1: 2012/05/14(月) 18:51:24.11
「梓、好きだ」

 先輩は、振り返りざまにそう言った。

「私、梓のことが……好きなんだ」

 私にちゃんと、伝わるように。
 それとも、勇気を振り絞っての言葉だったから?
 何であれ。
 先輩は、ゆっくりと、繰り返して言った。
 私の事が、好きだと。



 それが、律先輩が私にくれた、告白の言葉だった。

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1336989083/

2: 2012/05/14(月) 18:53:14.38
 昼休み。
 いつもの三人で机を囲み、お昼ごはんを食べる。
 購買で買ってきたらしい菓子パンをかじる純は、脚を組んで浅く椅子に腰かけている。
 憂のお弁当は、いつも手が込んでいて美味しそうだ。おそらくは憂自身のお手製なんだろうな。
 私の手元には、お母さんの作ってくれたお弁当。それと、食後にと買っておいたペットボトル入りの紅茶。

「あ、梓。またそれ買ってる」

 純が私のほうを見て笑った。

「梓ちゃん、それよく飲んでるよね」

 憂も私の手元に視線を落として言う。

「甘くないから食後には丁度良くって。なんか知らない間に、お昼の後にこれ飲むのが習慣になっちゃったみたい」

 「へえ」、「そうなんだ」、相槌が続く。
 他愛のない会話。
 たいていは純が話題を見つけてきて始まる、私達の雑談。
 憂が相槌を挟んだり、純の言い分に同調したり。私が純の悪ふざけを諌めたり、それを聞かずに純が新たな話題をねじこんできたり。
 昼休みはいつも賑やかだった。

 そんな会話のさなか。
 純が言った。



「ねえ、梓って、律先輩と付き合ってるの?」

3: 2012/05/14(月) 18:55:33.78
「――え」



 言葉に、詰まった。

「そ、そうなの、梓ちゃん?」

 驚きを隠せないような憂の声が、耳を左から右へ通り抜ける。
 固まった私に首を傾げて純が、

「あれ、違うの」

 飄々と訊く。

「え、えーっと……」

 明確な返事を出せない。

 どう、なんだろう。
 困惑した。

 私と律先輩は、今、どういう関係なんだろう?

4: 2012/05/14(月) 18:57:50.80
 律先輩の告白の言葉を聞いたとき、私は数秒――いや、もっと長い時間だろうか――立ち竦んでしまって、しばらく声を出せずにいた。
 先輩はそんな私を、最初はおそるおそるといった感じでじっと見つめ――しばらくしてはっと視線を少し泳がせ、それでもやっぱり意を決したようにもう一度私の顔を見て……と思ったら今度は、何かに縋るような表情を浮かべたりして……。不安の色を隠せずに狼狽していた。
 私の感情は、そんな律先輩の仕草に突き動かされた。いや、私の気持ちは最初から決まっていたんだ、あとはそれが、律先輩の仕草をきっかけに口からこぼれ落ちただけ。

 伝えなきゃ。
 伝えたい。
 私の返事、私の気持ちを。

「私も、好き、です……。律先輩のこと、好きです……!」
 
 ――律先輩が好き。大好き。
 
 それは、ずっと前から暖めていた私の気持ち。理屈や理由を考えるより先に、胸のなかでいっぱいになっていた、私の全部。

 はっとする。
 
 私はこたえた。
 ――何に?
 律先輩の告白に。
 ――告白って?
 私への告白。
 ――つまり、どういうこと?

 つまり、それは――。

 駆け出した。
 考えが言葉になってまとまるのを待たずに、私は律先輩に駆け寄っていた。
 ふわ、と、優しい温もりに包まれる。
 先輩は、私を抱きしめてくれた。

「……梓」

 一呼吸あってから、安心したような先輩の声。優しい声。

「はい、律先輩」

 暖かさを感じながら応えた。

「ありがとうな、梓」

 頭を撫でてくれる手の感覚に、心地良さを覚えて。

「……はい」

 私はそのとき、思ったんだ。
 今、すごく、幸せなんだって。
 好きな人と、結ばれたんだ、って。

5: 2012/05/14(月) 19:01:23.79
 歯切れの悪い私を、純は「ま、いいや」と笑い、早々と話題を切り替えて次の授業のことを話し始めた。
 結局、純には照れ隠しだと思われたみたいだった。憂も追及はしないでくれている。
 私から報告するまで待ってくれるんだろう。純の最初の質問こそ、多少野暮な勘繰りと言っていいのだろうが、ともあれ私はいい友達を得た。

 二人の雑談をよそに、私は考える。
 私と律先輩の関係について。

 好き合ってる同士であることは……自分で言うのも気恥ずかしいが、間違いない。
 じゃあ、付き合ってるっていうこと?私と律先輩は、恋人同士っていうこと?

 ……それが私にも疑問だった。
 律先輩から“付き合ってくれ”とは言われていない。私からそう言ったわけでもない。それは、世間一般的には付き合っていることにはならない……と思う。
 普通であれば告白の言葉と同時に、あるいは告白の前後に、交際を申し出る言葉を言うものなんだろうけど。私達には、告白の場面においてそれが無かった。
 ……でも、だからといって付き合っていない、と断言するのも……抵抗がある。お互い、相手に恋愛感情という意味での好意を伝え合ったんだ。結ばれた仲ではある。


 じゃあ、なんで私が純の質問に答えられなかったかというと。

 私と律先輩が、「付き合うこと」を約束していないからだ。

6: 2012/05/14(月) 19:03:11.17
 ――それは、二人で歩く帰り道でのこと。

 意を決して言ったんだ。

「私、梓の事が……好きなんだ」

 私のこんな言葉を、梓はどう思うんだろう?
 怖かった。だけど。

 だけど、言わずにはいられなかった。
 言わなきゃどうにかなってしまいそうなくらい――私の胸のなかは梓のことでいっぱいだった。

 それは、ずっと前から暖めてきた私の気持ち。

 私は梓に、自分の気持ちを告白した。

7: 2012/05/14(月) 19:06:18.48
 暮れていく陽で紅く染まった空の下、ふたりで橋を渡る。
 部活のないその日、私は梓を誘って帰り道を一緒に歩いていた。

「律先輩、今日は他の先輩がた、一緒じゃないんですか?」

「ああ。ちょっと残って勉強してく、ってさ。真面目だよなー」

「……先輩、ちょっとは見習ったほうがいいですよ」

「あーんだとぉー?」

 いつもの帰り道、いつもの会話。
 いつも通りに生意気を言う後輩に、いつも通りの反応を寄越す私。

 肩を組むようにして軽くのしかかると、驚いたように、それでいて少し楽しげに梓は声をあげた。
 そんな見慣れた反応に安堵して、苦笑がこぼれる。
 背中をぽん、と押して腕を解いてやると、やはり少し楽しそうに、梓は「もう……」と頬を膨らませていた。

 私はそのまま、梓の数歩前に出た。

 ふ、と、会話が途切れる。

 私は立ち止まった。空気の流れが止まるのが分かる。
 背後から感じる、こちらを窺っている梓の気配に心のなかで手を合わせ、

 ――ちょっとだけ。心の準備するからさ、ちょっとだけ待ってくれ。

 深呼吸。

 よし、言う。言うんだ。

 高鳴る胸に、拳を握る。






「――梓、」







 最初は名前を呼ぼうと決めていた。

8: 2012/05/14(月) 19:08:37.58

『梓、好きだ』


 それは、


『私、梓のことが……好きなんだ』


 それは、とても簡素な告白だった。

 私の名前を呼んで、自分の気持ちを伝えて。
 
 私はそれでも嬉しかった。
 大好きな先輩が、私のことを好きだと言ってくれた。
 その意味する所は、両想いであるという事実。たったそれだけで私は満たされたし、これ以上の幸せなんてないと信じて疑わなかった。

 その時は、確かに。


 ……でも、純に言われたことが、今は気にかかる。

 付き合っているのか、いないのか。

 ひょっとして、今の私と律先輩は、すごく曖昧な関係なんじゃないだろうか?

 律先輩はきっと……告白の言葉を事前に考えていたはずだ。切り出し方はどうしよう、とか、どんな言い方をすれば上手く伝えられるか、とか、そういう試行錯誤を経てあの告白の言葉を選んだんだと思う。先輩はそういう人だ。

 そんな先輩の告白の言葉は一言一句違わずに憶えている。

 だから、だからこそ分からない、先輩の真意。


 ――律先輩、どうして「付き合ってくれ」って言わなかったんですか?


 その言葉が欲しいわけじゃない。
 ただ、先輩の考えが知りたい。

 「付き合う」って?
 「恋人」って?

 先輩はどう考えているんだろう。

9: 2012/05/14(月) 19:10:10.16
 告白の日から数日。

 あれから私と律先輩は、ほとんど毎日一緒に下校するようになった。
 昇降口で先輩に会って。
 名前を呼ばれて、駆け寄って。
 二人で並んで下校する。
 一緒にいられる時間が増えたのは単純に嬉しい。
 学校にいる間、さすがにお互いの教室を行ったり来たりするようなことはしづらいから、こんな風に二人きりでいられる帰り道でのひとときは大切にしたかった。
 いつもよりゆっくり歩くことを意識してしまって、なんだか可笑しい。

「だーいぶ涼しくなってきたな」

「はい。そろそろ秋も終わりですね。……そういえば律先輩、少し気になるんですけど」

「ん、なに?」

「律先輩って、冬はおでこ、寒くないんですか?」

「……なんだ、そりゃ。別にそんなに寒くないって。私にゃ髪くくってる梓の襟足のほうが、見てて寒いけどなー」

「私はマフラーしますから。もう少し寒くなったら」

 ちら、と横目で先輩を見る。
 「そっか」と呟いた律先輩の口から零れた吐息は白く染まっていた。目の前で白くなる自分の吐息を見つめて、「おおっ」と小さく声をあげて笑うその姿が微笑ましい。

10: 2012/05/14(月) 19:12:59.47
 ……律先輩の考え。
 訊くべきだろうか。私は迷っていた。
 漠然とした言い方、訊いてもいいのだろうか、という疑念。

 ――不安だった。
 私が先輩に告白の意図を尋ねることで、私達の関係がどこかしら変わってしまうんじゃないだろうかという、そんな不安。
 律先輩が考えに考えて選んだ告白の言葉。それに「なぜ?」を投げかけるのは、無神経なんじゃないだろうか。

 少し……いや、少しばかりじゃない。訊くのは怖い。

 私達の今の関係をつくってくれたのは律先輩だ。
 先輩が私に告白してくれて、それで始まった恋仲なんだ。
 そんな関係を、私の疑問が、ともすれば些細な疑問が変えてしまうのかもしれない。そう思うと怖い。

