9: 2008/05/26(月) 21:32:08 ID:???
「ケガは、してなさそうだけど。大丈夫? 立てる、アスカ?」
「……うるさい」
少女はほとんど反射的に、耳障りな声をより強い音によってかき消す。
それでも気弱げな少年の声が、再び少女の鼓膜を震わせた。
「アスカ、でも…」
「うるさいって言ってるでしょ! 触らないでよ気持ち悪い!」
差し伸べられた手を全力で振り払う。
「…ごめん」
強く手を払われた少年、シンジは弾かれた手を力なく下ろし、
それきりその手を差し伸べようとはしなかった。
その癖、今いる場所から離れようとはしない。
それが少女、アスカの怒りに油をそそぐ。
「ヘラヘラして、人の顔色ばっかうかがって、アンタってばなんっにも変わんないのね!
世界がこんなになったっていうのに…!」
サードインパクトと呼ぶべき、生命の一体化現象からしばらく。
生命のスープから個を取り戻したシンジとアスカの二人は、赤い海の近く、廃墟となった町で生活をしていた。
このLCLの海から人が戻ってくるのか、来ないのか。
少なくとも、アレからお互い以外の人間の姿を確認していない。
廃屋やシェルターの中から色々な物を無断拝借して、当面、命だけはつないでいるが、非常事態なのは間違いない。
(なのにこの、バカシンジときたら…!)
今も全く空気を読まず、能天気に声をかけてくる。
「あ、あのさ。いくら転んでイライラしてるからって、そんなに怒っても疲れるだけだよ。だから…」
「そんなこと言ってんじゃない!」
アスカは怒鳴りながらガレキから抜け出し、さっき自分が足を取られた廃材の山を苦々しげに見つめた。
「……やっぱり、怒ってるじゃないか」
「うるさい!」
ぼそっと愚痴のようにこぼされた言葉に、再び怒声を返す。
こんな非常事態で、パニックになってもおかしくないような状況なのに、
シンジはいつもの『バカシンジ』だった。
それが、アスカには苛立たしい。

10: 2008/05/26(月) 21:38:14 ID:???

――もちろん、本当はアスカにも分かっている。
かつての『バカシンジ』と『アスカ』の関係性なんて、とっくに壊れていた。
それをまた持ち出して来たのは、アスカとのコミュニケーションのため。
アスカとシンジの関係が一番良好だった時の態度を選んで、話しかけてきているのだ。
そして、その考えが分かっていて尚、彼女はシンジに合わせるように、当時のアスカとして振る舞うしかない。
お互い以外の生命がいなくなった世界。
そんな場所で、生き残った二人が触れ合わずに生きていけるはずもないから。
――だが、それが自覚出来ているから、なおさらイライラするのだ。
「もう、最悪! さいあく! サイアク!! どうしてよりによって、アンタと二人きりなのよぉ」
(世界で一番、会いたくないヤツなのに……)

15: 2008/05/27(火) 18:21:42 ID:???

それでも金魚のフンみたいに後ろをついてくるシンジに、アスカは足を止めて振り返った。
「一つ訊くけど。アンタは、何で、何の権利があって、そんなにアタシに話しかけてくるワケ?」
「だって、他に人もいないし…」
「はんっ! そんなにおしゃべりしたいなら、体育館にパイプイスでも持ってって、
ずっと独りでブツブツ言ってりゃいいのよ!」
そう、吐き捨てるように。つい、意味もない敵意を向けてしまう。
「そんな。僕はただ、もう少しアスカとうまくつきあっていけたらと思って…」
その陰気な口振りに、アスカはとうとう爆発した。
「あーもー! うじうじうじうじうじうじ! 鬱陶しいのよアンタは!」
「な、なんだよ。うっとうしいって…」
さすがにカチンと来たのか、シンジは少し声を荒げるが、
「アタシと少しでもうまくやっていきたいなら、
まずその辛気臭い顔どうにかしなさいって言ってんの!」
それを意にも介さず、アスカはビシッと、赤い海面を指差す。
「ほら、さっさと行って、顔でも洗ってきなさい」
「え、えぇえ! あの海で?!」
アスカの意図を知り、シンジは情けない叫び声をあげた。
「あ・た・り・ま・え・で・しょ!
アンタのアホ面に使うための水なんて、これっぽっちもないんだから」
「そんなぁ…。アスカ、ムチャクチャだよ」
尚もぐずるシンジの腕をガッシリつかんで、海の方へ押しやった。
「このアタシに話し相手になってもらいたいんでしょ。
だったら、それくらいやってみせなさいよ。いーい?」
「……わ、分かったよ」
振り返り振り返り進んでいくシンジに、「早く行け」と身振りで示して、
その姿が小さくなった所で、アスカは気が抜けたようにペタンとその場に座り込んだ。

16: 2008/05/27(火) 18:23:08 ID:???

体育座りの形に膝を立てて、その少し上でシンジの腕をつかんだ手を開き、見つめる。
「なによ、ビクビクしちゃってさ。そんなんで、うまくいくはず、ないってのに……」
アスカに触れられた時、シンジははっきりと体を強張らせた。
(……近づくのも、触れ合うのも、怖がってるくせに)
昔を演じるのなら、徹底的にやってくれればいい、とアスカは思う。
なのにシンジは必要以上に慎重に、傷つかないよう、傷つけないようにアスカに接しようとしている。
そんな中途半端をするならいっそ関わらなければいいのに、
放っておけないのなら覚悟を決めて踏み込んでくればいいのに、それはしない。
それが、ますますアスカを苛立たせる。
「……だけどそれは、アタシも同じ、か」
アスカは不機嫌になって騒ぎ立てることで、シンジに対して壁を作っている。
相手が歩み寄りの態度を示せないように、ハリネズミみたいに刺々しい態度で牽制しているのだ。
なのに結局、本当の本気でシンジを排斥しようとはしていない。
近づかせたくないだけで、遠ざけたいと思っているワケじゃない。そんな中途半端。
「……だって、しょうがないじゃない。アタシにだって、逃げたい時くらい、あるんだから」
アスカは体育座りの姿勢のまま、両腕で自分の体を引き寄せ、縮こまる。
窺うように膝の間から顔だけ出して、遠くの水辺で律儀にも顔を洗おうとしているシンジを見つけた。
「バッカじゃないの。あんな気持ち悪い水で顔洗えるワケないじゃない」
アスカの手が、不承不承というように荷物のバッグに伸びた。

17: 2008/05/27(火) 18:23:29 ID:???
――敵意を持った巨大な生き物が、大きな口を開けて自分を飲み込もうとしている。
バカげてると思いつつも、血のようなその赤い海を見ていると、ついそんな錯覚を抱いてしまう。
覚悟を決めてやってきたはずなのに、シンジは真っ赤な水面の前で立ちすくんでいた。
そして、はぁ、とため息。愚痴をこぼす。
「全く、横暴だよなアスカは。
さっきだって、自分でバランス崩して転んだくせに、不機嫌になってさ」
しゃがみこんで、さざなみ一つ立たない海面をじっと見つめ、
「ホントにさ。全然変わんないのは、どっちだよ」
などとぼやきながら、シンジは少しほっとしていた。
衝動的に、左肩の付け根近く、二の腕の辺りをさする。
すると、何だかそこにアスカの手の感触が残っているような気がした。
(考えてみたら、アスカの方から僕に触ってきたのは、人がいなくなってから初めてかも)
そんな行動に踏み切ったのは、早くシンジをどこかに追いやりたかったからだろうと思っても、
顔がほころぶのを抑えられなかった。
こんな状況でも人一倍身だしなみに気を遣うアスカからは、柑橘系の香りがした。
あんな理不尽な要求をされたシンジが素直にアスカの言葉に従ったのは、
アスカに近づかれて動揺している自分を隠したかったからでもある。

18: 2008/05/27(火) 18:26:00 ID:???

そもそも、アスカとあんな風に、曲がりなりにもまともに口が利けるようになったのだって、
ごく最近になってから。
何しろ、あんなことがあった後だ。
それまでの長い冷戦状態も考えると、いくら不機嫌とはいえ、
ここまでの日常会話が出来るようになったのは奇跡と言えるし、純粋に嬉しい。
それにシンジは、アスカの左眼の視力が失われてしまったことも、
体のあちこちがうまく動かせなくなっていることにも気づいていた。
だからそれが虚勢であっても、元気に振る舞うアスカの姿はシンジにとっては喜ばしいのだ。
(本当は、何か手助けしたいんだけど……ムリだよな、やっぱり)
体がうまく動かないみたいだから助けてやる、なんて言ったって、
あのプライドの高いアスカは納得しないだろう。
どこまで手を差し伸べていいのか分からないことが、シンジを少し及び腰にしていた。
(これからずっと、二人で一緒に生きていくんだから、少しくらい頼ってくれてもいいのに)

19: 2008/05/27(火) 18:29:25 ID:???

そこまで考えて、赤以外何も映さない水面を眺めながら、シンジは苦笑した。
(目の前でミサトさんが氏んで、他のみんなもこの海に取り込まれたまま、帰って来ないのに……)
僕は薄情だな、と思う。
生きるのに必氏だった数日がシンジから悲しみを掠め取り、アスカとの距離を縮める結果になった。
「生きたいなんて、思ったことないはずなのに…」
それは、本心からの言葉だと思うのに、
(だけど、氏ぬのはイヤだ)
同時に、そんな思いが確かにある。
「結局、いつだって中途半端なんだ、僕は…」
――でも、だからこそ、アスカのことだけはきちんと正面から向き合っていきたいと思っていた。
臆病に、拒絶への不安に怯えながらでも、シンジはアスカに素直に向き直って、
積極的に関わっていこうと決めていた。
だから、
「――よぉし!」
気合を入れて、腕まくりをして、赤い水に挑む。
大げさなことを考えて、結局やるのはこんなことか、とバカらしさに頬が弛む。
「こんなの、ただの色がついた水じゃないか。別にどうってこと…」
しかし、水をすくおうと指先をつけた途端、どろっとした冷たさが指から染み込んできて、
シンジはめまいを覚えた。
(……なんだろう? 冷たいのに、温かくて、血の匂いがする。
そういえば、使徒に取り込まれた時のエヴァの中は、こんな感じだったな)
指先から、自分が溶け出していくような気持ちがして、心地いい。
意識が拡散して、何も考えられなくなる。

20: 2008/05/27(火) 18:31:42 ID:???

気がつくと、両手は手首まで完全に水に沈んでいた。
体勢も、知らない内にずいぶんと前屈みになっている。
(このままだと、沈む? 早く、手、抜かないと…)
急に恐怖がこみ上げて、シンジが慌てて手を引き抜こうとした時、
透明度の薄い水の奥に、なぜかはっきりと人の顔が見えた。
「ミ、サト、さん…?」
(氏んだはず、なのに……)
シンジの頭の中が、瞬間的に真っ白になる。
――だが、驚きはそれだけではない。
その隣には、レイやトウジ、ケンスケにヒカリ、それにゲンドウに冬月、リツコに加持の姿もあった。
彼らは皆、一様に手を広げ、招くように、あるいは迎え入れるようにシンジに微笑んでいる。
「みんな…! いたんだ、そこに…。生きてたんだ、みんな……」
水の奥にいる彼らに乞われるままにシンジは、手を伸ばす。
体が前に傾ぎ、腕は肘までが水に浸かる。
それでもシンジの手は届かない。だからシンジは更に身を乗り出して、
ピチャン、
と短い前髪が水に触れた時、シンジは我に返った。
――そして、次の瞬間。
突然に、強い力で首を引かれる。
「――ッ!」
あっけなく、体のバランスが崩れる。
悲鳴をあげるヒマもなく、シンジの顔に液体がぶつかって、弾けた。

21: 2008/05/27(火) 18:40:51 ID:???

顔に水の冷えた感触が弾けても、シンジの頭はいまだ冴えず、全てがピントを失っていた。
(僕、地面に寝かされてる? 何で…?)
ただ、重いまぶたを苦労して持ち上げると、ぼんやりと、目の前に人影が見えた。
「あれ? ミサト、さん…?」
視界は焦点が合わずに何重にもかすみ、立っているのが誰なのか、判別も出来ない。
バシャ!
再び顔に水がかけられ、シンジはようやく覚醒した。
「あ、すか…?」
目をしばたかせる。
そこに立っていたのは、水の入ったボトルを手にしたアスカだった。
「アンタ今、自分が何しようとしてたか分かってる?」
仰向けに倒れたシンジの前で仁王立ちになって、アスカが低い声で質問してくる。
「え? あ…、そう! そうだよ! アスカ! さっきミサトさんがいたんだ!
それだけじゃない! トウジや洞木さんに、ほら、アスカの好きな加持さんだって…」

パシン!

「……え?」
シンジの左頬で、閃光が鳴った。
その衝撃と驚きで、シンジは今度こそはっきりとアスカを見る。
右手を平手打ちの格好で止めたまま、深い怒りをこめて、アスカはシンジを見ていた。

22: 2008/05/27(火) 18:41:43 ID:???

もう一度、アスカの唇が動く。
「アンタ、自分が何しようとしてたか、分かってるの?」
言われて、シンジは必氏に記憶を整理する。
「何しようとしてたか、って。僕は、アスカの言う通り、海で顔を洗おうとして、
それで、海を覗き込んでたら、ミサトさんたちが見えて……」
そこから先は、はっきりしない。
気がついたら、目の前にアスカがいた。
「……覚えてないなら、アタシが代わりに言ってあげるわ。
さっき、アンタはあの海の中に入っていって、アイツらに仲間入りしようとしてたのよ」
アスカは、アイツら、という部分に、強い嫌悪感を込めて。
それが、あの海に溶けている人たちのことだと、シンジにもすぐ分かった。
「僕は、そんなつもり…」
「アンタがどんなつもりでも、アタシがアンタの首元を引っ張って引き戻さなかったら、そうなってたわよ」
口調は静かなのに、そこにはいつものアスカにはない、突き放すような鋭さがあった。
一見無感動のように見える表情の中、アスカの目には見せかけではない、本物の怒りが宿っている。
「アタシは……」
アスカは口を開いて、結局それ以上何も言わないまま、黙って踵を返した。
シンジはそこで、ただ立ち尽くすしかなかった。

24: 2008/05/27(火) 18:56:27 ID:???


欧州での暮らしが長いアスカには到底我慢出来ないような、ボロボロの小さな家。
しかし、雨漏りや隙間風のないことが絶対条件の家選びの結果、アスカはそこを当面の宿と定めた。
一応客間らしい、それでもやはり小さい部屋のまんなかはカーテンで二つに仕切られていて、
片方にはシンジが、もう片方にはアスカが、それぞれ布団を敷いて寝ている。
――家に吹きつける風の音以外、何の音もない世界で、シンジはそっと、言葉を押し出した。
「アスカ、ごめん」
返事はない。
部屋の反対側で寝ているはずのアスカの姿は、カーテンに遮られて見えない。
けれど、シンジはアスカが眠っていないと決め込んで、言葉を続けた。
「僕はまた、知らない内にアスカに逃げてたのかもしれない。あの時、みたいに…」
ビク、と、カーテンの向こうでアスカが身じろぎをした気がした。
――だが、シンジが口にしたのは、そのくらいの言葉だった。
赤い海辺で目を覚ましからずっと、二人が一つのモノに同化していた時、
お互いが見たお互いの醜さ、弱さについての話題はタブーだった。
シンジの言葉は、そのきわどい所を突いている。
「ここで、アスカと一緒に生きていくことが、僕のするべきことだと思ってた。
アスカと二人で周りの探索をして、食料や物を集めて、家を直して、いろいろ話をして。
そんなママゴトみたいな暮らしが、楽しいって、そう思えるようになってたんだ。
……でも!」
シンジの口調がだんだんと熱を帯びる。
心の中の興奮と葛藤を示すみたいに、シンジの言葉は激しく、早口になっていく。
「でも、ホントは逃げてたんだ。僕は楽な方に逃げて、忘れようとしてたんだ!
ミサトさんの最後の言葉とか父さんが何をしたかとかカヲル君を握った感触とか
リツコさんがどうなったのかとか綾波が僕に何をしたかったのかとか……
トウジやケンスケや洞木さんや冬月さんや青葉さんや日向さんや伊吹さんやみんなが、
どうなったかってことを…!」

25: 2008/05/27(火) 18:58:04 ID:???

激情を乗せた言葉が過ぎ去って、静寂が尚一層際立った。
その耳に痛いほどの沈黙は、カーテンの向こうからの声で破られた。
「……アンタのせいじゃないわよ、それは。
全部、碇司令とゼーレだとか言うワケ分かんないのがやったことじゃない」
「アスカ…。でも、アレを望んだのは僕だ。僕が、紛れもない僕が、望んだんだ…」
対するアスカの声は、あくまで穏やかだった。
「もういいわよシンジ。アンタにはどうしようもなかったし、そのことを誰も恨んでないわ。
だから、それでいいじゃない」
「……でも」
「逃避でもいい。アンタの中からもアタシがいなくなったら、アタシはどうしたらいいのよ」
シンジは、それを受け入れられずに、うつむいた。
「……僕は、怖いんだ。
世界にはもう、アスカと僕しかいなくなったって分かったら、急に楽になった。
だって、アスカしかいないなら、アスカに近づかないとしょうがない。他に、いないから。
それを言い訳にして、僕はアスカと話が出来た。……それが、嬉しかった。
でも、それこそが僕の望みで、僕がみんなを、あの海の中に閉じ込めているんじゃないか、って」
「呆れた。アンタ、そんなこと考えてたの? それこそ、妄想よ。
自虐好きで、内罰好きのアンタの、埒もない妄想」
「でも、それが妄想だったとしても、やっぱりこれだけ経っても誰も戻って来ないのは、おかしいよ。
だから、逃げちゃダメだと思うんだ。だから、僕はあそこから、みんなを救い出したい。
魂のサルベージ。あそこから戻ってきた僕なら、僕らなら、出来るかもしれないと思うんだ。
ねぇアスカ。アスカも、手伝ってよ」
「…バカ」
アスカからの返答は、冷淡だった。
「アタシは手伝わないし、アンタにもさせない。魂のサルベージね。そんなことが出来たらすごいでしょうけど、
そんな程度の覚悟じゃ、アンタも一緒に引き込まれるのがオチよ。実際、昼間はそうなりかけたんだし」
アスカらしくない、疲れた声と口調だった。
「だ、だけど、一緒に考えれば何かいいアイデアが……」
「もうやめて。アタシはそんな話、聞きたくないから。
……ねぇシンジ。アンタって、本当に女の、というか、人の気持ちが分かんないのね」

26: 2008/05/27(火) 18:59:24 ID:???

