6: 2011/01/22(土) 14:25:45.33
私は友人の家のまえに立っている。
1月も暮れようとしているような寒い時期で最もつらいときといえば、
友人の家のインターホンを押してから返事が来るまでのこのあいだだろう。と本気で思えてきた。
部屋の明かりはついているので、なかにだれかいることは確かなのだが、なかなか返事がない。
二度、三度と鳴らす。
四度目でようやくつながった。
『はい、平沢です』
「ちーっす、田井中です」
『ああ、律さん? 姉ならいますよ。どうぞあがって』
「どうも」 私は声をかけ、玄関のドアを開いた。
階段をのぼっていく。
ベン、ベンと、弦を弾く音が聞こえる。唯は自主練に夢中になっているようだ。
ドアを開いた。唯はまだこちらに気づいていない。さて、一発かましてやろうか。
壁を叩いた。コン、コンと硬い音が鳴った。
唯はこちらを振り返ろうともしない。少し、力を強めた。ゴツ、ゴツと鳴った。
さすがに気づいたようだ。唯の首が、ドアの方向にひねられた。
とっさに氏角に移動する。おそらくまだバレていない。
その後も壁を叩くことはやめないでいると、煮え切らなくなったのか、唯は演奏をやめ、
こちらに近寄ってきた。
二歩、三歩。……よし!
「わあぁーッ!!」 叫び声をあげながら、唯のふところに飛び込む。
「え!? はわ、わわわッ」
予期せずして私の体重をあずけられた唯は、そのまま仰向けに倒れこんだ。
「いったぁー。もう、りっちゃんてば。もうちょっと普通にはいってきてよぉ」
8: 2011/01/22(土) 14:32:51.93
「ははは、わりぃわりぃ」頭をかきながらわざとらしく謝る。
「それにしても、お前本当に気づかなかったのか?」
「当たり前だよ、演奏に夢中になってたから」唯は当然のようにいった。
「せっかくギー太くんとのランデヴーを楽しんでたっていうのに」
ランデヴー、ねぇ。
「ああ、そうなのか。水を差してしまったな」
とりあえずどこを突っこんでいいのかわからないので、当たり障りのない返事を返す。
「もう、ほんとに。これからいいところだったんだよ?」
「へぇ。じゃあ見ててやるから、続きでもやったらどうだ? 私はいっこうにかまわないぞ」
「りっちゃん、わかってないね。ランデヴーは、ふたりきりであればこそじゃないの。
他人に見せられるものじゃないよ」
「はあ。で、どんなことをするんだ?」
この質問が口から出た瞬間、取り消したくなった。わかりきっている。
演奏をするだけじゃないか。ギターの用途なんてそれだけじゃないか。だが唯は、
「え……いや、それはいえないよ…………」
と面白い反応を示してくれた。
「人にはいえないようなことをするのか? ギー太と?」
案の定、唯は答えなかった。顔を赤くしただけだった。
11: 2011/01/22(土) 14:38:50.61
「……りっちゃん」唯が低い声でいった。
怒りを買ってしまったのだろうか。だとしたら怖い。唯が切れているところを見たことがない。
なにがおこるかわからない。
「……とりあえず、私の上に乗るのやめて」
……ぷ。
現況。唯に会心の全力タックルをお見舞いしたあと、馬乗りになったままの状態でおしゃべりをしている。
「りっちゃんはやくどいて。重いから」
重い、だと。
「貴様、だれに向かってその口をたたいたァ! 軽音部きってのトップアイドル、
リツ・タイナカに体重の話をすることは許さん!」
「どうして? ……最近太った?」
「だまれ! お前に勘繰られる筋合いはないわ!」
へいへい図星ですようだ。少し泣いた。心の中で。
とりあえず唯から降りた。
これ以上乗りかかっていると、私の精神がズタズタにされてしまいそうだ。
12: 2011/01/22(土) 14:45:31.31
「で、りっちゃん」唯があらたまった調子でいった。
「今日は何しに来たの?」
別段理由などなかった。私は最近、唯の家に遊びに行く機会が増えた。
ただ、唯といっしょにいたいだけ。それに、唯と憂とのやりとりは、見ていて心が和む。
ここに来ることで、なんだか私も平沢家姉妹に入ったような気になれる。
