1: 2011/11/15(火) 23:36:07.27 ID:+EoW8WNx0
 目の前にあるのは、台所に立つお姉ちゃんの姿。黙って突っ立っている私に首をかしげるしぐさ。
「なんかぼーっとしてるね? 顔洗ってくるといいよ」
「……ああ、うん。そーしてみる」

 言われるままにのろのろと洗面所へ。鏡に映る私の顔のまわりには、クエスチョンマークがどれだけ浮かんでいたことだろう。
 顔を洗う。さっぱりしたのかどうなのか、効果はあまりない。心のもやもやを振り払うように、ぶんぶんと頭をふった。

 戻って食卓をみると朝食の準備が整っている。この光景に現実味が感じられないまま椅子に腰をおろした。
 メニュー自体はトーストやサラダといった簡単なものなので、美味しいとか不味いとか言及するものではない。
 だから料理に慣れていないお姉ちゃんがこれを用意すること自体は、なにも問題はないのだけれど。
 ……なにも、問題はないはずなんだけれど。

「ねえ、お姉ちゃん」
 食卓からキッチンへ呼びかける。朝食の準備はもう終わっているのに、作業の音は未だに続いているのはどういうことなのか。
「なーにー?」

「もしかしてお昼のお弁当も作ってる?」
「そーだよー」

 そこから先の朝の記憶はない。

2: 2011/11/15(火) 23:38:22.99 ID:+EoW8WNx0
 昼休みを告げるチャイムの音に我に返る。午前中の授業のことを、まったく覚えていない。
 ちょっと覚えていなさすぎじゃなかろうか、と記憶を漁る。思い出せない。なんだか、私を置いてけぼりに、まわりの場面だけが飛んだような。気が、する。
 よほど私の頭は真っ白になってしまったのだろうか。朝のお姉ちゃんのことがそんなにインパクトがあったのだろうか。

 何が何だかわからなくなっているところで、梓ちゃんから声がかかった。昼食のお誘い。
 とっさに混乱を押し込めて、私は彼女に応答する。


「……そういうわけで、今日のわたしのご飯はお姉ちゃんの手作りのようです」
 そういうわけで、トンと机の上に取りだす、ナプキンに包まれたお弁当箱。
「梓ちゃん、お姉ちゃんになにがあったのか心当たりない?」
「……言ってることが、よくわからない」
 うん。正直言って私もよくわからない。
「つまり、お姉ちゃんが急に変わっちゃって困ってるっていう話なんだよ」
「あー、いや、そう言いたいのはわかるんだけど」
 梓ちゃんは胸の前で両手を振って言った。「それでそう言い出す理由がわかんないの」。
「どういうこと?」
 わたしは首をかしげて梓ちゃんを見る。彼女は首をかしげて疑問の視線が返してくる。

「だって唯先輩のお弁当って、毎日のことじゃない?」

5: 2011/11/15(火) 23:41:18.31 ID:+EoW8WNx0
 ……とりあえず、私は黙ってお弁当の具を口に含んだ。
 どう言葉を返せばいいかわからなくなって、梓ちゃんを無視したかっこうになってしまったことが少し気に障る。
 食べ物といっしょに、気まずさをかみつぶして、飲み込む。
 ほんとうであれば、普段のお姉ちゃんががんばって作ったものであれば、素直においしいと言えただろうけれど。
 お姉ちゃんの料理の味。私の作るものと同じ味。それを肯定的に捉える余裕なんて、いまの私にはなかった。

 ひとくち食べたところで、お弁当にふたをする。ナプキンでくるんで、立ち上がる。
「ちょ、な、なに? どうしたの?」
 唐突にお弁当を片付ける私。ぎょっとした様子の梓ちゃん。
 
