1: 2011/05/05(木) 18:19:37.13 ID:U5LNzlZ10
まどマギSSでは異端かもしれない

十四歳に成長した鹿目タツヤが主人公のお話

ストーリー構成上、本編に未登場のモブ程度の名無しキャラが何人か登場します

もちろん本編キャラも登場します

世界観などの設定は、公式設定から勝手に妄想したものです

書きため済みです

読んで頂ければ幸いです

3: 2011/05/05(木) 18:20:19.91 ID:U5LNzlZ10
忘れられない響きがあった。
忘れられない笑顔があった。

物心つく前から、
言葉が話せるようになる前から、
生まれる前から知っていた誰か。

ツーサイドアップ気味のツインテール。
ふわふわした衣装。
大きなつぼみを頂いた洋弓。

砂場さえあれば十分だった。僕は木の棒を片手に彼女を描き続けた。

6: 2011/05/05(木) 18:21:01.91 ID:U5LNzlZ10
桜色を基調としたワンピーススカート。
白の手袋とソックス。
可愛らしい真っ赤なリボン。

僕に画用紙とクレヨンが与えられ、彼女には色彩が与えられた。

ほころんだ口元。
優しい光を宿したまなざし。
野花を手折るように微かに握られた手。

彼女の機微を表す。ただそれだけのために、僕は画法を学び始めた。

いつ、どこで、どんなふうに知り合ったのかも覚えていない。
そもそも僕は彼女に出会ったことさえないのかもしれない。

それでも、十三年の歳月が流れ、中学二年生になった今となっても、
彼女の面影は依然色濃く、僕のまぶたの裏側で生き続けている。

7: 2011/05/05(木) 18:21:46.54 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆

授業終わりのチャイムが鳴った。
形だけの礼儀を先生に払って、僕はすぐに、クロッキー帳に集中する。
ふと、余白に影が差した。クラスメイト……いや、邪魔者の登場だ。

「お前さあ、休み時間くらい絵から離れろよ」
「今日は何描いてんだ?」
「おいおい隠すなって。減るもんじゃねえだろ」

僕が手を退けると、彼らはあらかさまに顔をしかめ、

「うわ、またこのキャラかよ」
「アニメ好きとかマジありえねー」
「いい加減卒業しろよな」

僕は鉛筆の尖端を彼らに向けて、低い声で切り返した。

「誰に何と言われようと、僕は描くのをやめないからな」

ぴん、と張り詰めた空気。
大真面目な表情は、数秒ほど持ちこたえて、ふにゃりと崩れた。

「ぷっ……くくっ……」
「あははっ……」

9: 2011/05/05(木) 18:22:36.82 ID:U5LNzlZ10
小学生の頃からちっとも変わっていない。
まったく飽き飽きするほどに、お決まりの応酬だった。
僕たちのあいだでは挨拶みたいなものだ。

「どーしたの、タッくん、また虐められてるの?」
「ちょっとお、鹿目くんの芸術活動を邪魔するのやめなさいよね」

笑い声につられて女の子たちもやってくる。
こうなるともう本格的に、デッサンは中止の方向だ。

「はぁ?俺らは別にタツヤのこと虐めてねえし」
「それよりお前ら女子からも言ってやれよ。
中学生にもなってアニメのキャラに夢中になるとかマジキモイんですけどー、ってよ」
「マジキモイのはあんたらの方。
 別にいいじゃん。人が何に夢中でもその人の勝手でしょ」

そうだよそうだよ、と数人の女子が唱和する。

「それにタッくんはアニメキャラ全般が好きなわけじゃないし。
 そのキャラだけ特別に大好きなんだよね」
「でも俺らがこういう絵描いてたら、お前ら絶対オタクだの氏ねだの言うんだろ?」
「当たり前じゃん。タッくんだから許されるの」
「おいさっき言ったことと矛盾してるぞ。それじゃ完璧に差別じゃねえか!」
「差別じゃなくて区別だし」
「かぁーっ、これだからイケメンはムカツクよなあ。
 おいタツヤ、お前は今日からイケメン税として帰りに何かおごれ」

そうだそうだ、と数人の男子が合唱する。

11: 2011/05/05(木) 18:23:28.16 ID:U5LNzlZ10
僕は苦笑するしかない。
みんな、本気でいがみ合ってるわけじゃないんだ。
あくまで僕と僕の絵を、歓談の種にしているだけ。
される方はたまったものじゃないけどさ。
と、それまで遠巻きにしていた女の子の一人が、僕の絵をのぞき込んで言った。

