1: 2012/07/05(木) 18:24:59.23
『地獄への道は善意で舗装されている』


誰の言葉か知らないけれど、
何処かで聞いた事のあるその言葉を、最近、身に染みて感じてる。
別に世を儚むほど年齢を重ねてるわけじゃないし、
世界全体を残酷な物と捉えて、あるのかどうかも知らない地獄を連想してるわけでもない。
この自分の考えが思春期の漠然とした不安から来てるって事も分かってる。
我ながら可愛げが無い性格をしてるなあ、と思わなくもないけど、
これが生まれついて以来、付き合って来た自分の性格だからどうしようもない。

小さく嘆息。
中学三年生の夏休みが終わって、少し経った秋口の空の雲を私は見上げる。
雲は茜色の空に普段通り浮かんでいて、私の考えなど知った事じゃないって様子に見えた。
雲と私の思考が連動してるわけじゃないんだし、
そんなの当然だったけど、それでも何だかやるせなくなって、私はまた少しだけ溜息を吐いた。

雲を見上げながら、夏休み前に友達に言われた言葉が脳裏に響くのを私は止められない。
あの日以来、期を見計らっては耳鳴りみたいに響くあの言葉。
私に何度も何度も溜息を吐かせてるあの言葉が、また私の脳裏に響いている。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの日、一緒に音楽をやって来た友達は、
少しだけ残念そうな口振りで、苦笑しながらそう言った。
中学生になってからずっと一緒に音楽をやって来たのに、あの子は少しだけ残念そうに笑った。
ずっと一緒に音楽をやってたのに……。
ちょっと背伸びして難しいジャズを選んで練習して、
苦労しながら少しずつ確実な演奏が出来始めた頃だったのに……。
あの子は……、そう言って笑った。
少しだけ、残念そうに……。

あの日以来、私はあの子と疎遠になった。
夏休み、何度か息抜きの遊びに誘われる事もあったけど、
受験勉強で忙しいから、と返して、あの子からの誘いは全部断った。
学校で話し掛けられても、おざなりな返事を返す事しか出来ない。
そんな事しちゃいけないって分かってても、私はそんな反応をする事しか出来なかった。

裏切られた、と感じた。
ずっと一緒に音楽をやっていく仲間だと思ってたのに、
よりにもよってちょっと残念そうな顔しか浮かべてくれなかったあの子が恨めしかった。
私達の関係はその程度の関係だったの? って何度も問い詰めそうになった。
私は今まで通りの私達で居られれば、それだけで嬉しかったのに……。

でも、私だって本当は分かってる。
あの子はそんなに勉強が得意な方じゃない。
私だって勉強せずに受験に臨めるほど優等生なわけじゃない。
同じ高校に進学して、また二人で笑い合うためには、私達の練習は中断するべきだって事は分かってる。
夏休みから受験が終わるまでは我慢と雌伏の時だってあの子は分かってるんだ。
そう。あの子の言う事は全面的に正しいんだ。
こんな事で裏切られたと感じてしまってる私の方こそおかしいんだろう。

そんなの分かってる。
分かってるに決まってるじゃない……。
そんな事が分からないほど、私は子供じゃないんだから……!

https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1341480299/

2: 2012/07/05(木) 18:25:34.52
「でも……なあ……」


分かってるはずなのに、私は苦々しく呟く事をやめられない。
もしかしたら、何も分かってないのは私の方なのかもしれない、って考えが私の脳裏を過ぎる。
あの子はこれからの自分の事を考えてる。私の事もきっと考えてくれてる。
だから、言いにくかったはずなのに、自分から切り出してくれたんだと思う。
これから勉強に集中しようって。
自分達の将来について真剣に考えようって。
それを分かりたくない私の方こそ、ずっとずっと子供なのかもしれない……。
何だか自嘲気味に笑いまで漏れて来た。
何もおかしくなんてないのに。

ただ一つ言えるのは、あの子は善意で行動してくれたんだって事。
私を傷付けるつもりも裏切るつもりも無かったんだって事。
それだけは私にも分かってる。
だからこそ、裏切られた、今のままで居たい、
って感じてしまってるのは、単なる私の我儘なんだろうと思うし、きっと現実にもそうだ。
あの子の善意を受け取れられなかった私の方が、恐らくは子供なんだ……。


『地獄への道は善意で舗装されている』


またその言葉が私の頭の中に浮かんで来る。
善意が、辛い。
善意をそのままに受け取れなくて、苦しい。
世界は悪意に包まれてるってよく聞くけど、もしかしたら違うのかもしれない。
本当はほとんどの人が善意から行動しているのに、
周囲に居る人達を幸福にしようと努力しているのに、
その行動が結果的に地獄に繋がってるだけなのかもしれない。
この言葉通りに。
私は最近、そういう事ばかり考えてる。


「……それはそうと」


私はこれまでと違った意味で嘆息しながら、周囲を見回してみる。
平日の夕暮れの公園。
防犯のためか、TVゲームで遊んでいるからなのか、
子供達の姿はほとんど見えなかったけど、それは別に珍しい光景じゃない。
自分が日焼けしやすい体質だって事もあって、
私も子供の頃は外よりも家の中で遊ぶ事の方が多かった。
単に公園の古い遊具で遊ぶ子供達が減って来たってだけなんだろう。

何故か私と同い年くらいのカチューシャをしたショートヘアの人が、
友達らしい長い黒髪の人を連れて、楽譜を見ながらドラムのスティックを振り回していたりしたけど。
位置的に丁度いいのか、ブランコの外柵をリズム良く叩いたりもして……。
まあ……、何をするのも、人それぞれって事だよね……。

楽譜……か……。
部活で音楽をやってる人達なんだろうか。
こんな夕暮れにも練習してるって事は部活帰りなのかもしれない。
いいなあ……。
羨望の気持ちが私の胸に湧き上がる。
私だって音楽がしたい。またあの子とセッションしたい。
自分の部屋で一人でギターを弾くのは寂しいよ……。
弾きたく……ないよ……。

3: 2012/07/05(木) 18:26:27.21
夏休みに入って以来、私はギターを弾いてない。
受験勉強のために練習を中断したのに、あの子と距離を置いたのに、
それでもギターを弾くなんて、色んな意味で裏切りに思えて仕方が無かったから。
私達はただ中断してるだけ。
受験が終わればまた音楽を続けられる。
そう信じられるために、私は部屋の隅に置いたギターに視線を向ける事も避けるようになっていた。
だから、私は今はあまりギターを弾きたくない。
弾くのが……怖い……。
ギターを弾いていて孤独を感じて、ギターを嫌いになりたくないから……。

私が見つめていた事に気付いたのか、
カチューシャをしたボーイッシュな人が私の方に視線を向けた。
一瞬、私達の視線が交錯する。
まじまじと見つめるなんて、失礼な事をしてしまったかもしれない。
私は自分の顔が少し熱くなるのを感じながらも、その人に軽く会釈して公園の倉庫の裏手に回る。
別に公園の倉庫の裏手に行きたかったわけじゃない。
そこしかその人の目から逃げられる場所が見つからなかっただけだった。
そんな事をするくらいなら、公園から出て行けばいい……。
自分でも分かっていたけど、私には何故かそれが出来なかった。
何故だかここから離れちゃいけない気がしてるんだよね……。

大体、アウトドア派でもないのに、どうして私は公園に来てるんだろう?
特に外出する用事も無かったはずなんだけど……。
外の空気が恋しくなったってわけでもないし……。
喉が乾いたから、ジュースでも買いに行きたかったんだっけ……?
って、今お金持ってないじゃない、私……。
分からない……。
家で勉強をしていたら、気が付けば本当に衝動的に私はこの公園まで来てた。
テレパシーか何かで誰かに呼ばれたんだろうか?
前世から運命で繋がった光の戦士に……とか……?
まさかね……、そんなオカルトやファンタジーじゃあるまいし……。
そうやって自分の中学生らしい空想に自分で苦笑して、肩を竦めた瞬間、


「あのー……」


「ふにゃっ!」


唐突に後ろから声を掛けられて、私は変な声を出してしまった。
自分で出した声ながら、「ふにゃっ!」って何よ、私……。
そんな事だから「梓って猫っぽいよね」とか言われちゃうのよ、私……。
ううん、そんな事よりも……。

4: 2012/07/05(木) 18:26:56.66
本当に光の戦士だったりして……、
ってちょっとだけ本気で考えながら、私は恐る恐る振り返ってみる。
そこにはまた私と同い年くらいの……、
でも、さっきのカチューシャの人とも黒髪の人とも違う女の子が首を傾げて立っていた。
まとめるには少し短めの柔らかそうな髪をリボンでポニーテールにした女の子。
家庭的な女の子っぽい服装や穏やかな表情から、何処か優しそうな印象を受ける。
多分、本当に優しい性格の子なんだろうと思う。

いやいや、そんな事は今は関係無かった。
光の戦士とか関係無さそうな子でよかったけど、私はこの子を知らなかった。
見かけた事もないはずだから、確証は無いけど同じ学校でもないと思う。
でも、だとしたら、知り合いでもないこの子が、私に何の用事があるって言うんだろう……。

瞬間、その子が急に私の両手を取って、急ににじり寄った。
拳二つくらいの至近距離で、私とその子は見つめ合う事になった。
な、何……?
どうしてこの子は私の手なんか握ってるの……?
気圧されて胸が強く動悸するのを感じながら、私はどうにかその子に訊ねてみる。


「な、何……? 私に何か用なの……?」


「よかった……」


「えっ?」


「やっと……、会えた……」


「何の話……?」


「あの……、すぐには信じてもらえないかもしれないんですけど……、どうか私の話を聞いて下さい。
いいですか? 驚かずに聞いて下さいね……。
どんな願い事でも一つだけ叶えられる一生に一度のチャンスが、貴方にやって来たんです……!」


「……はっ?」


私が若干呆れた声を出すと、そのポニーテールの子は恥ずかしそうに少し目を伏せた。
どうやらその子も自分が荒唐無稽な事を言ってる事には気付いていたらしい。
片方は事態を全く分かってなくて、もう片方は照れた顔で目を逸らしていて……。
冷静に考えなくても、何だかとても間抜けな出会いのシーン。
とても間抜けだけど、それが私とその子の始まり……。
これから私とその子の何かが始まるんだ、って、何故か私もそれだけは確信出来ていた。

10: 2012/07/07(土) 17:52:42.47





「えっと……」


何かを言葉にしようとして口を開いたけど、上手い言葉が思い付かなくてすぐに閉じる。
私の手を握った子の方も照れた様子で新しい言葉を探してるみたいだった。
初対面なのに手を握られて二人で沈黙してるなんて、変な状況にも程がある。
どうしよう……、早くこの空気をどうにかしたい……。
本当に前世からの知り合いとかじゃないよね……?

でも、不思議とその子から逃げようという気は、私の中に湧き上がらなかった。
同い年くらいだからってのもあるけど、
その子の雰囲気が何故か私を落ち着かせてくれた。
きっと私だけでなく、その家庭的な服装に大人しそうな顔つきで、
普段から周囲に優しい空気を漂わせて、皆に温かさを振る舞っているんだろう。
もしもこの子が私のクラスメイトだったりしたら、
私も迷いなくこの子に気軽に話しかけていたに違いない。
私とは全然違うタイプの子なんだろうな、ってちょっと羨ましくなる。


「一生に一度のチャンス……って?」


私は少し苦笑してから、彼女の言葉を促してみる。
この子に困った表情を取らせたままだと、何だか私の方が居た堪れない。
どんな用件にしろ、まずはこの子の話を聞いてあげるのが一番だろう。


「は……、はいっ。
すみません、突然こんな事言われても、何が何だか分からないですよね……。
『対象者』の人にやっと会えたのが嬉しくて、私、つい舞い上がっちゃって……」


「『対象者』……?」


「はい、『対象者』と言うのはですね……。
……あっ! すみません、私、ずっと貴方の手を握ってしまってましたね……。
今から詳しい事をご説明しますから、あちらのベンチに座りませんか?」


その子は私から手を離して、倉庫裏から辛うじて見えるベンチを指差した。
確かに倉庫裏で女同士で手を握り合ってるだなんて、
クラスメイトにでも見られたらどう誤解されるか分からないしね。
友達の間では登下校手を繋いでる子達も居るけど、
残念ながら私はそういう事が出来るタイプじゃない。
その子に促されるままに脚を進めようと思った瞬間、ちょっと迷った。
まだ時間もそんなに経ってない事だし、カチューシャの人達がまだブランコ周辺に居るかもしれない。
あの人達の視線から逃げて倉庫裏に来たのに、図々しくまた顔を出すのはちょっと恥ずかしい。


「あの……?」


その子が首を傾げて、私の顔を覗き込む。
私が妙に躊躇っているのを変に思ってるんだろう。
ううん、もしかしたら、自分自身が不審に思われてるんじゃないか、って考えてるのかもしれない。
その証拠にその子はまた不安そうな表情を浮かべていた。
初対面なのに、その子にそんな顔をさせるのはやっぱり少し心苦しかった。
私は首を横に振って、足を一歩踏み出して口を開いた。

11: 2012/07/07(土) 17:53:23.14
「ううん、何でもない。何でもないの。
一緒にベンチに行きましょう、えっと……」


「あ、ヒラサワです。
私、『ヒラサワウイ』って言います」


私がその子の呼び名に困ってるのに気付いてくれたらしく、訊ねる前に応じてくれた。
私の想像通り、細かい気配りの出来る子みたいだった。

『ヒラサワウイ』……。
『ヒラサワ』の漢字は平沢かな。
『ウイ』はどう書くんだろう?
初……、羽衣……、他に何か漢字あったかな……。
まあ、今はいいか。
私は軽く頷いてから、平沢さんがさっき示したベンチに足を進めた。


「ありがとう、平沢さん。
じゃあ、ベンチに座りましょう。
詳しい話はそれから……、って事でいいですよね?」


「はい!」


私が言うと、こっちが嬉しくなってくるくらい、平沢さんが笑顔で頷いてくれた。
私は友達が多い方じゃない。
自分でも自覚出来るくらい固い性格だと思うし、
そもそも友達が沢山欲しいって思うタイプでもなかった。
仲のいい友達がほんの少し居てくれれば十分だって思うタイプだ。
そんな感じで友達が多いわけじゃない私だけど、
平沢さんみたいな子と会って話をするのは初めてだった。
言ってる事は荒唐無稽なのに、どうしてか凄く信頼出来るって感じられる。
全身から滲み出る人柄の良さのおかげかもしれない。

ベンチまで歩いて行って、平沢さんより先に腰を下ろす。
少し待ってみたけど、平沢さんは私の隣に座らなかった。
突然居なくなったわけじゃない。
平沢さんはベンチ横に立ったままで、意外な方向を見つめていた。
平沢さんの視線の先では、カチューシャの人と黒髪の人がまだ楽譜を見つめていた。
幸い、カチューシャの人達は私の存在を気にしてないみたいだったけど、
そんな事より平沢さんが寂しそうな表情を浮かべている事の方が気になった。
穏やかな雰囲気を漂わせてる平沢さんのその表情……。
何だか今にも泣き出してしまいそうな様子にも思える。


「……お知り合いですか?」


訊ねるべきかちょっと迷ったけど、気付けば私は平沢さんにそう訊ねていた。
訊ねるべき事じゃなかったのかもしれないけど、
平沢さんにそんな表情をさせるものの正体を知りたかったんだと思う。
平沢さんは微苦笑を浮かべ、ゆっくり頷いてから私の質問に応じてくれた。

12: 2012/07/07(土) 17:57:18.29
「はい。お姉ちゃんの同級生の方達です。
とっても楽しくていい方達なんですよ」


その言葉に嘘は無かったと思う。
でも、微苦笑を浮かべながらも、その寂しそうな瞳が変わらなかったのが気になった。
あの人達が本当に『とっても楽しくていい方達』なら、
どうして平沢さんはこんなに寂しそうにしてるんだろう……?


「そうなんですか……。
私待ってるから、声を掛けて来てもいいですよ」


「ううん、いいんです。
今は……、声を掛けられませんから……」


「今……は……?」


「そんな事より」


平沢さんが私の隣に腰を下ろして、急に笑顔になった。
もうその表情から寂しさは感じられなかった。
『今は』という言葉の意味が気になったけど、
初対面の相手に食い下がって深い所まで訊ねるのも失礼な気がしたから、私は口を閉じた。
平沢さんは笑顔のまま、優しい声になって続ける。


「もう夕暮れですし、お時間を取らせるのも申し訳ないので、すぐ説明しちゃいますね。
あ、でも、それより先に……、
失礼ですけど、貴方のお名前をお訊ねしていいですか?」


言われて初めて気付いた。
そう言えば、私はまだ名前を名乗ってなかった。
平沢さんの名前を教えてもらっておきながら、これは失礼な事をしてしまったみたいだ。
私は軽く頭を下げてから、小さく口を開いた。


「ごめんなさい、平沢さんには名前を教えてもらってたのに……。
私は中野梓って言います。
よろしくお願いします、平沢さん」


初対面の相手に名前を名乗るなんて不用心だったかもしれない。
だけど、私は何の抵抗も無く、平沢さんに自分の名前を名乗っていた。
大好きってわけじゃないけど、決して嫌いじゃない私の名前。
この世界に生まれて以来、ずっと付き合って来た私の名前を。
何故かこの初対面の平沢さんに知ってほしい気分だったんだと思う。

平沢さんが笑顔のままで頷いてから続ける。

13: 2012/07/07(土) 17:58:11.49
「教えてくれてありがとうございます、中野さん。
素敵な名前ですね。中学一年生くらいですか?」


「中三なんですけど……」


「えっ? そうなんですかっ?
実は私も中三なんですよ。
同級生だったんですね、中野さん!」


私の言葉に平沢さんが驚いた声を上げた。
自分で鑑みるのも嫌なんだけど、私は小柄な方だ。
女性的な曲線ってやつにもまだ乏しいし、
実年齢より幼く見られる事なんて日常茶飯事なんだよね、悲しい事だけど……。
でも、中学一年生って言ってくれただけ、まだよかったのかも。
酷い時なんて、小学生に間違えられる事もあるもんね……。
確かに小六で私より大きな子なんて沢山居るしね……。

でも、驚いたのは私の方も同じだった。
同級生くらいだと思ってはいたけど、
平沢さんがまさか本当に同級生だなんて思ってなかった。
落ち着いた雰囲気もあったから、てっきり高二くらいだと思ってたんだよね。

私達が同級生……。
そう考えた瞬間、私はつい軽く笑ってしまっていた。
何だかとっても滑稽な気がしたからだ。
抑え切れず、私は笑い声を漏らしてしまう。


「あははっ」


「えっ、えっ?
どうしたんですか、平沢さん?」


「あははっ、だって……、
同級生で気を遣い合って敬語で話し合うなんて、何だかおかしくて。
私の方はいいよ?
平沢さんの事、二歳くらい年上だって思ってたんだもん。
でも、平沢さんったら、自分より二歳は年下だと思ってた子に敬語使ってたんでしょ?
律儀と言うか丁寧と言うか……、あはははっ」


「え、でも、初対面の人ですし……」


私がどうして笑ってるのか分からないって様子で、平沢さんが真顔で呟く。
多分、平沢さんの言っている事の方が間違ってないんだろう。
年下とは言え、初対面の人間には敬語で話し掛ける方が確かに普通だ。
でも、そう分かってても、年下の子に丁寧な敬語で話し掛ける人なんてほとんど居ない。
それを律儀にやっちゃうのが平沢さんって子なんだろう。
やっぱり今まで私の周囲には居なかったタイプの子だ。
新鮮で、何だか楽しい。


「中野さん……?」


平沢さんが戸惑った表情を私に向ける。
その平沢さんの様子を見て、私はまたこの子の事をよく知りたいって思った。
『一生に一度のチャンス』って言うのが何なのかまだ分からないし、物凄く胡散臭い。
でも、それを抜きにしても、私は平沢さんにとても興味を持った。
まだ確証は無いけれど、平沢さんが嘘を言ってないって気までしてる。
だから、私はもっと平沢さんの事を知りたくて、笑顔で言った。

14: 2012/07/07(土) 17:59:09.61
「ごめんね、平沢さん、変に笑っちゃって……。
でも、うん、もう大丈夫。
それより平沢さん、私達が同級生って事が分かったわけだし、敬語はやめない?
私も敬語を使うのやめるから……、どう?」


「えっ、でも……。
……うん、分かった。そうだよね、同級生なんだもんね。
これからは普通に話すよ、中……ううん、梓ちゃん。
これでいいかな?」


「うん、それでお願い」


返事をしながら、私は本当はちょっとだけ戸惑っていた。
敬語をやめようと発案したのは私だけど、まさか呼び名まで変わるとは思ってなかったから。
堅苦しい口調はやめたかっただけなんだけどな……。
でも、それもいいかな、って不思議とそう思えた。
平沢さんにとっては、名前の呼び方も含めて、敬語と普通の喋りの線引きがあるんだろう。
私の方はまだちょっと照れ臭いから呼べそうにないけど、
その内に平沢さんを名前で呼ぶのも悪くないかもしれない。


「……それで本題に戻るけど、平沢さん。
『一生に一度のチャンス』って何なの?
……宗教とかじゃないよね?」


「うん、宗教じゃないよ、梓ちゃん。
誰が呼び始めたのかは私も知らないんだけど、『チャンスシステム』ってシステムがあるの。
その『チャンスシステム』の順番が、今回、梓ちゃんに来たって事なんだ」


『チャンスシステム』……。
余計に胡散臭い上に微妙に安っぽい……。
平沢さんは信じられるけど、そのシステムはどうにも信じられない……。
と言うか、信じたくないなあ……、単に気分的にだけど。
平沢さんもそれは百も承知みたいで、微苦笑を浮かべながら説明を続けてくれた。

17: 2012/07/29(日) 18:12:21.81
「『一生に一度のチャンス』って言うのはね、
名前の通り一生に一度だけ誰にでも来るチャンスの事なの。
神様なのか仏様なのか分からないけど、
そんな誰かに何でも一つだけ好きなお願いを叶えてもらえるシステムなんだよ」


「それは……、何と言うか……。
こう言うのも悪い気がするけど、凄く胡散臭いね……」


「あはっ、こう言われてもすぐには信じられないよね。
私も最初はそうだったもん」


「平沢さんも……?」


「うん、そうなんだよ。
私ね、もうチャンスシステムにお願いを叶えてもらってるんだ。
実はお願いを叶えてもらったら、一度だけ果たさないといけない義務が発生するの。
それがね、自分が『ナビゲーター』になって、
次の人に『チャンス』を伝えて、導いてあげる事なんだよ」


「次の『チャンス』って事は……、
平沢さんも前に他の『ナビゲーター』の人に導いてもらったって事なの?
いや、まだ『ナビゲーター』って言うのが、どんな役割なのかは分からないけど……」


私が横目に訊ねると、平沢さんは目を細めて軽く頷いた。
楽しい事を思い出しているような、
でも、辛い事も一緒に思い出しているような、そんな複雑な表情だった。
数秒くらい経ってから、平沢さんは私の方に顔を向け直して、また微笑んでくれた。


「うん、私も前の『ナビゲーター』の人にお世話になったんだ。
年上のお姉さんだったんだけど、元気で、前向きで、楽しい人で、
どんなお願いを叶えてもらったらいいのか分からない私のアドバイスもしてくれて……、
本当に……、素敵な人だったなあ……」


平沢さんのその表情はとても輝いているように見えた。
楽しさも辛さも全部抱えたからこそ浮かべられる表情……、そんな気にさせられる。
いいなあ、と思った。
今の私には多分、平沢さんみたいな表情を浮かべる事は出来そうにない。
いつかは私も平沢さんみたいに微笑む事が出来るんだろうか……?
それはまだ、分からない。

そうして少し私が黙り込んでいたのを別の意味に捉えたのか、
平沢さんが困ったような苦笑に表情を変えて、ゆっくりと首を傾げた。

18: 2012/07/29(日) 18:12:56.56
「やっぱり……、いきなりこんな事を言われても戸惑っちゃうよね。
私もそうだったから分かるよ、梓ちゃん。
逆にね、こんな話をすぐに信じられたら、私の方が心配になっちゃうもん」


それはそうだ。
もしこの平沢さんの話が本当だったとして、
願いを叶えてもらった私が『ナビゲーター』になった時に、
次の『チャンスシステム』に選ばれた誰かにこの話をすぐ信じられたら、私だって逆に不安になる。
こんな話、そう簡単に信じられるはずがない。

でも、気が付けば私は苦笑してしまっていた。
私の中の複雑な葛藤が滑稽に思えたからだ。
私の頭の中の理性は平沢さんの話を否定している。
そんな荒唐無稽な話が存在するはずがないって警告している。

同時に。
私の心は完全に平沢さんの言葉を信用していた。
何故だか上手く説明出来ないけど、平沢さんの言葉を真実だって受け止めている。
頭じゃなくて、心が平沢さんの全てを信用してるんだよね……。

不思議な感覚だった。
頭で思う事と心で感じる事が逆だって経験が今まで無かったわけじゃない。
例えば立ち入り禁止の屋上に行く時なんか、
頭で屋上に行っても誰も気にしないから大丈夫と思いながら、心では後ろめたい気分を感じたりしていた。
そんな風に、人間には頭と心がそんな相反した事を感じてしまう事が結構あるはずだと思う。

だけど、こんな感覚はやっぱり初体験だ。
『頭では信用するべきだって分かってるが、俺の心と本能がこいつを信用するのを拒絶している』
っていうシーンは、映画や小説でよく目にする。
今の私の状況はそれとは全く逆だった。
頭で疑うべきだと分かってるのに、心で完全に信用しちゃってる、なんて。
自分でも分かるくらいに滑稽で、何だか笑えて来る。
ひょっとすると、それも『チャンスシステム』の効能みたいな物なのかな……?
って、そんな風に考えちゃう事自体、もう平沢さんの事を信用しちゃってるって証拠なんだろうなあ……。


「あ、そうだ!」


両の手のひらを胸の前で軽く重ねると、
平沢さんが何かを思い出したみたいな甲高い声を上げた。
どうしたの? と私が訊ねるより先に、
平沢さんはベンチから立ち上がって小走りにブランコの方に向かっていた。
ブランコまで残り数歩くらいの距離に辿り着いた時、
平沢さんはその場に立ち止まってから私の方向に振り返って少し大きな声で言った。


「梓ちゃん、見ててね!
これは前の『ナビゲーター』の人が、
『チャンスシステム』を信じられない私に見せてくれた事なんだけど……」


そこまで言うと、また平沢さんは私に背を向けて小走りにブランコに向かった。
平沢さんはすぐにブランコの外柵を越えて、
そのままブランコに乗るのかと思ったけど違った。
ブランコを素通りして平沢さんが足を止めたのは、
ドラムの練習をするカチューシャの人のすぐ後ろ側だった。

19: 2012/07/29(日) 18:13:33.97
何をするつもりなんだろう……?
それはそれで疑問だったけど、私はもう一つ大きな疑問を胸に抱いていた。
平沢さんは小走りにブランコに向かって行ったけど、
その間中、カチューシャの人と黒髪の人は平沢さんの方に一度も視線を向けなかった。
ドラムの練習に夢中ってだけの話じゃない。
あの二人は知り合いのはずの平沢さんに、
これまで一度たりとも視線を向けてなかった気がする。
いじめとかそんな単純な話でもない。
例えいじめにしたって、ここまで完璧に無視する事なんて出来ないはずだ。
ひょっとして、あの二人には平沢さんが見えてない……の?

私の疑問を証明するみたいに、
平沢さんは腰を屈めてカチューシャの人の耳元に自分の唇を寄せていた。
な……、何だか背徳的な雰囲気だなあ……。
って私が変な事を考えたのと同時に、
平沢さんは大きく息を吸い込んでからその唇を尖らせて……。


「あぅんっ!」


カチューシャの人から甲高い声が上がる。
ボーイッシュな外見に似合わず、その声は何だか妙に色っぽい。
……それはともかくとして。
そのカチューシャの人の反応から判断するに、
平沢さんはその人の耳に息を吹きかけたらしかった。
そういう事をする子に見えなかっただけに、私はちょっと驚いていた。
でも、それ以上に驚いたのは、その後のカチューシャの人達の行動だった。


「ど……、どうしたんだよ、律!
何があったんだ?」


カチューシャの人――律さんという名前らしい――から、
一メートルくらい離れた場所に居た黒髪の人が、驚いた表情で駆け寄ってその肩を叩く。
原因なんて分かり切っているのに、平沢さんの方に視線一つ向けないで。
黒髪の人に訊ねられた律さんも、
平沢さんなんかその場に居ないみたいに、不思議そうな表情を浮かべて呟いていた。


「急に耳に生暖かい空気が当たってさ。
いやー、何か気持ち悪かったなー……。
ひょっとして、澪、おまえの仕業か?
あの距離から私の耳を狙って息を吹き掛けられるなんてすげーな……」


「そんな事出来るか!」


「照れるな照れるな。
私がドラムの練習ばっかりやってて寂しかったんだろ?
いやーん、澪ちゃんったら寂しがり屋さんなんだからあ!」


「気持ち悪い事を言うな!」


黒髪の人――澪さんらしい――が軽く叫んで律さんの後頭部に拳を下ろす。
「いでぇっ!」という律さんの呻き声から察するに、その拳はかなり痛そうだ。
バ……、バイオレンスだなあ……。
私はまだほとんど知らない律さんの事が心配になったけど、
律さんは殴られた後頭部を擦りながらも楽しそうに笑い出していた。

20: 2012/07/29(日) 18:13:59.66
「冗談だよ、冗談。
でも、練習に夢中になって、澪に構えてなかったのは本当だしさ。
多分、生暖かい空気も気のせいだろ。
ひょっとすると、汗が耳にでも入ったのかもな。
ま、そんな事はどうでもいいや。
私の練習ばかりしてても仕方が無いし、次は澪のベースの出来を見てやるよ。
エアベースでさ、今から弾いてみろよ」


「ここでっ?」


「何だよー。
もうすぐ学祭なんだから、開けた場所での練習もしとかなきゃだろ?
心配しなくても、大丈夫だよ。
今の所、公園に居るのは、あのベンチに座ってるツインテールの子くらいだろ?
一人くらいの観客には耐えられるようになっとかなきゃな」


「ううー……、それはそうなんだけどさ……」


「ほらほら、ファイトファイト!」


殴られたというのに、澪さんに対する律さんの対応はとても優しかった。
きっとそれがあの二人の関係なんだろう。
からかわれても、殴られても、それでもお互いを許し合えて、尊重し合える関係。
傍から見るだけでそんな二人の関係が強く感じられる。
私もあの子とそんな関係になりたかった。
離れていても信じ合える関係で居たかった。
受験が終われば、あの子とまたそんな関係を歩んでいけるんだろうか……?

