1: 2012/01/04(水) 00:26:21.10
「ん……」

貴音の匂いがする。
柔らかで、花のような、甘い香り。
「ふふっ、どうしたのです。いきなり抱きついたりなどして」
「……別に、何でもないわよ」
「そうですか」
「でも、特別にもう少しこのままでいてもいいわよ」
くすくすと鈴の音のような笑い声がする。
おデコをかきあげるように、驚くほど冷たい貴音の手の平が這う。

見上げると、貴音は寂しそうに満月を眺めていた。月明かりが横顔を照らしてる。
「……一度しか言わないから、よく聞きなさい」

私の欲しいものは手に入った。
「貴音、ずっと私の、その、傍にいなさい……よね」

14: 2012/01/04(水) 00:37:39.29
「……!」
な、何言ってるのよ、私ったら!
そんなの言える立場じゃないのに。

冷え切った部屋に反して、私の体が熱っぽくなる。
身長差があるから、ちょっと育ちすぎな貴音の胸のあたりに顔が埋もれる。
「……ありがとうございます」
いつもと変わらない、穏やかな声がする。

……あんた、ズルいわよ。
こんなときでも、落ちついちゃって。

「……んん」
また、貴音の柔らかい手のひらの感触がする。
なんだか、私のゼンブがすっぽり、貴音に包まれてるみたい。悪くないわ。

貴音のラブレターは、今でも大切に、箱にしまってある。
これを見ると、胸の奥がチクチクと痛くなる。

「貴音、私たちが出会った日のこと覚えてるかしら」
「……はて」
「私は、覚えてる」
背中に回した手に、力がこもる。

あんたと過ごした日々はこの胸に焼き付いてるから。

21: 2012/01/04(水) 00:57:39.63
ゴーン、ゴーンと古めかしい鐘の音が鳴る。
夜中の十二時を知らせる音だった。
「あんたね、忘れてんじゃないわよ」
「申し訳ありません。では、二人でゆっくりと思い出しましょう、まるで今あったことのように」
「……」
そして、それはきっと、私と貴音の関係が終わる合図。

……。

「あーもー、このスーパーアイドル伊織ちゃんをどうして放っておくのかしら! 全く信じられないわ!」
叩けば埃が出るソファ!
真っ白なホワイトボード!
おまけに仕事しないで漫画ばっかり読んでる事務員!
「そ、それは言いっこ無しよ、伊織ちゃん……」
小鳥が、チェアをきぃときしませながら言った。

思わず頭を抱えて、深いため息が出た。
765プロに所属したのはいいものの、なーんにも仕事が無いじゃない。
おまけにプロデューサーは律子しかいない。
本当にやっていけるのかしら……。

「あふぅ、おデコちゃん焦ったら負けって思うな」
「あんたもレッスンしないで、寝てばっかりいるんじゃないわよ!」
「ミキ的には~あんまり頑張らずにアイドルやっていきたいな、あふぅ」
隣で寝転がっている美希が、呑気にあくびをした。

「はぁ~、やっぱり兄さんの言う通りもっと大手に入っておくべきだったかも……」
また、ため息がこぼれる。もうなんだかストレスでおデコが広がっちゃいそうよ……。

……そう、たしかこの時はまだ貴音もプロデューサーもいなかったのよね。

26: 2012/01/04(水) 01:17:07.60
「お嬢様、今日のメニューは……」
朝、私服に着替えてふかふかのダイニングチェアに座るなり執事が、
呪文のような長ったらしい料理名を唱える。
「毎回ごくろうさま」
聞き流しながら、オレンジジュースに口をつける。
隣に座っているうさちゃんが、私を見つめる。
……あら、シャルロッテちゃんも食べたいのかしら。
「だけど、あげないわよ。にひひっ」

……なんてね。

いつのまにか執事は居なくなっていた。
シミ一つ無いテーブルクロスが遠くまで続いている。
そこにぽつぽつと、よりどりみどりのパイやテザートが置かれてる。
「……はぁ、こんなに食べきれないわよ」
ため息を漏らす。
また、しん……と静寂が広がる。

ここらだと、まるで視力検査のように、遠くの壁に標語が滲んで見える。
水瀬の基本理念、欲しいものは勝ちとること……か。

それにしても、あの事務所、私のお部屋より小さいじゃない。
お煎餅も、安っぽいし、庶民の生活は私にはさっぱりわからないわ。

30: 2012/01/04(水) 01:34:44.27
「ねぇ、あなたユニットなんて組んでみる気ある?」
「はぁ?」
事務所に来て、いきなりの手招きに付いていくなり、そう言われた。
律子は、私の反応を待つかのように、ペンでこめかみを掻く。

「……まだどこのオーディションすら受かってないのに気が早いじゃない」
「仮の話よ、仮」
「必要無いわ、伊織ちゃん一人で十分よ」

絶対に、私の力でお父様とお兄様を見返してやるんだから。
みんな、伊織なんかには無理だって鼻で笑う。
水瀬財閥の令嬢が、庶民の余興であるアイドルをやるだなんて、と随分後ろ指をさされた。

……今思い返しても屈・辱・だ・わ~!

まっさらなホワイトボードを横目でちらりと見て、言った。
「それに、私の背中を任せられるヤツなんているわけないでしょ」
「あっまっ待ちなさい、伊織──」

引き留める律子の手を振り払って、私はレッスンルームへと向かった。
途中、ヨダレを垂らして寝ている美希の頭を手の甲でコツンと叩く。
「ん、イジワルしちゃヤなの~」

まずは、一刻も早くデビューすること、ね。
こんな金髪毛虫に先を越されて堪るもんですか。

33: 2012/01/04(水) 01:50:35.52
……。

まだ、鐘の音が鳴っている。
貴音の肌は仄かに熱がこもってて、気持ちいい。
「なるほど、わたくしが765プロに訪れる前、伊織は随分ときかんぼうだったのですね」
「ま、若気の至りってとこかしら」
「少々、気が短いのは今も変わっていませんが」
「な、なんですって~!」
「……美希とも、私の知るはるか前より、様々な事があったのですね」
「まぁね……」

ギュッと。
服がくしゃくしゃになるくらいに抱きしめると、
貴音はそれよりも強く、私を引き寄せる。
「さぁ、続きを聞かせてください」

……。

「では、名前を呼ばれなかった人は帰っていいよ」
平坦な声のトーンで、不合格を伝えられる。
「な、何でよ!納得いかないわ!」
「残念だったね~おデコちゃん」
「ぜ、絶対に負けないんだから!行くわよっ美希!」

腕で、目をごしごしと擦って、美希の手を強引に引っ張る。
絶対に、絶対にトップアイドルになってやるんだから。

36: 2012/01/04(水) 02:04:09.44
「はぁ……はぁ……美希もう、帰りたいの……」
「ぜぇ……さすがにキツいわね……」
吐く息がきれぎれになる。
胸の奥から、気持ちの悪い何かが込み上げてくる。

今日のダンスレッスンは、ちょ~っと張り切り過ぎちゃったかしら。

美希にスポーツ飲料が入った水筒を投げつける。
「ありがとなの~おデコちゃん」
「あんたはお気楽なもんよね……」

ハンドタオルで、汗を拭きながらレッスンルームから出ると……。
「伊織、美希!喜びなさい、新しい所属アイドルが来るわ」
「ま、また?!」
興奮した律子が、鼻をすんすんと鳴らしながら言った。

「動物臭いヤツの次はどんなイロモノが来るのよ……」
遠くで、誰かがくしゃみをする音が聞こえた。

39: 2012/01/04(水) 02:15:16.18
窓の外には、淡いピンクの桜が散っている。
春の暖かな日射しに、銀髪が揺れていた。
礼儀正しそうに、深くお辞儀をして、そいつは言った。
「四条貴音と申します、以後お見知りおきを」

貴音との出会いだった。


……のだけれど。

「わたくしは、高みを目指すためにここへ参りました、どうかご助力……」

でっかいお尻が揺れる背後から、肩をぽんと叩く。
「あ、あんたね。どこ見て話してるのよ」
「おや?」
「そっち、テレビなんだけど……」
「これは失礼いたしました。わたくし、視力が悪い故、うっかりしていたようです」
そう言って、目を瞑って微笑む。

