2: 2011/01/05(水) 00:12:20.74
その日は、私達の初めてのライブだった。
各々大成功の余韻に浸って(一人例外は居たが)、部室で打ち上げ。
正式に放課後ティータイムが形を成した日。


「かんぱーいっ!」

グラスを打ち、ジュースを飲む。
いつもは私が紅茶を入れるのだけれど、さすがにティーカップで乾杯は出来ないようだ。

「皆の衆、お疲れさん! 部長として誇りに思いまっす!」

「そうだな……演奏は、大成功だったよな……」

「み、澪ちゃん、元気出して……」

澪ちゃんは今日のライブの退場時に転んでしまい、スカートの中を大勢の観客に見られてしまっていた。
まぁ、気持ちは分からないでもないか。

「澪ちゃん、失敗は誰でもあるわ。私だってよく転んだりするもの」

「ムギぃ……いやで、私……りかも……」

「だ、ダメだよ澪……ん、そん、言っちゃ……」

「そー……それにファンサー……とかどーよ? な、ムギ!」

ふと、耳に違和感。
そうだ、耳に水が入った時のような。

「? おーいムギー?」

「ご、ごめんなさい、上手く聞き取れなくて……」

3: 2011/01/05(水) 00:15:40.79
「ムギちゃん大丈夫?」

「うん、心配しないで、もう大丈夫だから」

「ライブの後だからか?」

確かに大音量を聞き続けていると耳鳴りが起こったりはする。
でも、ついさっき自らの身に起こった症状は、りっちゃんが言ったようなそれとは違って思えた。
その差は本当になんとなく、の範囲であって、確信が持てるものではなかったのだけれど。

「やっぱり疲れちゃったんだろうねー」

「そーだな、打ち上げも良いけど早めに切り上げるか。ほら澪、早く立ち直れよ?」

未だあうあう言い続ける澪ちゃんを宥めている。
その姿は親友と言うか、むしろ親子と言うか……

それにしても、さっきの耳の違和感は何だったのだろうか。
軽く頭を揺すってみるも、特に変化はない。
やっぱり気のせいか。

「ムギちゃん、私も片づけ手伝うよ!」

「おいおい、唯に手伝わせたら……」

失礼だけど、確かに。
とはいえ断るのもまた失礼で、食器がダメになってもまた新しい物を買えば良い。
唯ちゃんに手伝いを頼むことにした。

4: 2011/01/05(水) 00:18:33.38
「私が食器を洗うから、唯ちゃんはそれを拭いて、棚に戻してくれる?」

「らじゃ!」

びしっ、と言う擬音がピッタリな素早い動作で敬礼する唯ちゃん。
布巾を持ち、洗い終わった食器が私から渡されるのを今か今かと待っている。

「はい」

「いえっさー!」

本当に賑やかな子だ。
お皿を拭く度にあわあわ言いながら落としかけるし、一枚拭く度に食器棚に戻しに行くために、この上無く非効率的。
それでも楽しいし、手伝ってくれるのが嬉しかった。

またしても耳に違和感。これは何なのだろう。
しかも今回はそれだけでは終わらなかった。

「っ……?」

眩暈に襲われる。
思わず手に持つお皿を落としてしまった。

「ほらーだから言わんこっちゃない」

遠くからりっちゃんの声が聞こえてくる。
違う。唯ちゃんじゃなくて私だよ。そう言おうとしても、言葉が発せない。
眩暈のせいでそれどころじゃなかった。

5: 2011/01/05(水) 00:22:22.71
一体どうなっているのか。
これほどまでに強烈な眩暈は、今まで経験したことが無い。
平衡感覚が完全に崩れて流し台にしがみ付くも、その力すらすぐに出せなくなる。

「ムギちゃん……?」

いつの間にかすぐ隣に居た唯ちゃん。
心配を掛けまいと、咄嗟に「大丈夫」と言いそうになってしまうが、これは本当に辛い。

「ムギちゃん!しっかりして!」

そして何よりおかしかったのは、右側の耳が聞こえなくなっていることだった。
聞こえている左耳では、唯ちゃんの叫び声が突き刺さるように痛い。

「唯ストップ。ムギ、立てないか?」

りっちゃんの声がする。
何とか「無理」と返事をすると、その言葉と共に嘔吐しそうになった。
口を塞ぎ、辛うじて堪える。

「唯、長椅子までムギを運ぶぞ。澪、保健室行って先生呼んできて」

「わ、わかった!」

その指示を聞き、澪ちゃんは部室から出たようだ。
二人に支えられて眩暈に耐えながら長椅子まで辿り着く。

6: 2011/01/05(水) 00:25:43.64
「ムギ、喋れるか?」

「うん、なんとか……バケツ、あったら嬉しいけど」

「ある。出したくなったら言ってくれよ」

なんていうか……部長だ。
りっちゃんが本当に頼もしく思えてきた。

「ごめんね、りっちゃん……」

「なーに言ってんだ。それより、今どんな感じだ?」

しかしまるでりっちゃんは医者のようだ。さっきの素早い行動といい、この応答といい。
とはいえ、今の状況が何かおかしいことは分かっていた。
この強過ぎる眩暈と吐き気、そして両耳に起きている異常。

「眩暈が強い……あと、耳が聞こえない……」

「耳?」

眩暈のせいで顔を見ようとは出来ないが、りっちゃんの声が一気に強張った。
そして、立ち上がる気配と共に、指示を出す。

「すぐにムギを下まで連れて行くぞ」

「え、え?」

「早く」

りっちゃんの声が、いつもと違う。
その声に押されるように、体を二人に支えてもらいながら部室を出る。
私の左肩を支えてくれている唯ちゃんの体が震えているのがよく分かった。

7: 2011/01/05(水) 00:29:23.51
「変更。私達でムギを下まで連れてく。さわちゃんでも誰でも良いから車出してもらえるように頼んどいて」

歩く最中、澪ちゃんに電話を掛けるりっちゃん。
さすがにここまで来ると疑問が大きくなる。

「りっちゃん……?」

「何だ?あんまり無理して喋んなよ」

「これが何なのか、知ってるの……?」

「まだ分かんないよ」

あんまり話すのは良くない……のかな。
ぴしゃり、と短く一言で答えたりっちゃんに圧倒され、黙って階段を下りる。
なんとか一階まで降りると、山中先生が車を用意してくれていた。

「何があったの?」

「ムギの耳が聞こえなくなったんだよ。すぐに耳鼻科に連れて行って欲しい」

その声は、大人である山中先生よりよっぽど落ち着いて聞こえた。


車に乗り込み、背凭れに体を預ける。
そういえば、眩暈の方は楽になってきた気がする。或いはただの慣れだったのかもしれない。

「ちょっと、あなた達!?」

山中先生の声。
車が揺れた辺り、おそらく皆も車に乗ったのだろう。

「車の中で待つから、私達も乗せて」

「……分かったわ」

そして山中先生も運転席に着き、エンジンを掛けた。

8: 2011/01/05(水) 00:33:02.74
「……!……?」

「……」

どうも今度は耳の方が辛い。
山中先生の運転が特別荒いという訳ではないのだが、車の揺れる音やエンジンの音が耳の中で反射しているように感じる。
さらに唯ちゃん達の会話さえ耳が痛くなってしまう為、こうして塞いでいる。
このおかしな症状が怖く、しかも音を遮断してしまうことでより不安が圧し掛かってきてしまっていた。

と、どうやら目的地に着いたようだ。


「突発性難聴、と呼ばれる物です」

告げられた病名は聞いたことは無いけれど、難聴ぐらいは分かる。
聴力が低下し、補聴器を使用しなければならない。
これからの人生への大き過ぎる影響が脳裏を過ぎる。

「ふとした時にいきなり片側の耳が聞こえなくなる病気です。
 現状、明確な原因は不明と言われている難聴ですが、こうしてすぐに治療を受けにきたのは正解ですね。
 難聴は一刻も早い治療が大切ですから」

同伴の山中先生が話を聞いていてくれるだろうけど、私の方は正直頭に入らなかった。
自身の身に起きる現実と不安で一杯一杯だったのだ。

9: 2011/01/05(水) 00:35:46.22
ここでは設備が不十分、ということで大学病院を紹介してもらった。
重度の物らしく、入院も覚悟しておいたほうが良いらしい。
どうやらここからは大きな病院に行ってからの話になりそうだ。
ただ、一つだけ聞いておきたかった。

「……治るんでしょうか」

「発症は今日起きたばかり、それにあなたはまだ若いですから、十分に可能性はあります。
 しかし聴力が戻っても、眩暈や耳鳴りといった症状が残る患者さんも多い病気です……
 まずは、しばらく治療に専念する必要がありますね」

可能性はある、か。
正直なところ「治る」と断言してほしかった。


「ムギちゃん! どうだった!?」

車まで戻ると、唯ちゃんが身を乗り出して尋ねてくる。
その甲高い声に、思わず顔を顰めてしまった。

「ばか、唯、声を抑えて」

「ご、ごめん……」

「ううん、気にしないで。
 ……とりあえず、もっと大きな病院で診てもらうの」

「一旦学校に寄るから、あなた達三人はもう帰りなさいね」

確かに、長くなってしまいそうだから、それでいいと思った。

10: 2011/01/05(水) 00:38:10.08
「大丈夫だよさわちゃん、私達待ってるから」

「ダメよ」

「だってムギちゃんが心配だよ……」

唯ちゃんがこう言うだろう事は、想像しないでもなかったんだけど。
私は大丈夫だから、と声を掛けようとすると、またしてもりっちゃんの声が飛ぶ。

「唯、もうやめとこう。
 私達素人だから、病院に任せとくしかないだろ?
 私達は居なくてもいいし、結果は後で連絡してもらえば良いんだから」

私が言うのもなんだけど、正論だ。
原因不明、早期治療が大事、と言われている以上、何も起こさずただ専門家の知識に頼るしかない。
そして何より、皆にこれ以上迷惑は掛けられない。

「りっちゃん……さっきから変だよ……! ムギちゃんが心配じゃないの?」

「……心配に決まってるだろ」

まずい。
車内の空気が一気に重くなる。

「二人共、やめなさい。これ以上ムギちゃんを刺激しないで頂戴」

今まさに口を開こうとしたその時に出された山中先生の声によって、唯ちゃんも口を噤む。
車内は無言のまま、学校に到着。
車を降りる際にりっちゃんが、「ごめんなムギ、唯とはちゃんと話すから」と声を掛けてくれた。

11: 2011/01/05(水) 00:41:42.73
「ごめんなさいね、ムギちゃん。皆貴女の事を心配して、心に余裕が無いんだと思う」

大学病院へ向かう際、二人きりの車内で山中先生が優しく言う。
そんなことを言われると、りっちゃんも、先生も、二人共に謝られたのが申し訳無く思えてくる。
言葉が見つからず、ただ「気にしないでください」としか返事が出来なかった。

この状況でも他人の事ばかり考えてしまうのは、単なる現実逃避なのか。
相変わらず機能しない右耳、回る視界に止まない音の反響。
一瞬でもそちらに気を逸らしてしまうと、一気に不安に駆られ、目の奥がじわりと熱くなる。
皆の事が気掛かりでないなんてことはない。
ただ、他のことを考えていたかった。


不意に肩を叩かれ、飛び上がる。
その様子に驚いたのか、肩を叩いた張本人の先生は目を丸くしている。

「声、掛けたんだけど……耳大丈夫……?」

「大丈夫です、ちょっと考え事していて……」

「そう、着いたわよ」

見れば大きな病院だった。
周囲の風景に全くピンと来ない。どうやらそれなりに遠い所のようだ。
ここでなら、きちんと治療が受けられるのだろうか。

12: 2011/01/05(水) 00:44:51.79
静かな病室。腕にチューブを繋ぎ、点滴を受けていた。
最初に尋ねた耳鼻科の先生が言っていた通り、入院治療になるようだ。
どうやら初期症状が重かったらしい。

山中先生には帰ってもらった。
一週間か二週間程の休みを貰う、ということと、軽音部皆への連絡をお願いして。
軽音部といえば……さっきの唯ちゃんとりっちゃんのやり取りが、未だ頭を離れずにいた。
それと、何故りっちゃんは、あそこまで冷静に行動が出来たんだろうか。

医師からの説明によれば症状の重さに合わせて、点滴を行う入院治療か、内服の通院治療をするかに分かれる。
およそ一週間から二週間で治癒、あるいはそれの兆しが見られるらしい。
原因に関しては、主にウィルス説や内耳循環の障害、ストレス説が上がっている。
その両方を見た治療法を続けていくようだ。


消灯時間になった。
自分でも、よくここまで冷静に話を聞けたものだ、と思っていたけど、いざ布団に潜るとどうしようもなく不安に駆られる。
消えた電気と聞こえの悪い耳。まるで世界が失われたかのように感じられた。
それは大袈裟な喩かもしれないけど、暗闇では五感の内二つが失われてしまう。
周囲の情報をここまで感じ取れないなんて思わなかった。
今までの、聾者に対する考えがどれだけ他人事だったかを、私は思い知ることになる。

13: 2011/01/05(水) 00:48:33.28
翌日。携帯の画面とひたすら睨めっこ。
軽音部の皆にメールを送ろうと思ったのだが、その内容に悩んでいた。
入院について皆に説明してもらうように先生に頼んでいたけど、自分からも話しておきたい。
それと、りっちゃんと唯ちゃんのこともどう聞くべきか。

結局、メールは部長であるりっちゃんだけに。それに内容もまるで業務連絡のように堅苦しい。
まぁ……いいか、となあなあに送信ボタンを押す。
うひゃっ、と病室の前の廊下から奇声が上がる。
どこかで聞いたような声、と思ったら、またしてもどこかで聞いたような「病院では携帯を切れ!」という声。
りっちゃんと澪ちゃんだ。

「来てくれたのね」

廊下に声をかける。
すると照れくさそうに頬を掻くりっちゃんが顔を覗かせる。
その後ろには澪ちゃん……そして唯ちゃんも居てくれた。

「……」

黙ったままの三人。
何かと思っていると、りっちゃんがA4サイズのメモ帳を見せてきた。

『耳、大丈夫? 今、私達の声聞いても問題ない?』

確かに安静にしていないといけないのだが、さすがにそこまでの遮音は必要ない。

「問題無いわ。だけどあんまり大きくて高い音を出されると耳が痛むの」

「そっか、じゃあ気を付けろよ澪」

「それは私の台詞だよ」

「うるせー」

と、二人の後ろを見ると唯ちゃんは俯いている。
思えばさっきからこんな様子だ。

14: 2011/01/05(水) 00:50:47.18
「唯ちゃん、来てくれてありがとう」

「う、ううん……別に、当然だよ」

唯ちゃんは所々吃り、表情は浮かないままだった。
一体どうしたのだろうか。
何度も口を開いては閉じ、スカートの裾を握り締めた唯ちゃんは、終いにはしゃくり上げ始めてしまった。

「ごめ、ごめんなさい、ムギちゃん……!昨日は、迷惑掛けて……!」

「私も。ゴメン、ムギ」

「唯ちゃん、りっちゃん……いいのよ」

違う。そもそも昨日の事を私は迷惑だなんて思っていない。
ミラー越しに見えた二人の本気の表情。私をただ心配していてくれた。
そのことを喜びこそすれ、疎むなどあるはずがない。

「嬉しかったの、心配してくれて。だからありがとう」

「こっちこそありがとな……それで、どうなんだ? 突発性難聴だったんだろ?」

りっちゃんの口から出た病名は、私のそれと同じだ。
話しただろうか、少なくとも私にその記憶は無い。
あるいは山中先生からか。

「なんでそれを?」

「聞いた訳じゃないよ、ただ何となくそうかなーって」

15: 2011/01/05(水) 00:53:51.57
「なんとなく、って……」

……まるで誤魔化すような言い方をする。
するとりっちゃんは、いやいや、と顔の前で手を振って言った。

「私な、親戚に突発性難聴を発症した人が居てさ。
 だから昨日はあんだけ有無を言わさず、ってなっちゃったんだよ。
 昨日のムギと、聞いてた話が同じだったからそうなのかもなーって」

だからあんなにてきぱき行動していたのか。
昨日から疑問だったのだが、いざ聞いてみるとなんてことないものだった。

「そうだったの。ありがとう、りっちゃん」

りっちゃんはよせやい、と顔を赤くしてそっぽを向いた。
周囲への気配りがちゃんと出来て、それでいてお礼を言われると照れくさい、だろうか。
一度も見たことのないそんな一面が、とても可愛らしく見えた。

それからしばらく皆と話していた。が、もうそろそろ夕食の時間だ。
時計をちらちら見る私に気付いたのか、またしてもりっちゃんが一番に鞄を手に取る。

「あんまり長居するのも良くないから、そろそろ帰るな」

「ええ、今日はわざわざありがとう」

「ムギちゃん、またね」

病院での夕食は夕方6時から。
確かに入院生活は退屈で、こうして皆が来てくれるのは嬉しい。
しかし学校帰りに来るとなると、この病院が学校から離れているのもあり、あまり時間が取れないのだ。

こんな僅かな時間の為に来てくれる事が、皆の負担になっている気がしてならなかった。

16: 2011/01/05(水) 00:59:15.46
それから一週間が経ち、再検査。
これで聴力が戻っている傾向にあるならば、ここから快復まで薬の量を減らしていくらしい。
受けた検査はお馴染みのヘッドフォンをつけてのものだったのだが、どうも医師の表情が良くない。
そしてそれは私も同じだった。
聞こえない右耳はそのままに、左耳までもが以前より聞こえにくくなっているような気がしていたからだ。

「……検査の結果は良くありません。
 やはり、初期症状が重かったと思われます」

「それじゃあ、私の耳は……」

「まだ諦めてはいけません。
 他の治療法もありますので、そちらへの移行を行いましょう」

確か早期治療が大切だと言っていなかったか?
その他の治療法も駄目だったら、また別の?
そんな悠長な事を言っていられるのか。こんなことじゃ、一ヶ月なんてあっと言う間に過ぎてしまう。

医師は、新しい方法を持ってくる。
思い詰めるな、とはいつも言われるが、どうやって落ち着けというのか。
長くても2週間の入院のつもりだったのに。
検査をする度に芳しくない経過を聞かされ、治らないかも、という不安に幾度も駆られ。
他の病院に何度セカンドオピニオンを求めても結果は同じで。
そもそもこの病気は、タチが悪過ぎる。
ストレスを感じてはいけないのに、ストレスを感じさせられてしまうなんて。
もっとも、ストレス云々は全病気に言えることではあるんだけれど、
この病気で失うのは聴力だ。これからの人生に与えるダメージがあまりに大き過ぎる。

一ヶ月が過ぎ、私は退院した。
無論、完治したからではなかった。

24: 2011/01/06(木) 22:40:07.52
斉藤の運転する車に乗せられ、学校へと向かう。
一ヶ月ぶりの学校ではあるが、気は全く進まなかった。
何せ、今日は授業を受けに来たのでは無いのだから。

医師の話では、「現代医学では、現状固定、あるいは失聴」という結果だった。
実質「もう無理です」と言っているようなもの。医者である以上、そのような言葉は言ってほしくなかった。
その後様々な治療を試してきたが、結果は全てダメだった。
聞く話では治療の為にもっと長い時間をかけ、闘い続ける患者もいるそうだ。
それなのに僅か一ヶ月。
たったそれだけの期間で、私の中では諦めの感情が強く芽生え始めてしまっていたのだ。
我ながら、なんとも情けない話だ。

校長室へと向かう。思えば入室するのは初めてだ。
行われた話は当然、私の耳のこと。この学校に居られるかどうか。
自分の事でありながら居た堪れなくなりそうだったが、学校側の回答は、最大限のサポートをさせて頂きます、とのことだった。

「しかし、これからの難聴の進行があり、仮に聴力を失ってしまった場合。
 生徒達の協力が必要不可欠となります。
 もし理解者が少なければ……」

その時は……学校を去る、か。

まだ一年も居たことのない学校で得た、かけがえの無い友達。
失いたくなかった。
それとも、いかにも私の事を理解してくれそうな彼女達を手放す事が惜しいだけなのか。

25: 2011/01/06(木) 22:44:38.85
軽音部室前。
皆にも、顔を見せなければならない。
治療に専念する為に面会拒絶になっていて、皆と会うのは久しぶりだった。
会いたい。でも皆は今の私を知ってどう思うだろうか。
扉をノックする。
中から辛うじて聞こえた覇気の無い返事を受け、震える手で扉を開けた。

「ム、ムギちゃんっ!!!」

椅子が倒れるのも御構い無しに唯ちゃんが、こちらに走ってくる。
そして、思いっきり私に抱き着いた。

「治ったんだね……良かったよぉ……!」

「……ううん。違うの」

ほえ、と唯ちゃんが私のお腹に埋めた顔を上げる。
あぁもう、こんなに鼻水垂らして。

「今日はね、皆に大切な話があるの」

部室の中にはりっちゃんと澪ちゃんも居た。
そして山中先生も居るとは好都合。
お茶会が中心になってしまっているとはいえ、名前は軽音楽部だ。
その中に耳の聞こえない私が所属してしまっていること。
それを皆はどう思うのか、聞いておかなくてはならない。

26: 2011/01/06(木) 22:50:21.51
「まずは……長い間入院してて、迷惑掛けてごめんなさい。
 お菓子も持ってこれなかったわ。
 ……それでね、私の耳はこれからどうなるのか分からないの。
 今右耳が聞こえなくて、左耳は聞こえにくくて……近い内に補聴器も使う予定よ。
 お医者様は、『今のままか、左耳も聞こえなくなるか』って言ってた。
 今の医学じゃ、治療法がもう分からないんだって」

とんでもないことを言っているのに、妙に落ち着いて話せた。
唯ちゃんと澪ちゃんは、もう涙を零してしまっている。

「私は最悪の事を考えて、これから手話と読話の練習をしようと思うの。
 あ、読話っていうのは、相手の口の動きで言葉を読む事ね?
 それに耳が聞こえなくなったら、発話……喋る事の訓練も受けないといけない。
 なにより、耳が聞こえない私が、音楽なんてきっと出来ない……」

「もう、やめてくれよムギ……なんでそんな事言うんだよ……」

澪ちゃんの気持ちも分かる。
でも私は、ちゃんと病気の事を受け止めて、現実を見なくちゃいけない。
逃げてなんかいられない。

「病院で言われたんだろ!? 今のままかもしれないって……
 もし今のままだったら、そんな練習、しなくてもいいじゃないか……!」

「でも、もし耳が聞こえなくなったら、コミュニケーションの方法がほとんど無いまま、放り出されることになるわ。
 とてもじゃないけど、そんな状態じゃ生活が難しいの。
 現実を見なさい、澪ちゃん」

山中先生が澪ちゃんの言葉を遮る。

27: 2011/01/06(木) 22:54:20.05
「皆の為に、軽音部に名前は置いておくね。廃部になっちゃうから。
 でも、もう部活にはほとんど参加出来ないと思う。
 だから今日はその挨拶に来たの」

周りの雰囲気は沈んでしまっていた。
私の話はこれで終わり。
最後の最後に、皆にお茶でも淹れてあげようかな。
席を立とうとすると、りっちゃんが私を呼び止めた。

「ムギ、ちょっと待った」

「なぁに?」

「読める?」

と、りっちゃんはいきなり胸の前で手を動かし始める。
その動きは、まるで手話のようだった。

「えっと……」

「……『最悪のこと考えて』ってことはわざわざ高い金払って勉強するつもりじゃないよな?」

確かにそうだけど……りっちゃんの言いたい事が分からない。

「私の親戚に居るって言っただろ? 私だってちょっと、単語をちょっとだけだけど知ってるんだよ。
 だからここに居て一緒に勉強すれば良いじゃん。
 読話だって私達と話している間に意識してればある程度身に付くと思う」