……ううん、そんな事より、今は考えなきゃいけない事がある。
律さん達から少し離れて申し訳なさそうに頭を下げている平沢さんに、私はゆっくりと視線を向けた。
その視線に気付いたらしく、平沢さんが苦笑しながら私の座るベンチまで小走りに戻って来た。
ベンチに腰を下ろしながら、平沢さんが静かに私に訊ねる。


「どう、梓ちゃん?
分かってもらえた……かな?」


訊かれるまでもなかった。
私は軽く頷いてから、隣に座る平沢さんの表情を窺ってみる。
平沢さんはやっぱり少し寂しそうに微笑んでいた。
寂しく感じるのも当然だと私は思った。


『公園に居るのは、あのベンチに座ってるツインテールの子くらいだろ?』


さっき律さんは平沢さんに視線を向けもせずに澪さんにそう言った。
耳に息を吹き掛けたのも澪さんじゃないかと疑っていた。
勿論、平沢さんを無視したわけじゃない。
深く知っているわけじゃないけど、あの人達はそんな事をする人達じゃないと思う。
例え心の底から誰かを嫌ったって、完全に無視なんてする人達じゃないはずだ。
大体、そんな事、やろうと思ったって出来るわけないじゃない。
つまり、平沢さんが見えていないんだ、あの人達には。
私は一息吐いて、平沢さんに向けて小さく応じた。

21: 2012/07/29(日) 18:16:20.82
「うん、よく分かったよ、平沢さん。
これも『チャンスシステム』……なんでしょ?
『ナビゲーター』の人は、今回チャンスが来た人以外、
誰からも見えなくなる……、って事でいいのかな?」


「うん……。
仕方が無い事だけど、ちょっと寂しいシステムだよね……。
勿論、『ナビゲーター』が終わったら、
元に戻るらしいからそこは安心なんだけど……」


「そっか……。
あ、平沢さんに一つだけ確認があるんだけど……」


「何、梓ちゃん?」


「平沢さん……、幽霊ってわけじゃないよね……?」


私が言うと、平沢さんは優しく微笑んだ。
何だか凄く儚い、愛しくなるくらいの笑顔だったけれど、
とても綺麗な笑顔で、そのまま私の手を軽く握って言ってくれた。


「大丈夫。
私、ちゃんとここに居るよ、梓ちゃん」


柔らかくて温かい手のひらだった。
そもそも律さんだって平沢さんの息は感じていたんだから、
単に平沢さんの姿が見えなくなってるだけって可能性の方が遥かに高いよね。
私はちょっとだけ微笑んで、「うん」と大きく頷いた。

24: 2012/08/02(木) 18:53:06.54
ここに居る。
平沢さんは確かにここに居る。
奇妙な現象ではあるけど、奇妙な縁ではあるけど、
平沢さんは柔らかい笑顔を浮かべて、ここに居てくれてるんだ。
私のお願いを叶えてくれるために。

気が付けば、私は平沢さんの言葉の全てを信じていた。
ううん、むしろ『チャンスシステム』の存在が嘘でも構わなかった。
不思議と私の心を惹き付ける。
平沢さんにはそんな魅力があるんだと思う。


「それにしても……」


私は微笑みながら言葉にしていた。
微笑みながら誰かと話すなんてどれくらいぶりだろう。
学校でクラスメイトと話す事はあるけど、あの日以来、笑う事は少なくなってた気がする。
でも、今、私は笑えてる。とりあえず、笑えてる。


「どうしたの、梓ちゃん?」


私の顔を覗き込みながら、平沢さんが首を傾げる。
その視線は真剣そのものだった。
私が『チャンスシステム』の事を完全に理解するまで、
丁寧に確実に真摯に私と向き合ってくれる……、そんな視線だった。
でも、私はもう平沢さんの言葉を信じてたし、
平沢さんに訊ねようと思っていたのはもっとどうでもいい事だ。


「うん、『チャンスシステム』って変なシステムだなー、って思って。
『ナビゲーター』の人がリレー方式で『一生に一度のチャンス』の事を次の人に伝える。
まだちょっと胡散臭い気はするけど、システムとしては理に適ってるって思うよ?
でもね、そのために『ナビゲーター』の人の姿が次の人以外の人間から見えなくなる、
って現象の意味が分からないんだよね」


「あ、詳しく言うとちょっと違うみたいだよ、梓ちゃん。
『対象者』以外の人の目に写ってはいるけど、
その誰からも気にされないくらい存在感が薄くなってる状態らしいの。
梓ちゃんは『ドラえもん』の『石ころ帽子』ってひみつ道具知ってる?
それを被ると石ころみたいに誰にも気にされなくなるって、ひみつ道具。
そんな感じになってるみたいなんだ」


「そうなんだ。
でも、どっちにしても、変なシステムだよね。
お願いを叶えてあげるなら、『ナビゲーター』をそんな状態にする必要無いでしょ?
……無理矢理理由を考えれば、
『チャンスシステム』をどうしても信じられない人のために、
『ナビゲーター』を非現実的な存在にして、無理矢理信じさせるため……とか?」


「あははっ、それもあるかもしれないね。
梓ちゃんって想像力が豊かなんだね。
でも、『ナビゲータ』の存在感が薄くなるのは、それが一番の理由じゃないみたい。
それはね、きっと……」

26: 2012/08/02(木) 18:55:39.46
そこで平沢さんが口ごもった。
まだ出会って間もない平沢さんだけど、珍しいな、って私は思った。
平沢さんは素直でまっすぐで真剣な子だって、私は勝手に思ってる。
ちょっと話しただけだけど、それは凄く感じるんだ。
だからこそ、口ごもった平沢さんの様子を私は見逃せなかった。

平沢さんはもう少しだけ言葉を止めてから、
少しだけ悲しみがこもったような笑顔を私に向けた。


「あ、それより、梓ちゃん。
今日、どうしてこの公園に来たか憶えてる?
この公園に来た理由……、憶えてる?」


「理由……?
えっと、それは……」


平沢さんに続いて口ごもるのは私の番だった。
それは平沢さんと出会う前から疑問に思っていた事だ。
思い出せない。
と言うか、この公園に来た理由に心当たりが無いんだよね。
お金も持ってないし、アウトドア派というわけでもないし……。
本当にどうして私はこの公園に来たんだろう……?

私が少し声を上げて唸り始めると、
平沢さんがとても簡単な答えを私に伝えてくれた。


「それもね、『チャンスシステム』のルールなんだ。
『一生に一度のチャンス』に選ばれた『対象者』の人は、
特に何の理由も無く『ナビゲーター』の居る場所に引き寄せられるらしいの。
私もね、前の『ナビゲーター』の人と会った時はそうだったんだよ。
何故か急にプールに行きたくなっちゃって、
一人で近所の市民プールに行っちゃってたんだ。
一人でプールに行く事なんて、今まで一度も無かったのにね……。

それでね、そのプールに前の『ナビゲーター』の人が居たんだよ。
『ナビゲーター』の人に引き寄せられるって話を聞いた後、
私が「どうしてプールで私を待ってたんですか?」って訊ねたら、
前の『ナビゲーター』の人は嬉しそうに言ってたなあ……。
「『対象者』が可愛い子だったら、
その子の可愛い水着姿が見れるかもしれないじゃない!」って……」


なるほどなあ……。
分かってしまえば単純な理由だ。
私が公園に来た理由は、真の意味で平沢さんと巡り合うためだったんだ。
何だか自分の心を操られてるみたいでちょっと怖いけど、
それは今平沢さんの姿を確認出来ない律さんと澪さんも同じ状況だった。

『チャンスシステム』がどんなシステムなのか完全に分かったわけじゃない。
でも、私には何となく分かっていた。
お願いを一つだけ叶えられる……、その許容範囲はかなり広そうだって。
人の心を軽くでも操作出来るくらいに……。
少しだけ……、それが怖いって思わなくもない。

ただ、怖いのは『チャンスシステム』の事もだったけど、
私はそれ以上に得体の知れない何かへの怖さを感じてもいた。
ちょっとだけ深呼吸をしてから、私は平沢さんにそれを訊ねてみる。

27: 2012/08/02(木) 18:56:06.82
「前の『ナビゲーター』の人ってどんな人だったの……?
話を聞く限り、かなり変質者に近いよ、その人……。
耳に息を吹き掛けたり、水着の女の子を待ってたりとか……。
平沢さん、大丈夫だった?」


「あ……、あはは」


平沢さんが困ったように苦笑する。
平沢さんもその前の『ナビゲーター』の人について思う所も多少あったらしい。
私だったら、そんな人に『チャンスシステム』の説明をされても、信用出来ないなあ……。
でも、平沢さんは真剣な表情になって、私の瞳を覗き込みながら続けた。


「大丈夫、安心して、梓ちゃん。
確かに変わった人だったけど……、でも、素敵なお姉さんだったんだ。
大人の女の人で、ふざける事も多かったけど、決める時はしっかり決めて……。
一生に一度のお願いが決まらなかった私の相談にも乗ってくれて……。
本当に素敵なお姉さんだったなあ……。
また……、会えるかなあ……」


平沢さんがそう言うんなら、きっと本当に素敵なお姉さんだったのだろう。
私も一度見てみたい気はする。
会話はあんまりしたくないけどね……。
とにかく、平沢さんがその人に変な事をされたわけじゃないのは何よりだった。
安心した私はその言葉を軽い感じに言ってしまっていた。


「だったら、また会いに行けばいいんだよ、平沢さん。
あ、今は『石ころ帽子』状態だから無理か……。
じゃあ、平沢さんの『ナビゲーター』の役割が終わった時にでも……」


瞬間、平沢さんが軽く首を横に振った。
「どうして?」と私が訊ねるより先に、平沢さんは口を開いていた。


「残念だけど無理なんだよ、梓ちゃん……。
さっき『ナビゲーター』の存在感が薄くなる本当の理由について話してたよね?
はっきりしてるわけじゃないけど、その本当の理由はね……、
『チャンスシステム』が終わった後の事後処理を簡単にするためだって思うの」


「事後処理……?」


「実はね、梓ちゃん……。
『チャンスシステム』が終わったらね……、
システムの事、お願いが叶った事、何もかも全部忘れちゃうんだよ……」


「えっ……?」


嘘でしょ?
とは続けられなかった。
平沢さんの表情を見るだけで、その言葉が真実だって事はよく分かったから。
同時に『チャンスシステム』は本当によく出来たシステムなんだって感じさせられた。
私は多分複雑な表情を浮かべて、平沢さんに訊ねていた。

28: 2012/08/02(木) 18:56:33.68
「そのための『石ころ帽子』……?」


「うん……、そうだと思うよ……。
『チャンスシステム』に関わった皆の思い出を消すのは大変でしょ?
だから、システムを『ナビゲーター』と『対象者』だけの秘密みたいな形にするの。
そうすれば、お願いが叶った後、手広く関係者全員の思い出を消す必要も無くなるから。
そういう……システムなんだろうね……」


「じゃあ、前の『ナビゲーター』の人も……?」


「うん……、お願いが叶う前にね、
『私の事を憶えてたらプールで会いましょう』、
って約束したんだけど……、その人はね……、来てくれなかったんだ……。
仕方が無い事だけど、ちょっと……寂しいよね……」


残念だな、って私は思った。
本当に……、凄く残念だ。
平沢さんが前の『ナビゲーター』の人と再会出来なかったって事だけじゃない。
私の中の平沢さんの思い出が残らないという事が、残念で仕方が無い。
平沢さんとはもっと仲良くなれる気がしてた。
こんな変な形の出会いだったけど、ひょっとしたら大切な友達になれていたかもしれない。
それくらい、私は平沢さんに惹かれていた。
だから……、とても……、残念だなあ……。

それともう一つ、困る事が出来て来る。
お願いが叶ったという事すらも忘れてしまうって、平沢さんはそう言っていた。
これは大きな問題だよね……。
お願いは叶った事を憶えているからこそ、それを生かす事が出来るって私は思う。
例えば『チャンスシステム』お願いで大金を求めたとして、
その大金を得た理由の記憶を失くしてしまっていたら、本当に大切なお金の使い方は出来ないはずだ。
その大金を得たかった理由すら忘れてしまったら、そのお願いには何の意味も無い。
だとしたら、叶ったという事を忘れてしまっても構わないお願いにするべきだろう。
そんなお願いがあるのかどうかは私にも分からないけど……。

31: 2012/08/12(日) 18:19:00.97
「あ、ごめんね、梓ちゃん。
何か湿っぽい事言っちゃったみたいで……。
だけど、お願いが叶ったら全部忘れちゃう……、
ってシステムもよく考えたら結構難しいよね。
そのシステムを聞いてから、私もずっと悩んじゃってたし。

だからね、梓ちゃん。
私、梓ちゃんにもよく考えてお願いを決めてほしいの。
全部忘れちゃうのに変だけど、後悔しないように……」


まだ前の『ナビゲーター』の人との別れで胸を痛めてるはずなのに、
それでも、平沢さんは優しく微笑んで私に言ってくれた。
その表情は私の事を心の底から考えてくれてるみたいに見えた。
それはとても嬉しい事だったけど、同時にちょっとだけ複雑な気分が湧き上がった。

平沢さんは人の事を心から思いやれる子なんだ……。
こんな初対面の私相手にも、真正面から向き合って考えてくれてる。
凄い事だと思う。
自分の事を冷たい人間だと思ってるわけじゃない。
でも、私が次の『ナビゲーター』になった時に、
平沢さんみたいに次の相手に丁寧に安心させる説明が出来るとも思えない。
いい所、さっき平沢さんが律さんの耳に息を吹いたのを真似て、
次の相手の知り合いの人の耳にでも息を吹いて、
『石ころ帽子』を『チャンスシステム』の証拠として使うくらいしか出来なさそう。

だから、私は平沢さんの事がもっと知りたくなった。
一生に一度のお願いについては考えてる事が無いわけじゃない。
でも、今はそれよりも先に、平沢さんの事をもっと深く知りたい。
平沢さんがどうしてこんなにも他人に優しく振る舞えるのか。
どんな生活をして、どんな経験をして、その性格を持つ事になったのか。
そして、それが分かれば、私はもっと友達に対して優しくなれるのかな?
って、私はそういう事ばかり気になって、お願いの事を気に出来なかった。


「やっぱり難しいよね、梓ちゃん。
後で全部忘れちゃっても大丈夫そうなお願いをいきなり見つけるなんて……」


私が難しい顔で唸っていたのを別の意味で捉えたのか、
平沢さんがちょっとだけ苦笑を浮かべてそう言ってくれた。
本当は平沢さんの事を考えてたんだよ、……なんて流石に言えない。
私は自分の頬が熱くなるのを感じながら、
平沢さんからちょっとだけ目を逸らして口を開いてみた。

32: 2012/08/12(日) 18:21:48.79
「うん、そうだね……。
夢や叶えたい事が無いわけじゃないけど、
それが一生に一度のお願いでいいのかって言われると正直悩んじゃうし……。
あ、そうだ、一つ気になる事があるんだけど、訊いていいかな?」


「何? 私に答えられる事なら何でも訊いて」


「一生に一度のお願いって、どれくらいの事なら叶えてくれるの?
何でも叶えてくれる……って言っても、流石に無茶過ぎるお願いは駄目なんじゃない?
例えばだけど、世界征服って願えば叶えてくれるものなの?」


「世界を征服したいの、梓ちゃん?」


「いやいや、単なる例えだってば」


「あははっ、そうだよね。
うーん……、どうなんだろう……。
詳しくはお願いしてみないと分からないんだけど、多分無理なんじゃないかな?
今まで一度くらいそういうお願いをした人も居るかもしれないけど、
世界を征服するのってそんなに簡単な事じゃないって思うんだ。
ただ世界のトップに立つってだけじゃなくて、
世界の色んな人にトップとして認めてもらえないと世界征服って言えないと思うし……。
そのためには世界中の人の心を操らないといけなくなるよね?
でも、そういう人の心を操るようなお願いは、叶えてもらいにくいみたい。
前の『ナビゲーター』の人が言ってたんだけど、
そういう自分身の丈に合わない、他人に迷惑を掛けちゃうお願いはスルーされるらしいんだ」


「スルー……?
それはまた随分と適当なシステムだね……」


「うん、でもね、
「それでいいんじゃない?」って前の『ナビゲーター』の人は言ってたんだ。
「そういう無茶なお願いをする人は、
最初から一生に一度のお願いをする資格がなかったって事でしょ?」って。
大人の人の意見だよね。
うん……、本当に素敵な人だったなあ……」


なるほど、そういう考え方もあるのかもしれない。
身の丈に合わないお願いはスルーされる……。
そう聞いて私は逆にちょっと安心出来ていた。
そもそもそんな大き過ぎるお願いが私に出来るとは思わないし、
私じゃない誰かがそんな大きなお願いを叶えてもらってるって考えるのもちょっと怖いもんね。
身の丈に合ったお願いでいいんだよね……。
うん、それなら何とか考えられそう。
勿論、まだもう少し悩んでからだけど。

私は一人で小さく頷いて、平沢さんの瞳に視線を向けた。
まだ悩んでたいし、平沢さんともう少し話してたかったけど、
気が付けば夕陽がかなり傾いて、夏の終わりの宵闇が迫りつつあった。
門限もあるし、これ以上悩んでるわけにもいかないよね。
ちょっと申し訳ない気分で、平沢さんに訊ねてみる。


「ごめんね、平沢さん。
一生に一度のお願いなんだけど、何にするかもうちょっと悩んでみてもいいかな?
今日初めて聞いた話だし、いきなり一番いいお願いなんて決められそうにないんだよね……」


「うん、気にしないで、梓ちゃん。
私だって前の『ナビゲーター』の人と長い間悩んじゃったんだもん。
悩む気持ちはすっごくよく分かるんだ……。
それにね、梓ちゃんにとって一番いいお願いを見つけてくれた方が、私も嬉しいよ」


「ありがとう、平沢さん。
それで一生に一度のお願いなんだけど、お願いの期限とかあるのかな?
流石に何ヶ月も待ってくれるってわけじゃないよね?
私としてはその方が助かるんだけど、平沢さんの方はそうもいかないでしょ?」

33: 2012/08/12(日) 18:22:22.68
「それは私も困るかも……。
期限は別に詳しく決まってるわけじゃないんだけど、
多分、大体一週間くらいじゃないかって前の『ナビゲーター』の人が言ってたよ。
期限を過ぎても大丈夫かって試す人も居なかったみたいだから、
期限については詳しい事は分からないみたいなんだ。
私もね、『ナビゲーター』の人と会ってから六日目にお願いを決めたんだよ」


一週間……。
妥当な期限だろうと思う。
自分のお願いについて考えるには丁度いい時間だし、
逆に一週間過ぎても決められなかったら、どれだけ経ってもお願いなんて決められない気がする。
そんなに長く考えてお願いを決められないなんて、
それこそ『一生に一度のお願いを叶える資格が無かった人』だと思う。

私はまた頷いてから、平沢さんの手を取って口を開いた。


「うん、ありがとう、平沢さん。
これから一週間ずっと……ってわけじゃないけど、
私の一生に一度のお願いについて真剣に考えてみる。
あのね、それで……」


「うん、どうしても難しいみたいだったら私が相談に乗るよ、梓ちゃん。
私も前の『ナビゲーター』の人にお願いを探す手伝いをしてもらったんだ。
だからね……、私じゃあんまり役に立たないかもしれないけど、
梓ちゃんのお願いを見つけるお手伝いをさせてくれたら嬉しいな」


「そんな事ないよ、ありがとう、平沢さん。
じゃあ、平沢さんの連絡先を教えてもらっていい?
何かあったら連絡を……」


「あっ!」


「ど……、どうしたの、平沢さん?」


「ごめんね、梓ちゃん。
私、一つ大切な事を伝えるの忘れてたみたい。
梓ちゃんが私の話す事を信じてくれたから、もう一つシステムがある事を忘れちゃってた」


「もう一つのシステム……?」


「うん、『チャンスシステム』をどうしても信じられない人のためのシステムがあるの。
それはね、『お試しお願い』……。
何でもってわけじゃないんだけど、
一生に一度のお願い以外に、もう一つだけお試しでお願いを叶えてもらえるんだよ」


『お試しお願い』。
確かに『チャンスシステム』を信じられない人を信じさせるためには、一番の方法だろう。
口で言っても分からない人には、直接体験させてあげるのが一番だ。
とても合理的なシステムだ。
……なんだけど、これはまた妙に世知辛システムと言うか何と言うか……。
神様なのかどうか知らないけど、お願いを叶えてくれる誰かも色々苦労してるんだなあ……。

でも、実際の所、私には特に必要無いシステムだった。
平沢さんの人柄のおかげか、私はもうチャンスシステムの事を信じてるもんね。
今更、平沢さんの今までの言葉を試すような事はあんまりしたくない。
そう思って私が首を横に振ろうとした瞬間、平沢さんが微笑んで私の手を取った。
穏やかな口振りで続けてくれる。

34: 2012/08/12(日) 18:29:20.04
「私を信じてくれるのは嬉しいけど、『お試しお願い』を使った方がいいよ、梓ちゃん。
『お試しお願い』を使っても何の損も無いし、折角だから……ね?
あ、心配しなくても大丈夫だよ?
何をお願いしたのかは、『ナビゲーター』の私にも分からないようになってるんだ。
一週間くらいで効力も切れるらしいから、軽い気持ちでお願いしてみて。
それが『一生に一度のお願い』を決めるきっかけになるかもしれないし……」


そこまで言われて、断る理由も無かった。
何の損も無いみたいだし、軽い気持ちでお試ししてみるのもいいかもしれない。
すぐには思い付かないけど、そうだなあ……、
好物の鯛焼きを沢山お願いしてみるって言うのも素敵かもしれない。
……って、流石にそれはお試しとは言え、勿体無いかな?

瞬間、私は平沢さんの瞳を見つめながら、一つの事を思った。
そうだよね……。
鯛焼きもいいけど、折角ならこういう事でしか叶えられないお願いの方がいいよね。
例えば、そう……。
私は決心して、平沢さんに静かに頷き掛けた。


「うん……、分かった。
じゃあ、一つ試してほしいお願いがあるんだ。
叶えてもらっていいかな、平沢さん?
……って、どうやったら叶えてもらえるのかはよく分からないんだけどね」


「あ、それは簡単だよ、梓ちゃん。
お願いを強く心に思い描いててくれる?
それで私が梓ちゃんと私のおでこを合わせるとお願いが叶うようになってるんだよ」


「また変わったお願いの叶え方だね……。
でも、分かったよ、平沢さん。
ちょっと待っててね」


そう言った後、私は前髪を右手で掻き上げた。
それから、平沢さんと軽く見つめ合う。
……何だかキスする直前みたい。
私はちょっと恥ずかしくなったけど、
平沢さんは何も気にしてないみたいにゆっくりと目を瞑った。


「じゃあ……、行くね?」


私が上擦った声で呟くと、平沢さんは目を瞑ったまま頷いてくれた。
緊張する自分に気付きながらも、
私は一つのお願いを強く胸に抱いて、平沢さんと軽くおでこを合わせた。
私は知りたいんだって強く願いながら……。

どれくらい経ったんだろう。
多分、おでこを合わせて十秒くらい経ってから、平沢さんが急に目を開いた。
私からおでこを離してから、静かに微笑んでくれた。


「うん、これで『お試しお願い』が叶ったはずだよ、梓ちゃん。
どんなお願いなのかは私には分からないから、
叶ったかどうか梓ちゃん自身に確かめてもらっていい?」


「う、うん……」

35: 2012/08/12(日) 18:30:03.29
平沢さんの言葉に頷いてみたけど、別に何かが変わったようには思えなかった。
知りたかった事に対する私の知識が急激に増えたって事も無さそうだった。
家に帰ったら私の知りたかったをまとめた本でも置いてあるのかな……?
それもそれで間抜けな光景だなあ……。
まあ、どんな方法でもお願いが叶ったのなら助かるんだけど……。
それを確かめるためにも家に戻った方がいいのかな?

