2: 2013/02/25(月) 21:47:31.27 ID:XF/AqXid0
その日、私はいつも通りに、事務所で一人、音楽を聴いていた。

馴染みのヘッドホンから流れてくる曲は、もう何度再生しただろうか。
周囲の情報から目を閉ざし、音の波に身を委ねる。
それが、ずっと前から続いてきた、私の時間の過ごし方だ。

再生していた曲が終わり、次はどれを聴こうかと考えていると、不意に首に手が回される。
その手はそのまま、私の目にあてがわれた。

「ちーはーやーちゃんっ! だーれだ?」

5: 2013/02/25(月) 21:54:01.03 ID:XF/AqXid0
私のことを「千早ちゃん」と呼ぶ中で、こんなことをしそうな人はそう多くない。
でも、私にはそれ以外にもう一人、心当たりがあった。

「真美ね?」

「……んっふっふ~。よくぞ見破った、千早お姉ちゃん」

芝居がかった言葉とともに手がどけられる。
振り向いた先にいたのは、案の定真美だった。

「おはよ、千早お姉ちゃん。……それにしても、よく真美って分かったね。今の、かなりカンペキっぽかったのに……」

「春香の声を、私が聞き間違えるはずがないわ。春香だけじゃなくて、765プロの人はみんなそうだけど」

「むむむ……真美の修行が足りなかったということだね」

「もう十分、似ていると思うわ」

「千早お姉ちゃんをひっかけらんないとダメなんだよー!」

6: 2013/02/25(月) 21:59:54.59 ID:XF/AqXid0
真美がこうして、いろいろな人の声まねを、私に仕掛けてくるようになってからしばらく経つ。
私が何度やっても間違えないのが悔しいらしい。
私ははっきり違うと分かるから、絶対に間違えないと思うけれど、真美も挑戦の度に完成度を上げている。

「おっはよーございまーす!」

その時、事務所のドアが開いて、聞きなれた挨拶が響く。
声の主は、そのまま私たちの方へ歩み寄ってきた。

「おはよっ、真美、千早ちゃん」

「おはよう、春香。今日も元気ね」

「うん! 今日も張り切って仕事しようね」

春香は、いつものように活気に満ち溢れた様子で、見ているこっちまで元気になれる気がした。

7: 2013/02/25(月) 22:06:48.64 ID:XF/AqXid0
「はるるん、おはよー。今ね、はるるんの物まねしてたとこだったんだよ」

そう言って、春香の前で再び声をまねる真美。
今度は、さっきよりももっと近い声を出せていた。

「わっ、真美、それ私の声だよ。自分でも全然分かんないや」

「いいえ、春香の声はもう少し高いわ。それでも、ほとんど変わらないけど」

「千早ちゃん、ちゃんと聞き分けられるんだ……。さすがだね」

「そんな大したことじゃないわ。ただ、声を覚えてるだけよ」

「いやいや、十分すごいっしょ。これ分かるの、千早お姉ちゃん以外だと、亜美と兄ちゃんだけだよ?」

「亜美はともかく、プロデューサーさんも分かるのか……ちょっと嬉しいね」

「プロデューサー……一番近くで私たちのことを見ていてくれる人、よね」

8: 2013/02/25(月) 22:13:40.78 ID:XF/AqXid0
自分の呟きで、プロデューサーのことが想起される。
かつて、私が歌しか見えていなかった時のこと。
プロデューサーと初めて会ったときは、彼に何の興味もわかなかった。

弟を亡くし、両親の喧嘩を間近で見てきた私にとって、信じられるものは歌だけだった。
プロデューサーも、ただ利用し合うだけの存在。
その程度の認識でしかなかった。

初めは、憐れみのつもりだった。
私が冷たい態度をとり続けたからなのか否か――今ではそんなわけがないとはっきりわかるけれど――彼が奔走して取ってくる仕事は、およそ歌とは関係のないものばかりだった。
あまり突っぱね続けていては、彼があまりにも報われないと思ったのだ。

「歌手」としては意味がないような、エキストラの仕事。
ラジオでのゲスト出演。

ただの気まぐれでやってみたそれは、歌しか見えていなかった私に、今までにないような世界を見せてくれた。

9: 2013/02/25(月) 22:22:15.79 ID:XF/AqXid0
それが何度続いた頃だろうか。
気付けば私は、歌以外の仕事も積極的に受けるようになっていた。

テレビに出て、あるいは雑誌に載って、人に評価される歓び。
今までそんなものがあるなんて、考えもしなかった。

アイドルとして、そして一人の人間として。
プロデューサーは、私の世界を少しずつ切り拓いてくれた。

そんな彼が、私にユニットを組むことを提案したのは半年前のことだった。
私は自分の歌だけで勝負したいと思っていたから、本当はあまり乗り気ではなかった。
でも、プロデューサーがそう言うからには間違いはないと思って、春香と真美との三人での活動を受け入れた。

11: 2013/02/25(月) 22:29:06.50 ID:XF/AqXid0
それからの私の毎日は、息を吐く暇もないほどにめまぐるしく、そして充実していた。
仕事の時も、休日も、二人と過ごす時間が増えた。
家に二人を招いたりもした。
何もなかった私の部屋は、二人のくれたものや思い出の品で、少しずつ彩られていった。