「分からないよ。……分からないけど、でも、分かりたいと思ってるし、近づきたいんだ。
だけどそれは、やっぱり迷惑、…だよね?」
「迷惑ね。それも大迷惑。……付き合わされるこっちの身にもなってみなさいよ」
「う、うん」
「アタシはアンタのせいでイライラしっ放しだし、……これからもずっとそうなるのよ、きっと」
「……ごめん」
ひたすら申し訳なくて、シンジはうなだれた。
でも、そんな様子すらアスカには気に入らなかったようで、
「何でゴメンなのよ、このバカシンジ! そこは謝る所じゃなくて……!
あぁ、もう! かみ合わないったらありゃしない! せめてもう少しだけ利口になりなさいよね!」
「……努力、するよ」
「たっっっぷり、してよね! それでもぜぇぇぇったい、ムリでしょうけど!」
――その言葉を最後に、束の間静寂が戻る。
それが、アスカの熱を冷ましたのか、次に出された言葉は、沈痛な響きを持っていた。
「だけどね、シンジ。そうじゃなくても、アタシ、たぶんアンタのことを一生許せないと思う」
「……それは、僕がアスカに……やった、ことのせい?」
シンジの、勇気を振り絞った一言だった。しかし、
「違うわ」
アスカは否定する。
それから、「あれはあれで、もちろん恨んでるけど」という恐ろしい前置きの後で、
「あの中で、溶け合ってた時。いっぱい、見られた。アタシの中。
アタシが、隠してたこと。隠しておきたかったこと、全部…」
「…うん」
シンジはうつむいて、でもすぐに顔を上げた。
「あ、でも、全部じゃないし、それに、アスカだって僕のを見たワケだから…イタッ!」
部屋を二つに仕切る、二枚のカーテンの間をこじ開けて、大きな枕がシンジのところまで飛んできた。
「い、いきなり何するんだよっ!」
「うっさい! アンタそれでフォローしてるつもりだってんなら…!」
カーテンの隙間から、投擲の体勢のまま怒鳴っているアスカの姿が垣間見えたが、
シンジと目が合うと、アスカは盛大に髪を左右に撒き散らしながら首を振った。

27: 2008/05/27(火) 19:00:34 ID:???

「あぁもう、いいわよ! アンタに何を言っても無駄だってことがよっく分かったわ!
ほら、さっさと枕返しなさいよ!」
不承不承、シンジは枕を投げ返す。カーテンの隙間が、さらに広がった。
枕を受け取ったアスカは、それでもシンジを見たまま、動かない。
(何かしろって、催促されてるのかな?)
ちらちらと辺りを見回して、シンジは仕切りのカーテンに隙間が開いたままだと気づいた。
「か、カーテン。閉め直そうか?」
気弱に提案してみるが、
「いいわよ、そんなの。その代わり、アンタの枕もこっちに寄越しなさい」
不可解な要求で返された。
「どうして? 枕投げでもするの?」
そこで、アスカは初めて淡く笑った。
「ばか。……ペナルティよ。いいから、早く投げて」
なんなんだよ、と思いつつ、苛立ち混じりに投げた枕は、
シンジにすら予想外なほどの勢いで、ボフン、とアスカの顔にクリティカルヒットした。
「あ、アスカ…?」
地面に落ちた枕に釣られたように、アスカの顔が、うつむいた。
暗さも手伝って、表情が見えなくなる。
怒ってるのかな、とシンジは思ったが、違った。
「アンタが…」
驚くほど、落ち着いた声で、
「アンタが選んだんでしょ。ここで生きるって。だったら、それを貫きなさいよ」
「え?」
訊き返すヒマはなかった。
「アタシが言いたいのは、それだけ」
アスカはそう口にすると、それ以上、一切の言葉を拒むみたいに、シンジに背中を向けた。

28: 2008/05/27(火) 19:05:26 ID:???

ついでに、
「枕は、返さないから」
アスカはそう宣言すると、わざわざ壁側、シンジと反対方向を向いたまま、
シンジの枕を後ろ手で無造作に自分の布団の上に投げ出した。
それがアスカの枕と少し重なって、その脇にずり落ちる。
それから出来るだけシンジから距離を取るみたいに布団の端に寄って、
毛布を半分ほど余らせながら、アスカは横になった。
最後まで、シンジの方を振り向きもしない。
「…アスカ?」
呼びかけても、反応はなかった。
「あ、アスカがいいって言うまで、あの海からみんなをサルベージするのは、
待つつもりだから。その……」
言いよどむ。
シンジとしては、これで仲直りを提案したつもりだった。
けれど、カーテンの隙間から見えるアスカの姿にも、何の変化もない。
(……これ以上、今日は話をしたくないってことかな)
シンジはそう判断して、大人しく眠ることにした。
枕を奪われた首元が少し寂しいが、我慢する。
横になるとすぐに疲労が布団に癒着して、体を動かすのも億劫に、目を開けているのもつらくなる。
そうして、闇に身をゆだねる直前、
「バカシンジ…」
という呟きが、聞こえた気がした。

59: 2008/05/28(水) 19:42:18 ID:???

嫌な夢を見て、アスカは飛び起きた。
まず一番に枕元の時計を確認する。……六時。
――ハッとして、辺りを見回す。
シンジとアスカをへだてるカーテンはきっちり直されていて、一部の隙もない。
あれほど開かれていたカーテンの隙間もなくなって、今はもう合わせ目も見えない。
「几帳面バカ」
呟きながら、隣を見やる。アスカの傍らの昨夜と変わらぬ場所に、シンジの枕があった。
念のため、毛布をめくって布団に手を当てる。……冷え切っていた。
「……ま、当然よね。もしそんなことしてたら、ぶん殴ってるわよ」
そう口にして、それでも抑え切れない苛立ちを抑えるため、シンジの枕をつかんで、
カーテンの向こうに向かって思い切り投げる。
それでシンジが飛び起きようが、痛がろうが、構うことない、と思った。
しかし、
「……シンジ?」
カーテンの向こう側。
そこにあるはずの布団は、もう綺麗にたたまれていた。

61: 2008/05/28(水) 19:44:32 ID:???

呆けていた時間は、ほんのわずかだった。
二十秒で着替えを済ませて、外に飛び出す。
思い浮かんだのは、昨日の光景だ。
――あの時。海に顔を洗いに行ったシンジを追いかけて、アスカはシンジに近づいていった。
手には水の入ったボトルとタオル。
たぶん手も顔もベタベタで、相当にひどいことになっているだろうシンジを、
「真に受けるなんてバッカじゃないの」とでも言いながら、綺麗にしてやるつもりだった。
けれど、それは実現しなかった。
シンジの表情が見えるほど近づいた時、何が起こっているのか気づいた。
シンジは、海の中に手を突っ込んだまま、微笑んでいた。嬉しそうに。
――それを認めた瞬間、感情が爆発した。
全力で走って近づいて、首を引っつかんで引きずり倒して、顔に水をぶちまけた。
起き上がって要領を得ないことを言うシンジを『許せない』と思いながら、
同時にはっきり自覚していた。……自分のズルさを。
シンジを受け入れることなんて、出来ない。近寄ってきたら、はねのけるだけ。
だけど、必要じゃないワケじゃない。失ったら、もう生きてはいけない。
(なによ、それ。まるで最低なヤツじゃない、アタシ…)
そう思ったから、夜は少しだけ歩み寄ってみようとした。
だけど、ことごとく気づかれなかった。……シンジがバカだから。

62: 2008/05/28(水) 19:45:44 ID:???

アスカは昔から、シンジのことを『どうしようもなく鈍感だ』と思っていたが、
実際の所、鈍感でどうしようもなかった。
――アスカがわざわざあんな小さい家を選んだのは、どうしてなのか。
――部屋をカーテンで二つに仕切ってまで、同じ部屋に寝ようとしたのはなぜか。
――いつも体を奥に寄せて、布団を半分空けているのは、何のためなのか。
ほんの少しでも想像力を働かせれば分かることなのに、シンジはいつまで経っても全く気づかない。
昨夜もそうだった。
会話の中でシンジに、『いなくならないで欲しい』と言ったのに、気にもされなかった。
その後で、『これからもずっと一緒にいるつもりだ』と告げたのに、謝られた。
――そして、極めつけ。
いつも通りのことをしたって、一生こいつには気づかれない、と思ったアスカは、
枕でカーテンをこじ開けて、お互いの姿を見えるようにした。
その上で、恥ずかしさと緊張で、顔がゆだってクラクラするくらい勇気を出して、
隣に枕まで並べてやったのに、たぶん気づきもされなかった。
それどころか、きっと怒っているのだと勘違いされていた気がする。
(……まあ、もちろん、近寄って来たりしたら、ぶん殴るんだけど)
それでも全く気づかれないまま無視されるのは、アスカのプライドが許さないのだ。
そのあげく、勝手に仲違いしたと勘違いして、この有様だ。
家出をしたのか、それとも、まさか一人で海に向かったのか、それは分からないが、
「どっちにしろ、認めらんないのよ、そんなこと…!」
そう息巻いて、アスカは必氏で胸の奥から怒りをかき立てる。
そうして逆に、弱い心、『もしかすると、シンジはもう戻ってこないかもしれない』とか、
『もう海の一部になってしまっているかもしれない』とかいった、最悪の予想と怯えを、
胸の奥に押し込めて、しゃがみ込みそうになる四肢に力を込める。
自由にならない体は、慣れない疾走に何度もバランスを崩し、しかし、
幾度転んでもアスカの勢いは衰えない。
具体的な場所に当てはないが、海を目指すなら、家から距離の近い浜を目指すだろうという漠然とした予想はあった。
そして、アスカは振り返ることなく走り続け、
――いた。
水際にたたずむ、彼を見つけた。

63: 2008/05/28(水) 19:46:44 ID:???

最悪の予想は、当たらなかった。
シンジは赤い海を臨みながら、手を差し伸べるでも、足を踏み入れるでもなく、
そこに立っているだけだった。
それは、アスカにとっては喜ぶべきことのはずだったが、
(見てるだけって、……気持ち悪ぅ。やるんなら、早く何かやりなさいよね。
アタシが絶対、止めてやるから)
最悪の予想が外れたせいか、余裕を取り戻した心は、そんなことまで考えられた。
すると、アスカの心の声に発破をかけられたかのように、シンジがようやく動き出す。
手に提げていた袋から、何かを取り出した。
(あ、アレって!)
手にしていたのは、缶ビール。エビだかカニだか言う、ミサトがよく飲んでいた銘柄だった。
(あいつ! あんなものどこに…! っていうかアレ、飲むつもり?
まさか、早起きしたのもこのため? 優等生のシンジ君が、朝にこっそり飲酒ってワケ?)
矢継ぎ早に、アスカの頭に疑問符が踊る。
しかし、そんなアスカの見ている前で、シンジは迷いなく缶を海に向かって傾けた。
中身がドボドボと海に注がれる。
(……あぁ、そう。そういうこと)
それを見て、急速にアスカは冷めていく。……頭も、心も。
なんてことはない。海にいるミサトに飲ませているつもりなのだ、シンジは。
そして、アスカの目の届かない所にあんな物を隠し持っていたということは、
昨日のことがあってから思いついたということでもないはずだった。
もしかすると、アスカが見ていない所で、何度も同じようなことをしていたのかもしれない。
赤い浜辺で目覚めて以来、ずっとアスカの傍でオロオロしていたような印象のあるシンジだが、
あながちそういうワケでもないらしい。
アスカはそこまで分析すると、
「ハッ! バカバカし。あんなことしたって、ミサトが喜ぶワケでもないのに。
こんなの、自己満足の極みじゃないの」
大きな脱力感と疲労感、そして小さな喪失感と敗北感を抱きながら、
アスカはフラフラとその場を後にした。

76: 2008/05/29(木) 00:40:04 ID:???

「アスカ。今日は、海沿いに東の方を探索するんだよね?」
「え…? ああ。そうね。それでいいんじゃない?」
アスカの気のない返事に、シンジは口を尖らせた。
「今日は遠くまで出かけて、新しいシェルターを見つけよう、って言ってたの、
アスカじゃないか。
朝だって、何度声かけても、ぜんぜん起きないしさ」
「うるさいわね。アタシは低血圧で朝は弱いの。
大体、アンタだって早く起きたなら朝ごはんくらい用意しといてよね。
今日は、アンタが朝食の当番でしょ」
その言葉に、シンジの勢いが目に見えて落ちた。
「ご、ごめん。でも、僕もさっき起きたばかりだから」
ぱっと顔を逸らせて食事の支度をする姿には、あからさまな動揺が浮き出ている。
「……嘘ばっか」
これでごまかせてると思ってるなら、ずいぶんとおめでたいわね、
とアスカは醒めた頭で思った。

77: 2008/05/29(木) 00:41:16 ID:???

「あれ? 今、何か言った?」
わずかに聞きとがめたらしいシンジがそう訊いてくるが、
「べっつにぃ。ただ、最近の缶はすごいわよね、って思ってただけ。
何しろ、開けるのに缶切りいらないんだから」
アスカはあっさりとごまかした。
「そ、そうだね。すごく、便利だよね」
そこにかぶせられる、シンジのおざなりな追従に、アスカの苛立ちはますます募る。
「……ごちそうさま」
これ以上はもう我慢出来ないと思ったアスカは、食べかけだった缶詰を手早く片づけると、
すぐに立ち上がった。
「あ、アスカ。もういいの? まだ、出してない料理だって…」
そう言って、シンジがアスカを引き留めようとするが、
「早く、出たいんでしょ。アタシは、支度してくるから」
「あ、わ、待ってよアスカ。僕も、すぐに食べるから……」
後ろで慌しく食器を鳴らす音を聞きながら、
アスカはカーテンをくぐって自分のテリトリーに潜っていった。

78: 2008/05/29(木) 00:42:17 ID:???

アスカに少し遅れて支度を終えたシンジは、外に出てアスカの姿を見るなり、
「あれ…?」
と声を漏らした。
「何よ。アタシの顔に、何かついてるっての?」
対シンジ交渉の基本、ケンカ腰。
アスカが威圧的な口調で言ってやると、シンジは一歩後退した。
「い、いや。そうじゃないけど。でも、服が…」
「…服?」
アスカは自分の格好を見下ろした。
探索の時、前にも着たことがある服で、別段おかしな所もないはずだった。
「昨日、わざわざ布団の横に服が一式置いてあったの見てたから、
その服を着て来るんだとばっかり思ってて…」
顔には出さないが、アスカは内心ビクッとした。
確かにその服は今日着て行く予定の服だったのだが、今朝シンジを探す時に着替えて、
そのまま何度も転んで汚してしまったため、今の服を選ばざるを得なくなったのだ。
(普段はとんでもなく鈍感なくせに、どうでもいいことには目ざといんだから)
アスカは、そんなシンジを苦々しく思いながら、勢いで乗り切ることを選択した。

79: 2008/05/29(木) 00:43:33 ID:???

「別にいいでしょ。気が変わったのよ。……それとも何? オシャレ音痴なアンタが、
アタシの見立てたこの服にいちゃもんつけようって言うの?」
「い、いや。そんなつもりじゃないよ。その服も、に、似合ってると思うけど…」
また適当な同意に、アスカはカチンときた。
「その服『も』似合ってると思う『けど』? けど、何? はっきり言ってみなさいよ」
言葉尻を捕らえて、少しイジワルをする。
した、つもりだったのだが、
「その服も、似合ってると思うけど……。
あ、あの服を着てた時のアスカは、ほ、ホントに、かわいいと思ったから!」
顔を真っ赤にして、そう言い切られた。
「な、え、バッ…!」
何を言われたのか理解して、赤面が、瞬間的に伝染する。
「バッカじゃないの! アタシが可愛いのは、当然じゃない!
そ、それを、服のおかげみたいな、そんな、そんなの、バッカじゃないの?!」
「ご、ごめん」
「謝るんじゃないわよ!
……あの服は、また、着るから、それでいいでしょ。
これで、この話はおしまい!」
大げさに手を振って、そっぽを向いて、アスカは顔の火照りを隠した。

80: 2008/05/29(木) 00:44:22 ID:???

移動の時は、大概アスカを先頭に、シンジがその二歩くらい後ろを歩く。
それは、アスカがバランスを崩した時、シンジが駆け寄って体を支えられる、
ギリギリの距離なのだと、アスカは不愉快なことに悟っていた。
その、付かず離れずの距離から、シンジが声をかけてくる。
「あ、あのさ、アスカ。昨日の、ことなんだけど。……昨日、アスカ、怒ってたよね?」
「…別に。どうしてアタシが、アンタがしたことで怒ったりしなくちゃいけないの?」
もちろん、アスカは怒っていた。あの時も、そして今も。
――せっかくいい雰囲気だったのだから、そのまま何も言わずにおけばいいのに、
ここでわざわざ余計なことを言うのがシンジなのだ。
「で、でも、どうしてアスカが怒ったのか、僕なりに考えてみたんだ」
「あぁ、そう!」
内心の憤慨を込めて、苛立ち紛れにそう言い放った。
今までの経緯から考えると、シンジがアスカの怒りの原因を言い当てる確率は、
はっきりゼロパーセントと言える。
だからアスカは、心の中で身構えた。
こいつの口から、どんなトンチンカンな言葉が出てくるのか。それを、諦念と共に待つ。

81: 2008/05/29(木) 00:45:38 ID:???