つまり……軽音部の皆に勉強を強いろ、と言いたいらしい。
そんなことをする意味が無い。
私一人が読話を身に付けさえすれば、皆との会話に問題はほぼ無くなるのだから。

もっとも私が在学中に習得が出来るかどうかも疑問だけど。

28: 2011/01/06(木) 23:00:01.76
「やる……私もやるよりっちゃん……!」

「良い案だよ律……!」

何で唯ちゃんと澪ちゃんはやる気を出しているんだ。
私と居ても苦労が増えるだけなのに。

「あなた達、そんなに軽々しく決めないで頂戴」

「でもさーさわちゃん。私達はいつも英語を勉強してるだろ?
 つまり第二言語の習得なんて今更ってことだよ」

言ってることが滅茶苦茶だ。
皆は私と、障がい者と居ることを避けようとしない。
むしろ向こうから歩み寄ろうとしてくれるのは何故だろう。
普通は遠慮や気遣いがあるだろうに。

「……皆、ありがとう。
 でもいいの。私なんかの為に、皆が苦労することなんてない」

「何が『なんか』だ。いいからここに居ろって」

何なんだ。

「大丈夫だよ、何とかなる」

人の話を聞いてよ。

「ムギに居なくなられることこそ困るんだ」

……その一言に、頭に血が上る。

29: 2011/01/06(木) 23:06:57.42
思わず椅子から立ち上がる。

「……本当にただの我儘じゃない……!」

対してりっちゃんも立ち上がる。

「我儘で結構」

「開き直らないで……!」

「うるせーこのやろー! 逃げようとしたら無理矢理連れてきてやるからな!」

感情の昂りに合わせ、互いのボリュームも上がる。
耳はギンギン響いて、頭もフラフラしていると言うのに。

「ムギは……どう思ってるんだよ……
 さっきから耳が悪いからやめる、って……それなら少しは残念がって言えっての……
 ここに居たくないのかよ……!」

一筋。りっちゃんの頬を涙が伝った。
弱弱しい声に一気に顔から熱が引く。
足に力が入らなくなり、そのまま椅子にぺたんと座り込む。

「ムギちゃん。正直に言えばいいのよ?
 想い合ってる者同士、互いに歩み寄っても良いじゃない?」

「……さわちゃん、反対派じゃねーの」

「失礼ね。そんなわけないじゃない。少なくともりっちゃんとは同じ気持ちよ」

「私もムギちゃんともっと一緒に居たい! 放課後ティータイムはこの四人じゃなきゃやだよ!」

「勿論私もだぞ。ムギの為に頑張りたい」

みんなみんな我儘だ。
揃って私の決意を壊そうとして、私の考えを台無しにして。

かつて他人の身勝手をこんなに嬉しく思った時があっただろうか。
涙が止まらない。
こんな私を、障がい者をここまで想ってくれる。
私一人で行くはずの道で、手を繋いでくれる人がこんなに居てくれるんだ。

「……ありがとう……」

30: 2011/01/06(木) 23:12:24.21
そして今。唯ちゃんと澪ちゃんに飛びつかれ、離してもらえそうにない。
この二人はいつまで泣き続けるつもりだろう。

「ムギ、わりーな。耳大丈夫か?」

「大丈夫じゃないわ。だから責任取って一緒に手話勉強してね?」

「だから最初からそのつもりだったよ」

妙に紅潮した顔でりっちゃんは言う。
と、ふと疑問に思った事を聞いてみた。

「そういえばりっちゃん、さっき手話で私に何て言ったの?」

「ムギのおおばかやろー」

こちらが読めないのをいい事に好き放題言ってくれる。
というか、本人曰く『ちょっとだけ知ってる単語』によくそんな言葉が含まれていたものだ。
……りっちゃんらしいと言えばらしいけど。

「……そう」

「まーまー。そんなに怒るなってムギ」

怒ってない。
りっちゃんのために怒るなどあってなるものか。
そっぽを向いた私に、りっちゃんのちょっかいが収まることはなかった。

31: 2011/01/06(木) 23:16:21.96
翌日。一か月ぶりの登校だ。
朝のホームルームで、私の耳について先生から皆へ、簡単な説明がされる。
クラスメイトの反応は様々でりっちゃん達のような子も居れば、あからさまに私を避ける子も居た。
私の事はあっと言う間に学年に広まったようで、廊下を歩けば周囲のひそひそ話が一々目につく。
気にならないと言えば嘘になるが、りっちゃん達がいつも傍に居てくれるお陰で、捻くれることは無かった。


「とりあえず家の者に資料を集めてもらったんだけど……」

放課後。軽音部室にて。
持ってきた手話関連の本を机の上に並べる。
それを見て早くも目を背ける唯ちゃん。

「こ、これは分厚い……!」

「分厚いのは当たり前だろ。手話は一つの言語なんだからな」

澪ちゃんの言う通り。
一応『初心者に優しい手話』『今日から始める手話』など、簡単そうな本から持ってきたのだけれど。
それでもやっぱり苦労することになると思う。

「ここは部長であるりっちゃん隊長に指示を仰ぎたいと思います!」

「部長だか隊長だかどっちだよ……
 まぁとりあえず指文字を完璧に覚えることからじゃないか?
 これさえ覚えたら、時間はかかっても会話が成立するわけだし。
 単語はその後にするかねー」

「な、なるほど……!」

さすがりっちゃん。
全員異議無し、ということで勉強が始まった。
……これじゃまるで、軽音部じゃなくて手話部だ。

32: 2011/01/06(木) 23:21:41.09
「もう駄目だぁ~……お茶にしようよ~……」

唯ちゃんが一番早く音を上げる。
そのままぺにゃっ、と机に突っ伏してしまった。
そういえばまだお菓子を何も出していない。

「皆、そろそろ休憩にしましょ?」

「ありがとう。さすがに頭に糖分が足りなくなる所だったよ」

澪ちゃんも目頭を押さえ、本を閉じた。

ティーセットを取り出しに食器棚へ向かう。
すると、埃が積もっているのに気が付いた。
これはまず洗わなければ、そう思って先に皆のカップを取り出そうとすると、りっちゃんの腕が後ろから伸びてきた。

「わり、洗うの手伝うよ」

聞こえにくいだけであってまだ大丈夫なのだが、もし完全に聞こえなくなっていたら……
今のりっちゃんのように、まず私の視界に入るように行動してくれるのは助かる。
実際、りっちゃんが近付いてくる足音に気付けなかったし、突然声を掛けられたら恐らく驚くだろう。

「ありがとう、りっちゃん」

「敬いたまえよ?」

正直な話。りっちゃんが凄過ぎて引け目を感じます。
普段の様子と、この気遣い上手な一面のギャップがもう。

33: 2011/01/06(木) 23:24:15.96
「もっとちゃんとティーセットも綺麗にしとかなきゃいけなかったな」

「埃積もってたものね……」

まずティーセットを洗うところから始まる。
皆を待たせる事になるけど、仕方ない。

「やっぱり、ティータイムはムギが居ないと駄目だったんだよなぁ。
 で、一ヶ月も使わないからこんなことに」

「そうね、食器洗いも本当に久しぶり」

戻ってきてくれて良かったなぁ、とりっちゃんは大袈裟なリアクションと共に言う。
普通なら何てこと無い会話も、昨日の私の行動から考えたら軽視出来るものじゃなかった。
不意に口から言葉が零れてしまう。

「……ごめんなさい」

「謝んなよ、ムギ。戻ってきてくれてありがとな」

私は黙って頷いて、後は食器洗いに専念した。
言葉が見つからなかったのと、お菓子を楽しみにする唯ちゃんのオーラに押されたからである。


「はい、お待たせ」

「はぁぁ~……やっぱりこれだよねぇ~……」

すっかり蕩けた顔でケーキを口にひょいひょい運ぶ。
やっぱり、皆大変な思いで勉強してるんだ。

34: 2011/01/06(木) 23:27:36.52
「ムギ、どれくらい覚えられた?」

澪ちゃんから声を掛けられる。
やっぱりそういう話が出てきちゃうか。

「えっと、とりあえず15文字ぐらい……」

「ムギちゃん凄いねー、私あ行だけだよ?」

……さすが、唯ちゃん。
でも、確かにこれは覚えるのに時間が掛かりそうだ。
このままのペースで進めるのを含め、忘れないようにもしていたら。
やはりそうそう上手くはいかない。

「指文字ってさ、例えば50音のローマ字表記みたいな、行の共通性があんまり無いよな。
 だから覚えるのも一苦労だよ」

母音のような物がない、ということか。

「澪はどれくらい覚えたんだ?」

「……律から言ってくれたら答える」

「私は30……35ぐらいかな。いざ使ってみると結構頭から抜けちゃってるんだよ」

りっちゃん、やる。
普段よく何かを忘れたりするし、お世辞にも賢いとは言えない彼女が、予想以上だった。
……いけない。最近失礼な事ばかり考えるようになってる。

「りっちゃん隊長! やってみてください!」

「や、やだよ恥ずかしいし」

またも珍しい。りっちゃんから恥ずかしいなど。
率先して前に出るし、唯ちゃんと二人でよく悪ふざけをするのに。

「りっちゃん、私からもお願い」

りっちゃんはぐぬ、と息を詰まらせると半ばヤケクソのように応えてくれた。

35: 2011/01/06(木) 23:30:28.99
「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ……」

その動きは、曖昧な習得をした人がやるそれではなかった。
手がスムーズに動き、迷いも無い。
ま行まで終えて席に着くりっちゃんに、拍手が送られる。

「すごいよりっちゃん!」

唯ちゃんからの賛辞に、照れくさそうに答えるりっちゃん。
以前から使えた手話がどれぐらいあったのかは分からないが、本当にすごいと思った。
部長に対抗心を覚えたのか、その後唯ちゃんが思った以上の健闘を見せることになる。


そんなこんなで軽音部としての活動そっちのけで(元よりらしいことはあまりしていなかったが)、私達は勉強を続けた。
特に私の場合、一ヶ月分の授業遅れもあり、毎日のように脳を酷使する破目になった。
それでも頑張れたのは、周りに居てくれる皆のお陰。
2週間も経つ頃には全員が指文字をマスターし、単語の方まで手を伸ばしていた。

そして、私の聴力低下がより顕著に表れ始めたのもほぼ同時期だ。

40: 2011/01/08(土) 22:41:28.78
斉藤に送られ、校門前に降りる。
この日に限って送ってもらった理由は、初めて補聴器を着けて外に出るからだ。
正直何か危険があるとは思えなかったが、斉藤の凄みに圧倒されてしまった。

こんな早い時間に登校したのは、先生への報告が必要だからだ。
おかげで誰も居ない廊下を、職員室に向かって歩くことになる。


「失礼します」

職員室に入り、中を見渡すと山中先生を見つけた。
書類か何かと睨めっこしている先生の元へと向かう。
しかし、妙な気分だ。
まだ補聴器に慣れた訳ではないので、その存在はどうしても意識の中にある。
まるでヘッドフォンで音楽を聴きながら職員室を歩いているように感じられた。

「あら、琴吹さん。おはよう」

「おはようございます、先生。お話があるんですけど、時間、大丈夫ですか?」

先生はちらり、と時計を見ると、手に持つ書類を机の上に裏返した。

「もうすぐ職員会議があるの。長くなりそう?」

「いいえ、すぐ済みますから」

髪を掻き上げ、補聴器を取り外す。
そしてそれを先生に見せた。

「今日から、補聴器を使うことになりました。
 もっとも、いつか要らなくなるものですが……」

「そう……あ、もう着けてもいいわよ」

まだ補聴器無しでも問題は無いのだが。
ただ人に対しては聞き返すことが多くなる。
その事を手間に感じたり、鬱陶しがったりする人はきっといるだろう。

41: 2011/01/08(土) 22:44:22.41
「分かったわ。他の先生方にも知らせておくわね」

「ありがとうございます。話はそれだけですので、失礼しますね」

頭を下げ、速足で職員室を出る。
いけない。今のは少しぶっきらぼうになってしまったかもしれない。
どうも最近イライラしがちだ。
人が少ない校舎故に、歩く音が廊下に響く。
朝日が差し込み不思議な雰囲気を醸し出す校舎に、趣を感じることは決してなく。


「おはよームギちゃん」

「おはよう、唯ちゃん」

軽く手話を交え、挨拶をする。
こうやって日常会話に手話を入れていくことで、体に染み込ませようとしていた。
手話も英語と同じで、それを用いて会話する相手が居れば、上達の速度は飛躍的なものとなる。
もっともその代償として、クラスメイト達と私の距離はより一層遠ざかってしまった。
やはり手話は異質なのか、手話を用いて会話する私達の中には入っていけないようだ。
それは手話が出来るかどうか、ではなく、心の距離感の問題だと思う。

「……ムギちゃん、それって」

気付いたみたい。

「うん、補聴器よ。もうこれが必要な所まで聴力が落ちたみたいなの」

「……っ!」

と、唯ちゃんがいきなり抱き着いてきた。
一瞬驚いてしまったが、その震える肩を見て、頭を優しく撫でてあげる。

「それじゃ、ムギぢゃん……もう……」

必要無いのに、本当に私の為によく泣いてくれる子だ。

42: 2011/01/08(土) 22:48:05.38
「大丈夫よ、唯ちゃん。私は大丈夫。もし駄目でも唯ちゃん達が助けてくれてるもの。
 だから私は、ちゃんと頑張れるの」

ほんとに、と私に涙目で上目遣い。
思わず抱きしめ返してあげたくなったが、堪える。
誤魔化すように頬をむにっ、と摘んで軽く引っ張ってあげた。

「もう、そんなに泣かないで」

貴女に悲しんでほしくない。自らの顔に笑顔を貼り付ける。
私の体から離れ、目をぐしぐし擦る。

「な、泣いてないもん」

「……ありがとう、唯ちゃん」

何もしてない、とそっぽを向かれてしまう。
やっぱり唯ちゃんとりっちゃんはどことなく似ていた。



「桜ヶ丘高校の教師として、皆に大切な話があるの」

その日の放課後。山中先生が、ひどく真面目な顔をして言った。
さすがに皆も茶化したりはしない。

「琴吹さんの耳について、ね。
 もう、お医者様も言ってらしたの?」

「はい。いつかは聞こえなくなります」

あっさり。
何故、ここまで簡単に言えるのか。自分のことなのに分からない。
逃げているのか、諦めているのか、受け止めているのか。
現実を聞いて反応する皆は、私よりもショックを受けているようにも見える。
そんな皆を置いて、先生は話を続けた。

43: 2011/01/08(土) 22:50:45.83
「もし琴吹さんの聴力が失われれば……普通校に通うのは厳しいわ。
 聾学校に行くことも場合によってはあるの。
 でも、学校長の理解もあるし、何より琴吹さん自身がこの学校に居ることを望んでいるの。
 あなた達と、別れたくないって」

そんなことを言っただろうか。
本心だけど、それを言った憶えは無い。
すると目が合った。先生は小さく微笑む。
その顔には私への気遣い、分かり切った感情を代弁してくれる先生の優しさがあった。

「その時に何より必要なのがクラスメイト達の理解と助け。
 助けというのは、具体的には学業面でのものね」

そう、耳が聞こえないということは、学生の本分である授業を受けることがまともに出来ない。
先生だって一言一句黒板に書く訳じゃないし、黒板の方を向くことで読話も出来ない。
そこで必要なのが……

「要約筆記奉仕員と呼ばれる人達よ。
 先生の言った事を分かり易く、それを例えば授業ノートやパソコンにまとめて、それを失聴者にリアルタイムで見せる。
 ノートテイカ―とも呼ばれるわね」

「そ、それなら私がやりますっ」

澪ちゃんが身を乗り出す。

「秋山さん。
 これは『友達に授業のノートを見せる』というのとは訳が違うわよ。
 ノートに丸写しするだけの速記とは違って、他人に分かり易くノートに取らないといけない。
 本来なら資格が必要な、れっきとした仕事なの。
 あなたを介しての『通訳』がもし機能しなかったら、どうするの? 
 大袈裟に言えば、琴吹さんの人生を預かっているようなものなのよ?」

少し言い方が過ぎるのではないか。
押し付けられるプレッシャーに、すっかり澪ちゃんの表情は沈んでしまった。

44: 2011/01/08(土) 22:55:41.85
「私がやるよ」

今度はりっちゃんが名乗りを挙げた。

「……あまり言いたくはないけど、田井中さん。
 あなたはあまり授業の成績が良くないわよね。
 とてもじゃないけど、そこまでの余裕は無いはずよ」

思わず席から立ち上がる。
何故今そんなことを言うのか。
さっきの澪ちゃんの時といい、人の心を抉って……

「先生……そんな言い方、酷いです……
 澪ちゃんもりっちゃんも、私を助けてくれようとしてるじゃないですか……」

「いーんだよムギ」

けろりと言うりっちゃんに、思わず大声で「よくない」と叫んでしまいそうになる。
が、りっちゃんの顔には今の部室の空気に全く似合わない表情があった。
その表情に此方の力が抜けてしまう。

「さわちゃん。だったらそれまでに成績上げれば良いんだろ?
 それに分かり易くノートをまとめる仕事なんだから、やればむしろ賢くなれると思うんだよね。
 第一そんな脅し入れなくても、ちゃんと覚悟はしてる。責任も私が負うよ」

りっちゃんの反論を聞いた先生はあっと言う間に表情を解き、どかっと背凭れに体を預けた。

「やっぱりあなたには見透かされるわよねー……
 酷いこと言ってごめんなさいね。澪ちゃんも」

……先生は試していたのか。

45: 2011/01/08(土) 23:00:46.04
いけない、思わず涙が出そうになる。

「先生、ごめんなさい……」

「いいのよ。ここの教師である以上は……表向きだけでも言わなくちゃいけないことだもの」

今までの先生への認識を少し改めよう。
ありがとうございました、先生。
となると後は……

「律……大丈夫か?」

「何とかなるだろな。その時までの勉強は、お駄賃としてムギに教えてもらうか」

もちろん、と即答。
私の補助を請け負わせた。私はそれに対して報酬を払わなければならない。
「そんなの要らないよ」と返されることを想像していた私にとっては、りっちゃんのように遠慮無しに、それでいて気を遣った提案は嬉しいものだった。

「さわちゃんサンキュー。汚れ役ご苦労さんっ」

「慣れないことやったから喉がカラカラよー……ムギちゃん紅茶をー……」

いけない、最初はとてもそんな雰囲気じゃなかったから出していなかった。
その後の軽音部は明るく、これから問題なんてまるで何もないような、そんな雰囲気だった。

46: 2011/01/08(土) 23:07:07.29
下校時間になり、下駄箱に向かう。

「りっちゃんばっかり格好つけてずるいよぉ……」

「しょうがないだろ、第一唯はクラスが違うし、授業中の手助けはさすがに無理だよ」

「ぶー」

「そう拗ねるなって」

唯ちゃんとりっちゃんがつつき合っている。
そんな二人を眺めていると、澪ちゃんの口から言葉がぽつりと零れた。

「ごめん、ムギ……」

「どうしたの? 澪ちゃん」

澪ちゃんは私から顔を背け一言ずつ、ゆっくりと話し始めた。

「山中先生から色々言われて……それでも私がやる、って言えなかった……
 ちゃんと覚悟は出来てるって、言えなかったんだ……
 結局、律とムギだけに押し付ける形になって……」

遂には足が止まってしまう。
澪ちゃんの無念の言葉。
でも私は「酷い人」なんて思えない。澪ちゃんが謝る必要は無い。
震える手を両手で包む。

「ごめ、ムギ……一番辛いのはムギ、なのに……!」

「いいの。耳の聞こえは、もう変えられるものじゃないわ。
 それに澪ちゃんは私の為に泣いてくれた。もう十分嬉しいの」

澪ちゃんの頭にこつん、と額を当てる。
それで逆にスイッチが入ったのか、澪ちゃんはしばらく泣き続けたままだった。

47: 2011/01/08(土) 23:12:26.45
玄関を出て、校門に差し掛かる。
すると見知った車が止まっているのが見えた。
斉藤が迎えに来てくれたようだ。

「皆、ごめんね。迎えが来てくれてるみたいだから、ここで」

本当は皆と帰り道も話していたかったのだが、斉藤を帰らせるのも悪いと思った。

「そっか。またなームギ」

「ばいばいムギちゃん」

手を振って皆と別れた。
鞄を担ぎ直して、車へと歩き出す。
その途中、私は言い様のない不安に駆られた。
背中からぞわぞわと這い上がってくる不快な何か。
体が震え、歯をカチカチ鳴らし、こめかみを汗が伝う。
斉藤がこちらを伺っているのが分かる。斉藤が車を降りる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
鞄をその場に落とし、もうすぐ見えなくなりそうな皆の後ろ姿を全力で追いかけた。

「ん? ムギ、っておわぁ!」

りっちゃんに思い切りしがみ付く。

「りっちゃん……りっちゃん……!」

「どーしたんだよ、ムギ?」

怖い。学校であんな話をしたせいだ。
さっきのような何気ない別れの挨拶。
もし今日の夜に聴力を失ってしまったら、あれが私の記憶に残る最後の言葉になってしまう。
そんなのは嫌だった。
特別に皆が意識しなくてもいい。ただ私が常に皆の言葉をしっかりと脳に詰め込んでいたい。
でなければ、私は耳が聞こえなくなってから皆の声が聴きたくなってしまうはず。
皆に縋り付きたくなってしまうんだ。

48: 2011/01/08(土) 23:17:49.68
「なんだったら、毎晩ムギと電話しようか?
 モーニングコールをしてもいい。
 そんなすぐに聞こえなくなったりはしないんだ。だから大丈夫だよ、ムギ」

しがみ付いたままぽつりぽつりと自分の気持ちを話すと、りっちゃんは優しく頭を撫でて言ってくれた。
今日はずっと一緒に居ようか、とまで言われたけど、さすがにそこまで頼む訳にはいかない。
涙を拭い、りっちゃんから離れた。

「……ありがとう、りっちゃん。
 ちょっと、急に不安になってしまったの……」

「もう大丈夫か?」

自身の頬を両手で引っ叩き、拳を胸の前でぐっと握る。
皆も安心してくれたみたいだ。

「じゃ、またな」

「ムギ、また明日」

「ばいばいムギちゃん」

皆ははっきりと、私に届くように挨拶をしてくれた。
鼻を啜り、「また明日!」と大きく声を出す。
私は皆が見えなくなるまで、ぶんぶん手を振り続けた。

49: 2011/01/08(土) 23:24:09.98
携帯の振動が着信を告げる。
皆と別れた後、車に揺られてぼーっとしていた私は、軽く目を擦りディスプレイを確認。
唯ちゃんからだ。

「……もしもし」

……返事がない。何かあったのだろうか。ディスプレイを見ても通話中のままだ。
と、そこまで考えてようやく気付いた。
右耳に当てて聞こえるわけがない。
あれから電話を使うのは初めてとはいえ、何をやっているのか、私は。
軽く息を吐いて、左耳に当てる。