……や、やっぱりイロモノじゃない。

「おデコちゃん、またツッコミが忙しくなるね~」
「あんたに言われたくないわよ!」

「ふふっ、なんとも面妖なお二人ですね」
貴音は、そんな私と美希を見て、口元に手を当ててくすくすと笑った。

43: 2012/01/04(水) 02:33:11.63
……。

「二人ともいってらっしゃいなの~」
「水瀬伊織、今日もれっすんですね」
「つ、付いてくるんじゃないわよ!」
「良いではありませんか」
私よりずっと背の高い貴音の顔へと指さして、叫ぶ。
そんな私を見て、貴音は相変わらず口元を怪しく歪ませる。

なんだか随分と懐かれちゃったみたい。
私の数歩後ろをピッタリついてくる。

……いったい何なのよ。

たまらなくなって、私は立ち止まる。
同時に、もう一つの足音がぴたりと止む。
「一つ、言っておくけどね」
「はぁ……」
「あんたね、ちょっと気にいらないわ」
「! な、何故です。その、わたくし何かそそうをしましたでしょうか」
貴音は信じられないといった具合に、顔を横にふる。
「それはね……」


振り向いて、言った。
「私とキャラが被るからよっ!」

46: 2012/01/04(水) 02:48:09.47
……。

「ごきげんよう。水瀬伊織と申しますわ」
フリフリのドレスの裾を広げて、お辞儀をする。
周りのスーツ姿の富豪のやつらは、シャンパンをテーブルに置いて拍手をする。
あの、天下の水瀬財閥の令嬢だよ、そんなヒソヒソ声があちこちから聞こえる。
「……」
赤い絨毯とにらめっこしながら、歯を食いしばる。

……ふざけんじゃないわよ
私は、水瀬伊織であって水瀬財閥の令嬢って名前じゃない。

「伊織、そちらの方にも挨拶をしろ」
機械のような無機質な声が聞こえる。お兄様の声だわ。
私は、一度拳をキツく握って、顔をあげた。
「は、はい。お兄様……」

……。

照明の落ちた薄暗い壁にもたれかかって、頭のリボンを強引にむしる。
「はぁ……」
「伊織、アイドルはそろそろ諦めるころか」
時計を確認しながら、お兄様は私に背を向けて言った。
一気に、頭に血がのぼる。

「ぜ、絶対に兄さんには負けないわ!正々堂々、欲しいものは自分で勝ちとってみせるんだから!」

49: 2012/01/04(水) 03:00:34.09
……。

「水瀬伊織、今日もれっすん……」
「……!」
貴音の言葉を遮って、レッスンルームの扉を強引にしめる。
トレーニング用のピンクのジャージに袖を通して、水を軽く口に含む。

……悔しい!悔しいわ!

「今日は、ダンスも、ボーカルも一通りやらせてちょうだい」

……絶対に、おかしい!

「もう1回やるわ!」
何度も何度も、同じステップを踏む。
汗がしたたりおちて、床に染みを作る。
ふくらはぎがパンパンに張って、たまにフラつく。

……どうして、美希と貴音が私より先にオーディションに合格するのよ!

52: 2012/01/04(水) 03:09:38.91
……。

窓の外には、仄白い月が浮かんでいた。

……今日は、満月みたいね。

思考がまとまらない。
真っ白い霧のかかったように、くらくらする。
コーチは、呆れた顔をして、荷物をさっさとまとめて帰っていた。

一人っきりのレッスンルームで、BGMが鳴る。
私はもう頭では考えずに、機械的にステップを踏む。
「うっ……」

胃の底から、吐き気が不意にせり上がってきた。
口元を押さえて、レッスンルームから飛び出して、洗面所へとかけ込む。
「……ぅ……ぇ……」

鏡を見ると、青白い顔をした私が映っていた。
髪はぐしゃぐしゃで、額にはべっとりと汗が滲んでいる。

……社交界のやつらが私のこんな姿を見たらきっと大笑いするんでしょうね。

54: 2012/01/04(水) 03:25:14.16
壁にもたれかかって、這うようにレッスンルームへと戻る。
絶対に、貴音にも、美希にも、お兄様にも負けないんだから……。

「あら……?」
ふと、暗闇が続く廊下に、一筋の光が差し込んでた。
他のレッスンルームの窓からだった。
私は、何度も息を整えながら、進んだ。
体を持ち上げるようにして、ガラス窓を覗きこむ。
すると……。

「はぁ……はぁ……」
銀色が、舞っていた。
動くたびに毛の先から水滴が、飛び散って、床へと落ちる。
「た、たかね……?」
思わず、ぽろりと声が漏れた。
時計を見ると、もう夜中の10時だった。

「……おや」
私の方を一目見るなり、また貴音はいつも調子で微笑んだ。

59: 2012/01/04(水) 03:46:13.52
「……何であんたがここにいるのよ。新人の分際で」
大分、落ちついたわ。
と、いうより落ちつくまで貴音のレッスンを眺めてたんだけど。
視力が悪いからきっと私の具合にも気づかなかったでしょうね。

汗を滴らせたまま、隣に座る貴音が言った。
「すぐ近くで、必氏に高みを目指している者がいる……」
「……」
「ならば、新人のわたくしも精進せねばならぬでしょう」
「……ばっ、ばっかじゃないの」
「ふふっ」
満足そうに、目を伏せて、貴音は汗を拭く。

銀色の「女王」……か。やっぱり私とキャラ被るのよね。

同じ時代に女王は二人もいらないんだから。
けれど……。

「さっきステップ、遅れてたわよ。あそこはもっとワンテンポ速くしないと」
「なっ……」
「か、勘違いしないでよねっ、あんたがあんまり下手で見てられなかったのよ!」
「……ふふっありがとうございます、水瀬伊織」
「し、仕方ないから、これからは私があんたを指導してあげるわ」

ま、ライバルとしてなら認めてあげてもいいかしら。

62: 2012/01/04(水) 04:02:13.57
……。

まだ鐘の音は鳴っている。
規則的なリズムが、二人だけの真っ暗な夜にこだまする。
「あの時、美希も途中までいたのですよ」
「えっ、ま、まさかでしょ?! あの時の美希って寝てばっかで……」
「寝ているだけで、おーでぃしょんに合格できるのなら、わたくしもそうします」
「……」

……。

すぐ後ろで、ブザーが鳴って、私は驚いて振り返る。
人ごみがごった返す、自動改札機の前で貴音がうろたえている。
「あ、あんた電車の乗り方すらわからないの?」
「なんとも面妖な……」
「そこで切符買うのよ! この常識知らず!」
「あ、ありがとうございます」

まったく、貴音といるとほんっと飽きないわね。

……まぁ、私も765プロに入ってから知ったんだけどね。
「さぁ、気合い入れていくわよ、貴音!これから大事なオーディションよ!」
「はい、れっすんの成果を見せるとき、ですね」

65: 2012/01/04(水) 04:17:54.22
……。

「あの時、伊織はもう少し……」
「そうね、貴音もサビの部分で……」
いつのまにか恒例になった反省会。
私たちは、オシャレな喫茶店で、ちょっと大人なティータイムをする。
「少しずつですが、高みへと登っている、そんな気がしませんか?」
貴音は紅茶を、音もたてずに掻き混ぜる。
ぼんやりと、くるくると回る渦を見つめる。

……二人、ときたま三人でレッスンするようになってから、オーディションも段々と合格できるようになってきた。
まだまだ、地方の小さな小さな番組とかだけど。
お兄様も、小言を言わなくなった。

やっぱり、貴音のおかげなのかしら。ついでに、美希。

「……伊織?」
「あっ……」
私の目の前には、いつのまにかブラックコーヒーが置かれていた。
「……」
私は、砂糖に手の伸ばそうとして、やっぱりやめた。
一口飲むと、慣れない強烈な苦みが口に広がる。一度、キツく口をつぐんで言った。
「貴音、あんたずっとソロでやっていくの?」

69: 2012/01/04(水) 04:31:32.62
紅茶を口に運ぶ手が、ピタリと止まった。
「このスーパーアイドル伊織ちゃんとユニットを組む気は無い、かしら?」
「ふふっ」
貴音は、ティーカップをゆっくりと両手で置く。
その笑い方、卑怯よね。
何考えてるんだかさっぱりわからないわ。

「……」
私は頬に手をついて、とんとんと指先でテーブルを叩く。
やがて、貴音は私の顔の前に、2本指を立てて、言った。
「二つ、条件があります」
「条件って、この伊織ちゃんに対して、いい度胸してるじゃない」
キッと貴音を睨むフリをして……。
そして私も、貴音に、お返しのように笑顔を向けてあげた。
「にひひっ」

