1: 2012/10/12(金) 19:25:06.02
『人は一人きりで生まれ、一人きりで氏んでいく』


そんな言葉を、漫画やドラマで何度か見たり聞いたりした事がある。
実際、それが事実なのかどうかは分からない。
生まれて来た時の事なんて憶えてないし、自分が氏ぬ時の事だって想像出来ない。
誰かと話した事は無いけど、誰だってそうなんだろうと私は思う。

まあ、正直に言わせてもらうと、そんな事は別にどうでもよかった。
難しい事は無理して考えちゃ駄目なんだ。
下手に悩んだって、ろくな答えが出ない事くらい、勉強が苦手な私にだって分かる。
どうしても分からない事は分からないままでいい。
それが私の人生哲学だし、それで今まで何の問題も無く生きて来られた。
だから、そのままの私でこれからも生きていけるんだろうな、って何となく思ってた。

でも、私は知らなかった。
どうしても分からない事は分からないままでいいけれど、
どうやったって分からない事を、真剣に考えなきゃいけない事態に直面する事があるんだって事を。
どんな奇想天外で無茶苦茶な状況でも、頭を捻って答えを出さなきゃいけない事があるんだって事を。
例えそれがとても褒められた出来じゃない頭の悪い答えだとしても。
何が何でも自分なりの答えを出さなきゃ事態に直面する事があるって事を。
それを私は知らなかった。

ぶっちゃけ、一人きりだと途方に暮れたままだっただろうと思う。
こう言うのも何だけど、私は一人ぼっちに慣れてない。
私は友達と遊ぶのが好きだし、何をするのも友達と一緒だった。
そんな大切な仲間が居るから、私は高校生活も楽しく過ごす事が出来たんだよな。
一人じゃ不安で寂しくて、ひょっとすると大声で泣き出してしまっていたかもしれない。
一人きりで隅で震えてるだけだったかもしれない。
情けない限りだけど、もし一人きりだったらそうなっちゃってた自信がある。
https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1350037505/

2: 2012/10/12(金) 19:25:27.37
だけど……。
私は苦笑して、私の肩にもたれ掛かって眠るこいつに視線を向けた。
この何日かの間で今まで知らなかった顔や想いを私に見せてくれたこいつ。
突然の災難に途方に暮れそうだった時、私の傍には何故かこいつが居た。
あいつ自身もその理由が分かってないみたいだったけど、とにかくこいつが傍に居てくれた。
それだけで、私は安心して『どうやったって分からない何か』に目を向ける事が出来たんだ。
まあ、その分、こいつに色んな事で振り回される事になっちゃったんだけどな。
でも、それはそれでご愛嬌ってやつになんのかな?
おかげで退屈しなくて済んだしな。

だから、私はこいつに感謝してる。
私と同じくらい背が低くて、髪が短くて、意外とお洒落で、
一緒に居ると面白くて、安心出来て、でも、不思議とまだ短い付き合いのこいつに。
起こさないように髪を撫でて、少しだけ感謝の気持ちを示す。
そういや、こいつとこんな事になった時も、こうやって頭を撫でた事があったっけ。

そうして、私は想いを馳せる。
こいつと過ごした奇妙で不思議で悲惨で、
それでも、楽しくて笑えて面白かった数週間の事を。
始まりは本当に突然だった。
何の前触れも無かったもんな……。
でも、こいつは不思議と平気そうな顔をしていて……。

3: 2012/10/12(金) 19:25:55.64





「あー、もう! 何だよ、これー!」


地べたに座り込んで、私は今日何度目になるか分からない叫び声を上げた。
そりゃ叫びたくもなるってもんだよ。
気が付いたら、前触れも無くこんな状況だったんだ。
まったく、勘弁してほしいよな……。


「まあまあ、りっちゃん、そんなにイライラしないで。
何度も言ってるけど、叫んでたって疲れるだけだって。
ほらほら、落ち着いて座ってようよ。
りっちゃんだって、無駄に疲れるのは嫌でしょ?」


知り合ってまだ半年も経ってないのに、
私の扱いを知ってるみたいにこの小さな同級生は言ってくれる。
さっきから思ってたけど、どうしてこいつはこんなに落ち着いてるんだよ……。
呆れた感じに笑ってるしさ……。
むー……、何かムカつく。
私は頬を膨らませてから、パーマの当てられたそいつの髪を少し弄ってやる。
まあ、綺麗なパーマを乱すのも悪いから、ちょっとだけだけど。


「何だよ、菖ー。
そりゃ私だって疲れるのとかめんどいのは嫌いだよ。
でも、そんな事言ってる場合じゃないだろ。
一大事だぞ、こりゃ……」


「一大事なのは私も分かってるよ。
こんなの普通じゃないもんね。
でもさ、焦ったって意味無くない?
あんなに調べて分からなかったんだから、今は落ち着く時なんだって、きっと」


私に髪型を乱されたのを気にする素振りも見せず、
またそいつ――吉田菖――は小さく苦笑いを浮かべた。
知り合って半年経ってない私が言うのも何だけど、こんなに変わった奴だとは思わなかった。
そりゃ学部も同じで下手すりゃ澪達よりも一緒に居るけど、こんな一面は予想外にも程があった。
菖は友達が多くて小さいけど明るくて元気で、
私と同じくバンドのドラマーで、一緒に遊んでると凄く楽しい奴だ。
でも、そんな菖だって、表に出さないだけで不安や恐怖って感情は当然あると思ってた。
それが普通なんだし、怖い時や不安な時はそんな姿を私にも見せてほしい。

だけどなあ……、と私は菖の頭に手を置いたままで、大きな溜息を吐いてしまう。
緊急事態にこそ人の本性を見る事が出来る、
ってのはよく聞く言葉だけど、まさか菖にこんな一面があるとは思わなかった。
ん? 正確には一面じゃないのか?
こんな緊急事態にも何も変わらないって一面だから、いつものままとも言えるしな……。
とにかく、菖がこんな奴だとは思ってなかったんだ。
いや、恐怖で心がどうにかなって、暴れられたり泣かれたりするよりはずっといいんだけどさ。
でも……、なあ……。

4: 2012/10/12(金) 19:26:25.08
言っても無駄かもなあ、と思いながら、
私は何度か菖に言った言葉をもう一度繰り返す事にした。


「落ち着かなきゃいけない時だってのは分かってるよ、菖。
十分落ち着いてるつもりでもあるしな。
でもさ、焦らなきゃいけない時がある、って事も分かってるだろ?
私は今がそうだって思ってるわけなんだよ。

だって、そうだろ?
こんなのどう見たって普通じゃないどころか異常事態だよ。
さっきは何の手掛かりも見つからなかったけどさ、
もしかしたら何か見落としがあるかもしれないじゃんか。
じっとしてなんかいられないっての」


「りっちゃんの言う事も分かるけどさ……」


菖が少し溜息を吐いて首を振って辺りを見回す。
それに釣られるみたいに、私も菖と一緒に周りの様子に目をやる。
二人してゆっくり辺りを見回した後、妙に重苦しい口調で菖が続けた。


「これ、どうにかなると思う?」


これ、と言うのは、周りの真っ白い壁の事だった。
いや、壁だけじゃない。
私と菖が今居るこの場所は、壁も床も天井も真っ白だった。
真っ白って言う表現が生温いくらいの純白の場所。

場所……ってより、空間か?
そう言った方が正しいかもしれない。
何せ座っているからどうにか床と壁の存在が分かるくらいなんだ。
真ん中辺りに立つと、何処から床で何処から壁で何処から天井なのかも分からない。
しかも、特殊な光源を使ってるのか、私にも菖にも影すら出来やしなかった。
広さは大体二十畳くらい。
床と壁は直角に接合されてる。
天井の高さは影が無いせいで分からない。
窓どころか突起物も埃も汚れも無くて、何より出口が何処にも見当たらない。
つまり、完全に私と菖はこの部屋に閉じ込められてるってわけだ。
いいや、こんなの部屋と呼べるかどうかすら怪しい。
こんな異常な場所、部屋って言うか単なる怪しい空間じゃないか。

5: 2012/10/12(金) 19:26:59.23
「どうにかなるかは私にも分からないよ。
でもさ、どうにかしなきゃいけないだろ、こんなの。
このままでいいはずないじゃんか。
菖だって早く寮に戻って、晶達に会いたいだろ?」


呟くみたいに言ってから、私は菖が背もたれにしている純白の壁を右の拳で軽く叩いてみる。
特殊な防音の材質を使っているらしく、壁からは何の音もしなかった。
さっきから何度も試してみてた事ではあるけど、奇妙な感覚にやっぱちょっと落ち込む。
叩いてみても、私の拳がちょっと痛くなっただけだしな……。

と。
不意に菖が壁を叩いた私の右手を掴んで擦った。
私の右手を優しく擦る菖は、こんな状況になってから初めて見る心配そうな表情をしていた。


「駄目だってば、りっちゃん。
そんな事をしてもりっちゃんの手が痛くなるだけだってば。
今はもっと落ち着いて考えようよ。
ここから出る方法じゃなくて、まずはここが何処なのかって事から。
そういう積み重ねから、何かが見つかるかもよ?」


積み重ね、と来たか。
ちょっと菖に似合わない言葉の気がしたけど、何となく私は納得してしまっていた。
普段は私と同じで細かい事を気にしないように見えて、菖は意外と積み重ねを大切にする奴なんだ。
菖達のバンドの『恩那組』の演奏を聴いてると、それがよく分かる。
結成時期は私達とほとんど変わらないはずなのに、『恩那組』の演奏は私達よりずっと上手かった。
いや、違うか。
バンドそのものと言うより、菖のドラムが私よりもずっと上手かったんだ。
私もドラマーの端くれだから分かる。
菖は私よりもずっと努力して、小さな努力を積み重ねて今の実力を手に入れたんだって。
そんな菖が積み重ねって言うんなら、
私ももう少し何かをちゃんと考えなきゃいけないのかもしれない。
何をどう考えたらいいのか、見当も付かないけどな……。

そうやって、私が首を捻って唸っているのを見かねたんだろう。
菖が私の両肩に手を置いて、私の瞳をまっすぐに見つめた。
私も菖もくっ付き魔な方だけど、こんな距離で見つめ合った事はほとんど無い。
私はちょっと緊張する気分になったけど、菖の表情が真剣だったから私は何も言わなかった。
しばらく後、菖が少しだけ重い口振りで続けた。

6: 2012/10/12(金) 19:27:36.93
「私、さっきから考えてたんだけど、
りっちゃんはここに来る前の事ってさ、憶えてる?」


私は思わず息を呑んだ。
菖に言われなくても分かっていた事だけど、再確認されるとやっぱり現実に直面させられる。
そう。憶えてないんだ、この真っ白い空間に来る前の事を。
どうやってこの空間に来たのか、
どんな理由でこの空間に来る事になったのか、私は何も憶えてない。

この空間に来る前の最後の記憶は、確か大学の学園祭の直後だった……はずだ。
軽音部のバンド対決が終わって、唯とムギ達が焼きそばを食べに行くのを見送って、
澪と幸がお茶をしに行って、残された私と菖が二人で出店を回る約束をして……。
そこから先の記憶がはっきりしない。
何店か出店を回った気もするし、着替えに寮に戻った気もする。
気がするだけで、違っているのかもしれないし、本当にそうしたのかもしれない。
とにかく、そのはっきりしない記憶の後、
気が付けば、バンド対決の時と同じ服装のままで、私と菖はこの空間に辿り着いていた。
結局の所、何も憶えてないも同然って事だ。

自分のはっきりしない記憶を情けなく思いながら、
それでも、私の記憶のそのままを伝えると、菖は自分の頭を軽く掻いて苦笑した。


「そんな顔しないで、りっちゃん。
実は私もりっちゃんと同じなんだよね。
私も学園祭でりっちゃん達とバンド対決した事は憶えてる。
晶がまた振られちゃった事も憶えてるよ。
でもね、やっぱり私もそこから先が思い出せないんだ。
もしかしたら、私達が二人きりになった後で何かがあったのかもね」


「そっか……、菖も憶えてないか……」


私が残念に思って呟くと、菖がまた今の状況に似つかわしくない笑顔を浮かべた。
やっぱり、何か変わった奴だ。
放課後ティータイムの仲間の中には居ないタイプだよな。
こんな状況になったら、澪は泣くだろうし、ムギもきっと怖がるだろう。
梓は強がるだろうけどその肩は震えてるんだろうし、唯も唯でホラーは結構苦手な奴だもんな。
私だって、本当は不安で今にもまた叫び出しちゃいたいくらいだ。
でも、菖は微笑んでる。
こんな空間なんて何でも無い、って言い出しそうなくらい平気そうに。


「憶えてない事はどうしようもないって」


微笑みを崩さずに、菖が言った。

7: 2012/10/12(金) 19:28:02.90
「憶えてない事より、分かってる事から考えちゃわない?
そっちの方がずっと建設的だって。
まずさ、私とりっちゃんは学園祭が終わった時の事までは憶えてるでしょ。
それなら誘拐って可能性は消えるって感じがしない?」


「どうしていきなり誘拐の可能性が消えるんだ?」


「えっ? だって、そうじゃん?
だって、いきなり記憶が途切れちゃってるんだよ?
いくら何でも、そんな誘拐なんて無理でしょ。
いきなり睡眠薬のクロロホルムが染みたハンカチを嗅がされたって可能性もあるけど、
実はクロロホルムって十分は嗅がないと気絶しない、って前にテレビで言ってたんだよね。
だからね、もしも本当にそんな誘拐をされたとしても、何も憶えてないのは変でしょ?」


