ下はキッチンに向かった。その間に部屋を見回してみるが、前に俺と由比ヶ浜で来た時と様子は

ほとんど変わってないようだった。せいぜい加湿器が置いてあるのが見えるくらいのもので、TVの下に置いてあるDVD

コレクションの内容までは俺は覚えてないからな。増えていたりするのかどうかはよくわからない。

412: 2013/09/02(月) 22:00:24.86 ID:KhUE3YQs0
しばらくして、プレートの上にソーサーとカップを乗せて雪ノ下が紅茶を運んできた。彼女は俺が座っている二人掛けの

ソファの前にあるリビングテーブルの上にそれを置く。そして俺の隣に腰を下ろしたところで、彼女は口を開いた。

「……どうぞ」

「……どうも」

俺がカップに手を伸ばしたのに続いて、雪ノ下もそれを手に取る。まだ熱いので、口でふうふう言いながら冷めるのを

待った。何故かつい雪ノ下の唇に視線がいってしまう。チラチラ見ていたのがバレたのか彼女は怪訝な顔をする。

「何か」

「い、いえ……なんでもありません」

「…………そ」

俺が視線を元に戻すとそれ以上追及することはなく、雪ノ下は紅茶を飲み始める。俺もそれに続く。……美味しい。

413: 2013/09/02(月) 22:13:18.21 ID:KhUE3YQs0
「雪ノ下は紅茶を淹れるのも上手だよな」

「…………普通に淹れているだけだと思うのだけれど」

「その普通ができない奴が多いんだよ、案外。世の中そういうものだ」

「そう…………かもしれないわね。そして、それは私とあなたにも当てはまることではなくて?」

そう言いながら雪ノ下はこちらに視線をチラッと向けた。何故だかその表情はどこか得意げに見える。

「ま、俺とお前はそもそも普通じゃないしな…………」

「そうね…………ねぇ、比企谷くん」

雪ノ下はそう言いかけて、カップをいったんプレートの上に置き直した。そして、こちらの方に身を乗り出してくる。

そんな状態で紅茶を飲めたものではないので俺もカップを戻す。

「な、なんだ?…………雪ノ下」

「…………そろそろ本題に入ってもいいかしら」

視線はそのままで乗り出した身を少し戻しながら、雪ノ下は俺に尋ねてきた。彼女とは色々と話すべきことがあるのは

重々承知だが、あえて本題といわれても思い当たる節が多すぎる。

414: 2013/09/02(月) 22:24:51.30 ID:KhUE3YQs0
「それが何かは色々あると思うんだが…………まずは雪ノ下が話したいことからで……いいんじゃないか?」

「そう…………それはありがとう、比企谷くん」

そう言って雪ノ下はニッコリと微笑んだ。これが並の男子ならコロッとやられちゃうな。しかし、俺はその笑顔にほんの

少しだけ毒が含まれていたのを見逃さなかった、いや見逃せなかった。…………もう、戻れないな。これは。

「比企谷くん…………あなたもこちらを向きなさい」

「は、はい…………」

彼女にそう言われて拒めるはずもなく、俺は雪ノ下の方に顔を向ける。その途端、さっきまでの毒は消えて今度は憂いを

帯びた笑顔になった。そして、雪ノ下は小さくつぶやくようにこう言った。






「私…………あなたのこと、好きよ」

441: 2013/09/06(金) 22:46:31.33 ID:upW2heo+0
それから雪ノ下のマンションを去るまでの間は、たぶん俺が今まで生きてきた中で一番密度の濃い会話をした時間だった

