1: 2010/06/04(金) 23:40:07.10
蝉がその歌声を高らかに響かせる九月。

突然気付いてしまった自分の残り時間。

受け止めるまでに何日掛かっただろう。

いや、まだ受け止められていないのかもしれない。

残り時間は一週間。

原因も知っていたはずだった。

でも…思い出そうとしても、何故か頭に靄がかかる。

原因など些細な事なのかもしれない。

それを思い出したところで、何も変わらないのだから。

明日から始まる新学期。

誰にも知られないようにしよう。

いつも通り振る舞おう。

残された時間、精一杯生きてみよう。

最期まで―
最期のその時まで。

3: 2010/06/04(金) 23:44:01.04
「あーずーにゃんっ!」

部室に飛び込むなり、唯は梓に飛び付いた。
驚いた梓の小さな手から、カメの餌が床へと落ちる。

「きゃっ!」

真っ黒なツインテールを揺らしながら、梓が振り向いた。
その頬はぷくっと膨らんでいる。

「ちょ、ちょっと唯先輩!いきなり抱き付かないでくださいよ、もうっ!」

口では文句を言いながらも、梓はほんの少し照れているように見える。
それが唯にはたまらなく可愛いのだ。
唯は梓に抱きついたまま

「えー、だって久しぶりなんだもん。
いいじゃーん」

そう言って頬を摺り合わせる。

「久しぶりって…。三日前に会ってるじゃないですか」

梓は呆れた顔で唯を引き剥がすと、
床に散らばった餌を片付け始める。

4: 2010/06/04(金) 23:44:40.34
「むー…確かに三日前にも会ったけどさっ。
新学期一発目ということで!」

三日前、軽音部の皆でお泊まり会をした。
これだけ聞けば夏休みの楽しい思い出なのだが、実際はただの勉強会。
宿題に全く手を着けていなかった唯と律の為、
軽音部の皆で勉強の手伝いをしたのだ。
飽きっぽい唯と律に悪戦苦闘しながら、
なんとか宿題を終わらせ、今日この新学期を迎えた。

「もういきなり抱き付いたらダメですからね」

床を綺麗に片付けた梓が、溜め息混じりに注意する。

「じゃあ抱き付く宣言してから抱き付くね、あずにゃんっ!」

満面の笑顔で答える唯に、梓はもう一度大きな溜め息を吐く。

「そういう問題じゃありません!」

「ちぇー…あずにゃんのケチー」

露骨に寂しそうな顔をする唯に、
たまになら…と梓の心が一瞬折れそうになる。

「まったく…これじゃどっちが先輩か分からないな」

6: 2010/06/04(金) 23:46:11.57
二人のやり取りをいつから聞いていたのか。
澪が部室の入り口に立ち、呆れた顔で笑っていた。

「おーっす」

澪の後ろから、律がひょこっと顔を出す。

「おー、梓ー。久しぶりだなー」

そう言いながら、無造作に鞄を床に置き、
ドカッと椅子に腰を下ろした。

「律先輩まで…三日前に会ってるじゃ…」

「みんな、お茶にしましょう」

梓の言葉を遮るように、紬が部室に入って来る。
鞄を丁寧に置くと、棚からティーカップを取り出していく。
梓は今日三度目の溜め息を吐くと、
仕方なく椅子に腰を下ろした。

7: 2010/06/04(金) 23:46:57.58
「ムギちゃんムギちゃん!今日のおやつは何!?」

「ふふふ、じゃーん!」

身を乗り出している唯の目の前で、
紬は綺麗に包装された箱を開けた。

「おー!りっちゃん見て見て!」

「すげー!マク…マクロン!」

「違うよりっちゃん!マキロンだよ!」

「マカロンだ…」

机に片肘をついた澪が、呆れた顔で呟く。
そんなやり取りを見ながら、紬はふふっと小さく微笑んだ。

8: 2010/06/04(金) 23:49:02.11
部室での楽しいティータイムも終わり、
気付けば校舎は静けさに包まれていた。
先程まで聞こえていた生徒達の笑い声も無くなり、
今は蝉の鳴き声だけになっている。
新学期初日。
ホームルームと全校集会だけの日程なので、
夕方まで残っている生徒は少ないのだ。