「それはまあ……、そうだな……」


「それにね、ただの誘拐ならこんな変な部屋に閉じ込めたりしないと思わない?
大体、何なのさ、この変な部屋。
部屋中真っ白だし、入口も見当たらないし……」


言いながら、菖が綺麗なパーマを当てた短い髪を弄る。
それにしても、やっぱり菖は色んな事を考えてたんだな……。
考えた結果、菖は焦らない事を決めたんだ。
多分、誘拐でない以上、即座に命の危険があるわけじゃない。
それなら、落ち着いて事態の把握に努めた方がいい、ってそう考えたんだろうな。
きっと菖の方が利口だし、正しいんだろうと思う。
だけど、私は立ち上がって菖から離れてから、すぐに地面に這い蹲った。
今度こそ驚いた口振りで菖が私に訊ねた。


「な、何してるの、りっちゃんっ?」


「誘拐じゃない可能性が高いってのは安心出来たよ。
でもさ、結局は何も解決してないじゃん?
だったら、もう少し何か手がかりを探した方がいいと思ってさ。
さっきは壁を調べたから、今度は床を調べてみるわ。
もしかしたら、一つくらい何かの手掛かりがあるかもしれないし。
壁に出口が無かったわけだから、ひょっとしたら床に出口があったり……なんてな」


「そんなの……」


「無駄だって思うか?
無駄だって思うんなら、菖は座って待っててもいいぞ。
駄目で元々だし、私がそうしなきゃ気が済まないってだけなんだしな」

8: 2012/10/12(金) 19:28:29.11
私がそう言いながら床を指で探っていると、不意に小さな笑い声が聞こえた。
他に誰も居ないわけだし、勿論、それは菖の笑い声だった。
馬鹿にされたのかと思ったけど、そうじゃない事はすぐ後の菖の行動で分かった。


「私もやるよ、りっちゃん」


菖が私の隣に肩を並べて、這う姿勢になった。
「いいのか?」と私が訊くと、菖はまた楽しそうに笑った。


「私だってここから出たいのは一緒だからね。
何も見つからないかもしれなくても、
りっちゃんだけに何かをさせるのなんて気持ちが悪いじゃん?
休む時は一緒に休むけど、頑張る時は一緒に頑張るってね!」


「ありがとさん。
でも、変な奴だな、菖は……」


「えー、変じゃないよ。
りっちゃんが澪ちゃんにまた会えるためにも、私が頑張らないとね」


「どうしてそこで澪が出て来るんだよ」


「だって、幼馴染みなんでしょ?
ずっと一緒に居る幼馴染みの再会の手助けをする私!
……なーんて、何かカッコよくない?」


「何じゃそりゃ」


変わらない菖の様子にちょっと呆れたけど、
何はともあれ、手助けをしてもらえるのはありがたい事だよな。
私は菖の頭に軽く手を置いて、ありがとな、と心の中だけで呟いた。
菖はしばらく私のその手を見つめていたけど、
ふと何かを思い付いたのか、嫌そうな表情を浮かべて言った。


「ねえ、りっちゃん、私ちょっと思ったんだけど……」


「何を?」


「ここって宇宙人の宇宙船の中とかじゃないよね……?
だって、こんな真っ白い部屋なんて、今の人類の技術で作れるかどうか分からないじゃん?
こんなに明るいのに、何か私達の影も出来ないし……。
って事は、私達、地球人じゃなくて、宇宙人に誘拐されたのかも……。
宇宙人なら私達の記憶を消して、この部屋に連れて来れるかもしれないでしょ?」


「ははっ、そんな馬鹿な事……は、有り得るな……」


「でしょー?」


菖が嫌そうに何度も頷き、今度は私がそれに苦笑する事で応じた。
こんな異常な状況、宇宙人が関係してるって考えた方が逆に自然だからな……。
しかし、参ったな。
私、グレイの外見、あんまり好きじゃないんだけどな……。
いや、グレイ型宇宙人かどうかは知らんが。
まあ、宇宙人じゃなくても、そういう普通じゃない事が起こってる事だけは間違いない。
私達を取り巻く今の状況は、きっとそういう状況なんだ。
どっちにしろ、私と菖に出来るのは、この真っ白い空間を探る事だけなんだけどさ。

それから、約一時間くらい床を探っていたけど、
結局、私と菖はこの真っ白い床に何かを見つける事は出来なかった。
この真っ白い空間には何もないって事が分かっただけだった。
結構悔しかったけど、まあ、宇宙人が出て来なかっただけでよしとしよう。
そうとでも思わなきゃ、やってけないじゃんか。

9: 2012/10/12(金) 19:28:57.49





この真っ白い空間に閉じ込められて、多分、二日目。
多分、って言うのは、時間の感覚が全く無いからだ。
時計も持ってないし、この真っ白い空間の明るさも一定のままで全然変わらなかった。
これで時間の感覚を持てって方が無理ってもんだ。
それで、昨日(?)はとりあえず菖と二人で雑魚寝したから、
ひとまず寝て起きたら日を越した事にすると菖と二人で決めたわけだ。


「ねえ、りっちゃん」


音の出ない壁を二人で肩を並べて軽く叩いていると、不意に菖が呟くみたいに言った。
二人で壁を叩いている事に深い理由は無い。
単に昔やったアドベンチャーゲームを思い出しただけだ。
壁を叩いてみて、音が違う場所があったらそこにアイテムが隠されている。
……なんて、ありがちな設定だと思うけど、今の私達はそんなありがちに頼るしかなかった。
今の所、当然だけど、音が出る壁は見つけられていない。
見つけた所でどうすればいいのかも分かんないんだけどさ。

勿論、そんな当てのない単調な作業を、私達が長く続けられるはずもない。
私も菖もこの作業にかなり飽き始めていた。
菖が私に退屈そうに声を掛けるのも仕方が無い事だろう。
て言うか、菖が喋り出さなきゃ、どっちにしろ私が話し掛けてただろうしな。
私は壁を叩く作業を中断してその場に座り込むと、菖の顔を見上げて訊ねた。


「どうしたんだ、菖?
あ、菖も休んじゃえよ。休む時は一緒に休むんだろ?」


「うん」と頷くと、菖は私の隣に座って身体を向ける。
私も菖の方に身体を向けると、間近で見つめ合うような体勢になった。
ちょっと近過ぎたかなと思ったけど、今更離れるのも不自然だしな。
折角だしそのままの体勢で次の言葉を待っていると、菖は私の予想もしていなかった事を言った。

10: 2012/10/12(金) 19:29:25.57
「りっちゃんって澪ちゃんと付き合ってるの?」


「はあっ?」


思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
いきなり振る話題にしては、ぶっ飛んだ話題じゃないか?


「そんなわけないだろ?
何言ってんだよ、いきなり」


「えっ、そうなのっ?」


菖が心底驚いたって表情で、甲高い声を上げる。
そんなに驚くような事なのかよ……。
私が納得のいかない表情を浮かべると、菖が驚きの表情を崩さずに続けた。


「いやあ、びっくりしたよ。
りっちゃんって絶対澪ちゃんと付き合ってるって思ってたもん」


「何でそうなる」


「だって、りっちゃん、講義の時も澪ちゃんの話ばかりしてるじゃん。
たまに私と二人で遊びに行った時も、澪ちゃんに定期的にメールしてるみたいだしさ。
これは二人のただ事ではない関係性を疑ってしまうわけですよ、この菖さんとしては」


「澪は単なる腐れ縁の幼馴染みだよ。
そりゃ、あいつが何やってるのかは習慣で気になるけどさ。
澪とよくメールしてるのはそれだけの理由だよ。
つーか、私達女同士なんだけど」


「まあ、それはそうなんだけどね。
でも、りっちゃんって女子高の桜高出身でしょ?
女子高ならそういうのも結構あるのかなって思って」


「おまえは女子高を何だと思ってるんだよ……。
大体、自分だって共学出身とは言え、女子大生のくせして……」


そう言いながら、私は妙に納得してしまってもいた。
正直な話、私も共学に通ってる子達は結構遊んでるイメージがあったし、
男子高の男子達は付き合ってるカップルも何組か居るんじゃないかって思ってた。
私の偏見を考えると、菖が女子高に対して変なイメージを持っててもおかしくない。
私は苦笑しながら、女子高出身者の代表としてそのイメージをぶち壊してやる事にした。

11: 2012/10/12(金) 19:29:55.40
「残念だけどな、菖。
女子高って言っても、生徒全員が女子ってだけで、他の高校とほとんど変わらないと思うぞ。
そりゃ私の知らない所では付き合ってる子達も居たのかもしれないけど、そういうのは少数だよ。
共学だって男女全員がカップル成立してるわけじゃないだろ?
そういう事だよ」


「そう言われると弱いんだけどね、私も高校時代彼氏居なかったし……。
でもさ、本当に少数なの?
澪ちゃんやムギちゃんや唯ちゃんも違うの?」


「確かめた事は無いけど、多分な。
澪は恋に恋してる奴だし、ムギも青春に憧れてるし、唯は……どうだろう……。
まあ、どっちでもいいけどさ。
でも、とにかく、澪と私はそういう関係じゃないぞ。
菖には残念かもしれないけどさ」


イメージをぶち壊してやったから、菖は不機嫌な顔を見せると思ってた。
頬を膨らませて、睨みつけて来るんじゃないかって思ってた。
でも、菖はそうはせずに、また楽しそうに微笑んで私に返した。


「それでも、りっちゃんは澪ちゃんの事が好きでしょ?」


「いや、だから……」


「恋する相手ってわけじゃなくて、幼馴染みとしてって事だって。
澪ちゃんの事、好きなんだよね?」

12: 2012/10/12(金) 19:30:25.10
菖の奴、何か妙に澪の事を気にしてるな……。
ひょっとすると、菖の方こそ澪の事が好きなんじゃないか?
前に澪のファッションを弄るのが楽しかったみたいだし、ひょっとしたらひょっとするか?
でも、そうやってからかう事は出来なかった。
菖が真剣な表情で私の目を見つめていたからだ。
真剣そのものだった。
だったら、私も変に誤魔化すわけにはいかないじゃないか。
私は大きく息を吸ってから、菖に負けないような真剣な表情を浮かべて言った。


「ああ、澪の事は好きだよ。
好きじゃなきゃ、長い事幼馴染みなんかやってないって。
勿論、恋する相手じゃないけどさ、でも、あいつの事はこれからも大事にしたいよ」


私の言葉が終わった途端、菖は急に私の手を握って笑った。
とても真剣な、心のこもった笑顔だった。


「だったら、この変な部屋から絶対に出ないとね!
まだ何も分かってないけど、いつか絶対に出てやろうね!」


心強い言葉だった。
嬉しかったし、頼り甲斐のあったけど、
その菖の言葉には若干の迷いが感じられたのは気のせいだろうか。
いや、きっと気のせいじゃない。
迷ってるのは菖だけじゃなく、私も同じだったからそれが分かった。

二日目(?)になって、私も菖も一つの事に気付いていた。
気付いていて、言葉には出せなかったんだ。
私達の身体に起こってる異変……。
いや、違う、逆だ。
何も起こらない事がおかしいんだ。
私達がこの真っ白い空間に閉じ込められて、多分、約一日。
その間、私のお腹が空く事は無かったし、トイレに行きたいと感じる事も無かった。
言葉にはしていないけど、菖も私と同じだって事は傍から様子を見るだけで分かった。
これが意味する事は、一体何なんだろう……。

ひょっとしたら、私達の身体は……。
それを考えるだけで、激しい動悸を感じて息苦しくなる。
不安で動き出せなくなってしまいそうになる。
だからこそ、私達は進むしかない。
どんなに不安でも、この真っ白い空間から脱け出すために。

20: 2012/10/14(日) 18:32:19.54





「でさ、ムギちゃんってやっぱりお嬢様なの?」


三日目(仮)、菖がまた軽い感じに話し掛けてきた。
流石にこれだけ長い時間一緒に居ると、菖の唐突な話題の切り出し方にも慣れちゃったな。
私はちょっとだけ苦笑してから、菖の質問に答えてやった。


「ああ、どうもそうらしいぞ。
高校の頃なんか、夏休みに別荘で遊ばせてもらってたりもしたんだぜ?
実家の方は忙しいみたいで、まだ遊びに行った事は無いんだけどな。
でも、多分、すっげー豪邸に住んでんじゃないか?」


「あ、やっぱりそうなんだ。
ムギちゃん無垢って言うか、穢れてないって言うか、
何だかちょっと浮世離れしてて、面白い子だからそうじゃないか、って思ってたんだよね。
前にムギちゃんに訊いた時は、上手くはぐらかされちゃったんだけどね。
そうそう、そう言えば、その節は晶がご迷惑をお掛けしました」


その節……?
すぐに思い当たる事が無かったから、私は首を捻って少し考えてみる。
ムギと晶が関係してて、私達に迷惑を掛ける事……?
十秒くらい今までの大学生活を振り返ってみて、やっと思い出せた。
菖はムギが晶に冗談を言われた時の事を言ってるんだって。
私は軽く首を振ってから、ちょっと笑ってみせる。


「まあ、それは別にいいよ。
晶も別に悪気は無かった……はずだしな。
でも、ムギってそういう人とは違う自分を気にしちゃってる所があるんだよな。
だからさ、あんまりその辺は弄らないでやってくれると助かるよ。
ムギの奴、あれでも結構庶民的になった方なんだぜ?
知り合ったばかりの頃は本当に完全なお嬢様って感じで、
どうやって付き合って行ったらいいのか迷ったもんなんだよ。

でも、長く付き合っていく内に、
ムギも私達と同じ女子高生で、面白い事が大好きな奴だって気付けたんだよ。
それで皆で楽しく部活をやってけるようになったんだよな。
勿論、まだ浮世離れした所はあるけどさ、
でも、そんなムギだからこそ一緒に居て楽しい私達の大切な仲間なんだ」