そう考えた瞬間、私はそれに気付いた。
耳に聞こえて来ていた音に異変が起きてるって事に。
私はその音の方向に視線を向ける。
私の視線の先では澪さんが律さんに見守られて、エアベースを弾いている。
ううん、エアベースだけならさっきまでも恥ずかしそうに弾いていたんだけど、
今は急に歌まで歌い始めていて、明らかに伸び伸びとエアベースを演じるようになっていた。


「お、急にエアベースのノリがよくなったなー、澪。
やっぱり観客が居ないと真の実力が出せるってやつか?
ミュージシャンとしてはそれもどうかと思うけどさ」


律さんがからかうみたいに言うと、澪さんが少し恥ずかしそうに苦笑した。
ついさっきまでには見た事が無い、緊張から解放された苦笑だった。


「それを言わないでくれよ、律……。
エアベースとかすっごく恥ずかしいんだぞ?
あのツインテールの子の前でも、どうにか弾けてた事は褒めてくれよ……。
勿論、学祭までにはもうちょっと緊張しないように頑張るけどさ」


「わーってるって。
おまえにしては頑張ったじゃん、澪。
知らない人の前でエアベースが弾けただけで十分な進歩だよ。
頑張ったじゃんかよ。
あのツインテールの子はいつの間にか居なくなっちゃってたみたいで残念だけどな。
澪の練習のためにももうちょっと見ててほしかったんだけどなー」


律さんが笑い、澪さんもそれに釣られて笑った。
二人きりだからこそ見せる信頼し合った笑顔……。
そんな風に見えた。
本当に羨ましく思える二人の関係だ。

でも、私の頭の中はそれどころじゃなかった。
『ツインテールの子がいつの間にか居なくなっちゃってた?』。
私はここに居るのに?
変わらず公園のベンチに座って、二人の姿を見つめているのに?
当然だけど、律さんと澪さんが私を見ない振りをしてるわけでもない。
こんな事有り得るはずない……。
有り得るはずないのに、私は何故こんな事になったのか心当たりがあった。
勿論、私のお願いのせいだ。
他にこうなる理由なんて存在するわけがない。

でも、どうしてこうなるの……?
私はこんな事をお願いしたりなんかしてないのに……。
自分の姿を『石ころ帽子』で消す事なんて願ってないのに……。
私がお願いしたのは……、そう……。


『平沢さんの事をもっとよく知りたい』ってお願いだったのに……。

39: 2012/09/01(土) 19:02:14.40





突然の状況に私が動揺している事に平沢さんも気付いたらしい。
平沢さんは心配そうな表情で私の顔を覗き込んで、私に訊ねていた。


「梓ちゃん、大丈夫……?
『お試しお願い』、叶ったんだよね……?」


「そ……、そうだと思うんだけど……」


それ以上の事は私にも言えなかった。
確かな事は何も分からない。
何せ私の想像していた状況と全然違ってるんだもん。
私は『平沢さんの事をもっとよく知りたい』ってお願いをした。
どんな環境で生きて来たら、平沢さんみたいな素直で優しい子になるのか。
それを知りたかった。

だから、私はてっきりこの『お試しお願い』が叶ったら、
平沢さんの思い出か情報が頭の中に突然流れ込んで来るとか、
家に帰ったら誰がまとめたのか分からない平沢さんについてのレポートが置いてあったりとか、
そんなちょっと安っぽいSFみたいな状況になる物だとばかり思っていた。
むしろ、そうなる事こそ望んでいたのに……。

なのに、これは一体全体どういう事なんだろう。
まだ律さんと澪さんの様子を確認しただけだから分からないけど、
この調子だと私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているんだろう。
それは後で確かめられる事だし、後で確かめればいい事だとして、
どうして私の『お試しお願い』がこんな形で叶ってしまったかって事の方がどうしても気になった。
平沢さんに失礼かもしれない、と頭の片隅で思いながらも、気付けば私は平沢さんに訊ねていた。


「ねえ、平沢さん……。
平沢さんの『一生に一度のお願い』って何をお願いしたの?
よかったら教えてくれない?」


「えっ、どうしたの、突然……?」


「お願いってどんな形で叶うものなのかなって思って……。
だって、こんな……、ううん、ごめんね、平沢さん。
人の『一生に一度のお願い』を聞くのなんて失礼だよね。
ごめん、ちょっとびっくりしちゃって……」


「う、ううん、梓ちゃんが悪いわけじゃないよ。
でも、梓ちゃんがそう言うって事は、
『お試しお願い』が想像してた事と違った形で叶ったって事なんだよね……?
私も何となくそれは気付いてたんだ。
だって、律さんと澪さんがさっきから急に梓ちゃんの方を見なくなったんだもん。
「ツインテールの子はいつの間にか居なくなっちゃってた」って律さんも言ってたし……。
って事は、梓ちゃんも『石ころ帽子』を被った状態になっちゃったって事でしょ?」

40: 2012/09/01(土) 19:05:52.92
鋭い子だな、と私は舌を巻いた。
私が何を説明するよりも先に話の先を読んでいてくれる。
気配り、観察眼、性格、何をとっても私より先んじてる。
悔しくなってくるくらいに……。
やっぱり、平沢さんの事、もっとよく知りたいな……。
って、今はそんな事を考えてる場合じゃないよね。
私は平沢さんの瞳を正面から見つめながら頷いた。


「うん、そうなんだ。
今の状況、私がお願いした事と全然違ってるの。
だから、平沢さんのお願いはどんな形で叶ったのかな、って思ったの。
失礼な事を聞いて、ごめんね」


「こっちこそごめんね、梓ちゃん。
『一生に一度のお願い』の事はちょっと内緒にさせてほしいんだ……。
流石にそれを誰かに知られるの恥ずかしくて……。
でも、私の『お試しお願い』の事なら教えてあげるね。
それが参考になったら何よりだって思うし……」


「いいの、平沢さん?」


「うん、それくらいなら大丈夫だよ。
それで私の『お試しお願い』なんだけど、
私は『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いしたんだよ」


「お姉ちゃん……?」


そういえば平沢さんは律さんと澪さんを『お姉ちゃんの同級生の方達』って言ってたよね。
一人っ子の私には分からないけど、
普通の妹はお姉さんの同級生の事を憶えているものなんだろうか。
まあ、普通に憶えているものなのかもしれないけど、
お姉さんの同級生を憶えるくらいにはお姉さんに興味がある事だけは間違いない。
ううん、むしろ平沢さんの様子を見る限り、お姉さんの事をかなり好いてるみたいだ。
大体、『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いするくらいだもんね……。
何だか自分の事しか考えていなかった私の事が恥ずかしくなってくるけど……。


「どうしたの、梓ちゃん……?」


そうやって私が複雑な表情を浮かべていたせいだろう。
平沢さんが心配そうにまた私に訊ねた。
いけないいけない、今は平沢さんのお願いの事だ。
私は軽く自分の頬を叩くと、平沢さんに視線を向け直した。

41: 2012/09/01(土) 19:06:26.72
「ごめんね、またちょっと考え事しちゃってたみたい。
とにかく、平沢さんはお姉さんの元気と幸せをお願いしたんだよね?
そのお願いはどうだった?
お姉さん、元気で幸せになってた?
……って、傍から見てるだけじゃ、
元気なのか幸せなのか分かりにくいかもしれないけど」


「そんな事無いよ、梓ちゃん。
『お試しお願い』が叶って一週間、お姉ちゃんすっごく幸せそうだったよ。
夏の暑さに弱いお姉ちゃんなんだけど、
その一週間はすっごく元気だったし、幸せそうに微笑む事も増えてたもん。
本当に元気で幸せになれてたんだと思うなあ……」


そう言ってから平沢さん自身も幸せそうに微笑んだ。
お姉さんの幸せが平沢さん自身の幸せでもあるんだろうな。
でも、その数秒後、平沢さんの笑顔は少しだけ曇った。
幸せなのに幸せじゃない……、そんな感じの表情に見えた。
私がそれを指摘するより先に、平沢さんはまた微笑んで話を続ける。


「だからね、梓ちゃん。
『お試しお願い』はちゃんと叶ってるんだと思うよ?
想像してた形とは全然違ってるのかもしれないけど、きっと叶ってるんだと思う。
何か心当たりないかな?
よかったらでいいんだけど、梓ちゃんの『お試しお願い』が何だったのか訊いてもいい?」


「あ……っと、それは……」


私は口ごもってしまう。
親身になってくれる平沢さんに真実を話したい気持ちはやまやまだけど、
流石に面と向かって『貴方の事を知りたかったから』って本人に伝えられる度胸は私には無い。
だから、私はちょっと嘘を吐いていた。
完全な嘘ではないけど、本当でもない事を口にしてしまっていた。


「私の『お試しお願い』はね……、えっと……。
『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いだったんだ」


「私と同じ生活……?」


「うん、だって、平沢さんっていい所のお嬢さんっぽいじゃない?
だから、どんな生活をしてるのかなって気になっちゃって……。
セレブリティな生活を体験してみたかったんだよね」


「ええっ、私がお嬢さんだなんて、そんな事無いよ、梓ちゃん。
私の家、普通だし、私自身だって普通だよ?
お嬢さんっぽい所なんて無いと思うんだけど……」


「ううん、それこそ無いよ、平沢さん。
平沢さんの家は本当に普通の家なのかもしれないけど、
平沢さん自身はすっごくお嬢さんの貫録を漂わせてるもん。
落ち着いてるし、気配りも出来るし、
優しく私に『チャンスシステム』の説明もしてくれるし、だから……」

42: 2012/09/01(土) 19:06:58.15
平沢さんの事が知りたかったんだ、
って心の中だけで言ってから私は軽く苦笑した。
誤魔化しから出た言葉だったけど、
あながち今の状況に繋がってなくもないって感じたんだよね。
私は苦笑を浮かべたまま、平沢さんに向けて言葉を続けた。


「何か……分かっちゃったかも……。
私、『平沢さんと同じ生活をしてみたい』ってお願いをしたでしょ?
それを神様か仏様が変な風に受け取っちゃったんじゃないかな?
『平沢さんと同じ生活をしたい』って事は、平沢さんと同じ様な状態になりたい』。
つまり、『平沢さんと同じく石ころ帽子を被った状態になりたい』ってお願いか!
って、お願いを叶えてくれる誰かさんが勘違いしちゃったのかも」


「そ……、そうなのかな……。
そんなに適当でいいのかな、『チャンスシステム』って……」


「分からないよ?
大体、あんまり無茶なお願いはスルーするって変わった神様じゃない?
それくらい適当な所があるのかも」


そう言って私が笑うと、平沢さんも困ったように苦笑してくれた。
口から出任せを並べてみただけだけど、何故かそれが正解な気がする。
お願いを叶えてくれるのは結構適当な神様みたいだから、
『平沢さんの事が知りたい? だったら平沢さんと同じ状態になってみたら?』、
って考えたのかもしれないし、その想像は多分間違ってないだろうな。
本当に適当な神様だなあ……。

44: 2012/09/03(月) 18:46:37.07
でも、神様だか誰なんだかが何を考えていたにしても、
こうなってしまった以上は『お試しお願い』を取り下げる事は出来ない気がする。
もしも訂正しようともう一度お願いを試してみて、
それが『一生に一度のお願い』と勘違いされて叶えられても困るしね……。
勘違いで叶えられちゃった一つ目のお願いかあ……。
何だか私らしいと言うか何と言うか。

何となく平沢さんの表情を窺ってみると、
平沢さんの責任じゃないのに申し訳なさそうに肩を落としていた。
面倒見のいい性格だけに、何でも自分の責任として考えちゃう子なのかもしれない。
私は慌てて平沢さんの肩に軽く手を置いた。


「そんな顔しないで、平沢さん」


「で、でも……、折角の梓ちゃんの『お試しお願い』がこんな事になっちゃって……。
私がもっとちゃんと詳しく説明していれば、こんな事には……」


「いいんだってば、気にしないで。
変な勘違いしちゃった神様が悪いんだし、
私だって我ながら変なお願いをしちゃった気もするしね。
だから、これは平沢さんの責任じゃないよ。

それにね、これで一応は『お試しお願い』の効力が確かめられたわけでしょ?
『チャンスシステム』の事は実はまだ半信半疑だったけど、
こんな事になっちゃった以上、もうシステムの事を信じるしかないもん。
そういう理由ではしっかり『お試しお願い』の意味があったんだなあ、って私は思うよ」


「そう……かな……。
梓ちゃんがそう考えてくれてるんだったら、私も安心出来るんだけど……」


「うん。だから、気にしないで、平沢さん。
これは変なお願いをしちゃった私の責任なんだし、
『一生に一度のお願い』の時はもっとちゃんとお願いについて考えるから」


その言葉は平沢さんへの慰めからの言葉でもあったけど、本心からの言葉でもあった。
実は『一生に一度のお願い』の事は本気で考えたい、
って気持ちは平沢さんの事を信用する前から既に私の中にあった。
『一生に一度のお願い』の事を平沢さんから話された時、
それが本当に叶うにしろ、叶わないにしろ、それは考えなきゃいけない事だって思ったから。
自分の進んでいく将来のために……。

45: 2012/09/03(月) 18:47:11.69
私は中学三年生だ。
受験をもう少し先に控えた時期……。
将来について考えるのには、少し早い時期かもって気は勿論してる。
だけど、私の夢の一つについて考えるのには、遅過ぎる時期でもあった。
考えなきゃいけないんだ。
私の夢の内の一つを諦めるか、継続させるのかどうかを。
だから、『チャンスシステム』の話を抜きにしたとしても、
私は自分の叶えたい『一生に一度のお願い』を考えなきゃいけないんだと思う。
そういう意味で、私は今の時期に平沢さんと出会えただけでも運が良かった気がする。

まだ私の中でそのお願いがはっきり固まってるわけじゃない。
固まらせられるかどうかも分からない。
でも、この『お試しお願い』の効力が続くらしい一週間、
私はその『一生に一度のお願い』を精一杯探して行きたい。
それがこの先、あの子との付き合い方を決めるって事にもなるんだろうから……。

だけど、それよりも何よりも。
私達には決めなきゃいけない事がたくさんあった。
私は少し申し訳ない気分になりながら、平沢さんに訊ねてみる。


「ところで平沢さん……、これからどうしよう?
さっきも言ったけど、私、『一生に一度のお願い』についてよく考えてみたい。
『お願い』が出来る期限が来るまで、考えたいんだ。
平沢さんはそれでもいい?」


「うん、それは勿論だよ、梓ちゃん。
私だって梓ちゃんには一番いい『一生に一度のお願い』を見つけてほしいもん。
私もね、自分のお願いを見つけるのには、丸ごと一週間掛かったんだ。
その間、前の『ナビゲーター』の人は私の事を待っていてくれたの。
私も梓ちゃんにそうしてあげたいから、
梓ちゃんはこの一週間、自分の『一生に一度のお願い』について考えてみて。
そうしてくれた方が、私だって嬉しいな」


「ありがとう、平沢さん」


私が軽く微笑み掛けると、平沢さんも柔らかく微笑んでくれた。
その微笑みはとても嬉しかったけど、同時にちょっとだけ私の胸は痛んだ。
一週間後……、じゃなくて、
お願いが叶った後は私も『ナビゲーター』をやらなきゃいけないから、約二週間か。
その約二週間後には、私の心の中から平沢さんの記憶は消えてしまうらしい。
折角いい友達になれそうだったのに、何だかとても……残念だな……。
でも、その分、私はこの一週間で平沢さんの事を本気でよく知ろうと思う。
例え消えてしまう思い出だとしても、
それには何かの意味があるはずだって思いたい。

私がそうして一人で決心していると、
不意に平沢さんが私の両手を握って私の瞳を覗き込んだ。
顔を少し赤く染めながら妙に真剣な表情で、平沢さんはその口を開いた。


「あの……、それでね、梓ちゃん……。
凄く突然で不躾な事を言うかもしれないんだけど、
あのね……、梓ちゃんに一つお願いしたい事があるんだ……」


平沢さんはそのお願いを私に申し出た。
その申し出は私にも願ったり叶ったりで、
断る理由なんて全然無かったら、快く了承させてもらった。

ちなみに公園から自宅に戻る直前、
念の為に澪さんの耳元に息を吹き掛けてみたけれど、
律さんと同じく、澪さんも私の姿に気付いた様子は無く、
「急に耳に息を吹き掛けるな!」と律さんの後頭部を強く叩いただけだった。
半分以上分かってはいた事だけど、
やっぱり私も平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被った状態になっているらしい。
それはそれとして。
私達のせいで二回も澪さんに叩かれる事になって、ごめんなさい、律さん。
いつか何かでお詫びが出来ればいいんだけど、出来る機会があるかなあ……?

46: 2012/09/03(月) 18:47:40.12





「平沢さんが私に会えて嬉しかった理由がよく分かったよ……」


自室のベッドに腰を下ろしてから、私は大きく溜息を吐いた。
平沢さんが私の猫型クッションに正座をしてから、軽く苦笑して頷く。


「あはは、分かってもらえて嬉しいな。
それにしても、結構危なかったよね、梓ちゃん。
大丈夫? 怪我は無かった?」


「あ、うん、それは大丈夫。
でも、本当に危なかったし、びっくりしちゃったよ……。
あの時、平沢さんが私の手を引いてくれなきゃ、
大怪我どころか氏んじゃう所だったと思うなあ……。
ありがとね、平沢さん」


「ううん、梓ちゃんが元気なら何よりだよ。
あ、そういえば前の『ナビゲーター』の人が言ってたんだけど、
『ナビゲーター』はどんな状態になっても氏なないんだって。
大怪我をしても、お腹がどんなに空いても、氏ぬ事は無いらしいんだよ。
……誰も試した事ないらしいんだけどね」


「試さないでしょ、そんなの……」


試したいとも思わない。
氏なないからって好き好んで痛い目に遭う趣味なんて私には無いし……。

ちなみに『危なかった』と言うのは、さっき私が車に轢かれそうになった事だった。
私が信号無視をしたわけじゃない。
車の方が信号無視をしたわけでもなければ、
道路で轢かれそうになってた子猫を助けようと私が飛び出したわけでもない。
私も平沢さんも車も交通法規を守っていたけれど、結果的に私が轢かれそうになってしまったのだ。

交差点の横断歩道の信号機が青になった時だった。
青信号を確認した私が普段通り横断歩道を渡ろうとした瞬間、
交差点を左折しようとした車と私が衝突しそうになってしまったのだ。
平沢さんが私の手を引いて歩道に引き寄せてくれたから難を逃れたけど、
車は私の事なんか見向きもせずにそのままクラクションも鳴らさずに直進して行った。
何て危険なドライバーだろう、と一瞬考え掛けたけど、すぐに考え直した。
そうだった。
私は『石ころ帽子』を被ってしまっているんだ。
車のドライバーは危険な運転手だったわけじゃなくて、単に私達の姿が見えてなかっただけなんだ。

そう考えた途端、ぞっとした。
私の姿が見えていないという事は、私を轢いても何の気にもしないという事なんだ。
気にしないどころか気付かないって事なんだ。
これは怖いなあ……。
ちょっとそこまで歩くだけでも命懸けだ。
平沢さんが言うには『ナビゲーター』は氏なないらしいけど、そういう問題じゃない。
さっき平沢さんと初めて公園で会った時、妙に平沢さんが嬉しそうだった理由がよく分かる。
私に出会えた事も勿論嬉しかったんだろうけど、
私に出会うまでの道程が心底大変だったに違いない。
私と違って一人きりで私を探していたわけだし、その心細さは察して余りあるくらいだ。

47: 2012/09/03(月) 18:48:09.19
大変だったんだね、平沢さん。
そう言おうと思って口を開いた瞬間、「あのね」と平沢さんが先に言葉を口にした。
別に今伝えないといけない言葉でもない。
私は口を噤んで平沢さんの次の言葉を待つ事にした。
数秒後、少し躊躇いがちに平沢さんが言葉を続ける。


「私の我儘を聞いてもらっちゃってごめんね、梓ちゃん。
迷惑だったでしょ?
急に梓ちゃんの家に泊めてほしいなんて……」


来る前から遠慮がちだったけど、
申し出を私に簡単に受け入れられた事で、
余計に平沢さんの私への申し訳なさが膨れ上がってるみたいに見えた。
初対面の相手の家に泊まりたいって言い出すだけでも、
平沢さんには相当に勇気の居る事だったんだろうしね。
本当の事を言うと、私だって初対面の相手を泊めてあげる社交性なんて無い。
今だってちょっと緊張してる。
でも、平沢さんを泊めてあげたいって思ったんだ。
それは私が平沢さんともっと話がしてみたかったからでもあるけど、
私の家に泊まりたいって申し出た時の平沢さんの表情が寂しそうでもあったからでもある。

どうしてそんなに寂しそうなんだろう。
その平沢さんの気持ちは自宅に戻った時にちょっとだけ分かった。
自宅に戻った時、お父さんはいつの間にか家に帰って来ていて、お母さんと夕飯を食べていた。
私の夕飯を用意しないで、二人で談笑しながら、夕飯を食べていたんだよね。
これは私の胸もかなり痛くなった。
勿論、お父さん達が私を無視してるわけじゃない。
私が『石ころ帽子』を被った事で、存在自体を気にしなくなってしまってるんだろう。
それを分かってはいても、その光景はやっぱり辛かった。

私は別にお父さんとお母さんと仲良しってわけじゃない。
クリスマスくらいには家族で過ごす事もあるけど、それ以上仲良くしてる憶えはない。
だけど、別に仲が悪いってわけでもない、普通の家庭環境だと思う。
私の年頃だとそれくらいが当然だろう。

でも、多分、平沢さんは違う。
平沢さんがお姉さんを大切にしてる事は初対面の私にもよく分かる。
何せ『お姉ちゃんを元気で幸せにしてあげて下さい』ってお願いをするような子だ。
自分よりお姉さんの事を第一に考える子なんだ。
きっとお姉さんの事が本当に大好きなんだろうって思う。
そのお姉さんに自分の存在が気付かれないなんて、
傍に居ても気付いてもらえないなんて、どれだけ辛い事なんだろう。
一人っ子の私には想像すら出来ない。
だから、せめて私は平沢さんの申し出を叶えてあげたくなったんだ。
短い間だけど、その間くらいは……。

私は出来る限り優しく平沢さんに微笑み掛ける。
笑顔が得意なつもりはないけれど、微笑んであげたかった。

48: 2012/09/03(月) 18:48:47.85
「いいんだって、平沢さん。
私も平沢さんともっと話してみたかったし、お願いを叶えてもらう立場なんだしね。
私に出来る事でよければ何でも言ってよ」


「でも、それじゃ、梓ちゃんに悪い気がして……」


言いながら、平沢さんが頬を赤くして私から目を逸らす。
人に気配りが出来る子なのに、他人から何かされる事には慣れていないのかもしれない。
何となく、勿体無いな、と思った。
これだけ誰かの事を考えられる子なんだから、
平沢さん自身だって誰かから大切にされてもいいはずだ。
ただ、それを伝えるには、まだ私では説得力が足りない気がした。
そういう言葉を伝えられるのは、もっと平沢さんと仲良くなった友達だけだ。
そうでない人間が何を言っても嘘っぽいだけだろう。

だから、私は思い付いた事を言った。
さっき律さんと澪さんを見ていて、思い付いた事。
それをきっかけとして、平沢さんの事をもっとよく知れたら。
それこそ私のためにも、平沢さんのためにもなる事だと思う。
特に今の私は都合良く『石ころ帽子』を被ってる状態になってるんだしね。

私はベッドから腰を上げて、平沢さんの二の腕を軽く掴んだ。
わざとらしくちょっと悪い笑顔を浮かべて、申し出てみる。


「そうだ!
だったら平沢さん、私のお願いも聞いてくれない?
勿論、『一生に一度のお願い』じゃない方のお願いね。
私が平沢さんのお願いを聞く代わりに、平沢さんも私のお願いを聞いてくれる。
これなら平沢さんだけが気に病む必要は無くなるでしょ?
これこそ等価交換だよ」


「えっ……?
う、うん、私に出来る事でよければ……」


「ありがと、平沢さん。
じゃあね、私、ちょっと行ってみたい所があるんだけど……」

51: 2012/09/14(金) 18:01:59.46





「練習、始まらないね……」


私はちょっと呆れながら、平沢さんと顔を合わせて呟いた。
平沢さんはそれには何も答えずに苦笑して、軽く首を傾げるだけだった。
確かに平沢さんの立場としては、どうにも反応しにくいだろうけどね……。

部室。
とは言っても、私の部室でも平沢さんの部室でもない部室。
私達は長椅子に腰を下ろして、昨日顔を知ったばかりの人達の部室に来ていた。
私達が座る長椅子の先、音楽室には不似合いな机が並べて固められている。
そこでは三人の女子高生が紅茶を飲んで談笑していた。

カチューシャをしたショートヘアの律さん。
流れる黒髪が綺麗で美人の澪さん。
それともう一人、こんな所に居るのが不自然にしか思えない柔らかい金髪の人が居た。
金髪の人は紬さんと言う名前で、この部のキーボードを担当しているらしい。
ちなみに昨日見た通り、律さんはドラマー、澪さんはベーシストなんだそうだ。
それは全部、私の隣で苦笑している平沢さんが教えてくれた事だった。

そう。ここは桜が丘女子高等学校の軽音部部室。
私が平沢さんに無理に頼んで連れて来てもらった場所だった。
昨日、律さん達が公園でバンドの練習をしているのを見て、私、思ったんだよね。
ひょっとしたら、律さん達は学校で軽音楽部かジャズ部にでも入ってるんじゃないかって。
平沢さんに訊ねてみたら、私の想像は正しかったみたいで、
律さん達は平沢さんのお姉さんと同じ、桜が丘女子高等学校の軽音楽部に所属していると教えてくれた。

それが分かった途端、私は律さん達の姿をどうしても見たくなった。
一つ年上らしいけど、同じ年頃の女の子達がどんな音楽活動をしてるのかを。
それも何の飾りも無い本当の意味での生の姿を。
それが私の夢と『一生に一度のお願い』にとって大切な事だと思ったんだ。

その意味で、私は幸運だったんだろう。
今の私は、神様の勘違いか、適当なシステムの弊害か、
とにかくそんな偶然で、平沢さんと同じく『石ころ帽子』を被ったみたいな状態になってしまった。
誰にも気にされないし、誰にも気付かれない妙な状態に。
困った状態では勿論あるけど、これは使えるかもしれないって私は気付いた。
この状態なら誰にも気付かれないし、誰にも迷惑を掛けずに目的を果たす事が出来るもんね。
律さん達の軽音楽部の生の活動が、この目で見る事が出来るんだもん。
いい加減な神様だけど、その辺だけは感謝してもいいかもしれない。

52: 2012/09/14(金) 18:03:08.94
だけど、一つだけ気がかりな事もあった。
平沢さんのお姉さんの事だ。
平沢さんはお姉さんとかなり仲がいいみたいで、
お姉さんに他人相手の視線を向けられるどころか、
『石ころ帽子』の効果で完全に無視されてしまう事を相当辛く思ってるみたい。
私だってそれなりの仲のお父さん達に完全に無視されてしまうのは、かなり胸が痛んだ。
平沢さんの辛さは私なんかには想像も出来ないくらいだと思う。
だから、お姉さんが所属する部の部屋に案内して、なんて本当は頼みづらかった。
平沢さんが辛いみたいだったら、部室の大体の場所だけ教えてもらって一人で行こうかとも考えてたくらい。
幸い、桜が丘女子高校……桜高は受験するつもりだったから、場所くらいは知ってるしね。

でも、平沢さんは昨晩した私のお願いを快諾してくれた。
「お姉さんが居るかもしれないのに、いいの?」と恐る恐る訊ねると、
「最近、お姉ちゃんは顧問の先生の家で特訓してるから、部室に顔を出してないみたいなの」と笑ってくれた。
そういえば昨日、律さんがもうすぐ学祭って言っていたような気がする。
平沢さんのお姉さんはその特訓をしてるんだろう。
その偶然は私にとっても、多分、平沢さんにとっても好都合だった。
本音を言うと、平沢さんのお姉さんがバンドのギタリストらしいから、
同じくギターをやってる私としては一番見ておきたかったんだけど、そこまで望んだら流石に罰が当たるよね。

そういうわけで、私は自分の中学を休んで桜高の軽音楽部に行く事にしたんだよね。
学校をサボるのなんて初めてだったからちょっと緊張したけど、
平沢さんが言うには、この『チャンスシステム』中は何故か欠席扱いにならないらしかった。
『石ころ帽子』の効力なのかどうかは分からないけど、これはまた律儀な神様だなあ……。
余計な事を考えずに『一生に一度のお願い』の事だけを考えなさい、という事なんだろう。
色んな所で抜けてながら気配りが出来る、って本当に変な誰かさんだ。
おかげ様で欠席に何の罪悪感も無く……、
ってわけにはいかなかったけど、少しだけ救われた気分で桜高に向かう事が出来た。

桜高に到着したのはお昼の二時過ぎになった。
朝ごはんを食べたり、色んな用意をしている内に、遅くなっちゃったんだよね。
部活は放課後からだからそれでも何の問題も無いんだけど、
そんな事より困ったのが朝ごはんの時の平沢さんの行動だった。
昨日の夕飯は適当に置いてあったカップ麺を食べたんだけど、
平沢さんは「もう食べたから」と言って、もう一つあったカップ麺に手を伸ばそうとはしなかった。
その時は、そうなんだ、としか思わなかった。

異変に気付いたのは今日の朝の事。
お父さん達が家から出た後に食パンを二人分焼いて、
平沢さんの前に置いても平沢さんは食パンを食べようとはしなかった。
「今、お腹空いてないから」と平沢さんは呟いたけど、
その空腹に満ちた表情で言われても、何の説得力も無かった。
流石にもう私にも平沢さんの嘘は通じない。
心配になって平沢さんを問い詰めてみると、
『ナビゲーター』になってから一食も口にしてない、としばらく後に告白してくれた。

どうも自宅とは言え家の物を勝手に食べる事に抵抗があったらしく、
丁度タイミング悪くお小遣いもほとんど無くなった所だったから、自動販売機とかでの買い食いも出来なかったらしい。
「でもでも! 『ナビゲーター』の人はお腹空いても氏なないらしいから大丈夫だよ!」と、
平沢さんが無理な笑顔を浮かべて言ってたけど、いやいや、そういう問題じゃないでしょ、平沢さん……。
お腹はしっかり空いてるみたいだし……。
それから私は「いいから食べてよ、平沢さん」と言ったのに、中々首を縦に振ってくれはしなかった。
「梓ちゃんの家の物を勝手に食べるなんて出来ないよう……」というのが平沢さんの弁だった。
どうにも生真面目なだけでなく、意外と頑固な所もあるらしい。

どうしたらいいものか長い事考えて、結局私は単純な折衷案を出す事しか出来なかった。
単純で簡単な折衷案だ。


『私の家の物を勝手に食べる事に抵抗があるのなら、
平沢さんに私の家の用事をやってもらって、そのお礼に私がごはんを提供するから』


その案で平沢さんはようやく折れてくれた。
他の家事はともかく、ごはんの調理だけはお母さんに頼り切っていたから、私としてもその方が助かった。
お恥ずかしい話だけど、正直言って一週間のごはんのレパートリーを考える自信は無いしね。
だからと言って、お母さんの財布からお金を抜いて自動販売機の食べ物で済ませるわけにはいかないし、
いくら姿に気付かれないからと言っても、お店の物を勝手に盗んで食べてしまう事にもかなり抵抗がある。
だから、これは私にも平沢さんにもいい案のはずだと思う。

53: 2012/09/14(金) 18:03:36.89
外見と雰囲気に違わずと言うか、平沢さんの家事の腕前はかなりのものだった。
空腹なはずなのにあっという間に朝食と昼食のお弁当を調理し終わると、
少しだけ申し訳無さそうな顔をして、ようやくごはんに箸を付けてくれた。
ごはんを食べながら平沢さんが言うには、
平沢さんのご両親は家を留守にしがちで、お姉さんのごはんの用意をよくしているんだって。
普通は逆でしょ、と思ったけれど、私はそれを口にしなかった。
お姉さんの事を話す時の平沢さんの顔が本当に幸せそうだったからだ。
やっぱりお姉さんの事が大好きで大好きで仕方が無いんだろう。
それが平沢さんの優しさや思いやりに繋がってるのかな?
私にも大切な誰かが出来れば、平沢さんみたいに誰かに優しく出来るのかな?
それはまだ、分からない。

私が前に作った物より数倍は美味しいごはんを食べてから、私達は私服で桜高に向かった。
平沢さんには私の服を貸してあげた。
服の寸法は身長はともかく、胸の方をきつく感じてたみたいだけど、
平沢さんは何も言わないでくれたし、私もそれについては触れない事にした。
まだ……、まだ中三なんだから、私は。
その内、驚くくらいに背も伸びて、胸も膨らんで来るはずなんだから……。
膨らんで来る……よね……?