 ……私は、臆病だ。

 あのときの――告白の直後の――律先輩の表情を思い出す。
 決意を込めた表情と、不安を露わにした表情とを、代わる代わる浮かべていた律先輩。

 先輩も怖かったんだ。自分の言葉が、現状を変えてしまうかもしれないということが。

 ――それでも、律先輩は口にした。私に好きだと言ってくれた。


 ぐ、と、拳を握る。


 ……今度は、私が先輩の勇気に応える番だ。臆病なままでは、いられない。

 迷った。
 迷ったけれど、ここで私が怖がってばかりでは律先輩の勇気を裏切ることになる。

 想いを、好意を受け止めるっていうのは、真正面から相手と向き合うことなんだと思う。
 なら、私は大好きな先輩のために――私達ふたり自身のために――逃げたりしてはいけないんだ。

 それに、相手に疑問を抱いたまま、それを隠して続ける関係なんて。
 そんなの、誰だって嫌だ。私だって、律先輩だってそのはずだ。

 怖いと思う気持ちは消えないけれど、私は先輩に訊かなきゃいけない。それは、私なりに考えて出した結論。

 口を開けて、軽く息を吸う。

 冷たい空気に身が締まるのを感じて声を出した。

11: 2012/05/14(月) 19:14:25.11
「先輩」

「うん?どした」

 歩みを止めた私に、律先輩が首を傾ける。

「……気になってることが、あるんですけど」

「……ん」

 返事をして、先輩も脚を止めた。真剣に話をしたいという私の気持ちを汲んでくれてだろうか。その表情は穏やかだ。

「気を悪くしたらごめんなさい。でも、私、どうしても訊いておきたくって」

「うん。……話してみ」

 穏やかな表情はそのままに、律先輩が言う。
 その表情にどこかで少しだけ。安堵を感じて、




「……どうして、どうしてあのとき、“付き合ってくれ”って、言わなかったんですか……?」


 胸の内を正直に。
 律先輩に告げた。


「……」


 先輩の顔を見るのは少し怖かった。私の言葉に失望しているかもしれない。……怒っているかもしれない。呆れているかも。
 分からない。だから怖い。

 でも、目線を落としちゃダメだ。律先輩の顔を、目を、表情を、じっと見つめる。あのとき、先輩だってそうしたように。
 大事なことは、相手の顔を見て話さなきゃいけないと、先輩がそうしたように。

 自分の目線に意識を向ける。
 

 ――先輩は、少しだけ目を丸くして。驚いた表情を浮かべていた。

12: 2012/05/14(月) 19:15:40.13
「――ごめんな、梓」



 ふ、と。先輩は表情を崩して。

「り、律先輩……?」

「余計な心配させちゃったな。だから、ごめん」

 律先輩は……あろうことか、私に謝罪の言葉を告げた。


 どきん、と、心臓が跳ねる。

 謝罪されるだなんて、そんなこと一切予想していなかった。その言葉は、むしろこっちが用意していたくらいなのに。
  
 ――え?ど、どうして?

 混乱する。

 予期せぬ先輩の反応に、咄嗟に考えがまとまらない。


 律先輩の言葉、その真意は?

 怒ってる?
 失望してる?
 呆れてる?
 それとも、もしかしたら……?






「――大丈夫。梓は悪くなんかないよ」

 ――混乱に揺さぶられる頭が、ふと暖かく支えられた。

「え……」

 それは、律先輩の手。

 優しく髪に触れる先輩の手が、混乱でどこかへ行ってしまいそうになっていた私の意識を引き戻してくれていた。

13: 2012/05/14(月) 19:17:58.59
「梓の疑問ももっともだ。言葉足らずだったな、私」

 私の髪を撫でる先輩にされるがまま、身を寄せる。

「い、いえっ、そんなことは……」

「あーるーのっ。現に梓、混乱しちゃったじゃん」

「……うぅ」

 ……確かに、先輩の告白が元で私は色々なことを考えた。
 でもそれを先輩のせいだ、とは言いたくない。
 それに、

「それでも……自分が悪かったなんて、そんなこと、言って欲しくないです……」

「そりゃ、お互い様だ。梓だって、私に変な申し訳なさとか、感じてたろ?」

「……すいません」

「だー、謝んなって。……分かった、どっちが悪いとか、そういうのはやめにしよう。水掛け論だ」

 先輩の顔を仰ぎ見る。その表情は、優しく、諭すような苦笑。

 甘えたくなる優しさだ。すべてを委ねてしまいたくなる、そんな優しい表情。

「答えるよ、梓の疑問に。そうだな、何から話すか……ちょっと長くなるけど、いいか?」

「……はい」

 ……知らないうちに混乱はどこかへ去っていて。
 私は先輩の優しさに、自分の気持ちを委ね、小さな安らぎを覚えていた。

「よし、じゃあちょっと……コンビニ寄ろうぜ。あったかい飲み物でも買ってさ、んで話そう。梓、いつもの紅茶でいい?」

14: 2012/05/14(月) 19:21:05.09
「……考えてたんだ。梓に告白するとき、何て言おうか。どんな言葉が、私達に必要か」

 乾いた音にオレンジ色のキャップが捻られる。容器を傾けて紅茶を一口、先輩はほっと息を吐いて話し始めた。

「どんな言葉が、必要……?」

 うん、と、律先輩は短く返事をする。

 胸のうちにあった不安はなくなったものの、未だに律先輩の真意は分からないままだ。
 でも、先輩は私の疑問に答えると言ってくれた。
 ならば私はそれに向き合おう。そうすることが疑問を晴らすことに繋がるはずだ。
 先輩の言葉に耳を傾ける。


「――なあ、梓。恋人同士って、どうやったらなれると思う?」

「……それは、」

 それはつまり、好き合う二人が恋人同士になるには何が必要か、ということ。恋人同士になるための条件を、律先輩は問うている。

 考える。
 先輩の告白に無かったもの、それは――
 


「……約束」

 ぼそり、と呟いた。

 ――約束。恋人として付き合うことを、お互いに承諾すること。二人の間で、自分たちは恋人であると取り決めること。

「そ。契約、なんていってもいいかもな。恋人ってやつになるなら、二人がそのことを合意した証に約束を交わす必要がある」

「それが……“付き合う”っていうことなんですね」

 再び、律先輩の首肯。

「ま、簡単に言えば、世間一般じゃ恋人になるには『付き合って下さい』『はい』みたいな口約束が必要ってこった」

「でも、先輩はそれを……」

 ……私に求めなかった。

「ああ。だから梓を困らせた。思えばあの場で、ちゃんと説明するべきだったんだよな。だからごめん――、っとと、謝るのはナシなんだってば」

「……聞かせてくれますか。あのとき、約束の言葉を言わなかった理由。今からでも」





「……ああ。私はべつに――梓と恋人同士にならなくても、いいんじゃないかって思ってるんだ」

15: 2012/05/14(月) 19:23:34.29
 少しだけ肩が跳ねた。
 それは、先輩の言葉に不安が振り返して身体が反応したからじゃない。

 柔らかな感覚。
 私の左手を包む、律先輩の右手の温度。

 それはまるで、恋人がするみたいな――

「も一個、質問。“恋人同士らしいこと”って、どんなだと思う?」

 ……え?

 とんとん、と軽い感触が左手に伝わる。
 目線を落とせば見えるのは……軽く私の手を叩く、律先輩の人差し指。

 ……分かっててやってるんだろうか、この人は。

「……今みたいな、ですよ」

「うん?」

「ですから、今みたいに、手を繋いだり……」

「うん」

 続きを促すような相槌だ。

「ふ、二人でどこかにでかけたり、……抱き合ったり、……き……キス、したり……」

 ……口に出すと、なんとも恥ずかしい。

「も、もう!からかわないで下さいよ……!」

「あは、悪い悪い。……でもその通りだよ。好きだっていう気持ちを行動だとか態度だとかで表現するの、それが恋人同士ってやつなんだよな」

16: 2012/05/14(月) 19:28:29.19
 ……と。

 再び左手に感じる、とんとん、という感触。

「――できるだろ?」

 目線を落とした先に――私と律先輩の手。

 はっと息を呑んだ私に律先輩は微笑んで、


「恋人同士にならなくても――約束を交わさなくても、私達はお互いに想いを表現し合えるんだ。お互いを好きなままで、いられるんだよ」


「……そっか」

 呟く。

 ……思えば、ただの口約束に、私はなぜ執着してしまっていたんだろう。
 恋人同士じゃなきゃできないこと、なんて、そんなのあって無いようなものじゃないか。

 手首を返して、私は律先輩の手を握り返す。

 ようやく分かった、律先輩の考え。

 それは、なんだかとっても素敵なことだと思った。

 なにひとつ約束を交わさずとも、好き合う二人は好き合う二人のままでいられる。
 言葉でつくった約束に縛られない関係。それは、きっと、何より強い絆で結ばれている。

 ――二人の間に通じ合う好意という、何より純粋な絆。

「だから私は、梓に“付き合ってくれ”とは言わなかったんだ。約束で縛りつけたくなかった。そんなことしなくても、私はずっと梓のことが好きだし、」


「――私も」

 握った手に力がこもる。

 それは、二人で一緒にこめた力。二人で一緒にこめた想い。

 誓いじゃなくて、約束じゃなくて、そこにあるのは好きという想いだけ。

 付き合っていなくても、恋人同士じゃなくても、想いは確かにそこにある。


「私も、好きです。大好きです、律先輩」


 必要なのは、何より大切なのは、その想い。

17: 2012/05/14(月) 19:29:15.94
梓「約束の話」 (上) おわり

25: 2012/06/16(土) 22:09:03.17
お待たせいたしました

梓「約束の話」(中)、投下します

26: 2012/06/16(土) 22:09:34.31
「そういや久しぶりだな、澪と一緒に帰るの」

「……そうだな」

 確かに律と二人で下校するのは久しぶりだ。ここ最近はずっと、律は梓と二人で下校していた。律の幼馴染みとして、梓の先輩として、そんな二人の関係に寂しさを感じなくもないが、まさか二人の間に割って入ることも出来まい。
 それに、寂しさ以上に、二人が恋仲になったことは単純に嬉しかったんだ。祝福すべきであるし、そうしたいと勿論思う。