74: 2012/01/04(水) 04:43:53.89
コーヒーに砂糖とミルクを、たっぷりと入れながら尋ねた。
「それで、条件って何よ」
「はい、伊織ならば納得してくれるでしょう」
「もったいぶらないで、さっさと言いなさいよ」
「簡単なことです。まず一つ、もう【わんらんく】上の【おーでぃしょん】に合格すること」

「……」
かしこまって、なにを言いだすかと思ったら、そんなことね。
私は、手のひらをひらひらさせて、言った。

「そんなのこの伊織ちゃんだったら、あっというまよ」
「ふふっ、そうですね。伊織だったら心配無いでしょう」
「で、もうひとつは?」
「はい……それは……」

その時、貴音は少しだけ普段とは違う、意地悪な笑顔をした。

……。

「な、何でよ! な、納得いかないわ!」
「なになに? なんの話?」
金髪が春風にそよぐ。
昼寝するなら、絶好の日ね……ってそんな事どうでもいいのよ!!
貴音は、美希の肩を掴みながら嬉しそうに言った。


「ユニットを組むのならば、星井美希も、一緒です」

78: 2012/01/04(水) 05:02:51.06
「美希も、伊織のことはよくよく理解してる良き友かと思いますが」
「ダメよ! ミ、ミキとは絶対に負けたくない、その、ライバルなんだから!」
「ふぅ~ん、それじゃミキ、貴音と一緒なんだね」
「う……!」
思わず一歩、仰け反る。
相変わらず、貴音は意地悪そうに笑う。
それにつられて、美希もけらけらと笑う。

「あはっ、おデコちゃん真っ赤になっちゃって可愛いの~」
「こんなイロモノ二人抱えちゃ、私の体が持たないわよ!」
「よいではありませんか、美希も信頼できる仲間、でしょう?」
そう言って、貴音は私の手をキュッと握った。
貴音の手はとっても滑らかで、仄かに温かった。

「……!」
何故か貴音の手が触れた瞬間、心臓がドキドキした。
貴音の熱が、指先から全身へと伝ってくるようだった。
目を逸らして言った。
「……仕方ないわね」

私の言葉を聞いた貴音は、握った手を、そのまま美希の手の平に乗せた。
「では、いつか皆で、更なる高みを目指しましょう」
「うん、ミキね、もっとワクワクできそうかも」
「リーダーは私だからね」

……この時、ずっと三人はこのままでいれる気がした。
終わってく物など無いって、思った。

1: 2012/01/11(水) 20:40:02.80
……。

蒼白い薄明かりが、私たちの輪郭をくっきり映し出す。
このつめたく冷えた部屋で、貴音の温もりだけが確かだった。

「それにしても」
「んん……くすぐったいわよ……」
シルクのような滑らかな感触が、私のほっぺたをなぞる。

「突然、昔話がしたいといって呼びだされた時はまこと、驚きました」
「……悪かったわね、こんな遅くに」
「いえ、伊織もこのような月の美しい夜には、何か想うことがあるのでしょう?」
そう言って、また私から視線を外して窓に浮かぶ月眺める。

……何でもお見通しってわけね。

6: 2012/01/11(水) 20:54:27.41
「……」
私と貴音の吐息がうっすらと立ちこめて、すぐに消える。
フタリで一つ分の影が伸びて、白い壁に絵をつくる。

この部屋で動いているのは、一定のリズムを刻む振り子だけだった。
まだ、十二時を知らせる鐘の音は鳴っている。

なんだか随分ロマンチックね。
まるでシンデレラになった気分よ。

……まぁ、でもそんな役が似合うのは悔しいけど貴音の方だと思うけど。

私は、唇をきゅっと結んで言った。口の端から煙のように息が漏れる。
「あ、あんたに謝りたいことがあるのよ」
「謝りたいこと……?」

胸の奥にしまってて、ずっと言えなかったこと。
……私は、貴音を取り返しのつかないくらい傷つけた。

「……話を続けるわよ」

11: 2012/01/11(水) 21:15:34.84
……。

桜並木を抜けた先にある英国風のオシャレなカフェ。
窓際の3人掛けの丸いテーブルが私たちの特等席だった。

「ブラックコーヒーをちょうだい、3分で持ってきなさいよね」
「では、わたくしは紅茶をいただきましょう」
そう言って、貴音は胸の前で小さく手をあげる。
最近は、毎週のように貴音とここに来るようになった。

それと、たまにもう一人……。
隣でテーブルにおでこを乗せて、すやすやと寝息をたてているヤツを肘で小突く。

全くどういう神経してるのよ……。

「あふぅ、えっとね~ミキはイチゴババロア!」
あくびをした後に、美希はぴんっと手をあげる。

「あんたね、いつも思うけど飲み物を頼みなさいよ……」
私がそういい終わる前に、ミキの頭がどんどんと下がっていく。
コンッとひとつ乾いた音がしてそのまま動かなくなってしまった。

はぁ……本当にこの3人でユニットなんてやっていけるのかしら……。
頭をかかえてため息をつく私を見て、また貴音がくすくす笑った。

17: 2012/01/11(水) 21:42:56.76
約束をした、あの日からもう1か月が過ぎた。

そろそろ桜の花も散る頃ね……。
窓の外を眺めると、グレーのアスファルトにピンクの模様が出来ている。

貴音が、目を伏せたまま紅茶の匂いを嗅いで言う。
「今回の【おーでぃしょん】、一体だれが選ばれるのでしょう」

私はシュガーを小さじで3杯入れる。
うぅ、やっぱりオレンジジュースが飲みたいわ……。
「そんなの、この伊織ちゃんに決まってるじゃない」
「ん~お凸ちゃん緊張でガチガチだったの。ミキ的には無理って思うな」
「な、な、ななんですってー!」

こ、この金髪毛虫はまた私をおちょくって!
「っていうか誰がお凸ちゃんよ!」
立ち上がってテーブルを思い切り叩いた。周りの客が一斉に振り返る。
ウェイターが大慌てでモップを持ってくる。

あ、またやっちゃったわ……。
はぁ、また注文しなおさなきゃいけないじゃない。

「あら?」
だけど、テーブルを見下ろすと、不思議とコーヒーは一滴も零れていなかった。
見ると……。

貴音はカップを持ったまま、空いた左手で縁をしっかりと抑えていた。
「な……」
ぱくぱくと魚のように口を開く私を見て、貴音は笑って言った。
「やはりわたくし達はまこと、相性の良い仲間と言えるのではないでしょうか」

22: 2012/01/11(水) 22:11:41.21
「あはっ、おデコちゃんと貴音って何だか夫婦みたいだね」
「は、はぁ?!」
その言葉を聞いた瞬間、765プロにある古びた瞬間湯沸かし器みたいに、一気に顔が熱くなった。
思わずうさちゃんを振り落としそうになる。

「い、いきなりなに言ってんのよ!バカバカッ!」
「さて、だとしたら伊織が夫になるのでしょうか……」
「あんたもノらなくていいからっ!」
指さすと、貴音はカップを音も無く置いて、ゆっくり微笑む。

周りの客は今度は私たちを見ながら和やかにひっそりと笑う。

私は、わざと大きな音をたてて椅子に座る。
まったく、とんだ赤っ恥をかいちゃったじゃないの!

