153: 2009/02/02(月) 23:38:23 ID:???
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1
宿命、
僕が車内から見たもの
僕の乗った最新鋭のSSTは、第三新東京市を飛び立ち、暗く重い濃淡の雲をく
ぐり抜け、ドイツ連邦ベルリンシティに降り立った。
そこからも長旅が続く。ある程度速度が出る旅客STOL機に乗り換えて僕等が
向かうのは、ドイツ連邦共和国領南部にある小さな地方都市だ。そこには現在、
ネルフドイツ支部と、近郊には国連軍の駐屯地がある。僕等が目指すのはそのド
イツ支部だ。
STOLが着陸すると隣に座っていた綾波レイが席を立つ。僕は追い掛けるよう
に手荷物を持ち、席を立った。
154: 2009/02/02(月) 23:39:42 ID:???
僕が今回ドイツに来たのは仕事のためだった。定期的にネルフ(それが勤め先の
名前だ)の支部に技術方面の査察にいく決まりがある。今回は僕が運悪く出張す
ることになったのだ。
タラップの下にはバスとネルフの職員が待っていた。ジュラルミン打ちっぱなし
の銀白色の車体で、側面には黄色と赤のラインが地面と平行に走っていた。見た
ところバスはディーゼルエンジンの年代物のようだ。実物を見るのは初めてだ。
バスには既に運転手らしき人が僕等の荷物をひとつひとつ割れ物でも触るように
してバスへ積み込んでいた。そして宿命的に太ったネルフ職員が、バスの前部乗
車口の側に立って僕等を出迎えていた。それは本当に宿命的なものだった。世の
中には何人も避けがたい不可避の宿命がいくつかあるのだと、僕は信じるように
なっていた。例えば、氏がそれのさいたるものだと思う。僕は既に、それを経験
している。
空を見上げると、暗白色の雲がもったりと垂れ込めていて、北の方には高い煙突
がもうもうと白い煙を吐き出しているのが見えた。長く暗いドイツの冬だ。
タラップを降りると僕は出迎えのネルフ職員と握手を交し、5人の部下と一緒に
バスに乗り込んだ。太ったネルフ職員の掌は、緊張からか汗でびっしょりと湿っ
ていた。
155: 2009/02/02(月) 23:40:50 ID:???
僕が座席に座ると、隣には綾波が腰掛けた。決まりきったように彼女はハンドバ
ッグから本を取り出して、栞が挟まっていたところから再び読み始めた。バスの
中で読んで、気分が悪くならないのだろうか。
車内からは半分煉瓦造りの管制塔が見え、脇には長年付き添った夫婦のようにぴ
ったりと格納庫が建っていた。僕は胸ポケットから白地に赤いラインの煙草を取
り出して一本吸った。綾波に言われて一日の数量は決められているが、我慢でき
ないほどではない。肺に通して吐き出した煙は、バスの中をふわふわと漂って消
えた。
バスはゆっくり走り出した。管制塔をかすめ、フェンスの間に備え付けられたゲ
ートを通過する。バスの車窓から見えたのは、どこまでも続くじゃがいも畑だっ
た。じゃがいも畑は延々と続き、雪で多くの部分は埋もれていた。日本とはなに
もかもが違う光景だ。そしてこの典型的なドイツの光景を見ていると、あの少女
に関する記憶が熱を帯ながら僕に語り掛けて来ているように思えた。その欠片は
今でも、くっきりと濃い鉛筆の筆跡のように残っていた。僕は目を閉じて、八年
前にアスカが僕のそばから去っていった日のことを思い出してみた。
156: 2009/02/02(月) 23:41:49 ID:???
