4: 2011/01/09(日) 17:17:39.55 ID:NEgFNGyE0
◆序章 言葉にできない

 「私には正しさが必要なのよ」

 朝倉涼子は、たびたびその言葉を口にしていた。

 「それはあやふやであり、感情的であり、我々には不要なもの」

 そのたびに長門有希はそう返答した。朝倉は長門の顔を恨めしそうに見つめたあとで

 「長門さんには分からないことなのよ」

 そう、恨み言のように呟く。
 それは彼女たちの間で幾度となく繰り返された、儀式のようなやりとりだった。
 その短いやり取りを繰り返すことが、二人が二人であることを忘れずに有り続けるために
 絶対に欠かしてはならない、おまじないのようなものだったのだ。

 朝倉涼子は、毎日決まった時間に買い物に行き、毎日決まった時間に台所に立ち
 毎日決まった時間に、長門有希を食卓に呼んだ。
 それは世界が二人を必要とした

 「私にはこれが必要なことなのよ」

 長門には朝倉の言う『必要』であるということが、どういったものなのか
 長い間、理解することが出来なかった。

5: 2011/01/09(日) 17:23:45.56 ID:NEgFNGyE0

 「そうね、あなたには必要のないものかもしれないわね」
 「何故?」
 「あなたと私には、与えられたものが違うからよ」

 はるか情報統合思念体が長門に与えなかった何かを、朝倉涼子は所持している。

 「そうよ。だから私は、こんな無駄なことをしてしまうの」
 「あなたはそれを必要なことだと言ったはず」
 「でも、それはあなたにとっては無駄なことなのでしょう?」
 「無駄であるとも、必要であるとも言っていない」
 「そうね」

 長門は用事もなく部屋を出ることはなかった。
 閉ざされた部屋の中で、長門はただ時間が過ぎるのを眺めていた。
 朝倉は決まった時間に食事の用意をし、時間が来ると、自分の部屋へと戻って行った。



 二人はただただ、その決まりきった日常を繰り返し続けた。
 あるいは、それが二人にとって、朝倉の示すところの『正しさ』だったのかもしれない。



……

6: 2011/01/09(日) 17:29:05.31 ID:NEgFNGyE0

 「あの扉の向こうには、きっと、長門さんにとっての正しさがあるのね」

 朝倉は時折、閉ざされたままの引き戸に視線を送り、そんな事を呟くことがあった。
 長門は、その扉の向こうに誰が居るのかを知っている。
 朝倉涼子がこの世に生まれるより前。長門の住むこの部屋をたずねてきた少年と少女が
 止まった時間の塊とともに、眠り続けているのだ。

 「私が彼らを起こしたら」

 朝倉は言った。

 「長門さんは怒るかしら?」
 「望ましいことではない。それに、あなたでは不可能」
 「そうね」

 朝倉は無感情の現れであるかのような、冷め切った声色で、呟いた。

 「私は劣っているもの。長門さんよりもずっと」

 劣る。それが単純な機能面においてのみの意味合いでないことが、長門にはなんとなくわかった。



 朝倉涼子は、長門にはかけているものを持っている。
 それだというのに、朝倉涼子は長門よりも劣る存在である。
 それが長門にとっては不思議なことだった。


……

7: 2011/01/09(日) 17:34:15.13 ID:NEgFNGyE0

 朝倉は『正しさ』を手にできるはずがなかったのだ。と、長門は思った。
 それを感じたのがいつであったかは分からない。
 長門にとって、時間とは、そこにあるようでないものなのだ。


 長門と朝倉は、この世界が犯してしまったのかもしれない
 大いなる『過ち』に干渉するために生まれた。
 二人が『正しさ』にたどり着く事があるとしたら、それは同時に
 二人の存在が、一切の価値を失うということなのだ。

 「長門さん。私、たまに思うのよ。世界にとっての過ちとは、私たちのほうなのかもしれないわ」
 「理解できない」
 「だって、世界は私たちのものじゃあないもの」



 時々、朝倉は涙を流した。

 朝倉や長門こそが、この世の過ち。
 それが正しいのか、間違いなのか。長門には分からなかった。


……

8: 2011/01/09(日) 17:37:11.86 ID:NEgFNGyE0

 「長門さん、私をしっかりと見ていてね」

 朝倉涼子が長門有希によって、情報連結を解除される前の晩。朝倉は長門にそう告げた。

 「私はもう、私ではなくなってしまったの。いうなれば、私はあなたと同じになってしまったの。
 私は正しさを求めることさえ出来なくなってしまったわ」

 朝倉は涙を流すことはなかった。
 けれど、朝倉が言葉を放つたび、声を上げるたびに
 長門は朝倉の全身から滲み出てくる『過ち』を感じていた。
 それは長門には与えられず、かつて朝倉が持っていたもの。

 「長門さん。あなたが私のことを、好きだと思ってくれた事が、一度でもあってくれたのなら
  きっと私はとても喜んだと思うわ」
 「そう」



 翌日の夕暮れ、朝倉は長門の手によって、情報連結を解除された。

 「キョン君のこと好きなんでしょ? 分かってるって」

 今わの際に、朝倉は長門にそう告げた。
 そうかもしれない。
 長門は、それを否定するだけの材料も持っていなかった。
 長門はその夜、朝倉と出会ってから初めての、夕食を摂らずに過ごす夜を迎えた。


……

9: 2011/01/09(日) 17:44:09.20 ID:NEgFNGyE0

 「何を歌ってるんだ?」
 「古い歌」
 「それは分かるさ」
 「貴方も歌って」
 「少ししか歌詞を知らん」
 「一言だけが分かればいい。あとは、私が歌う」


……


 もしも朝倉涼子が、長門有希とまったく同じものしか所持していなかったとしたら。
 朝倉には与えられ、長門には与えられなかったものが、朝倉に与えられなかったとしたら。
 朝倉は、長門の前から消えずに済んだのだろうか。

 「それは意味がないわよ」

 長門の中で、朝倉が笑う。

 「そんな私じゃあ、長門さんと一緒にいたいと思わなかったもの」

 長門は、朝倉とともにありながら
 朝倉が食事を用意してはくれない日常を思い浮かべてみた。
 しかし、長門の胸に芽生えたその不思議な空白が、一体何であるのか。長門には分からなかった。
 長門には欠けているものが多すぎたのだ。


……

10: 2011/01/09(日) 17:46:27.69 ID:NEgFNGyE0

 「夢がある」
 「どんな夢だ?」
 「涙を流してみたい」
 「そうすると、どうなるんだ?」
 「私にも、理解できるかもしれない」
 「何をだ?」
 「彼女が私とともに居てくれた理由を」
 「そうか」


……


 長門には求めるものがあった。
 それが一体何なのか、長門には分からなかった。
 けれど、だからこそ長門は


……

12: 2011/01/09(日) 17:49:12.17 ID:NEgFNGyE0

 「あなたは私に、好きといわれたい?」
 「当たり前よ」

 朝倉は言った。

 「私は長門さんが好きなの。必要としてるの」
 「私が存在しない場合、あなたが存在する意味はない」
 「そうね」

 朝倉はすこしさびしそうに眉を顰め

 「たったそれだけのことなのかもね」

 そういって、笑ったあとで、長門に触れられながら、わずかに涙を流した。



 「あなたに会えてよかったわ」
 「それは、あなたが存在する理由以上の理由で?」
 「わからないわ。でも、うれしいの」

 朝倉は笑った。
 長門には、朝倉涼子が、過ちで生まれたものであるようには、どうしても思えなかった。


……

13: 2011/01/09(日) 17:52:38.93 ID:NEgFNGyE0


 長門はこれから先、自分が引き起こすであろう過ちのことを思った。
 それは果たして、過ちなのだろうか。


 ―――私には、正しさが必要なのよ」



 長門は正しさを求めているのだろうか。




……




 「長門さん、好きよ」
 「あなたに会えて、よかった」






14: 2011/01/09(日) 17:57:05.75 ID:NEgFNGyE0

◆一章 空と君とのあいだには/朝倉涼子の発現



 「何故、貴方は眠るの」
 
 以前、長門さんにそう尋ねられた事があった。
 私が彼女と共に居るようになってから、大体数ヶ月ほどが経過した時のことだったと思う。
 
 「それはね、長門さん。人間は眠るものだからよ」
 「貴方には睡眠をとる必要はないはず」
 「そうね。私は人間でないもの」
 「貴方も、私も、限りなく人間に近い概念ではある。しかし、違う」
 
 横たわる私を見下ろす長門さんの口調は、いつもと変わらない、極端に温度差に乏しい、事務的なものだった。
 
 「私は人間のフリがしてみたいのよ」
 
 肩まで羽毛の布団に包まったまま、すぐ傍らに経っている長門さんを見上げていると
 私のすべてが、この世界ごと、長門さんの手のひらの中に納められてしまったかのような気がした。
 
 「そう」
 
 私の言葉を聴いた長門さんが、一体何を思ったのかはわからない。
 あるいは、長門さんはただの一度も、何かを思ったことなんてないのかもしれない。
 でも、考えても見れば。長門さんが何かを思うことがなければ
 長門さんが私に、何故私が睡眠をとるのか。などということを訊ねかけてくるはずはなかったのだ。
 つまり、そのときからすこしづつ、長門さんには変化がおきていたのだと思う。

15: 2011/01/09(日) 18:00:40.99 ID:NEgFNGyE0
 ついでに言うと。
 だからこそ私は、こんなにも長門さんづくしになってしまったんだろうな。とも思う。

 何はともあれ。
 私はたまに長門さんに突っ込まれながら、長門さんのすぐ傍で、長い長い暇つぶしの日々を送っていた。

 ついでに言うと、私はけっこう冗談抜きに、この暇つぶしの日々が終わらなければ良いと何度か考えた。
 私にこんなことを考えさせるような采配をする情報統合思念体は、正直どうなんだろうとも考えたが
 考えてみればこのときからして、長門さんはイレギュラーにやられつつあったわけで。
 でもって、私が長門さんに惹かれるようになったのは、要するに長門さんがイレギュラーと成りはじめてからであって。
 つまるところ、すべてはイレギュラーだらけだったのだ。
 思念体様のご意向なんてのは、相当の初期から台無しの一途を辿っていた。
 情報統合思念体とはかくも弱きものである。
 ついでに言うと、それに作られた私も。
 

……


 そんなわけで、私は前々から、たまに眠るという行為に及んでいた。
 それゆえに、その瞬間、その場所に構築された瞬間
 私はたった今『目覚めた』のだと思った。

 それがもしも本当に『目覚め』であったのなら、それはずいぶんと質のよい目覚めだっただろう。
 何しろ、たった今機能を取り戻したばかりという、あのぼんやりとした重みのようなものもなければ
 長時間放り出していたことによるからだの痛みなどもひとつも伴わなかった。

 私は、気がつくと、その薄暗い教室の中央に、直立の体制で存在していた。

16: 2011/01/09(日) 18:04:31.11 ID:NEgFNGyE0

「……あは」
 
 正直言って、まったく意味が分からなかった。私の身に、一体何が起きたというのか。

 見ると、そこは以前、私が『彼』を呼び出したあの教室だった。
 そして、同時に。そこは、私が長門さんの手によって、情報連結を解除された場所でもある。

 ……さて。此れは一体、どうしたことかしら。

 私はそれまで、基本的に、意識の根底の部分に目的というものを植えつけられていた。
 今、自分がすべき最も重要なことがらが何であるかを見失うことは決してなかったし
 つまり、自分が一体なにをすれば良いのかなどと迷ったことは一度もなかった。

 けれど。その瞬間、私は見事なまでに空っぽだった。
 目的意識を持たないいまどきの若者だった。
 もういっそ、有機生命体たちの赤ん坊のようなものだ。はい、たった今生まれました。ああ苦しかった。って、何だろうここは。人がいっぱいいるし、いきなりお湯をかけられるわ、もう何がなんだか分かりません。たすけて……
 気分としてはそんなような感じ。うん、多分近い。

 一つだけ分かるのは。もし、私が、情報統合思念体の意思で再構築されたというのならば
 彼らは私の中に、目的意識を植え付け忘れるなどという、平凡でつまらない手違いはしないはずだ。
 多分。
 つまり。私は情報統合思念体の意思とは無関係に、この場に再構築されたのだということになる。
 多分。
 
 ……数分は、その場に留まっていただろうか。
 とにかく、その場に居たところで何も話は進まないと気がついた私は。
 無人の教室を後にして、とりあえず、この薄暗い校舎を脱出することにした。
 しかし。此処でいきなり、最初の問題に遭遇してしまった。

17: 2011/01/09(日) 18:13:17.09 ID:NEgFNGyE0

 「……あら?」
 
 廊下へ出るための唯一の経路である、教室の前後に取り付けられた引き戸は、何かによって固定されており
 私がどれだけ引っ張っても、わずかに音を立てて揺れる程度で、一向に開いてくれはしななかった。
 何故? 私は自分に問いかけてみる。
 すると、私の中で息を潜めていた、常識的な女学生としての記憶がこう告げた。
 
 「深夜の教室には、普通鍵が掛かってるものよね」
 
 暗闇の中で一人呟き、一人納得する。
 何もおかしなことではない。どちらかというと、おかしいのは、その施錠された教室の中に存在してしまっている私のほうだ。
 
 「もう……」
 
 まったくもって何がおきているのかわからないこの状況下で、常識を突きつけられることになるとは思わなかった。
 私はすこしふてくされながら、引き戸の取っ手に手をかざし、情報操作を試みようとした。

 しかし。ここで問題がまた一つ発生する。
 なんというか、私はもっと早くにその事実に気がついても良かったんじゃないかと思う。

 手っ取り早く言えば、私は情報操作を行う能力を失ってしまっていたのだ。
 いつものように、私の指先がキラリと光ることもないし
 物事が従順なペットのように、私の思い通りに動いてくれることもない。
 引き戸は引き戸だし、鍵は鍵。
 無機物たちは、依然として、私の行く手を阻むことをやめようとはしなかった。


 ―――な、何、これ、とじこめられたの?
 

18: 2011/01/09(日) 18:17:58.31 ID:NEgFNGyE0
 情報操作が行えないという事実が、急に私を弱気にさせる。感情が萎縮し、嫌な汗が滲み出てくる。
 つまるところ、私は今、普通のか弱い女学生とまったく同じだけの力しか持って居ないということだ。
 良くある物語のように、何の力も持たない女学生が、不思議な力を手にしてしまった上で、何がなんだか分からない世界に迷い込んでしまうとでもいうのなら、まだ話も分かるのだが
 かつては不思議な力を持っていた私が、その力を失った上で、わけの分からない状況に放り込まれてしまうというのは、どんな神経を持ってしても納得できない。責任者を呼んでほしい気分だ。
 
 「だ、誰か、助けて!」
 
 ほとんど無意識のうちに、私はそう叫んでいた。
 この校舎中に声がいきわたり、誰かが助けてくれることを望んで、お腹の底から。
 持っていた力を奪われてしまうということが、これほどの不安をもたらすことだとは思わなかった。
 まったく、これでは冗談抜きに、私はそこらのか弱い女学生と同じじゃあないか。
 いや。自分が宇宙人であり、今はない力を以前は持っていたという意識を持っている事を考えたら、私は普通よりもすこし頭の温かい女学生のカテゴリに入れられてしまうかもしれない。
 そう考えると、情けないやら不甲斐ないやらで、涙さえ出てきそうだった。
 
 「勘弁してよ……」
 
 私は思わずその場にへたりこみ、頭を抱えた。まったく、寝起きには難易度の高すぎる冗談だ。
 下手をすればこのまま、夜が明けるまでこのまま閉じ込められたままかもしれない。じっと身を潜めていればそうそう危険があるとも思えないけれど……

 「でも……今って、一体『いつ』なのかしら……?」

 状況が分からない以上、夜が明ければ、教師たちや生徒たちが学校に来てくれるかどうかは分からない。
 もしかしたら明日は休日かもしれないし……そもそも、この世界に有機生命体が存在しているかどうかも定かではない。
 
 「……どうしろって言うのよ」

 無知とは恐ろしいものだ。
 「訳が分からない事」ほど不安になる事は、もしかしたらこの世に存在しないかもしれない。
 すると、私は『彼』に対して、こんな状況下に追いやった挙句、ナイフで刺し殺そうとしたというのか。
 ――なんという。

19: 2011/01/09(日) 18:24:47.94 ID:NEgFNGyE0
 不安さと絶望感にさいなまれ、いい加減私の視界が滲み始めたころだった。
 扉の向こうの廊下で、誰かの靴がリノリウムを打つ音がしたのを、私は聞き逃さなかった。
 
 ……誰か、いるのかしら。
 
 私の記憶の限り、この学校に宿直の教師というものは存在しなかったし
 警備員を雇って夜間巡回をさせるほど裕福な学校でもなく、そもそもそんな必要があるほど風紀の乱れた学校でもなかったはずだ。
 もっとも、私が情報連結を解除されてから今までの期間で(それがどれほどの期間なのか、私には分からない)この学校の状況が変わったという可能性もなくはないのだが。

 足音はためらいがちで、ゆっくりと、何かを確かめるようなリズムで、すこしづつこちらに近づいてきた。
 自分の心臓が、一丁前に高鳴ってゆくのを感じる。
 ―――さて、何が出るか。
 足音はやがて、私の居る教室の前で止まった。曇り硝子の向こうに、誰かのシルエットが浮かび上がる。
 よかった。少なくとも、人間の形をしているものが来てくれたらしい。
 
 「……誰か……いるの?」
 
 やがて扉の向こうで声がする。
 ああ。私はその声を耳にした瞬間、全身の筋肉が緩んでいくような安心感を覚えた。
 この声だ。私が今、もっとも聞きたいと思っていた声。
 
 「長門さん……ね?」
 
 私がその名前を呟くと、扉の向こうの人影がわずかに身を震わせるのがわかった。
 その瞬間、私の中に咲き乱た安堵の花吹雪の中に、一抹の違和感が芽生える。
 先ほどの長門さんの声は、私が知る長門さんが発するものとしては、いやに情感が篭っていた。
 加えて、扉越しにも分かる、奇妙なほどのたどたどしさ。彼女は大体にしてスローペースではあったが、それは決してためらいがちな低速ではなかった。
 彼女は急ぐ必要がないことを常に悟っていたのだ。
 しかし。今、扉越しに感じる、この違和感は……

21: 2011/01/09(日) 18:30:13.70 ID:NEgFNGyE0
 
 「……い、今、鍵をあけます」
 
 やがて、もう一度。扉の向こうから、長門さんの声がする。
 その声を聴いた瞬間、私の中の違和感は確かなものとなった。
 
 ―――この世界は、私の知っていた世界とは違う。
 
 少なくとも、長門さんに関しては。


……

24: 2011/01/09(日) 19:10:52.65 ID:NEgFNGyE0

 さて。
 空は陰鬱に曇り、反対に、気温の低さは絶好調。

 なるほど、これは冬という季節である。
 
 「ねえ、長門さん」
 
 私はガタガタとせわしなく揺れる地面に足をとられないようにつり革に捕まりながら
 すぐ隣で、腕を目一杯に伸ばし、細く白い指をつり革に絡めている少女に声をかけた。
 少女は若干ハの字なのがデフォルトなのであろう眉毛をすこし上げ、眼鏡越しに私を見返してくる。
 私の左胸が改まって高鳴る。今は落ち着いてくれないものかしら。
 
 「私、本当に大丈夫よ」
 
 私がそう言うと、長門さんはすこし考えるように視線を泳がせた後、わずかに首を横に揺らした。
 
 「あんな薄着で、夜の学校にいたりしたのだから……」
 
 長門さんは言う。確かに私は、今朝、なんとなく頭が痛いような気はした。
 それはこれまでに感じたことのない不思議な痛みであったし、その痛みに不安になったりもしたのだが、私にはむしろ、医者などという、私がこれまでに接したことのない類の人間と顔をあわせなければならないということのほうが不安だった。
 医者に行くべきだという長門さんに、思わず、一人では不安だ。などと返してしまったものだから
 それから長門さんは、私を病院に送り届けてから学校に行くと言って聞いてくれないのだ。
 ああ、イヤだ。こんなわけの分からない状況で、自分の体を誰かに診てもらうなんて、正直言って気が気でない。
 
 「エラーだわ」
 「?」
 
 私がうわごとのように呟くと、長門さんは例の眉毛を余計にハの字に傾かせ、私の顔を奇妙そうに眺めた。
 ……やっぱり、反応は示してくれないか。

25: 2011/01/09(日) 19:19:14.91 ID:NEgFNGyE0
 この良く分からない世界の長門さんが、すべてを知った上で
 私の前でとぼけた演技を続けるような、感情が豊かなヒューマノイド・インターフェイスである。という可能性もゼロではない。
 しかし、私のゴミ箱のような人間的直感が示す限りで……今、長門さんは、まったくもって一般的な、眼鏡の美少女学生でしかなかった。

 ああ。もし、今、彼女の口から、情報統合思念体だとか、涼宮ハルヒだとか、その手の私に聞きなじみのある言葉が飛び出してくれたら
 私はどれだけ安心するだろうか。しかし。どれだけ粘っても、そんなどんでん返しはおきてくれそうにない。
 それほどまでに、私の隣のこの少女は、拍子抜けするほどに普通の少女でしかなかった。

 ……むしろ、この人は本当に長門さんなのだろうか?
 この、物静かそうであり、常に他人に気を使うそぶりを忘れずにいる、眼鏡の美少女が。
 頭痛を訴えた私を病院に連れていってくれる、すこし過保護が過ぎるくらいの思いやりに満ちた少女が。
 私の知る『長門有希』が、もし何らかの形で人間の感情を手に入れたとしても
 これほどまでにまともで、素敵な少女へと変貌することがありえるだろうか?
 
 「いつも面倒を見てくれるお礼」
 
 長門さんはそういって、少しだけ唇の端を上げた。

 やはりその少女は、何か、長門さんのような姿をした、私の知らない何かであると考えたほうが、よほどに納得が行くような気がする。
 何しろ私は、長門さんの笑顔などというものを見たことが、此れまでにただの一度もなかったのだから。

 彼女は私のことをよく知っていた。
 私は彼女にとって、同じマンションに暮らしている同じ学年の学友であり、私は時として、彼女と夕食を共にしたりしていたのだという。
 まあ、それは分かる。もしも私が、本当にただの女学生であり、同じマンション内に、ただの女学生である今の長門さんが暮らしていたとしたら。
 おまけに彼女が一人暮らしで、殺風景な部屋で本ばかり読んでおり、時には食事すら忘れてしまうとしたら。
 私は迷わずに、時としてといわず毎日毎晩、彼女の部屋を訪れ、夕食を作ってあげることだろう。
 というか、むしろそれは私にとって、この世でもっともまともな夕食時のすごし方なのだから。
 

……

26: 2011/01/09(日) 19:26:24.76 ID:NEgFNGyE0
 この時点で言えること。
 それは、この長門さんが、私が消えてから、再び出現した昨日までの間に、人々と触れ合うことで感情を手に入れ、表情豊かで物静かな少女へと成長した長門さんなどではないと言うことだ。
 なにしろ、彼女の記憶の中には、私が昨日出現する以前……つまり、私という個体が存在していなかったはずの期間の『私』が存在している。
 そして、彼女は『ヒューマノイドインターフェース』のことも、ついでに『涼宮ハルヒ』も、『情報統合思念体』のことも、まったく知らないのだという。
 ようするに私は、どの根から伸びたのかも分からない、謎の世界の真ん中に再構築されてしまったのだ。
 ……一体、何のために?
 誰かの手によって構築されなければ、私が再び個体を取り戻すことはなかったはずだ。誰かが何らかの目的のために、私を駒として構築した。
 その誰かとは……一体誰か?

 「涼宮ハルヒ」
 
 腕に刺さった針の違和感に軽いめまいを覚えながら、私は恨めしきその名前を呟いた。
 情報統合思念体が私を構築した可能性は低い。となれば。私の知る限りで、私を出したり消したりできるような人物は、一人しか居ない。
 涼宮ハルヒの持つ、世界を改変する能力。
 この世でわけのわからないことが起きたとしたら、それは大体、彼女のせいにしてしまえば丸く収まってしまうのだ。
 彼女は長門さんを感情の豊かな女の子にし、私から記憶をそのままに、インターフェースとしての力を奪った。
 ……あれ?
 それじゃ、涼宮さんは、長門さんや私がただの人間でないということに、気づいてしまったというのかしら?
 ありえない話ではない。彼女が長門さんの正体に気づいた。そして彼女は、長門さんが得体の知れない宇宙人などでなく、ただの感情豊かな少女であることを願った。
 ……しかし、だとしたら、長門さんが涼宮ハルヒのことを記憶していない理由が分からない。
 それどころか、彼女は涼宮ハルヒという生徒が存在していることも知らないのだという。

 涼宮ハルヒはこの世界に存在して居ないのだろうか?
 涼宮ハルヒがそれを望んだというのだろうか?
 
 「そろそろいいですねー」
 
 いい加減、私の血圧が上がり始めたころ、先ほど私の腕に針を突き刺したのと同じナースがやってきて、先ほどとまったく逆回しに、私の腕から細く短い針を引き抜いた。
 黄緑色のロングヘアーをした、それなりに美しいナースだった。きっと情報統合思念体の好みのルックスだろう。
 私や長門さんの次にインターフェースが生み出されていたとしたら、彼女のようなルックスのインターフェースが生まれていたかもしれない。

27: 2011/01/09(日) 19:33:40.34 ID:NEgFNGyE0
 
 「はい、もう大丈夫ですからね」
 「ありがとうございます」
 
 ナースは、腕の傷口に小さなガーゼを貼り付けると、野花をいつくしむような笑顔で、私にかばんを返してくれた。
 かばん。
 そうだ。とりあえず、学校に行こう。
 

……
 

 電車に揺られながら、私は自分の手帳と携帯電話を確認し、一つの結論にたどり着いた。
 少なくとも、この世界において、私や長門さんが学生生活を送る上で接触し得る範囲に、涼宮ハルヒという個体は、存在して居ないのだ。
 クラスメイトの名前と連絡先を記した一覧の中に、涼宮という苗字は存在して居ない。
 ついでに、どうやら文化祭で撮影したらしい、私たちのクラスの集合写真の中にも、涼宮さんの姿は映っていなかった。
 多分、クラスの友人たちに、涼宮ハルヒという少女について訊ねても、有力な情報は得られないだろう。
 
 「涼宮ハルヒの居ない世界、かあ」
 
 人気のない車内で、誰にも聞こえないくらいに小さな音量で、私は呟いてみた。
 私はその世界で、一体何をすればいいというのだろう。
 ふと、私の携帯電話が振動する。メールが来たのだ。
 
 『調子はどう?』
 
 メールの送信者は、長門さんだった。

 わたしはこの世界で、私が以前夢を見たような、永遠に続く長門さんとの日々を生きつづければいいのだろうか?
 ……それも悪くないかな。

29: 2011/01/09(日) 19:40:56.48 ID:NEgFNGyE0
……


 学校に着くと、丁度構内は昼休みの真っ最中だった。
 そこでとりあえず私は一つ、自分が奇妙な世界に来てしまったということを思い知らされることになる。
 
 先生、九組がありません。
 
 思わず、通りかかった音楽教師に、そんな声をかけてしまいたくなった。
 まあ、この程度なら驚かない。情報操作で教室を一つ消すぐらいなら、私にも出来たことだと思うから。
 しかし、『一年九組のない北高』を当たり前のこととして、全校生徒たちの意識を改変するところまでは、ちょっと、私の能力だと大変だったかもしれない。
 まあ、どっちにしろ、今の私には何の力もないのだから、そんなことはどうでもいいことだろう。
 力のあるどこかの誰かが、なんとなく気まぐれで九組を消してしまったのだ。
 そしてついでに、あまった力で、私をこの世界に再構築してくれたんだろう。
 もう、それならそれでもいいかもしれない。なんとなく産み出されたというなら、なんとなく生きてやろうとすら思えてきた。
 考えても見れば。長門さんと日々を過ごし続けるということは、以前私が望んだことなのだ。
 学校に通わなければならないという新要素は追加されているものの、それも日常と受け入れられれば、いっそ普通の女学生になってしまうのも、悪くないじゃないか。
 まあ、それにしても、そのうちは卒業などもしなければならないだろうし、長門さんが普通の人間になってしまっているというなら、彼女はいつまでも今の姿であることもないかもしれない。
 いつかは前に進まなければならないだろう。しかし、当面は幸せをかみ締めることが出来る。
 長門さんの変化にも、まあ慣れる事はできるだろう。何しろ今の長門さんは可愛いし。
 前の冷たい感じも好きだったけどね。

 ……ああ、でも。
 ある種の現実逃避を始めた私の前に、この男が現れてしまったのだ。
 私の願いを邪魔する、この男が。
 私の希望的観測を土足で踏み荒らす、この寝ぼけた男が。


 ―――十二月十八日の昼休み。
 私は始まりのドアを開いてしまった。

30: 2011/01/09(日) 19:49:12.86 ID:NEgFNGyE0
 私の席が、この世界では、以前涼宮ハルヒの席だった場所にあるということは、私の手帳に記されていた席順表で、あらかじめ把握しておいた。
 今後、この世界で、クラス委員の朝倉涼子として生きてゆくのだから、できるだけ奇妙な言動はしたくなかった。下調べは入念にしておくべきだ。
 
 さて、久しぶりの登校の瞬間だ。私はなんだか不思議な高揚感を感じ、ニヤけた顔を引き締め、教室のドアを開けた。
 その瞬間、室内の生徒たちが、一度に私に視線を向ける。
 ……一瞬。その視線が、謎の人物を前にした奇異の視線だったら、どうしようかと不安になる。
 しかし、次の瞬間、クラスメイトたちは表情を緩ませ、歓声を上げながら、私を迎え入れてくれた。
 
 「風邪よくなった?」
 
 一番に駆け寄ってきた女生徒が、私にそう問い掛けてくれる。
 
 「うん、もう大丈夫よ。午前中に病院で点滴打ってもらったらすぐ良くなったわ」
 「よかった、さびしかったんだから」
 
 見覚えのある女生徒が、笑顔で私に両手の平を向けてきた。
 私はあわてて鞄を持ち替え、手を合わせて、指を絡ませる。ああ、そういえばしたなあ。こんな握手。
 
 「家にいてもヒマだから、午後の授業だけでも受けようと思って」
 
 よし。違和感ナシ。誰も私を不審がってなんか居ない。
 幸いなことに、涼宮さんの消失を除いて、このクラスに、私を戸惑わせるような異変は起きていなかった。
 私はごく自然に生徒たちと会話をし、自分の席を目指す。
 私の席に、クラスメイトの一人である国木田君が座っているのを見つけ、一瞬、私の下調べが間違っていたのかと肝が冷えたけれど
 
 「あ、どかないと」
 
 彼は私の姿を見ると、すぐに小さなお弁当箱を持ち上げ、席を開けてくれた。
 よし。セーフ。
 あとは自然に……

31: 2011/01/09(日) 19:57:22.99 ID:NEgFNGyE0
 自然に……やばい。
 私の席の前に、約一名。明らかに自然でない表情を浮かべている人物が居る。
 ああ、できれば何も見なかったことにしたい。
 どうしよう。とりあえず、常套句を口にしておくべきなのかしら。
 いいよね、それで?
 
 「どっ」
 
 やばい、どもるな、朝倉涼子。できるだけ不自然でないように振舞うの。
 そうよ。この男は、ただ寝ぼけているか何かで、私を凝視しているだけかもしれないじゃない。そうよ、きっとそう。

 落ち着きなさい。ね、涼子ちゃん?
 