テーブルに広げた反省会ノートには、それぞれ違った筆跡で、文字がびっしり埋まっている。
貴音は細くてやけに達筆な字で漢字ばっかり使う。
美希はまるっこい字で……
この余白にかかれてる、怒りながら額を光らせてるキャラクターってまさか私じゃないでしょうね……。

「さっ、気を取り直して反省会の続きよ」
「了解なの~リーダーさん」
「三人寄れば文殊の知恵、というものですね」

……この時はただひたすら先へ進んでいくのが楽しかった。

29: 2012/01/11(水) 22:47:30.46
……。

忙しなく流れて行く人通りの中、美希はマイペースに手をゆっくりと振る。

「じゃあね~、おデコちゃん、貴音」
「ごきげんよう。星井美希」
「あんた次は遅刻するんじゃないわよ」
ふらふらと歩く美希の背中を、笑顔で見送る貴音を、横目で眺める。

……最近気づいたことだけど貴音の表情って基本的に2パターンしか無いのよね。
何考えてるんだがさっぱりわかんないけど、無表情でだんまりしてる時。
それと、何考えてるんだかさっぱりわかんないけど、ちょっと楽しげに笑う時。

きっとポーカーをやったら765プロで一番強いんでしょうね……。
まぁ、常識知らずのこいつがルールを知ってるか怪しいもんだけど。

せっかくだし今度教えてあげようかしら。

32: 2012/01/11(水) 22:58:22.37
「さぁ、明日もまた【れっすん】の日々ですね、あなたと一緒に」
そう言って、貴音は銀髪をかきあげる。ほのかに甘い匂いが鼻をくすぐった。

私は、うさちゃんを少し強く握って、見上げて言った。
「ねぇあんたって、私といて楽しい?」
「それは、もちろんです。伊織との日々は、かけがえの無いものですよ」
「なっ……!」

こ、こいつは……。
こういう気恥かしげなことも平気で言ってのけるから驚いたもんだわ。
呆れている私を見て、貴音は私の身長に合わせて膝を曲げた。
途端に眉を八の字にしてうろたえる。

「も、もしや伊織は、私といて楽しくないのでしょうか?」
「はぁ、楽しいわよ、色々な意味でね……」
「わたくし伊織にまた嫌われてしまったらどうしたものかと……」
「あんたは私が認めてあげたライバルなんだから、も~っとしゃきっとしなさい」
「ふふっ、そうですね、伊織には負けませんから」

それでも私が一番なんだけどね!
ま、でもあんたもソコソコかもね。

……たまに、貴音の普段とは違った表情を見ると、
ほんのちょっとだけ今日はラッキーな日だったわって、思った。

39: 2012/01/11(水) 23:23:08.92
「お嬢様、今日の朝食のメニューは……」
「食パン1枚でいいわよ!」
たくさんの料理の中から、オレンジジュースだけを選んで掴む。
グラスから水滴がこぼれて、テーブルクロスにシミを作った。
大急ぎで飲み干して、鏡を見ながらヘアスタイルを整える。

ち、遅刻じゃない!
今日は、よ~~やく新しいプロデューサーが来る日だっていうのにっ!
このスーパーアイドル伊織ちゃんの実力を魅せる時がついに来たのね!

無言で銀色のプレートを片づける執事に、リボンを選びながら言った。
「あ、言っておくけどこの前の超高級のヤツにしなさいよね!」
「かしこまりました」

最近は、早朝から貴音とのレッスンがあるから、ゆっくりモーニングジュースも飲めないのよね。
お腹が減ったら事務所のお煎餅でも齧ろうかしら。

44: 2012/01/11(水) 23:49:03.88
臙脂色のリボンを口元に咥えていると、背中越しから低い声がした。
「伊織、アイドルはまだ続いているようだな」

……髪を結ぶ手がピタリと止まった。
お兄様、今日は家にいるのね。
振り向かずに、きゅっとキツく結び目を作る。
「……ま~たイヤミを言いに来たのかしら」
「いや、正直、最近のお前が羨ましいよ」
「えっ」

驚いて振り返る。そのまま固まる。
お兄様は、水瀬の標語をじっと眺めている。
ブラックコーヒーを、最小限の手つきで口へ運んだ。
……今、何て言ったのかしら。

47: 2012/01/11(水) 23:56:51.53
「楽しくやっているようで何よりだ」
「な、なによいきなり」
「水瀬グループの社長なんてやってると、どうしてもキレイ事じゃ済まされないことも出てくる」
「……」
「その点、伊織。お前の仕事が羨ましくもある」
「……」
素直に嬉しかった。お兄様が私のことを少しだけど認めてくれた。
目の前がぼやける。慌てて腕で拭う。

「後はもう少し結果を残してくれれば言うことはないんだがな」
「……っあったり前でしょっ!」
うさちゃんを掴んで、急いでお兄様の隣をすり抜ける。
顔をゼッタイに見られないように。

重たい扉を押して、外へ出ると、かすかに蝉が鳴いていた。
太陽がじりじり照りつける。じっとりと汗を掻く。
季節はいつのまにか夏になっていた。

最近は深夜番組のミニコーナーくらいの仕事は舞いこんでくる。
この先は、今日来るプロデューサー次第ってとこね。

貴音、ユニットが組めそうよ。
一体、その時あんたはどんな顔をするのかしら。

「にひひっ」

53: 2012/01/12(木) 00:21:11.15
ポンコツのクーラーががたがた音を立てる。
「うっ……男の人ですぅ……」
「あらあら~ そんな緊張しないでちょうだい~」
その音が掻き消されるように、私たちのざわめきが事務所に響く。
更にそれより大きな声で、そいつは深くお辞儀をした。
「あ、あのっこ、これからよろしくお願いします! これから765プロのプロデューサーになりました……」
テレビでは大手プロダクション提供のCMが流れてる。
CGまで使っちゃって随分と手が込んでるじゃない。

ふぅん、961プロっていうのね……。

「目標は……そうだ! うちでもこんなコマーシャルが流せるくらいの事務所になることです!」
鼻息を荒くして、テレビを強引に叩く。
砂嵐が一瞬映って、すぐに妙な高笑いがテレビから聞こえる。
真っ白なホワイトボードをみんなが一斉に眺める。
「が、が、が頑張ります!」

……やる気はあるみたいだけど、なんか空回ってる感じね。ホントに大丈夫なのかしら。
「あふぅ、そこの人~。ミキ、お昼寝してるんだから静かにしてほしいの」
ソファで毛布に包まっている美希が言う。
「美希、いくら頼りの無い殿方といえども、礼節が足りませんよ」
貴音がいつもの声のトーンで美希を揺する。

「あ、あはは……」
新人プロデューサーの顔が引きつる。
「あー……この二人ちょっと天然入ってるから気にしないでちょうだい」

皆が新人に注目する中、なぜか律子だけが私をじっと見つめていた。

58: 2012/01/12(木) 00:52:18.48
……あら、意外とこれイケるじゃない。
ソファでお煎餅を齧りながら5冊目のノートにペンを走らせる。
「どう思う?」
「どう?とは」
貴音はこの蒸し暑い日に、紫のカーディガンを羽織って煎茶をすすっている。

安いボールペンで顔をテキトーに書いてみた。とんとんとペン先で叩いて言った。
「こいつよ、こいつ」
「誠実な殿方で好感が持てるのではないでしょうか」
「ふぅん」
あんたはそう思うのね……。ま、悪いヤツじゃ無さそうだけど。
いつのまにか反省会ノートは、ただの自由帳になっていた。
ラーメン屋の名前がびっしりと並んで、上から順に一口メモが並ぶ。
二十郎とかなんだかに行った時は思わずカルチャーショック受けちゃったわよ……。

「美希は?」
「ん~これ誰?」
「聞いた私が悪かったわ……」
美希はその周りにまた私たちの似顔絵を書く。至る所にハートや星を散りばめる。

その時、遠くで律子が私に向かって手招きしているのに気づいた。
……一体何の用かしら。

「ちょっと行ってくるわ」

62: 2012/01/12(木) 01:15:40.46
「へっ……」
思わず、うさちゃんを床に落とす。
のぼせた頭から、熱が段々と引いていく。

律子が満面の笑みでクリップボードを握りしめる。
「ふふふ……驚くのも無理はないわね」
「ど、どういうことよ」
「前にちゃんと言ったでしょ、ユニットを組む気が無いかって」
「それは聞いたけど……」
「あの頼れるプロデューサー殿が来てくれて、私もようやくこのプロジェクトに専念できるわ」
“頼れる”という部分を強調て律子は言った。
武者震いをしながらクリップボードを差し出す。

私と、あずさと、亜美のポラロイドが張ってある。
その下にずらりと契約スポンサーと出演予定番組が並んでいる。

「おめでとう。この先1年間はもう色んな番組に引っ張りだこよ」
「1年……」
目を逸らすと、律子は不思議そうな顔を浮かべた。
「どうしたの? 嬉しくないの……?」

嬉しいわよ……今すぐ兄さんにメールで報告したいくらい……。
嬉しいけれど……。

私は、スカートの裾をぎゅっと握りしめて、目をキツく瞑った。
すると、貴音のいつもの笑顔が、瞼の裏にぼんやり浮かんだ。

70: 2012/01/12(木) 01:43:04.35
「そうですか」
貴音の表情は変わらない。
だけど、微かにカップを持つ手が震えていることに私は気付いた。

