梓「サナララ」【前編】
133: 2012/12/22(土) 19:09:14.46





「りっちゃん、これはここに置けばいいのかな?」


「うん、そこそこ。そのままそこに置いといてくれ。
いやー、助かるよ、ムギ。
私一人じゃどうしてもきつい所があってさ、付き合ってくれてありがとな。
しっかし、前から思ってたんだけど、ムギって力持ちさんだよなー」


「そうかな?
自分じゃよく分からないんだけど……」


「うん、力持ちさんだと思うぞ?
普段からキーボードを持ち運んでるだけあって、力持ちで頼りになるよ。
こりゃいいお母さんになるぞー、ムギは」


「お母さん……?」


「あっ、今ムギ、お母さんに力が必要なのかな? って思っただろ?
意外と必要なんだぞー。
まあ、特にうちのお母さんの話になるんだけどさ。
うちのお母さんさ、すっげー力持ちなんだよ。
お米も平然と持ち上げるし、重い洗濯物も軽々持ち運んでるんだよな。
私が小学生の頃の話なんだけど、弟と一緒に抱き上げたりしててくれたもんな。
母は強しってやつだな、マジで。
そういうわけで、お母さんには力が必要なのだよ。
分かったかな、ムギくん?」


「うふふ、分かりました、先生。
でも、そうなんだ。
りっちゃんのお母さんって、素敵なお母さんなんだね」


どうかなー、と呟きながら律さんが苦笑する。
紬さんはその律さんの横顔を見て、嬉しそうに笑った。
活発な律さんとお嬢様っぽい紬さん……。
全然違ったタイプの二人に見えるから、二人っきりの時にどんな話をするんだろう、って私は思ってた。
正直、上手くやれてるのか、ちょっと不安だったくらい。
でも、そんな私の不安なんて、傍から見てるだけの人間の考えなんて、浅はかだったんだね。
その事が私はすっごく嬉しい。
だって、律さんと紬さん、二人ともとても楽しそうなんだもん……。

桜高学園祭の前日。
私と憂ちゃんは軽音楽部の部室……、じゃなくて、一年生の教室に来ていた。
部室に向かう途中、私達は廊下で部室じゃない何処かに向かう律さんと紬さんの姿を見つけた。
だから、私達は部室に向かうより先に、二人の背中を追う事に決めたんだ。
学園祭のライブも近いのに、二人で何をしているのかが気になったから。

何をしているのかは教室に到着してすぐに分かった。
教室とはとても思えないおどろおどろしい空気がその場に漂ってたんだ。
勿論、変な意味でのおどろおどろしい空気じゃない。
単に教室が暗幕に覆われて、薄暗い雰囲気にされてるだけの事だった。
教室には人体模型やマネキンの生首が配置されていて、
蝙蝠やカラスの模型が天井から吊るされたりもしている。
何故か北海道土産によく見る熊の置物も配置されていたのは、ご愛嬌……なのかな?
熊の置物はともかく、この教室の様子から察するに間違いない。
律さんと紬さんはお化け屋敷の準備をしているんだ。
廊下側の壁に『悪夢の館』って書いてあるしね……。

一応、訊ねてみると、憂ちゃんが『そういえば……』と応じてくれた。
前に唯さんが『りっちゃん達、お化け屋敷やるらしいんだー』と自宅で羨ましそうに話していたらしい。
何でも唯さんも学園祭でお化け屋敷を出し物にしたかったのに、多数決で負けてしまったんだとか。
あー……、唯さんなら凄くやりたそうだよね……。

134: 2012/12/22(土) 19:09:43.00
そっか……。
当然だけど、学園祭は部活動の出し物をするだけの場所じゃないんだ。
クラスの出し物、学園祭のためだけに結成された団体の出し物、色んな出し物がある。
私はクラスの出し物にしか参加した事がなかったから、その辺がすっかり盲点だった。
普通はクラスか部活動の出し物……、
そのどちらかに専念するものなんだろうと思うけど、
律さんと紬さんはそのどちらともに参加するつもりなんだ……。
ううん、律さんと紬さんだけじゃないか。
憂ちゃんによると、唯さんもクラスで焼きそばを作って販売するらしい。
『お姉ちゃんの作った焼きそば、食べてみたいなあ……』と寂しそうに苦笑していた。
今の私達の状態じゃ、焼きそばを売ってもらえないだろうしね……。

でも、それよりも何よりも、律さん達って凄いなあ、と私は思った。
今日は学園祭の前日。
つまり明日、律さん達は軽音楽部のライブに参加する。
私だったら、練習しても練習し切れないくらい緊張してしまうと思う。
下手すると、徹夜で練習しても足りない気がするな……。
特に律さん達はボーカルの唯さんが声を嗄らしてしまうというアクシデントの真っ最中なのに。
代理の澪さんがボーカルをしなくちゃいけないって不安材料が残っているのに。
律さんと紬さんは楽しそうだった。
楽しそうに、ライブと関係無い準備をしていた。
昨日だってそう。
凄いピンチのはずなのに、律さんと紬さん、唯さんは笑顔で楽しそうで……。
ピンチすらも楽しんでるみたいで……。

分からなかった。
私にはそれがどうしてなのかずっと分からなかった。
失敗する確率の高いライブを目の前にして、笑える感性が理解出来なかった。
正直、見学する軽音楽部を間違えたかも、って思ってしまった事もあった。
だけど……、今はちょっとだけ分かる気がする。
軽音楽部の皆さんだって、失敗したいわけじゃない。
出来る事なら大成功のライブをしてみせたいに違いない。
でも、皆さんにとっては、もっと大切な事があるんだよね。
もっともっと大切にしたい事があるんだよね。
ライブの成功よりも、もっともっと大切な何かが……。

だから、私はハラハラしながら、皆さんのライブを見届けたい。
ううん、ライブだけじゃなくて、ライブ以外の皆さんの行動を。
皆さんの、部活動を。


「ねえ、りっちゃん?」


ある程度、お化け屋敷の小道具の配置が終わったのか、
一息吐いた紬さんが、小さく首を傾げて律さんに声を掛ける。
律さんはそれに笑顔で応じた。


「ん? どうしたんだ、ムギ?」


「さっきから気になってたんだけど、そのキノコは何なの?
りっちゃんが迷惑じゃなかったら、訊いてもいい?」


それは私も訊ねてみたい事だったから、紬さんが訊ねてくれて助かった。
廊下で見つけた時から、律さんは何故か左のこめかみ付近にキノコのぬいぐるみを付けていた。
深緑色(……かな?)の色の傘に斑点が散りばめられた、いかにも毒々しいキノコのぬいぐるみ。
いくら何でも、アクセサリーにしては独特過ぎるよね……。
そう思って私が首を傾げていると、律さんが頭を掻きながら続けた。

135: 2012/12/22(土) 19:10:09.68
「別に迷惑なんかじゃないって、ムギ。
このキノコはさ、昨日、澪に貰ったんだよ」


「澪ちゃんに?」


「うん、澪に。
澪の奴さ、昨日、私の家にこのキノコを持って来たんだよ。
カラオケ屋でボーカルの練習しながらもさ、
お化け屋敷の準備の手伝いが出来ない事を気にしてたみたいなんだよな。
それでせめてものお詫びにって事で、お化け屋敷の小道具のつもりで持って来たらしい」


「お化け屋敷の小道具……なの?」


「ああ、そうみたいだな。
実は澪の奴、昔からキノコの外見が苦手なんだよな、食べるくせにさ。
「あの毒々しい形が怖いんだー」とか言ってたよ、確か。
まあ、そう言われると、怖い気がしないでもない気がしないでもない気も……。
そんなわけで、澪の中ではキノコはホラーなアイテムになるらしいぞ。
でも、流石に使い所が思い付かなくってさ、昨日は悩んだなー。
キノコをお化け屋敷にどう使えばいいんだ、ってそりゃ悩んだんだぜ?

だが、私は思い付いたね、思い付いちゃったね。
キノコの寄生されたキノコ人間って設定なら、結構怖いんじゃないかってな!
キノコノコノコー! とか呻き声を出すキノコ人間。
どうだ? 結構怖くないか?
ま、そんなわけで、澪に貰ったキノコを髪飾りにさせてもらう事にしたんだよ」


す……、凄い発想の転換だなあ……。
律さんって、ある意味凄い人なのかも……。
確かにキノコ人間って設定なら怖い気がしないでもない気も……。

紬さんはその律さんの言葉に目を丸くして、しばらく黙り込んだ。
両手を頬に当てて、何かを考え込んでるみたいだった。
ひょっとして、紬さんもキノコ人間を怖いと思い始めてるのかな……?
私は無言で憂ちゃんに視線を向けてみる。
憂ちゃんは私と視線を合わせて静かに笑ってから、また紬さんに視線を向けた。
憂ちゃんには紬さんの考えている事が分かってる、って事なんだろうか。
私は憂ちゃんに促されて、紬さんに視線を戻して次の言葉を待った。

十秒くらい経っただろうか。
不意に紬さんが口を開いて、私と多分律さんも考えていなかった言葉を口にした。


「りっちゃんって優しいよね」


「は、はあっ?
急に何だよ、それ……!
別に私は優しいとかそんにゃんじゃにゃくてだな……!」


律さんが顔を赤くして紬さんの言葉に反論した。
よっぽど驚いたのか、言葉をちょっと噛んじゃってる。
紬さんの突然の言葉に驚いたのは私も同じだった。
まさか急に紬さんがそういう事を言い出すなんて思ってもなかった。
私の事じゃないのに、何だか私が気恥ずかしい気持ちになってくる。

でも、不思議と私は納得もしていた。
そっか……、律さんは優しい人だったんだ……、って。
活発で大雑把に見えるけど、律さんは優しい人なんだよね。
私だって、初めて見た時から何となく気付いていた。
律さんは澪さんを本当に優しい視線で見守っていたから。
ずっと澪さんの事を考えてるように、少なくとも私には見えたから。
律さんは優しい人なんだ。
勿論、律さんの優しさに気付く紬さん自身も……。

紬さんが優しく微笑んで律さんの両手を取る。
穏やかで何の誤魔化しも無く思える真っ直ぐな言葉を続ける。

136: 2012/12/22(土) 19:10:45.38
「ううん、りっちゃんは優しい子だと思うの。
りっちゃん、澪ちゃんの事、すっごく大事に思ってるもん。
そのキノコだって、澪ちゃんの分も頑張ろうと思って髪飾りにしてるんでしょ?
澪ちゃんが歌の練習が出来るために、お化け屋敷とか他の事を心配させないように……」


「いや……、えっと……」


律さんが口ごもる。
誰かの真っ直ぐな感情を口先で誤魔化せるほど、律さんも器用な人じゃないらしい。
普段の姿があんな感じだから、誰かに褒められる事にも慣れてないんだろうな……。
不謹慎な気もするけど、何だか私は律さんに凄く親近感が湧いた。
私も誰かの真っ直ぐな感情を向けられる事には慣れてないから。
憂ちゃんと出会えて、戸惑う事も結構あったから。
今、律さんが何を考えているのか、私にはよく分かる。
何を感じているのかも。


「えっと……だな……」


律さんが顔を赤く染めたまま口を開く。
上手く言葉がまとまらないんだと思う。
多分、自分の中の感情に戸惑ってるんだろうな。
胸の中から湧いてくる嬉しさに。


「このキノコはアレだよ、ムギ……。
明日に向けて気合いを入れようと思って付けたやつなんだよな……。
澪の分も準備してやるぞー! ってつもりでさ……。
私にはボーカルのアドバイスとか出来ないから、
他の事でフォローしてやりたかっただけで、優しいとかそんなんじゃ……」


きっと律さんは自分で自分が何を言っているのか気付いてない。
その言葉が律さん自身の澪さんへの想いを物語っている事に。
素直な気持ちを口にしてしまっている事に。
でも、それでいいんだよね。
人の好意に慣れてなくて、自分の気持ちを表現する事に不器用な律さん。
そこもきっと軽音楽部の皆さんが惹かれてる所なんだろうから……。

律さんの言葉に紬さんがまた微笑む。
今度は今までの優しかった笑顔とは違った少し寂しそうな笑顔で。


「いいなあ、幼馴染みって……」


「そ、そうか……?」


急に寂しそうな表情になった事を不安に思ったのか、
律さんが頬の赤みを引かせて紬さんにおずおずと訊ねる。
紬さんがゆっくり頷いてから続けた。


「うん、すっごく羨ましい。
りっちゃんは澪ちゃんの事を大事にしてて、
澪ちゃんもりっちゃんを大切に思ってて、傍から見てて羨ましいな。
唯ちゃんも和さんって幼馴染みが居て、二人の間にはいい空気を感じるもの。
私にはずっと一緒に居る同い年の幼馴染みとか居ないから……。
年下の子には居るんだけどね、少し歳が離れててちょっと特殊な関係だから……。

だからね、りっちゃん達の事、羨ましいんだ。
幼馴染みっていいなあ、って思うの」

137: 2012/12/22(土) 19:11:13.62
「幼馴染みか……。
改めて考えてみた事は無いけど、そんなに羨ましいもんなのか……?」


「うん、すっごく!」


「そっか……、そうかもな……」


「無い物ねだりだって事は自分でも分かってるんだけどね。
今から幼馴染みなんて作れる物でもないし……」


「何を言ってるんだよ、ムギ」


「えっ?」


「えっ?」


紬さんが小さく呟き、私も釣られて呟いてしまった。
律さんが何を言おうとしてるのか分からなかったから。
幼馴染みなんて作れる物でもない、って紬さんの言葉に間違いはないはずなのに。
どうして律さんは自信満々に紬さんの言葉を否定出来るんだろう……?
その答えはすぐに真顔で応じた律さんの言葉で分かった。


「そりゃ今から同い年の幼馴染みを作るのは無理だけどさ、
長年連れ添った昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?
それこそ今からだって、さ。
私とムギが知り合ってまだ半年くらいしか経ってないけど、
これを十年、二十年と続けていけば、幼馴染みじゃないけど昔馴染みにはなれるじゃんか。
それじゃ駄目なのか?
幼馴染みと昔馴染み、どっちが上って話でも無い、って私は思うんだけど」


律さんの言葉に紬さんが押し黙る。
呆然とした表情で、律さんを見つめている。
律さんがまた不安気な表情を浮かべて、呆然とする紬さんに訊ねる。


「あ、私と昔馴染みなんて駄目……だったか……?
それなら、まあ……、仕方無いけど……」


瞬間、紬さんは首を左右に大きく振った。
お嬢様っぽい紬さんらしくない、激しい感情のこもった動きだった。
教室中に響くくらい、大きな声で紬さんが叫ぶ。


「ううん! そんな事無い!
そんな事無いよ、りっちゃん!
私、りっちゃんと昔馴染みになれるなんて、すっごく嬉しい!
嬉しいの!
りっちゃんこそ……、私と昔馴染みになるの、嫌じゃない?」


「いや、何でだ?
ムギは見てて面白いし、楽しい奴だし、
出来る事なら、これからずっと先も一緒に遊びたいな、って思うぞ?」


律さんの言葉に紬さんの表情がぱあっと輝く。
普段笑顔を浮かべている紬さんだけど、こんなに輝いた笑顔を見るのは初めてだった。
それくらい嬉しかったんだろう。
私の事じゃないのに、私まで嬉しくなってくるくらいの笑顔だなあ……。


「ありがとう、りっちゃん!
だったら、私、りっちゃんと昔馴染みになるね!
ずっとずっと一緒に居て、大切な昔馴染みになろうね!
そのためにも、明日のライブ頑張ろうね!
明日のライブ、大切な思い出にしようね!」


「おうよ!
まっ、先にお化け屋敷の準備をしなきゃなんだけどな!」

138: 2012/12/22(土) 19:11:43.57
そうやって律さんも眩しい笑顔になって、紬さんと笑い合った。
律さんと紬さん……、大切な二人の仲間達の姿。
笑顔の空間。
笑顔の連鎖。
気付けば私も笑顔になってしまっていた。

不意に。
私は視線に気付いてその方向に視線を向けた。
私に視線を向けていたのは、当然だけど憂ちゃんだった。
二人で視線を向け合う。
憂ちゃんは笑顔だったけれど、少しだけ寂しそうでもあった。
私も多分、憂ちゃんと同じ様な表情になったと思う。


『昔馴染みってやつなら、いつからだって作れるだろ?』


律さんの言葉が私の頭の中で響き続ける。
私も、作りたい。
大切な昔馴染みを今から作りたい。
他の誰でもないこの子に、私の昔馴染みになってほしい。
私はこの子の事が凄く大切だから。
凄く大切に思えるようになったから……。
それは叶わない、叶えて貰えない『お願い』なのかもしれない。
だけど、私はそう願った。
強く強く、そう願ったんだ。

140: 2013/01/14(月) 17:53:22.21





律さん達のお化け屋敷を後にして軽音楽部に向かう途中、
憂ちゃんが少し申し訳無さそうに、
「寄り道したい場所があるんだけど、いいかな?」と私に訊ねた。
唯さん達の練習の見学は勿論したかったけど、別に急ぐ事でも無いもんね。
逆に憂ちゃんが私に自分の意思を伝えてくれるようになった事の方が嬉しかった。
だから、私は笑顔を向けて頷いて、憂ちゃんと肩を並べてその場所に向かう事にしたんだ。


「はいはい、そこ、音が弱いわよ。
初めての学園祭で緊張する気持ちも分かるけど、音はきちんと強気にね。
練習の成果を出せない方が後々で後悔しちゃうでしょ?」


厳しさの中にも優しさを感じさせる言葉が部屋の中に響く。
言ったのは軽音楽部の中で見せる顔とは違う、
凛々しい表情と声色の大人の女の人……、キャサリンさんだった。
そう、憂ちゃんが寄り道したいと言っていたのは、
軽音楽部じゃなくて、吹奏楽部が活動してる方の音楽室だったんだよね。


「キャサリンさん、吹奏楽部の顧問もやってたんだ……」


それは単なる独り言のつもりだったんだけど、
私の言葉が聞こえていたらしい憂ちゃんが笑顔で頷いてくれた。


「うん、そうみたいなんだよ、梓ちゃん。
私ね、昨日、ちょっと前にお姉ちゃんが話してた事を思い出したの。
『軽音部に顧問の先生が来てくれる事になったんだ。
その先生はね、吹奏楽部の顧問もやってて皆に人気がある楽しい先生なんだよー』って。
そう楽しそうに話してたのを……。

だから、私、キャサリンさんの姿をどうしても見てみたくなっちゃったんだ。
私の前で見せてくれてた姿じゃなくて、軽音部での楽しそうな姿でもなくて、
吹奏楽部の顧問で桜高の皆さんに人気があるっていうキャサリンさんの姿を……。
我儘言っちゃってごめんね、梓ちゃん」


私はその憂ちゃんの言葉には首を振る事で応じた。
憂ちゃんが謝る必要なんて無いんだし、そのキャサリンさんの姿は私も見てみたかったから。
昨日、一人で軽音楽部に見学に行った時、
私はキャサリンさんが何度かギターを弾いたのを目にした。
正直、身体と胸が震えた。
年上の人だから当たり前ではあるんだろうけど、私なんかよりずっとずっと上手かった。
もしかすると、プロやインディーズでやっていけそうなくらい、キャサリンさんの腕前は見事だったんだ。
そんな腕前を持つキャサリンさんなのに、今は高校の音楽の先生をやっている。

勿体無いな、って正直思う。
もっと別の場所でその技巧を活かせるはずなのに、って。
昨日までの私はそう思ってた。
折角のギターの技巧を誰にも見せずにしておくなんて、勿体無いしとても悔しい。
壁を感じ始めてる私としては、特にその気持ちがあった。
昨日までは……。

でも……。
私の心は少しずつ変わり始めてるって、そんな気もする。
卓越した技巧を持つという事。
音楽的な才能を持つという事。
どちらも羨ましいし、私は今までそのどちらも喉が出るほど望んでいた。
『一生に一度のお願い』って卑怯な方法に頼ってでも、凄く手に入れたかった。

141: 2013/01/14(月) 17:54:09.87
けれど、それはやっぱり何かが違ってたのかもしれない。
卓越した技巧を持つキャサリンさん。
音楽的な才能を持つ憂ちゃん。
二人とも私の欲しい物を持ちながら、私が望んでいた道には進んでない。
多分、私が望んでいたものとは違う何かを大切にしているから、私と違う道を進んでるんだよね。
私は今、その何かを見たくて、キャサリンさんの姿を見つめている。
憂ちゃんの傍に居るんだ。


「……あれ?」


不意に私は考えていた事とは別の事を思い出した。
大した事じゃないのかもしれないけれど、気になり始めると止まらなくなった。
私はキャサリンさんの吹奏楽部の顧問としての姿を見たかったから、ここに居る。
吹奏楽部の顧問だって分かったのは、憂ちゃんが唯さんからキャサリンさんの話を聞いていたからだ。
つい最近、キャサリンさんが吹奏楽部の顧問になったって……。

あれ、おかしいなあ、計算が合わない……?
キャサリンさんが憂ちゃんのナビゲーターをしていたのは、つい最近の事のはずだよね?
うん、大体、二週間前くらいでよかったはず。
でも、憂ちゃんのナビゲーターをしてたのに、ちょっと前に軽音楽部の顧問になれた?
憂ちゃん以外の誰にも姿が見えない『石ころ帽子』を被った状態だったのに?
リレー方式で憂ちゃんがキャサリンさんのナビゲーターを引き継いでるはずだから、
少なくとも二週間以上前にはキャサリンさんが軽音楽部の顧問になってないとおかしい。
二週間以上をちょっと前と呼ぶかどうかは個人差があるだろうけど、
もっとよく考えたらキャサリンさんって唯さんの特訓をずっとやってたんだよね……?
顧問になるより何よりも、『石ころ帽子』の状態で唯さんの特訓なんて出来るはずがないじゃない……。

気になった私は憂ちゃんにそれを訊ねてみる事にした。
どうでもいい事なのかもしれないけれど、
心に引っ掛かりがある状態じゃ明日の学園祭に臨めないって思えたんだ。
明日の学園祭には、出来る限り何の悩みも無い素直な心で私は臨みたいんだよね。

憂ちゃんはその私の疑問の言葉を聞くと、
少し困ったような苦笑を浮かべながらも応じてくれた。


「詳しい説明を忘れてたみたいでごめんね、梓ちゃん。
実はね、チャンスシステムってリレー方式ではあるんだけど、
すぐにナビゲーターを引き継ぐ場合と引き継がない場合があるみたいなんだ。
前の人の『お願い』が叶うために時間が掛かる時とか、
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時とかには、しばらく間が空く事があるんだって。

私がキャサリンさんにナビゲーターをしてもらってたのは、
二週間前じゃなくて、それよりもうちょっと前の夏休みの頃だったんだよ」


なるほど、と思った。
それならキャサリンさんが憂ちゃんのナビゲータをやってても、時期的に問題無いよね。
でも、やっぱり結構いい加減なシステムなんだなあ……。
次の『対象者』の人がすぐに見つからなかった時、って、
そんなに行き当たりばったりなの、『チャンスシステム』って?
まあ、憂ちゃんの叶えて貰った『一生に一度のお願い』が、
時間の掛かるお願いだったって可能性もあるにはあるけどね。


「そうなんだ……。
ねえ、ひょっとして、憂ちゃんのお願いってそんなに手間が掛かるお願いだったの?」


それは私の口から出た何でもない軽口だった。
いい加減な神様だか誰だかに対する苦言みたいな言葉で、深い意味は込めてなかった。
でも、その私の言葉を聞いた憂ちゃんは、何故だかとても困った表情を浮かべてしまった。
私、変な事を訊いちゃったのかな……?
憂ちゃんのお願いって、本当にそんなに手間が掛かる変わったお願いなの?
ううん、憂ちゃんがそんな変わったお願いをするはず無いし……。

私は自分の軽口に後悔しながら、黙り込んでしまう。
憂ちゃんも困った表情を無理に笑顔に変えようとしてる。
折角憂ちゃんと一緒に居るのにまた気まずくなっちゃってる……。
ああ、もう……、駄目だよ、私。
こんなんじゃ、駄目。
私が変な事を訊いちゃったのが原因なら、ちゃんと憂ちゃんに謝らないと……。
丁度、私がそう思った時……。

142: 2013/01/14(月) 17:54:44.76
「謝る必要は無いわ」


部屋の中に厳粛な言葉が響いて、私と憂ちゃんは驚いてしまった。
そう言ったのは勿論私と憂ちゃんじゃなくて、真剣な表情をしたキャサリンさんだった。
キャサリンさんのその言葉も私に向けられたものじゃない。
さっき演奏で失敗した生徒の人に向けられた言葉みたいだった。
私と憂ちゃんはお互いから視線を離して、キャサリンさんに向け直した。


「ミスは誰でも起こしてしまうものだし、そんなに謝らなくてもいいのよ。
大事なのは自分のミスを自覚して、次こそ同じ失敗をしないように努力して修正する事よ。
貴方が努力して演奏してるのは皆知ってるんだから、ミスしてもそうそう責める事なんてしないわ。
皆、貴方を見ていて、知っているの。

だから、貴方もしっかり胸を張りなさい。
自身を持て、なんて簡単には言えないけど、せめて胸だけは張るの。
そうすれば前も見えるし、周りも見えて、少しずつ自信を持って演奏出来るようになるものよ。
貴方は貴方に出来る精一杯の事をやればいいのよ。
本番で縮こまって、練習して来た事の半分も出せないなんて後悔しか出来なくなるでしょう?
だから、しっかり……、ね?」


「……はいっ!」と言われた生徒の人が目尻を潤ませて強く返事をする。
悲しみで泣いているわけじゃなくて、感激で胸が詰まってるって感じの表情。
周りの人達も優しい視線で見守る。
そして、その生徒の人は、キャサリンさんに言われた通り胸を張った。
自信が持てたわけじゃないと思う。まだ不安でいっぱいだと思う。
でも、胸を張ったんだ、皆と学園祭を成功させるために。

キャサリンさん……。
憂ちゃんの言っていた通り、本当に格好いい大人の女の人なんだよね……。
軽音楽部で見せる顔は適当なようにも見えたけど、
それも一面なんだろうけど、それでもキャサリンさんは強い大人の顔も持ってる。
吹奏楽部の皆さんに勇気を与えられるくらいに。
多分、軽音楽部の皆さんにも勇気を与えてくれてるくらいに……。
私も……、もっと胸を張らなきゃ……!

私は胸を張って、決心を込めて大きな声を出す。


「あのね、憂ちゃん!」


「あのね、梓ちゃん!」


その言葉は憂ちゃんが私と同時に出した声に重なった。
憂ちゃんも私と同じく、キャサリンさんの言葉に感じる物があったのかもしれない。
私と憂ちゃんの視線がぶつかる。
言葉が重なってしまって次に切り出すのがちょっと難しかったけど、そういうわけにもいかないもんね。
私は出来る限りの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに自分のそのままの想いを伝える。


「えっと、先に私に話させてもらうね。
さっきの話なんだけど……、変な事を訊いちゃったみたいだったら、ごめんね、憂ちゃん。
『お願い』って自分の胸の中で大切にしなきゃいけないものだもんね。
無神経な事を言っちゃって、ごめん。
憂ちゃんが困る事なら、私、もう訊かないよ。

私、憂ちゃんともっと仲良くなりたいから……、
もっと色んな話がしたいから、私が変な事を言っちゃったらいつでも言ってね。
代わりに憂ちゃんも私に色んな事を訊いて。
私に答えられる事なら、何でも答えるから」

143: 2013/01/14(月) 17:58:20.84
そう、伝える。
胸を張って。
いつか本当の意味で胸を張れるように。


「ありがとう、梓ちゃん」


憂ちゃんが、笑顔を浮かべる。
胸を張って、まっすぐに私に視線を向ける。
本当の想いを込めて、言ってくれる。


「実を言うと私の『お願い』はね……、
梓ちゃんが言う通り叶うまでに時間が掛かるお願いだったんだよ。
正直に話せばよかったんだけど、まだそれは駄目、って思ったんだ。
まだ私や梓ちゃんのためにならないって思ったんだ。
梓ちゃんが本当に大切な『お願い』を見つけるまでは……。

だから……、私の『お願い』が何か梓ちゃんに伝えるの、
もうちょっとだけ……、もう少しだけ……、待っててくれる……?」


意外な言葉だった。
まさか私に自分の『お願い』を伝えるつもりだなんて……。
それも私のために黙っておこうと思っていてくれるなんて……。
いいのかな? って思った。
私にそんな事をしてもらう価値があるのかな、って。
私にそんな価値があるだなんて、まだ思えない。
でも、私が自分自身を否定するのは、
私の事を考えてくれている憂ちゃんを否定するって事でもあるよね……。
そんな事……、しちゃ駄目だよね……!