◆
アスカがいなくなったのは、八年前の八月、ある晴れた暑い日だった。僕はその
頃ある事情があってまともな学校に通える状態ではなく、代わりにネルフまで車
で通い、副司令を勤めていた冬月先生に勉強を教わっていた。冬月先生は母の恩
師で、前には大学の教授でもあったそうだから、そう言ったことには実にぴった
りの方だった。
アスカは既に大学を出ていたから、もちろん自宅で待機をしていた。その頃はア
スカと僕は恋人同士だと告白しあっていて、お互いに離れるなど考えることが出
来なかった。
いつもと変わらない一日。簡単な講義を受け、昼食を食堂で食べ、そしてまた講
義を受けて帰る。そんな一日だ。僕が帰ると家には明かりがついていなかった。
家の中を暗闇が支配していた。玄関でただいまと言ってみたが、返事はなかった。
もちろん僕は家中を探してみたが、アスカの姿は無かった。ミサトさんの姿もな
かった。
仕方ないのでとりあえず三人分の夕食を支度していると、電話が鳴った。僕はア
スカかと思い、急いで受話器を取った。
「アスカ?」と僕は言った。「シンちゃん。」と電話の相手は言った。それはア
スカではなく、ミサトさんだった。アスカはミサトさんのところにいるのだとそ
の時は思った。アスカは時々リツコさんの研究室やミサトさんのオフィスに出入
りしていたからだ。
157: 2009/02/02(月) 23:42:44 ID:???
「シンちゃん。私、謝らなければならない事があるの。」それはアスカの事だ。
そう僕は確信した。
「アスカのことなの。」
「アスカはどうしたんですか? 帰ってきてないんですよ。もう……。」僕は時
計を見た。「もう六時になるのに。こんなに遅いのは初めてですよ。ミサトさん、
知ってるんですか?」
ミサトさんは長い間黙っていた。ミサトさんが電話の向こうでアスカの頭を撫で
ているような気がした。
「アスカね、帰国したわ。ドイツに。今日昼十二時のハンブルク行きのSSTで。
もう向こうについてると思う。」
ミサトさんの言った言葉が僕には理解できなかった。いや、理解などしたくなか
った。アスカがなにも言わずに帰ってしまうなんて。
「なに言ってるんですか。アスカが帰るわけないですよ! 僕になんにも言わず
に、ドイツなんかに帰るわけが……。」
ない。そう、ない筈だ。でも、僕はドイツでのアスカの何を知っている? アス
カの家族すらしらない。写真すら見たことが無いじゃないか。
「帰ったんですか? アスカがドイツに、僕に何も言い残さず、勝手にドイツへ?」
受話器の向こうでミサトさんが首肯するのを感じた。
「ええ、止められなかったの。本当にごめんなさい……。」
158: 2009/02/02(月) 23:43:31 ID:???
◆
眼を開けると、そこには綾波と部下とバスの車窓があり、延々と続くじゃがいも
畑があった。煙草は座席に備え付けられている灰皿でくすぶっている。僕はそれ
をきちんと揉み消してから、新しい煙草に火をつけた。日本の空港で一本、そし
てさっきと今、今日はあと二本しか吸えない。
やれやれ、煙草はただじゃないのに。
支部に着いたとき、日は既に暮れていた。夕焼けが白雲の切れ間にから光を差し
込み、遠くに見える山々を紅に染め上げていた。
190: 2009/02/21(土) 01:04:34 ID:???
2
アスカが氏んだ日、
再会と広場の薄氷、
そして夜の酒場
アスカが氏んだことを僕が知ったのは、大学四年の夏だった。そのころはまだア
スカのことを忘れることが出来ずにいた。唐突に彼女が消えて平然といられる男
なんて、そうそういる訳もない。
今考えれば、それだけならまだ良かったかも知れない。
僕はその日、いつもと同じように大学から自宅へ帰った。
僕はそのころは既に独り暮らしをしていて、ミサトさんや綾波からは離れて暮ら
していた。もちろん父さんからもだ。
父さんとは高校卒業頃に和解をした。一晩中話し合い、思いを吐露して泣きもし
た。そうする価値は十分あったと僕は思う。それが原因で僕は独り暮らしを始め
ることになった。自立心を高めるためだ。それと毎日を忙しくして、アスカの不
在を考えないためだ。
191: 2009/02/21(土) 01:06:07 ID:???