──では、いつか皆で、更なる高みを目指しましょう

あの嬉しそうな横顔を思い出す。
貴音はよく笑う。
けれど子供のようなあの無邪気は笑い方は、その時だけだった。

「……」
喉が渇いてきたわ。
だけど、目の前にぼんやり映るアイスコーヒーを飲む気にはどうしてもなれなかった。
私は、絞り出すように言った。
「ね、ねぇ。私断ろうかと……」
「水瀬伊織、いけませんよ」
「えっ……」

72: 2012/01/12(木) 01:49:11.81
いつもの穏やかな声とは違って、低く威圧感のあるトーンだった。
顔をあげると、いつになく真剣な顔をした貴音がいた。
「律子嬢の想いを、汲むべきです」
「だ、だって……!」
「それに、わたくし達のした約束は、高みを目指すこと」
「……」
「あなたと共にいる事ではありません。違いますか?」

──違うわよ。

「えっ……」
驚いて、周りを見渡す。いつものカフェの光景が広がっているだけだった。
今、私と全く同じ声がどこからかしたんだけど……。

そして、なぜか胸の奥がむず痒くなった。
その感覚はすぐに体の奥へと引っ込んでいく。

気のせい……か。

「伊織……?」
「……」
私は、ひとつ、小さく頷いた。

75: 2012/01/12(木) 02:05:50.75
「では、笑ってくれませんか?」
「わ、わかってるわよ」
顔を下に向けて、笑顔の練習をする。
ピカピカのタイルには、口の端がひくひくと引きつった私が映っている。

……負けないわ。

「……にひひっ」
「ふふっ、それでこそ伊織です……おや」
そう言って、貴音は突然人差し指を立てて口をぽっかりと開ける。

こ、今度は何よ……。

「わたくしに少々考えがあるのですが」

77: 2012/01/12(木) 02:28:05.94
社長室のデスクの下に宝物のように置いてある箱の埃を払う。
美希が口に咥えたペンライトで照らす。
ゆっくりと開けると、ピンク色のフリルのついたステージ衣装が入っていた。

「なんだかこういうのドキドキするね~」
「バレたら律子にこってり絞られるわよ……」
貴音は神経を張り詰めさせて、入口を見張っている。
「気配を察知したら、わたくしが合気道で……」

765プロ秘蔵のステージ衣装に、袖を通す。
ピッタリと身体に張り付いて、軽くて動きやすい。

スポットライトの中で踊れたら、きっと最高の気分なんでしょうね。

着替えが終わると、貴音が持ち込んでたカメラを用意する。
しばらく手のひらで転がしていると……貴音の首が斜め45度傾いた。
「あーいいわよ、私がやるから……」
ペンライトで照らしながら、タイマーをセットする。

何を言いだすかと思ったら……。
ほんっとーに貴音といると飽きないわ……。

80: 2012/01/12(木) 02:46:14.13
事務所の時計は夜中の11時を回っていた。

「じゃ、いくわよー」
机にカメラを置いてボタンを一つ押す。
暗闇の中、ピッ……ピッ……と規則的な音が鳴る。

二人の待つ窓際に立って、うさちゃんを抱きしながら、歯を見せて笑った。
美希は顔の横で人差し指と親指を立てて、ウィンクする。
貴音は……

……へぇ、あんたピースサインなんてするのね。

また、知らない貴音の一つを見ることが出来たのね。
そう思ったら、胸の奥でトクン、とひとつ音が鳴って……。
じんわりと、そこから熱が広がった。
貴音に手を握られた時に似ていた感覚だった。

その瞬間、それを上書きするかのようにフラッシュが瞬いた。

貴音は、私と美希の肩に手の優しく乗せて言った。
「1年後、これを夢現では無いと証明しましょう。各々道は違えど、目指す場所は一つです」
続けて、貴音は言った。

そしてこの日々をいつまでも忘れないように、って。

1: 2012/01/13(金) 03:05:29.08
……。

「あの日……」
「えっ……」
私の頭を撫で回す手が止まる。
振り子時計の鐘の音はずっと鳴り響いて、感覚をマヒさせる。
まるでここは、お伽噺の中みたいね。

「今思えば、あの夏の日が、皆で集まれた最後の日でしたね」
「……」
それも、きっと私のせい。
口を開こうとすると、喉の奥が詰まる。
鼓動がゆっくりと高まっていく。密着している貴音にもきっと、伝わってるに違いないわ。
「さぁ、続きをどうぞ。伊織の思うままに」

ワガママなのはわかってる。
だけど私は、それでも貴音にずっと傍にいて欲しい

5: 2012/01/13(金) 03:08:44.60
……。

七彩のスポットライトが重なって、私を照らす。
手を振るたびに、大きな歓声が沸き起こる。

その声援をシャワーのように身体に浴びると、とっても気分がいいわ。

──いおりんのダンスマジ最高!

そんな声がドームに反響して、至るところから聞こえる。
あずさがおっとりした動きで、ステージのギリギリまで立って微笑む。
「みなさ~ん、私たちのライブに来てくれてありがとうございます~」
亜美があずさの背中に勢いよく飛び乗った。
「イエーイ!これからも亜美たちはメチャ頑張るよ→」

正面に立って、マイクを握りしめて言った。
お決まりの笑顔をつくる。
「にひひっ。みんな次のライブもよろしくお願いしまぁす」

竜宮小町を結成してもう3カ月。季節はもう秋ね。
もうしばらく行ってないけれど、カフェの前の桜並木はきっと紅葉がキレイなんでしょうねぇ。

7: 2012/01/13(金) 03:13:07.86
ステージから降りるなり、律子がスポーツドリンクを手渡す。
「お疲れ様、今日も良かったわよ」
「あったり前じゃない。私をダレだと思ってるのよ」
熱気がこもった身体がゆっくりと冷めていく。
汗がだんだんと冷えていって、興奮がおさまっていく。

……最近は山のように仕事が入って事務所もロクに立ち寄れないわ。
はぁ~たまにあのしょっぱいお煎餅が恋しくなるのよね。

パープルを基調としたステージ衣装が、汗で身体に張り付く。
シャワーを浴びたい気分だったけれど、私はまっすぐ楽屋へと戻る。

お兄様がご褒美にプレゼントしてくれたバッグから、携帯電話を取り出す。
メールをチェックっと……。

0件、ね。

一つ、小さなため息をついてソファへ投げ捨てた。
胸の辺りをきゅっと握りしめる。

今日はもう帰ってすぐ寝ましょう……。

8: 2012/01/13(金) 03:17:54.99
──伊織、パパは仕事に行ってくるから良い子にしてるんだぞ。
何かあったら新堂に申しつけろ。

お父様は大きなキャリーバッグを引きずって、私の頭を撫でる。
「う、うん。行ってらっしゃい。次はいつ帰ってくるの?」

そう聞くと、いつもお父様は、すぐ帰ってくる、とだけ言う。
だけど、その「すぐ」が3日だったり、3カ月だったりする。
リムジンに乗り込むお父様を、何十人もの執事と一緒に見送った。
「……」

──伊織、何が欲しい? 欲しいものなら何でも買ってやる。

お父様は財布を取り出して言う。来週は私の誕生日だった。
去年はジュエリーを好きなだけ貰った。一昨年は私専用の別荘。

「ね、ねぇ。お父様、今年はね、家に……」
言いかけて、止めた。
「ぬいぐるみでいいわ。ぬいぐるみを買ってちょうだい」

違うの、お父様。私が本当に欲しいのは……

……。

瞳をゆっくりと開くと、ガラスのシャンデリアがそこにあった。
「……」
電気スタンドを手探りで付けて、備え付けのミネラルウォーターを口に含む。

どうして昔のことなんて夢に見ちゃったのかしら。
私らしくないわね……。

9: 2012/01/13(金) 03:24:47.55
そのままメールをチェックする。
淡い蛍光色が灯る。

……そのまま、そっと携帯電話を閉じる。

最近、貴音とはぜんぜん会ってない。
たまに事務所のホワイトボードを眺めると、貴音の欄には
ちらほらと「地方営業」や「番組収録」って文字がサインペンで書かれていた。

美希も貴音も、あのプロデューサーと順調にやってるみたい。
特に美希はレッスンをやけに頑張るようになった。
あのいつも寝ていた美希が……世の中どうなるかわかったもんじゃないわね。