「もうこんな時間か」

澪は壁の時計を確認する。
時刻は午後四時を回ったところだった。

「じゃあ少し練習してから帰るか」

そう言って澪はベースに手をかける。
ところが―

「えー、帰ろうぜ澪ー」

「私もりっちゃんに賛成ー!」

唯と律はだらしなく机に突っ伏し、
手足をパタパタさせている。
いつもの事なので、澪は耳を貸す事はしない。

9: 2010/06/04(金) 23:50:30.72
「ダメだ。軽音部はお茶する為にあるんじゃないんだからな」

「そうですよお二人共。私は澪先輩に賛成です」

梓も澪に加勢するが、これが効果無しというのは梓にも分かっている。
紬は相変わらずニコニコとそのやり取りを眺めていた。

「ほら、律!唯!練習だ!」

澪は二人の首根っこを掴むと、
無理矢理起き上がらせる。
しかし手を離すとグニャリと元の姿勢に戻ってしまった。
まるで軟体動物だ。

10: 2010/06/04(金) 23:51:31.12
「あははー、なんかタコになった気分だねー、りっちゃん」

「あははー、そうだな唯ー」

ヘラヘラと笑う二人に、澪の怒りがフツフツと湧き上がる。
しかし澪は軽音部の中ではしっかり者で大人だ。
その怒りを抑え、もう一度説得しようとする。
が―

「ねぇねぇ澪ちゃん。今のもっかいやってー」

「澪ー。もっかいタコやってー」

それは無駄な努力に終わった。

「おまえらぁぁぁ!」

二人の頭に雷が落ちたのは言うまでもない。

12: 2010/06/04(金) 23:52:46.35
「ちぇー、澪の分からず屋ー」

頭に出来たコブを撫でながら、
律が口を尖らせる。

「律、お前は部長だろ。もっと部長らしくしたらどうだ」

そんな澪の小言を聞いた律の目が、
何かを閃いたかのように見開かれた。

「よし!部長の判断で今日は解散!じゃっ!」

そのまま部室から出て行こうとして―
澪に腕を掴まれる。

「おい、律」

「というのは冗談でー…てへ」

律は舌を出して誤魔化す。
どうやら練習は避けられそうになかった。
しかしここで唯が助け舟を出す。

13: 2010/06/04(金) 23:54:41.30
「りっちゃんりっちゃん…ごにょごにょ…ごにょごにょ」

唯が何かを耳打ちすると、
それを聞いた律の顔がみるみる明るくなっていく。

「な…なんだよ」

そこはかとなく嫌な予感がする。
澪はじりじりと後ずさりした。

「よし、練習する!でもその前に小話をひとーつ!」

「は?」

「え?」

呆気にとられる澪と梓。
紬は相変わらず楽しそうに見守っている。

14: 2010/06/04(金) 23:55:47.60
「それは…ある夏の出来事でした」

「お、おい律」

「ある軽音楽部の少女が、部室で練習をしていました。
他の部員は皆下校し、部室には少女が一人…
気付けば外は真っ暗です。
そろそろ帰ろうか…少女がそんな事を思っていたその時…
ピチャ…ピチャ…廊下から何か音が
聞こえてくるではありませんか。
ピチャ…ピチャ…それはゆっくりとこちらへ近付いて来ます。
まるで濡れた素足で歩くような音…
そしてその音は少女のいる部室の前まで来ると…」

ガチャン!

律がそこまで話した時、突然部室のドアが開いた。

「ひぃぃぃぃぃぃ!」

「ぎゃぁぁぁぁぁ!」

あまりに突然の出来事で、話していた律さえも悲鳴をあげる。

15: 2010/06/04(金) 23:56:57.35
「え?な、何?というよりもあなた達まだいたの?」

そこには呆気にとられた和が立っていた。

「なんだー和ちゃんだったんだ!びっくりしたー!」

「ちょっと唯、一体これは…」

和の視線の先に、耳を塞いでうずくまる澪がいた。

「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない…」

自分に言い聞かせるように、必氏にブツブツ呟いている。

「な、何でもないよ和ちゃん。それよりどうしたの?」

「私は生徒会の仕事。下校時間過ぎてるから見回りしてたの。
唯、あなた達ももう帰らなきゃダメよ」

唯が時計に目をやると、いつの間にか下校時間を過ぎていた。

16: 2010/06/04(金) 23:57:53.69
「じゃあ私行くね」

和はそう言って部室から出て行く。
何のことはない。
結局練習する時間など最初から無いに等しかった。
唯と律、二人の無駄な抵抗は何だったのか。
練習嫌いな先輩を眺めて、
梓はそんな事を考えていた。