かつての私は、自分がこんな生活を送るなんて夢にも思わなかっただろう。
一度は繋がりを拒んだ私だったけれど、今はこの日常が、何より大切だった。

そして、そんな変わっていく世界の、その中心に立つプロデューサーに、私はいつしか憧れのような感情を抱くようになっていた。

「三人でユニットを始めてから、プロデューサーさんには、いろいろとお世話になったよね」

「今度、兄ちゃんに何かしてあげよっかな」

いつもの騒がしさがなりを潜め、しんみりした空気が場を包んだ。

12: 2013/02/25(月) 22:36:21.28 ID:XF/AqXid0
「お、みんな揃ってるな」

後ろからの声に、それぞれが反応する。
そこには、件のプロデューサーが立っていた。

「あっ、プロデューサー……」

「どうかしたのか? あんまり元気ないな」

さっきまでのやり取りがなんとなく照れくさくて、悟られないように顔を伏せる。
プロデューサーは少し不思議そうな顔をしたが、別段気にする風もなく、仕事の話を始めた。

「今日は三人で、バラエティの出演だな。昨日メールしたから大まかな流れは分かっていると思うけど、もう一度、進行表で確認しておいてくれ」

14: 2013/02/25(月) 22:43:43.10 ID:XF/AqXid0
「えっ、メール?」

プロデューサーの言葉に、二人ともが携帯電話を取り出して、何やら操作を始める。

「そんなメール、受け取ったかしら……」

私は覚えが無かったが、一応確認してみる。
すると、その理由はすぐに明らかになった。

「あ……携帯電話の電源が、入っていなかったわ」

私は機械の操作があまり得意ではない。
だから、こうした小さなミスを繰り返してしまうことが、たびたびある。

16: 2013/02/25(月) 22:49:52.01 ID:XF/AqXid0
「なんだ、そういうことだったか。メールを送ってないとかじゃなくて、よかった」

「千早お姉ちゃん、そういうこと時々あるよね。真美だったら、ケータイの電源切っとくなんて、ゼッタイ耐えらんないよ」

そう言えば、真美は普段メールをしていることがとても多い。
私は、一人の時には音楽を聴いていることがほとんどだから、あまり自分の立場では想像できないけれど、そうしているときの真美は、いつも楽しそうだった。

「さて、そろそろ出発するか。とにかく、車内で目を通しておいてくれ」

「はい」

プロデューサーの一言で、全員が急いで準備を始める。
そして、みんなで気合を入れ終えて、事務所を後にした。

19: 2013/02/25(月) 22:57:30.64 ID:XF/AqXid0
収録が終わり、楽屋の中。

歌のコーナーがあったり、話題を振られることが多かったりした私たちは、静かに椅子に座って、水分を補給している。
そこに、心なしか機嫌のよさそうな顔をして、プロデューサーが入ってきた。

「三人とも、今日の収録は最高だったな! みんなのこと、ディレクターが褒めてたぞ」

「あ、やっぱりそう? 今回のは、ちょっとだけ自信あったんだよね」

プロデューサーの言葉に、得意げな顔で同調する真美。
春香も、何か思うところがあるらしく、うんうんと頷いている。

正直なところ、私は今回、番組そのものはうまくできたか分からなかった。
歌はいつものようにしっかりこなせたけれど、トークで上手に話せたか、まずいところは無かったか、と聞かれると自信がない。

20: 2013/02/25(月) 23:04:53.93 ID:XF/AqXid0
「どうした、千早。あんまり嬉しそうじゃないな。千早も、自然に話せてたよ。もっと喜んでいいんだぞ」

いまいち実感が無い私に気付いて、プロデューサーが頭を撫でてくれる。
それだけで、何だか心が温かくなって、自信が持てるような気がしてきた。

「……はい。私も、だんだん嬉しくなってきました」

「よし、いい顔になったな。じゃあ俺はスタッフさんに挨拶してくるから、みんなは先に帰っててくれ」

そう言うと、プロデューサーは足取り軽く楽屋を出ていった。

「プロデューサーさん、とっても嬉しそうだったね」

「ええ。プロデューサーが、それだけ私たちに期待してくれているってことかも知れないわ」

「真美も、今日のはいけたって思ったし、いい事ばっかりだね」

さっき撫でられた頭に触れると、自然と頬が緩む。
私たちの活躍でプロデューサーが喜んでくれるのなら、これ以上にやりがいのあることは無いと思った。

22: 2013/02/25(月) 23:11:20.86 ID:XF/AqXid0
帰り道、駅まで歩く途中も、話題は今日の仕事のことに集中した。

「プロデューサーさんも言ってたけど、今日の千早ちゃん、司会の人とよく話してたよね」

「本当に? そう見えたかしら」

「本当だよ! 今日だけじゃなくて、千早ちゃん、最近番組とかに出る時にいろんな人と話すようになってると思うな」

春香や真美とユニットを組んで動くようになってから、音楽だけじゃなくて、お菓子だったりファッションだったり、他にもいろいろな話をするようになった。
そういう意味では確かに、多くの人と話せるようになったのかも知れない。
芸能人は、全員が歌手ではないから。

23: 2013/02/25(月) 23:19:12.09 ID:XF/AqXid0
「千早お姉ちゃんも、だんだん芸能人っぽくなってきたってことだね」

「そう、かも知れないわね。でも、それを言うなら真美だって、今日の歌。外した音もなかったし、声もしっかり出てた。随分上達したんじゃないかしら」

私がそう言うと、真美は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
その後、すぐに頬を赤らめ、はにかむように笑った。

「……そっかな。実は真美も、今までで一番上手に歌えたと思ったんだ。ちょっと、嬉しいな」

お互いを褒め合って、笑って。
そんなことをして歩いているうちに、気付けば私たちの顔は、三人とも耳まで真っ赤に染まっていた。

目の前の信号が赤になり、歩を止める。
いつもなら寒すぎる二月の風が、今は心地よく、火照りを冷ましてくれた。

25: 2013/02/25(月) 23:27:16.98 ID:XF/AqXid0
「それにしても、本当にみんなレベルが上がってきたよね。私、千早ちゃんと真美と、三人一緒のユニットで、本当によかったよ」