『ムギちゃん! 大丈夫!?』

「……大丈夫よ」

『びっくりしちゃったよ~……』

驚くのも無理ないか。
つい先ほどの事。あんな事があってその帰り道に耳が聞こえなくなった、なんて笑えない。

「ごめんなさい。それで、どうしたの?」

『えっとねぇ、ムギちゃん、もう家に着いちゃった?』

というわけでもない。
まだ道のりの半分も行っていないのではないか。

「ううん、今はまだ車よ。どうしたの?」

『夜はりっちゃんが電話するみたいだから、とりあえずその前に私が電話してみました!』

「そうなんだ、わざわざありがとう、唯ちゃん」

そういう思いつきの行動、実に唯ちゃんらしい。

50: 2011/01/08(土) 23:27:47.75
『気にしないで。それで、何を話そうかなって思ったんだけど、どうすればいいかな?』

考えてないんかーい、とちょっと憧れていたツッコミを心の中で入れる。
唯ちゃんは本当に楽しませてくれる。

「そうねぇ……明日はお菓子どんなものが良い?」

『ちょうど考えていたのがあるよ! カステラ! その次の日は大福でどう!?』

カステラ、大福。っと。メモにペンを走らせる。

「うん、探しておくね。もし無かったらまた連絡を入れるから」

「ありがとねぇムギちゃん……次の話題は?」

笑みが零れる。本当にこの子は……
少し考えて五秒。浮かんで出た話題は至って普通の物ばかり。
それでも時間を忘れて会話を楽しむ事が出来た。

「もうすぐ家に着くから……」

「そっか。分かりましたー」

結局、唯ちゃんの脳を蕩けさせるような声質に、笑顔が絶えることはなかった。

「また明日ね。ムギちゃん」

「……うん、また明日」

耳に強く当てて、しっかりと聞く。
虚しいツー音を聞いても、心は重たくならない。
携帯を鞄に仕舞い込み座席に体を預け、運転席に声を掛ける。

「斉藤。遠回りしてくれてありがとう」

「はて、何のことか分かりかねますが……?」

多分、斉藤はこれからも恍け続ける気がする。

その日から、私は今まで以上に力を入れて皆の声を聴くようにした。
本当に全部残すつもりで。全部刻み込むつもりで。

54: 2011/01/14(金) 20:42:54.95
冬休み前。
この頃になると私達は、語彙に乏しくはあるものの日常会話に於いてはある程度可能なくらいに手話を習得した。
本当に、皆が私の為に頑張ってくれたおかげだ。
それに合わせるかのように聴力は落ちていき、もう細かくは聞こえない。
こういうことを口にするといつも唯ちゃんに怒られるのだが、聴力を失う覚悟は出来ている。

皆には内緒なのだが、私は町の手話教室に参加しており、色々な方と話す機会が増えている。
その中で聞く話では、『徐々に耳が聞こえなくなっていくことへの不安が大きく、荒れた時期があった』という人も多かった。
それでも私がこうしていられるのは、やっぱり皆のおかげだ。
怖くはあっても、絶対に受け止める。


「軽音……やろう?」

そんな提案が出来たのも、私が変わったからか。
皆が敢えて触れようとしなかったこと。
それは今軽音部が軽音部でないこと。

「軽音の為にある軽音部だから、ね?
 ほら、武道館を目指さないと……」

「そうだけどさ。ムギは良いのか?」

「私はもう十分。助けてくれて本当に感謝してるの。
 今度は私が皆にお返しをしたい。
 演奏だって、頑張れば出来るかもしれない。何回も練習して体に覚え込ませたらきっと大丈夫。
 もし出来なくても作曲を頑張るから。ほら、ベートーヴェンだってそうだったじゃない?」

皆の黙ったまま。
ひょっとして私が無理をしていると思われているのだろうか。
あまりの沈黙に喉が詰まりそうになる。

「……私の耳に気を遣わなくてもいいの。
 今、もう会話に問題は無いから、元の軽音部に戻れるのよ?
 りっちゃんも、澪ちゃんも、唯ちゃんも……好きだった軽音をもう一回やり直せるから……」

ようやく、りっちゃんが顔を上げ、言った。


55: 2011/01/14(金) 20:47:58.95
「ありがとな、ムギ。
 ただ、やるからには皆が良い。
 私達はお返しが欲しくてやったんじゃないから」

「だからムギちゃんも、私達にお礼とか言わなくてもいいよ。
 私も皆が居て放課後ティータイムだって思ってる。
 一緒に頑張ろ!」

お返し……確かに義務感はあったのかもしれない。
私のせいで皆の部活動の時間を使わせたのは確かだったのだから。
それでも私を放課後ティータイムの一員として認めてくれている。
だったら精一杯頑張って皆とライブを成功させることが、きっと恩返しになるんだろう。


全員が楽器を準備し、演奏態勢を取る。
久しく触っていなかった鍵盤。
指を乗せて押し込むと、音が鳴らない……違う。聞こえないんだ。
正確に言えば聞こえているのだが『何か音が鳴っている』だけであって、聞き取れてはいない。
音量を上げるライブ時なら多少はマシになるかもしれないけど。

りっちゃんがスティックを打ち鳴らし、それに合わせて演奏スタート。
手は自然に動いてくれる。演奏自体に問題は無い……と思うのだけど。
自分がミス無く演奏出来ているかがいまひとつ分からない。
皆とリズムが合っているのかがいまひとつ分からない。
すると、澪ちゃんの手が視界に入る。

「ご、ごめんなさい……やっぱり、演奏出来てなかった……?」

澪ちゃんは大慌てで手を振る。

「そうじゃなくて……唯が……」

「……え?」

唯ちゃんの首がギギギと回り、変な汗をダラダラ垂らした顔でこちらを見る。

「……忘れちゃった……」

今のは手話が無くても読めた。


56: 2011/01/14(金) 20:49:30.08
やはり久しぶりということもあって、皆の調子は宜しくない。
一先ず、私達は別々に練習をすることにした。
唯ちゃんは澪ちゃんに教えてもらい、私とりっちゃんはリズムキープ。
特に問題は無さそうなのだけど、やはり聞こえないのは辛い。
物言わぬメトロノームを一人で相手にするのが苦痛になり、堪らずりっちゃんに助けを求めようとする。

りっちゃんはヘッドフォンを着け、鞄をバスバスとひたすら打ち続けていた。
その表情は真剣そのもの。最近りっちゃんによく見られる顔だった。
話しかけることが出来ず立ち竦んでいると、りっちゃんが気付いたのか、目が合う。

「どうした、ムギ?」

「見てもらいたいな、って思ったんだけど……邪魔しそうで声をかけ辛くて……」

りっちゃんはヘッドフォンを外し、ドラムの前に構える。

「澪ー、ちょっと音出すぞー」

澪ちゃんは簡易手話で「OK」と短く返事をした。
横に座って頭を抱えている唯ちゃんを見る限り、授業は難航しているようだった。


「よく考えたら、ムギは自分がどんな演奏してるか、聞こえないんだもんな。
 ごめん。気付かなくて」

「気にしないで。私も、こんなに不安だなんて最初は思わなかったから……」

ドラムスティックが打ち鳴らされる。
それに自身のリズムを乗せ、鍵盤に指を走らせる。
ちらりと見たりっちゃんの表情からは何も感じ取れず、不安に襲われてしまう。
あらぬ方向に指が滑り、叩き間違い。そこで慌ててしまい一気に崩れた。
ミスを連発し、そちらを意識するあまりリズムも合わなくなってしまう。


57: 2011/01/14(金) 20:52:03.67
まだ始まったばかりなのに、それ以上鍵盤に触れられない。
あまりの情けなさに堪えられなくなり、指を止めてしまった。腕は力無く垂れ下がる。

なんてザマだろう。私から言いだしたことじゃないか。
だけどどうしようもなく怖い。
こんな状態でライブ?そんなの想像もしたくない。
きっと間違える。でも私は間違いに気付かない。観客がそれを聴いて会場は嘲笑の渦。
野次が飛び、りっちゃん達を巻き込んで、それなのに私は――

俯いた視線の端にりっちゃんの足が映る。
あぁ、きっと怒ってる。近い。殴られでもするのだろうか。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

しかし、りっちゃんは私の手に触れ、視界に入ろうとその場に膝をつく。

その優しい瞳が、動く唇が、包み込んでくれる手が、『大丈夫だよ』と伝えてくれた。
そのまま、立ち上がったりっちゃんに抱きしめられる。
耳元に感じる吐息。私を安心させるために何かを喋っていてくれるんだろう。
でももう私は分からない。せめてもう少し聞こえていた頃にして欲しかったな。

不意にりっちゃんが離れる。

「頑張れるか?」

「……うん」


自宅に帰ってからも練習を続けた。
とりあえず徹底的に弾き続け、ミスとリズムの狂いを無くす。
その後、他の人に聞いてもらい調整する。
正直、ここ最近の流れで脳の容量はもう一杯一杯だったのだが。


58: 2011/01/14(金) 20:53:42.91
「ムギ、何をお願いしたんだ?」

「ライブが成功して、新入部員が一杯入ってくれますように、って」

りっちゃんは頑張ろ、と短く答え、澪ちゃんの元へ。

時は流れお正月。練習の息抜きに、皆で初詣。
外に出る機会自体あまり無く、こうして友達と来る事がまた新鮮味があって良い。
お賽銭も少々奮発し、強く、軽音部の事をお願いした。

それと同様の事を絵馬に書く。
おみくじの結果も良かったし、これだけお願いすれば少しは効力があるだろう。
と、何か難しい顔をして絵馬を見る唯ちゃんが見えた。

「唯ちゃん、何書いたの?」

唯ちゃんははっとしたように絵馬を体の後ろに隠す。
あまり良くないことをした、と思い頭を下げる。

「ごめんね、唯ちゃん。あんまり願い事は他人に見せる物じゃないものね」

唯ちゃんは困った顔で居る。
後ろを向こうとすると、肩を掴んで止められる。

「謝るのはこっちだよ、ムギちゃん。
 ……気分を悪くしたら、ごめんね」

差し出された絵馬には、『ムギちゃんの耳が治りますように』と書かれていた。

「ムギちゃん……ごめんなさい……」

どう声を掛ければいいのか分からない。


59: 2011/01/14(金) 20:55:43.23
震える唇で、何とか言葉を吐き出す。

「私は……もう耳が聞こえなくなることを覚悟しているし、その時の為に色々やっているの。
 だから、その……そういう事を書かれるのは、ちょっと辛い……から」

その言葉を聞き、唯ちゃんは強く絵馬を握りしめる。

「で、でも!
 でも……嬉しい。唯ちゃんが私の事、考えていてくれて嬉しい……
 だから、本当にありがとう。唯ちゃん」

何と言えば良いのか分からず、ただ本心を吐き出しただけ。
唯ちゃんは唇をきゅっと結んだまま、流れる涙にも構わずただその場に立っていた。
彼女は、私の言葉をどう受け止めたのか。

「どうした?」

澪ちゃんとりっちゃんが間に入る。
すると唯ちゃんははっとしたように涙を拭い、二人に説明を始めた。
手話を使わず、口の動きを隠すように顔の前で手を振る唯ちゃんが、二人に何と言ったのだろう。
モヤモヤ感は晴れず、はしたなくも屋台の物を食べ歩きいて気を紛らわせた。


「それじゃ、また新学期にね」

三学期までの約一週間を、私は学業に回すことにしていた。
私の学力が落ちてしまうと、私は桜ヶ丘に居られなくなり、りっちゃんは責任を問われる。
ノートテイクを引き受けてくれた彼女の為に、頑張らなくては。

「……またね、ムギちゃん」

車に乗り込み、唯ちゃんと手話を交わす。
結局最後まで気まずい雰囲気は無くならず、唯ちゃんが最後に見せた表情についても問う事が出来なかった。


63: 2011/01/17(月) 06:49:16.77
違和感はすぐだった。
朝、ベッドから起き上がると、異様に静かな部屋。
布団を跳ね除けるも、衣擦れの音すらしない。
慌てて補聴器のボリュームを上げる。上げる。が、それでも変わらない。

涙が流れているのか、視界がどんどん歪んでいく。
歯を喰いしばり、体の震えを止めようとも意味は無かった。
覚悟していたはずなのに、これから頑張って生きていこうと思っていたのに。
そもそも重要な器官を一つ失うなんてこと、想像でしか語れない。私なんて口だけの人間だったんだ。
不安にあっさり押し潰された私は、ただ泣き叫ぶことしか出来なかった。
自分の声さえ分からない状態。悲痛な声は誰かに届いているのだろうか。まるで一人で水底に沈んでいるような感覚だった。


声を聞いて部屋に入ってきた者達を全員拒絶し、ベッドに倒れ込む。
叫ぶだけ叫んだせいで喉は痛む。何度も掻き毟った頭はひりひりする。顔に付着した血は破れた頭皮か、或いは剥がれた爪か。
それでもなお残った爪を顔に突き立て、この悪夢を覚まそうとする。
結局、涙と血液と吐瀉物で汚れたベッドから強制的に引き摺り出されるまで、私の自傷は止まらなかった。


『お目覚めですか』

「……迷惑を掛けたわ」

気を失ったのか、気が付けば別室の綺麗なベッドに移動していた。

周りからすれば迷惑な話だが、一通り発散したことで多少冷静に考えることが出来た。
以前のような音の内容が理解出来ない、というものではなく、音を完全に拾えなくなっている。
補聴器の最大ボリュームでも効果が無かった。
ついでと言ってはなんだが、先程の一悶着のおかげか体中包帯が巻かれている。
爪が剥がれた指がこの上なく痛い。さすがに丸々一枚剥がれたとなると違う。

64: 2011/01/17(月) 06:51:37.28
『何があったのですか?』

至極尤もな問いだ。
他の人ならばいかれでもしたかと思うところだろうけど、私の場合なら大体の事情は向こうも察していてくれるだろう。

「耳が聞こえなくなったの……」

机の上に置かれている薬が目に入る。
恐らくは精神安定の類だろう。突発性難聴を発症してすぐの頃を思い出す。
それを飲み、布団を被る。

「もう少し一人にさせてくれる? 大丈夫よ、もう暴れたりはしないから」

失礼します、と手伝いの者は部屋を出て行った。
以外にあっさりと出てくれたものだ。
一人になりたいのは確かだったし、物分りが良いのは助かる。

当然そんな簡単に眠れるはずはない。
目を閉じれば浮かんでくるのは、これまでに聞いてきたいろんな人の声。
全部が全部、私に残るその人の最後の声だった。
だけど、嫌になってすぐに思い出す事をやめた。
「もう少し話をしておけば良かった」という後悔が、思い出に一つ残らずくっ付いてくるから。

思考を止めるために睡眠をとり続けた冬休み。
着信を告げる携帯電話のランプにも気付くことがないまま、新学期の開始は、私の逃避を待たずにやってくる。

65: 2011/01/17(月) 06:54:45.33
新学期。
斉藤の運転する車に揺られ学校へ向かう。
今日は朝から少々耳鳴りがする。
聞こえなくなったらなったで、このくぐもった感じも一緒に消えてしまえば良かったのに。
と、いきなり信号でもないのに車が止まる。

「斉藤、どうしたの?」

『あちらは、お嬢様のご学友では?』

ちなみに私の隣に居るのはもう一人のお付の者。手話の心得があるとかで、私の通訳を買って出ている。

「……行くわ」

本当ならば、まだ皆と顔を合わせる心構えが出来ていなかった。
けど、斉藤の気遣いだ。仕方ない。
そもそも目立つ車故に皆の視線はこちらに集中している。時既に遅し。
皆の所へ向かおうとすると、二人はわざわざ車を降りて私に頭を下げていた。
……大切な「紬お嬢様」をよく任せる気になったものだ。


「おはよう、ムギ」

「皆、おはよう」

「今日はお手伝いさんも車に乗ってたんだな」

……だから何故そういう細かいことに気付くのか。
そうね、とあくまで些細なことのように短く答えると、会話はスムーズに別の方向へ流れた。

66: 2011/01/17(月) 06:57:27.83

こうして皆と歩いていると、思うことがある。

私は、どうやって演奏すればいいのだろう。
聴力を完全に失ってしまった今、何が楽しくて軽音をやるのだろう。
私が居ることで、新入生が入部を躊躇ったりしないだろうか。

今まで軽音部の皆と頑張ってきたのは、これからも軽音部に居続けられるからだ。
皆が「良い」と言ってくれて、私もそれが嬉しかったからだ。

「ムギ、なんでメール返してくれなかったんだ?」

気付けばりっちゃんが私の顔を覗き込んでいた。
皆にもう話してもいいのか考えるが、結局その勇気は出なかった。
それに恐らく気付かれることはないだろう。
用事が、とその時は誤魔化した。

始業式はこの上なく退屈だ。
校長先生の有難いお話は当然聞こえず、無音の時間を過ごすことになる。
普通なら誰かに通訳を頼まなくてはならないのだろうが、全く興味が湧かない内容をわざわざ訳してもらう訳にもいかなかった。
隣に座るりっちゃんの手が『何か話そうか?』と動くがお断りしておいた。
失聴者のサポートを考慮して、事ある毎にりっちゃんか澪ちゃんと隣同士の席になる。
この耳を使って得をするのは出来るだけ遠慮したいし、周りの生徒もあまり良い思いはしないだろう。
授業も席をくっ付けて受けているのだから。


部活では演奏練習に励む。
元より皆はスランプがあっただけなので、すぐに演奏できるようになったけど、問題は私だ。
もう何回も繰り返すしかない。

「ムギ、そこちょっとズレが大きくなってるな」

本日一緒に練習することになった澪ちゃんから指摘を受ける。
主に精神面の問題が理由なんだけど。

67: 2011/01/17(月) 07:00:01.28
正直に言って、演奏している実感が湧かない。
何か分からない内に終わり、自分では全く分からない所を指摘され。
きっと皆で合わせてみてもこうなるんだろう。

「山中先生だ」

と澪ちゃんが言う。
扉の方を見ると山中先生が腕をぶらぶらさせて入ってきた。

『練習頑張ってるね、そろそろ休憩したら?』

先生は手話は使えない。
私もまだ読話を習得していないため、こうして誰かに通訳してもらう。
さすがに私も疲れた為、休憩することにした。

休憩中。
山中先生が小さな紙に何かを書いて渡してきた。

『ご家族の方から聞いたんだけど、
 皆に、完全に耳が聞こえなくなったことを話した?』

文字を素早く読んで、隣から見られないように紙を握り潰した。
そして黙って首を横に振る。

「どうしたんだよさわちゃん」

山中先生は手を振る。何でもない、だろうか。
何を白々しいことを。皆に聞かれないようにわざわざ紙に書いた時点で怪しまれるに決まっているじゃないか。

68: 2011/01/17(月) 07:02:41.86
「私の両耳ね、完全に聞こえなくなったの。
 お医者様ももう無理だって言ってた」

私が言い出さない限り、山中先生が話すことはしないだろう。
あのまま放っておいたら喧嘩が始まりそうだった。
淡々と告げる私。と、視界に唯ちゃんの姿が入る。ただ無表情だった。

「でも私達がやることは変わらないだろ?
 学校、やめちゃわないよな?」

心配がるのも無理はない。
ほとんど聞こえていなかったものを改めて言い直しているのだから。
失聴を伝える事が、そもそもの意味を持っていない。

「それは無いわ。
 ただ、もう後ろから呼ばれても何の反応も出来ないことは、分かっておいて欲しいの」

「りょーかい。こっちも気を付けるよ」

りっちゃんは相変わらずの調子だ。
これ以上このことについて話すのはあまり良い気がしない。
少々強引かとも思ったが、別の話題にすり替える。
皆も私の気持ちを汲んでくれたのか、特に何も言わずにいてくれた。

69: 2011/01/17(月) 07:05:00.52
「ムギ、そろそろ切り上げようか」

時計を見ると、もう完全下校時刻が近い。

「ありがとう、澪ちゃん。練習見てくれて」

澪ちゃんはどういたしまして、とにこやかに答える。
最初の頃は顔を赤くして照れていたのに。
皆には感謝してもし切れない。多少の耐性は付いてもらわないと大変だろうから、これで良いのだけれど。

食器を片付け下校の準備をしていると、後ろから肩を叩かれる。
振り向いた先には、唯ちゃんが俯いたままで立っていた。

『この後、ちょっと部室に残ってもらっていいかな』

震える手がそう言っている。
何か変だ、そう思った私はその申し出を受けることにした。


りっちゃんと澪ちゃんはもう鞄を担ぎ帰宅態勢に入っている。

「ムギ、帰んないのか?」

「りっちゃん。私、ちょっとムギちゃんと話したい事があるから先に帰っていいよ」

「……分かった。もうすぐ完全下校だから気を付けろよ」

さて、唯ちゃんの話だけど……何だろう。

70: 2011/01/17(月) 07:07:01.61
「まず、謝らせて……。 ごめんなさい」

と、唯ちゃんは二人きりになるなり深く頭を下げた。
突拍子もない展開に焦る。

「やっぱり、私のせいかな……
 初詣の時、あんなことお願いしたから……」

「唯ちゃん。それは違うの。誰のせいでもないわ」

つい言い聞かせるような口調になってしまう。
それにしても、唯ちゃんは以前から少々卑屈に考え過ぎだ。
思えば、彼女の笑顔を最近見ていない気がする。

「聴力はずっと落ち続けていたんだし、そろそろかなって私も思っていたの。
 本当に、唯ちゃんは何も悪いことはしていないのよ?」

「ムギちゃん言った……その願い事はイヤだって……」

確かに、言ったけども。

「私は手話を覚えるのも遅かったし、クラスが違うから授業の手伝いも出来ない。
 ムギちゃんの役に立ったことが、あったかなって……
 迷惑な事が多かったんじゃない……?」

そんなことがあるものか。
唯ちゃんが居てくれて嬉しかった事の方がよっぽど多いのに。
例えば今こうして会話出来ていること自体が、彼女の努力のおかげだ。
その努力がどれだけ大変なものだったのかなんて考えなくても分かる。

「私は、唯ちゃんと友達で良かったと思っているの。
 迷惑なことなんて何もなかったわ」

だから、これ以上自身の責を作らないで欲しい。

71: 2011/01/17(月) 07:10:36.83
「でも……でも、私は何も出来なくて……」

どうやらまだ言うつもりらしい。
謝罪も賠償も懺悔も要らない。そんな行為に何の嬉しさも感じない。

「私は唯ちゃんのことが大好きよ?
 だから、これ以上大切な唯ちゃんの悪口を言わないで」

びくり、と唯ちゃんの肩が震える。

「質問に答えるとね? 私は唯ちゃんに感謝しているし、何も出来ない奴だとか、迷惑だとかは一度も感じたことがないの。
 そうやって卑下することこそ私に対して失礼だ、って分かって」

「……!」

拳を強く握り、俯いてしまった。
鼻をすする唯ちゃんに気付き、慌てて言葉を繋げる。

「ち、違うの。責めてる訳じゃないのよ?
 ただ、お願いだからそんなに自分を苦しめないで欲しいの……!
 私はこれからも唯ちゃんと友達で居たいから」

『ありがとう』

一言。唯ちゃんの手が言葉を紡ぐ。
ふとりっちゃんがしてくれた事を思い出す。
確か、優しく手を包みこんでくれていた。
強張ってぶるぶる震える唯ちゃんの拳に、そっと手を添える。

「ありがとう、唯ちゃん……」

そのまま強く抱き着いてくる唯ちゃん。鳴り響く完全下校のチャイム。
急ぐ事を諦めた私は、唯ちゃんの頭を優しく撫でつつ、澪ちゃんといい唯ちゃんといい女の子を泣かせてばっかりだなぁ、とそんなことを考えていた。

72: 2011/01/17(月) 07:13:41.55
「唯ちゃん、もう落ち着いた?」

唯ちゃんは照れくさそうに、礼の言葉を述べる。
目は真っ赤で少し腫れているみたいだけど、多分今日中に治まるだろう。
りっちゃんと澪ちゃんに気付かれることは恐らく無い。

「来年は、同じクラスになれるように先生達にお願いしてみるよ」

「そうね……事情が事情だし、もしかしたら聞いてくれるかもしれないわ」

ノートテイクは集中力が要るものだから、一般的には二人一組で障がい者の補助に回る。
今はりっちゃんと澪ちゃんが二人で見ていてくれるけど、それでも二人は休み無しで助けていてくれる。
そういえば一度、澪ちゃんが高熱を出しながらも「ムギの為に」と登校してきた時は大騒ぎだったっけ。
授業中に倒れて、あの時は本当に申し訳ない気持ちになった。
人数が増えることで、各負担は減るだろう。

