1: 2012/07/16(月) 22:00:48.44
懐かしい物を見つけた

思いつきで書いたタイトルと本文をほんの少しだけ書いたノート

「偶像失格」
恥の多いアイドルを、

後は何も書いていない
ほとんど新品のノート

もう捨てられたものだと思っていたからちょっとびっくりした

これを書いた日のことはよく覚えている


https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1342443648/

2: 2012/07/16(月) 22:01:39.12
2年くらい前のことだ
その頃には家事にも慣れ、時間に余裕ができた
他にできることがなかったからよく本を読むようになった

その頃に読んだ一冊の本

自らの人生を振り替える本だ

それに書いてあったのは、後悔だろうか、嘆きだろうか、もしかしたら懺悔なのかもしれない

私にはとてもじゃないけど分からなかった
ただ、悲しくなったことだけは覚えている

ふいに、私も自身自身の人生を振り替えようと思った
理由など単純だ
要するに私は暇だった

だからノートを開きさらさらと書き出す
タイトルはその本のものを真似た
書き出しも、だ

「恥の多いアイドルを」ここまで書いてペンが止まる

アイドルとして活動していた頃を思い出す

確かにいろいろなことがあったし、みんなにも迷惑をかけた

ただ

恥ずかしいとはとても思えなかった

私はわがままねとか、あれはあれで良い思い出ねとか、
思っているうちにもう続きを書く気は失せてしまった

2行だけ書かれたノートを見下ろし、ため息を吐きぼそっと呟く

「もったいないわね」

誰の耳にも届かない呟きは、けっして広くはない部屋に吸い込まれる

3: 2012/07/16(月) 22:02:42.47
やることがなくなってしまった

買い物には一昨日行ったばかりだ
二人しかいないのだからそんなに頻繁に行く必要はない

「はぁ、とりあえず料理でもしようかしら」

独り言の回数は結婚してから増えた
一人でいると静か過ぎて不安になるからだ

時間もあるし、手の込んだ料理を作ろうと思う
とある料理を思い出し、それを作ってみることにした
いわゆる、思い出の味ってやつだ

アイツの喜ぶ顔が思い浮かぶ
顔が自然とほころんだ
まあ、何を食べても、美味しいと笑うのだけれども

4: 2012/07/16(月) 22:03:24.43
「排水溝からhey hallo~♪」
歌を口ずさみながら準備をする

自分でも驚くくらい料理の手際はよくなった

鍋を火にかけながら、野菜を一口大に切る
そんな事ができるようになるとは、料理を初めた頃には考えもしなかった

まず、初めに使う材料を全て切ってから、鍋を火にかける
あとは、鍋が煮えるのを待つだけ
こんな方法で作っていたら、年下の師匠が「時間はもっと大切にしないと、ですよ」なんて

ほんとにいろいろな事を教えてくれた
これだけ料理、いや家事ができるようになったのはひとえにやよいのお陰、他ならないだろう

「まあ、優秀な師匠をもったものね」

今は普通に働いているやよいを思い出した


5: 2012/07/16(月) 22:04:14.33
そろそろいい感じだろう

お玉で少し掬い口に含む
うん、味は変じゃない
「あとは、ローリエでも入れて灰汁を取ったら煮込むだけね」
「……多分」
レシピくらい探せばよかったかもしれないと今更になって思う

しばらく経った

「名前はなんだったかしら?」
自分の記憶を頼りに作ってみたものだからそのあたりは曖昧だ

まあ、なかなかの味だと思う
でも少なくても昔食べた料理の味ではない
何が違う
どちらかというと何か物足りない気がする

「喜んでくれるわよね?」
料理を作り始めて何回目かわからない呟きをもらす

料理は完成した
予想していた物とは別のものになってしまったけど、美味しいから問題はないだろう

6: 2012/07/16(月) 22:05:25.16




後は、アイツが帰ってくるのを待つだけだ

適当に本棚から本を取り出し、ソファに座り読む
寝ながら読むのは苦手だった

世界的にもかなり有名な作品
登場人物が500人を超す大作だ

前にアイツが買ってきたときには「伊織には難しいかな」なんて言うものだから、
私でも読めるわよと意地を張って読み始めた

1日で挫折した

アンドレイやらピエールやら、人の名前を覚えることさえできなかった
ほらやっぱりと、笑うアイツ
悔しかったことを今でもよく覚えている

つまり、この本を読むのはアイツと当時の自分に対するリベンジだ
他にも色々な作品に触れ、今なら読める気がしていた

でも、あの料理を食べ、喜ぶであろうアイツの顔が頭をよぎり
とてもじゃないけど本に集中することなんてできなかった

ぼんやりとしながらページをめくっている

「いつの時代もやっぱりお金なのかしら?」

誰かに向けられたものではない疑問が吐き出された

7: 2012/07/16(月) 22:06:50.22





気付くと部屋は暗くなっている
どうやら眠っていたらしい

最近本を読みながら眠りに落ちるのはかなりの贅沢だ ということを悟った
そのことをアイツに言ったら「やっと分かってくれたか」って、嬉しそうにしていた

寝ぼけて、ぼぅとしていた
本は閉じられていてどこまで読んだか分からなくなった

ガチャッとドアの開く音がする

「もうこんな時間なのね」
時計の短針の位置を確認する

睡魔を頭の隅に追いやり意識を覚めさせた

急いで出迎える

「おかえりなさい、アナタ」私が言う
「ただいま、伊織」アイツが微笑む

いつもの変わらぬ日常風景

この後はいっしょに晩ご飯を食べて、テレビを見て、事務所での話を聞いて
こうして過ごす、普通だけど満ち満ちた生活

この日もそうなるはずだった

15: 2012/07/18(水) 19:49:26.28


「すぐに準備するから待っててね」

食事は基本的にリビングで食べる。
テレビがリビングにしかないからだ。

最初はテレビを見ながらの食事というものに抵抗があったけど今はもう慣れてしまった。

千早の歌がテレビからながれる度に二人で笑いあえる。

「さすが千早ね」

「ああホント、そうだな」

こんな会話を今日もできるかもしれない。
急いで準備をしよう。

料理を温め直し皿によそう。
それを今度はお盆に乗せて一気にリビングへと運ぶ。

ん?

どうかしたのかしら?
アイツの様子がおかしい。

普段は座って待っているはずなのに、なぜか突っ立ている。

お盆をテーブルに乗せながら「どうしたの?」と、聞いてみた。

すると、こちらを振り返りひどく悲しそうな顔をしたアイツが聞いてくる。
「なぁ」
「後悔してるのか?」
「結婚したこと」
「アイドルを辞めたこと」
「恥なのか?」

16: 2012/07/18(水) 19:51:34.57

「は?」

突然のことに狼狽してしまう。
「な、なにを言ってるのよ?突然」そう聞きながらとりあえず近づいてみた。

なぜ急にそんなことを聞いてきたのか理解した。

ソファの上に置きっぱなしにしていた少し厚めの文庫本
その文庫本の下にはさっきのノートも置いてあった。
それがずれている。

きっとノートの中を見たのだろう。

あんなことを書いていたのだから、未練があると思われてもしようがない。

何を言うべきか考えていたら「ごめんな」って、謝ってきた。
急に悲しくなってきた。

「俺のせいでこんな……」

生活をさせてしまって、とか続くのだろう。
私はたまらずコイツの言葉を遮った。

「わ、私は今の生活に満足しているわ」

落ち着け伊織落ち着きなさい、と心の中で唱える。
ここで間違えたら、アイツの心は私から離れていってしまう気がした。
そんなことは、絶対に嫌だ。


17: 2012/07/18(水) 19:52:42.32

「伊織?」

「……そのノートはね、思い付きで書いただけだから特に深い意味はないのよ」
私の素直な気持ちを私の言葉で伝えようと思う。
「後悔なんてしないわ。今までも、そしてこれからも」
「私はアナタと結婚して本当に幸せなのよ、恥だなんて、思うわけないじゃない!」

言葉を発する度に、私はこんなにもアンタのことが好きなのに何でわかってくれないんだろうと、
怒りにも似た感情が込み上げてきた。

そのせいもあり、最後の言葉は少しきつい言い方になってしまった。
ほとんど逆ギレだ。

言い方が悪かったと反省する。

呆気に取られたようなアイツの顔。
そんな顔を見たら落ちついた。

「ごめんなさい……こんな言い方するつもりはなかったのに……」 

ふぅと息を吐き出し私は「そのノートはね、」と続ける。

「本を読み終わったらね、急に今までを振り返ってみたくなったのよ。
 まあ、特に恥じることなんてなかったから、それ以上書けなかったんだけどね」

「あぁ、あれか……」アイツがぼそりと呟く。

知らないはずがない。
今この家にある本の半分以上は元々アイツの私物だったのだから。

「だいたい、後悔なんてしてたら毎日アンタのために家事をできるわけないでしょ?
 嫌いな人間相手に毎日愛想を振り撒けるほど私は、人間できていないわ」
「そんなことも分からないのかしら?」

恥ずかしくなってきて顔を背ける。

18: 2012/07/18(水) 19:54:33.31

「伊織……」
私の名前を呼ぶ。
そして、私をギュッっと抱きしめた。

「ごめん」

さっきの「ごめん」とは全く意味合いの違う謝罪。
私は単純だ。
これだけで、うれしくて、うれしくてもっとコイツのことが好きになってしまう。

照れ隠しのため私は上から目線で話す
「ま、まあ、誤解させるようなこと書いた私も悪いから許してあげるわ」
「だからね、後悔しているのか?とかそんな悲しくなるようなこと、もう言わないでね?」

顔が熱い。
私の顔は真っ赤になっていることだろう。

「ごめん」また謝る。
もう謝罪は要らない。

まだ抱きしめられている。
もうしばらくこのままでもいいかなって思ったけど、せっかく頑張って作った料理もあることだし

「とりあえず、ご飯にしましょ?」

いつもより少しだけ遅い晩ごはんをとることにした。



30: 2012/07/24(火) 21:44:51.94

「冷めちゃったし、温め直してくるわ。さっさと着替えてきたら?」

お盆を持ってキッチンへ。
温め直しリビングへ。

今度はちゃんと座って待っていた。
部屋着になっている。

料理をテーブルの上に置いた。
「あっ、これ……」
見た目で気付いてくれたようだ。 

さっきのこともあり、少し気まずい食卓となった。
こんな日に限って互いにテレビを点けようとしない。

31: 2012/07/24(火) 21:46:11.06


無言が続く

この後も続くかなと、思っていたけどアイツが何か言いたそうにしていたから
「どうしたの?もしかして、美味しくなかった?」
私は優しいので聞いてあげた。

「いや、今日のご飯もうまいよ」
「そうじゃなくて、あの、さ……今日ってなんかあったっけ?」
どこか要領を得ない問いかけ。

カレンダーを確認する。
「特に何もないわね……」

なぜ要領を得ないのか納得する。
「あぁ、そういうこと」

少し考えればすぐ分かることだ。
今日、私が思い付きで作った料理は、私とコイツの思い出の料理だった。
初めて二人で行ったレストランで食べた料理。

残念ながら似せることしか出来なかったけど……

急に思い出の料理を出されたのだ。
だから今日が何らかの記念日だったのか確認したかったのだろう。
私の顔色を伺いながら。

かわいいところもあるわね。





32: 2012/07/24(火) 21:48:34.37

「どうかしら?あそこの料理に似せようと頑張ったんだけどね、やっぱり難しいわ」

「そりゃそうだよ。向こうはプロなんだから。でもかなりうまいよ」
私に笑いかける。
昔からこの笑顔が好きだった。
「あぁそうだ、今度の休み行こうか?あのレストラン」