 「どうしたの?」
 
 よし、言えた。そのまま続けざまに、目の前でクチをぽかんと開けたまま硬直している間抜け面にまくし立てる。あくまで自然に。
 
 「幽霊でも見たような顔をしてるわよ? それとも、わたしの顔に何かついてる?」
 
 よっし。噛んでない。
 更に此処で、自分は何も後ろめたい記憶などない、純真な女学生であることのアピールをするのよ。
 そう。心の広い女学生、朝倉涼子をアピールするの。私は国木田君に視線を向け、目一杯の、でも自然な笑顔で口を開く。
 
 「あ、鞄を掛けさせてもらうだけでいいの。そのまま食事を続けてて。私は昼ご飯食べてきたから。昼休みの間なら、席を貸しておいてあげる」
 
 一発オーケー出ました。
 あとは言葉どおりに、国木田君の座っている席のフックに鞄を掛ける。
 そして、教室の前方で、すでに私の分の席を確保しておいてくれている女学生たちに向き直り、あくまで自然な足取りで、その輪の中へと入ってゆく。
 完璧よ。どこからどう見ても、何の変哲もない女学生だわ。
 この完璧な振る舞いにけちをつける奴がいたとしたら、それはきっと生まれてこの方、猜疑心以外の感情を抱いたことのないネクラ人間か何かよ。人生嘘で生きている猜疑心の塊ね。

32: 2011/01/09(日) 19:59:35.45 ID:NEgFNGyE0
 
 「待て」

 ……アウト。
 私の背中に、無駄に渋い声がかけられる。
 どこも自然じゃない、昼休みの教室にはこの世で一番似合わないセリフと声色。
 私の必氏の演技がすべてパア。空気読みなさいよ。良くそれで女子から総スカンを食らわないものだわ。
 ああ、もう。聞こえないフリをしよう。このまま振り返らずに、昼休みの談笑の中に逃げてしまおう。
 それで万事オーケーよ。うん、大丈夫。完璧。彼だってわかってくれるはずよ。
 
 「どうしてお前がここにいる」
 
 あーもう。
 

……
 

 ……正直、彼には申し訳のないことをしたとは思っている。
 あの日、思念体に操られた意識とナイフをぶら下げて、私は彼に襲い掛かった。それはもう、いい感じに。
 芝居めいた口調とシチュエーションの中で、本気で殺そうとした。
 人間に近い感覚を手に入れた今だから分かるけど、クラスメイトに夕暮れの教室で殺されそうになるというのは、きっととんでもなく怖いことだし、忘れがたいことだろう。
 それも、分かる。
 
 しかし。
 
 何も今。世界中の誰もが、以前の私を忘れてしまっているような、このうたかたの夢のような中で。

 あなただけが、それを覚えていてくれなくたっていいじゃないの。
 よりによって、『あなた』だけが。

33: 2011/01/09(日) 20:04:49.14 ID:NEgFNGyE0
……


 ……彼の言い分を聞く限り、どうやら彼だけは、すべてを覚えているようだった。
 彼は間違いなく、私があの日、ナイフをむけた、あの彼なのだ。
 そしてどうやら、彼は私が現れる瞬間まで、自分がこのむちゃくちゃな世界に迷い込んでいることに気づかなかったらしい。
 多分、長門さんにも会っていないのだろう。 

 彼は良くわからないこと―――私には実際のところ、全部わかっていたんだけど―――を大声でまくし立てた挙句
 私から逃げるようにして、教室から出て行ってしまった。
 彼が帰ってきたのは、午後の授業が始まって数分が経ってから。
 教師に小言を言われながら、席に着く寸前、まるで親の敵をにらむような視線で私を一瞥した。
 そして午後の授業の間中、困惑と嫌悪の入り混じったような負のオーラを、えんえんと背中から滲み出させていた。

 ……午後の授業の内容なんて、ほとんど覚えていない。
 私は目の前の陰鬱な背中に負けないよう、全身から可能な限り陰鬱なオーラを発しながら
 『彼』という新たなパーツの存在を考えつつ、この世界についての思考をめぐらせていた。

 ていうか、本音をいうなら、こいつが居ようと居まいと、私は長門さんと親密な日々を過ごせればそれでいいんだけど。
 この男が居る以上、どうせ、きっと、余計なことをしてくれちゃうんだろうし。
 
 もう殺ってしまおうか。
 ……それはさすがにやばいか。
 今の私は、普通の女学生なんだし、ね。
 

……

34: 2011/01/09(日) 20:14:07.75 ID:NEgFNGyE0
 『彼』が以前の世界の記憶を所持している。

 この時点で、俄然あやしくなってくるのは、やはり涼宮ハルヒ原因説である。
 しかし、さきほどこの男が大騒ぎをした際、私たちはクラス名簿を持ち出して確認したのだ。
 涼宮ハルヒなどという人物はこのクラスに存在しないし、クラスメイトたちも、そんな人物は知らないのだということを。
 
 ・私がインターフェースの記憶をそのままに力を失い再構築され
 ・キョン君も以前の記憶を所持したままで
 ・長門さんは普通の女の子と化し
 ・自分と九組が北高に存在しない世界
 
 そんな世界を、果たして、涼宮ハルヒが望むだろうか?
 というか。涼宮ハルヒの望んだことでこの世界が今のように変化しているというのなら
 やはり、この私。朝倉涼子が組み込まれていることが、どう考えてもおかしいのだ。
 彼女にとって、私はそんなに重要な存在ではないはずなのだから。
 ……たぶん。



 ……ああ、思い出したくないなあ。
 私はこの時点で、うすうす分かっていた。
 もう一人。もしかしたら世界ぐらいならなんとかできそうで
 この男、キョン君の記憶をそのままにする動機が、もしかしたらありそうで
 ついでに、私という存在を組み込む動機も持ち合わせていそうな人物が。
 いるじゃないか。
 
 「キョン君のこと好きなんでしょ、分かってるって」
 
 何故私はあんなことを言ったのだろう。
 ああムカつく。

36: 2011/01/09(日) 20:15:50.64 ID:NEgFNGyE0
 『彼』が以前の世界の記憶を所持している。

 この時点で、俄然あやしくなってくるのは、やはり涼宮ハルヒ原因説である。
 しかし、さきほどこの男が大騒ぎをした際、私たちはクラス名簿を持ち出して確認したのだ。
 涼宮ハルヒなどという人物はこのクラスに存在しないし、クラスメイトたちも、そんな人物は知らないのだということを。
 
 ・私がインターフェースの記憶をそのままに力を失い再構築され
 ・彼も以前の記憶を所持したままで
 ・長門さんは普通の女の子と化し
 ・自分と九組が北高に存在しない世界
 
 そんな世界を、果たして、涼宮ハルヒが望むだろうか?
 というか。涼宮ハルヒの望んだことでこの世界が今のように変化しているというのなら
 やはり、この私。朝倉涼子が組み込まれていることが、どう考えてもおかしいのだ。
 彼女にとって、私はそんなに重要な存在ではないはずなのだから。
 ……たぶん。



 ……ああ、思い出したくないなあ。
 私はこの時点で、うすうす分かっていた。
 もう一人。もしかしたら世界ぐらいならなんとかできそうで
 『彼』の記憶をそのままにする動機が、もしかしたらありそうで
 ついでに、私という存在を組み込む動機も持ち合わせていそうな人物が。
 いるじゃないか。
 
 「キョン君のこと好きなんでしょ、分かってるって」
 
 何故私はあんなことを言ったのだろう。
 ああムカつく。

37: 2011/01/09(日) 20:21:07.61 ID:NEgFNGyE0

……


 放課後、私はできるなら、長門さんの下に向かいたかったのだけれど、友人たちに捕まってしまい、彼女たちと共に街に行くことになってしまった。
 教室を後にする際、私は精一杯の皮肉を込めて、私の前の席で気分を腐らせている間抜け面に向けて、目一杯に心配そうな表情を見せてやった。
 せいぜい困惑すればいいんだわ。
 バーカ。

 

 クラスメイトたちと町を巡りながら、それとなく、私の知る町並みと異なる部分がないか気にしてみたものの
 その日確認した限りでは、私が今日何度目かのエクスクラメーションを浮かべなければならないような、決定的な変更点は見つけられなかった。
 フルーツパーラーでオレンジケーキを食べ、新しく出来たというファンシーショップを巡った後で、私は女生徒たちと別れ、一人となった。
 時刻は午後四時半。若く活気ある少女たちが数人集った割には、手早く訪れた開放の時だ。
 すでに空は薄暗く、街のあちこちでは電飾に明かりが点り始めている。
 ……帰ろうか。
 そう思った矢先、私の携帯電話が振動した。
 長門さんだろうか。鞄から電話を取り出し、モニタに表示されている名前を確認する。
 メールでなく、通話である。

 

 >古泉一樹

 

 誰これ?

38: 2011/01/09(日) 20:28:43.99 ID:NEgFNGyE0

 『もしもし、涼子さん?』
 「……」
 『聞いていらっしゃいますか?」
 
 さて、どうしたものか。
 電話の向こうから、どこかしら鼻につくカンジの、若い男性の声が聞こえてくる。
 りょーこさん?
 その呼び方をされたのは、初めてかもしれない。
 
 「……聞いてます」
 
 しばらく沈黙した後で、あまり長く沈黙しているのもおかしいだろうと
 私はとりあえず、できるだけニュートラルな語調で声を返した。
 
 『あ、そうですか。安心しました』
 
 電話口の声は、依然として事務的な、落ち着いた口調で話している。
 古泉一樹。
 一体何者なのだろうか。
 私が本名でナンバーを登録するくらいだから、同じ北高の生徒か、少なくとも同年代の人物なのだろうか?
 
 『それで……もしかしてと思いますが、僕は約束を取り違えているのでしょうか?』
 「へ?」
 
 思わず、のどから奇妙な声が漏れる。

39: 2011/01/09(日) 20:36:56.07 ID:NEgFNGyE0
 
 『もう小一時間ほど、お待ちしているのですが……もしかして、約束の日取りを間違えてしまったのでしょうか?』
 「え、ええと、ちょっと、待ってもらっても」
 
 私はあわてて鞄から手帳を取り出し、予定表の欄を開く。
 十二月十八日。空白部分には、小さなペン文字で、こう記されている
 

 <放課後・一樹くんとオノデーで約束 ※アレを貰う>

 
 ……しまった。まず一番最初に、スケジュール表を確認するべきだったのだ。
 
 『もしもし、涼子さん?』
 「あ、あの、はい、えーと」
 
 私はあわてて、携帯電話を取り落としてしまいそうになる。
 落ちつきなさい、涼子。違和感なく振舞うの。
 
 「ご、ごめんなさい、一樹君。ちょっとクラス委員の仕事が長引いてしまって。電話もできなかったの」
 
 手帳に『一樹くん』などと記してあったくらいなのだから、おそらく、私とこの『一樹くん』は、それなりに親密な友人か何かなのだろう。
 となれば、年代も同年代。敬語を使うのもおかしな話だ。
 すると、電話の向こうの声は、すこし驚いたように沈黙したあとで
 
 『いえ、かまいません。そうでしたか、安心しました。僕が間違えていたわけではなかったのですね』
 
 と、心なしか声のトーンを上げて返答してきた。

40: 2011/01/09(日) 20:40:38.84 ID:NEgFNGyE0
 
 『どうでしょう、僕としては、今からでもかまいませんので。
  そちらの都合がよければ、お会いしませんか』
 「え、ええ、そうね。ごめんなさい、待たせてしまって」
 『かまいませんよ。今日はどうせ、何の予定もありませんでしたから。場所はいかがいたしますか?
  どこか、そちらから近い場所を指定していただければ、こちらから伺いますよ?」
 「えーっと……大丈夫、約束どおり、待っていてくれれば、十分ほどで行くわ」
 『そうですか。では、お待ちしております』
 
 通話は、そこで終わった。
 

 さて。どうやらこれから、私はその『一樹くん』と対面することになるらしい。
 よくわからないけど、放課後に会う約束をするって……
 もしかして、いわゆる、恋人か何かなのかしら。
 私に、長門さん以外の恋愛の相手が?

 ないと思うけどな。
 凄いのが来たらどうしよう。
 ああ、めんどくさい。わけわかんない。
 助けて、長門さん。
 

……

41: 2011/01/09(日) 20:47:04.56 ID:NEgFNGyE0
 北高に一番近い駅から、電車で二駅ほど西に向かい、あまり大きくない駅舎から出て、西口の街に下りる。
 ロータリーをまっすぐ横切ると、古い雑居ビルがあり、その地下に喫茶店『ON DAY』が有る。
 うわさには聞いたこと有るものの、あまり学生たちが同性の仲間内で訪れるような店ではないし
 この店を実際に訪れるのは、此れが初めてだった……少なくとも、私の記憶の限りでは。
 どちらかというとこの店は、社会人のカップルや、夫婦が昼下がりに訪れるような店なのだ。

 ……こんなところで待ち合わせるような間柄なのかしら、私と『一樹くん』は。
 
 「いらっしゃいませ」
 
 薄暗い店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で、初老の男性がそう言った。店内に客の姿は少なく、全員で五人ほど。
 カウンターに二人ほど中年の男性が座っており、二人席で向かい合って会話をしている初老の夫婦一組で、四人。
 そして、最後の一人……壁際の二人席の片方に腰を掛けた、若い男性が、いかにも上品そうな微笑を私に向けていた。
 おそらく、彼が『一樹くん』なのだろう。
 
 「待たせて、ごめんね」
 
 私が歩み寄ると、『一樹くん』は椅子から腰を上げ、向かいの椅子を引き、私に座るように促してくれた。
 
 「いいえ、お気になさらず。お疲れ様です」
 「ありがとう」
 
 その奇妙なほどに上品な振る舞いを前に、私はいささか面を食らいながら、木製の椅子に腰を下ろし、鞄を壁際に置いた。
 
 「お久しぶりですね。お変わりない様で、安心しましたよ」
 
 『一樹くん』は、目に掛かるくらいの長さの前髪をさっと横に分けながら、私の機嫌を伺うように言った。
 一見すると社会人のように見えたが、彼が詰襟の学生服に身を包んでいることから、やはり彼は私の読みどおり、私と同年代か
 あるいは、年齢差があったとしても、一つか二つ程度なのだろうということが分かる。
 ……それにしては、気味が悪いほど落ち着いているけど。

43: 2011/01/09(日) 20:49:43.20 ID:NEgFNGyE0
 
 「……正直、名残惜しいのですが、あまり遅くまでつき合わせても悪いでしょう。本題に入ってもよろしいですか?」
 
 本題。私は私の手帳に記されていた、短い記述を思い出す。
 
 <放課後・一樹くんとオノデーで約束※アレを貰う>
 
 アレを貰う。どうやら私は、彼とデートをするために、この喫茶店で落ち合う約束をしたわけではないようだ。
 
 「ええ、お願い」
 
 私が言うと、彼は微笑を崩さないまま、傍らの学生鞄の中から、何かを取り出した。



 「え、これ……」
 
 差し出された数十センチほどの長さの物体を前にした私は
 きっと、今日の昼休みの彼のような表情を浮かべていたことだろう。
 
 「……お分かりですか。すみません、実を言うと、ご注文の型番は手に入らなかったんですよ」
 
 『一樹くん』は申し訳なさそうに眉を潜め、細長い指で、皮のケースを取り外し、『それ』を取り出した。
 
 「これでもなかなか頑張ったのですよ。しかし、僕では力不足でした。申し訳ありません。
  代わりになるか分かりませんが……こちらをご用意いたしました」
 
 代わりになるもならないも……まさに『これ』じゃないの。
 私はざらついた柄を受け取りながら、見覚えの有る銀色の光沢に、頭の中を焼かれてしまいそうだった。

45: 2011/01/09(日) 20:54:27.77 ID:NEgFNGyE0
 あの日、夕日の教室で、あの少年を前にした瞬間の記憶が、目の前に蘇る。
 あのとき、私の右手が握り締めていたもの。
 
 それは、あの時のものとまったく同じナイフだった。

 「……すみません、本当に尽力したのですが、ご注文の通りのものは……」
 「……い、いえ、いいのよ。ありがとう」
 「本当ですか?」
 「ええ。……何ていうか。とても、気に入ったわ……一樹くん」
 
 ふと。その瞬間。
 それまで、不思議な余裕と落ち着きに満ちていた、『一樹くん』の表情が、僅かに翳りを帯びたような気がした。
 そして、不思議な、数秒ほどの沈黙。
 ……何か、間違ったことでも言ってしまったのだろうか。
 しかし、次の一瞬には、『一樹くん』の表情は、元通りに戻っており
 
 「喜んでいただけて、とてもうれしいですよ」
 
 と、心なしかゆっくりとした語調で言った。
 
 「……では。僕はこれで、失礼いたします」
 
 『一樹くん』はそういうと、手の中の革製の鞘をテーブルの上に置き、傍らの鞄を手に取った。
 
 「え、あの……一樹くん?」
 「…………いいんですよ。それは、僕からの気持ちですから、気になさらず受け取ってください」

46: 2011/01/09(日) 20:56:33.11 ID:NEgFNGyE0
 そう言った後、『一樹くん』は、ほんのすこし。ためらうように口を閉ざした後
 
 「涼子さん」
 胃を決するように私の名前を呼び、すこしだけ真剣な表情で、私を見つめた。
 そして、言った。
 
 「あなたにまたそう呼んでいただけて……これで、迷いはなくなりました。どうか、お元気で」
 「え?」
 
 私が何かを問い掛けるよりも早く、『一樹くん』は私に背を向け、足早に去っていってしまった。
 残されたのは、手の中のナイフと、テーブルの上の革のケース。
 
 「……これって」
 
 私は改めて、彼に手渡されたナイフを、よく観察してみる。
 それはあの日、私が情報操作で作り出したナイフと、まったく同じものだった。……唯一つの点を除いて。
 
 「あれ……これ」
 
 ナイフの刃の根元。グリップに一番近い部分に、小さな彫り文字で、こう記されていた。
 
 <fromI.K forR.A>
 
 それの一方は私のイニシャルであるようだった。
 けれど……この場合、本来なら、『一樹くん』のイニシャルが記されているべき部分に記されているそのイニシャル。
 それが一体何を意味しているのか、私には最後まで分からなかった。

 
……

47: 2011/01/09(日) 20:58:23.57 ID:NEgFNGyE0

 ……さて、いくつか細かい不審な点は残っているものの。
 とりあえず、私は、おそらくこの不審だらけの世界を解明する
 その『鍵』となるであろうアイテムを手に入れたのだ。

 自宅へと帰り着いた私は、羽毛布団の上に制服のまま寝っころがりながら、そのキーアイテムを眺め回していた。
 
 刃渡りは20cmには満たない程度だろうか。
 適当に構築したものなので、細かく設定を決めてあったわけではない。
 それは以前手にしたときとなんら変わりなく、重くもなく、軽くもない、微妙な手ごたえと共に
 私の手の中で、電灯の逆光を浴びて、浅黒く輝いていた。
 

 「……これって」
 

 私は考える。
 どう考えても、このナイフがこの世界に存在しているのは、誰かの意図によるものだろう。
 
 それは一体、誰?
 
 ……すこし考えれば、分かることだった。
 このナイフを知っている人物は、ごくごく限られている。
 あの日、あの教室を訪れた人物。
 

 私ではないし、『彼』でもない。
 あと一人は――――


48: 2011/01/09(日) 21:00:54.91 ID:NEgFNGyE0
……


 「おはよう。今日は目が覚めてる? だといいんだけど」
 
 朝。敵は不機嫌の象徴のような表情で私の前に現れた。
 先制攻撃として、私は例によって『至極まともなクラス委員の朝倉』を気取り
 一晩かけて考えた、彼が一番気分を害するであろう言葉を浴びせかけてやった。
 彼は自分に関係のない音楽を鳴らし続けるラジカセを見るような視線で私をにらみつけた後
 
 「まあな」
 
 疲れているわね。あなた。私には良く分かるわ。
 何しろ、出鱈目な世界に放り込まれて一晩を明かしたうえに、一度自分を殺そうとした人間を前にしているんだものね。
 私にはよくわかる。でもね。クラス委員の朝倉涼子には、そんなことは知ったことじゃないのよ。
 
 「でもね、目が開いているだけでは覚醒してるって事にはならないのよ。
  目に映るものをしっかり把握して、それで初めて理解の助けになるの。
  あなたはどう? ちゃんとできてるかしr」
 「朝倉」
 
 同じく、一晩かけて考えておいた、彼の気を逆撫でするセリフを、大仰な手振りと共に口にする。
 そのセリフが終わるより、すこし早く。
 さきほどまで身を低くしてうなっていたライオンが、突如として体を起こし、人間に襲い掛かるかのように
 彼は音を立てて椅子を引きながら、私のすぐ目の前まで顔を近づけ、例の低い声で、私の名前を呼んだ。

 距離にして数センチ。
 午前八時台では、たとえ恋人同士でも、そうそうこの距離まで顔を近づけはしないだろう。
 彼は厚ぼったい眉を顰め、大地のそこまで真剣そのものと言った視線で、私の顔をにらみつけている。
 思わず、耳の後ろを冷や汗が通過してゆく。冗談抜きに、今にも噛り付かれそうな剣幕だった。

49: 2011/01/09(日) 21:07:21.43 ID:NEgFNGyE0
 
 「……」
 
 彼はしばらく沈黙した後で
 
 「本当に覚えがないのか、しらを切っているのかもう一度教えろ。お前は俺を殺そうと思ったことはないか?」
 
 実は昨日、ちょっと思いました。
 などと言えるわけもなく。私は目の前の男の予想外のテンションにすこしうろたえながらも
 
 「……まだ目が覚めてないみたいね」
 
 お決まりのスタンスに舞い戻り、できるだけ意地の悪い口調で、彼の問いかけを一蹴した。
 
 「忠告するわ。早めに病院に行ったほうがいいわよ。手遅れにならないうちにね」
 
 仮に、この言葉で彼の怒りが頂点に達し、私に襲い掛かってきたとしても
 周囲にクラスメイトたちが居るこの状況であれば、私がまともに危害を加えられる前に彼を取り押さえてくれるだろう。
 更に、それによって、彼が本当にアタマの病院か、あるいは少年院あたりに放り込まれることになれば
 私と長門さんの生活を阻むものは晴れていなくなり、万々歳。などと考えていた。
 しかし、彼はこの期に及んで餌を取り上げられた犬かなにかのように、不満そうに口をつぐんだまま、黙り込んでしまった。
 
 ……結構、本当にきついだろうな。
 
 一瞬、彼の心境を思い浮かべ、心が痛む。
 しかし。そんな考えはすぐに捨てなければならない。
 彼はきっと、できるならば、この世界を元に戻そうとするだろう。
 それを許すわけには行かない。
 彼の思い通りに世界が動いたならば。
 私はきっと、再びこの世から消されてしまうのだから。

50: 2011/01/09(日) 21:14:47.58 ID:NEgFNGyE0
……


 同調する人としない人とが居るとは思うけれど……
 少なくとも私の知る限り、人気者とはつらいものであり
 私はこの日の放課後も、友人たちに捕まってしまい、長門さんの部室に行くことは出来なかった。
 それは純粋に、長門さんと共に過ごす時間を増やすということだけでなく
 あの間抜け面を今の長門さんに近づけないためのボディーガードの意味もあったのだけれど。
 もっとも、きっと今の長門さんが、あの男がするであろう荒唐無稽な話を受け入れるとも思えないし
 せいぜい奇異の視線を全身に浴びせられて、絶望に打ちひしがれることになるだけだろうけど。
 
 ……ちょっと待った。
 
 今朝、あの男が、煮詰まった様子で私に見せた、あの飢えた猛獣のような様相。
 もし、周囲に人の居ない文芸部室で、長門さんと二人きりの状態で、あの男があのような態度を見せたら?
 そして……私の軽口ではかろうじて切れなかった奴の血管が、長門さんのドンビキを前に、対に決壊の時を迎えてしまったら……?
 駅へと続く通りの歩道を、クラスメイトたちと歩いていた私の足が、その予感に推し止められる。
 
 「……あ、あの」
 「え? どうしたの、朝倉さん?」
 「私、ちょっと……ごめんなさい、どうしても急用がっ!」
 「え、朝倉さんっ!?」
 
 背後から名前を呼ばれるけれど、もう私は、それどころではなかった。
 私の頭の中では、すでにあの男の両手が、長門さんの両肩にかけられている。
 間に合って、お願い!



 (―――物語は、分岐する)

51: 2011/01/09(日) 21:22:08.40 ID:NEgFNGyE0

 心臓破りの通学路を駆け戻り、学校内へと戻った私は、そのまま部室棟へと直行しようとして
 ふと思いとどまり、中庭へと走った。
 中庭から部室棟を見上げれば、文芸部室の室内を、わずかだが、覗くことが出来るはずだ。
 彼女はいつも、窓際に腰をかけ、本を読んでいる。めったなことがなければ、そこを動かないのだ

 ……もっとも、それは私の知る、以前の長門さんのことであり
 今の長門さんが、同じように窓際で本ばかり読んでいるという保障は、どこにもなかったのだが。
 それでも。私の思惑通り、彼女は中庭から見渡せる、窓際の椅子に腰をかけて、そして、おそらくだけれど、私の考えていた通り、本を読んでいてくれた。
 彼女のカーデガンを着た肩から上の後姿が、閉じた窓ガラスの向こうに、確かに佇んでいたのだ。
 ……よかった。少なくとも、あの男が彼女に危害を加えていることはなかったようだ。

 念のためと、その後もしばらく、私は中庭の木陰に身を隠し、窓際に腰をかける長門さんを観察していた。
 三十分ほど余裕をみて待ってみても、彼女の振る舞いに不審な点は見受けられなかった。
 それでようやく、私は安心し、その場を離れることにした。

 本当なら、そのまま文芸部室へ向かい、長門さんとの時間を楽しんでも良かったのだけれど
 その日、私は久々に、長門さんのために晩御飯を作り、夕食時を二人で過ごしたかったのだ。
 以前の彼女が好きだったおでんあたりを作れば、今の長門さんだったなら、微笑んで喜んでくれるだろうか?
 きっと喜んでくれるはずだ。彼女は、私と共に過ごすことを望んでくれていたはずなのだから。
 ……多分。

 私は窓際の後姿に名残惜しさを感じながら、夕食の材料をそろえるために、スーパーを目指し、学校を後にした。

52: 2011/01/09(日) 21:25:31.07 ID:NEgFNGyE0
……


 なんやかんやで夕暮れ時。
 正直どうかと思うほどたくさんのおでんが、私の手によって、この世に産み落とされていた。

 おでんは一度にたくさん作るほうがおいしい。という話をよく聞くけれど、別に私は、できるだけおいしいものを作ろうとしたわけではなく。
 ただ、単純に、久々に台所に立ち、長門さんの顔を思い浮かべながら料理をした結果
 私のテンションは止め処を知らずにあがり続け、結果として、このような過剰積載鍋料理が完成してしまったのだ。
 そもそも。私の知っているかつての長門さんは、これぐらいの量のおでんならば問題なく食べてしてしまったのだが……
 今の長門さんが、かつての長門さんほど大きな胃袋を持っているとは、ちょっと思えない。
 
 「ま、いいわよね。保つものだし」
 
 私は明日の自分の分と考え、小鍋に一杯分ほどのおでんを取り分けた後
 余ったなら余ったときに考えればいいと、残りのおでんを入れた大鍋を、鍋掴み越しの両手で持ち上げた。
 
 「長門さん、今行くわよ」
 
 ……思えば。私はこの時点で
 『どう見ても二人分です』とでも言った量だけを持っていくべきだったのだ。

 
……
 

 『あの……でも、今は』
 
 インターホンの向こうから帰ってきた彼女の返事は、私の期待してたものとは大きく異なっていた。

53: 2011/01/09(日) 21:32:17.49 ID:NEgFNGyE0
 
 「え……でも、長門さん、食事、まだでしょう? ……つくりすぎちゃったし、よかったら、食べてほしいんだけど」
 『その……』

 ここ数日で慣れ始めた、長門さんのためらうような態度。
 私はその時、閉ざされたドアの向こうから発せられる、何か嫌なにおいのようなものを感じていた。
 
 ……まさか。
 
 『分かった、待ってて』
 
 すこしの沈黙の後、その言葉を最後に、インターホンの通信は切れた。
 数秒後、小走りの足音が聞こえて、ドアロックが解除される。
 セーラー服の長門さんが、私を迎え入れてくれた。眼鏡越しの、すこし戸惑ったような表情。

 「あの……友達が来ていて」
 「ふっ」
 
 私の嫌な予感を、すべて惜しみなく取り入れたかのような展開に、私は思わず、理由の分からない笑みを零した。
 
 「大丈夫、気にしないわ」
 
 私はどんな表情をしているのだろう。長門さんが、何か珍しいものを見るような表情で、おでんを抱えた私の顔を見つめていた。

  
……

54: 2011/01/09(日) 21:40:33.47 ID:NEgFNGyE0


 長門さんが、一体どんないきさつで
 この世界を変えてしまうほどの力を手に入れたのか、分からない。
 けれど。
 この世のすべてが、今、彼女が望んだように在るとしたならば。


 私は彼女に選ばれたのだ。


 そうよ。
 そして。今、再び私の手の中にある、このナイフの意味。

 分かってる。
 
 彼こそが、あなたにとってのエラーなのよね。
 
 私は、戦うべきなのね。
 そうでしょ、長門さん?

 

 すべては、長門さんが望んだこと。
 そうなんでしょう?