私は憂ちゃんの手を取って、額がぶつかるくらい間近で瞳と視線を合わせる。
胸を張って、見つめ合う。
想いを言葉に乗せる。


「うん……!
待つよ、憂ちゃん……!
でも、無理はしないでね。
憂ちゃんが私に伝えたいって本当に心から思った時、その時にでいいから。
私、憂ちゃんがそう思ってくれるような『お願い』を絶対に見つけるから……!
頑張るから……!」


「……うんっ、分かったよ、梓ちゃん!」


間近で視線を合わせ、手を握り合う私達。
笑顔の決心。
その私達の隣では……。
キャサリンさんの指導に奮起した吹奏楽部の皆さんが、ミスの無い見事な音楽を奏でている。

146: 2013/01/21(月) 18:52:44.14





憂ちゃんの作ってくれた美味しい朝ごはんを食べて、私は洗い物をしていた。
憂ちゃんにはいつも朝ごはんを作ってもらってるんだもん。
洗い物くらい私がやらなくちゃ、物臭にも程があるってものだよね。
それに私の着替えはもう終わってるんだから。
憂ちゃんが外着に着替えてる間、時間は有効活用しなくちゃ。
もう憂ちゃんの手伝いを出来る機会も、残り少ないんだし……。


「残り少ない……んだよね……」


スクランブルエッグが載っていたお皿を洗いながら、私は気付けば呟いてしまっていた。
憂ちゃんと出会ってもうすぐ一週間。
『チャンスシステム』の期限も多分一週間。
一週間を過ぎるとどうなるか分かってないけど、試した人はあんまり居ないらしい。
期限が過ぎたらどうなるのかを試すために、折角のチャンスをわざわざ棒に振る人は少ないだろうしね。
私だって試そうとは思わない。
『チャンスシステム』の期限は続くかもしれないけど、
何となく憂ちゃんの『ナビゲーター』の仕事は終わってしまうんだ、って心の何処かで分かってるんだよね。
ひょっとしたら神様の警告か、親切心からのお言葉が心の何処かに直接届けられてるのかもしれない。
だったら、自分で直接『チャンスシステム』を運用すればいいのになあ……。
適当でいい加減で変なシステムを作った神様みたいな何処かの誰かさん……。

でも、ちょっとよく考えてみたら……。
私の考え過ぎかもしれないけれど、つい考えてしまう。
意外と色々と考えてる神様だったのかもしれない、って。
例えば一番最初、私はお試しお願いで『平沢さんの事をもっとよく知りたい』って願った。
その結果、神様の勘違いで『石ころ帽子』を被らされた、って思ってたんだけど……。
それはもしかしたら違ってたのかもしれない。
結果的にだけど、私はこの状態になって、憂ちゃんの事をよく知れたと思う。
自分自身で言葉を交わして、自分自身で触れ合って、自分自身の心を曝け出して……。
直接頭の中に憂ちゃんの知識を流し込まれるより、
ずっとずっと憂ちゃんの事をよく知る事が出来た気がするんだ。
神様はそこまで考えて私に『石ころ帽子』を被らせたのかな……?
まあ、本当に私のお願いの内容を捉え間違った可能性もあるけどね……。

だけど、ありがとう、適当でいい加減な神様。
貴方のおかげで私は一つ目の願い事が叶いました。
どんな形にしろ貴方が願い事を叶えてくれたおかげで、
憂ちゃんの見ていたもの、憂ちゃんの望んだものが私にも少しずつ分かってきた気がします。
私の一生に一度の願い事ももうほとんど心の中で決まりそうです。
残り少ない期限ですが、それまでには貴方にお願いを届けられそうです。
私の身に合わないお願いだったら、却下してくれても構いませんし、それを恨んだりしません。
ただ私の『一生に一度のお願い』が何だったのか、という事だけはしっかり受け止めてくれると嬉しいです。
本当は、もっと叶えて欲しいお願いもありますけど、それは心の中にしまっておきますから。
だから……。


「一番叶えて欲しいお願いはルール違反だろうしね……」


洗い物を終えてから、私は小さく苦笑した。
それがルール違反だっていう事は分かってる。
そのお願いがまかり通ってしまったら、チャンスシステムの意味自体が失われてしまう。
絶対に叶えるわけにはいかないお願いなんだよね。
私はそのお願いを必氏で胸の中の心の箱に片付けて、鍵を掛ける。
憂ちゃんもきっと私と同じお願いを我慢して、私の『ナビゲーター』をしてくれてるんだろうから。
だからこそ、私ももう少しの間、笑顔で居よう。
笑顔で『一生に一度のお願い』を神様に届けられるように頑張ろう。

147: 2013/01/21(月) 18:53:25.17
「お待たせ、梓ちゃん」


台所の扉が開いて、明るくて優しい声が響く。
勿論、憂ちゃんだった。
私は出来る限りの笑顔を向けて、憂ちゃんの言葉に応じる。


「ううん、別に待ってないよ、憂ちゃん。
準備は終わった?」


「うん、終わったよ、梓ちゃん。
居候してる身なのに、洗い物を任せちゃってごめんね」


「そんなの気にしないで。
これはいつも美味しい朝ごはんを作ってくれる憂ちゃんへのお礼だよ。
たまには私にも手伝わせてよ」


「えへへ、ありがとう、梓ちゃん」


「ねえ、それよりも、憂ちゃん……」


「何?」


「本当に準備は万端なの?」


「そのつもりだけど……」


「髪は結ばないの?」


「えっ……、あっ!」


私に指摘されて自分の髪を触ってから、憂ちゃんが驚いた表情を見せた。
普段みたいに髪を結んでない事に、私が指摘するまで気付いてなかったみたい。
憂ちゃんらしくないミスだ。
憂ちゃんも緊張してるのかな?
それはそうだよね。緊張してないわけが無いよね。
だって、今日は憂ちゃんの大好きな唯さんの学園祭ライブの当日なんだから。
初めてのライブなんだから。

私だって緊張してる。
緊張してない様子の軽音楽部の皆さんの姿を見て、逆に私が緊張してしまってる。
ライブをするのは私じゃないのに、すっごくドキドキしてる。
気を抜くと心臓が喉から出ちゃいそうなくらいに……。
私ですらそうなんだから、憂ちゃんが感じてる緊張は私なんか比較にならないと思う。


「居間のソファーに座ってちょっと待ってて、憂ちゃん」


洗い物が終わった手をタオルで拭いてから、私は台所から出て自分の部屋に飛び込んだ。
結構前に私が使ってたリボンをタンスの中から出して戻り、居間のソファーに座る憂ちゃんの後ろに回る。


「お古のリボンでちょっと悪いんだけどね……」


言いながら、私は憂ちゃんの髪を結んでいく。
憂ちゃんの事だし遠慮するかも、って思っていたけど、憂ちゃんは何も言わずに静かに頷いてくれた。
憂ちゃんも私の気持ちに気付いてくれてるのかもしれない。
残り少ない時間、憂ちゃんが私にしてくれたみたいに、
私も憂ちゃんに何かをしてあげたいんだって気持ちを……。
でも……。

148: 2013/01/21(月) 18:54:01.88
「あ……、あれっ……?」


憂ちゃんのポニーテールを結び終わった瞬間、私はつい呻くみたいに言ってしまっていた。
何かが……、違ってる気がする……。
いや、勿論、ポニーテールの位置と形なんだけどね……。
毎日見ていた憂ちゃんのポニーテールを再現したつもりだったのに、よく見なくてもかなりずれていた。
おかしいなあ……、何をやってるのよ、私……。
でも、何となく納得もしていた。
自分の髪はともかく、私は誰かの髪を結んだ事があんまり無い。
あの子はいつも髪が短めだったから、逆に私の髪で遊ばれるのが日常だったんだよね。
考えてみたら、誰かの髪を結ぶのなんて、お母さんの髪を結ばせてもらった時以来じゃないかな?

……って、そんな言い訳はどうでもよかった。
流石にこんな失敗してしまった髪型じゃ、憂ちゃんに申し訳ないにも程がある。
「ごめん、憂ちゃん。結び直すね」って言って、
私がリボンに手を掛けると、憂ちゃんは大きく首を振って笑顔を私に向けてくれた。


「ううん、これでいいよ、梓ちゃん」


「え、でも、こんなんじゃ……」


「梓ちゃんが私の事を思って結んでくれたんだもん。
勿体無くて解けないよ。
だからね、これでいいの。
ううん、私はこれがいいなあ……」


その憂ちゃんの笑顔にはお世辞も何も含まれてないように見えた。
本気で私の失敗してしまったこの髪形を、いいと思ってくれてるんだろう。
勿論、とても申し訳ない気分はなったけど、でも、同時に嬉しくもあった。
憂ちゃんの笑顔には、人の気持ちを優しくさせてくれる力があるんだよね……。
きっとお姉さんの唯さん譲りの不思議な笑顔……。
今回は仕方ないけど、次こそは憂ちゃんの髪型をちゃんと結んであげたいな。
いくら失敗したって、今度こそは……。
私は「ありがと」とだけ言ってから、少しだけ話を変える事にした。


「ねえ、憂ちゃん?」


「どうしたの?」


「憂ちゃんも緊張……してるんだね……」


「勿論だよ、梓ちゃん。
お姉ちゃんの初めてのライブだし、律さん達にも頑張ってほしいもん。
最高のライブにして、最高の思い出を作ってもらいたいもん。
だからね、私……、すっごくドキドキしてるんだ」


「うん、そうだよね。
私も軽音楽部の皆さんには頑張ってほしいもん。
中々練習を始めない困った部の人達だけどね、
お茶ばっかりしてる不思議な部の人達だけどね……、
でも、軽音楽部の皆さんには、このライブを絶対成功させてほしいんだ。
あの人達の笑顔が……、見たい……んだよね……」


それが私の気持ち。
ずっとあの軽音楽部を見てきて、辿り着けた単純な気持ち。
私は結局、あの人達に憧れてたんだと思う。
音楽の腕前とかじゃなくて、お茶ばかり飲んでるからでもなくて、
あの仲の良い仲間同士の皆さんの姿が眩しかった。すっごく憧れたんだ。
だから、皆さんには最高のライブを成功させてほしい。
失敗なんてしてほしくない。
でも、憂ちゃんは笑顔で首を振った。

149: 2013/01/21(月) 18:54:38.71
「成功してほしい気持ちも勿論あるんだけどね……、
私はね、別に失敗しても構わない、って思ってるんだ。
成功出来なくても、失敗しちゃっても……、
それがお姉ちゃん達の辿り着いた結果だし、大切な思い出になると思うの。
大切なお友達の皆と辿り着けた結果だもん。
だから……、どんな形でもやり遂げてほしいな、って思ってるんだよね」


憂ちゃんが前から言っていた『失敗してもいい』って言葉。
私は最初、それがどういう事なのか分からなかった。
失敗なんてしない方がいい。
したくないし、しないに越した事は無い。
ずっとそう思ってた。
でも、今なら憂ちゃんの言っている事が何となく分かる気もする。
まだ、何となく……だけどね。


「そう言いながら、私もドキドキしてるんだけどね」


憂ちゃんが苦笑しながら言って、何だかそれが面白くて私も笑った。
何はともあれ、最後まで見届けよう。
私の憧れた仲間達の辿り着く最初のライブの顛末を。
その顛末がどんな形であっても、憂ちゃんとなら受け止められる気がする。

不意に。
憂ちゃんが私の手を引いて、ソファーに座らせた。
何をするつもりなんだろう、と思っていたら、また憂ちゃんが優しい笑顔で微笑んだ。


「梓ちゃんの髪は私が結んであげるね」


言われてやっと気が付いた。
私も憂ちゃんと同じように、自分の髪を結ぶのを忘れてた事に。
自信満々で憂ちゃんに指摘しておいて何をやってるのよ、私は……。
もう……、恥ずかしいなあ……。
でも、私と憂ちゃんの二人ともがすっごく緊張してる事が分かって、何だか嬉しくもなった。
この緊張感……、うん、二人でなら悪くないよね。
二人でなら楽しめるよね。
だから、二人で見届けよう。
素直な気持ちで見届けなきゃ。
もうすぐ、待ちに待っていた唯さん達の学園祭のライブが始まるんだから……。

152: 2013/02/02(土) 18:45:28.04





「はい、いらっしゃいいらっしゃい!
安いよ安いよー!」


「この声……!」


まだ治らない嗄れた声が響き、澪さんがとても不安そうな声で呟く。
誰も居ない軽音楽部の部室から飛び出した澪さんの後を追って数分。
私と憂ちゃんは何度か立ち寄った事のある唯さんの教室に辿り着いていた。
勿論、偶然辿り着いたわけじゃなくて、
澪さんは最初からこの場所を目指してたんだろう。

不意に視線を向けて見た澪さんの表情はとても焦っていた。
それはそうだよね……。
さっきまで私と憂ちゃんは、軽音楽部の部室で皆さんが来るのを待っていた。
学園祭の出し物があるとは聞いていたけど、朝練くらいはするんじゃないかなって思ってたから。
だけど、待てども待てども、軽音楽部の皆さんは部室に顔を出さなかった。
ひょっとして練習やらないのかな……。
私が憂ちゃんとそんな話をし始めた頃、
やっとの事で澪さんが姿を現したんだけど、その時の澪さんの面食らった表情は凄く印象に残った。
不安と緊張と焦りが綯い交ぜになった表情。
澪さんと同じ立場だったら、私も同じ表情をしてしまってたんじゃないかなって思う。
ううん、きっとしてたはずだよね……。
だから、澪さんが他の部員の皆さんを求めて、部室から飛び出した気持ちは私にもよく分かる。
でも……。


「あっ、澪ちゃーん、焼きそば?
ちょっと待ってねー」


「何でそうなる……」


呻くように呟きながら、澪さんがテーブルに手を置いて崩れ落ちた。
それもそのはず。澪さんが教室に飛び込んでやっと見つけた一人目の部員……、
唯さんがお客さんに焼き立ての焼きそばを渡した後、澪さんに無邪気に微笑み掛けていたからだ。
こんなの私だって崩れ落ちてると思うよ……。
と言うか、唯さんのクラスの出し物って焼きそば屋さんなんだ……。

しかも、学園祭とは言え、唯さんはとても妙な恰好をしていた。
何て言ったらいいのかな……?
服自体は一緒に焼きそばを焼いてるクラスメイトの人と一緒なんだけど、
何故か唯さんだけ黄色いマフラーを巻いて、紫色のアフロのかつら(かな?)を被ってるんだよね。
例えるなら関西のおばちゃん……みたいな感じになるのかも。
そう例えたら、関西のおばちゃんの人に怒られるかもしれないけど……。

と。
私は不意に思い立って、隣の憂ちゃんに視線を投げ掛けてみた。
お姉さんの事が大好きな憂ちゃん的にこの唯さんの恰好はどうなのかな、って思ったんだよね。
憂ちゃんは私の視線に気付いた様子も無く、とても嬉しそうに唯さんを見つめていた。
あ、憂ちゃん的にはこういう恰好の唯さんもありなんだね……。
と言うより、学園祭当日に緊張する事も無い、無邪気な唯さんの姿を嬉しく思ってるのかも。
憂ちゃんはそれくらい唯さんの事をいつも大切に思ってる子だもん。

でも、私の心中はまだそこまで穏やかではいられない。
唯さん達の事は信じてるけど、息が止まりそうになるくらいの緊張はまだ時たま感じてる。
もうすぐ唯さん達の学園祭のライブが始まる。
出来る事なら唯さん達の失敗のライブは見たくない。
失敗してほしくない……。
それが偽らざる私の本心。

どちらかと言えば私に近い感性を持ってるんだろう。
澪さんが机に手を置きながら、唯さんに向けて上目遣いの視線を投げ掛けた。

153: 2013/02/02(土) 18:46:09.99
「そうじゃなくて……、今日、本番だろ?
目一杯練習しておこうよ……!」


「ごめんねー……。
私も練習したいんだけど、朝イチはクラスの当番になっちゃって……」


澪さんの言葉に申し訳なさそうに唯さんが頭を掻いた。
でも、その表情にはやっぱり緊張が見られなかった。
声だけは相変わらず嗄れているけど、それは三日前からだしね……。
本当に肝が据わってる人なんだなあ、唯さんは……。
いや……、ひょっとしたら肝が据わってるとは、またちょっと違うのかもしれない。
不思議と唯さんの姿を見てるとそう思えてくるんだよね。

何て言ったらいいかよく分からないんだけど、
唯さんはこの学園祭を楽しもうとしてる気がするんだ。
それも、ただ普通に楽しむんじゃなくて、全身全霊で心の底から。
でないと、クラスの出し物の当番なんて引き受けずに、
澪さんの言う通りに朝から部員の皆さんと練習していたはずだもん。
ライブに専念していたはずだもん。
でも、唯さんはそうしなかった。
そうしなかった事に唯さんのしたい事とその意味がある……、今はそんな気がしてる。
やっぱり唯さんは私の思う以上に凄い人なのかもしれない。

不意に。
教室の中の電気が突然消えた。
何が起こったのか私はちょっと驚いたけど、周囲の人達は誰も驚いてないみたいだった。


「あっ、ブレーカーが落ちたー」


「えっ、また?」


「生焼けになっちゃうー」


「今日、何回目よ、もー……!」


教室内が呆れた声で少しだけ包まれる。
なるほど、ブレーカーが落ちたんだ。
焼きそばを焼いている人達の口振りからすると、もう何度も落ちてるみたい。
だから、誰も驚かなかったんだ。
あ、生徒会の人なのかな?
「ちょっと! ホットプレートは三台までよ! ちゃんと守ってる?」なんて叱ってる。
学園祭の出し物は出し物で大変なんだなあ……。
とりあえず、いつか私が学園祭で出し物をする時は、色々と覚悟しておく事にしよう。
この一週間の事はきっと憶えてはいられないだろうけど……。

少し寂しい気持ちになって、私は自分の隣に視線を向けた。
今だけでも憂ちゃんの表情を私の心に焼き付けておきたかったから。
でも、それは叶わなかった。
何故かと言うと憂ちゃんが私の隣には居なかったからだった。
当然だけど、急に姿を消したってわけじゃない。
探してみると、いつの間にか憂ちゃんは唯さんの隣に立っているみたいだった。
単に私が澪さんに気を取られている間に、唯さんの近くに移動したんだろうな。
唯さんの作る焼きそばに興味があったんだと思う。

それはそれで憂ちゃんらしくて微笑ましい事なんだけど、
何故か憂ちゃんは青ざめた顔色で目の端を少し潤ませていた。
完全に泣いてないとは言っても、憂ちゃんのそんな悲しそうな表情を見るのは初めてだった。
な、何があったんだろう……。
動揺した私は憂ちゃんの隣にまで移動して、軽くその肩に手を置いた。

154: 2013/02/02(土) 18:52:53.16
「ど……、どうしたの、憂ちゃん?」


「あ、梓ちゃん……。
私……、私……!
と、とんでもない事を……、しちゃって……」


「お、落ち着いて、憂ちゃん。
何をしちゃったのかちゃんと聞くから、落ち着いて話して……!」


「えっと……、えっとね……」


「うん」


「お姉ちゃんのホットプレートのね……」


「うん……って、ホットプレート……?」


「温度が低かったから……、
生焼けになっちゃうと思って、それで私……!」


「あー……」


最後まで聞かなくても、憂ちゃんの言おうとしている事が分かった。
つまり、憂ちゃんは唯さんのホットプレートの温度を上げたんだ。
唯さんの焼く焼きそばが生焼けにならないように……。
それは純粋な憂ちゃんの思いやりだったんだけど、
そのせいで限界寸前の電力で保っていたブレーカーが落ちてしまったんだろう。
勿論、ブレーカーが落ちたのが、憂ちゃんのせいかどうなのかは分からない。
さっきこの教室の誰かが言っていたけど、五組の誰かが電力を使い過ぎたからなのかもしれない。
でも、流石にタイミングが良過ぎるよね。
例え直接の原因じゃなかったとしても、憂ちゃんが自分の責任だと感じてしまうのも仕方無い。


「お姉ちゃんの邪魔しちゃった……」


独り言みたいに憂ちゃんが呟く。
何だか凄く落ち込んじゃってるみたい。
クラスの人達も誰もそんなに困ってないみたいだし、そんなに大きな失敗じゃないのに……。
でも、それだけ憂ちゃんが唯さんの事を大切にしてる、って意味なんだよね。
考えてみれば、私には憂ちゃんの今の様子を大袈裟だって言う事は出来ない。
私だって同じだから。
夢の事で一人で勝手に悩んで、勝手に泣いて、憂ちゃんに八つ当たりして……。
そうなんだよね。
人には個人個人で色んな悩み事がある。
それは本人にしか分からない事で、他人の物差しじゃ計れない事ばかりなんだ……。

でも、不謹慎な気もするけど、私はそれが嬉しかった。
憂ちゃんだって悩んでるんだよね。
叶えたいお願いだって持ってるし、失敗に落ち込んじゃう事もあるんだよね。
そんな当たり前の事が私には分かってなかった。
優しい憂ちゃんに頼り切りで情けなくて、辛かった。
だけど、そういう事じゃなかったんだ。
憂ちゃんはきっと人にはそれぞれの悩みがある事が分かっていたから、
分かってくれていたから、私なんかのために一生懸命になってくれたんだ。
だから、私は今こそ憂ちゃんに笑顔を向けてあげなきゃいけないんだ。
お姉さんの事が大切で仕方が無い憂ちゃんを私も大切にしたいから。

155: 2013/02/02(土) 18:54:10.49
「大丈夫だよ、憂ちゃん」


憂ちゃんの顔を覗き込んで、自分に出来る精一杯の笑顔を見せた。
憂ちゃんが落ち込んだままの顔を私に向ける。
私は笑顔を崩さず、私達の存在に気付かずに微笑んでいる唯さんを指し示した。


「ほら見て、憂ちゃん。
唯さん、笑ってるよ。
ブレーカーが落ちた事なんて気にしてないみたいでしょ?
それどころか何だか楽しそうにも見えるし……。
だからね、憂ちゃんも気にしなくていいんだよ」


「で、でも……、
私がお姉ちゃんに迷惑掛けちゃったのは確かだし……」


「ねえ、憂ちゃん?」


「な……、何?」


「唯さんって憂ちゃんが失敗した時、怒っちゃう人じゃないよね?
話した事も無いけど、見てたら私にも分かるよ。
唯さんは憂ちゃんが何かを失敗した時にも、許してくれる人だって事くらい。
ううん、唯さんは憂ちゃんの失敗を笑顔で受け容れてくれる人だと思う。
憂ちゃんがいつも一生懸命だから、笑顔で受け容れてくれるんだよ、きっと。
だからね、私も……」


私も憂ちゃんの事を信じられるんだよ。
流石にそれは口に出しては伝えられなかった。
今はそれを伝えるべき時じゃないと思ったから。
でも、心の中では強くそう思ってた。
憂ちゃんはいつも一生懸命だった。
お姉さんのためにも、私のためにも、一生懸命になってくれた。
だから、私は憂ちゃんが大好きな唯さんの事を信じられるんだ。
唯さんも憂ちゃんの事が大好きなんだって。
だからこそ……。


「大丈夫だよ」


不意に教室の中に優しい言葉が響いた。
私の言葉じゃないし、憂ちゃんの言葉でもなかった。
声がした方向を確かめるまでもない。
もう聞き慣れ始めた掠れたハスキーボイス……、唯さんの声だった。
私と憂ちゃんはちょっと驚いて唯さんの横顔を見つめる。
ひょっとして私達の存在が見えているのかも、って思えたから。
でも、勿論、そんな事があるはずも無かった。


「大丈夫だからね、澪ちゃん」


もう一度、唯さんが優しく呟く。
その呟きは私達じゃなくて、澪さんに向けたものだったらしい。
気が付くと澪さんはいつの間にか教室の中から居なくなっていた。
きっと律さんか紬さんを練習の誘いに行ったんだろう。
つまり、唯さんの呟きはここに居ない澪さんに向けられた呟きだったんだ。

他の誰にも届かないはずの唯さんの呟き……。
でも、そう呟いた唯さんの横顔は優しくて、胸が詰まりそうになるくらいに優しくて……。
いつの間にか憂ちゃんは笑顔になっていた。
私もきっと今まで以上の笑顔になった。
澪さんの不安は分かる。
分かり過ぎるくらいに分かる。
でも、不安を抱えながらでも、澪さんにも分かってほしい。
澪さんを想ってくれている人がここに確かに居るって事を。
私が信じる憂ちゃんが大好きな唯さんが、
澪さんをこんなにも大切に思ってるんだって事を……。

憂ちゃんと視線を合わせる。
憂ちゃんはもう瞳を潤ませてはいなかった。
私だってこの学園祭が終わるまでは泣かないでいよう。

156: 2013/02/02(土) 18:55:22.19





何処かで悲鳴が聞こえた気がした。
……のは気のせいだったのかな。
ブレーカーが復旧した後、しばらくクラスの人達が焼きそばを作る様子を見ていると、
教室に見知った眼鏡の人が足を踏み入れ、唯さんがそれに気付いて嬉しそうな声を上げた。


「和ちゃーん!」


「唯、その声、大丈夫なの?」


「部活で練習し過ぎちゃっただけだから大丈夫だよー」


答えながら、唯さんが首のマフラーを楽しそうに回す。
幼馴染みと顔を合わせられた事が嬉しかったんだろう。
唯さんの言葉通り、教室に入って来たのは生徒会役員の和さんだった。
警察帽(みたいな帽子)を被って、『実行委員』と書かれた腕章をしてる。
凄い……。
物凄い似合いっぷりだなあ……。
堂に入っていて、とても一歳だけ年上だなんて思えない。
道端で擦れ違ったら本物の警察官と見間違える気がする……。
こんなしっかりした人と唯さんが幼馴染みだって言うんだから、世の中は不思議だよね。
……それとも、逆にこれくらい違ってた方が長続きするのかな?


「今日が初ステージでしょ?
三時からだっけ?」


心配そうな表情で和さんが続けると、「うん」と唯さんが笑顔で応じた。
幼馴染みの和さんの前でも、唯さんの落ち着いた笑顔は崩れない。
何処までも唯さんは唯さんみたい。


「じゃあ、まだ結構時間あるし、練習しておきたいんじゃないの?」


「うん、この担当が終わったらするつもり」


「そっか。なら、もうそっち行ってもいいわよ。
誰か他の人に頼んでみるから」


「えっ、でも……」


「いいっていいって。後は任せて」


和さんの申し出には流石の唯さんも戸惑った表情を浮かべた。
唯さんの本当の気持ちが推し量れるほど、私は唯さんの事をよく知らない。
でも、気持ちの想像は出来る。
きっと唯さんは澪さんを早く傍で応援してあげたい気持ちと、
クラスの皆のために担当を頑張りたいって二つの気持ちを持ってるんだと思う。
初めての学園祭をどうすれば精一杯皆で楽しめるかを真剣に考えてるんだと思う。
これまでずっと見学させてもらって出来た、私の中の唯さん像はそういう人だった。

157: 2013/02/02(土) 18:59:37.61
「唯」


不意に唯さんと一緒に焼きそばを焼いていたクラスメイトの人が笑う。


「行っておいでよ」


「頑張って」


全然困った表情の混じってない純粋な笑顔で、
唯さんのクラスメイトの人の二人は優しい声を上げた。
心から唯さんの活躍を願っている笑顔……。
その笑顔で唯さんの決心も固まったみたいだった。
初めての学園祭、クラスメイトや軽音楽部の皆さんや観客の人達や、
そんな多くの人達を一番楽しませてあげられる方法が、今から練習を頑張る事だって。
出来る精一杯のライブを皆に見せてあげる事なんだって。


「ありがとー! 行ってくる!」


言うが早いか、瞬く間に準備を終えて、唯さんがギターを持って駆け出して行く。
気持ち良いくらいの笑顔を浮かべて、軽音楽部の皆さんの下へ。
和さんやクラスメイトの皆さんも嬉しそうに唯さんを見送っていた。

私達も追い掛けなきゃ……。
そう思って憂ちゃんの方を見た瞬間、私はちょっと驚いた。
憂ちゃんなら私よりも先に唯さんを追い掛けて行くんじゃないか、
って思っていたのに、意外にも憂ちゃんは予想外の場所に視線を向けたまま動いてなかったから。
何を見てるんだろう、と私は憂ちゃんの視線を辿ってみる。
視線の先には唯さんが最後に作り置いた焼きそばがあった。


「……食べたいの?」


「えっ、えっとね……!
別にそんなんじゃなくて……!
折角、お姉ちゃんが作った焼きそばなのに、冷めたら勿体無いな……って」


私が訊ねると、胸の前で激しく手を振って憂ちゃんが動揺する。
たまにしか見られない憂ちゃんの動揺した姿だから、何だか新鮮だなあ。
と言うか、やっぱり憂ちゃんは唯さんの作った焼きそばが食べたいんだ……。
でも、姿が誰にも見られない私達だから、
クラスの人達に頼んで譲ってもらう事も出来ないし……。
空腹で氏にそうになってもお店から食べ物を貰えなかった憂ちゃんだもん。
そういう事には躊躇いがあるんだよね……。
だったら、ここは私が憂ちゃんのために一肌脱がなきゃ。

私は念の為持って来ていた財布を取り出すと、
ホットプレートの置かれたテーブルの更に奥の方、売上金の入っている箱の中に焼きそばの代金を入れた。
そのまま唯さんの作り置いていた焼きそばと箸を取って、憂ちゃんに差し出す。

158: 2013/02/02(土) 19:01:51.33
「ほら、憂ちゃん。食べちゃおうよ」


「で、でも……」


「お金はちゃんと入れてるんだし、誰も困らないって。
大体、今の私達の状態は神様の変な設定で困らせられてるだけだもん。
これくらいしたって、神様がフォローしてくれると思うよ」


「そ、そうかなあ……」


「お客さんが少ない時間帯だから、このまま放っておいたら冷めると思うし。
それは流石に勿体無いでしょ?
ね? だから、食べちゃおうよ、憂ちゃん」


「あっ……、えっと……」


「何?」


「ありがとう、梓ちゃん……」


「いいって」


照れた様子で憂ちゃんが微笑み、私も釣られて微笑んだ。
あんまり褒められた事じゃないけど、
憂ちゃんへのせめてものお礼って事で今だけは見逃してね、神様。
これで私が『一生に一度のお願い』を叶える資格を失くす事になっても構わないから。
今はもう憂ちゃんが笑顔で居てくれる事の方が大事に思えるから……。


「お姉ちゃんの焼きそば、美味しいね」


憂ちゃんに半分分けてもらった焼きそばは、憂ちゃんの言う通り意外と美味しかった。
意外と、って言うのも失礼かもしれない。
だけど、それくらい凄く美味しかったんだよね。

それはきっと。
満面の笑顔の憂ちゃんが隣に居てくれた事と、無関係じゃないと思う。

160: 2013/02/04(月) 18:34:39.44





焼きそばを食べ終わった私達は、ゆっくりと学園祭の様子を見ながら廊下を歩いていた。
急がなくても大丈夫。
澪さんと唯さんの行き先は軽音楽部の部室に決まってるもんね。
それにしても……、と私は周囲を見回しながら考える。
高校の学園祭って、こんなに賑やかな物だったんだ。
中学でも学園祭の真似事みたいな事をやってたけど、それとは全然違う。
熱気も活気もお客さんの数も段違いだ。
中学と高校じゃやっぱり別の世界なんだよね……。

急に。
何故か私はあの子の事が頭の中に浮かんだ。
私と違う道を生きる事を選んだあの子……。
出来る事なら、私はあの子と一緒に同じ高校の制服に身を包みたかった。
私が小さめの制服を着て、あの子が、『馬子にも衣装だね』と私をからかって、
『そっちだって私とそんなに身長変わらないじゃない』って頬を膨らませたりして。
放課後には軽音楽部がジャズ研か、音楽に関係する部で演奏して笑い合ったりして……。

それは私の夢。
私の見ていたかった夢。
もうきっと、叶わない夢。
諦めるしかない夢。

胸が痛まないと言ったら嘘になる。
けど、この前ほどじゃない。
私には叶えたい夢があった。
でも、あの子にも叶えなきゃいけない夢がある。
私とあの子の夢はいつの間にか違うものになってしまった。
この前はそれが悲しくて泣いてしまったけど、それは本当に悲しい事なんだろうか?
勿論、辛くて悲しい事には違いないけど、多分、それだけじゃない。
それだけじゃないはず……、って何となく今は思える。