「予約もないのに行けるものなの?」

「まあなんとかなるんじゃないかな」

「適当なのね」
「でも、たしかにたまには、外に食べに行くのもいいかもしれないわ」
「毎日料理するのってけっこう疲れるから」

「じゃ、それで決まりでいいかな」

「ええ」
久しぶりのデートだ。
胸が高鳴らないわけがない。
「ふふっ、楽しみにしてるわ」

幼かった頃はにひひっと笑ったものだけど、
さすがに今の年齢であの笑い方はきついものがある。

「あと、」とコイツは少し照れくさそうに続け、
「いつもありがと、伊織」 そして微笑んだ。

突然の感謝の言葉。
「ん」
あまりに照れくさくてこれくらいしか返すことができない。

食事中の会話はそれっきりなくなった。
心地よい静寂。

私はこの空気がたまらなく好きになった。

33: 2012/07/24(火) 21:49:32.99


夕食も食べ終わり、片付けも終わった。

特に何かをするわけでもなくリビングでテレビを二人で眺めていた。
私たちは三人掛けのソファの両端に座っている。

テレビの中では千早が歌っていた。
歌唱力は私が765プロにいた頃からほかのアイドル達より頭一つ二つ飛びぬけていたけど
今はもっとすごく他を寄せ付けない圧倒的歌唱力といった感じだった。

「なあ伊織」

「何よ」

「さっきはごめんな」

「もう許したじゃない」

「俺さ、不安なんだ」

「何が?」

「俺が伊織を不幸にしてるんじゃないかって」

「さっきの話?別に、蒸し返すこともないじゃない」
もう終わった話でしょう?と言いたかったけど 、どこか真面目な顔をしていたから
とりあえず聞いてみることにした。



34: 2012/07/24(火) 21:50:31.69

はぁ、とため息が出た。

コイツの話をまとめると

まだ私がアイドルをやりたかったんじゃないか?

辞める必要はなかったんじゃないか?

趣味だった海外旅行、ショッピングを満足にできていなくて不満が溜まっているんじゃないか?

正直お金のない生活はつらいんじゃないか?

俺は不安なんだ
と、いったところだ。

35: 2012/07/24(火) 21:51:38.40

「そんなこといつも考えていたの?」
「呆れて何も言えないわね」

「……」
無言だ。
きっと肯定ととっていいだろう。

「恥ずかしいから、そう何度も言いたくないんだけど……私は今とても幸せよ」
何度も言わせないでと、心の中で毒突く。

「それともなに?私が嘘を吐いているとでも言いたいわけ?」
恥ずかしいことを言わされたから、少しだけ仕返しをしてやった。

「い、いや、そんなことはないよ」
慌てながら返す。

「じゃあ、どういう意味よ?」

「だから、さ……俺と伊織は2年前に結婚したよな?」

「そうね」 
だから何?と思いながら次の言葉を待つ。

「そして伊織はアイドルを辞めて、『水瀬』を捨てた」

正直、捨てたっていう表現はどうかと思う。
ただ、一切の経済的な支援を受けないと決めただけ、
別に勘当されたわけではない。

「アナタと一緒に居られるなら安いものね」
私の偽りのない本心だ。

「……かなり卑怯な質問になるんだけど」
言いにくそうにしていることがよくわかる。

「アイドルを続けたくなかったか?」



36: 2012/07/24(火) 21:52:41.77



ドキッとした。

なぜだろう?
何回もされた質問なのに。
雰囲気なのだろうか?

私とコイツが付き合うことがなかったらあり得た未来。
私はアイドルとして、コイツはプロデューサーとして成功を収めるそんな未来。
むしろ確率論的にこちらの未来の方がよっぽど確率が高いだろう。

大体アイドルと結婚なんてプロデューサー失格なのだから。

「確かにそんなことを考えたこともあるけど……」
私の気持ちは決まっている。
「今が幸せならそれでいいじゃない。ねぇ?」
「アイドルを続けていればそれはそれで幸せだったかもしれないけどね」
たらればを言っても仕方がないでしょ?と続ける。

「はぁ、ダメだな、俺は」
「伊織を信じきれてなかったみたいだ」
言っている事とは、裏腹にコイツの顔は少しうれしそうだった。

「さっきも言ったけど許してあげるわ、今日だけね」

「俺ってかなり幸せ者なんだな」

私もよ、とは言わないでおこう。
「あら?今更気付いたのかしら?」

何が面白かったのか知らないけどコイツは急に笑い出した。



37: 2012/07/24(火) 21:54:16.96

「そういえば、伊織は何かないのか?俺に言いたいこととか」
「俺だけ言うのも不公平だろ?」
しばらく経った後、こんなことを聞いてきた。

「そうね……」
聞きたいことならある。
けど、聞かないで済むならそれはそれでいいとも思う。

コイツが私の人生に責任を感じているように
私もコイツの人生に責任を感じている。

特に私の場合、私自身がコイツの人生を狂わせてしまったようなものだから当然だ。

ただ、コイツはなんだかんだでやさしいので私の求めている回答をしてくれるだろう。
私の求めている回答をもらえれば私はそれで満足なのだろうか?

そんなわけない。

本心が知りたい。
でも知るのが怖い。

考えがまとまらない。

38: 2012/07/24(火) 21:55:12.04
テレビから発される音だけが聞こえてくる。
気が付いたら、さっきまで見ていた歌番組はバラエティー番組になっていた。

芸人の笑い声に混じって春香の声も聞こえる。
歌にバラエティーと、広くアイドル活動を続ける春香を羨ましいと感じていたときもあった。

コイツは今何を思ってディスプレイの向こうの春香を見ているのだろうか。
チラッと顔を盗み見る。
でも見ただけでは何も読み取れない。

もし、765プロでプロデュースを続けたかったとか思っていたらどうしよう。
不安が襲いかかる。

怖いけど聞くしかないと思う。
意を決した。

39: 2012/07/24(火) 21:56:15.52


「……ねぇ、アナタは765プロでプロデューサーを続けたいって思わなかった?」

「……もちろん思うよ」
「俺が初めて担当したアイドル達なんだから、最後まで面倒みてあげたかったよ」

「……そう」

思っていたよりショックを受けなかった。
この答えを予想していたからだろうか。

でも声が出ない。
いや、出せない。
俯いてしまう。
手を固く握る。
泣いてしまいそうだ。

もうテレビの音も聞こえてこない。

私がこれ以上傷つかないよう、防衛本能が働いたのかもしれない。

こんなくだらない事考えられるなら大丈夫だろうか、そんなことを思っていたら
ツンツンと肩をつつかれたようだ。

「……ん、なによ?」
顔をあげたらそこには

「って言ったらどうする?」
いたずらっぽく笑う顔が目の前にあった。

40: 2012/07/24(火) 21:57:21.07



……これは、キレてもいいはずだ。

「いや~、さっき呆れて何も言えないとか言われたからちょっとした意趣返しみたいな」
私の反応がそんなに面白かったのか、まだ笑っている。
「俺と同じようなこと聞くんだもん」

悔しくて睨んでやった。

「もしかして、怒ってる?」

「……怒ってるわよ」
とは、言ったものの怒りよりは安堵の方が大きい。

今度は安心感からか泣いてしまいそうになる。

まあ、今日くらいは素直になってもいいかもしれない。

「……よかった」
どんな罵詈雑言よりも先に安堵からか、こんなことを呟いた。

「えっ?」

「よかったって言ったのよ、バカ!」
近くにあったクッションを投げつける。

コイツは本当にバカだ。
私がどれだけ不安だったかわかっていないのだろう。

41: 2012/07/24(火) 21:58:11.83

「私だって不安だったのよ?」
「だってアンタが765プロを辞めたの私のせいでしょ?」
「私があんなことしなければ、アナタは辞めずに済んだのに」

卑怯な手段を使ったことを思い出す。

「辞めたのは俺の意思だって、何回も言ったのに」
「伊織がしたことは関係ないって」

コイツはやさしい。
だからこそ罪悪感が拭えない。

私はコイツのやさしさに甘えているだけではないだろうか?