……

55: 2011/01/09(日) 21:49:04.26 ID:NEgFNGyE0

 「おはよう」
 
 一晩ぶりに見る呆け面に、私は満面の笑顔で挨拶の言葉を投げつけてやる。
 彼はそんな私に言葉には何のリアクションもとらず
 ただ、私の顔を軽く一瞥しただけで、いつものように私に背を向け、そのままそれっきり、黙り込んでしまった。
 まったくもって無防備な背中。
 
 ……分かってるわ。
 未だ今はそのときじゃないのね。
 
 今、この背中をどうこうしたところで、何も変わりはしない。
 すべては、長門さんが望んだ世界が、久遠に続くため。
 そのためのスイッチとなる瞬間が、この世界のどこかに在る。
 ……私はその瞬間を、探さなければならない。
 それを見つけ出すときまで、私の鞄の中の鍵は、取っておかなければならない。

 
……


 その日、私は一間目の体育の授業の途中で、こっそりと教室に舞い戻り
 鞄の中から必要なものだけを抜き出し、それを靴箱に隠した。
 そして二間目の授業を受け、次の休み時間。
 私は隠しておいた荷物を持ち、学校を抜け出した。
 学級委員長の朝倉涼子の行動としては、あまり望ましいものではなかったけれど……
 
 「長門さんのため……だもの」

 誰にとも無く、私は呟く。

56: 2011/01/09(日) 21:53:08.94 ID:NEgFNGyE0

 おそらく、あの男は今後も、放課後のたびに長門さんの元に行くだろう。
 彼にとっても、彼女は唯一の希望なのだろうから。
 私がそこに同席することで、彼が何かを見出すことを妨害することぐらいはできるかもしれない。
 
 けれど、それでは、私の目的を果たすことにはならない。
 『彼が存在する』限り、私は自分の目的の為に動くことができない。
 
 長門さんの望んだこの世界を守り、彼女との日々を取り戻す。
 それが私の使命なのだから。
 
 そうでしょう、長門さん?
 だから、ごめんなさい。
 少しだけ、あなたの部屋を見せてもらうわね。
 

……

 
 彼女の部屋の鍵は、私の手帳の裏表紙の内側のポケットに貼り付けてあった。

 私―――長門有希の友人である朝倉涼子は、一体どんな方法で、この鍵を手に入れたのだろうか。
 それはもしかしたら、彼女が私に、友人の証か何かとして託してくれたものなのかもしれない。
 あるいは、それは朝倉涼子が……たとえば、あのナイフのように
 『一樹くん』あたりに頼んで手に入れたものなのかもしれない。
 私は自分の携帯電話に、彼と連絡を取った形跡がないかどうかを調べてみた。
 けれど、私の携帯電話の受信ボックスは、ここ一ヶ月ほどの間に、友人たちと交換した他愛のないメールで埋め尽くされているだけだった。
 人気者は、かくも大変なものなのだ。


57: 2011/01/09(日) 21:54:52.27 ID:NEgFNGyE0
……


 長門さんの部屋に、この世の中に存在するべき一切の物音は、ひとつとして存在していなかった。
 数少ない家具や、カーテンのない窓。
 そして、コンロの上に置き去りにされた、私が腕によりをかけてつくったおでんの残り。
 それらはまるで主人を失ったペットかなにかみたいに、まるで生気を失い、黙りこくっていた。
 
 私は右手にぶら下げた小さなポーチの中から、彼女に託されたあのナイフを取り出すと
 銀色の刃から革製のカバーをはずし、それをポーチごとちゃぶ台の上に放り出した。
 そして、ナイフを右手にぶら下げたまま、閉ざされた引き戸の前に立ち、私は改めて室内を見回した。
 
 長門さんはあれほどまでに変わってしまったというのに、この部屋は、以前と何一つ変わっていない。
 そこは私と長門さんが、かつて、永遠とも思える日々をすごしていた場所だった。
 
 そして。
 私が唯一つ、見たことのない空間。
 
 常に閉ざされていて、私が立ち入ることの出来なかった、その引き戸の向こう。

 

 長門さん、待っててね。
 私は呟き、左手で襖の取っ手に触れ、一息に開け放った。
 



 ――― あの扉の向こうには、きっと、長門さんにとっての正しさがあるのね

58: 2011/01/09(日) 22:00:16.08 ID:NEgFNGyE0
……


 始まりも、終わりも。私にとってのすべては、この教室だった。
 これは終わりであり、始まりである。
 
 空気は例によって冷え切っており、窓の外には、冬の夜の闇が広がっている。
 

 長門さん。
 今、行くわ。
 
 
 私は規則正しく並べられた椅子や机を薙ぎ払いながら、閉ざされた後方のドアへと走った。
 そして、私が学校から持ち出した、もう一つの鍵。職員室から盗み出してきた、その小さな金属の塊を、乱暴に鍵穴へと刺し入れる。
 半ば引きちぎるように錠をはずし、私は廊下へと飛び出した。
 暗闇の中を駆け抜け、踏み外さないように気をつけながら、階段を数段飛ばしで駆け下りる。
 
 ―――ああ。
 長門さん。
 どうして、私の記憶をそのままにしていたのか。

 
 あなたは私を選んでくれたのね。
 この世界を……あなた望んだ世界が、正しいものかどうか、私に選ばせてくれた。
 

 そして、彼は、あなたを狂わせたエラーそのもの。
 
 そうだったのね―――長門さん。

59: 2011/01/09(日) 22:07:06.71 ID:NEgFNGyE0

 冷たい外気の中に飛び込み、最初に見たのは、長門さんのおびえた表情。
 そして、あの男の背中と――
 あの男の手の中に握り締められている、銀色に輝く何か。

 ああ、やっぱりあなたは―――私と長門さんの世界を壊そうというのね?
 

 「キョン君! 危な……!」
 
 誰かが叫び声を上げる。長門さんが、眼鏡の向こうの視線を、私に向けた。

 

 ――長門さん。
 ――今、行くわ。

 

 体の中から湧き上がる異様な多幸感をかみ締めながら
 私は、その男に向かって
 そして、その男の向こう側に立つ、長門さんの元へ向かって、目を閉じて駆け出した。

 

 

 


60: 2011/01/09(日) 22:14:38.05 ID:NEgFNGyE0
……


 物語は、分岐する


……

61: 2011/01/09(日) 22:19:44.83 ID:NEgFNGyE0




……




 「なあ」
 「何?」
 「長門は?」
 「さあ」
 


 何かを呟けば、誰かが言葉を返してくれることは、幸せなことである。

 昔の誰かが言っていた事だ。
 俺が先人たちの格言の類のなかで、一番初めにああ、そうかもな。と納得をさせられたものでもある。
 残念なことに、それが著書の一説であったか、はたまた和歌川柳俳句その他であったか
 そしてその言葉を世に知らしめた人物が一体誰であったか。などという、細かい情報はすべて失念してしまったが。


62: 2011/01/09(日) 22:21:57.16 ID:NEgFNGyE0


 「お前、クラス委員の仕事とか無いのか」
 「ないのよね、それが」

 
 窓際の席に腰をかけ、パソコンの画面を見つめたまま頬杖をついている女は
 俺の問いかけに対し、なんとも言い表せない脱力感を孕んだ声で、平然と否定の旨を示してくださった。

 しかし。今は一体何月だ。
 答えは一月。先日、冬休みが明けたばかりである。
 何しろ俺は、クラス委員などという大それたポジションとは、今も昔も到底縁のない男ではあるが
 そんな俺の浅い知識で考える限り、学期が明けたばかりの数週間ほどというのは
 クラス委員という役職にとって、一年のうちでもっとも忙しい時期に入ると思うのだが。

 
 「別に、そうでもないのよ、生徒会じゃあるまいし」

 
 クラス委員様は暢気な口調でのたまいながら、傍らで冷め始めていたティーカップを取り上げ
 半分ほどになっていたその中身を呑みほし、小さく息をついた。
 俺がこの部室を訪れた瞬間から、この女の体重を受け止め続けていたパイプ椅子が、わずかに軋みを上げる。
 窓から差し込む冷たい光が、朝倉印のティーカップの淵を、ほんの少しだけ輝かせていた。
 
 冬である。



……

64: 2011/01/09(日) 22:32:31.75 ID:NEgFNGyE0

◆二章 空と君とのあいだには/朝倉涼子の消失



 この静かな文芸部室に違和感を感じなくなったのは、いつからであっただろうか。

 以前も、約一名が欠席さえしていてくれれば、それなりに静かで、平穏な空間ではあった。
 しかしながら。それは、例えどれほど見かけが静かであったとしても
 その部室に存在する俺を除く全ての人間が、人間ではない。まともな存在ではないという、とんでもない隠し要素の眠る、悪夢のような空間だったのだ。
 
 そんな頃から比べれば。
 今、この文芸部室には、もっとも多くてもたったの三人しか存在しない。
 そして、その全てが―――(自己申告ではあるが)何のサプライズ要素も持たない、一介の高校生でしかないのだ。

 とある高校の、とある部活動の部室に、高校生が三人。
 ……そんな当たり前の光景の中に、自分が含まれている。その事実が信じられないくらいだ。

 それどころか、下手をすれば、この中で一番まともでないのは俺かもしれない。
 そう。ふとすると忘れそうになるが―――
 俺は今、いうなれば、異世界人なのだ。
 
 
……
 
 
 俺がこの奇妙なほどにまともな世界へと迷い込んでしまったのは、去年の十二月十八日。
 世界は俺の日常から、いくつかの非現実的要素を奪い取っていき
 その代わりとして、あまりにもまともすぎるが故に、今度は逆に胡散臭さを感じるような『まともさ』を寄越していった。

65: 2011/01/09(日) 22:36:44.86 ID:NEgFNGyE0
 
 「長門さん、今日何食べたい?」
 「えっと……なんでも」
 「えー」

 
 その『まともさ』の代表が、こいつらだ。

 
……
 

 世界がSF学園ドタバタ物から、ハートフル学園生活物へと変化を遂げた二日後の、十二月二十日。
 俺は、長門有希を唯一の部員とする『北高文芸部』の第三の部員となることを志願する旨を書した藁半紙の入部届けを
 すっかりと柔らい表情を浮かべるようになった長門の眼前へと差し出した。
 
 「迷惑じゃなければいいんだが」
 「ううん……うれしい」
 
 長門はすこし照れるようにうつむいた後で、すこし皺になった藁半紙を、微笑みながら受け取ってくれた。
 
 「これから、よろしく」
 「ああ」
 
 何故文芸部に入部する気になったのか?
 そう訊ねられた場合、俺はこう答えるだろう。
 
 「なんとなくであり、それしかなかったから」

 と。

66: 2011/01/09(日) 22:43:20.02 ID:NEgFNGyE0
 長門有希は、俺がかつて存在してた世界で頼りにしていた人物の中で、唯一、この世界においても、俺のことを拒まずにいてくれる人物だった。

 以前の記憶を持たない今の長門にいくら縋ったところで、俺を元の世界に返してくれはしないことも分かっている。
 しかし、だからと言って。元の世界に戻るために何をしたら良いのかなど、俺にはさっぱり分からなかったのだ。

 あと、まあ―――率直に言って。
 感情豊かに生まれ変わった長門に惹かれていたというのも、理由の一つとしてないわけではない。
 
 はい。とにかく、そういうなんやかんやで。
 俺ははれて、文芸部の一員となった。それが十二月二十日、一月ほど前の話である。
 
 
 ……何?
 上の文章に、矛盾点があるって?
 それについての説明は……これからしようと思う。

 俺が入部届けを片手に、文芸部室を訪れたとき。
 俺より一足早く、文芸部員の称号を手に入れていた女がいた。
 
 「なんだか話を聞いてたら、楽しそうなんだもん」
 
 ……思えば、その日の前の晩。長門の家での様子からしておかしかったのだ。
 奴は俺に、長門のことをどう思っているのかと執拗に訊ねてきたのだ。
 俺は長門の傍らで微笑むそいつに向かって、そいつに言われた『文芸部のガラじゃない』という言葉をそっくりそのまま返してやろうかとも思ったのだが……
 しかし。常識的に考えて、文芸部員という肩書きは、俺よりも朝倉涼子のほうが、何万倍も似合っていた。
 
 「二人とも、よろしく」
 
 それから一月。年末年始の休みを入れれば、部室で過ごした実質の時間は、一月にはずっと足りないが。
 そのほんのわずかな時間で、俺はその静かな文芸部室に慣れてしまっていた。

67: 2011/01/09(日) 22:50:30.13 ID:NEgFNGyE0
……


 ……俺は薄情なのだろうか?
 いや。一向に姿を現さない、あいつらが悪いのだろう。
 そういうことにしておきたい。
  
 
……
 
 
 「あの……」
 「……ん?」
 
 回想に耽っていた俺を現実に引き戻したのは
 いつの間にやら俺のすぐ傍まで近寄ってきていた、長門有希の(この部分は以前と変わらない)非常に控えめな声だった。
 
 「ああ、長門。何だ?」
 「あなたも、今晩、うちで晩御飯を……」
 
 相変わらず恥ずかしそうにではあるが、一月前と比べれば、ずいぶんと打ち解けた口調で、長門は言った。

 そういえば、さっき、朝倉と二人で、晩御飯がどうのと話をしていたな。
 俺は窓際に腰をかけたまま、こちらを見ている朝倉に、ちらりと視線を送った。
 表情こそは笑顔を浮かべているものの、その皮を一枚めくった向こうから、何かしらの濁ったオーラを感じる。

 ……俺は大丈夫だが、俺が来るとうれしくない奴がいるんじゃあないのか?

68: 2011/01/09(日) 23:03:17.56 ID:NEgFNGyE0
 
 「え、そう……なの?」
 「あら、もしかして私のこと?」
 
 俺がわざと視線を逸らしながら言うと、朝倉は白々しく驚いた表情を見せ
 
 「何を言ってるのよ、同じ文芸部の仲間じゃあないの。大歓迎よ。
  ああ、でもそうね。あなただけは家が遠いし……
  それに、女の子の一人暮らしのマンションに、あまり遅くまで男の子が混ざっているというのは
  私にも、長門さんにも、あなたにも、ひいてはこの北高全体で、あまり望ましいことじゃあないかもしれないわね」
 
 朝倉は、芝居掛かったいかにもという口調で、言葉の端々に俺を拒まんとする感情を込めながら
 その長いセリフを、流暢に、なんと一息で話しきった。……こいつ、やっぱり人間じゃあないんじゃないのか。
 そんな朝倉の言葉を聞き、長門はというと……朝倉の言葉に込められた怨念を感じ取ってか、気づかずになのか
 理解不能。とでも言いたそうに眉を顰め、俺と朝倉の顔を交互に見比べていた。

 ……まあ、俺は遠慮しておくわ。
 
 俺が朝倉の発するオーラにやられ、兎に角さっさと話を終わらせてしまおうとした直前。
 
 「……まあ、別に大丈夫か。長門さんがいいなら、私は一向にかまわないわよ」
 「じゃあ」
 
 朝倉が肩をすくめながらそう言うと、長門はすぐさま表情を明るくし、俺を振り返った。
 朝倉はというと、言うが早いか、早くもこの案件に興味はありませんとでも言わんばかりに、コンピューターの画面に視線を移し
 寝ぼけたムカデの足取りのような手つきでマウスを弄っていた。
 
 「じゃ、また帰りにスーパーに寄っていきましょっか。荷物もちもいることだし、張り切っちゃおうかな」
 
 最後に、視線を動かさないままそう呟き、朝倉はすこし笑ったようだった。

69: 2011/01/09(日) 23:12:09.06 ID:NEgFNGyE0
 『朝倉涼子の笑顔』。
 俺にとってそれは、いついかなるときであろうと、丸ごと信じ込むことはできないものだった。
 どれほど楽しそうに笑っていても、あの女は、その笑顔を一枚めくった裏側に、何かを飼っている気がする。何しろそれは……かつて、俺にナイフを向けた女の笑顔とまったく同じものなのだから。
 
 「長門さん、ズッキーニって知ってる?」
 
 朝倉は今、俺の斜め前で、長門と二人、植物園を見て回ってでもいるかのように、楽しそうに食材を選んでいる。俺はそんな二人を見ながら、この世界に来てから、時折憶えるようになった眩暈の、何度目かに襲われる。
 朝倉の手の中に、一瞬、あの日と同じナイフが握られているような気がして、左胸を高鳴らせる。
 ……ほとんど病気である。
 
 「ねえ、どうしたの?」
 
 気がつくと、朝倉は俺のすぐ目の前までやって来ており、訝しげな表情で俺の顔を見上げていた。
 
 「……私の顔に、何かついてるかしら?」

 俺が黙って首を横に振ると、朝倉はすこし考えるように首をかしげ

 「それとも……ダメよ、キョン君。私はこう見えて扱いにくい女なのよ?
  好きになったら痛い目を見るわ」
 「……憶えとく」
 
 ―――別に好きにならなくとも、痛い目にあいかけたんだがな。
 俺の反応は朝倉にとって面白いものではなかったらしく、すぐにまた、長門と二人で商品を眺め始めた。
 見ると、朝倉の転がしているカートの籠には、とても一食分の料理の材料とは思えない量の食材たちが、数少ない余白を埋めあうようにして、几帳面に隙間無くつめられていた。
 ……一体誰の荷物にするつもりなのやら。

 「キョン君、お酒のレジ、お願いね。あなた、老け顔だし」

 この世界の法律では、老け顔が制服を着れば酒を買えるらしい。

70: 2011/01/09(日) 23:14:22.87 ID:NEgFNGyE0
 『朝倉涼子の笑顔』。
 俺にとってそれは、いついかなるときであろうと、丸ごと信じ込むことはできないものだった。
 どれほど楽しそうに笑っていても、あの女は、その笑顔を一枚めくった裏側に、何かを飼っている気がする。何しろそれは……かつて、俺にナイフを向けた女の笑顔とまったく同じものなのだから。
 
 「長門さん、ズッキーニって知ってる?」
 
 朝倉は今、俺の斜め前で、長門と二人、植物園を見て回ってでもいるかのように、楽しそうに食材を選んでいる。俺はそんな二人を見ながら、この世界に来てから、時折憶えるようになった眩暈の、何度目かに襲われる。
 朝倉の手の中に、一瞬、あの日と同じナイフが握られているような気がして、左胸を高鳴らせる。
 ……ほとんど病気である。
 
 「ねえ、どうしたの?」
 
 気がつくと、朝倉は俺のすぐ目の前までやって来ており、訝しげな表情で俺の顔を見上げていた。
 
 「……私の顔に、何かついてるかしら?」

 俺が黙って首を横に振ると、朝倉はすこし考えるように首をかしげ

 「それとも……ダメよ。私はこう見えて扱いにくい女なのよ?
  好きになったら痛い目を見るわ」
 「……憶えとく」
 
 ―――別に好きにならなくとも、痛い目にあいかけたんだがな。
 俺の反応は朝倉にとって面白いものではなかったらしく、すぐにまた、長門と二人で商品を眺め始めた。
 見ると、朝倉の転がしているカートの籠には、とても一食分の料理の材料とは思えない量の食材たちが、数少ない余白を埋めあうようにして、几帳面に隙間無くつめられていた。
 ……一体誰の荷物にするつもりなのやら。

 「ねえ、お酒のレジ、お願いね。あなた、老け顔だし」

 この世界の法律では、老け顔が制服を着れば酒を買えるらしい。

71: 2011/01/09(日) 23:22:48.60 ID:NEgFNGyE0
 長門のマンションに着くなり、二人は制服の上からエプロンを付け、キッチンに立ち、食事の準備を始めた。
 俺が氏力を尽くして運んだビニール袋の中から、次々と食材が取り出され、台所へと並べられてゆく。
 
 「よくもまあ買ったもんだな」
 「食品は、まとめ買いをして保たせるのが基本なのよ。うまくやればちゃんと保つんだから」
 
 どうやら、今晩の分のみというわけでなく、以後数日分の食材もまとめて買ったようだ。
 つまり、俺は本当にただ荷物もちをさせられたわけか。
 
 「食事を恵んであげるんだからゼイタクは言わないの」
 
 もっともだ。

 二人の立つキッチンは、一月前にこの部屋を訪れたときと比べて、ずいぶんと雰囲気が変わっていた。
 以前はほとんど見受けられなかった調理器具の類が、壁にぶら下がっている他
 戸棚のところどころが朝倉の趣味なのであろう、パステルカラーの布カバーによって飾られている。
 どうやら、朝倉がこのキッチンに立つのは、今日がはじめてというわけではないようだ。
 
 ぱたぱたとせわしなく動き回る二人を、コタツに足を突っ込みながら見つめていると。
 両手になにやら、大根の上半身と、おろし金らしき器具を持った長門が近づいてきて
 
 「……はい」
 
 その二つを、俺の目の前に起き、再びキッチンに戻っていった。
 なるほど。このごろ流行の突き出しは、セルフサービスの大根おろしか。どれ、まず駆けつけ1杯でビールを……
 
 「丁寧に降ろしてね。せっかちにやって辛くなったら、ご飯の代わりに食べさせるわよ」
 
 ……了解いたしました。

72: 2011/01/09(日) 23:33:21.13 ID:NEgFNGyE0
……


 言われたとおりにたっぷりと時間をかけたものの、そもそもの大根の持つ辛さが桁外れならば、俺の付け焼刃の知恵袋攻撃など通用するはずも無く。
 なかなかどうしてスパイシーな大根おろしが出来上がってしまった。
 俺特製の大根おろしを含む本日のディナーが、コタツの上に並び、準備は整った。
 メニューは、和洋中の程よく織り交ざった、なかなかに豪華なものである。
 ちなみに、俺の可愛い大根おろしはというと、焼いた鶏肉の角切りの上に、葱の千切りと共に乗せられていたりする。

 「いただきます」
 「ます」

 長門の小声、朝倉の細い声、俺の声が、同時に、かつ、ばらばらに、食事の始まりを告げる。
 
 「私ね。本当、文芸部に入ってよかったわ。こんな楽しい集いを心置きなく開けるんだもの」
 
 朝倉は、調理の途中あたりから、妙に良く喋っている。
 その理由は、俺がレジに入ったとき、渡された籠の中に、料理用とは別の酒類の姿があったことから、俺も長門もなんとなく想像がついている。
 むしろ、長門は共犯者か。
 
 「別に、文芸部に入る前だって、お前らはよく二人で飯を食ってたんじゃないのか?」
 「それはそうだけど、私も長門さんも貧乏学生だもの。部費を使えなかったら、こんなに手の込んだ食事、できないし」
 
 あの材料は部費で買ったのかよ。
 
 「いいじゃない、これも文芸部の活動でしょ? 部員たちが親睦を深めるための集いじゃないの」
 「聞こえはいいが、さすがに部費で酒を買うのはまずいだろ」
 「言わなきゃわからないわよ」
 
 それもそうだが。

73: 2011/01/09(日) 23:38:14.50 ID:NEgFNGyE0
 
 「……で、親睦は深まってるのか?」
 「あら、だって私と長門さんは、深めるまでも無く親密だもの。ね、長門さん?」
 「うん」
 
 アルコールの恩恵を受け、いつに無く猫なで声となった朝倉に詰め寄られ
 長門はすこしだけ困ったような仕草を見せつつも、それを拒むつもりはないらしく、微笑みながら肯いた。
 どこかためらいがちなように見えるのは、もしかすると、俺に気を使っているのかもしれない
 
 「あの……あなたも」
 「俺か」
 
 長門が俺の名前を呼ぶと同時に、朝倉の目がちらりとこちらを向く。
 しかし、俺の背筋に何か悪いものが走ることはない。
 
 「もちろん、あなたも、文芸部の仲間なんだから。
  長門さんはね、あなたに早く、私たちともっと打ち解けてほしいと思っているのよ。
  そのために、今日だってあなたを呼んだんだから。ね、長門さん」
 「あ、朝倉さん?」
 
 朝倉は、一瞬何かを考えるように視線を泳がせた後に、いつもの笑顔にすこし頬の赤みを足したような表情で
 例によって長いセリフを一息で読みきった。その内容を聞き、長門があわてたように目を見開かせ、朝倉と俺の顔を交互に見つめている。
 長門が、俺の為に?
 
 「鈍感よね、あなた。長門さん、苦労するわよ」
 「あ、えと……」
 
 硝子のコップ(何が入っているやら)を傾ける朝倉が、一瞬、何かを憂うように、瞼を伏せた気がした。

……

74: 2011/01/09(日) 23:45:33.21 ID:NEgFNGyE0

……


 俺の知らないうちに、魔法の水は俺と長門のカップにまで及んでいた。
 控えめながらもテンションのあがった長門と、言うまでも無くイケイケモードとなった朝倉の二人は
 食事があらかた済んだあとも、しばらくの間、ふたりして楽しそうに笑い合っていた。
 テレビのある食卓が基本な家庭で育った俺にとって、お互いの会話のみでこれほど盛り上がれるというのは
 理解しがたいことであると同時に、なんとなく羨ましいことでもあった。
 

 ……かつては人ならざる者として俺の前に現れた二人を
 俺は今、同じ人間として羨ましがっている。
 不思議なことである。
 
 
……
 
 
 気がついたときには、長門はアルコールの魔力によって、夢の中へと旅立ってしまっていた。
 食事を始めてから二時間。世の中は徐々に、夜から深夜の空気をまとい始める時間である。
 
 「ダメよ、後片付け。手伝ってくれないと」
 
 鞄を持って立ち上がった俺を呼び止めたのは、まだわずかに赤い頬で、テーブルの上の皿を重ねていた朝倉だった。
 
 「もういい加減、時間がまずいだろ」
 「あら、だからって私に全部任せていっちゃう気? それはひどいんじゃない? 同じ文芸部員として平等じゃないわ」
 「いや……つっても」
 「誰にも見つかったりなんかしないわ、夜だもん。ほら、そっちのお皿持って」

75: 2011/01/09(日) 23:50:08.00 ID:NEgFNGyE0
 押しの強い女ほどに逆らいがたいものも、この世にはないだろう。
 言われるがままに、俺は袖を通したブレザーを再び脱ぎ、鞄を床に置き、テーブルの上に詰まれた皿を片付け始めた。
 朝倉は、流し台に運ばれた皿を、上に積まれている物から順にスポンジで擦り、蛇口の水をくぐらせてゆく。手早いものである。
 
 「朝倉」
 
 手持ち無沙汰になった俺は、再びコタツの中へと足を突っ込み、流しに立つ背中に向けて声をかける。
 朝倉がこちらを振り返ることはないが、代わりに、すこしかすれた声が返ってきた。
 
 「何?」
 「長門が俺を誘った理由、あれ、本当の話なのか」
 「ええ、そうよ。嘘なんてついてどうするの」
 
 そこまで言うと、朝倉は一度流しの水を止め、肩越しにこちらを見た。
 
 「気づいてないのかしら? あなた、まだまだよそよそしいのよ。
  長門さんにも……私にも、かな。一応」
 
 気づいてないわけじゃないさ。
 俺は口には出さずに思う。
 いくらこの世界に慣れ初めてはいるとは言え、やはり俺にとっての本当の長門とは、あの長門なのだ。
 そして、俺にとっての文芸部室とは、やはり、あいつらと共に在るべき空間なのだ。
 
 「……でもね」
 
 長門は俺の向かいで、上半身のみをコタツから生やしながら、寝息を立てている。
 小さく、気がつけば消えてしまいそうな寝息だ。
 そのわずかな寝息をかき消すように、朝倉が呟く。
 
 「あなたはあなたなのよ。今の長門さんにとっては」

76: 2011/01/09(日) 23:51:39.84 ID:NEgFNGyE0
 夏の終わりに、虫が最後の一声を呟くような、そんな弱弱しい呟きだった。
 コタツの暖かさと、体の中にわずかに残るアルコールによってぼやかされた俺の意識は、朝倉の呟きの意味を理解することは出来なかった。

……

 
 「私はね、長門さんが好きなのよ」
 「見れば分かる」
 「だから、長門さんと会えたとき、うれしくて仕方なかった」
 
 朝倉はいつの間にか、キッチンを離れ、長門の傍にしゃがみこみ、いとおしそうにその頭を撫でていた。
 寝言のような声色で話す朝倉。俺はぼやけた意識で相槌を打つ。
 長門は寝息を立てる。
 

 
 「あなたが羨ましいな」
 「お前のほうが長門と仲良しじゃないか」
 「違うんだな、それが」
 「じゃあ、お前と長門は何なんだ」
 

 
 不意に、朝倉の言葉が止まる。
 朝倉が話すのをやめてしまうと、世界からは、長門の寝息以外の音が消えてしまったかのようになった。

77: 2011/01/10(月) 00:00:39.82 ID:K7HyBc190
 

 「……わからないわ。私にも」

 
 しばらくの沈黙の後、朝倉は呟き
 再び長門の頭を撫でた。
 

 
 
 
 
 
 「長門さん、好きよ」

 「あなたに会えて、よかった」
 

 

 
 
 
 そして、その翌日。
 朝倉涼子は、俺と長門の前から姿を消した。

 

 

80: 2011/01/10(月) 00:07:03.83 ID:K7HyBc190

……


 これまで生きてきた内でも、三本指に入るほど衝撃的な目覚めだった。
 カーテンのない窓から容赦なく差し込む朝日によって夢の世界から引きずり戻された俺は、ほんの数秒のブランクの後で、そこが自室のベッドの上でないことに気づき
 そしてその直後、自分のすぐ傍らで、眼鏡をかけたまま寝息を立てている長門の存在にも気づいた。
  
 「おい、長門」
 「ん……」
 
 俺が肩に手を置いて揺さぶりを掛けると、長門はすこし苦しそうに顔をしかめた後、ゆっくりと瞼を開け、やがて、ずれた眼鏡越しに俺の顔を見て、驚愕の表情を浮かべた。
 
 「え……あの……あれ……?」
 「悪い、あのまま寝ちまってたみたいで」
 
 長門は、何がおきているのか分からない。と言った様子でしばらく硬直した後、ようやく現状を把握したのか、あわてて体を起こし、ずれた眼鏡を掛けなおし、制服の乱れを直した。
 
 「あ、朝倉さんは?」
 「いや……わからん、帰ったんじゃないのか?」
 
 この時点で、何かおかしいとは思ったのだ。
 長門の部屋に眠った俺を残したまま、朝倉が自分だけ先に帰ってしまうなどということがありえるだろうか。
 
 「時間……いま、何時?」
 
 長門に尋ねられ、俺は自分の携帯電話を見る。
 HRが始まるまでは、まだ小一時間ほどある。焦らなければいけない時間ではないが、あまりのんびりもしていられない。
 ついでに、母親からのメールが山ほど届いていた。そういえば、帰りが遅くなると伝えておくのを忘れていたかもしれない。
 もっとも、実際には遅くなるどころの騒ぎではなく、一晩中長門の家にいたのだから、報告を忘れずにしてあったとしても、怒りのメールは届いていたのだろうが。

85: 2011/01/10(月) 00:30:24.68 ID:K7HyBc190
 
 「長門。朝倉とは、いつもどうしてるんだ?」
 「えっと……日直も何も無ければ、いつもエレベーターの前で、待ち合わせ……」
 「時間は」
 「あと十分くらい」
 
 幸いなことに、お互い制服を着込んだままだ。間に合うだろうか。
 
 「長門、身だしなみに必要な時間は」
 「え、ええっと……そんなには」
 「じゃ、悪いけど、急いでくれ」
 
 他人の家で勝手に夜を明かしておいて、俺は何を偉そうに振舞っているのだろうか。
 この時俺は、何故だかわからない不安に襲われていた。
 俺が眠っている間に、俺のいるこの世界が、俺の知らない世界へと変えられてしまったような気がする。
 何故そんな事を思いついたのかは分からない。
 ただ、一つだけ分かること。
 
 朝倉に会いたかった。
 朝倉に会えば、全ての悪い予感が、どこかへ消えてくれるような気がした。

 俺は忙しなく髪の毛を整える長門を急かしながら、ドアのロックを解除し、マンションの廊下へと飛び出した。
 大気はいつものように冷え切っている。少なくとも、世界が突然真夏に変わってしまったりはしていないらしい。
 早足でエレベーターに乗り込み、長門が追いつくのを待ってから、一階のボタンを押す。

86: 2011/01/10(月) 00:33:32.21 ID:K7HyBc190
 
 「……」
 
 長門はすこし困ったような表情で、俺の顔を見つめている。
 俺は多分、一月前、(この長門にとっては)初めて文芸部室を訪れたときと似たような顔をしているのだろう。
 実際、俺の胸のうちは、あの時と同じような濁り具合をしていた。
 俺はただ闇雲に、自分を安心させる、自分の予想を裏切らない何かを求めていた。
 程なくして、階数を示す電光表示が一階を示し、俺たちの目の前で、重たい機械の扉が開く。
 埃の匂いを洗うように、冬の大気の匂いが、俺と長門を包む空気を塗り替えてゆく。
 

 薄暗く冷え切ったマンションのロビーに……朝倉の姿は、無かった。
 
 「……長門、時間は」
 「えと」
 
 俺の言葉に、長門は鞄の中から携帯電話を取り出し、その画面を見つめる。
 
 「……丁度、いま」
 「あいつが遅れること、あったか?」
 「今までは、一度も……」
 
 長門の言葉を聞き終わらないうちに、俺は立った今閉じたばかりの扉に向き直り、脇の壁に取り付けられているボタンを乱暴に押した。
 俺の胸の中で、自分には押さえようのない熱のようなものが膨れ上がってゆくのが分かる。
 何度も何度もボタンに指を叩きつけるが、たった今去ったばかりのエレベーターは、すぐには戻ってきてはくれない。
 