「わあ。鹿目くんて、絵、上手なんだね」
「はは……ありがと」
「あんた、タッくんの絵見るの初めてだっけ?
 タッくんはねー、この学校の期待の星なんだよ。
 あの上条恭介に続く、世界的アーティストの卵って言われてるんだから」
「いやそれ以前に、タツヤが美術部で、いくつか賞とってることも知らないんじゃねえ?」
「うん……わたし、一年の時は、鹿目くんと違うクラスだったから……」

その子はやんわりと目を細め、薄く唇を開く。

「ねえ、鹿目くん」

その些細な所作だけで、僕は次に、彼女が何と尋ねるのか分かってしまう。

――「このキャラクターは、なんていう名前なの?」――

12: 2011/05/05(木) 18:24:10.09 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆

「あら、もうこんな時間。各自、キリの良いところで片付けるように」

早乙女先生の声で、抽象世界から現実に立ち帰る。
いつしか、美術室は西日の朱色に染め上げられていた。
僕が筆を洗っていると、隣に誰かが立つ気配があった。

「進み具合はどうですか、先輩?」

今年の新入部員の一人、ツインテールがよく似合う女の子だ。
この子は少し油絵の心得があったため、他の新入部員よりも一足はやく、
地方展向けの作品を描くことを許されていた。

「おおむね、予定通りかな。明日か明後日には仕上がると思う」
「そうですか。先輩はすごいですね。あんなに迷いのない絵が描けて」
「あはは、君が思ってるほど、僕はすごくなんかないよ。
 たくさん迷ってるし、何度も回り道をしてる。
 この色で合ってるのかな、大丈夫かな、って不安に思うこともしょっちゅうだよ」
「それでも、きちんと結果を残している先輩はすごいです。
 あたしなんか、色を重ねれば重ねるほど、
 自分のイメージと実物が離れていって、もう、ダメダメで。
 このままじゃ、締め切りに間に合うかどうかも分からなくて……」

14: 2011/05/05(木) 18:24:59.50 ID:U5LNzlZ10
彼女の苦悩は、かつて僕が経験したものだった。

「……間に合わなくてもいいんじゃないかな」
「えっ」
「僕は絵を描くのが好きだから絵を描いてる。
 君もそうだろ。
 なら、納得のいく絵が描けるまで、たっぷり時間をかければいい」

先生には怒られるかもしれないけどね、と付け足して笑う。

「鹿目先輩……あの、あたし……」

彼女が神妙な顔で何か言いかけたその時、

「ハイお喋りストップ。さっさと画材片付けろ。
 なんならお前ら二人に戸締まり役任せていいか?」

部長の檄が飛んできた。

「あたしは鹿目先輩と真面目なお話をしてたんですっ!」
「ほぉー、どんな話だよ?
 鹿目のヤツに口説かれてたんじゃねえのか?」
「ちっ、違います!
 あたし、自分の絵に自信が持てなくて、それで、
 鹿目先輩にアドバイスもらえたら、嬉しいなって……」

15: 2011/05/05(木) 18:25:40.86 ID:U5LNzlZ10
「なんで先生や部長の俺を頼らないんだ?」
「それは……別に理由はありません。
 それに部長の専門は油絵じゃなくて彫刻ですよね?」

部長は深い溜息を吐いて言った。

「確かに俺は彫刻一本で、油彩の腕も鹿目に劣る。
 が、こいつより一年長く生きてる分、知識は持ってる。先生は言わずもがなだ。
 鹿目が天才なのは認めるが、きちんとしたアドバイスが欲しいなら人選を誤るな。
 ……っと、鹿目、俺はお前を妬んでるわけじゃないからな!」
「いや、どう見ても嫉妬でしょ」

と副部長が近づいてきて言った。

「あと鹿目くんは天才じゃなくて秀才。
 才能のあるなし以前に、単純に努力を積み重ねてきた時間が違うのよ。
 部長、あなた小学生の頃何してた?
 美術の勉強をするって発想がまずなかったんじゃないの?」
「ぐ……」

16: 2011/05/05(木) 18:26:22.36 ID:U5LNzlZ10
副部長は後輩の方を向いて言った。

「君にしたってそう。
 鹿目くんにアドバイスを求める前に、一度自分で、
 自分に何が足りないのか考えてみること。
 わたしに言わせれば、デッサンも満足に出来ないうちから、
 油絵に手を出すのは時期尚早」
「うう……」