42: 2012/07/24(火) 21:59:06.83


「俺は、きっと伊織が何もしてこなくても好きになったと思うよ」

「と、突然なによ?」
どぎまぎしてしまう。

「少し不器用なところも、意外と仲間思いなところも、負けず嫌いなところも」
「そんなところずっと見せられて、意識するなって方が無理だと思わないか?」

「だから何なのよ?」
恥ずかしくないのかしら?
私は、聞いてるだけで恥ずかしいというのに。

「つまり、伊織はかなり魅力的だからもう少し自信を持ってもいいんじゃないかなってこと」
「そんな魅力的な伊織と一緒にいられるんだから後悔なんてしないよ」

あーかなり恥ずかしいなこれ、と私に聞こえていないと思っているのか呟いてる。

自然と笑みがこぼれる。

「バカね、私だって恥ずかしいわよ」
私の呟きはアイツには届かなかったみたいだ。

つまるところ、私の考えすぎだったようだ。


43: 2012/07/24(火) 21:59:54.82

「はぁ、なんかうじうじと悩んでいたのがばかばかしくなってきたわ」

「へっ?」
間の抜けた声。

「アナタと結婚できてホントに良かったってことよ」

「……俺もそう思うよ」

テレビを見たら、ちょうど春香が熱湯風呂に落とされそうになっているところだった。
もし私がアイドルを続けていてもこんな風にはならなかった自信がある。

「アイドル、なのよね?芸人じゃなくて」
当然の疑問だと思う。

「……多分」
「どこで間違ったのかな?」
苦笑いをしている。



44: 2012/07/24(火) 22:01:26.78

この後、ずぶ濡れになった春香が笑顔で新曲の宣伝をしていた。
この辺りは、アイドル魂を感じる。

アイドルって一体何なんだろう?
まあ今の私にはあまり関係のない疑問だ。

春香を見てまだお風呂に入っていないことに気がついた。
熱湯風呂で思い出したということは、少し癪だけど
とりあえずお風呂にでも入ろうと思う。

「お風呂、どっち先に入る?」

「じゃあ、先に入ってきていい?今日、結構汗かいてさ」

「早く上がってね」

アイツがお風呂から上がるまでの数十分の間に今日のことを思い出し、
私は幸せなのだと改めて感じていた。

「上がったよ」
声がかけられる。

「じゃ、私も入ってくるわ」



45: 2012/07/24(火) 22:03:10.54


お風呂から上がった。

「明日も早いんじゃないの?」
濡れた髪をタオルで拭きながら訊ねる。

「いや、明日は休みだよ」
コイツの休みは基本的には不定期なのでこんな会話を結構する。

「休みなら休みで早く言いなさいよ」

「明日レストラン行けそう?」

「行けるわよ」
主婦は基本的に暇な時間が多いことを知らないらしい。
「今日は何か疲れたからもう寝ましょ」
精神的な疲労だ。

「そうしよっか」

寝室にはベッドが二つ並んでいる。

「じゃ、おやすみ」
すでに髪を乾かしていたようで、ベッドにゴロンと横になった。



46: 2012/07/24(火) 22:04:31.70


「長いと面倒ね」と独り言を呟きながら、ドライヤーで髪を乾かす。
若いうちからスキンケアは大事らしいので美容液で軽くやっておく。

寝室に行くと、アイツが携帯を弄っていた。

「何してるの?」

「レストラン明日が定休日だったら嫌だなと思って調べていたんだよ」
こっちを向きながら答えた。

「それで?」

「明日は定休日じゃないね」

「そう、よかった」

「じゃ今度こそおやすみ」

「ええ、おやすみ」私が部屋の電気を消す。



47: 2012/07/24(火) 22:05:47.00



……今日くらいいいかしら?
いいに決まっている。

私のベッドから枕を持ち上げとなりのベッドに移す。
私も自分の物じゃない方のベッドに横になった。

「い、いおり?」
「どうかした?」
声だけで焦っているのがよくわかる。

「ダメ、かしら?」
この聞き方をしてコイツが断ったことがない。

「……しょうがないな」
言いながらもぞもぞと動いている。
そして、体をこっちに向けてくれた。

やっぱり落ち着くわね。

ぴったりと寄り添う。

「ちょっと暑いんだけど」

「今日だけだから」

「ん」

こうして、決して忘れることのできない一日が終わった。




48: 2012/07/24(火) 22:06:15.35





と、こんな感じだったかしら?

この後にあったことはわざわざ思い出すこともないだろう。
恥ずかしいし。

少し前のことを思い出していただけにしては、けっこう時間が経っていた。

「今日はもう寝ましょう」
またまた独り言だ。

56: 2012/07/31(火) 21:17:13.42





『後悔させない、絶対幸せにしてみせる』
『……だから、結婚してほしい』

これは夢だ。
何年か前にアイツに言われた言葉。

つまりプロポーズ。

そのときの私は、何を感じたのだろうか?

喜び?

それとも不安?

とてもじゃないけど言葉にするのは不可能だと思う。

言葉にしたとたん、それは薄くなってしまうから。

ただ、私の人生で二番目に嬉しかったことであることには違いない。

57: 2012/07/31(火) 21:17:56.96



見慣れた天井。

アラームがなる前に目を覚めた。
時計を確認する。
6時前だ。

アイツがいなくてもこの時間に起きてしまう。

「平気よ」と、口では言っても寂しいものは寂しい。

視線を横に向ける。
規則正しく、すぅすぅと寝息をたてている最愛の娘。

この子がいるから、私は頑張る事が出来る。


58: 2012/07/31(火) 21:18:35.50

それにしても、昨日ちょっと昔のことを思い出しただけで
あんな夢を見るとは思ってもいなかった。

「ふふっ」
思わず笑ってしまう。

顔を真っ赤にして言葉を吐き出していたアイツを思い出してしまったからだ。

そして、
「はぁ」、ため息を吐く。

どうやら、自分で思っていた以上に寂しかったらしい。

まだ、一人で食べる朝食に慣れることができない。
私がまだ『水瀬』だった時はたいてい一人で食事をしていたのに。

不思議なものね。



59: 2012/07/31(火) 21:21:45.27

一日くらい、いいかなと思い今日は朝食を抜くことにした。

時刻は6:30。
私は今、ソファに腰掛けアルバムを眺めている。

私が765プロを辞めた時に、小鳥が渡してきたアルバム。
『幸せになってね』そう言いながら大量のDVDといっしょに渡された。

小鳥の顔が涙で大変になっていたことは、きっと忘れないだろう。
最近でも会うときは、そのときのことをからかったりするし。

アルバムには大量の写真が時系列順に並んでいた。
これを小鳥が一人でまとめたのかと思うと、今でも涙がこぼれそうになる。

私の目線の先には、私が初めて765プロの事務所に行ったときの写真がある。
私は、驚いた顔していた。
写真の周りに、丁寧にその日の日付が記されている。

『伊織ちゃん初事務所 ~年○月』

63: 2012/08/03(金) 00:26:13.42




「ここ、ね」
時代を感じさせるビルの前に私はいる。
『たるき亭』の、のれんが目印と聞いていたから間違いないだろう。

ビルの裏に回り、ドアを開け、階段を上る。
これといって、特別な動作ではない。
だけど私はその一つ一つの動作に心地の良い興奮を感じていた。

2階まで登り、エレベーターの存在に気が付いた。
ただ、エレベーターは故障しているらしい。

ドアの前に立つ。
時間をかけて息を吸い、それより長い時間をかけて息を吐く。
これを何回か繰り返す。
少し落ち着いた。
興奮も緊張も。

64: 2012/08/03(金) 00:26:43.22


14歳、冬。
優秀な兄と、そのことをなにかと比べる父を見返すために私はアイドルを目指すことにした。

なぜアイドルか?と聞かれてもほとんど思い付きだったから答えようがない。

父にアイドルになると、伝えたところこの事務所を勧められたというわけだ。
しばらくして気が付いたけど、父を見返すために父に頼ってしまった私は間抜けだった。

だいたい、ここを勧めたのも単に自分の目の届く範囲に私を置いておきたかったからだろう。
この事務所の社長と父は、面識があるらしいし。

少し考えれば分かる事なのにそれに気付かないくらい私の胸は高鳴っていた。



65: 2012/08/03(金) 00:28:41.89

ドアの前で深呼吸を始め、数分が経った。

「ふぅ、よしっ」
ドアノブを握りひねると、ガチャッと音がする。
そのまま押しドアを開けた。

お世辞にもきれいな事務所とはいえない。
ただ、そんなことを気にする余裕はなかった。

誰もいなかった。

興奮も緊張もすぐに不安に変わった。

ここであっているはずなのに。
もう一つ上の階だったかしら?

疑問が浮かんでは消え、を繰り返す。

66: 2012/08/03(金) 00:29:40.02

「す、すいません」
「誰かいませんか?」
声が震えている気がする。

まずは、少し先までまで行ってみることにした。

窓ガラスには反転した『765』という字がテープのようなもので書かれている。

それを見てここで合っていると確信する。
でも誰もいない。

携帯を取り出し、今日の日付を確認する。
それと同時にスケジュールにも目を通す。

間違いなく、今日のこの時間だ。

騙された気分だ。
もう帰ろうと踵を返そうとしたとき、


67: 2012/08/03(金) 00:30:45.93


「「「ようこそ!765プロへ!」」」
突然声をかけられた。

心臓が止まってしまうんじゃないかっていうくらいびっくりした。

一体何が起きたのかしら?と、ただただ呆然としていた。

カシャッと音がする。
カメラを持っていたのは、事務員風の女性だった。
「ごめんね~、びっくりした、よね?」
カメラを持ったまま話しかけてきた。
「え~と、あなたが水瀬、伊織ちゃんね?」

「ええ、そうです」と固くなったまま返す。

「まずは、自己紹介をしましょうか」
事務員風の女性が続ける。
「私は、音無小鳥です。ここで事務員をやっています。」

やっぱり事務員だった。
「音無さん、ですね?」

「まだちょっと、よそよそしいわね」と音無さん。
「まあいいか、じゃあ次は春香ちゃんね」

「はいっ」頭にリボンを付けた普通にかわいい女の子だ。
「天海春香です。春香って呼んでね」

この後も千早、真、雪歩、律子、あずさと次々と自己紹介していった。

最後は私の自己紹介だった。
「水瀬伊織です。右も左もわかりませんが、精一杯頑張るのでよろしくお願いします」
そして、にこっと笑った。

私は猫を被るのが得意なのだ。


68: 2012/08/03(金) 00:31:31.62



写真1枚でよくここまで思い出せるものだと、我ながら感心する。

私の次にやよい、その次に来たのが確か……美希だ。
その次に亜美と真美が来て、年度が替わる少し前に響と貴音がやってきた。

アイツが来たのは、4月の初めだったかしら?