「……ええ、そうね。この三人なら、どこまでも上に登っていけるわ」

心の底から、そう思った。
この三人なら、どこにだって行ける。
どんなに苦しいことや、辛いことがあっても。

士気を高め、いてもたってもいられなくなった真美が、窮屈そうに体を動かす。
信号が青になると同時に、横断歩道を駆けだした。

26: 2013/02/25(月) 23:33:48.43 ID:XF/AqXid0
その時、私は全身が悪寒に包まれる感覚を得た。
時間の流れが急に遅くなったように感じる。
私は無意識のうちに、目の前で揺れる真美の腕を、千切れんばかりに引っ張っていた。

足の踏ん張りが利かず、重なるようにしりもちをつく。
私は、目の前を高速で突き抜ける信号無視の車に、自身の悪寒の原因を悟った。

「二人とも、大丈夫!?」

駆け寄る春香を手で制して、立ち上がる。
幸い真美にも、目立った怪我は無いようだった。

「いたた……びっくりした」

のそのそと起き上がる真美。
その頬を、私は思い切り張り飛ばした。

27: 2013/02/25(月) 23:40:11.07 ID:XF/AqXid0
「何を考えているの、真美! あなた、もう少しで轢かれるところだったのよ!」

感情のままに、真美を怒鳴りつける。
周囲から集まる視線なんて、まったく気にならなかった。

「うん……ごめんなさい」

何が起こったのかを理解して、真美がしょんぼり頭を垂れる。
その眼には、うっすら涙がにじんでいる。

「真美。もう危ないことはしちゃダメだよ。千早ちゃんがいてくれたから、今回は助かったけどね」

春香がしゃがみこんで、真美の目をハンカチで拭った。
思わず叱りつけてしまった私とは対照的に、春香は真美を優しく包み込んだ。

29: 2013/02/25(月) 23:50:50.24 ID:XF/AqXid0
「……ありがと、千早お姉ちゃん」

「いいえ。怪我が無くて、本当によかったわ。……もう、優の時みたいな事故は、起こってほしくないから」

私は一度、大切な人を失った悲しみを振り払いきれなくて、前に進めなくなってしまった。
みんなの支え――生涯忘れることはないであろう、あのライブを含めて――があったからこそ、乗り越えられた悲しみ。
そんなもの、もう二度と感じたくはないし、誰にも体験させたくもない。

「そうだよね……千早ちゃんの、言う通りだよ。私たちが、優くんの分まで生きないと」

春香がおどけたように、大げさに気合を入れてみせる。
場の空気が、少しだけほぐれた気がした。

30: 2013/02/25(月) 23:56:49.42 ID:XF/AqXid0
「あ、でも千早ちゃん。真美はアイドルなんだから、ほっぺ叩いたりしちゃ、ダメだよ」

言われて初めて、自分の失態に気付く。
真美の頬は、この寒空に晒されたことも相まって、綺麗に赤く変色していた。

「あ……ごめんなさい、真美。私、そこまで気が回ってなかったわ……」

「ううん。悪かったのは、真美の方だから。多分、明日には腫れも引いてるよ」

その後、いつもの明るさを取り戻した私たちは駅に到着し、そこで解散となった。

31: 2013/02/26(火) 00:02:48.18 ID:mEZDbYzb0
家で一人。

電気を点けることもなく、私はクッションを抱えて、床に座り込んでいた。

今日の一件。
あの時、真美の腕を掴むことができて、本当によかった。
また、全てを失うところだったんじゃないだろうか。
そんな思いが背筋を駆け上って、腕に込められた力が強くなる。

あの時の事故がきっかけで、私は大切なものを、ことごとく失ってしまった。
弟も、親も。
私の家はたやすく崩壊してしまった。
私は、その壊れたパズルの1ピースでいることしかできなかった。

だから、歌を通して、自分の世界に引きこもった。
無意識のうちに、「歌しかない」などと言う言い訳にかこつけて。

32: 2013/02/26(火) 00:09:57.63 ID:mEZDbYzb0
でも、今は違う。
私には、プロデューサーがいる。
春香と真美がいる。
律子が、真が、事務所のみんながいる。
それは暖かくて、優しさにあふれている、気の許せる相手。
私の、新しい家族。

何とはなしに、いつも机に立ててある写真を手に取る。
その中の彼は、あの時と全く変わることない笑顔を、こちらに向けていた。

「優。お姉ちゃんは、大好きな仲間と一緒にいるわ。……これからも、頑張っていくからね」

それから、今日会ったことを、一つ一つ優に話す。
ただの自己満足かも知れないけれど、今日はどうしてか、そうしていたい気分だった。

33: 2013/02/26(火) 00:15:37.59 ID:mEZDbYzb0
話が一通り終わった時、すでに時計の針は日をまたごうとしていた。

「もうこんな時間……いい加減寝ないと、明日に響くわね」

写真を机の上に置いて、ベッドに潜り込む。
最後にもう一度、写真に目を遣る。

「おやすみ、優」

窓から差し込む月の光を受けたそれは、私にはどことなく寂しげに見えた。

34: 2013/02/26(火) 00:22:03.64 ID:mEZDbYzb0
数日後、私は今度は一人で、この前と同じテレビ局に向かった。

今日の番組は、私の過去に焦点を当てたドキュメンタリー。
その「過去」には当然、優の事故や、両親の不仲も含まれる。
それでも私が番組に出る気になったのは、なぜだろうか。
自分でも、その理由はよく分からない。
ただ、これだけはやっておかなければいけないことのような気がしていた。