と思う。まぁ、俺が他人としてきた会話などたかが知れているのかもしれないが、今日のこの時間のことはこれから先も

ずっと忘れないだろう。少なくとも、現段階においては俺にとっても雪ノ下にとっても最善の選択肢を取れたと思う。

嘘や欺瞞ではなく、また妥協でもなく。ただ、未だに自分の考えていること全てを話せたわけではない。雪ノ下は、あと

は俺と由比ヶ浜の問題だと思っているかもしれないがそう首尾よくいくともわからない。俺の考えが明らかになる前に、

今度こそ完全に失望される可能性も充分ある。しかし、それでも俺は自分のやり方を通したい。現時点で俺が考え得る

最善の方法を。


マンションの建物から出て、敷地内の庭園から空を見上げるともう星が見え始めていた。風が吹くと庭園に植えてある木々

の葉がかさかさと音を立てる。落葉樹はもうほとんど葉が落ちているものも何本か見受けられる。その光景を見て、俺は

最後の一葉の一部分を思い出す。確かその短編小説では、あまり状態の良くない肺炎で入院している画家が窓の外の木の

葉を見て「最後の葉が落ちたら自分も氏ぬ」みたいなことを思っていた筈だ。話の流れはともかくとしてもどうにもこの

登場人物の心情は理解できなかった。病気で弱気になり、自分の境遇をその木の葉っぱに重ね合わせていたのは理解でき

ても、だからといって葉が全部落ちたら自分も氏ぬというのはいきすぎだ。どのみちいつか葉は全て落ちるのだし、それ

でいつ落ちるか不安になるよりもさっさと全部落ちてしまった方が気が楽になれると思うのだが。ただ、まぁ由比ヶ浜

なんかは最後の一葉を描き足す方のタイプの人間なんだろうな、たぶん。だが、残念ながら自分はそうではない。


だから、俺はこれから最後の一葉を落としに行くことにする。

442: 2013/09/06(金) 22:49:21.27 ID:upW2heo+0
土曜日の朝7時前、俺は由比ヶ浜の家の最寄り駅のコンコースで彼女が来るのを待っていた。時間が繰り上がっているの