言葉がまとまったのか、やがてシンジはゆっくりと話し始めた。
「僕は、アスカと二人でここで暮らさなきゃいけないんだ、なんて思ってたから、
考えもしなかったんだけど。でも、思ったんだ。魂のサルベージをする、って計画。
アスカはきっと、ずっと前からそういうこと、考えてたんじゃないかって」
まさか口を開いて「ほら、やっぱり」とも言えなくて、アスカは黙っていた。
「だけどアスカがそれを口にしたり、実行したりしなかったのは、
それが危険だからって、分かってたからだと思うんだ。
それなのに、僕はすっかり舞い上がって。ろくな考えも、準備もなしに、みんなを救うんだ、
なんて息巻いて、カッコ悪かったよね。覚悟がないって言われても、当然だよ」
「そうね」
アスカがあっさり認めると、シンジは一瞬泣きそうな顔をしたが、知ったことではなかった。
(思った通り、見事にかすりもしてないわよ)
と、心の中だけで続きを言う。
これだけそっけない対応をされても、シンジはあきらめていないようだった。
「だ、だけどこれからは違う。僕とアスカが、ここで何とか生き残っていくことだけじゃなくて、
アスカが、ミサトさんとか、加持さんとか、みんなと一緒に暮らせるように、僕もがんばるよ。
……それだけ、言っておきたくて」
「ふうん。……話は、それだけ?」
いい加減イライラするので、話を切り上げようとしたのだが、シンジはまだ食いついてきた。
「ま、待って。もう一つ、大事な話があるんだ。僕が、あそこでミサトさんや加持さんを見たのは、
本当だよ。だから、アレが起こる少し前に氏んじゃった人とも、また会えるかもしれない」
シンジは、満面の笑みでそう告げてくる。しかし、
「……だから?」
アスカの反応は、淡白を越えて冷淡だった。

82: 2008/05/29(木) 00:47:29 ID:???

その反応はさすがに意外だったのか、シンジも戸惑う。
「だから、って。加持さんが生きてるんだよ。嬉しくないの、アスカ?」
加持の氏はアスカには知らされなかったが、薄々と感じてはいた。
そして、LCLとの融合で、その情報を知識として補完してはいた。
だからもちろん、それが嬉しいことだと、アスカにだって分かる。
もう少し冷静な時なら、小躍りして跳ね上がったっていいかもしれない報告だ。
だが、今は到底そんな気分になれなかった。
「アンタは、ずいぶん嬉しそうね。そんなに、みんなに会いたいワケ?」
「それは、…当たり前だよ。ミサトさんはもちろん、久しぶりにトウジやケンスケとバカ話したいし、
父さんと会うのは、少し怖いけど、でも、やっぱりもう一度、話がしたいし」
「…へぇ」
(アンタは何で、そんなに嬉しそうなのよ。そんなに、あいつらが好きなの? ここが、嫌なの?
前は、アタシと暮らすのが楽しいから、僕がみんなを海に閉じ込めてるのかもしれない、
なんて、言ってたくせに)
照れくさそうに話すシンジを、アスカはどこか遠いモノのように見つめる。
だが、自分の想像に夢中になったシンジは気づかない。
「あ、それに、綾波! 綾波にも会いたいな。言いたいことがいっぱいあるし、
それに、今の僕なら、彼女が『三人目』でも、怖がらずに話が出来る気がするんだ。
ねえ、アスカ、アスカは誰と一番…」
「ちょっと待って」
シンジがアスカを向いた所で、言葉を止めさせる。
「ねぇシンジ。一言だけ、いい?」
そして、とっておきの、優しい声音で、言ってやる。
「あっ。うん、何、アスカ?」
シンジが犬なら全力でシッポを振ってるのが見えるだろうという、期待のこもった声。
それに向かって、アスカは一言。
「うるさいから、黙って」
――途端に凍りつく二人の空気に、アスカは今回の探索の失敗を予見した。

83: 2008/05/29(木) 00:48:44 ID:???


――皮肉なことに、その日の探索は、大成功と言える物だった。
水や食料はもちろん、幸運にも、自家発電と生命維持の生きている地下シェルターを発見した。
世界滅亡一歩手前のこういう状況で過ごすにはそこは理想的な環境で、シンジなどは、
これからの拠点をそっちに移そうと引っ越し案を提案したくらいだった。
もちろんアスカが色々と理由をつけて断固拒否したため、その意見は通らなかったが。
――そして、夜。
部屋から物音がしなくなったのを確認して、アスカは立ち上がった。
音を立てないように、手早く、身支度を整える。しかし、
「……アスカ? どこか、行くの?」
わずかな音を聞きとがめて、カーテンの向こうから声がした。
アスカは内心で舌打ちしながら、
「体、洗ってくるのよ」
と正直に答えた。
「お風呂? 昨日、入ってたのに…」
「うっさいわね。お子ちゃまなシンジの基準でアタシみたいな美少女を判断しないでくれる?!」
そう怒鳴って黙らせようとしても、
「でも、水、もったいないよ。洗い物とか、洗濯にだって使うのに…」
往生際悪く文句を言ってくる。
水を使う、と言ってももちろんバスタブに張れるほどの水はないので、水をひたしたタオルで体を洗う。
そうして綺麗になった体を、最後に少量の水で洗い流すのが彼らにとっての『風呂』だった。
雨も地下水も、全部が赤く汚染されている今、水はもしかすると一番貴重かもしれない資源なのだ。
しかし、アスカはシンジの繰言を無視することに決めた。
「のぞいたら頃すわよ!」
半ばお約束として釘を刺し、
「……のぞかないよ」
脱力したシンジの返事に、わずかな動揺があったことになぜか満足げな気分になって、アスカは建物を出た。

84: 2008/05/29(木) 00:49:36 ID:???

アスカは一人、赤い海を望める場所にやってきていた。
外は冴え冴えと月光が照らしていて、光源のない屋内よりは、ずっと明るく、鮮明だった。
「……でも、さすがに寒いわね。ここ」
常にセミの鳴き声がしじまに響いていた日々は、もう絶えて久しい。
屋内でも夜は隙間風に気をつけなくてはいけないくらいなのに、屋外に出ていれば当然だった。
しかし、シンジに対する朝の意趣返し、というワケでもなかったが、
なんとなく、ここに来てみたい気分だったのだ。
それに、こうも開けた場所なら、もし万が一シンジがのぞきに来ても、
絶対に発見出来るという自信はあった。
それに、
(来たなら来たで、それで構わない)
でも、シンジは来ないだろう。
だからアスカは月光の下、服を捨て去り、しっかりと、丹念に、自らの裸身を磨く。
ずっと使わないで取っていた、ほのかにラベンダーの香りがする石鹸を惜しげもなく使う。
物言わぬ赤い海に見せつけ、誇るように、自らの均整の取れた裸体を晒しながら、
アスカは海をずっと睨み続けていた。

85: 2008/05/29(木) 00:50:44 ID:???

最後に、頭から綺麗な水をたっぷり使って体を流すと、自分の中の余計な物が削げ落ちて、
自分が鋭く純化されたような、不思議な錯覚がした。
体や髪を丁寧に拭いてから、用意していた新しい服を着る。
「アタシは……キレイよね、ママ」
そうして、アスカは立ち去る前に一度だけ、赤い海を振り返った。
血の匂いのする赤い海には生理的な嫌悪感を覚えるし、気色の悪さは感じる。
――けれど、それだけだ。
シンジと違って、そこに何かの恐怖を感じることも、
溶けてしまった人たちを引き上げたい、という切実な思いを感じることも、ない。
(どうしてかしら。ママも、いるかもしれないのに)
少しだけ、考える。
「見ててくれたのが分かったから、いてもいなくても同じなのね、きっと」
自分で言ってから、
「…変な理屈」
と噴き出した。
けれど、今のアスカには、そんな考察はどうでも良かった。
「今度こそ、絶対にアタシを無視なんてさせない」
アスカはそれきり、海に背を向けて、
「シンジ。アンタの中に、アタシを刻み込んでやるから」
目指す場所に、歩を進める。
そこに、迷いはなかった。

86: 2008/05/29(木) 00:51:45 ID:???


(……眠れない)
もう何度目か分からない寝返りを打ちながら、
シンジはすっかり冴えてしまった自分の目を持て余していた。
潔癖症なところのあるアスカのことだから、いざ寝るという時になって、
自分の体の汚れが気になったのだろう。
それはいい。まあ、しょうがないかな、とシンジは思う。
だが、それを告げられてシンジがこうむる被害については、全く何も考えていなかったに違いない。
(……はぁ。アスカって、いつもはあんっなに自意識過剰なくせに、
肝心なところは無頓着っていうか、鈍感なんだよな)
シンジは、自らの無防備な同居人を思って、大きく嘆息する。
そもそも、いくらカーテンで区切っているとはいえ、同じ部屋で、
耳を澄ませば息づかいが聞こえるほど近くに女の子が寝ているという状況が、
健康な中学生男子のシンジにとってどんな影響をおよぼすか、考えてもいない。
(全く。僕じゃなかったら、とっくに襲いかかってるところだよ)
そこまで考えて、「……まあ、そうなっても返り討ちだろうけどさ」と口の中でこぼす。
――その時。キィと扉がきしむ音がした。

87: 2008/05/29(木) 00:52:46 ID:???

少しやましいことを考えていたシンジは、ビク、と体を強張らせた。
「アスカ? 帰ったの?」
ドアがあるのは、アスカの側だ。シンジからは、その様子は見えない。
返事はなかった。
その代わり、荷物を置くようなトスッという音と、布の落ちるパサッという音、
それから、全くの無音。
シンジは少し気になったが、
(まだ、怒ってるのかな? 今日は疲れてるだろうし、あんまり食い下がらない方がよさそうだ)
そう判断して、目をつぶった。
驚いたことでいい具合に興奮も冷めて、これなら何とか眠れそうだった。
体の力を抜いて、静寂に身をゆだねる。心が、少しずつ落ち着いていく。
そして、シンジがようやくウトウトとし始めた時、体に触れる、温かい感触に目が覚めた。
(なにか…が、ふとんのなかに、はいって、きて……)
寝ぼけた眼で、自分の体の上を這い回る物の正体を確かめる。
(…えっ!?)
驚きに、一気に目が冴えた。
「なっ、あ……アス、」
声を出そうと動いた口も、そのまま固まった。
なぜなら、
「ただいま、シンジ。眠らないで、待っててくれたのね」
シンジの上で、そう言って薄く笑ったアスカは、綺麗な鎖骨のラインや、その下の淡いふくらみ、
それらを守るはずの衣服を、全く身につけていなかったからだった。

110: 2008/05/30(金) 19:01:32 ID:???

唯一の光源である、窓から差し込む月光に、アスカの肢体が照らし出される。
(……キレイだ)
場違いにも、そう感じてしまう。
透き通る肌と、月光に輝く金色の髪が、シンジの前に惜しげもなく晒されていた。
アスカの身体と心にいくつものダメージを残したあの戦いの後遺症も、
彼女の美しさを損なうことまでは出来てはいなかった。
その姿は、どこまでも幻想的で、そして、限りなくリアルだった。
形良い唇から漏れるかすかな呼気に、のしかかる体の確かな重みと熱。
それが、まさに手を伸ばせば届く場所に息づいている。
「あ、アス、カ。なん、で……?」
痺れる舌を必氏に動かす。そうしなければ、おかしくなってしまいそうだった。
「理由なんて、必要ないでしょ。アンタがずっと、アタシを欲しがってたこと、知ってるんだから」
「それ、は……」
反論は、出来なかった。
アスカには、もう前に一度、『見られて』いる。……あの、海の中で。
それに、これだけ密着していれば、シンジの状態にもとっくに気づいているだろう。
――それでも、アスカはいつものように侮蔑や罵倒の言葉を吐き出すことはなかった。
「ねぇ、シンジ。人が、恋しいんでしょ。誰かに、優しくしてほしいんでしょ?
だったら、アタシがなぐさめて、あげるから…」
「…!」
アスカが体を寄せてくる。しかし、シンジの脳裏に閃くのは、
(……ラベン、ダー?)
その鼻腔を刺激する匂いは、シンジに全く別の連想をさせた。
「ミ、サト…さ…」
その声はかすれ、言葉は形にならない。
だが、誰にも届かなかった分だけ、口に出した本人の中に残った。

111: 2008/05/30(金) 19:02:34 ID:???

「どうしたの? 寂しいんでしょ、シンジ。アタシが、忘れさせてあげるから……」
アスカの息が、胸元にかかる。
――熱い。
しかし、のぼせているはずの頭の奥にある妙に冷えた部分が、シンジに何かを囁きかける。
(本当に、寂しいと思っているのは……。本当に、なぐさめて、欲しがってるのは……)
首を振る。
シンジを支配しようとする全ての不可解を振り払おうと、もがく。
「アスカ。冗談は、やめようよ。どうしたんだよ。おかしいよ、アスカ…」
「冗談だったら、アンタにこんなこと、出来ないわよ。だって、仕方ないじゃない。
ここには、アンタしか、いないんだから…」
緊張のあまり布団に押しつけられ、これ以上ないほど強張ったシンジの手に、
アスカが包むように手を重ねていく。
それは、まるで、

『シンジ君。今のあたしに出来るのは、これくらいしかないの』

「――ッ!」
聞こえた幻聴に、息が詰まる。反射的に、アスカの手を振り払った。
「……ぁ」
その手が、勢い余ってアスカの口をかすめる。
――肉の裂ける、嫌な感触がした。
どこか恍惚とした表情のまま、アスカが唇を押さえた。
「唇、少し切れちゃった…」
チ口リと舌が、朱唇に踊る。
シンジは動けない。アスカの姿に、完全に当てられていた。
「だから。……シンジが、責任取ってくれなきゃ、ダメよ」
唇が、重ねられた。

112: 2008/05/30(金) 19:03:58 ID:???

「……ッ!」
全身が硬直する。
シンジの指先がぴくりと動いて、だが、それだけだった。
抵抗の意志はある。しかし、傷つけることへの恐怖が、シンジの動きを縛っていた。
「……ん、は」
鼻にかかったアスカの声。
束の間の解放。
軽い息継ぎ。
そしてまた、唇が重ねられる。
『鼻息がこそばゆいから』なんて言葉は、アスカの口からはもう出てこない。
過剰なほどに、熱中していた。
自然と落ちかかるまぶたに抗って、シンジは視線を下げる。
冗談みたいに整った鼻梁。そして長いまつげに隠されて、アスカの瞳もまた、シンジを見ていた。
どこか上目遣いにも見える眼差しで、シンジを見つめる瞳には、すがるような光があった。
(……あぁ)
意識をした途端、シンジはアスカを全身で感じ取る。
拘束のためだけでなく、いっそ健気なほどにシンジに密着しようとするアスカの身体の意志に、
薄いシャツの布地越しに伝わる彼女の脈動。
よく見れば、肩にそえられた手はかすかに震えていた。
――シンジの体から、力が抜ける。抵抗はもう、不可能だった。

113: 2008/05/30(金) 19:04:37 ID:???

「……ん、ん」
それを敏感に感じ取ったのか、アスカの動きが力を得た。
シンジにも分かる。感じ取れる。
一秒、一瞬ごとに、アスカは深く傾倒していく。行為に、そしてシンジに。
少しでも自らの熱を伝えようと、押し潰すような勢いで押しつけられるアスカの体。
さらなる慰撫を求めてシンジの指はアスカの少し汗ばんだ手に絡め取られ、
もう片方のアスカの手は、必氏にシンジの肩をつかんで放さない。
そして、とうとうシンジの口が割り開かれ、ねっとりと熱い舌がシンジの口内に入り込んで、
――血の、味がした。

『大人のキスよ。帰ってきたら、続きをしましょう』

フラッシュバックする。
味と、匂いと、記憶と、温もりが、混ざり合って、グチャグチャになって、

「やめてよっ!!」

シンジはアスカを、突き飛ばしていた。

115: 2008/05/30(金) 19:05:39 ID:???

唇に欲望の残滓を貼りつけたまま、まるで、拒絶されることが信じられない、
というように、アスカは呆けていた。
「え? シ、ンジ…?」
それを、なかったことにしようと、引きつったような半笑いでシンジに手を伸ばしてくる。
しかし、その手を、
「やめてよ! ぼくに、僕に触らないでよっ!」
シンジは全力で、払いのけた。
「……ぁ」
もう、言葉もないアスカから、シンジは距離を取る。
無様に布団から転げ出して、逃げ出して、それでもその時のシンジを支配していたのは、
恐怖ではなくて、怒りと、どうしようもないやるせなさだった。
他に行き場のない感情が、口から外へ漏れ出した。
「どうして、こんなことするんだよ。どうして、こんなこと出来るんだよ。
僕は、道具じゃない。僕は、寂しさを埋めるための道具なんかじゃないのに!」
その言葉を、理解しているのかいないのか。
まだ壊れた笑みを消せないまま、アスカはシンジに手を伸ばす。
「シンジ、アタシは……」
だが、その手を取ることなんて、シンジには出来ない。出来るはずがない。
「誰でもいいのなら、僕を放っておいてよ! 僕が要らないなら、僕に近づいて来ないでよ!!」
尚もすがりつこうとするアスカを振り払って、シンジは外へと飛び出した。

117: 2008/05/30(金) 19:06:50 ID:???