その私の言葉が終わっても、菖はしばらく何も反応しなかった。
やばい、ちょっと気障な台詞過ぎたか?
私としては本音を言ったつもりなんだけど、
そう言えばこんな私の一面を菖に見せたのは初めてかもしれない。
菖とは同じ学部だって事が分かってから凄く意気投合して、
どっちがボケでどっちがギャグなんだか、いつも立ち位置を変えながら付き合ってた。
毎日、面白いと思ったネタを話し合って、笑い合って、私達の間には笑顔が溢れていた。
悲しい顔や怒った顔なんて、皆で居る時はともかく、
二人きりで遊んでる時に見せた事なんて無かったはずだ。
笑顔以外の表情なんて、菖にはほとんど見せた覚えが無い。

うわっ、何だかすっげー恥ずかしくなって来たぞ……。
こんなのやっぱ私のキャラじゃなかったのか?
そうして何だか自分の顔が熱くなるのを感じていたら、
不意に菖が私の頭を真上側から両手でくしゃくしゃに掻いた。
腰を曲げて、私の顔に自分の顔を至近距離に近付ける。

21: 2012/10/14(日) 18:35:08.71
「りっちゃんってさ、やっぱり仲間思いなんじゃん!
そういう所、もっとアピールしていこうよ!」


そう言ってから、イシシ、って擬音が付きそうな笑顔を菖が浮かべる。
多分、褒められてるみたいだけど、やっぱり何となく恥ずかしい。
私は照れ隠しに首を振って、掴んでいた菖の足の裏をくすぐりながら言ってやった。


「うっせ!
そんな事言ってると、肩車替わってもらうからな!
いいな! 恥ずかしい事を言うのは禁止だかんな!
言ったらもれなくこのお仕置きが付いて来るからな!」


「りっちゃんってば照れ屋さん……って、あうっ!
足はやめ、あははっ、やめてって、くすぐったいから!
あぅんっ、駄目だってば! 私、足の裏、弱いんだって!
あはははははっ!」


そこまで言うんなら、足の裏をくすぐるのをやめてやるのはやぶさかじゃない。
これ以上、肩の上で暴れられると危ないしな……。
にしても、いくら私より細くて小柄って言っても、
体型はほとんど同じなんだから、ちょっとくらい肩車替わってくれてもいいじゃんかよ……。
まあ、見た目以上に意外と力が無いみたいなんだけどな、菖は。
菖もやり手のドラマーではあるんだけど、
その実はファッション大好きな女の子だから、普通はそんなもんなのかなあ?

そういや、ドラマーって別に力が必要なパートってわけじゃないって話を聞いた事がある。
力よりも周囲への細かい気配りとリズム感の方がずっと大切だとか何とか。
それが本当だとすると、ドラムこそが私に一番合ってないパートな気がしてくるな……。
梓達のバンドのドラマーも、力より気配りとリズム感に優れた子らしいしさ。
……やべっ、ちょっと落ち込んじゃった。
いかんいかん、今はそんな事で落ち込んでる場合じゃない。

それはともかくとして。
今、私が菖を肩車してるのは、この真っ白い空間の天井を調べるためだ。
一昨日、昨日と床と壁を隅々まで調べてみたけど、結局何も見つける事が出来なかった。
それで最後に残った場所は天井だけだったわけだ。
とは言え、特殊な光源のせいで、天井の高さがどれくらいなのか、私達にはさっぱり分からなかった。
とんでもなく高いように見えるし、意外と低いようにも見える。
だから、結局、自分達の手で届くどうか試してみるしかなかった。
そうやってさっきから十分以上菖を肩車してるけど、
手が届く場所を見つける事も出来ないどころか、天井の高さすら把握出来てなかった。

これだけくまなく三日間も探ってみて、見つけられた事は一つも無い。
この調子だと、天井の高さすら分からないままだろう。
投げる物が服しかない以上、何かを投げて高さを確かめるってのも無理そうだしな。
何も分かってないって事が、分かっただけだって事かよ……。

くそっ……。
まったく菖の言う通りじゃないか。
こんな異常な状況、何を調べたって分かるはずがない。
もしも何か変な物が出て来たとしても、
頭の悪い私じゃそれが何かも分からないんじゃないか?
結局、菖の言う通り、無駄に疲れて、無駄に焦りが募るだけだった。
何をやってるんだ、って思いだけが私の頭の中を支配しそうになる。

22: 2012/10/14(日) 18:35:35.28
いや、私の事は今はどうでもよかった。
今、考えなきゃいけないのは菖の事だ。
菖は最初からよく考えて行動しようと言ってくれていた。
言ってくれていたのに、私はよく考えて行動する事が出来なかった。
自分の焦りを誤魔化したくて、そのために三日間も菖を付き合わせちゃったんだ。
私の勝手な我儘に。

申し訳無い気分で胸が溢れ出しそうになる。
情けなさで涙まで出て来ちゃいそうだ。
まだ完全に調べたわけじゃないけど、これ以上天井を調べても無駄かもしれない。
いや、何処を調べても無駄な気がするし、きっとそうなんだろう。
何か手がかりがあるかもとか、何処かに出入口があるはずだとか、
ここはそういう常識で測れるような場所じゃなかったんだ……。

口の中を強く噛んでから、それでも、私は菖と目を合わせた。
悔しさや不安に胸を支配されてる場合じゃない。
今はちゃんと菖に謝らなきゃいけない時なんだ。
私の我儘に三日間も付き合わせてしまった事を謝らなきゃいけないんだ、私は。
強い決心をして、菖の瞳を強く見つめて口を開く。


「なあ、菖、ごめ……」


その私の謝罪の言葉を最後まで言う事は出来なかった。
私が言葉を言い終わるより先に、菖が私の頭を楽しそうに弄り始めたからだ。
いや、頭ってより髪か?
菖は指で私の髪を何度も梳きながら楽しそうに笑った。


「さっきから思ってたんだけど、りっちゃんの髪ってサラサラだよね。
羨ましいぞ、このー!」


菖が何の話を始めようとしているのか分からない。
私は戸惑いながら、菖のその言葉に応じる事しか出来なかった。


「い、いや、そうでもないと思うんだけど。
大体、伸ばすのが面倒だから、短くしてるような髪なわけだしさ。
そんなサラサラって程じゃないだろ」


「いやいや、謙遜しないでってば!
今はちょっと乱れてるけど、私、乱れてても分かるもん。
りっちゃんの髪質、すっごいサラサラだって。
実は私、りっちゃんの髪には前から目を付けてたんだよねー。
ちょっとリンスを変えて髪を伸ばせば、
もっと色んな髪型を試せるし、今以上にすっごく可愛く出来るのにって」


「それは……、えっと……、ありがとう……か?
まあ、私は今の髪型が気に入ってるしなあ……。
て言うか、私の事なんかよりさ、菖の方こそ可愛い髪型してるじゃん。
パーマも当ててしっかりファッションに気を遣ってて、出来る女の子ーって感じ。
私ってばその辺弱いからさ、そういう事が出来る菖が羨ましいぞ?」

23: 2012/10/14(日) 18:36:06.50
私らしくない台詞だったかもしれないけど、それはお世辞じゃなかった。
似た所があるって皆から言われてる私と菖だけど、細かい所ではかなり違ってる。
当人同士だからこそ、それがよく分かる。
菖は可愛い。
小柄で元気で流行に敏感で、ドラムも私よりずっと上手い。
性格は素直だし、こんな時でも落ち着いて物事を判断出来てる。
正直な話、羨ましいな、と思っちゃうくらいだ。
なのに、菖は少し寂しそうに苦笑して首を振った。


「駄目駄目。
私ってね、実はそんなに髪質が良くないからパーマ当ててるんだよね。
パーマで誤魔化しちゃってるわけですよ、律さん。
だから、律さんみたいなサラサラの髪質に憧れてるわけですわよ?
ううん、髪質だけじゃなくて、律さんの色んな所、羨ましいのでしてよ?」


変な口調だったけど、その口調だからこそ、菖が嘘を言ってないような気がした。
本音だからこそ、わざと口調を変えたんじゃないか、って何となくそう思った。
何だかおかしな話だ。
二人が二人とも、お互いの事を羨ましく思ってるなんてさ。

私は何を言うべきなのか迷った。
菖が私の事を羨ましいと言ってくれる以上、謙遜するのも場違いで失礼な気がする。
だったら、私はどうするべきなんだろう?
そう思った瞬間、私は自分でも予想してなかった行動も取っていた。


「あふんっ!
だ、だから、足の裏をくすぐるのは駄目だってば!
あははっ、弱……、駄目っ、足弱い、そこは弱い……っ!
あんっ……! 足は駄目だったら、りっちゃん……!」


どうして、自分が菖の足の裏をまたくすぐったのか、私自身にも分からなかった。
羨ましいと菖が言ってくれるのが照れ臭かったのかもしれないし、
ひょっとしたらもっと他の理由からだったのかもしれない。
例えば、こんな時にでも笑顔で居てくれる菖の事が私は……。

いや、それはともかく。
それから私はもう少しだけ菖の足の裏をくすぐった後、天井の探索を続けた。
途中、何度も調べるのをやめようと思いかけながらも、
菖の笑顔に押し切られる形で最後まで調べる事が出来た。
菖は文句も言わずに、私に付き合ってくれた。
肩車こそ替わってはくれなかったけど、それでも私は嬉しかった。
菖はきっと私に一つの心残りも残さないようにしてくれたんだろう。
この部屋から出る手掛かりは何一つ見つからなかったけど、
それでも、菖がそういう子なんだって気付けただけでも、十分な収穫だったと思う。

24: 2012/10/14(日) 18:37:56.49





四日目(仮)。
私と菖はまた肩を並べ、壁を背もたれにして話をしていた。
これまで三日間調べたけれど、私達はこの空間の出口どころか、正体を掴む糸口すら見つけられていない。
これ以上調べてみた所で、多分、何も出て来ないだろう。
だから、私達は話をしていた。
話す事しか出来なかった。
他に何が出来なくなったって、話す事と考える事だけはやめちゃいけないと思ったからだ。

私達はまだここに居る。
どんな形でも、ここに居る。
この空間から脱け出せなくたって、私と菖は二人でここに居るんだ。
話す事と考える事をやめてしまったら、私達はきっと孤独と不安でどうにかなってしまう。
だからこそ、私達は話さなきゃいけないんだ、色んな事を。
とは言っても……。


「じゃあ、『ふわふわ時間』って澪ちゃんが作詞したんだ?」


「まあな。意外だったか?
つーか、うちのバンドの作詞は大体澪がやってるよ。
私は苦手だし、ムギは作曲だし、唯の奴は変な歌詞を書いて来るしな。
まあ、澪の作詞が変な歌詞じゃないのか、って訊かれたら、そうだとしか言えないんだけどな」


「あっ、りっちゃん、ひどーい」


「ひどくねーよ。
そう言う菖は自分のバンドであの歌詞の曲を演奏したいのかよ?」


「うっ……、それを言われると……」


「だろ?
私も最初は嫌だったんだけど、何かもう慣れちゃったんだよな。
澪がメルヘンなのは昔からだし、あいつを作詞担当にしたのは私達なんだ。
だったら、同じバンドのメンバーである以上、ちゃんと澪の歌詞を受け入れないとな。
それに感覚が麻痺しちゃってんのかな?
『ふわふわ時間』の歌詞もそんなに悪くない気がしてんだよな、最近。
自分でもちょっとやばい気はしてるけどさ」


「それは感覚が麻痺してるかもねー。
でも、そう言う私も『ふわふわ時間』は好きなんだけどね。
何か聴く度に癖になるって言うか妙な中毒性がある気がする。
そうそう、晶もさ、
ああ見えて『ふわふわ時間』がお気に入りみたいなんだよね」

25: 2012/10/14(日) 18:38:22.25
「マジで?」


「マジマジ。
本人は隠してるつもりみたいだけど、たまに部屋で鼻歌歌ってたりするもん。
りっちゃん達が思ってる以上に、晶ったらりっちゃん達の事を気に入ってるみたいだよ」


「そうなのか?
唯達にはともかく、晶の奴、私にだけ厳しさが取れない気がするんだが……。
何で私にだけ厳しいんだ、あいつは……。

しかし、いい事を聞いたな。
今度、晶の奴の耳元で『ふわふわ時間』の鼻歌を歌ってやろう。
弱味を握って、いいように操らせてもらうぜ!」


「お手柔らかにねー。
晶ってば、意外な所で打たれ弱い所があるから程々にね」


「わーってるって」


私が悪役っぽく笑ってやると、菖も釣られて悪い笑顔を浮かべてくれた。
晶の奴はいつかぎゃふんと言わせてやりたいんだよな。

さっきから私達が話してるのは、そんな他愛の無い雑談ばかりだった。
お互いの仲間の事や、これまで話した事が無かった裏話、
バンド結成の経緯とか、たくさんの事を止め処無く話し続けた。
本当はもっと話さなきゃいけない事がいっぱいあった。
この妙な空間の事。
外の世界がどうなってるのかって事。
何よりも今の私達自身の身体の事。

特に私達の身体の事については、絶対に話しておかなきゃいけなかった。
この空間に閉じ込められて今日で四日目だけど、私達は一口も食べ物を口にしていない。
だけど、空腹感は全然無かったし、疲労も全く感じてなかった。
トイレにも一度も行ってないし、身体中が汗臭くなってもいなかった。
それどころか汗一つ掻いてないんだ、私達の身体は。
三日間、この空間の中を調べ回っていたのに。
必氏に調べ回ってたのに。
これが意味するのは……。

こんな話、切り出せない。
口にしてしまうと、それが現実になってしまいそうで怖い。
切り出せるもんか、こんな怖い話なんか……。


「どしたの、りっちゃん?」


不意に菖が私の顔を覗き込んで訊ねた。
きっと私が心底不安そうな顔をしてたんだろう。
私は何も言わずに菖の顔に視線を向けてじっと見つめた。
真っ白い空間の中、菖の鮮やかな金髪はよく映えて見えた。
まるで輝いているみたいに見えた。

26: 2012/10/14(日) 18:39:11.14
瞬間、菖は気付いてるんだろうか、って私は思った。
この空間より何より、私達の身体の異常な状態の事に。
気付いてないわけがない。
菖は私よりずっと気配りの出来る奴だし、注意力だって私よりずっと上なんだから。
同じ不安を胸に抱いてるはずなんだ。

でも、菖はやっぱり笑ってる。
私に楽しそうな笑顔を向けて首を傾げてる。
それが菖って奴なんだって事は分かり始めて来たけど、やっぱり私はそれが疑問だった。
菖はどうしてこんなに楽しそうに笑えてるんだろう?
怖くないんだろうか?
怖さも楽しさに変えられるタイプの奴なんだろうか?