 「畜生!」
 
 乱心する俺を呆然と見つめていた長門が、俺の絶叫と同時に、びくりと体を震わせたのが、視界の端に映る。
 長門はまた、あの、得体の知れないものを見つめるような目で、俺を見ているだろうか。

87: 2011/01/10(月) 00:41:19.56 ID:K7HyBc190
 
 ――ああ、違う。違うんだ。俺はおかしくなったわけじゃないんだ。
 
 駆け出した俺に向けて、長門が何かを叫びかけたような気がしたが、立ち止まることは出来なかった。
 エレベーターに見捨てられた俺は、傍らから伸びていた階段を、数段飛ばしで駆け上がる。
 一階。二階。三階。朝倉の部屋は何階だったか。五階だ。以前、一度訪れたことがある。
 うっかりしていると、目的の階を飛ばして、そのままどこまでも駆け上がって行ってしまいそうだ。
 俺の意思とはほとんど無関係に階段を上る両足をなんとか制し、五階の廊下へと駆け込む。
 朝だというのにやかましく足音を鳴らして廊下を駆け抜け、目的の五〇五号室にたどり着いたときには、俺はもう全身に汗をかいていた。
 
 「朝倉!」
 
 インターフォンという文明の利器を忘れてしまったのか、俺は冷たいドアにいきなり拳を叩きつけながら
 痛む喉を扱くようにして、その名前を呼んだ。
 
 頼む。出てきてくれ。
 お前がいてくれたら、安心できるんだ。
 朝倉。
 
 「朝倉、あさ……」
 「だめ!」
 
 頭上から声がしたと同時に。五〇五号室のドアに張り付く俺の体が、後方に引き戻される。
 首の後ろで、布の繊維が千切れるような、ブチブチという音が聞こえ、喉に奇妙な痛みが走った。
 
 「きゃあっ!」
 
 引っ張られるまま、後ろ向きにバランスを崩した俺は
 背後にいた誰か――濁すまでもない。俺を追いかけてきてくれた長門だ――を巻き込んで、仰向けに倒れこんでしまった。
 俺の背中とコンクリートの地面の間で、寒気がするほどに暖かくやわらかい長門の体が押しつぶされているのが分かる。

88: 2011/01/10(月) 00:44:35.69 ID:K7HyBc190
 
 「すっ、すまん……」
 
 あわてて体を起こし、倒れた長門の体を起こす。
 俺を追いかけて、階段を駆け上がってきたのだろう。長門は荒く呼吸をしており、薄い両肩は忙しなく上下していた。
 
 「……もしかしたら、先に学校に言ったのかもしれない」
 
 しばらくインターフォンを鳴らした後で、長門は俺を振り返り、そう言った。
 そうだ、学校だ。携帯電話を見ると、時間に余裕などは、全くと言っていいほど失われてしまっている。
 当たり前だ。俺の乱心によって、どれだけの時間がロスされてしまっただろうか。
 俺が黙っていると、やがて長門は、カーデガンに付着した土ぼこりを両手で払い、地面に落ちたままになっていた学生鞄を拾い上げ、エレベーターに向かって歩き出した。
 
 
……


 長門と共に歩く通学路には、一月前、始めて(今の)長門の部屋を訪れた時の帰り道と同様に、会話というものが存在しなかった。
 俺はただ無言で、長門の小さな背中のななめ後ろを歩きながら、何かしらのあきらめのようなものを憶えていた。
 
 ……そうだよな。このまま何も起きないわけがないよな。
 
 俺は声には出さず、心の中で呟く。
 
 考えても見れば。俺は別に、今の日常がこのまま続いてゆくことを望んでいたわけではなかった。
 この日常―――感情豊かな長門有希と、以前よりもすこし感情的な朝倉涼子と共にすごす日常だ――は、あくまでもかりそめの時間でしかないのだ。
 いつか消え去ることは、はじめから決まっていた、うたかたの世界。そして、俺は一刻も早く、そこから抜け出すことを望んでいたはずなのだ。
 
 『朝倉涼子の消失』。
 それは俺が待ち望んでいた、状況の転化ではないか。

89: 2011/01/10(月) 00:48:28.50 ID:K7HyBc190

「……」

 長門は時折、黙り込む俺を案ずるかのように、肩越しに俺の顔をちらりと見ては、再び前方に向き直った。

 そう―――この長門も同じだ。
 
 この世界に、正しいものなど一つとしてないのだ。


      ◆

 
 俺たちが学校にたどり着いたとき、すでにHRの時間は過ぎており、校内は一間目の授業の最中だった。
 俺は数学の教師の小言を浴びながら入室し、いつもの窓際の席に腰を下ろす。
 俺の席の後ろに、朝倉涼子の姿は無かった。鞄が掛けられている様子もない。
 はじめから朝倉涼子などはこの世に存在しなかったように、朝倉涼子を示すあらゆる要素が、俺の前から姿を消していた。

 それでいい。俺は思った。
 俺の知る世界には、朝倉涼子など、存在しないのだから。
 
 
     ◆
 
 
 二間目と三間目の間の休み時間に、長門からのメールが届いた。
 長門は朝倉にメールを送ってみたが、返信は得られなかった。とのことだ。
 俺はそれに対する返信の文面をしばらく考えてみた。が、適当な言葉が見つからず、返信をすることをやめてしまった。
 もはや俺にとって、朝倉がどこに消えてしまったかなど、どうだってかまわないことなのだから。

90: 2011/01/10(月) 00:50:37.11 ID:K7HyBc190

……


 動き出しさえすれば、物事が進むのは早いものだ。
 その日の昼休み。この世界からもう一人、俺の知る人物が消えた。

 そいつ顔を最後に見たのは、一月前の十二月十七日。
 その日を最後に、そいつは俺の前から姿を消した。
 そして、今。俺の知らないどこかで、俺の知らない誰かの手によって。
 そいつは、この世界から消えた。
 

……
 

 
 「……キョン、聴いたかい?」
 
 昼休み。意識を宙ぶらりんにしたまま、延々と無駄な時間をすごしていた俺に声を掛けたのは、国木田だ。
 いつもは気の抜けた微笑を浮かべている端正な顔面に、今日は何故だか、イヤにこわばった真顔が貼りついている。
 
 「どうした、校内にテレビのロケでも来たってのか」
 「聞いてないの? 嘘だろ、さっきからみんな、その話ばっかりなのに」
 
 国木田は俺の無知をあざ笑うように、大げさに驚いた後、顔を近づけ、囁くように言った。
 
 
 「今朝、光陽園の生徒の氏体が見つかったんだって」

91: 2011/01/10(月) 01:00:53.56 ID:K7HyBc190
 「氏体だ? なんだ、心臓麻痺か?」

 俺の意に反し、非日常的な言葉を口にした国木田を前に、俺は思わず、口をもたつかせた。

 「ううん……殺されたんだって。どうも、ナイフで刺し殺されてるっていうんだよ」
 
 突然の展開に、俺は話についていけきれなかった。
 光陽園高校。聞き覚えのあるその名前は、隣町に舎を構える、北高よりもいくらか位の高いの事だ。
 そこの生徒が、殺された。
 
 「何、なんだ? 殺人だって? 光陽園で?」
 
 俺と国木田の会話を聴きつけたのか、離れた席で食事をしていた谷口が、目を丸くして割り込んでくる。
 
 「通り魔か何かかよ? おいおい、冗談じゃねえぞ。で、誰が殺されたんだ?」
 「いや、さすがに、一人殺されただけで通り魔とは決められないと思うけど……」
 
 国木田は困り顔を浮かべながら、手に持った携帯電話のモニタを見つめている。
 
 「これ、言っていいのかな。殺された生徒の名前……確かな情報かどうか、わかんないんだけど」
 
 そう呟いた国木田は、俺と谷口の顔を見比べた後、まあ、もうみんなに知れちゃってるよね。と、ため息混じりに呟いた。
 
 そして、次の瞬間。

 その名前を、口にした。
 

 
 「光陽園学院一年の、涼宮ハルヒさん」

130: 2011/01/10(月) 15:56:59.48 ID:DiwkoB9S0

 「……おい、国木田、今、何と言った?」
 「え? ……だから、光陽園の、涼宮……

  あれ、この名前って、確かキョンが前に―――」
 「涼宮ハルヒって……あの、涼宮ハルヒかよ。あいつが、何だって!?」
 「し、知ってるの? だから……刺し殺されたって」
 「……マジかよ。信じられねえ……あの涼宮が?」
 「……そんな有名な人なの?」
 「有名も何も、あいつのことを知らないやつなんて、東中出身者には……
 
  ……おい、キョン?」
 
 
 
 俺の名前を呼ぶ、谷口の声がした気がした。
 が、それに反応を返す余力など、俺には残されていなかった。
 
 
 
 ―――ああ。
 俺は本物の大馬鹿者だ。
 
 
 
 北高にハルヒが居ない。
 ただそれだけで、この世界からハルヒが消えてしまったと、勝手に決め付けていた。
 
 俺はハルヒを見つけることが出来なかったのだ。

131: 2011/01/10(月) 15:58:46.48 ID:DiwkoB9S0
……
 
 
 ずいぶんと長い時間が経過したのだろう。
 すでに窓の外は、夕暮れの闇の色に染まり始めている。
 昼休みから今までの時間に、俺の周りで何があったのかは、ほとんど憶えていない。
 その間俺はずっと、目覚めているより、眠っているほうに近いんじゃないかというような状態にあった。
 


 
 涼宮
 ハルヒが
 氏んだ
 
 

 
 何故ハルヒが氏んだのか?
 そんなことを考える余裕はなかった。
 俺は自分の犯した過ちの大きさに押しつぶされていた。
 できるなら、本当にそのまま押しつぶされて、虫けらのように潰されてしまいたかった。
 
 ああ。
 
 俺は何をしていた?
 ハルヒはあの日からずっと、俺の見つけ出せる場所に居たのだ。
 なのに俺は、ハルヒを探すこともせず……
 
 俺は、何をしていた?

132: 2011/01/10(月) 16:00:09.08 ID:DiwkoB9S0
 
 「……あの……」
 
 ふと、右方向から声を掛けられる。
 俺は長い時間をかけながら重く錆び付いた首の間接を回し、声のした方向に顔を向けた。
 
 「……長門」
 
 半開きのドアの向こうに、眼鏡越しの大きな瞳で俺を見つめる、長門有希の姿があった。
 
 「……あの……朝倉さんが、見つからなくて」
 
 長門は敏感にも、俺の様子が普段と異なることを察したのだろうか
 まるで何かにおびえるように、恐る恐ると言った様子で、俺にそう言った。
 
 朝倉。

 そうだ。朝倉涼子が消えた。そんなこともあったな。
 ……それにしても、長門は何故、こんな遅くまで、校内に残っているのだろうか。
 朝倉を探していたのだろうか。今の今まで?
 しかし、校内をいくら探しても、朝倉がいるわけがない。
 では、長門は何をしていた?
 
 「……あなたの携帯電話、つながらなかったから……」
 
 携帯電話。そんなものの存在は、今の今まで忘れてしまっていた。
 俺はたった今蘇ったばかりの氏人のような手つきで、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出す。
 そこには、長門からの着信の形跡が、確かに残されていた。ついでに時刻を確認する。
 午後七時。よくもまあ、この時間まで校内にいて、教師か用務員に見咎められなかったものだ。

133: 2011/01/10(月) 16:08:34.60 ID:DiwkoB9S0
 
 「俺を……探しにきたのか?」
 
 俺が訊ねる、長門は少しだけ、躊躇うようにうつむき
 
 「……あなたまで……消えてしまうような気がして」
 
 そう、呟いた。

 いやな、長門。
 俺は丁度、いっそこのまま消えちまいたいと思っていたところだよ。
 俺はいい加減、自分のこのバカさ加減に嫌気が差してたところだ。
 
 「……どうし……たの?」
 「長門」
 
 なあ。長門。

 俺はどうしてこんな目に会わなきゃならないんだ?
 教えてくれよ。

 いつもみたいに、お前の力で助けてくれよ。
 出来るんだろ、本当は?
 
 「……」
 「……頼む、長門」
 
 何かを考えるには、あまりにも頭の中が散らかりすぎている。
 それはもう、二度と片付けようのない。取り返しのつかない有様だ。

134: 2011/01/10(月) 16:14:58.96 ID:DiwkoB9S0
 
 このまま全てを忘れて、眠ってしまいたい。
 これ以上なにもしたくない。
 

 
 俺にできることなど、もう、何一つないのだ。
 いや。はじめから、何一つなかったのかもしれない。
 

 
 こんな、大馬鹿者の俺にできることなど。


  
 何故俺はこんな場所にいる?
 何故、何一つできない俺を、こんな場所に連れて来たんだ。
 誰が。
 何の為に。
 

 
 わからない。

 何一つ。
 
 
 

135: 2011/01/10(月) 16:21:09.39 ID:DiwkoB9S0

……

 
 冷たい空気に触れ続けていた俺の耳が、ふと、温かい何かに触れた。
 同時に、やはり冷たくなってしまった俺の鼻腔に、降ろしたばかりの毛布のような匂いが触れる。
 凝り固まってしまった首が、何かに引き寄せられ、額が柔らかな何かに押し付けられる。
 

 「…………」
 「……長門」
 
 椅子に腰をかけたままの俺の頭を
 いつの間にか傍らまでやってきていた長門が
 大事な何かを抱える子供のように、俺の頭に手を回し、胸に押し付けていた。
 
 「……ごめんなさい、私、何も……これくらいしか」
 
 頭の上で、長門の声が聞こえる。
 すこし鳴き声にも似た、震えた声。
 

 
 ……どうして、長門が、此処にいるんだっけ?
 
 
 ああ、そうだ。
 俺を探しに来てくれたんだったか。

136: 2011/01/10(月) 16:28:13.04 ID:DiwkoB9S0
 
 ……長門。
 そうだ、長門は……


 たった一人、この世界に迷い込んでしまった俺を、見捨てずにいてくれた。
 俺をもう一度、文芸部室の中に迎え入れてくれた。


 そうだ。 
 長門はいつだって俺を、助けてくれた。

 いつだって、やり方は違えど
 長門は俺の助けになってくれた。
 そして、今も。

 
 
 俺は何がしたいんだろうか?
 『元の世界』に戻りたいのか。
 それとも……
 

 
 ―――ああ、もしかして、俺は。
 大馬鹿者の俺は。
 この世界に、早くも居心地のよさなんてもんを、感じちまってるのか。
 
 
 俺がいて、長門がいてくれる、この世界に。

137: 2011/01/10(月) 16:35:26.23 ID:DiwkoB9S0

 ……もう一度、自分自身に訊ねる。
 俺は何をするべきか?
 俺は何のために何をするべきなのか?
 
 わかるわけないじゃないか。

 
 そう。
 俺のわからないことの答えは―――いつだってそこにあった。
 

 
 「長門」
 
 長門の胸から顔を起こし、眼鏡の向こうの瞳を見つめる。
 
 俺の行き先と、目指す場所―――
 大げさに言うならば、俺の運命は、いつだって。
 

 長門の示す先にあったじゃないか。
 
 
 「……お前は、何を望む?」
 

 しばらく考えた挙句、出てきたのは、そんな言葉だった。
 長門は一瞬だけ、俺を異様がるような表情を浮かべそうになったが
 次の瞬間―――大きな瞳の奥に、一瞬だけ、かつての長門に似た炎をともし―――はっきりと、言った。

138: 2011/01/10(月) 16:39:48.42 ID:DiwkoB9S0

 「……私は、あなたが悲しまなければ、それでいい」
 
 
 ……長門。
 
 本当にそんなんでいいのか?
 俺は大馬鹿野郎だから、今の気分だけで、簡単に決めちまうぜ?
 
 
 今、俺が悲しいこと。
 
 
 涼宮ハルヒに会えない事だ。
 それ以外に、なにがあるというのだ。
 
 
 「長門」
 
 
 頼む。
 俺を導いて――

 
 いや。


 俺と一緒に、いてくれるか?
 俺のそばから、離れずにいてくれるか?

139: 2011/01/10(月) 16:43:24.23 ID:DiwkoB9S0
 
 長門は言葉を放つ代わりに
 俺の頭を、もう一度自分の胸に押し付けた。
 長門の制服の胸に、冷たい液体が染み込んでゆく。俺の涙だ。
 でも、それ以上に、暖かい。
 長門が触れた部分から、俺の体が溶けていってしまいそうだった。
 

 
 「私は……ここにいる」
 

 
…… 
 
 
 そうだ。
 

 俺には長門がいてくれる。
 
 まだ全てが終わったわけじゃない。
 
 
 
 俺は、探すのだ。
 この世界のどこかに、今も未だ眠っているかもしれない、鍵を。
 
 俺の手で探し出すのだ。
 俺と、長門の手で。

145: 2011/01/10(月) 18:45:20.10 ID:DiwkoB9S0

……
 
 
 朝。俺は寝起きに見た携帯電話の示す時刻に目を丸くし、危うく学校を目指して家を飛び出さんとしていたところを
 俺にすこし遅れて目を覚ました長門によって静止された。
 
 「今日は、土曜日」
 
 片手で不器用そうに眼鏡を掛けながら、長門は言った。
 ただ寝ぼけていたから、曜日の感覚がなくなった。というわけでもないだろう。
 昨日一日で、俺の脳に飛び込んできた出来事があまりにも多すぎて
 俺の脳の許容量はとっくに振り切れていたのかもしれない。
 
 何しろ、朝一で朝倉が消え、気も休まらぬうちにハルヒの氏を聞かされ。
 そして、夜はと言えば……
 

 
 「……あの、私、服を」
 

 
 いつの間にか、ぼんやりと長門を見つめていた俺に向かって
 長門は恥じらいなのか、戸惑いなのかわからないような表情で目を泳がせながら、そう呟いた。
 
 一瞬の間の後で、俺はあわてて、長門の肌から視線を逸らした。

 
……

146: 2011/01/10(月) 18:53:45.90 ID:DiwkoB9S0

……
 
 
 あー、さて。
 ……これ以上、自分をバカ呼ばわりして時間を潰しても、何も変わりはしない。
 色々なことを頭の中に詰め込まれすぎた所為で、それが分からなくなってた。

 けど、今なら分かる。
 長門。お前のおかげだよ。
 

 俺は探すよ。
 途中であきらめたりしない、見つかるまで探してやる。


 俺は帰らなくちゃならないんだ。
 俺がもともと居た、あの世界へ。
 それが俺にとっての、正しい世界なんだ。

 そして……長門。
 お前にとっても、きっと。
 
 
……
 
 
 コタツとフローリングの上に、窓から差し込む午前の光が差している。
 その日光を避けるようにして、リビングの隅。制服姿の俺と、ハイネックのセーターに身を包んだ長門とが
 まるで将棋の対局でもおっぱじめようとしているかのごとく、正座をして、小ぢんまりと向かい合っていた。

147: 2011/01/10(月) 19:03:57.40 ID:DiwkoB9S0
 
 まず、一つ一つ整理して考えてみよう。
 と言っても。俺の頭の中に散らばっているものといえば、いまだに現状を理解できていない俺が
 貧困な想像力で導き出した仮定事項に過ぎないガラクタばかりであり
 それらを並び替える事で、たとえ何かが導き出されたとしても
 それがこの闇雲の世界を切り裂く、光の矢となってくれる確率が、はたしてどれほど在るだろうか。という話ではあるのだが。
 しかし。今は俺たちにできることをやると決めたのだ。
 
 涼宮ハルヒが氏んだ。
 では、まず、何故ハルヒが氏ななければならなかったというのか。
 
 あるいはそれは、この平凡な世界が当たり前に進んでゆく上で、この世界における涼宮ハルヒの運命が
 昨日の午前までで終わっていたという、ただそれだけのことなのか。
 その可能性も、ゼロではない。
 そもそも。俺は勝手に、涼宮ハルヒこそが、この世界の謎を解き明かす最大の鍵のように思っていたが
 かつての世界で非常識の役割を担っていた人々が、軒並み平凡な人間へと変わったこの世界において
 果たして涼宮ハルヒは、本当に俺にとって、鍵となり得る存在だったのか? それすらも分からない。
 
 この世界にハルヒが存在していたことに、意味はあったのか?
 そして、この世界のハルヒが氏んだことに、意味はあるのか。
 
 その問いかけに対する俺の返答は、こうだ。
 

 『なかった/ないのかもしれないが、あった/あると思う。
  何故なら。ハルヒの氏という出来事は、単独で起きた事件ではなかったからだ』

 
 昨日、涼宮ハルヒがこの世界から消え去った。
 それと同時に。俺の前から消えた人間が居たじゃないか。

148: 2011/01/10(月) 19:11:59.39 ID:DiwkoB9S0
 
 「朝倉だ」
 
 俺がその名前を呟くと、長門が一瞬体を震わせたような気がした。
 
 一昨日の夜を最後に、俺たちの前に姿を現して居ない朝倉。
 朝倉が消え、涼宮ハルヒが氏んだ。
 この二つの出来事の間に、繋がりがあると考えてしまうのは、俺の例の病気の所為なのだろうか?
 

 そう。やはり―――朝倉涼子は、ただの平凡な女学生などでは、なかった。
 そう仮定して、話を進めさせてもらう。
 
 
 では、朝倉がハルヒを頃したのか?


 それは分からない。そう断定できるわけじゃない。
 ただ、朝倉が何らかの形で、ハルヒの氏に関わっていた。
 それだけは間違いないと、俺は断言できる。ああ、できるとも。
 そうでもしなければ、臆病者の俺は、動くことも出来なくなっちまうからな。
 

 
 ハルヒが仮に、鍵であり。
 朝倉が仮に、ハルヒの氏に関わっていたとする。
 ハルヒが鍵であるが故に氏んだとし。

 ならばやはり。
 朝倉は、ハルヒが鍵であることを知っていたのではないか?

150: 2011/01/10(月) 19:23:50.39 ID:DiwkoB9S0
 
 ……むちゃくちゃだと思っただろう。正直言って、俺もそう思う。
 では、もっと分かりやすく言ってやろうか。

 つまり。
 俺が今思いつける手がかりらしきものは、朝倉ぐらいしかないんだよ。
 
 
 消えた朝倉を探す。
 それが今、俺たちができる、ただ一つのことである。
 反論があったなら、代替案を添えて、今日中に俺に提出してくれ。
 
 
……
 
 
 時計の針が十時を回るのを待って、俺と長門はマンションを出た。
 
 「学校に行こう」
 
 朝倉を探すために何をするべきか。俺たちが考えた結果、導き出された最初の一手は、それだった。
 昨日今日と、長門は何度か、携帯電話を用いて朝倉とコンタクトを取ろうとしているらしい。
 しかし、先方は終始だんまり。まあ、おかけになった番号は現在使われておりません。などと言われていないだけマシというものか。

 となれば、次は目撃証言を募ってみようという、単純な考えだ。
 朝倉は校内ではちょっとした有名人である。
 北高の生徒たちの中に、昨日今日で朝倉を見かけたというものがいるかもしれない。
 あいにく今日は土曜日であり、話を聞くことができるのは、部活動に勤しむ生徒たち限定だが。

151: 2011/01/10(月) 19:30:25.93 ID:DiwkoB9S0

……


 さて。休日の学校内を長門と巡るうちに、一時間あまりの時間が経過し……
 時刻は丁度正午過ぎ。俺と長門は、あらかたを回り終えた後、いつもの文芸部室にて休憩を取っていた。

 端的に言うと、収穫はゼロ。誰一人として、朝倉涼子の姿を見たという生徒は存在しなかった。
 まあ、正直に言わせてもらえば、こんなことは想定の範囲内である。
 こうしてすこし聞き込みを行うだけで、とんとん拍子に朝倉涼子の足取りが掴めるなどとは思っていなかったさ。
 ……そうなってくれたなら、ありがたいことこの上なかったのだが。
 
 俺は長門が淹れてくれたホットティーをのカップを片手に持ったまま
 一月前のあの日と同様に、本棚に並べられた書物の背表紙に目を通していた。
 
 「……やっぱり、ないか」
 
 あらかた目を通し終えた後で、呟く。
 俺が探しているのは……おそらく、皆さんの想像通りのものだろう。
 タイトルは忘れてしまった。俺がこのSOS団に入った直後、長門が俺へのメッセージと共に託してくれた、あの一冊だ。

 一月前、初めてこの世界の文芸部室を訪れたときも、俺はあの一冊の本を探し求めて、この本棚をくまなく探したのだ。
 それを今、こうして改めて探してみたら、こんなところにちゃんとあったじゃあないか。
 ……そんな展開をうっすらと期待していたのだが、世界はそれほど甘くもなく
 そして、俺がそれほどうっかりさんであったりもしなかったようだ。

152: 2011/01/10(月) 19:34:25.88 ID:DiwkoB9S0
 
 「あの本、なんつったかな」
 「ダン・シモンズ『ハイペリオン』」
 「は?」
 
 不意に。背後で長門の声がして、俺は思わず声を上げながら、振り返った。

 パソコンの前に腰をかけ、何ということはない、不思議な表情で俺を見ている長門。
 お前……今、なんて言った?
 

 「その……探してる本って、もしかして、ダン・シモンズの『ハイペリオン』?」
 

 ああ?
 ハイペリオン?
 ああ。そうだ。言われてみれば、そんなタイトルだったかもしれん。
 やけに分厚い癖に、表紙には陳腐なカタカナのロゴが書いてあって……

 「……いや、ちょっと待て」

 何故、この長門が、俺がその本を探していると分かるんだ?
 
 「長門、その本、あるのか」
 「今は、ない」
 
 長門はすこし考えるように首をかしげ
 
 「……確か、前に、朝倉さんが……借りていった」

153: 2011/01/10(月) 19:39:05.65 ID:DiwkoB9S0
 
 何だと?

 朝倉涼子が、あの本を。
 長門、そりゃいつの話だ。
 
 「……あなたが始めてこの部屋に来る、すこし前」
 
 つまり。
 十二月十八日の放課後。なんだな?
 
 「……そう」
 
 
 ―――決まりだ。

 俺の頭の中で、噛み合っていなかった部品と部品が、今、この瞬間。
 どでかい音を立てながら、確かに、繋がった。
 
 
 朝倉涼子なら。
 奴なら、以前長門が、あの本を通じて俺にメッセージを託したことも知っているはずだ。
 
 
 朝倉涼子なら。
 奴なら、俺が。長門のメッセージを求めて、あの本を探すことも、予想できるはずだ。
 
 
 朝倉涼子なら――――

154: 2011/01/10(月) 19:50:38.82 ID:DiwkoB9S0
 

 「長門、朝倉の家に行こう」
 「え、あ、朝倉さんの?」

 
 間違いはない。
 やはり、朝倉涼子だったのだ。
 


 
 朝倉涼子は、俺の知る朝倉涼子だったのだ。

 
 
 
 俺が見つけるべきだったものは全て、あの女の先回りによって、隠し遂せられていた。
 何故だ?
 朝倉は何故、俺の邪魔をしたのだ?
 

 
 すこし考えれば、見当はつく。
 そうだ。
 

 
 あの女は、もう一度消えたくなかったのだ。

155: 2011/01/10(月) 19:54:11.73 ID:DiwkoB9S0
 
 一体誰の気まぐれで、この世界が生まれたのかは分からない。
 だが、朝倉は間違いなく、この世界の発生と共に、再び存在を手に入れた。
 そして……そうだ。何よりも。
 
 
 長門。
 
 
 朝倉涼子は、もう二度と、長門有希から離れたくなかったのだ。
 だからあの女は、俺がこの世界を解き明かすことを妨げたんだ。
 
 だとしたら―――そうだ。やはり、ハルヒを頃したのも―――――
 
  
 「うわっ」
 
 
 俺が、ドアノブを引きちぎるような勢いで、廊下への扉を開け放った瞬間。
 目の前で、どこかで聴いたような、粘り気のある男の声が聞こえた。
 
 「え……」
 
 例によって俺を追いかけてきてくれようとしていたのだろう
 俺のすぐ斜め後ろへとやってきていたらしい長門が、開け放たれた扉の向こうに居た人物を見て、声を上げる。
 

 そして、俺もまた。そいつの顔を見た瞬間

 ―――いっそ、笑っちまいそうになったね。

156: 2011/01/10(月) 19:55:53.71 ID:DiwkoB9S0
 
 「……あの、すみません。何が……おきているんでしょうか?」
 

  
 何がおきているか、だと?
 てめえ、何を今頃出てきておいて、俺のセリフを奪ってるんだ。
 そのセリフはな。一月前から、俺がお前に投げかけたくて仕方なかったセリフなんだよ。
 

 
 「……会いたかったぜ」
 「はい?」
 

 
 数多のセリフが頭をよぎった果てに、俺の口からこぼれたのは、そんな一言だった。
 そいつは、本当にワケが分からないと言った様子で、眉を顰めながら、俺の顔を凝視している。
 

 
 一月ぶりに見る、古泉一樹の顔。
 それはいつものニヤけ面とは程遠い、戸惑いを絵に描いたような困り顔だった。

157: 2011/01/10(月) 19:57:40.26 ID:DiwkoB9S0
 
 「お前……なんでそんな格好してるんだ」
 
 まるでそのまま時が止まってしまったかのように、長い沈黙と静止があった。
 数分だったか、数秒だったか、はたまた一時間ほどもあっただろうか。
 俺にとってはずいぶんと長い時間であったように思えたのだが
 俺と共に硬直していた二人が、文句の一つも言わずに付き合ってくれていたことからして、おそらくそう極端に長い間ではなかったのだろう。
 
 「はい? ……格好、ですか?」
 
 沈黙を破った俺の言葉に、古泉は、頭がついていかないと言ったように、しばし呆然とした後で
 はっと気づいたように、自分の着ている詰襟の制服に手を触れた。
 自分が制服の着方を間違えてでも居るのかと思ったのだろうか。
 安心しろ、古泉。ウチのブレザーより似合ってるぜ、それ。
 
 「なあ、古泉。安心しろ、お前の着こなしは完璧だ。首にかけてる部分が実はアンダーということも無い。
  お前がそんな学ランを着てるのは初めて見たもんでな、思わず言っちまっただけだ。
  それでな、古泉。悪いが、俺にはあまり気持ちの余裕がないんだ。早速だが、話を聞いてもいいか?
  ……何故、お前は此処にいる?」

 この古泉が、いつものように、半笑いで俺の疑問に答えてくれる、あの古泉だったらどれほど良かっただろうか。
 しかし、どうやら、そこまでゼイタクは望めないらしい。

 古泉は……おおかた、俺が自分の名前を知っていることだとか、そのあたりのつまらないことに驚いているのだろう。柄にもなく目を瞬かせている。
 なあ、もうそういうリアクションは飽き飽きなんだ。さっさと答えてくれないか。
 

 お前は、鍵か?
 それとも、ただの気まぐれな侵入者か?