は俺が予定の時刻を勘違いしていたせいだ。後から電話して変更してもらったから大丈夫だとは思うのだが……。まぁ、

まだ15分前だしな。そう焦る話でもあるまい。土曜日だから、平日に比べれば人通りは少ないが行楽と思しき格好の人と

幾度かすれ違う。……大丈夫だよな。いや、万が一そうなったとしても……今さら心配するようなことでもあるまい。

由比ヶ浜もそう言ってくれたのだし。ただ、来週の火曜日まではなんとか秘匿しておきたいよなぁ…………今日の出来事

については。あ~…………昨日はあまりよく眠れなかったな。遠足前の小学生かと思われそうだが、楽しみというよりは

不安の方が実際のところは大きかった。でも、そのおかげでテンションが上がり過ぎずになんとか平常心を維持できて

いるような気もする。不意にあくびが出てしまい、開いた口に手をあてていると後ろから声がかかる。

「おはよ~ヒッキー…………大きなあくび」


振り返ると由比ヶ浜が少しあきれたように肩をすくめて微笑んでいた。黒のタートルネックのリブセーターの上に赤い

ダッフルコートを着こみ、デニムのパンツに低めのショートブーツといういでたちは普段の彼女から考えるとむしろ大人

しめな印象を受ける。ただ、髪型はいつも通りで手袋がピンクというのがいかにもといった感じだ。

「お、おはよう……」

私服姿を見るのも久々だったので、返事をするタイミングが若干遅れる。ついでに服装についてコメントするのも遅れて

しまう。電車が遅れると後ろの電車がさらに遅れる、みたいな。俺が沈黙していると向こうから目を逸らされてしまった。

頬を指で掻きながら、なんとか次の言葉を紡ぎだす。

443: 2013/09/06(金) 22:53:27.89 ID:upW2heo+0
「あ、えっと、その……服……似合ってるし…………か、可愛い、と思うぞ」

「か、か!?……あ、……ありがと」

俺の言葉に目を見開いた後、由比ヶ浜の顔はかーっとコートとおそろいの色になった。そりゃ驚きもするだろうさ。心の

中ではいくら思ってもそれを口に出すことなんてなかったんだから。でも、もうそれもやめだ。俺はもう彼女への好意を

隠しはしない。相手がどう思っているかに関わらず、俺は自分の想いを彼女に告げなければならない。だから……

「あ、あのさ…………俺、由比ヶ浜に大事な話が……あ、あるんだけ」

「ちょ、ちょーっと待って!ヒッキー」

俺が言い終わる前に由比ヶ浜が両手をバッと前に出して制止の体勢を取る。彼女が急に大声を出したせいで周囲の通行人

の視線がこちらに突き刺さる。痛い。由比ヶ浜もその視線を感じたおかげでまだその顔は赤いままだ。今度はその自分の

顔の熱を冷ますように、手でパタパタと扇ぎ始めた。ふ~っと息をついて少し落ち着いた様子を見せると、今度はこちら

に一歩近づいた。そして俺をチラチラ見ながら小声でそっとつぶやく。

「こ、ここだと……恥ずかしいから…………ちょっと……来て」


こちらが返事をする前に由比ヶ浜は外の方をちょいちょいっと指さし、小さい歩幅で歩き始めた。仕方ないので、俺は

彼女の後ろについていく。いったん駅舎から外に出て、通路からは植栽で陰になって見えないところにまで来て由比ヶ浜

は立ち止まった。ゆっくりと振り返って体をこちらに向け、視線は斜め下にやったままで彼女は言う。

「ここで、なら…………いいよ」

「そ、そうか……」

444: 2013/09/06(金) 22:57:39.83 ID:upW2heo+0
「……」

俺も彼女の方を見れないまま、沈黙が続く。由比ヶ浜は前髪をいじったりセーターの首の部分を触ったりしている。

早く言わなければいけないと思うほど、体はうまく動いてくれない。口を開けても声がすんなりと出てこない。そのまま

だとただの間抜けなので、いったん口を閉じてそれから息をふぅーっとゆっくりと出した。もう何も考えるな。結果は

もはやどうでもいいのだ、この期に及んでは。俺が今思っていることを口に出せばいいんだ。簡単なことじゃないか。

普段の自分がやっていることと何も変わりはしない。俺は由比ヶ浜の方をまっすぐ見据える。すると彼女もそれに応じて

こちらと視線を合わせてくれた。俺はすっと息を吸い、


「俺は……由比ヶ浜結衣のことが……………………好きだ。だから……もしよければ……俺と……付き合ってほしい」


言い終わってすぐ俺は思わず下を向いてしまう。へ……返事は……?おそるおそる前を見上げると、由比ヶ浜は何故か

泣きそうな顔をしていた。その潤んだ瞳の意味が俺にはまだわからないまま、彼女は眼を細めて唇を開け、


「はい……」


とだけ、噛みしめるようにしてその一言だけを俺に聴かせた。こ、これは…………OKということでい、いいんだよな?

ど、ど、どうなんだ?俺の拭いきれない不安が顔に出てしまったのか、由比ヶ浜は肩をすくめた。そして、


「あ、あたしも……ヒッキーのこと…………好き……だよ」

「そ、そうか……」

445: 2013/09/06(金) 23:01:38.44 ID:upW2heo+0
何故か他人事みたいなセリフが出てしまった後、俺は安堵から前かがみになり両膝に手を置いてため息をついてしまう。