……そう、先のことなんて、どうなるのかわからない。

また胸の奥が、優しい熱を帯びた。
あの日から、この仄かな温もりは段々と大きくなっていった。

浮かぶのは、決まって貴音の笑顔。そればっかり。

……一体なんなのかしら、これ。

私は、この不思議な感覚に名前をつけることができなかった。

10: 2012/01/13(金) 03:28:32.58
「伊織、来週はついにアイドルアカデミーの予選よ」
ハンドルを握る律子が、不敵に微笑んだ。
窓ガラスからは、昔よくリムジンで通った765プロへ続く道が見える。
枯葉が舞い落ちて、歩道が赤く染まっていた。
そういえば、貴音とオーディションへ行く時にいつも通っていた。

……秋って、変にノスタルジックになっちゃうからイヤよね。

「伊織?」
「えっ? あっえぇ、わかってるわよ」
「あの961プロダクションとの対決よ、相手にとって不足は無いわね」
「961プロダクション……ね」

あのテレビに映ってた悪趣味な社長がいるトコね。
ま、どんな相手でも正々堂々、この伊織ちゃんの力を見せつけるだけよ。

「あっ……」
その時、窓から一瞬だけ、秋の景色にはちょっと不釣り合いな銀色が視界に入った。
慌てて、振り向く。

遠ざかっていく景色の中、貴音が、プロデューサーと歩いていた。
何か冗談を言ったみたいだった。口元に手を当てて、とびきりの笑顔を見せている。

突然、どうしようも無く胸が苦しくなった。
ズキズキと針が刺さったように、痛みが走る。何よこれ……。

こんな情けない姿を見られたくなくて、そっと隠れるように、うずくまった。

11: 2012/01/13(金) 03:40:26.58
「ふ、ふざけないでよ! こんなの絶対おかしいわっ!」
「おやぁ~? 一体どうしたのかな」
「あ、あんたの仕業でしょ! 卑怯よこんなのっ!」

頭に血が昇って、何も考えられなくなる。
私のかすんだ視界の先に、口元をぐにゃりと歪ませた顔がうつる。
ソイツの胸倉を掴む私を、あずさと亜美が肩を掴んで止める。

何で……何で急に課題曲が土壇場になって変更になるのよ!
しかもその曲が以前961プロがカバーしたものって……偶然にしてはちょっと出来過ぎよ!
それでも、私たちは僅かな残り時間で、必氏に練習した。

けれど、いきなり本番でBGMが止まるアクシデントが起こった。
練習の時はなんとも無かったのにっ……!

「あ、あんたこんな事してまで勝って嬉しいの?!」
いきり立つ私を、黒井が冷笑する。襟を正しながら言った。

「なぁにを馬鹿なことを。勝負事は勝つことが全てだろう」
「まっ……待ちなさい!」
「反省して、よくよく覚えておくんだな、成金」
「……!」

血が出そうなほど唇を噛みしめる。
悔しい……! なによ……私が……間違ってるっていうの……!

12: 2012/01/13(金) 03:48:24.19
「い、伊織、これで終わりじゃないわ。だからそう気を落とさずに……」
「わかってるわよ、だけど今日はちょっと一人にさせてちょうだい」

……。

ふらふらと、急な階段を一段ずつ昇る。途中、何度かつかえて転びそうになる。
「非常出口」の標識の灯りに虫が群がる。
かすかに蛍光灯の光が漏れる事務所の扉の前に立った。

……ここも、久々ね。

不意に、ポケットから振動が伝わった。
携帯電話を取り出して、ゆっくりとボタンを押す。

[ミキ:おデコちゃん久しぶり。この前ね、プロデューサーさんがね~……]

……相変わらずお気楽よね。
ていうか最近いっつもプロデューサーがどうのこうのってメールばかりじゃない。

返信する気にはどうしてもなれなかった。ポケットにゆっくり戻す。
その時、目の前で扉がきしむ音がした。

顔をあげると……。
ちょっと羨ましいくらいの大きなバストがそこにあった。
更に顔をあげる。

「何をしてるのですか。こんな遅くに」
「貴音……」

13: 2012/01/13(金) 03:53:09.58
そのまっすぐ見つめてくる瞳に、思わず顔を背ける。
こんなみっともない顔、見られたくなったし。
それに……。

貴音の顔を久々に見たら、何故か顔が焼けるように熱くなった。
本当に、なんのよこれ……。私、病気なのかしら……。

呟くように、言った。
「あんたこそ、何してるのよ」
「わたくしは、プロデューサー殿に大事な用事があったのです」
「そう、あいつ色んなトコ駆けずりまわってるものね」
「……」

そっと、私の肩に何かが触れた。懐かしい、貴音の手の平の感触だった。
「……敗れたのですね」
「……うるさいわよ」
「あなたはオーディションに落ちた時はいつも、そのような面持ちで夜更けまでレッスンをしますね」
「……うるさい」
「水瀬伊織、あなたはとても芯の強い人間です。わたくしは、そんなあなたを見ていると力がわいてくるのです」
「……うるさいっ……」

思い切り首を横に振る。
涙がこぼれそうになるのを、必氏で堪える。
貴音の穏やかな声が、私の中に滑り込んで、蕩ける。

14: 2012/01/13(金) 03:58:03.84
「も、もう、用が済んだんなら帰りなさいよ……」
「……」

そのまま、沈黙が流れる。
灰色のアスファルトをひたすらじっと見つめる。
しばらくして、乗せられた手がそっと離れた。

「わかりました、では……」
それだけ言って、床にまで伸びる銀髪が視界から不意に消えた。
コツン、とひとつハイヒールが鳴る音が廊下に鳴り響く。

──伊織、何が欲しい?

「……」
「伊織……?」

気づいたら、私は貴音のスカートの裾を力無く握っていた。

16: 2012/01/13(金) 04:02:52.15
「どう、したのですか……?」
「……」
また静けさが広がる。
すきま風が吹きつけて、身体を突き刺す。
遠くで換気扇の回る音が、妙に耳にこびり付く。

「なにか、わたくしに申すことでも……?」
曖昧な、その胸の底に溜まっている気持ちを、ただ理解したかった。
何度も何度も、自問自答を繰り返す。

どうして、私はこんなにこいつを見ると、胸が苦しくなるのかしら。
何か言おうとしても、喉で絡まって、言葉が出てこない。

「私は……」

……。

銀色の後ろ姿が、段々と小さくなっていく。
ハイヒールが床を打つ、小気味良い乾いた音も……やがて消えた。

結局、私は何も言えなかった。

そして、誰もいない事務所で、
私はプロデューサーの机に置いてある一通の手紙を見つけることになる。

17: 2012/01/13(金) 04:08:14.85
書類だらけの散らかったデスクの上で、丁寧に折り曲げて置いてある手紙。
それに少しだけ違和感を感じて、偶然目に止った。

ま、人の手紙を勝手に覗き見るなんてシュミ悪いわよね。

すみっこに置かれたホットコーヒーは、まだ湯気をたてていた。
どうやら一応アイツはちゃんと来てるみたいね。

ロッカーに置きっぱなしになっている、埃の被ったノートを拾い上げた。
めくっていくと……ステップの改良、好きな食べ物、
○×ゲーム、ポーカーのルール説明、週末のショッピングの場所。

そして、私の書いたプロデューサーの落書きと、美希の3人の似顔絵のページ。
そこから先は、白紙が続く。心無しかハートマークが増えている気がする。
「……」

不意に、かすかに開いた窓から秋風が吹いて、手紙が床へと落ちる。
私はそれを拾い上げる。

あら、この字……どこかでよく見た気がするわね……。
悪いとは思いつつも少しだけ、指先でめくるように、中を少しだけ覗きこむ。

「……!」
その手紙の内容は、最初の一行で理解できた。
お腹の底から、ドロドロの真っ黒い何かがせり上がる。
体が一気に強張って、思わず舌を噛みそうになった。

──プロデューサー殿。わたくしは、あなた様に恋焦れております。

うそ……でしょ……!