158: 2011/01/10(月) 20:01:04.45 ID:DiwkoB9S0
  
 「その……なんと申し上げますか。
  僕は今日、この時間に、この部屋を訪れるよう約束していたのです」
 
 数秒間、ためらうような時間があった。
 やがて古泉は……一月前に、国木田やらに浴びせられたやつとは、またすこし違ったタイプの『得体の知れないものを見る視線』を俺に浴びせながら
 恐る恐ると言ったように口を開いた。
 
 「一体、誰と」
 
 俺は尋ね、即座に……面倒な回り道はするべきでないと、思い直した。
 
 「朝倉涼子か」
 「! ……」
 
 俺がその名前を口にすると、古泉は一瞬、眉に深い皺を浮かべた後で
 以前にも何度か見たことがある、まるっきりの真顔となり、低く澄んだ声で、俺に向けて言葉を発した。
 
 「あなたは……一体」
 「朝倉涼子ならここにはいないぜ」
 「! まさか、あなたたちが、涼子さんを―――」
 
 涼子さん。ずいぶんと親密な呼び方をするじゃないか。
 この世界のこいつと朝倉の間に、どんな接点が有るというというのだろう?
 
 「待て、落ち着いてくれ」
 「無茶を言わないでください。こんなわけの分からない状況で、落ち着けるわけがないでしょう」
 
 御尤もな話だ。
 俺もこれまで、幾度かわけの分からない状況に陥ったことがあるが、はじめから落ち着いていられたことなんて、ただの一度もない。

159: 2011/01/10(月) 20:08:23.24 ID:DiwkoB9S0
 
 「朝倉さんは、その……一昨日から、行方が」
 
 声を発したのは、長門だった。
 古泉は、たった今長門の存在に気づいたとでも言わんばかりに、目を丸くして、長門を見つめている。
 
 「……行方不明、ですか?」
 「ああ、そうさ。携帯も繋がらん、家にもおそらく帰っていない。一昨日の夜を最後にな」
 「……そんな。では、この手紙は……」
 
 手紙?
 
 「……今朝、僕の家のポストに入っていたんです。涼子さんから、今日、この場所に来てくれと……
  以前、僕に預けたものを返してほしいとの事だったのですが」
 「その預け物ってのは、まさか、ダン・シモンズの『ハイペリオン』じゃあないだろうな?」
 「……待ってください。あなたは、本当に何者なのですか?」
 
 どうやら、こちらの世界の古泉は、俺の知っている古泉と比べて、ずいぶんと感情的な奴のようだ。
 俺が本のタイトルを口にした瞬間、古泉は俺から逃げるようにして数歩後ずさり、右肩にぶら下げていた学生鞄を庇うように、自分の体の後ろに隠した。
 なるほど。そこにダン・シモンズの『ハイペリオン』が有るんだな?
 
 「古泉、説明は後だ。そいつを俺によこしてくれ」
 「ふざけないでください。あなたたちみたいな訳の分からない人に、彼女からの預かり物を渡せるわけがないでしょう」
 
 ああ、確かにそうだ。俺も訳がわからん。

 朝倉。お前は今日、俺たちがこの場所を訪れることを予想して、こいつをこの場所に呼んだのか?
  
 一体、何の為に?
 お前は俺を、鍵から遠ざけるために、こいつを隠したんじゃあなかったのか?

160: 2011/01/10(月) 20:18:15.87 ID:DiwkoB9S0
 
 「なあ、古泉」
 
 腹の底からの面倒くささを感じながら、俺は目の前で敵意をむき出しにしている男に声を掛ける。
 
 「……朝倉は、そいつを俺の手に渡すために、お前を呼んだんだ」
 「何を馬鹿な……信用できません。あなたたちが、涼子さんの何だと言うのです」
 「俺は文芸部員だ」
 「それが何だと言うのですか」
 「俺にもわからん」
 
 古泉は、何を言っているのか分からない。という顔で、俺をにらみつけている。
 ああ、古泉。俺だって、自分が何を言ってるのかなんかわかっちゃいないんだよ。
 だからどうか、俺を困らせないでくれないか。
 誰か、なにか、この男に、全ての事情を一瞬で説明する装置を、今、俺に託してくれやしないだろうか。
 そこらをさまよっているピザ屋にでも渡してくれれば、きっと俺の元に届くことだろう。
 この部屋の中央にそいつを仕掛けて、一晩休んだら、床に大量の古泉が張り付いているようなやつがいい。
 開発費用のほんの少しくらいなら、俺が負担してやってもいいさ。だから、どうかできるだけ早く―――
 
 
 「……かずきくん」
 「……は?」
 
 不意に。古泉と二人、いたちごっこの睨み合いを続けていた俺の後ろで。
 何かを思い出したように、長門が呟いた。
 するとどうだろうか。俺の顔面に向けられていた古泉の双眸が、はたと長門に向け直される。
 
 「……今、なんと?」
 「……確かあの日……『ハイペリオン』を、借りていった日
  朝倉さん……これから、『かずきくん』と会うって……」

161: 2011/01/10(月) 20:27:50.46 ID:DiwkoB9S0
 『かずきくん』?
 それは一体どこのどいつの事だろうか。
 カズキ。ありふれた名前だ。漢字で書いたら、こんなところか。
 和樹。 一輝。 一樹……。
 

 「……そうですか。あなたが、『長門さん』なのですね」
 「え……」
 
 声を聞き、俺は古泉を向き直る。
 しかしそこに、先ほどまでの、攻撃的な態度を浮かべる青年の姿はなく……
 その代わりに、どこか悲愴感を感じさせる微笑を、ほんのわずかに浮かべた、顔のいい男が立っていた。
 
 「……分かりました。この本は、あなたがたにお返しします」
 
 古泉は鞄を肩から外し、ジッパーを外した中から、茶封筒に包まれた、重たそうな冊子を取り出した。
 そして、鞄を肩に掛けなおすと、両手に持ったその本を、俺へと差し出してくる。
 俺は奇妙な緊張感を感じながら、片手でそれを受け取った。
 
 「あ、ああ……確かに受け取った」
 
 封筒に包まれているため、表紙は見えない。が、大体の大きさと厚み、そして重みでわかる。
 ……そうだ。これこそが、俺がずっと探し続けていた。あの本だ。
 
 「……彼女とのお約束の通り、一度として開いては居ません。ずっと大事に保管してありましたよ」
 「そうか、それは……ありがとう」
 「あなたに言っても、仕方のないことでしたね」
 
 そう言って、古泉は――今度こそ。間違いなく――儚げに、微笑んで見せた。
 俺の良く知る古泉が時として浮かべるそれと、全く同じ表情である。

162: 2011/01/10(月) 20:34:12.88 ID:DiwkoB9S0
 
 「しかし……なんだ。かずきくんというのは……」
 「……皆さん、僕のことを、はじめはそう呼ばれるんですよ」
 
 古泉はなにやら気の晴れたような表情で――ある種のやけくそでもあるのか――イヤに朗らかに話し始めた。
 
 「……この本を預けられるとき。僕は、涼子さんから、長門さんの話を聞きました。
  この本の持ち主で……涼子さんにとって、その人はとても大切な存在なのだということも。
  髪の毛が短く、背中がしゃんとしていらして……
  なるほど。言われてみれば、その通りの方かもしれません」
 
 古泉はひとしきりの語りを終えた後、ふと、我に返ったように目を瞬かせ。
 
 「すみません。すこし喋りすぎですね、僕は」
 
 と、すこし恥ずかしそうに……そして、どこか寂しそうに笑った。
 
 「……僕にできることは、これきりだと思います」
 「ああ……すまなかったな、突然」
 「いえ……かまいません。お話は聞いてありましたから。
  今、お渡ししたものは、長門さんにとって、何よりも大事なものなのだと」

 古泉は言った。
 
 「いつか、それが必要になるときが来るかもしれない。その時まで、大事に預かっておいて欲しい。とのことでした
  どんな事情があるのか分かりませんが……つまり、その時なのでしょう?」

 どうだろうな。
 多分、そうなんだと思う。ぐらいしか言えんな。
 何しろ――何度も言うが、何がなにやらなどは、俺にもさっぱりわからないのだから。

163: 2011/01/10(月) 20:39:46.31 ID:DiwkoB9S0
 
 「……では、僕はこれにて失礼させていただきます。行かなければならないところがありますので」
 
 やがて古泉は、腕の途中にぶら下げていた鞄を肩に掛けなおし、制服の襟を直した。
 
 「朝倉さんが見つかりましたら、どうか……頼まれたことは全て済ませたと、お伝えください」
 「……一つ、いいか?」
 「なんでしょう?」
 「お前と、朝倉は―――」
 「すこしばかり古い友人。ただ、それだけです」
 
 ふと。その言葉と同時に、俺を振り返った古泉は
 一瞬、なにやら真剣な顔になり、俺の顔をまじまじと見つめはじめた。
 
 「どうした」
 「いえ……僕も最後に、一つだけ、よろしいですか?」
 「構わんが」
 「その本を、持ってみていただけますか」

 こいつをか?
 古泉は、俺の手の中に在る、先ほど渡されたばかりの書物を指し示している。
 俺は言われるがままに、封筒の中からハードカバーを取り出し、それを手に持って、古泉に向き直って見せた。
 これがどうした?

 「いえ……なるほど。言われて見れば……意外と似合っていらっしゃるかもしれませんね」
 
 それでは、ごきげんよう。
 その言葉を最後に、古泉一樹は、文芸部室を後にし、土曜日の街へと消えて行った。

164: 2011/01/10(月) 20:45:05.02 ID:DiwkoB9S0

……


 ……さて。
 今。古泉の登場と共に、いくつかの新たなる事実が明らかになった。
 
 朝倉は、この本を俺の前から隠し、それを古泉に託した。
 そして、今朝。古泉は朝倉の命によって、本を返すためにこの文芸部室を訪れた。
 そこに朝倉の姿などはなく、代わりに俺と長門が居た。
 

 これは、偶然か? 必然か?
 なあ、朝倉?
 
 
 「お前は何を考えてるんだ?」
 
 俺が部室を振り返りながら呟くと、たまたま目の前に立っていた長門が、何事かというように俺の顔を見た。
 
 「すまん。お前のことじゃない」
 「……その本」
 「ああ、そうだったな」
 
 そうだ。
 あれほどもう一度巡り合いたかった、この本が。今、俺の手の中に有る。
 ずいぶんと回り道をしたものだ。俺はようやく、その鍵を手に入れたことになるのか。
 朝倉によって遠ざけられたそれを、今、朝倉の導きによって。

165: 2011/01/10(月) 20:50:22.43 ID:DiwkoB9S0
 
 「頼む、長門」
 
 本を両手に持ち、俺がそう呟く。傍らで、眼鏡の長門が、不思議そうに目を丸くしている。
 いつかのように。
 俺を導いてくれ。長門。
 
 


 
 「あ……」
 
 俺が本を開くと同時に。開いたページの間から零れ落ちた、長方形の紙片を見て、長門が小さく声を上げた。

 


 
 『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後』
 

 

 
 花柄のしおりの裏に、明朝体に似た几帳面な文字で、箇条書きのように、そう書かれていた。

166: 2011/01/10(月) 20:52:11.19 ID:DiwkoB9S0
 
 「長門、これお前の字か?」
 「……似てる。でも、私はこんなの、書いたこと」
 「だろうな」
 
 鍵。
 これまで俺が闇雲に使っていた表現が、晴れて公式に認定されたわけだ。


 俺は鍵を探さなければならない。
 ……その事を教えてくれたのは、俺が今まで『鍵』と呼んでいたものだった。
 ……冗談だろう?。
 
 「二日後……?」
 
 ふと。栞の文字を見つめていた長門が呟く。
 そうだ。この栞は、朝倉がこの本を持ち去った一月前のあの日から、ずっと本に挟まっていたとしたら。
 この栞の示す二日後というのは……十二月二十日か、前後があっても数日と言ったところだろう。
 ……時間切れにもほどがあるぞ。
 
 「いまさら、どうしろってんだ」
 
 鍵探しの果てに見つけたのは、新たな鍵探しの任務。
 そして、示された期限は、とうの昔に過ぎ去っている。
 
 なあ、気のせいだろうか?
 俺にはこの状況が、完全なる『万事休す』であるような気がしてならないのだが。

167: 2011/01/10(月) 20:54:45.73 ID:DiwkoB9S0

 「あの……これ」
 「ん?」
 
 ふと。頭を抱える俺に、長門が何かを差し出す。

 「これは……フロッピー、か?」

 それは、今はすっかりお目にかかることもなくなった、黒く、古びたフロッピーディスクだった。
 中央に貼られたシールに、栞の字と似た筆跡で、『SELECT?』と書かれている。
 
 「長門、これは……?」
 「……そこの、机の上に……あった
  私があの日、本と一緒に、朝倉さんに渡したもの」
 「なんだって?」
 
 思わず、声のトーンが高まる。
 
 「私の書いた小説を、この中に入れて、朝倉さんに渡した。
  ……何故、今、この部屋にあるのかは、わからない。」
 
 長門はすこし恥ずかしそうに目を伏せながら、フロッピーディスクを俺に差し出して来た。
 薄く、軽く、小さな正方形。

 
 ――朝倉。お前って奴は。
 なんでこうも紛らわしいことをしてくれるんだ?
 俺の前から、手がかりを隠したかと思えば、今頃になって……

168: 2011/01/10(月) 21:01:27.22 ID:DiwkoB9S0
 
 「長門、これを作ったのは」
 「……あの日、朝倉さんに頼まれた時。十二月十八日の、放課後」
 
 俺はふと、三年前の七夕の夜を思い出した。
 あの日、俺が長門の部屋で、眠りに付いたように。
 このディスクの中でも、今、何かが眠っているというのだろうか?
 
 「……長門。お前が多分、恥ずかしがるということは分かっている。
  無礼を承知で、頼みが有る。どうか、このディスクの中身を……」
 「かまわない」
 
 俺の言葉を途中で遮るようにして、長門は―――気のせいだろうか、此れまでで一番はっきりした声で―――そう言った。
 
 「……いいのか?」
 「構わない。……あなたになら」
 
 内側からあふれ出そうとしている恥じらいを、真顔の表皮で必氏に覆い隠している。
 そんな複雑な表情を浮かべた長門は、俺が動き出すよりも先に、俺の手の中からフロッピーディスクを奪い取り
 
 「それがあなたにとって、必要な事なら」
 
 そう言って、コンピューターの電源を……
 
 「……え?」
 
 ……電源を入れようとしたところで。長門はコンピューターの画面を見つめたまま、硬直してしまった。
 なんだ? どうした、何があった?
 
 「……パソコンが、勝手に」

169: 2011/01/10(月) 21:08:02.14 ID:DiwkoB9S0
 
 長門の返事を聞き終わらないうちに。俺は長門の傍へと駆け寄り、ダークグレイの光を放つディスプレイを凝視していた。
 うろたえる長門と二人、息を呑み、その光景を見つめる。
 しかし、ディスプレイには何一つ表示されない。ただ、真っ黒な画面が、延々と表示されているだけだ。
 
 ……長門、フロッピーだ。フロッピーを入れてくれ。
 俺が言うよりも早く。長門は先ほどのフロッピーを、モニタの傍らに取り付けられたドライバへと挿入していた。
 
 「……長門」
 「?」
 「もしかすると、今からお前の目の前で、色々と信じられないようなことが、起きるかもしれん。
  ……できるだけ、驚かないでいてくれるか?」
 「分かった」
 
 ドライバにフロッピーディスクが挿入されてから数秒ほどの沈黙を経て。
 俺たちの目の前に……音もなく、文字が表示されだした。
 
 
 

 
 YUKI.N>これをあなたが読んでいるとき、わたしはわたしではないだろう。
 

 

 
 ……そうだよ。
 その通りだよ―――長門。

171: 2011/01/10(月) 21:15:24.33 ID:DiwkoB9S0
 俺の隣で、長門が、「えっ」と小さく声を上げるのが聞こえた。
 しかし、先ほどの約束の通り。長門は声を押し頃し
 驚きと真剣の入り混じったような瞳で、ディスプレイに連ねられてゆく文章を、じっと見つめている。
 
 文章は、一文字一文字、ゆっくりと組み立てられてゆく。
 

 
 YUKI.N>このメッセージが表示されたということは
 

 
 ……文章は、そこで止まってしまう。
 何だ? これは、何かの演出か?
 それとも……まさか。
 

 

 
 YUKI.N>エラーを感知。プログラム起動に必要なモジュールが不足している。
     システムに致命的なエラーが発生している。緊急脱出プログラムの実行は不可能。
 

 

 
 ―――勘弁してくれよ、長門。
 いきなり起動し出したのはお前のほうじゃないか。

172: 2011/01/10(月) 21:22:18.16 ID:DiwkoB9S0
 その文面を表示したきり、ディスプレイは凍りついたように動かなくなってしまった。
 ずいぶんと長い間、俺と長門は、その画面を凝視していた気がする。
 
 「……駄目なの?」
 
 どれくらいの時間がたったか。やがて、沈黙を破ったのは、長門の声だった。
 
 分からない。
 そう返そうとしたのだが、いつのまにか俺の喉は、声の出し方を忘れてしまったかのように枯れはててしまっており、うまく言葉を発することが出来なかった。
 

 ……もう、打つ手はないというのか?
 俺がディスプレイから離れ、再び、頭を抱え込もうとした、その瞬間。
 
 
 「! あの……これ」
 
 長門が声を上げた。
 振り返ると、長門は眼鏡越しの瞳を大きく見開かせながら、右手の指でディスプレイを指し示している。
 俺は物も言わず、再び長門の傍らへと舞い戻り、モニタに噛り付いた。
 ……先ほど凍り付いていたカーソルが、再び点滅を始めている。
 そして……俺と長門の目の前で、再び文章を紡ぎ始めた。
 
 
 YUKI.N>     
 
 YUKI.N>システムの実行に必要なモジュールを検知しました。
       本プログラムは、非常用デバッグモードへと移行出来ます。
       実行するならば、エンターキーを。その他の場合は、その他のキーを。
       Ready?

173: 2011/01/10(月) 21:30:09.43 ID:DiwkoB9S0
  
 「……非常用モードだって?」
 
 新たに俺たちの前に現れたその文章を見て――俺が一番に気が付いたのは
 そのメッセージが、今までの長門からのメッセージとは決定的に異なる『何か』を持っていると言うことだった。
 何かとは、何だ。と言われても、返事に困る。言葉では説明のしようの無いものだ。
 ただ、文章から発せられるオーラのようなものが、まるで異なるのだ。 

 何なら断言してもいい。
 新たに現れたそのメッセージは、間違いなく、長門有希が残したものではない。

 まるで後から付け足されたかのように現れた、俺を導かんとするそのメッセージ。
 そのメッセージを俺に残したのは、一体誰だ?
 可能性が有るのは……俺が思いつける限りでは、たった一人しか居なかった。
 
 「長門」
 
 俺が声をかけると、長門は何も言わずに俺を振り返った。
 先ほどまでとは何かが違う。何かを悟ったかのような、不思議に落ち着いた表情。
 
 「……もしかすると俺はこれから、この場から消えちまうかもしれない」
 「分かっている。なんとなく」
 「もしそうなったら……ごめんな。なんか、何から何まで勝手で……振り回してばかりで」
 「いい」
 
 俺が謝罪の言葉を述べると、長門はそれを拒否するように首を振り……
 
 
 「きっと、それは正しいこと。……あなたにとっても、私にとっても」

174: 2011/01/10(月) 21:32:34.09 ID:DiwkoB9S0
 
 どうなんだろうな。
 俺にはわからない。

 だが……お前がそういうのなら、きっとそうなんだろう。
 

 

  
 最後に、長門に何かを言うべきだったのだろう。

 しかし、一体何を言うべきなのか、俺には分からなかった。


 だから俺は、無言で指を伸ばし、エンターキーを押し込んだ。



 

……

175: 2011/01/10(月) 21:38:54.53 ID:DiwkoB9S0
 
 自分を含めた全てが渦を巻くかのような、強大な違和感の果てに。
 俺がたどり着いた先は……一切の色を奪われた、灰色の文芸部室だった。
 
 「……長門?」
 
 たった先ほどまで、俺の傍らに居たはずの長門は、跡形もなく消え去ってしまっている。
 窓の外には、夜の闇から更にわずかな彩りさえもを抜き取ったかのような、完全な暗闇が広がっている。

 ……俺はその全てに見覚えがある。
 灰色の空にも、色を失った文芸部室にも。

 俺の知るある男は、この世界を、こんなふうに読んでいた。
 
 
 「閉鎖空間……」
 
 
 そして。俺の知る限り
 その世界を作り出せるのは、この世界にただ一人であったはずだ。
 

 涼宮ハルヒ。
 
 
 ……俺は、今度は一体、どこにやってきてしまったと言うのだろう?
 
 ―――いつかの春の夜に倣うならば。
 いずれ、窓の外に赤い光の玉がやってきて、俺に助言をしてくれるはずなのだが
 今、その展開への期待を募らせたところで、おそらく、俺の気持ちは盛大に泡と散るだけであろう。

176: 2011/01/10(月) 21:40:33.67 ID:DiwkoB9S0
 
 「……ん?」
 
 窓の外から視線を外し、室内を振り返った俺は
 パソコンの画面に、なにやら文章のようなものが表示されていることに気が付いた。

 近づいてよく観察してみると、画面にはテキストエディタが開かれており
 そこに、小さく設定された文字で……
 何かの物語が記されているようだ。
 
 
 

 
 『SELECT?』
 
 
 
 
 それは、長門の書いた小説だった。

177: 2011/01/10(月) 21:47:39.72 ID:DiwkoB9S0
 
……

 
 物語は、図書館のシーンから始まっていた。

 
 主人公は、生まれたときから笑うことのできない、幼い紋白蝶の少女。
 少女は本が好きであり、幾度も幾度も、その図書館から本を借りたいと願っている。
 しかし、少女は笑うことができない。
 そのため、誰も虫の少女が本を好きだという事を分かってはくれない。
 だから、少女はいつも、本を借りることが出来なかった。

 
 しかし。少女は、ある日出会った蓑虫の青年から笑顔を作りかたを教わり
 必氏で練習をすることで、ある日、本当にわずかだけれど、笑顔を作ることができるようになった。
 少女はそれを喜び、再び図書館を訪れる。


 しかし、少女の笑顔は本当にわずかなものでしかない。
 それが笑顔と分かってくれる人は少なく、やはり、少女は本を借りることができない。
 少女は悲しみ、そして、自分に笑顔を教えてくれた人々のことも、悲しませてしまったと嘆いた。

 
 やがて。少女はついに、あふれるほどの笑顔を浮かべることの出来る魔法を、魔法使いの女王蟻のもとから盗み出してしまう。
 その魔法を使えば、世界中の誰もが、笑顔のない彼女を忘れ、新しい彼女を受け入れてくれる。

 
 少女は、幸せになれると思った。
 笑顔を教えてくれようとした人々も、きっと、生まれ変わった自分を喜んでくれると思った。

178: 2011/01/10(月) 21:49:47.27 ID:DiwkoB9S0
 しかし、無限の笑顔を浮かべる自分を想像し、少女は思う。


 笑顔を手に入れた時、自分は、自分ではなくなってしまうかもしれない。
 少女はそれが正しいことなのかどうか、分からなかった。

 少女は、誰もが幸せになる世界を望んでいた。
 しかし、自分が自分で無くなってしまうことを望んでいるのかどうか、少女には分からなかった。

 考えた末に。少女の出した決断はこうだった。
 
 
 少女は、一部の人物を覗いた、世界中の全てのものに魔法をかけた。


 人々を悩ませる要因は全て消してしまい
 そして、自分自信を、笑顔の似合う黒揚羽蝶へと変えた。
 そして、人々の記憶から、笑わない紋白蝶の記憶を消し去った。少女自身の記憶からもだ。
 

 少女が魔法をかけなかったのは、この世でたった二人だけ。
 
 
 一人は、少女にわずかな笑顔を教えてくれた、蓑虫の青年。
 少女は、魔法によって手に入れた笑顔が、少女にとって正しいものなのか、どうなのか。
 それを、蓑虫の青年にその判断をしてもらおうとする。


 しかし……もしも、蓑虫の少年が、自分を見つけられなかったときのために。
 蓑虫の青年に教わった笑顔に、ただ一人気づいてくれていた、雀蜂の少女にも、魔法をかけなかった。

179: 2011/01/10(月) 22:02:12.00 ID:DiwkoB9S0
 
 もしも、少女が蓑虫の青年の周りを飛んでも、青年が蓑の中から顔を出さなかったとき。
 その時には、雀蜂の少女の針が、彼を目覚めさせてくれる。


 もしも、雀蜂の少女が、知らない花畑へと迷い込んでしまったとき。
 その時には、蓑虫の青年が目印となり、少女を在るべき場所へ導いてくれる。



 少女が信じる二人ならば、きっと答えを出してくれる。
 そう考えた。
 

 
 そして。少女は二人から良く見える場所に、女王蟻の魔法のかけらを隠した。


 もしもこの世界が正しくないのならば
 その魔法で、全てを元に戻せるように。
 
 
 

 そうして、少女は世界を作り変えた。
 


 
 物語は、そこで終わっている。

180: 2011/01/10(月) 22:10:14.91 ID:DiwkoB9S0
 
……

 
 「長門有希は、『涼宮ハルヒの力』を用いて世界を作り変えるのと同時に、
  『涼宮ハルヒの力』の一部をプログラムに変え
  それを文芸部室のコンピューター内へと封じ込めた。
  あなたに、世界の選択を行わせるために。
  ……しかし、そのプログラムはある人物の手によって盗み出された。
  長門有希が望んだ、裁定者の目に触れるよりも早くに」
 
 そして。その盗み出されたプログラムが、時を経て俺の前に現れ……
 俺はそのプログラムを起動させ……今、此処にいる。
 
 「この空間は、緊急脱出プログラムの内部に発生した異次元世界。
  長門有希が『涼宮ハルヒの力』を入手した際に
  長門有希の精神の異常によって発生したと思われる。
  その後、長門有希の手によって世界は改変され
  『涼宮ハルヒの力』の一部はプログラムへと変化した。
  その際に、この世界もまた、プログラムの一部として保存された」
 
 なるほど。俺は呟きながら、改めて、灰色の室内を見回してみた。
 

 ……長門有希の閉鎖空間か。
 

 言われてみれば、ハルヒによって作られたそれとは、どこか違った趣が有るような気がしないでもない。

181: 2011/01/10(月) 22:15:21.41 ID:DiwkoB9S0
 
 「そしてもう一人。
  このプログラムを盗み出し、解析を行い
  データ化された『涼宮ハルヒの力』をロードした者が居た。
  ……それが、朝倉涼子。
  彼女は手にした『涼宮ハルヒの力』を使って
  この緊急脱出プログラムの一部を作り変えた。
  具体的には、非常用モードの作成。
  それはこのプログラムの構成部分へと侵入するためのコマンド。
  ……あなたが今、此処に存在しているのは、そのコマンドを実行したため」

 朝倉も、この世界に来たのか。

 「来た。しかし、このモードを作成するよりも前。
  彼女はこのプログラムから再生した『涼宮ハルヒの力』を使って
  この空間へとアクセスを行った」
 
 今も、この世界に居るのか?

 「今はいない。それ以上のことは、私は知らない」
 「そうか」
 
 俺はため息をつき、デスクの上に置かれている、長門の物語の映し出されたパソコンのディスプレイを見た。

 ……あいつもまた、この物語を読んだのだろうな。
 この世界でか、それとも、外の世界でかまでは、俺にはわからんが。

182: 2011/01/10(月) 22:20:10.96 ID:DiwkoB9S0
 
 「朝倉が、その非常用モードとやらを作った理由は?」
 「分からない。しかし、想定は可能」
 「それでいい」
 「あなたに、この空間を訪れさせるため」
 
 なるほど。
 それで。
 この空間を訪れた俺は、一体何をすればいい?
 
 「長門有希があなたに望んだのは、未来の選択。
  しかし。その選択は、すでに下されたと言っていい。
  ……朝倉涼子の手によって」

 
 そう。
 俺に残された道なんて、たった一つしかない。

 ハルヒは氏に、朝倉は消えてしまった。
 たった数日の間に、すっかりいかれちまったあの世界を、元に戻さなければならない。
 俺にはそれ以外、どんな道も残されちゃいないのだ。
 
 「朝倉涼子は、あなたのために用意されたメッセージを入手し
  それを古泉一樹に預けるという形で保管していた。
  そして、緊急脱出プログラムのバックアップを入手して
  プログラムを凍結保存することで、タイムリミットを延長しようと試みた」
 「朝倉は一体、何のために、そんな面倒なことをしたというんだ?」
 「選択を保留にするため。と、考えられる」
 
 そこまで話した後で、そいつはすこしだけ、表情を曇らせたような気がした。

183: 2011/01/10(月) 22:25:14.74 ID:DiwkoB9S0
 
 「彼女が厳密に、長門有希の用意したプログラムの存在に気づいたのは
  この緊急脱出プログラムのバックアップを入手した際。
  おそらく、朝倉涼子がプログラムのコピーを入手したのは、偶然の出来事。
  朝倉涼子はたまたま、緊急脱出プログラムの保存されたフロッピーディスクを
  長門有希から渡された」
 「それが、あの小説のフロッピーか」
 「長門有希は……彼女の書いた小説のファイルが、他人に目に晒されることを
  改変された世界の長門有希が望むことは無いだろうと考えていた。
  故に長門有希は、緊急脱出プログラムを、小説のテキストファイルへと偽装し
  それを文芸部室のコンピューターの内部へと宿した。
  ……長門有希が朝倉涼子に、そのフロッピーディスクを渡してしまった事。
  それが、全てのイレギュラーの始まり」
 
 長門有希は、自分で思っているよりも、朝倉涼子を信頼していた。そう言うことなのだろうか。
 朝倉。うらやましいぜ。
 なにしろ、俺はその小説を読ませてもらえなかったんだからな。
 
 「しかし、凍結したプログラムを再び起動しても
  エラーが発生してしまい、正規の起動は不可能だった。
  故に、彼女はこの非常用モードを構築した。
  プログラムの解析を行い、『涼宮ハルヒの力』を再現して」
 「朝倉はつまり、何を望んでいたんだ?」
 「はじめに彼女を動かしたのは、世界の修正を行わず
  改変されたまま世界で、長門有希と生きたいと願う気持ちと思われる。
  あなたが世界の修正を選択することを恐れた。
  故に、朝倉涼子は、一連の工作を行った。」
 「なら、何故いまさらになって、俺を真相へと近づけようとしたんだ」
 
 「長門有希の幸せのため」

184: 2011/01/10(月) 22:30:31.43 ID:DiwkoB9S0


 長門の、幸せだって?

 
 つまり、朝倉は、気が変わっちまったってのか。


 この一ヶ月、俺と、朝倉と、長門の三人で過ごした日々を経て……
 長門有希は、改変される以前の世界で生きたほうが、幸せでいられるんじゃないかと。

 そう考えたって事なのか?
 
 「……正確には」
 
 そいつは言った。
 
 「長門有希の幸せのために、自分が長門有希の傍に存在する必要はない。
  彼女はそう判断したのだと思われる。
  しかし……仮に、自分を不要と考えた朝倉涼子が
  長門有希とあなたの前から消失したならば。
  長門有希は、きっと、悲しむであろう。朝倉涼子はそう考えた。
  彼女は、長門有希が悲しむことを望まなかった」
 
 そうだな、あいつなら、きっと悲しむだろう。俺もそう思うよ。
 と言うより、実際にそうだったさ。

 そうだ。長門を悲しませたくないってわりに
 朝倉は事実、俺たちの前から姿を消しちまったじゃあないか。
 矛盾している。なぜ、あいつは長門を悲しませると分かってて、消えちまった?

185: 2011/01/10(月) 22:35:16.57 ID:DiwkoB9S0
 
 「世界を修正さえすれば、全ては元通りになる。長門有希の、悲しみの記憶も
  だから。彼女は、あなたに世界を修正する道を選ばせようとした」
 
 
 そのために、ハルヒを頃してか?
 