「よし、早速行ってきます!」

「唯ちゃん、もう完全下校過ぎてるわ」

ダッシュの体勢のまま、ぴたりと停止する唯ちゃん。
気持ちは分かるけど、それはさすがに先生に怒られてしまう。
出来るだけ教師陣は味方につけておきたいので、明日にした方が賢明だ。

「帰りましょう?」

「うん!」

笑顔。

73: 2011/01/17(月) 07:15:53.31
唯ちゃんの笑顔がもう一度見たかった。
それは間違いない。
あの一件からどこか心に引っかかっていたものが解けたんだ。
だから唯ちゃんの笑顔は嬉しい。

そういえば……人間は一つの器官を失うと、他の器官がその部分を補う為に進化するように作られているらしい。
例えば目の見えない人は周囲の情報を出来るだけ強く感じ取る為に、耳、鼻、指先の感覚がより敏感になるとか。
指先での点字の読み取りは、晴眼者には難しいと聞いたこともあったような。

それと似たような物かどうかは分からないが、とにかく、今の唯ちゃんの笑顔に心臓が高鳴るのを感じた。
ようやく見られた事の嬉しさを、目からの情報を大切にする私の脳がより強くしたのか。

「ムギちゃん?」

何を難しいことを考えているんだろう。
単に嬉しかった。それでいいじゃないか。

「なんでもないの。行きましょう?」

ニマニマしながら私の腕にしがみ付く唯ちゃんを引っ張り、部室を出た。
でも、悪い気はしない。むしろ嬉しい。
もっと唯ちゃんを抱き寄せて、階段を降りる。

「ムギちゃん、だ・い・た・ん」

「良いじゃない。唯ちゃんと居られて嬉しいんだもの」

何かすごい事を言ったような気もする。
どうも今日はやけに高翌揚しているようだ。
見回りの先生に見つかって怒られるまで、私達はぴったりくっ付いて歩いていた。

78: 2011/01/21(金) 20:48:03.81
『いよいよ明日新歓ライブだね! ムギちゃん今どんな気持ち?』

授業中。
ノートテイク用の用紙に唯ちゃんのペンが走る。
こういうことはバレたら厳重注意なんだけどな。

いよいよ新歓ライブが明日に迫った。
調子はどうか、と聞かれれば不安じゃないはずがない。
何せ、成功しているかどうかなんて毎回分かっていないんだから。
もし何かのミスがあれば、入部希望の子はどう思うだろう。
仮に入部してくれても、私との付き合いはどうなるだろう。

唯ちゃんは私の返事を待っている。
りっちゃんはノートテイクに取り組んでいるようで、私の様子が気になっているようだ。
文章がおかし過ぎるのが見ていて分かる。

『怖』

その一文字だけ書き、塗りつぶす。
何かを書こうとする唯ちゃんを押し留め、『真面目に授業』と書いた。


私達は二年生になった。
唯ちゃんの話が通ったのか、晴れて同じクラスに。
その代わり澪ちゃんが離れて、また二人態勢だ。
りっちゃんはあれから成績が飛躍的に上がって、先生方も文句を言えないような状況になった。
勉強は大変だろうに、山中先生に因れば今までの独学から、ノートテイクの講習も受けるようにしているらしい。
ただ、それに関しては本人は内緒希望だったようで、私はその事に触れずにいる。

79: 2011/01/21(金) 20:50:36.67
「どうだったかしら?」

「オッケーだよムギ。完璧」

ほっとする。
私たちは明日に迫った新歓ライブに向けて、最終調整を行っていた。
今度は全員で軽音に打ち込んだおかげで、すっかり以前の調子に。
これなら新入部員も十分に見込める……とりっちゃんが言っていた。

「楽しみだね。ワクワクしてるよ」

「あんまり浮かれるなよ。唯はボーカルをするんだから歌詞を忘れたりするかも……」

「失礼だなー澪ちゃん。最近の私の覚えるの早さを見たでしょ?」

「忘れる早さも見たよ」

んがっ。
唯ちゃんが言葉に詰まる。
対して澪ちゃんは何だかリラックスしてそうだ。
ライブが二回目、というのと、前回のボーカルはやっぱり緊張していたんだろうか。
楽しそうに見えたんだけど。
もっとも、私もそんなことを言う余裕はあまり無い。

80: 2011/01/21(金) 20:54:21.00
「……大丈夫かしら」

「ムギちゃんまで!?」

「ち、違うの。
 私、ちゃんと出来るかなって……」

「出来ます!」

唯ちゃんの即答。言ってくれるなぁ。

「ムギちゃんはずっと頑張った!
 絶対成功するよ!」

「私達もサポートするから、楽にな」

「難しいことは考えずに行こーぜ、ムギ」

三人からの言葉が心に沁みる。
皆はこういうど、私は皆の為に頑張りたい。
確かに新入部員勧誘の機会だけど、それよりも私はライブ成功にこそ価値があると思っている。
本当に大切な親友達に、恩返しをするんだ。
皆が認めてもらえたらそれでいい。

「ありがとう。皆。
 ライブを 皆で楽しもうね?」

去年の桜高祭ライブの達成感を、また。

81: 2011/01/21(金) 20:57:46.69
「準備は良いか?」

舞台袖にて。
強張った表情のりっちゃんが問い掛けてくる。

「ええ。頑張りましょう、りっちゃん」

なるべく心配させないように、なるべく柔らかく話そうとする。
発声が怖いのはもうずっと変わらない。
上手く発音出来ているかも分からない状況が不気味だ。
それでも自身の頭の中にある音声と口の動きを引っ張り出して話す。

先生方の表情も硬い。
やっぱり私の耳で、成功するのか不安なんだろうか。
耳が聞こえない楽器奏者、か。まるでお話の世界みたいだ。
それでも、私はそれを実現させる自信がある。
皆がいるだけで、頑張れる。

「行くぞ!」

4人で手を繋ぎ、結束を確固たるものにする。
そんな怖い顔をしなくても、すぐに笑顔に変わるから。
精一杯の笑みを先に貼り付け、少しでも前向きな雰囲気へ持っていく。

「おーっ!」

82: 2011/01/21(金) 21:02:28.60
ドラムから演奏に入る。
りっちゃんの動きに合わせるのは、もう何回もやった。
大丈夫、練習通りにやれば全部上手くいく。

一先ず入り出しは成功したらしい。
こちらを見ていた皆の安堵の表情で分かる。
後はミスをしないこと。最悪ミスをしてもしっかり軌道に乗り直すこと。


皆の緊張は解けたようだ。
唯ちゃんも、澪ちゃんも、りっちゃんも楽しそう。
その様子を表すのには『踊っている』という表現が分かり易い。
ボーカルの二人は時々足が跳ねるのが見えるし、りっちゃんなんて特にノリノリだ。

だから、これで良かったんだ。彼女達が楽しめているから。
あとは私は、頭に入ったパターンをただ機械的に実行するだけ。

記憶した通りに指を動かす作業。
皆と目が合った時に、いかにも充実してそうに笑みを返す作業。
全体的に少し走り気味のリズムに対応する作業。

私の鋭くなった感覚が周囲を捉える。
客席のバーーーローー年生達も、演奏に乗ってきているのが感じられた。
やっぱり皆の演奏や声は、大衆を飲み込むだけの十分な力がある。
講堂内の人間が一つの塊になり、私はそれを遠くから眺めている。


演奏が終わり、皆は全身から『楽しかった、満足だ』という雰囲気を出していた。
後ろ姿すらまともに見ていられない。
私はもう、彼女達とこんなに離れてしまったんだ。

83: 2011/01/21(金) 21:06:16.58
さすがに時間は厳しく管理されているらしく、早々に私達は袖へ下がる。
客席からの大きな拍手を全身に感じながら。

先生方からも拍手。
『皆の想いがこっちまで伝わってきた』『素晴らしい演奏だった』澪ちゃんから通訳される言葉は、どれも私を皮肉ったものとしか思えなくなっている。
溢れる涙を堪えようとしてもどうにもならず、その場にへたり込みそうだ。

すると、りっちゃんが私の腕を掴み、そのまま講堂を出る。
後ろから唯ちゃんと澪ちゃんがついて来ているのが分かった。

「大丈夫か?」

「ごめんなさい……」

「大丈夫だよ! ムギちゃんの演奏は完璧だったから!」

涙の原因はその満足感を押し出した顔だ。
八つ当たりしそうになるが、強く拳を握り何とか押し留めた。

その後、皆で手分けして機材を部室へ運ぶ。
これがまた大変な事で、ますます私の部活動への疑問を大きくさせる。
アンプを抱えて歩く私に、りっちゃんが一枚の紙を差し出す。
そこには『放課後、話したいことがある』と乱暴な文字で書かれていた。
いつもは、もっと読みやすい丁寧な字で書いていてくれるのに。

多分、バレたんだろうなぁ。きっとりっちゃんは怒っているんだ。

84: 2011/01/21(金) 21:10:32.36
放課後、部室の扉に手を掛ける。
と、視界の端に一人の女子生徒が入った。

その生徒は、艶やかな黒髪を二つに結び、整った顔立ちは緊張の色に染まっていた。
伏し目がちで視線が床のあっちこっちを行き来する彼女に、正直あまり自信は無いものの声を掛けてみることにした。

「もしかして、軽音部の入部希望かしら?」

「……!」

肯定の返事と頷き。扉を開けて入室を促す。
中を覗くと誰も居ない。これは正直参った。
せめて誰か一人くらい居てくれても良かったのに。

「……!……。」

と考えている間にもその入部希望の子はぺこぺこ頭を下げたりして、口が忙しく動いている。
じぃっ、と口の動きを見つめてみるも……全く読めない。
ゆっくり喋ってもらって、且つ短い単語程度ならまだ読めるかもしれないが、このままでは会話など到底不可能だろう。
とりあえず彼女を止めることした……のだが向こうから止まってくれた。
そして、今度はぶつ切りに話し始める。
少し力の入った喉の動きに、「今度は私の補聴器に気付いて難聴者だと思っているのだろう」と推測した。

「ちょっと待って!
 えっと……言いにくいんだけど、私、実は耳が全く聞こえないの。
 この補聴器は飾り、これがあると人に分かってもらえ易いからしてるだけ。だからこういう目立つ色にしてるの。
 ……それでね、すごく手間を掛けちゃうんだけど携帯のメモ帳か、紙に書いてもらうか、して欲しいの。
 紙とペンは備え付けの物があるけど……」

メモ帳とペンを差し出すと、それをゆっくりと受け取ってくれた。

85: 2011/01/21(金) 21:15:14.50
「じゃあまずは……初めまして。
 放課後ティータイムのキーボード担当、二年の琴吹紬です」

『一年の中野梓です』

まぁこういう内容になることは分かっていた。やっぱり文章だと今一つ気持ちが分からないのが不便だ。
メモ帳に書かれた、可愛さの抜けきっていない綺麗な文字を見て思う。

「可愛い字ね。梓ちゃん、って呼んでも良い?」

『はい』

「そんなに緊張しないで? 紅茶も遠慮せずに飲んでね」

ぺこり、とこれまた可愛く頭を下げ、紅茶に口を付ける。
そこで会話が途切れる。
意地の悪い言い方だとは思うが、言ってみた。

「どうしても会話のテンポが悪くなってしまうけど……ごめんなさい」

梓ちゃんは構いません、気にしないでください、と書くがどうもやりにくそうに見える。
紅茶を飲んでいる時も、メモ帳にペンを走らせる時も、彼女の目線は頻繁に扉の方へ向いていた。
誰かが来るのを待っている。それは他の部員でも、他の入部希望の生徒でも構わないのだろう。

やっぱり、私との会話はやりにくいんだ。

86: 2011/01/21(金) 21:18:43.07
半年でも付き合った友達ならともかく、高校入学してすぐに初対面の先輩と二人きりなら当然か。

「私達のライブ、どうだったかしら?」

『すごく良かったです。あれを見て入部を決めました』

軽音部の人以外との会話。私はそれが嬉しくて夢中で話をした。
澪ちゃんが部室に入ってくるまで、私は彼女の表情が晴れずにいたことに気付かなかった。


「ひょっとして入部希望?」

『はい。 一年の中野梓です。 よろしくお願いします』

そんなに嬉しそうな顔をしなくてもいいじゃないか。
もちろん本人に悪気が無いのは分かっているけれど……辛いものがある。

『他の方は? 日が悪かったですか?』

「……えっと、後二人いるけど、掃除かな? もうすぐ来ると思うよ」

澪ちゃんが梓ちゃんとの会話を全部訳してくれている。
ひどくやりにくそうだったので、それを遠慮しておいた。
何か言いたそうな顔をしていたが、私が見ようとしない限り手話は意味が無いからか、そのまま手話無しの会話を始めた。
手話を使わないで会話する澪ちゃんなんて、久しぶり。
二人は話が弾んでいるようで、澪ちゃんも心なしか饒舌。初対面の相手なのに珍しい。

87: 2011/01/21(金) 21:23:15.15
唯ちゃんとりっちゃんも部室に到着し、梓ちゃんと話している。
私はそんな四人を背に、全員分のお茶を用意していた。

……耳の聞こえる人と聞こえない人で、話し易さは変わるもの。
当たり前の事を、今になって気にしてしまう。
今までは皆がいつも隣に居てくれて、通訳をしていてくれた。
そんな彼女達は私の後ろで、私を置いて楽しくお喋りをしている。
新歓ライブの時と同じ、距離感があった。

最低だということは自覚している。
でも、少しくらい寂しいと思ってもいいじゃないか。

軽く息を吐き、後ろを振り返る。
りっちゃんが拳を振り上げ、机に叩き下ろしていた。
その表情から強い怒りが読み取れる。

「りっちゃん、落ち着いて。どうしたの?」

「何でもない。ムギは黙ってろ」

「何でもない訳ないじゃない……」

本当に何がなんだか分からない。
さっきまで楽しく話して、新入部員を歓迎していたんじゃなかったのか。
それが今では、その新入部員に殴り掛からんばかりだ。

88: 2011/01/21(金) 21:28:20.18
梓ちゃんが鞄を掴み、立ち上がる。
そしてそのまま扉に向かって歩き出した。

「梓ちゃん! 待って!」

呼び掛けにも応じず、深く一礼をして梓ちゃんは出て行ってしまった。

「唯ちゃん、澪ちゃん……何があったの?」

二人も私から目を逸らす。何かあったんだ。それは間違いない。
皆が話してくれないのなら仕方がない。
メモ帳とペンを掴み、梓ちゃんを追いかける為に部室を飛び出した。

何度も人と衝突しそうになりながらも、廊下を駆ける。
周りの状況が分からないまま走るのは非常に怖いが、そうも言ってられなかった。
と、ギターケースを持った後ろ姿を見つけ、声を掛ける。

「梓ちゃんっ!」

声を掛けたのは遠くからだったが、特に逃げられるようなこともなく追いつけた。
メモ帳を差し出す。

「あの……何があったの?」

『部室に居る先輩方に聞けばいいじゃないですか』

聞けるならとっくに聞いてる。
だからわざわざ全力疾走してきたんじゃないか。

89: 2011/01/21(金) 21:34:46.21
「私……梓ちゃんが話してくれないと納得出来ない」

進路を塞ぐようにする私を見て、梓ちゃんは溜め息混じりにペンを走らせる。

『失礼なこと書きますから』

「構わないわ」

『普通、そういう学校に通うものじゃないんですか → アイツがこの学校に居るのがおかしいって言いたいのか
 こういう流れです』

「……それだけ?」

こくり、と頷く。
これが失礼なこと、なのか。
通常あまりない方法を取っているのは自覚しているし、別段ショックも受けない。
でも、これなら十分じゃないか。
まだやり直せる。そういう所を怒ってくれたりっちゃんには申し訳ないが、私は何の問題も感じていなかった。

「部室に戻りましょう? あなたは何も悪くないわ」

『無理ですよ。あの先輩すごく怒っていましたから』

「私が何とかするから」

この子は入部を希望して、部室に来てくれたんだ。
それが無くなるなんてあってはいけない。部室から退く必要が無い。

「私は、梓ちゃんに軽音部に入って欲しい。
 もちろん決めるのは梓ちゃんだから、別に強制はしないし、何か脅しを掛けるつもりもないの。
 でも折角話せた相手だから、もっと梓ちゃんの事が知りたいな……」

躊躇いがちに差し出されるメモ帳。

『せめてもう少し、日を置いてからにさせてください。
 私も頭を冷やさないといけないです』

礼儀正しく頭を下げ、梓ちゃんは私に背を向けて走って行った。

96: 2011/01/23(日) 22:04:48.80
「ただいま」

部室に帰ると、三人は椅子に掛けていた。

「ムギちゃん、あの子と話してきたの?」

「何があったのか、聞いてきたの。
 それと、これからの事もね?」

私の言葉を聞き、りっちゃんの肩がぴくりと反応する。
まだ、納得が行っていないのだろうか。

「これからって、どうするの?」

「私は梓ちゃんに、ここに来て欲しいって思ってる」

「ムギは、さ」

りっちゃんが俯いたまま手を振り、私の話を遮る。

「ムギは私とあの子の事、怒ってないのか?」

とんでもない。
梓ちゃんは、障がい者の就学制度について質問しただけだ。
りっちゃんに関しては……ちょっと乱暴だったから怒ってるかも。

「もちろん。
 梓ちゃんは私達のライブを聞いて、軽音部に入ることを決めたって言ってたわ。
 だから、ね? 五人でライブ頑張りたいな」

97: 2011/01/23(日) 22:07:31.28
りっちゃんはそれきり黙ってしまう。

「前に、律と話してたことがあったんだ。
 新入部員は、ちゃんとムギと付き合える人なのか見極めないと、ってさ」

同じ部活に所属する限り、会話する機会は必ずある。
そしてそのためには、手話を覚えるか、筆談するか、通訳をしてもらうかの何れかを選ばなければならない。
それを煩わしく感じる人が居るから、読話の習得を目指しているんだけれど……そう簡単に成せることではない。

「律がピリピリしてるのもそれが理由だからだと思う。
 あんまり責めないでやってくれ」

「大丈夫よ。
 りっちゃんも、ありがとう」

『いい』か。照れてるんだ。

「ムギちゃん。それで、中野さんは何て言ってたの?」

「うん、ちょっと時間を空けさせて、って言ってたわ。
 さすがに気まずさを感じているのかしら……」

「それじゃ、私達は来てくれるのを待ってればいいんだね」

どこか引っ掛かる言い方ではあるが、それでいいだろう。
無理矢理部室に引っ張ってくるのも良くない。

98: 2011/01/23(日) 22:10:57.22
「それでりっちゃん、話ってなぁに?」

部活が終わり、唯ちゃんと澪ちゃんを先に帰らせた。
りっちゃんと向かい合わせに座り、彼女の話を待つ。

「ライブの時、何があったんだ?」

「何が、って……どういうこと?」

「ムギ、泣いてたじゃん」

確かに泣いた。
ライブに、意味を感じられなかったからだ。
楽しいのは皆だけ。私は楽しくない。
私にとってライブは自身の作った曲を発表するだけの場となり、どう捉えるかは観客次第。それだけ。
ライブ前から分かっていた距離感は、皆が一体となった瞬間により深く私の胸を抉る。
それを今、りっちゃんに話すかどうか。
即決。話さない。

「そうね……嬉し泣きかしら。
 耳が聞こえなくなって、演奏を諦めたこともあったもの。
 それがちゃんと実を結んだことが嬉しかったのよ」

「……本当かよ」

「もう、嘘をついてもしょうがないじゃない」

嘘をついてもつかなくてもどうしようもないから。
これで皆が私に気を遣って軽音を止められても困る。

99: 2011/01/23(日) 22:12:54.81
「こうやって入部希望の子も来てくれたし、結果としては上々よね?」

りっちゃんは小さく頷くと席を立つ。

「中野さんに、ちゃんと謝るよ。
 どーも、ムギのことになると冷静になれないんだよな。
 ちょっと過保護になってるかもしれない」

「ううん、ありがと」

りっちゃんが過保護かぁ。
でも、りっちゃんのようなお姉さんが居たら頼りになるだろうな。
周りへの気配りが上手だし、立派に部長をやっているし。

『ごめん』

とりっちゃんは言葉に出さず、手話だけで伝えてきた。
謝られるようなこと、何もされていない。
むしろ謝るのは私の方なんだけど。

「帰ろうぜ」

すると、りっちゃんはいきなり扉に向かって走り、勢いよく扉を開ける。
唯ちゃんと澪ちゃんが居た。

「えーと……二人で話すっていうから、ちょっと気になっちゃって……」

「私は唯を止めたぞ? 本当だからな?」

……話してしまわないで良かった。

100: 2011/01/23(日) 22:15:22.57
翌朝。十五分ぐらい経っただろうか。
私は学校の玄関で立ち続けていた。梓ちゃんに会う為だ。
時間を空けるとは言ったが、だから会ってはいけないということも無いだろう。
そう考えて梓ちゃんを待っていた。拒まれればそれはそれでだ。


「おはよう、澪ちゃん」

「誰か待ってるのか?」

当然の質問。私は隠す事なく答えた。
それを聞いた澪ちゃんは苦笑い。

「よくやるよ。よっぽど気に入ったんだな」

周囲の生徒達は奇異の目でこちらを見ている。
恐らく一年生だろう。
もうこの目に心を痛めることは無くなった為、私は気にすることなく澪ちゃんと会話できる。

「じゃ、私は教室に行くから。
 何か進展があったら教えてくれよ?」

視線を外へ向けると、まさにピッタリのタイミングで梓ちゃんを見つけた。

「おはよう、梓ちゃん」

声を掛けると、軽く一礼してくれた。
そのまま歩き出す梓ちゃんに後ろから付いていく。

101: 2011/01/23(日) 22:18:00.05
『どうしたんですか?』

携帯電話が差し出される。意外に可愛いデザインだ。

「気にしないで。ほら、教室に行かないと」


こうして見てみると、綺麗な歩き方をしている。
きびきびとしていて如何にも真面目そうだ。
そんな全身からのオーラとは裏腹に、二つに結ばれた黒髪がふわふわ靡くのがまた可愛い。
背も小さいし、まさに『後輩』という印象だった。

と、変質者のようなことを考えながら歩いていると、立ち止まった梓ちゃんにぶつかりそうになった。

『私の教室、ここですけど……』

「分かったわ。お昼休みも遊びに行くから」

『私達、まだそういう関係じゃないですよね……?』

疑問形なので問題は無さそう。
これできっぱり言われたらさすがに驚く。

「冗談よ。それじゃ梓ちゃん、またね」

梓ちゃんはいかにもリアクションに困っていそうな顔をしている。
こんなことをして何になるんだろう?これで仮に彼女が入部を取り消したらどうなる?
自身にふと湧いた疑問に答えは出せず。
高鳴る心臓と強烈な耳鳴りに耐えながら、その場を後にした。

102: 2011/01/23(日) 22:25:51.11
唯ちゃんとりっちゃんとで、三人、部室へ向かう。
昨日のことがあってからか、どことなくぎこちない空気が漂っていた。
特に部活と時は。

「ムギちゃんは、あの子のことをどうしてそんなに気にするの?」

「梓ちゃんのこと?」

どうしてかと言われても……なんとなく、としか。
でも、初めて会った時によく声を掛ける気になったものだ。
それは勿論、何か大切な用事を抱えているのかもしれない、という軽音部を想ってのの行動だけど。

「折角、来てくれたんだもの。
 軽音部に入部して欲しいし、仲良くなりたいし、友達になりたいから……かな?」

「可愛かったよね」

「ええ、如何にも後輩、ってイメージがあったわ」

部室前の階段に足を掛ける。
もしかしたら。そんな期待を胸に抱き上るが、部室前にその姿は無かった。
思わず足を止めてしまう。

「ムギ、行こう」

りっちゃんの手が背中をとん、と押す。
そんな簡単じゃないとはちゃんと分かっている……けど。

部室に入った私達は、すぐに演奏の準備をした。
誰が言うでもなく、ただ何故かそういう流れになっていた。

103: 2011/01/23(日) 22:28:03.53
演奏終了、と同時に扉が開く。
澪ちゃんだ。

「澪かー」

「えっと、……、ゴメン」

私達からそんな雰囲気が出てしまっていたのか。
澪ちゃんはいそいそとベースを取り出す。
ティータイムを楽しみにしているとはいえ、いつも真っ先に練習を提案していた彼女が、何も言わない。

