1: 2011/06/26(日) 08:46:59.12
澪「ただいま」

2人分の食材を買ってスーパーから戻ってきた。
梓はまだ帰ってきていなかった。

暇なのでテレビを付けることにした。
このテレビは梓が実家から持ってきた物だ。
狭い部屋に2人で使うには充分な大きさだ。


澪「面白いの、無いなあ」

チャンネルを回してみたけど、どれも退屈だった。
衛星放送でも映れば夕方でも面白い映画や音楽番組が観れるんだけど。
でもそんなものを契約するような余裕は無い。
生活はギリギリだったけど、苦しくはなかった。
テレビを消したら、ドアの開く音がした。

2: 2011/06/26(日) 08:48:06.71
梓「ただいま」

買い物袋を抱えた梓が帰ってきた。

澪「お帰り。私より早く帰って来てるのかと思ってたよ」

梓「ちょっと寄り道してたんだ」

澪「そっか」

梓「テレビ観てたの?」

澪「ううん、面白いのやってなくてさ」

梓はソファに腰かけた。
このソファはここに引っ越してから2人で買ったものだ。

梓「ねえ」

澪「ん?」

梓「散歩でも行かない?」

澪「いいけど」

3: 2011/06/26(日) 08:49:44.06
今帰って来たばかりなのに……暇を持て余していた私に気を使ってくれたのかな。
梓が玄関に腰を下ろす。

梓「そろそろ、終わりかな」

サンダルを履きながら独り言のようにつぶやく。

澪「何が?」

梓「ほら、サンダル。もうそろそろ夏物しまわなきゃ」

澪「あ」

高校生の頃から身長が低いことを少しばかり気にしていた梓だが、ヒールの高いものは好まなかった。
とても子供らしい、少女らしいサンダルのかかとが玄関の床をトントンと叩いた。

澪「私はもうひと月くらいはこれでいいかな」

私も履きなれたサンダルをつっかけた。

梓「鍵、持ってるよね」

澪「うん、ほら」

4: 2011/06/26(日) 08:51:37.77
アパートの階段を下ると、2人の足音が低く響いた。
住めば都。
そのことわざ宜しく、このボロアパートには既に愛着が沸いていた。
家賃が安いという理由だけで借りたアパート。


澪「桜が丘から大分離れちゃったのが少し寂しいけどね」

梓「何か言った?」

澪「ううん。どこ行くの?」

梓「決めてないよ。適当にブラブラ歩こうよ」

澪「そうだね」

5: 2011/06/26(日) 08:52:50.37
商店街まで来ると大分賑やかだ。
人通りも多いし、大抵の買い物はここらで済ませられる。

梓「喫茶店でも行こうか」

澪「いいね。私も何か飲みたかったんだ」

喫茶店もレストランもいっぱいあった。
この近辺に住んでいる人は食べるものには困らない。
もちろんお金が有れば、だけど。

澪「このお店でいいよね」

梓「うん」

6: 2011/06/26(日) 08:54:59.35
自動ドアをくぐってカウンターでコーヒーを2つ注文した。
窓際の席が空いていたので梓と向かい合って座った。