ようやく安心できた筈なのに、なんだか疲れがどっと噴き出してくるような感じがした。現時点でこんな調子で今日一日

俺の身はもつのだろうか?…………そんな不安が頭をよぎる。このペシミスティックな思考…………いつもの自分だな。

大丈夫だ、問題ない。頭の中が元通りになったところで顔を上げると、やれやれといった感じで由比ヶ浜は俺を見てきた。

「な……なんだよ」

「い、いや?えっと……ヒッキーは相変わらず心配性だな、と思ったっていうか……」

「正直なところ、今の告白でさえ振られることを想定してたからな…………なんか今は拍子抜けしてるみたいだ」

「……さすがにこれで断ったらあたし悪い子だよ」

逆に俺のあまりに悲観的な思考に恐縮したせいなのか、由比ヶ浜はてへへと照れ笑いをした。


「いや……まぁ……お前は良い子だけど悪い子だからな、言っとくけど」

「……どういう意味?」

「由比ヶ浜は誰にでも優しいけど、そのせいで男子を勘違いさせるから悪い子ってことだよ」

俺なりにわかりやすく説明したつもりだったが、由比ヶ浜は首を傾げている。まさかこいつ…………。



447: 2013/09/06(金) 23:05:50.77 ID:upW2heo+0
「お前さぁ…………もしかしてモテてるって自覚なかったりする?」

「えっ?あ……え……う~ん……よくわかんない。告白とか…………そんなにされたことあるわけじゃないし」

“そんなに”って言ってる時点で充分モテてると思うのは私だけなんでしょうか……。今さらこんな話したところで別に

何かメリットがあるわけでもないのに、つい話を続けてしまう自分がいる。

「そりゃお前…………人気あるから最初から諦めてる奴が多いってだけの話だろ。釣り合わないとも思うだろうし」

「そ……そうなんだ……。っていうか何でヒッキーがそんなに詳しいの?」

由比ヶ浜は不思議そうな顔をする。いや…………俺も心の中はごく普通の男子高校生なんですよ?だから、

「そんなの……自分の好きな子がモテるかどうか気にするのは当たり前だろ?それに……俺だって……正直なところ、

分不相応なことしてるな、と今でも思ってる」

「そ、そんなことないよ!分不相応なんて思わないし…………それに本当はあたしの方から自分の気持ち……言わないと

いけないと思ってたし……」

「へぇ、意外だな。由比ヶ浜が分不相応なんて言葉知ってるとは思わなかった」

「意外って……え?も、も~ヒッキーあたしのこと馬鹿にし過ぎ!」


俺の言葉が唐突だったためか一瞬怪訝な顔になった後、由比ヶ浜は膨れっ面になって俺の胸をぽかぽか叩き始めた。

俺は由比ヶ浜といるとぽかぽかするし、由比ヶ浜にもぽかぽかして欲しいが、今彼女がやってるような意味ではない。

そんなどうでもいいようなことを考えつつ彼女を適当になだめて、俺は鞄から帽子を取りだしてそれを目深にかぶる。

448: 2013/09/06(金) 23:09:15.33 ID:upW2heo+0
「……どうしたの?急に帽子なんてかぶったりして」

「え~と…………だから……困るだろ?俺と一緒にいるところを知ってる人に見られたら」

俺がそう言うと由比ヶ浜は少しむっとした表情になり、ヒュッと俺の帽子のつばを掴んで奪い取ってしまった。

「おい!何すんだよ」

「あたし、もう気にしないってこの間言ったじゃん。ヒッキーと一緒にいるところを他の人にどう見られてもいいって」

「いや、お前が気にしなくても俺が気にするんだが…………そんなことで自分の立場悪くしてもらいたくないし」

「自分の立場のこと全然気にしない人に言われたくないかも。それに、あたしが前より自分の立場を気にしないで済む

ようになったのは、ヒッキーのおかげだから」

「……」

以前からその片鱗はあったが、ちょっと最近の由比ヶ浜は口が上手くなり過ぎなんじゃないだろうか?そういう風に言わ

れてしまうとこちらは何も反論できない。俺が黙っていると彼女はさらに追い打ちをかける。

「ヒッキーがあたしを変えたんだよ…………だから……その責任、取ってよね」

「そ、そう…………なのか?」

「うん、そう」

451: 2013/09/06(金) 23:16:15.12 ID:upW2heo+0
由比ヶ浜は笑顔でそう答え、強い意志を持った瞳で俺を真っ直ぐ見つめてきた。俺は彼女のその想いを無碍にもできず、