18: 2012/01/13(金) 04:16:01.32
手が震えて、その一枚の紙切れを落としそうになる。
必氏に、デスクに戻そうとするけど、体が鉛のように重くて動かない。
呼吸ができない。視界がかすむ。

必氏に目だけを動かしていく。手紙の文末は……。
もし、わたくしの気持ちが届かないのならば、全て忘れ去ってください。

それを見たとき、ある一つのアイディアが浮かんだ。
その瞬間、頭の中に濁流のように、意識が流れ込む。

──水瀬の基本理念、欲しいものは勝ちとること。
──正々堂々、欲しいものは自分で勝ちとってみせるんだから!
──どうしてもキレイ事じゃ済まされないことも出てくる
──勝負事は勝つことが全てだろう

渦のように、ぐるぐると掻き混ざる。
「やめて……」
誰か私を叱って止めて……。止めてよ……。……貴音。

背中から、ドアが軋む音がした。
心臓が跳ねあがる。
振り向くと、コンビニのレジ袋を抱えたプロデューサーがそこにいた。
「おぉ、伊織。久しぶりだな。どうしたんだ? こんな夜更けに」
「……あ……」
私は、気づいたら手紙をぐしゃぐしゃに握りしめていた。
何知らぬ顔で腕時計を見て、プロデューサーは言う。
「丁度、夜中の12時だ。送っていくから今日はもう帰れ」

19: 2012/01/13(金) 04:17:50.18
……。

鐘の音はまだまだ鳴る……。それにしても長いわ。
「……」
貴音は私の告白をただ黙って聞いていた。
瞳を閉じて、人形のように、ただただ私の言葉に耳を傾ける。

身震いするこの身勝手な体を、なんとか収めつつ言った。
「な、なにか言いなさいよ……」
「……」
「話を」
「えっ」
「話を続けてください」
感情のこもって無い、平坦なトーンでぽつりと言った。
私の背中に回す貴音の指先が、氷みたいに冷たい。
思わず鳥肌が立つ。

そして……。

20: 2012/01/13(金) 04:21:48.25
……。

そして……あまりにあっけなく、貴音の恋は終わりを告げる。
いえ、始まりすら無かった。私のせい。

765プロオールスターライブのために事務所に集合したその日。

髪をばっさり切り落として、茶髪になった美希が満面の笑みで言った。
その隣でプロデューサーが、苦笑を浮かべて頬を掻く。
「ミキね、ハニーとラブラブになっちゃったの~」
「お、おい……」
「トップアイドルになったらね、結婚してくれるんだって」
「ばっ……! それは内緒だって……」

……!
大きな祝福の声があがる。
真が茶化したり、あずさが羨ましいと言って嘆いたり……。
その中で、私と、貴音だけがただ呆然と立ち尽くしていた。
やがて、貴音は大きな瞳をそっと閉じて、泣きそうな声で言った。

「おめでとうございます……美希……どうかお幸せに……」

その声はしばらく私の頭の中で、ひたすらリフレインした。

21: 2012/01/13(金) 04:23:05.36
こっから書き溜めなしでござる

24: 2012/01/13(金) 04:38:19.47
暗闇の中、枕をキツく抱きしめる。
ぐるぐると、同じ思考が回り続ける。

「…ぅ…!」

もしかしたら、手紙を受け取っても結果は変わらなかったのかも知れない。
だけど、プロデューサーの隣に立っていたのは貴音の可能性もあった。
今だともう、決してわからないこと。

貴音を深く傷つけた罪悪感の片隅で、これで良かったって思う自分が堪らなくイヤだった。

私は、貴音に謝らなくちゃいけないわ。
だけど、それがどうしてもできない。

ジレンマに押し潰されそうになる。

気づいたら朝だった。
執事が、また機械的な手つきで山ほどの朝食を並べる。

「お嬢様、今日のメニューは……」
「……いらないわ」

この広い部屋でいるのは私だけ。
てきぱきと、執事がオレンジジュースやパイをかたずけていく。
壁にかかったカレンダーをチェックする。
家族が帰ってくる予定は、全て未定だった。

……私は……私はただ……そう、貴音が欲しいだけ……。

26: 2012/01/13(金) 04:52:55.89
厚手のコートを羽織る。
枯れた落ち葉を踏む。ぱきぱきと割れた音を鳴らす。

もうすっかり寒くなってきたわ。
そろそろ、冬が来るのね……。

朝の陽ざしが、事務所の扉を照らす。
一つ、深呼吸をした。白い吐息が霧のように立ち込めて、すぐに消える。
ドアノブに手をかけようとすると、中から声が聞こえてきた。

「ねぇ、どうして? ミキ何か悪いことしたのかな?」
「お許しください……」
「せっかくの二人でのお仕事なんだよ? おデコちゃんもきっと来るよ。貴音楽しみにしてたよね」
「わたくしは、わたくしはなんと愚かなのでしょうか……」
「ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ」

そのまま、何も聞こえなくなる。
消え入りそうな足音が近づいてきて、ゆっくりと扉が開く。

「あ……」
「……!」
貴音は、私を見て大きく目を見開いた。
「くっ……!」
「まっ……!」
そして、そのまま何も言わず背を向けて走り去っていった。
引き留めようとした手が、視界の先で揺れる。

貴音……泣いてた……。

27: 2012/01/13(金) 05:07:09.64
モヤモヤとした煙のような何かが私の体中を巡る感覚がする。
このところ、この感覚がまとわりついて離れない。

「そろそろ1年がたつけれど、あなたはリーダーとして本当に良くやってくれたわ」
「……」
律子の声が、ノイズがかかったみたいに聞こえる。
書類を渡される。簡単なチェックシートみたいなものだった。

765プロでの契約期間は、基本的に52周。
そこで一旦、引退コンサートを必ず行う。
なんだか変な話だけど、とにかく、私はもうすぐ大きなドーム公演を控えている。

「そこから先はあなたの自由よ。私の勝手に付き合ってくれて本当にありがとう」
「私は……」
「今すぐ決める必要は無いのよ、ゆっくり考えてちょうだい」

……。
他の皆はみんなアイドルを続ける、と即答していた。
その中で、美希だけはプロデューサーとの婚約があるから、出来次第ってことになる。
最近の、美希の熱意の入り方は尋常じゃなかった。
初めて出会った時とは信じられないくらいにレッスンをこなすし、仕事も全くサボらない。

そして……。

私は、一番送信履歴の多い相手にメールを送った。
[あんたは、どうするの?]

28: 2012/01/13(金) 05:23:10.90
「ど、どうしてなんだよ?! 貴音」
「四条さん、あんなに高みを目指すって……」

いつもの事務所が、これ以上無くざわつく。
ソファに座る貴音が、目を伏せて言った。
「もうよいのです。このままではきっとわたくしはもう、歩けませんから」

「でも……」
「いつからかわたくしは、脆くて愚かな心に囚われていた。それだけのことです」

貴音の視線が、わたしに向く。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……!」
貴音の微笑は今まで何度も見てきたから、きっと私だけ気づいた。

その中には……感情が、全くこもっていない。
今までの貴音の笑顔には、温もりがあったんだって知った。

ぐっと、うさちゃんを握りしめて、何かを耐えた。

貴音は、色の抜け落ちた瞳で言った。
「わたくしは、故郷に帰ろうと思います」

29: 2012/01/13(金) 05:34:20.41
……。

執事がトレイにオレンジジュースを持ってくる。
私はそれを受け取って、ぼんやりと考える。

私たちが目指した場所はひとつのハズだった。
だけど、振り返ってみると……。

美希は全てを。そしてプロデューサーを手に入れた。
貴音には、何も残らなかった。
私には……一体何が最後に残るの?

胸の奥が、またむずむずする。
そして、締め付けられるような痛みが襲う。
「……!」

この気持ちが、ハッキリすれば貴音とも向き合える気がする。
ソファでうなだれていると、革靴が大理石を叩く音が聞こえた。
小さな紙袋を私の前に置く。きっとご褒美のネックレスか何かね……。
「伊織、久しぶりだな」
「……」

プロデューサーにも、美希にも、律子にも相談できない。
ちょっと気は乗らないけれど……。
私は、引き留めるように腕を握って……ぽつりと言った。

「お兄様、ちょっと聞いてほしいことがあるの」

30: 2012/01/13(金) 05:45:51.62
……。

全て話し終えたらと、また身体が熱っぽくなる。
お兄様は、私の眼をひたすらじっと見つめて、話を最後まで聞いていた。

「……」
お兄様は腕を足の前で組む。そのままぴくりとも動かない。
それから、ひたすら沈黙が流れる。

壁際の、古時計の振り子が降られる音だけが鳴る。
やがて、お兄様は重い口を開いた。

「……諦めろ」
「……えっ」
「お前は水瀬財閥の令嬢だ。いずれ後悔する」
「い、言ってる意味がよくわからないわよ……」
「お前では背負いきれない」

そう言って、お兄様は立ちあがって去っていく。
去り際に、一言だけ言った。
「問題なのは、お前の覚悟だ」

えっ……。

かく……ご……?