その頃の写真は……

「あぁ、あった、あった」

当時の765プロの全員が写っている。
写真には
『プロデューサーさん記念』と、ある。

プロデューサーさん記念って
これじゃ何があったか分からないじゃないと笑いあったこともあったわね。

今となっては、何もかもが懐かしい。

74: 2012/08/14(火) 12:44:02.36



「そこで転ぶなんてベタな事しないで下さいよ、社長」
事務員改め小鳥が声をかける。

「タイマーを30秒に設定したから大丈夫だよ、音無君」
ゆっくりとした足取りでこっちに向かってくる。

所定の位置に立つことができたようだった。

しかし、
転びこそしなかったものの、社長は半分も写真に写っていなかった。



75: 2012/08/14(火) 12:44:51.03


その日にプロデューサーが来ることは、2,3日前に社長から聞いていたので知っていた。

どんな人が来るのかと盛り上がった。
年齢、外見、性格、そして性別。
他にもいろいろ。

来ることだけを伝えた社長は他には何も教えてくれなかったからだ。

私は、早くアイドルとして活躍したかったのでどんな奴でもいいと思っていた。

だから

そのときの私は、アイツに惹かれていくなんて全く考えもしなかった。


80: 2012/08/21(火) 18:27:38.99



私が765プロに所属してから、1ヶ月と少し。
響、貴音もレッスンに参加するようになってから数日が経った日のことだ。

その日もいつもと同じようにレッスンだった。
学校が休みのうちに覚えられることは全部、覚えろってことらしい。

それなりにきついダンスのレッスンを終え、みんなで事務所に帰る。

事務所には、初めて見る人がいた。

「あっ、社長。今までどこに行ってたんですか?」
言ったのは、律子だったかしら。

ここにきて目の前にいる人が、この事務所の社長であり今の今まで顔を合わせていなかったことに気付いた。

何か言わなくちゃ、とは思ったけども社長は私の名前を確認し父は元気かどうかだけを訊ねた。

社長は忙しかったようで、プロデューサーがやっと見つかったこと、
そして、近いうちにこの事務所に来ることだけ告げてまた、どこかへと消えてしまった。

「……変わった人ね」
私の呟きに何人か同意してくれた。


81: 2012/08/21(火) 18:28:41.48

どんな人が来るのか盛り上がっていたら、あっという間にプロデュサーの来る日となった。

いつもより1時間ほど早く事務所に着く。

驚いたことことに、もうほとんど全員揃っていた。
いないのは美希だけだ。

「みんな、早いのね」
自分のことを完全に棚に上げて聞いてみた。

やっぱりどんな人が来るのか楽しみで、と春香に真。

今日は早く来ようと決めていた、と亜美と真美、それにやよい。

自分完璧だから、と答えになってない響。

響に誘われて、と貴音。

春香が急かすから、と千早。

男の人だったらどうしよう、と雪歩。

うふふ、といつもと同じように微笑むあずさ。

律子と小鳥は、パソコンの前にいた。
もう仕事を始めているようだ。


82: 2012/08/21(火) 18:29:22.56


ガチャッ

プロデューサーが来たらどうなるか、という話題で盛り上がっていると、ドアが開いた。

みんなが一斉に振り向いた。

みんな、だ。

興味がないような態度だった、律子も。

私たちが盛り上がっていたのを少し離れた所から見ていた貴音とあずさも。

まあ、小鳥にいたっては集中できないという理由で私たちの話に混ざっていたのだけども。

私はそろそろアイツが来るころだろうと思っていたので、みんながドアを振り向いているのを一人眺めていた。



83: 2012/08/21(火) 18:29:57.90

「おはよーございますなの」
やっぱり美希だった。

私が事務所に来てから、1時間あまりが経っていた。
普段ならばレッスンの集合時間だ。

つまり、美希はプロデューサーにこれっぽっちも興味がないのか、
純粋に今日プロデューサーが来るということを忘れていたわけだ。

みんなに見られれていることに気付いた美希が、
「今日はちゃんと間に合ったの」
と言ったのを聞き、本当に忘れていたということを理解した。

しかし、いつも通りだったとしても美希が来た時間は完全な遅刻だった。
誰も何も言わなかったけれども。

律子が何も言わなかったことには驚いた。
多分、興味ないというスタンスだったのに思い切り振り返ったことが恥ずかしくてしょうがないのだと思う。

みんなが恥ずかしそうに顔を合わせているのを見ていると、
私もドアを振り返らなくてよかったと改めて思う。

なぜ美希だと分かったのか?
そんなの簡単だ。

私はみんなの倍以上、時計で時間を確認していたから。
でもこれは、みんなに内緒にしないといけない。

「はぁ、あんたたちどれだけ楽しみなのよ?」
なんて言ってしまったからだ。

84: 2012/08/21(火) 18:31:00.38


美希が来てから1時間ほど経った。

「そろそろかな~」
春香のもう何度目か分からない呟き。

まあ、気持は分からなくもない。

プロデューサーが来るらしい時間までもう10分を切っているのだから。

ドアが開いた。

バッ、とみんなの振り返る音が聞こえるくらい静かになる。

入ってきたのは社長だった。

事務所を静寂の次に支配したのは、落胆だった。

「はあ」
小鳥はため息を吐いている。

社長はこの異常ともいえるこの空気から何か察したらしい。
「君、早く入りなさい」
ドアの向こうに声をかけた。

この発言から導ける答えは1つしかない。

プロデューサーはもうすぐそこに来ている。

事務所は再び静寂に包まれた。

89: 2012/08/25(土) 11:11:24.65

ドアが開く。

入ってきたのは、若い男の人だった。
事務所の雰囲気のせいか、苦笑いを浮かべていた。

「では、自己紹介とあいさつでもしたらどうだね」
社長が促す。

残念なことに、きっと必氏に考えてきたであろうアイツの挨拶はよく覚えていない。

後に、他の子に聞いてみたけど誰もしっかりと思い出すことはできなかった。
みんながみんな、それぞれに思うことがあったからだろう。

私は、レッスンばかりの日々からようやくアイドルへとなれるのだと興奮していたものだ。


90: 2012/08/25(土) 11:12:06.83

「……で、まずは、それぞれどんなアイドルになりたいか聞きたいんだけど」
なんとなくだけど、最後にこんなことを聞いてきた事は覚えている。

断る理由もなかったので、すんなり面談する流れとなった。
ちなみに、年齢の順で行われてあずさが少しムッとしていた。

アイツとの1対1での面談。

私はなんて答えたのかしら。
どうせ有名になって兄たちを見返したいとか言ったのだと思う。

全員の面談が終わるころには、昼が過ぎていた。

面談中に何を言ったのか分からないけど、亜美と真美の提案でこのままみんなでお昼を食べに行くことになった。


91: 2012/08/25(土) 11:13:24.98


昼食を食べ、再び事務所に戻ってきた。

今思うと、みんなで一緒にご飯を食べに行ったのは初めてだった。

「とりあえずこれからの方針について説明していいかな」
戻ってくるなり、アイツが話し始める。

長い話をまとめると、

俺が来たからってすぐにアイドルとして活動できるわけではないこと。
もしかしたら、これは私に向かって言っていたのかもしれない。

できるだけみんなの希望に沿えるように仕事を持ってこれるように頑張ること。

まずは、オーディションに向けてレッスンに今まで以上に力を入れてほしいこと。

こんな感じだ。
これだけのこと言うために10分も20分も使うのは、どうなのかしらね。

亜美と真美、美希は途中から話を聞いていなかったもの。

プロデューサーことアイツは、みんながどれくらい歌えるか、踊れるか確認したかったみたいだけど
社長の提案で写真を撮ってから普段の練習場所へと移動することとなった。


92: 2012/08/25(土) 11:13:58.42


移動。

こうして全員で揃って移動することも次第に減っていってそれを寂しく感じる時もあった。

向こうに着いてからは、またまた年齢順にダンスをした。

高校生組のダンスを見て、改めて思う。
響と真のダンスは特に上手い。

この後に踊らなきゃいけない私たちのことも考えてほしいものだ。

そして頭に来るのは、レッスンを必ずと言っていいくらい途中でサボる美希が
ほぼ完璧に私と一緒に踊りきるところだ。

続いてヴォーカルレッスン。

春香が音を何度か外すなか一度も外すことなく歌いきる千早の技術は群を抜いている。

亜美と真美、やよいの歌い方はとても独特だ。

アイツはこのレッスンを見て何を思ったのだろうか。

全員でまた事務所に戻りその日は解散となった。

アイツと初めて会った日。

その日は特別なことなどない普通の1日だった。


99: 2012/09/05(水) 23:52:08.78

アイツの言った通り、プロデューサーが来たからといってすぐに何かが変わったわけではなかった。

文句の1つでも言いたくなるけど、オーディションに落ちたのは私に原因があるのだから仕方がない。

765プロに待望のプロデューサーが来てから1ヶ月。
世間ではゴールデンウィーク。
あまりというべきか、ほとんどというべきか、状況に変化はなかった。

今日もレッスンだ。

そういえば、このあいだ響と真がなんかのイベントのバックダンサーとして、仕事をしてきたらしい。
自分の得意な事を生かせるなんて、なんだか羨ましかった。

私の得意な事ってなに?

私は本当にアイドルになれるだろうか?

当時の私のはこんなことで頭を悩ませていた。

100: 2012/09/05(水) 23:53:22.22



そんな私の心配とは裏腹に少しずつもらえる仕事が増えてきた。

ローカルな番組ではあったけれども、テレビ出演も果たし、
順風満帆とまではいかなくても、かなり順調に物事が進んでいた。

この辺りから、私はアイツのことを見直していた。
決して口には出さないけど。

しかし、仕事が増えてもレッスンはあまり減る事はなかった。
アイツと律子が決めた基本方針らしい。

厄介なことに、その日のダンスレッスンは響と真それに美希も一緒だ。

この二人がいると普段より進むのが早くなってしまう。

それに加えて美希。
私がなかなかできない部分を2、3回通しただけでほぼ完璧に踊り切られた時には
悔しさを超えて諦めを感じてしまったほどだ。


101: 2012/09/05(水) 23:54:17.30



レッスンは散々だった。

ポンポンと簡単に次のステップに行く二人と荒削りでもその二人に付いていってしまう美希。

その場にいた私がいかに居た堪れなかったか、語る必要もないだろう。

あたりも暗くなってきた頃、レッスンは終わりタイミング良く律子が来た。
さあ帰るから早く支度しなさい、と言っている。

と言われても、落ち込んでいた私はみんなと一緒に帰りたくなかったから
「もう少し、一人でやっていきたいんだけど駄目かしら?」
気が付いたら、わがままを言っていた。

律子はしばらく逡巡した後、何かあったら必ず連絡すること、絶対に一人で帰ろうとしないこと等
条件に従うならと許可してくれた。
もしかしたら、私の少し沈んだ顔を見て判断してくれたのかもしれない。