 だから私は見守ろう。唯とムギと三人で、二人の良き理解者として。律と梓の恋を見守ろう。

 ……そうしたいと、思っていた。

「……なあ、律」

 ――だけど、

「ん?」

「……話があるんだ」


 だけど、私は見過ごせなかった。


「なに?また歌詞書いたとか?」

「そうじゃない。梓のことだよ」

 今の二人の関係を。律と梓、ふたりのことを。


「律、本当に梓のこと――好きなんだよな?」

27: 2012/06/16(土) 22:10:12.56
「……なんだよ。急にどうした?」

「……いいから答えてくれ。梓のこと好きだって気持ち、本当だよな?……梓のこと、大切に思ってるよな?」

 消えた私の影と足音に、先を歩いていた律が振り返る。
 私を見て数度、大袈裟に瞬きをしてみせた律は、


「だあ、信用ねーなー……。当たり前だろ、ちゃあんと好きだし、大切だって。嘘なんかついてどうするんだよ」

 息をこぼしてうなだれた。なにをそんなに疑っているんだ、とでも言いたげな調子だ。そのまま踵を返そうとする。
 ……待て、まだ話は終わってない。そんな答えじゃ、私は納得できない。
 思わず一歩前に出た。

「じゃあ、あれも……本気で言ってるのか、律」

 呼び止める。
 あれって?と律が私に向き直る。

 ……言わなきゃいけない。
 それは、言わずにいたら私が後悔するからじゃない。私のために言うんじゃない。

 律と梓のために、言う必要があるんだ。

「そうする必要はないから付き合わなくてもいい、って、それが律の考えだろ……」

 律が首肯する。


「そんなの――間違ってる。おかしいよ、律」

28: 2012/06/16(土) 22:11:10.34
 お互い好き合ってはいるけど、付き合ってはいない。
 付き合うことを約束する必要はない。

 それが律の考えで、約束で梓を拘束したくないという、律なりの優しさであるらしい。

 ――違う。そんなの、本当は優しさなんかじゃない。


 私は、律の優しさ否定する。

「梓のことが好きなら、大切に思ってるなら、“付き合おう”って、言ってあげなきゃいけないんだよ……約束は必要なんだ、律」

 正面に立つ律から、私は目線を逸らさない。目線の先に立つ律は、驚きに頬をひきつらせていた。
 当然だ。私は今、律の考えを踏みにじるようなことを言った。
 罪悪感に苛まれてか、心臓が跳ねる。

 それでも、私は否定し続ける。律の優しさを。
 ……まやかしの優しさを。

「あ……い、いや、あのな澪?よく考えてみろよ、別に付き合うだ付き合わないだってのがなくてもさ――」

 ああ、知っているよ、律の考えはよく知っている。
 付き合う、だなんて約束を交わさなくても恋人同士らしいことはできるし、お互いに好きな気持ちは変わらない。そう言うんだろう、律は。

 違うんだ、律。

「そんな曖昧な関係じゃ、お互いずっと好きなままじゃいられないんだよ。このまま付き合うって約束をしないなら梓とは……長くは続かないぞ」

29: 2012/06/16(土) 22:12:26.82
「な、なーに言ってんだ澪……そんなことあるかよ。私はずっと好きだよ、約束なんかなくったって、それは変わったりしないって」

 受け流すみたいに律が言う。
 待てよ……だから、そうじゃないんだ、律。気持ちや想いは、それだけじゃ維持できないのがなんで分からないんだ。
 
「変わるよ、変わっちゃうんだよ、律。分からなくなるんだ。付き合ってるって事実がないと、相手が本当に自分のことを好きなのかとかが不安になって……自分の気持ちが分からなくなるんだ」

 一切の約束なしに続けていられる関係なんて、あるはずない。それは律と梓、二人だって例外じゃないはずだ。

「なんだよそれ。確認しなきゃ分かんなくなるようなら、元々その程度の気持ちってことだろ。私の想いはそんなふうに弱くないぞ」

 律の想いは、か。

 ……よく言えたものだ、そんな台詞を。



「お前の想いはそうかもしれないよ。――でも、梓はどうなんだ」


 律の想いがどうかは問題じゃない。
 肝心なのは梓の気持ちだ。



 律、お前はそれを、ちゃんと考えてやれてるのか。

30: 2012/06/16(土) 22:14:09.13
「……どういうことだよ」

 ……やれやれ、澪の心配性め。
 そんなに私じゃ不安か。そんなに、私には梓を任せられないっていうのか?

 ため息と苦笑いが同時にこぼれそうになる。

「梓の気持ちは律と同じなのかってことだよ。梓は、約束がなくても律のことを好きなままでいられるのか?」

 梓の気持ち、だって?決まってんだろ。
 あのとき――私がなんで約束をしなかったのかって梓に話したとき、私と梓の気持ちは完全に通じ合った。私の気持ちだけ一方通行なはずがない。

「好きなままでいてくれるって信じてるよ。梓は私の考えを受け入れてくれた。受け入れて、私と想いを通わせてくれた。だから、私と梓の気持ちはおんなじだ」

 ……まあ、澪の気持ちも分からないわけじゃないけどさ。

 見ていて危なっかしいのかもな、私は。
 普段から頼りないところを見せてばっかりだしな。ついこの間だって、梓に余計な心配をかけさせた。いくら幼馴染みだからって、そりゃ無条件に信頼はできないのは分かる。

 信じてくれ、なんて……言いにくい。

 でも、

「信じてくれよ、澪」

 私は言う。

 確かに私は頼りないヤツだよ。 
 
 けどさ、それでも、もう大丈夫なんだ。梓のことでなら、梓のためなら、私はちゃんと、しっかりする。

 だから、頼むよ。私と梓のことは、静かに見守っていてくれないか――






「――信じられるわけ、ないだろ」


 ……それだっていうのに。

 澪は、静かに、そして力強く。

 私の懇願を跳ね除けるように、言った。

31: 2012/06/16(土) 22:16:00.78
 ……なんだよ。
 なんでそんなに、私を否定するんだ。だから、私の何がそんなに不満なんだ?

 なんでそんなに、確信めいたふうに否定できるんだ?

「……どうしてだよ、澪」

 声が震えた。
 くそ、なんでこんな、不安な気持ちにならなきゃいけない。
 
「お前が本当は、梓のことを考えてやれてないからだ」

 梓の気持ち?何度目だ、その言葉。

 ……馬鹿にするな。言うまでもない、そんなの。

「その辺にしとけよ、澪……いくらなんでも、そろそろ怒るぞ」




「――怒ってるのは私のほうだ!なんで、なんでお前はそうやって……自分のことしか考えられないんだ!」


 ……澪が、叫んだ。
 その言葉は、私への蔑み。


 ――ああ、ちくしょう。限界だ。ふざけるな。
 
「難癖つけるのもいい加減にしとけよ、澪……!誰が自分のことしか考えられないって?私は梓のことはちゃんと考えてる、何度も言わせるな!」

「それが間違ってるって言ってるんだ!約束は要らないとか付き合う必要はないとか、そんなの梓の気持ちじゃない!」

「梓は私の考えを受け止めてくれたんだ!それが梓の気持ちじゃないならなんだっていうんだよ!」

「梓の真意じゃないんだよ、それは!今の梓は好意が通い合ったことに舞い上がってるだけなんだ!律の言うことなら、全部正しいって思えちゃうんだよ!」





「――じゃあ、私が梓の気持ちをあおったっていうのか?!」


 叫んで、瞬間。思わず息を呑んだ。

 鈍い衝撃を、とてつもない速さで後頭部に叩きつけられたような、そんな錯覚に全身がおののく。


 ……ふざけるな。
 ……ふざけるな、ふざけるな!
 
 そんなつもりで梓と話をしたんじゃない。言いくるめてやろうだなんて、そんなこと考えたりしてない!

「そんなこと、するわけ……!」

 そんなこと、するわけないのに。


 ……ああ、でも、どうしてだ。
 声に力が入らない。震える喉を抑えられない。

「……結果的にはそういうことだろ。律に自覚があったかどうかなんて問題じゃない。事実としてお前は――梓に自分の考えを押しつけたんだ」


 ……押しつけた?私が?そんな、そんな馬鹿な。



 あるはずない、そんなこと!

32: 2012/06/16(土) 22:17:02.06
 気味の悪い浮遊感が、全身を漂う。


 梓の考え。気持ち。
 ひょっとして私は、梓がそれを見つける機会を奪ってしまったのか?

 そんなことない。
 ……そう思いたい。
 自分の考えを押しつけたりなんて、もちろんしていない。


 でも、梓の自発的な考えは……聞いていなかった。
 だから、梓の真意は分からない……。

 約束は要らないと、そう言ってくれたのは、一時の感情によるものだったのかもしれない。
 もしかすると、梓はまだ自覚していないだけで――本当は私との約束を望んでいるのかもしれない。



 ……本当に、そうか?

 梓、約束なんて、欲しいか?
 
 あんなの、あったってお互い縛られて窮屈なだけじゃないか。


「……なんでそんなに、約束にこだわるんだよ」

 思いが呟きになって、外へこぼれた。
 頭から煙が出そうだ。

 約束の必要性。
 今はもう、それがなんだか……分からない。自分の考えに、自信がもてない。

 
「……なあ、律。例えば梓と手を繋ぐと……安心するだろ」

 ――応えたのは、澪だった。

 澪は、約束は必要だと、そう言った。
 澪にはわかっているのだろうか?約束の必要性が。

 私の首は、縦に小さく傾く。


「それと同じことなんだよ。約束はお互いの心を繋ぐんだ。一緒にいられないときでも、交わした約束があるから、好きだっていう気持ちを思い出して安心できるんだよ」


 ……安心。不安に押しつぶされそうな私の心に、その言葉が強く響いた。

 私は、梓を一度不安にさせた。
 これから先、梓を不安がらせないようにしたいとは思うけれど……そうできる、と断言できるような根拠を、今の私は持っていない。また私が至らなくて、梓を不安にさせることがあるような気がしてならない。

 でも、約束をすることで、ひとつ。私は梓に、安心を与えてあげられるかもしれない……?

「だから私は、約束は必要だと思う。律、お前と梓の間にもそれが必要かどうか……もう一回よく考えてくれ」

 澪はそう言って、私の横をすり抜けて去る。
 私はその場に立ち尽くしたまま。



 ……間違っているのか、私は?

 私は梓に、自分の考えを押しつけてしまったのか?