収録が始まると、色々なことを聞かれ、その一つ一つに私は、嘘偽りなく答えていった。
突然の事故、崩壊した家庭、そこからの生活……。
話しているだけで胸が苦しくなるような話題が続く。
それでも話すのをやめようとは思わなかった。

35: 2013/02/26(火) 00:27:42.17 ID:mEZDbYzb0
そして、雑誌に私と母のやり取りがスクープされたことへと番組は進む。
歌えなくなってから、それを克服するまでの流れは、私の心に今でも力を与えてくれる。
最後まで話し終えたとき、私の顔には笑みが浮かんですらいた。

「いや、素晴らしい番組が出来そうだよ。君の過去はさぞ辛いものだったろうが、よく話す気になってくれた。これを見て、他者の大切さを思い返す人が一人でも多くいることを祈るよ」

今は収録を終え、ディレクターと二人で内容を振り返っている。
彼の言葉に、私はじっと目を見据えて、ゆっくり頷いた。

「そうですね。私の体験が、少しでも誰かの助けになれば、それは素晴らしいことだと思います」

今私が、歌以外でも何かを外に発信したいと思うようになったのも。765プロのみんなによるところが大きい。

今の私を形成している、仲間の存在。
私が求めるときには、いつでも手を差し伸べてくれるそれは、おかしなことに、同時に私の自信の源にもなっていた。

37: 2013/02/26(火) 00:35:16.04 ID:mEZDbYzb0
その日、私は夢を見た。

夢の中では、私はまだ小さいままで、手には大事なおもちゃのマイクを握りしめていて。
もう片方の手には、それよりずっと大事な、かわいい弟の手があった。

何もかもがあの時と同じ幸せな時間。
私の方を見上げて、優が笑う。
それを見て、私も笑う。

しかし、そんなものは、所詮束の間の幸せ。
この時間が、いつまでも続けばいいのに――。
そう思った時、決まって私は急に現実に引き戻される。

38: 2013/02/26(火) 00:41:58.62 ID:mEZDbYzb0
心地の悪い目覚め。

まだ暗い部屋。

時計を見ると、昨日ベッドに入ってから、まだ3時間しか経っていなかった。

「また、この夢……」

身体に残る気怠さにひかれて、再び布団を被るも、もうすっかり眠気は抜けきっていた。

今でも時々見る、儚かった家族の夢。
それは、懐かしい記憶の残滓。
いつか、この夢を見なくなる時が、来るのだろうか。

……いつか、家族の記憶すら、忘れてしまう時が。

私は目を強く閉じると、頭まで布団に潜って、強引に眠りについた。

39: 2013/02/26(火) 00:47:52.09 ID:mEZDbYzb0
翌朝、寝覚めは最悪だった。
夜中のことはなんだったのかと思うほど、あと何時間でも寝ていたいような衝動が、強くはたらきかける。
こんな気分になったのは、随分と久しぶりのことだった。

「……今、何時かしら」

机の上の置時計を手に取って確認する。
普段、家の中では絶対に見ないような時刻が、今置かれている状況を鮮明に物語っていた。

「早く、事務所に行かないと……」

朝食もそこそこに、大急ぎで支度を済ませて家を飛び出す。
日課の発声練習すら怠る日なんて、何か月ぶりだろうか。

幸い、急げば仕事にはぎりぎり間に合いそうな時間だ。
私は事務所までの道を、脇目もふらずに走り続けた。

40: 2013/02/26(火) 00:54:15.39 ID:mEZDbYzb0
「すみません、遅れました!」

私がドアを開いた時、事務所はもぬけの殻だった。

「おかしいわね、もうすぐ取材の人が来る時間なのに……」

閑散とした事務所に、小さくつぶやいた私の声だけが響く。
せめて連絡だけでもと思って携帯を取り出し、ボタンを押すも反応が無い。

なんてことは無い、電源が切れていたのだ。
……これじゃ、またプロデューサーに迷惑をかけてしまうわね。
そう思いながら電源を入れて履歴を確認する。
そこには、見慣れない表示が画面を覆っていた。

「着信履歴が20件……?」

私の遅刻を疑ったにしても、いくらなんでも多すぎる。
そもそも、今事務所に誰もいないことも気になる。

43: 2013/02/26(火) 01:01:35.53 ID:mEZDbYzb0
ともかくは誰かと連絡を取ろうとしたその時、後ろでドアが開く音がする。
振り返ると、玄関で音無さんが、顔を蒼白にさせて立っていた。

「あ、千早ちゃん! やっと見つけた……」

私を見るなり、音無さんは初めて見るような真剣な目で近づいてくる。
そして、小さく息を吸い込むと、静かな、しかし、しっかりした声で話し始めた。

「千早ちゃん、落ち着いて聞いてね? まず、今日の取材は中止になったわ」

「そんな、なぜですか? まさか、先方の都合とかで……」

私の言葉を遮るように、音無さんはゆっくりと首を横に振る。

44: 2013/02/26(火) 01:07:21.83 ID:mEZDbYzb0
「いいえ、違うの。実はね。……プロデューサーさんが、事故に遭ったの」

一瞬、音無さんが何を言っているのか、よく分からなかった。
私の耳が、理解を拒む。
意味が、分からない。

「すみません、音無さん。……今、なんて言ったんですか?」

私の言葉に、苦虫を噛み潰したような顔になる音無さん。
しかしそれも少しの間のことで、再び私の目をじっと見据える。

「もう一度言うわ。プロデューサーさんが、事故に遭いました。今はそこの病院に搬送されてるけど――

45: 2013/02/26(火) 01:13:07.90 ID:mEZDbYzb0
そこまで聞けば十分だった。
さっきとは逆に、ドアを開けるのももどかしく、事務所を飛び出す。
脳内に、私の記憶の中でもっとも忌むべき光景がフラッシュバックされた。