「あ、律さんと紬さんだよ、梓ちゃん」


私の隣で歩いている憂ちゃんが嬉しそうに笑った。
憂ちゃんの視線を辿ってみると、確かにその場所には律さんと紬さんが居た。
昨日来た『悪夢の館』の前、ちょっと申し訳なさそうな笑顔を二人で浮かべている。


「んじゃ、後の事、頼むな」


「皆、お願い」

161: 2013/02/04(月) 18:35:21.87
その二人の言葉を聞くと、クラスメイトらしい女の人が爽やかな笑顔を見せた。
同時に、周囲に居た数人の生徒達も声援を上げる。


「了解だよ、りっちゃん! ライブ、頑張ってね!」


「田井中さんのドラム捌きを見るの、楽しみにしてるよ!」


「こっちはこっちで頑張るから、琴吹さん達も頑張って!」


多くの声援に囲まれ、律さん達が照れ笑いを浮かべる。
おお……、律さんと紬さんってこんなに人気があったんだ。
クラスメイトの皆さんもまだ軽音楽部の演奏を聴いた事は無いはずだから、
これは単に律さん達の人望って事なんだろうな。
もしも私が何処かの高校の学園祭でライブをする事になった時、
私はこんなに周りのクラスメイトから賑やかに見送ってもらえるだろうか。
……んー、悔しいけどちょっと無理かもしれない。
自分で言うのも何だけど、私はあんまり人付き合いの上手い方じゃないもんね。
でも、それが分かった今からなら、少しは変えていけるかもしれない。
ううん、変えなきゃいけないよね。
それがこの数日、憂ちゃんと過ごして、私にもやっと見えて来た事なんだ。


「律さん達と一緒に行く?」


憂ちゃんが首を傾げて私に訊ねる。
もうちょっと学園祭の雰囲気を感じていたい気持ちはあったけど、
当初の目的をおざなりにしてても駄目だよね。
私が桜高に来た目的は軽音楽部の皆さんのライブを見届けるため。
そして、私の気持ちに最後の決着を付けるためなんだから。
私は頷いて、憂ちゃんの瞳を見つめた。


「うん、そうだね、憂ちゃん。
律さん達と一緒に部室に行こうよ」


私の言葉を聞くと、憂ちゃんは少し嬉しそうな表情を見せた。
何だかんだと言っても、憂ちゃんもお姉さんの唯さんの事が気になってるんだろう。
特に唯さんは喉の嗄れも治っていないのに、飄々と楽しそうだった。
こんな状況でも笑ってた……。
憂ちゃんはきっと唯さんが笑ってる理由を分かってるはずだ。
分かってるからこそ、私に優しい言葉を掛ける事も出来たんだと思う。
だけど、頭では分かってても、心配する気持ちが少しはあるのも確かなんだろう。
自分がライブをするわけじゃないのに……、
ううん、自分がライブをするわけじゃないからこそ、
見守る事しか出来ないからこそ、不安を忘れられないんだろうな……。


「お化け屋敷、中々好評だったなー」


「うん! すっごく楽しかったよね!」


私達の目の前では、律さん達が楽しそうに歩いている。
さっきまでやっていたらしいお化け屋敷の事なんか話しながら、
不安な気持ちなんか全然感じてないって様子の眩しい笑顔を浮かべて。
律さん達もライブに対する不安感なんて、全然持ってないみたい。
ううん、そうじゃないよね。
律さん達だって、ライブを成功させられるか不安な気持ちはあると思う。
本当は胸がドキドキしてるのかもしれない。
でも、律さん達は笑うんだ。
それはきっとライブに対する不安なんかよりずっと……。

162: 2013/02/04(月) 18:36:54.05
「……ん?」


軽音楽部の部室に向かう階段の踊り場。
律さんが不思議そうに首を傾げて、部室の扉の方を見た。
私と憂ちゃんは一度顔を見合わせた後、律さんの視線を追ってみる。


「……お姉ちゃん?」


憂ちゃんが小さく呟いてから首を傾げた。
憂ちゃんの言う通り、部室の扉の前では唯さんが一人で佇んでいた。
扉のガラスの部分から、部室の中を覗き込んでる……のかな?
唯さんが扉の前に居るって事は、部室の中には澪さんが居るんだろうけど……。


「何やってんだ?」


「しーっ!」


律さんが訊ねると、唯さんが口元に左手の人差し指を立てた。
いつの間にか律さんと紬さんが、唯さんの隣にまで歩み寄っていたみたい。
律さん達に続いて、私達も早足で部室の扉の前に辿り着く。
手を伸ばせば律さん達に届く距離。
こんなに近付いても、律さん達は私達に気付く様子は全然無かった。
『石ころ帽子』の状態とは言っても、やっぱりちょっと寂しいな……。
って、今はそんな事なんかどうでもいいよね。

律さん達が唯さんに示されるままに、扉のガラスを覗き込む。
私と憂ちゃんも少しだけ空いたガラスのスペースから、中を覗き込んでみた。


「澪さん……」


私の言葉は憂ちゃんにしか届かないはずだったけど、
まるで私の言葉が届いてるかのように、律さんと紬さんがタイミングよく微笑んだ。
澪さんの事が羨ましくなるくらい、優しい優しい律さんと紬さんの微笑み……。
そっか……。
やっぱり、そういう事だったんだよね……。

部室の中では、澪さんが一人で緊張した面持ちを浮かべていた。
でも、ただ怖がって緊張してるだけじゃない。
胸の前で手を握って、素敵な歌声を響かせていた。
澪さんに出来る精一杯の努力をしていたんだ。


「ずっと……練習してたんだな……」


「うん……」


律さんが小さく呟いて、紬さんが頷いた。
大切な仲間を見つめる優しい表情を浮かべたままで。
勿論、唯さんも嬉しそうな微笑みを浮かべてる。
仲間の……、澪さんの頑張りに感激してるんだよね、三人とも。

163: 2013/02/04(月) 18:40:08.22
分かった。
私が軽音楽部の皆さんに失敗してほしくなかった本当の理由。
それは、そう、皆さんが私の理想だったからなんだ。
音楽の腕前はまだそれほど大したものじゃない。
失礼な言い種だけど、きっと私の方が上手に演奏出来る。
そのくらいの腕前なら、私にもある。
でも、そんな事は重要じゃないんだよね。
ギターの腕前なんかより、上手に演奏する事なんかより、大切な事があるんだ。
一流の人達はそうじゃないかもしれないけど、私にとってはそうなんだ。
私が本当に欲しかったのは、ずっと一緒に音楽を続けられる仲間……、友達なんだ。
例え下手でも一緒に笑い合える友達が欲しかったんだ。
だから、あの子と音楽が続けられないのが悲しかったんだ……。

桜高軽音楽部の皆さんはそれを持っていた。
私がずっと求めていた大切な物を持っていた。
私が辿り着きたい夢の形だった。
皆さんは私の理想なんだ。
そんな私の夢を体現している人達の失敗を見たくないんだ。
それが私の未来の姿になってしまうかもしれないから。


「待たせたな、澪おっ!」


澪さんの歌の練習が一段落した所を見計らって、律さんが部室の扉を勢いよく開いた。
驚いた様子で澪さんが律さんの方に振り向く。


「一人にしてごめんなさい」


「私も練習するよー」


紬さんと唯さんが律さんに続いて澪さんに笑顔を向ける。
皆さんに続いて私と憂ちゃんが部室の中に身体を滑り込ませた頃、
澪さんが嬉しいのか不安なのか複雑な表情を浮かべて、ちょっとだけ頬を膨らませた。


「皆……、遅いぞ」


きっと軽音楽部の皆さんの中で、一人だけ失敗を恐れている澪さん。
私と同じく、不安な気持ちでいっぱいなんだろう澪さん。
折角、これまで一緒に活動して来た皆さんと、
学園祭の失敗っていう嫌な思い出を作りたくないんだろうな……。
それが普通の考え方だし、私だってかなりそう思う。

だけど……。
澪さんはまだ大事な事に気付いてないだけなんだよね。
私だって第三者じゃなかったら、きっと気付けなかっただろうけど。
それでも、こんな『石ころ帽子』って妙な状態だからこそ、私にも分かり始めて来た。
失敗とか成功とかより、もっと大事な事があるんじゃないかって。
だからこそ、唯さん、律さん、紬さんは笑顔でいられてるんじゃないかって。

固まりかけた私の答えに気付きながら、
私はこれから始まる軽音楽部の皆さんの練習に備えて、一人で気合いを入れた。
単なる練習でだって、私は軽音楽部の皆さんの演奏を聴き逃したくない。

167: 2013/02/16(土) 18:38:52.55





「りっちゃんと澪ちゃんって幼馴染みなんだよねー?」


突然やって来たキャサリンさんとのちょっとした騒動があって、
軽音楽部の機材を講堂に運び終わった頃、お茶を始めた唯さんが不意にそう言った。
もうすぐライブなのにお茶するなんて、唯さんも律さんも紬さんも本当に度胸が据わってるよね。
何の緊張も感じてないみたいに、律さんが飄々とした表情で唯さんの言葉に応じる。


「そだよー」


「いつから一緒なの?」


「そりゃもう幼稚園からずっといっし……、
あれ? 小学校……からだっけ?」


「幼馴染み違うんかい」


唯さんが呆れた表情で突っ込む。
本当なら澪さんが訂正する所だったんだろうけど、今ここに澪さんは居なかった。
仲間外れにされてる……、ってわけじゃ勿論無い。
澪さんだけ機材の運搬じゃなくて、生徒会との伝達とかをやっていたからなんだよね。
律さん曰く、『危なっかしくて機材は運ばせらんないよ』との事だけど、確かにそうかも。
練習してちょっとは落ち着いたように見えたけど、
でも、やっぱりたまに凄く不安な表情を見せてたもん。
他ならともかく、ボーカルだけは澪さん的に一番やりたくなかったパートだったんだろう。
ボーカルが崩れると演奏全てが崩れてしまうから。
観客の人達は大体がボーカルに注目してしまうものだから……。

それにしても、どうして澪さんはあんなに恥ずかしがりなんだろう?
男言葉だし、あんなにカッコよくて、ベースの腕前もかなりのものなのに……。


「澪ちゃんって小さい頃から恥ずかしがりだったの?」


私の考えを読まれたってわけじゃないと思うけど、
唯さんがタイミングよく私の疑問を律さんに訊ねてくれた。
唯さんも前々から澪さんの恥ずかしがり屋には疑問を抱いていたんだろう。
律さんは目を細めて遠い目になってから、ちょっと微笑んだ。


「そうだぞー。
私が『綺麗な髪だねー』って言ったり、
『すごーい、左利きなんだ! 皆ー、澪ちゃん凄いよー!』って言ったら、
顔真っ赤にして恥ずかしがってたもんなー」


「いや、それ、りっちゃんのせいじゃん!」


「それ、律さんのせいでしょ!」


唯さんと私の突っ込みが見事に重なる。
紬さんは唯さんの方、憂ちゃんは私の方を見ながら何故か穏やかに微笑んでいた。
どうして紬さんと憂ちゃんが微笑んでるのかは分からなかったけど、
今はそんな事より澪さんの恥ずかしがり屋について考える時だった。

168: 2013/02/16(土) 18:39:18.36
なるほどなあ……。
普段、カッコよく見える姿じゃなくて、恥ずかしがり屋の姿の方が澪さんの素だったんだ。
凛々しい外見や男言葉の方を、成長する内に身に着けていったんだろう。
考えるまでもなく、その影響は律さんから受けたものだと思う。
それが澪さんにとって良かったのか悪かったのかは分からないけど、
そんなに影響を与えるなんて、律さんの存在はそれだけ澪さんにとって大きい存在だったんだろうな。

私も多分、色んな人から影響を受けてると思う。
音楽を好きになったのはお父さんの影響だし、
セッションが好きになれたのはあの子の影響だし、
今、こうして軽音楽部の皆さんの見学を出来るのも憂ちゃんのおかげだし……。
そんな風に、私は自分でも気付かない内に、少しずつ変わってる気がする。

と。


「機材運ぶの終わったー?」


突然、軽音楽部の扉が開いたかと思うと、話題の渦中の人、澪さんが入って来た。
あれ?
澪さん、微笑んでるし、意外と落ち着いてるみたい。
緊張が一周して開き直れたのかな?
だったら、いいんだけど……。


「お、何か落ち着いてんな」


自分の席に着く澪さんに律さんが訊ねる。
「はい、どうぞ」と紬さんが澪さんの席にお茶を用意するのを見届けて、
律さんは自分の頭の後ろに両手を回して続けた。


「あんなにボーカルするの嫌がってたのに」


「そんな子供じゃないんだし……」


言いながら、澪さんが紬さんの用意したお茶のカップを持ち上げる。
想像以上の満面の笑顔で。


「いつまでも動揺していられないわよー」


急に女言葉になって。
両手のカップとお皿を激しく揺らして……。

うわあ……。
見るからに動揺し切ってるよ、澪さん……。
本当に恐怖した時、人は笑う事しか出来なくなる。
そんな話を聞いた事がある気がするけど、澪さんの笑顔もそういう意味だったのかもしれない。

169: 2013/02/16(土) 18:39:46.07
「もうすぐ本番なのに、そんな調子でどうするんだよ……」


流石の律さんも心配そうに澪さんに声を掛ける。
長い付き合いだけど、律さんもまさか澪さんがまだこんなに動揺してるなんて思ってなかったんだろうな。
特に律さんにとっても初ライブなわけだから、澪さんのこういう反応も初めてで戸惑ってるんだと思う。
律さんだってライブは初体験なんだもんね……。


「もうやだ……」


瞳を俯かせたまま、澪さんが不意に呟いた。
かと思ったら、必氏の形相で胸の前で手を合わせて激しく続ける。


「律、私とボーカル変わって!」


「そしたら、ドラムどうするんだよ……」


「私がやるから!」


「んじゃ、ベースどうするんだよ?」


「それも私がやるから!」


「やってもらおうか! 逆に見てみたいわ!」


「律、律ぅ……」


「離せってばー!」


最後には澪さんが座る律さんの膝に縋り付こうとしていた。
その澪さんの頭を律さんが片手で押し退ける。
何、この夫婦漫才……。
とは思ったけど、それだけ澪さんも必氏だって事なんだろう。

流石にここまで動揺するとは思わないけど、私だって凄く胸がドキドキしてる。
軽音楽部の皆さんのライブを間近にして、本当は大声で叫び出してしまいたいくらい。
隣に憂ちゃんが居るから、必氏に我慢してるだけで。
澪さんの場合、人より少しだけ臆病なだけなんだよね。
怖さや不安を素直に表現出来てるだけなんだよね……。
そんな澪さんの姿は決して悪くないと思う。
同時にちょっと羨ましくもなった。
澪さんには律さんっていう感情を素直に表現していい相手が居るって事が。
泣き付いてもいい相手が居るって事が。

170: 2013/02/16(土) 18:40:13.29
考えてみれば……。
私は、あの子に対して、そこまで感情的になれただろうか?
結構、仲の良い友達だったのは確かだと思う。
怒ったり拗ねたり、悲しい顔を向けたり、それなりに感情を見せて来た気はする。
でも、本当の心の芯にある何かを見せた事は、少なかったかもしれない。
中学生になってからの友達だし、私は誰かに感情を見せる事が得意じゃない。
ううん、もしかしたら、感情を誰かに見せる事が恥ずかしかったのかも。
そのくらいには私は妙に大人びようとしてた自覚がある。

もっと……、あの子にも本当の気持ちを見せるべきだったな……。
それで何が変わるわけでもなかったかもしれないけど、
少なくともあの子の事をもっと応援出来てたんじゃないかな……。
今からでも遅くない……のかな?
この『チャンスシステム』が終わった時、
私はあの子に本当の気持ちを見せたいって想いがまだ残っているのかな……?
せめて……、一度、謝りたい。
あの子の事を避けてしまっていた事を、心の底から……。
ごめん、って。


「ごめんね澪ちゃん、私のせいで……」


律さんの膝に縋り付こうとする澪さんを見ながら、唯さんが申し訳なさそうに言った。
相手こそ違うけど、唯さんはまた私と同じタイミングで同じ事を考えてみたい。
ひょっとすると、思考回路が意外と似通っちゃっているのかな?


「私がこんな声にならなかったら、澪ちゃんが歌う事無かったのに……」


悲しそうに続ける唯さん。
自分の責任なだけに、唯さんも色々気負ってしまう所もあるんだろう。
そこまでは私と唯さんの考え方は似ていた。
でも、そこから先の唯さんの言葉は違った。


「よーし!
やっぱ私がボーカルするよ!」


「いやいやいやいや」


「いやいやいやいやいやいや」


唯さんの力強い宣言に律さんが突っ込み、私も同じく突っ込んでしまっていた。
いくら何でもそれは無茶がある。
そんな嗄れた声じゃお客さんの苦笑と失笑の渦に巻き込まれちゃうよ、唯さん……。

でも……。
唯さんは凄いな、って正直に思った。
どんな形でも唯さんは自分の責任を果たそうとしてる。
普段、お気楽に見える唯さんが、ちゃんと自分の役目と責任を考えてるなんて。
うん……、私も負けてられないよね……。
ふと思い付いて視線を向けてみると、憂ちゃんが感極まった顔で涙ぐんでいた。
泣かなくても……、とは思ったけど、それだけ嬉しかったんだろうな。
唯さんの場合、家族の前だとここまで真剣な表情を向けない気がする。
こんな真剣な唯さんを見るのは、ひょっとしたら憂ちゃんにとって初めての事なのかも。

171: 2013/02/16(土) 18:40:41.01
「ご、ごめん、唯……。
そんなつもりじゃなかったから……」


澪さんが戸惑った表情で唯さんに謝った。
自分の不安が軽音楽部の皆さんに伝わってしまった事に責任を感じてるんだと思う。
自分が無茶な事を言っているのも承知。
叫んでたってどうしようもない事だって承知。
それでも、不安だったんだよね、澪さんは……。


「……っ」


立ち上がった澪さんが軽音楽部の皆さんに背を向けて、胸の前で拳を握り締める。
前を向くために。
皆に迷惑を掛けないために。
澪さんは戸惑いながらも、必氏で勇気を出そうとする。

軽音楽部の皆さんが澪さんの後姿を見つめてる。
今度は心配そうな表情じゃなくて、真剣な表情で。
大切な仲間を待つ表情で。
じっと……。

でも、澪さんにはまだその勇気が無い。
勇気を持てるほど、自信を持っててる人じゃない。
それは誰しもが分かってる。
澪さん自身も。
ほとんど赤の他人でしかない私にも。
何より幼馴染みの律さんには特に……。


「あっ」


不意に律さんが真剣な表情から笑顔になった。
こんな状況に似つかわしくない爽やかな笑顔だった。


「そうだ、MC考えておかなきゃ!」


「MCって何?」


「自己紹介とか……。
ほら、コンサートなんかで曲と曲の間で喋ったりするじゃん?」


「あー、あるあるー!」


唯さんの質問に律義に答えてから、律さんが部室の真ん中辺りに脚を進める。
それから、少しだけ沈黙。
MCの内容を考えてるのかな?
私がそう思った瞬間、律さんはすぐに右腕を上げて、
左手をマイクの形に見立てて口元に当てると満面の笑顔で続けた。


「皆さーん! こーんにーちわー!
今日は私達軽音部のライブへようこそー!」


物怖じしていない律さんの笑顔。
凄いなあ、律さん……。
律さん以外には軽音部の皆さんしか居ないけど、観客の数なんて問題じゃない。
逆に身内ばっかりだからこそ、結構恥ずかしいと思う。
私だったら先陣切ってはやれないなあ……。
でも、律さんは素敵な笑顔でMCの練習を続けていた。

172: 2013/02/16(土) 18:41:07.67
「じゃあ、メンバーを紹介しまーす!

ギター!
休みの日にはいつもゴロゴロ!
甘い物は私に任せろ!
のんびり妖精、平沢唯ー!」


ちょっとあんまりな言い方だなあ……、って私は思ったけど、
唯さんは「じゃっじゃーん!じゃらららららら、ぎゅっいーん!」って、
嬉しそうにエアギターを始めた。
あ、そういう紹介でもいいんだ……。
何となく憂ちゃんに視線の横顔を窺ってみると、憂ちゃんも凄く嬉しそうな表情をしていた。
憂ちゃんもそれでいいんだね……。
だったら、私もいいと思う事にしよう。

続いて、律さんが紬さんに視線を向ける。


「キーボード!
お菓子の目利きはお手の物!
しっとりノリノリ天然系お嬢様!
琴吹紬ー!」


「ぽろぽろぽろぽろぽろろろろろろんっ」


紬さんもエアキーボードを始め、律さんのMCに乗る。
大人しい人に見えるけど、結構ノリノリな人だよね。
うん、しっとりノリノリ、って言い得て妙だけどぴったりだと思う。

次に律さんが紹介を始めたのは律さんだった。


「ベース&ボーカルッ!
怖い話と痛い話が超苦手!
軽音部のドン!
デンジャラスクイーン!
秋山澪ー!
あたっ!」


『あたっ!』と律さんの軽い呻き声だ。
紹介が終わるが早いか、澪さんが律さんを叩いていたんだよね。


「誰がデンジャラスだっ!」


「ほら、その感じが……」


澪さんの突っ込みにも律さんは負けない。
デンジャラスクイーンはあんまりだけど、でも、律さんの言葉は間違ってないよね。
よく特徴を捉えていて見事な紹介だと思う。

173: 2013/02/16(土) 18:44:43.96
「最後に私!」


澪さんの拳を物ともせず、律さんはまた楽しそうに続ける。


「ドラム!
容姿端麗、頭脳明晰!
爽やか笑顔で幸せ運ぶ皆のアイドル!
田井中律ー!
あいたっ!」


『あいたっ!』はやっぱり律さんの呻き声だった。
またやっぱり澪さんが律さんを叩いてたんだよね。
釣り目をもっと吊り上げて、澪さんが突っ込む。


「自分だけ持ち上げ過ぎだろ!」


うん、私もそう思う。
律さんが容姿端麗じゃないとは言わないけど、自分だけ持ち上げ過ぎだ。
だけど……。


「あはははははははっ!」


「うふふふふふふふっ!」


唯さんと紬さんから大きな笑い声が上がる。
今を心から楽しんでるって素敵な笑顔。
いつの間にか澪さんも大きく笑い出していた。
私と憂ちゃんも何がおかしいのか幸せな気分で笑ってた。
素敵だな、と思った。
仲間の形。
皆と笑い合える事。
これが私の見たかったものだったんだ、って心から実感する。

律さんも皆さんの笑顔を見届けると、一緒になって笑い始めていた。
大雑把で適当な人に見えたけど、
律さんが部長でこの部は大丈夫なのかなって思ってたけど、
でも、律さんは部長に一番必要な物を持っている気がした。
部員皆を大切にする、っていう、何よりも大切な物を……。

こうして、もうすぐ……。
もうほんの数十分後に、軽音楽部の皆さんの初ライブが始まる。

175: 2013/02/18(月) 18:28:05.14





「次は軽音楽部によるバンド演奏です」


講堂に放送の声が響くと、唯さん達は各々に自らの楽器の場所に陣取った。
キャサリンさんが用意してくれたゴス口リ的(……かな?)な衣装に身を包んで、
初めてのライブなのにとても楽しそうな表情を浮かべながら。
唯さんも律さんも紬さんもとっても楽しそう。
肝が据わってる……って今まで何度も考えてたけど、それはちょっと違ったのかも。
唯さん達だって緊張してるはず。
でも、それ以上に初めてのライブを楽しみたいんだ。
そして、今の皆さんなら楽しめるんだと思う。
一人じゃないから。
一緒に練習を重ねてきた仲間が居るから。

私達は舞台袖の生徒会役員の和さんの隣で、そんな軽音楽部の皆さんの姿を見ている。
ライブが始まる前だって言うのに、皆さんの姿はとても輝いて見えた。
楽しそうな皆さんを羨ましくも思えた。
でも、羨ましいって思うだけじゃ駄目なのも分かってる。
誰かを羨むだけじゃなくて、自分でもそうなろうと努力しなきゃきっと意味が無い。
私には音楽の才能がそんなに無い。
どんなに努力したって、天才の前ではきっと拙い演奏でしかない。
だけど、それでも……。

緞帳が上がる。
観客の拍手に軽音楽部の皆さんが迎えられる。
高鳴る私の鼓動。
緊張した面持ちの憂ちゃんと和さん。


「何あれ?」


「可愛いー」


軽音楽部の皆さんの衣装を見た観客席から軽い歓声が上がる。
これが軽音楽部の衣装でいいのかな……。
って最初は思わなくもなかったけど、インパクト的にはこの衣装でよかったんだろう。
軽音楽部的に正しいのかどうかはともかく、私も衣装自体は素敵だと思うしね。
流石はキャサリンさんって言う所なのかな?

爽やかな表情で拍手が止むのを待つ軽音楽部の皆さん。
もうすぐ……。
本当にもうすぐ、拍手が止んだら、軽音楽部の演奏が遂に始まる。
私が見届けたかった皆さんのライブを見る事が出来るんだ。

だけど……。
爽やかな表情の皆さんの中で、一人だけ緊張した表情の人が居た。
全身を震わせて、目の端には涙まで浮かべて、
その場から逃げ出さないようにするのが精一杯って様子の人が……。
勿論、それは澪さんだった。
舞台の中央に居るだけあってその様子が目立つ。
目立つ場所に居るだけに余計に目立ってしまっている。
さっきMCの練習をする事で少しは落ち着けたんだろうけど、
でもきっと初めてのライブの重圧を目前にして押し潰されそうになっちゃってるんだ……。

176: 2013/02/18(月) 18:29:27.06
分かる……。
私にも分かるよ、澪さん……。
私はそんなに大きな場所で演奏した事はほとんど無いもん。
ギターを聴かせるのも、家族かあの子か限られた人達の前だけだった。
学校の講堂とは言え、こんなに大きな会場で演奏した事なんて無かった。
将来、音楽関係の職業に就きたいと考えながらも、多分、私は逃げちゃってたんだ。
将来の事を考えるなら、才能の有無に関わらずどんどんライブをするべきだったのに。
場数をこなしておくべきだったのに。
私は目立つ場所で演奏する事から逃げてた。
それはきっと、誰かに評価される事から逃げるためだった。
自分の限界を思い知らされたくなかったから。
だから、私は結局、最終的には自分とあの子を追い詰めてしまう結末を迎えたんだよね……。

そんな私がこんな事を考えるのは変かもしれない。
でも、考えずにはいられなかった。
胸の前で手を組んで、私は必氏に考えてた。


澪さん、頑張って。


って。
澪さんの緊張は分かるし、逃げ出したい気持ちも共感出来る。
でも、逃げないでほしかった。
澪さんの精一杯の演奏を見せてほしかった。
今日まで私は澪さんや軽音楽部の皆さん、
和さんにキャサリンさん、それに憂ちゃんの様子をずっと傍で見て来た。
皆、素敵な人達だった。
軽音楽部の皆さんは素敵な仲間達だった。
部員全員が皆の事を考える憧れのクラブだった。
澪さんが緊張と戦いながら努力して来た事も知ってる。
今日、朝からずっと澪さんが部室で歌の練習をしてたのだって知ってるんだもん。
出来る事なら、それを澪さんに伝えてあげたい。
澪さんはずっと努力してたって事を。私達はそれを知ってるって事を。

だけど、私にはそれが出来ない。
澪さんは私の事なんか全然知らないし、声を掛けた所で聞こえない。
こんな状態だから澪さんの事をよく知れたのに、
こんな状態だからこそ私は澪さんにこの想いを伝える事が出来ないんだ……。
何て……、何てもどかしいんだろう……。

遂に舞台上の澪さんが目を閉じる。
今にも膝を着いて泣き出してしまいそう。
私には何も出来ない。
澪さんに対して何も……。

でも、その瞬間。

177: 2013/02/18(月) 18:32:24.72
「澪ちゃん」


舞台上に声が響いた。
優しい、温かさを持った、嗄れた声。
唯さんの声だった。
澪さんは目を開き、唯さんの方に視線と身体を向ける。


「皆、澪ちゃんが頑張って練習してたの、知ってるから!」


唯さんが素敵な笑顔を澪さんに見せる。
傍から見てる私達の緊張まで解かす様な笑顔。


「そうだよ、澪」


「澪ちゃん」


続いて律さんと紬さんが微笑んで頷く。
軽音楽部の仲間の中にだけある絆を感じさせられる。
そう……。
そうだよね……。
澪さんの頑張りを知ってるのは私と憂ちゃんだけじゃない。
私達なんかより唯さん達の方が澪さんの事をよく知ってるんだ……。
私には澪さんに何もしてあげられない……。
ううん、何もしなくてよかったんだよね。
その方がよかったんだ。
澪さんにはこんな素敵な仲間達が居る。
見ててくれる人達が居る。
そんな中で私が何か言っても、単なる大きなお世話になっちゃうよね。


「絶対大丈夫だよ、頑張ろ!」


澪さんが不安気に観客席に視線を戻したのを見届けた後、唯さんが最後に言った。
澪さんの表情から不安は消えてない。
不安を完全に消し去るのなんて、絶対に不可能だと思う、誰にだって。
それでも、澪さんの全身の震えは止まっていた。
もう逃げ出そうとしたりなんてしない。
大切な仲間達が見てくれてる事が分かったから。

178: 2013/02/18(月) 18:33:03.63
「ワン・ツー・スリー・フォー・ワン・ツー・スリー!」


律さんがドラムのスティック同士を叩いてリズムを取った。
唯さんのギターの演奏が始まり、澪さんと紬さんがそれに手拍子を合わせる。
軽音楽部の皆さんのライブ……、
『ふわふわ時間(タイム)』の演奏が遂に始まる。
私と憂ちゃんとキャサリンさん和さんと……、
誰よりも軽音楽部の皆さんが望んでた最高の演奏の時間が……!