今日はアポなしで押しかけたわけだが、もちろん、会わなければならない事情もない。
理由をつけろ、といわれても、答えようがない。
「いや、別に」
「ふーん」
「お姉ちゃん、律さん、お茶ですよー」
憂が部屋に入ってきた。両手に盆を抱え、そのうえにティーカップをふたつ乗せていた。
13: 2011/01/22(土) 14:50:54.41
「さんきゅー、うい」唯が猫のような声で応える。
どういたしまして、と小さく首を折り、杯をおろして、部屋を出ていった。
その去り際に私にひとこと、「ごゆっくり」と声をかけるあたり、さすがだといいたい。
「そうだ」 唐突にきりだす。
「憂の淹れるお茶を飲みにきたんだ、今日は」
憂の淹れる紅茶は本当にうまい。いつも通っている喫茶店のと比べても遜色ない。
「ふーん。私はどうでもいいんだね」
「ああ、この際いてもいなくてもいい」
「じゃあ、消えようかな。バイバイ、私ちょっと出かけてくる」
そういいつつも、冷ややかな視線を送り続けるのをやめてもらいたい。
「冗談だよ、冗談。第一、友人の家に茶だけ飲みに来るような奴なんて、迷惑にもほどがあるぜ」
「……りっちゃんならやりかねないよ」
な……、
「……けっこう傷ついた」
そこまで信用ないんですかね私。
そしてそのまま沈黙。なんで? なんでだまりこむの?
いい過ぎた、ゴメンのひとことぐらいあってもいいと思うんですけどね? いや、いってくれ。必然だ。
……
「これ、飲もっか」
私がいった。
15: 2011/01/22(土) 14:56:03.78
一口入れる。
うまい。商品として売り出されているものとはまたちがったうまさがある。
「やっぱり、これを飲みに来てるのかもしれない」
思わず口走った。
後頭部に硬いものがあたった。
「いててて……」
教科書のカドで殴られた。
「りっちゃんが悪いんだからね」唯はふふん、と鼻を鳴らしながらいった。
どうやら溜飲がさがったようだ。先ほどまであった、刺すような唯の目線はどこへやら、
それによって私の感じていた緊張感も消えうせた。
それにしても痛い。頭の血管が脈打つたび、ズキン、ズキンと重い痛みが走る。
しかし、今日の唯はどこかおかしいような気がしてならない。妙に気が立っているように感じる。
どうしたのだろう。なにか嫌なことでもあったか? などと考え、頭を抑えながら茶を飲み干した。
「りっちゃん、今日はいつまでここにいるつもり?」唯がたずねてきた。
16: 2011/01/22(土) 15:01:40.65
「さあ、どうしようか? ――あ、そうだ。今日は夕飯まえには帰るわ。
ちょっと用事があってな……」
澪に借りた雑誌の件だ。一応返す期限は明日までなのだが、もう読み終えたし、
早いうちに返してしまったほうがいい。いま、思い出したら、もう次はない。すぐに忘れて、
思い出すことはもうない。
私の頭は、あいにくそんないい加減な記憶能力しか持ちあわせていないのだ。
自分で言うのもおかしいかもしれないが。
「りっちゃん隊員、本日の平沢家の夕餉は、スキヤキでありますぞ?」
予定変更。
「即刻、争奪戦に馳せ向かわん」
このノリにも慣れたもんだ、と思う。同時に、ここへ来る前に、
家の冷蔵庫の中身をむさぼってきたことを後悔した。おかげでちっとも腹が減っていない。
「あせらない、あせらない」
と唯は時計を指さす。
六時を回ったところだった。
夕食までの間に、すこしは胃袋の空き容量も増えるだろう。
17: 2011/01/22(土) 15:06:34.95
「へへへ、りっちゃんといっしょにごはん~」
「別に今日にかぎったことじゃないだろ」
最近は、平沢家の夕食に邪魔することが多くなった。
もちろんはじめのうちは遠慮もしたさ。でも一月ほど前、ちょうど年末だな、
ここで軽音部クリスマス会と称した鍋パーティーをしたのを契機に、食事をいただきに来るようになった。
最近では、ほぼ三日に一回ほどのペースでお世話になっている。それほどここの飯はうまい。
もちろん、憂ちゃんの作る料理に限ったことをいっているんだぞ?
