1: 2012/06/08(金) 21:47:23.75
運命の人なんているわけがないわ。

私が、いつも起き抜けに呟く言葉。
ほどよい体の痺れと、気だるさが、夢と現実の境界線を曖昧にさせてくれる。

その数分間だけは、全てを忘れられる時間。
だけど……

「ふぅ……ふぅ……」
右のつま先を擦らせながら、いつもの場所へと向かう。
蝉がうっすらと鳴いている。乱れた前髪が、汗でおでこに張りつく。

……もう、そろそろ夏なのね。

「今日も、時間通りね」
私は、腕時計で時間を確認する。AM10:00……の5分前ね。
うふふ、5分前行動の心がけ、ですよね?

「……」
白いハンドバッグを両手で握りしめて、ぽつりと言った。
「……プロデューサーさん、まだかしら」

だけど……あなたはいつまでも、強く抱きしめた私の心を、離してくれないんですね。

6: 2012/06/08(金) 22:03:37.08
「あと3分……」
日焼けした手首を裏返して、また腕時計を確認する。
秒針が、そろりそろりと動く。
それに合わせるかのように、鼓動がゆっくりと高まっていく。

「……」
私は、ぼんやりと目の前の風景を眺める。
ここも、何も変わらないわね~。

ハンカチを額に当てて歩くサラリーマンのお方が、ふと私に視線を投げかけた。
「あ、あれ……?」
そのお方の、表情がふいに変わる。
あらあら、口をぽっかりと開けているわ~。とってもチャーミングね~。

「うふふ……」
にっこりとほほ笑みかけると、恥ずかしそうに、その方は行ってしまいました。
さすがに、話しかけてくる人はいないのね~。

──まっこまっこり~ん! 菊地真が10時をお知らせしま~す!

AM10:00を知らせる鐘が鳴った。
近くの時計塔のものね。11時は……確か雪歩ちゃんね~。

もう、プロデューサーさん、遅刻ですよ。

12: 2012/06/08(金) 22:22:58.31
「……真ちゃん、元気かしら」
真ちゃんのとびっきりの笑顔を思い出す。
テレビで彼……ごめんなさい、彼女のドラマは毎週チェックしている。
タキシードを纏って、ワルモノさんをやっつける真ちゃんは何度見ても素敵ね~。

私の、すぐ隣の電話ボックスにも、ドラマの大きなポスターが張られている。
うぅん、それだけじゃないわ。
どこまでも伸びていくガードレールにも、隙間もないほど立ち並んだお店の窓にも……。

[天海春香 ドームソロライブ]
[星井美希 映画主演 近日公開]

765プロの、みんなの笑顔がどこにでもある。

「うふふ、デビューした頃は、まさかこんなことになるとは思わなかったわ~」
目を閉じると、みんなの顔が浮かんでくる。
雪歩ちゃんの微笑みも、伊織ちゃんの意地悪そうな笑い声も。

えぇ、目を閉じれば、すぐに、笑顔を思いだせるの。

……たった一人を除いて。

16: 2012/06/08(金) 22:39:17.94
きゅぅとお腹の、小さな虫が鳴いた。
「あらあら~……」

今の、誰かに聞かれてないかしら~。
両手を頬に当てて、辺りをきょろきょろと見渡す。

数人の学生さんが、楽しそうにお喋りしながら、真横を通り過ぎる。
みんな、息を切らして額の汗を拭っている。

「うぅん……」
その後ろ姿を、ひたすら見つめる。
だんだんと、影が小さくなっていく……。

私は、首をゆっくり左右に振る。
玉になった汗がアスファルトに、ぽとりと落ちた。

……きっと違う。でも、もしかしたらあの時と似てるかも知れない。

やがて、学生さんは数十メートル先の小さなお店の前で立ち止まる。
私は、その後を追うように左足を前に出す。体をぐっと前に倒す。
つられて右足が動く。動く、というより、無理やり引っ張られる。

「はぁ……はぁ……」
ようやく小さなプリン屋さんの前にまで辿り着いた時には、
学生さんはもう居なくなっていた。

22: 2012/06/08(金) 23:05:10.98
若い男性の、店員さんは、明るい笑顔を店中に振りまいている。
だけど、私を見るなり、一瞬、きゅっと苦しそうな顔つきをして……
「いらっしゃいませ、今日も来たんですね」
またすぐにいつもの声色になって、笑った。