「君を見てるといつもハートDOKI☆DOKI」


澪さんが旋律に歌声を乗せていく。
ちょっと気恥ずかしくなっちゃう歌詞。
澪さん自身が作詞した甘々な想いの丈。
朗読するだけなら相当恥ずかしい気もする。
でも、音楽に乗せて歌うとなると話は変わって来る。
甘々な歌詞に似つかわしくなく思える疾走感溢れるそのメロディー。
合わせると不思議と旋律と歌詞が合致して、歌詞の意味がそのまま耳と頭に届く。

特訓してたって言ってただけあって、唯さんのギターの腕前は見事だった。
高校生になってからギターを始めたなんて思えないくらい。
その意味では唯さんも私よりよっぽど音楽の才能があるって言える。
でも、もう悔しくない。
唯さんはきっと自分の音楽の才能なんてどうでもいいって考えてる。
そんな事より、ただ音楽と仲間とのセッションを楽しもうって考えてる。
唯さんの表情を見てると、それがよく分かる。
私にはそんな唯さんの姿がただただ眩しい。

律さんと紬さんの演奏も唯さんのギターに華を添える。
紬さんのキーボードのメロディーは優しかったし、
ついこの前まで走り気味だったはずの律さんのドラムは走ってなかった。
ただ唯さんのギターと澪さんの歌声を支えてる。
何だか律さんと紬さんの軽音楽部の中での立ち位置みたい。
信頼し合って、支えてるお二人の姿。


「お気に入りのうさちゃん抱いて」


澪さんが少しずつ笑顔を浮かべながら、歌い続ける。
唯さんのコーラスに支えられて、ちょっと苦笑に似た感じの笑顔で。
ベースの腕前は勿論だったけど、澪さんの歌声は講堂の中に一際印象的に響いてる。
何だ……。
やっぱり澪さんの歌、すっごく上手いじゃない……。
自分の歌に自信が無い私には羨ましい限りだけど、澪さんにとっては別問題なんだろう。
悩み事は人それぞれ。
小さく思える澪さんの悩みだって、本人にとっては大きい物。
私の中で凄く大きく思えてた悩みだって、きっと傍から見ると小さな悩みなんだよね。
だから、私も真正面から向き合おう。
それから、打ち克ちたい。
今の澪さんみたいに、私だって。


「ふわふわ時間……!」


澪さんの歌声が終わり、演奏も終了する。
私の見たかった軽音楽部の皆さんの演奏。
私が本当に手に入れたかったもの……。
聴けて……、見れてよかった。
心の底からそう思う。
私のお願いもこれで決まった。
だけど、その前に私には最後に一つだけやりたい事が出来た。
それは……。

179: 2013/02/18(月) 18:35:42.88
「梓ちゃん……!」


不意に感極まった表情で憂ちゃんが言った。
今にも泣き出してしまいそうなくらい、感激した表情。
気が付けば私も目尻に温かい物を感じていた。
泣き出したりまではしなかったけれど、でも、いつの間にか涙ぐんではいた。
軽音楽部の皆さんの演奏が素敵だったのは確かだけど、
でも、それ以上に今感激出来てるのは、隣に憂ちゃんが居る事と無関係じゃない。
一緒に居てくれて、よかった……。
一緒に居てくれて、本当にありがとう、憂ちゃん……!

私達の表情を皮切りに……ってはずはないけど、
でも、ほとんど同じタイミングで観客席から大きな拍手が上がり始める。
お愛想やお世辞の拍手なんかじゃない大きな拍手に、軽音楽部の皆さんが包まれる。
唯さん、律さん、紬さんが清々しい笑顔を浮かべる。
そして、澪さんが戸惑ったように観客席を見渡すと……。


「皆……、ありがとおおおおおおっ!」


澪さんらしからぬ大声で感謝の言葉を叫んだ。
最高のライブに出来たんだ、観客の人達にとっても、澪さんにとっても。
また更に大きな拍手に包まれ、軽音楽部の皆さんが一礼する。
私にとっても夢の様な時間だった。
でも、夢じゃない。
夢にしてちゃいけない。
私の現実にしなきゃいけないんだ……。

澪さん達が舞台袖に下がろうと歩き始めた。
最高のライブの余韻を感じながら、未来に向かって歩いて行く。
私も未来と将来に向かって進まないといけないよね。

……と。


「あっ」


私は思わず呻くみたいに呟いていた。
帰り際、澪さんがベースとアンプを繋げたコードに足を引っ掛けた事に気付いたからだ。
呟いた所で澪さんには聞こえなかったし、もう遅かった。

180: 2013/02/18(月) 18:36:13.09
「ふわっ?」


大きな音を立てて正面から見事に澪さんが転倒した。
うわあ……、すっごく痛そう……。


「澪ちゃんっ?」


唯さんから心配した声が上がり、
澪さんが痛そうに四つん這いにって顔を上げる。
痛そうなのは確かなんだけど、それより……。
倒れた衝撃で澪さんのスカートが捲り上がってて、それが観客席の方に……。


「いやああああああああああああああああああっ!」


水色の縞々パンツを観客席に見せてしまってる事に気付いた澪さんが、
今日一番の大きな叫び声を講堂中に響かせた。
澪さん、こんなに大きな声も出せるんだ……。
って、水色の縞々パンツ穿いてるんだね、澪さん……。


「ねえ、梓ちゃん……」


澪さんの叫び声に苦笑してしまってる憂ちゃんが、不意に私に訊ねた。
何故か手にポケットティッシュを持ちながら。
私は首を傾げながら憂ちゃんに訊ねてみる。


「どうしたの、憂ちゃん?」


「鼻血出てるよ、大丈夫?」


「あっ……」


言われて初めて、私は自分が鼻血を出している事に気が付いた。
ひょっとして、澪さんの水色縞々パンツを見ちゃったから……?
いやいやいやいや。
これはそう……、素敵なライブの余韻に興奮が冷めなかったから……。
そういう事なんだ。
そういう事なんだ……よね?

183: 2013/02/26(火) 05:24:29.69





憂ちゃんに手渡されたポケットティッシュで鼻血を拭った後、
私と憂ちゃんは軽音楽部の部室が入っている校舎の屋上に座り込んでいた。
少し肌寒さを感じる時期のはずなのに、屋上に吹く強い風は全然冷たくなかった。
胸と心が温かくて、むしろ熱さまで感じるくらい。
素敵な学園祭だった。素敵なライブだった。
それくらい……、とっても素敵な演奏だったんだと思う。


「お姉ちゃん達、すっごくカッコよかったね、梓ちゃん……」


私と肩を並べて座っている憂ちゃんが頬を紅潮させて呟く。
やっぱり唯さんの事ばかり見てたのかな、
って一瞬考えはしたけど、私はすぐにその考えを振り払った。
憂ちゃんはお姉さんの事が大切で、唯さんの事が大好きだけど……、
でも、憂ちゃんはそれだけの子じゃないんだもんね。
唯さんと同じくらい……、ってのは言い過ぎかもしれないけど、
でも、憂ちゃんには唯さん以外にもたくさんの大切なものがあるんだよね。
桜高軽音楽部の皆さんやキャサリンさん……、
自意識過剰かもしれないけど、私の事だって大切に思ってくれてるはず。

そう考えていると、憂ちゃんは私の思った通りの言葉をまた呟いてくれた。
心の底から溢れ出る笑顔を隠せない様子で、呟いてくれた。

「お姉ちゃん、カッコよかった……。
あんな大勢のお客さんの前で演奏出来るくらいの腕前があって、
澪さんや律さんや紬さん……、皆さんの事を勇気付けられる優しさもあったなんて……。
私はお姉ちゃんの妹だからそんな事分かってたけど……、
分かってたつもりだったけど……、でも、全然分かってなかったんだ……!
私ね……、それが……、それがすっごく嬉しいの、梓ちゃん……!
私の知らないお姉ちゃんのいい所を見られて……、すっごく……!」


「うん……、いい演奏だったよね、本当に……」


「でもね、梓ちゃん……。
今日はそれよりも、もっとよかった、って思ってる事があるんだよね。

それはね……、お姉ちゃんの大切な友達の事を知れた事なんだよ。
律さん、澪さん、紬さん、和ちゃんにクラスの人達やキャサリンさん……、
皆さん……、お姉ちゃんの事を見ててくれてて、大切に思ってくれてて、
お姉ちゃんも同じくらい皆さんの事を大切に思ってるのがよく分かって……。
だから、あんな素敵なライブになって……!
私ね、それが……、その事がとってもとっても嬉しいんだ……!」


ほら、と私も溢れ出る笑顔を隠せなくなった。
憂ちゃんは色んな事を見ている子なんだよね、私の事も含めて。
お姉さんの唯さんの事が大切だからこそ、
唯さんが大切な全ての人達の事も大切に思ってて……。
それで憂ちゃんはこんな素敵な優しさを持てるようになったんだと思う。

顔を見合わせて、二人で笑う。
吸い込まれそうな憂ちゃんの笑顔に、私はちょっと心臓を高鳴らせてしまった。
さっきから見てたはずなのに、いざ憂ちゃんの笑顔を間近に見ちゃうと何だか照れちゃうな……。
私は軽く咳払いをして、頬のくすぐったさを誤魔化すために軽口を叩く事にした。


「ねえ、憂ちゃん?
素敵なライブだったのは確かだと思うよ。
でも……」


「何?」


「唯さんのコーラス、すっごく嗄れた声だったよね」


「それは……、うん……」

184: 2013/02/26(火) 05:24:59.37
私の言葉に、憂ちゃんが困った感じの苦笑を浮かべる。
反論しなかったのは、憂ちゃん自身もそう感じていたからだと思う。
今日のライブはとっても素敵なライブだった。
でも、完璧なライブだったわけじゃない。
澪さんがこけてしまったトラブルは仕方が無いにしても、
唯さんの嗄れた声のコーラスだけは言い訳出来ないくらい浮いていた。
『ふわふわ時間(タイム)』の旋律が甘くて爽やかなだけに特に際立って……。
完璧なライブと呼ぶには程遠い唯さん達の初ライブ。
成功ではあったけど、細かい所では失敗しちゃってる初ライブだったんだよね。

だけど、憂ちゃんは私の見たかった……、
私の大好きなとびきりの笑顔になって続けてくれた。


「でも、お姉ちゃん達、すっごく楽しそうだったよね!」


それは唯さん達の弁護のためでも、
私への誤魔化しのためでもないまっすぐな言葉。
憂ちゃん自身が本気でそう思ってる、って事がよく分かる言葉だった。

うん、そうだよね。
照れ隠しに憂ちゃんにちょっと意地悪しちゃったけど、本当は私だってそう思ってた。
そう思ってたからこそ、私は憂ちゃんと同じに笑顔を隠し切れなくなっちゃうんだよね。
溢れ出す笑顔をまた止められなくなる。
だから、私はまた笑顔になって、憂ちゃんに向けて力強く頷いた。
もう胸の高鳴りを無理に沈めようともしなかったし、したくなかった。


「楽しそうだったよね、唯さん達……」


呟きながら、まだ余韻の残るさっきのライブの事を思い出す。
今日の学園祭を唯さん達は心から楽しんでた。
初ライブだけじゃなくて、多分、演奏するまでの全ての事を。
お化け屋敷の準備、焼きそばの出店、荷物運び、
キャサリンさんが用意した衣装でのコスプレ、MCの練習……。
初めての学園祭を楽しみ切ろうって様子で、たくさんの事を全力で。
だから、皆さんはあんなに楽しそうだったんだよね。
固さと緊張こそ解けなかったけど、あの澪さんまで最後には少し楽しそうに見えたくらいに。

ああ、そうなんだよね……。
もうはっきりと自覚出来るよ。
私が本当に欲しかったものはやっぱりこれだったんだって。
私は一緒に笑い合えて楽しみ合える仲間が欲しかったんだ。
例え色んな失敗をしちゃったって、今日の唯さん達みたいに全てを楽しめる仲間が。
そのために必要なのが音楽の才能なんだって、私は勝手に思い込んでた。
才能が無い、周りから認められない音楽を続けてたって意味が無い。
大した実力も無しに音楽を楽しむなんて、やっちゃいけない事なんだって。

今考えてみると、私はただ、将来に誰からも認められなくなるのが怖かったんだと思う。
私は自分の性格にそんなに自信が無い。
あの子とだって親友になるまで長い時間が掛かった。
面倒で可愛げの無い性格だって自分でも思う。
だから、音楽の才能っていう、別のものを求めちゃってたのかもしれない。
音楽の才能があれば、私の性格に難点があっても、皆が付いて来てくれるかもしれないから。
どんな事があっても、皆と音楽を続けられるかもしれないから。

本当はそういう事じゃないのに。
皆と……、あの子と音楽を続けたいんだったら、
どんなに才能が無くても、あの子と話し合うべきだったのに……。
それが私の犯しちゃった失敗なんだよね……。

自分の心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。
勿論、それはあの子との事を考えて、辛い気持ちが湧き上がって来るから。
後悔と悲しさが湧き上がってくるから。
だけど……、でも……。
私にはそれ以上に心臓が早く動いちゃう理由があるんだ。

今、この時、私の目の前にいる女の子。
私と同い年なのに、同学年なのに、私よりずっとしっかりしてて、
可愛くて、優しくて、私の事を大切にしてくれる、私に前に進む勇気をくれた女の子。
憂ちゃんが傍に居てくれたから。
傍で笑っていてくれたから。
私は勇気を出して我侭を言わないといけない。
もうすぐ来る、別れの前に。

185: 2013/02/26(火) 05:25:54.78
「ねえ、憂ちゃん……?」


喉がカラカラに渇いて、泣き出しそうなくらい緊張するのを感じながら声を出す。
大した事を言うつもりじゃないのに、胸が痛いくらいに心臓の動悸が激しくなる。
「何、梓ちゃん?」と憂ちゃんが笑顔で首を傾げる。
優しい憂ちゃんの笑顔が私を包む。
その笑顔がまた私の気持ちを一歩進めてくれた。


「『一生に一度のお願い』の日までにね……、私、やりたい事があるんだ」


「やりたい事……?」


「うん、実はね、私……」


大きく深呼吸。
本当は怖い。
憂ちゃんにそれが断られる事がじゃなくて、自分の無力を思い知らされる事が。
才能が全てじゃないって分かり掛けては来たけど、それでも、やっぱり……。
弱くて悩んでばかりの私がそれを受け止められるのかって。

だけど、もう私達には時間が残されてなかったし、それ以上に私は変わりたかった。
憂ちゃんとのこの一週間はもうすぐ終わる。
システムのルール通りなら、きっと今日まで起こった全ての事は記憶に残らない。
何もかも忘れ去ってしまうはずだ。
だったら、これから私がしようとしてる事には何の意味も無い……?

ううん、そうじゃない。
そうじゃないって信じる。
もうすぐ忘れてしまうとしても、今この時に勇気を出そうと思えた事だけは真実だと思いたいから。
信じたいから。
私は精一杯の勇気を出して、想いを言葉にするんだ。


「憂ちゃんと……、セッションしてみたいんだよね。
二人でギターで、『ふわふわ時間(タイム)』の……」


「えっ……?」


私の言葉を聞いて、憂ちゃんが驚いた表情を浮かべる。
それはそうだと思う。
憂ちゃんには凄い才能があるけれど、憂ちゃん自身はそれにまだ気付いてないはずだもん。
そんな状態でセッションだなんて言われても、戸惑って当然だよね。
それは分かってるけど、私は憂ちゃんのギターの本当の腕前を知りたかったし、
それよりも何よりも、二人で『ふわふわ時間(タイム)』をセッションしてみたかった。
私と憂ちゃんを繋いでくれた軽音楽部の皆さんの曲。
私に大切なものを見つけさせてくれた『ふわふわ時間(タイム)』を。

残された時間で完璧な演奏が出来るなんて考えてない。
きっと出来の悪い演奏になっちゃうはずだと思う。
それでもいいんだ。
残された時間、私は憂ちゃんとそうして過ごしたいと思ったんだもん。

私は戸惑った表情の憂ちゃんの両肩に手を置いて、真剣な眼差しを向ける。
完全に私の単なる我侭だけど、それでも憂ちゃんと一緒だから、
憂ちゃん相手だからこそ、言いたくなった我侭だって事を分かってもらうために。


「いきなりこんな事を言われても困っちゃうのは分かるよ、憂ちゃん。
自分でも変な我侭だって思うよ、正直……。
でも……、でもね……、私、憂ちゃんと演奏してみたいの。
分からない所があったら私が精一杯教えるから……!
だからね……!」


「あの……、えっと……」


「と言っても、私にも耳コピは無理なんだよね。
だからね、今から私、軽音楽部の部室に行ってくるよ。
勝手にだけど、楽譜をコピーさせてもらって、それを見ながら憂ちゃんと練習したい。
『一生に一度のお願い』を願うその寸前までそうしたい。
もしも……、もしも憂ちゃんが……よければだけど……」

186: 2013/02/26(火) 05:26:27.00
私の言葉はそれで終わった。
これ以上の言葉は無理強い過ぎたし、無理に憂ちゃんに付き合ってもらっても辛かった。
これで憂ちゃんが嫌だと言うなら、それも仕方無かった。
それは憂ちゃんが悪いわけじゃなくて、私が憂ちゃんに迷惑しか掛けなかったって事だもんね……。
とても悲しい事だけど、それはそれで私の一つの結果なんだと思うもん……。

憂ちゃんはまだ戸惑った表情を浮かべてる。
私の申し出を断る言葉でも考えてるのかな……?
そう思って胸の痛みを強く感じていると、不意に憂ちゃんが静かに口を開いた。


「楽譜のコピーなんて……、行かなくてもいいよ、梓ちゃん」


「そう……なんだ……」


辛うじてそう言葉には出来たけど、本当は泣き出してしまいそうだった。
自業自得なのは分かってる。
憂ちゃんと出会って、私は憂ちゃんに迷惑ばかり掛けちゃってたもんね。
最後の最後まで憂ちゃんの優しさに頼るなんて、いくら何でも憂ちゃんに失礼だよ……。
辛いけど……、本当に辛いけど……、断ってくれた憂ちゃんに感謝するべきなんだよね。
勇気を最後に出せただけ……、それだけでよかったと思えなきゃ……。


「ごめん……ね、憂ちゃん……。
私、変な事、言っちゃって……」


私は掠れた言葉で呻くみたいに呟いた。
言葉に出せた事が奇跡的なくらい、自分でもその声が掠れてるって分かった。
憂ちゃんは私のその声色に驚いた表情を浮かべてた。
まさか私がこんなに悲しそうな顔をするなんて思ってなかったのかな……?
憂ちゃんは優しい子だから、私の事を思って、
申し出を受け入れてくれる気になってくれたのかもしれない。
でも、そんなのは嫌だ……。
もう憂ちゃんの優しさに頼るだけの私じゃ居たくないよ……。

憂ちゃんがきっと泣き出しそうにしてるんだろう私の表情を見ながら続ける。


「ご、ごめん、梓ちゃん。
私、びっくりして言い方を間違っちゃったみたいで……」


「う、ううん、気にしないで、憂ちゃん……。
はっきり断ってくれてありがとう……。
自分でも……、我侭だって分かってたから、だから……」


「そうじゃなくて……ね。
私はね、梓ちゃん、楽譜のコピーには行かなくていいんだよ、って。
それだけを梓ちゃんに伝えたかったんだよ。
言う順番を間違っちゃって、ごめんね……」


「どういう……事……?」


「実は……ね」


憂ちゃんがとても申し訳無さそうな顔になって、
スカートのポケットの中から綺麗に折り畳まれた紙を取り出した。
厚さからすると五枚くらいはあるだろうか。
憂ちゃんはその紙を開くと、私に静かに手渡してくれた。
その紙に記されていた言葉は……。

187: 2013/02/26(火) 05:26:59.51
「君を見てるといつもハート……」


はっとして顔を上げると、憂ちゃんがとても真剣な表情で頷いていた。
それ以上読まなくても分かる。
憂ちゃんがポケットの中に入れてたのは、
『ふわふわ時間(タイム)』の楽譜のコピーだった。
びっくりした私は憂ちゃんにまた掠れた声で訊ねた。


「これ……、どうした……の?」


「昨日ね、トイレに行く振りをして、梓ちゃんに隠れてコピーさせてもらってたの。
私もね……、梓ちゃんとこの曲の練習がしてみたかったんだ……。
教えてもらいたかったんだ……。
でも、梓ちゃんは『一生に一度のお願い』の事を考えなきゃいけない時だし、
お姉ちゃん達のライブを見るまで集中して欲しかったら……、
ううん、断られたらどうしようって思うと、言い出せなかったんだよね……。

だから、梓ちゃんの方から言い出してくれた時、びっくりしちゃったの……。
梓ちゃんも同じ気持ちで居てくれたんだ、って。
嬉しい気持ちとびっくりした気持ちがごっちゃになって、
それで……、変な言い方になっちゃったみたい……。
本当にごめんね……。
だけど、梓ちゃんとこの曲の練習をしたいって言うのは、私の本心なんだ……」


「どう……して……?」


「梓ちゃん達が一生懸命だったから」


「私が……?」


「うん。
この一週間、梓ちゃん、すっごく一生懸命だったよ。
自分のお願いと夢を見付けるために凄く頑張ってた。
音楽の事、とっても真剣に考えてるみたいに見えたの。

だからね、梓ちゃんやお姉ちゃん……、
律さん達やキャサリンさんが一生懸命な音楽の事、もっとよく知りたくなったんだ。
残された時間じゃそんなに上達出来ないだろうし、
この曲を演奏するなんて無理かもしれないけど……、でも、私、ちょっとだけでいいの。
ちょっとだけでも梓ちゃんと音楽を経験してみたいんだ。
だって私、梓ちゃんの事、もっとよく知りたいんだもん。

私からもお願いさせて、梓ちゃん。
残り少ない時間だけど、何処まで出来るか分からないけど、
私、梓ちゃんと『ふわふわ時間(タイム)』の練習がしたいな……!
私の勝手な我侭だけど、引き受けてくれる……?」


言い終わって、憂ちゃんは柔らかい苦笑を浮かべる。
すれ違ってるみたいで同じ様な事を考えてた私達に対して苦笑いするみたいに。
釣られて私も少し苦笑。
これまで色んな事ですれ違ってた私達だけど、最後くらいはすれ違わずにいられたみたい。
私にはそれがとっても嬉しかった。
だから、私は信じよう、って思った。
私を大切にしてくれてる憂ちゃんの事を。
憂ちゃんが一生懸命だと言ってくれる私自身の事を。
まだ自信はあんまり持てないけど、私が私を信じないのは、憂ちゃんにとても失礼だと思うから。

私は涙を心の片隅に追いやって、自分に出来る精一杯の笑顔を浮かべる。
憂ちゃんの信じてくれる私の笑顔を見せて、口を開いて想いを言葉に乗せた。


「勿論だよ、憂ちゃん。
一緒に……、『ふわふわ時間(タイム)』の練習、しようね……!」

189: 2013/03/02(土) 18:39:29.77





「痛っ……」


ギターの練習中、不意に部屋の中に軽い呻き声が聞こえた。
憂ちゃんの手を掴んでその細い指に視線を向けると、
すぐに私は軽い一本線の傷を憂ちゃんの人差し指に見つけた。
うん、少しだけ皮がむけてるみたい。
私は念のため用意していた消毒スプレーを、憂ちゃんの指に噴き掛ける。


「んっ……」


「沁みる?」


「だ、大丈夫だよ、梓ちゃん……。
面倒掛けちゃってごめんね……」


「それは別にいいんだけど……。
でも、無理しちゃ駄目だよ、憂ちゃん。
力を入れ過ぎたら弦で指を切っちゃうって言ったでしょ?」


「それは分かってるんだけど、でも、力を入れないと音が出なくて……」


「それもそうなんだけどね。
でも、憂ちゃんはまだ練習を始めたばっかりだし、
指の皮がまだギターの弦に慣れてないんだから、無理するとすぐむけちゃうの。
ギターってそういう物だから、少しずつ慣らしていくしかないんだよ」


私が微笑み掛けると、逆に憂ちゃんは落ち込んだ表情を浮かべてしまった。
憂ちゃんの気持ちは私にもよく分かる。
私の場合もお父さん達の腕前が凄いから、
少しでも早く追い着こうと無理して練習してた事があったんだよね。
それで何度、指の皮がむけちゃったっけ……。
うーん……、あの時の痛さはちょっと思い出したくないなあ……。

唯さん達の学園祭が終わってから一日。
私達は早起きしてからギターの練習を始めていた。
昨日は休む事に専念する事にして、ごはんを食べたらすぐに眠った。
今日……、多分、『チャンスシステム』の『お願い』の期限の日。
とっても忙しくなるんじゃないかな、って思ったんだよね。
今日の終わりまでに体力が尽きちゃっても本末転倒だし、私達の選択は間違ってないと思う。

ひょっとしたら、今日が終わっても『チャンスシステム』の期限は来ないかもしれない。
神様が何かの気紛れで期限を延長してくれる可能性は確かにあった。
試した人なんて居るわけじゃないから、試してみる価値はあるのかもしれない。
でも、私はそれを試すのはやめておこうと思った。
私の『一生に一度のお願い』は凄いお願いじゃない。
ほんのちょっとした……、とても些細なお願いだ。
例え叶えてもらえなかったとしても、そんなに気にもならない。
憂ちゃんと長く一緒に居られるか試す事の方が、よっぽど大切に思える。

だけど、私はそれをしちゃいけない、って心に決めていた。
一週間って期限は私のけじめだったし、
私の『お願い』が叶わない事を憂ちゃんは望まないはずだから。
その『お願い』がどんな些細なものだとしても。

だから、今日で『チャンスシステム』は終わり。
私達はどんな出来でも『ふわふわ時間(タイム)』を二人で弾いて、
それから私の『一生に一度のお願い』を神様か誰かに届けて、そうしてお別れをする。
憂ちゃんは何もかも忘れて元の生活に戻って、私は次の『ナビゲーター』になる。
私達に出来るのは、それまで精一杯ギターの練習をする事だけなんだ。

190: 2013/03/02(土) 18:40:08.78
「じゃあ、憂ちゃん、絆創膏を貼るね」


箱の中から絆創膏を取り出そうとすると、
憂ちゃんが私の手首を掴んでから首を振った。


「ううん、絆創膏は貼らないで、梓ちゃん」


「えっ、でも……」


「いいの、私は大丈夫だよ、梓ちゃん。
皆、何度も皮がむけながらギターの練習をしてるんだよね?
お姉ちゃんの練習を見てたから、私もそれは知ってるよ。
だから、いくら皮がむけても大丈夫だよ。
それがギターが上達するための一歩なんだもんね」


憂ちゃんが優しく微笑む。
そこまで言われたら、憂ちゃんに絆創膏を貼っちゃうわけにもいかないよね。
私は絆創膏を箱の中に片付けて、まだ髪を結んでない憂ちゃんの頭に軽く手を置いた。


「うん、分かったよ、憂ちゃん。
でも、無理だけはしないで、痛い時は痛いって言ってほしいんだ。
実はね、こんな目標はどうかって自分でも思うんだけど、
私、どんなに下手な演奏でも、出来る限りの演奏でいいって思うんだよね。
今日一日の練習で出来る演奏でいいんだよ、本当に……」


「今日一日の練習で出来る演奏……?」


「勿論、ちょっとくらいの無理はするけど……。
でも、必要以上の無理をしても意味が無いって思うんだ。
そんなの、私の演奏じゃないし、私達がやりたかった演奏でもないよ。
だから、下手でも、一生懸命な自分達なりの演奏にしたいんだ」


「そう……なの……?」


「うんっ!」


私が大きく頷くと、憂ちゃんも私に続いて笑顔で頷いてくれた。
憂ちゃんがすぐに納得してくれたのは、昨日のライブをまだはっきりと憶えてるからだと思う。
私だって目を瞑れば鮮明に思い出せる。
上手さとか技術とか、そういうものを超えた唯さん達の昨日のライブ。
本当に素敵で、私も軽音楽部の皆さんみたいな演奏をしたいって思った。
憂ちゃんとそうなりたいって思ったんだ。

朝ごはんを食べた後、私のお父さんの部屋から拝借したギターに憂ちゃんが視線を向ける。
柔らかな数秒の沈黙。
それから、少しだけ傷の出来た指を見つめて、憂ちゃんは微笑んだ。
口を閉じたまま、私の瞳を見つめて笑ってくれたんだ。
分かったよ、梓ちゃん。
憂ちゃんの瞳はそう言ってくれてるように見えた。
私は小さく頷いて、憂ちゃんと同じくまだ結んでない髪を掻き上げてから、口を開いた。

191: 2013/03/02(土) 18:40:50.19
「じゃあ、ちょっとだけ休憩しちゃおうよ、憂ちゃん。
ちょっと早いけど、お昼ごはんにしちゃおう。
お腹が空いたら練習にも支障が出ちゃうもんね」


「そうだよね。
だったら、今から私が準備を……」


言い様、立ち上がろうとした憂ちゃんの肩に私は手を置いた。
そのまま私の方が立ち上がって、軽く微笑み掛ける。


「いいよ、憂ちゃんはゆっくり練習してて。
いつも準備してくれてたんだし、今日くらいは私にごはんの準備をさせてよ」


「えっ、でも……」


「あっ、もしかして、私にごはんが作れるか心配してるの?
大丈夫だって。
確かに今まで憂ちゃんにごはんの用意をしてもらってたけど、
私だって料理の本を見ながらだったらそれなりのごはんを作れるんだから。
……信用出来ない?」


「そんな事、無いけど……」


「だったら、任せてって」


精一杯の自信に満ちた表情を憂ちゃんに見せる。
憂ちゃんは私に悪いと思ったのかちょっと迷ってたけど、
私の厚意を無視するのも申し訳無いって思ってくれたんだろう。
普段の優しい笑顔に戻って、肩に置いた私の手にその手を重ねてくれた。


「それじゃあ、ごはんの用意をお願いしてもいい?」


「うん、任せてよ。
ちゃちゃっと料理してくるから、憂ちゃんは……」


「うん、無理せず、一生懸命に練習しておくね」


「分かればよろしい」


私が軽口を叩いて、二人して笑い合う。
最後の一日なのに危機感が無さ過ぎる気がしないでもない。
でも、それでよかったんだと思う。
今日で最後だからって、憂ちゃんとの関係を劇的に変えたいわけじゃないもんね。
私は今まで見せてくれた憂ちゃんの優しさに惹かれてるんだもん。
だから、私も今まで憂ちゃんが信じてくれてた私のままで何かを成し遂げたいんだ。
結果、あんまり出来の良くないセッションになっちゃったって、それはそれで私は満足だ。

……なんて考えてはみるけど、実はあんまり心配はしてなかったりするんだよね。
私のずっと考えてた通り、憂ちゃんの技巧がとても凄かったから。
天才なのかどうかはともかく、少なくとも私よりはずっと筋がいい。
流石に今まで積み重ねてきた私の数年に一日で辿り着くほどじゃないけど、
二年……、ううん、一年くらい毎日練習すれば、私の実力なんて超えちゃうんじゃないかな。
悔しくないって言ったら嘘になる。
だけど、そんな事よりも今は、憂ちゃんの技巧に感心しちゃう気持ちの方が強かった。
基本を教えてる私の方が勉強になっちゃうくらいなんだよね。
そんなやり方があったんだ、って基本を再確認出来る。
それは私にとっても凄くためになる事だった。
うん。憂ちゃんって、本当に凄い子だなあ……。

192: 2013/03/02(土) 18:41:25.29
だけど、同時に思う。
憂ちゃんの技巧は凄いけど、将来的にプロになる事も無いんじゃないかな、って。
勿論、憂ちゃんの技巧に申し分は無い。
これから練習すれば、誰よりも凄い演奏が出来るようになるはず。
でも、プロの音楽ってそういう物じゃ無いんだって事も、私は何となく分かってる。
プロの音楽はたくさんの人に受け入れられる。
限られた人の心だけに残る音楽じゃなくて、たくさんの人が好きになる音楽が演奏出来る。
それはとっても凄い事で、滅多に出来る事じゃ無いし、出来る人こそがプロになっていく。
私はともかく、憂ちゃんの技巧ならそれが出来るようになるかもしれない。
たくさんの人に受け入れられる音楽を今から目指していけば、将来的にはきっと。
それでも、憂ちゃんはそれを求めない。
それはきっと、私の目指してる音楽も同じで……。

うん、やっぱり私は三流だ。
今だけじゃなくて、将来的にもずっと三流のままだと思う。
だけど、でも、三流にだって出来る事、三流だからこそ出来る事があるはずだから……。
だから、今日は精一杯、無理せず一生懸命に頑張ろう。
それが私の本当に求めてた物に繋がるはずだって信じて。

まあ、そのためには、まずちゃんとしたごはんを作らないといけないんだけどね。
料理の本を見ながらなら作れる……よね?
お母さんの手伝いだって結構してたんだし、調理実習もやった事があるし、カレーくらいならきっと……。
あ、不安になって来た。
駄目駄目。
憂ちゃんが練習に専念出来るように頑張らなきゃ……!