あなたを失ってしまっては、私は……。
走っている途中にもかかわらず、冷水のシャワーを浴びたような感覚が体を襲う。

「いや……いや……」

ただそれだけを、呟きながら。
朝から走り通しなことなどすっかり忘れるくらいに、私の頭はプロデューサーのことでいっぱいで。
足がどんなに痛みを訴えても、私は走るのをやめなかった。

46: 2013/02/26(火) 01:20:02.51 ID:mEZDbYzb0
「プロデューサー!」

彼が寝ているという病室のドアを開く。
そこにどんなに凄惨な光景が待っているか。
覚悟を決めて掴んだドアの先には、苦笑を浮かべたプロデューサーが、居心地悪そうに座っていた。

「千早か……ごめんな、心配かけて」

「プロデューサー……どうして……? 事故に遭ったはずではなかったんですか?」

私の言葉に、プロデューサーはばつの悪そうな顔をする。

「事故って言っても、軽く接触しただけだから。大したもんじゃなかったんだ。明日には仕事に戻れると思う。……って言うか、小鳥さんから聞いてなかったのか? 俺はてっきり、もうみんな知ってるものだと思ってたよ」

47: 2013/02/26(火) 01:26:46.34 ID:mEZDbYzb0
プロデューサーの話を聞いているうちに、体の力が抜けて、床にへたり込んでしまう。

「よかった……」

大きく息を吐いたその時、突如として視界が暗転する。
その場にいるのも辛いようなめまいがして、思わず四つん這いになって手をついた。
それはすぐに、猛烈な吐き気に代わり、私を襲った。

何がどうなっているのか、自分でもよく分からない。
プロデューサーが、何か叫んでいる。
その声が、耳に遠い。

私は病院の床に、自分の吐瀉物をぶちまけると、そのまま意識を失った。

49: 2013/02/26(火) 01:31:59.69 ID:mEZDbYzb0
次に目が覚めたのは、一時間後。

さっきまでのプロデューサーと同じように、私も病室のベッドに寝転がっていた。

ふと隣を見ると、椅子に座っているプロデューサーが、私の顔を覗きこんでいた。

「何をしているんですか、プロデューサー……。ちゃんと安静にしていないと、もし何かあったら……」

起き上がろうとした私の肩を、プロデューサーが押さえつける。
そしてそのまま、再び横にさせられた。

「だから俺は大丈夫だって。念のため精密検査はするけど、それだけ。それより安静にしてなきゃいけないのは、千早の方だ」

話によると、私はあれからプロデューサーのナースコールで呼ばれた看護師に運ばれ、緊急入院することになったらしい。
程なくしてやってきた医師に診てもらったが、特に異常はないとのことで、退院したいなら明日にでも可能だという。

それを聞いたプロデューサーは、自分の事はそっちのけで、安堵の息を漏らしていた。

その後、プロデューサーや先生がいなくなるのと入れ替わりに、765プロの面々がぞろぞろと入ってくる。
気分はあまり良くはなかったけど、プロデューサーを見舞いに来て、そのまま私のことを知り、こちらにやってくるアイドルたちは次々と訪れ、私は面接時間いっぱいまでその応対をすることとなった。

50: 2013/02/26(火) 01:37:41.78 ID:mEZDbYzb0
その日、また夢を見た。

今までと違うのは、今日の私は子供ではなかったこと。
片手に持ったマイクは、おもちゃなんかではなく、いつも私が使っているものだった。

焦ってもう片方の手を見ると、そこにはしっかりと握られた手。
その先には、いつものように笑いかけてくれる優がいた。

私も、それに微笑みを返す。
こんな時間が、いつまでも続けば――

不意に、手にかかる力がなくなる。
そのままそれは私の手をするりと抜け出した。

51: 2013/02/26(火) 01:43:00.68 ID:mEZDbYzb0
「優……?」

そのまま私の前まで歩いて、笑顔を見せる優。
そして、私に手を振ると、そのまま私に背を向けて走り出した。

「待って、優!」

私もすぐにあとを追いかけようとするけど、どういうわけか足は鉛のように重く、一歩も前に進むことを許さない。

優はどんどん私から遠ざかっていく。
その姿が見えなくなるのに、そう時間はかからなかった。

「そんな……優……」

深い悲しみと絶望が、心を塗りつぶしていく。
私には、どうすることもできなかった。

「行かないで、優!」

そうすれば叶うとばかりに、大声で叫ぶ。
そして、私は覚醒した。

53: 2013/02/26(火) 01:49:54.06 ID:mEZDbYzb0
目に映る、リノリウムの無機質な天井。
見覚えのない部屋。
すぐに、ここが病室だと気付く。

それを認識すると同時に、夢の中での絶望が、再び私の心を満たしていく。

……ここ数日、私は二度も大切な人を失いかけた。
一人は私の手で未然に防げたけど、もう一人は私にはどうすることもできなかった。
ただ、運が良かっただけ。
これがもし大きな事故だったら、どうなっていたかなんて分からない。

真美だって、あの時私が手を掴めなかったら……。

「そんなの……耐えられるわけないじゃない……」

もう、一人になんてなりたくない。
どんなに自分に言い聞かせても、この恐怖だけは消えることなく、心の奥底に渦巻き続けた。

54: 2013/02/26(火) 01:56:04.37 ID:mEZDbYzb0
翌朝、心配するプロデューサーを制して、退院の手続きをとった。
事実、昨日のような倦怠感はなりを潜めて、体には何の問題もなかった。