気付けば私はそれを菖に訊ねてしまっていた。
訊ねちゃいけない事だったはずなのに、訊ねずにはいられなかった。


「なあ、菖?
変な事を訊くみたいだけど、訊いていいか?」


「いいよ、何?」


「軽いな……。
じゃあ、訊かせてもらうけど、菖は怖くないのか?」


「怖いって?」


「今の状況の事だよ。
こんな変な所に閉じ込められて三日も経って、
出口は見つからないし、何の手掛かりも見つかってないし、
それに三日以上、私達……」


「そりゃ怖いってば。
こんな変な状況で落ち着いてられるほど、私だって図太くないよ?
今だって結構ビクビクしてるんだよ?」


「そうは見えないんだが……」


「だって、りっちゃんが一緒に居てくれるじゃん?
一人じゃないんだから、怖くないでしょ?」


菖がそう言って屈託も無く笑った。
私は何も言えずに、口を開いちゃうだけだ。
菖の表情を見る限り、その言葉は冗談でも誤魔化しでも無さそうだ。
何だよ……。
菖は私と一緒に居るから、こんな状況でも怖くないってのか?
そりゃ私だって、菖が居るからかなり救われてる所があるけどさ……。
でも、私なんかが傍に居るってだけで、そんなに安心出来るもんなのか?
私なんかにそんな価値があるだなんて、とても思えない。

私の釈然としない表情に納得がいかないのか、菖が急に私の頬を掴んで軽く抓った。
自分の頬を少しだけ膨らませてから続ける。

27: 2012/10/14(日) 18:44:56.57
「あっ、信じてないね、りっちゃん。
傷付くなあ、本気で言ってるんだよ、私。
私だって怖かったけど、りっちゃんが傍に居てくれたから安心出来たんだよ?
ここから脱け出す方法も積極的に探そうとしてくれたしね」


「でも、結局、何も見つけられなかったじゃんか……」


「いいんだって。
探そうとしてくれただけで、私は嬉しかったんだから。
私なんか誰かが外から開けてくれるのを待つしかない、って最初から諦めてたた所があるしね。
でも、そんなのじゃ駄目だよね。
例え無駄でもさ、自分の目でちゃんと確認しなくちゃ。
そうしようとしてくれたりっちゃんの姿が私は心強かったんだよ?」


「そうか……?」


「そうだよ」


そう言って、菖がその輝く金髪と一緒に輝く笑顔を見せてくれた。
眩しい奴だな、と思った。
本当に眩しい。
何だか悔しかった。
澪や唯、ムギ達に負けるのはそんなに悔しくない。
あいつらは私と別の方向で頑張ってる奴らだから、比較する事自体が間違ってる。

でも、菖に負けるのは違う。
菖はドラマーで考え方も私に似ていて、性格も似た方だと思う。
そんな菖に負けるのは悔しかった。
菖がどうのこうのじゃなくて、同じ方向を向いて負ける事だけはしたくない。
私も菖に負けないように心を強く持たなきゃ……!
それは単なる意地だ。
情けない私のたった一つ絞り出せる見栄っ張りな意地だ。
でも、今の私を支えられる物は意地しかないから、その意地でどうにか立ってやろう。
私が本当の意味で菖を支えられるように。


「りっちゃんはさ、ここって何だと思う?」


私の決心を知ってか知らずか、菖が急に話題を変えた。
何だと思う、か。
何なのかは私にも分からない。
推測はしているけど、それがあってるかどうかは自信が無い。
でも、一つの答えは確かに私の胸の中にある。
私がその答えを言葉にするより先に、菖が自分の推測を声に乗せていた。


「私が最初考えたのはね、頃し合いのゲームなんだよね。
よくあるでしょ?
何処かから誘拐した二人を密室で頃し合わせて、生き残った一人だけを解放するってゲーム。
最初はそういうあれかなって思ってたんだ」


「いきなり物騒な事を考えてるな、菖は……。
まあ、可能性としてはありうるけどさ」


「でしょー?
でも、すぐにそうじゃないって思ったんだ。
頃し合うにしても武器も置いてないし、黒幕の指令みたいなのも無いじゃん?
よくある映画とかだと、私達が目覚めた後に頃し合いの指令を出すのがお約束でしょ?
それで、これはそういうゲームとは違うんだな、ってすぐ思ったわけ。
ま、それで助かったけどね。
私、りっちゃんと頃し合いなんてしたくないもん」


「私だってしたくねーよ。
でも、そういう変なゲームじゃなかっただけ、不幸中の幸いって所だよな」

28: 2012/10/14(日) 18:45:30.83
「だねー。
でね、次に思ったのがこの部屋が何なのかって事なんだよね。
こんな影も出来ない、天井の高さも分からない部屋が普通の部屋なわけないよね?」


「そういや、菖はここが宇宙船の中じゃないかって疑ってたよな。
ぶっちゃけ、こんな部屋を地球人が作ったって考えるより、
宇宙人が建造した宇宙船の中だって考えた方がリアリティがあるもんな。
今の人類の技術じゃ作れないだろ、こんな部屋。
でもさ……」


私は口ごもる。
ここがもし宇宙船の中だったとしても、私的にはそれで構わない。
むしろ宇宙船の中であってくれた方がすっきりするし、かなり助かる。
宇宙人が私達を監視してても、気分はそんなによくないけど別にいい。

そう考えてしまうのは、私の中の想像がそれよりも最悪な物だからだ。
私だけじゃなくて、多分、菖の想像も私と同じだと思う。
菖はそれについてどう考えてるんだろうか。
それを菖に訊ねるのは正直怖い。
でも、訊かないままで居るのも怖い。
だったら、訊いた方がずっとマシじゃないか。
私は意を決して、高鳴る心臓を抑え、それを菖に訊ねる。


「ここが宇宙船の中だって考えるのはいいけど、
それだと一つどうしても説明出来ない事があるよな?

……うん、私達の身体の事だよ。
私達、ここで目を覚ましてから何も食べてないだろ?
水だって一口も飲んでない。
なのに、全然腹減ってないし、喉だって渇いてない。
トイレにも行ってないし、汗だって一滴も出てないんだよ、あんなに動き回ったのに。
こんなの宇宙船の中でだってありえるか?
そういう生理現象無しで活動出来るくらい、宇宙船ってのは便利に出来てるのか?
いや、いくら何でも、どんなに科学力が進んでてもそれは無理だろ?
だとしたら、私達の身体は……」


「氏んでる……のかもね」


菖が何でも無い事みたいに簡単にそう言った。
まったく……、何でこいつはそんな言いにくい事を簡単に言えるんだ。
私と一緒に居て安心出来てるからって言ってたけど、そんなに安心出来るもんなのか?
でも、菖の言葉は私の考えていた事でもあった。
持って回った言い回しをしたって意味が無いし、菖のやり方は別に間違ってない。
怖いと思っちゃうのは、単に私がちょっと臆病だからだろう。

大きく深呼吸。
震え始めた指を握り締め、拳を作る。
出来る限り表情を落ち着けてから、菖の髪を軽く弄って言ってやる。


「そんな言いにくい事をあっさり言うなよ、菖。
言うのに躊躇っちゃってた私がヘタレみたいじゃんか」


「でも、そう思ったから、
りっちゃんにちゃんと言っとかなきゃと思って」


「分かってるよ。
うん、怖がって目を逸らしてても仕方が無いよな。
多分、菖の言う通りだよ。
飲まず食わずで四日間も平気で居られるはずないもんな。
私達の身体がそういう生理現象を必要としなくなってるんだよ、多分。
例えばもう氏んでるとか……。

そう考えれば、この空間の説明も出来るかもしれないよな。
この空間は宇宙船の中なんかじゃなくて、
氏後の世界の魂かなんかが集まる場所で、私達はそこに閉じ込められてる。
何でここに閉じ込められてるのかは分かんないけど、
もしかしたら閻魔様の裁判の順番待ちの空間だったりとかしてな。
宇宙船の中だって考えるより、そう考えた方がよっぽど現実的だしな」

29: 2012/10/14(日) 18:45:58.30
自分で言ってて、何だか嫌な気分になって来た。
だって、そうじゃんか。
何が嫌で自分達の氏を認めるような事をしなきゃいけないってんだよ。
勿論、そうと決まったわけじゃない。
他の理由でこの空間に閉じ込められてるって可能性も勿論あった。
例えば私達の身体がいつの間にかサイボーグに改造されてて、
それで飲まず食わずで平気で活動出来てるとか、それとも、何もかも仮想現実だったとか。
どっちにしてもろくな考えじゃないし、両方とも氏ぬのと同じくらい嫌な事だ。


「かもねー。
でも、閻魔様の裁判の順番待ちってのは考えてなかったよ。
私はもしかしたら自分が氏んでるのかも、って考えてただけだったもん。
何だか本当にそんな気がして来たな。
もしかしたら、本当にりっちゃんの考えがあってるのかも」


輝く金髪を靡かせて、菖がまっすぐな視線を私に向けて言った。
その瞳には純粋な感心の色しか感じられなかった。
菖はやっぱりここで目を覚ました当初から変わらない。
自分が氏んでるかもしれないって事が怖くないんだろうか?
私がそれを訊ねると、菖は軽く苦笑して自分の想いを口に出してくれた。


「失敬な。
私だって勿論怖いよ、りっちゃん。
まだまだやり残した事があるし、晶や幸とも遊び足りてない。
りっちゃんや唯ちゃん達とももっともっと遊びたいし、もっともっと仲良くなりたいよ。
冬物のファッションもチェックするつもりだったし、そろそろパーマも当て直しておきたいしね。

でもね、よく言うでしょ?
『人は一人きりで生まれ、一人きりで氏んでいく』って。
私もよく分からないんだけど、その言葉が正しかったら、
人間は一人で生まれて一人で氏んでいくものだって事になるでしょ?

だから、思ったんだよね。
私だって氏ぬのは嫌だし、もう氏んでるなんて考えたくないよ?
でも、私の隣にはりっちゃんが一緒に居てくれて、笑ってもくれてる。
だったら、私はまだ一人で氏ぬしかなかった人生よりは幸せだったんじゃないかな、って。
ううん、私は幸せなんだよね、りっちゃんが傍に居てくれて。
こんな事言われても、りっちゃんは迷惑かもしれないけど……。

勿論、まだここから脱け出すのを諦めたわけじゃないよ。
まだやりたい事も多いし、りっちゃんと澪ちゃんを再会させてあげたいから!」


最後には力強い言葉で菖が宣言してくれてたけど、私は別の事を考えてしまっていた。
そうなんだろうか……。
私も菖と一緒に居る事で、どうにか混乱せずに平静を保ててるつもりだ。
今まで以上に菖の色んな一面を見れた事も嬉しい。
私はこれを幸せと感じていいんだろうか。
最期の時、一人でない事を喜ぶべきなんだろうか。
私は本当に一人で生まれ、一人で氏んでいく人生を送るはずだったんだろうか……。

それはまだ、
分からない。

34: 2012/10/16(火) 18:00:47.87





多分、五日目。
私も菖も口数は多い方だと思うけど、
流石に連続で五日間も二人きりで喋り続けていると、話す事が無くなってきた。
どちらともなく口数が減って、いつの間にか二人でしばらくぼんやりしていた。
そろそろ本気で自分達のこれからを考えなきゃいけないのかな。
この空間での永住の可能性を考えるべきか、それとも……。
そう私が思い始めた時、不意に菖が真っ白い床を軽く叩いた。
一度だけじゃなくて、二度、三度と両手でリズミカルに叩き続ける。
自分達の現状に苛立ったとか、何も出来ない自分自身に悔しくなったとか、
そういうある意味当然の感情で、菖がそうしたわけじゃないのはすぐに分かった。


「ちぇー……」


十何度か床を叩き終わった後、菖が残念そうに口先を尖らせた。
私だって口の先を尖らせたかったし、菖のその気持ちはよく分かった。
菖が残念そうな表情をしている理由……。
それはとても単純な理由だった。
床を叩いても何の音も出ないからだ。
特殊な素材だからなのか他の理由からなのか、
とにかく叩いても殴っても飛び跳ねても、床からも壁からも何の音も聞こえないんだよな。
正直、これは私達にとってかなりの大問題だ。
自分達の奏でるリズムを耳で確認出来ないなんて、ドラマーとしてはかなりの拷問だよ。