店内にはジャズパンクが流れていた。
渇いたアコースティックな音。
しゃがれ声の男性がピノキオの鼻が伸びたとか折れたとか、そんな歌を歌っていた。


梓「またやってる」

澪「……あ」

無意識の内に右手を一生懸命動かして、首を軽く振っていた。

澪「癖って中々抜けないもんだな」

私はもう長いことベースを弾いていない。
手放したわけじゃないけど、弾くのをやめた。
かつて『エリザベス』と呼ばれた私の愛機は私たちの部屋の押し入れに眠っている。

梓「弾けばいいのに」

澪「そんな時間無いよ」

笑いながら答えたけど、自分の首がまだ動いていることに気付いた。

梓「今こうしている程度の時間はあるんだから」

澪「多分、熱中しちゃうから……」

一度ベースを弾き出したら寝る暇も惜しんで音を出し続けてしまいそう。
梓の様にはいかない。

澪「梓みたいに時間の使い方、上手くないから」

7: 2011/06/26(日) 08:56:44.72
澪「ねえ、向こうに花屋があるね」

大きな窓からは反対側のアーケードがずらっと見渡せた。

梓「ホントだ。行ってみる?」

澪「うん。植物でも飾れば部屋が明るくなりそう」

梓「そうだね」

コーヒーをずずっと啜って喫茶店を後にした。
BGMはいつの間にか一昔前のクラシックロックに変わっていた。

8: 2011/06/26(日) 08:58:06.49
梓「どの花がいいかな?」

澪「うーん」

育てやすい花がいいよね。
と言っておけば良かったかもしれない。

澪「可愛いのがいいな」

梓「可愛いのか……」

梓が小さな鉢を1つ、手に取って見せた。

梓「ほら、これなんてどう?」

澪「サボテン?」

球状の茎に薄ピンクの花を2、3個咲かせた小さなサボテンだった。

梓「まんまるで可愛いでしょ?」

澪「うん!可愛いかも!」

9: 2011/06/26(日) 08:58:40.44



* * * * *

12: 2011/06/26(日) 17:31:21.86
澪「ただいま」

梓「お帰り」

今日は梓の方が先に帰っていた。

澪「もうご飯にしちゃう?」

梓「うん。お腹減っちゃった」

今さっき買ってきた2人分の食材をスーパーの袋から出して台所に並べる。
今日は私が晩ご飯を作る日。


花屋で買ったサボテンは窓のすぐ側に置いておくことにしていた。
私も梓も植物の知識なんて殆ど無かったけど、なんとなくそれがいいかなと思って。

もっと花を咲かせてほしくて、水をいっぱいあげた。
しかし花が咲くどころか、だんだん元気が無くなっていくように見えた。

13: 2011/06/26(日) 17:33:28.39
梓「育て方、悪いのかな」

ご飯を食べ終わると、梓が少し不安そうな顔をしてサボテンを見つめた。

澪「ちゃんと水はあげてるし、陽にも当たってるんだけど」

梓「その内元気になるよね」

澪「うん。きっと」

食卓は豪華では無かったけど、賑やかだった。
テレビを観てないときは音楽をかける習慣があった。
梓は私の3倍くらいCDを持っていた。
ジャズ、フュージョン、マスロック、サイケフォーク。
ジャンルは幅広かった。
梓は気に入ったものを沢山コピーした。
私はその様子を楽しそうに見ていたが、ベースを手に取ることは一度も無かった。

14: 2011/06/26(日) 17:34:17.12



* * * * ・

15: 2011/06/26(日) 18:01:48.42
週末は特に用事も無く暇だったので、一日中家に居た。
梓はギターを弾いていた。

大学時代の仲間とバンドを続けていて、近所では少し有名だった。
箱を借りてライブをする日も多々あり、その度に私は観客に交じって梓を応援した。

私をバンドに誘ったこともあったが、
数年楽器に触れていない私と現役の梓とではかなりの実力差があるだろうと思って、断った。


サボテンは依然として元気が無かった。
もちろん水は欠かさずあげていたが、日に日にしおれていくように感じられた。

梓「ねえ、やっぱりベース弾いてくれると助かるんだけどな」

澪「そんな難しそうな曲弾けないよ」

梓「ルート弾きしてくれるだけでいいんだ。リズム取りやすくなるでしょ」

澪「メトロノームを使えばいいじゃないか」

意地悪を言うつもりではなかったが、梓は少し残念そうな顔をした。

澪「弦がボロボロだよ。ネックだって反れてるかもしれない」

梓「そっか。そうだよね」

16: 2011/06/26(日) 18:05:28.64
梓「来週、またライブするんだ」

澪「へー。今度はどこ?」

梓「K市の蛸蛸。来てくれる?」

澪「かなり有名なところじゃないか。勿論だよ!」

梓「ありがと、そう言ってくれると思ったよ。はい、チケット」

たまに思う。
私ももしかしたらこんな風にライブの宣伝をして、誰かにチケットを渡していたのかも。
ずっとバンドを続けていたら……。
でも私たちはバンドをやめてしまった。
だからこそ梓には、私の分まで期待しているのかもしれない。


梓「サボテン、もう駄目なのかな」

澪「そんなことはないと思うんだけど」

17: 2011/06/26(日) 18:06:24.19



* * * ・ ・

18: 2011/06/26(日) 18:50:15.78
スーパーの袋を提げて帰宅した。
梓は今頃打ち上げだろう。
私も誘われたけど、何となく気恥ずかしいので参加しなかった。
あまりお金の無い彼女達のことだ、恐らく大したものは食べていないだろう。
2人分の晩ご飯を作るべく台所に立った。

サボテンは花屋に置いてあった頃の姿とは全く別のものになっていた。
まん丸だった茎は先端が尖がり、イビツだった。
とても可愛いとは言えなかったが、それでも捨てる気にはならなかった。