事務所に入ると、部屋中の視線が一気に私に集中する。

「千早ちゃん、体はもういいの?」

みんなを代表してということなのか、前に出てきた春香の質問に答えるように、ことの顛末を説明する。
初めは不安そうにしていた彼女達だったが、私が本当に何でもないと分かると、すぐに事務所はいつもの喧騒に包まれていった。

「そろそろ、テレビ局に向かうぞ」

プロデューサーの合図で、私たちはすぐに建物を出る。

「兄ちゃんの運転かー。昨日事故起こしちゃったし、ちょっと不安だよね」

「大丈夫だよ、俺は突っ込んできた車に当たっただけで、その時は歩行者だったから」

真美の軽口を受け流すプロデューサー。
三人でその車に乗り込み、私たちは撮影のスタジオへと向かった。

57: 2013/02/26(火) 02:04:00.58 ID:mEZDbYzb0
車が大通りに差し掛かると、必然的に交通量も多くなる。
首都圏の交差点なら、片側5車線なんてざらにある。

「さて、そろそろ青になるかな……って、うおっと」

突然プロデューサーが、すっとんきょうな声を上げる。
車が動き出す寸前、大型トレーラーが右折してきたのだ。

「あっぶないなー……大丈夫か、あの運転手……」

プロデューサーはそんなことを呟いている。
それを聞いているうちに、私の中で、不思議な考えが芽生えた。

……いや、そうではない。
大丈夫かどうかを心配すべきは、私たちの車だ。

こんな交通量の多いところを走るなんて、自分から事故を起こしに行くようなものじゃないか。
もしそんなことになったら……。

59: 2013/02/26(火) 02:10:17.23 ID:mEZDbYzb0
あの時と同じ悪寒が、背筋に走る。
私はもう、我慢していられなかった。

「プロデューサー、ここは車が多くて危険です。すぐに別の道に乗り換えましょう」

すると、三人の目が一斉にこちらに向く。
それぞれが、何か含みを持った、物言いたげな顔をしていた。

「……千早? 一体、何を言ってるんだ?」

「ですから、こんな道は危険だと言っているんです。事故でも起きたら大変です」

「そうは言っても、この道を通らないことにはなぁ……」

事故が起こってしまってからでは遅いのに。
どうしてか、プロデューサーは私の思いをくみ取ってくれない。
いつもなら利き過ぎるくらい気が利くのに、どうして……。

60: 2013/02/26(火) 02:15:31.77 ID:mEZDbYzb0
見ると、春香と真美は呆けた顔で私たちのやり取りを眺めている。

……この二人も駄目だ。
この中で、今の状況の危険性に気付いているのは私しかいない。
私が、なんとかしないと。

「千早ちゃん、どうしたの……? なんか今日の千早ちゃん、ちょっと変だよ?」

変?
これのどこが変だというのか。
私はただ、みんなの安全を守りたいだけなのに。

「いいから、早くどこか別の道に出てください。それができないなら、スタジオへは歩いて向かいましょう」

「おい千早、本当にどうしたんだ? 今までそんな事、言ったこともなかったのに」

「そんな、私はいつもと同じで……」

62: 2013/02/26(火) 02:22:23.28 ID:mEZDbYzb0
言いかけて、気付く。
みんなの私を見る目が、いつもと全く異なることに。
何か、奇妙なものを見る目。
異常なものを見る目だ。

おかしいのは、私?

私は、ただ誰にも傷ついてほしくないだけ。
ただ、それだけ。

それだけなのに、私は何を言っているの?
道を変えろなんて、普通は言わない。

でも、それじゃ安全とは言えないじゃないか。

そんなわけはない。
そんな考え方、普通はしない。
おかしいのは、私。

63: 2013/02/26(火) 02:29:11.00 ID:mEZDbYzb0
「私が、変なことを言っている……」

口に出してみると、いよいよ自分の行動がいかに異常だったかが実感される。
プロデューサーも、静かにうなずいて肯定する。

でも、この抑えきれない不安は何だろう。
プロデューサーやみんなが、今にも消えてしまうような気がしてならない。
自分の腕を、かき抱くようにして縮こまる。

「おかしいって、分かってるのに……私、それでも嫌。この道は……」

頭が混乱して、考えがうまくまとまらない。
かろうじて絞り出したその声を聞いてくれたのだろう、プロデューサーは今度こそ何も言わず、道をそれると、路肩に車を停めてくれた。

「千早、今日の仕事は休もう。今の千早は、テレビに出られるような状態じゃない」

プロデューサーの言葉に、私は何も返事をすることができなかった。
ただ、小さくこくんと頭を動かす。

「春香も真美も、それでいいよな?」

二人が頷くのを見ると、プロデューサーは携帯電話を取り出し、局の人と話し始める。
結局、私は番組を欠席して、折り返し事務所に戻ることになった。

64: 2013/02/26(火) 02:36:36.99 ID:mEZDbYzb0
プロデューサーと社長の声が聞こえる。
何を話しているのかまでは分からない。
ただ、今の私のせいで、プロデューサーにそれをさせていることだけは確かだ。

しばらくすると、話がまとまったのか、二人が私の前まで歩いてきた。

「千早、少し話がある、いいか?」

その問いに、小さな首肯で答える。
プロデューサーと社長は、テーブルを挟んで私と向かいのソファに並んで腰かけた。

「千早には、少しの間休養を取ってもらうことにした。もちろん、事務所に来てくれて構わない。みんなと話して、いつもの千早に戻れたと思ったら、いつでも言ってくれ」

「みんなと、話して……?」

「ああ、そうだ。みんな、千早のことを支えたいと思ってる。だから、千早が困ったときは、いつでも誰かに相談していいんだぞ」

私を安心させるように、優しい笑みを浮かべるプロデューサー。
今まで何度、それに助けられたか知れない。

しかし今回ばかりは、誰かに頼ることは許されない。
頼るべき仲間、それを失うのが私は怖い。
だったら、その仲間がいなくなってしまえば、私は一体誰を頼ればいいのだろうか。
誰かに傍にいてほしいのに、誰をも頼ることすら私にはできなかった。