副部長はひとしきり毒舌を振るったあと、僕に向き直り、

「そういえば、ずっと君に聞きたかったことがあるんだけど」

な、何を聞かれるんだろう。
知り合ってから一年以上経った今でも、僕はこの人が苦手だった。
身を竦ませた僕を半眼で見据えて、副部長は言った。

――「鹿目くんは、何がきっかけで絵を描き始めたの?」――

19: 2011/05/05(木) 18:27:03.63 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆

家に帰ると、玄関に明かりが付いていた。
耳をすませば、弦楽の旋律が聞こえてくる。
僕は鍵をポケットにしまって、扉を開けた。

「ただいまー」
「みゃあ」

出迎えてくれたのはチェルシーだった。
一緒に暮らしている黒猫で、普段は外で遊び回っている……のだが、
今日は家で大人しく、ご飯が出されるのを待っていたようだ。
リビングでは母さんが、陶然とした表情でホログラム映像に見入っていた。
放映されているのはクラシック専門の音楽番組で、今夜の奏者は、
世界から注目を浴びている新鋭バイオリニスト、上条恭介。
奇しくも僕の通っている見滝原私立中学の出身で、
その若さと甘いマスク、才能と努力に裏打ちされた実力から、
幅広い層……特に奥様方から絶大な人気を得ている。
演奏が終わってしばらくして、母さんは思い出したように言った。

「あっ、おかえり、タツヤ」
「ただいま。……母さんがこの時間に帰ってるなんて珍しいね。
 まさかとは思うけど、今の番組を観るために早上がりしてきたの?」

21: 2011/05/05(木) 18:27:45.41 ID:U5LNzlZ10
「違う違う。大きな仕事が無事に片付いたから、部長がプチ休みくれたのよ。
 上条くんの演奏を聞けたのはただの偶然」

僕は先日聞いたニュースを思い出して言った。

「母さんは、上条恭介の結婚は許せる派?それとも許せない派?」
「許せる派。婚約した志筑仁美ちゃんとは、学生時代から付き合ってたんでしょ。
 ちょいと若すぎる気もするけど、まあ、愛があるならいいんじゃない。
 流石にわたしも、この歳で嫉妬に狂ったりはしないわよ」
「ふうん。案外冷静で安心したよ。母さんはファンの鑑だね」

そのとき、タイマーの音が鳴った。
母さんは映像機器の電源を切って、キッチンに向かった。

「今晩のメニュー、何だか分かる?」
「匂いで分かるよ。シチューでしょ?」
「正解。簡単すぎたか」
「そういえば、父さんは?」
「今日も残業で遅くなるって」

23: 2011/05/05(木) 18:28:51.53 ID:U5LNzlZ10
この家で夕食時、家族が全員揃うことは珍しい。
仕事を生き甲斐にしていた父さんと母さんは、
結婚してからも仕事を続けて、それは僕が生まれてからも変わらなかった。
でも共働きの代償として、僕を育てるのにはとても難儀した……のだそうだ。
今でも折に触れては、当時の苦労話を聞かされる。
もしも僕に兄弟ができて――母さんが二人目の子供を産んで――いたら、
きっと父さんと母さんのどちらかが、
仕事を辞めなければならないことになっていただろう、と。

「はい、これタツヤの分ね」
「ちょっと、こんなに食べられないって」
「あんたは男の子なんだから、これくらいで丁度いいの」
「太るのは嫌だよ」
「育ち盛りの子が何言ってんの。縦に栄養がいくから大丈夫。
 それにね、男は背が高ければ高いほうが女にモテるもんなの。
 タツヤもモテないよりはモテた方がいいでしょ?」
「…………」

僕はしぶしぶ皿を受け取り、母さんの着席を待つ。
と、その時玄関のほうから「ただいま」の声が響いてきた。
父さんだ。

24: 2011/05/05(木) 18:29:34.01 ID:U5LNzlZ10
「遅くなるんじゃなかったの?」

と迎えに出た僕が尋ねると、父さんは照れ気味に言った。

「母さんが早く帰れるって言ってたから、ちょっと無理したんだ」

父さんがリビングに入ると、母さんは分かりやすく顔をほころばせた。
夫婦愛は結婚生活十五年目を迎えた今も変わりないようで、
たまに息子の目も気にせずイチャついていることを除けば、とても喜ばしいことだと思う。
チェルシーの皿にキャットフードを注ぎ、席に着いて合掌する。
この前みんなで夕食をとったのはいつだろう。
そんなことを考えながら、シチューを口に運んだ。

「美味しい?」
「うん」

しばらく、食器の触れあう音と、
チェルシーの鳴き声が響く他には何も聞こえない、温かい沈黙が流れて、

「本当に大きくなったね、タツヤ」と出し抜けに父さんが言った。
「どうしたのさ、急に」
「ん……ふとそう思ったんだ。
 プチトマト一つ満足に食べられなかった頃のタツヤが懐かしいよ」