「うおりゃっ!」


菖に倣って、私も勢いよく自分の手を床に振り下ろしてみる。
かなりの速度で振り下ろしたはずだ。
だけど、床からはやっぱり何の音も出なかった。
それどころか、私の手のひらにも何の痛みも感じる事が無かった。
柔らかい素材じゃないはずなのに、痛さどころかろくな感触すら感じない。
前にテレビで観た衝撃緩和材の映像を思い出しちゃったくらいだ。
試そうとは思わないけど、ひょっとしたら頭を思い切りぶつけても無傷で居られるかもしれない。
ったく、全くわけが分からない。
とにかく、分かっちゃいた事だけど、結局、この空間は何でもありなんだな。


「勘弁してほしいよねー」


苦笑いを浮かべて、菖が私に視線を向けた。
私も苦笑しながら、肩を竦めてそれに応じる。

35: 2012/10/16(火) 18:01:17.38
「だよなー……。
スティックが無いのは仕方が無いにしてもさ、
手で叩いたら床からくらい何か音出してくれてもいいじゃんかよー。
これじゃストレスが溜まっちゃうっつーの」


「うんうん、ドラマー泣かせだよね、この部屋。
ドラマー心を何も分かってないよ!
ドラマーはドラムを叩いてない時でも、リズムを感じて生きてるんだもんね!
リズムを取らずにはいられない生き物なんだから!」


「いや、そこまでは言ってないんだが……」


「あれっ?
でも、りっちゃんも分かるでしょ、この気持ち?」


「分かるけど、何つーか……」


そこまで言ってから、私はちょっとだけ笑う。
苦笑じゃなくて、普通の笑顔になって、吹き出してしまう。
その私の笑顔を不思議に思ったらしく、菖が首を傾げて私に訊いた。


「私、何か面白い事言っちゃった?」


「いやいや、そうじゃなくてさ、
何つーか、菖もドラマーなんだなー、って思っちゃってさ。
そういや、私達ってドラマーなのに、二人で居る時はあんまドラムの話をしなかっただろ?
面と向かって改まって話すのが変な感じがしたから、ってのもあるけどな。

だから、新鮮なんだよな、菖とドラムの話をするって事が。
照れ臭い気もするし、妙な気分だけど、何だか嬉しいんだよな。
当たり前の事だけど、菖もドラムが大好きなんだよな」


「勿論だよ、りっちゃん。
私だって伊達や酔狂でドラムをやってるわけじゃないんだよ?
晶と一緒に演奏したくて続けてきたドラムだけどね、
でも、晶の事を抜きにしてもドラムの事は大好きだもん。
私が思いっ切り全身で動いて演奏のリズムをキープして、
それに晶のギターと幸のベースが合わせて音階を奏でてくれて……。
何て言うか、それがすっごく気持ちいいんだよね!
だから、私はドラムが大好きなんだ」


嬉しくなってくるくらい明快な言葉だった。
考えてみりゃ、私よりずっと上手いドラム捌きを見せる奴なんだ。
それが当然なのかもな。
私も菖に負けないくらい、いいドラマーになってみせたいな……。
どんどん上手くなる澪やムギと、
まあ、一応、唯も含めてやって、皆の足手纏いにならないように。
まだまだ皆と演奏し続けたいからな。

36: 2012/10/16(火) 18:01:52.11
と。
不意に菖が私の肩に腕を回して笑った。


「りっちゃんだって、ドラムの事が大好きなんでしょ?
分かるよ、りっちゃんのドラム、すっごく楽しそうだもん。
私もりっちゃんみたいに思い切り自由に叩いてみたいなー」


褒められてるのか貶されてるのか分からない言い方だったけど、
菖の今の表情から考えると、本気でそう思ってくれてるんだろう。
まだまだ未熟な私だけど、菖にそう言ってはもらえるくらいの演奏は出来てるのか……。
勿論、腕の差ははっきりしてるけど、何だかとっても嬉しかった。
私も照れ隠しに菖の方に腕を回して、肩を組んでから笑ってみせた。


「褒めるな褒めるな。
そりゃドラム大好きで仲間思いの律さんだし?
自由に楽しく演奏出来るのは当然って言うか?

でも、私だって菖のドラムが好きだぞ。
上手いし、あの晶と幸を引っ張れてるじゃん。
ぶっちゃけた話さ、いつも凄いなーって思ってんだよな。
うん、ある意味で目標だよ、菖のドラムはさ。
私も菖に負けないように頑張らなきゃな」


すぐに菖の調子に乗った突っ込みが来るだろうな、って私は思ってた。
『そんなに褒めても何も出ないよ、りっちゃん!』なんて軽く叩かれるはずだって。
でも、どれだけ待っても、私の予想してた菖の突っ込みは来なかった。
何かあったのかな、と思って肩を放して、菖の表情を確認してみた私は驚いた。
菖が顔を真っ赤にして、私を見つめていたからだ。


「あの……、菖さん……?」


私が何か変な事を言ってしまったんだろうか?
不安になって訊いてみると、菖がはっとした顔で早口に捲し立てた。


「もも……、もう!
りっちゃん、いきなり褒めるからびっくりしちゃったじゃん!
そ、そりゃ私だって頑張ってるし、それなりに叩けるようになって来たと思うけどね。
でも、でもでもね、やめてよね、もう!
私って、あんまり褒められるの慣れてないんだから!」


言い終わった後、菖は私から顔を逸らして口を閉じた。
でも、顔を逸らしていても、菖の頬がまだ赤く染まっているのは分かった。
何だかよく分からない内に叱られてしまったみたいだけど、
菖が何を言いたいのかは私にも何となく分かった。

菖はきっと本当に褒められ慣れてないんだろう。
晶は素直じゃないから、人を褒めるようなタイプじゃない。
幸は菖の事を褒めてくれるだろうけど、
優しくて控え目な幸だからそう言ってくれてる、って考えてしまっていたのかもしれない。
褒められる事に慣れてないんだ。
菖はいつも元気だけど、何となくそういう所がある気がする。
胸がAカップだって事も気にしてるみたいだし、
ファッションや髪型にこだわるのも、ひょっとしたら自分に少し自信が無いからかもしれなかった。
だからこそ、褒められると戸惑う事もあるんだろう。

37: 2012/10/16(火) 18:02:17.70
私にはそれが分かる気がする。
多分、私もそうだから。
私も人から褒められる事に慣れてない。
澪がたまに褒めてくれても、恥ずかしくなって本気で取り合えない。
どんどん上達する皆の演奏を聴いてて落ち込む事も、最近になってよくあった。
自分にあんまり自信が無いんだと思う、私も。
多分、菖と同じで。

でも、それが分かったからと言って、二人で慰め合うのは何だか違う気がした。
私はそんなの求めてないし、菖だってそんな事を求めちゃいないだろう。
私達が求めているのはもっともっと違う事だ。
瞬間、私は不意に一つだけいい事を思い付いた。
慰め合うんじゃなくて、気休めの言葉を掛け合うわけでもない。
でも、今の私達にぴったりの、元気になれる方法。
それは……。

私は一人で頷くと、学園祭の時からずっと着たままの衣装のシャツを脱ぎ始める。


「ちょ……っ! 何やってんの、りっちゃん!」


多分、さっきまでと違う理由で顔を赤くして、菖が私に動揺の言葉を掛ける
私はそれを無視して、次は衣装のズボンも脱いで下着姿になった。
思った通り、服を脱いでも暑くも寒くもなかった。
だったら、何も問題無い。
私は脱いだ衣装を畳んで、真っ白い床に重ねた。
強く、二回叩いてみる。


トン、トン。


ちょっと間の抜けた音だけど、贅沢は言ってられない。
私は菖に出来る限りの笑顔を向けると、言ってやった。


「よっし、準備完了!」


「じゅ、準備って何の……?」


「ドラムだよ、即席ドラム。
床から音が出ないんじゃ、他の物を叩いて音を出すしかないもんな。
自分の足を叩いてもいいけど、それは何か違う気がするし。

しかし、服を重ねる事で、私はこうして即席ドラムを完成させた!
誰の仕業かは知らんが、こうして私のドラマー頃しのこの空間に打ち勝ってやったのだ!
ははっ、ざまーみろ!」


私の言葉が終わった後、菖はしばらく呆然とした表情で私を見ていた。
うっ……、流石に馬鹿っぽかったかな……?
結構、いい方法だと思ったんだけどな……。
ちょっと不安になったけど、私は菖の横顔を見ながら次の言葉を待つ事にした。
これが私の空回りだったとしたら仕方が無い。
その時はちゃんと菖に謝らないと……。
そう思い始めた時、菖がその服を重ねただけの即席ドラムの前に陣取った。

38: 2012/10/16(火) 18:02:43.14
トントントトントントントトントン。


菖がスティック無しで軽快なリズムを叩く。
音こそ間抜けだけど、床自体を叩くよりは何倍もよかった。
私の顔を見て一息吐いてから、菖が不敵に笑った。


「うん、床を叩くよりずっといいじゃん。
私、こんなの思い付かなかったなー、やるじゃん、りっちゃん!
ありがとね、これで少しはドラムを叩けないストレスが無くなりそう!」


「どういたしまして」と頭を掻きながら、私も即席ドラムの空いたスペースを叩いた。
音は間抜けで、スティックも無くて、叩きにくいったらありゃしない。
我ながら酷い即席ドラムだ。

でも、無いよりはずっとマシだったし、気持ちもかなり楽になった。
あんまり自分に自信が無い私。
褒められ慣れずに、色んなコンプレックスを抱えてる菖。
それを乗り越えるために必要なのは、多分、慰めの言葉や傷の舐め合いじゃない。
どんな形でも少しずつ前に進んでるって思える事。
こんな形でしかなくても、ドラムの練習を続けられる事。
自分の好きな事を努力し続ける事。
それしかないんだと思う。
その先に何も無くたって、私はこんな自分と一緒に前に進みたい。

不安に満ちたこの空間。
もう氏んでるかもしれない私達。
だけど、今だけは前に進めて笑顔になれた。
それだけで今は十分だった。
とにもかくにも、私には仲間が居るんだって事が分かったから。

それから、多分三時間以上、
私と菖は間抜けなドラムを笑顔で叩き続けた。

39: 2012/10/16(火) 18:03:21.04





不意に、私は目を覚ました。
何だか長い夢を見てた気がする。
夢の中では私はまだ高校生で、梓を含めた五人でライブをしてた。
それ以上の事は思い出せなかったけど、結構楽しい夢だった感覚だけは残ってる。
楽しかっただけに、振り返るとちょっと辛い。
どんなに望んでも、私があの時間に戻れる事はもう無いんだ。
当たり前の事だけど、今はそれが辛かった。
梓は勿論、私はもう澪達とも再会出来ないかもしれない。
こんな真っ白い空間にずっと閉じ込められ続けるかもしれないんだから。

大きく溜息を吐いて身体を起こすと、
私の隣で寝息を立てている菖の顔が目に入った。
綺麗な金髪を輝かせる菖は、その目の端も輝いていて……。
瞬間、私は動揺してしまった。
菖の目の端を輝かせてるのが涙だって事に気付いたからだ。
いや、欠伸かもしれない、と考えて、すぐに首を横に振る。

菖の目の端を濡らしている涙の量は、欠伸なんかで出てくる量じゃなかったからだ。
大粒って程じゃないけど、それなりの量の涙が溢れて、たまにこぼれ出している。
どんな夢を見ているのか分からないけど、とにかく何か悲しい夢を見ているんだろう。
それとも、私の前では我慢してた涙が、眠っている時に溢れ出しているのか。
とにかく。
泣いているんだ、菖は。
こんなにも、いっぱいの涙を流して……。

考えてみれば当然だった。
こんな異常事態が平気な人間なんて、そう居るもんじゃない。
ずっと明るく振る舞ってたから、気付かなかった。
いや、気付かない振りをしてたんだと思う。
菖が元気だから私も元気になろう、って無理矢理に自分に言い聞かせてただけだ。
菖が元気で居てくれないと、自分も元気で居られそうでなくて怖かったんだ。
菖のおかげで、無理して元気を出せてたんだ。
そんなはずないってのに……。

私は胸に痛みを感じて、頭を抱える
駄目だ、やっぱり……。
こんなに菖に頼り切ったままじゃ……。
もう見て見ぬふりなんて出来ない。
考えなきゃいけないんだ。
もう元の生活に戻れないかもしれないって可能性を。


「晶……、幸……、ごめ……ん……」


消え入りそうな声が聞こえて、驚いた私はもう一度菖の顔に視線を戻した。
菖の目蓋はさっきと変わらず閉じたままだった。
どうやら寝言だったらしい。
どうも晶と幸の夢を見ているみたいだ。
何が『ごめん』なのかは分からない。
もう二度と会えないかもしれない事の謝罪なのか、
それとももっと他の理由からの二人への謝罪なのか。
それは私には分からなかったし、もしかしたら菖自身にも分かってないのかもしれなかった。

そして。


「ごめん……、澪ちゃん……」


その言葉を最後に、菖の寝言は聞こえなくなった。
夢も見ないくらいの深い眠りに入ったんだろう。
多分、それでよかった。
私の勝手な願いだけど、今だけは菖に苦しまずに眠っていてほしい。

それにしても、澪の名前が出て来るとは思わなかった。
寮ではあんまり絡みがあるようには思えなかったけど、
ここに来てから妙に気にしてたみたいだし、澪に対しては何か思う所があるんだろう。
ひょっとして、好き……とか?
何となく複雑な気分だけど、菖が澪の事を好きだってんなら私も応援してやりたい。
きっとそれがこの空間で菖に救われ続けた私に出来る事だろう。
でも、その前に私達は話し合わなきゃいけない。
これからの私達が選ぶべき道を。
それがどんなに残酷で辛い道だとしても。