 
 「おそらく」

 

 

 


 
 ……一つ、聴いていいか
 
 「何」
 
 朝倉は、世界を修正する場合には、こうして俺に世界の修正を行わせるつもりだったんだよな?
 そのために、あいつはハルヒの力を使ってまで
 こんな面倒な、非常用モードなんてもんを用意した。

 しかし……そんなことを企てるより、あいつが自分で世界を修正しに行ったほうが、よっぽど早かったんじゃないかと思うんだが。
 それは、無理なことだったのか?

186: 2011/01/10(月) 22:40:02.81 ID:DiwkoB9S0
 
 「不可能ではない。朝倉涼子にもまた、鍵は用意されていた。
  ……長門有希によって用意された、改変された世界を修正するための方法は
  時空間を移動し、長門有希が世界を再変した直後の世界へと出向き
  その場で修正プログラムを起動すること」
 
 修正プログラム?
  
 「そう。長門有希は、一人分の修正プログラムを用意することしか出来なかった。
  故に、あなたが世界を修正する場合には、この『緊急脱出プログラム』によって
  あなたに一度時空間移動を行わせ、過去の長門有希が構築したプログラムを
  入手させる手筈だった。
  ……この時空の長門有希によって構築された修正プログラムは
  十二月十八日の午後に、彼女の手に渡されていた。
  彼女がそれを受け取った時に、全てを理解できるような形状で。
  そして、彼女が時空間移動をするための手段も確保されていた」
 
 しかし。朝倉は、世界を修正しようとはしなかった。
 
 「彼女は、自らの手で、自己の存在を消滅させるにあたる選択を行うことを望まなかっただと思われる」
 

 
 ……なるほど。
 納得の理由だ。文句の付け所もない。



 「それで……具体的に。俺は一体、何をしたらいいんだ?」

188: 2011/01/10(月) 22:46:24.84 ID:DiwkoB9S0
 
 「あなたがするべきことはただ一つ。世界の修正。
  しかし、あなたを時空間移動させるためのこのプログラムは
  すでに起動不可能な状態となっている。
  そのため、あなたが修正プログラムを入手することは不可能。
  残された方法はひとつ。
  朝倉涼子が行ったのと同じように、このプログラムを解析し
  『涼宮ハルヒの力』の再現を行う。
  あなたは『涼宮ハルヒの力』を使い、世界を再び改変する。
  修正ではない。あなたの知る、以前の姿へと作り直す」

 えらく、難しそうだな。

 「言語での説明は不可能。しかし、それは困難なことではない」
 
 俺の目の前に現れてから微動だにしていなかったそいつが、初めて動いた。
 窓際の椅子から腰を上げ、俺の元へと歩み寄ってくる。
 
 「私に触れて」
 「それだけでいいのか?」
 「私は、『涼宮ハルヒの力』の化身」
 
 そういえば、ここは長門の閉鎖空間なんだったか。

 閉鎖空間に一人たたずむ、力の化身。

 ……なるほど。それが、こいつの正体か。
 巨人の姿をしたあちらさんと比べて、なんと大人しい事だろう。

189: 2011/01/10(月) 22:52:41.54 ID:DiwkoB9S0
 俺は右手を伸ばし、人差し指と中指の先で、そいつの頬に触れる。
 暖かい。
 

 
 「……始まる」
 「どうすればいいんだ?」
 「望んで」
 

 
 相変わらずの端的な支持を受け、俺は言われた通りに、目を閉じ、望む。
 
 何を望んだのかって?

 一言でいうなら、何もかもをだ。




 
……

 
 なあ、朝倉。
 なんと言ったら良いんだろうな。
 
 謝るのも違うが……例を言うのも違う気がする。
 
 かといって、俺にお前を叱り付ける権利などもないだろう。

190: 2011/01/10(月) 23:00:29.91 ID:DiwkoB9S0
 
 なんだろうな。
 お前に何かを伝えなきゃならんのだろうが……
 何を言ったら良いんだか、さっぱりわからないんだ。
 

 ただ――お前がさ、朝倉。
 あと少しだけ、長門を好きじゃなかったなら―――
 


 

 俺たちは、ずっと……あのままでいられたかもしれないな。
 


 

 ……すまん、意味はないんだ。
 ただ、思っただけさ。
 
 まずいな。こんな大事な時に、こんなことを考えてたら
 世界をおかしな具合に変えちまうかもしれん。
 終わりにするしよう。
 
 
 
 じゃあな、朝倉。
 

191: 2011/01/10(月) 23:05:02.38 ID:DiwkoB9S0

……


 「あなたが何故、ここに存在しているのか、理解不能」
 
 ……ほうっておけば、果てしなく長く続いて行ってしまいそうな、長い眠りだった。
 目を覚ました俺の視界に、最初に飛び込んできたのは。
 仰向けに寝転ぶ俺の傍らに正座をし、俺の顔を無表情で見下ろしていた、眼鏡の無い長門有希の顔だった。
 
 「説明を」
 「……わからん」
 
 カーテンの無い窓から、容赦の無い朝日が挿し込んでいる……長門の部屋で目覚めるのは、これで通算、四度目になるのだろうか。
 もっとも、そのうちの二つは……俺の手によって、無かったことにされてしまったのだが。
 
 「……長門、お前、ストレス溜まってないか」
 「問題は無い」
 「もしも今後、何か煮詰まっちまうことが有ったら、俺に話せよ」
 「その必要はない」
 「もし、あったらでいいんだ」
 「了解した」
 「ところで……お前、涼宮ハルヒって奴のこと、知ってるか?」
 「……あなたの思考回路内に、致命的なエラーが発生していると思われる」
 
 ああ、そうだろうよ。あんな大冒険の後だ、エラーぐらいは発生するだろうさ。
 だが、いいのだ。全ては俺の胸の中にしまっておく事にする。
 
 俺が知っていて、長門の知らないこと。
 一つくらいは、そんなものがあっても良いじゃないか。

193: 2011/01/10(月) 23:14:32.87 ID:DiwkoB9S0
 
……

 
 たとえばの話をする。
 もし。十二月十八日の放課後。
 長門が朝倉に、あのフロッピーディスクを渡していなかったとしたら。
 俺はどんな道を辿っていただろう?

 
 長門の筋書き通りに、鍵を揃え、緊急脱出プログラムへ辿り着いていたのだろうか。
 もしそれならば―――俺はきっと、迷わずに、世界の修正を選んでいただろう。
 

 それと、もう一つ。
 朝倉と、長門と、俺とが、共に文芸部室に存在していた、あの不思議な日々の途中で。
 俺が何かの拍子に、突然、ふと、世界の選択を迫られることが、もしもあったとしたら。
 俺はどんな選択をしただろう?
 
 
 誰の幸せを望んだのだろう。
 

 
 
 俺は、薄情なのだろうか?
 
 
……

195: 2011/01/10(月) 23:23:20.34 ID:DiwkoB9S0
 

 「どうした、長門。学校、遅れちまうぜ」
 「……一つ、あなたに訊きたいことがある」
 「何だ?」
 「あなたは―――」
 
 


 ―――なあ、長門。
 

 いつの日か、お前が蝶の様に笑える日が来たならば。
 俺はお前に、あいつの話をしようと思うんだ。
 お前が笑ってくれることを、何よりも願っていた、あいつのことを。

 それが俺にできる、ただ一つの、あいつへの手向けなんじゃないかと思うんだ。

 
 ―――だから、そのためにも。
 
 いつかその日が来るまで。
 俺は、お前の近くで、日々を過ごしていたいと思う。
 それは、平穏とは呼べない日々かもしれないが……
 どうかこれまでのように、なんとかやっていかせてくれないものだろうか?
 俺は例によって、お前に助けられてばかりになっちまうかもしれないが。
 それでも、これからはできる限り、お前の助けにもなってやりたいと思っているんだ。

196: 2011/01/10(月) 23:30:13.29 ID:DiwkoB9S0
 
 なあ、どうだろう?
 

 

 



 「あなたは私に、好きといわれたい?」
 「ああ、そうだな」
 

 

 
 
 
 たとえば、そんな日々のことを。
 お前は、幸せと呼んでくれるだろうか?








197: 2011/01/10(月) 23:35:30.80 ID:DiwkoB9S0
……


 ―――それか の ことを

 少 だけ 話そ と 

  う。


……

198: 2011/01/10(月) 23:37:31.42 ID:DiwkoB9S0


 
 「あなたは私に、好きといわれたい?」
 「ああ、そうだな」
 


 
 「あ たは私に、好きとい れたい?」
 「ああ、そう な」


 
 「あ たは に、好きとい れ い?」
 「 あ、そう な」


 
 「  たは に、好 とい れ い?」
 「 あ、そ   」
 


 「  た  に、  と  れ  ?」
 「 あ、    」



199: 2011/01/10(月) 23:46:27.03 ID:DiwkoB9S0
 
……
 
 
 過ちと、過ちと、過ちと、過ちと、過ちと、過ちと、過ちと


 いったいいくつの過ちの上に、この世界は成り立っているのだろう?
 
 
 この世の中に、世界などと言うどでかいステージの上に
 過ちなどをこしらえられるような大層な存在が、一体何人ほど存在しているのか、俺は知らない。

 しかし、少なくとも。俺の周囲には、そいつをやってのけてしまう、はた迷惑な存在が、ちらほら、幾人が存在していた。
 そして俺は、そいつらによって作られた過ちが、誰かの手によって正される瞬間を、幾度か目にしてきた。
 

 しかし、なんだ。
 過ちなどと言うものは、誰かがそれに気づいたからこそ生まれるものであり
 果たしてこの世に、正しい筋道を経由せずに綴られてしまった道のりが、いったいいくつあっただろう?
 その数など、俺には知る由も無い。おそらく、俺以外の、この世の誰にも…それは誰にも正されなかった時点で、過ちなどではないのかもしれない。

 
 ……そもそも、正しさとは?
 それは、俺には難しすぎる問題だ。


 俺にとっての長すぎる年末年始が、ようやく終わりを告げ
 長い長い、新しい一年と言う路を、渋々と歩み始めた矢先だった。

201: 2011/01/10(月) 23:49:36.05 ID:DiwkoB9S0
 長門の部屋で目覚めた、あの日。
 この俺の手によって創られた、この世界が始まってから、ちょうどひと月ほどになる。
 変わったことは何も無い。涼宮ハルヒと共に生きる日々としては、少し物足りないくらいの、ありきたりなひと月だった。

 俺たちは、やかましくクリスマスを祝い、けたたましく雪山をはしゃぎまわり
 物言わぬふてくされ顔の猫と成って久しいシャミセンをめぐり、古泉一樹のささやかな陰謀を解き明かし
 筋肉がとろけて行くような温暖な自室と、脳髄をシャーベットに作り変えんばかりの寒気の中とを行き来し
 飯を食い、呼吸をし、風呂に入り、妹に弄ばれ、やがて学校が始まり、朝比奈さんのお茶を飲み
 ハルヒと小言を言い合い、古泉と他愛の無いボードゲームに勤しみ…

 そして、長門有希と、決して多くない時間の会話をした。
 
 「次は、節分ね」
 
 この世の征服を企てる魔界の王女のささやきにも似た、そんなハルヒの呟きに、ほのかな不安などを抱きつつもいたが。
 それに代えたとしても、このひと月とは、平穏な時間であったと呼んでいいのではないだろうか。
 そうでなければ、この俺の徒労も報われない。何しろ俺は、この屈託の無い時間を手にするために、随分と回り道をしてきたのだから。
 
 俺の中に存在する、あまりにも虚ろで、奇妙で、長すぎた不思議な一ヶ月間の記憶。
 あれはすべて、俺が見た夢の中の出来事だったのではないだろうか?
 ふと、そんなことを考えてしまうのも仕方がないことだろう。
 なにしろ、その記憶がすべて、現実にあったことならば。このありとあらゆるものがありふれている日常。
 見上げれば高く上る寒空。呼吸をすれば感じるにおい、目を開ければそこにある風景。
 
 そのすべては、ついこの間、俺の手によって創られたものだというのだから。
 
 今になって思えば、そんな突拍子も無い話が、現実にあったことなどとは思えなくなりつつある。
 長門も、古泉も、朝比奈さんも、もちろん、あのハルヒさえも知らない、俺だけが知る事実。たとえそれが、このまま幻であったことになってしまったところで、誰か困る奴が居るだろうか?
 誰も困らない。
 一月の寒空の下、俺はそんなふうに思い始めていた。

202: 2011/01/11(火) 00:02:25.21 ID:+Y4fPNsi0
 
……
 
 
 これは、つい最近知ったことなのだが。
 
 俺はもしかすると、この世が始まって以来、史上最大の、薄情ものなのかもしれない。
 
 


……


 
 
 この世が始まってから、幾億度目かの「過ち」の発覚。
 
 それは、ある土曜日の昼下がりから始まった。








 (物語は、終章へ続く)

222: 2011/01/11(火) 15:35:35.04 ID:+Y4fPNsi0



◆三章 空と君とのあいだには/空と君のあいだに



223: 2011/01/11(火) 15:57:55.07 ID:+Y4fPNsi0
 
……


 「それでさ、みくるちゃんが羊になってね、あたしが鞭でこう、ビシバシと……」
 
 不思議探索ツアーの中休み、いつもの喫茶店でのブレイクタイム。
 もはや、真面目にこの町に不思議を探し求める気など、こいつにはないのではないだろうか?

 しかし、それはまったく持って賢明な判断であると言えるので
 回を重ねるごとに、ただのSOS団の親睦を深める会になりつつあるこの時間を否定したりはしない。

 ハルヒは付け合せのマカロニチーズを残したハンバーグランチの皿を脇に寄せつつ
 自らが夢に見た、果てしなく粗末な異世界の話を、オレンジジュースを肴に、俺たちに向けて熱く語っている。


 それを聞き流しつつ。
 俺は今日、朝から絶え間なく感じ続けている奇妙な違和感のようなものを、飴玉でも舐め溶かすかのように持て余していた。
 
 気温は朝からナイフのごとく痛烈で、風はやや強め。
 このところ降らない雨の所為で、いささか土ぼこりの多い土曜日。
 午前中のくじ引きでは、古泉とのツーショットデートというハズレ籤を引き
 ある種、ハルヒのそれよりも念仏的な、奴の異世界にまつわる論説を、煙草臭いゲームセンターの空気を肴に聞かされ続けた。
 おかげで無駄に平行世界の概念に詳しくなった気がするが、数時間前に奴が何を話していたかは、もはや思い出せない。

 嗚、ありふれた冬の土曜日。
 そんな中、俺は自分の中に渦巻く、奇妙な焦りのようなものを、延々と引きずり続けていた。

225: 2011/01/11(火) 15:59:45.49 ID:+Y4fPNsi0
 
 目覚めた瞬間、窓から差し込む陽光を目にした瞬間から。
 輪郭の見えない、長い既視感のような不気味な淀みが、俺の胸の内側の、そこらじゅうに張り付いていた。
 そしてその粘りは、ただ今日と言う日を淡々と生きればいい筈の俺の心に
 不要――であるはずの――何かに追われているかのような、危機感のはしくれを植えつけていた。
 
 「それはまさに、僕の言う平行空間の理念に当てはまると思いませんか?」
 
 そんなおかしな感慨に追われているからこそ。
 俺はあろうことか、このただでさえ喧しい事この上なかったSFシナリオ再生マシンに、余計な焚き付けをしてしまうなどという、凡ミスを犯してしまった。
 
 「たった今、この世界と平行して、同じ時間軸を辿っている世界があるとします。
  その世界で、たとえば貴方が、何らかの問題を抱えている。
  貴方は、一刻も早くその問題を解決に導かなくてはならない。
  そして、そんな局面に面している貴方の発する……一種の危機信号のようなものでしょうか?
  それがこちら側の世界の貴方のもとへと、貴方の言う焦りのような形で届いている……と」
 
 もし、その説が正しいものなら、まったくはた迷惑な話だ。
 なぜなら、今、どこぞの平行世界で、俺がジュラシック・パーク的絶体絶命の危機に襲われているとして。
 そのエマージェンシーを、何故別の次元を生きている俺がキャッチせねばならんのだ。そんなもの、俺にはまったく関係ない話じゃないか。
 
 「ええ、本来ならそうでしょう。ですが、可能性として。
  別次元の貴方が面している事態というものが、今、この次元の貴方……
  ひいては、この世界そのものにまで影響を及ぼし得るようなものだったとしたら。
  今、二つの世界の距離が、限りなく近い距離まで接近している。
  向こうの世界で、貴方がその危機に飲まれる事があれば
  この世界の貴方にまで異変が発生するかもしれない……
  だとしたら。貴方はすぐにでも、その接近している平行世界へと飛び移り
  問題の解決に貢献しなければならないのですよ」

226: 2011/01/11(火) 16:25:42.79 ID:+Y4fPNsi0
 SF映画の筋書きとしては、平凡すぎて逆に悪くないとすら思うが。
 しかし、意味も無くただ焦らされたところで、俺には世界なんぞを飛び越える術などない。
 そもそも、もしそんな事態が、この世界のどこかで発生しているとして
 俺になにやらしなければならんことがあるとすれば、大概の場合、長門やら、お前やら、朝比奈さんやらが、俺を導いてくれるはずじゃないか。
 というか、そうでなかったら、無力な俺はただジリジリと尻に火をつけられる思いをするばかりだ。
 向こうの世界の俺は、SOS団の団員の中の誰かに助けを求めるべき場面で、迷わず最も無力な俺を選択するほどに、思考回路の機能がいかれちまってるとでも言うのだろうか?
 
 「はは……すべては、たとえばの話ですよ。
  確かに、これまでに幾度か発生したような、世界の存続や
  涼宮さんの精神にまつわる事態が発生しているとしたら
  我々のうちの誰かしらが、貴方を導く立場となっているはずですから。
  長門さんや朝比奈さんのほうは存じませんが
  少なくとも僕の機関は、そのような異常事態の発生を感知してはいません。
  涼宮さんの精神状態も非常に良好、このところは僕のアルバイトもご無沙汰です。
  あるいは……そうですね。そんなあまりにも平坦すぎる日常に
  貴方の精神のほうが退屈なさっているのではないでしょうか?
  貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが
  閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」
 

 俺の閉鎖空間。

 おそらく何気なく発したのであろう古泉の言葉が、ささくれに突き刺さる小さなトゲのように、俺の心を刺した。

 ふと、記憶の中に蘇る、ひと月前の事件。
 俺がこの世界を作り出した。そんな世迷言のような出来事。
 
 ああ、あれは―――夢、では、ないはずだったか。
 最も、今となっては、それが夢でも夢でなくても
 俺が忘れてしまったが最後、そのままこの次元の歴史の片隅に置き忘れられてしまうような、空ろなもの。

227: 2011/01/11(火) 16:46:23.79 ID:+Y4fPNsi0
 
 「……もし、俺のヤツが出来る時があったら、そのときはよろしく頼むぜ」
 「ええ、善処しますよ。できるだけ、AIのレベルは下げて置いてくださいね」
 
 会話の間、延々と惰性のように動かされていた俺の両手が停止する。
 過剰装飾といわざるを得ない大げさな打撃音と共に、俺の操作していたキャラクターが宙を舞う。
 見慣れたような、見慣れぬような、YOUR LOSEの文字。
 
 「なるほど、確かに今日の貴方は、いつもとはいささか調子が違うようですね」

 そのようだな。
  

……
 

 
 「ほら、キョン、あんたの番」
 
 数時間前へとタイムスリップしていた俺の意識を引っ張り戻したのは、冷や水の如きハルヒの呼び声だった。
 気がつくと、俺たちのテーブルに散乱していたランチメニューの空き皿はあらかた下げられ
 ドリンクのグラスによって作られた五角形の中心に、四本の割り箸が握られたハルヒの右手が突き出されていた。
 
 「ああ、悪い」
 
 テーブルに着くほかの面々を見回すと、古泉のやつはすでに籤を引き終えたらしく
 無印の割り箸を片手に、例の薄ら笑いを浮かべながら、俺の顔に注目している。
 ハルヒの両隣に座る朝比奈さんと長門の視線もまた、俺の手元とハルヒの手元に注がれている。
 時計を見ると、午後一時四十五分。そうだ、もう午後の分が始まる頃合か。

228: 2011/01/11(火) 17:03:19.57 ID:+Y4fPNsi0

 俺は総勢の注目を浴び、奇妙な緊張を覚えつつ、割り箸の生えたハルヒの握りこぶしへと手を伸ばし
 人差し指の第二間接辺りに引っかかっていた一本を引き抜いた。
 
 
……
 
 
 「ほら、引いたぜ」
 
 割り箸の先端には、赤いマジックで印がつけられている。
 とりあえず此れで、引き続き古泉の異次元論を聞かされるルートは免れたわけだ。
 赤い印を見せびらかすように、テーブルの中心に向けて、割り箸を持つ手を差し出す―――

  

 しかし。その赤い印を見せるべき相手は、誰一人存在しなかった。

 
 俺の目の前にあるものといえば、空きグラスの散乱したテーブルと
 窓ガラスに切り取られた、いかにも寒々しそうな午後の光景だけだった。
 
 「ハルヒ?」
 
 どれくらいの間かの沈黙の後。俺はたった今まで、目の前で握りこぶしを作っていたはずの、我がSOS団団長の名前を呟いた。
 しかし。呟きに反応を返してくれる人間は、そこには誰一人としていない。
 
 ……何か、催し物でも始まったのか?
 
 俺はテーブルと椅子との間の、狭い空間を縫うようにして腰を上げ、周囲を見回した。

229: 2011/01/11(火) 17:17:34.85 ID:+Y4fPNsi0
 
 「ハルヒ、古泉?」
 
 先ほどまで――つい一瞬前まで、だ――俺の周囲に屯していた筈の人々の名前を呼びながら
 
 「長門……朝比奈さん」
 
 誰一人として、人と呼べるものの姿の無くなった店内を見回す。
 そう。俺の記憶が確かならば、俺たちのテーブルの蓮向かいのテーブルでは、頭のはげた中年の男が、スポーツ新聞を読みながら紅茶のカップをすすっていたはずだった。
 丁度この席から見渡せるキッチンでは、長い髪の毛を後ろで結った男が、忙しなく調理器具を扱っていたはずであり
 レジカウンターでは、エプロンドレスを纏った若い女性が、営業スマイルの出来損ないのようなものを携えながら、思いを馳せるようなぼやけた目で、代わり映えの無い内装の店内を見回していたはずだった。
 

 それら、すべてが。
 使い古された表現を使うならば、煙のように。
 忽然と、姿を消してしまっているのだ。
  
 
……
 
 
 それからしばらく。俺は突然始まってしまった、大規模なかくれんぼの鬼役に努めた。

 まず喫茶店内。キッチンを覗き、普段は足を踏み入れることの無い、大型冷蔵庫の中まで足を踏み入れた。
 物陰と言う物陰を探し、終いには手洗い場を――一瞬躊躇った後に、女性用のそちらまでもを調べた。
 閉じたトイレのドアを、順番に開けていくという作業は、なにやら背筋に寒いものを感じるものではあったが……
 無駄に高鳴る左胸を押さえつけながらも、俺はそれを、備え付けられているトイレの数だけやり遂げた。

 そして、最終的に。喫茶店の中には、誰一人の姿も無いという結論へとたどり着いた。

230: 2011/01/11(火) 17:33:52.04 ID:+Y4fPNsi0
 レジスターの使い方を知らないので、五人が飲食した分の料金を精算せずに店を後にしたことは責めてもらっても困る。
 店を出る前から予測はしていたことではあったが――どうか外れて欲しい予測であったのだが――冷たい風の吹く街をいくら歩き回れど、鏡面に映る自分の姿以外に、人の姿を見つけることは出来なかった。

 俺は駅前のロータリーを歩き回った後、自転車のカギを外し、ペダルを踏み込んだ。
 半ばやけくそになっていたのか、かなりのスピードを出していたし、横道や信号なども一切気にせずに突っ走った。
 しかし、風を切る俺を阻むものなど、何一つ現れなかった。せいぜい、風に乗ったスーパーの袋が、俺の前を横切っていったくらいだ。
 
 自宅に戻り、あらゆる部屋のドアを開いて周り、シャミセンを弄り回すか、寒い中アイスを咥えた妹の姿を探す。
 しかし、妹はおろか、どこかしら日向を見つけては転がりまわるシャミセンの姿すら見つけられなかった。
 居間のテレビを付けて見たものの、あらゆるチャンネルは砂嵐。自室のPCはと言えば、起動はするものの、インターネットは一切繋がらない。

 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwww街に俺しかいないwwwwwwwwwwwwww
 そう口に出そうとしてみたが、どう発音すべきかわからない記号があまりにも多すぎた。
 

 廊下に出て、自室の扉を閉めた時点で、ようやく諦めがついた。
 分かった、認めよう。
 何かが起きているのだ。
 

……

 
 居間で途方にくれていて、分かったことがいくつかある。
 まず一つ。俺を残してすべての人間が消え去ってしまったこの町には
 冬の昼下がり、午後零時四十六分以外の瞬間が訪れることは、決して無いらしい。

 足の速いはずの冬の太陽は、いくら待てど決して沈むことは無かった。
 太陽は沈まず、冷たい風は吹き続ける。尽きることの無い土ぼこりが、どこかからどこかへと運ばれてゆく。
 それを迷惑がるのは、俺一人のみ。

231: 2011/01/11(火) 17:42:41.96 ID:+Y4fPNsi0
 
 居間で呆けていると、だんだん俺自身までもが消えてしまいそうな危機感に襲われ、再び街に出る。
 駅の近くまで歩いて戻った後で、自転車を自宅へ置き忘れたことに気づき
 この後、どこへ向かうにも徒歩で向かわねばならないという面倒な事態に陥ってしまった。
 しかし、今更自転車一つの為に自宅へ戻るのもまた面倒に思い
 結局、俺はスニーカーの底をすり減らしながら、再び駅前へと戻ってきた。

 念のためにと、喫茶店を覗いてみるが、やはりそこに人の姿は無い。
 どうせ夕暮れ時になっても、カラスの鳴き声なども聴こえてはくれないのだろう。
 そもそも、夕暮れ時が訪れる気配すらないのだから困ったものなのだが。
 
 「涼宮ハルヒの精神状態は、良好じゃなかったのか」
 
 当ても無く街を歩きながら、誰にとも無く呟く。

 今までに経験した異変の中でも、この度のスケールのでかさは、ある意味では此れまでと比較にならない。
 今までならせいぜい、ハルヒと、俺と、その周囲を巻き込む程度のものだった。

 しかし、今回はどうだ?
 キョン以外全員消失。
 どこのパロディ映画のタイトルだ。
 
 
 あるいは。
 逆に。俺一人が、つい先ほどまで(もはや先ほどでもないほど、時間が経過しているのだが)の世界から追放され
 この静けさと寒々しさ以外の何者も持たない街へと放り込まれてしまった。という可能性もあるかもしれない。
 冷静に考えれば、そちらのほうが幾分か現実的な話のように思える。

 そうだ。前にもこんなことがあったじゃないか。
 あの時は、俺ともう一人……俺をその場所へ引きずり込んだ張本人を引き連れて、ではあったが。

232: 2011/01/11(火) 17:47:12.66 ID:+Y4fPNsi0
 
 「……閉鎖空間、か」
 
 いつの間にかたどり着いていたのは、土曜の午後。部活動に勤しむ生徒たちの為に解放された校門の前だった。
 誰の気配もしない学校。この感覚には、以前とはいささか異なるものの、見覚えがある。
 すべてが灰色に包まれたあの世界に比べれば、この光景は、随分と彩りが溢れてはいるが……
 それ以前に。閉鎖空間と言う単語と同時に、今日、午前中に耳にした、古泉の言葉が脳裏を過ぎった。
 
 「貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが
  閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」
 
 去年の春。涼宮ハルヒは、神の力を用いて、この俺を巻き込み、もともとの世界とは異なる、まったく別の世界を創造しようとした。
 ハルヒ自身が作り出し、ハルヒ自身が迷い込んだ、生まれたての世界を、俺は訪れたのだ。
 
 そして、もう一つの事実。

 幻に消えてくれてもかまわないと、ついさっきまで考えていた、ひと月前の出来事。
 この俺が、世界を作り変えた、あの事件。
 
 
 まさか、この俺が?
 

 あの一件をきっかけに
 もし、たとえば、俺にハルヒと同じような力が備わっていたとして。

 あのときのハルヒと同じように、俺が、新たな世界を作ろうとしてる、と言うのか?