27: 2011/05/05(木) 18:30:17.55 ID:U5LNzlZ10
「もう忘れちゃったよ、そんな昔の話」
「こら、中学生の分際で『昔』なんて言葉使わない」と母さんが言った。
「トマトで口を真っ赤にしたタツヤ、可愛かったなぁ」
「や、やめてよ母さん」

僕の抗議も意に介さず、父さんと母さんは、
僕が小さかった頃の思い出話に花を咲かせ始めた。
勝手にやってればいい、と黙々とシチューをかき込みつつも、
聞き耳を立てている自分がいて、
それを二人に気づかれていると思うと、なんとも居心地が悪い。
視線を脇に逸らすと、空っぽの椅子が目に着いた。
三人プラス一匹家族の僕たちには要らない、
四人掛けのテーブルの、四つ目の椅子。
得体の知れない喪失感が胸に去来し、
それを満腹感で埋めるように、僕はスプーンを往復させた。

「――タツヤが三歳くらいの頃からかな」
「うん、その時期だね。タツヤの甘えん坊さんが大人しくなったのも、丁度それくらいだから」

28: 2011/05/05(木) 18:30:58.45 ID:U5LNzlZ10
無意識のうちに尋ねていた。

「今度は何の話してるの?」
「ははっ、やっぱり気になるか。
 タツヤにしか見えなかったお友達の話だよ」
「あの頃のタツヤは、見えないお友達に夢中だったよねえ。
 母親のわたしが嫉妬しちゃうくらいにさ」

父さんは笑いながら、僕に訊いてきた。

――「今でもタツヤには、あの子の姿が見えているのかい?」――

29: 2011/05/05(木) 18:32:28.56 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆

夕食を終えた僕は、自室ではなく、その隣室に向かった。
二階まで着いてきたチェルシーとも、ここでしばしのお別れだ。

「みゃあ、みゃあ」
「ダメだ。
 お前には僕の絵をびりびりに破いた前科が、四犯もあるんだからな」

不服げにのどを鳴らすチェルシーを閉め出し、電気をつけると、
散らかった画材やぞんざいに捨て置かれた習作があらわになる。
ここは僕が家で絵を描くときの作業スペース、
格好をつけるなら、アトリエといったところだ。
片付けを怠っても誰にも怒られない(母さんもこの部屋には入らない)ので、
ずいぶん長いこと、この部屋の惨状は放置されている。

「綺麗好きの副部長が見たら発狂するだろうな」

独りごちて、部屋の真ん中にあるスツールに腰掛けた。
しばらくすると、チェルシーが扉をひっかく、カリカリという音が止んだ。
あきらめて一階に降りたのだろう。
いつものように適当なモチーフを選んで、
眠くなるまでデッサンの練習をするはずが、どうにもやる気が出なかった。
理由が何かは分かっている。教室で、部室で、リビングで……。
今日はいろいろな場面で、彼女のことを意識させられたから。

30: 2011/05/05(木) 18:33:12.78 ID:U5LNzlZ10
忘れられない響きがあった。
忘れられない笑顔があった。


――まどか。


物心つく前から、
言葉が話せるようになる前から、
生まれる前から知っていた誰か。

ツーサイドアップ気味のツインテール。
ふわふわした衣装。
大きなつぼみを頂いた洋弓。

砂場さえあれば十分だった。僕は木の棒を片手にまどかを描き続けた。

桜色を基調としたワンピーススカート。
白の手袋とソックス。
可愛らしい真っ赤なリボン。

僕に画用紙とクレヨンが与えられ、まどかには色彩が与えられた。

綻んだ口元。
優しい光を宿した双眸。
野花を手折るように微かに握られた手。

まどかの機微を表す。ただそれだけのために、僕は画法を学び始めた。

31: 2011/05/05(木) 18:33:56.80 ID:U5LNzlZ10
いつ、どこで、どんな風に知り合ったのかも覚えていない。
そもそも僕は彼女に出会ったことさえないのかもしれない。
それでも、十三年の歳月が流れ、中学二年生になった今となっても、
彼女の面影は依然色濃く、僕のまぶたの裏側で生き続けている。

僕は部屋の片隅に置かれた、真っ白なキャンバスに近づいた。
明確なイメージはある。誰かに賞賛される程度の技術も身につけた。
けど、いざこのキャンバスを目の前にして木炭を握ると、
僕は途端に、まどかを描く自信をなくしてしまうのだった。