唯の料理はまるで地獄のようだ。
最近の体重増加、それに伴った体脂肪率の増加の元凶は、憂ちゃんの料理にちがいないのだが、
まあそんなことに文句をつけるほど、私も馬鹿じゃないさ。
六時二十分。時間が待ちどおしい。
18: 2011/01/22(土) 15:12:23.57
それから約四十分後、憂の「お姉ちゃん、ごはんできたよ~」という声を聞くまでのあいだは、
やたら長く感じた。唯もほとんど口を利かず、
ただ呆然と座っていたり、本棚に詰まった雑誌をパラパラと斜め読みしたりしていた。
空腹は人をここまで無口にさせるものか。
さすが人間の三大欲望のひとつだな、などと考え、私は脳を遊ばせてすごしていた。
唯とともに夕食に降りていく。ふたつのせわしない足音が、壁に反射してよく聞こえる。
まるで姉妹のようだった。
「まあまあそんなに慌てなくても。スキヤキは逃げないよ」
と憂がなだめる。その後私を見て、
「律さんも食べていくんですか?」
「え、ああ、ご馳走になるぜ」
「丁度よかった。久しぶりのスキヤキだから張りきっちゃって、材料買いこみすぎちゃったんですよ」
憂ははにかみながらいった。
19: 2011/01/22(土) 15:17:29.77
「だから遠慮しないで、お腹いっぱい食べてくださいね」
いわれなくてもそのつもりだ。
「あっ、でもすこしは遠慮してよね。私、スキヤキ以上においしい食べものを知らないから」
唯がつけ加えた。
「ふふ、お姉ちゃんったら。律さんはお客さんなのよ? 遠慮するのはこっちのほうだよ」
「いやいや、おかまいなく」
といっておいた。
三人でコタツを囲んだ。
「じゃあ、はじめましょうか」
憂はそういうと、ふちの盛り上がったホットプレートのスイッチをいれた。
「うい~、卵とって~」
「ああ、そうだったね。忘れてた」
と、憂は台所へ駈けていった。それを確認すると、唯はプレートに油をひき、肉を炒めはじめた。
「おい、なにしてんだ? スキヤキは、タレでぐつぐつやるもんだろ?」
すみに置いてあるスキヤキのタレを指さしながらいう。
「ふふふ、かわいそうなりっちゃん」
唯は不敵に笑った。
「お肉は煮る前にすこし炒めておくと、焦げ目がついておいしいんだよ」
白い目を向けられる。りっちゃん、人生の半分を損してるよ、とでもいいたげだ。
「スキヤキストのあいだでは常識だよ」
スキヤキスト? 聞きなれない言葉だ。
憂が帰ってきた。卵をパックごと持っている。私もひとつ、いただくことにした。
20: 2011/01/22(土) 15:21:43.09
「いっけ~! 野菜部隊、突撃~ッ!!」
どかどかと具を放り込む唯。
「お姉ちゃん落ちついて」
憂ちゃんの言葉に同意しようとしたが、唯はその前に、
「りっちゃん隊員、第二陣に出撃命令を!」
と。ここはノリを優先したい。
「うむ。第二陣、投下ぁ!」
えのきやら豆腐やら白滝やらをやたらめったらぶっ込む。
「ああダメだよりっちゃん」
唯が右手を差しだしてとめた。
「ん? なにかまずかったか?」
「白滝とお肉は離しておかなきゃ。お肉がかたくなっちゃうよ」
「そうですよ律さん」
憂ちゃんもうなずく。
ほう。そうなのか。
箸で白滝の位置をかえた。
料理について唯に教えられることになるとはな。
唯の料理評「地獄」は撤回してやろう。 「生ゴミ」だ。
21: 2011/01/22(土) 15:26:33.85
「さあ、そろそろいいかな。どうぞ、召し上がって」
憂ちゃんがいった。
「「いただきま~す」」
見事にハモッた。
「ふふっ、ふたりとも本当に仲がいいんだね」
憂ちゃんがほほえんだ。
「そりゃあそうさ、部長だもの。みんなと仲良くやってかないと」
「もうりっちゃん、なんで素直に『唯が好きだからだ』っていえないの?」
ご冗談を。
「男前すぎんだろ」
「えへへ」
唯はにべもないといった様子で――いや、食べることに集中したいのだろうか、黙ってスキヤキを箸でつつきはじめた。
私も唯にならって、目の前の料理に手をつける。
「……味薄い」
憂ちゃんはぼそっとつぶやいて、しょうゆを足した。
どうやら野菜を入れすぎたようだ。
22: 2011/01/22(土) 15:31:44.16
なにかがおかしい。
そうだ、会話がない。
みながみな、目の前の料理を平らげることに専念しているようだった。
七時二十五分。普段なら一時間半ほどかけ、
楽しくおしゃべりをしながらだらだらと食事を続けているところ、今回はもうすぐなくなりそうな勢いだ。
プレートが空になる。締めのうどんもやってしまった。
満腹になるまで食えなかった。となりに座っている唯とかいうのがほとんど食べてしまったぞ。
憂ちゃんのやつ、どこが「材料買いこみすぎちゃった」んだ?