私は、その言葉を噛みしめた。
「覚悟……」

31: 2012/01/13(金) 05:55:45.31
そして、引退コンサートが終わる。
無事に成功。私はピンクのライブ衣装を身に纏って、
大歓声の中、マイクを置いてステージを下りる。

……。

貴音は、紅茶を掻き混ぜる。そのまま口へ運ぶ。
「おめでとうございます。水瀬伊織」
「……」
貴音の空っぽの笑顔が、心臓を突きさす。
「待たせたわね」
「……?」
貴音は無表情というより、無機質な顔で私をみつめる。

ブラックコーヒーを、一口含む。
そのまま、一気に飲み干した。
「1年も待たせて、本当にごめんなさい」
「……」

その言葉の意味を理解したのか、貴音はやがて苦しそうに顔を歪めた。
「何故ですか?」
「あんたが、その、大切、だから……言える立場じゃないけど……」
「……」
貴音は横目で、ひとつだけぽっかりと抜け落ちた空席を眺めて、言った。

「伊織、あなたはいけずですね」

……そして、私は覚悟を決めて、貴音を部屋へ呼んだ。

32: 2012/01/13(金) 05:57:50.89
……。

「ん……」

貴音の匂いがする。
柔らかで、花のような、甘い香り。
「ふふっ、どうしたのです。いきなり抱きついたりなどして」
「……別に、何でもないわよ」
「そうですか」
「でも、特別にもう少しこのままでいてもいいわよ」
くすくすと鈴の音のような笑い声がする。
おデコをかきあげるように、驚くほど冷たい貴音の手の平が這う。

見上げると、貴音は寂しそうに満月を眺めていた。月明かりが横顔を照らしてる。
「……一度しか言わないから、よく聞きなさい」

「貴音、ずっと私の、その、傍にいなさい……よね」

34: 2012/01/13(金) 06:18:22.87
……。

これで私の告白は全て終わり。

古時計を見ると、針が十二時ピッタリで止まっていた。
そのまま、少しだけ右にズレ動いて、また戻る。
……どうりで長いと思ったわ。

「……」
貴音は、眠っているかのように動かない。

……許す、なんて都合のいい言葉は聞きたくないわ。
私を叱ってよ。殴られるのも、覚悟のうちだから。

「貴音……?」
おそるおそる聞くと、貴音は口を開く。寒気が体を駆け巡った。
だけど、聞こえた言葉は意外なものだった。

35: 2012/01/13(金) 06:21:15.85
「わたくしの方こそ、お許しください」
「えっ」
「うすうす感じてはいました。あなたがあの夜に、手紙に気付いたであろうことは」
「それって……」
「伊織のことならば、何でもわかりますから」
そう言って微笑む。抜け殻の貴音。

「ですが……わたくしも怖かったのです。真実を知ることが」
「……」
「伊織、あなたを、信頼するあなたを、例えほんの少しでも恨みたくはなかった……」
そう言って、貴音は手の平で私の胸をとんと押す。
また、じわりとそこから熱が広がる。

貴音は窓際の手すりに手をかけて月を眺める。
「伊織の兄方の言う通りです。わたくしなどとと居ても伊織は、きっと後悔しますよ」

そして、震える声で言った。
「忘れましょう。全て。なにもかも。わたくしとあなたは、出会ってなどいなかったのです」
えっ……。

忘れる……。
それは私にとって、何よりも優しくて、何よりも残酷な言葉だった。

36: 2012/01/13(金) 06:35:18.01
「全て、泡沫の夢だったのです」
「い、いやよ!」
私は、喉を奥が痛くなるくらいに、思いっきり叫ぶ。
振り返って、真剣な顔で貴音に言った。

「では、あなたに背負いきれますか? 過去と現在と、未来。そのすべてを」
「うっ……!」
「わたくしでは、とてもとても出来ぬことです」
「……」

私の曖昧でハンパなあの気持ちが、わだかまりを作っている。

──私は、こんな抜け殻のような貴音が欲しかったの?

「……伊織、そのほうがお互いにとって良いことなのですよ」
「わかった……わよ……」
遅れて、自分の声だって気づいた。

──なにもわからない。

「悪かったわね……手紙……返すから……」

39: 2012/01/13(金) 06:44:20.24
鐘の音だけが、一定の音階で鳴る。
段々と、その音が意識を麻痺させる。
なんだか半透明な膜の中にいるみたいだった。

「……わたくし、様子を見てまいります」
ゆっくりと時計に近づいていって、貴音は背を向けて跪く。

私は、そんな貴音を横目で見ながら、
大切にしまってある小さな箱の蓋を開けた。

くしゃくしゃになって黄ばんだ手紙を取り出す。

昔よく遊んだオモチャとか、昔のお父様からのプレゼントとか、
とにかく私が大切に思ったものは全部ここにしまってあった。

……辛くなるから、すべて返すわ。
あなたと笑ったことも。フタリの記憶を全て。

41: 2012/01/13(金) 06:55:03.26
あら……?

ふと、ぼやけた視界の先で、あるものが目に止った。
小さな小さな、一枚の白い紙だった。

これって確か……。
指先でつまんで、拾い上げる。

それを、そっと裏返すと……。

「……!」

──1年後、これを夢現では無いと証明しましょう。各々道は違えど、目指す場所は一つです。

満面の笑顔を浮かべた写真が折り曲がって入っていた。
私と、美希と、貴音の3人の、ピカピカのステージ衣装で映っている。

「っ……!」

その写真を見て、私が本当に欲しかったものは、この貴音との日々のそのものだってことに気づいて、
そして、それはもう二度と手に入らないものだと悟ってしまったとき……。

「……ひぐっ……!」

今頃私は、涙が溢れて止まらなくなった。

42: 2012/01/13(金) 07:07:37.95
──やっと、わかったわ。

「これは一体……異国の時計でしょうか……」
貴音は、相変わらず膝をついて時計と睨めっこしている。
一歩ずつ、貴音へと歩み寄る。

どうせ、あんたじゃ直せないわよね。
……あんたが機械に疎いのは知ってるわよ。
英語が全く読めないことも知ってる。視力が悪いことも、、
コーヒーよりも紅茶が好きなことも、ポーカーは案外弱いことも、
普段は抜けてるくせに妙に勘が鋭いことも……。全部知ってる。

そして、あんたはやっぱり私がいなくちゃダメってことも。そうでしょ?貴音。
だってあんた、未だに一人で電車に乗れないじゃない。

「いお──」
私は、そっと貴音の頭を胸に引き寄せて、強く抱きしめた。
頬に貴音の、銀髪のさらさらした感触が伝わる。
貴音の生温かい吐息が、体の芯まで伝わってくるようだった。
更に力を込めて抱きしめる。
この体から溢れ出しそうな想いを、決してこぼしてしまわないように。

ありがとう、貴音。
果てしない時間の中で、あなたと出会えたことが何よりも私を強くしてくれた。

44: 2012/01/13(金) 07:17:21.06
月灯りが、私たちを鈍く照らす。

……月にはウサギがいるっていうけれど、本当の話かしら。

貴音は、床にぶらりと下げた腕を、おそるおそる背中に回す。
そのまま、くすぐるように指先が表面をなぞって……。
やがて、ほんのすこしだけ力がこもった。

ねぇ貴音、もうすぐ、また私たちが出会った春がやってくるわよ。
今年は去年よりもずっと寒いみたい。
冬を越えて、枯れた命は証を残す。また新しい花が芽吹くのね。
そして、暖かな風が優しい香りを運ぶ。貴音と同じ香りを。

ねぇ、貴音、ねぇ……。

──貴音、好き……。

私はそっと、貴音と手と手を重ねて、壊れた時計の針を右へと進めた。

45: 2012/01/13(金) 07:17:57.16

いおたか おわり

46: 2012/01/13(金) 07:21:38.74
閉店満足

もうこういう話は二度とカカロット

オヤスミー(^o^)ノ

引用元: 伊織「た、貴音が欲しい!……んだけれど」