(でも…やっぱり楽しいな)

梓は窓の外を見つめる。
あとどれくらいこの素敵で無駄な時間を過ごせるのだろう。
どんなものにも必ず終わりはやって来る。
梓はそんな終わりを振り払うように、小さく首を振るのだった。

17: 2010/06/04(金) 23:58:52.08
「でね、澪ちゃんってばなかなか立ち上がれなくてね」

「ふふ、澪先輩は怖がりだもんねー」

テーブルに料理を並べながら、憂が優しく微笑む。
あれから澪を立ち直らせるのに手こずり、
家に着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。
玄関を開けるとカレーの匂い。
それが唯の胃袋を刺激した。
鞄を放り投げ、急いで着替え―
今こうして夕食の時間だ。

18: 2010/06/04(金) 23:59:48.63
「さ、お姉ちゃん。食べよ」

火から下ろしたばかりの鍋の中、
カレーがポコポコと泡を作っている。
憂はカレーを皿によそうと、唯の前に差し出した。

「いっただっきまーす!」

余程お腹が減っていたのか。
唯は熱々のカレーを一気に頬張る。

「お姉ちゃん、そんなに慌てて食べたら…」

「ぅあちっ!」

憂の忠告も虚しく、案の定唯は舌を火傷してしまう。

「だから言ったのに。お姉ちゃんってほんと慌てん坊さんだね」

キンキンに冷えた水を差し出しながら、
憂は呆れたように微笑んだ。
端から見ればどちらが姉か分からないような光景。
しかし憂にとっては世界に一人の大切な姉なのだ。

「てへへ。ありがとー、うーいぃ」

繰り返される穏やかで幸せな日々。
また今日も一日が終わっていく。

19: 2010/06/05(土) 00:01:25.25
「はぁ~」

深い深い溜め息。
澪はペンを置くと、背もたれを軋ませながら大きく伸びをする。
家に帰って食事を済ませ、お風呂にも入った。
今はこうして机に向かっている。
新しく歌詞を書く為に。
しかし一向にはかどらなかった。

(気分が乗らないな…)

澪は机のライトを消すと、ベッドに倒れ込む。
目を閉じれば、見えないものが見えるような気がした。
どこかで鳴いているカエル。
窓から吹き込む柔らかい風。
どれも目には見えないが、確かにその光景が思い浮かぶ。

(ずっと…ずっとみんなと一緒にいれたら良いのにな…)

軽音部の皆と過ごす楽しい時間。
この先軽音部の皆と、永遠に一緒にいられる保証はない。
むしろ皆それぞれ進む道が違う可能性の方が高いかもしれない。
楽しい時間―
澪はそれを"曲"という形あるものに変え、
皆と永遠に繋がっていたいと思っているのかもしれなかった。

(ずっと……ずっ…と…)

そして―
澪は深い眠りに落ちていった。

20: 2010/06/05(土) 00:02:43.50
明日は何を持って行こうか。
紬はベッドの中でそんな事を考えていた。
毎日ケーキやクッキーを持って行き、
皆でティータイムを楽しむ。
自分がいつこんな事を始めたのか、
紬は正確には覚えていなかった。
ただ―
いつからかそれは軽音部に欠かせないものになり、
放課後ティータイムというバンド名にもなった。
紬はそれがとても誇らしかった。
皆の様に前へ出る事も少なく、
世間一般の常識だって疎い。
そんな自分でも、ティータイムを通して
軽音部に少しは影響を与えられたのかもしれない。
紬はそれが嬉しかった。

(唯ちゃんやりっちゃんには…悪影響だけど)

紬の脳裏に、おやつに夢中で練習しない二人が浮かぶ。
それを見て呆れる澪と梓。
そんな光景に、思わず笑みがこぼれてしまった。

(…明日も素敵な一日になりますように)