ただボーっとしていた。コタツの温かさに、ダメだと思っていても眠気を覚える。
いや、もうこのまま眠ってしまってもいいかもしれない。本当に家でくつろいでいるような気持ちだった。
必要最低限の会話。日本人のだれもが習慣づいているだろう、食事のときに電気をつけたテレビの音声。
音という音はそれだけで、まるで私がひとり、自宅でくつろいでいるときのようだった。
もちろんこんなことははじめてだ。毎回夕食後にお披露目される、
平沢姉妹のゆるゆる漫才がないだけでも違和感を抱くというのに、きょうはテレビに映っている俳優の話すら持ちあがってこない。
異常だった。快活な姉妹を知ろうものなら、だれもがいぶかることはまちがいない。
もう帰りたい。だがこの場の固まりついた空気は、
私が立ちあがり、「さよなら」のひとことをかけることを許してくれない。
23: 2011/01/22(土) 15:36:31.85
唯の部屋ににおいてあった私の携帯の着信音が鳴った。
「あ、りっちゃんの携帯鳴ったよ」
唯もその音に気づいたようだ。
「ああ、ちょっと失礼」
と声をかけ、二階へあがっていく。ここから逃げ出す口実としては立派だ。
天の恵みのように思った。
あとワンコールのところで鳴りをひそめた。着信履歴を確認する。
『自宅』という登録名だった。送り返す。
『……もしもし姉ちゃん?』
聡だ。
「……人違いでは?」
鼻にかけない声で応える。
『アホ。早く帰ってこいよ』
24: 2011/01/22(土) 15:41:30.22
「聡くん、怒らないで聞いてくれ」
『なんだよ』
「冷蔵庫の中身はカラッポなんだ」
『さっき見たよ。だから電話してんじゃんか。なに食えばいいんだよ』
あー、と間をとりながら家の食料状況を考える。
「……すまんなにもない」
『外食決定ー! いえーい!』
「お前私の金使う気だろ」
『あたりまえ!』
きっと親指を突き立てているんだろう。まったく現金なやつだ。
とはいえ私にも非はある。
「せめてファミレス程度にとどめてくれよ。フレンチとか行ったらKILLだぞ」
わーってる、わーってるから、と適当な返事が返ってくる。
「じゃ、食って来い。まだまだ帰れそうにないわ。先に風呂も入っとけ」
『ああ、』
「それと、……ありがとな」
『ああ?』
「私を心配してくれたんだろ?」
『まあ、それもないことはないが……まあ、メシのほうが大事ってことで』
「はっはっは、てれるな弟よ。私も嬉しかったんだからさ」
いろんな意味で。
『……うぇ、きもちわりぃ』
「気持ち悪いとはなんだ、気持ち悪いとは!?」
――まあ、確かに私のガラじゃないかもしれないな。
27: 2011/01/22(土) 15:47:44.56
じゃあな、といったあと、受話器を下ろす音が聞こえた。
そうだ。私にも家族はあるんだ。かわいい弟がいる。
「律さん、どちらさまから?」
憂ちゃんが部屋に入ってきた。
「ああ、弟だ」
そうですかと、返事。
「なにしにきたんだ? ここは唯の部屋だぞ?」
「わかっています」
「じゃあ、なんだ? 唯はどこにいったんだ?」
「お姉ちゃんはお風呂に入りました」
「じゃあ……私?」
鋭いツッコミを所望する。
「律さん」
だが、憂ちゃんはしかとうなずく。そして真面目極まりない声でいった。
「ちょっと話したいことがあるんです」
29: 2011/01/22(土) 15:53:20.09
表情は真剣そのものだった。すこし怒りの色さえはらんでいるように見て取れるほどだ。
「そうか、わかった。が、その前にふたつお願いがある」
なんですか? と憂ちゃん。
「ここで話すのはやめよう。いつ、唯が帰ってくるかわからない」
わざわざ私に相談に乗ってもらおうとしているのだ。唯には話しづらいことなのだろう。
わざわざ聞かれたくない人間の部屋で話をせずともいい。
「……わかりました。ふたつ目は?」
「夕方、私に出してくれたお茶。あれをもう一杯淹れてくれ」
30: 2011/01/22(土) 15:59:16.58
――――――――
テーブル越しに向かい合った位置に座る。