33: 2012/06/16(土) 22:20:49.14
 相も変わらず梓ときたら、食後に紅茶は欠かさないらしい。

 ……よく考えたら、軽音部でも毎日のように紅茶は飲んでるんだよな?それもとびきり上等なやつを。
 なのにペットボトル入りの、自販機でもコンビニでも買えるような、どこにでもある紅茶をなんで好んで飲むんだろうか。
 紅茶そのものに飽きたり、そうじゃないにしても安物は飲めないくらいに舌が肥えてたりはしないのかな。……謎だ。


 ――けど。

 ま、人の好き好きに口出しはするまい。
 梓がそれでいいっていうんなら、いいんだろう。私がとやかく言わなくてもいいことだ。

「……でね。憂、純」

 その梓が口を開いた。ペットボトルのキャップを閉め、机の端に置いてひと呼吸。

「私と律先輩のことなんだけど、さ」

 ……きたか。
 思わず表情が緩む。憂も微笑みで以て、梓に相槌を返した。

 ついこの間、私が二人の関係を訊いたとき、梓が返答に逡巡したことを思い出す。
 内心、地雷を踏んだかと思ったものだ。いや、事実あれはちょっと地雷だったんだろうな、軽々しく他人の領域に踏みこみがちなのは私の悪い癖だ。
 表面上なんでもないふうに装ったけど、心のなかでは反省した。こういうのは、本人達からの報告を待つのが礼儀みたいなものなんだろう。

 ……で、そうやって少し待って、そして今だ。
 梓が律先輩とのことについて話そうとしてくれている。

 待つのも礼儀なら、然るべきときにそれを聞いてやるのもまた礼儀だろう。
 私は悪戯っぽく笑って、続きを促した。

「うん、少し前にね、律先輩から好きだって言ってもらって、私も好きですって応えて……。だから、好き合ってる同士、とでも言えばいいのかな……」

 梓は視線を手元に落として少し口ごもる。
 まあ、改めて言うのは恥ずかしいんだろうな。にしたって少し、煮え切らない感じもするけど。
 それもまた微笑ましい、か。いいんじゃない、初々しくてさ。




「――まあ、ね。付き合ってはいないんだけど」

「……へっ?」


 ……梓は努めてなんでもないふうに言って、頬を掻いた。

 ちょっと待った、その発言、なんでもないってことはなくない……?

34: 2012/06/16(土) 22:23:19.82
 一見矛盾しているかのような梓の言葉に、私と憂は首を傾げた。梓は「まあそうなるよね」とでも言うようにへらっと笑い、補足を入れる。


 曰く。

 付き合っていようがいまいが、お互いに好きなら一番肝心なのはその気持ちで、約束なんかなくっても恋人らしいことなんていくらでもできる、だからわざわざ付き合おうなんて言う必要はない――


 改めて言うのも恥ずかしいな、と、梓は小さく咳払いをしてみせた。

 ……いや、いやいや。
 そりゃまた随分と斬新な発想だ。煮え切らない切り出し方をしたのはそういうことだったのか。

「そっかあ。おめでとう、梓ちゃん」

 憂が言う。梓はそんな言葉に、いっそう濃く照れ笑いを浮かべていた。

 斬新、というか、奇抜な考え方だなとは思う。
 けどまあそもそも――女子高だから少しは珍しくないってだけで――世間的には同性のカップルなんて、それ自体が奇抜だ。今更二人の関係にツッコミを入れるのも野暮だと思う。

 人の好き好きに口は出さない。
 本人達がそれでいいっていうんなら、傍から見れば変わっているようなことにも、あえて異を唱えたりはしない。


「――梓」


 ……はず、なんだけどな。

 そんな意に反して、私は身を乗り出して梓を覗き込む。

 過ぎた干渉はしたくない。
 でも。

 ……でも、流石にちょっと、そのまま聞き流せることじゃなかった。


「梓はさあ……それで、いいの?」

35: 2012/06/16(土) 22:25:07.79
「えっ」

 きょとんとした顔で梓はこちらを見やる。

 ……この感じは、ひょっとするとひょっとして。“気付いていない”のかな。


「それ……今までと変わらない、じゃん」


 私がそう言った途端――梓の表情が固まった。

 ……やっぱり。

 やっぱり、そこには意識いってなかったな。



 ――これは、私の個人的な恋愛観だけど。

 付き合うことを約束するってことは、そこで二人の関係を一新することなんだと思う。
 今まで育ててきた恋心、それは胸の内にしまっておいて、そしてゼロからまた新しく、二人で愛情を育んでいく。いわゆる共同作業ってやつ。

 恋仲になるっていうのは、意識を共有することだ。二人でひとつの愛情を共有することもそう。
 それは、今までひとりでやってきたことを、今度は二人でおこなうっていう……言わば、変化だ。それも、けっこう大きな。

 そんな変化にはっきりと区切りをつけるために、心機一転するために、人は告白の言葉に約束を選ぶんだと思う。


 ――梓たちの場合、その区切りがどうも曖昧だ。
 付き合わなくてもいい、っていうのは律先輩の考えで、梓はそういうのもいいなって賛同したんだそうだけど。

 ……梓、本当に約束なしで、はっきり区切りをつけずに、やっていけるの?

「……い、いいのっ。今までと変わらなくても、私達の気持ちが変わるわけじゃないし、もし付き合えたらしてみたいなって思ってたことも、今のまま、でも……できるし……」

 明らかにうろたえた調子で、梓が言う。


 恐らく。
 気持ちの切り替えが曖昧な状態で関係を続けていったら……どこかで不安になるときが、きっとくるんじゃないかと思う。
 それは多分、一緒にいるのがほとんど当たり前みたいになったとき。
 そんなとき一度でも、本当に自分は相手のことが好きなのかとか、相手は自分のことが好きなのかとか……互いの好意を疑うようなことを、一度でもしてしまったら。
 すぐにでも約束が欲しくなるだろうけど、その頃には良くも悪くも関係は成熟してしまっている。そこで約束したって、手遅れだ。

「梓、そのことはさ……もう一回、考えたほうがいいと思う」

 だから、私は見過ごせない。人の好き好きにだって、文句を言う。
 大切な親友のためだ。大切な親友の――大切な恋。
 私はそれを応援したい。梓が心に決めた相手、律先輩とはできる限り上手くいってほしい。


 私は梓へ手を伸ばす。
 その手を握るために。梓の恋に、添えるために。


 ……でも。

「――ちょっと、トイレ」


 私の手は届かなかった。
 梓は小さな声で早口に呟くと、席を立って小走りで教室を出て行ってしまう。

 ……上手くいかないな。


 いつの間にか倒れていたペットボトルが転がって、指先にちょこんとぶつかった。

36: 2012/06/16(土) 22:29:18.96
 昇降口で梓と会う。
 一緒に帰るのは、一日ぶりか。たった一日、だけどなんだか、ずいぶん間が空いたような気もする。
 最近じゃ一緒に帰るのが当たり前になってたんだな。別に、ここで合流しようだとか、そもそも一緒に帰ろうだとかを約束しているわけじゃないんだけど。



 ……約束、か。

 最初は、何の取り決めもないのに下駄箱に向かうタイミングがたまたま同じで、結果的に一緒に帰れることに、バカみたいな言い方だけど、運命めいたものを感じなくもなかった。

 だから、なのかな……?
 学年も違う私達が、ほとんど毎日一緒に帰れるなんて偶然、それを嬉しく思ってしまって。
 だから私は、梓との間に約束なんて要らないって、そんなふうに錯覚してしまったんだろうか――?



 目を力いっぱい閉じて頭を振る。

 違う違う!
 まだ、私の思い違いだって決まったわけじゃない。

 澪と喧嘩してから、一晩考えた。
 澪の言うように、梓が私の考えを全て肯定してくれるみたいな、主体性を欠いた状態であることは……正直、ないとも言い切れない。
 それは、梓が私を慕ってくれているという証拠でもあるわけだから、その気持ちは嬉しい。嬉しいけど反面、あまり信じたくはない。

 隣を歩く梓を見る。

 聞いてやらないといけないな。梓の考えも。
 そうだ、大切な人の気持ちをちゃんと考えるっていうのは、そういうことでもあるんだ。私には、梓自身の考えを尊重する義務がある。

 繋いだ手に意識を向けた。

 私が何も言わなければ、梓は自分の本意に向き合うことに気付かないままでいるだろう。

 ……私が気付かせてやらないと。
 そのきっかけを奪ってしまったかもしれない私が、今一度ちゃんと、梓に自分の真意と向き合う機会を与えてやらないと。

37: 2012/06/16(土) 22:31:51.71
 そういえば、今日の梓はやけに物静かだ。いつもなら二人での帰り道、何気ない話題でも会話が途切れたことがないくらいなのに。
 私から話しかけていないせいもあるか?それにしたって、こんな日はちょっと珍しい。

 ……体調でも悪いのか?
 それとも考え事?

 梓の横顔は晴れない。

「梓、どうかしたか?」

 覗き込む。
 梓は目の前に現れた私の顔にはっとして……。

「……っ」


 顔を伏せた。


 ――直感する。
 前髪にほとんど隠れてしまった表情の隙間に、しかしきつく結んだ唇が見えた。

 悩み事か。
 梓は今、悩んでいるんだ。

 悩み事を抱えているときの梓は、どこか塞ぎこんだ様子で、そのくせ「何でもないです」とか言って人にそれを打ち明けることをしない。
 遠慮がちのは、そりゃもう癖みたいなものになってるんだろうけど……それでも遠慮なんてしてほしくない。そんな関係でいたくない。

 手を差し伸べる。

 それに梓は、一人で抱えた悩みを一人で大きくしていって……ある日、ふっと心を決壊させちゃうんだ。
 そんな不器用も可愛いけどさ。

 でも、できることなら悩みなんてささっと解決して、梓には笑っていてほしい。

 だから、私を頼ってくれ、梓。
 一人で悩ませたりなんて、させたくないんだ。

「あず――」


 伸ばした手で髪に触れようとした――その刹那。



 まるで、その手を払うかのように。

 梓は腕を開いたかと思った瞬間とびついてきて――私は梓に抱き締められた。

38: 2012/06/16(土) 22:36:14.32
「え、あ……えーと、梓……?」

 驚いた。
 普段は自分から抱き着いてきたりなんて絶対しないのに……何があったんだ、梓?
 落ち着かせてやろうと頭を撫でようにも、梓は私の腕ごと全身を抱き込んでしまっている。身動きが取れない。

 それどころか、梓は私の身体にまわした腕にどんどん力を込め、いっそう身体を密着させてくる。
 膝もつま先もぶつかってしまうくらいのゼロ距離。目と鼻の先には、梓の頭。髪から漂うのだろうか、鼻孔をくすぐるような香りに……今は意識を向けないようにして。
 努めて冷静に、梓を落ち着かせるにはどうすればいいか考えて、その小さい姿を見る。



 ――梓は、震えていた。
 その震えは断続的で、これだけ近寄っていてもすぐには分からないくらい小さいもの。


 ……なにが、梓をこんなに不安にさせた?