――心象の観察は十分か?――
――お前の技能は真に熟されたものか?――

そんな心の声が、いつも僕の筆先を、下書き帳に向かわせた。

ふと、キャンバスから逸らした視線が、カレンダーに止まった。
あと数日で五月が終わる。
それは『あの人』と再会できる日が、確実に近づいていることも意味していた。

32: 2011/05/05(木) 18:34:40.10 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆

外は柔らかい雨が降っていた。
昇降口で外靴に履き替え、折りたたみ傘を開く。
通学鞄を肩にかけ直したとき、僕の名前を呼ぶ声がした。

「あ、あの……ご一緒しても、いいですか?」

僕によく懐いてくれている後輩だった。
よほど慌てて走ってきたのか、顔は上気し、呼吸も乱れている。
僕は言った。

「帰る方向、同じだったよね。いいよ。一緒に帰ろう」

雨音の響く帰り道。
部活のこと。
勉強のこと。
友達のこと。
他愛もない会話の果てに、彼女はぽつりと呟いた。

「この前は、本当にありがとうございました。
 先輩のアドバイスがなかったら、
 きっとあたし、地方展の締め切りに間に合ってなかったと思います」

34: 2011/05/05(木) 18:35:29.46 ID:U5LNzlZ10
「お礼なんて要らないよ。
 先輩が後輩を助けるのは、当たり前のことなんだから」

数拍の沈黙を置いて、彼女は言った。

「……あたし、先輩に憧れて美術部に入ったんです」
「えっ」
「何年か前に、お母さんに連れられて、近くの美術展に行ったことがあって……。
 その時のあたしは、絵に全然興味なんかなくって、美術展に行くのも嫌々で。
 でも、その時に偶然先輩の絵を見て……、
 わたしにも、こんな絵が描けたらいいな、って」
「…………」
「あのう、先輩?」
「ごめん。正直なところ、どんな反応をしたらいいのか分からない。
 誰かに面と向かって憧れてる、なんて言われたのはこれが初めてだから」
「あはは、そうですよね。
 いきなりそんなこと言われても困っちゃいますよね」
「でも、やっぱり嬉しいよ。
 美術展には、他にもたくさん絵があったはずだよね。
 その中から僕の絵を選んで、憧れを持ってもらえたなんて光栄だ」
「先輩の絵は、他の人の絵と違う、不思議な感じがしたんです」
「不思議な感じ?」
「はい。上手く説明できないんですけど……。
 先輩の絵は全部、独特の雰囲気があって、
 モチーフとは別の、目に見えない何かも一緒に描かれてる気がして……。
 だから、もし誰かが先輩の描き方を真似しても、
 先輩と同じ絵は描けないと思うんです」

35: 2011/05/05(木) 18:36:18.24 ID:U5LNzlZ10

彼女の指摘は的を射ていた。
モチーフとは別の、目に見えない何か。
彼女は恐らく僕の絵を透かして、まどかの幻を見ていた。

「先輩が絵を描き始めたきっかけは、どうしても描き表したい人がいたから。
 以前、副部長に訊かれて、先輩はそう仰ってましたよね。
 ……その人は先輩にとって、どんな人なんですか?
 全然関係ない絵にも影響を与えるくらい、先輩にとって大切な人なんですか?」
「………」

そんなことを聞いて何の意味があるんだ?
僕にも分からないことが君に分かるわけないだろ――。
喉元まで迫り上がってきた酷い言葉を、すんでのところで呑み込んだ。
右手に広がる河川敷。
小雨に濡れた芝の上に、赤い傘をさした女性の孤影を見たからだ。

「ごめん。先に帰っていてくれないかな」
「えっ……でも……」
「さっきの質問には、今度、ちゃんと答えるから」

僕は後輩に背を向けて、石造りの階段を下りていった。
僕は彼女に歩み寄りながら、声をかけた。

「お久しぶりです」

36: 2011/05/05(木) 18:37:05.37 ID:U5LNzlZ10
「予定外よ。今日、こんな場所でタツヤくんに会うのは……。
 今は学校からの帰り?」
「はい」
「あの子、放っておいていいの?」
「気にしないで下さい。ただの、部活の後輩ですから」
「タツヤくんの彼女じゃなかったんだ」
「ち、違いますよ」
「そう……」

僕が隣に並ぶと、彼女はわずかに傘を上げて、上目遣いにこちらを見た。
漆黒のワンピースに、ヒールの高い編み上げパンプス。
湿気を帯びても艶を失わない、腰まで届くほど長い髪。
黒を基調とした出で立ちと、隙のない佇まいは、
見る者に高貴な猫を連想させる。