「よし、私も準備出来たぞ。曲は何から?」

「ホッチキスな」

「ちょっと思ったんだけど」

唯ちゃんがくるりと振り返る。

「『ホッチキス』って、この歌が無かったら多分手話で覚えることはなかった言葉だよね」

「というか、ホッチキスは特に手話というかジェスチャーっぽいけどな」

確かに。
別の動かし方があっても、きっとこちらの方が分かり易く覚え易かっただろう。
何も知らない健聴者同士で使っても分かる。

「うんうん。私こういう言葉が好きだなぁ。やってて楽しいもん」

唯ちゃんの言葉が重く感じる。
私は、手話を楽しんだことはあっただろうか。
これは生活の為に必要なことであって、楽しむなんて感情の領域に持って行ける物じゃない。
その義務を楽しめたら、それはどんなに良い事だろうか。

「早く練習……」

澪ちゃんと目が合ったのでとりあえず苦笑いをしておいた。

108: 2011/01/28(金) 22:31:06.02
翌日のお昼休み。
四限が終了し、私は財布を持って立ち上がる。

「購買?」

「うん。お弁当を忘れちゃってた」

というのは嘘で、単に冒険したくなった。
音が必要な周りの世界に。もしかしたら梓ちゃんに会えるかもしれないし。

「私も行く」

「私も」

二人も立ち上がるが、それを止める。

「大丈夫。多分、買い物だけならなんとかなるし、メモ帳も持っていくから」


購買のパン売り場は意外に人が多い。
万が一に備え、あまり人が並んでいない時に注文することにした。
敢えて補聴器を見せるように髪を一つに縛る。
それがまるで敵陣に特攻するようで、少し怖かったりもする。

目の前に並ぶパン。
種類は多く、目移りしてしまう。これではぐるぐる見回るだけで時間を取ってしまいそうだ。
悩んだ結果、クリームパンとバターロールという無難な線に到達した。
そして問題なのが……値段表示がされていないこと。
とはいえ値段を聞かなくても、五百円玉一枚で解決するだろう。さすがにこれを超える値段なんてことは有り得ないだろうし。
まあお釣りの手間を取らせることは申し訳ないけど。

109: 2011/01/28(金) 22:32:29.78
「これとこれ、お願いします」

「――。 ――、―――。」

五百円玉を渡そうとすると、目に映ったのは指を立てて数字を表す、購買の小母様の姿だった。
この人は私の耳に気付いて、それをしっかり伝えようとしていてくれた。
取り出した硬貨を財布に仕舞い、金額ピッタリで支払う。

耳、バツ、首を傾げる。

「はい、もう全く聞こえません」

少し考え、笑顔で手を振ってくれた。『また宜しくね』かな。
ありがとうございます、とこちらも笑顔で返し、教室へ戻ろうとする。
すると、パンを手に一人立っている梓ちゃんを見つけた。


「梓ちゃん」

彼女は相変わらずぺこり、と軽く頭を下げるだけ。

「誰かと一緒に来てるの?」

頷くと、ポケットの中を探り始めた。
恐らく私がいつものメモ帳を差し出さないから、その類を持っていないか探しているんだろう。
私は持ってきているのだけど……でも、これはチャンスかもしれない。

「ごめんなさい、実はメモ帳を持ってきていなくて」

会話が出来るかちょっと期待していた。
意地悪な話だけれど、真面目そうな彼女が、先輩からの話を無視するようなことは無いと思ったから。
それこそ先ほどの購買の人のように、何かしらの方法で伝えようとしてくれないか、と。

110: 2011/01/28(金) 22:34:06.61
私、書く、首を振る。
梓ちゃんの動きがそう示す。

「うん、でも、無くても会話出来たわ」

何故か梓ちゃんは固まってしまう。
そしてそのまま見詰め合うこと十秒。
不意に彼女の目線は私の横を通り過ぎて。
後ろを振り返ると、そこには……梓ちゃんとは違う意味で二つに髪をまとめている女の子が居た。

「――。 ……――――?」

当然、読めるはずもなく。
恐らく私の事だろう。

「こんにちは、二年の琴吹紬です」

梓ちゃんが隣に並び、横の子を指す。
口の動きが一文字ずつだから、名前の事だろう。
で、肝心の中身なんだけど……訳が分からない。えーとーえーと。
ちょっと気まずくなり目線が泳ぎ始めた私。隣の子もまた微妙な表情……
さすがに名前を聞き間違えるのは宜しくない。
メモ帳を出すべきか……と思ったその時、梓ちゃんの手が動く。

首の前に十円玉サイズの小さな輪。それを振る。
大きな輪に小さな輪を付けて、被って……?

「鈴……? 鈴木……?」

どうやら合っていたようだ。
そうそうそう、鈴木さんが首をぶんぶん縦に振る。
そして下の名前。

111: 2011/01/28(金) 22:35:30.91
「 、 、 」

丸。小さい丸。丸。
真ん中は拗音の『ゅ』か。最後は口を閉じているから『ん』。
最初は……いきしちにひみ……

「じゅん……?」

きゃー、という声が真っ先に思いついた。
二人は抱き合っている……梓ちゃんが覆い被さられているようにも見えるけど。
それでも、彼女の表情は柔らかく、こうして手間を取らせたことを迷惑がっているようには見えなかった。

「準備? 純粋?」

思いつく二つの『じゅん』を挙げると、純粋の方に頷く。
鈴木、純さんか。
彼女はいきなり携帯電話を取り出し、文章を打ち始める。

『実は五限の宿題をまだやっていないのでこれで失礼します!
 ちなみに携帯を出さなかったのはわざとですから、怒ったならすみません!』

怒っていない。むしろ嬉しかった。
梓ちゃんの手を引き、教室に戻ろうとする鈴木さんに、お礼の言葉を述べる。
そして梓ちゃんにも。

「ありがとう。すごく分かり易かったわ」

その言葉に笑顔で応え、二人は角を曲がっていった。


「よし……!」

梓ちゃんと話が出来た。しかも紙や携帯電話を介さず。
そしてそのことを彼女は嫌がっていない。
私は、誰にも見られないように壁の方を向き、小さくガッツポーズをした。

楽しかった。本当に楽しかった。

112: 2011/01/28(金) 22:37:06.35
「遅くなってごめんなさい」

「やっぱり時間掛かっちゃった?」

「ふふ、そうなの」

心躍るようだ。
自分で気付かない内に、傍から見ればかなり不審な動きをしていたのかもしれないくらい。

『良かった。ムギが、健聴者から離れなくて。
 そういう人、多いって聞いた』

『楽しかった。だから、大丈夫よ』

皆との距離を感じた時もあったし、健聴者を避ける理由も、聴力を失う前後で性格が変わることも分かる。
でも、ここ最近の心変わりの早さには驚いている。
梓ちゃんを迎え入れてライブを、あの虚しさしか残らないライブをしたいなどと。

「待ってもらってごめんなさい。食べましょう?」

クリームパンを齧る。
そういえば、梓ちゃんは何のパンを買ってたんだろう。
それと、読話はもう少し真面目に練習しておかないと。

113: 2011/01/28(金) 22:38:52.14
「ムギちゃん、今日のお菓子は?」

「それは部室に着いてからのお楽しみよ」

唯ちゃんはあれこれ妄想を膨らませているようだ。
目を輝かせたかと思えば蕩けたり。
今日は、まずティータイムからだろうか。
いつもはそれを提案するりっちゃんは黙ったままだけど。

基本的に、階段など危ない場所を移動する時に手話は行わない。
手元に集中するあまり、注意が散漫になるからだ。
その為、この場合に限っては黙って階段を上る。
すると、見上げたその先、踊り場の窓に映る人影を見た。
思わず階段を駆け上がる。

「梓ちゃんっ!」

声を張り上げ、彼女の元へ。

「来てくれたのね! ありがとう……!」

早速部室へ案内しようとするが、梓ちゃんは階段の方を見つめたまま動かない。
……りっちゃんか。

二人の距離が徐々に縮まり、向かい合ったまま。
まさに一触即発とはこのことだろうか。
不安になり、思わず口を挟んでしまいたくなる。

しかし彼女達はそのまま、同時に頭を下げた。

『これって……?』

『うん、仲直り』

二人の会話は全く読めず、唯ちゃんから聞いた事情は一言。
なるほど、二人の顔を見るに本当にそうらしい。
元々今回の問題は、もう少し冷静に話し合えば解決するものだったし。

114: 2011/01/28(金) 22:40:16.89
「梓ちゃん、どうぞ」

全員分の紅茶とお菓子を用意する。
彼女は軽く礼をすると、そのままちびちびと飲み始めた。

「どうかしら?」

『美味しいですよ。といっても紅茶を飲んだ経験がほとんど無いので、他と比べたりは出来ないんですが……』

「ありがとう。種類は色々取り寄せてあるからいつでも言ってね?」

割と熱心に飲むものだから、どうやら本当のようだ。
まるで小動物のように少しずつクッキーを頬張るその様子が、とても可愛く見える。

『このお菓子、どこで買ったんですか?』

……どこだっただろう。
あまり確認していなかった。確かヨーロッパのどこかだったようななかったような。

「えっと……忘れちゃった」

澪ちゃんの手が動く。

「ところで中野さん、書くの速いな」

「そうね、それにすごく読み易いと思うわ」

『これぐらいが普通じゃないんですか?』

軽く言ってくれるが、これは一種の才能なんじゃないだろうか。
ノートテイクに求められる物を持っている。

115: 2011/01/28(金) 22:41:33.36
「んじゃ、そろそろ練習にするかー?」

今までと違い、皆がこうやって積極的に練習をするようになったのは、私の事があるからだろうか。
私はとにかく時間を掛けて手から演奏を離さないようにしなければ、演奏が出来なくなってしまう。
そんな気遣いが嬉しくて、嬉しくなくて。

「中野さんはどれくらい弾けるんだ?」

『大した事ないですよ』

「と言う人ほど、凄いことがよくあるんだよね」

梓ちゃんははにかみながらギターを取り出す。
そのギターがまた、梓ちゃんのイメージと見事に噛み合っていた。

「何か、弾いてもらってもいい?」

困ったような顔をされた。当然か。
耳が聞こえない人に聞かせようとすることに、疑問は拭えないだろう。
それでも、と催促すると、彼女は手を動かし始めた。

その動きを目で追う。
動きは滑らかで、先ほどまでの表情の硬さはもう表れていない。
目線は手元に置かず、あくまで正面を捉えている。
耳は聞こえなくとも、熟練者であることがよく分かった。

116: 2011/01/28(金) 22:42:41.69
「びっくりした。上手だね」

「唯以上だなこりゃ」

皆の反応も上々らしい。
梓ちゃんの口が動く。『両の手が塞がっている時、会話はどうすれば』らしい。

「その時は普通にしてくれればいいよ。私達が通訳するから」

『でも、私も手話を覚えた方が』

「いいのよ、梓ちゃん。
 私みたいな失聴者は確かに少数派だから、周りの人達とか制度に適応していくのは難しいけど、
 梓ちゃんとは一対一のコミュニケーションじゃない?
 私達二人だけで納得出来る付き合い方がしたいな、って思うの」

手話の習得を無理強いしたりはしない。
人には向き不向きがあるし、それは仕方ないだろう。
その為にも読話の習得を頑張らなければならないのだが、実用となると先が全く見えない。

「ムギと一緒に、一番楽に付き合える方法を色々探してやってくれ。
 もう仲が良いみたいだし、二人なら上手くやっていけると思うんだ。
 もちろん、私達も手伝うよ」

梓ちゃんはゆっくりゆっくりと、言葉を探すように話し始めた。

『一つだけ、失礼なことだと思いますが、聞かせてください。
 琴吹先輩は、どうやってキーボードの演奏をしていたんですか?』

それは確かに聞きにくいことだ。

117: 2011/01/28(金) 22:44:21.86
皆が一斉に私を見る。
思えば、そんなにはっきりと話したことはない。

「他の人と、何も変わらないわ。
 譜を覚えて、手の動きを覚えて、演奏する。
 それでも耳は聞こえていないから、人と合わせるっていうのは出来ないけど……
 皆が、助けてくれるの」

誰も口を開こうとしない。
自分が発する言葉から、無理もないことは重々承知している。
それでも私は続けた。

「ライブの時も、何も聞こえていなかったわ。
 ……それで楽しいのか、って思う?」

梓ちゃんは目を逸らす。図星か。

「私が耳を悪くしてから、皆で手話の勉強をすることになって、軽音部らしい活動が全然出来なかったの。
 だから、少しでも軽音部として皆をお手伝いすることが、今の私の目的……かしら。
 幸い、その気になれば演奏出来るって、新歓ライブで分かったから」

横から腕を強く掴まれる。
りっちゃんの口が『もうやめろ』と言っていた。

「……ごめんなさい。少し、頭を冷やしてくるから。
 皆、梓ちゃんを責めないで」

これ以上は駄目だ。
間を置かないと。

廊下に出ようと、皆の脇をすり抜ける。
静止の声が上がっても、私は気付かない振りが出来る。
そんな事を当たり前に考えるようになってしまった。

118: 2011/01/28(金) 22:46:07.43
後ろ手に扉を閉め、そのまま廊下に座り込む。

私は最低な人間だ。
折角、梓ちゃんが戻ってきてくれたのにまた壊した。
こんなつもりじゃなかったのに、吐き出される言葉を止めなかった。

同情してもらいたかった? それとも八つ当たりのつもりだった?

私は、こんな嫌な奴だっただろうか。
本当に、駄目だ。駄目過ぎる。
仕方ないことだってわかってる。もう私の耳は戻らない。健聴者の人とは違う。
なんでこんな目に。先天性の人が羨ましいなぁ、今まで有った聴力を失う怖さを知らなくて。

顔を覆う手に、徐々に力を込める。
ぷつぷつと、嫌な感触と共に爪が額に食い込み始める。
指の滑る方向次第では、眼球をくり抜きそうな勢いで。
とりあえず身近な所から壊してみよう、視力からはどうだろう?

赤い爪が眼球に触れる前に、後頭部を扉に叩きつける。くらくらした。
拳を強く握り、衝動を必氏に押さえつけた。


扉が開き、皆が飛び出してくる。
自分なりに考えて、口から出た本心は、

「ごめんね、皆。もう心配しなくても大丈夫よ」

色々な解釈を招きそうで、到底納得されないであろう言葉だけだった。

126: 2011/02/05(土) 10:41:54.95
翌朝。なんだかいつもより早く学校に着いてしまった。
玄関で上履きに履き替える。

「梓ちゃん、おはよう。今日は早いのね?」

いつの間にか隣に居た梓ちゃんに声を掛ける。
すると、紙を渡される。
手紙と一緒に『これ、読んでください』の文字。
確かにメールアドレスを教えていなかったのもあったけど、手紙とはなかなか古風な子だ。
彼女はそのまま、いつもよりも深く頭を下げてその場から去って行った。


教室には誰も居らず、気兼ねなくその場で手紙を広げることが出来た。


『琴吹先輩へ
 
 昨日は私のせいで、先輩方全員を傷付けてしまいました。
 初めて軽音部の皆さんと会った時も、私は問題を起こしていましたよね。

 それでも琴吹先輩は私を責める事も無く、話しかけてきてくれて、軽音部に迎えてくれたのに、
 こんな結果になってしまって本当にごめんなさい。
 他の皆さんも琴吹先輩も、「気にしないで」と言ってくれましたが、
 それでも私が失礼な事をしたのだから、どうしても謝りたかったんです。
 
 琴吹先輩に誘って頂いて、とても嬉しかったです。
 そしてこれからも、先輩の事をもっとよく知りたいと思っています。

 私は今まで耳が聞こえない人と接したことが無くて、何か失礼なことを無意識にしてしまうかもしれません。
 それでも私は、他の皆さんみたいに、もっと琴吹先輩に近付きたいです。
 私を軽音部に居させてください。お願いします。 』


最後に書かれた、『中野梓』の文字が何だかぶれていて。
わざわざこんなことをさせるくらいに、私は彼女を追い詰めていた。

127: 2011/02/05(土) 10:43:45.90
手紙を丁寧に折り畳み、ふぅーっと息を吐き出す。
梓ちゃんに会いに行かなきゃ。
教室を飛び出そうとすると、廊下に居た人物とぶつかりそうになった。

「大丈夫か?」

「ええ。ありがとうりっちゃん」

「昨日のこと、だけど……」

りっちゃんも気まずそうだ。

「ちょっと、伝えにくいんだけど……」

「りっちゃん、言い辛かったら無理に言わなくてもいいのよ?
 勢いに任せて言ってしまったら、それは変に伝わってしまうかもしれないもの」

何か、伝えたいことがあるのはきっと澪ちゃんも唯ちゃんも同じはず。
でも今はまだ受け取るわけにはいかなかった。
それに、私だって昨日の事は……。

「聞こえないからって、何でも伝えてって言ってるわけじゃないから」

それでまたこういう言葉が出る。
きっと私は耳の聞こえ以前に、元の性根があまり宜しくはないんだろうな。

「あ、それとりっちゃん。おはよう」

横をすり抜け、梓ちゃんの元へ向かった。

128: 2011/02/05(土) 10:46:01.13
未だ人がほとんど居ない校舎を歩く。
確か山中先生に補聴器の事を報告した時もこんなだった。
あの時から色々変わったけど、それでもこの空間はこんなに綺麗なままで。

扉に手を掛ける。
余所のクラスの扉を開けるのには、どうしても勇気が必要になっちゃうな。
中には梓ちゃんだけが居た。


「手紙、読んだわ」

どうやら彼女は、余計な事は言わずにただ私の返事を待っているらしかった。

「もう……梓ちゃんは卑屈になり過ぎよ?
 『ごめんなさい』とか『軽音部に居させてください』とか……」

私も含め、誰も気にしていないことをいつまでも引き摺る必要は全くないというのに。
とはいえ真面目な彼女のことだ。
手紙にもあったが、改めて迎え入れてくれた日に問題が起きてしまった事を悔いているんだろう。

「それでも後半に関しては同意見なの。
 私も梓ちゃんのことをもっと知りたいし、梓ちゃんには軽音部に居てほしいわ」

『ありがとうございます』

「さて、じゃあもう後腐れの無いように、梓ちゃんの疑問を全部ぶつけてみて?」

『どういう意味ですか?』

「私の耳に関して分からないことがあれば、今ここで全部聞いてしまってね」

129: 2011/02/05(土) 10:47:51.14
どうも困ったような顔をされてしまう。
聞きにくいのは分かるけれど、ここで終わってしまうのも非常に心配である。

「遠慮しないで……ね?」

『琴吹先輩は発音が綺麗ですけど、中途失聴なんですか?』

「そうなの。梓ちゃん、よく知っているのね」

『そんなことないですよ』と、梓ちゃんは手を振る。
確かに先天性であっても、訓練を受け続けている人は何れ発話が出来るようにはなるが。

「去年の秋だったわ。文化祭のライブが終わった直後の事だったの。
 本当に、なんてタイミングで来るんだ、って思った」

『それじゃあ、たった半年ぐらいで今みたいに手話が出来るようになったんですか? 他の皆さんも』

「私の場合生活に必要な物だから、嫌でも……ね?
 皆は、本当に頑張ってくれたの」

『皆さん凄いんですね。
 それは例えば私が、英語の授業を受けて日常会話が出来るようになる、ってくらいですし』

「そうね。でも英語は習っても、少なくともその時は使い道が無いじゃない?
 必要が無いことを頭で分かっているから、きっと脳が覚えようとしてくれないのよ」

ちなみに、ここまで言ってしまったけど根拠は全く無い。

『例えば、今こうやって叩いて、分かりますか?』

梓ちゃんは軽く机をノックしているようだ。
私は首を軽く横に振った。

130: 2011/02/05(土) 10:49:35.42
「他には、何かあるかしら?
 演奏に関しては昨日言った通りだし、学校での事は、基本的には皆に通訳してもらっているわ」

『特にありません。ありがとうございました』

「ふふ、お礼を言われるようなことはしていないのよ?」

辺りを見ると、生徒が大分集まってきたようだった。
見知らぬ人物ばかりの教室に居るのは、少々緊張してしまう。

「それじゃ、そろそろ私は教室に戻るわ。
 また放課後にね?」

『はい』

「あ、大事な事を忘れてた」

一旦向けた背を返す。

「名前の呼び方。皆からは『ムギ』って呼ばれているから、梓ちゃんも『ムギ先輩』とかで呼んでくれたら嬉しいな。
 他の皆からのも、梓ちゃんからの呼び方も、この際変えてしまいましょう?」

実はずっと気になっていた『琴吹先輩』という呼ばれ方。
まずは呼び方から。前面で出る部分から変えることで、自然と距離が縮まるだろうと思った。

『ム、ギ、せ、ん、ぱ、い』

朝日が射す教室で、頬を赤らめ、若干目線を逸らしながら、口を動かす。
その姿はまるで、ロマンチックなシチュエーションで、想い人に告白をする不器用な少女そのもの……って、いけないいけない。

「なぁに?」

『また放課後、部室で。
 これからもよろしくお願いします!』

131: 2011/02/05(土) 10:51:47.00
時刻は予鈴10分前と行ったところ。
教室へ向かう足取りは軽い。
席には唯ちゃんとりっちゃん、澪ちゃんも居た。
見れば何やら真剣な表情をしていて、どうも私の入室に気付いていないようだった。

「おはよう、皆。澪ちゃんが居るなんて珍しいのね?」

「ちょっと……暇だったからな」

随分間が開いている。
多分昨日の事で、私にあまり話したくないのは分かった。
朝はあんな態度をりっちゃんに取ってしまったし。


「それじゃ、私達も下の名前で呼ぶようにするよ」

「ええ。ありがとう」

先ほどの梓ちゃんとの話を伝え、自分は一人で席に戻る。
皆は気を遣って、何も言い出さないでいるのだろう。
ならばこちらもそうしなければならない。

私達の誰もが口に出しさえしなければ、それは無かったことになる。
きっと最善の策になるはずだ。

132: 2011/02/05(土) 10:54:20.24
「合宿を、しましょう!」


七月――
夏休みも近付き、生徒達が一斉に浮かれ始める頃。
それは私も例外ではなく、今回は既に別荘の予約が済んでいる。
恐らく今年も去年と同じで、遊びが中心になると思うけれど。

『去年は合宿したんですか?』

「ええ。楽しかったわぁ」

そう、去年の合宿は楽しかった。あの時は聴力に何の問題も無かったし。

「合宿には賛成。ムギはいいのか?」

「ええ、もう別荘も手配しているの」

「まさか、前より、大きい別荘なの?」

「去年は皆が『これでも十分』って言ってくれたから、同じ所……梓ちゃん、どうしたの?」

見やると、梓ちゃんが頭を抱えている。

『別荘って、もう別世界のような話ですから。ちょっと驚いてます』

前回は皆も驚いていたし、当然梓ちゃんも例外ではないだろう。
しかし今回は、梓ちゃんの歓迎も兼ねているんだ。
是非来てもらいたかった。

133: 2011/02/05(土) 10:56:01.62
「合宿と言っても、強化合宿とかそういう難しいのを考えなくてもいいの。
 海で泳いだり、バーベキュー、花火も。
 ちょっとした息抜きよ。梓ちゃんも部活を頑張っているでしょう?」