 震えが小さくても分かる。身体を密着させなきゃ気付かないような小さい震えでも、その不安は些細なものじゃない。昨日会えなかったことに寂しさを感じただとか、そんな可愛いものじゃ断じてない。


 何があった。
 どうしたんだよ、梓。


 ……まさか、約束のことか?
 ひょっとすると、梓は昨日のうちになにかがきっかけで自分の本意に気付いて、それがやっぱり、私とちゃんと付き合いたいっていう気持ちで、でも私の手前その本音を言い出せずに……?

 私まで不安になってくる。嫌な予感が胸をよぎる。まさかとは思いつつも……他に梓が抱える懸念事なんて、今はそれくらいしか思いつかない。

「……約束の、ことか?」

 ふ、と、疑念が口から漏れた。


 ――梓の身体が小さく跳ねる。



 ……そう、なのか。
 全身から血の気が引くような気がした。梓に抱き締められていなかったら、その場に倒れ込んでしまいそうなくらい。


 ……やっぱり、やっぱり梓も、約束が欲しいのか?
 私は、梓に自分の考えを押しつけていたのか?



 私は、間違っていたのか……?




「――律先輩」

 か細い声で、縋るような調子で、梓が呟く。

 今度は私の身体が跳ねた。


 ――嫌だ、聞きたくない!

 梓は今から、私の考えを否定するんだ。
 澪にそうされるのとはわけが違う――ずっと一緒に、同じ気持ちでいられたらいいなって思ってた相手に、それを否定されるんだ。
 そんなの、耐えられない。

 逃げ出したい気持ちが全身を走る。
 やろうと思えば、梓の腕を振りほどくくらい簡単だろう……でも、そんなこと、できるわけない。
 そんなことをして、私に拒絶された梓はどうなる?私に裏切られた梓はどうなる?

 ……くそ、じゃあ私はどうすればいい……?

 頭の中がぐるぐるする。混乱に吐き気すら覚える。

 それでも梓は、私に縋る。

 ――縋るように、私を否定する。



「先輩――キス、してください」

39: 2012/06/16(土) 22:38:22.12
 どうしてだ、どうしてだよ、梓……!

 それは、梓がいま求めているそれは、ただの結果じゃないか……。
 約束の代わりに、キスをしたっていう事実を求めているだけじゃないか!
 そんな目的でしていいものじゃないだろう、そんなキスで、不安が晴れたりなんてするもんか!

 違う、梓のやっていることは、それは間違っている……!


 ……止めなきゃ!
 ここでキスをしたら、私達はもう元通りの関係には戻れない。約束の代わりのキス、そんなの、結局不要に私達を縛りつけるだけなんだ――!

「待て、梓……!」

 私は梓を身体から引きはがして、その肩に手を置いた。








 ――その表情に、心臓がどくんと爆ぜる。


「……ごめん、な、さい……」


 それは、涙。
 梓の頬を、涙が伝っていた。


「……なんで、謝るんだよ……」

 違う。
 そんな言葉がほしいんじゃない。


 いいんだ。謝らなくても。

 ……分かっていたんだろう、梓。

 そのキスが、私達の関係を壊してしまうものであることを。
 分かっていながら、行動に移してしまったんだろう。
 それがもどかしくて、自分が嫌になって、泣いてしまったんだろう。





 そんなの、どうして責められる。無理に決まってる。

40: 2012/06/16(土) 22:40:16.58
 ――話をさせてくれ。梓と話がしたい。

 約束がほしい、それが梓の本当の気持ちだっていうんなら、私はできる限りその気持ちを汲んでやりたい。
 梓の気持ちに、応えてやるんだ。

 二人でその不安を晴らそう。
 今なら間に合う、私達の関係は……まだ壊れてもいなければ、これから育てていくものなんだ!




 だから、梓。

 そんなふうに、後ずさりするのはやめてくれよ。

 逃げなくてもいいんだ。


 逃げなくたって、いいのに……。






 ――けれど、梓は踵を返して、走って行ってしまう。
 虚空に涙の雫を残して、私の手からするりと抜けていってしまう。

 想いは届かない。
 それは、私達の間に約束がないからなんだろうか。私の馬鹿げた思い違いが、梓を巻き込んでしまったせいなんだろうか。

 ……これで、終わり?

 嫌だ、そんなの、嫌だ……。


 梓と二人で確かめた。何より大切なのは、好きだっていう想いなんだって。
 私の想いはまだ冷めていない。冷めるどころか、いっそう強く募るばかりだ。
 だからまだ、諦められない。ここでお終いなんて、絶対にごめんだ。


 ……それでも、唇が強張る。泣きたい気持ちでいっぱいになる。

 梓。
 私のこと、嫌いになったかな……?
 もうダメだって、思っちゃったかな……?



 ああ、そうか。


 こんな不安も――約束がないから、生まれてしまうのか。

41: 2012/06/16(土) 22:41:19.98
梓「約束の話」(中) おわり

45: 2012/07/17(火) 14:52:47.34
「あずにゃんとりっちゃんのこと、聞いた?」

 夕飯の後片付けが済んで、お風呂が沸くのを待つつかの間のひと時。
 机にあごを乗せて頭を揺さぶるお姉ちゃんが、ふと呟いた。

「うん、梓ちゃんから聞いたよ。でも付き合ってるんじゃないんだよね」

 テレビから視線を移す。
 お姉ちゃんの表情は、どこかぼんやりとしていた。お腹がいっぱいなせいもあるのかな、ちょっと眠たそうだ。

「付き合う……付き合う、かあ。そうなんだよね」

 揺れていた頭がぴたりと止まる。

「どうかした、お姉ちゃん?」

「うん、りっちゃんもちゃんと考えてるんだなあ、って。私は誰かとそういうふうになるって、まだ想像もできないから……りっちゃんの考えてることはすごいなーって」

 そう言ってお姉ちゃんは、頭を持ち上げて湯呑みに口をつけた。
 ず、と、小さくお茶を啜る音。

「付き合う、って……なんなんだろ。そんなに大事なものなのかなあ」


 ……私は昨日の昼休みを思い出す。梓ちゃんから私と純ちゃんに、話をしてくれたときのことだ。

 律さんとの関係を説明する梓ちゃんは照れくさそうにしていて、でもそれ以上に幸せを隠しきれないみたいな様子で。
 それが私にはとても微笑ましかった。まるで自分のことみたいに嬉しかった。


 ――大切な人が幸せそうにしている。それが、嬉しい。


 そう感じた。

 ……そのとき感じたのは、それだけ。
 律さんの独特な考え方に,、何かを感じたりはしなかった。


 だから私も、お姉ちゃんと同じで律さんの考えには感心するばかりだ。
 好きな人とどうなりたいか、どんなかたちで一緒にいるべきかなんて――今まで考えたこともなかった。

 だって生まれてから今まで、私とお姉ちゃんはずっと姉妹で、家族だった。
 それは、この先どうなったって変わることじゃない。
 好きな人、大切な人と、私はいつまでも同じ関係でいられるんだ。だから。

46: 2012/07/17(火) 14:53:49.40
 ……違うな、そうじゃない。

 私の想いと律さんの想いは別物だ。
 私のそれは家族に向いた愛情で……恋愛感情とは違う。
 恋愛感情がどういうものか、私にはまだはっきりとは分からない。でも私がお姉ちゃんを好きだっていう気持ちは、律さんと梓ちゃんの間にある気持ちとはやっぱり違うんだ。


 うっかりしていると、家族愛とそうじゃない気持ちを一緒くたにしてしまいそうになる。

 ……まだまだ子供だな、私は。
 薄く苦笑いを浮かべた。

「ねえ、憂」

 と、ぼんやりしていたお姉ちゃんの目線がこちらを向く。

「なあに、お姉ちゃん?」


「憂は私のこと、好き?」

47: 2012/07/17(火) 14:55:00.70
 私はテレビの音量を少しだけ下げた。


「――うん。好きだよ」


 お姉ちゃんに微笑みかける。
 本心を告げた私にお姉ちゃんはへへ、と頬を緩ませ、

「私もだよ。私ね、澪ちゃんのこともムギちゃんのことも、純ちゃんのことも憂のことも、和ちゃんのこともさわちゃんのことも――りっちゃんもあずにゃんも、みんな大好き」

 それは再び、ぼんやりとした調子で。お姉ちゃんは言った。

「みんな、家族だったり友達だったり、大切な人だもんね」

「うん。でもさ、例えば軽音部のみんなとは友達だけど……『友達になろう』って、約束しあったおぼえはないんだ。気が付いたときにはもう友達だったもん」

 ひと呼吸。
 お姉ちゃんは湯呑みの取っ手を指でなぞり、

「憂はどうだった?あずにゃんや純ちゃんと」

 首をちょっとだけ傾けて、私に問いかけてきた。


 ……そういえば。どうだったかな。

 二人と初めて会ったときのことを思い出す。

 始業式の日に、たまたま近くにいたから。
 同じクラスだったから。
 二人とも、お姉ちゃんのいる軽音部に興味があったから。

 ……知り合ったきっかけは、そんなところだけど。その後仲良しになるまでに、特別何かがあったわけじゃない。
 私たち三人も、友達になるために約束を交わしたりはしていなかった。

 思えば中学のときだって、小学生のころだってそうだ。
 友達になるために、その人が自分にとって大切な人になるために、約束を必要とはしなかったんだ。

「私も、そうだったな。気が付いたら友達だったよ、梓ちゃんも純ちゃんも、他の友達とも」

「そっかあ……うん、やっぱりそうだよね。友達とか、大切な人って、そういうふうになるものだよねえ」

 お姉ちゃんの呟きに頷きで答える。

 結局のところ――人と人との関係っていうのは、そういう自然な流れによって作られていくべきなんだろうと思う。
 なろうと思って親しくなるんじゃなくて、気が付けばその人と親しくなっていた、みたいな――最終的にはそういうふうに作られた関係が、何より親密なものになっていくんだろう。


 ――でも、

「でも、お姉ちゃん」

「ん、なあに?」


「律さんと梓ちゃんみたいな――恋愛関係も、そうやって自然に作られたほうがいいと思う?」

48: 2012/07/17(火) 14:59:31.88
 純ちゃんは二人の関係に懐疑的だった。
 けど、私は純ちゃんと律さん、どっちの考えが正しいのかなんて分からない。