走る。走る。走る。
アスカが追って来るはずはないと分かっているのに、体は止まらない。
怒りと興奮が冷めてくると、シンジの体を支配しているのは恐怖だけだった。
「ぁ、うぁっ…!」
何かに足を取られ、シンジは転ぶ。
月明かりの導きだけで、ガレキの転がる地面を走るのは無謀だった。
(……もう、ここで止まろう)
そう思う。
なのに、体は自然と起き上がり、再び疾走を始めていた。
「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ…」
臆病に、怯えながらでも、シンジはアスカに素直に向き合うと決めていた。
決めていたはずだった。だから、
「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃ……」
なのに、止まれない。
止まったら最後、つかまってしまう気がした。
――アスカの手が、壊れた笑みが、すがるような目が、シンジを追いかけている。
シンジを捕えて、放さない。
「イヤだ。こわいよ。イヤだよ…」
止まれない。戻れない。ここにいたくない。
いつしかシンジの足はさらに加速して、シンジをさらに遠くへ運ぶ。
ペースなど考えない走りに、足はもつれ、肺が破れる。
限界を越えた肉体に裏切られ、とうとうシンジは前のめりに倒れて、
……そして、そこが終点だった。
倒れたシンジの前には、血のように赤い海が広がっていた。

118: 2008/05/30(金) 19:08:00 ID:???

「はっは、はっ、は…」
息を整えながら、シンジは後ろを振り返った。……誰もいない。
とりあえず、ほっと胸をなでおろす。
見渡すと、逃避行の果てにシンジが辿り着いたのは、以前、ミサトにビールを捧げた場所だった。
そのことに、もう一度ほっとする。
ここに来たことは、アスカには秘密にしていた。だから、この場所が見つかる心配はほとんどない。
――アスカとは、きちんと向き合わなくてはいけない。
そう思うのに、今のシンジには、アスカと対峙するための気力がすっかりなくなっていた。
(こわい。もどりたくない…)
もう一度、あんな風に、迫られたら。
あんな目で、自分を見つめられたら。
シンジはきっと、拒めない。
――それがどんなに、シンジの意に染まないことだとしても。
だからシンジは一人、震えていた。
赤い浜辺で。何も出来ず、何も決められずに。

119: 2008/05/30(金) 19:08:59 ID:???

「何が、間違ってたのかな」
月を見上げて、呟く。
長い夜だ、と思った。
「この世界に、人のいる世界に戻って来たのは、間違いじゃないって、信じたいよ。
でも、だったら、何が間違ってたんだろう…」
(僕がアスカに、近づいたこと…?)
いや、違う。シンジは首を振る。
人が人に寄り添おうとするのは、自然なことだ。じゃあ、不自然だったのは、何だろう。
――すぐに思いついた。
アスカの言葉が、脳裏によみがえる。
『冗談だったら、アンタにこんなこと、出来ないわよ。だって、仕方ないじゃない。
ここには、アンタしか、いないんだから…』
生きている物が、お互いしかいない世界。そんな世界では、お互いがお互いを求め合うしかない。
それを口実にして、シンジはアスカに近寄っていった。
そして、状況を受け入れたアスカは、シンジを拒まなかった。
――それが、嬉しかった。
だけど、
そんな関係は、ひどくいびつで、歪んでいる。

120: 2008/05/30(金) 19:10:39 ID:???

「僕は、その歪みを盾に、アスカに近づいていったんだ。
だから、今度は、同じことをアスカにもされただけ」
でも、違う。
――アスカが欲しくて、歪んだシンジと。
――歪みから、シンジを欲したアスカとでは。
そもそもの基盤がもう、異なっている。
「このまま、アスカが僕を求めても。そして、僕がそれを受け入れても。
僕はずっと、アスカに見てもらえない。そんな、気がする」
だって、アスカが求めているのはシンジではなく、自分の寂しさを埋められる、
人の温もりだけなのだから。
だからといって、アスカを恨むことは、出来なかった。
「あんなに、怖がっていたのに…」
それでも、シンジを求めるしかなかったアスカ。
そして、そんな状況にアスカを追いやったのは……。
「そう、か。そうなんだ…」
状況を打開するために何の努力もしなかった、シンジのせいだとも言えた。
「……はは。何だ。結局、全部僕のせいじゃないか」
自嘲の笑みに、涙声が混じった。
自分の救いようのなさに、どうしようもなく涙と笑いが込み上げてくる。
――しかし、シンジは一つだけ、贖罪の方法を知っていた。
そっと、視線を落とす。
「アスカ、ごめん。僕から約束したのに、守れなくて……」
――眼下には、果てしなく広がる赤い海。
シンジにはそれが、口を開いて生贄を待ち構える、巨大な生き物のようにも見えた。

150: 2008/06/01(日) 14:14:29 ID:???

我に返ったアスカが一番にしたことは、目の前にあった枕を壁に投げつけることだった。
「……なによ。バカシンジのくせに。バカシンジの、くせに…!」
ぎゅっ、と布団を握り締めた。
「これじゃ、まるで、アタシが振られたみたいじゃない」
…力を込める。
「てゆーか、何様のつもりかしら」
…さらに、力を込める。
「アタシがここまでしてやってんのに、なんなのあの態度は!」
…もっと。
「ハッ! 所詮は優等生のシンジ様ってワケね」
…もっともっともっと!
「大体、ちょっとからかっただけですぐ本気にしちゃってさ」
腕が震えるほど、布団を強く握りしめて、
「アタシが、アンタなんかのこと、本気で相手にするワケないじゃない」
アスカは必氏で堪えた。
「やっぱりバカね。バカシンジ」
それが、唯一の拠り所であるように、きつく、きつく両手を握り締めて、
「ほんとに、バカ…」
――その手に、ぽつんと、熱い物が落ちた。
「……や、だ。なによ、コレ」
ぽつ、ぽつと、それはどんどんと滴っていく。
「止まって、止まってよ。アタシの体なんだから、言うこと、聞きなさいよ」
止まらない。堰を切ったように瞳からは涙が流れ、
「ウソ。どうしてよ。アタシは、何も思ってない。何も、感じてなんかいない!」
アスカは自らの嗚咽に押し潰されるように、布団に崩れ落ちる。
「泣くのはイヤ。イヤなの。アタシはもう、なんでも、ひとりで……。だから、いらない。
なみだも、アンタも、もういらないのに……。いらない、のに……」
一人ぼっちの家に、押し頃したアスカの泣き声だけがずっと、響いていた。

151: 2008/06/01(日) 14:15:08 ID:???


「……さむい」
グス、と鼻をすすりあげて、アスカはシンジの毛布にくるまった。
「アイツの、匂い…」
素肌に感じるチリチリとした生地越しに、シンジがアスカに入り込んで、
一つに混じり合っていくような錯覚。
「……気持ち、悪い」
でもそれが、同時に甘美でもあることをもう、アスカは否定出来ない。
――あの時、シンジに、キスをした時。
一瞬だけ目を合わせて、それからシンジは、抵抗を止めた。
目に見える物だけでなく、身体の感触そのものが変わった。
全身で示していた抵抗が、急になくなった。
――受け入れられた、と思った。
それを感じた時、体が熱くなって、もう何も考えられなくなった。
アスカにもよく分からない感覚。でもアレは、たぶん、……嬉しかったのだと思う。
なのに、突然、
「突き飛ばされた。……拒絶、された」
――拒絶された拒絶された拒絶された拒絶された!
襲う痛みを、目をつぶってやりすごし、
「それ、から…」
視線を、移す。今まで、意識して見ないようにしていた場所を、
「…逃げられた」
壊れたカーテンと、その奥の閉じられたドアを、視野に収め、確認する。
そして、
「……もう、戻って来ないわね。きっと」
でも、それでいいと思う。
「アタシはもともと、一人で生きていこうと、思ってたんだし……」
――アイツを追いかけるなんて、出来ない。
だって…。

152: 2008/06/01(日) 14:15:44 ID:???

「だって、アタシは、悪くない」
そう、口に出してしまって、
(…ほんとに?)
アスカの心の中に、疑問が浮かぶ。
「だってアタシは、シンジに伝えようとした。歩み寄ろうとした」
湧き上がった疑念の欠片を、アスカは必氏で否定しようとする。だが、
(…ほんとに?)
疑問符は、なかなか消えてくれない。
「知ってるでしょ。アタシは何度もアイツに近づこうとしたの。
同じ部屋で過ごせるようにして、一緒にいてもいいって言って、近くに来るのを許しもしたわ。
なのに、シンジが、アイツが気づかなかっただけ。だから、だからアタシは何も悪くないのよ」
そうだ。それは、完全無欠に本当のこと。いつだって悪いのは、鈍感なバカシンジ。
それ以外の結論なんて、ありえなかった。なのに、
(…ほんとに?)
「そうよ」
何度否定して、打ち消してみても、
(…ほんとに?)
「そうよ! そうだって言ってるでしょ!」
声を荒げて、主張してみせても、

(…ほんとうに?)

――心に生じた疑念は、どこまでも執念深く、根強かった。
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 全部、鈍感なシンジが悪いのよ!
それでいいじゃない! それの、何が気に入らないのよぉ!」
自分の心中に生じた言葉を、怒声をあげて否定する。
その行動の奇妙さに、アスカはしかし頓着する余裕はない。

153: 2008/06/01(日) 14:16:20 ID:???

(へぇえ。アンタは努力したのに、アイツが気づかなかったからアイツが悪い。
アンタはそう言いたいワケね)
底意地の悪い声と抑揚。人を小馬鹿にする笑い。
いつしか、アスカを追及する声は、アスカそのものへと変わっていた。
「そうよ。アイツが、シンジが気づけば、こんなこと…。
アタシは、あんなに努力したのに…。近づこうって、近寄ろうって…」
(でも、一つ訊くけど。アンタはソレ、ちゃんと分かるように言ったワケ?)
「……え?」
アスカの言葉が、止まる。
(思わせぶりなことばかりやって、シンジが気づかないのを良いことに、
ずっと逃げてたんじゃないの?
相手が気づかないようなほのめかしだけやって、自分から進んでるみたいな気分になって、
本当は向こうが近寄ってくるのをずっと待ってたんじゃないの?)
「そんなこと…」
(歩み寄ろうと努力した? ハッ! バッカじゃないの?
そんなの歩み寄りでも努力でも何でもない、自分を悪役にしないための、ただの言い訳よ)
「違う! 違う! 違う! アタシは…」
ちぎれるほどに首を振る。
「だけど今日! 今日は違うわ! アタシは歩み寄っていったの! なのに、シンジが逃げたの!
だから、悪くないの! アタシは何も悪くないのよ!」
(ふーん。もしそれが本当なら、そうかもしれないわね。でも、
……アンタがあんなことしたのって、そんなキレイな動機だったかしら?)
悪辣な声が、アスカの心をえぐる。

154: 2008/06/01(日) 14:16:50 ID:???

「それは…」
(言いたくないんなら、アタシが言ってあげるわ)
「えっ?」
(アタシは、アンタだもの。それくらい分かるわよ)
「イヤよ! そんなの、いい! 聞きたく、ないっ!」
(アイツが、アタシの体を欲しがってたのは分かってた)
「イヤ! 聞きたくないって言ってるの!」
(アタシが迫っていったら、色々言ったって、最後は絶対受け入れると思ったわ)
「アタシ、そんな風に思ってない!」
(だってアイツ、真面目で優等生で寂しがりじゃない?
身体を捧げたら、きっともうアタシから離れられない。
そうしたら、アタシから何も伝えなくても、シンジはアタシだけを見てくれる。
他のことを全部忘れて、アタシだけを見てくれる)
「ウソ! ウソウソウソ! 全部デタラメよ!」
(そうしたら、シンジはミサトたちのことなんか、きっともう欲しがらない。
そうしたら、あんなに楽しそうに、ファーストのことなんか話したりしなくなる)
「そんなの違う! そんなのアタシじゃない! アタシじゃないの!」
耳を塞いで、首を振る。だが、心の中からの声はせき止められない。
(……弱い女。結局アンタは、正面からシンジに向き合う勇気がなかっただけでしょ)
「うるさい! うるさいうるさい!!」
(惨めね。ぶつかって、傷つく勇気がないから、体を使って篭絡して、
それで相手を支配しようなんて。シンジにだって愛想尽かされて当然じゃない)
「黙れぇっ!」
一瞬だけ、心の声が止む。
そして、今まで聞いたことのないような、諦めと同情の混じった、優しい声で、
(アンタねぇ。もういい加減、認めちゃいなさいよ。アンタ、ほんとは、シンジのこと…)
…バゴン!
アスカは、手元にあった目覚し時計を、思い切り自分の幻影に投げつけた。
声は、止んだ。

155: 2008/06/01(日) 14:17:23 ID:???

虚ろな瞳で、顔を上げる。
半分ちぎれて、用をなさなくなったカーテンの向こう。
ひしゃげた目覚まし時計と、それがぶつかったと思しき汚れ物を入れたカゴが、倒れていた。
そして、その一番上から、シンジがかわいいと言った、あの服が顔をのぞかせている。
――頭に、カッと血が昇る。
「こんな、もの!」
裸のまま、布団から飛び出して、その服をつかんで、壁に叩きつけた。
それだけでは足りずに、何度も何度も足で踏みつける。
「こんなもの! こんな、もの…。こんな……ッ!?」
何かに気づいたアスカは、そこでしゃがみ込んだ。
「……何よ、コレ」
服の、肩口の部分。そこが大きく、鉤裂きになっていた。
たぶん、シンジを探して走っている時、気づかない内にどこかにひっかけたのだろう。
走っている時は夢中で気にしていなかったし、これをカゴに入れた時も、
そんなことに気を配るような精神的な余裕がなかった。
「…他にはッ?」
持ち上げて、さらに検分する。やはり、そこほど大きい物はなかったが、
その服はあちこちが破けて、もう繕うことも不可能に思えた。
「……着られない。これじゃ、もう、着られないじゃない」
さっきまで踏みつけていたはずの服を、胸元に抱き締める。
「どうしてよ。こんなの、どうしてよ…!」
――着てみせるって、約束したのに。これを着て、シンジに…。
「シンジ、に……?」
はらりと、服が腕から抜け落ちる。けれど、アスカはそんなことにも気づかないまま、
自分の両手を見つめて、呟いた。

「アタシ、アイツのこと、好き…なの?」

156: 2008/06/01(日) 14:20:50 ID:???

「……分からない。分かんないわよ、そんなの」
そう、分からない。
今まで感じていた感情が、今感じている想いが、独占欲なのか、仲間意識なのか、
それとも愛だとか恋だとか言われる感情なのか、分からない、けど。
「このままで、終わらせるのは、イヤ」
立ち上がる。
「このまま、すれ違ったまま、ワケも分からず終わるなんて、絶対イヤ」
必要なのは、一歩を踏み出すこと。
「アタシは、惣流・アスカ・ラングレーは、こんなとこで立ち止まるような、人間じゃない」
必要なのは、相手に分かる言葉で、この気持ちを、ほんの少しだけでも伝えること。
だから、
アスカは立ち上がり、手早く下着を身に着けると、ホコリにまみれ、鉤裂きだらけの服を手に取った。
「……少しだけ、素直になっても、いいわよね」
そう呟いて、そのボロボロの服に袖を通す。鏡で自分の姿を確認して、
「うぅっ。やっぱりカッコつかないぃ」
ぼやくが、それでも着替えようとはしない。
ほつれが目立たないように少しだけ服を整えて、それきり振り向かずに、外に飛び出す。
「待ってなさいよ、シンジ。一度だけ、生涯で一度だけ、アタシがアンタに頭を下げてあげるわ」
どこか晴れやかな気持ちで、高らかにそう宣言する。
心のどこかで、もう一人の自分が『頑張んなさいよ』と声をかけてくれた気がした。

157: 2008/06/01(日) 14:21:23 ID:???

走る。走る。走る。
不自由な体も、今は気にならない。一刻も早くシンジの元へ。
そんな想いだけで、アスカの体は驚くほどスムーズに動き、足は止まらない。
心の中で、シンジに語りかける。
(ねぇシンジ。アタシはね。この世界じゃなかったら、
この誰もいない世界以外では、アンタを好きになれないと思うの)
サードインパクトが起こる前。
以前の世界では、アスカはシンジを憎んでいた。
何でも一番にこなして、エヴァに乗って敵を倒して、
人に認めてもらうことが生きる意味だったアスカにとって、
エヴァでアスカ以上の戦果を上げていったシンジは、邪魔者だった。
でも、
「この世界では、誰もアタシを誉めてくれない。見て、くれない。だけど…」
(アンタが、見て、くれるなら。ずっとアタシを見ていて、くれるなら)
――アスカはきっと、この世界で生きていける。
「ねぇシンジ。だから、ここでずっと、二人で……」

そしてアスカの眼前に、赤い海が見えた。

158: 2008/06/01(日) 14:22:20 ID:???

「……しまった。少しだけ、方向がズレた?」
アスカは、前にシンジが一人で抜け出して、
こっそりビールを流していた場所に向かうつもりだった。
何の根拠もなく、シンジがそこにいると信じていたのだ。
「あの、建物。左に迂回したのが、間違ってた…」
途中で道を間違えたことに気づくが、
「ええい! 何を動揺してんのよ、アスカ! 左にズレたなら、右にいけばいいんでしょ!」
思わぬ失敗で、揺らいだ気持ちに自ら喝を入れる。
そして、歩き出そうとした、その時、
――今まで感じたことのない、得体の知れない恐怖に襲われた。
その発生源は、赤い海。そこから、以前には感じられなかった、奇妙なプレッシャーを感じる。
「海が、喜んでる? ……まさかね」
首を振って、おかしな感覚を振り払う。
海に出たのなら、目的地はもう近い。
余計なことを考えているヒマなど、ないのだから。

159: 2008/06/01(日) 14:23:00 ID:???