102: 2012/09/05(水) 23:55:02.53



額を汗が伝う。

ゴム製の靴底が床との摩擦によってキュッキュッと鳴る。

律子達が去ってから、どれくらい時間が経っただろうか。
時間を確認するためと、連絡が来ていないか確認するために携帯を開く。

体を動かすのを止めたら、汗がこれでもかってくらい出てくる。
不快だ。
汗を拭う。

メールが何件か来ていた。
全て律子からだった。

一番下にあったものから確認した。

水分補給をちゃんとすること、だそうだ。

「言われなくてもするわよ」
いまだ流れ続ける汗を拭きながら愚痴る。

この感じだと律子からのメールは全て確認する必要もなさそうだ。

時間を見たら、もう2時間近く経っていた。

美希に追いつくことは、できた。

2時間も余計にやってようやく追いつける。
なんだかひどく惨めだった。


103: 2012/09/05(水) 23:56:05.80

休憩がてら、床にペタンと腰を下ろし、水分補給をする。

こうして一人で広い空間にいると、いろいろと考えなくてもいい事まで考えてしまうらしい。

「不純だ」
ぽつりと呟く。

私がアイドルを目指した動機は、きっと事務所の誰よりも不純な気がした。

兄と同じことをしていては、絶対に勝つことはできないと悟った私は兄とは違う土俵に立つことにした。
決して兄が立つことのない土俵。

それが、アイドル。

なんてシンプルかつ、不純。

兄や父に私の実力を見せるために選んだ道なのに、頭に浮かぶのは響や真、千早にあずさ、そして美希。

敵う気がしない。
悔しいけれども。

幾度となく頭に浮かぶ考え。

私には、才能がないのではないか。

104: 2012/09/05(水) 23:56:52.15

頭に浮かんだ嫌な考えを振り払いたくて、再びダンスを始めた。

ただひたすら、無心になるために。
頭の中を空っぽにできるように。

実際、今までにないくらい集中できていたと思う。

「おーやってるな」
そんな少し間の抜けた声が聞こえてくるまでは。


105: 2012/09/05(水) 23:57:41.30

「なんで、アンタが、来たのよ?」
息が上がっているせいで上手くしゃべることができない。

「なんでって、律子が連絡したはずなんだけどな」

もしかして、と思い携帯のメールを確認した。
新着のメールはなかったけど、一番新しいメールを開いた。

すると、そこには

「あずささんを探しに行かないといけなくなったので送迎はプロデューサーにお願いしました。」

と書いてあった。

「確認できた?」

「ええ、さすがあずさ、としか言いようがないわ」
あれは、未知の力が働いてるとしか思えない。

「こんな感じでいいのか確認してもらいたいんだけど、いいかしら?」
息も整ったところで、ちょっと聞いてみる。

「いいよ。でも俺でいいの?」

「いいのよ、大体アンタしかいないじゃない」
こういうのは誰かに見られてやるというのが重要だったりする。


106: 2012/09/05(水) 23:58:33.77

踊りきった。

まだまだ粗削りだけれども。

「どう、かしら?」
振り向き、聞く。

「うん、いいと思うよ」
「前見たときよりずっと良くなった」

「そ、そう」
褒められるのは素直にうれしい。

「で、アンタは私のダンス、どう思う?」

「ん、普通に上手いと思うけど」
普通、という言葉に引っかかりを感じる。

「普通に、ね」
アイツに聞こえない程度の声で呟いた。

「……ところでなんで今日は一人でレッスンを続けたんだ?」

なんで?
そんなの決まってる。

悔しかったから。

ただただ、悔しかった。

今日のメンバーにダンスで遅れを取ったことが、じゃない。
いや、もちろん遅れを取ることも悔しい。

でも、遅れを取ったこと
それを私に才能がないのだから、と思ってしまったことが何よりも悔しかった。

107: 2012/09/06(木) 00:00:07.64


「才能、ないのかしら」
今度は聞こえるくらい大きさで呟く。

「伊織?」

しばらくの沈黙。

私は流れる汗を拭いながら、なんであんなことを言ってしまったのか、それだけを考えていた。

沈黙を破るのは私じゃない。

「なんて言うべきか分からないけど、これだけは言える」
「伊織には才能がある。だから、自信を持っていい」

面と向かってこんなことを言われるとは思わなかった。
すごくはずかしい。

でも

「今日のレッスンを見ないでよくそんなこと言えるわね?」
今日のレッスンはひどかったのに、と言わんばかりに反論する。

アイツは少し困ったような顔を浮かべた。

「もし、伊織が誰かと比べて自分に才能がないって言っているなら、それは違うよ」
「まあ、そういうことで悩むのは若いうちの特権だとは思うけど」

若いうちって、アンタも十分若いでしょうに。
そんなことを思いながら次の言葉を待った。

「俺は、伊織は伊織だと思うし、響は響、真は真なんだと思う」
「だから、伊織は伊織にしかなれないアイドルを目指せばいいんじゃないかな」
「まあ、それでも響みたいになりたい、真や美希みたいになりたいって言うなら協力するよ」
つらいだろうけど、と続いた。

「私にしかなれないアイドルって何?」
私はたまらず、質問をしていた。

「まだ、わからないよ」

「何よ、それ」
偉そうに語っていた奴の言葉とは思えない。

「人の話は最後まで聞こうな」
「まだ、俺と伊織が出会って2カ月くらいしか経ってないだろ?」

「まあそんなくらいね」

「まだ互いのことよくわかっていないと思うんだ」
「だから、さ」
少し間を開けて
「一緒に見つけよう、伊織にしかなれないアイドルを」
こう言ったのだった。

初めて、不覚にもドキッとさせられた。

でも不思議なもので、私の中にあった不安がみるみるしぼんでいくのを感じる。

お礼を言おうとしたけど、言葉が出てこなかった。
たった5文字の言葉だというのに。

感謝の言葉が言えなかった自分が少しだけ嫌になった。


108: 2012/09/06(木) 00:00:57.28



「とりあえず帰ろうか?今日は直帰して良いことになったから」
「だから早く着替えて来て」

その言葉で私はまだジャージ姿だということに気が付いた。

ええ、そうするわ、と言い更衣室に向かおうとした途端、私の体は床に倒れていた。
足が動かせない。
と、いうより

「痛っ」

ふくらはぎの辺りが今までに感じたことのない激痛に襲われていた。

「えっ、ちょっと伊織、どうした?大丈夫か?」
ものすごく慌てている。
痛みに耐えている私の方が落ち着いてしまう程に。

「どこが痛い?」
心配そうに聞いてくる。

「ふ、ふくらはぎ」
アイツは私の足を見ているようだ。

「もしかしなくても、つってるな」

「つ、つる?」

「こむら返りってやつだよ。伊織、ダンスし終わった後マッサージとかしてなかったからな」

能書きはいいから、早くこの痛みから解放させてほしい。

「こういうときは、っと」
私のつま先を握り、私の方へ倒した。

「痛っ、痛いってば」
ふくらはぎを伸ばされて、また痛む。

「でも、伸ばさないと」

これから数分間、私は痛みに耐え続けた。


109: 2012/09/06(木) 00:03:15.26



ようやく痛みも引いた頃
「慣れないことはするものじゃないわね」
ふくらはぎをさすりながら呟いた。

今は、アイツがとりあえず水分補給、と言って渡してきたスポーツドリンクでのどを潤している。

アイツはというと思案顔で突っ立ていたけれども、私が見ているのに気付いたのか、声をかけてきた
「足の調子はどうだ?大丈夫そうなら着替えて早く帰ろう」
「風呂でのマッサージとか、睡眠とかも聞くらしいからな」

「そうね」
立ち上がる。
少し違和感があるけど歩くのに支障はないみたいだ。

更衣室に向かう。

シャワーを浴びて着替えて20分。
私の中ではかなり急いだほうだ。

「待たせたわね」
アイツは携帯で誰かと話していた。

話し終わるまでの数分間、広い空間ではアイツの声以外何も聞こえなかった。

「お、着替えたか。じゃ、帰ろうか」

特に会話もなく車に乗り込んだ。

110: 2012/09/06(木) 00:03:51.83


「ねえ」
「なあ」

車に乗りしばらく経ってから、二人の声は偶然にも重なった。

「どうした、伊織?」

私が先に言えということらしい。
私はただ、無言の車内がすこし窮屈だったから、どうでもいい事を聞こうと思っていた。

「さっき誰と電話してたの?」
会話に困った時の「最近どう?」と同じくらいどうでもいい質問だ。

「今から帰るって音無さんと律子と後は、伊織の家に」
「けっこう遅い時間だったから、もう少し早く連絡しておけばよかった」

「そう」

「ああ」

会話が途切れてしまった。


111: 2012/09/06(木) 00:05:15.24

「で、プロデューサーの話は何?」
コイツが一人で話してくれることを願いつつ、聞いてみた。

「伊織はレッスンは好きか?」
よくわからない質問から入ってきた。

「レッスン?そうね、結果を出せるならいくらでもやってやるわよ」
あの人達を見返すためなら、と心の中でだけ付け加える。

「だったらさ、これから俺の仕事の終わりに練習しないか?」
「さっきから考えていたんだけど」

何を言っているんだコイツは、と思う。

「疲れているの?だったらそう言いなさい」
「家にならタクシーでも使って帰るわよ」

「冗談じゃないんだけどな」

二人とも前を向いているので互いの表情は分からない。

「そう」
「みんな来るわけ?」
一番気になっているところを聞いた。

「今のところは伊織だけかな」
「だいたい俺一人じゃみんなの手綱、握りきれないし」

「どうして私なの?私より上手い人だって普通にいるじゃない」

「どうしてって、今日の伊織を見たから、かな?」
「なんだかすごく応援したくなった」

もしかしたら、今日の個人レッスンをかなり見られていたのかもしれない。
急に恥ずかしくなってきた。

「じゃあ、なんで私一人だけなのかしら?」
これもけっこう気になっていた質問だ。

「自分が頑張っている姿ってあんまり見せたくないだろ?」
だからだよって、少し笑っていた気がした。

「それで、そんな勝手なこと許されるわけ?」

「とりあえず、音無さんには確認とったから大丈夫でしょ」
さっきの電話はこのことも話していたのだろうか。

「……考えておくわ」
会話がまたまた途切れる。

でも、気付いたらもう自宅の近くだった。


112: 2012/09/06(木) 00:06:02.58

門の前に車は止まった。

プロデューサーは、相変わらずでかいな、と呟いている。

カチッカチッとウインカーの規則的な音が聞こえる。

私は車から降りる。

「今日は、その、あの」
「ありがとう」

言えた。
そのことに対して小さくガッツポーズをした。

聞こえただろうか。

多分聞こえたのだろう。

暗くてあまりよく見えなかったけど、
「じゃあ、また明日」
「遅刻するなよ」
って言ったアイツの口元は、嬉しそうに見えたから。

走り去る車が視界から消えるまで私は門の前にいた。

考えておくとは、言ったものの本心は決まっていた。

ブー、ブーと携帯が震える。
律子からのメールだ。
「お風呂でよくマッサージしてからすぐ寝ること」

早く寝てしまおう。
今日は疲れた。

113: 2012/09/06(木) 00:07:02.92



この日、私とアイツの関係は小さくだけど確かに前進した。
その小さな一歩は、私にとってとても大きな一歩だった。

そして、私とプロデューサーの極秘練習は、私が竜宮小町のリーダーになるまでの約3ヶ月の間続いた。

毎週、1~2回のレッスン。
このレッスンが私の自信に繋がっていたのは、言うまでもない。

私にしかなれないアイドル。

どのようなアイドルかわからない。

でも、

アイツがいてくれるなら私は、どんなアイドルにだってなれる気がした。




131: 2012/11/25(日) 21:41:25.24



竜宮小町。

私の代名詞。

アイドル水瀬伊織と言えば、竜宮小町のリーダー水瀬伊織。

そう

私は、アイドルになれたのだ。



132: 2012/11/25(日) 21:42:04.22



夏まっただ中。

私たちは全員、事務所に集められていた。
社長まで。

一体何があるのだろうか、と不安半分、期待半分。

みんながそわそわしている。

律子が咳払いをして話し始めた。

そのときの話は、覚えていない。

ただ、気が付いたら私が竜宮小町というユニットのリーダーになっていただけ。

ただ、それだけ。

みんなの言葉が聞こえなくなるくらいの高揚感。

「じゃあ早速レッスンよ」

でも、ずっとそれに浸ることを許してはくれないみたいだ。


133: 2012/11/25(日) 21:42:52.42


アイツは今どんな顔をしているだろうか?