家に帰ると玄関に見慣れない靴があるのを発見した。小さく白い低底のハイヒー
ルだ。それを見てアスカが初めてハイヒールを履いた時のことを思い出した。リ
ビングには明かりはついてはいなかったが、誰かがそこにいるということは気配
とハイヒール、そして薄い影でわかった。
それは綾波だった。
綾波は白いブラウスに紺のロングスカートを履いていた。恐らく父さんが買って
上げたのだろうと当たりをつけた。綾波は父さんと同居していて、度々僕も綾波
の衣料品買い出しに、父さんになかば無理矢理にかりだされた事がある。
「こんな急にどうしたの? 明かりぐらいつけててもいいのに。紅茶でも飲む?」
と僕は明かりをつけて言った。
「いらないわ。ありがとう。」綾波はそう言って静かに首を振った。
だが僕は無視して紅茶をカップに煎れてテーブルの上に置いた。綾波はそれを美
味しそうに飲んだ。
そして綾波はアスカが氏んだと僕に告げた。氏因は全身打撲、内蔵損傷による多
臓器不全。石畳の道を横切ろうとした時、トラックに跳ねられたということだっ
た。それらの 事 実 を、綾波は淡々と僕に話して聞かせ、静かに僕の肩を抱
いた。予想していたのよりもずっと、前に触れたときよりもずっと、綾波の体は
暖かかった。
192: 2009/02/21(土) 01:06:40 ID:???
僕はそれから三日大学を休み、そのあとはいつもと同じように講義に出席し、卒
業研究を仕上げた。そのきっかけになったのは父さんの言葉だった。僕は今でも
ありありとその言葉を思い出すことが出来る。「お前は私とは違う。お前にはお
前の強さがある。俺のようになるな。」僕はこの言葉を電話口で聞いて、涙を流
した。そして三日目にアスカとの思い出を全て処分した。マグも櫛も何もかも全
て。
僕は大学を卒業した。
大学を卒業した夜。僕は父さんから贈り物を貰った。ひとつの指環。シンプルな
シルバーの指環だ。それは父さんが唯一捨てる事の出来なかった遺品。エンゲー
ジリングだった。
それは今、僕の首に下がっている。僕はよっぽどの事が無い限り、それを肌身離
さず持っている。
193: 2009/02/21(土) 01:08:04 ID:???
◆
ネルフ支部は街の郊外にあった。敷地は暗い森で囲まれ、ヘリポートがあり、五
つのくらいの棟から建物は構成されていた。
僕達を迎えてくれたのは日向さんだった。日向さんはアスカと共に、ドイツ支部
に出向していた。
「みないうちに随分背が延びたもんだ。司令も背が高いから、きっと遺伝だろう
なぁ。僕はてっきりお母さん似だと思っていたんだけど。」
「僕もですよ。」と僕は笑った。
通された宿舎はネルフ支部司令室や研究機関がある本棟から渡り廊下で繋がって
おり、裏口からの出入りも出来るようだった。
僕は部屋に入って荷物を落ち着けると、街に出てみる事にした。時間はまだ4時
だし、ネルフ支部がある街なのだから危険はないだろう。慣れない街だが、エン
トランスのカウンターで街の地図でも貰えばいい。酒と煙草は僕の趣味と言って
もいいくらいだ。僕はネルフの制服から背広に着替えてピーコートを羽織り、部
屋を出た。
カウンターで訊くと、ネルフ支部から街の中心部へは徒歩5分らしく、結構詳し
い街の地図もくれた。郊外にあるネルフ支部から街の中心部へ向かう道中で、僕
は地図を広げて街の仕組みを観察してみた。
194: 2009/02/21(土) 01:09:04 ID:???
街の中心部には噴水広場があり、そこから放射状に道が伸びていたが、それも区
画整理でもしたのか外郭は雑然とした建物の並びをしていた。
街の中心部には噴水があった。噴水は石造りで重厚な造りであり、さらに水面の
面積も広く、豊かな水を湛えていた。僕がみる限り、これまで肉眼でみた噴水の
どれよりも立派だった。いったい誰が、いつ、なんの目的でこんな噴水を建てた
んだろう?