デコボコの海岸線を、時に迂回、時には直進して、アスカはひた走る。
それは、万全でないアスカの体から、体力を奪っていく。
しかし、程なくして、
「……いた!」
遠目にだが、アスカの目ははっきりとシンジの姿を捉えていた。
疲れ切っていたはずの足に、力が戻る。
自分の現金さに苦笑しながら、最後の道程を全速力で駆け抜ける。
どんどんと距離が近くなって、その姿が、はっきりと判別出来るようになる。
それでもアスカは、堪え切れずに、叫んだ。
「シンジ! 聞いて! アタシ、分かったの! アタシ、アンタと……」
しかし、叫ぶアスカの目に映ったのは、
自分に向かって不器用な笑みを浮かべる、彼の姿ではなく、
今まさに、赤い魔物にその身を捧げようとする、その投身の瞬間だった。

そして、シンジは、アスカの目の前で、
ボチャン、と。

「シン、ジ? そ、んな…………イヤァアアアアアアアア!!」

163: 2008/06/01(日) 14:47:10 ID:???


(アス、カ…?)
――自らの体が海に没した瞬間、シンジはアスカの声を聞いたような気がした。
たぶん、それは自分の願望が作り出した幻聴だろうとは思う。
アスカが自分のことを追いかけてきてくれる、ということも、都合よく、
アスカがこの場所を見つける、なんてことも、あるはずがない。
(でも、もしそうだったら、うれしいかな…)
それはアスカがシンジのことを、少しでも気にしていてくれたという、証になるから。
たとえ幻聴であっても、最後にアスカの声が聞けて、よかったと思った。
(これで僕も、僕のやるべきことを、全力でやれる)
しっかりと、前を見据えて、手を伸ばす。
(そうしないと、前みたいに素直に、アスカと笑い合えないから。
そうしないと、アスカが僕を、見てくれないから)
最後まで、自分のためにしか動けないけど、
(いなくなった人を、元に戻すから)
溶けそうになる心と身体を、必氏でつなぎとめて、サルベージするべき、魂を探す。
でも、海の中は、あまりに広すぎて、
(くっ。まず、い。意識が、とおく、なる。
……ダメだ! こんなところで終わってちゃ、なんにもならないのに。
これじゃ、アスカに、なん、にも…)
力尽きかけたその時、シンジの前に、影が落ちる。
「かあ、さ…」

――シンジの意識は、そこで途切れた。

164: 2008/06/01(日) 14:47:46 ID:???

アスカは呆然と、シンジが消えた海の前に立つ。
もうそれは、数時間前までの海とは全く違っていた。
眼前に広がった赤全てが、意志を持った生物であるようにしか見えない。
「シンジは、この、中にいるの…?」
覗き込むことすら、躊躇われる。その『生きた海』は、全力でアスカを拒絶していた。
(もう、アイツはどうしてこんなモンの中に飛び込んでいけたのよ…!)
泣きそうな気分になる。
それでも、と中に入る覚悟を決めた途端、急に海が盛り上がった。
「シンジ!?」
現われたのは、女。白く巨大な人影が、シンジを胸に抱き込んで連れ去ろうとしていた。
(誰? ファースト? いえ、似てるけど違う)
補完されていた時、誰かの記憶の中にその顔があったような気がしたが、思い出せない。
そして、今、アスカにとって大事なのはそんなことではなかった。
さっと左右を見渡す。少し奥にある水没した家の屋根が、まるで岬のように海に突き出している。
(あそこなら、あの女の、シンジの進行方向。あそこからなら、いける?)
思考は一瞬だった。駆け出す。
屋根と屋根の間を跳んで、出来るだけ海の中心へ。
「っ!? ここまでが、限界?」
次の屋根は、完全に海に没していた。進めない。
シンジとの、あの大きな白い女との距離は、あと、十メートル。
「――ッ!?」
その時、こちらに向かってくる女と、アスカの目が合った。

165: 2008/06/01(日) 14:48:17 ID:???

アスカの背筋に悪寒が走る。
まるで、エヴァの目。感情があるのかどうかも分からない、得体の知れない目。
なおさら、こんな奴にシンジを渡すワケにはいかない、と思う。
「シンジ! 起きなさいよ! シンジ!」
白い女と、シンジが近づいてくる。
残りの距離は、もう六メートル。
「シンジ! 分かったの! アタシは、アンタと一緒にいたいの! だから…」
あと、四メートル。
「だから、戻ってきて! アタシのところに、戻ってきて…!!」
精一杯に、手を伸ばす。
シンジとの距離は、あと三メートル、二メートル、一メートル、そして……
また、二メートル。
「……そんなっ」
遠ざかっていく。一瞬だけアスカの前をかすめ、シンジはアスカから離れていく。
(行っちゃう。シンジが、行っちゃう。アタシの手の届かない所に…)
そうしている間にも、シンジは見る間に遠くなる。女はアスカを一瞥もしないまま、
シンジを遠くまで連れ去っていく。距離は離れ、もう、声さえ届かない。
しかし、アスカは手を伸ばす。
「シンジ、行かないで! 戻って来て! アタシを置いて、行かないでよぉ!!」
アスカは虚空に、張り裂けるほど手を伸ばし、

――その時、突如、海が割ける。

赤い海が、紅く、盛り上がる。
突然に、手を伸ばすアスカの前にそびえ立った威容。
それは……

「――エヴァンゲリオン、弐号機。……来てくれたのね! ママッ!!」

伸ばした手に、アスカは最後の希望をつかんだ。

206: 2008/06/03(火) 21:04:15 ID:???

「機体チェック……よし、オールグリーン。これならイケる!
頼むわよ、アタシの弐号機!」
アスカは弐号機で赤い海に繰り出す。目標は、海の奥へと連れ去られたシンジ。
「待ってなさいよシンジ。不本意だけど今回だけ、
お姫様を助け出すナイトの役をアタシがやってあげるわ」
エヴァに乗ったことで自らの拠り所と自信を一時的にであれ回復させたアスカは、
そう言って意気昂然と歩き出す。
が、そんなアスカの気を削ぐように、粘度の高い赤い海は弐号機の歩行を阻む。
また、それだけではない。
「くっ! 足場が見えない上に、こうデコボコとしてちゃ…」
水没した町の起伏に富んだ地形と、見通しの利かない赤い水は、
最悪のコンビネーションでアスカの焦りを誘う。
「あぁ、もう! こんなんじゃ、シンジを見つけるどころじゃないわよ!」
当然だが、NERVや国連軍からの支援が受け入れられない以上、
光学観測でしか目標を追うことは出来ない。
シンジの行方を見失ったらその時点でアウトなのだ。
「一歩一歩行っている時間がないのなら、いっそ……」
ググ、と弐号機の体を沈み込ませ、一気に伸び上がる。
――見事な跳躍。
弐号機は一気にエヴァ三体分くらいの距離を跳び、
「ぐ、うぅうぅ!」
…着水。
赤い水の反発力を計算し切れず、弐号機は海面に弾かれて海の上で転倒。
頭から海に落ちる。

207: 2008/06/03(火) 21:07:00 ID:???

「く、そ! こんなことくらいで!」
何とかコントロールを取り戻し、立ち上がろうとするが、さっきまで膝下程度までだった海の深さは、
今はもう、弐号機の腰の辺りまで達している。
もがくように水面に顔を浮かび上がらせ、何とか立ち上がった。
だが、弐号機を襲った衝撃のフィードバックと無茶な機動に、アスカの息は上がっている。
「これじゃ、こっちが持たない。時間制限さえなければ…。そうだ! 活動限界は!?」
慌てて計器に目を走らす。そこには、
「そんな、無制限? アンビリカル・ケーブルも接続されてないのに……。
まさか、この海から電力を喰らってるっていうの?」
アスカは一瞬呆けかけるが、すぐに首を振る。
「こんなことに、足を取られてる場合じゃない。ムカツクけど、現状を認めてやるわよ。
その上で、何かプラスになることを考えなきゃ…」
ヨロヨロとエヴァを進ませながら、アスカは思考する。
「どこかLCLに似ている、赤い海。地球上の全ての命を飲み込んだ、生命のスープ。
今まで何の意志も感じられなかったこれが、今はアタシに敵意を持っているみたいに見える」
水の底の建物につまずいて、それでも弐号機とアスカの歩みは止まらない。
「エヴァが拘束具ありの状態で出てきたんだから、今は無生物だって混じってる、はず。
全てを含んでいる水だから、ここでは何が起こっても不思議じゃない。
そう、たとえば…」
ザアッ、と前方で音が二つ。それを見ながら、アスカは呆れたように言葉を継いだ。
「たとえば、……海から突然、量産型エヴァが出てきたりとか、ね」

208: 2008/06/03(火) 21:08:23 ID:???

海から現われた二体の量産型エヴァンゲリオン。
その白い人造人間は何もしゃべりはしないが、いやらしい笑みを浮かべる口元と、
ジリジリと用心深くにじり寄ってくる態度で充分に分かる。
彼らは、アスカをこれ以上先に進ませる気はない。
それどころか、ここでパイロットごと、弐号機をスクラップにしてやろうと考えていることは。
「……サイアク。と、言いたいところだけど。ストレス解消には、ちょうどいいわ」
対するアスカも、一歩も引かない。
「さしずめアンタたちは、囚われのお姫様をさらった魔王の手下、ってトコね。
上等よ! あの時の屈辱、百倍にした上に熨斗までつけて返してやるわ!」
弐号機の中で、アスカは高らかに吼えたてた。
「……さて、と」
威勢良く叫んだ割に、弐号機、アスカには攻め気が見えない。
攻撃の瞬間に備え、全身のバネを生かそうというのか。弐号機は前のめりに腰をかがめ、
だらりと両腕を下げる。両腕が肘の先まで海に浸かる。
「お互いに、得物はなし。オマケにこの海に下半身が浸かっている限り、機動力は最低」
その間も、ジリジリと二機の量産型はアスカに迫る。二機に同時に攻められたら弐号機は不利。
その程度のことはアスカも分かっているのだが。
「ジャンプからの攻撃が速度としても威力としても優秀、だけど、その後が続かない。
アタシは片方を倒してももう片方に捕まればゲームオーバー。向こうだって、
捨て身で飛びかかってもアタシにうまく一機だけを狙い撃ちで迎撃されたら打つ手がない。
つまり、先に動いたら負ける。こりゃ、長期戦になるわね。……なんて」
ザバッと海から両手を引き上げる。その手には、巨大な銃が握られていた。
――ポジトロンライフル。
長距離射撃だけでなく、ミドルレンジにおいて最強クラスの打撃力を誇るエヴァの専用兵器。

209: 2008/06/03(火) 21:10:47 ID:???

「そんなつまんないことをアタシが考えてたとでも思ってたワケ? だったら〇点ね!
ずいぶんと都合のいい場所みたいだしね。こういうコトも出来るんじゃないかって、ずっと考えてたのよ」
量産型エヴァに動揺が見られた。その内の一機が、いちかばちか、と弐号機に飛びかかろうとするが、
「遅いっ!」
それより早く、ライフルから加速された陽電子が射出される。それは量産型エヴァの胸部に吸い込まれ、
対消滅を起こして爆発する。
仰向けになって水の中に倒れるその姿を見もせずに、
「次っ!」
アスカは残ったもう一体にライフルの銃身を向けている。即座にトリガー。
放たれた陽電子は残った量産型エヴァに向かい、先ほどと同じ光景が目の前に展開されるはずだった。
しかし、
「ATフィールド?!」
量産型の前に現われる幾何学模様。目視出来るほどに強力なATフィールドだ。
ドン、という着弾の衝撃。
それでも尚、量産型エヴァのATフィールドは健在だった。いや、
「どうしてアタシがここまでアンタたちの接近を許したのか。まだまだ考えが足らないわね」
その中心部分には小さな穴が開いていた。その奥には、胸をえぐられたエヴァ量産機の姿。
「残念ね。そこはもう、アタシのフィールド中和領域なの」
破壊された量産型は倒れるでもなく、そのまま内側から弾け、赤い水に戻った。
「真面目に遊んであげられなくて残念だけど、使える物は何でも、
っていうのがアタシのポリシーなのよね。……でも、これももう限界か」
アスカの手の中で、ポジトロンライフルが形を失って水に還る。
「水が形を変えてるだけで、結局本物ってワケじゃないのよね。
だったらさっきの……。――ッ!?」
後ろで起こった、ザアッという水音をアスカの耳は捉えた。
――そして、そこから感じる、もっと嫌な気配も。

210: 2008/06/03(火) 21:13:12 ID:???

「背面五時方向! ATフィールド、全開!」
間一髪、アスカを狙って飛んできたその飛来物はATフィールドに防がれる。
が、投げつけられたその『槍』は、弐号機のATフィールドを貫き、
「そう何度も、同じ手を…!」
それすらも予見していたアスカは、弐号機に回避行動を取らせつつ、その槍をつかみ取った。
「見え透いてんのよ、アンタたちは!」
そのまま半回転して勢いを頃し、手元で槍を回転。穂先の向きを変える。
そして、必中の一撃をかわされるとは思っていなかったのか、いまだ棒立ちの量産型に向かい、
「いっけえぇぇえ!」
渾身の投擲。
今度はアスカの手によって放たれたロンギヌスの槍、そのレプリカが量産機を刺し貫く。
体から槍を生やしたまま、量産型エヴァはわずかに痙攣し、しかしすぐに、
バシャッ。
という音だけを残して水に戻る。
それは、槍の方も同様だった。即座に水になって、海に還る。
「楽勝! この絶対無敵のアスカ様にケンカ売ろうなんて、数百万年早いのよ!」
アスカは一度、胸を張って勝ち誇るが、
(そうは言っても、ずいぶん離されたのは確かね。かなりの時間、足止めされた…)
白い女は、もうエヴァの最大望遠でも小さく背中が見える程度になっている。
(歩いていくのは論外。だけど跳躍していくにしても、これ以上水深が深くなれば跳び上がることも難しいわね。
かといって、B型装備のままじゃ、水の中を進むのは不可能だし。まさか、泳ぐなんてのも出来るはずない)
「あー! 何でここ海なのかしら! 陸だったらこのくらいの距離すぐなのに。イライラするわ!」
思わず叫んでしまって、それで閃いた。
「そうか! これだわ!」

211: 2008/06/03(火) 21:14:00 ID:???

水面に、奇妙な幾何学模様の波紋が広がっていた。
――ATフィールド。
アスカはATフィールドで水面とエヴァの機体を反発させて、水の上に立っているのだ。
「さっすがアタシ! 天才じゃない! …っと」
思わず快哉を叫んだ途端、弐号機の足元がぐらつく。
それだけで、右足がくるぶし辺りまで赤い海に沈み込んだ。
「……少しでも集中を切らしたらアウト、か」
アスカは弐号機の目で、海の奥を見つめる。
「ここから先、海はもっと深くなるわね。落ちたらもう、戻って来れないかもしれない。
それでもやれる、アスカ?」
アスカはそう、自分に問いかける。
――だが、答えなんてとっくに決まっていた。
「アタシはシンジに、絶対に伝えなきゃならない言葉があるもの。だから、」
両手を水面につけ、片足は膝を立て、もう片方の足は後ろへ引く。
クラウチングスタートのポーズ。いつかの使徒戦の時と同じ体勢だ。
「……オン、ユア、マーク」
目をつぶる。弐号機が、自分が、華麗に海の上を走る姿を思い浮かべる。
そして、カッと目を開くと、
「レディ…、ゴー!!」
弐号機は水面を駆け出した。

212: 2008/06/03(火) 21:18:45 ID:???

アスカは、赤い風となって海を駆ける。
優雅にも見えるその足の運び。しかし、弐号機の中でアスカは汗をにじませていた。
(蹴り足の強さに合わせてフィールドを展開するのが意外とキツイ。
これで、最後まで持つの?)
アスカの頬を新たな汗が伝うが、その心配は杞憂に終わる。
「あれは…シンジ!? まだこんな所にいたの?」
シンジたちが思っていたほど移動していなかったことは、アスカにとっては嬉しい誤算だった。
ただし、それは同時に、シンジをさらった者の目的がそこで達せられるという可能性も示唆する。
揺れる視界に閉口しつつ、映像をズーム。アスカは思わず声をあげた。
「さっきの女じゃ、ない!? これって、エヴァ初号機?」
拘束具のほとんどが取れて、包帯に包まれた肌が剥き出しになっているが間違いないように思えた。
シンジを抱えていた白い女は、いつの間にか初号機に変わっていた。
「何が起こってんのかは分からないけど。待ってなさいよ、シンジ!」
駆け出す足は止まらない。近づくにつれて、シンジたちの鮮明な映像が入ってくる。
「ここにいるのは、シンジと初号機だけじゃない。シンジの横に二人……これは誰?」
集中を乱さないように気をつけながら、アスカはシンジたちの姿を追うことをやめられない。
「こっちの、一人。この、髪の色、背格好は……まさか、ミサト?!」
何でミサトがこんな所に? 氏んだはずじゃなかったの?
そんな月並みな台詞をアスカはかろうじて飲み込む。
「何が起きても、不思議じゃないのは分かってるわ。今は、シンジを取り戻す。
考えるのは、それだけでいい」
そう思いつつ、最後の未練にモニターを見る。見て、そして後悔した。
――シンジは、笑っていた。ミサトを見上げて、笑顔を見せている。
ドクン、と心臓が跳ねた。

213: 2008/06/03(火) 21:20:21 ID:???