「よく後ろ姿を見ただけで、わたしだって分かったね」
「暁美さんほど綺麗な髪の持ち主を、僕は暁美さん以外に知りません」

彼女は小首を傾げて僕の誉め言葉を聞き流し、

「ほむらでいい、って前にも言わなかった?」
「無茶、言わないで下さい」
「何も難しいことじゃないでしょ?
 昔は、あんなに気軽にわたしの名前を呼んでくれたのに。なんだか寂しいな」
「それは、あの頃の僕が……まだ子供だったから……」
「ふうん。じゃあ大人になったタツヤくんは、もう二度と『ほむらお姉ちゃん』って呼んでくれないんだ?」

37: 2011/05/05(木) 18:37:50.61 ID:U5LNzlZ10
悪戯っぽい笑みに、ドキリとさせられる。
熱を帯びた顔を見られたくなくて、僕は視線を足もとに落とした。

「…………」
「ふふっ、ごめんね。タツヤくんと話していると、ついからかいたくなるの。
 でも、本当に堅苦しい呼び名はやめて。
 わたしにとってタツヤくんは、まだまだ小さな子供なんだから、
 遠慮なく甘えてくれていいのよ」

わたしにとってタツヤくんは、まだまだ小さな子供――か。参ったな。

「……ほむらさん」
「え?」
「それで我慢してください」
「うん、分かった。本当はちょっぴり不満だけどね」

本心を明かせば、僕はこの人をほむらと呼び捨てにしたかった。
子供の頃のように、くだけた口調で話したかった。
僕はこの人を一人の女性だと認め、
この人は僕を一人の男性だと認める。
そんな関係を、いつの頃からか夢見ていた。
現実にはなりえない、本当の意味での夢幻だと知りながら。

38: 2011/05/05(木) 18:38:42.94 ID:U5LNzlZ10

「そういえば暁美さ……ほむらさんは、どうしてここに?」
「ただの懐古よ。
 ここはわたしにとって、色々と思い出深い、
 昔を振り返るにはぴったりの場所なの」

僕はつい最近、『昔』という言葉を使って母さんに叱られたことを思い出した。
果たして母さんは、この人が使う『昔』を咎めるだろうか。
きっと、咎めないだろう。
彼女の物憂げな瞳は、確かに現在とは違う、遠い過去を見据えている。

「あの辺りね」

不意に伸ばされた、人差し指の先を見る。
刈り込まれた芝から外れたその場所は、雑草が伸びたい放題になっていた。

「草むらがどうかしたんですか?」
「忘れたの?わたしとタツヤくんが、初めて会った場所よ。
 十年前、あそこは砂地の遊歩道で、タツヤくんは一人でお絵描きしてた」
「ああ……」

記憶が、蘇る。

39: 2011/05/05(木) 18:39:24.88 ID:U5LNzlZ10
―――
――


黄昏時の河川敷。
地面をキャンバスに、木の棒を絵筆に見たてて、幼い僕は絵を描いていた。
ふと、誰かの気配を感じて顔を上げると、そこには見知らぬ女の人がいた。
作品を誉めてもらいたくて、その題名を口にした。

『まどか、まどか!』

その人は優しく微笑んで、

『うん、そうだね。そっくりだよ』

と言ってくれた。
けれどその時すでに、僕の興味は別のものに移っていた。
僕はその人の髪に結わえられた、赤いリボンに手を伸ばした。
そこになぜか、まどかの気配を感じて……。


――
―――

40: 2011/05/05(木) 18:40:18.83 ID:U5LNzlZ10
「雨、上がったね」
「……本当だ」

雨音が消え、わずかに水量を増した川のせせらぎが聞こえる。
傘を閉じた今、僕の目には、
あの日と同じ箇所に結わえられた赤いリボンが、はっきりと見て取れた。

「チェルシーは元気にしてる?」
「元気すぎて困ってるくらいです。この前も一枚、絵を破かれちゃいました」
「あの子を責めないであげてね。
 きっとタツヤくんが家にいない時間が増えて、
 寂しがっているんだと思うわ」
「スキンシップの時間は、たっぷり取ってるつもりなんだけどな……」

チェルシーは元々、ほむらさんの猫だった。
五年くらい前、ほむらさんが世話をしていた猫が生んだ子猫を、僕が引き取ったのだ。
チェルシーの母猫であるエイミーは、出産からしばらくして氏んだ。
ほむらさんの話では、日向で、眠るように息を引き取ったそうだ。
僕はそれが薄命だとは思わない。
交通事故に遭ったところをほむらさんに助けられていなければ、
エイミーはもっと早くに、この世を去っていたはずなのだから。