僕は雪がうっすらと積もった石造りの縁に腰を降ろしてみた。コートのおかげで
ズボンが濡れることはない。水面には薄氷が浮かんでいた。今夜には凍ってしま
うのだろうか。
ふと薄氷に触れてみた。それは簡単過ぎるほど簡単に4つくらいに割れてしまい、
水面の下に沈んでいってしまった。
僕は噴水の石縁から腰をあげて、ブラウン色のコートの襟を合わせながら石畳で
固められた噴水広場を抜けていった。
なにげなく足を踏み入れた小路は灰色の石畳と煉瓦造りの建物で囲まれていて、
唯一なにも遮る物がない空には、乳白色の雲がどんよりとたちこめていた。
195: 2009/02/21(土) 01:10:05 ID:???
ドイツビールの樽が何バレルもあって、メニューにはバイエルンソーセージやド
イツパンや軽食があって、割とメジャーなクラシックを粛粛と流していた。僕も
昔チェロをやっていたから、ある程度のクラシックは解る。これはドイツの伝統
的作曲家の楽曲だ。穏やかなバロック音楽達とヨーロッパの酒場……。
僕は、店内の真ん中にずっしりと居座ったUの字型のカウンターの一番端の席に
座り、メニューからドイツウィスキーと一番量の少ないソーセージをさっと選ん
で注文した。ドイツ語はあまり得意じゃないけれど、大学では第二外国語でドイ
ツ語を専攻していたから、ある程度はこなせる。
ウィスキーは中々上質な香りを放ち、ソーセージもぷりぷりと皮から弾け出さん
ばかりに若々しい張りを誇っていて、一口かじると濃厚な肉汁が口の中に迸った。
店の中では何人かのブロンドや金髪、黒髪の男女が酒を酌み交しており、カップ
ルを作っている者達もいれば一人で飲んでいる者もいた。みんな時折クスクスと
は笑うこともあるが、大声でがなる者や笑う者はなく、皆一様に落ち着いた雰囲
気で酒を飲んでいた。恐らくそういった店なのだろう。
アスカがその店に現れたのは、僕が三杯目のウィスキーを注文したときだった。
その女性は緑色のレンズのサングラスをかけ、赤いコートとベージュのセーター
を着込み、それの隙間からは黒いストッキングを履いた綺麗で長い足が覗いてい
た。彼女は肩に軽く積もった雪を払い、僕から五席くらい離れた席に座り、慣れ
た仕草と美しいと言えるドイツ語の発音でカクテルを注文した。そしてサングラ
スを外した。
僕はハッと息を飲んだ。
196: 2009/02/21(土) 01:10:54 ID:???
僕はハッと息を飲んだ。
それは確かにアスカだった。
僕は席を立ち、アスカの背後に回ったが、彼女はまだ僕には気付かないようだっ
た。
「あの……人違いだったらすいません、惣流アスカさんじゃありませんか?」
僕がドイツ語で呼び掛けると、アスカは振り向いて僕の顔を見た。大人らしい成
熟した雰囲気をかもしだしてはいたけれど、インテレクチュアルな額やブルーに
輝く宝石のような瞳は昔と変わってはいなかった。
◆
アスカは振り向くと信じられないものを見るような瞳で僕を見ていた。
「なんであんたがここにいるの?」
僕はその問いには答えなかった。アスカの前でネルフの話題を出すのは適切では
ないと思ったからだ。
「隣、良いかな?」
アスカは心底驚いたような顔をして僕の顔を見た。
「どうしているのよ。」
久々に受けるアスカの瞳は僕には些かきつい感じがした。
「ちょっと観光かな。」
「ウソ。」
「嘘じゃないよ。」
正解だ。僕は嘘を吐いている。
197: 2009/02/21(土) 01:11:37 ID:???