40: 2012/10/16(火) 18:03:46.89





「ねえねえ、りっちゃん、梓って誰なの?」


六日目(仮)。
菖にどう話を切り出そうか悩みながら眠りに就いて、
目を覚ました途端、私は食い入るように菖に問い詰められていた。
いきなり何が起こってるのか分からない。
私は寝惚け眼と半覚醒の頭を抱えながら、どうにか訊ね返してみる。


「何の話だよ……?」


それが消え入るような言葉だったせいか、菖が頬を膨らませて私の頬を軽く抓った。
抓られた場所は痛くなかったけど、何だかちょっと不機嫌そうだ。
何かあったんだろうか?
綺麗な金髪を揺らして、菖が不機嫌そうに続ける。


「寝言で何度も梓って呼んでたよ?
「梓、その水着似合ってるぞー」とか、
「梓ったらまた真っ黒に日焼けしちゃって」とか。

ねえねえ、誰なの?
ひょっとしてりっちゃんの本命の子だったりして?
駄目だよ、りっちゃん!
澪ちゃんって相手が居ながら浮気なんて!」


「どうしてそうなる……」


頭を掻きながらぼやくみたいに呟く。
何でこいつは女子高にそんなイメージを持ってるんだ……。
それにしても、私も寝言を言っちゃってたのか。
高校時代の事を懐かしく思ってたから、それでまた夢に見ちゃったのかもしれないな。
しかも、何故か合宿の時の事を。
まあ、今年は海じゃない合宿になっちゃったから、それが心残りだったのかもな。

ともあれ、これはちゃんと説明しないと、菖も納得しそうにないな。
私は二回自分の頭を叩いて、意識をちょっとだけはっきりさせてから口を開いた。


「言ってなかったっけ?
梓ってのは、高校時代の軽音部の後輩だよ。
小さくて生意気だけど、ギター担当で結構頼りになる奴だったな」


「「水着が似合ってる」とか言ってたのは……?」


「ああ、梓とは海に合宿に行ってたりもしたからな。
それでそういう寝言が出ちゃったんだろうけど……。
つーか、何でそんなに梓の事が気になってるんだよ?」


「だって、りっちゃんの口から聞き覚えの名前が出て来たんだもん。
そりゃ気になるよー?」


「そういうもんか?
まあ、そんなわけで梓はうちの軽音部の後輩だよ。
今は部長として軽音部を引っ張っててくれてるはずだと思うぞ。
答えはこんな所で満足か?」

41: 2012/10/16(火) 18:04:13.81
私としては完璧な応対をしたつもりだったけど、
菖はまだ納得のいってない様子で頬を膨らませたままだった。
何がそんなに不満なんだ……。
上目遣いに私の瞳を見つめながら菖が続ける。


「梓ちゃんって子はりっちゃんの本命じゃないんだよね?」


「本命とか何の話だよ……」


「答えてってば」


「あ……、ああ、そうだよ。
大切な後輩だけど、本命とか恋する相手とかそういうんじゃないぞ。
寝言に出ちゃったのは、単に高校時代が懐かしくなったから、ってそれだけだと思う」


「本当に?」


「本当だって」


私が言うと菖はまたしばらく私の瞳を上目遣いで見ていて、
十秒くらい経ってからやっと安心したような微笑みを浮かべて言った。


「よかったー、りっちゃんが浮気してなくて。
りっちゃんには澪ちゃんって決まった相手が居るもんね。
澪ちゃんを悲しませるような事をしちゃ駄目だよ!」


また澪の話だった。
澪の事は私だって大好きだけど、本命や恋する相手としてって意味じゃない。
幼馴染みとして好きなんだ、って菖にはもうここに閉じ込められた初日に伝えてるしな。

でも、やっぱりどうにも菖は澪の事を気にし過ぎだった。
寝言でも口にしてた事だし、よっぽど澪の事が好きなんだろう。
それが恋愛対象としてなのかどうかは分からないけど、
これからの私達の未来のためにも確認しておいた方がよさそうだ。
もしも菖が澪の事が大好きでまた会いたいって言うんなら、
この空間からの脱出法を何が何でも探す方向で動いた方がいいだろうしな。

にしても、こんな恋バナなんてあんまりした事無いから、ちょっと緊張するな……。
私は二回深呼吸をしてから、真剣な表情を菖に向けて口を開いた。


「なあ、菖。
私が寝言で梓の名前を呼んでたみたいだけどさ、
菖だって寝言で私達のよく知ってる奴の名前を呼んでたぞ?」


「えっ、本当? 晶とか幸とか?」


「ああ、晶と幸の名前は確かに呼んでたよ。
でもな、意外な名前も菖の口から出て来たんだ。
ひょっとしたらだけど、菖はそいつの事が好きなんじゃないか?」


「だ……、誰かな……?」


菖が顔を真っ赤にして私から目を逸らす。
その菖の様子で色恋には疎い私にも分かった。
誰なのかはともかくとして、菖には好きな誰かが居るんだって。
追い詰めるみたいで気が進まかったけど、これからのためにも確認しておくべきだ。
私はわざとニヤリと笑って、何でも無い事のようにその名前を言ってやった。

42: 2012/10/16(火) 18:04:42.93
「菖が寝言で名前を呼んでた奴……、何とそれは澪だったんだぜ!
それで思ったんだけど、私じゃなくて菖の方こそ澪の事が好きなんじゃないか?
付き合いはまだ短いし、何処が好きになったのかは分かんないけど、でも、澪はいい奴だよ。
私が保証するぞ!」


言い終わった後、私は自信満々に胸を張った。
恋愛の事には詳しくない私だけど、この答えには自信がある。
いつも澪の事を気にしてた菖、寝言で澪の名前を呼んでた菖。
ここまで証拠が揃えば間違いない。
菖の好きな相手は澪だったんだ。
何処を好きになったのかは分かんないけど、高校時代はファンクラブもあった澪なんだ。
何処かしら好きになる要素があったのかもしれない。
……と思っていたのに、菖はちょっと溜息を吐きながら口を開いていた。


「違うってば、りっちゃん……。
澪ちゃんの事は友達として好きだよ?
どうして寝言で呼んだのかは分かんないけど、私の好きな相手は澪ちゃんじゃないんだよね」


「……ありゃ?
いや、菖はマジで澪の事が好きだと思ってたんだけどなあ……。
でも、本当かよ?
私に遠慮しなくてもいいんだぞ?
前も言ったけど、私は澪の事を幼馴染みとして好きなだけで、恋する相手ってわけじゃないんだ。
だから、菖の恋が成就するかどうかはともかく、澪の事は好きでいていいと思うぞ?
もし振られたら、私が残念パーティーを開くしさ!」


「だからー……、違うんだってばー……」


菖が悲しそうな表情になって絞り出すように呟いた。
この菖の様子を見る限りじゃ、澪の事が好きだと思ってた私の考えは間違ってたみたいだ。
おかしいな……、絶対そうだと思ってたんだけど……。
澪の事をあんなに気にしてたのに違うとかどういう事なんだ?
私が首を捻っていると、菖が軽く苦笑して私の頭に手を置いた。
その瞳は何処か潤んでるように見えた。


「もー……、りっちゃんてばひどいなあ……。
わざとなの? 天然なの?
とっくの昔に気付かれてる気がしてた私が何だか間抜けじゃん……」


「天然……なのか、私?」


私が訊ねると、菖が更に瞳を潤ませて私の瞳を正面から見据えた。
頬を赤く染めて、迷いと決心を同時に抱いてるみたいな表情をして。
菖は、その話を始めた。


「こんな話をされても、りっちゃんは迷惑かもしれないって思ってたから言えなかったんだ。
でもね、勘違いされたままってのも嫌だから言うね?
私が澪ちゃんの話ばっかりしてたのはね、
りっちゃんは澪ちゃんの事を気にしてるはず、って思ったからなんだよね」


「私が……、澪の事を……?」


「あっ、まだ気付いてないなー。
それがりっちゃんのいい所でもあるんだけどねー。
もしかしたらだけど、寝言で私が澪ちゃんの名前を呼んじゃったのも、それが理由かもね。
澪ちゃんの大事な幼馴染みの傍に私が居てごめんね、って心の何処かでそう思ってたのかも。
だから、澪ちゃんの名前を寝言で呼んじゃってたのかもしれないね」

43: 2012/10/16(火) 18:05:43.03
流石にそこまで言われて気付かないほど、私だってそんなに鈍くない。
でも、どう反応していいか分からなかった。
こんなの想像もしてなかったんだから。
急に心臓が変に動きを速めていく。
結局、それから私が出来たのは、自分自身を指し示して首を傾げる事だけだった。

失礼な行動だったかもしれないけど、菖はそんな私を見て笑ってくれた。
頬を染めながらも、何処かすっきりした笑顔で話を続ける。


「うん、そうだよ。
私の好きな人はりっちゃんなんだよ。
りっちゃんったら全然気付いてなかったみたいだけどね。
ごめんね、こんな形で伝える事になっちゃって……」


綺麗な金髪を輝かせて、同じくらい輝く笑顔を菖が見せた。
ずっと内緒にしてた事を言葉に出来て、どんな形でも清々しい気分になれたんだろう。
軽く苦笑を浮かべる。


「参っちゃったなあ……、
こんな事が無かったらずっと内緒にしてるつもりだったんだけどね。
私の気持ち、迷惑だったらちゃんと言ってくれていいからさ」

48: 2012/10/18(木) 19:39:07.66
私は言葉を失って、菖の瞳をただ見つめる。
何て言えばいいんだろう。
こんなの完全に想定外だ……。
私の無言を悪い意味に受け取っちゃったんだろう。
表情を曇らせて、菖が掠れた声を絞り出した。


「ごめん……ね?
やっぱり迷惑だった?」


「いや、迷惑ってわけじゃないんだけどさ……」


即答しちゃってたけど、それは私の本音でもあった。
予想外だけど、困ってるわけじゃない。
驚いてるけど、迷惑なわけじゃない。
自分でもこの感情をどう表現していいのか分からない。
でも、黙ったままで居るなんて、そんなの想いを伝えてくれた菖に失礼だ。
そんな事、しちゃいけないよな。
私は自分でよく実感出来るくらい戸惑いながらも、思った事を何とかそのまま口にした。


「どうして、私なんだ?」


それが私の中で一番強くなってる思い。
菖の事は勿論友達として好きだ。
一緒に居ると楽しくて、面白くて、退屈しない。
寮でお互いの部屋に隠れて泊まったのなんて、一度や二度じゃない。
菖も私と同じ様に考えてくれてるはずって、自意識過剰かもしれないけど思ってた。
だからこそ、分からない。
菖が私の事を好きだって言う理由が。


「私じゃ駄目って事かな?」


残念そうに菖が呟いたから、私は慌てて首を横に振った。
私が言いたいのは、伝えたいのはそういう事じゃない。
上手く伝えられる自信は全然無い。
でも、伝えなきゃいけないから、私はまた口を開いて言葉を菖に届けた。


「駄目とかそういう事じゃなくて、単純な疑問だよ、疑問。
だってさ、そんな素振りは全然無かったし、私達、まだ知り合って半年くらいだぞ?
女同士だからそういう事を考えもしなかったってのもあるけどな。
まあ、その辺の議論は置いとくとして、
普通は好きになるんなら晶とか幸とか……、
そういうずっと自分の傍に居た奴とかなんじゃないか?」


「晶と幸は友達だよー、りっちゃん。
二人の事は大切だし仲間だと思ってるけど、恋する相手ってわけじゃないんだよ。
大体、それを言うんだったら、
りっちゃんこそ澪ちゃんに恋してなくちゃいけないんじゃない?」


「それもそうだな……」


「恋ってね、出会ってからの長さとか関係ないって思うんだ。
自分でも分からない内に落ちちゃうものなんだよ、きっと。
私だってまさか自分が同級生の女の子の事を好きになるなんて思ってなかったもん。
高校の頃まではクラスで騒がれる男子の事とか気になってたしね。
勿論、付き合うどころか好きだったわけでもなくて、
皆が騒いでるから何となく気になってるってだけだったんだけど。

だからね……、こう言うのも恥ずかしいけど、
こんな気持ち、りっちゃん相手が初めてなんだよね」


「そう……なのか……?」

49: 2012/10/18(木) 19:41:14.82
私は照れ臭くなって自分の頭を強く掻いた。
不格好かもしれなかったけど、仕方ないじゃないか。
こんなの私だって初めての経験なんだ。
女子高出身だし、同級生から告白された経験なんて勿論無い。
放課後ティータイムの皆の事は大好きだけど、それは恋愛感情とは違うと思うしな。
考えてみりゃ、今の今まで私は特に恋とか関係無く生きて来たのかもしれない。
だからこそ、どうしていいか分からなくて、私はまた菖に間抜けな質問を投げ掛けてしまっていた。


「どうして、私なんだ?」


さっきと同じ言葉の質問だったけど、結局はそれに尽きた。
私が誰かから好きになられる理由が全然思い付かないんだよな。
好きだと言ってくれるのは嬉しいけど、理由も分からず好きだと言われても何だか不安になる。
好きだって言葉に理由を求める事自体が間違ってるのかもしれない。
菖に凄く失礼な事を言っちゃってるのかもしれない。
言った後になって私の胸が嫌な感じに鼓動し始めたけど、菖は明るく笑って答えてくれた。


「りっちゃんがりっちゃんだから」


「何だよ、それー」


「りっちゃんと居るといつも楽しいし、面白くて笑えるもん。
晶や幸と一緒に居る時も面白いけど、
りっちゃんと一緒に居る時はもっと笑えてる気がするんだ。
すっごく楽しいし、すっごく面白いんだよね」