「今日も、いつものですか」
「えぇ、いつものお願いします~」
「数も……」
「はい、2つでお願いします~」

それきり、店員さんは黙って、店の奥へと入って行って……
丁寧に包装された紙包みを、そっと私に手渡す。

「ありがとうございます~」
ひんやりと冷たいお店の壁に、手をつきながら自動ドアを抜ける。
むわっとした夏の匂いと熱気が、すべりこんで私の体を包む。

その時に、こめかみの辺りがキュッと締めつけられる。

この感覚……。
急いで、振り向く。もう一度、自動ドアをくぐろうとする。
同じ動きで、同じ気持ちで。

「あっ……!」
足がもつれて、尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか?!」
大慌てで、店員さんが私に駆け寄ってくる。

……ドジね~私ったら。
もう激しい動きはしちゃダメってちゃんと言われたのに。

27: 2012/06/08(金) 23:26:52.51
お日様のよくあたるここのテラスは、いつも盛況ね~。
平日なのに、ずいぶんと賑わっているわ~。

「よいしょ……」
日傘のある白いテーブルにたっぷりと時間をかけて、座る。
プリンを紙包みから取り出す。
向かい側に、私とお揃いのプリンがちょこんと置かれている。

「うふふ、美味しいですよね。ここのプリン」
返事は返ってこない。私の声はすぐに、喧騒に掻き消される。

……。

──は、萩原雪歩ですぅ! 11時になったので、穴掘ってうまってますぅ~。

あら……?
もうこんな時間なのね。少しだけ、お昼寝しちゃったみたい。
目の前には、スプーンが丁寧に乗っているプリンが2つ。

もう少しだけ、待ってみようかしら。

33: 2012/06/08(金) 23:46:40.30
──水瀬伊織ちゃんが、12時をお知らせしまぁす! にひひっ。

「……」
膝に強く握った手を置いて、その手と、にらめっこする。

そうしている間に、テラスの人は、くるくると入れ替わる。
お似合いのカップルが、猫のように笑いながら、急な坂道を駆けあがっていった。
うふふ、きっと、登りきる頃には息が上がってるわ。

きっと、あの男の子はちょっと意地を張って、
疲れてないよ、って言うわ。恋人の前だものね。

なんだか、あの子、ちょっと雰囲気が似てますよ?
ちょっと、エOチそうな……なんて言ったら怒られちゃうかしら、うふふ。

その時、不意に肩を叩かれた。

38: 2012/06/09(土) 00:03:43.46
「……!」

全身が、逆立った。
つま先から頭のてっぺんまで、ぞわっとした塊が駆けあがる。

「プロ……!」
「あ、あの、申し訳ございません。長時間のお席の占有は……」
知らない店員さんだった。初めて見る顔。
怪訝そうな顔つきで見つめてくる。
まるで、お化けか何かを見るみたいに。

……あら、今日は、いつもの店員さんじゃないのね。

「ご、ごめんなさい~」
立ち上がろうとすると、また、ぽんと肩を叩かれた。

「見ぃつけた」
背中越しから、12時の時報と同じ声がした。

ゆっくりと振り向くと……
あら~、大きなおデコね。
視線を、すとんと落とすと、
頬っぺたがリンゴのように染まった少女がいた。

「伊織ちゃん……」
「あんた、まだこんなことしてるのね……」

頬の赤さは、暑さのせいじゃなかった。

45: 2012/06/09(土) 00:25:20.50
雑踏が、水をうったように静まった気がした。
私たちの周りに、透明な膜が覆ってる、そんな感覚だった。

伊織ちゃんは、何を言うか迷ってるみたいだった。
口をぱくぱくと動かしている。

……私もおなじ。何を言えばいいのかわからない。

伊織ちゃんは、ぬるくなって、ドロドロになったプリンに視線を移す。
「……っ……!」
息を呑む声が、ハッキリと私の耳に届いた。
それから、伊織ちゃんは、きゅっと目を瞑って、歯を食いしばった。
「あんた、まだこんなこと……!」