手元にはティーカップ。今度のは、私が先ほどより多めの量を希望したので、
わりかし大きめのカップに、ちょっと重いと感じるぐらいに、朱色の液体が満ちている。
目の前には少女。普段の明るい彼女とは打って変わり、
テレビの音声すらもないこの部屋に居るひとりの人間であり、
彼女自身、この静けさに甘んじているようで、なかなか口を割ろうとはしない。
とりあえず茶をすする。
私はあまり緊張していないが、憂ちゃんの様子を見ていると、こちらまで喉がかわいてきてしまう。
嚥下する。その小さな音でさえ、部屋中に響き渡った。どこか恥ずかしい。
「憂ちゃん、そんなに固まらなくても」
と、私はその音をごまかそうとするのが半分、憂ちゃんに開口をうながすのが半分で、口を切った。
31: 2011/01/22(土) 16:05:29.64
はぃ、とちいさく答える憂ちゃん。
「さあ、さっさと話して、終わらせようぜ。健康に悪い」
この空気には慣れない。この先も慣れることはないだろう。
憂ちゃんは答えない。
「……それとも、私がいってやろうか?」
大体察しはついている。
「いえ」しかし憂ちゃんは、今度はしっかりと意思表示をした。
「……こんなこと、律さんにいっていいのかわかりません。自分でも、なにがいいたいのか、よくわかりません。
でも、律さんにはいっておきたかったので」
「おう、なんだ?」
努めて明るく言い放つ。この空気をなんとかしたい。
「お姉ちゃんは、律さんのことが好きなんですかね?」
32: 2011/01/22(土) 16:10:43.31
「……はは、」
「一人のお友達としてではなくて、平沢唯として、田井中律が好きなんですかね?」
なにをいってるんだか。だが答えなければならない。
彼女は答えを求めている。この人なら教えてくれそうだと思った人が私なのだ。
「……わからん」
ただ、本当にわからない。唯ではないからわからない。
「わからないけど、確かに最近は良く思ってるんじゃないか」
まるで他人事のようにいう。
34: 2011/01/22(土) 16:15:49.45
「では、」
憂はここでいったん切る。二、三十秒はかかる長いいったんだった。
「そんなお姉ちゃんを、律さんはどう思っているんですか?」
私はまた、茶をすすった。
「お姉ちゃんは律さんを家に呼ぶときは、かならず私に知らせてくれます。
でも今日は教えてくれなかった。それってつまり……その……」
そこでつまる。だがすぐに調子を取り戻して、
「律さんが、約束がなくても、うちに来る口実がなにもなくても、それでもお姉ちゃんに会いたかった、そういうことになりませんか?」
筋は通っている。しかもまったくまちがったことはいっていない。
「ああ、そうだ。私は唯に会いたくて仕方がなかった」
37: 2011/01/22(土) 16:21:45.83
もちろん憂ちゃんにもだ、といますぐ付け加えたいが、もう遅かった。
憂ちゃんは私がそう来ることを予測して、すでに次の言葉を考えてあったようだ。
「その感情ってなんですか? ある人と長い時間いっしょに、ふたりきりですごしたい。
前もって約束していたわけでもないのに」
それって、と憂ちゃん。
「好き、って感情なんじゃないですか?」
「……さあ? どうだろうな?」
どこ吹く風とばかりに答える。いえない。
「……律さん、」
「なあ、それを聞いてなにになるんだ?」
話題をそらす。私を見つめる憂ちゃんの目は少しも揺るがない。
38: 2011/01/22(土) 16:28:43.12
「やいてるんですよ」
「肉をか?」
「律さんがお姉ちゃんとくっついているのに」
視線が冷たくなる。さすがに憂ちゃんが相手でも、冗談が通じる場ではなかった。
「お姉ちゃんの目が、律さんの方ばかり向いているのが辛いんです」
まるで私のことなど忘れてしまったかのように。憂は悲しげにいった。
「不安で不安でどうしようもないんです。
お姉ちゃんは日に日にに律さんを家に呼ぶようになっていって
――それとともに私の居場所がなくなっていく気がして……。
私は昨日、お姉ちゃんに打ち明けてみました。