「……大丈夫です。きっと、すぐに元に戻ってみせますから」

ぎこちなく答えた私を、プロデューサーが今度は悲しそうに見つめていた。

65: 2013/02/26(火) 02:41:56.48 ID:mEZDbYzb0
それから数日、私は一日の半分以上を事務所の中で過ごすようになったけれども、私の不安はいつまでたっても消えることは無かった。

事務所にいる間は、みんなが私のことを気遣って話しかけてくれるし、音無さんだっている。
でも家に帰ってみれば、そこは何もない独りの世界。
孤独の影におびえて震える私は、その場でしゃがみこんだままだった。

事務所の中でも、ふとした時にみんなのことが気になる。
その日も私は、仕事に出た春香たちのことが心配で、悶々とした時間を過ごしていた。

「千早ちゃん、大丈夫?」

突然、私の顔に影が差す。
見上げた先には柔和な笑顔。

「……あずささん」

「私と、ちょっとだけお話してくれないかしら?」

66: 2013/02/26(火) 02:48:17.32 ID:mEZDbYzb0
おもむろに、私の隣に腰かけるあずささん。
肩と肩の触れ合う距離から、微かに彼女の体温が伝わってきた。

「もちろん、いいですよ。それで、どんな話なんですか?」

「話っていうより、聞きたいこと、なんだけれど……千早ちゃんが、何を悩んでいるのか。聞いても、いいかしら?」

それは最も予想し得たものでありながら、なぜだか今まで一度も聞かれなかった質問だった。

「本当は、社長やプロデューサーさんから、千早ちゃんが話してくれるまで聞いちゃダメって言われていたんだけど、ね」

私が分かりやすい顔をしていたからか、あずささんが気になっていた部分を付け加える。

「……でも、これはだれにも頼れる問題では、ないですから」

これは私自身の問題。
誰かに話しても、どうにかなることではない。
私が、心の底から納得できない限りは、いつまででもついて回るだろう。

68: 2013/02/26(火) 02:54:00.84 ID:mEZDbYzb0
すると、あずささんは目を閉じて、小さく首を横に振った。

「違うの。千早ちゃんに頼ってほしいって思うのは、確かなのよ。でも私にはもう一つ、それを知りたい理由があるのよ」

「それは、なんですか?」

「私ね。もしアイドルの誰かが困っていたら、一番上のお姉さんとして、何か助けてあげたいって、ずっと思ってたの。ただ、私はどんくさいし、力になれることって、少ないなあって思ってた。でも、こんな私でもね。話を聞いてあげることくらいなら、出来ると思ったのよ」

「あずささん……」

「だから、これは私のわがままで、お節介かもしれない。でも、それでも。こういう時くらいは、お姉さんでいさせてくれないかしら」

そう言ってくれるあずささんが、本当のお姉さんでいてくれたなら、どんなにいいことか。
この人なら、私の悩みなんて、全て受け止めてくれる気がする。
それは、一時の逃げに過ぎないのかもしれない。
でも、それ以上にその誘いは甘美で、抗いがたい。

69: 2013/02/26(火) 03:01:10.57 ID:mEZDbYzb0
「私は……私は、765プロのみんなが、大好き……でも、そんな大好きな仲間も、いつかは私の前からいなくなってしまう。それは今日かも知れないし、明日かも知れない。ずっと先かもしれない。でも絶対に、いつかはそういう時が来る」

「そうね。それが、命というものだもの」

「私はそれが怖いの! 私の前から、もう誰かがいなくなるなんて嫌……誰も、いなくならないで……」

勝手に、目から涙がこぼれる。
それはとめどなく流れつづけ、私の頬を濡らした。

「千早ちゃん、大丈夫よ。誰もいなくなったりしないわ、誰も……」

我慢がきかなくなって、嗚咽が漏れる。
その間、あずささんはずっと私の背中をさすってくれていた。

70: 2013/02/26(火) 03:08:19.95 ID:mEZDbYzb0
「……すみません、見苦しいところを晒しちゃって」

「いいのよ。これもお姉さんの役目だから。……でもここからは、お父さんの役目かしら?」

あずささんは私の顔を、前に向けさせる。
いつからいたのだろうか、デスクにプロデューサーが座り、こちらをじっと見ていた。

「すみません、あずささん。俺じゃ、そういうことはできませんから。助かりました」

「いいんですよ。私がしたかったことです。でも、これからちゃんと、お父さんなところ、見せてくださいね?」

「はい、任せてください」

今度はプロデューサーが、あずささんと入れ替わりに私の方へやってくる。
そして私の目の前でしゃがむと、あの時と同じように私の頭を撫でた。

71: 2013/02/26(火) 03:13:18.09 ID:mEZDbYzb0
「ごめんな、千早。千早の悩みの種がそういうことだったなんて、全然気づかなかった。プロデューサー、なのにな」