「珍獣扱いって事かよー……」


「あはは、そうかもね。
でも、これが私の素直な気持ちだよ、りっちゃん。
これがりっちゃんを好きな理由じゃ、駄目?」


そんなもんでいいのかと思わなくもなかったけど、
ひょっとしたらそんなもんでいいのかもしれない、って不思議と思わされた。
菖の屈託の無い笑顔にはそんな魅力があった。
輝く金髪によく似合った菖の輝く笑顔。
その笑顔が菖の気持ちの全てを物語ってる気がしてくる。

気が付けば、私は苦笑してしまっていた。
浮かべたのは苦笑いだったけど、呆れてるわけでも困ってるわけでもない。
自由な振りして結構頭が固かった自分の間抜けさが面白かっただけなんだ。
誰かが誰かを好きな理由を深く考える必要は無いんだな……。
理由はさておき、菖は私の事を好きで居てくれてる。
ただそれだけの事なんだろう。

50: 2012/10/18(木) 19:41:43.59
……ん?
そこで私は不意に変な事を思い出した。
訊いていいものなのか迷ったけど、元々隠し事の少ない私達なんだ。
疑問に思った事を素直に菖に訊ねてみる事に決めた。


「そういや、菖。
この前、天井を調べる時、肩車替わってくれなかったよな?
単に重いのが嫌なのかなって思ってたけど、ひょっとして……」


私が訊くと、菖が顔を真っ赤にして視線を俯かせた。
それでも、消え入るような声で私の質問に応じてくれる。


「りっちゃんを肩車なんて……、無理だって……。
自分が肩車されるならともかくさ、
首筋にりっちゃんの太股の感触を感じるなんて、ドキドキしちゃうよ……。
そんなの……絶対無理だってー……」


衝撃的な答えだと思うべきか。
それとも、予想通りの答えだと思うべきなのか。
でも、とにかく私は妙に納得してしまっていた。
それで菖はどんなに頼んでも私と肩車を替わってくれなかったわけだ。
誰かに恋をするって事は、そういう緊張を感じてしまうって事でもあるんだな。
という事は……。


「じゃあ、昨日、私が服を脱いだ時も……?」


重ねて私が問い掛けると、菖はその小さな身体を余計に縮こまらせた。
林檎みたいに頬を真紅に染めて、視線をあっちこっちに彷徨わせ始める。
そんなに恥ずかしい事を訊いちゃったんだろうか。
そう思いながら十秒くらい菖の次の言葉を待っていたら、開き直ったのか菖が急に声を張り上げた。


「そうだよ!
ドキドキしたよ!
ドキドキしましたよったら!

だって、仕方ないじゃん!
好きな子が下着姿で居るんだよっ?
ドキドキするなって方が無理な話だって!」


よっぽど恥ずかしかったんだろう。
そう言った菖の目尻は軽く涙で濡れていた。
うーむ……、誰かに恋するってのは大変な事なんだな……。
その恋の相手が自分自身だって実感はまだあんまり無いけど、何だか身体がこそばゆくなった。
背中がちょっと痒くなってくる気分だな……。

と。
不意に菖がまた視線を伏せた。
また何か恥ずかしい事を思い出したのかと思ったけど、そうじゃないみたいだった。
申し訳なさそうに菖が声を絞り出して続ける。

51: 2012/10/18(木) 19:42:09.79
「ごめんね、りっちゃん……」


「……何が?」


「こんな事、考えてる奴が傍に居たなんてやっぱり迷惑だよね?」


「どうしてだ?」


「だって……、りっちゃんはこう考えたりしない?
りっちゃんの太股の感触や下着姿にドキドキしちゃう私だよ?
何か変な事しちゃいそうじゃん……?
例えばりっちゃんの寝込みを急に襲ったり……とか……」


「別に迷惑じゃないよ、菖。
菖の好きな相手が私だって事には驚いたけど、嫌じゃないって」


「な……、何で……?」


「だって、私の寝込みを襲ったりとか、菖はそんな事しないだろ?」


私がそう言った途端、菖の身体が一気に硬直した。
まさかそんな言葉を返されるとは思ってなかったんだろう。
今までとは逆に、菖の方が戸惑いの表情を浮かべて私の瞳を見つめていた。
私も菖の瞳をまっすぐに見つめ返す。

まだ菖が私の事が好きだって実感は無い。
誰かの事を好きになるって感情もまだ分からない。
私が菖の好きだって気持ちに応えられるかどうかも分からない。
でも、一つだけ確信してる事がある。
菖は絶対に私の嫌がる事も、誰かの嫌がる事もしない奴なんだって。
からかったりくらいはするけれど、本気で嫌がるような事はしないんだって。

出会ってまだ半年くらいだけど、私の中の菖はそういう奴だった。
明るくて楽しくて無邪気で元気で面白い事が大好きで、
でも何も考えてないわけでもなくて、晶や幸や仲間の事を大切に思ってる。
出会ってまだ半年の私達の事も大事にしてくれてる。
この空間に閉じ込められてからだって、
菖は私の気持ちを尊重してくれていたし、私を大切にしてくれていた。
私に迷惑にならないように、自分の気持ちも押し込めてずっと言わずにいてくれた。
だから。
それだけは私の中の真実なんだ。


「も、もー……、りっちゃんったら……」


言いながら、菖が自分の目元を右の手のひらで隠す。
もしかしたら、泣いてるのかもしれなかったけど、私はそれには触れなかった。
続く菖の声がとても明るいものだったからだ。

52: 2012/10/18(木) 19:42:36.29
「恋する乙女のパワーを甘く見ちゃ駄目だってば……。
乙女は無敵で暴走しがちなんだから、そんなに信用しちゃ駄目だよ……!
特に私はこう見えて恩那組の裏のリーダーなんだからね!
実は高校時代もあんまりにも無敵だから、
頃す女と書いて『殺女』って呼ばれて恐れられてたんだよー?」


頃す女と書いて『あやめ』……?
ああ、『殺』める『女』で『殺女』か。
何て酷いネーミングセンスなんだ……。
人の事は言えないけど。
つーか、『殺女』って当て字を考えたのは幸なのかな。
『恩那組』って名前を考えたのも幸らしいし。
これはいつか絶対幸に訊いてみなければなるまい。


「しかし、『殺女』ねえ……」


私が呆れた感じに呟いてやると、急に菖が「何をー!」と叫んで私に飛び掛かって来た。
勿論、私を押し倒そうとしたわけじゃない。
単に照れと自分の涙を隠すために飛び掛かって来ただけだ。
私は腹と腰に力を入れて、菖の身体を正面から抱き留めてやった。
菖の体温を感じる。生きている熱を感じる。
菖の心臓の音が強く聞こえる気がするのは、菖が緊張してるからだろうか。
それとも……。


「もう……。
りっちゃんったら、抵抗しないんだね……。
私の事を信じてくれてるんだ……」


菖が私の胸の中で小声で呟いた。
「当たり前だろ?」って言いながら、私は菖の綺麗な金髪を撫でた。
パーマが当てられてるから凄くサラサラってわけじゃない。
でも、十分過ぎるくらい指通りのいい髪質だった。
何だ、やっぱり菖も十分可愛い女の子じゃん。

もうしばらく菖の髪を撫でていたかったけど、菖が不意に胸の中で震える声をまた出した。
今までみたいに緊張してるわけじゃなくて、
何かを申し訳なく感じてるみたいな声色だった。


「ありがとう……。
でも、ごめん、りっちゃん……」


「いきなり何の話だ?」


「私ね、思ったんだ。
この真っ白い部屋って、結局、何なんだろうって。
部屋自体より私達の身体の方が変になっちゃってるこの部屋……。
私達がもう氏んじゃってるって考え方も出来るけど、
私、一つ心当たりって言うか、想像しちゃった事があるんだよね。

ひょっとしたらね……、
ここは私の心が創っちゃった心の中の世界なんじゃないかって」


「心の中の世界……?」


「漫画とかでよくあるでしょ?
何か辛い事があった時とか、現実から逃げたい時とかに誰かが心の中に世界を創るって漫画。
私はそんなに辛い事があったわけじゃないけど、もしかしたらって思うんだよね。
さっきも言ったけど、こんな事でもないと、
私、りっちゃんに好きだって言う事は無かったと思う。
これでも墓場まで持ってくつもりだったんだよ?
りっちゃんは絶対澪ちゃんと付き合ってるって思ってたしね……。

だから、思ったんだ。
この白い部屋は、私がりっちゃんと仲良くなりたくて無意識に創った部屋なんじゃないかって。
りっちゃんを独り占めしたくて、創り上げちゃった部屋なんじゃないかって。
だからね……、ごめん……」

53: 2012/10/18(木) 19:43:15.72
私の胸の中で菖が身体を震わせ始める。
真偽はともかくとして、菖は本気でそう思い始めているらしい。
言われてみれば、その可能性は確かにあった。
この白い空間が人間の手で作られた物じゃないのは見るからに明らかだ。
何より、私達の身体の異常が、この空間が現実世界じゃないって証明してるようなものじゃないか。
私達の意識が氏んだ後に残ってるって考えるより、
ここが菖の心の中の世界って考えた方がかなり理屈に適うしな。

そう言えば、菖はこう言っていた。
『私は幸せなんだよね、りっちゃんが傍に居てくれて』って。
それは言葉通りの意味だったのかもしれない。
私の傍に居たくて、菖の心の中にこんな白い空間が出来ちゃったのかもしれない。

小さく溜息を吐いてから、私は胸の中に居た菖の両肩を掴んだ。
そうやって自分の身体から引き離して、真正面から辛そうな菖の瞳を見つめてやる。
菖は今にも泣き出しそうな顔をしていたけど、私から視線を逸らさなかった。
何を言われても私の言葉を受け取める覚悟があるって事なんだろう。

私は大きく頷いて、その言葉を菖に届けた。


「だったら、この空間の名前は『殺女フィールド』で決定だな」


「……えっ?」


「勿論、あやめは頃す女って書くやつだぞ。
かなりいいネーミングだと思わないか?
いやー、困ってたんだよなー、この空間の呼び方が決まらなくてさ。
ああでもないこうでもない、って結構悩んでたんだぜ?
何はともあれ、名前を決められてよかったよ」


「えっ? えっ?」


菖が今まで見た中で一番間抜けな表情を浮かべて、戸惑いの声を何度も上げる。
ネーミングセンスを褒めてくれなかったのは残念だけど、
私は口の端をニヤリと曲げてから、悪い笑顔で話を続けてやった。


「むー、何だよー。
折角、いい名前が決まったんだから褒めてくれよ、菖ー」


「別にそんなにいい名前じゃな……じゃなくて、りっちゃんったら何を言ってるの?
この部屋は私の心が創っちゃった部屋なのかもしれなくて、
それにりっちゃんが巻き込まれちゃってるのかもしれないんだよ?
だったら、もっと……」


「もっと……、何だよ?
この『殺女フィールド』は確かに菖が創った空間なのかもしれない。
私と仲良くなりたくて創っちゃった空間なのかもしれない。
でもさ、それって可能性だろ?
ねえ、菖さん?
可能性に踊らされるほど、私は単純じゃなくてよ?」


「で、でも、一番高い可能性だと思うよ?
こう考えれば色んな事に説明が出来るし、
りっちゃんとずっと一緒に居られて嬉しかったのは本当だし……。
私、りっちゃんと二人きりになりたいって何度も思ってたし……」


「でもさ、菖は晶や幸ともまた会いたいだろ?」


私が言うと、菖ははっとした表情になって言葉を止めた。
言っていいものなのか迷ったけど、私は昨日寝ていた時に見たものを伝える事にした。

54: 2012/10/18(木) 19:44:12.26
「私、見たんだよな。
菖がさ、昨日寝ながら泣いてたのを。
それも晶と幸の名前を呼びながらさ。
それってやっぱりまた晶達に会いたいからだろ?
晶達だけじゃない。
澪や唯やムギや家族ともまた会いたいだろ?
私だって会いたいよ。また皆と会って遊びたいよ。

なあ、菖……、私も思ったんだ。
菖は私と一緒に居られて嬉しかったって言ってくれた。
二人っきりになりたいって何度も思ってたって言ってくれた。
でも、菖の中の想いはそれだけじゃないだろ?
菖は好きな人以外の皆も大切にする奴だろ?
迷惑かもしれないけど、私の中では菖はそういう奴なんだ。
友達や仲間を大事にする奴なんだよ。
そんな菖が私だけを一人占めして喜ぶわけないよ。
皆と一緒に楽しみたいはずなんだ。

『君さえいれば他に何もいらない』。
……なんてよく聞くフレーズだけど、実際はそんな事無いよな。
私だったら嫌だな。欲張りなんだよ、私。
誰か一人だけ居れば他の物はいらない、って言えるほど謙虚じゃないもんな。
仲良くなった皆といつまでも仲良くしてたいんだ。
一人だけなんて選べるかよ。
……菖は違うのか?」


「私……、私は……」


菖が視線を彷徨わせる。
私の言葉に自分の本当の気持ちを見失いそうになってしまってるのか。
いや、そうじゃない。
本当は気付いてるはずなんだ。
菖だって大勢の大切な仲間を持ってる奴なんだから。

しばらく経って、菖が視線を私の瞳に戻した。
瞳を強く輝かせて、私を真正面からじっと見つめて強く言ってくれた。


「うん、私もまた晶や幸と遊びたい。
澪ちゃんや唯ちゃん、ムギちゃん達とだってもっと仲良くなりたい。
りっちゃんと一緒にまた外で遊びたいよ。
特にりっちゃんとショッピングとかしたい!
りっちゃんをもっともっと可愛くしてあげて、皆をびっくりさせたいし!」