平日の昼間に私服で歩いているにも関わらず、誰にも見咎められる事は無かった。
それどころか誰も私達の方に視線すら向けない。
分かってはいた事だけれど、やっぱりそれは怖かった。
私達だけが世界の片隅に残されたみたいだったし、
誰にも気付かれないって事は、誰にも助けてもらえないって事でもあるんだから。
私達は出来るだけ車の通りの少ない道を選んで、
注意深く歩きながら色んな話をしていると、いつの間にか桜高に辿り着いていた。

桜が丘女子高等学校。
オープンキャンパスで二回ほど来た事があるけど、自由に行動するのは初めてだった。
平沢さんも少しだけ緊張しているらしく、息を何度も呑んでいるみたいだった。
もっとも、それは桜高の雰囲気に緊張しているわけじゃなくて、
何処かでお姉さんと顔を合わさないか、って緊張の方が大きいみたいだったけど。
軽音楽部の部室の場所はすぐに分かった。
平沢さんが場所を完璧に憶えていたからだ。
お姉さんの忘れ物を届けに、何度か部室に顔を出した事があるんだとか。
本当にどっちがお姉さんなんだろう……。

時計を見ると二時ちょっと過ぎだったから、私達はまずお弁当を食べる事にした。
校長先生(?)の銅像の前に陣取って、二人でお弁当箱を広げる。
お弁当自体は朝ごはんと同じく美味しかったんだけど、一つだけ気になった事がある。
一年生のタイを着けて横の髪を巻き毛にした女子生徒が、休憩時間中に私達の方に視線を向けた事だ。
『石ころ帽子』の状態の私達を見る事は出来ないはずだから、気のせいだと思うんだけど……。
それとも、いい加減な神様だから、たまには誰かに見られる事もあるのかなあ……?
でも、例えその巻き毛の人に私達の姿が見えた所で、何かが変わるわけでもないか。
私はその人の事を出来るだけ気にしないようにしてお弁当を食べ終え、
平沢さんと体育館や講堂なんかを見学していると、気が付けば放課後になっていた。
そんなこんなで軽音楽部の部室に入って、部員の三人の様子を見てるわけなんだけど……。


「もう一時間になるよね……」


溜息がちにまた私が呟く。
そう。私達が部室に入って一時間にもなるのに、律さん達は全然練習を始めようとしなかった。
それどころか紬さんっていうお嬢様っぽい人に紅茶を淹れてもらって、
「今日のおやつはモンブランですよー」と紬さんの持参の物らしいおやつを食べている。
一時間も音楽の話すらせずに、のんびりと今日あった出来事なんかを話しているんだよね……。


「ここ、本当に軽音楽部だよね……?」


何だかかなり自信が無くなって来たから、
遂に私は何度も言おうとしながら言えずにいた事を平沢さんに訊ねてみる。
これじゃ軽音楽部じゃなくてお茶会部じゃない……。
私の気持ちを察してはいてくれたらしく、平沢さんは私の肩に軽く手を置いてくれた。

54: 2012/09/14(金) 18:04:04.94
「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん。
今はちょっと充電期間なだけじゃないのかな?
それにね、「ムギちゃんのおやつを食べると元気に演奏が出来るんだよ!」って、
前にお姉ちゃんも言ってたよ!」


ムギちゃんと言うのは、紬さんのあだ名なんだろう。
と言うか、なるほどね……。
平沢さんのお姉さんが居ないからのんびりしてるわけじゃなくて、元からこういう雰囲気の部なんだ……。
学祭前だって言ってたのに、大丈夫なのかな、この部……。
私が見たかったのは、こういう部活動じゃなかったんだけどな……。
いや、確かにこれも、私の望んだ音楽活動をする女の子達の飾りの無い姿ではあるけど……。
あるんだけど……、これは違う気がする……。


「大丈夫。大丈夫だって、梓ちゃん。
お姉ちゃん、言ってたもん!
澪ちゃんのベースはカッコいいし、
りっちゃんのドラムを聴くと元気になるし、
ムギちゃんのキーボードも上手で、作った曲も可愛いし、って!」


「ひ、平沢さんがそう言うんなら……」


平沢さんの言葉に押され、私は軽く頷いた。
平沢さんがお姉さんの言葉を信じ切ってる以上、私も平沢さんの言葉を信じるしかないよね……。
平沢さんのお姉さんがどんな人なのかはまだ知らないけど、多分かなりのんびりした人なんだろう。
でも、この平沢さんが慕ってる以上はいい人なんだろうと思う。
そうだよね……。
私も真面目過ぎるって言われる事も多いし、意外とこれが普通の女子高生なのかもしれない。
私は深呼吸をして落ち着いてから、律さん達の会話に耳を傾けてみる。


「なあ、澪ー。ユイの奴、どんな特訓してんだと思う?
歯ギターとか教えてもらってんのかな?」


「学祭に必要無いだろ、そんなテクニック……。
さわ子先生もあれで音楽には真面目な先生なんだから、
きっとちゃんとギターを弾きながら歌えるように特訓してくれてるよ。
……多分」


「多分って何だよ、さわちゃんも信用無いなー……。
まあ、あんな本性を隠してる先生だとは、私も思わなかったけどなー。
でも、私、さわちゃんの事嫌いじゃないぞ。
面白いじゃん! なあ、ムギもそう思うだろ?」


「うん、私もそう思うな。
さわ子先生があんなに元気な先生だとは思ってなかったけど、
でも、何だか頼り甲斐があって面白い先生だし、とっても素敵だと思うな。
私ね、さわ子先生が顧問になってくれてすっごく嬉しいし、ドキドキしてるの」


「ドキドキ……ね」


澪さんが曰くありげに苦笑し、律さんと紬さんが首を傾げた。
一応、雑談レベルだけど、少しは音楽の話になってきた……のかな?
話を聞く限り『ユイ』さんが平沢さんのお姉さんで、
『さわ子先生』が顧問の先生で、『ユイ』さんの特訓をしてるって事なんだろう。
『ユイ』と『ウイ』で姉妹なんて、何だか可愛らしくて羨ましい。

……あ。
そういえば、まだ訊いてない事があったんだ。
私は平沢さんの方に視線を向け直して、気になっていた事を訊ねてみる事にした。

55: 2012/09/14(金) 18:05:07.46
「平沢さんって『ウイ』って名前なんだよね?
突然だけど、どんな漢字を書くか教えてもらっていい?
羽に衣で『羽衣』とか?」


「あ、ううん、その漢字じゃないんだ。
憂鬱の『憂』でウイって読むんだよ」


「それは……、えっと……、予想外の漢字だね……。
本当に憂鬱の『憂』でウイなの?
こう言うのも失礼なんだけど、その漢字、あんまりいい意味が無いんじゃ……」


本当に失礼な発言だったと思うけど、平沢さんは穏やかに笑ってくれた。
無理をして笑ってるとか、怒りを隠してるとかじゃなくて、心の底から優しい笑顔だった。
その笑顔のまま、平沢さんが言葉を続けてくれる。


「あははっ、やっぱりそう思っちゃうよね。
でも、私、憂って名前好きなんだよ、梓ちゃん。
『憂』って漢字ね、部首のにんべん……人が加わると『優』しいになるでしょ?
『誰か人と関わって、優しい子になってほしい』。
それで『憂』って漢字の名前になったらしいんだ……」


「そうなんだ……。それなら納得のいい名前だね……」


「なんちゃって」


「えっ?」


「ごめんね、梓ちゃん。
私ね、本当は私の名前の漢字の本当の意味は知らないんだ。
今のはお姉ちゃんが教えてくれた話なの」


「お姉さんが……?」


「小学生の頃ね、ちょっと意地悪な子とか居るでしょ?
悪気は無いんだろうけど、その子がね……、
私の名前の漢字にあんまりいい意味が無いって事に気付いて、からかって来たんだ。
他の事なら何とか出来るかもしれないけど、名前の事ばっかりはどうしようもないよね?
だから私、どうしようもなくて一人で落ち込んでたんだけど……、
落ち込む私を心配したお姉ちゃんが私の相談に乗ってくれて、言ってくれたんだ。
「憂って漢字は人と一緒に居たら、優しいって漢字になるんだよ!
その証拠に私と一緒に居る時の憂はすっごく優しいよね!」って。

本当の所は分からないし、お父さん達は違う意味で私に名前を付けたのかもしれない。
でも、お姉ちゃんがそう言ってくれるならそれでいいんだ、ってそう思ったの。
私はそれでとっても幸せなんだ……」


優しい顔をした平沢さんが懐かしげに呟く。
平沢さんもいい妹みたいだけど、お姉さんも素敵な人なんだ……。
平沢さんには仲の良いお姉さんが居る……。それがとっても羨ましい。
『一生に一度のお願い』は『お姉ちゃんが欲しい』にしようかなって、半分本気で思う。
勿論、そんなわけにもいかないけどね。
特に私のお姉ちゃんなんて、私と同じで可愛くないお姉ちゃんになりそうだし……。

56: 2012/09/14(金) 18:05:49.08
「あっ、ご、ごめんね、梓ちゃん。
何か変な話しちゃって……!」


平沢さんがはっとした表情で、私に何度か頭を下げる。
ううん、全然、変な話なんかじゃないよ、平沢さん……。
私も何だか優しい気持ちになって、ゆっくり首を横に振る。
それで少し照れてしまったのか、平沢さんが少し頬を赤らめて言った。


「あ、ちなみにね、
私のお姉ちゃんはユイって名前で、漢字は唯一の『唯』って書くんだよ。
私のたった一人の唯一のお姉ちゃんなんだよ」


「『唯』と『憂』……。
うん、二人ともいい名前だよね……。
いいなあ、私も名前の由来を詳しくお父さん達に訊いてみようかな。
勿論、この『石ころ帽子』の状態が終わってからだけどね」


「ねえ、梓ちゃん……?
何度も言うみたいだけど、私、自分の名前が大好きなの」


「うん、いい名前だって私も思うよ、平沢さん」


「だからね、私、梓ちゃんには『憂』って名前で呼んでほしいな。
もう梓ちゃんの事は名前で呼んでるし、
私ね、自分だけじゃなくて皆の名前の事も好きなんだ。
どんな名前にも意味があるんだって思うし、
お姉ちゃんのおかげでそう思えるようになったし、だからね……」


そうなんだ、と妙に納得した。
平沢さんはほとんど最初から、私の事を名前で呼んでいた。
それだけじゃない。
律さん、澪さん、紬さん。
自分とそう関わりの無いお姉さんの友達も、名前で呼んでいたんだ。
自分の名前と同じくらい、他の誰かの名前も大切にする子だから……。
だったら、その話を聞かせてもらった私も、
平沢さんと同じ様に名前を大切にするべきじゃないのかな?

私は大きく息を吸って、顔が熱くなるのを感じながらも、
平沢さんの瞳を強く見つめて、精一杯の声で伝えてみせた。


「じゃあ、憂……ちゃん……」


「うん、梓ちゃん……」


「何て言うか、えっと……、残り六日、よろしくね、憂ちゃん……」


「こちらこそ改めてよろしくね、梓ちゃん!」

59: 2012/09/16(日) 18:31:22.86





「よっしゃ、そろそろ練習でも始めるか!
学祭まであと四日しかないわけだし、気張って行くぞっ!」


紬さんが用意したお菓子とお茶を全部平らげて少ししてから、
律さんが両手を上げて気合を入れるように力強い声で宣言した。
やっと練習が始まるんだ……。
律さんの言葉が本当なら学園祭まで四日しかないのに、
どうにものんびりした部活動なんだなあ、と失礼ながら思ってしまう。

しかも、平沢さ……、じゃなくて、
憂ちゃんが言うには、この桜高軽音部の部長はドラマーの律さんらしい。
律さんがこの部の中で一番のんびりしてたみたいに見えるんだけど……。
本当に大丈夫なのかな、この部長が率いるこの軽音楽部……。
まあ、元気があって人を引っ張っていきそうという意味では、
この律さんこそが部長に相応しい人なのかもしれないけど……。


「やれやれ、やっと練習する気になってくれたか……」


軽口を叩きながら澪さんが席から立ち上がる。
その口振りこそ軽かったけれど、
澪さんの事をまだよく知らない私でもすぐに気付いた。
立ち上がった澪さんの肩が少し震えている事に。
学園祭を目前にして緊張しているんだろうか。
背も高めだし、釣り目で髪が長くて美人で、
大人っぽい雰囲気の人に思えるけど、意外と緊張しがちな所がある人なのかもしれない。
そういえば、昨日も公園で恥ずかしがった様子でエアベースをやってたっけ。


「うん、頑張って練習しましょ!
唯ちゃんが帰って来た時、私達の上達した腕前にびっくりしちゃうくらいに!」


紬さんが紅茶のカップを片付けながら、柔らかく微笑んだ。
緊張はしてないみたいで、心の底から練習の時間を楽しんでる……。
何となくそんな表情に見えた。
今日初めて目にしたって事もあるけど、紬さんの事はまだ全然掴めない。
お嬢様っぽい雰囲気の人だけど、律さん達の給仕をしていて、
しかも、それが全然嫌そうじゃないどころか、自分から率先してやってるみたい。
一体、どういうポジションの人なんだろう?
これから数日間、この桜高軽音楽部を見学させてもらうつもりだけど、
その間に少しでもこの紬さんの事を深く知る事が出来るのかなあ……?

それにしても、妙な部に見学に来ちゃったなあ、と正直思ってしまう。
練習の前に一時間以上お茶をしながら談笑する部なんて、少なくとも私は聞いた事が無い。
いや、ひょっとしたら、少しはあるのかもしれないけど、
学園祭直前にまでお茶の時間を減らさない部はそう無いはずだ。
大体、部室にこんなに私物を持ち込んでもいいのかな……。
まさかコーヒーメーカーやカップが部室の備品ってわけでもないだろうし……。

60: 2012/09/16(日) 18:36:53.02
こののんびりした空気の原因の一つとしては、
もしかすると部員の全員が同級生なのも関係してるんだろうか。
憂ちゃんがさっき教えてくれたんだけど、この軽音楽部の部員は全員一年生らしい。
何でも先輩が一人も居なくて廃部寸前の部を、律さんが一年生の部員を集めて立て直したんだとか。
ちょっと資質を疑ったりもしたけど、そんな事が出来た律さんは素直に凄いと思う。

一応、私もこの桜高を受験して入学するつもりではあるけど、
もしも桜高に音楽系の部が無かったとして、その時に自分で部を設立出来る自信は私には無い。
そこまで積極的なタイプじゃないし、部活動にそこまで情熱が持てるかも分からない。
私が音楽をやりたいのはあの子となんだし、あの子と音楽を続けたいだけだし、
だから、あの子とまた音楽が出来れば、それが部活って形じゃなくても構わないって思う。
そのためにも早くこの受験シーズンが終わってほしいんだけどな……。


「私も律さん達の演奏を聴くの初めてなんだ」


憂ちゃんがちょっと目を輝かせて私の耳元で囁いた。
律さん達には聞こえないのに、つい声を小さくしてしまうのが気配りの出来る憂ちゃんらしい。
目を輝かせているのは、大好きなお姉さんの仲間の演奏を心から楽しみにしているからだろう。
お姉さんを大好きだという事は、お姉さんの仲間の事も信じてるって意味でもあるんだ……。
だって、大好きなお姉さんが選んだ仲間なんだもんね……。

私は少しだけ憂ちゃんに気付かれないように微笑んで、
いつの間にか楽器の準備を終えていた律さん達の方に視線を向けた。
まだのんびりした空気は漂っていたけど、私の目には三人とも楽しそうに見えた。
緊張した面持ちの澪さんですら、律さんや紬さんと目を合わせると少し落ち着けたみたい。
実力は未知数だけど、少なくとも信頼関係のある仲間達なんだと思う。


「んじゃ、本番近いからいきなり合わせていくぞー!
ワン・ツー!」


頭上でドラムのスティックでリズムを取りながら、律さんが宣言する。
澪さんと紬さんが軽く頷いてから、演奏を始める。
ベース、キーボード、ドラムの音が重なり、旋律が奏でられる。
重なっていく律さんと澪さんと紬さんの音楽。

難しい曲じゃない、と最初は思った。
ギタリストらしい憂ちゃんのお姉さんが居ないから、詳しい事は言えない。
それでも、そんなには難しい曲じゃないのはすぐに分かった。
律さん達三人はともかくとして、
憂ちゃんのお姉さんは高校生になってから初めてギターに触れた初心者なんだそうだ。
初心者を含むセッションじゃ、そんなに難しい曲にするわけにもいかないだろう。
あくまで学園祭で発表される、ありきたりなレベルのオリジナル曲だ。

律さん達の演奏にしたってそうだ。
まだそんなに上手くはない。
私の周囲の同級生よりは上だけど、良くも悪くも高校一年生の演奏だった。
正直に言わせてもらうと、年下の私の方が上手に演奏出来る。
私は小学生の頃からずっと練習して来た身だから、それくらいの自負はしてもいいと思う。
律さん達の演奏より、私の演奏の方が上手い。

61: 2012/09/16(日) 18:48:25.16
なのに、気が付けば私の指は勝手に動き出してしまっていた。
今は家に置いてあるギターを頭の中だけで抱えて、初めて聞く演奏に合わせてしまっている。
あの子とギターを弾かなくなって以来、こんな事は初めてだった。
憧れのギタリストの演奏をテレビで観た時なんかに、そのテクニックを真似てしまう事は何度かあった。
憧れの人に近付くために、私の指は勝手に動いていた。
その私の指が、
今、
勝手に動いてしまっている。

私の方が上手いはずなのに。
そんなに難しい曲じゃないはずなのに。
それなのに。
私は律さん達の音楽に惹かれていた。

上手いとか下手とかじゃない。
楽しそうだった。
律さん達の演奏は本当に楽しそうだった。
楽しかった。
律さん達の演奏を聴いていて、私の心は弾んで、楽しくなっていた。
それがどうしてなのかは、まだ私にも全然分からなかった。
初めての感覚に、正直、自分の事ながら戸惑いを隠せない。

ただ、思った。
私もまた音楽を演奏したい。
受験を終えて、あの子とまた演奏を合わせて、心を弾ませたい。
もっともっと上手な演奏をして、音楽を楽しみたい。
今の私の『一生に一度のお願い』はそれなんだ、って深く実感した。
私のお願いはそれなんだ。
とは言っても、それは時が過ぎれば自然に叶うお願いで、
『チャンスシステム』に頼るような事でもないんだけどね。

そう思った瞬間。
不意に、さっきまでと別の意味で胸が大きく鼓動した。
時が過ぎて、高校受験が終わったら、私達はまた音楽をやれるよね……?
あの約束は嘘なんかじゃないよね……?
また……、一緒に夢に向かえるよね……?

思い出すのはあの子の言葉。
頭の中からずっと離れないあの子の言葉。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


少しだけ残念そうな口振りと、苦笑。
あの子、本当はあんな風に苦笑する子じゃないのに。
あの子が苦笑する時は、自分の辛さや悲しさを誤魔化す時だけだったのに……。
つまり、あの子のあの言葉の本当の意味は……。

仲間の事を信じている人達の演奏の中、
あの子の事を信じているのに、信じているはずなのに、
私のその胸の鼓動は治まらなかったし、何故かとても凄く泣き出したくなった。
ただ胸の中に広がる仲間を信じ切れない不安だけを感じて。

63: 2012/09/18(火) 19:16:47.10





「梓ちゃんも音楽をしてるんだよね?」


帰宅後、夕飯を食べて一息吐いた時、憂ちゃんが少し躊躇いがちに私に訊ねた。
そんなに遠慮しなくてもいいのに、とは思ったけど、
そういえばまだ憂ちゃんに私が音楽をしている事を伝えてなかった気がする。
軽音楽部を見学に行きたいってだけで、
憂ちゃんには伝わってるだろう、って一人で勝手に勘違いしちゃってたみたい。
そうだよね。
ちゃんと伝えないと、私が音楽をしている事なんて分かるはずもないよね。
私は自分の勝手な思い込みに首を振ってから、小さく頷いて言った。


「そういえば、まだ言ってなかったね。
うん、私、小学生の頃から音楽をやってるんだ。
こう見えて音楽一家なんだよね……、って家を見れば分かるけどね。
レコードとかたくさんあるもんね」


私が苦笑すると、憂ちゃんは安心したように微笑んでくれた。
訊いちゃいけない事だと思っていたのかもしれない。
でも、そう思われても仕方無いか……。
憂ちゃんのお姉さん達の軽音楽部に見学に行きたい、
って頼んでおきながら、自分が音楽をやってる事を口にしないなんて不自然過ぎる。
今だって……。

そう。
今だって、私は音楽をやっているとは伝えたけど、楽器の話を自分からしていない。
自分がギターを弾いてる事を、自分から伝えられてない。
その方が凄く不自然なのに、私は自分からギターの話をするのを避けてしまっていた。
自分でも何故だか分からないけど、口にしにくかった。

だけど、憂ちゃんももう気付いてると思う。
私が演奏している楽器はギターなんだって。
分からないはずがない。
だって、私の部屋の片隅には、ケースの中に入れられたギターが置いてあるんだから。
弾かないなら押し入れの中に片付けておけばいいのに、未練がましく部屋の隅に置いてあるんだから。
でも、憂ちゃんはそのギターについては何も訊かなかった。
憂ちゃんは人の気持ちに立って気配りの出来る子だ。
私がギターの事について触れない以上、触れてはいけない話題だと思ってくれたんだろうと思う。
だからこそ、憂ちゃんは勇気を出して、音楽の事だけについて訊ねてくれたんだろう。

憂ちゃんの気配りを申し訳なく思いながら、私は部屋の片隅のギターに視線を向けてみる。
受験勉強のために練習を中断してから、一度も弾いていないギター。
あの子との繋がりだったはずのギター。
一人で弾きたくなかったギター。
今度弾く時はあの子と一緒に弾きたい、ってそう考えていたギターだ。
でも、今なら、多分、弾いても……。
そうだよね、一人で弾くのは嫌だったけど、
憂ちゃんと一緒なら別に孤独を感じる事なんて……無いよね……?

うん、と一人で軽く頷いてみる。
今は『一生に一度のお願い』を考える時なんだもんね。
色んな事を経験しておいた方がいいはずだよね。
本当にやりたい事、本当に叶えたい事のために、
多分だけど、避けていた事もやっておくべきなんだ……。

64: 2012/09/18(火) 19:17:14.13
「ねえ、憂ちゃん……」


自分でも口先がちょっと震えるのを感じながら、言葉を出してみる。
胸が、高鳴る。
色んな所から汗が噴き出して来そう……。
でも、私は拳を軽く握ってから、憂ちゃんの瞳をまっすぐに見つめた。
憂ちゃんは優しい顔で私の顔を見つめていてくれた。


「どうしたの、梓ちゃん?」


「私……、私ね……、ギターをやってるんだ」


中々言い出せなかった言葉。
簡単で、隠すほどの事じゃないのに、言い出せなかった言葉を私は言った。
半分消え入りそうだったけど、とりあえずは憂ちゃんに伝える事が出来た。


「そうなんだ」


瞬間、憂ちゃんの微笑みが輝いた。
私が少し心を開いたと思ってくれたのかもしれない。
ごめんね、憂ちゃん。
私が変な思いを胸に抱えていたせいで、変に気を遣わせる事になっちゃって……。
そうだよね、怖がらなくても大丈夫なんだよね。
受験シーズンが終われば、何もかも元通りに戻るはずなんだもんね……。


「それでね」


言いながら、私は部屋の隅に置いていたギターのケースを手に取った。
懐かしい重さ、懐かしい感触、懐かしい感覚。
色んな懐かしさが私の全身を駆け巡っていく。
胸に切なさを感じながらも、私は久し振りにギターのケースを開いていく。
現れたのは、受験が終わるまでは見る事も無いだろうと思っていた私のギター。
私の想いや夢や色んな物が詰まったムスタング。


「これが私のギターなんだよ、憂ちゃん」


懐かしい感触を指先に感じながら、私は憂ちゃんに自分のギターを見せた。
見せたくなかったわけじゃない。
忘れたかったわけじゃない。
弾きたくなかったわけじゃない。
本当はずっと弾きたかった私のムスタング。
憂ちゃんは笑顔で私と私のギターを見比べながら、また輝くように微笑んだ。


「わあっ、梓ちゃんにぴったりな可愛いギターだね!」


「か、可愛い……?」


予想外な感想に、喜んでいいのか迷いながらも私は苦笑した。
ギターの事を可愛いって言われたのは初めてだ。
憂ちゃんってそういう独特な感性を持っている子なのかな?
話を聞く限りじゃ、憂ちゃんのお姉さんも結構独特な人らしいし、そういう独特な姉妹なのかも……。
でも、別に感性が独特だろうと、可愛いと言われて悪い気がしないわけじゃない。
可愛いらしいよ、君。
って、私は心の中だけでムスタングに声を掛けてから、また憂ちゃんに訊ねてみる。

65: 2012/09/18(火) 19:18:22.40
「ねえ、折角だし、弾いてもいいかな?」


「うん、勿論だよ、梓ちゃん。
私、梓ちゃんのギター、聴いてみたいな」


「あ、でも、こんな時間だし、この部屋だと近所迷惑になっちゃうかな?
そんなに大きい音を出すつもりはないんだけど……」


「ううん、それは大丈夫だよ、梓ちゃん。
『石ころ帽子』の効き目は、その人の身に着けている物にもあるみたいなんだ。
すっごく大きな音を出しても、私達以外には誰にもギターの音が聞こえないと思うよ」


それは好都合だった。
何故だか分からないけど、今はすっごい大きな音で弾いてみたい気分だったんだ。
久し振りに弾くからどうなるかは分からないけど、
それよりも今は誰かと一緒に音楽を演奏する楽しみを感じたかった。
うん、そうだ。
憂ちゃんにもギターを触ってもらって、一緒に軽い練習会なんて悪くないよね。
そのためには、まず……。
私は憂ちゃんにギターを渡して、少しだけ頭を下げた。


「ごめんね、憂ちゃん。
ちょっとだけギターを持っててくれる?」


「いいけど……、何をするの?」


「ちょっとチューニングをね。
ギターを弾くなら、ちゃんと音程を合わせておかないといけないんだ」


「そうなんだ。
お姉ちゃんがやってるの見た事無いから、知らなかったな」


「お姉さん、チューニングやってないんだ……」


「あ、でもね!
制服とか着せたり、添い寝とかしたりして、
お姉ちゃん、ギターの事すっごく可愛がってるんだよ!」


可愛がるベクトルが違うと思う……。
軽音楽部はともかくとして、ギタリストとして大丈夫なのかな、憂ちゃんのお姉さん……。
勿論、そんな事は口にはしなかった。
私は少し苦笑しながら、学習机の中に入れてあるはずのチューナーを探し始める。
確か四段目に入れてあるはずだ。
チューニングしたら、弾いてみよう。
受験の後、あの子ともう一度演奏するために、そのきっかけに出来るためにも。
あ、でも、かなり長い事放置してたから、弦を交換した方がいいかも……。

瞬間、
私は、
息を呑んだ。
心臓が、
馬鹿みたいに、
早く、
鼓動していた。

息を呑んだ理由は耳に届いた旋律のせいだ。
滑らかで耳に心地良い音楽。
聞き入っていたい奏で。
見事なまでの、聴き惚れるくらいの演奏……。
ギターの。
私のムスタングの……。

66: 2012/09/18(火) 19:19:01.11
驚いた私は自分のムスタングに視線を向けた。
音を出しているのは確かに私のムスタングだった。
私のムスタングがこんな音を出せるなんて……。
そして勿論、私のムスタングを演奏しているのは……。


「憂……ちゃん……?」


私は呻くみたいに呟いた。
ううん、呻いていたと思う。
多分、衝撃で声が上手く出せなかった。
憂ちゃんが申し訳なさそうに苦笑して、私に頭を軽く下げた。


「あ、ごめんね、梓ちゃん。
お姉ちゃんがギターを弾いてる所を思い出したら、つい弾いてみたくなっちゃって……。
まだ梓ちゃんに断ってないのに、ごめんね」


「ううん、それはいいの。
それはいいんだけど……」


そんな事はいい。
そんな事はどうでもよかった。
私が気になるのは……、もっと気になる事は……。
私は胸の鼓動で喉が痛くなるのを感じながら、また呻いた。


「憂ちゃんも……、ギターを演奏出来るの……?」


「あ、ううん、私、ギターはそんなに触った事無いんだ。
お姉ちゃんが演奏してるのを見てる時、たまに触らせてもらってるくらいなの。
お姉ちゃんを真似て弾いてみたんだけど、ギターってやっぱり難しいよね」


瞬間、私の中が言い様の無い感情で支配された。
憂ちゃんが嘘を言ってないのは分かる。
嘘を言うような子じゃないし、こんな事で嘘を言う必要なんて無い。
嘘じゃないからこそ、私はどうしようもない感情に支配されてしまってる。

原因はさっきの憂ちゃんの演奏だった。
長くチューニングをしてないギターだから、
音こそバラバラだったけれど、そのテクニックには驚かされるものがあった。
演奏としては、まだ私の方が上手い。
まだ……。

でも、追い着かれる……。
ううん、追い越されるのは、時間の問題だって実感した。
憂ちゃんの言う通りなら、憂ちゃんはまだ五度くらいしかギターに触れた事がないんだろう。
五度くらいでこの腕前なんだ。
ほんの少し腰を据えて練習すれば、あっという間に私の実力なんて超えてしまう。

天才って居るんだ……、って感じた。
この世界には確かに天才が居る。
だけど、私は天才じゃない。
演奏が上手だとはよく言われるけど、それは天性の物じゃない。
小学生の頃から練習して練習して、やっと上手だって言われる腕前になれただけ。
中学生の中では上手いと言われる腕前になれただけ。
でも、そんな腕前なんて、天才の前じゃ何にもならないんだって思わされた。
憂ちゃんの事だけの問題じゃない。
私の住む県に憂ちゃんって天才が居たんだ。
全国を見回せば、憂ちゃんと肩を張る天才なんて大勢居るんだろう。
私なんか足下にも及ばない天才が……。

いつの頃からだろう。
私は音楽の道に進みたかった。
音楽を生業にする職業に就きたかった。
その気持ちに嘘は無かったし、本当に将来の夢にしようと思ってた。
でも、中学生の中では上手いと言われる程度の腕前で、
どうにか出来る世界じゃない事も、私はよく知っていた。
私より遥かに上手い実力のお父さんですら、音楽の世界で生き残るのに必氏なんだ。
私なんかじゃ何処まで行けるか、全然自信が無かった。

そして今、私は完全に打ちのめされた。
もうすぐ世に生まれようとしている天才の前で、
しかも無自覚な天才の前で、私が演奏なんかしても滑稽なだけだった。

67: 2012/09/18(火) 19:19:29.68
私は何をしてるんだろう、って気にさせられた。
同時に思い出した。
私があの子に申し出をされてから、音楽を中断した理由を。
思い出さないようにしていた現実を、思い出さされた。
あの子と本当に演奏を続けたいなら、受験より何よりあの子を引き止めるべきだった。
それが出来なかったのは私が……、私の自分の実力が……。
私に才能があったなら……。

刹那、私の中に悪魔の囁きが響いた。
それとも、天使の誘い?
今の私には一つチャンスがある。
悪魔なのか天使なのか神様なのか、誰かさんが与えてくれたチャンスが。
だけど、それに頼るのは……。


「梓……ちゃん……?」


私が何も言わなかったのを不審に思ったんだろう。
憂ちゃんが首を傾げて、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
やめて、と思った。
こんな私の顔を見ないで。
こんな惨めで情けなくてどうしようもなくて、
下手な誘惑に乗りそうになっちゃってる私の顔なんて見ないでよ……!