ご褒美だなんて偉そうな事を言うつもりは無いけれど、思えば部活中も気を張ったままでいる彼女には、少しでも楽しんでもらいたい。

『私なんてまだまだです。あまり上手く行ってないですし』

「もう、そんなに気にすることはないのよ? それで梓ちゃん、参加してくれる?」

『是非』

笑顔で答えてくれた。

「今のところ梓はどれぐらい手話出来んの?」

『恥ずかしいから、絶対やりません』

「あずにゃん照れ屋さんだねぇ」

「でも梓ちゃん、手話は頭で覚えるより実践の方が早いのよ?」

梓ちゃんは一しきり考えて、俯いたまま書いた。

『じゃあ……ムギ先輩と澪先輩、あとで見てもらえますか?』

これはまた意外な名指しで。
実は教えを乞うならりっちゃんが一番良いのだけど。
でも頼ってくれたのは嬉しいし、それには応えたいと思う。

134: 2011/02/05(土) 10:58:21.04
「なんで私達じゃ駄目なのー?」

『馬鹿にされそうで嫌です』

二人に限ってそれは無いと思うけど。

「じゃあ、部活が終わったら少し残りましょう?
 澪ちゃんもそれでいい?」

「分かった」

唯ちゃんとりっちゃんはしきりにぶーたれている。
まぁきっと、扉から覗いていたりするんだろう。


「指文字は一通り覚えられた?」

『一応は……多分ですけど』

酷く曖昧だ。
となれば何かお題……

「じゃあ、『あずにゃん』ってやってみて?」

「何でよりによってそれなんだ?」

アルファベットを最初に覚える時と同じように、まず自分の名前からだろう。
それに中野梓、より拗音を含むこちらの方がお題としては適切かと思う。

「あ、ず、に……や? ……ん」

断られるかと思ったけど、やってくれる辺り良い子だ。

135: 2011/02/05(土) 11:00:46.22
「小さい『や』は手前に引く、ね?」

反復し、覚えようとする梓ちゃん。
と、軽く息を吐いて筆談を始めた。

『すみません。
 いくらなんでも、覚えるのが遅過ぎ、ですよね』

「……気にしないで。
 梓ちゃんは覚えようとしてくれているじゃない。
 私は、成果主義じゃないわ。ありがとう、梓ちゃん」

そう、本当に感謝している。
もし彼女が望むなら、練習相手になんて何度でもなる。
と、澪ちゃんがこちらをじっと見ていた。

「どうしたの? 澪ちゃん」

「いや、仲が良いなってだけだよ」

「つまりヤキモチ?」

「変な事言うな。
 それじゃ、もう少し会話を続けてみようか。梓」

やはりというか、梓ちゃんは読む方の練習はしていなかったようだ。
発話が無くなれば、ほとんど読めていない。
上手くなる為の練習だけど、梓ちゃんの表情は大分沈んでしまった。

136: 2011/02/05(土) 11:02:13.51
『悔しいです。こんなに、何も出来ないなんて』

声を掛けたくても、掛けられなくて。
何も出来なくて悔しいのはこっちの方だ。

澪ちゃんが一歩前に出たかと思うと、そのまま梓ちゃんを抱きしめる。
そしてぽつりぽつりと梓ちゃんの耳元で何かを呟く。
頭を撫でる手は優しく、表情はまさに聖母のそれ。小さな体は文字通り優しさに包まれていた。


「もう大丈夫だよ、ムギ」

「うん。ありがとう澪ちゃん。
 ……何て話したの?」

「結構恥ずかしいこと言ったからな……内緒、でいいか?」

離れた梓ちゃんの表情は何か吹っ切れたような顔つきで、見ていて安心出来た。
一連の会話を読み取れなかったのが少し残念だけど。

「そろそろ、帰ろうか」

鞄を持ち、立ち上がる。
澪ちゃんと梓ちゃんは扉の方を凝視していた。

「にしても、あいつら覗くの下手だな」

やっぱり澪ちゃんも気付いていたのか。
梓ちゃんも同じ様子だった。

143: 2011/02/13(日) 10:24:38.65
合宿当日。駅前に集合となった。

『お嬢様、行ってらっしゃいませ。道中お気を付けて』

「ありがとう斉藤。行ってくるわ」

斉藤に送ってもらい、到着する。
集合時刻の30分前だけあって、さすがに誰も来ていない、か。

ベンチに腰掛け、目を瞑る。
別荘に着いたら、海へ行って、皆でご飯食べて、花火もして……
この合宿で、もっと梓ちゃんと仲良くなれたらいいな。
もちろん皆ともだけれど。


とんとん


背中を悪寒が走る。
肩を叩いた手を、思い切り振り払った。

「あ……」

梓ちゃんだった。
勢いよく叩き過ぎたせいか、手の甲を押さえている。

『すみませんでした。
 見えない所からいきなり触るなんて、驚かせるだけでした』

深く頭を下げられた。

144: 2011/02/13(日) 10:26:30.43
「違う、今のは違うの。
 謝らないで……お願い……!」

そうだ梓ちゃんのせいなんかじゃない。
目を閉じていた私が悪いんだ。それに時間から考えて誰かが来ることくらい分かっていたはずなのに。

と、視界の端にりっちゃんの姿を見つけた。
手を伸ばし、梓ちゃんの手を取る。

「お願い。さっきのことはもう気にしないで。
 手、痛かったでしょう? ごめんなさい、梓ちゃん」

折角の楽しい合宿なんだ。
これ以上引き摺る必要が無い。最悪、皆の雰囲気を悪くしてしまう。


「どーしたんだよ二人共。手なんか繋いじゃって」

「うふふ、なんでもないのよ?」

よく見れば、梓ちゃんの表情はどこかぎこちないが、恐らく大丈夫かと思う。
いくら相手がりっちゃんでも。

『律先輩、思ってたより早いんですね』

「思ってたより、って失礼だろ……」

145: 2011/02/13(日) 10:28:28.69
「そうだ、梓ちゃんは水着持ってきた?」

こくん、と頷く。
海に出られることを確認して、鞄から防水筆談シートを取り出す。

「今の内に渡しておくわね。これなら海でも使えるから」

差し出すが梓ちゃんは受け取らず、吹き出していた。
何か、変な事をしただろうか?
不安に思っていると、梓ちゃんも鞄から筆談シートを取り出す。

『私も用意していたんです』

同型の筆談シートだ。
さすが、梓ちゃんはしっかりしていた。

「……二人共、息ぴったりじゃないか」

『面白い事もあるものですね。でも折角持ってきてもらったんだから、ムギ先輩のを使わせてもらいます』

「はい、どうぞ」

梓ちゃんは受け取ったペンとシートを鞄に仕舞う。
私は、別にどちらを使っても気にはしないんだけどなぁ。

と、向こうから歩いてくる澪ちゃんと唯ちゃんの姿が見えた。

146: 2011/02/13(日) 10:30:12.57
電車に揺られ、目的の駅に到着する。

「それじゃ梓ちゃん、ここからちょっと歩くわ」

その道中のこと。

『まさか別荘にお手伝いさんが居たりは、しませんよね?』

「そのつもりだったらしいけれど、断っているの。
 さすがに皆も居心地が悪いと思うから」

筆談を待っていると、梓ちゃんの体が歩く勢いそのままに前に浮く。

「梓ちゃんっ!」

踏み込み、手を伸ばして支えた。

「ふぅ……梓ちゃん大丈夫? 段差には気を付けてね?」

なんとか間に合い、地面との接触は避けられた。
彼女はその場に足を止め、ペンを走らせる。

『ありがとうございます。もう、歩きながらの筆談は止めた方がいいですね』

「……危ないし、その方が良いかも……」

鞄にメモ帳を落とし、歩き出す。
何か、一切の発言を許さないオーラが背中から滲み出ていて、なんだか梓ちゃんが怖かった。
地に吸い付いた足がなかなか離れず、何か声を掛けようと口を開いた。
それでも梓ちゃんは歩みを止めずにいて。
それは声が出せていなかったのか、無視をされたのか分からない。

147: 2011/02/13(日) 10:31:51.35
到着。
するやいなや、唯ちゃんとりっちゃんが砂浜に向かって走る。
そして息を吸い込み、二人で何かを叫んでいるようだ。
去年の事から想像するに、「うみだー」といったところだろうか。

「ほら、ムギちゃんも一緒に」

「え? 私?」

戻ってきた唯ちゃんに手を引かれ、足を踏み入れる。
熱い砂に足を埋め、思わず転げそうになった。

「なんでもいーから叫ぼう!」

「せーのっ!」

半ば強制的に連れてこられ、しかも打ち合わせ無しでいきなり始まる。
海だ―っ。
声を張り上げたつもり。
内容は二人と同じつもり。
二人の言いたい事を、私はちゃんと理解出来ていたのだろうか。

「はっ……はっ……!」

一度叫んだだけで、肺が酸素を求める。
あまりに久しぶりのことだったから、驚かせてしまったかもしれない。
なんとか息を落ち着かせた私の肩を、りっちゃんが叩く。

148: 2011/02/13(日) 10:33:21.88
「よし、まずは荷物置いて、海水浴だな」

「私……ちゃんと出来てた、かしら……」

「良い叫びっぷりだったよ。ムギの大きな声なんて久しぶりに聞いた」

それはそうだ。声量を自分で判断出来なくなってからは確かに無い。
いや、正確には失聴直後の一回があったかな。


「梓ちゃん、可愛い水着ね。似合っているわ」

彼女は、可愛いピンクのワンピースだった。

『ムギ先輩も、素敵ですよ』

嬉しいことを言ってくれる。
こういう恥ずかしい事を正面から伝えられるのは、筆談の長所だろうか。

『澪先輩のインパクトが強過ぎて、私達は全体的に霞んでいますけど』

「うん……そうよね……」

あのスタイルにあの水着では、仕方がないか。
私も去年はショックを受けた。
思えば……食事量は減らしているのに体重計は今一つ良い数値を示してくれない。
本当に唯ちゃんが羨ましいな。
それに梓ちゃんだって、ワンピースタイプの水着を着ているくらいだし。

149: 2011/02/13(日) 10:35:30.73
「ムギー、どした?」

「澪ちゃんが凄いってことよ」

なるほどね、と澪ちゃんを見つめるりっちゃん。
そんな彼女の肩を叩き、梓ちゃんは筆談シートを見せる。

『羨ましがるのは分かりますけど、ねぇ?』

笑いを堪えている。顔がすごく引き攣っていた。
正直二人共あまり差が無いような……っていけない。

「よし梓……律先輩と向こうで話そうか」

りっちゃんは梓ちゃんの肩をがっしり掴み、そのまま海へ突き落とした。


「おかえりなさい」

『律先輩ひどいです……』

「でも、二人があんなに、お互いに遠慮の無いことをし合ったのは初めてじゃないかしら?」

……梓ちゃんなりに、先輩と距離を縮めようとしたのだろうか。
私にはそう感じ取れたのだけど。

『そんなに深い考えは無いですよ。ただの、普段の仕返しです』

それは何て良い事だろう。
つまり仕返しが出来るほどの関係なんだ。

150: 2011/02/13(日) 10:37:25.66
『安心してください。律先輩が嫌いってわけじゃないです。
 時々だらしないなぁって思うことはありますけど、そこそこ尊敬はしていますから』

それは仕方がないことだと思う。
私の考えでは、りっちゃんは普段はもっと気を張っているんだ。
羽を伸ばせる軽音部だからこそのんびり出来て、それが真面目な梓ちゃんの目にはだらしなく映ってしまうだけだろう。

「そこそこ、ね。私はこの合宿で梓ちゃんの考えが変わればいいと思うの。
 こういう場を設けた以上は、私達はもっとお互いの事を知り合わなきゃ。ね?」

『そうですね。それじゃ、ムギ先輩も海に行きましょうか』

差し出された手を掴む。
小さな手だ。触れてみるとやっぱり違うな。

パラソルの下から離れ、二人で砂浜を歩く。
少し前を歩く梓ちゃんの表情は、あくまで平坦で、何を考えているのか分からない。
私はこんなにドキドキしていて、顔はきっと強張っているし、手が汗ばんでいるのに、彼女は平気だなんて何か嫌だ。

軽く声を掛けた。ちょっと口が震えてしまったかも。
向けられた表情は今まで通りで、それが一瞬で驚嘆の物に変わる。
横から飛び込んできた影に、梓ちゃんは押し倒された。

「ゆ、唯ちゃん……?」

いつもの光景だけど、屋外で、しかも水着で行われているのはちょっと……刺激がある。

151: 2011/02/13(日) 10:39:53.36
ヒドイよあずにゃん! ムギちゃんとばっかりいちゃいちゃして!

違います! っていうか背中が痛いです! 離れてください!

あずにゃん分が足りないんだよぉ~!


なーんて。
ちょっと想像。読めないけど、きっとこういう流れだろう。
この二人の、この絡みは何度も見てきたから。
梓ちゃんが先に折れるのも分かってる。

梓ちゃんは押し倒されてがっちりとホールドされている。
あれでは唯ちゃんが満足しない限り逃れられない。
さすがに可哀想に思えたので、とりあえず助けてあげよう。

「唯ちゃん、梓ちゃんが困っているわ」

「いや、これぐらいでは足りません!」

と、私に伝える為に両手を離す唯ちゃん。
その隙を突いて、梓ちゃんの反撃。
逆に唯ちゃんが押し倒されるようになった。

「梓ちゃん、大胆……」

なんだろう、唯ちゃんの顔が心なしか色っぽく見える。
それに反応したのか、梓ちゃんは見る見るうちに真っ赤になり、海へ向かって全力疾走。

「あはは、逃げられちゃったぁ。あずにゃんはやっぱり照れ屋さんだね」

多分あれは、咄嗟の行動故に予想外の結果になってしまって驚いたんだろうな。
何にせよ、唯ちゃんとの仲は相変わらずだけど、それでも安心できるものだった。

152: 2011/02/13(日) 10:42:02.26
「それじゃあ皆、使ったお皿とかは簡単に纏めておいてね。あとで私が洗っちゃうから」

夕食が終了し、あとはしばらく休憩して練習再開となる。
その間、後片付けをしていようかと思った。

『わたしも』

「本当? ありがとう梓ちゃん」

簡易手話で伝えてくれた。
小さな事でも、意思の疎通が出来るのは嬉しいものだ。
食器を持ち、梓ちゃんと共にキッチンまで向かおうとした私を、りっちゃんが引き止める。

「折角だから、じゃんけんで負けたヤツ、二人にしないか? ムギばっかりにやらせるのは悪いよ」

あくまで自分がやるとは言わない。
勝負の結果、言い出しっぺのりっちゃんが負けるのもまた面白いだろう。


「じゃんけん――ぽん!」


「悪いな。結局ムギがやることになって」

「気にしないでね。じゃんけんだもの」

「まー、私も負けた訳だけど」

結果として、私とりっちゃんが皿洗い担当。
しかも一回で勝負が決してしまったのだから面白い。

153: 2011/02/13(日) 10:44:26.67
食器を洗い始めると両手が塞がる為、会話が無くなる。
と言っても、皿洗いは個人作業であるし、それで問題はないのだけど。

「面白いように分かれたわね、りっちゃん。
 もしかしたら裏で何か仕組まれてたりして」

彼女は手に持つお皿とスポンジを置く。
それもなんだか乱暴に見える動きで。

「それはないだろ。いつもそういうのを言い出すのは私だし、
 ……少なくとも、私達がムギを――――ありえないから」

いけない、読めなかった。

「ごめんなさい。私を、何って?」

「ムギを、騙す、裏切る、絶対しない。
 それだけは絶対にしないし、アイツらにもさせない」

ひどく真面目な表情。いかにりっちゃんが真剣か、それに怒りが読み取れた。

「だからさ、そういう事を言うのはやめてくれよ。
 そりゃあムギは耳が聞こえないんだから、内緒で打ち合わせなんて簡単だし、疑うのも分かる。
 でも、やらない。信じてくれ」

「そう、ね……ごめんなさい」

私だって信じていたい。
でもそれは本心か。根の性格が歪んでしまっているんだから、疑わしいものだ。
無神経でぶっきらぼうな発言も増えたし、何度も皆を傷付けてきただろう。

154: 2011/02/13(日) 10:46:27.37
りっちゃんが、洗ったお皿を手に取る。

「話の続きは、要らないよな」

この話を続ける意味は無い。
どんどん雰囲気が悪くなるし、唯ちゃん達も怪しむだろう。
軽くこくん、と頭を振る。それを見たりっちゃんは食器を拭き上げ、棚に戻しだす。

「ムギのおおばかやろー、か」

りっちゃんの言葉を思い出す。
間違ってなんていない、確かに私は馬鹿だ。あの時よりもっと馬鹿になった。



なんでこうなるんだろう。
今日は特に、危ないバランスで居続けている私。親睦会はただの綱渡りになってしまっている。
不意に口を突く卑屈な言葉は、皆の表情を沈ませ、気まずさを演出する。
自傷の渦は一向に終着する気配を見せてはくれない。

肩に置かれた手が、私の意識を引き戻す。
そうだ、確か今は練習中だった。

「ムギ、具合が悪いのか?」

もちろんそのようなことはなく、どちらかと言えば問題があるのは内側で。
無意識を意識するあまり、反って不自然に、それは表に出てしまう。
時計を見やる。練習を始めてからまだ10分ぐらいしか経っていなかった。

155: 2011/02/13(日) 10:49:46.18
「私……先に休ませて」

これじゃ、駄目なんだ。
水面から顔を出そうともがけばもがくほど、沈んで行ってしまう。
濁った水。音もなく何も見えない世界はそんな底無し沼のようで。

「皆、ごめんね。練習、出来なくて」

随分自然に出せるようになった、笑みを貼り付ける行為。
足取りも軽く見せ、皆に心配は掛けまいとする。
言われても聞こえない。背を向ければ後は振り返らず歩くだけだった。


扉を乱暴に開ける。
部屋に用意された5つのベッドの内1つへ倒れ込んだ。

あの時以来の、思考を放棄する為の睡眠だ。
泥のように眠る。とはまさにこのような事を言うんだろうな。
ふかふかの生地は私の体を優しく包んでくれ、眠りを促す。
よほど疲れているのだろうか。あっと言う間に意識が薄れていった。


夢を見た。
それは先ほどまでの私の、巡る思考の続きのようだった。
居るのは水の中。
夢だからだろうか。何も疑問に思わず、私はただそのままぼーっとしていた。

159: 2011/02/20(日) 16:17:33.33
ふと、目が覚めた。
いつの間にか布団が掛けられ、頭は丁寧に枕の上にあった。
誰かがしてくれたんだろうか。

時刻は、午前4時を過ぎたところ。
天井の明かりが点いている。
皆を起こさぬよう、そっとベッドから降りて部屋を出た。

大きく伸びる。
昨日の分を取り返さなくては。
結局合宿初日、私は少しも練習をしていない。
さすがにこれでは皆に怒られてしまうだろう。
早く寝た分早く起き、その時間を練習と、朝食の準備に充てよう。
それくらいはしてもいいはず。


スタジオには既に先客が居た。

「りっちゃん……?」

「もう大丈夫か、ムギ」

「ええ、心配掛けてごめんなさい」

りっちゃんは軽く笑みを返し、またドラムに向き直した。
音を立てないようにしているのだろう。ドラムセットには布が掛けられていた。

「ここは防音設備がしっかりしているから、音を出しても大丈夫よ?」

「……だろうと思ってたけど、なぁ」

ぺいっ、と布が放り出された。

160: 2011/02/20(日) 16:18:59.40
「りっちゃん、早いのね」

「昨日は早く寝たからな。目が冴えちゃって」

「それでドラムを演奏しに? りっちゃんって楽しそうに叩くものね」

「私は、き、っ、す、い、のドラマーってヤツだからな」

りっちゃんはにへら、と笑う。
その笑みは唯ちゃんに似ていた。

「ちょっと合わせてみるか。さすがに一人じゃ心細くて」

「だったら、皆より一足早く新曲をやってみる? 譜を持ってきているの」

聴力を失ってから、ずっと考えていた物。
聞こえない音を記憶を頼りに引き出して、頭の中で組み立て続ける。
それを一曲分。
家の者に何回も感想を貰って、何回も修正を繰り返した。
自信があるとは言えない。そんなことは間違っても言えない。
こんな風にあっさりと出せた理由は分からないけど、りっちゃんならしっかりと答えを出してくれるだろう。

「お、桜ヶ丘のベートーヴェンの新作発表だな」

聴力を失った身なら分かる。あの人が偉人なのは当たり前だ。
耳が聞こえないという境遇が同じだけで、やっている事が同じであるだけ。
その功績や実力まで同じようにはなれない。

「あくまでお試しよ。部長の立場から見て、これが使えない物だったらそれでも構わないの」

「そんなのやってみなくちゃ分からない。やる前からマイナスに考えてどーすんだよ」

161: 2011/02/20(日) 16:20:31.98
それから、ちょっと二人で簡単に流してみて。
真剣な顔のりっちゃん。この曲に関して色々考えていてくれるんだろう。
そして休憩。

「はい、どうぞ」

「さんきゅー」

りっちゃんの前にカップを置く。
いつもはすぐに口を付ける彼女が、それより先に行ったこと。

「新曲な、良い感じだよ」

「本当? お世辞じゃなくて?」

「当たり前だろ。きっと皆も納得してくれるよ」

納得してくれるのは嬉しい。
でも、何かおかしい所があれば、ちゃんと指摘はして欲しいと思っている。

「ま、この曲に関しては大丈夫だよ。後で皆にも見せようか。
 それで、別の話があるんだ。ちょっと真面目な話になるから、出来ればしっかりした返事が欲しい」

話、なんだろう。
今までのどんな時も、りっちゃんは今のような表情はしていなかった。
真面目と言えば真面目な表情なんだけど、どことなく緊張のような物が混じっているように見える。

「……明々後日、な。ちょっと場所は遠いんだけど、夏祭りがあるんだ。
 一緒に行かないか?」

「ええ、勿論!」

別におかしくもない話。即答できる。
そんな私をりっちゃんが手で制した。

「違うんだ……その、二人で行きたい」

162: 2011/02/20(日) 16:22:04.57
二人、で。

「それでも構わないけれど……どうして?」

「その時に、大事な話があるからで……」

なんだかよく分からないけれど、わざわざこうして言い出すということは、とても大事な話であるのだろう。
そして、それは今言えない事。

「分かったわ。そのデートの誘い、お受けします」

「……」

「だって、二人きりで祭りに行くのよ? デートでしょう?」

りっちゃんは照れくさそうに頭を掻く。
軽く溜め息をついて、立ち上がった。

「もうそういうことにしといてくれ。朝食の準備しよーぜ」

「りっちゃんって、料理出来たの?」

「梓といいムギといい、本当に失礼だな……」


朝食の準備は、どちらかといえばりっちゃんがメインで進む。
手際が良く、かなり出来るようだ。
その姿はやっぱり意外な物で、感心出来るものだった。

163: 2011/02/20(日) 16:23:41.76
有能な人間、というのはやはりいるもので。

「お嬢様、本日はどちらまでお送りすれば宜しいのでしょうか」

「いいえ、今日は徒歩で駅まで向かうわ。ありがとう斉藤」

「左様でございますか」

現在、私の知る限りで最も手話が上手い人物。
ここまで、どれだけの努力と研鑽を重ねてきたか、想像に難くない。
それも私の為に、だ。

「……もう行くわ。今日は大切な、約束の日だから」

「はい」

服装髪型確認良し、忘れ物は無し、お金も勿論ちゃんとある。

「お気を付けて、行ってらっしゃませ」


結局、今日の事に関しては何も聞かれなかった。
大切な用事であるが故に、無関心――と言えば語弊があるかもしれない。
そうだ。詮索はしない、というやつだろう。

夕暮れ時とはいえ、夏場。気温は決して低くない。
が、優しく吹く風は髪を運び、体に纏わりつく嫌な感触を飛ばす。
清々しい気分が頭一杯に広がり、今日という日を良い思い出にしてくれそうだった。