 しかし、理由はなんだ? 俺は昨日までの世界に、不満を感じていた覚えなど一つも無い。
 ましてや、自分以外をすべて放棄してまで、世界を作り直す理由など……

233: 2011/01/11(火) 17:49:43.63 ID:+Y4fPNsi0

 思考をめぐらせながら歩くうちに、俺は自然に、SOS団の部室へとやってきていた。

 長方形に並べられた机、備え付けられたコンピューター。『団長』の印の置かれた机。
 本棚に詰め込まれた無数の書物に、ついたての向こうのハンガーラック。いくつかのコスプレ衣装。
 ロッカーからはみ出したボードゲームの山、電子ポットと団員の人数分の湯のみ、茶筒、急須……すべてがありのままだ。

 俺はダッフルコートを脱ぎ、自分の席の椅子の背に掛け、私服のシャツのボタンを一つ開けた。
 そして、石油式のストーブと電子ポットのスイッチを入れる。やがて、ストーブは独特の匂いと共に暖気を発し始め、ポットの中の液体が沸騰する。
 茶筒から適当に茶葉を取り出し、普段、朝比奈さんが行っていた一連の動作の見よう見まねで、一人分の玄米茶を淹れる。
 やがて、ティーカップに注がれた味のしない緑色の液体を啜りながら、コートを掛けた椅子に腰を掛け、息をつく。
 部室内の時計は、12:46を示している。どこを訪れても同じ数字だ。

 念のために、ハルヒの机に備え付けられたコンピューターの電源を入れてみる。
 しかし、表示されるものは、俺の自室のPCと似たようなものだった。
 せめてもの心の救いは、mikuruフォルダの中身までもが消失してしまっていないことだろうか?
 幾度かインターネットへの接続を試みた後、諦めた俺は団長机を離れ、窓際の椅子に腰を掛ける。そこは普段、長門が読書に勤しむ為の席だった。
 
 「長門」
 
 口の中でくすぶらせるように、その名前を呟く。

 ……そう。もしも、仮に、救いがあるとするならば。
 俺が縋れるのは、長門しかいない。
 しかし、おそらくこれから長門の家を訪れたところで
 俺はかたくなに道を開けぬであろうパスコード式の門に阻まれ、途方にくれるだけだろう。
 

 長門。
 そう。またしても、俺は長門を頼っている。たったひと月前に……もう、あいつに苦労はかけまいと、思ったばかりなのに。 

234: 2011/01/11(火) 17:52:41.19 ID:+Y4fPNsi0
 
 ティーカップを手に持ったまま、俺は本棚の前へ赴き
 そこに並べられている、まるで別世界のような背表紙たちを眺めた。


 そう。長門と俺を繋ぐもの――


 ―――その瞬間。
 今朝がたから、俺の頭にこびりつき続けていた、あやふやな既視感が。
 はっきりとした輪郭を持ったビジョンとして、俺の目の前を横切った。
 

 土曜日の昼下がりの文芸部室。午後一時に歩み寄る時間。
 ストーブの匂いと、ティーカップを持つ右手。
 目の前に並んだ、古びた背表紙の数々……
 
 
 それは、ひと月前のあの日。
 こことは別の世界で、長門と二人で訪れた部屋と同じ状況だ。

 俺はあの日、あの世界でも……こうして、本棚を眺めていた。
 そして、何かを探していた。数々の覚えの無い題名の中から、たった一冊の本を―――
 あの時は思い出せなかったそのタイトルを、今なら思い出せる。
 
 「ダン・シモンズ『ハイペリオン』」
 
 その名前を口にすると同時に。
 俺の目は、まるで魔法にでも掛けられたかのように
 本棚の隅で、斜めに傾いている、その背表紙を捕らえた。

235: 2011/01/11(火) 17:56:55.77 ID:+Y4fPNsi0
 これで、この本を手に取るのは、三度目になる。
 一度目は、長門と会って数日目、あいつから直接手渡された日。
 二度目は、ひと月前。あの世界で、古泉一樹から手渡された。
 そして、三度目。俺はようやく―――自らの手で、この本を手に取ることになる。

 俺は右手に持ったティーカップをテーブルの上に置くと、一つ深く呼吸をし
 そして、まだいくらかぬくもりの残っている指先で、その本の背表紙に触れた。
 
 ―――それと同時に。
 いつだか感じたのと同じ、世界が自分と共に、コーヒーの渦に融けて行くかのような、あの違和感に襲われた。

 地面と天井が重なり合い、その間で、自分の体が引き伸ばされては、また元に戻って行く。
 長い長いめまいのような感覚。

 やがて。まるで永遠に続くかのようなそれが終わったとき。
 俺の耳に、長くに渡って追い求めていたざわめきが聴こえてきた。

 ハイペリオンを右手に抱えたまま、飛びつくように窓際へと駆け寄り、閉ざされたガラス窓を開け放つ。
 冷たい外気が竜巻のように部屋に舞い込み、カーテンが音を立ててなびく。
 それと同時に、俺の耳にはっきり届く……俺ではない、無数の人々が産み出す雑音。
 見下ろした中庭には、北高のジャージを見に纏った、何人かの人影が確認できる。
 俺の見間違いではない。そこには確かに、俺以外の人間が存在していた。

 そして、窓枠に掛けた自分の手を見て気づく。
 先ほどまで身に纏っていた私服のYシャツではない、分厚い生地によって作られた重たいブレザー。北高の制服。
 冷たい外気を背に、部室内を振り返ると、そこには団長机も、団員の為の長方形の机も無い。先ほどまで俺が持っていたティーカップを載せた机も、どこかへと消え去ってしまっている。
 あるのはたった一つの会議用の机と、三つの椅子。そして、パソコンの備え付けられた机がひとつ。

 そこは、SOS団の部室ではなかった。
 ひと月前まで俺が在籍していた、長門有希を部長とする、文芸部の部室だった。

236: 2011/01/11(火) 17:59:31.40 ID:+Y4fPNsi0
 状況を理解するのに、時間は掛からなかった。


 そう。俺は、還って来てしまったのだ。
 俺の手によって、削除されたはずの記憶の世界へと。
 長門がいて、朝倉が消え、ハルヒが氏んだ、あの世界へと。
 
 
 しばらくの間、俺は冷たい外気を背負ったまま、その場で途方にくれていた。
 やがて、動き始めた時計が一時を回りだした頃。
 俺の中で、一つの仮説が組み立てられた。
 
 一月のある土曜日の午後、一時前。正確には、十二時四十六分であったのだろう。
 それは俺が、ちょうどひと月前に、世界を十二月十八日へと巻き戻した、その瞬間だったのだ。
 そして、それと同じ時間に……俺の作り変えた世界は、止まってしまった。

 朝倉の工作と、長門の力によって、俺が世界を作り変えた。
 おそらく、問題は、そこにあったのだ。
 
 俺が世界を作り変えたのは、朝倉がデータ化したという、いわば『涼宮ハルヒの力』の海賊版だった。
 本来の力の持ち主でもなく、それを流用するだけの力も持たない俺が、そんな粗雑なものを用いて世界を構築するなど、そもそも無理があったのだ。
 だから、あの世界は、つい数分前のあの時間。十二時四十六分を持って、停止してしまった。

 そして俺は……俺と長門を繋ぎ続けたハイペリオンによって、俺によって作り変えられる前の世界へと還って来た。
 それは、長門の力なのか?
 違う。いわばそれは、強制終了のようなものだろう。

 世界の過ちは正されていなかった。
 過ちは過ちのまま、俺の知らないところで回り続けていた。そして、俺はそこに引き戻されたのだ。
 おそらく―――今度こそ、過ちを正すために。

238: 2011/01/11(火) 18:03:57.20 ID:+Y4fPNsi0
 しかし。
 この世界が、ひと月前のあの世界であるならば。この部室には、足りないものが一つだけある。
 
 「……長門?」
 
 そう。朝倉涼子の作り出したデバッグモードを起動した瞬間。
 俺の隣には、あの眼鏡の長門がいたはずなのだ。

 今、俺の帰ってきたこの部室が、あの瞬間の直後の世界のはずならば、この部屋には、まだ長門がいるはずだった。
 しかし。物陰すらないほどに見通しのいい部室内に、その姿はない。
 
 一瞬考えた後、俺は右手にぶら下げたままのハイペリオンのページを繰った。
 あるいはまたそこに、俺を導く為の何かが残されているかもしれないと考えたのだ。
 しかし、いくらページをめくれど、本をさかさまにして揺さぶろうとも、そこから恵の何かが零れ落ちる事は無かった。

 ……そうだ。長門がこの世界に残してくれたものは、あの小さな栞一枚だけだった。
 そして、その栞の手がかりの果てに……俺は再び、この場所にやってきてしまった。
 もう、俺を助けてくれるものは何もない。俺は自らの手で捜さなくてはならないのだ。長門が俺と朝倉に託したこの世界を、本当に正すための術を。

 そして―――もう一人の長門。
 俺と共に、この部室を訪れていたはずの、眼鏡の長門の行方。
 俺はコートを着ることも忘れ(そもそも、俺の着てきたダッフルコートは、SOS団員としての俺の椅子と共に消えてしまっていた)部室を飛び出した。
 そうだ。いくら部室にいないとはいえ、まさかあの眼鏡の長門までもが、朝倉のように消えてしまったと決まったわけではない。
 俺があの部室から姿を消してから、こうして舞い戻るまでに、多少の時差があった可能性もある。
 となれば、長門はただ、部室を離れ、どこか別の場所へと行ってしまっただけかもしれない。俺は階段を駆け下りながら、ポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から長門の番号を検索した。
 しかし、それとほぼ同時に。携帯の画面が、メール受信中の幾何学的模様へと変わり、機体が振動する。
 
 <新着メール 1通 長門>
 
 その無機質な電子文字が、どれほど俺を安心させてくれただろうか。

239: 2011/01/11(火) 18:13:34.86 ID:+Y4fPNsi0
 
 ―――よかった。あの長門は、どこにも消えてはいなかったのだ。

 階段の踊り場で足を止め、俺はメールの受信ボックスを開く。
 
 
 from:長門
 Sub :無題
 ------------------------
 26575
 -----------END----------
 
 
 たった僅かな文面。ある種、口数の少ない長門らしいメールでは有る。
 しかし、その五つの数字が一体何を示すのだろうか?

 俺と長門の間にまつわる、五つの数字。
 その答えが出るまでに、そう時間は掛からなかった。

 それは長門と朝倉が、決して俺に教えようとしなかった
 二人のマンションの玄関の電子ロックのキーナンバーだ。
 俺たちが三人で、あるいは、長門と俺との二人であのマンションを訪れるとき、俺は決まって後ろを向かされ
 番号を察することが出来ないように、目隠しまでされたこともあった。
 
 ―――だって、深夜に突然訊ねてこられたら怖いものね
 
 イタズラの言い訳をするように笑う朝倉の表情が、俺の脳裏を過ぎる。
 俺はそのメールに対し、何らかの返事を返すべきかと迷った挙句、メールを打つのももどかしく
 『そっちに行く』と短く返信した後、再び階段を駆け下り、下駄箱を目指した。

240: 2011/01/11(火) 18:18:15.52 ID:+Y4fPNsi0
 
 街は校内同様、人と言う人の溢れかえる、有るべき姿を取り戻していた。
 風は冷たく、Yシャツにセーター、ブレザーを着ているのみの俺にはいささか厳しいものだったが
 今は一刻も早く、再びあの眼鏡の長門に会いたい一心が逸り、気に留まらなかった。
 時空を超えてひと月ぶりに履いたローファーを喧しく鳴らしながら、俺は長門のマンションを目指した。

 やがて、マンションの正門にたどり着いた俺は、先ほどのメールを開き、そこに記されている通りに、五つのキーを押す。
 一瞬の間を置いて、背の高い電動の門が、僅かな音と共に左右に開かれる。
 誰の同伴も無く、俺がこの敷居をまたぐのは初めてのことだ。幾度か訪れたロビーをまっすぐに進み、エレベーターのスイッチを押す。
 エレベーターの位置を示す電子数字は、最上階であり、長門の部屋のある階である七階を示している。
 
 ―――早く降りて来い。焦らしてるつもりなのか。
 
 そのとき。俺の逸る気持ちをなだめるかのように。ポケットの中で、携帯電話が振動した。
 あわてて機体を開くと、そこには長門からの新たなメールが届いていた。
 
 
 from:長門
 Sub :無題
 ------------------------
 4 2 6 2 7 5
 -----------END----------
 
 
 六つの数字によって綴られた、先ほどとよく似ている文面。
 しかし、今回は数字の間が開いている。今度こそ、意味がわからない。
 すでにマンションのキーは解除されたのだ。この先に、何か数字が必要な場面などあるだろうか?

 携帯電話を片手に困惑する俺の耳に、エレベーターが到着したことを知らせる。重たいドアの開く音が届く。
 ……良く分からんが、とにかく、今は長門の元へ急ごう。

241: 2011/01/11(火) 18:23:20.77 ID:+Y4fPNsi0
 気早に扉を閉めようとするエレベーターにあわてて飛び乗り、階数を選択するボタンに手を伸ばす。
 長門の部屋は、七階だ。迷わず七のキーを押そうとした―――
 
 寸前。
 俺の脳裏を、数秒ほど前に目にした、数字の羅列が過ぎった。


 ……思えば、不思議なことだ。
 あの眼鏡の長門が、俺がこの世界に舞い戻るのとほぼ同時に、マンションのロックのキーを教えた……まるで、俺をこのマンションへと導くように。
 そして俺がその導きの通りに、この場所にたどり着いた。
 それと同時に届いた、この暗号のような数字の羅列。
 
 誰かが、俺を導いている。
 それも、きわめて奇妙で、非科学的な方法で。
 誰が?
 このメールの送り主が。
 あの、眼鏡の長門が?
 
 ……ほんの少しの間、躊躇った後に。俺は七のキーから指を逸らし、四階のキーを押した。
 やがて、エレベーターは動き始める。やはり、とても僅かな音を立てて。

 指示の通り、エレベーターは二階、三階を通過し、四階で停止する。
 重たい扉が開き、狭苦しいエレベーター内に、寒気が流れ込む。エレベーターの前には誰もいない。
 俺は廊下に降りることなく、続けて、二階への移動を示すキーを押した。扉が閉じ、エレベーターが下降を始める。
 三階を素通りしたエレベーターが、二階の廊下にて停止し、口を開ける。
 次は、六階。……二階。エレベーターには、誰一人として乗ってこない。
 七階。本来なら、俺が真っ先に訪れていたはずの階層だ。
 しかし、長門の部屋へと続く廊下へ踏み出すことなく、俺は最後のキーを押した。
 五。エレベーターは、下降して行く。五階……俺がこのマンションで訪れたことのある、もう一つの階層。
 やがて、でたらめに移動を強いられたエレベーターの扉が、いい加減痺れを切らしたように、ひときわ重々しい音を立てながら口を開ける。

242: 2011/01/11(火) 18:26:44.10 ID:+Y4fPNsi0
 
 そこには、見慣れたセーラー服に身を包んだ、一人の少女の姿があった。
 白い肌に、青み掛かったロングヘアー。
 そして、いつかどこかで見たような……液体ヘリウムのように、色濃く、澄んだ瞳。
 

 「久しぶり」
 

 朝倉涼子。
 
 ひと月前のあの日、俺と長門と、三人での晩餐を最後に
 俺たちの前から姿を消していた。
 あの朝倉涼子が、心の内側を見透かしたような微笑を携えて、姿勢良く立っていた。
 
 「ダメよ、まだ、喋ったら」
 
 言われるまでも無く、俺の喉は、内臓のどこかのかけらが謝って詰まってしまったかのように引きつっていて、声など出せはしなかった。
 朝倉はそれに追い討ちを掛けるように、白い人差し指を俺の目の前に突き出し、言葉を発することを諌める旨を口にする。
 
 「いい? あとは、黙ってみてて」
 
 くるり。と、スカートのすそを躍らせながら、朝倉涼子は俺の隣の僅かな隙間に滑り込むように、エレベーター内へ乗り込んできた。
 そして、うろたえる俺をよそに、一階へ向かうことを指示するキーを押す。エレベーターはものも言わず、のっそりと移動を始める。
 時間が、奇妙なほどにゆっくりと経過している気がする。五階から一階へ、たった四階分の移動だというのに、俺にとってそれは、十数分にも及ぶ、長い待ち時間のように思えた。
 朝倉は、俺の動揺など少しも気にするそぶりを見せず、ただ、柔らかな微笑を携えたまま、閉ざされた扉をじっと見つめていた。
 やがて、エレベーターは一階へ到着し、重たい口を開く。
 朝倉は、おそらくとても奇妙な表情をしているであろう、俺のことをちらりと見た後、何も口にすることなく、黙ってエレベーターのキーを押した。
 七階。長門の住む、七○八号室がある階層だ。
 ゆっくり、ゆっくりと。エレベーターが上昇して行く。

244: 2011/01/11(火) 18:29:09.10 ID:+Y4fPNsi0
 
 「ねえ、まだ喋っちゃダメよ。
  ……ごめんね、騙すような真似して。
  でも、これが一番手っ取り早かったから」
 
 エレベーターが四階から五階へ移動している最中に、朝倉はそう呟き
 俺の目の前に、見覚えのあるデザインの携帯電話を差し出した。
 朝倉のものではない。それは俺の記憶が確かならば、あの眼鏡の長門が所持していた携帯電話だ。
 
 「私が盗んだわけじゃないの。ただ、今日。私はこの場所にいて、この電話を持っていたの。
  それって、つまり、こうしろってことだと思うの。だから、許してね。
  ……ほら、もうすぐよ」
 
 意に介せぬ言葉を紡いだ後で、朝倉が、エレベーターの現在地を示す電光数字を見上げる。
 エレベーターはすでに六階を通り過ぎ……
 やがて、俺たち二人の目の前で、七の値を示した。
 ごうん。ようやく仕事を終えた。とばかりに、エレベーターが呻く。
 

 「いらっしゃい、キョン君」

 
 朝倉が微笑み、呟く。


 エレベーターの扉が開くと同時に、俺の目の前は、光に似た眩い何かに包まれた。


……

246: 2011/01/11(火) 19:02:19.27 ID:+Y4fPNsi0
 
 
 「懐かしい、夕焼け。私たち三人で」
 
 
 朱色の逆光を背負いながら、朝倉は無邪気な子どものように笑いながら、室内を見回し、そう言った。

 鼻を突く、薬品の匂い。埃っぽい布団の乾いた匂い。
 大きな白いカーテンからは、古い洗剤の匂いがする。

 ……俺の背筋を、冷たい何かが一瞬過ぎる。

 靴箱の手紙で呼び出され、向かった先で、朝倉が待っていた、あの日と良く似た風景。
 エレベーターに乗っていたはずの俺たちは
 今、夕焼けの差し込む、見知らぬ病室に、向かい合って立っていた。
 
 ……ここは?
 長い間詰まっていた喉に、ようやく気体が入り込む余地が出来た俺の喉から、ざらついた声が漏れ出す。
 
 「ここはどこなのか。それは、私にも分からないわ。誰も説明してくれないんだもの。
  だから、想像したの。ここはね。きっと、力を手にしたものの集う場所なのよ」
 「力?」
 「『涼宮ハルヒの力』……もう、回りくどいから、『神様の力』って言っちゃおっか?
  世界を作り変える力、よ。思い当たること、あるでしょう?」
 
 朝倉の言葉が、俺のぼやけた脳の奥底から、あの灰色の文芸部室の光景を思い出させる。

 そう。俺はさっきまで居た、あの世界を、十二月の十八日まで巻き戻した。
 正確には、その日付までの、俺の記憶を元とした世界へと、作り変えたのだ。
 ヒューマノイドインターフェースの長門が用意し、朝倉涼子が作り変えた、緊急脱出用プログラムの力を使って。

247: 2011/01/11(火) 19:45:41.96 ID:+Y4fPNsi0
 
 「きっとね。これは、神様の力を盗み出した、罰なんじゃないかって思うの。私たちは、まだずっとずっといいほう。
  ……彼女は、もっともっと思い罪を、今も償い続けてるわ。
  会いたかったんでしょ? あわせてあげるわよ」
 
 朝倉はそう言うと、傍らの閉ざされたカーテンに手を掛けた。
 かしゃっ。という乾いた音と共に、俺たちと同じ夕焼けの色に染まった、白いベッドが現れる。

  
 几帳面さを押し付けられたかのように清潔な、そのベッドの上に横たわっている
 その人物が、一体誰なのか、一瞬わからなくなる。
 ぶしつけな陽光によって茜色に塗りたくられた肌と髪が、俺の中に存在するその人物のイメージと重ならなかったのだ。
 

 そこには、長門が居た。


 肩までを清潔そうな布団に覆われ、首から上の僅かな部分だけを、炎のような光の中に晒している。

 瞼を錠前のように閉じ、まったくの無表情のまま
 まるで氷の彫刻のように眠る
 長門有希がいた。

 それはあまりにも静かな眠りで、呼吸すらもしていないかのようにも見えた。
 しかし、良く観察すると、白い布団の胸の辺りが僅かに上下していることから、それが単なる印象であることが分かる。
 
 「難しいことは、私には分からないわ。
  でも、きっと、一番初めの過ちを犯したのは、彼女だって…きっと、神様は、そう判断したのね」
 
 朝倉は微風の様に言った。

248: 2011/01/11(火) 19:48:03.17 ID:+Y4fPNsi0
 
 「ねえ、貴方が一体何度、あの夕暮れの教室で、私と向かい合って
  私にナイフを向けられたのか、その回数が分かる?
  ……たったの一度だけって、そう答えるんでしょうね。きっと。
  でも、違うのよ。それは、幾度も繰り返されていることなの。
  彼女の……長門さんの見ている夢の中で、幾度も幾度も、途方も無く繰り返されていること。
  それが一体、何度繰り返されたかなんて、誰にもわからない。きっと、神様にさえ」
 
 朝倉は、眠る長門を気遣うかのように、俺に聴こえる最低限の音量でそう囁きながら
 長門の閉じた瞼を指でなぞり、左右に分かれた髪の毛に触れた。
 
 「……私のもくろみはね、失敗に終わったの。
  私は貴方に……長門さんが最も幸せになれる未来を選択してもらおうとした。
  あの世界、長門さんが望んだ世界を、あなたにとって、耐えられるものではない、凄惨なものへと作り変えて。
  ……私、貴方に頼ったのよ。自分の愚かさを棚に上げて、あなたに全部の責任を負わせようとした。
  それが、私の罪。私の過ち」

 それが、ハルヒを頃した理由か?

 「ごめんなさい。私、いまだにわからないのよ。
  こんなふうに、長門さんにくるってしまった今でも。
  有機生命体の、氏に対する概念が。
  でも、きっと涼宮ハルヒなら……
  彼女の氏でならば、貴方を動かせないはずがないって、そう思ったの。
  だから、私は彼女を頃した。……それが正しいことだと思ったの。
  だって、私の元に、このナイフが届いたから」
 
 いつの間に、どこから取り出したのか。
 朝倉の右手には、俺にとっても見覚えのある、おぞましい代物が握られていた。
 あの日、俺を殺そうとした朝倉の手に握られていたものと良く似たナイフ。

249: 2011/01/11(火) 19:50:06.63 ID:+Y4fPNsi0
 
 「だから、私が貴方よりも先に、あのプログラムを見つけたことも。
  みんなみんな、運命だと……長門さんが望んだことだと、本気で信じてた。
  あなたはきっと、世界を元に戻す。
  私のいない、長門さんが冷たいままの世界を選択すると思った。
  だから私は……貴方にそれをさせないために、長門さんと貴方の邪魔をし続けた。
  ……あんなふうに、友達面をしながら、そんなことを考えてたのよ、私。
  こういうのって、薄情ものって言うのよね。私、それは分かるわ」
 
 薄情もの、か。
 悪い、朝倉。それについては、俺も何も文句は言えん。
 ……結果はどうあれ、俺もまた、お前を見捨てた、薄情ものなんだからな。
 
 「おかしな人。
  たった今、自分を騙し続けてたことを白状した相手に
  見捨てる、見捨てないだなんて。
  やっぱりあなたって、わからないわ。
  ……続きを話すわね」
 
 朝倉は短く咳をし
 さて、どこから話したものかとでも言わんばかりに数秒視線を泳がせた後で、再び話し始めた。
 
 「私のコピーした神様の力じゃあ、世界を本当に作りかえることなんて出来なかった。
  あなたはね、世界を作りかえることが出来なかったの。
  ただ、電脳の世界に、仮想次元を作り出しただけ」
 
 電脳世界?

250: 2011/01/11(火) 19:52:02.33 ID:+Y4fPNsi0
 
 「そう。私は私なりに、神様の力を解析し、再生し、それをプログラム化したつもりだった。
  だけど……無理だったのよ。ニセモノは所詮ニセモノ。それは本当にただのプログラムでしかなかった。
  ……やっぱり、本当の力を再生できるのは、長門さんだけだったのね。
  貴方は世界を作り変えたつもりで、たった一人、プログラムによって作られた電脳世界へと迷い込んでしまった。
  ……世界は、続いていたのよ。貴方が緊急脱出用プログラムを実行して、十二月十八日へと還ったあとも。
  そして、欠陥プログラムによって造られた電脳世界は、その場でフリーズしてしまった。
  貴方の世界は、巻き戻した時間を使い果たし、その瞬間が訪れると同時に、バグを起こして、消え去ってしまう。
  そんなうたかたみたいな世界に、貴方は旅立って行ってしまった。貴方の記憶の中に住む人々と共に。
  そして……あの文芸部室に残された長門さんは、その事実に気づいてしまった。
  彼女が自分に掛けた魔法のすべてが解けてしまったの。
  自分が犯した罪……神の力へ妄りに干渉しての、身勝手な世界の改変。
  それが彼女の過ち」
 
 ……世界がバグを起こす瞬間。
 それが、あの土曜日の、十二時四十六分だったってのか?
 
 「その通り。
  ……すべてを思い出した長門さんは、貴方を助け出そうとした。
  彼女は私や貴方と違って、あのプログラムから、本当の神様の力を再生することが出来た。
  彼女はその力を使って、もう一度世界を作り変えるという方法で、あなたを救いだそうとした。
  貴方と涼宮ハルヒが出会った、一番初めから、もう一度。世界を作り直したの。
  そして、自分……長門有希という存在が、二度とエラーを起こさないように。
  自分の魂を、貴方の望むような
  ヒューマノイドインターフェースの長門有希として、その世界へと宿したの。
  その代わりに、彼女と言う存在の実体は、魂を失い、眠りに着くことになってしまった。
  力を手にしたものの行き着く、世界の最果てで。
  それが、ここ。……彼女は、長門さんの源のようなものよ」

 朝倉は話を続けながら、長門の顔や髪の毛に触れ続けていた。

251: 2011/01/11(火) 19:55:17.98 ID:+Y4fPNsi0
 俺は朝倉の指先によって僅かにかたちを変える長門の顔を見つめながら
 エラーを起こしたヒューマノイドインターフェースとしての記憶を取り戻した、眼鏡の長門のことを思った。
 
 笑い、脅え、悲しみ、怒る、あの眼鏡の長門。
 それは、ヒューマノイドインターフェースの長門が、そうありたいと望んだ果てにたどり着いた姿だったはずだ。

 しかし、長門は……自らの理想を捨ててまで
 冷たいからくり人形のような長門有希で有り続けることを選んでまで、俺を救おうとした。
 
 「そうして、世界は繰り返されたの。初めから、もう一度。
  貴方が涼宮ハルヒと出会い、長門さんと出会い、私とも出会い……
  ……でもね。やっぱり、エラーは起きてしまったのよ。
  長門さんは同じように、感情に芽生え、更に大きなそれを求めて、禁忌を犯した。
  彼女は貴方を残して世界を作り変え、私は彼女の為に過ちを犯した。
  貴方は閉ざされた世界へ旅立ち、彼女はそれを救うために、すべてを巻き戻す……
  エラーの輪廻よ。ぐるぐるぐるぐる回り続ける、同じシナリオを辿り続ける壊れたフィルムのような。
  こんなに悲しいことって、ある? 長門さんはこの場所で、永遠に、同じ過ちの夢を見続けているのよ」
 「……だが、なら何故……俺は今、ここにいる?
  その話の通りなら、俺は永遠に、長門の創る世界の住人でありつづけるはずじゃあないのか」
 「エラーが起きたからよ」
 
 朝倉は言った。
 
 「終わらないエラーの歯車を狂わせたのは、新しいエラーだったの。
  長門さんが……あなたが消えた後。あの賞味期限ぎれのフロッピーから、神様の力を再生する能力を、失ってしまった。
  正確には……それを半分、持って行かれてしまったの。
  あなたによ。……あなたが、長い長い繰り返しの、最後の最後に。
  本当に、長門さんと結ばれてしまったから。
  長門さんの力は、貴方と二分されてしまった。
  だから、貴方は今、ここにいるの。たったの半分だけだけれど、本当の神様の力に触れてしまったから」

252: 2011/01/11(火) 19:57:09.57 ID:+Y4fPNsi0
 俺が、長門と結ばれた。
 ……その言葉に、身に覚えが無いわけではない。

 俺が奇妙な出来事たちにまぎれて、忘れてしまえばいいと、ひそかに思っていたあの出来事。
 ハルヒが氏んだことを知らされた日の夜。
 ……確かに、俺は。長門と結ばれたと言っても良いのかも知れない。
 それによって、長門の持つ、神様の力……を、再生する力が、俺にも分け与えられてしまった。
 
 「もっとあけすけに言って欲しかったかしら?
  ……あなたが最後に作り出した世界は、0と1だけで創られた電脳世界なんかじゃなかった。
  多分、あなたにとっては、つい最近まで、当たり前に存在していた、その世界のことよ。
  長門さんと力を分け合った貴方は、世界を作り変えることは出来なかった。けれど、世界を創ることはできた。
  それはただ、今日の日の十二時四十六分より先の未来を持たないだけの、れっきとした平行世界だった。
  そして、あなたに力を奪われた長門さんは、世界を作り変え、貴方を呼び戻すことが出来なくなってしまった。
  彼女はついに、魂までもを、この世界の最果てへと迷い込ませてしまった。
  そして、世界の終わりにたどり着いてしまった、哀れで未熟な創造主である、あなたを……私が、この場所に呼んだの」
 
 ……長い長い螺旋のような朝倉の言葉が、俺の頭の中を縦横無尽に駆け巡った後に、脳髄に染み渡って行く。

 「何故お前が、俺をここに呼ぶ必要があった?」
 「あなたに、長門さんを目覚めさせないためよ」

 朝倉は言った。

 「長門さんは、待っているのよ。誰かがこの終わらない眠りに、終止符を打ってくれることを。
  だけど……私が何をしても、彼女は目を覚ましてはくれないのよ。本当に、何をしてもよ。
  長い、長い間、私はこの場所で、長門さんと二人きりで過ごしてきた。
  でも、その間に、一度だって、彼女は目を覚まして、私の名前を呼んではくれなかった。
  何故か分かる? 私には良く分かるわよ。
  ……あなたがいるからよ」

253: 2011/01/11(火) 19:59:06.47 ID:+Y4fPNsi0
 朝倉のその言葉と同時に。俺は全身が粟立つ様な悪寒に襲われ、咄嗟にその場から飛びのいた。
 その結果、俺の背中は、閉ざされた入り口の扉へと打ち付けられ、危うく喉から横隔膜が飛び出しそうになる。
 しかし、その程度で済んだのだからまだマシなほうだろう。
 ……この咄嗟の回避運動を行わなければ、俺の体は、朝倉の振り切ったナイフの刃によって切り裂かれていただから。
 
 「世界がどうなろうと、運命がどうだろうと。
  長門さんは、永遠に、貴方にとらわれたままなのよ。
  私はただ、貴方と長門さんが、いつか、何の隔たりも無く結ばれる為の
  そのためだけに踊らされ続ける、道化師なのよ。
  今、この場所に、貴方がいる事だって、そう。
  もしも、こうしてエラーの輪廻が途切れたとき、私は貴方をこの場所に導く、ただそれだけの為に……
  たったそれっぽっちの事の為だけに、私は夢を見続ける長門さんのそばに居させ続けられたのよ」
 
 穏やかで、歌うようだった朝倉の口調が、徐々に覇気を帯び、高潮してゆく。
 あの時、夕暮れの教室で感じた殺気の比ではない。

 朝倉涼子は、今、純粋な感情の元に、この俺を殺そうとしているのだ。
 
 「長門さんは、あなたに世界の選択を委ねた……
  私は貴方にそれを知らせるためだけに、あの世界に作り出されたの。
  私は、長門さんを、あなたから守るために呼び起こされたと……そう信じてたのに。
  なのに、そうじゃなかった。
  私はただ、あなたと、長門さんを引き寄せるための道具でしかなかった。
  長門さんにどれだけ感情に芽生えようと―――
  彼女は私のことを、バックアップとしてしか見てくれないのよ!」
 
 ドアを背にしりもちをついた俺に向けて、逆手に持ったナイフが振り下ろされる。
 朝倉の腕力と、俺の腕力とを比べた場合に、僅かに俺の腕力のほうが勝っていたらしい、それが救いだった。
 俺が朝倉の両の手首を掴み、全身全力を込めて押しとめたために
 ナイフの刃先は俺の眉間を突き刺す寸前で停止していた。

254: 2011/01/11(火) 20:09:50.31 ID:+Y4fPNsi0
 
 「貴方が居なければ……長門さんは
  もう、こんな終わりのない夢を見ずにすむのよ
  貴方が……あなたさえ、いなければ……」
 「……違う、朝倉。お前は―――」
 
 お前は、あの小説を――長門の書いた物語を、読まなかったのか?
 