結局、「チューナーの電池が切れていたから」、
って苦しい言い訳で、私はその日のギターの演奏をやめさせてもらった。
どんなに苦しい言い訳だろうと、そうしないと、私の心が壊れてしまいそうだった。

68: 2012/09/18(火) 19:20:05.10


今回はここまでです。
こういう話でした。
またよろしくお願いします。

69: 2012/09/23(日) 17:47:33.26





深夜、午前二時頃。
憂ちゃんが寝静まった頃を見計らって、私は一人で夜の公園に来ていた。
憂ちゃんと初めて出会ったあの公園に、
上着を一枚羽織り、私の辛さと悩みの元凶を腕の中に抱えて。

夜の公園は誰一人居なくて静かだったし、
公園に辿り着くまでの道中、誰ともすれ違う事も無かった。
通り過ぎる車に注意する必要も無く、あっさりと公園まで辿り着けた。
そんな事なんて無いのは分かっているけど、
何だかまるで夜の世界に私一人が取り残されてしまったみたい。
それに……、ある意味、その考えは正解でもあった。
今、この世界に私の存在を認識出来るのは憂ちゃんしか居なくて、
その憂ちゃんは私の部屋で静かに寝息を立てて眠りに就いているんだ。
だから、この世界には私しか居ないのとほとんど一緒なんだよね、今……。

私が何をしても、何をしなくても、誰も気にしない。
誰にも気に留められない。
今の私にとっては、幸いな事だった。
私は昨日憂ちゃんと話したベンチの上に立って、
生身のままで持って来ていたギターのストラップを肩から斜めに掛けた。
パジャマのポケットの中からピックを取り出して、小さく深呼吸をしてみる。
情けないとは思うけど、自分自身でも自分の身体が震えているのがよく分かった。

夜の闇が怖いわけじゃない。
一人ぼっちなのが怖いわけじゃない。
こんな深夜に一人で夜の公園に居るのは初めてだけど、怖いのはそんな事じゃなかった。
私にはそんな事よりもっともっと……、もっともっと怖い事がある。
それを確かめに、私は夜の公園まで一人で来たんだから。


「……やろう」


自分に言い聞かせるために呟いてから、ギターを胸の前に構えた。
寒さじゃない理由で震える指先を必氏で押し留めて、弦に左手の指を掛ける。
お願い……!
お願いだから……!
自分になのか、神様になのか、他の誰かになのか、
私自身も分からない誰かにお願いしながら、私は演奏を始めていく。
夏休みに入る前、あの子と練習していた曲を。
受験が終わったら真っ先にあの子と弾こうと思っていた大切な曲を。

旋律が流れる。
耳にするだけで懐かしさで胸が張り裂けそうな旋律。
私の指が奏でる私達の大事な曲。
弾ける。
私はこの曲を弾く事が出来る。
このかなり難しい曲を、私は弾けているんだ……!
私にだって、まだ弾けるんだから……!

でも、私の胸は高揚しなかったし、逆に痛みだけを強く感じるようになっていた。
私はこのかなり難しい曲を弾けている。
弾けているけれど……、弾けているだけだ。
弾きながら、自分でも実感出来る。
例えるなら、難しいリズムゲームをクリアの最低スコアで終えているレベルだ。
クリアは出来ているけれど、それ以上でもそれ以下でも無いレベル。
その程度のレベルでしか、私はこの曲を弾けていなかった。
だけど、そんな事すら私にはどうでもよかった。
この曲はとても難しい曲だし、そう簡単に上手に弾けるなんて思っていないから。
だから、あの子と二人で挑戦してたんだから。
いつかは上達出来るはずだって信じて。

70: 2012/09/23(日) 17:48:14.63
辛かったのは、もっと別な理由。
それは、思ったより指が全然動かなかった事。
想像以上に、出来の悪い演奏になってしまった事。
あの子との練習を中断してから、確実に下手になってしまっている事。
その事こそが私の胸を強く痛めた。
勿論、当然の事ではある。
ずっと練習してなかったんだもんね。
あの子との事ばかり考えて、練習する勇気が出せなかったんだもんね。
演奏が下手になるのなんて当然だよ……。
私は間違っても天才なんかじゃなくて、秀才にもなれなくて、
単に練習してそれなりにギターが弾けるようになっただけの人間なんだから。
当たり前の事が当たり前に起こってるだけなんだ……。

私は天才でも秀才でもない。
それを深く実感出来たおかげで、私の胸の中にはもう一つ気付けた事があった。
憂ちゃんの未完成ながら間違いなく天才の演奏を耳にして、分かったんだ。
あの子が苦笑して練習の中断を申し出た理由が。
一緒に練習してて、あの子は気付いたんだと思う。
私達じゃ、ある一定以上の水準に、どうやっても辿り着けないって事を。
どうやったって……。

最初の頃、私があの子にギターを教えてあげていた。
上達はそんなに早くなかったけど、私と演奏出来るくらいのレベルにはなった。
お互いに決して上手いわけじゃなかったけれど、
また中学生なんだし、焦る必要は無いと思ってていた。
私はそれでいいと思ってたし、あの子もそう思っていてくれると私は考えていた。
でも、そうじゃなかったんだよね……。
あの子は私が気付かない所で悩んでいたんだ……。
このまま続けても先が見えないんだって気付いて……。

考えてみれば、その兆候はいくらでもあった。
あの子は練習に熱心だったけど、少し不器用で演奏のミスもたまにあった。
弾いて来た年月が違うから、当然の事だ。
でも、あの子はその度に、
「私が梓の足を引っ張っちゃってるよね……」と苦笑しながら呟いていた。
私が「もっと練習すれば大丈夫だよ」って言う度に、あの子は浮かない顔をしてた。
あの子は私より先に気付いていたんだと思う。
自分の限界を。


『自分の限界を決めるのは自分だ』


そんな言葉はよく聞くし、その通りだと思うけれど、
自分が限界を超えるまでがむしゃらに努力出来る人は、どれくらい居るんだろう。
その一部門……、つまり、私達の場合はギターだけど、
ギターだけに目を向けていられるんだったら、ひょっとしたらそれも出来るのかもしれない。
だけど、私達は中学生で、ギターだけに目を向けてなんていられない。
音楽で稼いで生きていくなんて狭き門を目指して、頑張り続けるのなんて至難の業だ。
そんな事は出来ない、ってあの子は思ったんだろう。
元々、あの子を音楽の道に誘ったのは私で、
あの子は将来的に医療系の道に進みたいらしかった。
音楽をいつまでも続けていられる立場じゃない子だったんだ……。

71: 2012/09/23(日) 17:48:41.06
それは多分、仕方が無い事なんだろうと思う。
私達は将来について考えなきゃいけなくて、出来ない事から消去法で消していくしかない。
あの子は自分の夢を見つけるためにも、
私の足を引っ張らないためにも、音楽の道を諦めるしかなかったんだ……。
辛い……、とっても辛いし、悲しいよ……。
私は出来る事ならあの子とずっと音楽をやりたかった。
やりたかったのに……。

でも、それがあの子の選んだ道なら、私はそれを止められない。
あの子の将来を応援してあげる事しか出来ない。
それが私に出来る最後の事だと思うから……。


「でも、私……は……?」


気が付けば呟いてしまっていた。
私は音楽を続けたい。
出来る事なら、一生だって音楽を続けて行きたい。
プロになるのを漠然と夢に見た事も今まで無いわけじゃない。
私は音楽で生きていきたいんだ……。

でも、それは無理かもしれない、って今日思わされた。
ううん、薄々気付いてはいたけど、完全に実感させられたって方が近い。
勿論、憂ちゃんの演奏を聴いたからだ。
憂ちゃんが嘘を吐くとは思えないから、
憂ちゃんが今までギターを演奏した時間は、私の百分の一にも満たないはずだ。
私の百分の一にも満たないくらいギターを演奏しただけで、
憂ちゃんは私をもうすぐにでも追い越しそうな演奏が出来ていた。
きっと、あと数日ギターに触れただけで、
私の実力なんて簡単に抜き去ってしまうんだろう。
それが天才なんだ……。

しかも、憂ちゃんが一番の天才ってわけじゃない。
世の中には憂ちゃんが足下にも及ばない天才も居るだろうし、
努力している天才だって大勢存在しているんだろうなって思う。
そんな世界で、私なんかが生きていけるはずがない。
音楽を、続けていけるはずがない。
私の夢が……、叶うわけなんかない……。
私なんかの実力じゃ……。
どうして私は天才じゃなかったの……?
天才に生まれて来なかったの……?
もしも私が、天才だったら……。

72: 2012/09/23(日) 17:49:37.09
「……あっ」


不意に私の頭の中に考えてはいけない望みが浮かび上がった。
昨日からずっと頭の中を過ぎっては目を逸らしていた、私のお願い。
私の……、『一生に一度のお願い』……。
とても単純で分かりやすい私のお願い……。


『私をギター演奏の天才にして下さい』


あんまり無茶なお願いはスルーされるらしいけれど、
このくらいなら誰かに迷惑を掛けるわけでもないし、
『石ころ帽子』なんて異常な状況を作り出せる神様なら、とても簡単なお願いだろう。
このお願いが叶えば、私の悩みなんて完全に消え去るはずだ。
自分の無力に思い悩む事も無いし、プロになる夢だってきっと叶えられる。
誰も損をしない、とても真っ当なお願いだと思う。
だから、私はこれを『一生に一度のお願い』にしたっていいんだ。


「でも……、でも……」


自分の無力を感じてた時以上に、私の身体は震え始めていた。
確かにそのお願いをしたなら、私の悩みは全部消え去ってしまうと思う。
何もかも乗り越える事が出来ると思う。
だけど、そんな事をして、私は満足なんだろうか?
自分の努力でなく、他力本願で夢を叶えて、満足出来るんだろうか?
一人だけ不正をして、私は本当に両手を上げて素直に喜べるの……?

しかも。
憂ちゃんの説明が本当なら、願いが叶った後、私は全てを忘れてしまうんだ。
つまり、私は自分のギターの腕前が唐突に上がった理由も分からず、
恐らくはそれを嬉しく思って、悩む事も無く音楽の道を進んでいく事になるんだと思う。
自分がどうしようもない不正をした事にすら気付かないままに……。
そんなの……。
そんなのって……、無いよ……。
滑稽で哀れ過ぎるよ、そんなのって……。

73: 2012/09/23(日) 17:50:03.36
瞬間、私は一つの言葉を思い出してしまった。


『地獄への道は善意で舗装されている』


最近、ずっと考えていた事。
私は本当は心の何処かで気付いていた。
あの子は私を傷付けないために、練習を中断と言ってくれた事を。
善意で、私のために、行動してくれていたんだって。

この『チャンスシステム』も同じ。
神様だか仏様だか分からないけれど、
何も私達を苦しめるためにこんなシステムを作ったわけじゃないはずだ。
一度きりの人生をよりよく生きてもらうために作られたシステムのはずだ。
そこには善意しかなかったはずなのに……。
善意で作られたシステムなのに……、私は……、私はこんなにも胸が痛くて……。
他者に思いやられる地獄を感じてしまっていて……。
こん……なにも……。


「わあああああああああっ!」


いつの間にか私は大声で叫んでしまっていた。
自分が望んでいる事が本当は何なのか、
善意に彩られたこの世界で生きていく私はどうしたらいいのか、
そもそも何をしたらいいのか、
色んな事が分からなくなって、沢山の感情が混乱して、大声で叫んでいた。
叫びながら、私の理想には程遠いギターの演奏を続けて、また叫んだ。
どうせ今の私の姿は誰にも見えない。
私の声も私の演奏も誰にも聞こえない。
だから、思う存分、叫んでしまおう。
私の胸の痛みを少しでも吐き出せるように。
ほんの少しでも消し去ってしまえるように……。


「わああああああああああっ!」


私のお願いは何?
私の夢は何?
私の進みたい道は何処?
そもそも、どうして私は音楽を続けたいの?
色んな思考に頭の中が塗りつぶされながら、私はそうやって長い間、公園で叫び続けた。

75: 2012/09/25(火) 18:50:23.15





「えっと……、ボーカルは唯で曲目が『ふわふわ時間』……と。
オッケー、じゃあ出演時間決まったら、また連絡するね」


蝉の声がまだ聞こえる軽音楽部の部室の中、
眼鏡を掛けたお姉さんっぽい人がそう言ってノートにメモを終えた。
名前は真鍋和さんと言って、憂ちゃんの一つ年上の幼馴染みで桜高の生徒会役員らしい。
さっき部室に和さんが姿を現した時、やっぱり少しだけ寂しそうに憂ちゃんが教えてくれた。
和さんに自分の姿が認識されていない事が、分かってはいても辛く感じているんだろう。
『和ちゃん……』と私に聞こえないように一人で呟いてたし、
和さんは憂ちゃんにとって大切な幼馴染みだと思って違いない。
年上の幼馴染みを『ちゃん』付けで呼べるなんて、相当長い付き合いなんだろうしね。
私にはまだ付き合いのある年上の幼馴染みが居ないから分からないけど、
憂ちゃんは和さんの事をもう一人のお姉さんみたいに感じてるんじゃないのかな。

一晩中とは言わないけれど昨晩……じゃないか、
正確には今日の午前一時頃から二時間以上ギターを弾いてから、私は一人で家に戻った。
二時間弾いて、何の上達も感じられずに、自分の衰えだけを実感させられて……。
部屋に戻った時、憂ちゃんは私が外出した時と同じ様に寝息を立てていたけど、
本当に眠っていたか、気付かない振りをしてくれているのか、私にもよく分からなかった。
憂ちゃんは気配りの出来る子だから、私のする事なんか全部お見通しなのかもしれない。
分かっていて、そっとしておいてくれてるのかもしれない。
……なんて、そんな事を考えてしまう私は嫌な子だと思う。
人の善意を素直に受け取れられないなんて最低だと思うし、
大体、憂ちゃんは単に本当に眠っていて、私の外出に気付いてもいないはずなんだ。
自分の才能が乏しいからって被害者面して、どうにかなるわけでもないのにね……。
とにかく、私はギターをまた部屋の片隅に置いて、そう考えながら眠りに就いた。

珍しく夜更かしをしてしまったせいか、目を覚ました時には午前十一時を過ぎていた。
学校を欠席しても問題無いとは言っても、やっぱり何となく罪悪感がある。
そんな妙に真面目な自分に苦笑しながら、部屋を見渡してみると憂ちゃんの姿は見えなかった。
散歩にでも行ってるのかな? と思って居間に降りると、ちょっと驚いてしまった。
憂ちゃんが私のお母さんのエプロンを着けて、掃除機を掛けていたからだ。
ごはんを提供する等価交換として家事をしてもらうとは言ったけれど、ここまでしてくれるなんて……。
どうも憂ちゃんは私なんかよりずっと律儀で真面目みたいだ。


「おはよう、梓ちゃん。今日はお寝坊さんなんだね。
朝ごはんの準備出来てるよ。
あ、もうそろそろお昼ごはんになっちゃうかな?」


私の姿を見つけると、優しい顔をして憂ちゃんが笑った。
その笑顔が私の胸を軽く痛くしたけど、胸の痛さの原因は憂ちゃんじゃなくて私にある。
私は胸の痛みを誤魔化して「ありがとう」って言って苦笑すると、
ごはんの用意されたテーブルに座って「いただきます」と胸の前で手を重ねた。


「今日の予定はどうするの、梓ちゃん?」


掃除機を停めてから、憂ちゃんが私の顔を見て首を傾げた。
私が食べている間、埃が立たないように掃除を中断してくれるらしい。
本当に親切な子だなあ、憂ちゃん……。
お母さんなんか、私がごはんを食べてても掃除してるのなんてしょっちゅうなんだよね。
いや、別にそんな事はどうでもいいんだけど。


「うーん……、そうだなあ……」


憂ちゃんの美味しい朝ごはんを食べながら、私も憂ちゃんと一緒に首を傾げた。
正直な話、迷っていたから。
当初こそ、この一週間は律さん達の軽音楽部を見学させてもらいたかった。
もうすぐ学園祭があるらしいし、その日まで見届けさせてもらおうと思ってたんだ。
折角、公園ですれ違った縁だってのもあるけど、
私じゃない誰かの音楽との日常を見届けたかったんだと思う。
他人の音楽との付き合い方を知りたかったんだよね。

76: 2012/09/25(火) 18:50:49.58
今は、迷ってる。
律さん達の演奏に問題があったわけじゃない。
お茶ばかりしてる部活だったけど、実力だってそれなりにあると思うしね。
予定通りなら、このまま律さん達の軽音楽部を見届けても何の問題も無いと思う。
私の目的は果たせるはずなんだ。

でも、昨日の憂ちゃんの演奏を聴いてから、私は迷っていた。
私の実力なんか簡単に追い越しそうな素人の憂ちゃんの演奏。
天才の存在を思い知らされたあの演奏を聴いて、思った。
律さん達よりももっと上手な演奏をする人達を見た方がいいんじゃないかって。
将来的に音楽を続けるつもりなら、憂ちゃん以上の天才を知っておくべきじゃないのかな?
特に今の私は自分の姿を誰にも気付かれない状態なんだ。
誰の演奏だって傍で見放題なんだ。
そう言えば、あの海外アーティストが武道館でコンサートを開催するとかテレビで言ってた気がする。
あの人の演奏は大好きだし、目前で見られるんだったら是非見てみたいし……。
私の将来の事を考えるんなら、それでいいはずだよね。

って、そう思っていたはずなのに。
私は昨日と同じく桜高の軽音楽部の見学に来てしまっていた。
どうしてなのかは、私にもよく分からない。
武道館までの電車を無賃乗車する勇気が無かったから。
なんて、そんな馬鹿みたいな言い訳はいい。
どうしてかは分からなかったけど、桜高の軽音楽部の人達を見たかったんだと思う。
学園祭の最後まで見届けたくなったんだと思う。
だから、私は憂ちゃんと一緒に、軽音楽部の部室の机に座っているんだ。
部員の人達の会話を、練習を、ずっと見続けたいんだ。


「よかった。
わざわざ来てもらってありがとう」


不意に穏やかにそう言ったのは、紬さんだった。
勿論、私達に向けて言ってくれた言葉じゃなく、和さんに向けた言葉だ。
話を聞いている限り、今日は生徒会と部の最後の会議を行う日みたい。
それで生徒会役員の和さんが、軽音楽部まで足を運んで来たって事なんだろう。


「これも生徒会の仕事だから」


和さんが何でも無い事みたいに微笑んだけど、すぐに表情を少し崩して続けた。


「でも、本当に唯で大丈夫なの?」


唯……と言うのは、憂ちゃんのお姉さんの名前だ。
和さんは唯さんの幼馴染みでもあると憂ちゃんが言っていた。
幼馴染みであるだけに、唯さんの事をよく知ってるし、それで心配にもなっているんだろう。
心配と言えば、私にもちょっとした心配がある。
この桜高軽音楽部の演奏する曲名だ。
昨日も隠れて楽譜を見せてもらったんだけど、
曲名の欄には『ふわふわ時間(タイム)』と記されていた。
『ふわふわ時間(タイム)』って……。
曲名に違わず、歌詞も相当甘い感じだったし……。

77: 2012/09/25(火) 18:51:27.71
しかも、律さん達の会話を聞く限り、
意外な事に『ふわふわ時間(タイム)』の作詞をしたのは澪さんみたいなんだよね。
背が高めで長くて綺麗な黒髪をした美人の澪さんの作詞した曲が『ふわふわ時間(タイム)』……。
意外だなあ……。
いや……、そうでも無いのかな……?
見た目と違ってかなり照れ屋さんみたいだし、ある意味、澪さんに合ってるのかも……?

とにかく、そんな感じでちょっと心配になって来ちゃったな……。
私の目指す音楽性とは全然違ってるけど、私の選択は間違ってないよね……?
この部を見学してて、大丈夫だよね……?


「先週から、放課後、さわ子先生の家で特訓してるからな!」


「多分、間に合うんじゃないかと」


私を安心させるためじゃないのは分かっているけど、
そんな和さんに向けられた律さんと澪さんの優しげな声を聞くと、私の心も少し落ち着いた。
律さん達が唯さんの事を信じてるんだったら、私も唯さんとこの部の事を信じよう。
天才の憂ちゃんが信じてるんだもんね。
きっと唯さんだって相応の実力を持ってるはずだよね。
話を聞く限り、人格にはちょっと不安が残るけど……。

瞬間。
唐突に軽音楽部の扉が大きく開け放たれた。
逆光の中には、二人の女の人が立っていた。
一人は前髪の右側を二本のヘアピンで留めて、髪を下ろした憂ちゃんとかなり似ている人だった。
うん、ギターを抱えてるわけだし、間違いない。
あの人が憂ちゃんのお姉さんで、この軽音楽部のギタリスト兼ボーカリストの唯さんだ。
唯さんが放課後にしていたという特訓が終わったんだろう。
それでこうして軽音楽部に姿を現したに違いない。

私は申し訳ない気分になって、憂ちゃんの方に視線を向けた。
不可抗力とは言え、お姉さんに自分の事を無視されるのが辛くて私の家に泊まっている憂ちゃんなんだ。
唯さんの姿を見て辛い気持ちになってるんじゃないか、って思ったから。
でも、私が視線を向けた憂ちゃんが見ていたのは、予想外にも唯さんじゃなかった。
憂ちゃんが見ていたのは、眼鏡を掛けて女性物のスーツを着た髪の長い人の方で。
憂ちゃんは驚いた様子で小さく呟いていた。


「えっ……?
キャサリン……さん……?」


キャサリンさん……?
あの髪の長い女の人の事なのかな……?
でも、外見は完全に日本人だよね。
この部室の中でキャサリンって名前が似合いそうなのは、あの人より紬さんの方だし……。
ひょっとして、芸名か何かなの?
あ、でも、唯さんと一緒に来たって事は、
あの人こそがさわ子先生って言う名前の唯さんを特訓してた人って事……?
ああ……、よく分からない……。
そう思いながら私が頭を抱えている間に、
キャサリンさん(?)の話が始まってしまっていた。


「待たせたわね……。
完璧よ!」


キャサリンさん(?)が自信満々に親指を立てる。
その様子を見る限り、やっぱりあの人が唯さんを特訓してたんだろう。

78: 2012/09/25(火) 18:52:01.87
「さあ、唯ちゃん……、見せてあげなさい!」


キャサリンさん(?)が宣言すると、唯さんが言われるままにギターを弾き始めた。
音階では知っていた『ふわふわ時間(タイム)』のギターパートだ。
憂ちゃんと違って、驚くほど上手いってわけじゃない。
でも、高一からギターを始めた事を考えれば、十分過ぎる腕前だった。


「おおっ! すげえ!」


「上達している!」


「自身に満ち溢れた表情!」


律さん、澪さん、紬さんの順番で称賛の声が上がる。
唯さんの前の実力は知らないけど、
部員のこの三人がそう言うのなら、唯さんの特訓は成功したんだろう。
でも、私が気になったのは、唯さんのギターの腕前よりその表情の方だった。
紬さんが言った通り、唯さんは自信に満ち溢れた表情でギターを弾いていた。
腕前より何より、伸び伸びと思いのままに弾いているみたいに見えた。
多分、今の私には出来ない表情で、今の私には抱えられない想いを抱いて。
あれが……、憂ちゃんのお姉さんの唯さん……。

と。
唯さんが軽くブレス。
そっか。唯さんはボーカリストでもあったんだ。
ギターをこんなに自信を持って弾けるんなら、きっとボーカルの方も伸び伸びと……。
そして、唯さんが口を大きく開いて歌い始めた。


「君を見てるといつもハートドキド……」


刹那、軽音楽部の三人がその場に倒れ込み、私も釣られて机に突っ伏してしまった。
歌が下手だったわけじゃない。
唯さんの歌声が物凄い濁声だったからだ。
唯さんの普段の声を聞いた事が無い私でも分かるくらい、その声は完全に嗄れ切っていた。

倒れ込んだ律さん達が、どうにか顔を上げて唯さんに視線を向ける。
「てへっ」と言って唯さんが自分の頭を掻くと、
それに倣ってキャサリンさん(?)も同じようなポーズを取って笑った。


「練習させ過ぎちゃった!」


「声嗄れちゃった!」


一大事のはずなのに、悪びれもせずに二人で楽しそうに舌を出す。


「カワイコぶっても駄目だあっ!」


律さんが非常にもっともな突っ込みをして、呆然とする。
私も律さんと完全に同意見だった。
こんな状態で唯さん達はどうしてまだ楽しそうに出来てるんだろう……。


「そんな……、じゃあ、ボーカルは?」


「変更するなら今日中よ」


「えっ? そうなのかっ?
だとすると……」

79: 2012/09/25(火) 18:52:28.24
私と同じ気持ちだったらしく、
紬さん、和さん、律さんの戸惑いの声が上がる。
こんな状態で戸惑わないわけがない。
まだこの軽音部の事をよく知ってるわけじゃないけど、
他にボーカルが出来そうな人なんて居るのかな……、って、あっ。
瞬間、私の頭の中にはある人の名前が浮かんでいた。
部外者の私ですら思い付けた人の名前を、部員の人達が思い付かないはずがない。
律さんと紬さんがその人の方に顔を向けた。
当然、澪さんだった。
私が公園で聴いた澪さんのエアベースの時のあの歌声は見事だった。
あの歌声なら、十分にボーカリストだって務められるはずだと思う。


「……えっ?」


その事実に気付いてないのは当事者の澪さんだっただけらしく、
周囲の全員から視線を向けられて、やっと自分に白羽の矢が立った事に気付いたみたいだった。


「そうね、澪ちゃんなら歌詞憶えてるだろうし」


「歌詞作った本人だしなあ」


「頑張ってね、澪ちゃん」


「ハスキー唯からもお願い!」


部室内に次々と上がる澪さん推薦の声。
注目を浴び過ぎた澪さんはよっぽど恥ずかしかったのか緊張したのか、
顔を真っ赤にしてしばらく震えてから、「うわぁ……」と呟いて後ろ側に倒れ込んでしまった。
そ……、そんなに人前で歌うのが嫌なのかな……。
照れ屋さんな人だとは思ってたけど……。
そう言う私も歌は全然上手い方じゃないんだけどね……。

律さんの言葉通りなら、確か学園祭まで後三日。
たったそれだけの期間しかない上に初ライブなのに、
この桜高の軽音楽部の皆さんは無事に学園祭を乗り切れるのかな……。
何だか違う意味で見逃せなくなって来ちゃったみたい……。
私が学園祭に出るわけじゃないのに、とても胸がドキドキしてしまう。
一方的にだけど、知った人達が学園祭で失敗する姿なんか見たくないし……。

だけど。
心配する私なんか関係無く、憂ちゃんは苦笑しながら唯さんを見つめていた。
『お姉ちゃんったら……』とでも言わんばかりの穏やかな顔で。
そして、それは憂ちゃんだけじゃなかった。
キャサリンさん(?)も律さんも紬さんも唯さんも和さんも、
澪さんを除いたその場に居た全員が穏やかな表情で笑っていた。
こんな状態なのに、どうして笑えてるんだろう……。
失敗するかもしれない学園祭なのに、どうして……。
多分、私は澪さん以上に学園祭の成否を心配して、一人でそんな事を考えてしまっていた。

83: 2012/09/27(木) 19:28:09.71





桜高の軽音楽部の練習の見学を終えた後、私は憂ちゃんと肩を並べて帰路に着いていた。
唯さんが姿を見せた事だし、早めに帰った方がいいのかも、
って思ったけど、意外と憂ちゃんは最後まで軽音楽部の見学を私に続けさせてくれた。
いいのかなって思ったけど、憂ちゃんは平気な顔で笑ってくれていた。
寂しいと感じるのは唯さんと二人きりで一緒に居る時だけで、
お姉ちゃんが友達と楽しそうにしてる時は一緒に居ても平気だし、逆に嬉しいんだよ。
と憂ちゃんは言っていた。
確かにそういうものなのかもしれないなあ。
私も仲の良い子と二人きりの時に視線すら向けられなかったから、相当に辛いと思う。