目を背けることはためらわれた。由比ヶ浜は俺が視線を合わせてくれたのに満足したのか、いったん帽子を俺の胸の前に

差し出してきた。

「そういうことだから…………今日はかぶらなくていいよ。この帽子は」

「…………わかったよ」

俺は帽子を受け取って鞄の中に戻す。その様子を見て由比ヶ浜は一度視線を外してはにかみながらこう言う。

「それにヒッキーもさ……その……えっと……モテる女子をゲットしたんだからもっと堂々としなよ」

「俺は基本的に堂々としてると思うけどな。欠点を隠そうともしないし、人から嫌われても平気だし」

「そういうことじゃなくてさ…………わかるでしょ?ヒッキーなら」

いや、由比ヶ浜の言うことは理解はできるが…………要は卑屈になったり自虐したりする必要はもうないってことなんだ

ろうが…………そう簡単に思考回路を変えられるとも思えない。理解するのと実践するのは全くの別問題だ。


「それはわかるが…………急にそんなこと言われても、な…………」

「ちょっとずつでいいから…………ね?」

「まぁ…………ちょっとずつなら、な」

由比ヶ浜に諭すように声をかけられて俺も渋々それに応じざるを得ない。それに、彼女は自分が変われたと言っていた

のでそれを理由に俺にもできると説得されたらまた反論するのに困ってしまう。だから、ここは仕方ない。

452: 2013/09/06(金) 23:20:24.80 ID:upW2heo+0
「じゃあそろそろ…………行こっか?」

「ああ」

由比ヶ浜が早めに来てくれたおかげで、ちょうど今ぐらいに待ち合わせ本来の時刻になっていた。彼女は行き先を全く

知らないので、俺が先に歩き出す。最初にいたコンコースに戻ったところで、俺は由比ヶ浜に必要なことを尋ねる。

「ところで由比ヶ浜…………今Suicaどれくらいチャージしてある?」

「え?……ちょっと券売機で確かめないとわからないけど…………千円以上はあるかな」

「……それなら大丈夫か。じゃあ行こうぜ」

さっさと改札の中に入ろうとするが、由比ヶ浜は俺の服の裾を引っ張って止める。

「あ、あの…………あたし、まだ何も知らないから……その……お金とかもいくら必要とか……」

「ああ、その心配はいらない。今日は基本的に全部俺が持つから。あんま高いもの買い物されると困るかもしれないけど」

「ぅええ!?」

急に間近で叫ぶもんだから、耳が……。周囲の視線を感じて由比ヶ浜は少しうつむいてしまった。そしてこうつぶやく。

「ほ、ほんとに?…………だ、大丈夫なの?」

「もともと奢ってもらったもののお返しなんだから、ある意味当然といえば当然だろ」

「そ、それはそうかもしれないけど…………」

「まぁ、いいからいいから」

453: 2013/09/06(金) 23:24:20.80 ID:upW2heo+0
少し申し訳なさそうな表情のままの由比ヶ浜を促して、改札の中に進む。それから電車に乗るまでは、特に会話らしい

会話をすることもなかった。

ほどなくして東京行きの電車がホームに入線して、二人してそれに乗り込む。車内はそれなりに混んでいて、仕方ない

ので吊革に手を伸ばした。電車が動き出してしばらくすると、横から小さく声がかかる。


「ねぇヒッキー…………ちょっと学校では言いづらかったんだけどさ……」

「なんだ?」

「その…………ゆきのんとは…………うまくいったの?うまくいったって言うのも変かもしれないけど」

話の内容が内容なので、俺は思わず隣に立っている由比ヶ浜の方を見る。すると、それまでこっちを見ていたのか彼女は

パッと視線を逸らした。そして、自由になっている方の手で由比ヶ浜は頬を人差し指で触りはじめた。

「まぁ、とりあえず…………現時点で必要なことはだいたい話せたのかな。俺と雪ノ下の間で考え方にそんなに違いが

あったわけでもないし、由比ヶ浜が心配するようなことは何もないよ」

「そ、そっか~…………よかった」

由比ヶ浜はふぅっと息をついて胸をなで下ろした。そうか…………由比ヶ浜はあれから俺とも雪ノ下ともその話について

何も聞いてなかったから今の今までずっと不安に思っていたのか…………なんか悪いことしちゃったかな。


454: 2013/09/06(金) 23:27:30.77 ID:upW2heo+0
「今まで話してなくて、その…………悪かったな」

「い、いいよいいよ!うまくいったんなら…………あたしは、別に……」

そう言って由比ヶ浜は手を胸の前で細かく振った。そうした後、彼女の表情は少し憂鬱そうなものに変わる。友達思いの

優しい由比ヶ浜のことだ、結果を知ったが故にそれはそれで雪ノ下の心配をしているのだろう。だが、それは筋違いだ。

「俺と雪ノ下は…………現時点において最善の選択をしたつもりだ…………だから、お前は何も気にする必要はない」

「う、うん……」

どうも表情が晴れないな…………ここはもっと優先して考えるべきことがあると教えてやらねばなるまい。

「そんなことよりもだな、由比ヶ浜…………お前はこの俺を恋人にしたんだぞ、今はもっと俺のことを心配しろ」

「ふふっ……そ、それもそうかもね。じゃあ今はヒッキーの心配をするよ」

「あぁ、そうしとけ」

由比ヶ浜は普段見るような、あきれ混じりの笑顔になって俺は少しほっとする。その後はまたしばらく沈黙が続く。


電車に乗り始めて20分ぐらい経った頃、さすがに目的地が気になり始めたのか由比ヶ浜がまた話しかけてくる。

「ね、ねぇ…………まだ着かないの?」

「あともう少しの辛抱だ。降りる駅になったら言うからさ」

「う、うん……」

455: 2013/09/06(金) 23:29:53.80 ID:upW2heo+0
それからまた数分経ち、やっと今日の目的地の駅に近付いてきた。アナウンスが流れるより先に俺が口を開く。