思い出すのは、飛びついた加持の背中。
そして、そこから香る、ラベンダーの匂い。ミサトがつけている香水と同じ…。
(…! ラベンダー?!)
不意に、アスカは自分の体から漂う、ラベンダーの匂いを意識した。
(アタシ、こんな物をつけて、シンジに迫ったの?
アタシ、こんな物をつけて、シンジに抱きついたの?)
無意識の選択だったと思う。前からラベンダーの匂いは好きだったし、
あの香水の匂いと、石鹸から来たこの匂いは同じではない。
だが、だからといって、
(イヤ! イヤイヤイヤ、イヤァ!)
身の内から湧き上がる、嫌悪感は消えない。
嫉妬とか、トラウマに似た嫌悪感だとか、そういう単純なものではなく、
とにかく今すぐ皮膚がボロボロになるくらい体をこすって、匂いを落としたいという気分になる。
「……あ、」
そんな集中の乱れが、文字通りアスカの足元をすくう。
ATフィールドが乱れて、足が海に沈みかける。
(違うわ! そんなの、どうでもいいのよ! 今は、今はただ! あそこに…!)
そう、あとほんの数十メートル。それだけの、距離で…!
悲愴な想いで、前に踏み出したアスカを、
「……キャ、アアァアァ!」
今度は前方からの強い衝撃が襲った。
海に沈みそうになる体を、必氏で立て直す。その間も、アスカの頭は忙しなく動いていた。
(一体、何? いくら余所見をしていたとはいえ、エヴァを弾くほどの大きさの物なら、
目に入らないはずないのに…!)
顔を上げる。そこで、初めて、気づく。そこに浮かぶ、正体不明の物体に。
「な、に…? この大きさは、人間?」
いや、あまりに非現実的な光景に、理解が遅れただけだった。
その人影は、アスカも旧知の人物。
「まさか、ファースト…? …レイ。綾波レイ、なの…?」

245: 2008/06/05(木) 01:49:32 ID:???

しかし、呆然としていたのは一瞬。
(落ち着け。本物なら、こんな風に宙に浮いているはずない。
アタシがコイツのことを苦手だったのを知って、姿を模倣してるだけ。
きっと、そう。そうじゃなかったら…)
それ以上の思考を振り払い、アスカは戦う意志を固める。
(強気に、いく。弱みは見せないわ、絶対)
ATフィールドで作った足場を確認。
――安定している。やれる。
そう確信を抱いて、自らの攻撃性を研ぎ澄ます。
罪悪感や逡巡に、シンジを取り戻すチャンスを逃さないために。
「ハン! 量産型の兵器の次は、量産型のお人形ってワケね。なかなかシャレが利いてるじゃない!
……だけどね」
勢いのある言葉で何より自分自身を鼓舞しながら、弐号機は、LCLの海に右手を挿し入れる。
「今のアタシに、冗談に付き合ってるヒマはないのよ!」
叫びと共に抜き出したその手には、プログレッシブナイフが握られていた。
抜き出した勢いそのままに、ナイフをレイに叩きつける
「よしっ! 直撃!」
勝利を確信して、アスカが弐号機の中で歓声を上げる。
しかしナイフは、レイのわずかに手前で止まっていた。
「ウソッ! コレって、ATフィールド? 人型のまま展開出来るなんて、反則じゃない、そんなの」
もう一度、刃を叩きつける。しかし、歯が立たない。それどころか握りが解けてナイフが手から抜ける。
(フィールド中和距離には、とっくに届いているはずなのに…!)

246: 2008/06/05(木) 01:50:11 ID:???

いくら足元のATフィールドを維持しながらだといっても、
エヴァ自体の腕力と合わせてもレイのATフィールドを壊せないことは、
アスカのプライドをいたく傷つけた。
「アタシの心が、この人形に劣ってるって言うの?! 認めない! アタシは、認めないわ!」
なりふり構わず、拳を叩きつける。弾かれても、その度に拳を振り上げる。
「どけ! どきなさいよ、人形!」
何度も何度も殴りつける。しかし、レイのATフィールドは揺るがない。
(目の前に、すぐ目の前に、アイツがいるっていうのに…)
アスカの中にほんの少しだけ残っていた冷静な部分が、こだわっている場合ではない、と告げる。
「くっ…! 敵を避けるのは、流儀じゃないけど…!」
バックステップ。距離を取って、わずかな助走から、跳躍。
弐号機は、軽々とレイを飛び越える。しかし、
「ウソ! 読まれてた?!」
着地点には、既にレイがいる。その手前には、ATフィールド。
自滅してください、と言われているようなものだ。
「こな、くそぉおお!」
ムリヤリな機動で空中で姿勢制御。着地の足をドロップキックに変える。
アスカ苦心の一撃はレイのATフィールドと激しく干渉し、しかし、やはり弾かれる。
「く、うぅ」
背中から無様に転げながらも何とかATフィールドを展開。海に沈むことだけは免れる。
だが、成果はあった。
「…っ!」
一瞬だけ、弐号機の攻撃を受けたレイが、わずかに顔を歪めてよろめいたのだ。
「何よ、効いてるんじゃない」
アスカの顔に、ようやく笑みが戻る。

247: 2008/06/05(木) 01:51:33 ID:???

(ママ。アタシに、もう少しだけ力を貸して!)
アスカは気持ちを新たに、冷静さと集中を取り戻して、
それでも、やれること、やるべきことは、あまり変わらない。
拳を振り上げ、叩きつける。レイが倒れるまで、何度でも。
「…く」
激しい連打に、レイが顔をしかめた。
さっきまでのがむしゃらな攻撃と違い、一撃一撃の威力は上がっている。
(このまま押し切れば…!)
そう、アスカは思った。なのに、
「…ぅ、う」
そこからが、なかなか続かない。レイは痛みに顔を歪めながら、決して退こうとはしない。
それがアスカを焦らせる。この奥にいるシンジへの懸念だけではない。目の前にいる相手に対して、
認めたくない思いを抱かせる。
「こ、のぉおおおお!」
だからアスカは吼えた。
自分の前に立ち塞がる全てかき消すように。
一つ一つの攻撃に、言葉と、想いを乗せるように。
「いい加減に、観念しな、さいよ! アタシは、アンタに構ってる、ヒマなんて、ないの!
アタシは、シンジの、所に、行くんだから!!」
その連打の最後の一撃が、レイのATフィールドをたわめた、その時、
「――ダメ。碇くんのところには、行かせない」
初めて、レイが、口を開いた。

248: 2008/06/05(木) 01:52:48 ID:???

思わず、アスカの手が止まる。
「……アンタ、本当に、ファーストなの? それとも、この海に作り出された偽物?」
訊かなくてもいいことを、問いかけてしまった。
「偽物? さあ、わからないわ」
そっけない態度は、まるでいつものまま。
「分からないって…。そんなワケないじゃない。自分のことでしょ!」
「自分のことはわかっているわ。ただ、あなたの質問への答えかたがわからないだけ」
アスカの言葉に、首を小さく左右に振って、否定の意を示す。そして、
「わたしは『これ』の一部。でも、『これ』の全てがわたしではないわ」
レイは『これ』と口にしながら、海を指差した。
「碇くんが、『わたしたち』の中に飛び込んだとき、わたしはわたしになった」
「わたしが、わたしになる…?」
疲労の蓄積し、鈍磨した頭を必氏で働かせた。
そんなアスカの様子を斟酌せず、レイは「ええ」と首をうなずかせる。
「『これ』が碇くんを碇くんとして、他者を他者として受け入れたとき、『これ』はひとつではなくなった。
『これ』の中に、生命が生まれたの。それぞれの意志が、分かれた。そのひとつが、わたし」
飛び級で大学を卒業するほど頭の良いアスカだが、レイの言葉は解読困難だった。
扱う事象が抽象的であったり巨大であったりすることより、単にレイに苦手意識があるのかもしれない。
(……つまり、海に統合された意識がまた分裂して、独立し始めたってコト?)
それでも何とか自分に必要な情報だけを拾おうとする。
(現象のトリガーはシンジとして、その発現の条件は何? ……自我の強さ、ではないはず。
今まで出てきたのはたぶん、全てエヴァや使徒と関わりが深かった。その辺りに条件があるの?)
「ファースト、アンタは何で出て来たの? この海にいる奴全部が外に出たワケじゃないんでしょ?」
レイの視線が、肩越しに後ろに移る。そこは、アスカの目的地。つまり、シンジがいる場所。
「碇くんが、また泣いているような気がしたの。だから…」

249: 2008/06/05(木) 01:53:57 ID:???

言葉の足りないレイの台詞は、しかしアスカに悟らせる物があった。
(それだ! 目的意識! 混ざって一つになったままでは果たせない願いを実現するため、
分裂して実体化する。でも、外にいるのはアタシとシンジだけだから、海の中で叶えられないことなんて、
アタシたちに関係する人が、アタシたちに関係することを願うくらいしかない。
……これで一応、筋は通るわ)
なら話は簡単だった。
「ファースト! アンタがどうしてアタシを攻撃してきたかは知らないけど、ここは一時休戦よ」
「…どうして?」
「どうして、って、状況見なさいよ! シンジが変なのに連れてかれたのよ!?
アタシはアイツを助けたいの。だから、アンタも力を貸しなさい!」
自明の論理。レイもうなずくに違いない。アスカはそう思っていた。しかし、
「それは、ダメ」
間髪入れずに拒否される。
「どうしてよ! アンタもシンジを使って何かしようって言うの?」
「いいえ。でも、ダメ」
強硬に否定される。レイの目的はシンジではないのか、そんな疑念が一瞬アスカの頭に浮かぶが、
それが形になる前に、彼女自身がその答えを口にした。
「これ以上、あなたのエゴに碇くんをまきこむわけには、いかない」
「…なっ!」
唖然するアスカに、レイはそれこそまるで、自明の論理とでも言うように、
「碇くんは、わたしが守る」
何でもない、当たり前のことのように、そう口にする。
――だが、その瞬間にようやくアスカは悟った。
目の前に浮かぶこの綾波レイという少女は、何者かに操られてここにいるワケでも、
アスカやシンジという存在に引きずられ、成り行きでここにいるワケでもない。
強い願いを持つ一人の人間として、自らアスカの前に立ちはだかったのだということに。

251: 2008/06/05(木) 02:26:49 ID:???

(何よそれ、それじゃ、アタシが悪者ってワケ?)
一瞬の自失から立ち直ったアスカに芽生えたのは、怒りにも似た反発心だった。
(アタシとシンジの間に、何があったのか、何にも知らないくせに!)
そんな自分でも理屈の分からない苛立ちが、アスカの言葉を猛らせる。
「エゴだとかなんとか、そんなこと言ってる場合じゃないのよ!
アンタ、今がどういう状況が分かってるの!? 今、シンジは…」
「だったら、あなたはわかっているの?」
「そ…!」
反問されて、再び言葉を失う。
「碇くんは今、選択しようとしている。
世界をどうするのか、その世界でどうやって生きていくのか。
それを邪魔する権利は、だれにもない」
しかも言われたのは、アスカには理解も納得も出来ない次元の話。
「ま、待ちなさいよ! それじゃ、アレはどうなの?
あの初号機に、アイツを邪魔する意図はないっていうの?」
最後の砦として、アスカは訊いた。しかしレイはあっさりとそれに答える。
「『あれ』はひとつにもどりたがってる。ひとつにもどりたい心が合わさった意志。
碇くんを取りこんで、碇くんにひとつになることを選択させようとしている。
でも、だれも彼に強要はできない。選ぶのは碇くん。それを邪魔する権利は、だれにもない」
それは、誰も異論を挟めないほど、確信のこもった言葉だった。
その言葉を聞かされて、アスカは……。

252: 2008/06/05(木) 02:28:19 ID:???

「バッカじゃないの? 邪魔する権利? ハッ! 何ワケの分かんないこと言ってんのよ!」
アスカは、迷わない。迷う理由は、ない。
「アタシが止めたいから、止める。理由なんて、それだけあれば十分でしょ。
……アイツに届けたい言葉があるの。絶対に言わなきゃいけない言葉があるのよ。
それでシンジが迷うっていうなら、存分に迷えばいいわ。
シンジの邪魔をする権利が誰にもないのなら、アタシの願いを邪魔する権利だって、
誰にもないし、させない!」
強くそう言い切って、この言葉にも、先のレイの言葉に負けない強い想いと意志が込められていると、
確信する。
そして、アスカはレイを見つめた。この言葉、想いを受け止められるのか、と言わんばかりに。
「……そう。なら、あなたはわたしが止めるわ」
レイもアスカを見つめ返す。交差する、二人の視線。レイは、
「『これ』のためじゃない。わたし自身の、意志で」
「…! くぅっ!?」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、前から来た圧力にアスカは吹き飛ばされかける。
「フィールドを、こんな風に使えるなんて…」
必氏で踏みとどまりながら、アスカは呟く。
レイがATフィールドで弐号機を押しのけようとしていると気づいたのだ。
(それに、出力、上がってる? ……やっぱりコイツ、人形、ってワケじゃないのね)
アスカに小さな逡巡が生まれる。
いくら嫌っていたとはいえ、かつて肩を並べて戦ったこともある『仲間』に刃を向けていいものかどうか。
(せめて、もう少しだけでも説得を試みるべき?)
そんな選択肢は、しかし、次のレイの一言で吹き飛んだ。
「…もどって。あなたは、碇くんにふさわしくない。あなたは、彼を不幸にするわ」
もしかすると、挑発のつもりだったのか。
軽く聞き流せる、その、なんでもないはずの言葉が、奇妙にアスカの胸をえぐる。
それと一緒に、良心とか、仲間意識なんて物も、取り去っていった。
「アンタが……、アンタがアイツを、語るんじゃないわよ!!」
弐号機の前面にフィールドを展開。拮抗させ、押し返す。
二人の間で激しく干渉し合ったATフィールドは、弾けて、霧消した。

253: 2008/06/05(木) 02:28:56 ID:???

しかし、フィールドを使った戦いでは自分に分がないことを、アスカの冷静な部分は認めていた。
だから素早く左手で海をさらい、プログナイフを持って両手で構える。
「ファースト! アンタとは、ここできっちり決着を付けておかなきゃならないようね」
対して、レイは自然体。弐号機の胸元くらいの高さに浮いたまま、構えもせずに、
それでも決して弐号機から視線は逸らさない。
「かまわないわ。碇くんが考える時間がかせげるなら、それで」
意図したものなのか、どうか。けれどその台詞が、アスカの導火線に火をつけた。
「そういう澄ました所が気に入らないって言ってんのよ!」
プログナイフを持った両手を突き出しての一撃。
(大丈夫。ATフィールドの出力では負けていても、
エヴァの力とプログナイフの威力が合わされば……勝てる!)
しかしそれは、正面ではなく、斜めに展開されたATフィールドで軽くいなされる。
アスカの弐号機は、たたらを踏むように斜め前に体を流されて、
「考えていた展開とは違うけど……これならっ!」
流れた勢いのまま、シンジの元へ向かおうとする。
だが、そんな弐号機の体が、突如ガクン、と傾いた。
「しまった! 足元のフィールドが中和されて…」
足場をなくした弐号機は、ずぶずぶと海の中にはまり込んでいく。
(走り出そうとして、片足に重心をかけた瞬間をやられた…。
まさか、ファーストは初めからこれを狙って…?!)
だが、その時になって気づいても遅い。
アスカは弐号機をばたつかせ、必氏で海の上に這い上がろうとするが、果たせない。
何とかATフィールドを展開しようと思っても、ATフィールドの展開能力は完全にレイが上。
完璧に中和され、どれだけもがいても沈降を防げない。

254: 2008/06/05(木) 02:29:54 ID:???

(……だったら!)
もがくことを諦め、腕を伸ばす。目標は、ただ一つ。
「――ッ!?」
弐号機の近くを無防備に浮かぶ、レイ本人だった。
さしものレイも、弐号機のATフィールドを中和しながらでは、
弐号機の握力から自分を守るほどのATフィールドは展開出来ない。
「…ぐうっ!」
レイがうめき声をあげる。
すぐにレイの体にATフィールドが張られ、弐号機の手は弾かれた。
しかし、
「恨むんなら恨んでもいいわ。頃すつもりでやったもの」
アスカは手加減しなかった。今更フィールドを張ったとしても、受けた傷は治せない。
もしかすると骨も折れているかもしれないし、内臓も傷ついているかもしれない。
どちらにせよ、レイはもう戦闘不能だ。
「シンジ。今、行くから…」
もう一度、海の上に立つ。
そしてその足を前へ。シンジの、所へ。
「……ぐ、ぁっ!」
弐号機の足を三度止まらせる、強烈なプレッシャー。押しつけられる、上からの圧力。

「……いかせ、ない」

振り向くと、そこにはレイがいた。
ぷらんと垂れ下がった左腕を右手で庇いながら、それでも燃えるような瞳でアスカを睨みつけている。
「へ、ぇ。アンタ、意外と、根性あるじゃないの」
アスカの口元に、引きつった笑みが生まれた。

255: 2008/06/05(木) 02:39:42 ID:???

「ずいぶんと、人間らしい顔になってきたじゃない。そんなにアイツが、シンジが、大事なの?」
上から力をかけられ、弐号機の体が再び海に沈んでいく。
それでもアスカは、不敵な表情を崩さない。
「あなたが行けば、彼は迷うわ。選ぶべきではない道を、選んでしまうかもしれない。
それは、ゆるされないことよ。だから…」
言葉と共に、上からの圧力が強まる。足元のフィールドが耐え切れず、弐号機が、沈められていく。
アスカは対抗して、海面へのフィールドの強さを強める。そのまま立ち上がって、押し切ろうとする。
上下同時にフィールドを出すなんて器用な真似は出来ない。やれても、すぐにパワー負けする。
「今日はずいぶん饒舌なのね、ファースト。なんでかしら?」
そう話す間にも、強烈な重みがアスカを責め苛んでいる。
防御に力を割く余裕はない。けれど、このままではアスカが潰れるのは時間の問題だった。
それを押して、あえてアスカは口を開く。
「まるで人形みたいな、鉄面皮の優等生。誰に対しても無表情無反応。だけど知ってるのよ。
シンジにだけ、アンタが時々ドロッとした嫌な視線を向けてたこと!」
「……わたし、は」
言葉に詰まるレイを確認し、アスカは笑顔で歯を食いしばる。
(まだ、効果は出てなくても、レイを崩す突破口はここにある。
だって、ファーストはシンジのためにここに出て来た。
今のファーストの頭の中には、純化されたシンジへの感情がうずまいているはず。
いえ、たぶん、それしかない。だから、それさえ崩せれば…)
そう考えながら、こんな状況にあって、想いに打算を交える自分の汚さに唇を噛む。
(アタシはファーストほど純粋にはなれない。でも、もうそれを恥じはしないわ。
素直になるって、そのままでシンジにぶつかってみるって、そう、決めたんだから)

256: 2008/06/05(木) 02:40:34 ID:???