顔を盗み見る。

どこか穏やかな表情。

私が見ていることに気付いたのか、私の方を向き
「がんばれよ」
と、微笑むのだった。

私がここまで力をつけられたのは、アイツのおかげだ。

なのに、私のプロデュースをするのは律子。
文句などない。

でも

アイツは何も思わないの?
そんな問いが頭に浮かぶ。

いつの間にかアイツとレッスンをして、ワガママを言って困らせるのが日課になっていたようだ。

だからだ。

きっとそうに違いない。

自分に言い聞かせる。

ワガママを言えなくなるのが、なんかもったいないだけ。

それ以外に理由なんてない。

寂しいなんて思うわけない。
ましてや、アイツがプロデュースする皆が羨ましいなんて思うわけがない。

喜ぶべきだ。

私はやっとアイドルになれるのだから。

134: 2012/11/25(日) 21:43:29.07



律子のレッスンはアイツと比べて、結構ハードだった。

亜美とあずさは、途中でバテていた。
もちろん私は、大丈夫。
鍛え方が違う。

とは言ったものの、たった数ヶ月でこうも変わるものか、と自分でもけっこう驚いた。

「さすが伊織ね」
律子が言った。
「もっと厳しくしても大丈夫そうかしら?」

「へっ?」
私の口から間抜けな声が漏れる。

ちなみに、律子は本当に厳しくしてきた。

私は、姑にいびられる嫁のように耐え続ける。

もちろん、この厳しいレッスンがあったからこそ私たちは高みを目指せたのだと思う。

面と向かっては言えないけれど、律子には本当に感謝している。

135: 2012/11/25(日) 21:44:05.66


律子の手腕は大したもので、瞬く間に竜宮小町は有名になった。

歌番組にバラエティー、単独ライブ、ドラマとまさに順風満帆だ。

人気と知名度は、上昇を続ける。

もうこの国に私達のことを知らない人なんていないんじゃないか?
と、思ってしまうくらいに。

毎日は、レッスンばかりの日々よりハードで、それでも充実感で満たされる。
嬉しい悲鳴というやつだ。

嬉しい、と言えばもう一つ。

「765プロに竜宮あり」
事務所の知名度も上がり、みんなも有名になっていったのだった。

こんなに上手くいって良いものか、不安になったこともある。

不安は杞憂だったわけだけど。

私の当初の目的である、父親と兄を見返すというのは達成できた。

って思いたい。

なんたって竜宮小町は最高のユニットなんだから。

136: 2012/11/25(日) 21:44:38.43



季節は変わり冬となった。

忙しさに慣れると次第に、どこか寂しさを感じることが多くなっていった。

充実した毎日だというのに、不思議だ。

亜美も真美と遊べる時間が減り、寂しいようだ。

前みたいに事務所に行って、レッスンの始まるまでの時間を下らないお喋りで潰す。

そんな時間がひどく懐かしかった。

私は、強欲なのかもしれない。

アイドルも、みんなとの時間も、切り捨てることなんてできそうになかった。



137: 2012/11/25(日) 21:45:16.50


当たり前のことだけどアイツに会える時間なんてほとんどなかった。

アイツは一人で9人も担当している。
その全員が有名になったのだから、暇と呼べる時間は全くと言って良いくらいになかったらしい。

テレビ局とかで会っても、せいぜい2~3分会話ができる程度。

それでも嬉しいって思ってしまう。

私はどうやら、無償の優しさというものに非常に弱かったらしい。

あの秘密にやっていたレッスンが実は、残業代が出ていないと知った時の
嬉しいやら申し訳ないやら複雑な気持ちは、私をしばらくの間悩ませた。

そのせいだろうか?
私の中でアイツの存在が気になりだし始めた。

まあ、それが好意だと気付くのは、また別の話だけど。

138: 2012/11/25(日) 21:45:53.43

些細な事だった。

たまたまアイツが事務所にいて、私もいた。

こうしてアイツがパソコンの前に座っているのを見るのは、懐かしかった。

私の視線に気付いたのか、こちらを見る。

目と目が合う。

それだけ。

本当にそれだけ。

その瞬間のこと。
気付いてしまった。

ああ、好きなんだって。
コイツが。

しばらく悩んでいたのが馬鹿らしく思える。

頭の中にあったモヤモヤが晴れていく。

思えば、特別なことなんてなかった。

もっと話しがしたいのに照れくさくて、会話が続かない。

それなのにどこか幸せで、

今はただ、この時間がもっと続きますように。
それだけを願っていた。

139: 2012/11/25(日) 21:46:30.49

私の願いが叶ったのか、この後1時間に渡り、事務所に誰も来ることはなかった。

たくさん話しをした。

今までのこと、竜宮小町のこと、秘密のレッスンのこと。

今の私があるのはアンタのおかげなんだってことも伝えられた。
恥ずかしくて氏んでしまいそうだ。

アイツは、嬉しいなって顔をほころばせた。

仕事をしなくてもいいのかと気にはなったけど、あえて何も言わない。
これくらいのワガママは許されるべきでしょう?

小鳥が帰ってくるまで、それこそ2,3ヶ月分の話ができた気がする。

私は私で、仕事へ行くこととなりちょっとだけ特別な時間は終わってしまった。

140: 2012/11/25(日) 21:47:17.23

その日。

自室にて。

私は一人、眠れない夜を過ごす。

寝ようとすればするほど目は覚めてしまう。
しょうがないので、今日の出来事を思い出す。

正直、この気持ちがどれくらい本気なのか、自分では判断が付かない。

ただそれでも、顔が自然と弛むのを感じた。

アイツの声も、顔も、鮮明に思い出す事ができる。

それだけで幸せになれるのに、
不意に、頭に浮かぶ疑問。

アイツは私の事をどう思っているのだろう?

これがまた私を悩ませるのだ。

答えのない疑問ほど厄介なものはないと思う。
考えても考えても分からないことだってあるのだ。

だいたい、答えはアイツに聞くしかないというのに、私にはそんな勇気を持っていなかったのだ。


141: 2012/11/25(日) 21:48:08.37



ほんの少しの勇気を出せないまま、時間だけが過ぎていく。

アイツが誰かを好きになっていないか、誰かがアイツを好きになっていないか、
そんなことを頭の片隅に置きながら、日々の仕事をこなす。

もちろん、そのせいでミスを犯すなんてことはしない。
当たり前か。
これでも私はプロなのだから。

まあでも、私は思っていた以上に臆病なのだ。

こればかりはどうしようもない。

こと、恋愛に関しては初心者だった。

恋愛を題材とした小説や漫画、映画にドラマと色々手を出してはみたものの、私はどう振る舞うべきかわからない。

何度でも言うけど私は、恋愛素人である。

何か行動を起こせなくても仕方がないだろう。

そう、仕方がなかったのだ。
二人の仲が変化していなくても。



142: 2012/11/25(日) 21:48:40.28



気が付けば私はもう中学校を卒業し、高校生になろうとしていた。

仕事の方もだいぶ安定して、前までのような目の回るような忙しさから解放されて久しい。

相も変わらず何も起こらずに、起こせずに、毎日を消費する。

たぶんアイツに好意を持っているであろう数人と、牽制し合っているうちにまた1年がたってしまうんじゃないか、
そんな不安が幾度となく頭をよぎる。

本当にそうなってしまいそうだなとも、それはそれでいいのかもしれないなとも、色々と考えが巡る。

しかしまあ、結論から先に述べれば、そうなることはなかった。


143: 2012/11/25(日) 21:49:09.53



私の誕生日も過ぎた5月の中ごろ。
夜、収録を終えた私は家の車で帰っている途中に忘れ物を思い出し、事務所に向かってもらった。

この時間なら多分小鳥がいて中に入れるはず、そう思っての行動だった。

願わくば、と少しは邪な気持ちがあったことも認める。

ちょっとの期待感を胸に、進路を自宅から事務所に変更した車の窓より外を見る。
暗いため、そう遠くまで見ることはできない。
先ほどから降っていた雨はもう止んだようだ。

事務所はすぐそこまで来ていた。

私とアイツの関係のターニングポイントも、だ。

144: 2012/11/25(日) 21:49:42.51



「直ぐに戻れるとは思うけど、時間がかかるかもしれないから近くで待っていて頂戴」

事務所の前にずっと路上駐車させておくわけにはいけない。
そう言って私は車を降りた。

普段通りビルの裏に回り、中へ入る。
いまだ直されない壊れたエレベーターを横目に階段を上り、事務所へ。

明かりが点いていたから誰かいるだろうと思っていたけど、静かだった。
誰もいないようだ。

忘れ物自体はすぐに見つかった。

せっかく来たのに残念ね。
まあ、そんなに期待はしてなかったけど。

そんなことを思いながら、事務所を後にしようとした。

そんな時、事務所の奥から
「誰かいるのか?」
アイツの声だった。



145: 2012/11/25(日) 21:50:31.16


「あら、居たの?」
嬉しさが顔に出てしまわないよう、細心の注意を払いながら声がした方へと行く。
さっき、ちらっと確認した時はいないようだったから驚いている。

いつものパソコンの前にアイツはいた。
「伊織か」
「何かあったのか?」

図らずとも、前の出来事によく似たシチュエーションだ。

「忘れ物を、ね」
「別に明日でも良かったんだけど」

「そうか……」

違和感に気付く。

なんだか、元気がないようだ。

「ねぇ、体調悪いの?」

「いや、そんなことないよ」
「まあ少し疲れているだけかな」

「そう」
ウソを吐いている、と思う。

コイツはみんなの前で疲れている、なんて今まで言ったことがない。
当然だけど、私の前でも。

そんな人間が疲れているって言うのだ。

ホントにどこか調子が悪いんじゃないか、と心配するのは当然のこと、でしょう?

「アンタが倒れるとみんなに迷惑がかかるのよ?」
ウソを吐くなと遠回しに言う。

「本当に大丈夫なんだけどな」
アイツは困ったように笑った。

「でも、心配してくれてありがとな、伊織」

「し、心配なんて……」
いやいや、これは今言うべきことじゃない。
これはどう考えてもチャンスだ。

「じゃあ、なんでそんな元気がないの?」
冷静に、冷静に、と念じながら改めて聞く。

私は、何も答えないアイツの前にあった椅子に腰をかけた。



146: 2012/11/25(日) 21:51:00.63



「仕事でちょっとミスをしてな……」
はあ、と溜め息を吐きようやく話し出した。
「それで、少し落ち込んでいたわけだよ」

その話を聞いて、少しだけほっとした。
実は重病なんだ、とかって言われるかもしれないと内心ひやひやしていたから。

「何をしたの?」
「話してみたら案外、楽になるものよ?」
聞いてあげるから、とは言わない。
アイツが勝手に話して、私がそれを聞いただけという体でありたかったためだ。

滔々と自分のミスについて語る様は、なんだかいつもよりずっと弱々しく見える。

まとめてしまえば、
電話で相手の声が聞き取り難くて亜美と真美の名前を間違えて、仕事を入れてしまった。
もちろん、すぐに間違いには気付いたから、しっかりと謝罪をして事なきを得ている。
ってことらしい。