それにカレーならお昼ごはんと夜ごはんにしても飽きは来ないはず。
一度作っちゃえば、温めるだけで夜のごはんにも出来るんだもん。
結果的に私達の練習時間を延ばせるはずだもんね。
そうやって、私は憂ちゃんとじっくり楽しく練習するんだ。
じっくりとこんなに優しい憂ちゃんの笑顔と一緒に……。

不意に。
憂ちゃんの笑顔を見ながら、私は胸が強く鼓動するのを感じた。
ずっと訊ねてみたかった事、訊ねようとしながら訊ねられなかった事……。
それを憂ちゃんに訊ねておくべきだ、って私の胸が叫んでるみたいに。
憂ちゃんと私が笑顔で居られる内に……。

二度、大きな深呼吸。
それから、私は出来るだけの笑顔を浮かべて、憂ちゃんに訊ねてみた。
ある意味、私達の未来に関係する重大な質問を。


「それじゃあ、憂ちゃん……。
私、今からごはんの用意をするけど、その前に一つだけ質問してもいい?
ちょっと急に気になっちゃって……」


「うん、どうしたの、梓ちゃん?」


「憂ちゃんは、受験はどの高校を受けるつもりなの?
唯さんも居る事だし、やっぱり桜高?」


「うん、そのつもりだよ。
やっぱり、お姉ちゃんの事が気になるし、でも、それだけじゃなくて、
律さん達みたいな素敵な人達が居る高校だし、桜高に入りたいなって思ってるんだ。
桜高ならいつでも好きな時にお姉ちゃん達の演奏を聴けるかもしれないしね」


「そうなんだ……。
うん……、やっぱりそうだよね……」


「梓ちゃんは何処を受けるつもりなの?」


「一応……、ね?
桜高を受けようかと思ってるんだけど……」


「梓ちゃんも?
だったら、、ひょっとしたら一緒のクラスになれるかもね。
それで、もしも私と梓ちゃんが同じクラスになれたら、その時は……。
その時の私達は……」


「うん……、その時、私達……」

193: 2013/03/02(土) 18:42:45.75





「じゃあ、今日もお願いしていい?」


「うん、勿論だよ」


髪を下ろしたままの憂ちゃんが笑顔で頷いてくれる。
午後九時。
どうにか無難に完成させられたカレーを夜ごはんに食べ終わって、
私達はどちらが言うともなく、自然と学校の制服に身を包んでいた。
憂ちゃんの制服には私の予備を貸してあげた。
桜高の制服は当然うちの中学の制服とは違うんだけど、
せめて一度くらい憂ちゃんと一緒に同じ制服を着てみたかったんだよね。
同じ学校に通って、同じ部に所属してる普通の友達みたいに。

同じ制服に身を包んで、憂ちゃんが私の髪に櫛を通してくれる。
昨日よりもずっと真剣な表情で、私の髪を整えて、髪留めを着けてくれる。
優しく、真剣に、私達がこれから向かう最後の舞台のために。
二つ結び……、ツインテール……、呼び方は何でもいい。
とにかく、憂ちゃんは私を普段の髪型に整えてくれる。
言い方はちょっと変だけど、これで私の戦闘態勢は整った。


「ありがと、憂ちゃん。
それじゃ、次は私が……」


「うん、お願い、梓ちゃん」


憂ちゃんに纏めてもらった髪を翻して、私は憂ちゃんの背中側に移動する。
櫛を受け取って、出来る限り柔らかく丁寧に梳いていく。
傍に置いていたリボンを取ってから、憂ちゃんの髪をポニーテールに纏める。
うっ……、やっぱり人の髪を結ぶのは難しいな……。
特に憂ちゃんのポニーテールはかなり絶妙な位置にあるんだよね。
それで昨日は結構微妙なポニーテールにしちゃったわけだし……。
でも、今日は昨日みたいな髪型にしちゃうわけにはいかない。
だって、これから私達はセッションするんだもん。
私達だけのライブを開催するんだもん。
私達以外に誰も観客が居ないライブだけど、それでも十分。
ライブに適当な衣装で向かうなんて、そんなの曲がりなりにもギタリストとしては許せないよね。

だから、私は丁寧に真剣に憂ちゃんのポニーテールを結ぶ。
私の記憶する最善の位置にポニーテールを配置してみせる。
……うん。
正確には違うかもしれないけど、私の中ではこれが憂ちゃんのポニーテールのベストな配置だ。
手鏡を手渡して髪の位置を確認してもらうと、憂ちゃんは笑顔で頷いてくれた。
私を気遣ってるわけじゃなくて、本当にその位置でぴったりみたいだった。
よかった。
これで憂ちゃんの戦闘態勢も整ったわけだよね。

二人で立ち上がってから、ギターに手に伸ばす。
憂ちゃんは私のお父さんのギターに。
私は自分の小さなギターに。
そうして私達は二人でギターを構えて、向かい合って、微笑み合う。

練習が完璧だなんて口が裂けても言えない。
見事なセッションが出来る気なんて全然しない。
それでも、私の胸には不思議と不安は無かった。
憂ちゃんも笑顔で居てくれていた。
どんな形のセッションになっても、どんなひどいセッションでも、満足出来る。
何故だかそんな気がするんだよね……。

194: 2013/03/02(土) 18:43:27.11
私達はギターを抱えて部屋から出て、肩を並べて歩き出して行く。
向かうのはあの場所……、私達が初めて出会えたあの公園。
そこが私達の最初のライブ会場なんだ。
どちらからともなく、私達は手を繋いでいた。
お互いの体温を感じていると、とても落ち着ける。

歩いて行く。
憂ちゃんは私が整えた戦闘態勢で。
私は憂ちゃんが整えてくれた戦闘態勢で。
二人で用意し合った舞台衣装で。


「君を見てると」


「いつもハートDOKI☆DOKI」


二人で口ずさみながら、私達は笑いながら進む。
今日が終わるまで残り数時間。
思い残す事が無いように……、
って言うのは無理かもしれないけど、
せめて出来る限りの精一杯の事をやってみせるために。
結局、『チャンスシステム』とか『お願い』とか関係無しに、
それこそが私達に出来る……、やらなきゃいけない事なんだと思うから。
思えるようになったから。

199: 2013/03/05(火) 19:49:10.16





秋口の夜の公園。
憂ちゃんと出会ってから約一週間、
少しは寒気も強まってきたはずだけど、私は全然寒くなかった。
街灯に照らされてる憂ちゃんの表情も、全然寒そうには見えない。
二人ともセーラー服を着てるのに、不思議と温かい気までするんだよね。
きっとそれは胸の中がいっぱいだから。
私達の音楽の始まりの時を考えて、心が昂ぶっているからだと思う。

そうして、私達が立つのは出会えた初日、憂ちゃんと話したベンチの上。
私が自分の無力を実感させられて叫び続けたベンチの上。
短い間に色んな感情を思い出させるようになったその場所。
今はその二回の感情と全然違った想いが私の胸にある。
未来に向けて進んで行こうって決心が、憂ちゃんと見つけられた決心が、私の中にはある。

だから、私は胸を張る。
憂ちゃんも私に倣って胸を張ってギターを構えてくれた。
二人とも『ふわふわ時間(タイム)』の楽譜の用意はしてない。
街灯の明るさで楽譜を見るのは流石に難しかったし、
演奏中に見ない事は二人でいつの間にか暗黙の了解になってた。
今日出来た練習の成果をそのまま出す。
どんなに下手でも、酷い演奏でも、今の私達が今日出来た結果を出す。
それが私が最後にしたかった事だから。

勿論、楽譜を完全に憶えたなんて、口が裂けても言えない。
自信の無いパートなんてたくさんあるし、憶えてても弾けない所の数も両手の指じゃ足りない。
これはやっぱり、相当に出来の悪い演奏になりそうだよね。
覚悟してた事だけど、我ながらちょっと落ち込んじゃうな。

でも、一つだけ自信がある事だってあったりする。
それは『ふわふわ時間(タイム)』歌詞。
私と憂ちゃんは楽譜を見なくても完全に歌詞だけは憶えてる。
それくらいの事だけは出来るようになった。
自分が歌の上手い方だなんて絶対に言えないけど、
きっと音痴な歌声がこの公園に響く事になっちゃうけど、今はそれで十分。
それだけで……、十分。

だけど、諦めてるわけでもない。
出来の悪い演奏でも、精一杯一生懸命の演奏をしてみせる。
今の私に、私と憂ちゃんに出来る最高の演奏を。
それがやっと踏み出せる私の第一歩なんだから!

200: 2013/03/05(火) 19:49:45.50
「憂ちゃん」


「うん……!」


私の軽い目配せと一言だけで、憂ちゃんは私の気持ちを汲み取ってくれた。
いい相棒だよね、なんて変な事を考えながら、私はつい苦笑する。
それから二回、大きく深呼吸。
何となく視線を向けてみると、憂ちゃんも私と同じタイミングで深呼吸してるみたいだった。
憂ちゃんのその姿を目にした瞬間、私の肩の力も一気に抜けた。
力なんてあんまり入れてなかったつもりだけど、知らない内に少しは気負ってたのかもしれない。
また、私は笑う。
今度は苦笑じゃなくて、胸の奥から湧き出る温かい気持ちをそのまま出した笑顔で。


「ワン・ツー・スリー・フォー・ワン・ツー・スリー!」


カウントを取る私。
緊張じゃない高揚感と、怖さからじゃない震えを全身に感じる。
ドキドキとワクワクを一身に感じて、私達は演奏を始める。
ベースどころかドラムもキーボードも無い私達のツインギター。
リードギターとサイドギターの区別も無いちょっと奇妙なセッション。
でも、私と憂ちゃんにとってはそうじゃない。
軽音楽部の皆さんのライブで聴いたのは一度だけだけど、
練習では百度で済まないほど聴かせてもらったんだもんね。
失敗しやすい所や、難解なパートを耳と胸と心が記憶してる。

勿論、それだけじゃない。
何度も何度も聴く事で、私達はこの不思議な魅力を持った曲を好きになった。
甘い……、とっても甘い歌詞なのに、何処か爽やかさを感じる素敵な曲。
私達の大好きな曲の『ふわふわ時間(タイム)』。
だから、私達は失敗しそうになっても、
心に残ってる軽音楽部の皆さんの演奏に支えてもらえてる。

走り気味だったけど元気いっぱいの律さんのドラム、
どうして軽音楽部に在籍してるのか結局分からなかった紬さんの優雅なキーボード、
満面の笑顔で演奏を楽しむ唯さんの明るいギター、
緊張の中でも素敵な歌声と一緒に着実な重低音と刻んでくれた澪さんのベース。

そうして、私達の心の中に、軽音楽部の皆さんの演奏がある。
忘れたくない……、ううん、忘れられない演奏が私達に勇気を与えてくれる。
弾ける。
所々失敗しながら、狂った音程を出しながら、それでも笑顔で弾ける。
私の欲しかった……、やりたかったセッションが出来てる……!

私と肩を並べて、憂ちゃんがギターを笑顔で演奏してる。
たった一日の練習なのに、分かってはいたはずなのに、その上達の速度は驚いちゃうくらいだった。
天才かどうかはともかく、私よりずっと才能があるのはやっぱり間違いない。
練習だけじゃなくて、本番でもこんなに弾けるなんて肝もすっごく据わってる。
私なんかよりもずっとプロを目指した方がいい人材。
でも、憂ちゃんはきっとプロなんて目指さない。
もっと大切な物を重視してるって、今の私にはもう分かってる。

プロは不特定多数の大勢の人達に向けて演奏する人達。
たくさんの人に感動を与える演奏が出来る人達なんだよね。
でも、その分、特定の誰かに向けて曲を演奏したりなんて滅多に出来ない人達だ。
例えば友達一人のためだけに演奏するなんて、そんな事はしちゃいけないんだ。
ううん、してもいいんだけど、それを演奏のスタイルに組み込んだりなんかは絶対に出来ない。
それはもう不特定多数の人達に向けた曲じゃなくなっちゃうから。
いいとか悪いとかじゃなくて、プロってそういう人達がなるものなんだと思う。

勿論、プロの人達には憧れる。
私だって大勢の人達に感動を与えたい気持ちは確かにあった。
だから、自分の才能の無さに苦しんだりもしたんだもん。
でも、そんな私にもやっと分かった。
憂ちゃんと一緒に軽音楽部の皆さんの演奏を聴いて、分かったんだ。
私が本当に求めてたのは不特定多数の誰かの笑顔じゃなくて、
大勢の人達から褒められる事でもなくて、
本当に心の底から一番欲しかったのは……、あの子の笑顔だったんだって。
大切なあの子と、笑いながら演奏をしたかったんだって。

201: 2013/03/05(火) 19:50:40.96
傍から聴いてると粗末な演奏でもいい。
他の誰の心に届かなくたっていい。
一生、三流と呼ばれ続けてもいい。
ただ傍に居てくれたあの子と大きな声で笑いたかったんだ……!

もう……、私にそれは出来なくなった。
私の勝手な勘違いのせいで、あの子と話し合いもしないまま違う道を歩く事になってしまった。
それはこの先、どんなにあの子に謝っても、許されない事かもしれないけど……。
私の背中を押してくれる子が居た。
私の傍で微笑んでくれてる子が出来たんだ。
憂ちゃん……。
私に悩みや悲しみや辛さや、喜びや夢や笑顔を届けに来てくれた憂ちゃん……!
憂ちゃんが居てくれたおかげで、私はやっと前に進めるようになった。
だから、私はこの『チャンスシステム』が終わったら、あの子と話をしようと思う。
憂ちゃんとの一週間を憶えてなくたって、それだけは絶対に成し遂げたい。

だから、まずは私は憂ちゃんと一生懸命セッションをしてみせる。
難解なパートだって、唯さんの演奏を思い出しながらどうにか失敗せず弾き終える。
リズムを崩しそうになった時は律さんのドラムと澪さんのベースを思い出して、
旋律に自信が無い時は紬さんのキーボードを感じながら、憂ちゃんと一緒に演奏を進めていく。
そんな演奏の中でも、一際耳に残るのが憂ちゃんのギターだった。

直接弾いてるんだから当たり前ではあるんだけど、
それ以上に憂ちゃんの演奏から温かさや思いやり、一生懸命さが感じられたから。
私のために弾いてくれてるんだって分かったから。
その意味では憂ちゃんも三流なのかもしれない。
憂ちゃんは傍に居る誰かの笑顔のために、
大切な誰かのために全力になれるけど、それ以外の事には意外と無頓着な子なんだもんね。
不特定多数の誰かのためじゃなくて、たった数人の誰かのために頑張る子なんだ。
だからこそ、その数人の誰かになれた私の胸に強くその演奏が響く。
とっても強く。

私はそれがとっても嬉しい。
自分が三流だって事まで嬉しくなってくる。
今、憂ちゃんの事しか考えられないのが、誇らしいくらいに。
だから、今、私は憂ちゃんのためだけに演奏するんだ。
憂ちゃんの事だけを考えて、私達の大好きな曲を演奏したいんだ……!


「あぁカミサマお願い一度だけの」


演奏が終わりを告げようとしている。
もうすぐ私達のためだけの、私達のセッションが終わってしまう。
楽しくて嬉しくて最高だったからこそ、
失敗も多くかったけど満足出来るほど素敵だったからこそ、
名残惜しくて、寂しくて、セッションを終えるのが怖くなる。
……切なくなる。

もうすぐ……、もう数時間先には私と憂ちゃんは赤の他人になる。
『チャンスシステム』の期限が終わっちゃう。
期限を延ばしてもらう事なんて、まず出来ないだろうな。
なら、私はこの先、憂ちゃんと再会出来る事に望みを掛けるしかない。
憂ちゃんは桜高を受験するって言ってた。
私も元から桜高を受験するつもりだったし、もしかしたら同じクラスにもなれるかもしれない。

だけど……、再会出来たとして、私達はまた友達になれるのかな……?
憂ちゃんは変わらず優しい子だろうけど、私は自分から憂ちゃんに声を掛けられるか自信が無い。
私は友達が多い方じゃないし、自分でも結構面倒臭い性格だと思う。
こんな性格の私が、憂ちゃんとまた今みたいな関係を築けるんだろうか。
再会出来たとしても赤の他人のままなんじゃ……。
そう思うと、身震いまでしそうになる。

202: 2013/03/05(火) 19:51:24.22
でも……。
その時、私は憂ちゃんと同じ言葉を口にしていた。
言おうと思ってた言葉じゃない。
セッション中だから、自然と口から出て来た言葉だった。


「もしすんなり話せれば、どうにかなるよね」


それは『ふわふわ時間(タイム)』の歌詞。
私の悩みに対する笑っちゃうくらいに簡単な答えで、実際にも私は笑ってしまった。
そっか……、そうだよね……。
同じ学校に居るんだから、一度くらい……、
一度くらいは絶対に憂ちゃんと話す機会があるはず。
その時に私が憂ちゃんと仲良く出来るって信じよう。
憂ちゃんと一緒に居られたこの一週間の事を信じよう。
例え全部忘れたって。
二度と思い出す事がなくったって!
だって、私は憂ちゃんが信じてくれた私なんだから……!


「ふわふわ時間……!」


私は歌う。
歌い終わる。
未来を信じて。
この一週間が無駄じゃなかったんだって信じて。
大切な憂ちゃんと笑い合えた一週間を絶対に無駄にしないために。

こうして、私達の最後の……、
ううん、最初の素敵なセッションは終わった。

203: 2013/03/05(火) 19:51:59.34





「月が綺麗だよね……」


セッションが終わった後、月明かりに照らされながら憂ちゃんが微笑んだ。
ベンチに座って浮かべてるその笑顔はとても嬉しそうだった。
勿論、私だって無事にセッションを終えられて嬉しかったんだけど、
それより、『月が綺麗ですね』って言葉、確か遠回しな愛の告白だったような……。
いや、勿論、憂ちゃんにはそんなつもりなんて無いんだろうけどね。

私はちょっと苦笑しながら憂ちゃんの見ている月に視線を向ける。
憂ちゃんの言った通り、月はとっても綺麗だった。
満月でも半月でもない中途半端な形の月だけど、十分過ぎるくらい綺麗。
月が綺麗だなんて思う事なんて、そう言えば最近無かったような気もする。
それくらい心に余裕が無かったのかもしれない。
心に余裕が少しでも持てるようになったのは、やっぱり憂ちゃんのおかげだよね。


「今日は付き合ってくれてありがとう、憂ちゃん……」


気が付けば私は口にしてしまっていた。
今更な言葉だったかもしれないけど、自然に呟いちゃってた。
それくらい自然に私は憂ちゃんに感謝してたんだと思う。


「お礼なんていいよ、梓ちゃん」


ちょっと照れたみたいに憂ちゃんが頬を赤らめる。
お礼の言葉くらいもっと言わせてほしいなあ……、
なんて思わなくもなかったけど、憂ちゃんってそんな子なんだと思う。
誰かにお礼を言われるためじゃなくて、感謝されるためじゃなくて、
そこに困ってる誰かが居たら手助けをしたくなっちゃう子なんだよね。
頬を赤らめたまま、憂ちゃんが続ける。


「だって、私も梓ちゃんとセッションしてみたかったんだもん。
だからね、私の方こそお礼を言わせてよ、梓ちゃん。
今日は私とセッションしてくれて……、練習に付き合ってくれてありがとう。
私……、すっごく楽しかったよ……!」


それはまさしく私の予想していた通りの憂ちゃんの言葉だったから、私はつい微笑んでしまった。
もう……、損な性格をしてるなあ、憂ちゃんは……。
でも、本人はそれを損だなんて全然考えてない。
そこが憂ちゃんの魅力で、私もそれに救われたんだよね。
そう思えたから、私はそれ以上お礼を言うのをやめておいた。


「どういたしまして」


何度でも言いたいお礼の言葉を飲み込んで、代わりに憂ちゃんの感謝を受け取る。
それがきっと憂ちゃんへの一番いい感謝の示し方なんだと思ったから。


「本当に……、ありがとう……!」


不意に憂ちゃんが私の手を取って、またお礼を言ってくれた。
そんなに私にお礼を言ってくれなくても、って考えはすぐに吹き飛んだ。
私の瞳を見つめる憂ちゃんの瞳が潤んでいたから。
今にも泣き出しそうなくらい、瞳に涙を溜めていたから。

204: 2013/03/05(火) 19:53:00.48
「憂……ちゃん……?」


私は動揺して、声を震わせながら呟いてしまう。
何度か憂ちゅんの悲しそうな表情は見て来たけど、こんな表情を見るのは初めてだった。
ただ悲しそうってわけじゃなくて、嬉しさや喜びや寂しさや、色んな感情がこもった表情を。
『どうしたの?』なんて訪ねられなかった。
憂ちゃんは勇気を出して、何かを私に伝えようとしてる。
そんな気がしたから、何も言わない方がいいんだって思えた。
多分、それでよかった。

一分近く、私達は見つめ合う。
詰まるような憂ちゃんの息遣いが私の耳に届く。
でも、私は憂ちゃんの言葉をじっと待つ。
私は今まで何度も何度も憂ちゃんを待たせて来てしまった。
それを考えれば、今、私が憂ちゃんを待つのなんて何でも無い事だもんね。


「あの……ね……?」


消え入りそうな声で、憂ちゃんが呟いた。
「うん」と私が頷くと、自分の声が小さかったと思ったのか、
大きく首を振ってから、また憂ちゃんが私の耳元で言ってくれた。
もうそれはよく透き通る私の好きな憂ちゃんの声だった。


「梓ちゃん……、私との約束、憶えてる?」


「約束……って?」


「前に……、したよね?
梓ちゃんが梓ちゃんの『一生に一度のお願い』を見つけられたら、
私の『一生に一度のお願い』を教えてあげるって約束……。
叶えるまでに時間が掛かっちゃった私の『お願い』の事……。
梓ちゃん、自分の『お願い』……、もう見つけてるんだよね……?」


「うん……」


「だよね?
だからね、私の『お願い』を梓ちゃんに伝えたいと思うの。
本当は伝えない方がいいのかもって思ってたんだけど、
梓ちゃんの頑張りやセッションしてる姿を見てたら、何か卑怯な気がしてきちゃって……。
私の『一生に一度のお願い』、梓ちゃんに聞いてもらえると嬉しいな」


「いいの、憂ちゃん?」


「うん、聞いてほしいの。
前も話したと思うけど、キャサリンさんもね、私に自分の『お願い』を教えてくれたんだ。
私に伝える必要なんて無いのに、嘘を言う事だって出来たのに、
私が『お願い』を決めるためだからって、照れ笑いを浮かべながら教えてくれたの。
色んな『お願い』を聞く事で、選択肢を広げてほしいって。

だからね、私も梓ちゃんにそうしたいの。
最後に梓ちゃんが決めた『お願い』をもっと強く決心出来るように……。
キャサリンさんの『お願い』は私とキャサリンさんだけの秘密だから内緒だけどね」


憂ちゃんが軽く微笑む。
私も微笑んだけど、すぐに胸が痛んだ。
私はまだ憂ちゃんに嘘を吐いているんだもんね。
勿論、私の『お試しお願い』の事……。
今すぐにでも本当の事を伝えたかったけど、私は口を噤んだ。
今は憂ちゃんが話をする時で、私はそれを聞いて最後の決心をしなきゃいけない。
私の吐いてた嘘を謝るのはその後にしなきゃね……。


「叶うまでに時間が掛かる『お願い』だったんだよね?」


私が憂ちゃんの瞳を見つめながら訊ねると、真剣な表情で憂ちゃんが頷いてくれた。
それから、何かを思い出してるような表情になって口を開いた。

205: 2013/03/05(火) 19:54:01.80
「うん、今日ね、やっと叶えられたんだよ。
ううん、きっと叶えられた……、と思うんだけど……」


「どういう……事……?」


「えっとね、これも前に話したと思うんだけど……、
私はお姉ちゃんの事を『一生に一度のお願い』に出来なかったって話したよね?
『お願い』にお姉ちゃんの事を願っちゃったら、
これからお姉ちゃんを大切に出来ないような気がしたから、って……」


「うん、その気持ち、何となく分かるよ……。
私も結局、『音楽の才能』をお願いになんてしたくなくなったから。
叶えたいもんね、本当に叶えたい『お願い』は自分の力で……」


「そう……、そうだよね……。
それでね、私、もう一歩踏み込んで考えてみたんだ。
本当にお姉ちゃんのためになる事って何なんだろう……、って。
それを考えたらね、何となく気付けたんだよ。
お姉ちゃんは優しいから……、すっごく優しいから……。
『憂は憂のしたい事をして』って、絶対そう言ってくれるんじゃないかなって。
『それが私にとって一番嬉しい事なんだよ』って」


私はその憂ちゃんの言葉に対しては何も言わなかったけど、心の中では納得してた。
憂ちゃんの言う通りだよね。
唯さんの事を深く知ってるわけじゃないけど、
今まで唯さんを見ていて、唯さんは周りの人達を大切にする人だって私も思った。
周りの人が幸せで居てくれる事で喜べる人なんだって。
そんな唯さんなんだもん。
唯さんが憂ちゃんに望む事はそれに尽きると思う。

憂ちゃんが私の手を握る手のひらに力を込める。


「それでね、お姉ちゃんはこうも言ってくれるって思ったんだ。
『私だけじゃなくて、憂の周りの皆も笑顔にしてあげて』って……。
それで私、ハッとしちゃったんだよね。
私はお姉ちゃんの事ばかり考えてて、周りの人達の事を考えてなかったのかもって。
そう思っちゃったら、今までの友達に悪い事しちゃったかも、って思えて来たの」


そんな事……、そんな事は無いと思う。
憂ちゃんは周りの人達にも気配りが出来る子だもん。
でも、憂ちゃんの中では、そういう気後れみたいなものもあったのかな。
唯さんの事が大好きな事で、それで友達の誘いを断ったりした事も何度かあったのかもしれない。
だから、そんな風に考えちゃったのかも。
人の願いや夢や望みは人の数だけあって、それが周りの人と同じとは限らないから。
あの子と私みたいに……。

208: 2013/03/07(木) 19:34:22.25
「急に……、不安になっちゃった……」


憂ちゃんが自嘲気味に続ける。
それはまるで、今までの自分を苦笑してるみたいに見えた。


「きっと、お姉ちゃんは私がお姉ちゃん以外の人を笑顔にしてあげられる事を望んでくれてる。
それが私の大好きなお姉ちゃんだし、私にとって大切な事だとも思うの。
だからね、不安になっちゃったんだ。
私がお姉ちゃん以外の事を幸せに……、笑顔にしてあげられるのかな、って。
私だってお姉ちゃん以外の人に笑顔になってほしいけど、
お姉ちゃん以外を笑顔にしてあげられる自信が無かったから……。
それで……、私は『お願い』したんだ……」


憂ちゃんの話が核心に近付いていく。
本当は言わない方がいいかもしれない事を私に伝えようとしてくれて。
私が『お願い』を決めるための最後の決心をさせてくれるために。
手まで少し冷たくさせながら。

叶うまでに時間が掛かる『お願い』。
『ナビゲーター』をすぐに引き継がなかった理由。
唯さんの事についてはお願い出来なかった憂ちゃんの望み。
ひょっとしたら、今日叶ったかもしれないその『一生に一度のお願い』。
それは……、もしかするとそれは……。

憂ちゃんが私の瞳をまたまっすぐに見つめる。
何度も深呼吸しながらも、私からは視線を絶対に逸らさない。
自分が『お願い』した事を後悔無く私に伝えられるように。
四回目の深呼吸が終わった時、憂ちゃんは大きく頷いてそれを伝えてくれた。


「ねえ、梓ちゃん……、
私の『一生に一度のお願い』はね……、
『誰かを笑顔にしてあげたい』ってお願いだったんだよ。
私ね、お姉ちゃん以外の誰かを笑顔にして、幸せにしてあげたかったの。
そうすれば私も自信を持って前に進めるかも、って思えたから……。
友達や周りの人達をもっと大切に出来るようになるかも、って……。

ごめんね……。
本当は梓ちゃんに伝えない方がいいかも、って思ったんだけど……。
でもね、やっぱりね、本当の事、梓ちゃんに知っててほしくて……」


一瞬、私は息を呑んでしまっていた。
憂ちゃんが私の事のために一生懸命でいてくれたのは、
全て自分の『一生に一度のお願い』を叶えるためだったの……?
自分に自信を持つための『お願い』の続きでしかなかったの……?
私は単なる『お願い』を叶えるための道具でしかなかったって事なの……?