「う、くぅ…」
とうとう、アスカの口から堪えていた苦痛の声が上がった。
弐号機より先に、そのフィードバックを受けるアスカが限界に近づく。
だが、ギリギリなのは、レイも同じだとアスカは感じていた。
今は気力だけでアスカを攻撃しているが、そもそも今動けること事態が奇跡のような状態だ。
一度集中を切らせれば、もう何も出来ない。
(だから、もう、一押しで…!)
息を整え、言葉をしぼり出す。
「アタシを、シンジと会わせたくないんでしょ。だから、こうやって邪魔をしようとする!
自分が行けないから、行けるアタシを、羨んでるのよ!」
「ちがうわ。わたしが行かないのは、理由があるから。あなたをうらやんではいない」
いつもなら、かつてのレイであるなら、無視をするだろう程度の低い邪推。
だが、そこに反論があったことに、アスカは手応えを感じる。
「……確かに。羨んでるなんて言い方、間違ってたかもしれないわね!
羨んでるんじゃない。妬んでるのよ、アンタは! アタシを!!」
口にする言葉は、全てデマカセだ。ブラフもいい所で、確証なんて何もない。
だが、レイを突き崩すための材料をそれ以外に持っていないという現状、
それがレイを動揺させているという事実。そして何よりも、口に出した瞬間、
それが事実であるかのように、意外にもしっくりとくる感触が、アスカの舌を滑らかにする。
「教えてあげるわよ! アンタを動かしてるその気持ち、それは『守りたい』って想いじゃない。
自分に出来ないことをやろうとしてるアタシに対する、ただの『嫉妬』よ!!」
「――っ!!」
レイからの圧力が、致命的に緩んだ。

258: 2008/06/05(木) 03:00:17 ID:???

(――今だッ!)
一気に、力を込める。だが、レイからの力は緩んだどころか、
「……ぐぅ…!」
わずかな時間を置いて、さらに、強まっていた。
「関係、ないわ…」
レイの赤い目が、爛々と光る。
「あ、アンタ…!?」
「わたしの胸に、羨望や嫉妬があったとしても、関係ない。わたしが、碇くんを、守るから。
あなたからも、そして、わたしからも。……絶対に、守るから」
ズン、と圧力が増す。
「……くぁ、は」
アスカの口から押し潰された呼気が漏れる。
(しまった…。追い詰める、どころか、成長、させた…? こんなんじゃ…)
モニターに映るレイを覗き見る。
ボロボロの身体をふらつかせ、今にも倒れそうで、だけどその中で目だけが異様な光を放っていて、
なのにその実どこにも焦点が合っていない。
きっと、どこも見てはいないのだ。
弐号機への圧力が増していることにも、気づいていないに違いない。
彼女が見ているのは、想っているのは、たぶん、ただ、一つだけ。
(――敵わないわね、これは)
アスカはそっと、操縦管から手を放した。

259: 2008/06/05(木) 03:01:09 ID:???

不意に訪れた諦観と共に、アスカが目をつぶった時、
「………ぇ?」
アスカを押さえてつけていた力が、完全に、なくなっていた。
「どう、して…? まさか、諦めた、の…?」
振り返る。
そこには、どこか緊張の解けた様子のレイがいた。
彼女は、
「もう、おわったわ」
たったそれだけの言葉で、本当に全てが終わったかのような顔をする。
だが、アスカがそれで納得出来るはずがない。
「終わった? 終わったって、何がよ! まだ、アタシは、何も…」
しかし、レイはもう、アスカの方を見てもいない。
ただ、アスカの目指す先。
アスカが目指すはずだった、
けれどもう、
誰もいなくなったその場所を見て、
「そう、それが、あなたの答えなのね、碇くん」
あまりに穏やかに、そう呟いて。
しかし、アスカには分からない。
「何がどうなってるの!? シンジは…!」


――その瞬間、海が弾けた。

358: 2008/06/10(火) 20:12:11 ID:???

そこは、空以外に何もない世界だった。
シンジは空に仰向けで倒れていて、視界には空しかない。
起き上がろうとして体に力を入れても、うまく反応してくれなかった。
「……僕は、氏んだのかな?」
ぼそりと呟く、その声に、
『いいえ。……でも、その方がいい?』
しかし、返答はあった。
「…だれ?」
目だけを下に滑らせて、声の出所らしい、自分の足元を見る。
それだけの動作がやたらと重労働で、億劫だった。
『苦しいのは、肉体があるからよ。邪魔な衣は脱ぎ捨ててしまえばいいのに…』
「……エヴァ? 母さん?」
シンジの足元、つまりは正面には、初号機がいた。
剥き出しのぎらついた眼球。包帯から覗く赤黒い肌。
間近でそんな物を目にしても、シンジの心はまるで動かなかった。
『やっと会えたわね、シンジ』
ただ、その言葉が目の前にいる『彼女』から発せられているとだけ、確信する。
「母さん、なの?」
それに応え、初号機が、慈愛に満ちたおぞましい笑みを浮かべた。
『シンジ。あなたにずっと、会いたいと思っていたわ』
「母さん…」
シンジはそこに安らぎを見出し、そっと目をつぶった。
『シンジ。さあ、おいで。わたしと、一つになりましょう』
初号機が、腕を広げる。

359: 2008/06/10(火) 20:13:26 ID:???

だが、シンジは緩慢な動作で首を振った。
「無理だよ。体が動かないんだ。僕は、どこにも行けないよ」
初号機、『彼女』は意に介さない。
『だいじょうぶ。言ったでしょう。あなたが動けないのは、邪魔な肉体にとらわれているから。
体とは殻よ。今まであなたを閉じこめ、守ってきたモノ。でもそれは、もう枷でしかないわ。
だから、捨てるの。そして、わたしと一つになりましょう』
現実感のない言い回しにも、シンジはわずかに、恐ろしさを感じた。疑問が、生まれる。
「……それは、氏ぬってこと?」
それに対して、『彼女』は体を動かさずに首を横に振った。
『あなたが消えるわけではないわ。形を捨てるということは、新しく生まれるということでもあるの』
「でも、肉体は捨てる。それはやっぱり、氏ぬってことじゃないのかな?」
『完全なる再生のためには、一度氏を迎えなければいけない。
あなたがここに来たのは、今までの全てに背を向けて、もっとすばらしい全てを手に入れるためでしょう?』
シンジの頭に、初号機からの声は不思議と心地よく、なじんでいく。しかし、
「でも、ダメだよ。やっぱり、氏ぬのはダメだ。僕には、やらなきゃいけないことがあって…」
『そうなの? それはなに?』
「それは、それは……」
シンジの記憶は混濁していた。
自分のことが、自分が何をしていたのか、何を望んでいたのか、思い出せない。
ただ、強い使命感だけは残っていた。それが、シンジの口を開かせる。
「誰かを、誰かを連れて行かなくちゃいかないんだ。
……だから、僕はここに来たんだ」

360: 2008/06/10(火) 20:14:23 ID:???

初号機からの穏やかな波動は変わらない。変わらないままで、声が届く。
『そうなの? でも、誰を探しているのかしら?』
「誰、って。その、いなくなった人、だと思う」
その問いに、シンジの頭が必氏に過去を探る。かつて知っていたはず、理解していたはずのことを、
そして、最も強烈な記憶が掘り当てられ、その感情に引きずられてシンジは叫んだ。
「そう、ミサトさん! ミサトさんだ!! ミサトさんが、氏んじゃったんだ…。
それに、うん。確か、他にも、たくさん…。あんまり、思い出せないけど、
たぶんリツコさんとか、LCLに体が浮いてて…」
『その人たちを、探しに来たの?』
途中で遮られ、順調に流れ始めていた記憶の波が途絶える。
だが、必要なことは思い出した。そう感じながらシンジはうなずく。
「そう、だと思う。僕は…」
『そうなの。でも……だったら、それは必要ないわ』
「…え?」
疑問をはっきりと口にする前に、突然『それ』がシンジの前に現われた。
颯爽とした立ち姿に、つややかな長い黒髪。
どこかいたずらっぽい優しげな瞳を瞬かせ、彼女は形のいい唇を開いた。
「ハァイ! シンちゃん。元気にしてた?」
まるで気負いのないその言葉、声に、シンジはなす術もなく硬直する。
忘れるはずもない、彼女は……。

「……ミサト、さん」

361: 2008/06/10(火) 20:15:37 ID:???

「どう、して、ミサトさんが、ここに…?
ミサトさんは、たしか、僕をかばって撃たれて、それで……」
震えるシンジの言葉を、ミサトは一笑に付した。
『なーに言ってるの、シンちゃん。あたしならこうしてピンピンしてるわよ』
「それは、そう、なんですけど、でも…」
『それに、あたしだけじゃないわ。ほら』
促されて、シンジは再び、目を見張った。
『何だか会うのは久し振りね、シンジ君。元気にしていたかしら?』
怜悧な面立ちに、特徴的な目元の泣きボクロ。
彼女もまた、シンジにとって旧知の相手。
「リツコさんまで…! 無事、だったんですか?」
『ええ。この通りね』
赤木リツコが、そこに立って笑顔を見せていた。
『シンジ君は少し無事じゃなさそうね。少しやつれたというか、なんというか。
生活環境に問題があるんじゃないかしら?』
『こ、こら、リツコ! シンちゃんは今まで大変だったんだから、そんなこと言っちゃ…』
リツコのきつい冗談を慌てて止めるミサト。
「あはは。いいですよ、そんなの。リツコさんがそういうことを言うのも、何だかこう、
懐かしい感じがします」
シンジの顔は、安堵と喜びで、自然にほころんでいた。
それは、あの赤い浜辺で目覚めてから、たぶんアスカにも一度も見せなかったような、笑顔。
『それはそれで不本意ね』
と顔をしかめるリツコに、
『ほーら。シンちゃんからリツコはこーゆー風に見られてたってコトよ』
と楽しげに笑うミサト。
そこには場違いな、楽しげな空間が、あった。

362: 2008/06/10(火) 20:17:11 ID:???

『……どう?』
その言葉に、ハッと我に返って初号機を見る。
動かなかった体はもう自由になっていて、シンジは自分でも気づかない間に立ち上がっていた。
「……よかった、と思う。本当に。だって、僕は、てっきり二人とも…」
『これで、あなたの迷いはなくなったでしょう?』
シンジの言葉にかぶせるように放たれたその声に、かすかな苛立ちが混じっていたような気がして、
しかしすぐにそんなはずないと思い直す。
「迷い、っていうか。僕は、ただ、やらなくちゃいけないと思って…」
『でも、それは勘違いだったわ。氏んだと思っていた人は、いなくなったと思っていた人は、
きちんと生きて、ここにいたのだから。すでにいる人を、探すことに意味なんてない』
「そう、なのかな…。全部、僕の、勘違い…だったのかな?」
『きっと、そうよ』
その言葉を、シンジは受け入れそうになる。
受け入れたくなるような力が、その言葉にはあった。
『ここにいるといいわ。ずっとここで、永遠に過ごすの。ここには人と別れる悲しみも、
分かり合えない苦しさも、人と関わることで生まれる一切の煩わしさからも解放された世界。
本当に、唯一、絶対の、完璧な世界なのよ』
「かん、ぺきな、せかい…」
『そう。ここならあなたは幸せになれる。いいえ、ここでしか、幸せになれないの』
その声の持つ不思議な魅力に、心が、どんどん引き込まれていく。

363: 2008/06/10(火) 20:18:27 ID:???

(もう、いいじゃないかな。きっと、僕はここで楽になって、いいんだ)
そんな想いが、心に押し寄せ、それでも、
「それは、ダメだよ」
シンジの口は、そんな言葉を紡いでいた。
『……なぜ?』
「それは……。それは、ダメだって教えてくれた人がいるんだ。
……いた、と思うんだ。僕が、僕として生きていくことを選んだんだから、
それを貫かなきゃダメだって。だから…」
『それは、そんなに大事なことなの?』
「大事なことだよ! それは、間違いないんだ」
『……そう。それは、困ったことね』
一瞬だけ、初号機の方から、黒い気配がにじんできた気がした。
けれど、それはすぐに消え、変わらずに優しい、シンジを導くような言葉が、耳を打つ。
『だったら、また地上にもどるの? 滅んだ世界で、これからもずっと暮らしていくの?』
外の世界で、暮らす。それを想像した途端、シンジの顔が歪んだ。
「……それは、嫌だよ。元の場所には、戻りたくない。あそこには、怖いものがいるんだ。
それがなんなのか、よく思い出せないけど。僕に、ひどいことをするモノがいるんだ」
チリチリと、脳が焼ける。思い出そうとすると、心のどこかが邪魔をする。
『いけないわ。それは、あなたを堕落させるモノよ。あなたが思い出してはいけないモノ』
「だけど、僕は、それを思い出さなきゃ……」
――痛い。
シンジは自分でも気づかぬ内に、手をぎゅっと、胸の前で握り締めていた。
『わざわざ、つらい思いをする必要なんてないわ。それはあなたに必要のないモノ。
それはあなたに、ひどいことをするの。拒絶するのよ。やさしくしてはくれないの』
「そう、なんだ…。ひどい、こと、を…」
『だから、思い出してはいけないの。シンジなら、それはわかるでしょう?』
「…うん。分かった、よ。母さん」
シンジは夢見心地でうなずく。
目の前の『彼女』が自分の代わりに自分の望みを言ってくれたような気がした。

364: 2008/06/10(火) 20:20:27 ID:???

動揺から立ち直ったシンジに、初号機からの声が優しく語りかける。
『シンジ。あなたは、どうしたいの?』
「僕は……。僕は、戻らなくちゃいけないんだ。でも、戻りたくない」
シンジの内でせめぎ合う心が、そんな矛盾した言葉をしゃべらせた。
だが、『彼女』はそれを優しく受け入れる。
『なら、もどらなければいいわ』
「でも…」
『ここにも、元の場所にもいられないなら、もっと違うところに行けばいいの』
「ちがう、ところ…?」
『あなたの望みは、何?』
「僕が、望む、もの……」
シンジの思考が回る。ぐるぐると回る。だが、思いつかない。
あっただろうか。シンジの人生の中で、狂おしく求める望みが何かあっただろうか。
『あなたの望みは、何でもかなえてあげるわ。人でも、物でも、それ以外の何かでも。
あなたが望むなら、全てを支配することも、世界の王になることだって出来るのよ?』
「それは、そんなの、要らないよ…」
何かを、ただ、支配したとして、それで自分が満たされるとは、シンジには思えない。
ずっと、人とつながりたいと思っていた。自分を理解してほしいと思っていた。
……だけど。自分を受け入れてくれる人なんて、想像出来ない。
自分を理解して、受け入れて、満たしてくれる人。そんな人を願うことは出来ても、
その願いがいつかは自分を苦しめる。そんな気がする。
だから、シンジは、何も言えない。
満たされているワケじゃない。渇きの中で、生きているのに。
『なら、あなたが一番安らぐのは、楽しい、と思えるのは、どんな時?
あなたは何をしている時が、一番幸せだった?』
助け舟のような『彼女』の言葉に、思考が一点へ向かう。集中する。
そこに、答えがあった。
「……ぼく、は。……僕は、家に、帰りたい」

365: 2008/06/10(火) 20:21:58 ID:???

口に出せば、想いに道が出来る。望む気持ちは加速する。
急かされるように、シンジはしゃべり出した。
「……ミサトさんの、家。あの、マンションに、帰りたい。あそこは、あそこだけが…」
それ以上に性急な声が、シンジをさえぎる。
『その場所が、あなたの望み? そこに行くことが出来れば、シンジは満たされるの?』
シンジは首を横に振った。
「場所じゃ、ないんだ。昔の、ミサトさんの家。あそこは、僕の家だった。
僕だけがそこにいるんじゃなくて、ミサトさんや、   、それにペンペンがいて、
時々、リツコさんや、加持さんや、トウジにケンスケ、洞木さんが、やってきて…」
そこまで言って、ようやくシンジは気づいた。
「あったんだ。あそこには、僕の居場所が、あったんだ」
自分の見つけた事実に呆然として、動かなくなってしまったシンジに、
初号機からの声は優しく呼びかける。
『あなたは、もどりたいのね』
「え?」
『あなたは過去に、もどりたいのね』
「過去に、僕、が…」
『そう。そうだわ。ああ、それはすばらしいわ、シンジ。全部がうまくいっていた時にもどりたい。
そう考えるのはとても自然なこと。とても正しいことだわ』
「そう、なの…?」
『過去には今にはない多くの可能性がある。あなたはあなたの居場所を取り戻せる。
そして、その時はまだ計画も、成功する可能性を充分に持っていた』
「けい、かく…?」
『いいえ、あなたの望みよ、シンジ』

366: 2008/06/10(火) 20:24:46 ID:???

『わたしが、あなたの望みを叶えてあげるわ。さあ、いらっしゃい』
初号機が、腕を広げる。
今度は、体が動いた。シンジにそれを拒む理由はない。
シンジは初号機の腕に抱かれ、その中に入り込んでいく。
(あ、れ? なんだろ、母さんと、ちがう…?)
不可思議な違和感が首をもたげるが、それも一瞬。
『さあ、シンジ。わたしたちの願いを、叶えに行きましょう』
シンジを呑み込んだ初号機は、傍らに笑顔のミサトとリツコを伴ったまま、海に沈んでいく。
その場所は、海に膝をついた弐号機と、ボロボロになったレイから、
ほんの数十メートルも離れていない場所だったが、シンジは気づかない。
もちろん、アスカも。
知らぬ間にシンジは初号機のエントリープラグの中にいて、
初号機と共に赤い海の中を漂っていた。
ただ、パニックにはならない。
それは、やることが、やりたいことがあるから。
初号機の声が、自分の望みを、シンジがやるべきことを教えてくれるから。
『あなたの願いを、強く心に描いて。わたしも、手伝ってあげるから』

367: 2008/06/10(火) 20:27:02 ID:???