「次で降りるからな」

「えっ?……ほ、ほんとに?」

由比ヶ浜は目を丸くしてこっちを見つめてくる。なんかさっきまでと目の輝きが全然違うぞ、おい…………。

「ほんとにほんと」

「そ、その駅で降りるってことは…………そういうことで……いいのかな?」

「まぁ……お前の考えてることで合ってるんだろうけど……ただ、二つある選択肢のうちどちらを選ぶかまでは自由に

させてあげられなかったけどな」

「い、いいよ!どっちでも…………えっ……でも……」


その後は声が小さくなってこっちに聞こえるかどうか微妙な感じで何かぶつぶつ言っていた。「もしかしてド、ドッキリ?」

とか「いや、ヒッキーのことだしまだ……」とかさり気なく失礼なことを言われた気がするが、たぶん気のせいだ。まぁ、

普段の行いが悪いからな…………仕方ない。しばらくすると車内からも目的地の風景がうかがえるようになり、由比ヶ浜

は窓の方に少し身を乗り出す。着く前からこんなテンションだとなんか逆に申し訳ない気持ちになってくる。いや、これ

は先回りした罪滅ぼしみたいなものだからな…………今日一日は楽しんでもらうしかない。

456: 2013/09/06(金) 23:36:00.26 ID:upW2heo+0
電車が駅に到着してドアが開くと、俺と由比ヶ浜以外にもそれなりに人がホームに降りていく。前の人に続いてぞろぞろ

と歩いて改札を抜け、コンコースを過ぎて駅の外に出る。駅に着いた時点で色々と演出はされているのだが、その間は俺

は黙っていた。ペデストリアンデッキにまで来たところで、俺が口を開くより先に由比ヶ浜が興奮気味に尋ねてきた。

「ねぇヒッキー、そ、それで今日はど、どっちに行くの?」


「…………ランドの方。東京ディスティニーランド」


「ほんとに?ほんとにディスティニーランドに?し、しかも……え?ヒッキーの……お、奢りなんて……」

由比ヶ浜は目を爛々と輝かせながらこちらに迫ってきたかと思えば、一歩退いてもじもじし始めた。忙しいやっちゃな、

お前は。人差し指を突き合わせながらこちらを時々チラッと見ては黙っているので俺が話を続ける。

「ここまで来て嘘つく必要もないしな。まぁ、かなり待たせてしまったし…………これがハニトーのお返しってことだ」

俺はチケットを取りだして由比ヶ浜に渡そうとする。が、すんなりと受け取ってくれない。……何故だ。

「わ、悪いことしちゃったかな、あたし…………あ、あたし……実は……」

「年間パス持ってる、とか言うんだろ?どうせ。それ使わせたらお返しにはならないし、サプライズにすることも無理

だったし…………それに日程が試験の直後だったからな。試験前からそわそわされて勉強どころじゃなくなるのも困る」

457: 2013/09/06(金) 23:41:10.41 ID:upW2heo+0
だから…………と言いかけようとしたら、由比ヶ浜はチケットを俺の手からさらってあっという間に距離をつめて、


「ヒッキーありがと~、ほんっとうにありがとう!ヒッキー大好き」


そう言って飛びかかるようにだ、抱きつかれちゃったんですけど…………あ、い、色々なものが、その……あたってるし、

いい匂いはするし、は、恥ずかしいし…………周りからの視線が…………。し、しかし肩の後ろをがっちり掴まれている

ので抵抗しようにもできないし……いや、するつもりもないんだけど…………。しばらくそのままの体勢で由比ヶ浜は

何度かありがとう、と繰り返して言うと回していた腕を離して正面で向き合う形に戻った。衝動的にやった行動のせい

なのか、今になって由比ヶ浜の頬が染まった。もう俺なんかさっきから顔が熱くてたまらないんですが。このまま黙って

見つめあっていてもしょうがないので、次の行動を促すために俺は口を開く。


「そ、それはどういたしまして…………えっと…………とりあえず入口に行って…………並ぼうか」

由比ヶ浜は声を出さずにコクリと頷く。それを見て先に俺が足を踏み出すと、片方の腕が引っ張られる。

「こ、こことか…………人多いから……ね?」

上目遣いで手をつなぐことを要求されて拒める筈もなく、俺は手の体勢を変えて由比ヶ浜の指と絡めた。ほ、ほら……

あれだ、今由比ヶ浜は手袋してるから俺の手汗を気にする必要もないしな、うん。別に問題はない。



こうして、俺と由比ヶ浜のディスティニーランドでの最初で最後のデートが始まったのだった。

続く
八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」後編

引用元: 八幡「だから…………さよならだ、由比ヶ浜結衣」