その時アスカの前に出されたのは真っ赤なカクテルだった。アスカはカウンター
の中のマスターに礼を言った。
「やっぱり。」と僕が言うと、アスカは驚いたような顔をして僕を見た。
「なにがやっぱりなのよ。」
「カクテルだよ。アスカって、ビールとかウィスキーよりもワインとかカクテル
を飲むイメージがあったから。」
アスカは黙ってしまった。昔は何があろうと喋りまくっていたのに。
「それよりも、聞きたいことがあるんじゃないの?」
アスカは真っ赤なカクテルを一口啜った。アスカの唇には赤い口紅が引いてあっ
た。カクテルのグラスにその口紅が、少し移る。
「……うん、あるよ。」と僕はこたえた。
「予想は出来ているけどさ。」とアスカは言った。「少し前までなら喋んなかっ
ただろうけどさ、今はもうどうでもいいから。」
僕にはそう言って艶かしく頬杖をついたアスカがひどく寂しそうに見えた。それ
は、何か心の真ん中から大切な何かがスポイルされてしまったような、そんな寂
しさだった。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。もう、心の整理は出来てるから。」
僕は、その時アスカの肩を抱いてあげるべきだったのかもしれない。だが僕はそ
れをできなかった。アスカの姿が、まるであの頃のように僕の事を拒絶している
ように見えたからだった。
「幽霊じゃないよね?」
198: 2009/02/21(土) 01:12:31 ID:???
しばらく経って僕はおどける様に言った。事実、僕は逃げたのかも知れない。
その言葉を聞いて、アスカは絡み合った糸がほどけるように笑った。
「誰が幽霊よ。足だってちゃんとあるわよ?」
そう言って彼女はポンポンと足を叩いた。
「そう……だよね。」
僕は苦笑いをし、ウィスキーを一口飲んだ。
僕はふと考えてみる。今ドイツには6000万の人々が住んでいる。その中で僕
とアスカが再びめぐりあった。この事になにか意味はあるのだろうか。
アスカは新しいカクテルを注文すると、僕にここへ帰ったあとの話をした。それ
は僕自身がアスカと向き合う――それは僕が一番苦手なものだった――手始めの
ようなものだった。
そしてアスカは口を開いた。まるで厳かな儀式のように。
199: 2009/02/21(土) 01:13:59 ID:???
◆
アスカはドイツに帰ったあと、卒業した大学に入り直し、今度は大学院にまで進
んで修士号を取得した。そして、21歳になって戻ってきたのは結局この街だっ
た。大学院はその時のアスカにとってひとつのクッションに過ぎなかったのだ。
アスカは元々この街に住んでおり、その頃はまだネルフドイツ支部はミュンヘン
にあった。
大学院を卒業して街に戻ったアスカは、お母さんが産まれた生家を探し当てた。
そして、日本にいたときにスイスの銀行に振り込まれていたネルフからの決して
多くはない報償金を遣っててその家を買い戻した。
買い戻した家に転居したあと、アスカは街の小さい雑貨店に職を見付けた。決し
てドイツの最高学府で号を取得した人間の就職する所ではなかったが、アスカに
は結局それが良かったのだろう、多分。
そしてアスカは何人かの男性と付き合った。その内の二人と関係も持ったが、決
して長続きはしなかった。それも2年前の話であり、今は誰とも付き合ってはい
ない。
それからは、アスカが送る日常は仕事先と自宅の往復だけになり、たまに――今
のように――酒場へ繰り出して2、3杯ひっかけるだけの生活になった。
食事は――驚くべきと言うべきだろう、やはり――自炊するようになった。しか
し、以前よりもずっと食が細くなり、朝はヨーグルトとフルーツシェーキだけだ
し、夕餉は酒と一緒にツマミをいくつか口にするだけだ。以前のようにハンバー
グなど脂っこい物も、好んでは食べなくなった。
210: 2009/02/24(火) 00:16:55 ID:???