突然、目前に晒された真実に目眩がしそうになる。
心臓の鼓動が強く高鳴っていく。
気を抜けば泣き出しそうになってしまってる……。


「憂ちゃん……」


呟きながら、私は憂ちゃんに握られた手から自分の手を離す。
その間も私は憂ちゃんの瞳から視線を逸らさない。
ただ見つめ続けて、憂ちゃんも私の瞳を見つめていて……。
そうして……。


「ありがとう」


私は憂ちゃんの両手を柔らかく包んでから微笑んだ。
勿論、誤魔化しでも何でもない。
胸の中から湧き上がる感情から出た自然な笑顔だった。

さっき、私は一瞬、憂ちゃんを疑ってしまった。
私の事を道具として考えてたのかって、不安になってしまった。
でも、それは一瞬だけだった。
憂ちゃんの『一生に一度のお願い』がそれだったとしても、
今まで一緒に居てくれた憂ちゃんはそれだけで動く子じゃなかったから。
心の底から本心で私を支えてくれた事だけは、言葉じゃなくて行動で分かってたから。
私は笑顔を浮かべられたんだ。

209: 2013/03/07(木) 19:34:56.47
「いいの、梓ちゃん……?
こんな『お願い』をしちゃった私に……、お礼なんか言っても……」


憂ちゃんが戸惑った表情で続ける。
予想もしてなかった私のお礼の言葉に驚いてるみたいだった。
その表情を見て、憂ちゃんはやっぱり優しい子なんだよね、ってまた実感させられた。


「勿論だよ、憂ちゃん。
この一週間、憂ちゃんが私のために一生懸命頑張ってくれたの、知ってるよ。
他の誰よりも、それこそこの一週間の事に関しては、唯さんよりも憂ちゃんの事を知ってるんだよ。
そんな憂ちゃんの姿をずっと見てたんだもん。
憂ちゃんにはありがとうって言葉しか言えないよ。

それにね、憂ちゃん……。
その『お願い』……、本当の『お願い』とはちょっと違うんじゃない?」


「えっ……?
私、嘘なんて吐いてないよ、梓ちゃん……?」


「あっ、そうじゃなくて、うーんと……、ニュアンスって言うのかな?
憂ちゃんの『お願い』はそれだって私も信じてるよ。
でもね、『お願い』の詳しい内容が違ってるんじゃないのかな、って思うんだ。
ねえ、憂ちゃん、もうちょっと詳しく教えてくれる?
憂ちゃんのお願いは本当に『誰かを笑顔にしてあげたい』ってだけだったの?」


「えっと……、『誰かを笑顔にしてあげたい』って『お願い』だったのは本当だよ。
私、お姉ちゃん以外の誰かを幸せに出来るようになりたかったから……。
それが私の一番叶えたいお願いだったから……。
あ、でも……、梓ちゃんの言う通り、もう少し詳しくお願いしてたかも……。

うん……、ちょっと言い直させてもらうね。
正確に言うと私の『一生に一度のお願い』はね……、
『私に誰かを笑顔にしてあげられるチャンスをください』だったんだ」


「ほら、やっぱり」


私が笑うと憂ちゃんがまた戸惑った表情になった。
でも、今度はただ私の言葉の意味が分からない、ってだけに見える戸惑いだった。
首を傾げてポニーテールを揺らすその表情がとっても愛らしい。
首を傾げたまま、憂ちゃんがまた口を開いて私に訊ねる。


「どうして、正確には違うって分かったの……?」


「分かるよ」


「どうして?」


「だって、憂ちゃんが憂ちゃんだから」


「えっ……?」


憂ちゃんが顔中に疑問の表情を浮かべてる。
やっぱり、憂ちゃんは自分の事が分かってないんだよね。
自分が優しい子なんだって事を。
それを説明してあげたかったけど、今の憂ちゃんにはそれがまだ分かってもらえないかもしれない。
だから、私はまず憂ちゃんの求めてるはずの答えを伝える事にした。


「憂ちゃんだから……、って話は後にするけどね、
私が憂ちゃんのお願いが正確には違うんじゃないか、って考えた理由はまだあるんだよ。

一番そう思ったのは、キャサリンさんの『お試しお願い』の事を憂ちゃんに聞いたから、かな。
キャサリンさん、『素敵な出会い』を『お試しお願い』にしたんでしょ?
『素敵な恋人』じゃなくて、『素敵な出会い』ってチャンスを。
キャサリンさんも自分の欲しい物は、自分の力で手に入れたかったんだよね。
私もそうだからよく分かるし、憂ちゃんだってそうだと思ったんだ。
『お願い』の力で誰かを笑顔にしたって嬉しくないし、自信も持てないもんね……」

210: 2013/03/07(木) 19:35:33.34
『お願い』の力で凄過ぎる何かを手に入れても嬉しくない。
嬉しい人も居るかもしれないけど、少なくとも私は嬉しくなかったし、憂ちゃんもそのはずだった。
本当に欲しい夢は自分の力で掴みたい。
例え掴めなくたって、その夢に向かって自力で頑張りたい。
だから、『一生に一度のお願い』にしたいのは、大きな『お願い』じゃなくて些細な事なんだ。
ほんの少しのちょっとした偶然やきっかけみたいなもの。
何が変わるわけでもないくらい、小さな小さな願い事。
よっぽど切羽詰まってでも居ない限り、私達が願いたいのはそういう『お願い』になると思う。
それ以上大きな何かなんて手に入れられても嬉しくないから。
虚しいだけだから……。


「うん……、そうだね……」


憂ちゃんが小さく呟く。
まだ、自分のした事に自信が無さそうに。


「私、梓ちゃんの言う通り、『誰かの笑顔』自体はお願いしなかったよ。
私の力で笑顔にしてあげられないと意味が無いって思ってたし、
神様の力でその誰かを笑顔にしても悲しいだけだし、その人に悪いだけだもんね……。

私ね、キャサリンさんとの一週間が終わってからね……、
早くその誰かを笑顔にしてあげたいな、って思ってたんだ。
すぐに『ナビゲーター』の役割が回って来なかったのは、
きっと私が一番笑顔にしてあげるべき人を神様が捜してたからだって思うの。
そうやって神様が長い時間を掛けて捜してくれたのが梓ちゃんで……、
そんな梓ちゃんとやっと公園で会えた時、私、すっごく嬉しかったんだ。
絶対絶対、一番の笑顔にしてあげたいって思ったんだよ」


その時の事は私もはっきりと憶えてる。
『よかった……。やっと……、会えた……』って私の手を握ってた憂ちゃん。
あれは本当に言葉通りの意味だったんだよね。
自分の『お願い』をやっと叶えられるかもしれない、って嬉しかったんだ。
長い間待たされたわけだし、憂ちゃんのもどかしかった気持ちはよく分かるよ……。


「でも……、でもね……」


憂ちゃんが私から視線を逸らしてしまう。
予想外の私の言葉に罪悪感が膨らんできたのかもしれないし、
私に責められなかった事が逆に不安になり始めたのかもしれなかった。
でも、視線を逸らしながらも、憂ちゃんは言葉を続けてくれた。
それが自分のしなきゃいけない事だって考えてるみたいに。


「梓ちゃんの頑張る姿を見てるとね……、
どんどんどんどん私の『お願い』が悪い事に思えて来て……。
梓ちゃんは夢の事を真剣に考えてるのに、
私は自分に自信を持てる事しか考えてなくて……。
こんなのお姉ちゃんにも梓ちゃんにも悪い事をしてる気になって来て……。
それが梓ちゃんに申し訳なくて……」


私の手のひらの中で、憂ちゃんの両手がまた震え始める。
ある意味、憂ちゃんの言う通りではあった。
本当の意味で誰かを笑顔にしたいんだったら、
憂ちゃんはそれを『一生に一度のお願い』にするべきじゃなかった。
誰か困っている友達を見つけて、その子のために尽力すればよかったんだ。
それが分かってるからこそ、憂ちゃんは後悔しちゃってるんだよね……。
憂ちゃんの『お願い』は、誰かのために動く勇気を持てなかった結果だったんだ。

だけど、それは私だって同じ事だよね。
私なんか、誰かのために動く勇気を憂ちゃん以上に持てなかった。
あの子と話す事だってそうだし、『お試しお願い』に願った事だってそうだった。
本当に憂ちゃんの事が知りたいなら勇気を出して踏み込まなきゃいけなかったのに、
『お試しお願い』に頼らずに話していくべきだったのに、あの時の私にはそれが出来なかった。
今、私はそれを反省してる。
もっとやりようがあったはずなのに、それが出来なかった事を深く反省してる。

でも……、それでも……。
後悔は……、後悔だけはしてないし、したくない……!
だって……!

211: 2013/03/07(木) 19:36:06.63
「憂ちゃん、こっちを向いて」


「……うん」


「こっちを向いて、私の顔を見てくれる?」


「梓ちゃん……」


「どう見える?」


「梓ちゃん……、笑ってる……」


「そうだよ、憂ちゃん。
私、笑ってる……。笑えてるんだ。
これはね、憂ちゃんのおかげ。
憂ちゃんが私のために頑張ってくれたおかげで笑えるようになったんだよ……!」


「で……」


多分、『でも』と言おうとして、憂ちゃんが口を噤んでくれる。
私の言おうとしてる事を分かってくれたんだと思う。
憂ちゃんは決して鈍い子じゃないもんね。
でも、その考えが正しいって事を分かってもらえるために、私は言葉を続けるんだ。


「きっかけは確かに『お願い』だったかもしれないよね?
憂ちゃんが最初は自分のために頑張ってたのも分かるよ。
今も……、そうなの?
自分のためだけに私の傍に居てくれてるの……?」


「そんな……、そんな事無い……と思う……。
梓ちゃんの頑張ってる……、一生懸命な姿を見てるとね……、
私、『お願い』なんて関係無しに梓ちゃんの頑張りを助けてあげたくなったの。
一番の笑顔にしてあげたくなったんだ……。
それは本当の気持ちだと思うよ?

だからこそ、ね……。
『お願い』をきっかけにしちゃった事が梓ちゃんに申し訳なくて……。
それで私……、私……」


「それでも、私は憂ちゃんに会えて嬉しかったんだよ。
憂ちゃんに会えた事、私、神様に凄く感謝してる。
最初がどんなきっかけでも、どんな理由でも、憂ちゃんは私のために頑張ってくれたんだもん。
今なんか『お願い』関係無しに私を助けたいって思ってくれてるんでしょ?
だからね……、憂ちゃんが罪悪感を持つ必要なんて無いんだよ。
胸を張って、とまでは言わないけど、少しでも自信を持ってもらえなきゃ私も困るな。

だって、私、憂ちゃんのおかげで笑えるようになったんだもん。
上辺だけじゃなくて、愛想笑いでもなくて、自然と出る笑顔になれたんだもん。
それが出来た憂ちゃんに自信を持ってもらえなかったら、私の立場が無いじゃない」


最後だけわざと舌を出して軽い感じに言った。
だけど、この言葉は全部本音だった。
私は憂ちゃんのおかげで笑顔になれた。
些細だけど『一生に一度のお願い』だって見つけられた。
それは全部憂ちゃんが傍に居てくれたおかげなんだから、
自信までは持てないとしても、罪悪感だけは感じないでいてほしい。


「私の『お願い』……、叶えられたのかな……?」


手の震えを少しだけ止めて、憂ちゃんが私に訊ねる。
だから、私は満面の笑顔を見せた。
私の笑顔を少しでも憂ちゃんに分けられるために。
憂ちゃんが私にそうしてくれたように。

212: 2013/03/07(木) 19:36:37.97
「うん、十分過ぎるくらいに!
憂ちゃん、本当にありがとう!」


私の言葉に憂ちゃんの震えが完全に止まる。
それから、無言で見つめ合う憂ちゃんと私。
私は変わらない笑顔で。
憂ちゃんは口を閉じたままの真顔で。
十数秒後、その沈黙を破ったのは、予想もしてなかった憂ちゃんの言葉だった。


「ふ……」


「ふ?」


「ふええええええええっ……!」


「えっ……?」


「ひっく、ぐすっ、う……、うええええええええっ!」


言葉……、って言うより、行動だったのかも。
憂ちゃんの瞳から大粒の涙が流れ出して、嗚咽と一緒にそれが止まらなくなった。
全然、止まらない。止まる気配が無い。
まさか急に泣き出されるなんて、予想してなかった。
これまで涙目になる事はあったけど、こんな大泣きをする憂ちゃんを見た事なんて無かった。
初めての事に私はどうしていいのか戸惑ってしまう。
涙を止められないまま、憂ちゃんが悲痛な言葉を絞り出した。


「いやだ……! やだよう……!」


「何……が?」


「折角……、仲良くなれた……のに……、
やっと笑顔になってもらえた……のに、ひっく……。
もうすぐ梓ちゃんの事を忘れちゃうなんて、絶対にやだよう……!
うっ……くっ……、うええええええええっ!」


もうすぐ忘れる……。
この一週間の事は何もかも忘れちゃう……。
最初から分かってた事。
何でも無いはずだった事。
平気だって思ってた事。
でも、その現実は私の胸を強く痛めて、憂ちゃんをこんなに大泣きさせて……。
私は唇を強く噛み締めて……、今にも泣き出しそうになってて……。

215: 2013/03/09(土) 18:58:50.35
初めてってわけじゃないけど、再確認させられた。
私の目の前で泣いている憂ちゃんは、私と同じ学年の中学生なんだって。
しっかりしてていつも忘れそうになっちゃうけど、憂ちゃんはまだ中学生なんだ。
悲しい事や辛い事があれば大声で泣き出したりするくらい、
自分の力でどうにもならない事をすぐに受け容れられないくらい……、
とっても普通な女の子なんだよね……。

この一週間、私は何度も辛くて苦しんで泣いた。
自分の才能の無さと無力さを自覚させられた。
だけど、何もかも投げ出す事はしなかったし、こんなに自然に笑えるようになった。
それは一生懸命頑張ってると思ってくれてる憂ちゃんが傍に居てくれたから。
自分も一生懸命頑張ってる事に気付いてない憂ちゃんが傍に居てくれたから。
だから、私は憂ちゃんの震える身体を胸の中に抱き留めるんだ。
抱き締めるんだ、強く。

その間、結局、私は溢れ出す自分の涙を止める事が出来なかった。
瞳から自分でも分かるくらい大粒の涙を、気付けば流してしまっていた。
でも、私は笑った。
涙を流しながらだって、涙に負けずに泣きながら笑ってみせた。
憂ちゃんの震えを胸の中に感じながら、その頭を柔らかく撫でる。


「いい子、いい子……」


ポニーテールの辺りから全体を撫でていく。
前、憂ちゃんが私にそうしてくれたみたいに。
憂ちゃんの心を落ち着かせるために。
私の心も落ち着けるために。
この後、二人でまた笑顔になれるために。


「梓ちゃ……」


憂ちゃんが何かを言葉にしようとして詰まらせる。
まだ溢れ出る涙に立ち向かえるほど、落ち着けてないんだろうな。
別れへの戸惑いと悲しみに向き合うには、もうちょっと時間が掛かるんだろうな。
だったら、私にしてあげられるのは、自分が落ち着いて一緒に向き合ってあげる事だよね。
私は軽く自分の涙を拭ってから、また憂ちゃんのポニーテールを撫でた。
私が結んだいつもよりちょっと出来の悪いポニーテール。
でも、私達の繋がりの証でもあるポニーテール。


「あんまり無理して話そうとしなくていいよ。
落ち着くまで私が話して、頭を撫でてあげてるから。
ただ耳だけ傾けていてくれればいいから……。
今は好きなだけ泣きたい時に泣いてていいんだよ」


「あず……。う……ん……」


震えを少しだけ止めて、私の胸の中で憂ちゃんが小さく頷く。
私より背は高いけど、歳相応の小ささと弱さを持った憂ちゃんを感じる。
ただしっかりしてるだけじゃなくて、
私と同じく悲しさに戸惑う事だってある憂ちゃんを。

216: 2013/03/09(土) 18:59:59.68
「ねえ、憂ちゃん……。
憂ちゃんは桜高を受けるつもりなんだよね?
私もね……、さっき家で話した通り、やっぱり桜高を受けるつもりだよ。
もし二人とも合格したら、来年から同級生になれるよね。
それで同じクラスになれたらいいよね」


「そう……だよね……。
でも……」


「うん……、二人ともこの一週間の事は忘れてると思う。
適当な神様だけど、それくらいのシステムはしっかりしてるだろうしね……。
でも、そういえば、憂ちゃん?
私達は忘れちゃうとして、形として残る物はどうなるか知ってる?
例えば手紙を残したり、写真を撮ってみたりとか……、そういう物はどうなるのかな?」


「えっと……ね……。
実はね……、私、キャサリンさんと一枚だけ写真を撮ってみたんだ……。
肩を並べてね……、ひっく、二人でね……、
だけど、後で見てみたら……、写真からキャサリンさんだけ消えてて……。
うっ、ううっ……、うえええっ……」


「うん……、ありがとう、憂ちゃん」


また泣き出した憂ちゃんを強く抱き締める。
やっぱり……、物として残すのも無理って事なんだよね……。
薄々気付いてはいた事だけど、実際に直面させられると結構きついな……。
もう……、適当な神様なのに、こんな所だけしっかりしてるんだから……。

私達の一週間は……。
思い出には残らない。
形としても残せない。
何もかも無かった事にされてしまう。

だけど……、『ひょっとしたら』の可能性もある。
一つだけ、私達がこの一週間の事を憶えていられるかもしれない可能性が。
勿論、『一生に一度のお願い』だ。
私の『一生に一度のお願い』を『この一週間の事を忘れさせないで下さい』にすれば、
ひょっとしたらこの一週間の事を忘れずに居られるのかもしれない。
忘れずに居させてほしい。

それこそが今の私の一番叶えたい『お願い』だったけど……、
今すぐにでもそう願ってみせたかったけど……、それはしちゃいけない事だと思った。
そもそもそれはシステムとして認められない事だろうし、
もしも認められた所で憂ちゃんはそれを嫌がるだろうと思った。
それは今の憂ちゃんを見れば簡単に分かる事だもんね。
憂ちゃんは私に自分の『お願い』を叶えてほしいと思ってくれてる。
自分の夢を見つけてほしいと思ってくれてる。
そのために自分の『一生に一度のお願い』まで私に教えてくれたんだもんね。
憂ちゃんだってキャサリンさんとの一週間を忘れたくなかったはずなのに、
それを願わずにちゃんと自分の叶えたかった『お願い』にしたんだよね……。

だから、私はその『ひょっとしたら』を口にしない。
憂ちゃんのために。
憂ちゃんが信じてくれた自分自身のために。
もうほんの少し先、もうすぐ私達が赤の他人になっちゃうとしても。
私はそれを受け止める。
それに……。
それにもしかしたら私達は『お願い』に頼らなくたって……。

私は溢れ出す自分の涙を最後に拭った。
もう流せるだけは流せたと思う。
後は憂ちゃんの前で笑顔で居続けるだけだ。
笑って、憂ちゃんに訊ねてみる。

217: 2013/03/09(土) 19:00:39.10
「話は変わるんだけどね……、憂ちゃんは音楽が好き?」


「……えっ?
うっ……、うん、好きだよ……。
この一週間で……、今まで以上に好きになったよ……。
お姉ちゃん達のライブも凄かったし……、
梓ちゃんとの……、ギターの練習も楽しかったしね……」


「じゃあ、質問なんだけど、憂ちゃんは軽音楽部に入部するつもりとかある?」


「どう……かなあ……。
今はね……、すっごく入部したい気持ちがあるよ……。
もっともっと……、ギターの練習がしたいな……。

でも……ね……?
それは梓ちゃんとの練習が楽しかったからだし、
この一週間の事を忘れちゃったら……、多分、私は……」


「ありがとう、憂ちゃん。
私もね、実を言うと、軽音楽部に入部するかどうかは分からないんだ。
軽音楽部の皆さんは素敵だけど、それは傍に居ないと分かりにくい事だし、
実は私ってジャズ専門だから、軽音楽部よりジャズ研究会の方に入部しちゃうかもしれないしね。

でもね、私、思うんだ。
また憂ちゃんと一緒にセッションしたいな、って。
それも出来る事なら軽音楽部で、学園祭のライブでね」


「うん……!
それは私も……、私もだよ、梓ちゃん……!」


「だからね……!」


私は抱き締めていた憂ちゃんから少しだけ身体を離して、その両肩に手を置いた。
そうして、私の瞳に憂ちゃんの瞳に向けて、見つめ合う。
憂ちゃんの目尻は潤んでいたけど、かなり落ち着いて来てるみたいに見えた。
だから、私も安心して、憂ちゃんが私にくれた笑顔を見せられるんだ。


「私ね、どっちの部に入部する事になっても、ギターを頑張ろうと思うんだ!
まだまだ全然実力が足りないと思うけど、これからもっともっと努力する!
大勢の人を感動させたいなんてとても言えないけど、
せめて憂ちゃんにだけは感動してもらえるギタリストを目指すよ!

そうしたら、そうしたらね……!
私達がこの一週間の事を忘れちゃったって、憶えてなくたって、
私の演奏に感動した憂ちゃんが私の入った部に入部してくれるかもしれないし……!」


無茶な事を言ってる自覚はある。
憂ちゃん一人にだって感動させられる演奏なんて相当に難しいのも分かってる。
私の実力でそんな事が出来るかって不安も勿論ある。
だけど!
今のこの想いだけは否定したくないし、それが私の『お願い』にも繋がるから……!
私はこれからも精一杯、一生懸命に音楽を続けていこう……!

力を入れ過ぎた言葉だったかもしれない。
でも、憂ちゃんは自分の目尻から涙を拭うと、表情を緩めてくれた。
とても優しくて可愛らしい笑顔になってくれた。

218: 2013/03/09(土) 19:01:25.70
「うん……!
私もその時が楽しみだよ、梓ちゃん……!
あ、でも……」


「でも……?」


「折角だし、私、梓ちゃんとは軽音部で一緒に演奏したいな。
梓ちゃん、律さんや澪さん達の事も気になってるよね?
だったら、やっぱり皆さんと梓ちゃんは同じ部になってほしいな。
同じ部で演奏してほしい。
きっととっても楽しいと思うよ……!」


「うーん、私もそうしたい気持ちは山々なんだけどね。
その辺は私と言うか、新入部員勧誘に頑張る軽音楽部の皆さん次第だよね。
ライブじゃなくていつもの活動を見せられたら、私が入部したくなるかどうか自信無いもん」


「あはっ、梓ちゃんったら」


「それと憂ちゃんも今のままの憂ちゃんで居てほしいな」


「今のままの私……?」


「さっき言ったでしょ?
私が憂ちゃんの『一生に一度のお願い』が正確には違うかも、
って思ったのは、憂ちゃんが憂ちゃんだからなんだって。
憂ちゃんには自覚が無いかもしれないけど、やっぱり憂ちゃんは優しい子だと思う。
憂ちゃんは絶対に優しい子だよ。それは私が保証する。
その優しさのおかげで私も頑張れたんだもん。

だからね、憂ちゃんにはそのままの憂ちゃんで居てほしいんだ。
こう言うのも変なんだけど、私って結構取っつきづらい所があるって思うんだよね。
もしも憂ちゃんと同じクラスになっても、私からはすぐに声を掛けられないかもしれない。

でも、心配はしてないんだよ。
憂ちゃんは優しくていい子だから、
入学してすぐには無理でもいつか気軽に話せるようになると思う。
憂ちゃんが憂ちゃんのままで居てくれたら、私はまた憂ちゃんと友達になれると思うんだ……!」


「私って……、そんなに優しいかな……?」


「勿論だよ!」


私が自信満々に言ってみせると、憂ちゃんが珍しく頬を赤く染めた。
ちょっと戸惑ったみたいに視線を彷徨わせてる。
照れてるんだ……、って思うと憂ちゃんにまた凄く親近感が湧き始めた。
この短い間に、私は今まであんまり見られなかった憂ちゃんの色んな一面を見られた。
泣き顔、楽しそうな笑顔、照れた顔……。
しっかりしてて優しくて完璧に見えてた憂ちゃんの歳相応の表情達。
私と同じ様に悩んだり悲しんだりもする、私と同じ学年の極普通の女の子の顔。
気が付けば、私は思いも寄らなかった言葉を口にしてしまっていた。

219: 2013/03/09(土) 19:01:57.14
「自信を持って、憂!」


自然と意識せずに私は初めて呼んでいた。
『憂』って。
『憂ちゃん』じゃなくて、呼び捨てで『憂』って。
失礼かもと思う隙もなかった。
だって、今、私の目の前に居るのは、私と同い年の親しみやすい女の子。
完璧なだけじゃない可愛い女の子だったんだもん。
そう呼ぶのが自然なんだって、今更だけど呼んだ後に私は思った。


「……うんっ、ありがとう!」


気を悪くした風でもなく、憂ちゃんが笑ってくれた。
それは優しいだけじゃない、楽しそうな笑顔に見えた。
不意にポケットの中に入れていた腕時計に視線を向けてみる。
今日が終わるまで残り一時間強だった。
残り一時間強しかないけど……、でも、私は嬉しかった。
私達はこれまでも友達ではあった。
だけど、やっとこれまでよりももっと近い距離の友達になれた気がしたから。
親友になれた気がしたから。
私は憂ちゃん……、ううん、憂と笑顔を向け合うんだ。
残された時間を、二人で。

220: 2013/03/09(土) 19:02:36.34





「あ、そうだ!」


今日が終わるまで残り十分くらいになった頃。
私は何となく思いついて、近くに落ちている尖った小石を二つ拾った。
うん、これなら丁度良さそう。


「その小石、どうするの?」


憂が首を傾げて私に訊ねる。
憂に小石を一つ渡してから、私はベンチから離れて公園の倉庫に向かった。
不思議そうな顔をしながらも、私に着いて来る憂。
倉庫のコンクリートの壁を確認すると、私は「いい事を思い付いたんだ」と憂に笑い掛けた。


「いい事……?」


「うん、記念に……ね」


言い様、私は小石の尖った部分を壁に突き立てると、ゆっくり動かし始める。
カリカリ、と小さな音を立てて、壁に線が刻まれていく。


「えっ、梓ちゃん、何してるの?
駄目だよ、見つかったら怒られちゃうよ?」


「大丈夫だよ、憂。
記念なんだし、こんな所の落書きなんて誰も気にしないって。
それに多分、適当な神様がすぐ消しちゃうと思うし」


「神様が……?」


まだ私のしようとしてる事が分かってないみたいに、憂がまた首を傾げる。
説明するより見てもらった方が早いかも。
そう思った私はとりあえず口を噤んで、壁の左側の方にゆっくりと文字を刻んでいく。



 ナ
 カ
 ノ
 ア
 ズ
 サ



221: 2013/03/09(土) 19:03:28.61
縦書きで刻んだそのカタカナの文字はちょっと歪んでたけど、
憂はそれだけで私が何をしたいのか分かってくれたみたいだった。


「そっか……、記念なんだね、梓ちゃん」


「うん」


私が頷くと、憂も笑顔で私の右隣に自分の名前を刻んでいってくれた。
『ヒラサワウイ』って私に倣ってわざわざカタカナで。
律儀なのか真面目なのか、どうにも憂っぽくて何だか嬉しい。

これは記念。
そう、単なる記念だ。
倉庫の壁に文字を刻んだ所で、神様が残してくれるなんて思ってない。
適当な神様だけど、どうにかして目ざとく消してくれるはずだと思う。
もし適当な神様が消し忘れた所で、こんな落書きなんて、
この一週間を忘れた私達が見ても単なる悪戯としか思わないだろうしね。

でも、それでいいんだ。
これは壁じゃなくて私達の心に刻む記念だから。
この一週間、一緒に悩んで、一緒に頑張って来た証だから。
心に刻みたいお互いの名前だから。
だから、私はちょっと悪戯っぽく笑うんだ。


「うーん……、ちょっと字が小さかったかも」


「そう? 私は結構大きめだと思うんだけど……」


「どうせ消されちゃうんだし、折角だからもっと大きく書いちゃおうよ、憂」


「……うん。
それもそうだね」


「あ、でも……」


「何?」


「今度は私が憂の名前を書くよ。
憂は私の名前を書いてくれる?」


「うん、いいよ、梓ちゃん」

222: 2013/03/09(土) 19:04:00.22
私の考えが分かっているのかどうかは分からないけど、憂は笑顔で頷いてくれた。
場所を入れ替えて、今度はお互いの名前を倉庫の壁と刻んでいく。
憂はもうすぐ私の事を忘れてしまう。
私も『ナビゲーター』を終えた後に憂の事を忘れてしまう。
きっとこの一週間の事を二度と思い出す事も無いんだろう。
それでも、私は心の何処かに小さくとでも刻んでみせたい。
不思議で奇妙なこの一週間の事を。
大切な親友の事を。




 ナ
 カ   
 ノ   ナ        ヒ
     カ    ヒ   ラ
 ア   ノ    ラ   サ
 ズ   ア    サ   ワ
 サ   ズ    ワ
     サ    ウ   ウ
          イ   イ




壁に、心に刻まれる二人の名前。
いつか再会した後、また二人で演奏出来るように。
未来に進むために。
私はこれからも頑張っていく。
どんなに才能が足りなくて自信が持てなくたって、
顔を上げて、胸を張って、音楽と一緒に生きていく。
いつかきっと、こんな風に二人で笑えるように。

225: 2013/03/11(月) 19:23:04.47
「憂」


「梓ちゃん」


不意に同時にお互いの名前を呼んでしまう私達。
さっきまで一時間以上話していたけど、その程度で満足出来るはずも無かった。
もっと話していたい。
お互いの事をもっともっとよく知り合いたい。
それが出来ない事なんて、勿論、二人ともよく分かってる。
だから、私は憂ちゃんに話さなきゃいけない事を優先して話さないといけない。
苦笑を浮かべ、軽く頷いてから私は続ける。


「じゃあ、私の方から話していい?」


「うん、梓ちゃんが先に話して」


「私の『お試しお願い』の事、憶えてる?」


「うん、憶えてるよ。
確か私と『同じ生活をしてみたい』ってお願いだったよね。
だから、梓ちゃんも石ころ帽子の状態になっちゃったんだもんね」


「あれ、嘘だったんだ」


「嘘?」


憂が不思議そうに首を傾げて、それに私は罪悪感と気恥ずかしさを感じる。
実を言うと、これを憂に伝えるのはかなり恥ずかしい。
一週間前の私と願望やちょっとした嫉妬が知られてしまうみたいで、続きの言葉を躊躇いそうになる。
でも、一週間前の私と今の私は違うから。
全然違う事を考えられるようになったから。
一度だけ深呼吸をして、私はもう一度、憂の瞳に視線を向けた。