「ごめん、ちょっと保健室、いってくる」
 
 彼女にそう言い置いて、私は場を後にする。
 ちょっとひとりになって頭を落ち着かせないと、いろいろと、どうにもならない気がした。

7: 2011/11/15(火) 23:44:35.21 ID:+EoW8WNx0
 眠りから覚めると、ベッドの傍らに梓ちゃんの姿があった。彼女の身体越しに見える窓の外の景色は、もう昼の色ではなくなっていて。
「……はじめて保健室のベッドで寝ちゃったよ」
 苦笑いする。ひとりになって考え事をするはずではなかったのだろうか。
「具合、悪いんじゃなかったの?」
 熟睡から覚めるなり、苦笑する私をいぶかしむ梓ちゃん。
 ほんとうに私は熟睡していたのかは、わからない。眠っていたような気もするし、私が目をつむっているあいだに、また、なんだか時間が一気に変わっただけのような気もして。
「ごめんね、ちょっと、頭痛がしただけなんだ」
 だから、うまく説明できなくて、てきとうなことをてきとうに述べながら、私は身体を起こす。
「……いや、それ大丈夫なの? 唯先輩にきてもらったほうがいい?」
「あ、ううん、そんな大げさなものでもないから!」
 考えなしの私の言葉は相手にどう映るものなのか。お姉ちゃんを相手にしたら、いまの私はどれだけ支離滅裂なことを口走ってしまうのだろう。
 おおげさに腕を振って、私はお姉ちゃんの話題を拒む。
 お姉ちゃんを呼んで欲しくないことがよく伝わったのか、梓ちゃんは、とりあえず、このことを置いておくことにしてくれたようだ。

「部活、出れる? 今日はこのまま帰る?」

 話題を変えた彼女の口から出た言葉は、そんな言葉で。「部活? 私が?」と目をしばたたかせる。

「……うん、軽音部」
「……私、軽音部なの?」

 私はおうむ返しに、ただ、尋ね返すばかり。

「……ちょっと。ほんとに、だいじょうぶなの?」

 ……軽音部。そうか、いまの私は軽音部員なのか。「部員である私」に、ふと、強い興味が湧いた。

「……うん、練習、行ってみる」

 そうして、また、記憶が飛ぶ。

9: 2011/11/15(火) 23:48:16.02 ID:+EoW8WNx0
 お姉ちゃんの身代わりをするために、過去にちょっと練習しただけのギターの経験。
 なんとか部活の時間をそれでごまかし乗り越えた。ような気がする。
 全身に疲労感を抱えて、私は帰路についている。

 軽音部の空気の中で、先輩たちにからかわれながら過ごしたひととき。
 軽音部に存在しないのは、お姉ちゃんではなく、本当は、私のはずで。

 ……ここにお姉ちゃんがいないのはさびしいな。部活の時間中、私はそんなことを思っていたはずだ。
 そしてあの場処に、もうすこし長く居てみたいとも、思っていたはずだ。

 お姉ちゃんと、私と、軽音部。

 お姉ちゃんや、先輩たちが卒業した後、軽音部はどうなるのだろう。

 ……私は、どうなるのだろう。


 思考を巡らせながら歩を進めて。見慣れた自宅の門前へ。
 玄関をくぐってほっと一息。

 ほんとうにつかれたな。おなかすいた。

 靴を脱いで、居間へと向かって。

「おかえり。お腹すいてるでしょ」

 お姉ちゃんの声を、私は聴く……

10: 2011/11/15(火) 23:50:44.49 ID:+EoW8WNx0
 ……こたつで眠っていたのだと気づいた。斜向かいにこたつに入ったお姉ちゃんが私の顔をのぞき込んでいる。

「起こしてくれればよかったのに」
 いつから、私の寝顔を見ていたのだろう。
「んー……、ごめん」
「なにか、考え込んでる?」
 目覚めた私に対してもどこか上の空な様子。
「うん、憂の寝顔見ながら、考え込んでた」
「……どんなことを?」
 