体の奥深くで、棘がちくりと刺さった気がした。

「あの……混んでおりますので……」
見かねた店員さんが、低くこもった声でそう言った。
その声で、雑踏の中に引き戻される。

伊織ちゃんが、横目できっと睨んだ。店員さんがたじろぐ。
椅子に、乱暴にお尻を落として、伊織ちゃんは言った。

「……じゃあ、何か注文するわよ。何でもいいから持ってきなさい」
「……」
「あずさ、少し、話をしましょう。いいでしょ?」
「えぇ……」

51: 2012/06/09(土) 00:53:43.19
店員さんが、オレンジジュースを2つテーブルに置いた。
それまで、私と伊織ちゃんは一言も言葉を交わさず、ただ坂道を行き交う人を眺めていた。

「ねぇ」
厚い沈黙の殻を破ったのは伊織ちゃんだった。
そういえば、こういう時はいつも伊織ちゃんが先ね。
オレンジジュースを啜りながら、ぽつぽつと喋り出した。

「765プロの皆は、元気にしてる」
「えぇ、いつも見ているわ~」
「まだ事務所に顔は出せない?」
「……」
「そう、その顔じゃ無理そうね」
「……ごめんなさい」

それきり、また静かになる。
ジュースの氷が、崩れる音がひびく。
それをきっかけに、伊織ちゃんはお腹の底から言葉を吐き出す。

「……いつから?」
「えっ?」
「いつから、こんな事してるの?」
「退院して、しばらくしてからかしら」
「そう、あの時は大変だったわね」
「うぅん、ダメね~、私ったら……」

数か月前、アイドルを引退した。

57: 2012/06/09(土) 01:16:05.43
いいえ、引退という言葉はちょっと違うかもしれないわ。
形の上では、無期限休養。

記者会見も何もしてない。
週刊誌では、色々な憶測が飛び交っている。

出来るかぎり、笑みを崩さずに、口調を変えずに、言った。
「でも復帰は、無理よね」

伊織ちゃんは何も言わない。
ただ、ストローを噛みしめて、ひたすら何かに耐えている。

「ごめんなさい、今のは意地悪だったわね」
「席は、残ってる、わ」
「無理よ、ね?」

そう言って、右足の付け根の辺りを指差す。
「ダンスは……」
喉の奥が詰まった。
つかえを取るみたいに、小さく息を吸って、勢いをつけながら言った。
「ダンスは、一番苦手だったけれど、あの人が必氏になって教えてくれたものだったの」
「……」
「満員のドームで踊れるようになったのは、あの人のお陰ね~」
「……」
「でも……」

大きく息を吸って、言った。
「失ってしまったの」
そう、ダンスは、あの人が遺した証そのものだった。

69: 2012/06/09(土) 01:51:10.66
周りのお客さんたちは、楽しそうに談笑している。
大体の人は、坂道にまつわる噂を楽しそうに話している。

ある人は、共有の手帳に同じペンで予定を書かきこんで、
ある人は携帯電話で友人と来週の約束を交わす。

この坂道は、都内でも有名なスポットだった。
春は桜の並木がアスファルトに模様を作って、冬は雪で真っ白なウェディングロードが出来あがる。
そして……。
ここを登りきった先には、煌めく街の大パノラマが広がる。

それを目当てにやってきたお客さんで、テラスは連日、賑わっていた。
だから、ここには自然と笑顔が溢れる。みんなゴールの景色を、心待ちにしている。

その中で、私と伊織ちゃんの席だけ、明るい笑顔が抜け落ちていた。
店員さんが、怪しがるのもわかるわ。

……私は、もうこの坂道を一人では登りきれない。

目を伏せて、言った。
「アイドルは、楽しかったわ、とっても」
「……」
「でもダンスも踊れないアイドルなんて、ちょっと困りものよね」

伊織ちゃんは私の言葉に、ただただ耳を傾ける。
乱暴に氷をかき混ぜるストローが、くしゃくしゃに折れ曲がっていた。

74: 2012/06/09(土) 02:13:07.43
伊織ちゃんは、テーブルに肘をついて、頬に手を当てている。
丁度、横顔を向けている形ね。唇には、ストローを咥えている。