勿論、りっちゃんの言う『大事な話』を気にしていないわけじゃない。
でもわざわざ祭りに誘うぐらいだから、きっと暗い話ではないのだろう。

164: 2011/02/20(日) 16:25:37.34
電車を乗り継ぎ、現地到着。
少しでもデートという雰囲気を出すために、敢えて現地集合にした。
規模の大きそうな祭りで、辺りはたくさんの人で賑わっている。

りっちゃんを待たせる事がないよう、それなりに早く着くようにした。
しばらくは、このままぼーっと待っていよう。
……時折、敏感になった鼻を突く良い匂いが辛いけど。
すぐにお腹が減ってしまいそうだ。

およそ5分くらいだろうか。
手鏡を覗いて髪を整えていると、前方に影が差す。

「りっ」

ではない。通りで影が大きいと思った。
やっぱり祭りだけあって、こういう人はいるものだな。
如何にも素行が悪そうな、恐らく年は同じくらいだろうか。男性が1人、私の前に立っていた。

「――? ――?」

私が中途失聴であることを知らないその男性は、話し方も滅茶苦茶で読もうと思っても読めない。第一読みたくない。
とりあえずこの場を離れてしまわなければ。
無視して背を向け、歩き出す。
と、肩を掴まれた。

「離して、くださいっ」

突然の事に驚いた私は、つい声を荒げてしまう。
それが彼にとって不快だったのか、状況が悪化する。

165: 2011/02/20(日) 16:26:50.50
仕方がない。
本当ならこんな人、話すだけでも嫌なのだが、事情を説明してさっさとご退場願おう。
知って尚、初対面の厄介者と関わろうとする度量はなさそうだし。
髪を掻き上げ、補聴器を晒す。
と、私の補聴器を見つめる男性の背後に映るのは、私の待ち人だった。

「すんませーん。その子耳が聞こえないんですよ。
 口説きたかったら手話を勉強して出直してくださいね」

いこーぜ、と私の手を握りそのまま歩き出すりっちゃん。
唖然とした表情の男性を置いたまま。


「遅くなってゴメン」

「ううん、助けてくれてありがとう」

手を引かれ、その場を離れた先のこと。
内容は助けた、とは言い難いものだったが、あれがあの状況での最善の策だっただろう。
あんなのに、一々構っていられない。

「じゃ、回ろーぜ。はい」

りっちゃんは、ごく自然に手を差し出してきた。

「なぁに?」

「だから、手、繋ぐんだよ。逸れたら大変だろ? ほら、特にムギの場合はさ」

それは尤もで。おずおずと差し出した手だったが、りっちゃんの手が素早くそれを引っ掴む。

「行きますか。ムギ隊員!」

166: 2011/02/20(日) 16:29:16.31
内容としては極々普通の屋台巡りだ。
どちらかといえば食事が中心だったけど。

りっちゃんはずっと私と繋いだ手を離さず、屋台の人達の反応は『奇異の目』に尽きる。
それでもりっちゃんは気にせず……というより話題に出さず、ただ明るく居た。
私は半ば引っ張られるように、でも楽しんでついて行って、ある程度お腹が膨れた辺りのこと。


「ここに、座って」

そう言ってりっちゃんは、一足先に草むらに腰を下ろす。
周囲の明かりは若干弱く、隣のりっちゃんの表情は読みにくい。
そのまま口を開こうとはしていないりっちゃんに、聞いてみた。

「……大切な話、って、なんだったの……?」

「やっぱ聞いちゃうんだなー」

もしかしてこのまま無かったことにするつもりだったのか。
こちらとしては、りっちゃんとのデート以外に、「大切な話」の方も大事だったのだけど。

「ムギの耳が聞こえなくなってから……私なりにいろいろ頑張ったよ。
 なんとかムギに触れるようになろうとして、苦手な勉強も頑張った。
 夏休みが終わったら文化祭で……あれからもう一年が経ってしまうんだよな。
 私、ちゃんとやれてたか? こんなでも、ムギの事、一番に考えてやってきたつもりなんだ」

「たまに、暴走しちゃうところもあるけど、ね? りっちゃんは立派。
 しっかりやれてなくても、私は変わらずにりっちゃんと一緒に居たい、って思ったはずよ」

そう、本当だ。
何度も彼女は、私を助けてくれた。救ってくれたんだ。

167: 2011/02/20(日) 16:31:43.82
「りっちゃんのこと、好きに決まってるわ。
 離れろ、って言われても離れないんだから」

りっちゃんはそのまま地に背を預ける。
額に手を当て、笑っていた。

「サンキュ、ムギ。
 じゃあ、今日誘った一番の理由な」

上体を起こし、空を仰ぐ。
その姿のなんと様になることか。

「本当は、賭けなんだ。
 でも、私は信じてる」

話が読めず。

「私は、ムギと一緒にこれを見に来たかった」


りっちゃんが夜空を指差す。
一筋の閃光が空に向かって一直線に伸びてゆき……
大きな花を咲かせた。
ぱぁっと広がる光の羽。どうやらここは距離も近いらしく、その迫力は凄まじいものだった。


どおぉん


確かに感じた。
その花火は、私に音をもたらしていた。

168: 2011/02/20(日) 16:33:40.45
「え、うそっ」

突然の事に、思わず耳を押さえる。
何故聞こえるのだろう。
私はもう完全に聴力を失った。いくら音が大きくても聞こえないはずなのに。

「やっぱり、分かるんだな」

「どうして……?」

小さく2発。少し空いて大きく1発。小さく1、2、3発。
目を閉じても、それが分かる。

「ちょっと落ち着け。
 ムギも経験あるだろ? 打ち上げ花火っていうのは、お腹に響くものだからな。
 これなら……ムギにも分かるかも、って思ったんだ。
 もし駄目だったら、最低なことするトコだったけど」

そう言われても、落ち着けはしなかった。
強い空気振動がお腹に響く……なんてどうでもいい。

それはただの音で、耳はただ機能している。
私は目を閉じて、ただその音を感じていた。

169: 2011/02/20(日) 16:35:18.11
「終わっちゃった……」

総花火数は多いはずだったのに、今までの花火の中で最も短く感じた。
充実した時間こそ早く進むもので。
だからこそ、この余韻にずっと浸っていたかった。


目を開ける。
隣にりっちゃんが寝そべっているだけだった。

「もう、良いのか」

「ずっと待ってもらってごめんなさい」

「私は寝てただけだぞ」

まぁ、嘘だろう。
それにりっちゃんに隠し通す気は最初から無いようだ。

「実を言うと、私も寝てたの」

「こんな所で女子高生二人が寝てたのか。そりゃ危ないな」

二人で笑い合う。
こんなに楽しい気分になれたのは、りっちゃんのお陰だ。
もう少し話していたかったけど、さすがに時間も時間で。

「んじゃ、そろそろ帰るか」

飛び上がるように起きた彼女は、私に手を差し出す。
先ほどのような、乙女な雰囲気は無かった為、私も躊躇なく手を握ることが出来た。

170: 2011/02/20(日) 16:36:22.28
「実はな、私の賭けはまだ終わってないんだ」

「どういうこと?」

賭けというのはさっきの花火のことか。

「ムギは、打楽器の経験は有るか?」

打楽器……打楽器の類なら、トライアングルやカスタネットを幼少時に使った事があるような。

「本当に小さい頃にしか触ったことがないわ」

ふんふん、と頷いている。
一人で納得されると困るのだけど。

「夏休み中のいつか、練習に出てこられるか?」

「ええ。基本的にはいつでも出られると思う」

旅行の予定も入っていない。
入っていたとしても、それは軽音部の活動に比べたら些細な事だ。キャンセルも入れるだろう。

「ムギと私で、ポジションチェンジだ。ムギ、ドラムやれ」

なんて急な提案だ。
ここまで来て大がかりな改革。
そもそもりっちゃんは、ちまちました物が嫌いだったはずじゃあ?

「そんで、この夏休みの内に実践で使えるぐらいにしてしまおう」

171: 2011/02/20(日) 16:37:57.82
りっちゃんの提案は私を想っての事だろう。

彼女の考えは分かる。
演奏の音量を、体に伝わる衝撃で補完する。
鍵盤に優しく触れて音を出すよりも、手首を振るってドラムを打ち鳴らす方が全身で感じ取れるはず。

「りっちゃん、随分無茶なことを言うのね?」

「私はいつだって無鉄砲。問題が起こればその場で何とかするタイプだからなっ」

それに、と一旦間を空ける。

「ムギの顔からは、無茶だの無理だのはちっとも感じられないよ」

何故だろう。
まだ分からないのに、彼女は賭けだって言っているのに、今から楽しみでしょうがなかった。
りっちゃんの言う事ならきっと正しい。信じられる。

「早速、明日からしましょうか?」

「変に火がついちゃったかぁ。真面目なのは私のキャラじゃないんだけどな。
 ……んじゃ明日の昼、部室に集合な」

「せめて10時くらいからにしない?」

「分かった分かった。お嬢様の仰せのままに」

丁寧に頭を下げる。
その姿は、私が普段から見ている家の者の動きとそっくりで、綺麗な物だった。

175: 2011/03/13(日) 07:27:02.59
「りっちゃん。こんな椅子に座ってたのね」

「小さく感じるかも知れないけど半座りに慣れてくれ。デカい椅子に深く腰掛けたら小回り効かないからさ」

翌日、約束通り部室に集まった私達。
まずは私から、りっちゃんに授業を受けることになった。

「で、スティックな。新品だから気にしなくてしなくてもいいぞ」

むしろ新品である方が気にする。
お金を出させてしまったじゃないか。

「これ、いくらだったの? お金払うわ」

「気にすんな。そんなに高いスティックなんて無いんだし。
 それに自分好みに加工したりするから、新品の方が良いだろ?
 手の形に合わせて削ったりさ」

「なるほど。りっちゃんのスティックをそのまま借りたら、反って悪かったりするのね」

そのまま受け取っておくことにした。


「さて、緊張の一瞬なわけだが、まー軽く叩いてみてくれ」

軽く息を吐き、叩く。


たしんったしんっ


これが、りっちゃんが感じていた音。

176: 2011/03/13(日) 07:29:05.17
一通り叩いていく。
感触はどれも少しずつ違っていたが、中でもバスドラムはまた別だった。
直接触れていないのに、音が聞こえる。

「どうだ?」

「分かるわ。キーボードよりずっと、演奏してる、って感じられるの。
 これならきっとやれる」

「じゃあムギはドラム、私はキーボードで練習だな」

りっちゃんは本当に嬉しそうに、にかっ、と笑う。
賭けはりっちゃんの勝ちだった。

「ドラムはリズムが命。つまり、今まで私達がやってきたみたいに、ムギに合わせる事はしない。
 ムギが全体のリズムを作るんだ」

難易度が高くなるということ。
でもやれそうな気がしていた。
それは高揚感から出た、ただの強がりなのかもしれない。

「好きこそものの、上手なれ。
 よね? りっちゃん」

「もー無茶は慣れっこ、だよな。
 んじゃームギ。私もキーボード使わせてもらうよ」

次は私が教える番か。
どこまでやれるかは分からないけど。

177: 2011/03/13(日) 07:31:49.85
「ん? 大丈夫だよ。一通り分かるし、練習もしたから」

今何と?

「私が言い出したのに、私にも教えろ、って言えないだろ?
 ちゃんと練習はしてたんだからさ。
 ある程度演奏出来るようになってからの提案だ」

つまりは。
りっちゃんはまた私に内緒でそういう努力をしていた、ということか。
そう考えると、彼女はしっかりと休息を取っているのか疑わしくなる。

「ムギー? どうしたー?」

ぴらぴら手を振って、けろりとした態度を取るりっちゃん。
それはもう努力がどうとかっていうレベルじゃないのよ。

「……そうね。そもそも私には、教える事は出来ないんだもの。
 今から間に合わせることを考えたら、それぐらいじゃなきゃ無理ね」

わざとらしく大きな溜め息をつく。

「私の方は、大丈夫だよ。
 というわけでムギ、早速練習だ」

178: 2011/03/13(日) 07:36:03.47
たたたたたたたたたたたたたた。


メトロノームの動きに合わせ、ひたすら、ただひたすらに叩く。
リズムキープは基本中の基本。

前を見ると、鍵盤に指を滑らせるりっちゃんの後ろ姿が見える。
りっちゃんの目に、私の姿はこんな風に映ってたんだ。
今までの演奏で、りっちゃんの目に私の背中はどう映っていただろうか。
リズムに乗って踊るその背中に、見えない物がどれだけ圧し掛かっているのか。


視界の端。扉が開く。

「あ」

澪ちゃんと、梓ちゃんだ。
まず、視線が私とりっちゃんの間を行き来する。

「え、ドラム? キーボード?」

口をぱくぱくさせる澪ちゃん。
梓ちゃんからシートが差し出される。

『こんにちは。お二人共、いきなりどうしたんですか?』

「ええ。実は私、ドラムを始めようかと思うの。
 それで、りっちゃんがキーボード」

「ちょっと、急じゃないか?
 だって、その、文化祭まで時間無いぞ?」

ごもっとも。
それは私もりっちゃんも分かってる。

179: 2011/03/13(日) 07:38:06.21
「その為の練習だよ。
 私達は間に合わせるつもりだし、無理だ、って澪達が判断したらいつでも言ってくれ」

澪ちゃんはどこか呆れたように梓ちゃんと顔を見合わせ、答えた。

「分かったよ。理由はよく分からないけど、何も言わない」

『頑張ってくださいね』

練習の指揮を執る二人の許可が下りた。
後は頑張るだけ。

「で、澪達は何で?」

「練習に付き合ってくれ、って梓に。頼ってくれたのは嬉しいからさ。
 二人で練習するつもりだったんだけど、まさか律達が居るとは思わなかったよ」

「そうだなー。私も、何でこんなにやる気になってんだか」

さっきまでの真剣な表情はどこへやら。
りっちゃんは、最後までおちゃらけるつもりらしい。
あまり好まない話であるようだ。

「まぁでも、ムギはついさっきやり始めたばっかりだから、音を合わせられないぞ」

「じゃあしばらくは、個人練習になるな」

180: 2011/03/13(日) 07:39:24.69
『違和感があったわけですね。
 階段を上ってる途中に音が聞こえてきましたけど、律先輩の物とはなんとなく違うようでした』

その言葉に、りっちゃんと澪ちゃんが反応する。
あぁ、私に気を遣ってるのか。

「嬉しいわ。梓ちゃん、そこまで分かるくらいに私達の演奏を知ってくれてるのね」

そんな気遣いは無用で。
私はなるべく皮肉にならないように、言い方に気を遣う。

「私の音はやっぱり変?」

何でそこで止まってしまうかな。

『言いにくいんですけど、律先輩の方が力強いですね。
 ムギ先輩はムギ先輩で、丁寧だなって思いましたけど』

私だってまだ始めたばっかりだから、仕方ない。力加減なんて分からない。
丁寧だ、って言われても、それはリズムを合わせる事を意識していたからであって。

「肝心の律は? ちゃんと弾けるのか?」

「何とかなるだろ」

「ならないだろ。ちまちましたのは嫌いだ、って言ってたじゃないか。
 律は、キーボードもギターもやりたがってなかったし」

りっちゃんがいきなり立ち上がる。
その様子に皆がたじろぐ。

「じゃあ、見せようか」

181: 2011/03/13(日) 07:41:30.72
指が早くて、目で追えない。
そして澪ちゃんと梓ちゃんの表情から、それが確かな物であることが分かる。

「凄いな、律」

「……私がムギを巻き込んでるんだ。
 少なくとも、私は絶対に失敗しないつもりでいるよ。
 ムギは勿論、放課後ティータイムも、評価は落とさせない」

「ちょっと、ごめんね」

りっちゃんの前に立ち、頬を引っ張る。
弾力のある肉が形を変えていく。

「りっちゃん、何か変よ?
 どうしてそんなに強張った表情ばかりしてるの?」

本当は言わないつもりでいたけど、さっきの一言で許容量を越えた。

「―――」

「何言ってるのか分からないわ。
 ……りっちゃん無理し過ぎよ。私の為にあれこれしてくれるのは嬉しいけど」

もう私の目には、りっちゃんが疲れているようにしか見えなくなってしまった。
表情はそのままだから皆は気付いていないけど、その笑顔の裏に隠れているんだろうと疑ってしまう。

「ずっと何も言わなくて、りっちゃんに甘えててごめんなさい。
 でも私は、もう見てられないの」

「……無理してるのはお互い様」

腕を掴まれ、そのままゆっくりと下ろされる。

182: 2011/03/13(日) 07:43:21.42
「手話に読話に発声訓練に、それに聾学校に補習授業を受けにも行ってるだろ」

「知ってたのね」

確かに、耳の聞こえない私が、ノートテイクだけで授業に追いつけはしない。
皆から教えてもらったり、参考書を片手に自主学習に励む他、通級指導も受けに特別支援学級に通っている。
そちらがバレるとは思っていなかったのだけど……

「カマかけ、だよ」

……やられた。

「私を騙すことはしないんじゃなかったの?」

「時と場合に因る、って追加しといてくれ」

眉間に皺を寄せたキツ目の指摘にも、あっけらかんとしている。
どうも調子が狂うな。

「二人共、少し落ち着いて」

澪ちゃんと梓ちゃんが間に入る。
置いてけぼりの二人に、押し留められた。

「私、飲み物、淹れます」

別段、一触即発という訳でもない。
ただ少々棘のある言葉を交わしただけだったのだけど、普段の私のバランスから、不安がるのも無理はない……かしら。

183: 2011/03/13(日) 07:44:52.20
一旦収束した事態は、そのまま幕を引いた。
結果、私とりっちゃんは「明日から3日間、自宅でダラダラと過ごす」約束を取り付ける事で終了。

「梓隊員。修行が足らんな」

りっちゃんの軽口はいつものように戻り、梓ちゃんとの言い合いが始まる。
一旦のガス抜きは想像以上の結果を生んだ。
私も、今日は椅子の座り方もだらしなくさせてもらう。

「しっかり休むんだぞ」

「ありがとう澪ちゃん。頑張って休むわ」

そう言う間も、私の手はリズムを刻んでいる。
りっちゃんがそうだったように。

「今日はこれから二人はどうするんだ? 私は梓と練習するけど」

「まだやるよ。休むのは明日からだし」

「私は一人で基礎練習をやろうと思うの。さすがに皆と合わせられないから」

立ち上がる。
それに続くかのように、皆も準備を始めた。

184: 2011/03/13(日) 07:47:14.35
三人とは合わせないまま、ただ手首を振るう。

こんなに距離が近いのに、それをまるで遠くからのような心の距離があった。
それが新歓ライブの時の疎外感とよく似ていて、思わず目頭が熱くなってしまう。
涙ぐんでいることを気取られないようにか、顔がうつむきがちになる。
気分を紛らわせる為に入れた力が反って悪い方向に行ってしまったようだ。

「あっ」

スティックが私の手から滑り落ち、足元に転がった。
慌てて拾おうと屈むと、前方のタムへと頭を打ち付ける。

「なにやってんだムギ……」

「う、ううん、何でもないの。気にしないで続けて」

さっき、初めてドラムを叩いた時はどんなだった?
音が聞こえて、これから練習を頑張っていって、文化祭ライブを成功させるんじゃなかったのか。

頭を振り、目の前のドラムにスティックを跳ねさせたが、その動きはすぐに鈍くなった。
良くない傾向だ。形の上では練習していても、何も頭に入っていない。
目はメトロノームの動きを機械的に追っているだけで、腕と連動させてはいない。
手は確かにスティックを握っているけど、その動きは無意味な記号か何かであるように錯覚してしまう。

もう皆とは、一緒に音楽を楽しむことは出来ない。
本当に分かっているのに、いつまでも割り切れない。
それは私が子供であり、自分が障がい者であることと未だに向き合えていないからか。

185: 2011/03/13(日) 07:49:21.07
「ムギ先輩、お疲れ様です」

「ええ。梓ちゃんも、お疲れ様」

本日の練習はここまで。
りっちゃんから貰ったスティックを鞄に仕舞いこむ。

『ムギ先輩のドラム、すごく安心して聞いていられました。
 今日始めたとは思えないくらいでしたよ』

「そうかしら……リズムの基礎練だけだったし、実際の演奏とはまた違うと思うの」

『それでも、ですよ。
 私はドラムの経験無いですけど』

良い出来かどうかは自分で判断するものじゃない。
やるからには成功が必須条件で、その可否は狭い視野で決めてはならない。
だから練習するんだし、正直「休め」と言われても困っている。
りっちゃんとの約束は、守るつもりだけれど。


「澪ちゃん、梓ちゃん、これ。新曲作ったの。良かったら家に帰ってからでも、簡単に目を通してもらえないかしら?」

渡された譜を見つめ、驚きの表情を見せる。

「すごい、すごいですよムギ先輩!」

「ふふ、ありがとう」

「放課後ティータイムの曲は全部ムギの作曲だよ。才能なんて言葉じゃ片付けられないくらいだろ?」

いつの間にか居たりっちゃんが、梓ちゃんの背中から顔を覗かせる。

きっと梓ちゃんなら、家でもしっかり確認を入れてくれるはずだ。
もしかしたら御両親にも意見を貰えるかもしれない。

186: 2011/03/13(日) 07:51:04.00
「じゃあムギ、しっかり休むんだぞ。唯のことも私達が何とかしておくよ」

下駄箱にて澪ちゃんからの言葉。
さっさと靴を履き替えたりっちゃんに対しても、律もだぞ、と声を掛ける。
いつものように。

「だーいじょうぶだって。ちゃんと休むっての」

りっちゃんもいつものように、軽く答える。
そのやり取りにおかしい所など無かった。梓ちゃんも大した反応も示していない。

上手く言えないが、どことなくカッチリと噛み合っていないというか……
私が初めて会った時の二人は、もう少し息がぴったりだったような気がした。

「どうしたんだよ? 今日はぼーっとしてる事が多いぞ?」

「そ、そうね。もしかしたら疲れてるのかもしれないわ」

顔を覗き込むりっちゃんに、思わず答えてしまう。
彼女はにっこり笑い、言った。

「そう。そんな風に疲れた時には、疲れた、って言っていいんだよ」

柔らかい笑顔。それと言葉に思わず泣いてしまいそうだった。
が、腑に落ちない。

「……りっちゃん、自分の事を棚に上げるのは駄目よ?」

バレたか、とけらけら笑う。いつものりっちゃんだ。
私は、先ほどの疑問を気のせいと思うことにした。

191: 2011/03/31(木) 00:30:39.06
自宅待機が解けた朝。早速練習の為、登校する。
ちゃんと約束通り休んでいたので、今は遠慮する必要が無い。

――おはよう。早いのね――

「練習、頑張らないといけませんから。
 私がドラムをやることにしたんです」

部室の鍵を取りに行くと、山中先生と出くわす。
申し訳ないとは思いつつ、時間も惜しいので早々に部室へ行こうとしたが、鍵が無い。

――りっちゃん、いるわ――

「みたいですね。それじゃ、失礼します」

考えていることは一緒のようだ。
誰か居てくれるのはありがたかった。

ちなみに山中先生との会話は、練習がてら補助無しで行っている。
本人曰く、「現役から遠ざかり過ぎて、手話を覚えられるほど脳が働かない」そうで。
それを利用させてもらっていた。

――頑張って――

会話が成り立たないことも多いけれど、自分が失聴者であることを極力感じさせない会話は、嬉しいと思う。

192: 2011/03/31(木) 00:31:27.44
「おはよームギちゃん」

部室にはりっちゃん含め、全員集合していた。
皆は演奏の手を止める。

「皆おはよう。どうしてこんな早くから?」

「りっちゃんとムギちゃんの事だから早く来るだろうし、ってあずにゃんが」

梓ちゃんの予想は大当たり。
実際私達は早くに登校し、こうして捕まったわけだ。

「ムギちゃんドラム始めたんでしょ?
 早速だけど合わせてみよう!」

唯ちゃんに手を引かれる。
でも、私はまだ人と合わせるどころか、一曲丸々演奏するだけの技量すら無い。

「待った待った。ムギも私も始めたばっかりだから、合わせるのは無理だって」

「私は確かにそうだけど、りっちゃんは弾けるでしょう?」

「……そうなんだけどさ」

がっくりと肩を落とすりっちゃん。
そのまま唯ちゃんに引っ張られていった。
何かあったのかしら?