 常識はずれな律さんの考えは斬新ですごいとは思ったけれど、その良し悪しまでは……分からない。

 人と人との関係は自然に形作られていくべき。それは友達だとか仲間だとか、そういう関係にだけ適応する考えなのかもしれない。

 だって、友達として相手を大切に思う気持ちと、恋愛の対象として愛しく思う気持ちは――



「うん。りっちゃんとあずにゃんでもそうだよ。私は恋愛関係でもおんなじだと思う」



 ――お姉ちゃんはそう言って、テレビのボリュームを上げた。


「おんなじ……?」

 リモコンを机において、お姉ちゃんが「そう」と答える。


「うん、おんなじ。りっちゃんとあずにゃんが想い合ってる“好き”も、憂が純ちゃんとかあずにゃんに想ってる“好き”も――私が憂に想ってる“好き”も。ぜーんぶおんなじだと思うんだ」


 ……そのとき数秒、大きくなったはずのテレビの音がとても遠くに聞こえた気がした。

 お姉ちゃんは、すごい。

 私は無意識のうちに住み分けしていた。当たり前みたいに、そうするものだと思っていた。

 でも……お姉ちゃんは違った。
 お姉ちゃんのなかでは、友情も、恋愛感情も、家族愛ですらも、おんなじ「愛情」なんだ。人を大切に思う気持ちを当たり前みたいに、区別しないんだ。


「そっかあ……素敵だね」


 ……恋愛感情をまだ知らない私だけど、お姉ちゃんの考えはとても大きく胸に響いた。

「うん。だから私、“約束は要らない”っていうりっちゃんの考え方、いいなたって思うんだ……あ、お風呂あがったらりっちゃんにメールしよっと。“私と憂はりっちゃん達のこと応援してるよ”って、言っとくね」

 お姉ちゃんは湯呑みを持って立ち上がる。

 頷きをひとつと、「よろしくね」とだけ、私はお姉ちゃんに告げた。

59: 2012/09/16(日) 22:42:27.33
 目を覚まして携帯を手に取る。
 メールが一件と……時間は夜の11時過ぎか。まずいな、こりゃ。明らかに寝過ぎだ。

 でも……そのまま携帯を枕元に伏せ、私は枕に顔を突っ込んだまま動けない。

 頭が重たい。
 いや、逆に風船みたいに浮かんでいるような気もする。

 ……いいや、そんなのどうでも。とにかく地に足がついていない感覚だけ。
 顔を押し付けた枕にため息をゆっくりぶつける。ぬるく湿っていく布の感触が気持ち悪い。
 思わず寝返りを打って仰向けになった。


 ……なんだ、動けるじゃんか、私。

 体が動かないから今まで不貞寝していたつもりが、実のところただ動きたくなかっただけなんだよな。


 バカみたいだ。

 こんなの、本当なら私がしていいことじゃない。
 投げ出したいのも、目を背けたいのも、梓のほうじゃないか。
 ましてや梓にそんな感情を抱かせたのは――私だ。


 ――全部、私のせいなんだ!


 そんな私に、こんな甘えた真似……許されるわけがない。
 不貞寝なんてしている場合じゃない。

「あぁっ……!」

 かすれた声でも、吐き捨てるように叫んで体を起こす。

 考えろ。
 私がこれからすべきことを。
 梓のために、私たち二人のために――



「……あるの、かな……そんなこと」


 背中にゆっくりと寒気が這いまわった。


 ……ひょっとして、また私は思い上がったのか。
 梓のためだ、なんていうのは言い訳で、本心は私がただ梓と離れたくないっていうだけで……。

 ――梓はもう、私とは一緒にいられないって、諦めてしまったのかもしれないのに。

「……あ」

 勝手に漏れた声はうわずっていた。呼吸が震えている。


 私にできること、か。

 今の私が本当に梓のためにできることなんて……そうだな、一つだけなのかもしれない。


 ――別れを告げること。

 ごめんねと、ありがとうと、さようなら、と。

 こんな関係、終わりにしてあげるのが、梓のためなのかもしれない。



 ……むしり取るみたいに、シーツを握る手に力がこもる。

 分かってる。

 そんな後ろ向きな考え方、それこそバカげているっていうのは、分かってる。


 ……分かってるのに、なんでそんなこと、考えずにはいられないんだ。

60: 2012/09/16(日) 22:43:36.59
 ポケットに入れたままだった携帯が振動した。
 そういえば、自分の部屋に入った矢先にコートとブレザーの上着だけ脱いで、そのまま寝たんだっけか。

 ポケットを探って携帯を取り出す。
 どうやら電池残量が少ないという警告のバイブレーションだったみたいだ。そのまま畳もうとしたけど……けど、左上に新着メールの通知マークを見つける。寝てる間に届いていたらしい。

 ……誰からだろう。

 澪か、それとも……梓?

 カラカラの喉に生唾を流しこむ。

 澪でも梓でも見るのは怖いけど……そうだ、本文まで見なくてもいいじゃないか、ひとまず誰からメールが着てるのか、それだけ確認しよう。
 くそ、たかがメールを見ることすら、いちいち心構えなしにはできないのか。

 せめて画面から目線を逸らすことだけはしないと決めて、私は決定キーを二回押す。

61: 2012/09/16(日) 22:44:29.17

『From:平沢 唯
 Sub:りっちゃー( ´∀`)σ)∀`)んっ』

62: 2012/09/16(日) 22:45:46.06
 ……唯か。
 情けないことに、正直安心した。
 メールが澪からでも梓からでもなかったことと、何よりいつもと変わらない、その呑気な文面に。
 決定キーをもう一度。


『平沢家姉妹は、りっちゃん隊員とあずにゃんの恋を応援します!!             でもたまには私にもあずにゃん貸してね♪♪』


 どこまでも、唯らしいメールだった。やっぱり私はその唯らしさにほっとする。

 そっか、憂ちゃんも、か。あの娘は梓の親友だもんな。そんな憂ちゃんが応援してくれるのなら心強い。


 ……でも、それは、本当に?
 今日、私が梓を泣かせたことを知ったら?それでも二人は私たちのことを応援し続けてくれるんだろうか。


『本当に、本当に応援してくれる?
 私、間違ってないかな?

 約束なしでも梓とやってけるのかな?』


 半ば反射的に、すがるような気持ちで私は返信のメールを打った。

 送信キーを押す。
 こんな時間じゃ返事はこないかもしれないなんてことは、その直後に気付いた。特別寝ぼけているわけでもないっていうのに、頭はさっぱり働いていないのな……。


 ――と。
 再び枕元に置こうとした携帯が振動する。

 驚いて画面を確認すると、そこには新着メールの通知があった。

63: 2012/09/16(日) 22:47:31.23

『だいじょおーーーーーーぶっ!』

 ……まばたき。

 二度、三度。



「なんだぁ、そりゃ……」

 踏ん張っていた力がずるっと抜け落ちる。
 肩を伸ばして背中を丸めて、うつ伏せになって膝小僧にため息を吐いた。

「はあ……」

 ……なんてメールを送ってきやがる。


 それは、どうしようもないくらい無責任で投げやりな文面だった。
 事情も知らないクセに、何を根拠にこんなことが言えるんだか。

「あ……は、ははっ」

 ――でも、息を吐ききる瞬間、口からは勝手に笑みが零れた。 

 怒るよりも、八つ当たりよりも、そのメールが私にくれたのは安堵と呆れ。


 唯らしいな、こういうの。
 唯の無鉄砲な強さが、今の私にはとても心地いい。
 不思議と腹が立たないのは、ある意味唯の凄いところだな。

 唯はこういうやつだから、何の根拠もないのにいつも自信満々なやつだから、私の気分を変えてくれる。

64: 2012/09/16(日) 22:49:00.36
 頭に昇ってた血が抜けたかな。少し心に余裕ができた気がする。


 ……って、冷静になってみりゃ私はいきなりなんてメールを送ってんだ。
 いきなり質問攻めって、あんなメール深夜に来たらふつう困るよな。

 それにあんな適当な文面で返すなんて、どうなってんだ唯のやつは。本当に笑うしかない。


 そんな唯に、言いたいはいっぱいあるけどけど……背中を起こして顔を上げる。


『To:平沢 唯
 Sub:ごめんさっきのナシねぼけてた』

 一番言いたいこと、お礼を言うのはまだ先かな。

69: 2012/10/05(金) 03:43:23.93
 ――憎むよりも先に、悲しむよりも先に、怒りよりも先に、嘆くよりも先に。

 私のために。


 梓のために。


 私がするべきこと。

71: 2012/10/09(火) 13:21:49.46

「おまたせ」

「……遅いぞ」

「ごめんごめん、レジ混んでてさ。ほい」

 ホットのペットボトルを手渡す。

 受け取った澪はかじかんだ手を暖めるためにか、両手でそれを握った。

「すぐ冷めちゃうぞ、そんなことしてたら」

 紅茶の温度に安心したようなため息をつく澪を尻目に、私は早速オレンジ色のキャップを捻った。


「……それで?」


 口を開いた澪は手すりに肘を置いて背中を丸め、眼下を流れる川を見下ろす。
 私は手すりに背を預けるようにして肘を置き、夕焼けを見上げてそのそばに。



 いつもの橋の上で、私たちは話し始める。

72: 2012/10/09(火) 13:25:09.54
 朝。
 教室に入って自分の机に鞄を置き、机の中をあさって教科書の整理をしようとしたところに、

 「りっちゃんおはー」

 背後からの声。
 振り向くと少し先に、唯がいた。

「んー、おはよ」

 小さく手を振る唯に手を挙げて返した。それを見て唯が駆け寄ってくる。

 昨日、私が”寝ぼけてた”と送ったのを最後に、唯から返信は来なかった。
 だから、ってわけじゃないけど唯のやつは……やっぱりいつも通りだな。

「眠そうだね」

 ……ん、そうかと思えば、あんがい鋭い――って、いや、そういうわけでもないか。
 声は掠れているし、実際あれからあんまり寝ていない。朝、鏡見たときは自分じゃ分かんなかったけど、ひょっとしたらクマなんかもあるのかな。 

「ちょっと夜、考え事しててさ。午前中の授業は寝るからよろしく」

 私は正面に向き直って鞄と机の中身の整理を続けようとした。

 唯との会話はこれくらいで終わるだろう。事実、私に「そっか」と告げた唯のトーンに会話を続けようという気配は薄かった。
 唯はたいてい、教室に入って鞄とギターケースを自分の机に置いたらクラスのみんなに挨拶してまわっている。たぶん次は和あたりの席まで行くんだろうな。律儀というかは人懐っこさゆえの行動だろうけど。