19: 2011/06/26(日) 18:51:39.11
丁度晩ご飯を作り終えた頃、ギターを背負った梓が帰って来た。

澪「お帰り」

梓「ただいまー。ご飯食べたいな」

澪「ちゃんと作ってあるよ」

梓「ありがとう」

澪「演奏、良かったよ。すっごく盛り上がったな!」

梓「あ、あのね……」

梓が真剣な顔になった。

20: 2011/06/26(日) 18:54:11.36
梓「私たち、プロになろうと思ってるんだ」

澪「え?」

梓「デビューしようって」

元々梓のバンドがプロ志向だったことは知っていたし、
実力もセミプロと言ってもおかしくなかった。
当然と言えば当然だ。

澪「そ、それで?」

梓「もっと大きなライブハウスで経験を積んで、レコード会社の人の目に留まるようになりたい。だから……」


次に梓が何を言おうとしてるのか、すぐに分かってしまった。

21: 2011/06/26(日) 18:56:06.58
梓「だから上京しようって思ってるんだ」

澪「……」

梓「バンドの友達とルームシェアすれば都内のマンションでも生活出来るし」

澪「そっか。じゃあ、引っ越すんだね」

梓「……許してくれる?」

梓は昔から音楽に対して貪欲だった。
いつかはこんなことを言うのではと、全く予想していなかったわけではない。

22: 2011/06/26(日) 18:58:24.76
澪「許すも何も……」

梓「ごめん、ね」

澪「何で謝るんだよ。いいじゃないか。夢なんだろ?」

梓「うん……。でも」

澪「私のことは気にしないでよ。せっかくずっとバンド頑張ってきたんだから」

梓「ありがとう。バンドのみんなにそう言っておくから」

澪「うん。応援してるよ」

正直、動揺していた。
不安で仕方が無かった。

23: 2011/06/26(日) 18:59:34.95



* * ・ ・ ・

24: 2011/06/26(日) 19:22:10.34
梓たちの住むマンションはすぐに決まった。
一週間後には引っ越してしまう。

今日は散歩に出かけることにした。


梓「良いところだよね」

澪「ん?」

梓「ここに越してきて本当に良かったと思ってるよ」

澪「桜が丘からはかなり遠いけどね」

梓「もっと遠いところに行っちゃうんだな……」

澪「寂しそうにするなよ。これから住む所だってきっと良いところだよ」

梓「私はそれで良くても……」

澪「私の心配はしなくていいって言ったろ?」

梓「うん。きっと戻ってくるからね」

澪「待ってるよ」

25: 2011/06/26(日) 19:22:52.73
* ・ ・ ・ ・

26: 2011/06/26(日) 19:30:15.03
一人分の食材を買って部屋に帰ってきた。
広い部屋だ。
大きなソファに腰かけた。
もうテレビは無いのでCDをかけた。
ブルージーなメロディがガランとした部屋全体に響く。

サボテンはすっかり変色していた。
鉢から抜いてみると根っこが腐っていた。

澪「もう、駄目だな」

奇妙なな形をしたそれを窓の外に捨てた。
アパートの庭の土に落ちた。


悲しかった。
梓を見送った日のように悲しかった。
ただ、あの時は流れなかった涙が、今日はほっぺたを伝い足元に落ちた。
梓にサボテンを捨てたことをメールで話そうと思ったが、何となくやめた。

27: 2011/06/26(日) 19:33:17.80
どういうわけだか押入れを開けて、黒いハードケースを引っ張り出した。
金具を弄りケースを開けると、昔の相棒と数年ぶりに対面した。

澪「エリザベス……」

ストラップは無かった。
捨ててしまったのかどうかすら覚えていない。
チューニングもしていないそれの弦をはじいた。
変てこなリズムで変てこな音を出した。
右手も左手も思うように動いてくれない。
5分もそいつでじゃれていると、満足して再びケースにしまった。
指は錆で汚れていた。

その日は晩ご飯を食べてお風呂に入るとすぐに寝てしまった。
秋の夜は寂しく寒い。

28: 2011/06/26(日) 19:34:21.30



・ ・ ・ ・ ・

29: 2011/06/26(日) 19:36:47.62
秋が終わり、冬がやってきた。
冬が終わると春になった。

梓はまだ帰ってこなかった。
いつか「ただいま」と帰ってきてこのソファに座る梓の姿を想像することすら忘れた。

春が過ぎ夏が過ぎ、また秋になった。
その頃にはこの部屋に住む者は誰も居なくなっていた。

くたびれたアパートの庭に落ちたサボテンが新しい根っこを伸ばし、西日を浴びて
ついには綺麗な花をいっぱい咲かせていたことを、とうとう私が知ることはなかった。



おしまい

30: 2011/06/26(日) 19:49:15.74
切ない……乙乙

31: 2011/06/26(日) 21:06:13.92
切なす…

39: 2011/06/27(月) 20:28:18.98
乙、儚いのぉ。

引用元: 澪「サボテン」