そう呟くと、紬は静かに目を閉じた。

21: 2010/06/05(土) 00:04:07.12
「ふんふんふーん」

鼻歌混じりにドラムのスティックで机を叩く。
最初はゆっくりと。
そして徐々にスピードを上げていく。
律の頭には、軽音部のメンバーの背中がはっきりと浮かんでいた。
もうずっと見てきた背中。
他の楽器の様に目立ちたいと思った事もあった。
でも今はそんな気持ちはない。
皆の背中を見守りながら、ドラムで音の土台を作る。
その上に皆が思い思い音を重ねていく。
それが今はとても楽しいのだ。

「いっえーい!」

テンションの上がった律は、
つい大きな声を出してしまった。部屋のドアが開き、弟の聡が顔を出す。

「ねーちゃんうるさい」

それだけ言うと、聡はドアを閉めてしまった。

23: 2010/06/05(土) 00:05:19.46
(小さい頃は、お姉ちゃんお姉ちゃんて可愛かったのになー)

大人になっていく聡を見て、寂しいような嬉しいような―
律は複雑な気持ちだった。

(私も…大人になってくんだよな)

人は何かを失いながら、そして失った分
何かを得ながら成長していく。
失うのは小さなものだけとは限らない。
夢や希望、好奇心や純真さ―
今自分が持っているものも、
この先どうなるかは分からなかった。

(でも…バンドの皆と過ごす時間は…
失いたくないなー)

律はスティックを大事に鞄にしまうと、
部屋の灯りを消した。
皆との楽しい時間を思い出しながら、律は眠りにつく。

24: 2010/06/05(土) 00:07:48.83
(明日はとんちゃんのおうちを掃除しよう)

軽音部で飼っているカメを思い浮かべて、
梓は穏やかな気持ちになる。
三年生が卒業したら、軽音部に一人になってしまう梓の為、
皆が買って来てくれたカメ。
最初はそんなに興味は無かったはずなのに、
気付けば一番お世話をしている。

(卒業…か)

自分一人しかいない軽音部。
そんなものは想像出来なかった。
初めて見た先輩達のライブ。
それはとても衝撃的だった。
自分もあのメンバーと舞台に立ちたい。
一緒に演奏したい。
梓は思い切って軽音部に入部した。

25: 2010/06/05(土) 00:08:46.83
初めは想像とのギャップに戸惑う事もあった。
練習もろくにせず、お茶を飲んでばかりの先輩達。
しかし―
いざ演奏を始めると、初めて見た時と同じ、
梓は衝撃を受けた。
何て心地良いのだろう。
何てしっくりくるんだろう。
どうして―
こんなにも心が躍るんだろう。
思い切って入部して良かった。
梓は今心からそう思っていた。

(先輩達とあの部室で楽しく過ごせるのも後少し…か)

梓は小さく呟くと、布団を頭まで被る。
そして―
小さな寝息を立て始めた。

26: 2010/06/05(土) 00:10:08.32
自分は上手く笑えていただろうか。

学校でもいつも通り振る舞えただろうか。

多分大丈夫。

ちゃんと出来たはずだ。

そういえば少しだけ思い出した事がある。

今の私が生まれた時の事。

それまでの私はただそこにいるだけの存在だった。

誰にも見えず、誰にも触れられず。

ただそこにいた。

誰かに触れたいと願った。

誰かに見て欲しいと願った。

誰かを愛して、誰かに愛されたいと願った。

27: 2010/06/05(土) 00:11:12.02
次に目が覚めた時、今の私がいた。

誰もが私を知っていて、誰もが私に触れる事が出来た。

まるで生まれた時からここにいたかのように、
記憶や記録があった。

自分の役割も当たり前のように知っていた。

嬉しかった。
ただ嬉しかった。

それが―
後少しで終わってしまう。

辛くない言えば嘘になる。
だけどそれが運命なんだ。
だから―

だから私は今を精一杯生きる。

特別に何かしようなんて思っていない。

いつも通り。
ただいつも通り皆と笑い合いたい。
大切な人と何でもない時間を過ごしたい。

それが―
私の最後の願い。

28: 2010/06/05(土) 00:12:09.23
新学期が始まってから四日目。
今日は日曜日。

「うわー!憂!見て見て!お猿さんだよ!」

「ほんとだ!可愛いねー、お姉ちゃん!」

軽音部のメンバーに憂を加え、
皆で動物園に来ていた。
日曜日というだけあり、家族連れやカップルで賑わっている。
唯は猿山をキラキラした瞳で見つめながら、
キャーキャーと騒いでいた。