お姉ちゃん、私を忘れないで、って。でもお姉ちゃん、私を相手にしてくれません」
妹の真剣な話にもまるで上の空な唯。
残念なことに、私の脳内でその場面を想像することは容易にできてしまった。
39: 2011/01/22(土) 16:33:30.11
「――私がインターホンに出るまでのあいだ、結構な時間があったでしょ?」
「そうだったな」
肌が覚えている。寒かった。
「居留守を使おうと思ってたんです。お姉ちゃんは演奏に夢中で気づいていないだろうし」
「なるほど」
「きょうは家に来てほしくなかった。ひさびさにお姉ちゃんの大好物のスキヤキを作るんだし、ふたりで楽しみたかった」
それなのに、という接続詞は、かろうじて聞き取れるぐらいのちいさな声だった。
「律さんは来てしまった。正直、帰ってほしかった」
40: 2011/01/22(土) 16:37:46.33
「――でも、相談に乗ってくれるかなあって。鉄は熱いうちに打て、といいますよね。
もう、早くなんとかしたかったんです。だれかに、打ち明けたかった。
お姉ちゃんがまるで聞いてくれないなら、いっそ律さんに、と思って」
とんだ迷惑ですよね、と憂は苦笑した。
「よりによってヤキモチをやいてる相手に、相談するってのもへんな話ですよね」
まったくだ。憂ちゃんはいったいなにに敵意を抱いているのか。
「だんだん自分でもなにいってるのかわからなくなってきました」
「ああ、それがいい」
悩みができたときはとにかくめくら滅法に愚痴を垂れ流して、そして疲れて寝てしまうのがいい。
そうすれば全て忘れてしまえる。私だけだろうか。
41: 2011/01/22(土) 16:42:35.49
ただ。
ひとつだけいいたいことがあった。
「憂ちゃん、」
突然の呼びかけに、彼女はびくついた。
「お姉ちゃんは、憂ちゃんを忘れるようなことだけは絶対にしないよ」
どうして、という顔をされる。
「たとえどんなに他の人を好きになろうと、憂ちゃんにだけは
いつまでも変わらない愛情を注ぎ続けるはずだよ。
それが、家族じゃないか」
憂ちゃんはうつむいてしまった。泣いているのかどうかはわからない。
「……憂ちゃんから見て、お姉ちゃんはいま私に興味がない、と思うかもしれない。
相談にも乗ってくれないし、憂ちゃんのことなんてどうでもいいと思っているように感じるかもしれない」
42: 2011/01/22(土) 16:48:24.68
でもそんなことはない。
「唯が冗談でいったろ? 『もうりっちゃん、なんで素直に唯が好きだからだっていえないの?』
って。忘れたなんてことはないよな。
そのあと、唯はどうした? 黙りこんでしまったじゃないか。あれはまちがいなく、憂ちゃんに対する気配りだよ。
お姉ちゃんも、憂ちゃんが元気なくしてたのを知ってたんだよ。
私が勝手にあがってきて、お客さんの前では失礼はできないからって、
ふさぎこんでいたいところを自分に鞭打って頑張ってる憂ちゃんを知ってたんだよ」
姉として。
「憂ちゃんのことが気になって気になって仕方がないんだ」
43: 2011/01/22(土) 16:54:01.62
憂ちゃんは泣いていた。
私はその頭を、わしゃわしゃと兄貴のようにかき回した。いい香りがした。
「だからこそ、下手に動けなかったんだ。ヘマをして、憂ちゃんをさらに傷つけてしまうのが怖かったんだ。
……許してやってほしい。姉ってのはそういう生き物なんだ」
外では威張っているくせに、いざ兄弟姉妹になにかあったときには、なにもできない生き物なんだ。
「……それと、一番あやまらなきゃなのは私だな」
まちがいない。
「なにも知らないのは私だけだった。今日もしっかり、唯に確認を取っておくべきだった。
私は、平沢姉妹だけの時間を踏みにじってしまった。本当にすまない」
深々と頭を下げる。憂ちゃんはすぐにやめてください、と私の体を起こそうとした。
45: 2011/01/22(土) 17:00:43.25
「ううっ……ちがうよぉ……、わたしのせいだよぉ……」
そのとき、寝巻き姿の姉がはいってきた。