私にとっては些細な事に感じられるけれども、アイツにとっては重大なミスなようだ。

少しとは言っていたものの、けっこう落ち込んでいるように見える。

こんな姿を私は初めて見た。

147: 2012/11/25(日) 21:51:49.72



「そんなんで明日の仕事は大丈夫なの?」
またミスをしてしまうんじゃないか、と心配になる。

それに対し、
「まあ、みんなに嫌われないように頑張るかな」
簡単にそう答えた。

嫌われる、ね。
コイツはきっと私や、他の子からの好意に気付いていないんだろう。

でも、わざと鈍感を装っている、とかだったらどうしよう。

自分の気持ちを告げてもいいのだろうか。

さっきからそんな考えが頭をもたげ、私を悩ませる。

「……」
どう考えても千載一遇のチャンスなのだ。
考えすぎて無言にもなる。

「伊織?」
「えっ?もしかして、俺って嫌われてるの?」

何となくだけど私にはこれが、空元気なのだと感じた。

「ここには私しかいないんだから、何も無理に明るく振る舞わなくてもいいのよ?」
こう言ってあげることしか私にはできない。

きっとコイツはいつもこうやって、私たちに疲れとか悩みとかを悟らせないようにしてきたんだと思う。

「優しいんだな」

「……当たり前でしょ」
好きなんだから、心の中でそう思いながら続ける。
「私を誰だと思っているの?」

「……ありがとう」
コイツの言葉は何故ここまで心地良いのだろうか。
「明日までにはいつも通りに戻るよ」
少しでも元気になってくれたなら嬉しい。

「じゃあもう、帰るわ」
私は、ある覚悟を胸に秘め椅子から立ち上がった。

私の言葉に対してアイツが何て言ったのか、私は覚えていない。
「気を付けて帰れよ」かもしれないし、「送るぞ」だったかもしれない。

まあ要するに、聞いていなかっただけなのだ。

148: 2012/11/25(日) 21:52:45.22



「あっ、そうそう」
アイツの脇を通り過ぎようとした時、まるで何かを思い出したかのように私は言った。

自分で言うのもなんだけれど、白々しい。

「ん、どうし」
私の方を振り向こうとした。

その瞬間を見計らって私は、自らの唇をアイツの唇に触れさせる。

アイツの目が大きく見開かれた。

触れ合っていたのは、精々数秒ですぐに離す。

「い、いおり?」
「あー、えっと……」
私の突然の行動にかなり焦っているようだ。

ただ、そのことには気にも留めず私は、口を今度は耳元に近づけた。
互いの息遣いを感じることができる距離だ。

そしてこう囁いたのだ。
「私はアンタのこと好きよ」
「嫌ったりなんてしないわ」と。

その後、私は事務所から逃げるように立ち去った。

ちらっと振り返った時アイツは、さっきと同じ格好で座っていた。
どこか呆けているようにも見える。

私はというと、とんでもない事をしてしまった、と文字通り頭を抱えていた。

心臓の鼓動もいつもよりずっと早い。

家に帰ってもさっきの、あの瞬間が頭から離れずに私を悩ませる。

初めて本当の意味での眠れない夜を過ごしたのだった。

149: 2012/11/25(日) 21:53:13.95





次の日。

一睡もしていない私は、律子にがみがみと説教された。

なぜ説教されたのかは、記憶にない。

アイツとは会うことがなかった。





150: 2012/11/25(日) 21:53:43.60





また次の日。

テレビ局内でアイツと出会った。

アイツは私の顔を見るなり、逃げた。





151: 2012/11/25(日) 21:54:22.60





さらに次の日。

その日はオフだった。

特に用もなかったけど事務所に顔を出した。

アイツはいなかった。

小鳥は居て、私に
最近プロデューサーの様子が変だ。何か知らないか
と、聞いてきた。

私は知らないと答えた。

どうやら、アイツは私だけでなく他のアイドルとも距離を置こうとしているようだ。

後悔で胸がいっぱいになった。





152: 2012/11/25(日) 21:55:06.40





またまた次の日。

もう、いっそのこと私の方からアイツを呼び出してやろうかと思ったけど、止めた。

きっとアイツは私と顔を合わせたくないのだろうから。

また、前のような態度を取られたら正直なところ、キツイものがある。





153: 2012/11/25(日) 21:55:35.13





次の日。

いつもと変わらず何も起こらない。

最近は意味もなく早く寝るようになったため、日付が変わる少し前に受信したメールには気付かなかった。





154: 2012/11/25(日) 21:56:10.68





その翌日。

寝ている間に受信したメールの内容を見てその日は、一日中気が気でなかった。

内容は、
今日の仕事終わりに会って話がしたい
場所は、事務所
あと、避けるようなことをして悪かった
である。

仕事でミスをしなかった自分を褒めてあげたい気分だった。





155: 2012/11/25(日) 21:56:44.34



「それで、話って何?」
恐る恐る聞いてみた。

私は今、事務所にいる。
アイツとまたまた、二人きりだ。
違うことと言えば、偶然ではないということだけ。
ちなみに、私はアイツの椅子に腰掛け、アイツは自分の机に体重を掛けている。

「えーと、俺の勘違いじゃなければ、」
そんな前置きをしてきた。
「俺のことが、その、好きなんだよな?」

「ええ、そうね」
今さら、言葉を濁す必要などない。

「そっか」
「ありがとう、伊織の気持ちは本当に嬉しいよ」

なんだかとても面映ゆい。

「俺もさ、」
「なんて言えばいいのかな」
「伊織のこと、どこか気になっていたんだよ」
ゆっくりと語りだす。

「まあ、今だから言えるんだけどな」
「本当は言うつもりなんてなかったし」

伊織が告白なんてするから、と言いたそうな目で私を見る。
もちろん、私がそう感じただけでアイツが何を思って私のことを見たのか分からないけれど。

ただ、このぎくしゃくし出す前のような、アイツの態度は素直に喜ばしかった。
告白の返事が気にならなくなってしまう程に。
この関係に戻れるなら、それでいいかと思ってしまう程に。



156: 2012/11/25(日) 21:57:27.94



「伊織」
しばらくの沈黙の後、先程より若干真面目なトーンで私の名前を呼んだ。

「何よ?」
努めて平静を装いながら応える。

「言い訳ならいくらでもできるんだ」
「俺と伊織の関係とか、年齢だってそうだ」
でも、とここで一息を入れる。

「でもさ、それだと伊織にあまりにも失礼だとだろ?」
「だから俺にも言わせてほしい」

すぅ
息を吸い込む音がする。

「好きだよ、伊織」
私のことをまっすぐに見つめて、そう言った。

私がその言葉の意味を理解するより先にアイツは話を続ける。

「もちろん問題があるってことは、分かってる」
「それでも、もし良かったら……」
「俺と付き合ってくれないか?」



157: 2012/11/25(日) 21:58:03.07



言葉が、出なかった。

言いたいことはいっぱいあるのに、
それこそ「ありがとう」とか「うれしい」とか
でも出てきたのは、そんな言葉じゃなくて涙だった。

ポツリポツリと私の手の甲を濡らす。

とてもじゃないけど、いま顔をあげるのは無理そうだ。

「伊織?」
どうかしたのか、と心配そうに聞いてくる。

誰のせいで、と思わずにはいられなかった。

「怖かったんだから……」
私が発した言葉は、喜びを伝えるものでも、目の前にいる人間を責めるものでもない。

そう。

私は怖かったのだ。

嫌われてしまったんじゃないかって思うことが。

アイツとみんなの関係を壊したしまったって思うことが。

そしてなにより、アイツは私のことが嫌いだったんじゃないかって思うことが。

私は、本当に、怖かった。

158: 2012/11/25(日) 21:58:40.67



「ごめん、伊織」
アイツはそう言うと、恐る恐る椅子に座ったままの私を抱きしめた。

触れられて、初めてコイツも緊張していたことに気付く。

動作がぎこちない。

今だってすごくムリをしているんじゃないだろうか。

後頭部に手を回し、そして撫でる。

きっとコイツじゃなければ絶対に髪を触らせるなんてこと許しはしないだろう。

「ごめん」
耳元で呟く。
少しくすぐったい。

「うん」
やっと答えることが出来た。

だいぶ落ち着いたものの、未だに流れる涙は止まない。

159: 2012/11/25(日) 21:59:17.42



どれくらいこうしていただろう。

アイツは、謝って以降何も言わず私のことをずっと抱きしめていた。

「あ、ありがとう」
ようやく泣き止むこともでき、こう言うことが出来た。

「もう、大丈夫か?」
私から離れつつ、そう聞いてくる。

「ええ」
「あと……スーツ、ごめんなさい」
スーツの上着の肩の辺りを見ながら言った。
上着は私の涙でしっかりと濡れている。

「ああ、これくらいならクリーニングしとけばいいだろ」

あまりというか、ほとんど気にしていないようだ。
上着を脱いで、畳んでいる。

「あの、すごく嬉しかった」
まだ告白の返事をしていないことを思い出した。
でも、こういうとき何て言えば私には、いいのか分からない。

私のそんな心境を察したのか、
「伊織、もう一度言うぞ」
「俺と付き合ってくれないか?」
本日の二度目の告白をしてくれた。

私は、こくんと頷くことでそれに答える。

私たちはこの瞬間付き合いだすこととなった。




160: 2012/11/25(日) 21:59:54.84





「少しこれからの話をしようか?」

私の隣りから声がする。
事務所にあった3人掛けのソファの両端。
私とアイツ。
近すぎず、遠すぎない微妙な距離。

何か飲もう、とここに移動してきてからしばらく経った頃、そう切り出した。

「そうね」
「みんなには内緒にしないといけないし」
ちょっとだけ罪悪感。
「色々と話すことがあるわね」

「俺、この事務所を辞めようって思っているんだ」

「……え?」
さっきとは別の理由で何も言うことができない。

「あっ、もちろん今日明日すぐにでもってわけじゃないぞ」
「今いるみんなのプロデュースが一通り終わってから、だな」

「待って、どうして……」
辞めるの?
辞めなくちゃいけないの?