 す、と、唯が背後から歩き出す気配を感じた。その向かう先はやはり和の席の方角だ。
 視界の端に、私の横を通り過ぎようとする唯が映る。


「りっちゃん」


 ――小さく唯が呟いた。通り過ぎるその間際にだ。

 そして私が唯へと顔を向けるよりも前に、もう一言。



「がんばれ」



 小さく。だけど力強く。唯の囁きが胸に響く。




 なんだよ、もう。

 私の悩みなんかぜんぜん知らないんだか、それとも少しは察してるんだか。どっちなんだか分かりゃしない。


 くそ、目も覚める。

73: 2012/10/09(火) 13:30:06.29
「んー、なんて言えばいいのかな……」

 一言で済む、済む話なんだけど。

 その一言が難しい。どういえば上手く伝わるんだ?
 言葉に詰まって小さく唸る。

「ま、まさか、律おまえ……!」

 ――澪がすごい顔を向けてきた。

「ああ、違う違う!そうじゃなくて」

 慌てて手を振る。
 そんなに焦んなって。

 ……焦ってるみたいな澪の様子じゃ、言葉を選んでるヒマはないか。先に結論だけ言って落ち着かせなきゃな。細かい説明はその後だ。


「大丈夫――終わったよ。もう、大丈夫」


「お、終わった?!終わったってどういう――」


「あ?……あ、ああ!ごめん違う、そういう意味じゃなくて!!」

 ああ、もう。

74: 2012/10/09(火) 13:41:07.44
 午後の授業が終わる。
 週明けからテストで今週は部活がやれないから……本来なら今日は、このまま帰らなきゃいけない。

 でも、

「――律」

 荷物を詰めた自分の鞄の口を閉めたところで、背後から澪の声がした。

 ……今日、私とは一度も会話を交わしていない澪だ。

「うん。悪いけどさ澪、今日は先帰っててくんないか」

 私はいたって普段の調子で言う。
 澪が何かを言いかけるが続けて、

「大丈夫だ、って……澪相手にゃ説得力ないか、この言葉」

 続けて……ふと気付く。
 それは私が澪に何度も言って、そして何度も否定された言葉だ。

「でも、今度ばっかりは本当に。大丈夫だよ。澪の言い分もわかるし、梓の気持ちだって……そういうの全部ひっくるめて、これから話しに行くから」

「……ほんとだな?」

 振り返ると澪が今にも泣き出しそうな――って、なんで澪が泣きそうなんだよ。
 少しびっくりした。

「ああ、ほんと。話してそれで、どうなるかはわかんねーけどさ」

「じゃあ律……明日、会えるか」

「え?あ、明日?」

 どういうことだ?

「明日、聞くから……お前が梓に何を言ったか、それで、どうなったのか」

「いや、まあいいけどさ……」

 そういうことなら……そりゃ澪には話さなきゃいけないだろうな。言われなくても、遅くてもテスト明けくらいにはみんなに事の顛末を伝えるつもりだったし。

 けど、ちょっとはテスト勉強とか私にさせる気は……まあ、いまさらそんなもんないのか。

75: 2012/10/09(火) 13:47:29.67
「……分かった、じゃあ順を追って話してくれ。聞くから」

「ん、ああ、そうだな。そうしたほうがいいか」

 あ、ひとまずは落ち着いてくれたな。

 変に慌てられたせいかこっちも変に慌ててしまったせいか……喉の渇きを感じる。
 紅茶をもうひと口。
 
「澪も飲んだら?」

 澪の手に握られているペットボトルはまだ開けられていない。
 ……おいおい、それ、私の奢りだって忘れてないか?

「……聞いてから飲むよ」

 それじゃ冷めちゃうんだって。

78: 2012/10/10(水) 01:37:19.28
 ガラス越しに小さな頭が見える。

 私は心底ほっとした。

 扉の向こうでその姿が止まる。


 ……なかなか扉は開かない。

 もしそこで引き返されたらどうしよう?
 すっ飛んでいって捕まえるか?いやいや、そんな、猫じゃあるまいし。

 そんなことしたら怖がるに決まってる。
 信じよう、引き返さないで扉を開けてくれることを。


 ――なんて思っていると、その矢先。ゆっくり扉が開く。

 そうして梓が、部室に入ってきた。

79: 2012/10/10(水) 01:38:13.79
「よ、梓」

 梓は後ろ手で扉を閉める。

「……こんにちは、です」

 そして、そのままそこから、動かない。

「来てくれてよかったよ……ありがとう」

 私は長椅子に腰掛けて微笑みかける。



 歩けば数歩、たったの2、3メートル。

 それが私と梓の距離。


 それは本当に、近くて……それでいて今は遠い。

 たったの数歩で済むのに、最初の一歩が途方もなく重たいんだろうな。
 今、梓の足には鎖が絡んでいるようなものだ。

「……昨日は、すいませんでした……取り乱して」


 それでも、梓はここまで来てくれた。

 重たく絡む鎖を引きずりながら、その苦しさに耐えながら、私に会いに来てくれた。

「うん。いいよ」

 ……それだけで、十分だもんな。


「……あ、」

 梓は身を乗り出そうとしたかと思うと、その瞬間に諦めて丸めた背を戻し、代わりに頭を垂れて目線を下げた。伏し目の表情と、その口から言葉にならない、上ずった声が聞こえる。

 その様子は、まるで本当に足を縛られて――その場から一歩も動けないみたいだ。

 梓はその視界に自分の足元を映す。



 その端っこに、私の足先くらいは入っているのかな。

80: 2012/10/10(水) 01:38:55.93

「ん、ちょっと待て律」

「なに?」

 澪が私のほうを振り返る。

「なんでお前と梓は部室に行ったんだ、待ち合わせでもしてたのか?」

 ……あ、そうか。そこを説明してなかったな。

「昼休みにメール送っといたんだ、『放課後に部室で待ってる』って」

 朝一番に送れば、それはそれで梓は丸一日落ち着かないだろうし、かといって放課後になってから『部室にいるぞ』じゃ間に合わないかもしれない。
 メールを送ったら梓の気分が少しでも落ち着くのか、と言われればそれも微妙だけど……何にせよ状況は私から変えなきゃいけなかったわけだし。





「……卑怯だなあ」

 息を吐いていっそう背中を丸める澪。

「んなっ」

「……でも、そう言うしかないのか」

「そ、そうだよ」


 分かってるならなんで卑怯呼ばわりとか!

81: 2012/10/10(水) 01:39:33.34
 さて、どうしたもんか。

 ――ここまで来てくれただけで、もう十分なんだ。梓は十分勇気を出してくれた。
 仲直りのためには、あとは私が動かなきゃ。

 いつかみたいに、梓の勇気に応えなきゃ。


 ……なんだけど。どうしたもんか。

 立ち上がって梓に歩み寄るのも……きっと梓は後ずさりしたり、私に怯えるんだろう。

 駆け寄って怯える暇も与えないうちに梓を抱きしめちゃえばどうだ?

 強引に宥めてその場は落ち着かせられるかもしれないけど……そういうのは最後の手段にしたい。


 いや、手段を選んでられるような状況でもないんだろうけど。
 それでも何か。もっといい方法は……?




「――ふわ、あ」




 ――授業中も休み時間も、昼休みにだってずっと考えていて、それでも思いつかなかった最善の方法。

 それを今になっても考えているうち胸と喉が震えて――私の口からは、欠伸が出た。


「……え」

 梓が目を丸くしている。

 時間が止まる。同時に私の頭の中身も、真っ白に霧散する。


 ……嘘だろ。
 やっちまった。
 どうしよう。
 言い訳、そんなのしようがない。
 どうする。

 どうする。

 浮かぶ考えは何一つ捕まえられない。
 せいぜい『何か言わなきゃ』『無言がいちばんヤバい』というだけ……恐らく3秒かそこらで私が理解できたのは、それだけ。


 そして、

「ご、ごめん……昨日、あんまり寝てなくって」


 そして、あまりにもあんまりな言い訳が漏れた。

82: 2012/10/10(水) 01:40:00.10
 開いたまま塞がらない口から、勝手に息がこぼれていく感覚があった。

 ……なんなんだろう。さっきまでとはまったく違う気分だ。

 こんなときに、欠伸、こんなときに?


 メールをもらったとき……私と律先輩が今後どうなるのかは――仲直りできるのか、それとも好き同士の関係はもう終わってしまうのかは――今日、決まるんだと思っていた。
 律先輩はそのつもりで私にメールしたんだと思っていた。だから私は勇気を出してここまで来た。それなのに。

 私の決意って、なんだったんだろう。
 

「……はあ」


 喉を震わせて息が零れた。
 それと同時。




 ――脚が、動く。

 一歩、二歩。まるで鎖なんか、無いみたいに。



 はっとする。

 そうだ、鎖なんてそんなの――最初から無かったじゃないか。


 もう一回動き出すのはたぶん驚くくらい簡単だから、一度足取りを止めて。
 思う。

 そうだ、この気分。


「――しょうがないですね、律先輩は」


 いつもとおんなじだ。

83: 2012/10/10(水) 01:41:41.55
 私を見上げる律先輩は、目をぱちくりさせていて。


「もう。そんな表情したいのは私のほうですよ」

 覗きこむ。
 昨日のあのときと、同じくらいの近さに律先輩の顔がある。

 昨日と同じで、驚いた顔。

 でも、今眼の前にあるのは、眉間に皺が寄っているわけでもなければ唇が強張っているわけでもない……なんてことはない表情だ。

 微笑ましいくらいに、愛しい表情だ。


「――律先輩」


 そんな表情は、どうやら顔を近づけたくらいでは固まったままらしい。
 だから、


「……んむっ」

 私は両手で先輩の頬を挟み込んだ。
 間の抜けた声をあげて律先輩の顔が崩れる。

「ちょ、あずさ……」

「いつまで固まってるんですか、もう」

「あ、うん、ごめん……」

「話、あるんですよね。私ならもう……大丈夫ですから。聞かせて下さい」

「うん……」


 つぶれたままの顔で律先輩は、「話ってほどのことじゃないんだけど」と続けた。

84: 2012/10/10(水) 01:43:27.79
「――で?なんて言ったんだ、律は」

 澪の質問はさっきから矢継ぎ早に感じる。
 順を追って説明しろ、って言ったのは澪じゃないか……誤解されないように、丁寧に話してるつもりなのになあ。

 じゃあなんだ、ちょっと説明を大雑把にしてみようか。



「え、ああ、えーと。『じゃあ膝枕してくんない?』って言った」


「――はあっ?!」



 ……すごい形相で睨まれた。
 なんというか、まあ案の定ではある。省くにしてもタイミングが良くなかった。

 いやいや、でもふざけてるわけじゃなくって、

「そうしたほうがいいと思ったんだよ。お互い緊張しないためにもさ、リラックスしたムードっていうか」

「……そうしたかっただけって気持ちは?」



「……7割くらい?」

 拳骨が飛んできた。

85: 2012/10/10(水) 01:44:24.23
 長椅子に腰掛けた梓の膝に頭を預ける。
 仰向けになると、少し恥ずかしそうな表情の梓がこちらを見下ろしていた。