「あ、あのお猿さんりっちゃんみたい!」

唯が指差した先には一匹の猿。
他の猿にちょっかいを出しては元気に走り回っていた。

「おー!私に似てるなんて将来立派になるぞー!がーんばーれよーっ!」

柵から身を乗り出し、律が手を振る。

29: 2010/06/05(土) 00:13:31.22
「お、おいっ!やめろバカ律!」

クスクスと笑う他の来園者に、
澪がたまらず律を柵から引き剥がした。

「りっちゃん相変わらずねー」

「ム、ムギも笑ってないで何とか言ってくれ」

必氏な澪を余所に、紬はニコニコと微笑んでいる。
たまらず梓に視線を向け、助けを請う澪。
先輩思いの梓がすかさず助け舟を出した。

30: 2010/06/05(土) 00:14:28.24
「唯先輩も律先輩も、他のお客さんに迷惑にな…」

「あずにゃんあずにゃん!あっちに子猫がたくさんいるよ!
さわり放題だよ!」

「……仕方ないですね。行きましょう」

あっさり陥落してしまう梓。
唯達について行ってしまった。

「…おい、梓」

肩を落とす澪に、紬が微笑みながら声を掛ける。

「まぁまぁ澪ちゃん。せっかくですもの。
私達も楽しみましょう。ね?」

そう言うと、唯達のもとへと駆けて行ってしまった。
動物園にいる間は気が休まらないな。
澪は心からそう思うのだった。

31: 2010/06/05(土) 00:16:53.41
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

まるで手から零れる水のようだ。

今日また一つ思い出が増えた。

だけど―
"思い出"は"未来"があって初めて思い出と呼ぶ。

私にはその未来が無い。

私に残された未来はあと三日。

そんな事を考えながら私は―

深い眠りに落ちていった。

32: 2010/06/05(土) 00:18:41.06
「もう一週間か…」

部室の窓から外を眺めながら、梓が呟いた。

「んー?何が一週間なんだ、梓ー?」

椅子をギシギシと漕いでいた律の問いかけに

「あ、いえ。新学期が始まってから、
もう一週間経ったのかと思って。
時間が経つのって早いですよね」

梓は振り返って答えた。
新学期が始まって今日で丁度一週間。
相変わらず軽音部ではティータイムの真っ最中だ。

33: 2010/06/05(土) 00:20:01.17
「おー、そういえばそだなー」

「梓の言うとおりだ。
時間が経つのは早いんだ。だから練習を…」

澪の提案を遮るように

「じゃぁ今日は帰ろう!」

律が椅子から立ち上がる。

「おい律!」

澪に腕を掴まれた律は、
素早くポケットから紙切れを取り出す。
それを澪の目の前に掲げると

「じゃーん!」

大袈裟な効果音付きで説明を始めた。

「今朝ポストに入ってたんだけどさ。
駅前の楽器屋、今日はレフティセールだぞ」

「…う」

澪は掲げられたチラシに素早く目を通す。
確かにレフティセールと書いてあった。
左利きの澪にとって、その言葉は何よりも魅力的だ。

34: 2010/06/05(土) 00:21:02.72
「あ、明日は練習するからな」

「じゃあ決まりね。皆で行きましょう」

ムギは澪に鞄をそっと手渡し、
寝ている唯を揺り起こす。

「いいな律!明日は練習だぞ!絶対に絶対だからな!」

「ふぁぁ…ねぇねぇあずにゃん。
何の話?」

まだ寝ぼけている唯を見て、
梓は深い深い溜め息を吐いた。

「不安です…軽音部の先行きが不安です」

繰り返されるいつもの光景。
また一日が終わろうとしていた。

35: 2010/06/05(土) 00:23:15.53
今日が最後の夜。

ずっと迷っていた。

私が消えてしまう事を伝えようか。

何も言わずに消えた方が楽な気もした。

だけど私は伝える事にした。

せめて、最期くらいワガママ言っても良いよね。

最期くらい大好きな人の傍にいたいから。

だから全てを話した。
それを聞いて泣いていた。
とても辛そうだった。

でも―
最後に笑い掛けてくれた。

涙でぐしゃぐしゃの顔で。

私を励ますように…

39: 2010/06/05(土) 00:40:49.75
「憂…今日は一緒に寝よう」

「うん」

二人は唯のベッドに潜り込む。
二人で寝るには少し狭いベッド。
お互いの体温が伝わってくる距離。
唯は背中を向けている憂を、優しく抱き締める。
憂の小さな背中。
その感触、温もり―
忘れてしまわないように抱き締める。