実を言うと、私も憂ちゃんと同じ事を考えているのかもしれない。
こんな状態になるずっと前から、似た事を考えてたんだと思う。
練習を中断して以来、あの子と遊びに行かなくなったのも、それが理由な気がする。
あの子と二人きりで何を話したらいいのか分からない。
口を開けば、あの子を責めてしまいそうで怖い。
一緒に居る事が怖い。
あの子から他人を見る視線を向けられるのが怖い。
だから、私はあの子の傍に居られなかったんだよね……。
いつか……、いつかは話をしなきゃいけないのは分かってるんだけど……。


「……梓ちゃん?
浮かない顔をしてるみたいだけど、どうかしたの?」


私の表情が気になったのか、憂ちゃんが私の隣で首を傾げた。
駄目だ駄目だ。
そう思いながら、私は一人で首を振る。
あの子の事も私の将来と夢の事も考えなきゃいけないけど、それで暗くなってたって意味が無いよね。
残された期間は短いし、私はたくさんの事を同時に考えられるほど器用じゃない。
だから、今は桜高の軽音楽部の皆さんの見学に専念しよう。
多分、それが私にとって一番いい選択肢なんだって信じて。

私は出来る限りの笑顔を作って、憂ちゃんに向けて軽く首をまた振った。


「ううん、何でも無いよ、憂ちゃん。
ちょっとだけ考え事をしてただけだから、心配いらないよ」


「そう……?
でも、何か悩み事があったら、何でも言ってね。
私に出来る事なんて少ないかもしれないけど、
ちょっとでも梓ちゃんの力になれたら私も嬉しいな」


「うん、ありがとう、憂ちゃん。
その時はお願いするね……って、
そう言えば一つ悩んでた事があったのを思い出しちゃった。
早速なんだけど、聞いてもらっていい?」


「うん、何でも話して」


「あのキャサリンさん……だったよね?
あの人は憂ちゃんとどういう関係の人なの?
どうもずっとそれが気になっちゃってるんだよね。
唯さん達の会話を聞いてる限りじゃ、桜高の軽音楽部の顧問の先生みたいだけど……。
でも、顧問の先生と憂ちゃんじゃ、何の接点も無いだろうし……。
それで思ったんだけど、あのキャサリンさんってひょっとして……」

84: 2012/09/27(木) 19:28:39.70
私が訊ねると、憂ちゃんはその足を止めて顔を上げた。
釣られて、私も足を止める。
憂ちゃんの表情を窺ってみると、空に浮かぶ雲に視線を向けているみたいだった。
何かを懐かしんでるんだろうって事は、私にだってすぐに分かった。
数秒、雲を見上げた後で、憂ちゃんが私に視線を向け直して微笑んだ。
その微笑みは少し寂しそうだったけれど、それ以上に嬉しそうにも見えた。


「うん、梓ちゃんが考えてる通りだと思うよ。
キャサリンさんはね、私の前の『ナビゲーター』の人だったんだ。
一週間、私の『一生に一度のお願い』を考えるお手伝いをしてくれた素敵な人なんだよ」


憂ちゃんの言葉を聞いて、私は妙に納得してしまっていた。
キャサリンさん――もう(?)はいいか――を見た時の憂ちゃんの反応から考えてもそうだったし、
そもそも憂ちゃんが話してくれた前の『ナビゲーター』の人の印象に合致し過ぎてるもんね。
まさか憂ちゃんの言葉通りの人が誇張無しに存在してるとは思ってなかったけど……。
しかも、軽音楽部の顧問の先生だったなんて……。
キャサリンさんが顧問で大丈夫なのかな、軽音楽部の皆さん。
唯さん達の反応を見る限り、音楽に関してはちゃんとした先生ではあるみたいだけど……。


「でも、本当にびっくりしたなあ……。
まさかお姉ちゃん達の部の顧問の先生が、キャサリンさんだったなんて……。
これも縁って言うのかな?」


憂ちゃんが嬉しそうに苦笑する。
キャサリンさんに自分の姿が見えていない寂しさは勿論あるんだろう。
多分、キャサリンさんが憂ちゃんを完全に忘れ去っている事も辛いはずだと思う。
それでも、憂ちゃんは笑顔を見せていた。
それがどんな形でも、キャサリンさんと再会出来た事を嬉しく思ってるみたいだった。
何だかそれが私まで嬉しくさせて、気付けば私も笑顔で呟いてしまっていた。


「うん、素敵な縁だよね、本当に……。
神様だか誰だか分からないけど、今回ばかりは素敵な事をしてくれるよね。
もしかしたら、その神様が単に手を抜いて身近な人の間で、
『チャンスシステム』の引き継ぎをしてるだけかもしれないけどね」


「あはは、そうかもしれないよね……。
だけどね、私はそれでも嬉しいな!
キャサリンさんが私と別れてからどうなったのか、ずっと気になってたんだもん!
キャサリンさん……、元気そうでよかった……」


そう言った憂ちゃんは少しだけ目尻を濡らしてるみたいだった。
心の底から、キャサリンさんとの再会に感激しているんだろうな。
憂ちゃんとキャサリンさんの間に何があったのかは分からない。
でも、そうやって憂ちゃんの目尻を濡らすくらい、
キャサリンさんと憂ちゃんの間には色んな事があったんだろう。
何だか羨ましいし、ちょっと妬けちゃうかも……。

85: 2012/09/27(木) 19:29:15.66
って、妬けちゃう……?
私が?
自分で考えた事ながら、その想像は私を結構動揺させた。
こう言うのも何だけど、私は友達を作るのがかなり下手糞だと思う。
あの子とだって仲良くなれ始めたのは、出会って二ヶ月くらい経ってからだった。
別に人間嫌いだってわけじゃないけど、それくらい付き合わないと友達になれない性格だと思う。
我ながら、可愛げが全然無くて嫌になるよね……。

そんな私がいつの間にか憂ちゃんに妬いちゃってるなんて……。
それだけ憂ちゃんが優しくて魅力的な子だって事なんだろうけど、何となく気恥ずかしいなあ……。
私は自分の顔が熱くなるのを自分で誤魔化して咳払いをすると、軽く話を逸らしてみる。


「そう言えば、憂ちゃん。
キャサリンさん……って名前は何なの?
さわ子先生……だったっけ。
ひょっとして、あの先生がキャサリンとしか名乗らなかったとか?」


「うん、そうなんだ。
私がどれだけ聞いてもキャサリンって名前しか教えてくれなくて、
何歳なのかも普段何をしている人なのかも教えてくれなかったんだ。
私と会ってくれてる時はさっきみたいなスーツじゃなくて、
もっと派手なバンドを組んでる人達みたいな服装だったから、
そういう音楽関係の人なんだって思ってたんだけど、音楽の先生だったんだね」


「それは……、よくそんな人を信じたね、憂ちゃん……。
怪し過ぎるでしょ、そんな人……」


私が若干呆れた表情を浮かべて言ってみたけど、
憂ちゃんは気を悪くした風も無くまた笑顔を見せてくれた。
キャサリンさんの言動が怪しいとは、憂ちゃん自身も思ってた事だったんだろう。
それでも、憂ちゃんはキャサリンさんを信じる事に決めたんだ。
どうしてなんだろう?
何で憂ちゃんはそんな怪しい人を心から信じられたんだろう?

私の考えていた事が分かったみたいで、憂ちゃんが話を続けてくれた。
それは憂ちゃんがキャサリンさんとの思い出を誰かに話したかったからでもあるんだろうけど、
私が私のお願いを見つけられるための手助けになれば、って考えて話してくれているようにも見えた。


「キャサリンさんって、確かにちょっと一見すると怪しい人だよね……。
でも、プールで出会って、お話をしていて思ったんだよ。
キャサリンさんは本気で私のお願いの事を考えてくれてるんだ、って。
キャサリンさんは私の話を真剣に聞いてくれたし、
『チャンスシステム』についてもちゃんと説明してくれたし、
私の『一生に一度のお願い』の事も一緒になって考えてくれたんだもん。
誰かの事を真剣に考えられる人なんだ、って思ったんだ……。
それにね……」


「それに……?」


「私が最初にキャサリンさんの事を信じられたのは、
キャサリンさんが叶えた『お試しお願い』の事を最初に教えてくれたからなんだ。
ううん、それだけじゃないよ。
『一生に一度のお願い』の方も最後の最後、私のお願いを決める直前に教えてくれたの。
私ね、これって凄い事だと思うんだ。
だって、自分のお願いって、自分の夢と同じでしょ?
そんな自分のお願いを言葉にして誰かに話すのなんて、すっごく難しい事だと思うんだ。
出来そうで出来る事じゃないと思うな……。

それなのにキャサリンさんは自分のお願いを教えてくれたんだよ。
だからね、私はキャサリンさんの事が信じられるって思ったんだ」

86: 2012/09/27(木) 19:29:42.24
憂ちゃんのその言葉を聞いた後、私は自分の身を鑑みて少し恥ずかしくなった。
憂ちゃんの言う通りだ。
自分の叶えたいお願いなんて、誰かにおいそれと話せる事じゃないよね。
特に私は憂ちゃんに自分の叶えた『お試しお願い』について嘘を吐いてる。
『平沢さんの事をもっとよく知りたい』って本当のお願いを誤魔化してるんだよね……。

でも、キャサリンさんは、多分本当のお願いを憂ちゃんに伝えた。
確証は無いけど、キャサリンさんはそういう事で嘘を吐く人じゃないと思う。
そして、憂ちゃんも私に自分の『お試しお願い』を教えてくれた。
ちょっとした緊急時にではあったけど、教えてくれたんだ。
二人とも……、凄いなあ……。

何となく、ちょっと分かった。
私が憂ちゃんの言葉を信じられた理由。
それは憂ちゃんがキャサリンさんを信じていたからなんだ。
キャサリンさんって信頼出来る見本があったからなんだ。
だから、憂ちゃんは私の事を真剣に考えてくれてるし、私も憂ちゃんを信じる気になれたんだと思う。


「これは私の勝手な想像なんだけど……」


憂ちゃんが笑顔を浮かべて話を続ける。
その顔はもう寂しそうな笑顔じゃなかった。
弾けるような満面の笑顔だった。


「キャサリンさん、私の顔を見てすぐにお姉ちゃんの……平沢唯の妹だって気付いたって思うんだ。
顧問になる前でもお姉ちゃんの顔くらいは知ってたと思うし、
私もキャサリンさんには「平沢憂です」って名前を伝えてたし。
でも、キャサリンさんは私にそんな話を一回もしなかったんだ。
私の想像だけど、きっとキャサリンさんはわざとそうしたんだって思うの。

変な先入観無しに私の『一生に一度のお願い』を見つける手助けがしたかったから
あくまでただの『ナビゲーター』として私の手伝いをしたかったから、
私にお姉ちゃんの話も自分の本当の名前の話もしなかったんじゃないかな?
あははっ、ちょっと私の考え過ぎかな?」


少し照れたらしく、憂ちゃんが頬を赤く染める。
私はキャサリンさんの事をよく知ってるわけじゃない。
一度も会話すらしてないし、姿すら見られてないわけだから、
キャサリンさんが本当は何を考えてたのかなんて分かるはずもない。
でも、憂ちゃんの言う事は間違ってないって思った。
キャサリンさんの事を信じてるわけじゃない。
キャサリンさんを信じる憂ちゃんの事を信じられるから。
信じてるから。
だから、私は憂ちゃんの想像が間違って無いはずだって思った。


「ううん、考え過ぎじゃないって私は思うよ、憂ちゃん」


「うんっ!
ありがとう、梓ちゃん……!」


私が思ったままの言葉を届けると、憂ちゃんはまた弾けるような笑顔を浮かべてくれた。
それはとってもとっても……、とっても魅力的な笑顔だった。
唯さんやキャサリンさんや、色んな人の事を大切に思っている素敵な笑顔。
私もいつかは憂ちゃんみたいな笑顔を浮かべる事が出来るのかな……。
出来たら……いいな……。

89: 2012/11/07(水) 18:34:58.06





「『素敵な出会い』……か」


放課後、セッション中の桜高軽音楽部部室。
私はキャサリンさんの横顔を見つめながら何となく呟いた。
憂ちゃんのお姉さんの顔を初めて見た翌日、私は一人で部室にお邪魔していた。
ちなみに今日は傍に憂ちゃんは居ない。
喧嘩したとか気まずくなったとか、別にそういう理由じゃない。
今日は何となく、私一人で軽音楽部の見学をしたかったんだよね。
自分でもその理由ははっきりとは分からないけど、
二人より一人で見学した方が見えて来る何かがあるかもしれない。
って、ひょっとしたら、そんな風に心の何処かで考えていたのかも。


『今日は一人で軽音楽部の見学をしたい』


今日の昼過ぎ、私がそう言うと、憂ちゃんは穏やかに微笑んで私を送り出してくれた。
もう『一生に一度のお願い』の期限の日まで、残された時間はどんどん少なくなってるんだもんね。
その期限の日まで、私の行動を見守ってくれるつもりなんだろうと思う。
当然だけど、まだ私の叶えてほしい『お願い』は見つかっていない。
見つけられる気配すらも全然無い。
勿論、音楽の才能が欲しい気持ちはある。
もっと上手にギターを弾いてみせたいし、才能があればきっと私の悩みは解消される。
その『お願い』が叶えば、私は幸せになれると思う。

でも、やっぱり。
私の中には、それで本当にいいのか、って思いもあって。
そんな事で幸せになって満足なのか、って迷いもあって。
私は結局、軽音楽部の皆さんの見学に来る事しか出来ない。
その先に私の答えがあるなんてとても断言出来ないけど、それでも。
私の心の中には、軽音楽部の皆さんの演奏を聴きたい気持ちがあるから。
心の何処かに強く引っ掛かっているから。
私は今日も桜高の軽音楽部の部室に足を運んでしまう。


「はいはい。またドラムが走ってるわよ、りっちゃん」


キャサリンさん――出席簿に記された名前からすると山中さわ子先生――が胸の前で軽く両手を叩いた。
キャサリンさんが演奏を止めるのは、これで今日三度目くらいだろうか。
学園祭が近いせいもあるのかもしれないけれど、今日のキャサリンさんの態度はとても真剣だった。
憂ちゃんが信頼してるだけあって、やる時にはやる先生だという事なのかもしれない。


「えーっ、マジかよ、さわちゃん。
私、これでも走らない様に結構気を遣ってるんだぜ?」


律さんがげんなりした表情で、キャサリンさんの言葉に応じる。
いつもいい加減に見える律さんだけど、今回ばかりは私も律さんの言葉には頷きたかった。
キャサリンさんは『走ってる』と言ったけれど、今回の律さんの演奏が走ってるようには思えなかったからだ。
キャサリンさんも律さんがそう言うのは百も承知みたいで、優しく微笑んでから言葉を続けた。


「そうね、りっちゃんのドラムもかなり走らなくなってはきたわ。
でも、やっぱり少しだけ走ってるのよ。
本番じゃそれが命取りになったりするんだから、その辺は気を付けなきゃね。
リズム隊が崩れたら、バンドの演奏は総崩れになっちゃうもの。
勿論、りっちゃんのドラムは澪ちゃんのベースが組むときちんとした土台になるわ。
やっぱり、幼馴染みだからかしら?
二人が組むと楽器歴が浅いと思えないくらいのリズム隊になれてるのよね。
でもね……」

90: 2012/11/07(水) 18:35:24.41
キャサリンさんが誰も居ない空間に視線を向けて軽く苦笑する。
その空間……、場所はいつも澪さんがベーシストとして陣取っている場所だった。
そこに澪さんの姿は無い。
今日、澪さんは部室に姿を現していなかった。
律さん達の会話からすると、今日は一人だけ部活を休むらしい。
何でもカラオケ屋で一人で歌の練習をするつもりなんだとか。
そんなに自分が歌う事に自信が無いんだ、澪さん……。
澪さんの事を考えると、私は自分の心臓が嫌な速度で鼓動するのを感じる。
澪さん、ああ見えて凄く気が弱いみたいだし、大丈夫なのかな……。

私は自分が澪さんと同じ立場になってしまった時の事を想像してみる。
あの子にボーカルを任せて練習していたとして、
何かのアクシデントでライブの三日前に急に私にボーカルのパートが回って来たとしたら……。
ああ、駄目だ……。
想像するだけで身の毛がよだつ。
だって、私はそんなに歌が上手くないんだから。
歌のパートをやろうって考えた事もないんだもん。
いきなりボーカルをやれって言われても、全然やれる自信が無いよ……。
単に想像してみた私ですらそうなんだ。
実際にそんな立場に立つ事になってしまった澪さんの不安はどれくらいなんだろう……。


「そう……だな」


キャサリンさんの視線を辿って、澪さんの定位置を見てから律さんが微笑んだ。
その律さんの表情を見た時、私は正直驚いた。
律さんの微笑みがすっごく優しい表情だったから。
いつも適当に見えてた律さんがこんな表情を浮かべるなんて……。
当たり前だけど私のそんな考えに気付かない素振りで、律さんが穏やかな声色で続けた。


「ボーカルを澪に押し付けちゃう形になっちゃったんだもんな。
その分、同じリズム隊の私がしっかりしてやらなきゃいけないよな。
うん、学祭ライブが終わるまでは、澪の分もリズム隊を頑張るよ、さわちゃん。
澪にはボーカルに集中してもらわなきゃいけないもんな。
面倒だけど、これが部長の辛い所だぜ……ってな」


『面倒』と言いながら、全然『面倒』じゃなさそうに律さんが笑う。
律さんの姿を見て、キャサリンさん、紬さんが顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
それから、唯さんが嗄れた声を出しながらその場で飛び跳ねる。

91: 2012/11/07(水) 18:35:50.50
「さっすが、りっちゃん!
流石は私達の自慢の部長だね!」


「ふっ、よせやい。部長として当然の事をしてるだけだからな……。
つーか、澪がボーカルをやらなくちゃいけなくなったのは、おまえとさわちゃんの責任でもあるんだからな?
その辺をよーく肝に命じとくように」


「えー……、それはひどいよ、りっちゃん……」


「分かってるわよー。
だから、責任感じて忙しいのに皆の練習を見てるんじゃないのー」


突然の律さんの言葉に、唯さんとキャサリンさんが頬を膨らませて口を尖らせる。
でも、その二人の目元は笑っていたし、紬さんも皆さんの様子を笑顔で見つめていた。
学園祭を前に相当なピンチのはずなのに、昨日と同じくこの軽音楽部の皆さんは笑っていた。
ピンチですらも心から楽しんでるみたいに。

でも、私にはそんな軽音楽部の人達が分からなかった。
どうして、こんな時に皆で笑えてるんだろう。
学園祭が失敗してしまっても構わないのかな?
学園祭なんてお遊びだからどうでもいいって意味なのかな?
ううん、そんな風には見えない。
練習時間こそ少なめだけど、皆さんが音楽に向ける情熱は本物だと思う。
一度一度のセッションに皆さんの真剣な想いが感じられる。
いい演奏をしようっていう強い決心が感じられる。
未熟な私だけれど、それくらいは分かるんだ。
だからこそ、皆さんの落ち着いた態度が私には全然分からなかった。
もしかしたら、その理由が分かりたくて、私は今日一人で軽音楽部の見学に来たのかもしれない。

憂ちゃんには、と不意に私は思う。
きっと憂ちゃんには、その理由が分かってるんだろう。
昨日、憂ちゃんも微笑んでいた。
お姉さんの唯さんがボーカルを務められなくなってしまったってピンチを目の前に、笑顔だった。
きっと憂ちゃんも軽音楽部の皆さんと同じ想いを抱いてるから、笑顔だったんだ。
多分、私が訊けば憂ちゃんはその理由を答えてくれるだろう。
優しく穏やかに教えてくれるだろう。
でも、私はそれが嫌だった。
その答えは私が自分で見つけたいから。
それを見つけられた時にこそ、私は自分の本当の『お願い』を見つけられる気がするから……。


「よし、と。
それじゃあ、練習を再開するわよー。
りっちゃんはもう少しだけ走らないように心掛けてね。
唯ちゃんとムギちゃんは逆にもっと力強く、りっちゃんのペースに負けないように。
三人とも分かったー?」


「はーいっ!」


キャサリンさんが宣言するみたいに言うと、部員の皆さんが元気よく返事をして練習を再開する。
あまり上手ではないはずなのに、どうしても私の心に残る演奏が部室の中に響き始める。
勿論、劇的に上達出来てるわけじゃない。
でも、キャサリンさんの言葉をきっかけに、確実にさっきより上手な演奏になっている気がした。
キャサリンさんが満足そうに頷き、身体でリズムを取る。
私もキャサリンさんに倣って、全身で皆さんの演奏を感じながらさっきと同じ事を呟いてみた。

92: 2012/11/07(水) 18:36:27.36
「『素敵な出会い』……か」


それは昨日、憂ちゃんに教えてもらったキャサリンさんの『お試しお願い』だった。
キャサリンさんは『お試しお願い』でそのお願いを叶えてもらったらしい。
憂ちゃんが言うには、凄く美人なキャサリンさんだけど何故か恋愛運はよくないんだとか。
これまでもいくつもの恋をしてきたのに、幸福な結末を迎えられた事は無かったらしい。
それでキャサリンさんが選んだお願いが『素敵な出会い』なのは、理に適ってる気がする。
だけど、憂ちゃんは一つ疑問に思って訊いてしまったそうだ。
『素敵な出会いよりも、運命の恋人を下さいってお願いした方がよかったんじゃないですか?』って。

言われてみると、それもそうだよね。
誰かと素敵な出会いをしても、その人と結ばれるかどうかは分からない。
出会っただけで、その出会いを生かせずに終わってしまうかもしれないわけだし。
だったら、最初から『運命の恋人』をお願いした方が確実だよね。

でも、キャサリンさんは憂ちゃんのその言葉に首を振ったらしい。
『そんなの面白くないじゃない?』と不敵に笑いながら。
キャサリンさん曰く、欲しいのは『素敵な出会い』って機会だけで、
本当に自分が付き合いたい『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れたい。
『素敵な出会い』は縁に寄るものだから自分にはどうしようもない事だけど、
『運命の恋人』は自分自身の力で手に入れられるはずのものだって思いたいから、との事だとか。

でも、その『お試しお願い』をしてみた結果、
残念ながらキャサリンさんに恋人が出来る事はなかったみたい。
『素敵な出会い』は一週間の内に何度もあったけれど、どうにも生かし切れなかったらしい。
おかげで一週間で三度もの失恋を経験する事になってしまったそうだ。
それでもキャサリンさんは笑ってたんだよ、と憂ちゃんは言っていた。

93: 2012/11/07(水) 18:38:11.86
『一生に一度あるかどうかの出会いを、
一週間で三度も体験出来ただけで儲け物だと思わない?』


出会いを生かせなかった自分に後悔もあるはずなのに、
そう言ったキャサリンさんの姿はとても素敵だったらしい。
確かに、素敵だな、と私も思う。
確固とした自分の意志を持った素敵な人だ。
そんなキャサリンさんの人柄を分かっているからこそ、
軽音楽部の皆さんもキャサリンさんの指導を安心して素直に受けられるのかもしれない。


「チャンスを生かせられるかどうかは自分次第……、って事だよね……」


私は自分に言い聞かせるみたいに言う。
ううん、実際に自分に言い聞かせる。
つまり、キャサリンさんの言いたかった事はそれなんだと思う。
チャンスはいつ訪れるか分からない。
いつかは訪れるかもしれないけれど、一生訪れる事が無い可能性だってある。
チャンスの有無自体は自分自身の力ではどうしようもない。
無理矢理に掴む事が出来る人も居るのかもしれないけれど、そんな人は極一部なんだ。
だからこそ、キャサリンさんはチャンスを望んだんだよね。
まずは『素敵な出会い』ってチャンスを貰って、後は自分の力でどうにかしたかったんだ。
その結果がどうなったって自分の責任。
生かせなくて失敗してしまったとしても、キャサリンさんにはそれでよかったんだろうな。


「今がチャンス……だよね」


震え始めた自分の身体を押し留めながら、私はもう一度一人で呟いてみる。
チャンスと言えば、今の私にも一つのチャンスがあった。
キャサリンさんと違って望んで手に入れたチャンスじゃないけど、私には生かすべきチャンスがある。
今の私は『石ころ帽子』を被った状態になってしまっている。
神様だか誰なんだかの手違いで、誰からも姿を認識されない状態になってるんだ。
誰にも気付かれずに行動出来るんだよね。
勿論、あの子にも。

本当はこんな事しちゃいけない。
こんな事したって、あの子も私も幸せになんかなれない。
二人とも傷付くだけだって分かってる。
こんなの最低だって分かってる。
でも、分かってるけど、止められない。
確かめたいから。
私と一緒に夢を見てくれていたあの子の最後の真意を確かめたいから。
ずっとずっと目を逸らしてたあの子の気持ちを知りたいから。
私は偶然訪れたこのチャンスを生かそうと思う。

こんな最低の事をしてしまう私は神様に見放されてしまうかもしれない。
『一生に一度のお願い』を叶える資格の無い人間だと判断されてしまうかもしれない。
別にそれでもよかった。
今の私にとって一番大切なのは、あの子の気持ちを確かめる事なんだから。
確かめなきゃ、私はもう前に進めないから。
だから……。

私は部室に配置されている長椅子から立ち上がって、歩き始める。
あの子の家へ。
あの子の下へ。
見ようとしなかった、見るのが怖かった私達の夢の結末を確かめるために。
私は、駆け出して行く。

ひょっとしたら。
最初からこうするつもりで、私は今日一人で桜高まで来たのかもしれなかった。
こんな最低な私の姿を、憂ちゃんにだけは見られたくない。

97: 2012/11/16(金) 19:17:58.06





人の家に無断で入るのは初めてだった。
小学生の頃、家の鍵は開けてるから勝手に入って休んでてよ、
って当時の友達に言われた事はあったけど、何となく気後れしてしまってそれも出来なかった。
家はその人の踏み込んではいけない領域なんだって、幼いながらにそう感じていたのかもしれない。
だからこそ、私が人の家に、人の部屋に無断で入るのは、今日が初めてだった。

やっちゃいけない事だって分かってる。
こんな事なんかやっちゃいけないんだって。
でも、私はそれを分かっててやっててしまってる。
そんな私には反省する資格すらも無い。
『一生に一度のお願い』を叶えてもらう資格だって無くなるだろう。

それでも、私はこの場に立っている。
嫌になるくらい激しい鼓動に息苦しくなりながら、
全身が自己嫌悪と罪悪感に震わされながら、
決して逃げ出さずに、投げ出さずにあの子の部屋に立ってしまっている。
立って、あの子――いや、この子――の横顔を見つめている。

私の大切な友達。
ずっと一緒に音楽を続けて来た友達。
これからもずっと一緒に音楽を続けていきたい友達。
受験のせいで引き離されてしまったけれど、
受験が終わればまた元通りに二人で音楽を演奏出来る……。
そう信じていた……、そう信じていたかったこの子。

私が無断でこの子の部屋に入った時、既にこの子は勉強を始めていた。
色んな事に不器用で、勉強が苦手で、勉強する事自体も苦手で、
試験週間にはいつも私に泣き付いて来ていたこの子が、自主的に勉強を始めていたんだ。
いつも私に見せていた勉強への嫌悪感の表情も見せず、ただ真剣に。
きっと夏休み中もこうやってずっと勉強してたんだろう。
私がこの子を避けて、一人で悩んで部屋の中で佇んでいた時にも、ずっと。

本気なんだなあ、って思った。
この子は自分の将来に本気なんだ。
自分が不器用な事だって、勉強が苦手な事だって百も承知。
だからこそ、その分、努力してる。
私とずっと続けてた音楽の練習も中断して、大好きなはずの音楽からも離れて。
この子だって私との音楽を楽しんでくれてた……、と思う。
最初こそ初心者丸出しだったけど、上達も遅かったけど、
たまにセッションしてみて上手く演奏出来た時のこの子の顔は眩しかった。
音楽を好きになってくれたんだ、って思えて凄く嬉しかった。
この子の笑顔をずっと傍で見ていたかった。


「私だって……」


小声じゃなく、結構大きい声で呟いてみる。
勿論、この子は私のその呟きには気付かない。
今の私はそういう状態になってるんだから、当然だった。
でも、だからこそ、私はまた呟いた。
自分の選んだ決心を揺らしたくなくて、選んだはずの将来を信じたくて。
私は大きな声で呟いて……、ううん、言ってみせた。

98: 2012/11/16(金) 19:18:27.37
「私だって……、本気なんだよ……」


本気なんだ。
誰よりも夢に本気なつもりだった。
本気だから、この子が練習の中断を言い出した時は辛かった。
凄く悔しかった。
私の目指した夢はそんな事に邪魔されてしまうの?
私の選んだ道はそんなに小さな障害で躓いてしまうものだったの?
本当はそう言って詰め寄りたかった。
この子と離れ離れになんかなりたくなかった。
だから、あの日から私はこの子を……。

唇を強く噛んで、拳を握り締める。
駄目……。
泣いたりしちゃ駄目……。
まだ泣いちゃ駄目だよ、私……。
私は真剣な表情のこの子の横顔を見ながら必氏に胸の痛みに耐える。
どんなに胸が痛くても、どんなに泣き出したくても、まだそれは駄目なんだ。
今日はそれを確かめに来たんだから。
私達の夢の辿り着く先を確かめに、こんな最低な事までしてここまで来たんだから。
だから、まだ私は泣いちゃいけない。
涙を堪えないといけない。