聞くことなんてできない。
間違いなく私のせいだから。

「実は、961プロってところからこっちに来ないかって誘われてて、」
その誘いを受けようと思っているんだ。
そう、言った。




161: 2012/11/25(日) 22:00:27.46



これが私たちが付き合う上で何かしらの問題が起こった時に一番被害が小さくなる、らしい。

というのも、961プロという所は実力主義らしく結果が出せればそれでいいって場所なのだそうだ。
そのため、何か問題、それこそ私たちの関係が世間に露呈するような問題が起こった際には、即解雇になるとのこと。

こことは、まるで違う。
そんな場所。

この事務所なら、絶対に庇う。
庇ってしまう。
私たちを肯定する。

みんなに迷惑をかける。
なのに、それを迷惑と思わないのだろう。
そんなことが容易に想像できる。

もちろん私だって誰かが困っていれば、手を貸すに決まっている。
当然だ。
私はここにいるみんなが好きなんだから。
大切なんだから。

アイツもきっとそうに違いない。

だから
だから、アイツはいつかここを辞める。
みんなに迷惑をかけないために。

アイツはそれを覚悟だと、そう呼んだ。



162: 2012/11/25(日) 22:00:56.67



話が一通り終わった頃ふと時計を見る。

時刻は未成年の私がここにいるには少しばかり問題のある時間になっていた。

「もうこんな時間か」
私につられたのか、アイツも時計を見て呟く。

「そろそろ帰らないとな」
私の方を見ながら言った。

「そうね」
私たちはそのまま大した言葉も交わさずに事務所を後にした。



163: 2012/11/25(日) 22:01:35.92



真っ暗な車内。

私はきっと浮かない表情を浮かべていることだろう。

さっきの覚悟と言う言葉が頭から離れない。

先週の私は浅はかだったのかもしれない。
きっと頭のどこかでは、どうにかなると思っていたのだ。

もっと私は考えるべきだったのに。

それをほとんどアイツに押し付ける形になってしまった。

そのことが、申し訳なくて喜んでばかりはいられない。

隣りでシートベルトを締めている姿を確認する。
すると
「やっぱり気にしてるのか?」
こう聞いてきた。

「それは……少しはね」
気にするなって事の方が無理な話だ。

私の自分本位な行いのせいで一人の人生を狂わせてしまっているのかもしれないのだから。

「まあ気にするなっていうのも難しいか」
「伊織は優しいからな」
暗いから顔を見ることは出来なくとも笑っていることは分かる。

「そんなことないわよ」
私なんて、そう思う。

優しくない。
わがままなだけ。

「伊織は、優しいよ」
「だから気に病むのも分かる」
「でもさ、せっかく付き合うことになったんだから、楽しまないと損じゃないか?」

164: 2012/11/25(日) 22:02:11.78



ホントに優しいのはどっちだ、って話だ。

私よりもずっと優しいじゃない。
だから、それには応えないと。

「そう、ね」
「楽しまなくちゃね」
精一杯の空元気だ。

ぽんっと頭に手を乗せられた。
でも、何も言ってこない。
なんか気恥かしい。
けれども、全然いやじゃない。

結局、数分間そうしていた。

「そうだ伊織」
と、手を私から離しながら話しかけてくる。
「たしか、今度の火曜日オフだったよな?」

「そうだったかしら」
携帯を取り出しスケジュールの確認をした。
「ああ、そうみたいね」
確かにオフとなっていた。

「実は、その日俺も休み取れそうなんだよ」

私はそれってまさか、そう思いながら次の言葉を待つ。

「どこかに遊びに行こうか?」
「あっ、もちろん二人でな」
私の人生初のデートのお誘いは、こんな形で訪れたのだった。



165: 2012/11/25(日) 22:02:47.29



私に断る理由なんかない。

帰りの車内は、どこに行こうか?とか、アンタが決めなさいよ、とか。
そんな話をずっと続けた。

とても楽しく、嬉しい時間だった。

さっきまで悩んでいたのがバカみたいだ。

せっかくなんだから、今は楽しまないと。
その時になったら悩めばいい。
アイツは、笑いながら言う。

私は、それに
それは破滅する奴の考えねって笑いながら返す。

じゃあ、一緒に破滅するか?
そんなことを聞いてくる。

大丈夫よ。
私たちなら大丈夫。
冗談なのかそうじゃないのか判断はつかないけれど、これだけは確信を持って言えた。

そうだな。
とそれだけ言って会話は途切れる。

それ以降、私の家に着くまでほとんど会話はなかった。

これが私たちが揃って一歩を踏み出した日の出来事である。



166: 2012/11/25(日) 22:03:19.33





「それから何があったかしら?」

これで2冊目となるアルバムを閉じ呟く。

3冊目に手を伸ばそうとした時、視界に時計が入った。
そろそろアイツが1週間の出張から帰って来る予定の時間だ。

家事と子育ての合間合間にアルバムを眺めていたら、思いの外時間が経っていたみたいだ。

もう少しで帰って来ると思うと、不思議とわくわくしてくる。

今思うと今朝いつもより早く目を覚ましたのは、それが原因なんじゃないだろうか?

そう考えて顔が綻ぶ。

時間を潰すために、結局3冊目のアルバムを開いた。

胸が少しだけ痛む。

このアルバムは少しだけ特別なのだ。
このアルバムの途中から大量の写真に申し訳程度に写っていたアイツの姿が一切なくなる。

アイツが、765プロを辞めたからだ。



167: 2012/11/25(日) 22:04:00.09



アルバムをめくりながら思う。
私たちは上手く付き合えていたって。

実際、危惧していた問題は何も起こらなかった。

今現在もアイツが961プロで働いていることをみれば明らかだろう。

ふと、
アルバムをめくる手が止まる。

集合写真だ。
誰一人欠けていない765プロの全員で撮った。

一番最初に欠けたのはプロデューサーであったアイツだった。

みんなを事務所に集めて、「俺は今年度限りでここを辞めるんだ」って言った。
当然のようにみんな驚いていた。
理由を聞こうとした。

でもアイツは頑なに言おうとはしなかった。
だから、私が口を開くことにしたのだ。

私たちは付き合っているのだ、と。
みんなに迷惑をかけないためにはこうするのが一番なのだ、と。

みんながさっき以上に驚いていた。
そうしてすぐに、祝福してくれた。

みんなの優しさがこの時ばかりは、つらかった。
とてもつらくて、嬉しかった。

今まで言い出せなかったのは、単純に怖かったからだ。
みんなの態度が変わってしまうんじゃないかと思うと、とても言い出せたものではなかった。

もっと早くに伝えても良かったのかもしれないと、少しだけ後悔した。



168: 2012/11/25(日) 22:04:29.80



後から知ったことだけど、社長と律子と小鳥は私たちのことをけっこう前から知っていたらしい。

社長は、応援するよ、とだけ言って他には何も言ってこなかったようだ。
正直どうなのって思ったけれども、そこがあの事務所の本当にいい所なんだろう。

そして、律子と小鳥。
この二人には感謝してもし足りないくらいなのだと、アイツはよく言っていた。

なんでも、色々な相談をしていたらしいのだ。
アイツはその相談内容について聞かれることをひどく嫌がったので、直接二人に聞いたことがある。

すると
なんとか休みを合わせて欲しいとか、私の機嫌を取る方法とか
枚挙に暇がないんだって二人して楽しそうに語ってくれた。

なんだかすごく私のことを考えてもらえてるような気がして、恥ずかしくなったことを思い出せる。

私は幸せ者だ。

こんなにも私のことを一番に考えてくれる人が隣りに居てくれるんだから。



169: 2012/11/25(日) 22:05:16.79



「早く帰ってきなさいよ」
アルバムを眺めながら呟く。

先ほどから、30分くらいしか経っていない。

会えない時間がこんなにも長く感じるとは思いもしなかった。

今思えば、結婚してからこうして1週間も会わないというのは初めてだ。

付き合っていた時はそんなことよくあったのに。

デートは月に1,2回くらいしかできなかったし、1ヶ月くらい会えなかった時もあった。

ここ最近恵まれ過ぎていて、当時の感情を忘れてしまっていたみたいだ。

そう考えれば、この寂しさも趣が変わってくるってものだ。
ただ寂しいだけでなく、どこか懐かしさも感じる。

だから、たまには、
ホントにたまになら、こういうのも良いのかも知れない。

「まだかしらね」
呟きながら、そう思った。



170: 2012/11/25(日) 22:06:14.45



3冊目のアルバムも、もう見終わってしまうと思った頃、ガチャと鍵が開けられる音がした。
続けてドアの開く音も。

アルバムをしまうってことも忘れて、玄関へと急ぐ。

そこには、
「ただいま、伊織」
1週間ぶりに見る姿があった。

疲れているように見える。
「おかえりなさい」
「どうだった?合同ライブは?」
765プロと961プロ、初の合同ライブのために1週間も家を空けていたのだった。

「成功だったよ」
「伊織も来ればよかったのに」

「あの娘がいるから無理って言ったでしょ?」
「あぁ、ちなみに今は寝てるわよ」
さっきからキョロキョロしていたので先に言っておく。

少しだけ落ち込んだようだ。
私がいるっていうのに、と思ったけれども同時にしょうがないとも思う。

「それで、最初にご飯にする?」

「そうしようかな」
普段の会話だ。

それだけでなんだか嬉しくなった。



171: 2012/11/25(日) 22:07:03.16



「おっ」
リビングから驚いた声が聞こえた。

ああしまった。
アルバムを出しっぱなしにしていたことを思い出す。

リビングにはアルバムを懐かしそうに見ているアイツの姿があった。

「こんなのもあったな」

「ホントね」
私が声をかけたら、ビクッとして振り返る。

「驚かさないでくれよ」

「アナタが勝手に驚いたんでしょ?」

「まあ、そうだけどさ」

会話が途切れた。
アイツは再びアルバムに目を落とし、懐かしいなと呟いている。



172: 2012/11/25(日) 22:07:34.72



アルバムを眺めているアイツに聞いてみたいことがあった。

「ねえ、アナタ?」
「私はアイドルとしてどうだったのかしら?」
ずいぶんと抽象的な質問だとは自分でも分かっている。

「どうって聞かれてもな」
「なんて答えればいいのか分からないけれども」
「文句なしのトップアイドルだったよ」
これでいいのかな、と聞いてくる。

「そう言ってくれてすごく嬉しいわ」
「でもね、やっぱり思うのよ」
「私はアイドルとして最低だったんじゃないかって」

アイツは黙って私の話を聞いている。

「ねえ、これ覚えてる?」
アルバムと一緒にしまわれていたノートを手渡した。

「もちろん、忘れるわけないよ」
そう、短く返す。

「それもそうね」
忘れれていたら、ショックを受けていただろう。

「アイドルはファンにとって偶像であり続けないといけないと思うのよ」
私はいつからそう考えるようになっていた。
「そう考えると私はずっとファンを騙し続けていた事になるじゃない?」

「そんなことないよ、伊織」

「いいのよ」
「私がそう思っているだけだから」
「だからね、そのノートに書いたことってあながち間違いじゃないのかもしれない」
私は恥知らずのアイドルだった。

これを今言うのは卑怯なのかもしれない。
でも言わないわけにはいかなかった。

「私は、偶像、失格だった」
「今ならそう、はっきりと言えるわ」



173: 2012/11/25(日) 22:08:04.17



「そう、かもな」
今度は反論もせずに納得した。

「じゃあ、ご飯にしましょうか?」

「そうしよっか」
「もう腹が減ったよ」

私がアイドルとして失格だったかどうかなんて今はあまり関係ない。

大事なのは今だと分かっているから。

「今の私には、幸福しかありません」
ノートにさっき書き加えた一文。

アイツはそれに気付かなかった。
それでいい。

私はことし、二十四になります。

174: 2012/11/25(日) 22:09:38.36





                                 end





175: 2012/11/25(日) 22:10:46.15

これで終わりです。

無駄に時間がかかり申し訳ありませんでした。

176: 2012/11/25(日) 22:11:27.46
おつおつ。よかった

177: 2012/11/25(日) 22:44:08.47
タイトルからBADENDだと思っていたので安心した


引用元: 伊織「偶像失格」