「そんな、私が悩んでるだけで……」

「いや、俺が気付かなかったのが悪い。俺の事故も原因の一つだったんだろう。事故なんて連想させて、千早がどんなに不安だったか……怖かったよな」

そこで言葉を区切って、プロデューサーが一歩距離を詰める。
体温が、届く距離。

「でも、怖れることなんてないんだ。千早は、この先も独りになんか絶対ならないし、させない。……千早は一つ、勘違いをしてるんだ」

「勘違い……ですか?」

「ああ。俺たちがもし氏んだとしても、それはいなくなるってことじゃない。心の中でその人を思い続けている限り、その人は傍に居続けてくれる」

それは、よく聞けば支離滅裂な話かもしれない。
氏んでも傍にいる、だなんて矛盾もいいところだ。
でも、それは確かに強い力を持って、私の心に衝撃を与えた。

72: 2013/02/26(火) 03:18:10.72 ID:mEZDbYzb0
「いなくなっても……傍にいる……」

「そうだ。みんな、心がつながった仲間だ。それを忘れないでいれば、どこにいる時も、どこにもいなくても、傍にいてくれるんだ」

私は、ことを難しく考えすぎていたのかもしれない。
今、私はこんなに恵まれた仲間に支えられているというのに。
失った時のことばかりに気がいって、一番大切なことを忘れて。
私はもう、一番大切なものを持っているじゃないか。

「そう……ですよね。私、なんか勘違いしてたみたいです。プロデューサーのおかげで、それに気付くことが出来ました」

まだ不安が完全に消えたわけじゃないけれど。
これからどんなことがあっても、プロデューサーのこの言葉を信じていこう。
そうすれば、前に進んでいけるから。

「今話したのは、単なる俺の考え方だけどな。それでも千早の助けになれたなら、よかったよ」

73: 2013/02/26(火) 03:20:41.25 ID:mEZDbYzb0
もう一度、頭を撫でてくれるプロデューサー。
ああ、心の底から安心できたのなんて、何日ぶりだろうか。
何だか気恥ずかしくて、目を横に逸らす。
そして、私は目を疑った。

私の隣に立つ、優の姿に。

何をするでもない、手をつなぐでもない。
私が幻を見ている、あるいは錯乱していると言えばそれまでだろう。
それでも私の心は、本当に優が隣にいてくれているような幸福感で満たされていった。

「傍に……いてくれてますよね、優も」

「ん? ……ああ」


その後、春香や真美のところに行くと、二人は涙を流して、私の復帰を喜んでくれた。
春香も真美も、私の傍にいてくれる、大事な仲間、家族だ。
私は二人に深く頭を下げて、今まで心配をかけたことを謝った。
二人とも笑ってくれたけど、私はそうせずにはいられなかった。

74: 2013/02/26(火) 03:25:40.51 ID:mEZDbYzb0
そして、今はプロデューサーと、事務所で二人。

「どうしたんだ、千早? 話があるなんて、珍しい」

「実は、今回のお礼を、しっかり言っておこうと思いまして……」

「そんなの、いいよ。それが、プロデューサーの仕事だしな」

握った手に、きゅっと力がこもる。

「私、プロデューサーに『傍にいる』って言ってもらえて、とっても嬉しかったんです。あの時、私は隣にいる人なんてすぐに消えちゃうと思い込んでたから……」

そう。
プロデューサーは、私の隣にいてくれる人。
あなたがいてくれるから、私は頑張れる。
あなたが広げてくれた世界のおかげで、私は歌い続けられる。

だから、私は言葉を紡ぐ。

「プロデューサー。私は、あなたの傍でなら……あなたが傍にいてくれるなら、いくらでも頑張れます。だから……」

願わくば、私の思いが、少しでも多く届きますように。

「だから、私を、あなたの一番傍に、いさせてください」

75: 2013/02/26(火) 03:30:31.07 ID:mEZDbYzb0
喧騒が鳴りやまぬ、駅のホーム。
隣のホームの電車の音が、ノイズとなって響き渡る。

「これじゃ音楽なんて聞けないわね……」

私はイヤホンを外して、雑誌を読もうとカバンを開いた。

その時、シャツの裾がくいくいと引かれる。
その先には、目に涙をいっぱいたたえた小さな男の子。

「どうしたの、君?」

「お姉ちゃんが……」

男の子が精一杯の頑張りで出したその声で、状況を察する。

「じゃあ、私が探すの手伝ってあげるわ」

「ほんと……?」

幸いにも、その子の姉はすぐに見つかった。
二つ三つ年上だろうか、少しだけませた顔をしている。

「あ、おねーちゃんだ!」

そう叫んだ男の子は、私の手を振り切ると、一目散にその子の元まで駆けていった。

76: 2013/02/26(火) 03:33:47.48 ID:mEZDbYzb0
「……よかったわね」

小さくつぶやいて、踵を返す。
すると、さっきと同じく、裾をくいくいとされる感触。

「あの……ありがとうございました」

振り返ってみると、そこにいたのは男の子のお姉さん。
その姿に、私はどこか懐かしさを覚えた。

……昔だったら、こんな時に悲しい気分になったのかしら。

何だかおかしな気分になって、吹きだしてしまう。
それを不思議そうな目で、女の子は眺めていた。

「ごめんね、何でもないのよ。……弟の子を、大切にね」

「うんっ!」

女の子は大きく頷くと、男の子と手をつないで、どこかへ走って行ってしまった。

「大切にしあっていれば、いつまでも一緒にいられるから……そうよね、優?」

二月の風はまだ冷たく、容赦なく体温を奪っていく。
それでもなぜか私は、この風が温かさを分けてくれているような、そんな気がした。

77: 2013/02/26(火) 03:34:40.64 ID:mEZDbYzb0
これでssは終わりです。
ありがとうございました。

78: 2013/02/26(火) 03:36:03.60
イイね

79: 2013/02/26(火) 03:38:03.00
おつおつ

引用元: 千早「私の傍に」