 「読んだわよ。何度も、何度も……ここには、それ以外に何もないもの。
  紋白蝶と、蓑虫と、蜜蜂の物語。
  私は蓑虫の貴方を、魔法の場所に導く、ただそれだけのために―――」
 「違う! 違うんだ、朝倉、長門は……」
 
 俺があの、灰色の文芸部室で出会った、長門の姿をしたもの。
 あの灰色の長門の言葉が本当なら……
 魔法の鍵はふたつあった。
 そして、そのうちの一つは――もう、お前の手に渡っているはずなんだよ。
 
 「……私が、鍵を?」
 
 朝倉がそう呟いた瞬間、俺の両腕に掛かる朝倉の体重が、一瞬、僅かに弱まった。
 その瞬間をつき、俺はアトラスの巨人か何かになったつもりで、思いきり状態を起し、俺の体に圧し掛かる華奢な肉体をはじき返した。
 ううっ。と、短いうめき声が聞こえ、今度は反対に。朝倉がリノリウムの床にしりもちを着く体勢になる。
 俺は勢いのままに両足を地面に付け、ナイフを握る朝倉の両手に抱きつき、全体重をかけ、床へと押さえつけた。
 ダメージを与えるつもりはないが、こんな物騒なものを振り回す手を、自由になどさせてはおけない。

 「そんな……だって、私が手に入れたものなんて、あの本とプログラム以外に……」
 「……あるじゃねえかっ、ここに!!」
 
 不細工な腕ひしぎのような体勢のまま、俺は朝倉の手首を握る手を一際強く握り締め、その手の中の獲物を奪い取る。

255: 2011/01/11(火) 20:17:30.79 ID:+Y4fPNsi0
 
 「あっ……!」
 
 朝倉は、一瞬、しまった。と、単純に獲物を奪われたことに困惑する表情を見せた。
 しかし、その直後から。油のしみこんだ布が端から燃えて行くように、その表情が青ざめて行く。
 腕の中で、朝倉の体から、見る見るうちに力が抜けて行くのが分かる。
 俺は朝倉への拘束を解くと、今、まさに朝倉の手から落ちた、物騒な刃物を拾い上げた。
 ……俺の脳裏に、あの灰色の長門有希の言葉が蘇る。
 
 ―長門有希は、一人分の修正プログラムを用意することしか出来なかった
  故に、あなたが世界を修正する場合には、この『緊急脱出プログラム』によって
  あなたに一度時空間移動を行わせ、過去の長門有希が構築したプログラムを入手させる手筈だった。

 ―……この時空の長門有希によって構築された修正プログラムは
  十二月十八日の午後に、彼女の手に渡されていた。
  彼女がそれを受け取った時に、全てを理解できるような形状で。
  そして、彼女が時空間移動をするための手段も確保されていた
 
 「……嘘、でしょう?」
 
 嘘じゃねえよ。
 朝倉。俺はあの一件で、自分がとんでもない大馬鹿者だったってことを痛感したもんだったよ。
 だけど……お前も、似たようなものかもしれないぜ。
 
 「俺よりもずっと容易い場所に……お前の為のカギは用意されていたんだよ。いわば、俺は予備みたいなもんだ。
  あいつも、お前と同じ……ハルヒが絡めば、俺はきっと黙ってないと、そう思ったんだろうよ。
  ……本当なら」
 
 長門が望んだ、一番の選択者は……お前だったかもしれないんだよ、朝倉。
 お前は俺なんかより―――ずっと、ずっと、長門の近くにいたじゃないか。

256: 2011/01/11(火) 20:25:08.44 ID:50aZwDJx0
 
 「うそ……だって、このナイフは……私が、あなたを……」
 「あれはお前じゃない……お前の意思を、情報統合なんとやらが操作してたんだろう」
 「……そんなわけ、ないわよ。私が、長門さんに……あの長門さんが、私を選んでくれてたなんて」
 「だったら!」
 
 だったら、どうしてお前がここにいる?

 神様の力とやらに直接触れちまったものが行き着く、この場所に。
 出来損ないのプログラムしか作れなかったはずのお前が
 
 「……え……?」

 もしも、の話だがな。朝倉。
 俺と長門が……その、なんだ。
 心を通じ合わせたことで、その力が分け与えられていたってんなら。

 お前は……お前はこんな滅茶苦茶な堂々巡りが始まっちまう、とっくの昔から、長門と通じ合ってたんじゃないのかよ。
 あの世界でのお前には、ヒューマノイドインターフェースとしての力なんか無かったんだろ?
 だってのに、お前はその、神様の力とやらを、あのフロッピーから呼び起こせてたんじゃねえか。
 
 「じゃあ、じゃあ、長門さんは……長門さんが、私をあの世界に構築したのは」

 「俺が知るかよ、そんなこと!
  お前が……
  お前のことが、好きだったからとかじゃねえのか!?」

 ……俺のその自暴自棄の怒号を最後に
 病室には、氷水のような静寂が訪れた。
 朝倉は、冷たい床に力なくへたり込み、荒く呼吸をつきながら、鏡を覗き込む魔女か何かのように、自分の両手を見つめている。

257: 2011/01/11(火) 20:32:07.04 ID:50aZwDJx0
 俺は一連の格闘で上がった呼吸を整えながら……
 すこし考えた後に、手の中のナイフを朝倉のすぐ傍へと置いてやった。
 朝倉は、力なく光る刃をしばらく見つめた後、震える手で恐る恐る、その柄を手に取る。
 
 「私……私の、カギ……これで、私、何をしたら……何をするために、ここにいたの?」
 「……さっき、自分で言ってたじゃねえか」
 
 長門は、この永い眠りの終わりを望んでいるのだ……と。
 
 今、朝倉の手に握られているのは、正真正銘。長門が用意した、世界を再生させる為の修正プログラムだ。
 灰色長門の言葉の通りなら、そいつは俺か朝倉のどちらかが、時間移動をし、長門が世界を改変した瞬間に起動しなければならないものだったはずだ。
 しかし、時空転移どころか、どこの世界がどこに行っちまったのかの見当もつかない現状じゃ、処方通りに起動することはできない。
 ……俺たちに出来る選択は、一つだけ。何もしないか、何かをするかの選択のみだ。
 駄目元で、やってみるしかねえじゃねえか。
 
 「だけど……私、これを使ったら……世界は、修正されてしまうの? ……私は、また、消えてしまう……そうなの?」
 
 ……そういうことになるな。
 だけどな、朝倉。悪いが、俺にはどうしてやる事も出来ねえよ。
 世界を修正しないって選択肢をぶっ潰しちまったのは……お前なんだからよ。
 お前の『過ち』は、俺を選択から遠ざけたことなんかじゃなかったんだ。
 それがお前の選択だったんだよ。
 それだってのに、お前は……なんでこんなバカなことしちまったんだよ?
 
 「長門さんは……だって、長門さんは、貴方が好きだったじゃない!
  あなただって、長門さんのことが好きだった……違うの?」
 「ああ、そうさ。俺は長門のことが好きだったよ。
  メガネがあろうと無かろうと、笑おうと、無表情だろうと、泣こうと、冷たかろうと、暖かかろうと、俺は長門有希が好きだったよ!
  だけど、俺がいつ、お前のことが嫌いなんて言ったんだよ!
  長門がいつ、お前のことが嫌いで、邪魔だなんて言ったんだよ!」

258: 2011/01/11(火) 20:39:49.92 ID:50aZwDJx0
 
 腹からあふれ出す声と共に、体中の力が抜けていくようだった。
 俺は薬品棚のロッカーに背を預け
 そのままずるずるとブレザーの背中を滑らせ、冷たい床の上に尻餅をついた。
 肩の辺りがひりひりと傷む。どうやらさっき、朝倉に噛み付かれていたらしい。
 

……

 
 「私……消えたく、ないよ……怖いよ
  長門さんと、離れたく……ないよ…………」
 
 じゃあ……このままずっと、こうしてるか?
 
 「……でも、それじゃ長門さんは、ずっと」
 
 眠ったままなんじゃ、ないか?
 ……頼むからもう、俺に何も訊かないでくれ。
 
 「だって……私、私…………」
 
 助けてやれるなら、俺だって、助けてやりたいさ。
 だけど……もう、頼むから、今は。
 
 俺に、何も訊かないでくれ……

  
……
 

259: 2011/01/11(火) 20:49:29.47 ID:50aZwDJx0
 
……
 
 
 延々と耳に障り続ける水音が、ゆるい粘土のようなまどろみの中から、ゆっくりと、俺の意識を引き上げて行く。
 どうせならば、目を開けたその場所が、見慣れた自室のベッドの上であってくれたならば良かったのだが。

 どれくらいの間眠っていたのだろう。
 病室の中は、色濃い闇に包まれている。夜がやってきたのだろうか。
 薬臭い空気は、何しろ冷え切っている。
 制服に身を包んでいるのみの俺の体は、すっかり冷え切ってしまい、立ち上がろうとしても、はじめはうまく体が動かせないほどだった。

 長い時間をかけて、氷のような床から体を持ち上げる。
 ベッドの上では、はじめに見たときとなんら変わりない様子で、長門有希が寝息を立てている。
 その僅かな呼吸音を掻き消さんばかりに耳に障る音。
 それに導かれるように窓の外を見て、俺は初めて、夜の闇を、無数の雨粒が曇らせていることに気がついた。
 それも、ハンパな雨ではない。所謂、土砂降りと言うヤツだ。

 けたたましい雨音を背負い、俺は長門のベッドの傍らに有った丸椅子に腰を掛け、灯りのつけられていない室内を見回す。
 狭い室内に、朝倉の姿はない。
 となると、俺の目の前。この閉ざされたもう一つのカーテンの向こうにいるのだろうか?
 
 「……朝倉?」
 
 小声でその名前を呟いてみるも、返事はない。眠っているのだろうか。
 しかし。そう安易に考えた直後。
 病室の唯一の出入り口である引き戸が、僅かに開かれていることに気づく。

 朝倉が、どこかへ出て行った? 一体、どこへ?
 そもそも、その扉の向こうには、一体何があるのだろうか?

261: 2011/01/11(火) 20:53:38.01 ID:50aZwDJx0
 
 「……」

 眠り続ける長門の顔をしばらく見つめた後。
 俺は冷たくなった体に鞭を打ち、僅かに開かれたその扉へ向かった。
 
 近づくと、古い引き戸には、俺の朝倉の格闘の痕跡と思われる、僅かな凹みが生じている。
 ……当たり前のことだが、すべては夢などではないのだ。
 もっとも、こんなところに置き去りにされたまま、すべては夢でした。などといわれても、困るのだが。



 引き戸の向こうには、あえて述べるべき特徴も見当たらない、平凡な病院の廊下が広がっていた。
 病室から一歩外に出れば、そこは病院内。考えてみれば、当たり前のことだった。
 歩き回るには少しばかり暗すぎたが、どこを探れば電灯のスイッチが有るのかもわからない。

 仕方なく、俺は暗闇に視界が慣れるのを待ち、手探りで壁を伝いながら、人気のない廊下を歩み進めた。
 人気のない深夜の病院、しかも外は雨となれば、考えてみれば末恐ろしいシチュエーションだったが
 不思議なことに、俺はその空間に恐怖を感じることは無かった。
 さすがにここまで非現実的な状況下にあると、物事の価値観などは容易く変わってしまうものだ。
 コンクリートの外壁を隔てた外界で、轟々と降り続ける雨音が、建物内に不気味にしみこんで来る。


 外界。


 そういえば、この病院の外にも、世界が広がっているようだった。
 そこには一体、何が有るのだろう。
 俺は窓の外にどんな光景が広がっていたか思い出そうとしてみたが
 夕焼けの色と、雨に曇る夜の闇ばかりが思い出されて、その向こうに何が存在したかを思い浮かべることはできなかった。

262: 2011/01/11(火) 20:55:09.16 ID:50aZwDJx0
 フロアには、長門が眠りに着いている病室のほかにも、いくつかの病室が存在したが、それらにはすべてドアロックが掛かっており
 同様に、スタッフルームらしき部屋にもロックが掛かっていた。

 病室の廊下を抜けた先には、小さな待合室のような空間があり、そこからもう一方、どこかへ繋がる道があるようだったが
 そこは鈍色のシャッターによって遮られており、先に進むことは出来なかった。エレベーターらしきものは無く、あるのは階段のみ。
 そのうち、下りの階段もまた、先ほどと同じシャッターによって閉ざされていた。

 となれば、進む道はただ一つ。上りの階段である。
 ここまでに、朝倉の姿は見つけられていない。
 朝倉は、この階段を上った先にいるのだろうか。

 徐々に目覚めてきた体で、緑色の塗装の成された階段を上って行く。
 ローファーの靴底が、クツクツと濡れたような音を立てた。

 階段を上りきると、底には左右に避けられた格子扉が門を構えており
 その向こうには、片開きの鉄の扉が張り付いていた。
 先ほどと比べて、建物内に響き渡る雨音が大きくなっている。
 どうやらそれは、屋上へと続く扉のようだった。

 踊り場で軽く周囲を見渡し、朝倉の姿を探す。
 どこかの物陰にうずくまってでもいないかと、念入りに探してみるが、見つからない。

 残るは、この鉄の扉を開けた、その向こうしかない。
 おそらく、土砂降りの雨に晒されているであろう、この見知らぬ建物の屋上。
 朝倉は、そこで、何をしていると言うのだろうか?

 
……
 

263: 2011/01/11(火) 20:57:10.61 ID:50aZwDJx0
 扉は俺が予想していた以上に重く、冷たかった。
 ドアノブに両手をかけ、右肩を押し付けながら、そのサビの匂いのする扉を開ける。

 案の定、壁との間に僅かな隙間が生じた途端に、俺の体に、噴水のように水飛沫が襲い掛かってきた。
 冷たい水の球体が、俺の髪を濡らし、肌を冷やし、制服へ沁みこんで行く。
 全身がぶるりと奮え、一瞬心が怖気づきそうになる。
 しかし、なけなしの気合を込めて、俺はその扉を開け放った。

 ドウドウと音を立てて、コンクリートの地面の上に、大量の水滴が降り注ぎ
 それが地表に触れると同時に水飛沫となり、霧の様に雨粒の間を埋め尽くしていた。
 空は濃い灰色。もちろん、月の光などが届くはずも無く、世界は徹底的に陰鬱な闇にくるまれている。
 いつぞやの孤島での嵐を髣髴とさせる。そして、その時と同じ連想が、俺の脳裏をよぎる。
 そこには、閉鎖空間に良く似た世界が広がっていた。

 靴などはすぐさま水で溢れ帰り、あっという間に、頭の先からつま先までがずぶ濡れになる。
 まるで嵐に立ち向かうかのように、俺はドアの向こうへと体を放り投げた。
 体に直接響き渡る轟音に混じって、背後で鉄の扉が閉まる音がする。
 そのあまりの雨量に、俺はすぐさま、その場にへたり込んでしまいそうになる。
 しかし、その弱気を寸でのところで押さえ込み、俺は両手で前髪をかき上げ、周囲を見渡した。

 
 朝倉。
 朝倉涼子は、どこにいる?
 残された場所は、ここしかないじゃないか。
 

 果てしなく続く灰色の空の下に、縦横無尽に視線を投げかける。
 やがて、俺の視線は。鉄の扉をあけた、すぐ左側で留まった。

 そこに、朝倉涼子の姿を見つけたのだ。

264: 2011/01/11(火) 21:00:34.90 ID:50aZwDJx0
 朝倉涼子は雨のカーテンの向こうで
 まるでダンスでもするかのように
 ふわふわと、ふわふわと……長い髪と、藍色のスカートを翻しながら、回り、揺れ動いていた。
 
 
 「朝倉?」
 
 
 僅かな声では、雨音に掻き消されてしまう。
 俺は喉奥からひねり出すようにして、その名前を呼んだ。

 俺の声が、朝倉の元に届いたのかどうかはわからない。
 しかし、少なくとも俺がその名前を呼ぶと同時に。
 朝倉の揺れ動いていた体が、ぴたりと止まった。

 俺に背を向ける姿で停止した朝倉が……やがて、ゆっくりと俺を振り返る。
 長い髪が、ふわりと風に舞い、空中に綺麗な曲線を描く。

 水飛沫に霞む、振り向いた朝倉涼子の顔。
 朝倉は、一瞬、俺の顔を見つめた後に、糸が解けるような小さな笑みを浮かべ、何かを呟いた。
 しかし、それはあまりにも小声であり、俺の耳に、朝倉の声は届かない。
 
 
 「朝倉!」
 
 
 もう一度、俺はその名前を呼ぶ。
 
 しかし、俺が一瞬、濡れた前髪に視界を遮られた、その僅かな瞬間の間に。
 朝倉涼子の姿は、忽然と消えてしまっていた。

266: 2011/01/11(火) 21:07:28.84 ID:50aZwDJx0
 
 朝倉?
 
 喉の奥が僅かに揺れる程度の音量で、俺はその名前を呼ぶ。
 たった今まで、彼女がいたはずの場所まで、歩みを進めようとする。

 しかし。俺の歩みは、彼女が居たはずの場所には遠く及ばない場所で留まってしまう。
 ビニルコーティングされた鉄線のフェンスが、俺の体を押し戻したからだ。

 フェンスの奇妙な弾力が、俺の体をふわふわと揺るがせる。
 俺はその網目に両手をかけ――冷えた両手には、もはやまともな神経が及んではいなかった――頭上を見上げた。
 俺の身長よりも、頭一つくらいの高さのフェンス。上部に有刺鉄線などは見当たらない。

 続いて、俺は足元に視線を落とした。
 フェンスと地面との僅かな隙間に引っかかるようにして、つなげられた楕円形の何かがふたつ、引っかかっている。
 水溜りと為った床の上に膝をつき、それを手に取る。

 暗闇のため、色ははっきりとはわからない。しかし、そのフェイクレザーの手触りには覚えがある。

 それは、俺がたった今履いているものと同じ――それよりも、二周りほどサイズの小さな――ローファーだった。
 片方を拾い上げると、もう一方が縋りつくようにして持ち上がる。
 二つのローファーの側面を一度に貫き、繋ぎとめている、数十センチほどの刃物があった。


 朝倉。
 
 
 それは、朝倉涼子の鍵だった。
 つい先刻、俺の胸と、眉間に襲い掛かろうとしていた、あのナイフだ。

267: 2011/01/11(火) 21:14:45.61 ID:50aZwDJx0

 朝倉。


 朝倉―――そうじゃ、ねえだろ。
 
 
 手の中から落ちた一塊が、水浸しのコンクリートの上に落ち、びしゃりと音を立てる。

 雨に濡れ、重たくなった全身を、目の前の鉄の網目へと叩き付ける。
 


 
 俺の脳の一番奥で、この空間の冷たさを覆すような熱の塊が膨れ上がって行く。
 それはやがて、俺の顔面中を張り詰めるほどに膨れ上がり……


 やがて、爆発した。
 
 
 

 
 「朝倉あああ!!!」
 
 

 
 

268: 2011/01/11(火) 21:22:32.20 ID:50aZwDJx0

……
 

……

 
 ……どれほどの時間、そうしていただろうか。

 俺は、雨に浸かることも構わず、体が冷えることも構わず、
 腕の中に、朝倉涼子の穴の開いたローファーを、まるで雨から守るかのように抱きかかえ
 温度のないコンクリートの上にうずくまっていた。

 数分間であったようにも、数時間であったかのようにも思える。
 しかし何にしろ、その時間が経過した後で、俺が顔を上げたときにも、豪雨はまだ続き、夜の闇が晴れる気配は無かった。

 やがて。俺はフェンスの足元に朝倉のローファーを捨て
 濡れ光るナイフを拾い上げた。
 
 

 それからは、まるで、自分の体が、何かに乗っ取られてしまったかのように思えた。
 俺は揺れ動く全身を幾度も壁に打ち据えながら、院内へと戻り、階段を這うように下りた。
 ナメクジのように、床に水の道を描きながら、先ほど歩いてきた道を逆さに辿る。
 開いたままになっていたドアから、病室へと戻る。

 先ほどと何も変わらない光景。
 窓の外の雨と、グレーに染まるベッドの中で、眠り続ける長門。
 俺は体にまとわりついてくる、水を吸って重たくなったジャケットを取り払い、丁度俺が座り込んで眠っていた、薬品棚の足元辺りに放り投げた。
 一気に身軽になると、心なしか、気分がいくらか落ち着いたような気がした。

269: 2011/01/11(火) 21:27:30.16 ID:50aZwDJx0
 
 「長門」
 
 俺の喉から、うわごとのように、その名前が零れだす。
 
 「長門、長門、長門……」
 
 酩酊したかのように揺れ動く体で、俺は長門のベッドまでたどり着き、その上によじ登る。
 濡れた服から、淀んだ水分が、清潔そうな布団へと移り、染み渡る。
 俺は長門の上に四つんばいになるようにして、布団越しに覆いかぶさり、荒く息をついた。
 冷気と混乱で鈍った全身の神経が、布団の向こうに確かに存在している、華奢な肉体の感触を、僅かに感じる。
 雨音がいっそう激しくなっている。一体この量の液体が、この世界のどこに収納されていたというのだろう。
 
 「長門」
 
 目の前に、長門の顔が有る。はじめに見たときと何ら代わりはない、安らかな寝顔。
 俺の前髪から滴った雨水が、きめの細かい肌の上に落ち、球体となり、頬を滑り落ちて行く。
 まるで涙のように。
 
 
 「ああああ!!」
 
 
 全身に残された、あらゆる力、気合、魂、気力、もう、何だってかまわない。
 俺の中に存在する、何かしらのエネルギーのすべてを総動員して、その一瞬の動作を行った。
 長門の体に跨り、右手に持ったナイフを――たった今まで、それを持っていることすら忘れていた――逆手に握り込み
 長門の顔から、いくらか下。白い布団に包まれたその部分に向けて。


 俺は、何もかもを叩き込んだ。

271: 2011/01/11(火) 21:33:36.52 ID:50aZwDJx0
 喉がいくら痛もうと、叫ぶことをやめなかった。

 不思議なことに、その動作を繰り返している間。
 俺の体は、それまでどこに隠れていたのかと言うほどの、莫大なエネルギーに満ち溢れていた。

 長門の表情は、少しも変わらない。
 ただ、俺が右手の刃をつきたてる度に、ベッドが軋みを上げ
 それにあわせて、グレーの髪がはらはらと揺れ動いているだけだった。
 
 
 ―――なあ、長門。やっぱり俺、わからねえよ。
 本当にコレが正しいことなのか?
 朝倉に、こんなことを求めてたのか?
 
 違うか。
 間違ってるのは、俺のほうか。

 それとも、本当に、コレが正しいことなのか?

 何が間違ってて、何が正しいのか
 もう、わからねえよ。
 
 
 ずたずたになった布団から、まるで潰れた紙細工のようになってしまった、長門の体を引きずり出し
 俺はその胸の部分に顔を埋めた。
 長門の血液と、俺の涙と、雨水と、あらゆる液体がでたらめに混ざり合って、ベッドの上を汚し尽くしている。

 俺の涙が枯れ果ててしまうことは無かった。
 まるで冷たい雨のように、俺は泣き続けた。
 何が悲しくて泣いているのかさえ、俺には分からなかった。

272: 2011/01/11(火) 21:40:25.98 ID:50aZwDJx0

……
 




 
 雨の音と、俺のうめき声とに混ざり

 窓の外で、巨大な落雷のような音が聞こえた。

 その音に反応し、俺は長門の胸から顔を上げ、窓の外に視線を向ける。
 



 窓ガラスと、雨のカーテンを隔てた向こうで。

 いつしか見たのととてもよく似た

 無数の光の巨人たちが立ち上がる光景が見えた。
 
 




……

273: 2011/01/11(火) 21:43:30.03 ID:50aZwDJx0



◆エピローグ



274: 2011/01/11(火) 21:48:55.48 ID:50aZwDJx0

 今、俺の目の前には、本日三杯目となる玄米茶の注がれた湯のみが置かれている。

 正確に言うならば。飲料として俺が今日摂取したものは、寝起きの麦茶二杯と、午前中の不思議探索で古泉に奢らせたコーヒー一本。
 加えて、ハーフタイムの昼食時に喫茶店で注文したアイスティー一杯。
 それらをすべて飲み干した上での、三杯目の玄米茶というのは、いささか腹に来るものが有る。
 もし出来るなら、どこかの砂漠で一滴の水を求めているどなたかに配って回ってやりたいくらいだ。
 

 「なあ、長門」
 

 俺は辟易しながらも湯飲みに口をつけ、俺の向かいに正座している、推定みずがめ座の宇宙人に向けて声をかける。
 
 「何」
 「なんだ。その……俺に見せたいものってのは、一体、何なんだ?」
 「……もう少し」
 
 もう少し。

 先ほどから俺は、幾度か同じ質問を長門に投げかけているのだが
 還ってくる質問もまた、そのたびに同じ『もう少し』という漠然としたものであり
 我慢強い事に関してはそれなりに自信のある俺としても、いささかうんざりしつつあった。
 
 「時間が関係有るのか?」
 
 そう訊ねながら、俺は携帯電話を開く。
 時刻は午後一時五十七分。土曜日の不思議探索の午後の部が始まって、そろそろ一時間と言ったところか。
 個人的に、一月の寒空の下を目的も無く練り歩くよりは、こうして長門の家で団欒をしているほうが、楽では有るのだが……
 特に心配は必要ないとは思うが、万が一ハルヒにばれたときには、でかいカミナリを落とされそうだ。

275: 2011/01/11(火) 21:50:25.80 ID:50aZwDJx0
 
 「時間は関係ない」
 「なら、何がもう少しなんだ?」
 「心の準備」
 
 心の準備?

 それはまた、長門さんの口から飛び出す言葉としては、かなり予想外の域に入る。
 健康な成年男子としては、なんというか
 宇宙人とはいえ、見目麗しい少女と二人きりの室内で、心の準備などと申されると、抗おうにもこう、不埒な想像をしてしまってならないのだが。
 
 「……ん」
 
 勝手な葛藤を始める俺をよそに、長門はなにやら決心をしたらしく、小さな声でそう呟いた後に、すっくと立ち上がり、部屋の片隅へと歩いて行った。

 そこに有るのは……かつて、俺や朝比奈さんが、永い眠りに着いたこともある。
 長門家の一角に門を構える、通称、眠り部屋。
 まあ、これはたった今、俺が思いつきでつけた名前なのだが。
 長門はその眠り部屋の襖に手を掛け、もう一方の手で、俺にこちらに来るようにと、ちょいちょいと合図をした。
 それに従い、ちゃぶ台から腰を上げ、襖の前へと歩いて行く。
 
 「……また、何か、時空を越えたものでも出てくるのか?」
 「違う。この部屋は、今はただの寝室でしかない」
 
 俺の問いかけに短く答えた後
 
 「……見て」
 
 そう言いながら、長門は小さく音を立てながら、閉ざされていた襖をそっと開いた。

276: 2011/01/11(火) 22:01:16.19 ID:50aZwDJx0

 畳張りの和室。その中心に、これまたいかにも和風な寝具一式が敷かれている。
 布団の中心が盛り上がっているところを見ると、誰かがその中で眠りについているらしい。
 
 「……これは、どなたさんだ?」
 
 長門は俺の質問には答えず、変わりに、ぺたぺたと布団の脇へと歩み寄り、そして、敷布団をひといきに捲った。
 


 ……そこに横たわる人物を目にし……俺は第一声を発することが出来なかった。
 そいつは俺にとって、正直に言わせて貰えば
 あまり、ほとんど、まったくもって、良い思い出を伴わない人物なのだから。
 

 「……朝倉涼子」
 「いや、見れば分かる」
 

 見慣れた北高のセーラー服に身を包み、すやすやと寝息を立てているのは……
 俺に二度ナイフを向け、一度ナイフを突き刺した
 あの黒髪のヒューマノイドインターフェース、朝倉涼子だった。
 
 「……なんで……こいつがここにいるんだ?」
 「私が連れてきた。本来ならば、破棄される予定だった」
 「なんつーか……その、いや、大丈夫なのか? こいつ」
 「……朝倉涼子がとってきた、これまでの異常行動は、すべて情報統合思念体急進派による意思操作によるものだった」
 
 長門はいつもの無表情のまま、いかにも気持ちよさそうに眠る朝倉の顔を見つめながら話した。

277: 2011/01/11(火) 22:05:06.96 ID:50aZwDJx0
 
 「彼女は非常に有能なバックアップ。
  ……私は、彼女を失うことは望まない」
 「……そんなに有能だったのか」
 「有能だった。しかし、今後、朝倉涼子は情報統合思念体の管理下から外される。
  ヒューマノイドインターフェースとしての一切の能力は失われてしまう。
  つまり、正確には、バックアップとしての役目は果たせない」
 「それでも……お前は、こいつにいて欲しかったのか」
 「そう」
 
 長門は朝倉の寝顔から視線を逸らし、俺の顔を見つめる。
 いつもの冷たい目。無表情。何も変わらないように見える。
 
 「プログラムは私が構成し、彼女はもう、情報統合思念体の管理下になくとも自立行動が可能になった。
  しかし……理由不明なエラーが発生し、彼女を起動することは出来ない。
  彼女は、眠り続けている。エラーの原因は完全に不明。プログラム上の異常は無いはず」
 
 長門は雨粒の結晶のような瞳で、俺を見つめている。
 ……えーと、それで。俺は一体、こいつを見せられて、どうしたらいいんだ?
 
 「……私と朝倉涼子にまつわる経緯を目にしてきた貴方なら
  なぜ朝倉涼子が目覚めないのか、その原因がわかるかもしれない。そう思った。
  あるいは、貴方になら。彼女を目覚めさせることが出来るかもしれないと、思った」
 
 ……さすがに、そいつはちょっと俺を買いかぶりすぎじゃないだろうか?
 確かに俺は、朝倉と長門に関する出来事に、幾度か遭遇してきたが、そのうちの幾度か……
 というか、ほとんどすべてが、俺がこいつに襲われ、長門に助けられる……といった状況だったのだ。
 古泉のご高説のおかげで、若干のSF通になりつつある俺でも、この問題を解決に導くのは難しいように思われる。

 しかし、それ以前に……

278: 2011/01/11(火) 22:06:27.09 ID:50aZwDJx0
 
 「……なんつーか、ぶしつけな質問で悪いんだが」
 「何」
 「どうしてお前はそうまでして……こいつに、目を覚まして欲しいんだ?」
 「朝倉涼子が」
 
 ……今、この瞬間。地球上で、とても珍しい現象の一つであろう現象が発生している。
 長門有希が、言葉に詰まっている。

 やがて、長門はほんの数秒の沈黙の後で……口を開いた。
 
 

 
 「朝倉涼子が、私と共に居たいと、願ってくれたから」
 
 
 

 「……そうなのか?」
 「そう」
 「……そうか」

 

  
 ……ああ、今の表情を見て、分かったよ、長門。

 やっぱりこいつは、俺に解決できる問題じゃない。
 お前とこいつのあいだには、俺の入る由などない……何か、大きなものが有るんだな。

279: 2011/01/11(火) 22:08:17.14 ID:50aZwDJx0
  
 「……あー、長門。スマンがやっぱり、この問題は、俺に解決できるものじゃなさそうだ」
 「そう」
 「悪いな」
 「いい」
 「……でもな、長門。多分、いつかきっと……こいつは、目を覚ましてくれると、俺は思うぞ」
 「……本当?」
 「ああ。……お前と、こいつが、お互いにそう思ってるなら……きっとな」
 「……嘘ではない?」
 「ああ。地球人は嘘つかない」
 「そう」

 

 「……私には、夢がある」
 「そりゃ、どんな夢だ?」
 「涙を流してみたい」
 「……そうすると、どうなるんだ?」
 「私にも、理解できるかもしれない」
 「何をだ?」
 「彼女が私とともに居たいと願ってくれた、その理由を。」
 「そうか」
 「そう」
 
 
 
 
 
 END

280: 2011/01/11(火) 22:14:31.51 ID:50aZwDJx0
保守、支援、激励、その他
三日にわたってお付き合いいただき
観ててくれた方、どうもありがとうございます
朝倉さんが好きです

281: 2011/01/11(火) 22:14:50.43

引用元: 朝倉「空と君とのあいだには」