「うん、嘘。
実はね、私の本当のお試しお願いは、
『憂と同じ生活をしてみたい』じゃなくて、
『憂の事をもっとよく知りたい』ってお願いだったんだ」


「私の事?」


「うん、そうだよ、憂の事。
初めて憂と会った時に思ったんだよね。
すっごくしっかりしてて優しい子だなあ、って。
どういう毎日を過ごして、どういう事を考えて生きてたら、憂みたいな子になれるのかなあ、って。

だから、もっと知りたかったんだ、憂の事を。
それでお試しお願いにしてみたんだよ。
『憂の事をもっとよく知りたい』って。
私はてっきりそのお願いで神様が私の部屋に憂の情報をまとめた資料を置いてくれるとか、
頭の中に憂の情報を直接流し込んだりしてくれるのかな、
って思ってたんだけど、そのお願いの結果は憂ももうよく知ってるよね」


「うん、神様が梓ちゃんに石ころ帽子を被せてくれたんだよね。
あれは梓ちゃんに私と『同じ生活』を経験させてあげるためじゃなくて……」


「そうすれば、私が憂と一緒に生活するようになる……、
そこまで分かってたのかどうかは微妙な所だけど、
どっちにしても私と憂が普通の状態の時よりは傍に居るようになる、って考えてたのかもね。
『相手の事を本当によく知りたいのなら、背中だけは押すけど後は自分の力で知ろうとしなさい』。
なんて、神様が私にそうお説教してたのかも」


「そうだったんだ……」

226: 2013/03/11(月) 19:24:02.79
憂は少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。
ひょっとして、私が嘘を吐いてた事に幻滅しちゃったのかな?
ううん、憂がそんな子じゃないって事は、私ももうよく知ってる。
憂が悲しむのは私が変なお願いをする事じゃなくて、
私が自分の気持ちに嘘を吐く事だってよく分かってるから。
私は安心して憂の次の言葉を待てた。
十秒くらい経って、憂が小さく口を開いて続けてくれた。


「その『お試しお願い』は叶ったの?」


「うん、叶ったよ、憂。
自分で言うのも変だけど、単に憂の情報を資料にまとめてもらうより、
もっともっと、ずっとずっと憂の事をよく知れた気がするんだよね。
結果的に、凄くいい形で叶えられたと思うよ。
もう……、適当な神様のくせにこんな所だけはしっかりしてるんだから」


「よかった」


憂が微笑んでくれる。
私の『お試しお願い』がちゃんと叶ってた事を知って喜んでくれてる。
気が付くと私は憂と左手の指先を絡めていた。
もうすぐ来る別れの時間まで憂の体温を感じていたかったし、
憂にも私の体温を感じていてほしかったから。
真正面から憂と私が向き合う。
空いていた右手の方にも体温を感じる。
右手の方はいつの間にか憂の指先が絡められていた。
二人で指先を絡め合い、強く握り合う。

そうして微笑み合ってから、今度は憂が私に訪ねた。


「じゃあ、次は私の方の話をしてもいい?」


「うん」


頷きながら、時間的にこれが最後の話になるな、って私は感じていた。
憂だってきっと分かってる。
分かってて、憂は微笑みながら私に最後の質問を続けてくれる。


「梓ちゃんの『一生に一度のお願い』って、何なのか教えてもらってもいい?
これから『お願い』を叶える時にも、『お試しお願い』の時と同じで、
その『お願い』の内容を私が知ってる必要は無いから、もしも梓ちゃんがよければ……」


「勿論だよ、憂。
教えてあげる……って言うか、憂にも知っててもらいたいんだ。
この一週間、憂と一緒に過ごせて見つけられた『お願い』だもん。
やっと形に出来た私の『夢』なんだもん。
憂が知っててくれると……、嬉しいな」


「ありがとう、梓ちゃん。
教えて、梓ちゃんの『お願い』と『夢』。
梓ちゃんの叶えたい事、叶えようと思ってる事を……」


「すっごく小さな『お願い』だから、ちょっと恥ずかしいんだけどね……。
でも、憂だって自分の『お願い』をちゃんと教えてくれたんだもんね。
私も胸を張ってその『お願い』を憂に伝えるよ。
私の『一生に一度のお願い』……、それはね……」

227: 2013/03/11(月) 19:25:13.38
私は躊躇わずにそのお願いを憂に伝え切った。
とても些細で馬鹿みたいだけど、自分の力で未来に繋げるための私の『お願い』。
何もかも忘れてたとしても、意外と単純な所もある私ならきっと……。

私の『一生い一度のお願い』を聞き終わった後、憂がまた笑った。
勿論、私を馬鹿にして笑ってるわけじゃなくて、
私の見つけられた『お願い』の本当の意味を分かってくれてる優しい微笑みで。
憂が私のおでこに自分のおでこを重ねる。
温かい体温を感じ合う。
指と指、手と手、おでことおでこ、想いと想いで、ここに居る自分達を感じ合う。


「素敵な『お願い』だね、梓ちゃん」


「そう……かな?
自分でも結構馬鹿みたいって思うんだけど、でも、これでいい気もしてるんだよね。
正直言うとね、憂の『お願い』はすっごく立派だって思った。
私も似た感じの『お願い』にしようかとも思ったよ。
でもね……、そうした方が逆に憂に失礼だし、
私が見つけた『お願い』でもない気がしたんだ。

だから、これがきっと私の一番の『お願い』。
これからもずっと頑張っていくための、『夢』っていう『約束』だと思う」


「『夢』っていう『約束』……。
うん……!
とっても素敵だよ、梓ちゃん……!」


「私、『約束』するよ、憂。
この一週間の事を思い出すのは多分、きっと無理だと思う。
それでもね、私、絶対、桜高に入学する!
桜高に入学して、音楽系のどれかの部に入って、
学園祭か新人勧誘かのライブで憂を感動させてあげる!
絶対絶対、感動させるんだから!
それで憂に思わせるんだ、『あの人と一緒に音楽したいな』って……!

流石に一年の頃は無理かもしれない。
ひょっとしたら高校生の間に憂を感動させられるのも無理かもしれない。
でも、私は諦めたくないし、諦めないよ。
高校生の時に駄目でも、大学に入っても社会人になっても音楽を続ける。
いつかきっと……、憂の感動する音楽を演奏してみせるから……。
その時は……!」


「うん……!
一緒にまた『ふわふわ時間(タイム)』の演奏をしようね……!」


憂の嬉しい言葉に心を躍らせながら、
私は『一生に一度のお願い』を強く思い始める。
憂が私のお願いを叶えようとしてくれてるのが感覚で分かる。
もう数秒後には私の『お願い』が叶えられて、憂が『チャンスシステム』の事を忘れ去る。
それでも、私達は焦らない。
悲しまない。
二人で笑って考えるのは、私達の未来の事。
未来、いつか必ず出会って、また二人で演奏出来る未来の事。
そのためにまず私達には言わなきゃいけない事がある。

228: 2013/03/11(月) 19:26:07.60
「憂」


「梓ちゃん」


だから、私達は言うんだ。
最後にもう一度だけ強く両手を握り合って、
まずはほんの少しの別れのための言葉を。












「またね……!」








って。
二人とも心からの笑顔で。

230: 2013/03/17(日) 21:20:09.54





「ひゃんっ!」


桜高の校舎の廊下に可愛らしい叫び声が上がる。
叫んだのは長い黒髪が映える人……、澪さんだった。
ちなみに澪さんが叫んだ理由は、私が澪さんの耳に息を吹き掛けたからだったりする。


「急に何するんだよ、律っ!」


止める隙もなく、澪さんが少し先を歩いていた律さんの頭に拳骨を落とす。
「急に何って痛いっ!」って、これはまた可愛らしい律さんの呻き声が漏れた。
二人の間にはちょっと距離があるから澪さんも勘違いしないかな、
って思ってたんだけど、ちょっとくらいの距離なんて澪さんには関係無いみたいだった。
『耳を息を吹き掛ける人と言えば律』。
即座に頭の中でそう直結させてしまうくらい、
澪さんは律さんに耳に息を吹き掛けられて来たんだろうなあ……。


「耳に息吹くのやめろ、っていつも言ってるだろ」


「いやいや、私じゃないって……」


「こんな事するの、他に誰が居るって言うんんだよ」


「確かにそれはそうなんだけど……」


澪さんに言われた律さんが、頭を擦りながら周囲を見回す。
勿論、澪さんの一番近くに居たのは、私を除いては律さんだけだった。
不思議そうな表情になって、納得いかなそうに律さんが小さくぼやいた。


「あっれー……?
ひょっとして無意識の内に澪の耳に息を吹いてたとか……?
いやいや、いくら何でもそれは無い……と思いたいけど……」


「何をぶつぶつ言ってるんだよ、律。
ほら、教室に忘れ物を取りに行くんだろ?
あ、もう耳に息を吹くのはやめろよな」


「ほいほい」


痛そうに頭を擦りながらも、律さんが笑って応じる。
その表情には安心の色が多く含まれてる様に見えた。
律さんを置いて、でも、ゆっくりとした速度で教室に向かう澪さん。

231: 2013/03/17(日) 21:21:20.84
「ま……、いいか。
澪も少しは元気になったみたいだしな」


澪さんに聞こえないようにそう呟いてから、律さんが澪さんを追い掛けていく。
すぐに肩を並べると、二人してもう笑顔になっていた。
ついさっき澪さんが律さんを叩いてたなんて思えないよね。
傍から見てるとちょっとハラハラするんだけど、その実は心配する必要なんて全然無い。
これが二人の信頼関係なんだよね。

澪さんも元気になったみたいでよかった。
さっきまでの軽音楽部の部室での澪さんは真っ白に燃え尽きてたもんね……。
学園祭のライブに燃え尽きたわけじゃなくて、ライブ後に転んじゃった事のせいで……。
講堂中の人達にパンツを見られちゃったわけだもん。
私だったらしばらく立ち直れないかも……。

でも、耳に息を吹き掛けられた事で、澪さんも少しは自分を取り戻せたみたい。
前回は律さんが憂に耳に息を吹き掛けられてたから、
ってそれだけの理由で今回は澪さんの耳に息を吹き掛けたんだけど、結果的によかったみたい。
それにしても、可愛かったなあ、澪さんの水色縞々パンツ。
澪さんのクールな外見のイメージにギャップがあって逆にそれがまた……。
って、いやいや、それはもう考えないようにするとして。

私は軽く一息吐いてから、待ってもらっていた人の方向に振り向いた。


「これで信じてもらえましたか?」


私が首を傾げて笑顔で訊ねてみると、
待ってもらっていた人……、桜高の一年生の人は小さく頷いてくれた。
その人は憂と出会った翌日、二人で桜高に初めて行った時に見た人だった。
『石ころ帽子』を被ってる状態の私達を何故か見ていたように見えた桜高の一年生。
もしかしたら、この人はあの時点で私達の姿が見えていたのかもしれない。
だって、この人が私の次の『対象者』なんだもん。
次の『対象者』だって事が決まってたから、私達の姿を前倒しの形で見えてたのかも。
そうだと考えてみても、また神様の適当さが見えて来る気がするから、微妙な感じなんだけどね。

昨日、『一生に一度のお願い』をお願いした次の瞬間、
気が付いた時には私はいつの間にか家のベッドの中に寝転んでいた。
いつの間にかパジャマに着替えさせられてて、
眠気も疲れも完全に無くなってて、それどころか夜が明けて朝になっていた。
眠らされた状態で神様に家に戻されたって事なんだと思う。
想像とてみるとちょっと怖いけど、それはそれで助かった。
私の『お願い』を叶えてもらった瞬間、深夜の肌寒い公園に、
私と過ごした一週間の事も『チャンスシステム』の事も全部忘れた憂と二人で残されても、どうしたらいいか分からないもん。
それにこの様子なら、憂も神様が無事に平沢家に送り届けてくれてるはずだと思う。

朝ごはんを食べて一息吐くと、私は自分の中に妙な感覚が生まれてる事に気付いた。
何処かに向かわなきゃいけない、っていう不思議な使命感。
不思議な感覚だったけど、それが私が『ナビゲーター』ってなったって事なんだってすぐに分かった。
向かわなきゃいけない何処か……、そこに次の『チャンスシステム』の『対象者』が居るんだって事も。
私は服を着替えた後、勝手に進む私の足に任せてその場所に向かう事にした。
『お願い』がちゃんと叶ってるのかどうかは気になったけど、それはやめておいた。
それを確かめるのは、この『ナビゲーター』の役割が終わってからにしようと決めてたから。
適当な神様だけど、『お願い』だけはちゃんと叶えてくれてるはずって安心感もあったしね。

そうして使命感の導くままに進んだ先に辿り着いたのは、一昨日まで何度も訪れてた桜高だった。
やっぱり神様って『ナビゲーター』の近所の人から、適当に次の『対象者』を選んでるんじゃ……。
ちょっと呆れながら軽音楽部の部室の皆さんの様子を見た後、
校舎の中を軽く歩いていて見つけたのが、この人だったってわけなんだよね。

横の髪を巻き毛にした無口な雰囲気の女子生徒。
ちょっと苦手なタイプの人だったけど、そんな事を言ってる場合じゃなかった。
『ナビゲーター』の役割を終わらせない事には憂との約束も果たせないし、
それ以上にちゃんと自分の意思で『ナビゲーター』を務め上げたいって気持ちもあったから。
憂に影響を与えたキャサリンさんみたいに……。
私のために一生懸命になってくれた憂みたいに……。
私も精一杯自分と誰かの『お願い』に向き合ってみせたいから……。

232: 2013/03/17(日) 21:25:35.83
巻き毛の人は私服なのに誰にも見咎められてない私を少し不思議そうに見ながらも、
それ以上の事には特に興味無さそうに、急に声を掛けた私の話を聞き流すみたいにしていた。
ドッキリか何かと思ってるのか、それとも私の存在自体にあんまり興味が無いのか……。
ちょっと不安になって来たけど、巻き毛の人はとりあえずは私の最初の質問には答えてくれた。
私の最初の質問……、まずは名前と今叶えたいと思ってる『お願い』について。


『名前は若王子いちご。
叶えたい『お願い』は特に無いよ』


とても簡潔で素っ気無い答えだった。
『チャンスシステム』なんていきなり過ぎるし、まだ私の事なんか信じられないよね。
そう思って私は『石ころ帽子』の事を説明した後、
タイミングよく近くを通り掛かった澪さんの耳に息を吹き掛けてみたわけなんだけど……。
巻き毛の人……、若王子さんの様子はやっぱり全然変わらなかった。
頷いてくれたわけだし、私の話を信じてはくれたみたい。
でも、それ以上感じる事は特に何も無かったみたいだった。


「若王子さんは叶えたい『一生に一度のお願い』って無いんですか?」


「別に」


また訊ねてみても、返って来る言葉は素っ気無かった。
若王子さんが冷たいわけじゃなくて、本当に叶えたい『お願い』が無いんだと思う。
私の場合はあの子との事もあって音楽関係の『お願い』はあったけど、
他に叶えたい『一生に一度のお願い』があるかと聞かれたら、やっぱり迷っちゃうんじゃないのかな。
自分の『お願い』や『夢』に真剣に向き合うのは勇気が必要だから。
どうしても乗り越えられない壁にぶつかってしまう事が分かり切ってるから。
私達はそれくらいは分かってしまう年頃だから……。
だけど……。


「若王子さん」


私は自分の巻き毛を触っている若王子さんの手を握った。
突然の事なのに、若王子さんは嫌そうどころか興味を示した様子も無かった。
ただ視線を私の方に向けて、軽く首を傾げただけだった。
これは大変そうだなあ、って私はつい苦笑してしまう。
私にこの人の『ナビゲーター』を務められるのかな。
まずは若王子さん自身の『一生に一度のお願い』どころか、
私に少しでも興味を持ってもらう事から始めなきゃいけなさそうだし。
若王子さんと私の相性ってあんまりよくなさそうだしね……。

これから先の事に不安が湧いて来ないと言ったら嘘になる。
だけど、私は微笑んで、真剣な視線を若王子さんに向ける。
私は決めたから。
私と憂と『対象者』の若王子さんの『お願い』……、
『夢』と向き合う事を。
今度こそ逃げずに。


「今は特に無いかもしれません。
でも、今は無くても探してもらいたいな、って思います。
若王子さんの叶えたい『夢』を。
例えそれを見つけられなくても、例え叶えるには大きすぎる夢でも、
それを考える事には意味があるはずですから……、私はそう思いますから……!
あんまりお役に立てないかもしれませんけど、私もそのお手伝いをしますから!」

233: 2013/03/17(日) 21:27:04.06





私の部屋の窓の外を枯れ葉が舞い落ち始めてる。
もうすっかり季節も秋になり始めたんだなあ、って感じる。
いよいよ受験シーズンも近付いて来たってわけなんだよね……。
内申点的には問題無いと思うんだけど、試験が失敗したら勿論落ちちゃうわけだからやっぱり少し不安。
そろそろ本腰を入れて受験勉強を始めなきゃいけない。
ただでさえ、最近は勉強が遅れがちなんだし……。

特に二週間分の勉強の遅れは痛かった。
どうしてなのか私自身にも全然分からないんだけど、
二学期に入ってすぐの頃の二週間分の授業の内容を全然覚えてないんだよね。
風邪で休んでたわけじゃないし、ちゃんと出席してた記憶もあるんだけど、
何故だかその二週間に授業で習ったはずの内容がどうしても思い出せない。
しっかり身を入れて授業を受けるようにしてたはずなのに、これは何でなのかなあ……。
ひょっとして、その間、私は宇宙人に誘拐されてて、
周りの人も含めて偽の記憶を埋め込まれてるとか……、は流石に無いよね。
いくらなんでも荒唐無稽過ぎるよね……。

実を言うと、思い当たる事は一つあったりもする。
それは夏休みに入る前、ずっと一緒に音楽の練習をやってたあの子の言葉。


『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』


あの子は私にそう言った。
ずっと一緒に音楽を続けられると思っていたのに、
受験シーズンになっても変わらないと思ってたのに、それは叶わなかった。
私達は受験生で、音楽よりも勉強の方を優先させなきゃいけないのは確かで、
あの子の言ってる事は全然間違ってなくて、それが分かってるからこそ辛くて……。
あの日以来、私はあの子の事ばかり考えてた。
ギターを弾くのも止めて、あの子の誘いも断り続けてるくせに、あの子の事を考えてる。
だから、二学期が始まったばかりの頃の授業の内容を憶えてないのかもしれない。
夏休みが終わって久し振りに見たあの子の姿に戸惑ってしまって、授業に集中出来なかったのかもしれない。
今だってあの子の事を思い出すと胸が痛んでしまう。
強く強く痛んでしまう。

だけど、今、私は何故か手にムスタングを持っている。
胸に痛みを感じながらも、何故だか不思議な高揚感を感じてる。
弾いてるわけじゃない。
ただ手に持って重さを感じてるだけ。
それだけで私は何故か嬉しさまで感じちゃってるんだ。

きっかけはもう憶えてない。
単なる気紛れだったのかもしれない。
とにかく昨日、学校が終わって部屋に戻った私は、
何故か部屋の隅にあるギターケースに片付けていたムスタングに視線を向けてしまっていた。
押し入れの中に片付ける事も出来なかった私のムスタング。
見るのも嫌だったはずなのに、視界の中に入れないように努めていたはずなのに。


『久々にケースから出してみようかな』


その日の私は不思議とそう思っていた。
もしかしたら、弦も錆びてるかもしれないし……。
誰に向けてるのか分からない言い訳をしながら、
私は自分でもよく分からない胸の高鳴りを感じてムスタングのケースを開いた。
封印されていた私のギターを取り出した。

234: 2013/03/17(日) 21:28:45.75
取り出してみて、正直、私はすっごく驚いた。
ギターケースの中のムスタングが新品みたいに磨かれていたからだ。
あの子との練習でかなり使い古してるはずなのに、
夏休み前からメンテナンスなんてしてないはずなのに、新品みたいにピカピカだったんだ。
少なくとも私はメンテナンスなんてしていないし、そもそもこんな技術だって無い。
ひょっとしたら、お父さんがやったのかな?
娘の部屋からギターの音が聴こえなくなって久しいから、気になってメンテナンスをしてくれたのかな?
お父さん、自分のギターこそボロボロなのに、私のギターをメンテナンスしてくれたの?
そんな技術なんて持ってたの?
こんな新品みたいに磨ける技術を?
って、本当にそうだとしたら、年頃の娘の部屋に勝手に入らないでよね……。

お父さんに確かめてみてもいいけど、私はそうするのはやめようと思った。
このピカピカのムスタングについてお父さんの方から話を切り出した事は無いって事は、訊かない方がいいって事なんだよね。
もしかしたら、お父さんがやったわけじゃないかもしれないしね。
それなら誰がやったのか確かめるのも怖いし……。

それでも、この新品みたいなムスタングを見るのは嬉しかった。
ただ新品みたいなだけじゃなくて、私が付けた傷をそのまま残していてくれたから。
単なる新品を買ってもらえるより、何倍も何十倍も嬉しく感じた。
我ながら単純だなあ、と思う。
でも、私の歩んで来た道をそのままに、心機一転で進めるような気がして来て、
過去の私と未来の私と今の私の姿が、そのままこのムスタングに込められてるみたいな気がしたんだ。
なんて、ちょっと気障過ぎる考え方かもしれないけどね。


「……うん!」


過去の私と未来の私。
そして、今の私。
全部の私と一緒に前に進むために……。
とても単純なきっかけだけど私は、もう迷うのは嫌だな、って強く思った。
ムスタングを持ったまま、携帯電話のメール機能を開く。
怖さと不安と切なさは勿論ある。
でも、それだけじゃきっと前には進めないから。
ピカピカのムスタングを見てると不思議と勇気が湧いてくるから……、
だから、私は勇気を出して、凄く久し振りにあの子へのメールを打ち始める事にしたんだ。

236: 2013/03/21(木) 00:32:19.45





「久し振りだね、梓の方からメールくれるなんて」


「……うん」


「夏休みの間ね、何度遊びに誘っても断られるから悩んでたんだよ?
ひょっとして梓に嫌われたんじゃないかってさ」


「ごめん……、ごめんね……。
それはそっちが悪いわけじゃなくて、私のせいで……」


「ちょっと待って、梓」


「えっ?」


「梓に誘いを断られてて、私も色々考えたんだよね。
夏休み前、ちゃんと自分の本心を伝えられなかったのが悪かったじゃないか、って。
どうやったら梓に自分の気持ちをちゃんと伝えられるのかな、って。
もしかしたら、梓じゃなくて私の方が逃げてたのかも、ってね」


「そんな……、そんな事無いよ……。
誘いを断ってたのは私だし、逃げてたのも私だし……」


「うん、梓はずっと私から逃げてたよね。
それは間違いない!」


「いや……、確かにそうなんだけど……」


「あはっ、複雑な顔しないでよ、梓。
私が言いたいのは、梓は私から逃げてたけど、私だって梓から逃げてたって事なんだよね。
梓に誘いを断られるからって言ってもね、他に気持ちの伝え方はいくらでもあったわけでしょ?
やり方はよくないかもしれないけど、今日みたいに家まで押し掛けるとかさ。
そうすれば梓がどんなに嫌がっても話が出来るし、
私がどんなに逃げたくなったって、梓と向き合わなきゃいけなくなるでしょ?
まあ、今日は梓が部屋に呼んでくれたわけなんだけど、
もっと早く私の方からそうしておけばよかった、って今は思ってるわけ。

これでもね、私らしくなく結構悩んでたんだよ。
伝えたい本当の気持ちを手紙に記してみる、
なんてまるで女子中学生みたいな事もやってみてたんだよ。
話し掛けようとすると逃げられるけど、手紙なら読んでもらえるかも、ってさ。
いや、実際にも女子中学生なんだけどね。

だけどさ、それも私の逃げだったのかも。
手紙で気持ちを伝えるのは悪くないとは思うけど、
それで伝えられる気持ちや想いなんかもあるんだろうけど……、
でも、やっぱりさ、そういうのって今までの私達のやり方とは違うじゃん?
私達は今まで何度か喧嘩もして来たし、方針や音楽性が違う事も多かったし、
お互いに腹を立てる事もあったけど、仲直りは直接自分の口から切り出してたでしょ?
ちゃんとどっちかから謝ってたでしょ?
とっても勇気が要る事だけど、それをやって来たでしょ?
梓もそう思うから、今日、私を呼んでくれたんでしょ?」


「うん……、そう……だと思うよ。
私もね、本当は何て言われるのか分かってたんだ。
夏休み前に練習の中断を切り出された時に、分かってたんだよ、多分。
私……、それを認めるのが嫌だったんだ。
夢が終わっちゃうのが悲しいから。
自分の無力を感じさせられるのが怖いから。
だから、私は誘いを断り続けて、逃げ続けてたんだよね……」

237: 2013/03/21(木) 00:33:46.21
「でも、今日、梓は私を呼んでくれたよね?
私と話がしたくて、部屋に呼んでくれたんだよね?
夏休み前、私が伝えられなかった本心を聞いてくれるためにさ」


「……うん。
夏休み前、それ以上聞かないようにしてた話の続きを聞きたい。
本当はもう聞かなくてもどんな話になのか何となく分かってるけど、
でも、ちゃんと向き合って、目と目を合わせて、その話の続きが聞きたいんだ。
こんなの私の変な我儘みたいだけど……」


「ううん、我儘なんかじゃないよ。
例え本当に梓の変な我儘だって、私はそれが嬉しいんだから問題無いよ。
実際問題さ、私があんなお茶を濁した言い方をしちゃった時に、
梓に幻滅されて絶交されちゃってたってしょうがなかったんだもんね。
自分の事ながらろくでもない事をしちゃったな、って思ってた。
そういう事を私はしちゃったんだよね……。

だからね、私、すっごく嬉しいんだよ。
あの時の話の続きを梓がさせてくれるのがさ。
梓が私の話を聞いてくれるのが。
……聞いてくれる?」


「うん、聞かせて。
今度こそ私も逃げ出さずにちゃんと聞くから。
泣くかもしれないけど、逃げたりなんかしないよ。
もし泣いちゃったら……、ちゃんと慰めてよね?」


「あはっ……!
ありがとう、了解だよ、梓……!
じゃあ、あの時の話の続きをするね。

『今年は受験だし、一学期で音楽の練習は中断だね、梓』」


「そう……だね……」


「それでね、私……、
高校生になったらギターをやめようかと思ってるんだ」


「そうなんだ……」


「梓も知ってるよね?
私、将来、お医者さんになりたいんだって事。
あはっ、まあ、私って馬鹿なんだけどね。
でも、医者になりたいって気持ちは本気。
前にも話したよね?
今は治ってるけど、お兄ちゃんと同じ病気で苦しむ人の力になりたいんだって。
だから、今まで梓に習ってばっかだったけどね、最近は自分で勉強もしてるんだよ?
模試の結果もそれなりに上がっては来てるんだから!

それでね、ずっと勉強してみて頭を悩ませてて、考えるようになったんだよね。
私の頭じゃもっともっと勉強しなきゃ、お医者さんにはなれないんだって。
まずは高校受験を頑張って難しい学校に行って、
高校でも猛勉強して医大に入って研修医になって……、
そうするためには、私、ギターを続けてられないなあ、ってさ」


「勉強の片手間にギターを……。
ごめん、そんな考え方、失礼だよね」


「うん、失礼だよ、誰よりも梓にさ。
梓は私よりギターも上手いし、音楽に真面目だし頑張ってる。
そんな梓と一緒に音楽をやるには、私に実力が足りないって思うんだよ。
不器用な上に練習に時間を裂けない私じゃ、梓の足を引っ張るだけなんだって。
そんなの駄目だよ。
そんなんじゃ、駄目なんだよ。
梓のギターはもっと色んな人に届けられる音楽なんだから……!」


「私だって……、そんなに才能があるわけじゃないよ……?」

238: 2013/03/21(木) 00:35:39.59
「ううん、才能は少なくとも私よりもあるし、何より梓は音楽の事が好きでしょ?
私なんかよりずっとずっと音楽の事が好きでしょ?
小説からの受け売りで悪いんだけどさ、梓はこんな話を知ってる?
芸術とは円周率の様なものだ、って話。

円周率って、いつまでも不規則に続く割り切れない数だよね?
今でも何処かのコンピューターでは計算し続けてるらしいよね?
でも、ほとんどの人には3.14で通じるし、日常生活には何の問題も無いでしょ?
ある程度の大体で終わらせちゃっていい事だよね?