言葉に導かれるまま、引き出されるままに、シンジは想う。
(ミサトさん。綾波。   。トウジ。ケンスケ。リツコさん。加持さん。……父さん。
それから……)
人を、愛しい人を、憎い人を、無関係の人を、人を、人を思い浮かべる。
『まだよ。まだ、全てではない。人だけで世界は完成しない。思い浮かべて。
教えるわ。わたしが、教える。あなたの望みを、わたしが教えてあげるのよ』
流れ込む。様々な情報。シンジの中にあるモノ、なかったモノ。
(――生き物。虫、魚、細菌、アダム、鳥、花、動物、木、リリス、使徒…)
どこまでが自分の望みで、どこからが声なのか、分からなくなる。
(――世界を構成するモノ。家、建物、自然、明かり、ビル、組織、ゼーレ、
氏海文書、一つになりたい意志、ヒトのあるべき姿、欠けた心を補完するための…)
そこで、シンジの胸にふと、ほんのわずかな疑問が去来する。
「あ、れ? 僕は、こんな…望んで…? ただ、僕が、ほしくて、た、のは……」
視界には、変わらぬ笑顔のミサトとリツコ。
世界が歪み捻じ曲がり溶け出してそれでも変わらぬ笑顔の二人。
そしてそれすらもぶれてかすんで、
『さあ、想いなさい。強く、強く。その願い、わたしが導いてあげるから。
わたしの思いを吸い取って、大きく、大きく、大きくなりなさい』
シンジの意志は、飲み込まれていく。
その声に、自らの望みに。
(巻き戻っていく。世界が、みんなのいる世界に、僕の居場所のある世界に、
使徒が、補完計画の核が、優しくして、統合される、今度こそ、安らぎを、
行くんだ、作るんだ、やり直す、やり直す、僕がいてもいい… 補完されるべき…)

((……世界を!!))


――その瞬間、海が弾けた。

368: 2008/06/10(火) 20:35:08 ID:???

アスカの視界が、赤一色に染まる。
レイが見ていた場所から赤い海が急速に質量を増して膨れ上がり、
海を飲み込み始めた。
まるで赤の大海嘯。いや、むしろ爆発だった。
「くぅっ! ATフィールド!!」
弐号機はそれに飲み込まれるより一瞬早く、ATフィールドを張る。
それでも弐号機はなす術もなく吹き飛ばされて、海底を転がった。
「……姿勢、制御! …早くっ!」
海底で足を踏ん張って、何とか弐号機は立ち上がる。
「何よ、何よコレ!」
アスカが思わず叫ぶ。海の中の赤い水が、まるで生き物であるかのようにうごめいていた。
(人の…内臓の中にいるみたい)
そんな想像をして、ぞっとする。
弐号機は全周囲に張り巡らしたフィールドでかろうじて海の浸食を阻んでいるが、
周りは激流のように渦巻いていて、フィールドの外がどうなったのか、アスカには分からない。
レイの姿も、見えなくなっていた。
「大丈夫。アタシは大丈夫。アタシにはATフィールドがある。大丈夫。
ママがついていてくれる。だから大丈夫。絶対、絶対、絶対に…!」
打開策も見当たらず、フィールドを維持するのが精一杯。
そんな打つ手もない状態で、アスカは自分にそう言い聞かせ、不安な心を静めていた。
しかし……崩壊は、内側から始まった。

369: 2008/06/10(火) 20:37:10 ID:???

「…? 左手、が…」
左手の感覚がおかしい。そう思ってアスカは自分の腕を見るが、異常はない。
「大丈夫、よね? だって、ここは、エヴァの中は、安全なんだから…」
自分に問いかけて、念のためエヴァのモニターを確かめたアスカは目を見開いた。
「なんでっ?! 腕、うでが、ない。どうして、どうしてよ…!?
神経接続は切ってない! なのに、何にも…。ねぇママ! いるのよね! ママッ!!」
恐慌状態に陥るアスカに、追い討ちのように、弐号機がバランスを崩す。
「足…。足が、なくなった…? ヤダ、こんなんじゃ…」
そして、次の消失はアスカの目が直接捉えた。右手が、内側から弾けて液体に変わる。
「そんな…! なんで、なんでよ。アタシを守ってくれるんでしょ、ママ…」
しかし、崩壊していく弐号機が、その無慈悲な返答だった。
肩が、足が、頭が弾け、元の水にもどっていく。
エントリープラグ以外の全てのパーツが、海へと還っていく。
「ママッ! ママ、行かないで! どうして、アタシをっ! ママッ!!」
答えはない。ただ、真っ暗なプラグ内で、アスカの悲痛な叫びがこだました。
「そん、な……」
呆然と呟く。
モニターは氏んだ。明かりもなくなった。
もうアスカには何もない。
ひび割れだらけの矜持を胸に、暗闇でただただ震えるだけ。
カタカタと上下の歯がぶつかる音が響く。
「シンジ…」
無意識に呟かれた言葉に、束の間アスカの意識がもどる。叫んだ。
「シンジッ! シンジッ! いるんでしょ! 隠れてるんでしょ! 来てよ!
何とかしてよ! 怖がらなくていいから! 何もしない! 何もしなくていいから!
助けなくていいの! いるだけ、いるだけでいいからっ!」

370: 2008/06/10(火) 20:37:50 ID:???

とことんまで叫び、取り乱すと、逆に心はスッと冷えた。
(落ちたもんね、アタシも。バカシンジに助けを求めるなんてさ…)
シンジが来るはずない。来ても何か出来るはずもない。
そもそも、シンジに助けを求めるなんて行為そのものが…。
「…ちく、しょう!」
バン、と拳を叩きつけた。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょうちくしょう!!」
アスカの目に、ぎらつく光が宿る。
「終わらない! こんな所で終わらない! 終わってたまるか!!」
暗闇の中、手探りで脱出用のレバーを探す。
「誰も守ってくれなくても、誰も見ていなくても、誰もいなくても、
アタシは生きて、生きてやるから!」
ようやくレバーを探し当て、それを回して外に出ようとして、気づいた。
プラグ内のLCLの中に、さっきまではなかった匂いが、混じっていることに。
「血…? 血の匂い…! 入ってきてるの? どこから? やめて! もうやめて!!」
虚勢だけを寄せ集めて作った心は、それだけであっけなく折れた。
「アタシは、アンタたちの仲間になんてならない! あんな物に、なりたくない!」
駄々っ子のように手を振り回して後ろに下がる。
すると、それを追うように、どこからともなく、白い影が生まれた。
「なに、よ。アンタたちは、何よ…!」
その姿だけは、なぜか光源の一切ないその場所でもくっきりと形を持っていた。
シンジを連れて行った、白い女の姿。
それが感情の伴わない笑みを浮かべながら、何体も、何体も湧き出し、アスカに迫っていた。

371: 2008/06/10(火) 20:39:04 ID:???

一体一体が普通の人間と同じくらいの大きさをしたそれが、次々とアスカに取り付いていく。
「ひっ…! や、だ! 離れなさいよ! アンタたち!」
手で押しのけようとしても、離せない。それどころか、引き剥がそうとしたアスカの手に、
じわじわと溶け込んでいく。
「何よ、コレ。嫌、嫌よ! 溶けていく…。違う、消えていく…!」
(アタシが、消えていく……)
三体、四体、五体……。白い人影はどんどん増えていく。
そしてそれが全て、アスカ一人に殺到する。
「イヤ! やめて! こんなの…」
(せっかく、心の底からほしい物が見つかったのに)
いつのまにか、エントリープラグの中は、そいつらでいっぱいになっていた。
それが触れ合った所から、アスカは自分の体がグズグズに溶けて、消えていくのを感じる。
「消えるのは、嫌! だって、アタシはまだ、何もしてないのに…!」
(シンジにまだ、何も言ってない!)
逃げ場なんてあるはずもなかった。
だから、アスカは、
「アタシ、アタシは…」

「アタシは、惣流・アスカ・ラングレーよ!!」

高らかに、自らの存在をそこに打ち立てた。

373: 2008/06/10(火) 20:40:31 ID:???

その叫びに拒絶され、白い塊がブワッとアスカから弾き出されていく。それと同時に、
輪郭を失っていたと思われていた自分の体が、はっきりとした姿を取り戻していることに、
アスカは気づいた。
「消えない。アタシは、消えない。アタシは絶対に…!」
その気迫に負けたのか、白い影が次々に撤退していく。だが、アスカは油断しない。
利かない視界をそれでも絶え間なく目を動かして、周囲を警戒する。
そして、その、予想の通り、なのか。白い人影が、再びアスカの前に姿を現わす。だが、
『…アスカ』
それは、シンジの姿をしていた。現われた白い人影は、全てシンジだった。
「シン、ジ…?」
一斉に、シンジは笑みを浮かべる。
『アスカ。やっと見つけた。よかった』
その声を聞いた途端、アスカの中で張り詰めていた何かが切れた。
(シンジ! シンジ! シンジが来てくれた! シンジが、アタシに…!)
状況の不自然さも何もかもが頭から吹き飛んで、アスカはシンジを迎え入れるように手を伸ばす。
「シンジ! 聞いて! 聞いてよ! アタシ、気づいたの!」
『アスカ…』
「分かったのよ! アタシには、アンタが必要なの!」
『アスカ…』
「認めるのはシャクだけど、アタシの中にはアンタがいて、アタシはそれを受け入れてる!」
『アスカ…』
「こんな気持ち、自分でも信じられないわ! でも、それがホントウだったの!
だからシンジ、アタシと…」
『だけどアスカ、僕には君は要らないよ?』

「……………え?」

手を伸ばしたままのアスカだけを置いてけぼりに、無数のシンジが彼女に群がった。

374: 2008/06/10(火) 20:42:44 ID:???

アスカの体にまとわりついたシンジたちは、あの白い女のように、アスカを消そうとはしない。
ただ、アスカの向かって、口々に言葉を投げかけるだけ。
『もともと、好きじゃなかったんだ』『興味があったのは、体だけ』『調子に乗ってるよな、だいたい』
ある者は下卑た笑みを浮かべながら、ある者は無関心に、ある者は怒りを表に出して、
「シンジ…? ナニ? 何、言ってんの…?」
アスカは動けない。理解出来ない。
『父親のいない、ニセモノ…』『アスカは、苦手だな』『やめてよ! 僕を放っておいてよ!!』
それでもシンジたちの言葉は止まらない。まるで百面相のように、様々な顔をしたシンジが、
一様にアスカを罵倒する。
「や、め…。やめなさいよ! やめて…! アンタに、そんなことを言われる理由なんて、ない!」
グルグルとアスカを回りながら、シンジはアスカを責める言葉を紡ぎ続ける。
『セカンドチルドレンって言っ『プライドだけの女…』たって、まともに使徒も倒せないくせに』
「関係ない関係ない関係ない! アタシはアタシはアタシだもの! シンジだって、そんなの気にしない!」
アスカは耳を塞ぎ、顔を伏せる。それでもその声はさえぎれない。
『でも』『アスカはいい『要らない』よ』『ここから『いなくなればいいんだ』『いなくて『いなくていいよ』』
ぶんぶんと、頭を振る。それでもその言葉は閉め出せない。
「やめて、やめてよ。いやなの、もう…。必要とされてないのは、アタシが要らないのは分かってる!
分かってるから、言わないで! おねがいだから、いわないでよ。もう、ゆるしてよぉ…」
泣き声をあげるアスカの、耳元で、
『『この世から』消えればいい』『アスカなんて誰も『誰も』必要だなんて思ってない『のに』』『最初から』
『いない方が『ずっと』良かったのに、なんで?』『なんで『アスカはここにいるの?』?』
震えているアスカの心に、刃物をねじ込むように、
『アスカなんて…』

『『『『『ここから、いなくなればいいのに!!』』』』』

ビクン、とアスカの体が震えた。

375: 2008/06/10(火) 20:43:38 ID:???

アスカはそれきり、身動きをしなくなる。
彼女を取り巻く無数のシンジたちも、何も言わない。薄笑いを浮かべて、ただアスカを取り囲む。
……静寂。
それから、
「…わ、かった、から。アタシ、いなくなる。いなくなる、からぁ。だから、だからアタシを…。
アタシを、ゆるして……」
弱々しく懇願する、その言葉。
それは、紛れもない、アスカの敗北宣言だった。
『『『『『……………は、』』』』』
同時、だった。無数のシンジたちは、みな一様に顔を見合わせると、ハハハハハと笑い出す。
その気配に、アスカは虚ろな目を向けた。
「アタシを、ゆるしてくれる、の…?」
応えるのは笑み。一面に笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み笑み。
正気の人間なら、とても正視に堪えないような光景。
「よ、かった。ありが、と…」
それでも、アスカの憔悴しきった瞳には感謝の色が、唇には疲れた微笑が浮かぶ。

376: 2008/06/10(火) 20:44:55 ID:???

たくさんのシンジが見守る中で、アスカの最期の時が訪れようとしていた。
だが、アスカはもう、そんなことを気にしてはいない。
ただじっと、崩れ落ちていく、自分の手を見ていた。何も特別なことをしなくても、
アスカの体はポロポロと崩れて、消えていく。
「これで、いいんだ。アタシは、最初から、誰にも望まれてなかったもの。
だから、こうやって消えるのが、一番…」
そう思っているはずなのに、目元に熱い感触が生まれる。
LCLに混じって、何か熱い物が瞳からこぼれ出す。
「や、だ…。アタシ、さいごまで、こんな、よわい…」
そんな全部を抱え込んで、アスカが自分の時を終わらせようとした時、
アスカを囲んでいた白い人影が、一斉に弾け飛んだ。
同時に、アスカの体の崩壊も、止まる。
「な、に? だれ? アタシを、助けにきた、の? ……なんなのよ。もう、おそいのに。
余計なコト、しないでよ。アタシ、よかったのに、あれで…あのまま……」
その代わりというように、輝くほどに目の覚める白が、アスカに近づき、
「……マ、マ? ちがう、アンタは、ファース…」
スルリ、と、
一瞬だけ決定的に心の防壁が緩んだアスカに入り込む。

「イヤァァアァァアアァァァア!!」

音のない世界に、世界最後の絶叫が響き渡った。


――そして、世界は補完される。

377: 2008/06/10(火) 20:46:30 ID:???


「あれ? ここ、は…?」
シンジが顔をあげると、隣から懐かしい声が降ってきた。
「お、なんやセンセェやっと起きたんかいな」
「トウ、ジ…?」
シンジの隣に立っていたのは、鈴原トウジだった。
「いくらエヴァのパイロットだからって、授業中に公然と昼寝っていうのはマズイんじゃないか?」
「ケンスケ…?」
トウジと反対側には、相田ケンスケもいる。
「じゃあ、ここは…」
シンジはそこでようやく、第壱中学の制服を着て、教室に座っている自分を認識した。
教室は中学校らしい騒がしさ、賑やかさに彩られていて、そんな、あまりにもありふれていて、
だからこそ非現実的な光景に、シンジはめまいすら覚える。
「寝ぼけすぎだよ碇。そうじゃなくても今日は特別な日だっていうのに」
「特別、って?」
シンジには、分からない。今日が何月何日なのか、これが夢なのか、現実なのか、それすらも。
教室を、見回す。
見慣れた教室。見覚えのあるクラスメイト。
その中にはクラスの喧騒に頬を膨らます委員長や、つまらなそうに机に座っている蒼髪の少女もいる。
(これは、こんなんじゃ、まさか…)
それを、どういう意図に取ったのか、ケンスケは心底驚いたように、
「え、ホントに忘れちゃったのか。今日は進路…」
キキィ!
という何かがすれる音と、窓際にいた生徒たちの歓声が、ケンスケの声をかき消した。
ついで、クラスメイトからざわめきが起こる。そして、
「おぉ、いらっしゃったで!」
トウジの言葉に、ある予感を覚えたシンジは、窓に駆け寄った。
「お、ちょっとセンセ…」
隣で聞こえるトウジの抗議の声も耳に入らない。

378: 2008/06/10(火) 20:47:47 ID:???

窓のはるか下、急ブレーキをかけた車から出てきたのは、
颯爽とした立ち姿に、つややかな長い黒髪。
こちらを見上げるどこかいたずらっぽい瞳には、強い意志の光が宿っている。
「……ミサト、さん」
口にした途端、自然と、涙がこぼれる。
次から次へとあふれて、頬を伝う。
「お、おい、碇…?」
「センセ、ミサトさんが来てそんなに感動したんか…?」
周囲の訝しげな声もまるで気にならない。
目に映る光景の全てが、なぜだかすごく、眩しく思えて、

(――ああ。帰ってきたんだ、僕は)

ようやく、実感する。――そして、気がついた。
(世界の王も、統一された意識も、全部要らないんだ。ここが、こここそが、僕の、完璧な世界…)
窓の外で、ミサトが手を振っている。
シンジは涙をぬぐって、ミサトに向かって全力で手を振り返して、

「ミサトさん! 僕は――」


こうして、世界は二度目の補完を迎えた。
――ただ一人の少年の願いを、そして、たった一つの意志を、叶えるために。

379: 2008/06/10(火) 20:52:17 ID:???
糸 冬

途中から俺もう自分でも何を書いているんだか分かんなくなって…。毒電波って奴か?
まあともあれ、思った以上に長くなったけれども、おかげでとうとう完結したよ。…その、プロローグが。

いや、とにかく、ここまで読んでくれた皆さんお疲れ様、それにありがとう。

引用元: ★エヴァ小説を投下するスレ(ノンジャンル)★