食事は――驚くべきと言うべきだろう、やはり――自炊するようになった。しか
し、以前よりもずっと食が細くなり、朝はヨーグルトとフルーツシェーキだけだ
し、夕餉は酒と一緒にツマミをいくつか口にするだけだ。以前のようにハンバー
グなど脂っこい物も、好んでは食べなくなった。
しかしアスカの体は痩せたという印象を持たせない。どちらかと言うと、健康的
にスリムになった、という印象だ。
彼女は確実に――川が海に流れるように――成熟し、体を成長させ、長い思春期
を僕とさして変わらない時期に終え、ラヴェンダーの香水が似合うようになった。
「どう? いい女になったでしょう?」とアスカは楽しそうに言った。
◆
アスカはナッツを奥歯で砕いた。コリッという大きな音が鳴り、アスカはそれを
パリパリと咀嚼して、カクテルを一口喉に流し込んだ。
「ま、結局はそういうことよね。」とアスカは言った。僕は戸惑う。そしてブラ
ンディを一口飲んだが、味はよくわからなかった。
アスカは話の中で、帰った理由や氏を装った理由を避けて話していた。その理由
は、僕にはわからない。だが、アスカにはそれなりの理由があるのだろう。
211: 2009/02/24(火) 00:18:47 ID:???
◆
店の外ではもう白い妖精がはらりはらりと舞い降りてきていた。その白い妖精は
アスカの綺麗な髪に乗り、溶けることなくアスカの髪を慈愛に包みこんでいた。
これが工場から排出される有毒物質に汚染されていなければ、どんなにいいこと
だろう。しかしそれでも、僕は初めて目にする雪というものをを楽しみにしてい
た。記録映像やニュースなどでしか目にしないそれがどんなものなのか、期待に
満ちていた。しかし今改めて考えると、それほど素晴らしい物とは思えない。そ
れだけ、アスカとの再会が強烈だったのだ。
僕は体を寒さに震わせる。アスカが「またね。」と言った。僕は「うん。」と返
す。
アスカは、にっこりと笑いながら、路地の方へ歩いていく。角を曲がるところで
手を振ったので、僕も振り返し、大通の方へ歩いた。
第三章へ続く
166: 2009/04/06(月) 03:36:03 ID:???
3
クリスマスの夜
アスカの生家
アスカと再会した次の日、その日はたまたまクリスマスだった。僕は綾波とクリ
スマスの挨拶を交し、酒の代わりに昼休みにコーヒーとパイ菓子を部下達と口に
した。少し残ってしまったが、それは綾波が全部平らげるだろう。綾波は、意外
なことに、甘いものをよく食べる。
6時に仕事を終えると、一度部屋に戻ったあとに僕は綾波の部屋に向かった。ア
スカのことを相談するためだった。
「セカンドチルドレンに会った?」
振り向き様に、驚くように綾波は言った。アスカの呼び方は変わらないが、そこ
に親愛の情が篭っているのがわかる。僕にはわからない、女の子同士の繋がりが
あったんだろうと、度々思う。
「有り得ないわ。」
綾波はかぶりを振る。
「そう、かな……。」
「葛城一佐は言っていた……。」
ミサトさんは昇任して一佐になっていた。
「セカンドチルドレンは氏んだって。碇くんもよく知ってる筈よ。葛城一佐は、
決してそんな嘘を吐く人じゃない。」
「それは……分かるよ。綾波の時だって、ミサトさんは一生懸命になってくれて
いたし……。
でも、誤報だったって可能性もあるじゃないか。何かの理由でアスカが日本に帰
ってこれなかったって事も……。」
167: 2009/04/06(月) 03:37:53 ID:???