「どした?」

「いえ、なんで膝枕なのか、とかはもういまさらですけど、恥ずかしいなって……」

「そっか」

 私は昔から澪にやらせてるから慣れっこだけど、梓は軽音部に入るまでこういうスキンシップって経験したことなかったんだろうな。

 ……ふふ、待ってろ、そのうち当たり前みたいにさせてやる。


「……ん」

 もそ、と、梓の脚が小さく動く。
 こつん、と、後頭部に骨の感触。

「……ちょっと硬いな」

 それはたぶん、梓が痩せ型なせいでもあるんだろう。

 でも……きっとこの枕が硬いのはそればっかりが理由じゃない。

「悪かったですね……硬くて。澪先輩みたいじゃなくって」

「お、拗ねた?」

「知りませんっ」

 瞬間、ほんの少しだけ硬さが和らぐ。




 ……緊張、してんだなあ。

 慣れない膝枕をしている状況もなんだろうけど、そもそも私たち……解決すべき問題にまだ触れてもいない。

 それが不安なんだろうな。
 きっと脚だけじゃなくて、まだ全身強張り気味ではあるんだろう。

「……でもさ、梓」

 寝返りを打って、横に。
 梓が小さく、ぴくんと跳ねた。

86: 2012/10/10(水) 01:46:22.17
 目の前にはブレザーの紺色が広がる。
 そして、ぼんやりとした温度。

「り、律先輩……!」

 この体勢じゃ表情は見えないけど……それでも梓の声から困惑した様子が分かる。
 自分でやっといてなんだけど、こりゃ相当きわどいところに顔向けてるな、私……。

 さておき、だ。


「――私はこれがいい。梓のが、いい」



 色んなことがあった。

 心配させて、悩ませて、しまいには泣かせちゃって。


 考えた。

 私はどうするべきなんだ?
 私が一番に優先するべきことは?

 ――憎むよりも先に、悲しむよりも先に、怒りよりも先に、嘆くよりも先に。

 私のために。

 梓のために。


 面倒は無しだ。

 一番大切なことを今一度、確かめよう。



 再び寝返りをうつ。
 少しむすっとした表情の梓を仰ぎ見る。

 そして、言う。たったひとつの言葉に、ぜんぶを包んで。

「梓、好きだよ」

87: 2012/10/10(水) 01:47:34.95
 梓が好きだ。大好きだ。

 それは、何にも代えられない私の気持ち。


 約束だとか、付き合うだとか……結局その必要性は分からない。

 初めは約束なんてないほうがいいと思ってた。
 でも、そればっかりじゃないってことも思い知った。一度は、梓が望むなら約束なんていくらでもしてやる、とさえ思った。

 それでも私の意地は立ちはだかった。
 本当にいいのか、と、自分に問いかけた。
 約束を交わすことで梓にあげられる安心なんて、その場しのぎでしかないんじゃないか。


 ぐるぐる、ぐるぐる。
 気持ちは堂々巡りを繰り返してまとまらなかった。

 ――そう、堂々巡りなんだ。答えなんて出せるはずがない。一人じゃ。

 だから、

88: 2012/10/10(水) 01:53:33.47
「――ね、梓は?」


 ……そんなの。

 そんなの、そんなの!
 決まっている。ずっと変わってない。

 面と向かっては二度、口にした。
 ずっと胸のうちにあった気持ち。

 それが今一度、理屈や理由を考えるより先に、溢れ出す。

「好き――好き、律先輩のこと、好きです!」



 考えていない訳じゃなかった。

 ――私たち、これからどうなるんだろう?

 催促したかった。

 ――何を話すんですか、先輩?


 ……でも、この一瞬ばかりはそんなの、忘れた。
 まるで脊髄反射みたいにして三度目の告白を終えた途端に、気持ちがぐらりと角度を変える。





 ……記憶をさかのぼって、思い出すのはあの日。秋の終わりをその身に感じた、少し前の帰り道。

 律先輩と手を握り合って、私は確信したんだった。
 こんな風に、何を考えるよりも真っ先に出てくる気持ちが――好きだっていう想いが、何より大切なんだって。

 確信はもう一度私のなかで色を帯びる。
 そうだ、ぐるぐると……目が回りそうなくらい分からない事だらけ、自信のないことだらけ。
 でも、そんななかでも確かなものが、絶対に間違いのないことが、ひとつだけあった。

 それは、とてもあたたかくて、強い想いだった。

89: 2012/10/10(水) 01:55:03.88
 ――頬があたたかい。視界が霞む。

 歪んだ視界のそのまま、眼下の律先輩は、私の頬へと手を伸ばす。

「……泣かせちゃうのは二度目だな」

 ぼんやりしたなかでも分かる。先輩は苦笑で私を見ていた。

 ……止まれ。止まれっ。

 私は制服の袖を握った。振り払ってやる。
 昨日の今日で、そう何度も泣いてるところなんて見せるわけには――


「ああこら、乱暴に拭うと目腫れるぞ。じっとしてろ」


 固い生地の袖がまぶたを拭うより前に――霞んだ視界が元通りになる。
 先輩の人差し指が、ゆっくりと私の眼の下をなぞった。

「昨日はなんで、なんて言ったけどさ。ひどい言い草かもしれないけど、今はいいんだ――好きなだけ泣いて。ありがとうな、梓」



 ――頬があたたかい。

 涙の温度は、きっと溢れ出す気持ちとおんなじなんだろう。

 私の想いが、律先輩の想いが、あたたかいから。

 感じられるその温度がただ嬉しくて、幸せで、私の涙は止まらない。

90: 2012/10/10(水) 01:55:36.56

「……終わり?」

「うん」

「……それで、いいのか」

「うん」

「結局なんにも、変わってないぞ」

「分かってる」

「……そうか」

 そこでようやく澪はペットボトルの蓋を捻った。

「……じゃあ、もう私が首を突っ込むことはないよ」

 澪は橋の下を流れる川の、その行く先を真っ直ぐ見つめている。

 腕を跳ねて体を起こした私に目線を合わせようともしない。

「幸せにしてやれよ」

 そのまま澪が呟いた。

「おう、当たり前だ」

「……頼むぞ」

 もう一度短く、おう、と返事。

 ありがとうも、ごめんも……澪には言うべきじゃないと思った。澪はそんなこと、言ってほしくないだろうと思った。
 だから返事以外には何も言わない。その短い言葉に決意を込める。そうすることしかできない。


 蓋の開いたペットボトルは、傾くことなく握りしめられたままだ。

91: 2012/10/10(水) 01:56:52.75

「ほら梓、鼻かめハナ」

 ……決壊した梓の濁流はなかなか止まらなかった。
 ポケットから出したティッシュを渡しながら、ここまでひどいのはこれっきりにしなきゃなと強く思う。

 甲高い音を鳴らして梓は顔からティッシュを離した。

「結局、目も鼻も真っ赤になっちゃったか」

「……誰のせいですか、もう」

 がらがらの声で梓が言う。
 まあ……悪態をつける程度には落ち着いてくれたか。

「止まったか?」

「はい……もう大丈夫です」

 最後に鼻をすすって。

 梓は枯れた声と真っ赤な顔で微笑んだ。

 その様子に私は思わず吹き出してしまう。

「ぷっ」

「な、笑うなんてひどいです!」

 ……泣けと言ったのは私なのにな。確かにそれを笑うなんてひどい話だ。

「あは、悪い悪い……かっこわりーなあ、って思ってさ」

「なっ……」

 謝った矢先に輪をかけてひどい事を言った私に、梓は絶句したみたい。
 違う違う、ただからかってるだけじゃないんだぞ?

「いや、カッコ悪いっていえば私もなんだよ。ほんと、そのせいで梓には……迷惑かけた」

 頭をかきながら梓の横に座る。
 ティッシュなりハンカチなりを出すために一度立ち上がったけど、もう梓は大丈夫そうだ。だからもう一回。

 ごろんと梓の膝めがけて倒れこむ。
 およそカッコイイなんて言葉とは無縁の行為だ。

92: 2012/10/10(水) 01:57:59.59
「約束なんていらない、ってのはさ。私の理想だったんだ」

 また少し硬さのほぐれた感触に頭をあずけて言う。
 それとは別に、ちょっとだけ湿った感じがする気がしないこともないけど……。

「理想、ですか」

 相変わらずのがらがら声が頭上から聞こえた。

「うん。言葉でもなんでも、確かに交わした約束がなくったって何の問題もなくな関係を続けられたら、それってすげえカッコイイじゃんって思ったんだ」

「でも私の気持ちも律先輩の気持ちも揺らいだ……だからカッコ悪い、ってことですか?」

 半分あたり。

「そう、でもさ……そもそもカッコつけようって動機がどうかしてたんだよな。カッコイイ悪いじゃなくて、それが本当に良いことなのか、良くないことなのか。それを考えなきゃいけなかったんだ」

 理想なんかより大切なもの。そういう意味でもそれは自分の想いと、

「……で、それを踏まえて私たち二人にとって約束はあったほうが良いのかどうか。それは私一人じゃ分かんないからさ――梓に訊きたい。約束、欲しい?」

 そしてなにより、梓。

「……きっと」

 梓の想いだ。

「きっと、今すぐには決められないです。それに、私一人でも」

 その言葉は――私に重なる。

「あはは、そっか、梓も……おんなじか」

 私の想いと梓の想いは、そこで重なる。



「はい。だから私も――分かんない、です」


 そう言って梓は笑顔を見せてくれた。



 重なったらあとは、同じ道を歩いていこう。

 そうだ、私たち二人がどうあるべきかは――二人で、考えていこう。

93: 2012/10/10(水) 02:09:28.06







「律先輩」

「どした、梓?」

「さっきは分からないって言いましたけど……私、今、約束の代わりに欲しいものがあるんです」

「へ?何?」

「……今なら、大丈夫だよね……」

「なんだよ、はっきりし――」



「――キス、してください。律先輩」







 梓「約束の話」 おわり

94: 2012/10/10(水) 02:37:12.98
長らくお付き合いいただきありがとうございました。

色々荒かったり拙かったりかくの遅かったりそもそも面白いかどーか微妙だったり遅筆だったりと散々ですがちょいとでもお楽しみいただけたなら幸いです

言い訳は地獄でする

それではまた

95: 2012/10/10(水) 03:41:40.47
乙でした。とても素晴らしい律梓を書いていただき誠にありがとうございました。是非ともまた素晴らしい作品を書いてください。

引用元: 梓「約束の話」