不機嫌そうな表情を変えずに、小さな声で言った。
「千早は、最近CDのレコーディングをはじめた」
「えっ……?」
「けれど、その前まで、ずっと上の空で、声がまるで出なかったのよ」
そのまま、無表情で続ける。

「真も今、ドラマで活躍してるのは、あのポスターを見れば分かるわね」
「……」
「だけど、キャンセルしたドラマのオファーは数十本はある」

唇だけで、無理やり笑顔をつくって、伊織ちゃんは言った。
「ま、私はそんな軟弱ものじゃないけどね」

よく見ると、伊織ちゃんの頬に、うっすらと影が入ってた。

「みんな、なんとか前に進めた」
そう呟いて……
伊織ちゃんは、正面に向き直って、私の瞳をまっすぐ見据えた。
そのルビーのような瞳に、吸い込まれそうになる。汚れのない瞳だった。

私の手を、強く握る。
ほんのりと熱がこもっていて、心地よい体温が、肌の下へそのまま伝わってくるようだった。

温かい。久々ね……。

それからハッキリと、大きな声で言った。
「あんたは、いつよ」

78: 2012/06/09(土) 02:33:40.02
そのまま、伊織ちゃんは眼を決して逸らさない。
震える唇が、ゆっくりと開く。
「別に、復帰しろとも、頑張れとも言わない」

握った手に、力がこもっていく。
「だけど、こんなこと毎日、毎日……同じこと繰り返してて……」
少しだけ、握られた手が、痛くなってきた。
なんだか伊織ちゃんから伝わるこの熱で、体が焼けてしまいそう。

視線が、真っ白なテーブルへと下がっていく。
「何になるのよ……」

……。

「留守番電話……」
「えっ……」
伊織ちゃんの俯いた顔が、持ちあがる。
目じりに涙がかすかに、溜まっていた。

伊織ちゃんの瞳を、見据える。
「留守番電話に、残っていたメッセージの1つ」
「……?」
「AM10:00に、ここで待ち合わせをしましょう」
「……」
「ただ、私は捜しているの。あの日を」

それから私は、奥底に溜まっていた言葉を紡いでいく。
自分でもビックリするくらい、迷いの無い声だった。

85: 2012/06/09(土) 03:02:31.47
そっと、数十メートル先を指さす。
つられて伊織ちゃんの視線がそっちへ向く。

「待ち合わせ場所は、あそこの電話ボックスなのは、わかったわ」
「えっ……?」
「それからプリンを買って、二人で、食べた気がするの」
「……気がする?」
「えぇ、さっきこめかみが痛くなったから」

伊織ちゃんは、眉を潜めて、私の顔をじっと見つめている。
普段の伊織ちゃんだったら、
何を言っているのか、さっぱり分からないわ!とでも言いそうなお顔ね。

「後は、まだ捜しているの。まだ、たったこれだけ」
「な、何を言ってるのか、さっぱりだわ……」

90: 2012/06/09(土) 03:10:30.94
「私は……ただ、知りたいだけなの」
「……?」
「どこに行って、何を食べたか」
「えっ……?」
「何を話して、どんな手の繋ぎ方をしたのか」
「……」
「そして最期に、あの人は何て言ったのか、どんな表情だったのか」
「……!」
「私は、最期に、あの人に、何を伝えられたのか」
「まさか……」

病院の真っ白い天井を見た時には、もう何もかもが終わっていた。
起きたら、全てを失っていた。

いくら"終わり"だけを、事細かに説明されても、
写真をいくら見せられても、
私にとっては、全て夢の中の出来事だった。

涙も、一滴も出なかった。

「何も思い出せないの」

パズルのピースのように、バラバラに砕け散った、あの日。
私は、ひたすら、この坂道で、破片をかき集めている。

91: 2012/06/09(土) 03:14:00.65
だから、1秒だけでもいい。
あなたを、たしかに、感じられたなら……。

きっと、私は、この坂道を登りきれる気がする。

95: 2012/06/09(土) 03:17:38.06
第1部 完!

一旦セーブしよ――――!!!

97: 2012/06/09(土) 03:18:40.53
セーブしたよー!!

引用元: あずさ「プロデューサーさん、さよならってどういう意味ですか…?」