41: 2011/05/05(木) 18:41:05.02 ID:U5LNzlZ10
「早乙女先生は、今も美術部の顧問をされているの?」
「はい」
「結婚生活は順調そう?」
「ヒマさえあれば惚気てますから、順調だと思います。
 早乙女先生が結婚する前……ちょうどほむらさんが在学していた頃は、
 ヒマさえあれば、別れた彼氏の文句を言ってたんですよね」
「どうしてそれをタツヤくんが知ってるの?」
「OB、OGの方々が話してくれたんです。
 折れた指示棒の数は百じゃきかないって、本当ですか?」
「そうね……だいたい二ヶ月に一本は折ってたから、あながち間違いじゃないと思うわ」
「うわ、先輩の冗談じゃなかったんだ」

ほむらさんはくすくすと笑って、学生時代を懐かしむように目を細めた。
それから僕たちは、主に僕の近況報告を中心とした話題で、
時間が経つのも忘れて話し込んだ。
ふと視線を上げれば、暗い雨雲は綺麗に晴れ、
水平線に立ち並ぶ建物は、黄金色の斜陽に縁取られていた。
気持ちのいい夕風が吹き抜け、ほむらさんの髪をかき乱した。
彼女は右肩の少し上辺りを見て、
次に髪を押さえた左手の中指――正確には中指にはめられた銀色のリング――を見つめた。

42: 2011/05/05(木) 18:42:18.13 ID:U5LNzlZ10
「……そう、分かったわ」
「ほむらさん?」
「ううん、なんでもないの。ただの独り言」

ほむらさんの目に、寂しげな色が浮かぶ。

「お別れの時間ですか?」
「…………」

どうして分かるの、と問われた気がして僕は言った。

「そうやって独り言を言ったり、指輪を見つめたりした後ですよね。
 ほむらさんが僕の前から姿を消すのは」
「……流石に見抜かれてたんだね。残念だけど、当たりよ。
 わたしはそろそろ行かなくちゃ。
 でもその前に……ねえ、タツヤくん……まどかの絵は完成した?」

それは恒例の質問だった。
僕が首を横に振ると、ほむらさんは「そっか」と微笑んで、僕の頭を撫でてくれた。
ほむらさんは、僕以外にまどかの存在を知る、恐らく唯一の人間だった。
ある時、まどかの正体について知りたがった僕に、ほむらさんはこう言った。

――『タツヤくんが、タツヤくんが思う最高のまどかの絵を描けたとき、
    わたしは、わたしがまどかについて知っていることを話すわ』――

43: 2011/05/05(木) 18:43:32.52 ID:U5LNzlZ10
それから数年の時が流れた今も、僕は"最高の一枚"を描き上げることができずにいる。
絵に評価を下すのはほむらさんではなく、僕自身だ。
適当に描いた絵を「最高の一枚だ」と言って自分を騙すことはできないし、描き直しも僕の矜持が許さない。
そしてそれこそが、僕のアトリエの片隅に置かれたキャンバスが、いつまでも真っ白な理由だった。

「じゃあ、またね」

晩春、晩夏、晩秋、晩冬。
四季の節目に現れては、僕の近況を尋ね、最後に絵の進捗度を尋ねて、ほむらさんは去っていく。

「待って下さい!」

無意識のうちに、呼び止めていた。
彼女は半身を翻して、髪を耳にかけて言った。

「なあに?」
「……………」

三つ。
それは僕がまどかのこと以外で、ほむらさんに向けてはいけない質問の数だ。
ひとつ――あなたはどうして、僕を気に掛けてくれるんですか?
ひとつ――あなたの指に嵌っているリングには、どんな意味があるんですか?
ひとつ――どうしてあなたは僕と初めて出会ったときから、歳を取っていないんですか?