41: 2010/06/05(土) 00:42:11.91
「憂…」

「なぁに、お姉ちゃん?」

「私、お姉ちゃんらしい事あんまりしてあげられなかった…」

「うん…」

「いつも迷惑かけて…お姉ちゃん失格だね…」

「そんな事ないよ」

「でもね…憂のお姉ちゃんでいられた事、すごく幸せなんだ」

「うん…」

「憂が妹で…本当に幸せなんだよ」

「うん…」

42: 2010/06/05(土) 00:43:17.23
「だから…忘れないでね…憂。
私がお姉ちゃんだった事…憂が大好きだった事…」

「忘れないよ…絶対に忘れない」

「憂…うっ…ぐす…うぅ」

「お姉ちゃん…大好き」

「憂…憂ぃ…うっ…うぅ」

「大好き…大好きだよ、お姉ちゃん」

43: 2010/06/05(土) 00:44:17.80
「んん……」

カーテンの隙間から差し込む朝日に、
目を細めながら起き上がる。
昨日の夜、たくさん泣いたせいで瞼が腫れぼったかった。
あれからたくさん思い出話をしたはずだったが、
泣き疲れたのか、いつの間にか眠っていた。
ふと横を見ると、そこにいるはずの人がいない。

「……憂」

昨日の夜は確かにそこにいた。
小さな背中も、その温もりも鮮明に覚えている。
ベッドも枕も微かに人の形に沈んでおり、
確かに憂がいた事を物語っていた。

44: 2010/06/05(土) 00:45:28.57
「憂……」

唯はふらふらと立ち上がると、
家のあちこちを見て回る。
憂の部屋はまるで最初からそうだったかのように、
物置のようになっていた。
憂の物は何も無かった。
玄関の靴も、干してある洗濯物も。
憂がいた痕跡は何も無かった。

「あ…」

何かに気付いた唯は、慌てて自分の部屋に戻る。
散らかるのも構わずに、本棚をひっくり返し、
一冊のアルバムを手に取った。

「…嘘…嘘だよこんなの」

記憶を辿るようにページをめくっていく。
しかしどこにも憂の姿はなかった。
小さい頃の写真や憂の高校入学の時の写真。
その全てに、憂は映っていなかった。
まるで最初からいなかったように。

「う…うぅ…うっ」

アルバムのページに、ポタポタと水滴が落ちる。

「ぐす…憂…会いたい…
会いたいよ…憂ぃ」

45: 2010/06/05(土) 00:46:39.52
私は願った。

この世界に生まれて来た時のように。

一つだけ願った。

私の存在が―
その全てが皆の記憶から消えるように。

私がいなくなる事で誰かが、
大好きなお姉ちゃんが苦しむ姿なんて見たくなかった。

なのに…

お姉ちゃんだけは私を覚えているみたいだ。

苦しむ姿は見たくないのに、
忘れないでいてくれた事が心から嬉しかった。

ねぇお姉ちゃん。

私はいつまでもお姉ちゃんを見守ってるよ。

おっちょこちょいで慌てん坊で…
だけど大好きなお姉ちゃん。

私―

幸せだったよ。

46: 2010/06/05(土) 00:47:51.53


聞こえてるかな?

憂がいなくなってから三年

まだ小さなライブハウスだけど…
今たくさんの人が、私達の歌を聴きに来てくれてるよ

憂にも見せたかったな

ねぇ憂

私は歌い続けるよ

どこかにいる憂に届くように

歌い続ける

だから―

「聴いてください!放課後ティータイムで―」


おしまい

48: 2010/06/05(土) 00:50:22.05
短編なので中身スカスカになってしまいました
読んでくれた人ありがとう

53: 2010/06/05(土) 01:25:35.78

引用元: 唯「新学期!」