時計を見た。八時半をさしていた。ずいぶん長いあいだ話し込んでいたようだ。唯にしても、
ようやく風呂からあがってきた。十分な長風呂だ。
唯は泣きじゃくりながらいう。
「わたしが……憂の話を聞いてあげなかったから……
しかも、臆病で……憂に聞き返すこともできなかったから……
だから、だから……」
46: 2011/01/22(土) 17:06:48.15
「やめて、お姉ちゃんやめて……!」
「ごめんね……ごべんねういぃ~……」
いいながら唯は椅子に座ったままの憂ちゃんにうしろから抱きつく。
憂ちゃんは自分の服に鼻水がつくことなど気にせず、唯を迎えた。
「これからは……憂が悲しい思いをしないように、がんばるから……
わたしも、もっと強くなるから……
だから……だから許して、ういぃ~」
「いいんだよ……、お姉ちゃんはわるくないんだよ……」
そういいながら、憂ちゃんは姉の頭をわしゃわしゃとかき回した。
兄貴のように。
48: 2011/01/22(土) 17:12:08.23
――――――――
ごめんね、ごめんねと繰り返す唯。何度もなぐさめる憂ちゃん。
――そして、ただ憂ちゃんの向かいに座っているだけの私。
まるで私と、唯や憂ちゃんとは、血のつながった姉妹であるかのような錯覚は、
やはり錯覚でしかなかったんだと実感する。どうあっても私は部外者なのだ。
潮時だ、と思った。
「ふう、そろそろ帰るか」
「そうですか」
と、憂が答える。唯を振りほどいて。さすが公私がはっきりしている。
「じゃあそのまえに、ひとことだけいわせてください」
49: 2011/01/22(土) 17:19:25.34
「いやそのまえに、唯にひとつたずねたい」
「ああ、私も」
と、憂ちゃんも同意する。思うところは同じだろう。
「お前、いつから私たちの話、聞いてたんだ?」
と、ふたりを代表して私が訊いた。
「もちろん、はじめからだよ?」
……ははは、
「私は、りっちゃんのこと、だーいすきだよ」
はあ。
(こいつわかってないな)
机に身を乗りだして憂ちゃんに耳打つ。
(ですね)
と、憂ちゃんがため息をついた。
「どうしたの?」
「いやなんでもない」
もうツッコむのもしんどい。
「……じゃあ、私からひとこと」
51: 2011/01/22(土) 17:25:12.62
なぜか顔を紅くしている。
「きょ……今日はありがとう、律お姉ちゃん」
「……頑張ったな、オイ」
「な、なんですかそのいい方! こっちだって思いきったんですからね!」
「はは、すまんすまん。
――その、なんだ……かわいかったぞ」
照れくさい。
憂ちゃんも憂ちゃんで、うつむいてしまった。
「ねえりっちゃん、いま憂にかわいいっていった? かわいいって」
「ああいったぞかわいいものにかわいいといってなにがわるいんだ」
「りっちゃんもしかして、憂のこと……」
「ちげーよちげーよ」
手に持ったカップを一気にあおり、逃げるように家をでた。
憂ちゃんは固まったままで、私を追いにはこなかった。
帰り道、ずっと憂ちゃんの『お姉ちゃん』が頭から離れなかった。
おわり
53: 2011/01/22(土) 17:30:30.35
翌日
澪「律、このまえ雑誌貸しただろ? 期限今日までっていっておいたよな?」
律「……そういえばそんな約束、したような、してないような――」
澪「ごまかすな、バカ律!」ガシッ
律「おっかない顔してたら美人が台無しだぜ?」
澪「誰のせいだよ!」スパコーン
54: 2011/01/22(土) 17:30:59.25
乙!
でもタイトルで律憂かと思っちまった
でもタイトルで律憂かと思っちまった
57: 2011/01/22(土) 17:34:38.56
あとがき
結局唯憂なのか律憂なのかよくわからなくなってしまいましたw
読みにくい、と感じた方々、ごめんなさい。
改善できるようがんばります!
ああすき焼きうめぇ
おつかれさまでした。
引用元: 律「スキ」 憂「ヤキ」
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