44: 2011/05/05(木) 18:44:14.51 ID:U5LNzlZ10
逡巡の果てに、僕は言った。

「また、会いにきてくれますよね?」
「当たり前じゃない。
 わたしはいつでも、タツヤくんを見守っているわ。
 それと……あの子のこと、大切にね」

強い風に、思わず目を瞑った。
次に目を開けたとき、ほむらさんの姿はどこにも見えなくなっていた。

「さよなら」

誰にも届かない別れの言葉を呟いて、石段を登る。
そこで僕は、ほむらさんが言い残した言葉の意味を知った。

「ここで、ずっと待ってたの?」
「二人のお話がもう少し長引くようなら、帰るつもりでした」

僕は腕時計を見て驚いた。
先に帰っていていい、と僕に言われてから、
この子はかれこれ、一時間近くも待っていてくれたことになる。
僕は言った。

「あの人は暁美ほむらさん、っていってね。
 僕にとっては、頼れるお姉さんみたいな存在で、
 季節の変わり目には、必ず会いに来てくれるんだ」

45: 2011/05/05(木) 18:45:05.30 ID:U5LNzlZ10
「それじゃあ、先輩が絵を描き始めたきっかけになった人って……」
「ほむらさんとはまた別の人だよ。
 さっきの質問には、今からきちんと答えるから急かさないで。
 何かこの辺に、先の尖ったものはないかな」
「あっ、これなんかどうですか?」
「うん、ちょうどいいよ」

差し出された木の棒を受け取る。
深く息を吸い込むと、濡れた土の匂いがした。
これまでに、誰かにまどかのことを話したことはない。
母さんも父さんも、僕にしか見えなかった友達は、
成長と共に、僕にも見えなくなったのだと思い込んでいる。
まどかの存在を教えることに、不思議と恐れは感じなかった。
もしかしたら僕はずっと前から、僕が絵を描き始めた本当の理由を、
まどかの存在を、誰かと共有したかったのかもしれない。
そしてこの子なら……。
僕の絵の中にまどかの影を見たこの子なら、僕の話を信じてくれると思った。

「僕が絵を描き始めた、本当の理由はね――」

僕は地面に彼女を描きながら、言葉を選んで、彼女のことを語った。



その日、僕はあのキャンバスに、初めて木炭の線を引くことができた。

46: 2011/05/05(木) 18:46:28.03 ID:U5LNzlZ10
◇◆◇◆  - XX years later -

こめかみに微弱な電流を感じて、僕は薄く目を開いた。
網膜に投射された拡張現実が、面会希望者が現れたことを知らせてくれる。
僕は視線を動かして、『承認』を選択した。

全天の採光ガラスから、淡い橙色の光が差し込んでいた。
ここは大病を患い、余命を告げられた人間が、穏やかに氏と向き合うための施設だ。
一昔前の言葉で表すなら、ホスピスといったところだろうか。
僕は肺を悪くしていた。
往年の名声と人脈を使えば、よりよい施設で命を長らえさせることもできただろう。
しかし僕は妻と子供たちの反対を押し切って、ここを自分の氏に場所に選んだ。
今や、僕にやり残したことは何もなかった。

訪問者の到着通知を最後に、僕は拡張現実をオフにした。
扉が開き、誰かが僕の傍に近づく気配があった。
今の僕には、上体を起こす力さえ残されていない。
首だけを横に動かすと、赤いリボンがよく似合う、長い黒髪の少女が佇んでいた。
すべやかな手が、僕の皺だらけの手を包み込んだ。
僕は目線で、部屋の片隅に置かれたキャンバスを指した。
ぼろぼろの肺で息を吸い、しなびた喉で題名を言った。

「……まど……か……」

彼女は握る手に力を込めて、震える声で言った。

「うん、そうだね。そっくりだよ」

47: 2011/05/05(木) 18:47:45.66 ID:U5LNzlZ10
どれほどこのときを待ち望んできただろう。
長いあいだ筆を入れ続け、握力を失う数日前に、僕はまどかを描き終えた。
でも……ああ、とても残念だけれど……この体にはもう、時間が残されていない。
焼けるような痛みが胸に広がり、
たまらずに咳をすると、血の斑点が彼女の服を汚した。

「大丈夫よ。きっとまどかは、あなたを迎えに来てくれる」
「僕を……迎えに……?」
「まどかのことを覚え続けていたあなたなら、きっと向こうでも、まどかに会える」
「そうか……じゃあ……安心だ……ね……」

ぽつり、と何かが僕の頬をぬらした。
見上げれば、彼女の組み合わさった睫の端から、透明の雫が溢れ出していた。
彼女がここにやってきたのは、僕の最後を看取るため。
まどかの記憶が語られることはないと、僕は、心のどこかで分かっていた。
藤色の光が、僕の体を包み込む。
すっと胸の痛みが引いて、瞑ったまぶたの裏が、優しい白に染まった。

忘れられない響きがあった。
忘れられない笑顔があった。

――「タッくん」――

今、誰かが僕の名前を呼んだ。

――「お姉ちゃん」――

僕は声のした方へ、ゆっくりと歩き始めた。

おわり

48: 2011/05/05(木) 18:49:44.62

49: 2011/05/05(木) 18:50:11.96

引用元: ほむら「うん、そうだね。そっくりだよ」