 お姉ちゃんはうつむいたまま。しばらく間が空く。

「ねえ、憂」

 私から表情を隠すように、ごつんと、額を卓に載せて。

「私は」

 そう、彼女はつぶやいた。

「一人暮らしを、しようと思うよ」

 ―――ああ、と予感が湧いた。

 さっきの夢は、この意思に応えるための、体験入部だ―――

12: 2011/11/15(火) 23:53:24.77 ID:+EoW8WNx0
「家事とか、さあ。一人暮らしをしたいんだけど、私が一人暮らしできるのかなって思う部分はやっぱりあって」

「だから、憂の顔を見ながら、思ったんだ。憂になりたいって」

 そんなことを考えてたんだ、とお姉ちゃんは微笑する。

「この家で、憂といっしょにいるほうが、楽で、不安もないって思うんだけど」

「でもね、それでも私は家を出て、一人暮らしをしてみたいって、思うよ」

「高校に入って、私は楽器をやるなんて思ってなかったよ。でも、私の高校生活は軽音部だった」

「そんなふうに、大学に入ったら、また私を変えるなにかがあるのかなって思う」

「変わるのが、楽しみだから」

 新しい生活が、楽しみだから。だから、この家を出て行くと彼女は言った。

16: 2011/11/15(火) 23:55:51.61 ID:+EoW8WNx0
「たぶん、卒業式で、私はぜんぜん泣かないと思う」

 でも、引っ越しの日には、私はきっと泣くんだろうね―――
 穏やかに想いのたけを紡いだお姉ちゃんの微笑みは、とてもまぶしくて。私のほうもつられて前向きに笑ってしまいそうな力があって。

 だから、「……いま、泣いてるよ、お姉ちゃん」といたずらっぽく私が笑ってみると。 
 「憂こそ、泣いてるよ」と彼女は返してくる。

 そうなの? とほほに手を当てる。私は微笑んでいるつもりだったのだけれど。
 でも、いま、私の視界が滲んでいるのは、お姉ちゃんの顔がぼやけて見えるのは、そういうことなのだろう。

 赤ちゃんのころから、ずっと、ずっと一つ屋根の下で暮らしてきた。
 ずっと隣に居た、私のきょうだい。双子ではないけれど、お互いがお互いの半分のようなものだった。

 あなたはさっき、私になりたいと思ったと言っていたけれど。

 そのとき私も、あなたになる夢を見ていたんだよ。

17: 2011/11/15(火) 23:58:47.41 ID:+EoW8WNx0
 お姉ちゃんが変わってゆく。環境は変わってゆく。そのことは、すごくさびしいけれど。

「ときどきは、遊びにいくよ」
「うん」

 たとえ今回ではなくても、就職とか、結婚とか、

「掃除とか、してあげるね」
「うん」

 いつかこの家から出て行って、私たちは離ればなれになることには変わりはなくて。

「食べ物とか、救援物資が必要だったらいつでも呼んでね」
「うん」

 だから、胸をつくさびしい気もちを押し込めて。

「……がんばってね。身体に気をつけて」
「……うん」

 私も、がんばって変わってゆこう。

19: 2011/11/16(水) 00:01:20.33
 それからはしばらく、言葉を交わすことはなかった。
 しんみりとした沈黙のなかには、気まずさなんてこれっぽっちもなくて。
 お互いの未来をいたわるやさしさが、私たちをつなぐ。

 静寂のなかに、満足するまでひとしきり身を浸して。
 そうして。

「お姉ちゃん、私ね―――」


 始業式が終わって。私たちは軽音部の部室に足を運ぶ。
「梓ちゃん、改めて、はいこれ」
 純ちゃんといっしょに、入部すること自体はもう伝えてあるけれど。
 改めて、私は新しい軽音部の部長に一枚の紙片を差し出した。
 軽音部の、入部希望届けを、差し出した。


「―――お姉ちゃん、私ね。来年は、軽音部に入ろうと思うよ」

 お姉ちゃんを変えた場処に、行ってみたいと思うよ―――


 END.

21: 2011/11/16(水) 00:05:12.88
実は語り手は…とかどんでん返しがあるかと思ったらほのぼの短編だったよゆいゆい

おつおつゆいゆい

引用元: 唯「おはよう。朝ご飯もうすぐできるよ」