193: 2011/03/31(木) 00:33:15.96
「ほらムギ、いつまでも鞄を持っていないで」

「そうね」

荷物を長椅子に置き、スティックを取り出す。

「しばらくは基礎練習が中心?」

「ええ。まだ曲の練習もほとんど出来てないの」

そっか、とベースを肩に掛け直す。
戻ろうとした彼女を呼び止め、先ほどの疑問について聞いてみた。

「りっちゃん、弾けないことにしていたの?」

「最初からな。唯には二人が交代したことしか話してなかったんだ」

「なんでわざわざ……?
 早い段階で皆と合わせた方が良いのに……」

澪ちゃんはくす、と口に手を当てる。

「きっと、ムギを置いてきぼりにしたくなかった、ってところだろうな。
 一人置いて、皆で合わせているってことを避けたんだと思う。
 ――――」

194: 2011/03/31(木) 00:35:17.09
何かをぽつりと呟いたみたいだった。
そして目の色には、先ほどとは違う暗い感情が混じっているように見える。

「澪ちゃん……りっちゃんと何かあったの?」

私の踏み込みに、視線が床に落とされる。

「……何かあったわけじゃない。私がどうしたらいいか分からないだけ」

「どういうこと?」



「今まで、私が一番律を知っているはずだったんだ。小さい時から一緒だったんだから」

「確か小学校の頃からだったかしら?」

「そう。あの頃から律は本当にだらしなくて、私も結構苦労してたよ。
 本当振り回されてばっかりで。
 それでも、好きだったし、一緒に居た」

好き、という言葉に思わず反応してしまいそうになった。
そんなことを言い出せる雰囲気じゃないのに。
そして、続きも大体予想出来てしまった。

「今は……勉強も真面目、テストは学年でもトップクラス、宿題を見せてあげることも無い。
 そればかりか部活も練習優先で、書類はちゃんと生徒会に提出するし……」

一旦、話を止めて大きく息を吐く。

「キーボードを……演奏するようになった。
 それこそ、今までの律がやってた軽音とは違うんだ」

つまりは、変わってしまった……ということ。

「別に、ムギを責めてるわけじゃないんだ……
 だらしなくて手の掛かる、って思ってたけど、そういう律はもう居ないんだ。
 こんなこと、律には言えないけれど……ちょっと寂しいな」

195: 2011/03/31(木) 00:36:20.46
「素直に伝えたら、良いじゃない。
 りっちゃんはきっと、嬉しく思ってくれるはずよ?」

りっちゃんに引っ張られて、ということは過去に何回もあったんだろう。
そして、それを嫌に思う事はなくて。
私は、もっと素直に甘えてもいいんじゃないかと思っている。
りっちゃんなら、そんな気持ちをしっかり汲み取ってくれるはずなんだ。

と、りっちゃんがこちらの様子に気付き、近付いてきた。

「なーんのお話?」

「澪ちゃんが話がある、って」

背中を押してあげた。
多分こうでもしないと澪ちゃんは一歩目すら踏み出せない。

「澪ちゃん。りっちゃんは、りっちゃんよ。きっと大丈夫だから」

「……んじゃ、外行くか。澪」



顔が真っ赤になった澪ちゃんの手を引いて、りっちゃんが部室に戻ってきた。

「ムギ、サンキュ」

「どういたしまして」

満足して頂けたようでなにより。

196: 2011/03/31(木) 00:37:23.55
一段落付け、スティックを置く。
ピアノとはまた違う、手と足を同時に動かす感触も大分掴めてきた気がする。

「そろそろ演奏やってみるか?
 もう私より正確だし、それに基礎連だけじゃ飽きるだろ」

「そんなことないわ。これでも十分楽しいもの」

音の無い世界に沈み溶け込んだ私にとって、このドラムは特別だった。
腕を伝わり、中心で広がる音。それが最高に心地良い。

「でもりっちゃんがそう言うなら、やってみようかしら」

「案外唯みたいに、けろっとやってみせたりしてな」

さすがにそんなに簡単にはいかないだろう。まだ二日目だ。
それでもやっぱり、一つ先のステップに進むことの嬉しさを感じられていた。


結果はさっぱりだったのだけど。
もうまるで訳が分からない。
両腕と足で違う3つの動きをする。リズムは単調だし、言葉にするのは簡単。
しかし、この3つ同時が厳し過ぎた。

「唯ちゃんみたいにはなれないのね……」

「気にするなムギ。律よりずっと素質あるって」

澪ちゃんの励ましが辛い。

197: 2011/03/31(木) 00:38:48.92
「これは練習あるのみだからなー……
 でも慣れさえすれば、勝手に手足が動いてくれるものだしな」

「りっちゃんも、そうだった?」

力強く頷く。
不思議と、そんな気がしてくる。

「始めたばっかりなんだ。それにムギが凄いことは知ってるよ」

ただ元気を出させる為の一言であっても。

「私なんて、凄くないわ」

「そりゃ本人には分からない事だからな。
 少なくとも、私にそう思わせたんだから、ムギは凄いんだよ」

多分、りっちゃんはいつだって正しいんだ。
嘘が私をこんな気持ちにさせるわけない。
心に染み込むのは、彼女の言葉が真っ直ぐだからだ。

いつの間にか遠くに離れた澪ちゃんが、りっちゃんに見えないように手を動かす。

『律は、不思議だよな。何故か、そんな気持ちになってくるんだ』

だから澪ちゃんも、好きになるんだ。
この幼馴染コンビが羨ましい。

198: 2011/03/31(木) 00:39:59.88
「それじゃ、私はここで」

皆と挨拶を交わし、別れた。
最近は練習に多く時間を取るようになり、完全下校寸前でバタバタすることも少なくない。
夏休みということもあり、電車内の人はいつもの顔ぶれとまた違う。

そのせいであるか、人の目は必ず一回は私の補聴器に向く。
今ではあまり気にすることでもなくなったけど、やっぱり不快なものは不快だ。
椅子にもたれ、目を瞑る。
目を開けていては、外を眺めようにも窓に反射してしまうからだ。
被害妄想と言われればそれまでだけど。

頭の中で今日の練習を反復しようとする。
自然に動く足に違和感を覚える。
公共内であるにも関わらず、自身の足が、はしたなく開いていた。

思えば、りっちゃんの座り方はいつもこんなだったような。
これがドラマーの性というものなんだろうか。
それが自然に出るということは、それだけの努力を今までしてきたからであって。
彼女は決して不真面目なんかじゃない。

知ることが無かったであろう彼女の一面を知れた事、ほんのちょっとだけ、この身に感謝したい。
ほんのちょっとだけだ。
生活はもちろん不便になったし、外を出歩くと一々心臓に悪いことばかり。
そんな私をサポートしてくれる仲間が居るのは、本当に幸せだと思う。


目を開け視線を窓に移すと、目的の駅まで着いていた。
慌てて降り、一息つく。


そう、感謝している。皆が大好きだ。

202: 2011/04/09(土) 22:43:25.80
『言うなら、社会へ向けての人格生成……もう面倒だから止めたいんだけど』

態度には出さず、りっちゃんは手話で愚痴り始める。
その内容に吹き出してしまう前に、彼女を目で制した。

『……高校生らしく楽しむべき行事はありますが、それでも決して気を緩めることなく……』

諦めたのか、渋々通訳を再開し始める。

2学期の始業式。
私と、通訳のりっちゃんは別枠に席を取っていた。
前回の時は他の生徒に混じっていたけど、今回からは教師も付き添う。
さっきの会話を止められなかった辺り、私達の手話は読めていないようだけど。


「疲れた」

りっちゃんが机に突っ伏す。
あの有難い校長先生のお話を、長々と通訳するのは大変だろう。
長文の通訳は初めてだったはずだ。

しかし彼女の通訳は、詰まることも無く、非常に正確だったのを覚えている。
それこそ、正式に通訳の仕事を引き受けても良いというくらい。

あれをやれと言われたら、きっと私は出来ないと思う。

203: 2011/04/09(土) 22:44:42.56
不意に、口を突いて出た言葉が。

「手話するの、嫌にならないの?」

そんな、りっちゃんに対して非常に失礼な言葉。
なのに彼女は、嫌な顔を見せず、むしろ笑みが見られた。

「ならないよ。
 手話を覚えないと、ムギと話せて嬉しいってことも伝えられないから。
 伝え合わないと、ムギのこと何も分からないもんな」

りっちゃんの手話の上達は早い。手の動きがたまに読めない時がある。
生きる為に手話が必要な私が、この様だ。
本当に、駄目さ加減があまりに過ぎる。
私がりっちゃんの傍に居られる為に、もっとりっちゃんに相応しい人間にならないと。

「つかさ、ムギから離れる訳無いだろ。
 私がこんなに頑張ってるのは、誰の為だと思ってる?
 ムギは何の為にこの学校に残って頑張ってるんだよ」

この学校に居るのは……皆と一緒に居たいという我儘。

「私はムギが好きだ。離れろって言われたら、ストーカーになってでも追いかけてやるからな」

「そう、ね。
 私も離れろって言われても離れないわ」

遠慮は要らなかった。
今の私がそれを言っても、失礼になるだけ。

204: 2011/04/09(土) 22:45:50.20
私だって、りっちゃんから向けられる好意は本物だって理解している。
りっちゃんが歩み寄ってくれるから、歩み寄れる。

私は今でも、聴者に向き合うのはごめんだ。
でも彼女達は違う。
人を区別するのは良くないと思うけど、彼女達に歩み寄るのは好きだ。
失聴者を避ける人が居るのは変わらない事実だし、私もそういう人とは関わりたくない。

私は悪くない。
健聴者同士でも、好きな人、嫌いな人の区別なんて誰でもやっている事だから。


いつの間にか眼前に居たりっちゃん。
私の両頬を摘んで伸ばす。

――難しい事考えるなよ――

やっぱり見透かされているなあ。

「そんなことよりな、もう新学期始まったんだから文化祭ライブのこと考えようぜ」

何だか難しい話に持って行ったのはりっちゃんの方なのに。

「そうね、私もまだまだだもの」

夏休みに頑張って練習した甲斐もあって、曲の演奏はなんとか熟せるようになっている。
それでもまだりっちゃんには遠く及ばない事は、ちゃんと自覚していた。

205: 2011/04/09(土) 22:46:57.11
「私は、ムギちゃんはもう十分過ぎるくらいだと思うけどなー?」

唯ちゃんがくるんと此方に向き直す。コードが綺麗に跳ねた。

「そうですね。ムギ先輩、すごく頑張ってます」

私は、まだ足りていないと思うけれど。
でもそれは自身の考えだ。彼女達には彼女達の考えがある。

「でも、失敗するわけにはいかないもの」

「ムギちゃん。もうちょっとリラックスリラックス。
 ほら、そろそろ休憩にしようよ!」

「駄目です、唯先輩、もう少しキリの良い所までやりましょう」

渋々従う唯ちゃん。
初めこそそうだったけど、表情はすぐに引き締められた。


「んじゃ、そろそろ休憩入れるか。ムギ、お茶頼むな」

「任せて」

一旦集合し、楽器から手を放す。
何か規則を作ったわけではないけど、最近の部活は時間で綺麗に管理されていた。
それもりっちゃんが先頭を切っているから。

206: 2011/04/09(土) 22:48:03.42
「ムギちゃん。さっきの続きなんだけど、やっぱり表情が硬いよ」

「そうかしら……?」

自分でそのつもりが無くとも、そうなっている可能性は十分にあった。

「失敗しちゃいけないから……仕方無いわ」

「もーまたそれだよ? 成功しなくちゃいけない、って訳じゃないんだから、気楽に行こうよ」

気楽に、と言われて出来れば苦労はしない。
私とりっちゃんの二人で勝手に進めた変更なんだから、失敗が許されないはずがない。

「……どんな気の持ち方でも、本番を前にしたら緊張するのは当たり前よ。
 失敗するより成功した方が良いのは当然だし、やっぱりどうしても、気が抜けないのかもしれないわ」

唯ちゃんは珍しくフォークの動きを止めて、私の話に耳を傾けている。

「やっぱり、その、音が分からないから、やってても楽しくない?」

「ううん、ドラム自体は楽しいの。でも皆と音を合わせている、って感じがあまりしないのも事実かしら」

「ねぇりっちゃん。何かいい方法ないのかな?」

フォークを咥えたまま腕を組むりっちゃん。
一頻り視線を回した後に出た答えは。

「考えとくよ」

207: 2011/04/09(土) 22:49:36.69
「そんな適当なこと言われてもな……」

「私が、ムギの耳を治せる訳がない。
 方法を考えはするけど、所詮一女子高生の知恵だからな。
 何とかしてみせるだとか、そっちの方がよっぽど曖昧で適当に聞こえるだろ?」

しん、と静まり返る部室。
誰も、何も言わない。
私も立場上、何も言い出せない。今の私にその資格があるのか。

「……悪い。
 なんか私、最近こんな発言ばっかりだな」

ケーキの最後の一口を頬張り、先に一人キーボードに向かうりっちゃん。
いつもとは違う、優しく撫でるような指遣いだった。

そんな彼女に合わせるように皆も食器を片付け、練習を再開する。
私も、逃げるように練習に没頭した。



音が分からないからってなんだ。
皆との演奏は、ずっと私の中で大切な思い出であり続けている。
それがあるだけで、私は軽音部として頑張れる。

私が音楽を出来るだけでそれは幸せなこと。
これ以上望むことなんて無い、出来ない、しちゃいけない。

もうどうしようもない事なんだから。

208: 2011/04/09(土) 22:50:37.30
一曲演奏し終わり、スティックを置く。
大丈夫、私はやれる。

「ムギ、そろそろ着替えた方がいいぞ」

「もう皆着替えちゃったの?」

今朝山中先生に渡された衣装に着替える。
改めて見ると、可愛いけど恥ずかしいのは確かだ。
今回のライブの為に、山中先生も頑張ってくれた。
在学を認めてくださった校長先生も、私を避けないでいてくれたクラスメイト達もそうだ。

「……皆。ちょっといいかしら」

「どーした? さすがのムギも緊張してきたか」

緊張ももちろんあるけど。

「皆のおかげで、こうしてライブまで来れたわ。
 ううん、ライブとか部活以前に、この学校に居られたのも皆のおかげよ。本当にありがとう」

「気にするなよ。そんな風に、礼を言われるようなことはしてないぞ?」

「お礼なら、このライブを成功させて返してくれたらいいからさ」

それっぽっちじゃ返せそうもない。
本当に、一生分と言っても足りないくらい。

209: 2011/04/09(土) 22:52:09.04
「私はムギちゃんと一緒が良かった。
 だから、この学校に居てくれてありがとう」


唯ちゃんは、いつも私の為に泣いてくれた。
それが私をただ心配する気持ちであることが、私にはとても嬉しかった。


「ムギの努力は知ってる。
 今度こそ、本当の意味で皆を喜ばせような」


澪ちゃんは、私が不自由なくやっていけるように、いつも考えていてくれた。
自分は何も出来ない、って思ったりもしたみたいだけど、そんなことない。


「ムギ先輩には、私達がついてます。
 折角のライブなんですから、馬鹿みたいに楽しまないと損ですよ」


梓ちゃんは、私が初めて仲良くしようとした健聴者の人。
遅れていても頑張って手話を勉強して、私と会話をしようとしてくれた。


「よく、ドラムの練習を頑張ってたと思うよ。もうとっくに私以上だ。
 ムギはムギの感じるままに演奏してくれていいぞ。私達もそれに乗っかるから」


りっちゃんは、いつだって私の未来の人生を照らしてくれた。
彼女が居なければ、私はきっと今とかけ離れたものになっていたに違いない。

210: 2011/04/09(土) 22:53:03.60
本番前だというのに、思わず泣きそうになる。

「私……頑張る。
 今まで私を支えてきてくれた人達全員の為に、精一杯演奏するから」


皆もきっと楽しみにしている。
以前は逆効果だった期待も、今ならしっかりと受け止められる気がしていた。

聴力を失ってから、丸一年。
このライブは、私にとって非常に大きな節目となる。
これはもう、作業じゃなくて演奏なんだ。
精一杯楽しもう。


「んじゃ行くか。遅刻はマズイ」

生徒会はスケジュール管理に忙しいし、あまり迷惑を掛けたくない。
もう思い残すことは無いし……行かなくちゃ。

「ムギ。手貸せ」

差し出された手に、思わず手を伸ばす。
りっちゃんの暖かい手に確かに握られた。

「手を握れば分かるよ。ドラマーとしてどれだけ頑張ってるか」

手を引かれ、そのまま歩き出す。
……こういう時でもやっぱりりっちゃんは人に気を遣っていた。
そういう性質か。

211: 2011/04/09(土) 22:54:02.22
講堂に着くと、少しの違和感。
窓や扉に分厚いカーテンのような物が取り付けられている。
それも二重三重である。
さらに言えば、講堂に入る時の人物承認も厳重になされているようだ。
言い方は悪いが、まるで危険区域。


「何かあったのかしら……?」

「これからあるんだよ」

そうして、りっちゃんは懐からある物を取り出した。

「ムギ。何も意味は無いからこれを付けて演奏してくれ」

それは耳栓だった。
何も無い、って……どう考えてもそれは有り得ない。
かなり、怪しい。

「えーと、つまりな……」

「良いわよ、りっちゃん。
 りっちゃんは考え無しに何かをするなんてしないもの」

元々耳は聞こえていないのだし、問題は無い。
耳栓なんてするのは、生まれて初めて。

212: 2011/04/09(土) 22:55:19.31
楽器を運び入れ、檀上へ。
まずは、一曲目。練習を思い出せ。

「ワン・ツー・スリー!」


いつの間にか、皆が耳栓をつけていた。
檀上から見渡す客席。観客はせわしなく動いているように見えた。
塞がれた講堂に、厳重なチェック。入口待機の生徒会の人が持っていた荷物。
最初から見当はついていたのかもしれない。
これが、りっちゃんの策か。

期待したかったけど、もしかしたら駄目なんじゃないかって、それをしなかった。
正直予想は出来なかったし。

振り下ろした手から衝撃が伝わる。
それと同時に、確かに私の体を動かす音を感じた。

唯ちゃんの音が、澪ちゃんの音が、梓ちゃんの音が、りっちゃんの音がする。


一曲目、終了。


振り返る皆の笑顔。
新歓ライブでの皆の顔は、私の目にはこんな綺麗に映っていなかった。
私は大丈夫、ということを伝える為に、こちらもとびっきりの笑顔で返す。

213: 2011/04/09(土) 22:55:53.89
二曲目、開始。


自分でも分かった。
多分私は、今までの人生の中で一番演奏を楽しんでいる。
まるでそう、空でも飛んでいるようだ。

ははっ、と笑い声が零れる。
まるで初めて音楽に触れたばかりの子供みたいに。
ただ馬鹿みたいに腕を振るっていた。


二曲目、終了。


正直、体は疲れてる。
でも終わりたくない。
この軽音をもっと楽しんでいたい。
今すぐ叩きたくてうずうずしていた。

そんな私の様子を察したのか、澪ちゃんがトーク中の唯ちゃんを制する。


『ごめんね、次行くよ、ムギちゃん』


三曲目、開始、終了。

214: 2011/04/09(土) 22:56:48.66
後片付けは、それはもう大変だった。
あれが私の為に、私に黙って行われたものだから、何もしないわけにはいかない。

そして、今年の桜高祭は終わりを告げた。


「校長先生に頼みに行ったんだ。
 近隣住民の迷惑にならない程度に、限界まで音を上げられないかって。
 それだけじゃ足りないからって、カーテンと耳栓だったわけだ」

「いきなりでびっくりしたわ」

「あんまり上品なやり方じゃなかったけど……ムギが喜んでくれたら、それで大成功だよ」

「ええ。ありがとう」

お世話になったドラムセットに手を乗せる。
また、あの時の感触が甦ってきた。

「お、やるか?」

「出来れば、ね?」


そうして、部室でもう一度ライブを行った。
音量を上げなくても皆の音が分かるような気がして、本当の意味で一体化しているように感じた。

215: 2011/04/09(土) 22:58:08.63
「ムギちゃんは、進路どうするの?」

高校三年生。人生において非常に大事な時期。

「ここよ」

資料を見せる。
ちなみに進路指導の先生方に調べてもらったもの。

「……遠いな……」

「大学側の、理解がある所らしくて。例えば過去にも聾者のホームステイ制度だってあるぐらいだって。
 福祉学科の学生がノートテイクを受けていて、それの報酬も出るとか。
 耳が聞こえないのは事実だから、こういう選択で行くつもりよ」

志望大学は遠い。
多分、皆とはそう簡単には会う事が出来なくなるだろう。
ただ、普通の大学では周りに迷惑が掛かってしまう。

「私もここにしよっかなぁ」

「はいはい私もそうする!」

そう言い出すのは予想してた。本当にどうかしてる。

「おーいムギ。なんだよその顔」

「進路はもっとしっかり決めて欲しいんだけど……」

「これでもしっかり決めてるよ。ムギと一緒のトコが良い。
 私は本当に頑張って手話覚えたんだからな。
 それが高校卒業したら使い道が無くなる、なんて納得できるか」

凄い台詞を聞いた。

216: 2011/04/09(土) 22:59:21.47
「じゃあつまり、りっちゃんは自分の都合で、私と一緒の大学を志望するのね?」

「おうともさ」

「もちろん私もそのつもり!」

えへん、と胸を張る唯ちゃん。
そんな威張った顔で言うことではないけど。
けど、嬉しい。

あくまで自分の為に。
それがたまたま私と同じ進路だっただけ。

「私も、同じだ。
 ムギと一緒の所、受けたい」

澪ちゃんも来てくれる。
皆、一緒。

「あんまり褒められた事じゃないかもしれないけど……
 でもムギと一緒に居たいのは律も唯も、私も同じだよ」

「ふふ、澪ちゃん、珍しいこと言うのね」

「まあな」

217: 2011/04/09(土) 23:00:54.72
彼女達は、私に歩み寄ってきてくれた。
私も同じ気持ち。

「ありがとう、皆……」

「だから偶然同じになっただけだっつの」

幾度となく私を助けてくれて、私に希望を持たせてくれた。
私は、大好きな皆と居られるのが何よりも嬉しい。

これからも彼女達との付き合いはずっと続いていくだろう。
傍にいてくれるだけで、私は大学でも頑張っていける。


「進路も決めたことだし、まずは新歓ライブのことを考えよう!」

「おぉーっ!」

「演奏だけじゃないぞ。このままじゃ梓が一人になってしまうからな」

「まぁまぁ澪ちゃん。私達がしっかり演奏したら、それが勧誘になるわ」


もちろん、軽音も続く。
初めて触れた時よりもっと強く想うようになった。
音の無い世界でも、確かに主張を続けている。
どんどん大きさを増して私の心を打つ音は、これからも続いていくんだ。


                                    おわり

219: 2011/04/09(土) 23:02:41.40
リアルタイムで見てた
本当に良かった!お疲れ様でした

220: 2011/04/10(日) 00:20:03.34
乙です 難しい題材だったと思うけど
見事完走!お疲れ様でした
やっぱ、りっちゃんカッコいいわ

引用元: 紬「心に響いたの」