でもね、本当に芸術を愛する人はその先を求めていくらしいんだ。
ある程度の大体で終わらせたりなんかせずに、果ての無い道に挑んでいくらしいの。
どれだけ時間が掛かったって、どれだけ遅い歩みだって、決して諦めずに。
梓はそういう才能を持ってるはず……、ううん、持ってるって私は思うよ。
それが本当の意味での芸術の才能だと思うんだ」


「そんな才能……、私にあるのかな……?」


「あるに決まってるよ、自分じゃ気付いてないかもしれないけどね。
私とギターの練習をしてる時の梓は凄く楽しそうだったし、
私が完璧だと思った演奏でももっと深みを持たせようと考えてた。
何処までも先を考えてたんだもん。
そんな梓に才能が無いなんて、そんな事があるはず無いよ。
だからね、私は梓には同じ才能を持った人と進んでほしいって思ったんだ。
そんな才能を持った梓の足を引っ張りたくなかったんだ」


「私は……、それでもずっと一緒に……。
ごめん、未練がましいよね、ちゃんと本当の気持ちを伝えてくれたのに……」


「そう言ってくれるの、とっても嬉しいよ、梓。
でも、やっぱり私じゃ駄目なんだ。
片手間でしかギターの練習が出来ない私なんかじゃ、この先、ちゃんと梓と向き合えなくなる。
例え続けても、ずるずると私達にとって中途半端なまま、中途半端な音楽を続ける事になっちゃうよ。
それだけは駄目だと思うんだよ、二人のために。
でも、やっぱりそれって、一つの夢の終わりでもあるから……。
あの時に言い出せなくてごめん……。
ごめんね、梓……」


「夢の終わり……か。
そうだね……、私達の一つの夢……、終わっちゃったね。
メジャーデビューして、何処かの会場なんかでライブを開催して、
少しでもファンが居てくれて、一緒に盛り上がったりして、そんな夢……。
悲しいし、悔しいなあ……。
私にもっとギターのテクニックがあれば、
ひょっとしたら中学生の内にデビューとか出来てたのかもしれないのにね……」


「……あはっ。
それはどんなに才能があっても無理でしょ」


「うん、流石に無理だったかも……。
でも、悔しいし、悲しいのは本当だよ?
すぐには無理でも、いつかは一緒にライブを開催したいって思ってたんだもん。
どんな少人数の前でも構わないから、
私達の音楽を誰かに……、ううん、私達自身に届けたかったな。
これだけ弾けるようになったんだよ、って自分達自身に」


「……本当に、ごめん」


「いいよ、本当の気持ちを教えてくれて、ありがとう。
強がりに聞こえるかもしれないけどね、何かすっきりしたのも本当なんだよね。
気持ちを確かめないまま怖がってた方が、逃げてた方が、ずっと辛かった気がするな。
嫌な事から逃げて、辛い事から目を逸らしてる方がずっと……。
だからね、勇気を出して、逃げずに向き合えて話が出来てよかった。
私ね、今、不思議なんだけどすっごく嬉しいんだ」


「……こっちこそありがとう、梓。
伝えられなかった気持ちを受け止めてくれて……。
私だってすっごく嬉しいよ。
でもさ、何だか複雑だなあ……」

239: 2013/03/21(木) 00:36:48.17
「複雑って?」


「だってさ、私、梓に泣かれて叩かれる覚悟までしてたんだよ?
それくらいの事を梓にしちゃったと思ってたし……。
でも、梓ったらすっきりした顔で私の気持ちを受け止めてくれるしさ。
それはそれで嬉しいんだけど、何だか複雑。
私とは遊びだったの? って感じ」


「そ、そんな事無いよ……」


「あはっ、ごめんごめん、それは冗談。
それくらい梓が私の話を受け止めてくれる準備をしてくれてたって事なんだよね。
だけどさ、気になるのは本当だよ。
梓、すっごくすっきりした顔をしてるんだもん。
それも私が本当の気持ちを伝える前からね。
何だか二学期が始まった頃の梓と、今日の梓は目の輝きが違うって言うか……。

どうしたの?
訊いていい事なのか分かんないけど、何かあったの?」


「……うん、何かあったかって言えば、何かあったかな。
今日はそれも伝えたくて、私の部屋に来てもらったんだよね。
何だか笑われそうな気もするけど、見てくれると嬉しいな」


「見る物なの……?
まあ、見てみない事には、笑わないって保証は出来ないけどさ」


「笑ってもいいよ、自分でも単純だって自覚があるしね。
だけど、それもそれで本当の私だから……。
だからね、笑っても何を言ってくれてもいいから、思った事をそのまま言ってほしい。

……ほら、これが見てほしかった物なんだけど、どう?」


「うわっ、すっごい、新品のムスタングじゃん!
どうしたのっ?
新しく買ってもらったのっ?」


「ううん、実はそうじゃないの。
ほら、このヘッドの所、見てくれる?」


「ヘッド……?
あれっ、これ前に私のギターとぶつけた時に出来た疵……?
でも、新品のムスタング……、あれっ?
新品にわざわざ前のと同じ疵を付けたってわけじゃないよね?」


「いやいや、そんな変な事するわけないでしょ」


「そりゃそうですよねー……。
って事は、このムスタングってもしかして?」


「うん、今までのと同じムスタングだよ。
ほら、見てみてよ。
ここもここもここも、ピカピカになる前と同じ疵が付いてるでしょ?」


「ホントだ……。
どうやったの、これ?
完全メンテってやつ?
って、完全メンテでもこんなに綺麗になるもの?」


「あははっ、実はね、私もよく分からないんだ。
あの日から私も色々悩んでてしばらくギターを弾いてなかったんだけど、
一昨日、何となくね、本当に何となく久しぶりにギターケースを開けてみたんだ。
そうしたらいきなりこのピカピカのムスタングが出て来るでしょ?
私もすっごいビックリしちゃったんだよね」

240: 2013/03/21(木) 00:37:43.55
「そりゃビックリするでしょうよ……。
でも、梓がやったわけじゃないんだったら、ひょっとして梓のおじさんがやったのかな?
他の誰かが梓のギターをいじれるはずもないし、あのおじさんの腕だったら出来るかもしれないしね。
って、それならおじさん、まずは自分のボロボロのギターをメンテすればいいのに……」


「それもそうなんだけど、それはお父さんのポリシーって事にしとこうよ。
実はね、私、まだお父さんにはメンテの事を確かめてないんだ。
そういうのって口に出して確かめる事でもないとも思うしね」


「まあ、それが中野家の方針なんだったら、私に口出しは出来ないけどね。
だけど、これを見せてくれるって事はそういうわけなの?
梓は一昨日このピカピカになったムスタングを見て、私と話をしてくれるつもりになったってわけ?」


「まあ……、簡単に言えばそうかな……」


「あはっ、もう梓ったら単純なんだー!」


「さっき私も言ったでしょ、自分でも単純だって自覚があるって……。
でもね、本当に嬉しかったんだよ?
ただ綺麗にしてくれてるだけじゃなくて、付けちゃった疵をそのままでメンテしてくれた事が。
今までの私を全部否定して新しい私になるわけじゃなくて、
そのままの私で成長していけばいい、って事を言ってくれてるみたいで……。
何度失敗しても、心機一転で挑めばいいって言ってくれてるみたいで……。
うーん……、自分でも上手く言えないし、変な事を言ってる気はするんだけど……。
だけどね……」


「それでいいんじゃない?」


「いい……のかな?」


「いいんだよ、それで。
少なくとも私は梓がまた私と話をする気になってくれて嬉しいんだもん。
どんな理由でも梓が元気になれたんなら、私はそのムスタングに感謝しちゃうよ。
サンキュー、ムスタング!

それにね、梓……。
心機一転って事は、梓はまた音楽を始める気になってくれたんだよね……?
音楽、続けるんだよね?」


「……うん。
私ってやっぱり単純なんだと思う。
今まで何度も自分の才能の無さに嫌気が差して、
私達の夢も終わっちゃって、ギターをやめようかとも思ってたんだけど……。
でもね、このムスタングを見てると、また頑張ろう、って気持ちが沸いて来るんだ。
あんまり才能が無くてもまだまだギターを上手に弾きたい!
下手でも頑張って、誰かに聴いてもらって喜んでもらいたい!
って、そう思っちゃうんだよね……」


「よかった……、よかったよ、梓……!」


「えっ?」


「私が足を引っ張ったせいで、梓がギターをやめちゃわなくてよかった……!
私ね……、今まで照れ臭くて言えなかったけどね、梓のギター、好きなんだ。
大好きなんだよ……。
今まで梓とギターの練習をしてきてさ、
そんなに上手じゃないかもしれないけど、私の中では想像以上に弾けるようになったんだよ?
だってさ、私、ギターでジャズの曲を一曲丸ごと弾けるようになるなんて、私、思ってなかったもん。
それが出来るようになったのは梓のおかげ。
梓のおかげで、梓に引っ張られて音楽が好きになれた。

実はね、さっき梓がしばらくギターの練習をしてなかったって言った時、泣きそうだったんだよ?
私のせいで梓がギターやめちゃったらどうしよう、って。
あんなに素敵なギターを弾いてるのに、とっても勿体無い、って。
だからさ、私、梓がギター続けてるって言ってくれて、すっごく嬉しいんだ……!」


「私のギター、好きで……いてくれたの?」

241: 2013/03/21(木) 00:38:31.91
「勿論だよ!
好きじゃなきゃ、あんなに一緒に練習してないよ!」


「そう……、そうなんだ……!
じゃあ、私、ずっとずっと続けて、もっともっと上手くならなきゃいけないよね。
これからも……、高校生になってからも練習頑張るよ……!
だから、そっちもお医者さんになる勉強、頑張ってよね……!」


「うんっ!」


「高校で学園祭でライブやるかもだから、ちゃんと見に来てよ?」


「あはっ、勿論だよ!
勉強が忙しいって言っても、梓の晴れ舞台くらいは絶対見に行くから!
……って、梓、クラブに入る予定なんだ?」


「……うん、高校に入ったら部で練習するのも悪くないと思うんだ。
もしかしたら、私よりずっと上手い人が居るかもしれないし、
その人と一緒に練習出来たら、もっと音楽を好きになれるかもしれないもんね」


「きっと高校には凄い人が居るよー?
挫けないでよ、梓ー?」


「意地悪言わないでよ……。
だけど、挫けそうでも、私、頑張るから!」


「その意気だよ、梓。
ところでさ、どの部に入るの?
吹奏楽部……は流石に違うよね、ギターじゃないし。
ジャズ部とか?」


「桜高にはジャズ部じゃなくてジャズ研があったはずだから、それもいいかもだけど……。
でもね、ちょっと軽音楽部もいいかなって思い始めてるんだよね」


「軽音楽部?
そりゃまた意外なチョイスだねー。
どうしたの?
オープンキャンパスでカッコイイ先輩でも居たっけ?」


「ううん、そういうわけじゃないんだけど……、
私ももっと視野を広げた方がいいかもって思うんだ。
ジャズに限らず、今まで練習してきた曲に限らず、
もっと色んなジャンルの音楽を知りたくなったんだよ。
どうしてなのかは私にもよく分からないんだけどね……。
でも、その可能性の一つとして、軽音楽部に入部するって選択肢もありかなって思うの」


「ほへー、あのお固い梓が柔らかくなったもんだよねー」


「そ……、そう?
私ってそんなに固かった?」


「真面目って事だよ。
だけど、色んな選択肢を柔軟に考えるってのはありだよね。
何でも頭を柔らかくして考えなくちゃ。
でも、まだまだ考え方が固いよ、梓」

242: 2013/03/21(木) 00:39:56.82
「えっ?
軽音楽部に入部するって考え方が?」


「そうじゃなくて、呼び方だよ、呼び方。
色んな可能性を考えるなら、呼び方も柔軟に考えなくちゃ。
普通はさ、皆、軽音楽部の事を軽音部って縮めて呼ぶものなんだよ?」


「そ……、そうなの?」


「そうだよ、軽音部。
そうやって短縮系で呼べないのが梓の固い所だよ。
高校に入学するまでにちゃんと自然に軽音部って呼べるようになっときなよー」


「軽音部……かあ……」


「それとさ……。
もう一つ提案があるんだけど……、聞いてくれる……?」


「どうしたの、改まって」


「受験が終わって卒業したらさ、入学まで春休みになるよね?」


「うん、まあ、なるけど……」


「期間にして二週間くらいになるのかな?
それくらいでどれくらいやれるかは分かんないけど、私さ……。
やりたい事があるんだよね……」


「やりたい事……?」


「これは私の勝手な我侭だから嫌なら断ってくれてもいいよ。
でも、でもさ……、私、その二週間でやりたいんだ。
梓との最後のギターの練習を……さ。
それが私のギターの最後で、もう私もギターを弾く暇もなくなっちゃうけど、
上達の遅い私がどれくらいの腕に仕上げられるかも分かんないけど……。

だけど、最後に梓とセッションしたいの。
私の大好きな梓のギターとの最後のセッションを……。
それを思い出にして、私も勉強を頑張るから!
梓にもずっと音楽を好きでいて欲しいから!



どう……かな?」

244: 2013/03/23(土) 20:16:05.98





「もー、純ってば……」


「まあまあ、梓ちゃん。
純ちゃんにも用事があったんだからしょうがないよ」


秋口の風に吹かれながら私が嘆息がちに呟くと、
私と肩を並べて歩いていた憂が優しく純の弁護を始めた。
私の言葉を否定される形になっちゃったけど、私にはそれが嫌じゃなかった。
自分でも自覚がある事なんだけど、どうも私は一言多い性格みたいなんだよね。
気を付けなきゃ、と思いながら、本心とは逆に余計な事を言っちゃう事が多い。
だから、憂が私に軽口を言われた相手の弁護をしてくれるのは、すっごく助かるんだ。
特に純相手だと私の軽口がどんどん増えちゃうから余計にね。
純は私の軽口なんて全然気にしてないみたいなんだけど。


「憂も純を甘やかしちゃ駄目だって。
お小遣いの前借りの話を、何も当日に切り出さなくたっていいじゃない。
そんなの純のお母さんだって急過ぎて驚いちゃうでしょ。
今日は菫達がクラスの出し物の準備だからよかったけど……。
まったく……、純ってばいっつもやる事がギリギリなんだから……」


また純への軽口。
今度は憂も純の弁護をせずに、ただ微笑みを見せてくれた。
微笑んでくれたのは、私のいつの間にか笑顔になっていた事に気付いてくれたからだと思う。
純にはいつも困らせられる。
純が軽音部に入部する前からそうだったけど、
入部してくれてからはその奔放さに振り回される事がもっと多くなった。
でも、何でなんだろう?
私はそんな純が嫌いじゃないし、むしろ大切な親友だとも思ってるんだよね。
うーん……、二年間、唯先輩や律先輩に振り回される事に慣れちゃったからなのかも。
それを成長と呼ぶのかどうかは微妙な所だけど、純の事を素直に大切に思えるのは嬉しかった。
純は大切な私の親友で、大事な軽音部の後輩なんだから。
軽音部の先輩達がそうしてくれたように、私も親友や後輩をもっと大切にしたい。
そのためにも……。


「とにかく、早く純との待ち合わせ場所に行かないとね」


「そうだね、梓ちゃん。
純ちゃんが教えてくれた近道だと、この公園を横切ってすぐの場所のはずなんだけど……」


憂が純の書いてくれた地図に視線を下ろしながらまた微笑む。
その微笑みは苦笑いっぽく見えたけど、仕方が無いかな。
だって、純の書いてくれた学校から待ち合わせ場所までの地図、物凄く適当なんだもん。
固有名称も書かずに単に『公園』とか『駐車場』とかだけ書かれても、地元民以外には絶対分からないよ……。
『学祭に向けて楽器屋で最後の準備をしたい』ってやる気を見せてくれるのは嬉しいけど、
その最後の準備のための費用を当日の放課後まで用意せずに、
急いで帰ってお母さんに前借りするなんて純らしいと言うか何と言うか……。

だけど、意外としっかりしてる……のかな?
『お母さんに前借りしてくるから、梓達は安心して待ち合わせ場所で待ってて!』
そう言った純の顔に不安の色は全然無かったし、
適当な地図でも地元民の私達には分かりやすい地図だったし、
何より学祭をただ楽しみに待ってるって素振りが心強かった。
ずっとジャズ研のサバイバルな状況で鍛えられて来たからなのかもしれない。
軽音部での最初で最後の学祭ライブを目前にしても、純は普段通り飄々としてくれてるんだよね。
口には出さないけど、私を信頼してくれてる視線も向けてくれてるし……。
すっごく心強くて大切な私の親友の純……。

245: 2013/03/23(土) 20:17:09.46
いい学祭にしたいな、って心の底から思う。
二年間軽音部を続けて進級して、新生軽音部で臨む学祭ライブ。
新生軽音部の最初の学祭ライブで、私の最後の学祭ライブ。
練習はしっかりして来た……って信じたい。
初心者混じりのメンバーとは思えないくらい、いい演奏も出来るようになった。
不安点と言えばボーカル初挑戦の私の歌声くらい。
歌がそんなに得意じゃないってのもあるけど、ギターを弾きながら歌う事って凄く難しいしね。
唯先輩や澪先輩、それにムギ先輩も凄かったんだなあ、って改めて実感させられる。
出来れば律先輩のメインボーカルも聴きたかったんだけど、それは欲張り過ぎかな。
ドラムを叩きながらのメインボーカルの難しさなんて、ギターを弾きながらでも苦戦してる私には想像も出来ないよ……。
とにかくそんな感じで、学祭ライブに対する不安点はとりあえず私の歌だけのはずだった。
一番の不安点が部長の私って現実がちょっと情けなくもあるけど、
それは信頼出来る部員が多かったから、っていい方向で考える事にすればいいだけだ。
だけど……、だけど、私は……。


「ふう……」


気が付けば大きな溜息。
学祭が嫌なわけじゃない。そんな事があるわけない。
最高のライブにしたいってやる気もあるし、後輩達にライブの楽しさを教えてあげたい気持ちもある。
でも、何度も経験した学祭ライブのはずなのに、私は緊張して震えてしまう事が多くなった。
学祭が近付くにつれてつの緊張と不安はどんどん大きくなった。
自分が部長だから……、だってずっと思ってた。
単なる責任感からの緊張のはずだって。

だけど、本当にそうなのかなって、この時期になって思い始めてる。
学祭の事を考えてないわけじゃないし、皆にも最高のライブを経験してもらいたいのは本心だ。
絶対に五人で素敵な学祭ライブをやってみせたい。
それでも、私の心は何か別の事に緊張してるみたいな不思議な感覚もあるんだよね。
その別の事が何なのか自分でも分からないけど、
まるで学祭よりずっと前から求めてた何かを目の前にしたみたいな……。

……ううん、駄目駄目。
今は学祭に集中しなくちゃ。
今の私にとって学祭ライブ以上に大切な事なんてあるはずないもん。
こんな姿を見せてたら、部員は勿論、憂にだって心配されちゃう。
だから、こんな不安なんて気のせいって事にして、しっかりしなくちゃ!


「学祭、頑張ろうね、憂!」


いきなり過ぎたかなとも思ったけど、私は自分に言い聞かせる意味もあってそう宣言した。
うん、頑張ろう。
皆のためにも、自分のためにも、それに憂のためにも、私は高校最後の学祭ライブを頑張るんだ。
それが私に出来る事だし、憂も不安な私の表情なんて見てたくないはずだって思うしね。
突然の宣言だったけど、純の思い付きの言葉に慣れてる憂なら笑って頷いてくれる。
私に笑顔を見せてくれる……。
そう思っての宣言だったのに、憂は……。
憂は……。


「う、うん、頑張らなくちゃ……ね……」


その歯切れの悪い言葉に驚いて、私は憂の顔の方向に視線を向ける。
純の適当な地図ばかり見ていて気付けなかった。
憂の顔が緊張に満ちた表情を見せている事に。
唯先輩の事以外で憂がそんな表情を見せるなんて、滅多に無い事だった。
よく見てみると、純の地図を持っている手も小刻みに震えているみたいだった。


「う、憂……?
どうしたの……?
何か嫌な事でもあったの……?」


訊ねていいのか分からなかったけど、私は気付けば訊ねてしまっていた。
それは部長としての責任感からでもあったけど、
親友として憂の異変を見逃したくないって気持ちも大きかった。

246: 2013/03/23(土) 20:18:28.91
「嫌な事なんて何も無いよ、梓ちゃん……。
私ね……、学園祭が楽しみなんだ。
お姉ちゃんと同じ舞台に立てるなんてすっごく楽しみだし、
皆との演奏をお客さんに聴いてもらえるなんてとっても嬉しいんだよ」


まだ小刻みに震えながら、それでも憂は無理をして笑顔を見せてくれる。
学祭が楽しみだって言葉は嘘じゃないと思う。
部室での練習の際も憂は凄く楽しそうに皆と練習をしてた。
私もそれが嬉しくて、今まで以上のやる気を込めて練習が出来た。


「でもね、梓ちゃん……」


憂が無理のある笑顔で続ける。
多分、自分の中に膨れ上がる不安感に戸惑いながら、続けてくれる。


「私、ライブが近付いて来て、何だかとっても緊張して来たんだ……。
おかしいよね……?
楽しみなはずなのに、嬉しいはずなのに、
前にクリスマスにお姉ちゃんに聴いてもらった演奏の方が緊張してたはずなのに……。
しかもね、どうしてか分からないんだけど、ライブじゃない何かに緊張してる気もしてるんだ……」


憂も……?
そう思った一瞬、私は息を止めてしまっていた。
私は学祭が近付くにつれて、不思議な緊張が膨れ上がり始めている。
多分、学祭そのものとは違う何かに緊張してしまっている。
それが何なのかは分からないけど、言い様の無い緊張に駆られてしまっている。
変な例えだと思うけど、ずっと求めていた宝物を見つけた冒険家みたいな緊張に。

歩きながら憂は言葉を続ける。
緊張をどんどん膨らませてても、私達は歩みを止めるわけにもいかない。
だから、歩きながら私達は自分達の緊張を語る。


「あのね、梓ちゃん……。
変な事を言うみたいだけど、聞いてくれるかな……?」


「うん……、聞かせて、憂」


「私ね、最初、この緊張はライブが近付いてるからだと思ってたの。
初めての学園祭ライブだから、新しい軽音部でのライブだから、緊張してるんだって。
だからね、この緊張も皆と一緒ならすぐに気にならなくなる、って思ってたんだ。
だって、皆が居るんだもん。
皆と一緒なら、どんな緊張するライブだって怖くないもんね。

でもね、緊張は無くなるどころかどんどん大きくなってたの。
皆が一緒に居るのに、純ちゃんや梓ちゃんが一緒に居てくれてるのに。
学園祭の事を考えるとこんなに震えちゃうくらい、緊張し始めてたの。
不思議だよね、皆が一緒に居てくれてるのに……。

それでね、思ったんだよ。
もしかしたら、私は学園祭を緊張してるわけじゃないのかも、って。
心当たりがあるわけじゃないんだけど、そう思うと不思議と納得も出来るの。
学園祭のライブじゃなくて、もっともっと前から……、
それこそ高校に入学して梓ちゃんと友達になる前から求めてた何かを目の前にしてるみたいな……。
そんな不思議な感覚があるんだ……。

ごめんね、梓ちゃん。
急にこんな変な事を訊ねちゃって……。
でも、こんなよく分からない気持ちを抱えたままじゃ、皆に迷惑を掛けちゃうって思ったんだ……。
皆と一緒に素敵なライブを開催する事なんて出来ないって思ったんだ……。
ねえ、もしかしたらだけど、梓ちゃん……。
梓ちゃんも私と同じ不思議な緊張を感じたり……しない?」

247: 2013/03/23(土) 20:19:24.26
憂は観察力のある子だ。
唯先輩だけじゃなく、私や純や菫達にも気を配ってくれてる子だ。
だから、憂も気付いてたんだろう、私も不思議な緊張を感じている事に。
多分、憂と同じ原因の感覚を。
それで憂は私に自分の奇妙な感覚を打ち明けてくれるつもりになったに違いない。

どう答えたらいいのかは分からなかった。
『気のせいだよ』なんて単なる気休めで何の解決もしないし、
『そうだよ』って言ってみても、二人で理由も分からない不安を共有してしまうだけだ。
だったら、私はどうしたらいいんだろう?
理由は分からないにしてもせめて二人で緊張を分かち合った方がいいんだろうか。

そうしていくつもの考えを抱いて、憂の表情を窺いながら歩いていると……。


「あっ、梓ちゃんっ……!」


「あだっ!」


憂の言葉に反応するより先に、私は左の脛に鈍痛を感じて妙な呻き声を上げてしまう。
そのままバランスを崩した私は、少し先の倉庫まで片足で倒れ込むように足を進めた。
倉庫の壁に手を付いて、私は左脛の鈍痛の原因を探してみる。
原因はすぐに見つかった。
ブランコの外柵だ。
憂の表情を窺いながら歩いていたせいで、ブランコの外柵に脛をぶつけてしまったらしい。
もう……、こんな大切な時に何をやってるのよ、私は……。
まあ、ちょっと痛かっただけで、傷にはなってなさそうだからそれはよかったんだけどね。
そう苦笑していると、憂が心配そうに駆け寄って来た。


「だ……、大丈夫?
ごめんね、梓ちゃん、私が変な話をしちゃったから……」


「いいよ、気にしないで、憂。
これは私の不注意なんだし、ちょっと痛かっただけだから心配しなくても大丈夫。
丁度、倉庫があったおかげで転ばずに済んだしね。
ギターを持ったまま転ぶなんて大惨事だし、それよりはずっといいでしょ?」


「それはそうなんだけど……」


「気にしない気にしない。
私も気にしてないから、憂もそんな顔しないでよ。
ほら、早く純との待ち合わせ場所に行っちゃおう?
そうしたら私達の……」


『私達の不思議な緊張感も少しは薄れるかもしれないから』。
その言葉を最後まで言う事は出来なかった。
私を転倒から救ってくれた倉庫の壁に妙な物を見つけたからだ。

248: 2013/03/23(土) 20:20:12.99
「どうしたの、梓ちゃん?」


「いや、ちょっと壁に変な……」


「落書き?」


「うん」


頷いた後、私は憂と二人して壁に彫られた落書きに視線を向けた。
ううん、落書きには違いないんだけど、ちょっと変な落書きだった。
消された跡があるのに、中途半端に文字だけが残ってるみたいな感じかな?
公園の管理人なのか、善意の第三者なのか分からないけど、
この落書きを消した人って、よっぽど適当な人だったのかなあ。
中途半端に残したりなんかせずに、ちゃんと消せばいいのに……。
それくらい忙しい人だったって事でもあるんだろうか。

不意に。
私の胸の中に、何だか分からない不思議な気持ちが胸の中に湧き上がって来た。
どうしてなんだろう……?
さっきまでの緊張や不安が一気に何処かに行っちゃった感じがする。
この落書きの変さを気にしちゃったせいなのか、
落書きを消した人の適当さに呆れちゃったからなのか……。
ちょっと気になって振り返ってみると、
憂も私と同じで自分の感覚の理由が分からないみたいに首を傾げていた。
でも、その顔は素敵な笑顔だった。
いつの間にか私と憂は満面の笑顔を浮かべていた。


「何なんだろうね、この落書き……?」


「さあ……?」


微笑み合ってから、もう一度二人で落書きに視線を向ける。
適当な人が中途半端に消したらしい落書き。
そこに書かれていた文字は……。

249: 2013/03/23(土) 20:21:25.37





  
     
     ナ         
              ラ
          ラ    
               
 サ         
               
               






250: 2013/03/23(土) 20:23:16.52
「サナララだって、憂」


「サナララだね、梓ちゃん」


「まあ、元あった文章は違うんだろうけどね……」


「それはそうだと思うけど、でも……」


「でも?」


「何でかな?
すっごく綺麗な言葉って感じがするよ」


「落書きを消した人の適当さから生まれた言葉だけどね」


「あははっ、そうだね」


「でもね、憂、私も思うよ。
綺麗な言葉だなあ、って。
よく分からないんだけど、見てて落ち着く気もするし」


「梓ちゃんも?
実は私もなんだ。
さっきまであんなに緊張してたはずなのに、
すっごく不安だったはずなのに、どうしてなんだろう……?」


「うーん……。
理由がよく分からない不安だったから、よく分からない理由で解消されちゃったとか?」


「そうだね……。
そうかもしれないね、梓ちゃん」


「ねえ、憂」


「何、梓ちゃん?」


「さっき言ってたよね、私は学祭を緊張してるわけじゃないのかも、って。
学園祭のライブじゃなくて、もっともっと前から……、
高校に入学する前から求めてた何かを目の前にしてるみたいな……、って。

私もね、実は同じ事を考えてたんだ。
ずっとずっと前から、今度の学祭を待ち望んでた気がするの。
憂が言うみたいに高校に入る前から……、憂達と友達になるずっとずっと前から……。
もしかしたら、憂と私は憶えてないいつかに誰かと約束してたのかもね」


「約束……?」


「うん、約束。
それがいつなのか誰となのか憶えてないけど、約束した事だけは心の何処かで憶えてたんだよ。
今度の学祭ライブを今までのライブ以上に素敵にするって約束を。
それで不思議と緊張しちゃってたんじゃないかな、って何となく今思った。
勿論、単なる思い付きだけどね」


「そうなのかな……?
でも、そうだったら素敵だし、勿体無いよね」


「勿体無い……?」


「だって、それが誰かとした大切な約束なら、緊張してたら勿体無いって私は思うんだ。
折角、ずっと待ち望んでた約束の時なのに、緊張して自分の力を出せないなんて勿体無いよ。
だから……、私、頑張りたいな、今度の学園祭のライブ」

251: 2013/03/23(土) 20:24:15.68
「『頑張りたいな、』じゃないでしょ、憂。
一緒に頑張ろうよ、皆と、私と。
それが約束を果たすって事だと思うしね」


「うん、そうだね。
一緒に頑張ろう、梓ちゃん。
それと私、一ついい事を思い付いたんだけど、聞いてくれる?」


「いいよ、何?」


「梓ちゃんがその約束をした誰か……、私って事にしない?
だって、私も梓ちゃんも誰かとの約束で緊張してたなんて、凄い偶然だよ?
だから、勿論そんな事は無いと思うけど、
いつか約束した二人は私達だったって事にしちゃおう?
その方が楽しんで学園祭のライブに臨めるって、私、そう思うんだ」


「憂も変な事考えるよね……。
でも、いいよね、それ。
うん、折角だし、そういう事にしちゃおう。
それなら緊張する必要なんて全然無くなるし、それにもしまた緊張して来たら……」


「『サナララ』……だよね?」


「うん、『サナララ』を合言葉にしちゃおう。
はっきり憶えてない約束と適当な偶然から生まれた『サナララ』って言葉。
不思議で何だか笑えちゃって、緊張なんか何処かに行っちゃいそうだしね」


「うん、不思議だね。不思議で素敵だよね。
不思議で素敵なライブにしたいよね、今度の学園祭。

……何だか私、またすぐに皆と練習したくなって来ちゃったな」


「私も、だよ、憂。
そのためにも純との待ち合わせ場所に急がなきゃね」


「……うんっ!」


私達は倉庫の壁の落書きにとりあえずの別れを告げて、二人で足を踏み出して行く。
公園にちょっと長居しちゃったから、純はきっと待ちくたびれているんじゃないかな。
私と憂はどちらともなくお互いの手を握って、気が付いた時には走り出していた。
緊張を忘れる事は出来ないだろうけど、今はその緊張がとても心地良い。

もうすぐ私達の高校最後の学園祭が始まる。
憶えてないいつか、誰かと待ち望んでたかもしれないライブ。
その約束の日、出来る限り最高の演奏をしてみせたい。

公園の中に秋の風が吹く。
肌寒さを感じ始める秋口の風。
だけど、私は風の肌寒さなんて感じない。
手のひらに憂の体温を。
心に思い出や約束を。
たくさんの大切な物を抱いて、前に進んで行ける気がするから。
だから、願わくは今度のライブが終わっても、皆や憂と大切な友達で居られるように――






――精一杯、皆と音楽を頑張っていこう!

252: 2013/03/23(土) 20:24:54.74












         おしまい

253: 2013/03/23(土) 20:29:42.17

これにて完結です。
長く掛かった上にミスも多少ありましたが、
それなりにまとまった作品に出来たのではないかと思います。
これまで長い間読んで頂けました皆様、ありがとうございました!

スレももう少し残っていると思いますので、何か疑問などあれば質問してくださいませ。

255: 2013/03/23(土) 23:05:32.19
まとめて読んできた
サナララわからなかったけど十分楽しめたわ
おつおつ

256: 2013/03/23(土) 23:18:54.46
長い間お疲れ様でした!

引用元: 梓「サナララ」