それはちょっと勘弁してほしかったけど、菖の意志が固まったのならそれでよかった。
菖が私の好きな菖で居てくれて、本当によかった。
私は少しだけ微笑んでから、胸の中に菖の頭を抱き留めて言った。


「だったら、それでいいんだよ、菖。
ここが菖の心の中なのかどうかなんてどうでもいいよ。
もし本当に菖の心の中でも、菖がここから出たいと思ってくれてるんなら、その内出られるだろうしな。
だからさ、絶対、ここからどうにかして脱出してやろうぜ?
ショッピング……も、まあ、気が向いたら付き合わないでもないぞ?
多分な!」

55: 2012/10/18(木) 19:44:47.78
「えー、ショッピング行こうよ、りっちゃーん!
りっちゃんをもっと可愛くしてあげたいよー!」


「うーん……、じゃあ、こういうのはどうだ?
この『殺女フィールド』から脱出した後、ドラムで対決するってのは。
勝った方が負けた方に何でも一つ命令出来るって事で。
二人ともドラマーなわけだしな!」


「あ、言ったね、りっちゃん。
この前の学園祭の結果を忘れたのかなー?」


「いや、あれはバンド対決だったからな。
別に私と菖の対決じゃなかったわけだし、私を甘く見てたら痛い目見るぜ?」


そう言った後で、私はまた菖の頭を強く抱いた。
菖は私の胸の中で笑ってくれてるみたいだった。
この空間に閉じ込められて初めて、これでいいんだってやっと思えた。
私達はこの空間から脱出してみせる。
その先に何が待ってたって、私達は脱出してまた皆で遊んでみせるんだって。

56: 2012/10/18(木) 19:45:16.08





また三日ほど経った。
菖は私に想いを伝えてくれたけど、私と菖の関係はそう変わってなかった。
菖が私の事を自然に『好き』と言うようになったくらいだ。
勿論、まだ菖のその想いについて返事はしてない。
ン系なんていきなり変わるもんでもないし、二人とも口に出さなくても決めていた。
私達の関係を本当の意味で変えるのは、この空間から脱出してから。
その時にこそ、本当の意味で私達の関係を始めるんだって。
ぶっちゃけた話、もうちょっと時間も欲しいしな。

だけど、私がそう思っていたのが悪かったんだろうか。
何かは変わらないように見えても、少しずつ確実に変わっている。
気付いた時には大きな変動が起こってしまってる事も多いんだ。
私達はその事を深く実感させられて、途方に暮れてしまっていた。
いや、正直、こんな事が起こるなんて想像もしてなかった。


「何だろうな、これ……」


「いくら何でもこれはねえ……」


二人して立ち竦んで、突然この空間に現れたそれを見つめる。
それ、と言うのは大きな穴の事だった。
床にぽっかり空いた一畳分くらいの長方形の穴だ。
さっき目を覚ましたら、先に起きていた菖がその穴を見て立ち竦んでいたんだ。
菖曰く、目を覚ましたらいつの間にか穴が開いてたんだそうだ。
こんなの、いくら何でも唐突で理不尽過ぎるだろ……。


「出口……かな?」


菖が自信無い感じで呟いていたけど、私はそれに反応出来なかった。
菖の質問に答えられるだけの判断材料が無かった。
この空間の何処かにスイッチを見つけて、それを押したから開いた穴とかならまだ分かる。
そっちだったら、何の躊躇いもなくこの穴の中に二人で飛び込んで行けるだろう。
もしそうなら、どんなによかっただろうか。

でも、残念ながら、事態はそう単純じゃなかった。
何せ寝てる間にいつの間にか開いてた穴なんだ。
こんなのいくら何でも胡散臭過ぎる。
間違いなく嫌がらせの罠か何かだ。
つーか、寝返りを打った時に、穴に落ちちゃってたらどうする気なんだよ……。


「出口だと思うか?」


「ど、どうかなー……?
絶対、誰かの罠の気がする……」


私が訊ね返すと、菖もやっぱり首を横に振りながら言った。
そりゃそうだ。
ここから脱出する気は満々だったけど、
こんな形でこれ見よがしに穴を開けられても信用しろって方が無理だ。

57: 2012/10/18(木) 19:45:41.56
「でもなあ……」と私は口を尖らせる。
罠じゃない可能性もあるし、罠だったとしてもこの穴に入らなきゃ話が始まりそうにない。
今までどうやったってここから出る方法は見つからなかったんだ。
この空間から出られる可能性が出来た以上、罠でも飛び込んで行くしかない。
そんなの分かり切ってる事だ。
私は隣で立ち竦む菖に、宣言するみたいに言ってみる。


「罠でも……、飛び込むしかないよな……?」


それに対して菖は何の反応も見せなかった。
ただ深刻そうな表情を浮かべて、全身を震わせているように見えた。
いくら何でも突然の事態だし、先の展開が未知過ぎる。
皆と遊ぶ決心をしていても、やっぱり怖いんだと思う。
私だって怖い。
身体の芯から震えが起こり出しそうだ。
だから、私は独り言みたいに呟いてみる事にした。


「罠かどうかは分かんないけどさ、多分、罠なんだろうな。
映画のお約束とかであるじゃん?
密室を抜け出せたと思ったら、そこからが本当の惨劇の始まりだった、ってやつ。
何故かいきなり変な怪物に襲われる展開になったり、
急に密室じゃなくて迷宮脱出アドベンチャーな展開になったり、とかさ。
手垢が付き過ぎてて、そんなに映画を観ない私だって飽きちゃってるお約束だよ。
もしかしたら……、この穴に飛び込んだ途端にそんな事になっちゃうのかもな……」


菖は何も言わない。
もしもここが本当に菖の心の中だったとして、
自分の深層心理がそんな事にするのか思いを巡らせているのか。
それとも、この空間は自分の心の中じゃないんだと考え直しているのか。
その真意を掴めないまま、私はまた話を続けた。


「このまま穴に飛び込まないって手もあるよな。
この空間の中に閉じこもっていれば、とりあえず命の危険は無いもんな。
お腹も空かないし、トイレに行く必要も無いしな。
安全を考えるんだったら、この穴に飛び込まない方が利口なのかもしれないぞ。
だって、ほら……」


言いながら伏せて、ぽっかりと空いた穴を覗き込んでみる。
予想通りだったけど穴の中は真っ暗で、
何があるのかどころか底が深いのか浅いのかすら分からなかった。
こう言うのも何だけど、絶望への入口みたいに見えたくらいだ。


「どうする、菖?」


私は立ち上がってもう一度菖に訊ねてみる。
菖はまだ少し震えてるみたいだった。
これだけ不安材料を並べてみたんだ。
不安を感じない方が無理って話だった。
だけど……。

私は、菖を信じたい。
いや、菖を信じてるから。
じっと菖の次の言葉を待った。

どれくらい経っただろう。
一分か、五分か、それ以上か……。
とにかくそれくらい長い時間が経った時、菖が私の方を顔を向けて言った。
強い意志のこもった視線を向けて、言ってくれた。

58: 2012/10/18(木) 19:48:40.63
「飛び込もうよ、りっちゃん。
何があるのか分かんないけど、りっちゃんと約束したもんね。
一緒にショッピングに行こうって。
ショッピングに行って、りっちゃんをもっと可愛くしてあげるって。
それが出来なきゃ、りっちゃんと二人きりで居られても嬉しくないしね!」


その言葉が聞きたかった。
我ながら意地悪だと思ったけど、菖自身に決めてほしかったんだ。
どんなに怖くても、どんなに不安でも菖に決めてほしかった。
菖は私と二人で居れば幸せだと言ってくれた。
でも、それでいいはずないんだ。
皆と手に入れられる幸せこそ私と菖の本当の幸せだと思うから。
二人だけじゃなく、皆と一緒に居られる幸せに勝るものは無いはずだから。

私は嬉しくなって笑顔になりながらも、
それを悟られないように菖の頭を軽く叩いてやった。


「ショッピングの約束はしてないだろ、菖ー。
私達が約束したのはドラムの対決だけだろ?
過去を勝手に改竄するのはやめい!」


「あれ?
そうだったかなー?」


「そうだそうだ!
そんな事言ってたら、ドラムの対決もやめにしちゃうぞー?」


「あはっ、ごめんごめん。
でも、ドラム対決の勝敗ってどうやって決めるの?
部長達にでも判断してもらう?」


「部長達に任せるとろくな事にならなそうだからやめとこうぜ……。
そうだな……、自己申告でいいんじゃないか?
自己申告で負けを申告した方が負けって事でさ」


「えー、自己申告ー?」


菖が頬を膨らませながら笑う。
ちょっとは不満もあるみたいだけど、それで納得してくれたみたいだ。

こんな事を考えるのも情けないけど、ドラム対決は私の負けで終わるだろう。
私と菖のドラムのテクニックにはそれくらいの差があるって事くらい、自分でも分かってる。
それでもいいかなって思う。
これは私達の一つのけじめのつけ方でもあるんだから。
曲がりにもドラマーとして……な。
勿論、ただ負けるつもりはないけどな。
精一杯戦ってやって、その結果負けたならそれでいいと思う。
もし万が一勝てたとしたら、その時は菖に私のショッピングの荷物持ちでもしてもらう事にしよう。

59: 2012/10/18(木) 19:49:46.03
「りっちゃんもそれでいい?」


それでいい?
と言うのは、ドラム対決の事じゃなくて、この穴に飛び込んでいいのか、って事だろう。
私は菖の顔を見つめてから、笑ってみせる。
輝く髪と輝く笑顔を持ってる菖に負けないように、精一杯の笑顔で。


「勿論だよ、菖。
罠だとしても飛び込んでやろうぜ。
おのれー、『殺女フィールド』めー!
こんな物で私達が怯むと思ったら大間違いだぞー!」


「その名前で呼ばないでってば。
でも、りっちゃんの言う通り!
私達はこんな罠に負けたりしないんだからね!」


菖が笑い、私も重ねて笑った。
どちらともなく手を重ねて、握り締め合う。
これから先どうなるのかは分からない。
どんな困難が待ち受けているのかも分からないし、不安ばっかりだ。
それをよく分かっているからこそ、最後に菖が私に確認してくれた。


「ねえ、りっちゃん?
りっちゃんは本当にこの穴に飛び込んでもいいの?
もしかしたら、ここに居た方が安心して暮らせるかもよ?
娯楽は全然無いけど、少なくとも危険が無くて安全な暮らしが出来ると思う」

60: 2012/10/18(木) 19:50:56.71
「分かってるって。
そっちの方が安心だって事も、これから先が不安ばっかりって事もさ。
でも、私、考えてた事があるんだよ。
この前、菖は言ったよな?
『人は一人きりで生まれ、一人きりで氏んでいく』って。

実際、そうなのかもしれないけど、思ったんだ。
人は生まれる時も氏ぬ時も一人でも、生きてる時は一人じゃないはずなんだってさ。
一人で生きてるわけじゃないんだよ、私達。
考えてもみてくれよ、私達がこの空間に閉じこもってたらどうなると思う?
それこそ、生きてるけど氏んでるようなもんなんじゃないか?

この空間の外がどうなってるのかは分かんないけど、
もしここから出る事を私達が諦めたら、私達自体はともかく、
外で私達の帰りを待ってくれてるはずの澪や晶達は、私達が氏んだんじゃないかって思うはずだよ。
多分、泣かせる事になっちゃうと思う。
自分に生きてる価値があるのかどうかなんて分かんないけど、
少なくとも澪達に悲しい思いをさせたくないって思うんだよな。
そう言う意味で私達は生きている間は一人じゃないんだよ」


「うん、そう……だね。
そうだよね!
晶もさ、ああ見えて涙脆いから、私が氏んだら泣いちゃうと思うな。
晶の泣き顔は面白いけど、悲しくて泣かせるのは私だって好きじゃないもん。
晶が泣いていいのは、私がからかった時だけなんだから!

だから……、
こんな所なんてさっさと出てやらなきゃね!」


「その意気だ」


笑い合って、二人で強く手を握り合う。
これから先は不安に溢れてるけど、怖いけど……。
でも、二人なら、何とかやっていけると思う。
どんな罠や困難が待ってたって乗り越えてやる。
まあ、意外と穴に飛び込んだ途端に、寮に戻ってたりもするかもしれないしな。
だから、私達はこの穴に飛び込んで、この空間を後にしてやるんだ。

そうして私達は「せーの!」と声を上げてから、


「さらばだ、『殺女フィールド』!」


「だから、その名前はやめてよー!」


二人で笑顔を浮かべて、その穴に飛び込んでやった。
皆と再会するために。
ドラム対決をして、菖との関係を一歩進めるために。
輝く笑顔を見せてくれる大切な菖の笑顔を、もっと輝かせてみせるために

61: 2012/10/18(木) 19:51:25.10
































「ねえ、りっちゃん、憶えてる?」


「んー? 何を?」


「ドラム対決だよ、ドラム対決。
折角またドラムを叩けるようになったんだから、早く対決しちゃおうよ!
私、もう行きたいお店決まってるんだよねー。
それとも、ドラム対決の約束、忘れちゃったの?」


「忘れてねーよ、菖。忘れるもんか。
よっしゃ!
じゃあ、今から部室で対決すっか!

ぎゃふんと言わせてやるから、覚悟しとけよ、菖ー!」


「そっちこそ、覚悟しててよー!」















         おしまい

62: 2012/10/18(木) 19:53:45.50


以上で終了です。
皆さんのイメージと違うかもしれませんが、自分なりに菖ちゃんを描写してみました。
読んでいたけた皆さん、誠に有難うございました。

65: 2012/10/18(木) 22:13:07.64

引用元: 律「繭を壊して」