私は大きく溜息を吐いてから、勉強を続けるこの子の学習机に近付いていく。
この子の勉強の内容を確認するためじゃない。
この子の表情を身近で確認するためでもない。
私が確認したい物はもっと別な物だ。
私が今からする事はもっと最低な事なんだ。

震える腕を動かして、私はこの子の学習机の一番上の引き出しを開く。
勿論、この子は私の行動には気付かない。
それは私が憂ちゃん以外には視認されない姿になってるからでもあったけれど、
ひょっとすると、そうじゃなくてもこの子は私の行動に気付かなかったかもしれない。
それくらいこの子は勉強に真剣だった。
私はそんなこの子を眩しくも辛くも思いながら、机の引き出しの中を探る。
自己嫌悪に吐きそうになってしまいながらも、目当ての物を必氏に探す。


「……あった」


目当ての物は案外と簡単に見つかった。
それを手に取った時、私は自分の息が荒くなってしまってるのに気付いた。
あった……。
やっぱりあったんだ……。
あの子は練習の中断を申し出て以来、私に何度も話し掛けようとしてた。
私はその申し出からずっと逃げてた。
申し出を受けてしまったら、これを手渡されてしまう、って心の何処かで分かっていたから。
この便箋の中にある手紙を……。

便箋には『あずさへ』と記してある。
この子の私に宛てた手紙がこの便箋の中に入ってる証拠だった。
この子は手紙を書くのが好きだった。
口にすればいい事でも、授業中でも、何度も何度も私に手紙を回した。
遊びの誘いですら、手紙に記していた事だってよくあった。
それくらいこの子は手紙が好きだったんだよね。
だから、この子はきっと私への気持ちを手紙に記してるはずだって思ってた。

躊躇う。
手の先が震える。
こんな事をしても何にもならないって、私の中の冷静な私が大声で叫ぶ。
きっとその通りなんだって事は頭では分かってる。
でも、心では納得出来てない。
納得出来ないから、納得させられないから、私はここまで来たんだから。

99: 2012/11/16(金) 19:18:56.73
「……ごめんね」


呟いて、私は便箋の中の手紙を取り出す。
ゆっくりとした動作で、私への手紙を広げる。
私は大きく二回深呼吸してから、その手紙の文字の羅列に視線を下ろした。


『ごめんね』


最初に目に入った文字列はそれだった。
それから次々と私の目は『もう続けられない』、
『わたしじゃ、あずさの足をひっぱっちゃう』、『ホントにごめん』という言葉を捉える。
私達の夢の終わりを記した言葉が私の胸の中に響いた。
頭の中に反響するみたいに、何度も何度も響く。
やっぱり、もう私の夢は終わってたんだ、ずっと、ずっとずっと前に。

意外と驚きは無かった。
悲しさも涙も湧き上がって来なかった。
湧き上がるのは『やっぱり』って思いだけ。
ずっと分かってた。
分かってて、見ないようにしてたんだよね、私は。
答えを突き付けられるのが怖くて、自分からこの子に距離を取って。
確かな答えを目にしない事で、自分の夢が終わってない事を信じたかっただけなんだよね……。
衝撃なんて受けない。
泣き出したり悲しんだりする必要も無い。
私は確認したかっただけなんだから。
私はこれを見たくて、不法侵入なんて最低な事までやったんだから。
勿論、この子が悪いわけでもない。
この子は自分の夢を追い掛けただけで、私に謝る必要なんて一つも無い。
悪いのはむしろ私の方だ。
私が自分の実力を考慮もせずに無謀な夢を見てしまったのが間違いだったんだ。
私くらいの実力で、音楽と一緒に生きていきたいなんて、夢の見過ぎだったんだ。
私にもっと実力があれば、私はこの子を引っ張っていく事が出来たのかもしれない。
この子も安心して私と一緒に夢を見られる勇気を持てたかもしれない。
でも、私にはその実力が無かった。才能も無かった。ただ当ての無い夢を見てただけだった。
私はそれを理解する事が出来た。
だから、私はこれで満足なんだ。

私は小さく溜息を吐くと、手紙を便箋に戻し、机の中に戻して引き出しを閉じた。
もう私がこの部屋に来る事は二度と無いだろう。
私とこの子の道は完全に違うものになってしまったから。
同じ夢は二度と見られないから。
そう思いながら、私はこの部屋から立ち去っていく。
涙も流さず、胸の痛みも感じず、躊躇いもせず、ただ去っていく。

この家の玄関から足を一歩踏み出した時、少しだけ肌寒い秋風が吹いた。
これから秋が深まって、冬が訪れる。
寒い季節が来るんだ。
でも、それより前に……、って私は思った。
あともう少しで私の『チャンスシステム』の期間は終わる。
その後、私はこの期間の間で起こった事を、全部忘れてしまうらしい。
憂ちゃんの事も、自分のお願いも、あの子の記した手紙を見た事も。
この期間に起こった事を全部忘れてしまっても、これから先に起こる事が変わるわけじゃない。
きっといつか、私はあの子からあの別れの手紙を渡される事になるんだろう。
その時、私は泣いちゃうのかな……、なんて何故かそんな事を思いながら、私は家路に着いた。
秋風は、そんなに気にならなかった。

100: 2012/11/16(金) 19:20:00.33





「おかえりなさい、梓ちゃん」


帰宅した私を憂ちゃんは笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」と私も多分出来る限りの笑顔で返して、すぐに自分の部屋に戻った。
憂ちゃんは何かを言いたげではあったけれど、私はそれに反応してあげられる余裕が無かった。
疲れた……んだと思う。
精神的にじゃなくて、肉体的に。
今日は一人で車に気を付けながら桜高まで行って、それからあの子の家まで走って行ったんだ。
体力には自信がある方だけど、これは流石の私でも疲れるよ。

荷物を置いてベッドの上に横になると、そのまま寝入ってしまいそうになる。
疲れ過ぎて、今は出来るだけ何も考えたくない。
何かを考え始めてしまったら、悪い事しか考えなくなりそうで嫌だった。
帰ってばかりだけど、食欲も無いし、もう眠ってしまおう。
一日くらい夕食を食べなくたって、別に命には何の別状も無いよね。
そう言えば、この『石ころ帽子』の状態なら、いくらお腹が空いても氏ぬ事は無いんだっけ?
だったら、これから期限の最後の日まで何も食べなくたって別に……。

と。


「梓ちゃーん?」


不意に自室の扉が叩かれ、私はベッドから身を起こした。
響いたのは憂ちゃんの声だ。
憂ちゃんどころか誰の相手をする気力も無かったけれど、無視するわけにもいかない。
「どうしたの?」と私が小さく訊ねると、「ごめんね、開けてくれる?」という返事があった。
私が首を捻りながら自室の扉を開けると、
扉の向こうにはお盆いっぱいに料理を載せた憂ちゃんが立っていた。
エビフライ、ステーキ、スープ、サラダ、フルーツポンチ。
お盆の上に載っていたのは、そんな感じのとても豪勢な料理だった。


「ど、どうしたの、これ?」


私がちょっと驚いて訊ねると、憂ちゃんは柔らかく苦笑して頭を下げた。


「えへへ、ごめんね、梓ちゃん。
今日は一人だったから、いつものお礼に梓ちゃんに何かしてあげたいなって思ったんだ。
それで、それなら美味しい料理を作ってあげよう、って頑張ってみたんだけど……。
ちょっと作り過ぎちゃったみたい。ごめんね、梓ちゃん」


「いや、それは別にいいんだけど……」


憂ちゃんを部屋の中に通しながら、私はそう呟く。
憂ちゃんが私のために何かをしてくれるのは、勿論嬉しい。
私のために頑張ってくれてるんだから、憂ちゃんが謝る必要なんて全然無い。
食欲はあんまり無いけど、少しくらいは食べてもいいかもしれないって思う。


「ちょっと待ってて。
今から料理を置くテーブルを用意するから」


言って、テーブルを用意しながら、思う。
憂ちゃんは誰かのために一生懸命になれる子なんだな、って。
私だけじゃない。
大好きなお姉さんの唯さんは勿論、
軽音楽部の人達の事も凄く大切に思ってるみたい。
知り合った人達全員を大切に思ってて、誰かのために動く事を苦にもしないで。
唯さんと早くまた話せるようになりたいはずなのに、私のお願いが決まるまで待ってくれて。
本当に……、優しくて……、優しくて……、優し過ぎる子なんだよね……。
こんな……私なんかとは違って……。

101: 2012/11/16(金) 19:20:35.05
「冷蔵庫の物を使い過ぎちゃってごめんね、梓ちゃん。
私のお小遣いで補えそうなら、家からいくらか持って来ようかな……」


「いいってば。ありがと、憂ちゃん」


憂ちゃんと話しながら思う。思ってしまう。
私は、そう、自分の事しか考えてない。
あの子の夢を知った時、私はあの子の未来より自分の事を考えてしまっていた。
これからどうやって音楽を続けていけばいいんだろう、ってそればかり考えてた。
あの子の夢を受け容れて応援するべきなのに、私は私の事しか見えてなかった。
今後、受験して、私は多分、桜高に入学する。
それで桜高で音楽関係の部に入部する事になるとして、私は上手くやっていけるの?
私はあの子と仲良くなって音楽を演奏するようになるまで、半年掛かった。
私はそれを繰り返せるんだろうか?
何とか繰り返して、誰かと音楽の道をまた歩いて行くようになったとする。
でも、私の実力じゃ、またあの子と迎えた結末を繰り返す事になるんじゃないのかな……。
私に実力が無いから、私が天才じゃないから、誰も引っ張る事が出来なくて、同じ結末を迎える?
同じ喪失を繰り返すの?


「あ、そうだ、梓ちゃん。
悪いんだけど、ちょっと待っててくれるかな?」


料理を配膳し終わった憂ちゃんが、何かを思い出したように私の部屋から出て行く。
お箸かスプーンでも忘れたんだろうか。
別にどうでもよかった。
これ幸いと私はまた色んな事を考え始める。
考えたくなかったはずなのに、湧き上がる思考を止める事が出来ない。

私は天才じゃない。
ギターを弾くのが周囲の人よりちょっと上手いだけ。
大きな視点で見れば、全くお話にならない実力なんだ。
将来的に音楽をやっていくのなんて無理だって分かり切ってる。
だったら、今後のためにも私が望むのは、たった一つの事じゃないのかな?
『一生に一度のお願い』って降って湧いたチャンスを生かす方法なんてきっと一つだけ。
やっぱりお願いするべきなんだ。
私の将来のために一番必要なもの……、『音楽の才能』を。
そうすれば私と音楽をする皆を不安にさせる事も無い。
私の才能で皆を引っ張って行く事が出来る。
ひょっとしたら、あの子だって戻って来てくれるかもしれない。
皆で夢を掴めるんだよね……。

でも……。
でも、そんなの……。


「お待たせ、梓ちゃん。
ちょっと梓ちゃんに見てほしいんだけど……」


憂ちゃんが扉を開いて私の部屋に戻って来る。
その手に持っていたのはお箸でもスプーンでもフォークでもなくて……。

憂ちゃんが、
持っていたのは、
私の、
今は見たくもなかった、
ギターだった。

102: 2012/11/16(金) 19:21:03.05
「梓ちゃんのギターのチューニングをしてみたんだ。
お姉ちゃんのギターでした事があるだけだから、ちょっと自信は無いんだけど……。
でもね、私、やっぱり梓ちゃんのギターが聴いてみたくて……」


「やめてよ!」


気が付けば叫んでしまっていた。
家中に響くような大声の絶叫。
まさか自分がこんな大声を出せるなんて思ってなかった。
こんな大声を出しても何の意味も無いって事くらい分かってる。
でも、後々から湧いて来る言葉が止まらない……!


「どうしてそんな……!
貴方はどうしてそんなに誰かの事ばっかり考えられるのっ!
私……、私なんかがギターを持ったって!
何も出来ないし! 弾いたって何にもならないのに!
皆、私から離れて行って! 私から! 私から!
わた……し……、私か……ら……。
うっくっ……、うううううううううっ!」


両目から大粒の涙が流れて止まらなくなって、喉の奥からは嗚咽が漏れ出していた。
止まらない。
涙も嗚咽も止まらない。
ああ……、そうだよね……。
ショックを受けなかったなんて嘘。
涙も出て来なかったなんて真っ赤な嘘。
私はただ必氏に涙を止めてただけなんだ。
私、泣きたかったんだ……。
あの子と同じ夢を見るのはもう無理だって、夏休み前からずっと分かってた。
分かっていたけど、少ない可能性を信じたかった。
また二人で楽しく演奏出来るって、儚い夢でも見てたかったのに……。
その夢はずっと失われる事になってしまって……。
もう、私の涙は止まらない。止められない。

106: 2012/11/18(日) 18:17:13.80
「あ、梓ちゃん……」


憂ちゃんが持っていたギターを置いて、戸惑った声を上げる。
戸惑って当然だと思う。
こんな突然に泣き出されて、戸惑わない方がおかしい。
私だって泣くつもりじゃなかった。
泣きたくなかった。
増して憂ちゃんの前でなんて、絶対に泣きたくなかったのに。
なのに……。
私はこんなに大声で泣き出してしまってる。

見せたくなかった。
この子の前で泣き顔なんて見せたくなかった。
憂ちゃんは優しい。
私の事を考えて行動してくれてる。
周りの皆の事を大切に想って動いてる。
それが私の胸を痛いくらいに傷付ける。
憂ちゃんには色んな才能があって、きっと私以上の音楽の才能もあって……。
それなのに憂ちゃんは音楽に対する夢は無くて、
夢なんかよりもちょっとした事こそが幸せで、
きっと大好きなお姉さんこそ幸せだったら、憂ちゃん自身も幸せなのに違いない。
私が欲しい物を持っているのに、何の欲も無い憂ちゃん。
何の欲も無く、私が『お願い』と『夢』を見つける事に協力してくれる憂ちゃん。
そんな憂ちゃんの姿を見せつけられる私はとても滑稽で、惨めだ。
私は立っているのも辛くなって、膝を折ってその場に崩れ落ちてしまう。


「ごめんね、梓ちゃん、私……」


憂ちゃんが中腰になって私の肩の方に手を伸ばす。
優しさと心配に満ち溢れた想いで包み込もうと手を伸ばしてくれる。
私はその手を強く払った。
拒絶して、呻き声混じりで、また、叫んだ。


「やめてったら!
もういい……! もういいから……!
うっ……、うっく……、私に……、私に構わないでよおっ……!」


叫んだ後、両手の手のひらで涙の溢れる私の両目を塞ぐ。
もう出ないで……。
流れないでよ、私の涙……。
どれだけ泣いても意味が無い事くらい、私だって分かってる。
憂ちゃんに八つ当たりしたって意味が無い事くらい、自分自身で分かってる。

八つ当たり……。
そう、これは八つ当たりだ。
あの子との夢を失って、それがショックで凄く辛くて、
それを必氏に誤魔化してて、憂ちゃんがギターを見せたってきっかけで私は泣いてしまって……。
そうして、私は見たくなかった自分の嫌な感情と直面する事になった。
夢を失くした悲しみ。
才能を持つ憂ちゃんへの嫉妬。
自分が何も持ってない事の劣等感。
夢を誰かの力で叶えようとしている虚しさと後ろめたさ。
見たくなかった自分の汚い感情をまざまざと見せつけられて、目眩までしてしまいそうだった。
だから、私は憂ちゃんに八つ当たりをしてしまっているんだ。
そんな気なんて一切無かったのは分かっているけれど、
私がこの汚い感情に気付くきっかけを作った憂ちゃんに責任を押し付けようとして……。

分かっていても、
もう、私の言葉と感情は止められない。

107: 2012/11/18(日) 18:17:40.05
「来ないで……!
もう傍に……、ひっく、来ないでったら……!
貴方を見ていると辛いの!
貴方を見てると、自分で自分が嫌になるの!
だから……、だ……から、もう……!」


汚い言葉が止まらない。
卑怯で弱くて、今の現実から逃げ出したい私の感情が止まらない。
自分自身で弱い自分を更に弱くしちゃってる気がしてくる。
でも、私は思った。
そんな弱くて情けないのが本当の私だったんだって。
見ないようにしてたけど、見たくなかったけど、それが本当の私。
憂ちゃんに手助けしてもらう価値も無い。
『一生に一度のチャンス』に選ばれる価値なんて最初から無い。
そんな最低な私が本当の私だったんだ……。

憂ちゃんは……。
憂ちゃんは私の言葉に何も返さなかった。
それもそうだと思う。
憂ちゃんはきっと私がどうして泣いているのか、見当も付いてないだろう。
当然だよね……。
ギターのチューニングをして、それを私に見せたら急に泣き出されてしまったんだから。
こんなの憂ちゃんじゃなくたって、他の誰だって訳が分からない。
私だって、自分が同じ事をされてしまったら、戸惑う事しか出来ないと思う。
憂ちゃんはそんな訳の分からない理由で、私に泣かれて、責められてしまってるんだ。
私に愛想が尽きてしまっても仕方無いし、それが普通の反応だと思う。
いつもそうだ。
私は色んな事から逃げて逃げて、逃げ回って、
その結果、最終的に当たり前みたいに色んな物を失ってしまうんだ……。
それが私って人間なんだ……。

なのに……。
私は左肩に感じてしまっていた。
人の手のひらの温かさを。
憂ちゃんの手のひらの温かさを。
憂ちゃんが置いたんだ、私の左肩に自分の手のひらを。
こんな私に、自分の想いを伝えるために。


「梓ちゃん……。
私、余計な事しちゃったみたいだね……。
ごめんね……、梓ちゃんの気持ちに気付いてあげられなくて……」


憂ちゃんが悲しそうな声色で私にそう囁く。
私は涙を拭いながら、顔を上げて憂ちゃんの顔に視線を向ける。
それでやっと、悲しそうなのは声色だけじゃなくて、表情もだったんだって気付けた。
まだ涙でぼやけていたけれど、その悲しそうな憂ちゃんの顔だけははっきりと見えた。
私が憂ちゃんにそんな顔をさせちゃってるんだ……。
優しい笑顔が印象的で、いつも微笑んでくれていた憂ちゃんを私が……。

108: 2012/11/18(日) 18:18:11.74
どうしようもないくらいの罪悪感が私の胸に湧き上がる。
やっぱり私は最低なんだ。
何も出来ない上に、誰かを傷付ける事しか出来ない最低な人間なんだ。
それが私なんだ……。
こんな私が憂ちゃんの傍になんか居ていいはずがないんだ。
もうこんな……、こんな悲しい憂ちゃんの顔なんて見てたくないよ……。


「離し……」


呟きながら憂ちゃんの手を振り払おうとして、瞬間、私の動きと言葉が止まる。
憂ちゃんの手を振り払う事が出来なかったからだ。
悲しい顔をしているのに、憂ちゃんの手のひらには強い力がこもっていた。
強い力と強い想いを感じて、振り払えなかった。
私は止まらない涙を拭えないまま、呆然と憂ちゃんの瞳に自分の瞳を向けた。
憂ちゃんと私の視線が交わる。
悲しそうな表情なのに、憂ちゃんの瞳は強い力を宿しているように見えた。
強い力のこもった瞳を私と合わせたまま、憂ちゃんが柔らかく、でも、強い声色で続けた。


「ううん、離せないよ、梓ちゃん。
今だけはちゃんとお話ししなきゃいけない時だよ、梓ちゃん。
後で私の事をどれだけ嫌ってくれても構わない。
本当はそんなのすっごく辛いけど……、悲しいけど……。
でも、梓ちゃんとはちゃんとお話ししたいの。
今、梓ちゃんが辛い思いをしてるのは、きっと私も原因だと思うんだ……。
私がもっとちゃんと梓ちゃんと色んなお話をしてれば、
梓ちゃんはこんなに辛い思いをしなくてもよかったんだと思う。
だから……、ごめんね、梓ちゃん……」


予想もしてなかった言葉だった。
私に訳も分からない文句を言われて、
意味も分からないまま泣かれてしまってる憂ちゃんはもっと怒ってもいいのに。
私の事なんか放っておいてくれても構わないのに。
憂ちゃんは私に優しい言葉を向けてくれている。
それは本当は喜ぶべき所だったんだろうけど、また私の胸を凄く傷付けた。
やっぱり憂ちゃんは私とは全然違うんだって思い知らされた。
他人の事を一番に考えて、大事に出来る立派な子なんだよね……。
それと比べて私は自分の事ばかり……。
私のその気持ちを分かっているのかいないのか、憂ちゃんが優しい声で続ける。

109: 2012/11/18(日) 18:18:41.27
「ホントはね……、梓ちゃんが何か悩んでるのは分かってたんだ。
多分、音楽の事で悩んでるんだろうな、って事くらいは何となくね……。
この前、急にギターを弾くのをやめたのもそうだし、
実はね、私、その日の夜に、梓ちゃんがギターを持って何処かに行ってたのも気付いてたの。
それで梓ちゃんが音楽……、ギターの事で何かを悩んでるんだ、って思ったんだよ。

でもね……、どうしていいか分からなかったんだ。
梓ちゃんの悩みに私が勝手に踏み込んでいいのか分からなくて……。
『ナビゲーター』の私がどれくらい手助けしていいのか分からなくて……。
それで私、ずっと考えてたの。
どうする事が梓ちゃんにとって一番いいのかなって。
それをずっとずっと考えてたんだ……」


憂ちゃんに悩みに気付かれていた。
その事実に私はあんまり驚かなかった。
よく思い出さなくても、私の行動は色々不自然だったと思う。
鋭い所がある憂ちゃんなら、私の考えていた事に気付いててもおかしくない。
それから、「でも……」と憂ちゃんが続け、私はその言葉にまた耳を傾ける。


「私、間違っちゃったみたいだね、梓ちゃん……。
私ね、ずっと梓ちゃんの悩みの事を考えてて、一つ思った事があるんだ。
梓ちゃんは今、ギターの事で悩んでる。
だったら、その悩みを晴らすのもギターじゃないのかなって。
どんなに悩む事があっても、好きな事をすれば元気になれるって単純に考えちゃったの。

でも、それは私の勝手な思い込みだったんだ、って今気付いたの。
そんなの単純過ぎたよね……。私の勝手な思い込みだったよね……。
本当は梓ちゃんとちゃんと話し合わなきゃいけない事だったのに。
自分一人で考えてても、いい答えなんて出るはずなかったのに。
だから、本当にごめんなさい、梓ちゃん……」


憂ちゃんが辛そうな声色で、その想いを私に伝える。
それは多分、憂ちゃんが私にほとんど見せた事が無い弱さだった。
憂ちゃんは色んな才能を持っていて、私には届かない強さもたくさん持ってる。
でも、何もかもを完璧にこなせてる、ってわけじゃないんだよね……。
何でも出来るように見えるけど、憂ちゃんも私と同い年の中学生なんだから……。
憂ちゃんだって悩んで、考えて、一生懸命生きている。
失敗しちゃう事だってある。
分かってる……。
分かってるよ、そんな事……。
分かってるから、辛いんじゃない……。

また私の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今度の涙は悲しかったから流れたものじゃなかった。
辛かったから流れた涙でもなかった。
情けなくて……、自分の無力が情けなくて流れた涙だった。

憂ちゃんには才能がある。
でも、才能に頼り切ってるわけじゃないのは、傍に居て私にもよく分かった。
ううん、才能云々より、そもそもの努力を欠かさないタイプだって事も分かる。
憂ちゃんの優しさや思いやりは才能で身に着けたものなんかじゃない。
憂ちゃんは才能があって努力もしてて、誰にでも優しい思いやりを持ってる。
私なんかじゃどうやったって届かない物をたくさん持ってる。
それを羨ましく思うだけの自分が情けなくて、悔しかった。

110: 2012/11/18(日) 18:19:11.73
「どうして貴方は……、そんなに優しいの……?」


何度言ったか、何度思ったか分からない言葉を私は口にする。
結局、私の疑問はそれに尽きるのかもしれない。
自分の事しか考えられてない私が思う一番の疑問。
私は才能だけじゃなくて、誰かへの思いやりを持てる憂ちゃんが眩しかったんだ、きっと。
私はあの子と夢を見られなくなった事が悲しかった。
でも、一番悲しかったのは、あの子の夢を応援出来ない自分が心の中に居た事だった。
あの子は音楽を始めた当初から、私の夢に付き合ってくれてる所があった。
私が望むから、私と組んで音楽を演奏してくれていたんだよね、あの子は。
私の夢を叶えてくれるために。
今ならそれが分かる気がする。
今度は私があの子の夢を応援する番なのに、心の底からそれが出来ない私が居る。
それどころか、悲しくて辛くて泣いてしまって、憂ちゃんに八つ当たりしてしまう私が居る。
それこそ私が本当に悔しくて情けなくて悲しい事だったんだと思う。

それを言ってしまうと、そもそも私は最初に何を望んでたんだろう?
いい曲を弾けるようになる事?
音楽で有名になる事?
それとも、あの子と音楽を続ける事?
音楽の才能を手に入れて、あの子と音楽を続けられるようになったとして、その後に私は何がしたいの?
……分からない。
ずっと悩んでいた事のはずなのに、いつの間にかそれが分からなくなってる。
自分が何で悩んでいたのかを。

不意に、憂ちゃんが私に一つの答えを届けてくれた。


「私は別に優しくなんかないんだよ、梓ちゃん」


「えっ……?」


私は思わず変な声を漏らしてしまっていた。
だって、こんなの意外な言葉過ぎるよ……。
もっと意外だったのは、そう言った憂ちゃんの表情が悲しそうな苦笑だった事だった。
謙遜なんかじゃないって事は、その表情を見ただけでよく分かった。
どうも憂ちゃんは本当に自分の事を優しくなんかないと思っているらしい。
私の心臓がどんどん妙な速度で鼓動を速めていく。
どういう事なの?
こんなに周りの人の事を考える憂ちゃんが優しくないだなんて、そんなの変だよ……。
それだけは絶対におかしいよ……。
気が付けば、私の涙はいつの間にか止まっていた。
泣くよりも先に、その憂ちゃんの言葉だけは否定したかったからだと思う。
私は憂ちゃんの肩に手を置いて、口早に捲し立てるみたいに言った。

111: 2012/11/18(日) 18:19:43.02
「そんな事……、そんな事あるはずないでしょ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは私によくしてくれてるし、優しくないなんてそんな事あるはずないよ。
憂ちゃんが優しくて思いやりがある子だから、私は……。
それが辛くて……、嫌で……、嬉しくて……、悲しくて……。
大体、憂ちゃんは『お試しお願い』を唯さんのために使ったんでしょ?
そんなの、簡単に出来る事じゃないよ。
誰かのために自分のお願いを使えるなんて……。
特に自分の事ばっかり考えちゃってる私なんかには……。

それに、まだ教えてもらってはないけど、
きっと『一生に一度のお願い』の方も唯さんのために使ったんだよね?
『お姉ちゃんをずっと幸せにしてあげて下さい』みたいな、そんなお願いをしたんでしょ?」


私はその自分の言葉を憂ちゃんに同意してもらいたかった。
憂ちゃんが優しくない子だなんて、私が一番認めたくなかった。
憂ちゃんが優しい子なんだって事は、私だってよく分かってるんだから……!

だけど。
憂ちゃんは困った苦笑を浮かべたまま、
その首をゆっくりと横に振って、静かで穏やかな声で続けた。


「ううん、違うよ、梓ちゃん。
内容はまだちょっと……、教えてあげられないけど……。
でもね……、『一生に一度のお願い』の方はお姉ちゃんの事をお願いしなかったんだ。
お姉ちゃんの事はお願い出来なかったんだ。
本当だよ?
勿論、証明は出来ないんだけど、信じてくれる?」


私としては信じたくない言葉だったけど、憂ちゃんが嘘を言っているとは思えなかった。
憂ちゃんはいつも私に対して真剣に向き合ってくれる子だったから。
今回の言葉からも憂ちゃんの真剣な態度が感じられたから。
だから、私は憂ちゃんの言葉を信じるしかなかった。
でも、一つだけ気になった言葉があった。


「『お姉ちゃんの事はお願い出来なかった』……って?」


私が訊ねると、憂ちゃんは視線を私から逸らして彷徨わせ始めた。
きっとその答えを私に伝えるべきかどうか迷っているんだろう。
それくらい、憂ちゃんにとっても秘密にしていたい事に違いない。
だけど、憂ちゃんは小さく頷くと、私の無遠慮な質問に答えてくれた。

116: 2012/12/12(水) 19:01:30.94
「私ね、梓ちゃんが考えてくれてる私より、ずっと我儘な子なんだ。
確かに『お試しお願い』はお姉ちゃんが元気で幸せになれるようにお願いしたよ?
『お試しお願い』の効力はすぐに出たみたいで、
傍から見てもお姉ちゃんはすっごく幸せになれたみたいだったんだ。

例えばお姉ちゃんが割った卵の中に黄身が二つ入ってたり、
失くしたと思ってたCDが二年振りくらいに見つかったり、
朝に弱いはずのお姉ちゃんが早起き出来るようになったり……。
一つ一つはちょっとした事なんだけど、お姉ちゃん、幸せそうだったなあ……。
最初はね、そんな幸せそうなお姉ちゃんの笑顔を見てるのが嬉しかったんだ。
でもね……」


「でも……?」


「お姉ちゃんの幸せそうな顔を見てる内に、私、怖くなっちゃったの。
お姉ちゃんは私に幸せそうな笑顔を見せてくれてる。
お姉ちゃんはいっぱいの幸せを感じてくれてる。
すっごく嬉しいし幸せな事なんだけど、私にはそれが怖くなっちゃったんだ。
だって、今のお姉ちゃんは私の『お試しお願い』が幸せにしてるだけで、
私自身がお姉ちゃんを幸せにしてるわけじゃないんだ、って事に気付いちゃったから」


「だけど、それは憂ちゃんが優しいから……」


私が反論しようとすると、憂ちゃんが私の唇に右手の人差し指を当てた。
それ以上は言わないで、って事なんだろう。
だけど、私はその憂ちゃんの言葉に反論したかった。
唯さんを幸せにしたのは、確かに憂ちゃんの『お試しお願い』の効力かもしれない。
憂ちゃん自身が唯さんの幸せのために、何かをしているわけじゃないのかもしれない。

それでも、唯さんのために、誰かのために、
自分の『お試しお願い』を使える事自体が、憂ちゃんの優しさなんだと私は思う。
私は『お試しお願い』も『一生に一度のお願い』も、自分のために使う事しか考えてなかった。
誰かのために使おうだなんて、全く思いも寄らなかったんだもん。
誰かのために自分のチャンスを使える事、それこそが憂ちゃんの優しさの証明なんだ。


「私は優しくなんてないんだよ、梓ちゃん」


優しい微笑みを浮かべて、憂ちゃんが自分の優しさを否定する言葉をまた口にする。
それを認めたくなくて私が首を横に振ろうとすると、急に全身に温かさを感じた。
柔らかさと温かさが私を包む。
憂ちゃんに抱き締められたんだって気付いたのは、五秒くらい経ってからだった。


「憂……ちゃん……?」


突然の事にちょっと驚きながら、私は憂ちゃんに訊ねてみる。
私を抱き締めた理由は答えずに、憂ちゃんは私の耳元で囁くように話を続けた。

117: 2012/12/12(水) 19:01:59.66
「私ね、怖かったんだよ、梓ちゃん。
お姉ちゃんがどんどん幸せになっちゃうのが。
私が何もしなくても、すっごく幸せになっていくのがね……。
とってもね……、怖かったんだよ……。

ううん、お姉ちゃんが幸せなのは凄く嬉しいんだ。
私が居ない所でもお姉ちゃんが元気で笑ってるって思える事自体は安心出来るの。
いつまでも元気で幸せなお姉ちゃんで居てくれるなんて、とっても嬉しい。
それが『お願い』の効力でも何でも、お姉ちゃんが幸せなら私は嬉しいんだよ?

でもね、私、気付いちゃったんだ。
『一生に一度のお願い』を叶えて貰った後は、何もかも忘れちゃう決まり事だよね?
叶えて貰った『お願い』の事も含めて、あった事の全部を忘れちゃう……。
そう思ったらね、怖くなっちゃったの。
『お願い』を叶え終わって何もかも全部忘れちゃった後、
『お願い』の効力で幸せそうなお姉ちゃんを見て、私はどう思うんだろうって。

幸せそうなお姉ちゃんの姿が見られるのは、勿論嬉しいよ。
だけど、思ったんだ。
私が何もしなくても幸せそうにしてるお姉ちゃんを見て、
お姉ちゃんのためにそれ以上の何かしようと思えるのかな、って。

だって、私が何もしなくても、お姉ちゃんは幸せな笑顔を見せてくれるんだよ?
大好きな笑顔を見せてくれるんだよ?
私、きっとそれだけで満足しちゃうと思うんだ。
きっとお姉ちゃんのために何かしようと思わなくなっちゃう。
お姉ちゃんの事をどんどん考えなくなっちゃう。
お姉ちゃんが私の中から居なくなっちゃう……。
そう思うとね……、胸の中が不安でいっぱいになっちゃって、
『一生に一度のお願い』をお姉ちゃんのために使えなくなっちゃったんだ……」


話している間、憂ちゃんの身体は震えていた。
その考えは憂ちゃんを本気で不安にさせていたんだろう。
普段、優しい笑顔を浮かべている憂ちゃんの身体を、こんなに震わせてしまうくらいに。


『お姉ちゃんが私の中から居なくなっちゃう』


憂ちゃんはそう言った。
勿論、現実に唯さんが憂ちゃんの心の中から居なくなるわけじゃない。
唯さんをあんな大事に思ってる憂ちゃんに、そんな事があるわけがない。
でも、憂ちゃんの言おうとしてる事は私にもよく分かった。
憂ちゃんはきっとこういう意味で言おうとしたんだと思う。


『お姉ちゃんを大切にしたい気持ちが無くなっちゃう』って。


その憂ちゃんの考えはこんな私にもよく分かった。
ううん、こんな私だからこそ、痛いくらいに分かっちゃったんだ。
手を伸ばしても届かない物を欲しいと思っていた私だからこそ……。

118: 2012/12/12(水) 19:04:01.72
やっぱり。
私は、憂ちゃんを優しくないとは思わない。
我儘だとも思わない。
憂ちゃんは唯さんの事を心の底から大切にしてる。
単純にお願い出来ないくらい、唯さんの事を大事にしようとしてる。
それは間違いなく憂ちゃんの優しさで、そんな選択が出来る憂ちゃんと知り合えた事を誇りに思えた。
まだ数日の付き合いだけど、そんな考え方が出来る子が居たんだ……。
だったら、私は……、私も……。


「憂ちゃんは……」


憂ちゃんの胸の中で、私は小さく声を出した。
憂ちゃんは望んでないかもしれないけど、この気持ちだけは伝えなきゃいけない気がした。
どうしても、想いを伝えたかったんだ。


「憂ちゃんは優しいよ」


私がそう伝えると、憂ちゃんは自分の胸の中から私を解放した。
私の両肩に手を置いて、複雑そうな表情を浮かべて私と視線を合わせる。
それから、私は……。
……。

深呼吸。
私はまだ残っている涙の跡を拭ってから、憂ちゃんの瞳をまっすぐに見つめる。
それから、私は……、私は、笑ったんだ。
上手く笑えてる自信なんて無い。
自分の笑顔に説得力がある気もしない。
でも、笑顔を見せなきゃいけないって思った。
逃げていた私。
泣いていた私。
そんな私じゃ憂ちゃんの優しさを証明出来ないから。
私は笑顔を憂ちゃんに向けるんだ。
あんまり上手く出来てない笑顔だと自分だと思うけど、それでも……。


「梓ちゃん……」


憂ちゃんが少しだけ戸惑った表情を見せる。
私の笑顔の意味が掴めてないんだろうか。
それとも、やっぱり私の笑顔がちぐはぐだったのかも。
私の想いを上手く伝えられなかったのかな……?

そうして私の胸に不安が生まれ始めた頃、
憂ちゃんはまた勢いよく私の頭を自分の胸の中に抱き締めた。
憂ちゃんが私の笑顔をどう捉えたのかは分からない。
単に私をまた抱き締めたくなっただけかもしれない。
でも、確かに私は見たんだ。
私を抱き締める一瞬前の憂ちゃんの表情が、今まで見た中で一番輝いた笑顔だったのを。


「ありがとう、梓ちゃん……」


憂ちゃんが私の耳元でそう優しく囁いてくれた。

119: 2012/12/12(水) 19:04:29.74





私は憂ちゃんの胸の中に抱き締められて、
しばらくそのままの体勢でお互いの体温を感じていた。
私を抱き締めている間、憂ちゃんは私に何も訊ねなかった。
私が急に涙を流した理由も、大声で叫んだ理由も訊ねずに私の頭を撫でてくれた。
同い年の女の子に頭を撫でられるのなんて恥ずかしい。
そんな気持ちは勿論あったけど、憂ちゃんに撫でられていると不思議と心が落ち着いた。
もしかしたら、私は自分が思ってる以上に子供なのかもしれない。

ううん、私は結局、何も分かってなかった子供だったんだよね……。
ぶつけ合うって程じゃないけど、憂ちゃんと話せて、
少しでも本音を交わせて、やっと少しだけ分かりかけてきた気がする。
私が本当に欲しかったものは、ひょっとしたら……。


「ねえ、憂ちゃん……」


憂ちゃんに頭を撫でられながら、私は小さく、
でも、精一杯の決意を込めて、口を開いてみる。
まだ完璧には固まっていない想い。
自分自身でもはっきりしていない気持ち。
それをもっと確かにするためにも、声に出して想いを言葉にしようと思った。
自分自身の気持ちを、自分の耳と憂ちゃんの耳に届けたかった。


「うん、何?」


憂ちゃんが手の動きを止め、私の頭の上で頷いたのを感じる。
私は深呼吸をしてから、気持ちを声に乗せていく。


「私ね、将来、音楽が関係する職業に就きたかったんだ。
ギターを弾くのは周りじゃ結構上手な方だったし、上手に演奏出来ると嬉しかったから。
だから、ずっと音楽を続けたくて、そんな夢を持ってたの。
思い返してみると、何だか単純でちょっと恥ずかしいけどね」


「ううん、素敵な夢だと思うよ、梓ちゃん」


「ありがとう、憂ちゃん。
でもね、最近、本当にその夢でいいのかな、って思うようになってたんだ。
私は本当に音楽を続けたいのかなって」


「……どうして?」


「私ね、一緒に演奏する友達が居たんだよね。
あんまり器用な子じゃなかったんだけど、セッションは楽しかったし、
たまに驚かされるくらい上手な演奏を聴かせてくれる事もあったんだ。
本当に楽しかったなあ……。
酷い演奏になる事も多かったけど、とっても楽しかった……。
ずっと二人で音楽を続けられたらいいな、って思ってたんだ……。

でもね、夏休み前くらいにね、その子に言われたの。
『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね』って。
勿論、受験は大事だと思ってるよ。
でも、勉強の合間に少しくらい二人で演奏出来るはずだって思ってた。
そのくらいの時間の余裕くらい、あるはずでしょ?
だから、ショックだったんだよね。
私達の夢は受験なんかに邪魔されるくらい小さなものだったの?
って、その子に問い詰めたい気持ちでいっぱいになっちゃうくらいに。

だけど、問い詰められなかったんだ。
怖かったんだ、その子から本当の事を聞くのが。
『高校生になってからも演奏する暇は無いと思う』、
なんて言われたらどうしようって……。
その子、最近、他の夢を見つけたみたいだったから余計にね……。

でも、そんなもやもやを抱えたままなのも辛くて、
耐えられなくなって来て、それで今日、その子の家に確かめに行ってみたの。
その子の気持ちを……」

120: 2012/12/12(水) 19:05:12.67
言葉を止め、私はあの子の家で見つけた手紙の事を思い出す。


『わたしじゃ、あずさの足をひっぱっちゃう』

『ホントにごめん』


それは私達の、ううん、私の夢の終わりを告げる言葉。
思い出すだけで息が苦しくなって、胸が激しく痛む。
また大声で泣き出しそうになってしまう。
でも、駄目。
もう泣いたら駄目だよ、私。
これ以上、何も出来ないなんて駄目なんだから……!

そう思うのに、想いを言葉に出来ない。
口を開くとまた大声で泣き出しそうになっちゃってる。
何も、出来なくなる。
もう……、何やってるのよ、私は……。
でも、もう私はまた涙を……。

瞬間、私の頭に置かれた温かさがまた動くのを感じた。
優しく包み込まれるように頭を撫でられる。
憂ちゃんが私の頭を撫でてくれる。


「いい子、いい子……」


赤ちゃんをあやすみたいに憂ちゃんが私の頭を撫で続ける。
憂ちゃんの温かさと優しさが、私の頭から全身に広がっていく。
それだけで私の涙は何処かに飛んで行ってしまった。
やっぱり私はまだまだ子供なんだろう。
こんな事で涙が出ちゃうくらい嬉しくなっちゃうなんて……。
って、折角涙が引っ込んだのに、別の理由で泣いてちゃ意味が無いよね。
私は一息吐いてから、何とか言葉を出したけど、
それは私が言おうとしてた事とは全然違った言葉だった。


「もう……、そんなに子供扱いしないでよ、憂ちゃん……」


ああ……、私ったら何を余計な憎まれ口を叩いちゃってるのよ……。
憂ちゃんは私のためを思ってやってくれてる事なのに……。
でも、照れ臭いのは確かだし、ああ、もう……!
そうして、私は憂ちゃんの胸の中で自分の顔が熱くなるのを感じていたけど、
憂ちゃんは気を悪くした風でもなく、私の頭を撫でる手を止めてから言ってくれた。


「ごめんね、梓ちゃん。
つい自分がされると落ち着く事を梓ちゃんにしちゃったみたい。
私が悲しい時や寂しい時にね、お姉ちゃん、私にいい子いい子してくれるんだよ」


「唯さんが憂ちゃんに……?」


「うん、そうなんだよ。
私って結構泣き虫だから、お姉ちゃんによく慰めてもらってたの。
そのせいなのかな?
今でもお姉ちゃんにいい子いい子されるとすっごく落ち着くんだ。
梓ちゃんは落ち着かない?」


「落ち着かないわけじゃ……ないけど……」


「よかった」

121: 2012/12/12(水) 19:05:42.77
そう言うと、憂ちゃんはまた私の頭を撫で始めてくれた。
照れ臭さはまだあるけど、心が落ち着くのも確かなんだよね……。
私は開き直って、憂ちゃんの手のひらの温かさに心を落ち着かせてもらう事にした。
まずは私の気持ちを憂ちゃんに伝える方が先決なわけだし……。

それにしても、憂ちゃんが唯さんを慕う理由がちょっと分かった気がする。
まだそんなによく知ってるわけじゃないけど、
唯さんは憂ちゃんにとって本当にいいお姉さんなんだろう。
今まで軽音部を見学させてもらった限りだと、唯さんは少し変わった人にしか見えなかった。
練習のし過ぎでライブ前に声嗄れちゃうなんて、天然って言葉じゃ片付けられない。
でも、きっとそれだけの人じゃないんだよね。
そうじゃなきゃ、憂ちゃんがこんなに唯さんの幸せを願うわけないもん。

憂ちゃんは唯さんに頭を撫でられると落ち着くから、私の頭を撫でてくれてる。
という事は、間接的に唯さんが私の心を落ち着けてくれてるって事でもあるのかな?
優しくて思いやりのある憂ちゃんを形成してるのは唯さんでもあるんだよね。
何だかまた唯さんに興味が湧いてきた。
ううん、唯さんだけじゃなくて、キャサリンさんを含めた軽音楽部の皆さん全員に。
きっとあの軽音楽部には、私の知りたい何かがあると思うから。
また見学に行きたいな……。

でも、今はそれより先に、憂ちゃんに私の想いを伝える時だった。
憂ちゃんの手のひらに勇気を貰いながら、私はまた言葉に想いを乗せる。

124: 2012/12/15(土) 19:04:46.29
「それでね……。
私と音楽を一緒にやってたその子なんだけどね……。
その子の部屋でなんだけどね……。
見つけたんだ、手紙を。
便箋に私の名前が書かれた手紙を……。
悪いと思ったんだけど、中身を確認せずにはいられなかったんだ。
その子の本音が知りたかったから、今の自分の状態をいい事に隠れ見ちゃったの。
最低だよね、私……。

それで手紙にはね……。
『ごめん』って書いてあったんだよ。
『ごめん』って……。
終わっちゃったんだ、って思ったなあ……。
私達の夢……、私の夢……、ずっと叶えたかった夢が終わっちゃったんだって。

辛かったし、悔しかったんだけど、でも、本当は心の何処かで思ってたんだ、私。
ずっとずっと前から思ってたんだ。
私の実力が足りなかったから、私の演奏が未熟だから、
その子は音楽をやめようとしてるんじゃないかのかな、って。
私にもっと実力があれば、その子に夢を信じさせてあげられたはずじゃないかって。
私が天才なら、私と一緒に音楽を続ける自信をその子に待たせてあげられたはずじゃないかって。
そんな事ばかずっと考えてて……。
だからね、私は音楽の才能が欲しかったんだ。
才能があれば、またその子と楽しく音楽が出来るはずだって思ってたんだ。
『一生に一度のお願い』もそれにしようかって考えちゃうくらいに……」


その言葉は情けなかった私の感情の吐露。
私自身が見たくなかった自分。
憂ちゃんに見せたくなかった自分。
今度こそ私はその自分と向き合わなきゃいけなかった。
自分が本当に求めていた物は何だったのかを考えるために。
私の本当の気持ちを憂ちゃんに知ってもらうために。
だから、考えていた思いを言葉に乗せ、自分の耳に届ける事で再確認していく。
私の本当の気持ちを。

今までより少しだけ強く。
憂ちゃんの胸の中に包み込まれた。
私の頭をゆっくりと撫でながら、憂ちゃんが優しく訊ねてくれる。

125: 2012/12/15(土) 19:05:15.54
「ねえ、梓ちゃん……?」


「何、憂ちゃん?」


「才能って……、欲しいよね。
私にも分かるよ、梓ちゃん。
私もね、お姉ちゃんを見てていつも羨ましくなるんだ。
お姉ちゃんはいつも私を喜ばせてくれるの。
私には思いも付かなかった素敵な方法で、周りの人達を幸せにしてくれるの。
そんな……、すっごいお姉ちゃんなんだよ。
皆を笑顔にしてあげられる才能を持った素敵なお姉ちゃんなの。

だからね、私もお姉ちゃんがすっごく羨ましいんだ。
私もお姉ちゃんみたいに周りの人達を笑顔にしてあげたい。
私もお姉ちゃんが私にしてくれたみたいに、お姉ちゃんを笑顔にしてあげたいもん。
才能を持ってる人は羨ましくなっちゃうよね……」


それはとても意外な言葉だった。
口振りからしても、私の事を慰めてるわけじゃなくて、本気でそう考えてるみたい。
私からは才能に満ち溢れてるように見える憂ちゃんでも、そう考える事があるんだ……。
ううん、ひょっとしたら私の考え方がおかしかっただけなのかもしれない。
憂ちゃんには音楽の才能がある。色んな才能がある。
人よりちょっと上手にギターを弾けるレベルの私よりも、ずっとずっと才能がある。
それは間違いないと思う。
でも……。

私はまとまりかけたその想いを言葉にしようと口を開く。
だけど、私が言葉を口に出すより早く、憂ちゃんが言葉を続けていた。
偶然なのか、必然なのか、その言葉は私が考えていた事とよく似た言葉だった。


「音楽の才能が欲しい梓ちゃんの気持ち、私にもよく分かるよ。
すっごくよく分かるよ……。
だけど、私、梓ちゃんに一つだけ聞かせてほしいんだ。
物凄い音楽の才能があれば、梓ちゃんのお友達も音楽を続けてくれるかもしれないよね?
将来、音楽が関係する職業に就けて、ずっとずっと音楽を続けられるかもしれないよね?
そうなったら梓ちゃんも嬉しいよね?

でもね、私、思うの。
それって本当に梓ちゃんが叶えたい夢だったのかなって。
梓ちゃんが本当に欲しかったものだったのかなって……」


その言葉は憂ちゃんが憂ちゃん自身に浴びせ掛けてるみたいにも聞こえた。
ううん、きっと憂ちゃんは実際にも自分自身に問い掛けてるんだと思う。
求めた才能を手に入れて、それで本当に幸せなのかって。
求めていたものは本当にそれだったのかって。
私が、憂ちゃんが、二人が叶えたい夢は本当にそれなのかって。

私が黙り込んでいたせいか、憂ちゃんの腕から少しだけ力が抜けた。
不安そうな声色混じりに憂ちゃんが続ける。


「ごめんね、梓ちゃん……。
知り合ってまだそんなに経ってない私が偉そうに言っちゃった……。
でも、これが私の考えなんだって事だけは、梓ちゃんに知ってほしかったんだ。
私の気持ち、知っておいてほしかったんだ。
本当はもっと落ち着いた時に話すべきだったよね?
梓ちゃん、今日、とっても悲しい事があったのに……。
でもね、私達に残された時間はもう……」

126: 2012/12/15(土) 19:06:10.75
瞬間、私は腕を憂ちゃんの腰に回した。
強く強く、腕に力を込める。
私達に残された時間を手離さないために。
やっと本音で語る事が出来た想いを、もう嘘で誤魔化さないために。
軽く深呼吸してから、私は憂ちゃんから身体を離す。
今はお互いの体温を感じるよりも、視線を交わしていたかったから。
視線と言葉と心で話し合いたかったから。


「ありがとう、憂ちゃん」


言葉に込める。精一杯の想いを。
見つめ合う。出来る限りの笑顔を浮かべて。
繋げる。二人の心を。

憂ちゃんは……。
まだもう少しだけ不安そうな表情をして、
目尻に悲しみの雫を浮かべながらも、でも……。
憂ちゃんは、すぐに優しく笑ってくれた。
いつも私に向けてくれていた素敵な笑顔を私に向けてくれた。

だから、
私も憂ちゃんに、
自分の想いをまた伝えられるんだ。
無理して浮かべたわけじゃない、
とても自然な笑顔を見せて。


「憂ちゃんの言ってくれてる事……、私にも分かるよ。
私が本当に欲しかったもの……。
それはね、きっと才能より手に入れるのが難しいものだったんだと思う。
憂ちゃんが話をしてくれて、私、やっと分かってきた気がする……。
だから、ありがとう、憂ちゃん。
私ね、後少しで『一生に一度のお願い』が見つけられるかもしれないんだ」


「ううん、そうじゃないよ、梓ちゃん。
『お願い』が見つけられるのは、梓ちゃんがちゃんと自分の事を考えたからだよ。
悲しい事があっても、辛い事があっても、ちゃんとずっと考えてたから。
簡単に『お願い』を決めたりしないで、自分と向き合ってたからだって思うな。
だから、私は別にお礼を言われる事なんて……」


「違うって、憂ちゃん。
私が自分と向き合えたのは、憂ちゃんが居てくれたおかげ。
唯さんの軽音楽部の見学にも嫌な顔せずに付き合ってくれたし、
私が悩んだ時には一緒に悩んでくれたし、
こんな急に泣き出したりする自分でも面倒だと思う私に付き合ってくれて……、
そのおかげで私はやっと自分の『お願い』と『夢』を見つけられる気がするんだ。
私がどうにか全部を投げ出さずにいられたのは、憂ちゃんのおかげだよ」


「でも、それは梓ちゃんが頑張ったからで……」


「ううん、憂ちゃんが私を助けてくれたからだよ……。
って、これじゃ切りがないね……」


「うん、そうかもね……。
だったら、梓ちゃん、こういうのはどう?
梓ちゃんが『お願い』を見つけられそうなのは、私と梓ちゃんの二人が頑張ったから。
二人で一生懸命頑張ったから。
そういう事にするのはどうかな?」


「二人で?」


「うん、二人で」

127: 2012/12/15(土) 19:06:43.25
二人で……、かあ。
私としては憂ちゃんに支えてもらった感覚しかないけど、
二人で頑張ったという考え方はとても素敵な考えだと私は思った。
私は頷いて、憂ちゃんに笑顔を向ける。


「うん、じゃあ、そういう事にしちゃおうか、憂ちゃん」


「そういう事にしちゃおうよ、梓ちゃん」


二人で笑い合う。
多分、知り合って初めて、お互いに心の底からの笑顔を向け合えた。
やっと辿り着けた私達の笑顔の時間。
もうすぐ私達が一緒に居られる時間は終わってしまう。
『チャンスシステム』が終わるまでの時間はとても残り少ない。
でも、残り少ないからこそ、私は憂ちゃんと一生懸命に『一生に一度のお願い』を探したい。
今度こそ、心の底からの笑顔で。

……本当は。
もうほとんど見つかってるんだけどね、私の『お願い』。
その『お願い』で確定だと自分でも思う。
でも、それで決めちゃうのも勿体無いよね。
残された時間は少ないけど、まだ時間は残されてるんだから。
考えるための時間は残されてるんだから。
時間いっぱいまで憂ちゃんと一緒に居て、憂ちゃんとの時間を過ごして、
それから、完全な自信を持って、その『お願い』を叶えて貰いたいな、って私は思うんだ。

128: 2012/12/15(土) 19:07:09.88





二人で笑顔を向け合った後、私はふと思い付いて、
憂ちゃんに私のギターを軽く弾いてもらう事にした。
憂ちゃんは少し恥ずかしがっていたけど、私が強く頼むと折れてくれた。
私が夢を見つける手伝いが出来るなら……、と恥ずかしそうな笑顔を浮かべて。
我ながら我儘な事を言っちゃったなあ、とは思うんだけど、
憂ちゃんの演奏はどうしても聴いておきたかったんだよね。

無理を言って聴かせてもらった憂ちゃんの演奏はやっぱり上手かった。
劇的に上手いというほどじゃないけど、少なくとも素人の演奏には思えない。
私がギターを弾き始めた頃はもっともっと下手だったしね。
憂ちゃんが本気で音楽に取り組むようになったら、
私なんか簡単に抜かれてしまって、すぐに手の届かない存在になっちゃう気がする。
でも、多分、憂ちゃんが音楽で大成する事は無いんどゃないかな、と思う。
憂ちゃんが叶えたい夢は、音楽の道とは別の場所にあるから。
もっと大切な物が憂ちゃんの胸の中にはあるから。
そして、多分、私も……。

それにしても。
憂ちゃんは本当に優しい子なんだ、って思った。
自分自身で自分を優しい子だと思いたいために、
自分の優しさを主張してくる子はたまに見かけるけど、憂ちゃんはそうじゃない。

例えば、そう……。
憂ちゃんが初めて私のギターを手に取った時、こう言っていた気がする。
『ギターをチューニングするものだなんて知らなかった』って。
勿論、チューニングという行為自体は知ってたんだろうけど、
日常的に行うものだとは知らなかった、って意味の言葉なんだと思う。
それくらい憂ちゃんはチューニングを知らなかったんだよね。

でも、今日、憂ちゃんはこう言っていた。


『梓ちゃんのギターのチューニングをしてみたんだ。
お姉ちゃんのギターでした事があるだけだから、ちょっと自信は無いんだけど……』


矛盾した言葉。
憂ちゃんらしくない嘘の言葉だった。
ギターのチューニングをよく知らなかったという言葉と、
唯さんのギターのチューニングをした事があるという言葉。
私は後者の方が嘘なんだと思ってる。
憂ちゃんはきっと私にギターを弾いてもらいたくて、一人でチューニングをしたんだ。
唯さんのギターのチューニングをした事があるって嘘を吐いてまで。
多分、私の部屋に置いてあるギターの本を読んで、四苦八苦しながら……。
それでも、憂ちゃんはそれを私に報告しなかった。
私に気を遣わせないようにしたかったんだろうな、って思う。
あくまで自然に私にギターを弾いてもらいたくて……。

129: 2012/12/15(土) 19:07:41.79
もう……。
憂ちゃんってば、どうしてこんなに優しいのかなあ……。
勿論、その理由は私にも分かりかけてる。
大好きなお姉さんの唯さんに近付くためなんだ。
憂ちゃんの優しさは、きっと唯さんとの生活の中で培われたものなんだよね。
だから、私は明日、今まで掛けていた沢山の色眼鏡を外して、
心の底から素直に唯さん達の軽音楽部の見学に行きたいと思う。
そして、出来る事なら、学園祭のライブまで見届けて……。

そこまで考えた瞬間、私は一つ大変な事に気付いてしまった。
他でもない唯さん達の学園祭のライブの成否の事だ。
唯さんが声を嗄らしてしまって、代理のボーカルの澪さんも何だか頼りない。
なのに、律さんと紬さんには焦ってる様子も無くて、このままだとライブの失敗は目に見えてる。
うう……、あの軽音楽部の皆さんのライブの失敗は見たくないなあ……。

それでも、今日まで心の何処かで少し安心もしていた。
憂ちゃんが『一生に一度のお願い』で唯さんの幸せを願ったはず、って今日まで思ってたから。
それなら神様の何かの計らいで、ライブ当日に唯さんの嗄れた声が都合よく治ったりするんじゃ……。
なんて、我ながら都合のいい期待をしてたんだよね。

だけど、憂ちゃんの言葉が本当なら、
憂ちゃんは唯さんの幸せを『お願い』にしていないらしい。
こうなると私のしていた期待は完全にお門違いになってしまう。
そもそも『お願い』自体をしてないんだから、期待するだけ全くの無駄になっちゃうわけだし。
だとしたら、ライブが失敗する可能性の方がずっと大きいじゃない……!

湧き上がる不安に耐え切れず、
私がそれを口にすると憂ちゃんは笑顔で応じてくれた。


「お姉ちゃん達を信じてあげて、梓ちゃん。
お姉ちゃん、ライブの成功のために頑張ってるんだから、きっと大丈夫だよ。
それにね、もしもライブが失敗しちゃっても、お姉ちゃん達はそれでいいんだと思うな」


失敗しても構わない……?
あの軽音楽部の人達の失敗なんて、私は見たくないよ……。
今の私にはまだ憂ちゃんのその言葉の意味は分かりそうにないな……。
でも、唯さん達を信じ切ってる、その憂ちゃんの笑顔だけは私の胸に強く残った。
これは何としても軽音楽部の皆さんのライブを見届けなきゃいけないよね。
もしかしたら、そこにこそ私の『お願い』の最後のきっかけがあるかもしれないから……。

130: 2012/12/15(土) 19:08:33.31


今回はここまでです。
四日目の終了です。
期間も残す所、後三日。
書き手も頑張ります。

梓「サナララ」【後編】