それは予想と言うより、僕個人の希望的観測だった。しかし僕は今、確信を持っ
て言える。アスカは生きていて、僕は彼女を求めている。
「マギが間違いを犯すとは思えない。」
それは僕にだって分かる。マギの正確さは、リツコさんから講習を受けたから、
多分日向さんや青葉さんくらいには理解しているつもりだ。
「じゃあ支部の誰かが偽装した可能性は? それだったら……。」
「それも有り得ないわ。」と綾波は僕の言葉を遮った。
「この支部には日向三佐がいたから、偽装なんて出来るはずがない。」と綾波は
言った。
「偽装など日向三佐が許すわけがない、見逃すわけがない。何よりそこまでする
必要性が無いわ。」
「でも……。」
綾波の言いたいことは十分分かった。
だけど実際に、僕にそうだと言っても僕は納得出来ない。
「僕は会って、話したんだよ。手も握って一緒に酒を呑んだんだ。」
「……“兄さん"。」
綾波は本気の時に言う呼び方で、僕を呼び、溜め息を吐いた。
「帰国したら、お医者に行った方がいいわ。」と綾波は頭を振りながら言った。
168: 2009/04/06(月) 03:38:49 ID:???
綾波と話したあと、僕は一旦部屋に戻り、ノートパソコンからメールをチェック
する。
すると、いくつかクリスマスメールを受信していた。ミサトさんやマヤさん、そ
して冬月副司令やリツコさんからだった。
僕はメールに一通り目を通し、それからみんなに返事を送信してから、コートを
羽織って宿舎を出た。
◆
僕が昨日と同じ酒場でウイスキーを飲んでいると、アスカが昨日と同じようにフ
ラリと店に入ってきて、僕の隣に座った。
外では厚く雪が積もり、ここにくる途中に通った広場の噴水も、固く氷を張って
水も止まっていた。
アスカはコートを脱ぎ、入り口で軽く雪を払ってから席に座った。
「メリークリスマス。」とアスカが言った。
「うん、メリークリスマス。」と僕も返す。
アスカは昨日と同じカクテルを一杯飲んだ。
「クリスマスの挨拶したの、ホント久し振りだわ。」とアスカは言った。
「僕もだよ。」
僕は軽い夕食に注文した仔牛のカツレツをフォークに刺して口に運んだ。
169: 2009/04/06(月) 03:39:38 ID:???
空には白い雲が立ち込めていたが、月明かりすらないこの暗黒の地上からはそこ
に雲があることさえ、見通すことはできなかった。
僕達はウィスキーやカクテルを何杯か酌み交して他愛もない話をした。
アスカの職場や友達の話や、ミサトさんやリツコさん達の話だ。
アスカはなんでもないような話を真剣に聞き、時折クスクスと笑った。
僕がこれまで見たことの無いような、上品な笑い方だった。
それから何杯か杯を重ねた後で少し気分が悪くなったので、アスカと店を出た。
「私の、家にくる?」と唐突にアスカが言った。
僕はアスカを見た。
酔っているからか、仄かに頬に赤みがさしていた。
「え?」
「だから、私の家に来て、休まない? 少し遠いけれど……。」
「いいの?」
「いいから、言ってるの。」
僕は頷いた。
170: 2009/04/06(月) 03:43:03 ID:???
◆
アスカ曰く、その家ほどひなびた生家はない、というそうだ。
その家は市街から少し郊外にあったが、決してそんなに遠くはなかった。
庭は広く、庭の真ん中には大きな広葉樹が立っていて、敷地の角には、木で作ら
れた納屋がぽつんと気の弱い番犬のように立っていた。
アスカの生家は二階建てだった。二階は精々二部屋分の広さしかなく、唯一の窓
にはクリーム色のカーテンが引かれていた。
リビングには煉瓦造りの花壇があり、アスカが新聞紙で火をおこすと、コークス
が勢い良く内部燃焼して部屋をほんのりと暖かくした。
アスカはこんな、素晴らしい家に生まれたのだ。
僕はリビングでまんじりとせず部屋の中を見ていた。
棚にはサルらしき縫いぐるみや、古い写真がいくつも並べられていた。
僕は何気無く、セカンドインパクト前に普及していたCDやレコードが並ぶ棚に近
付いた。
手にとって見てみると、プラスチックケースやジャッケットは勿論、CDにも長年
に渡って酷使された痕跡が刻まれていた。
随分聴き込んだのだろう。
そうしていると、セーターと長ズボンに着替えたアスカが、髪をポニーテイルに
まとめて戻ってきた。
手にはお盆を持ち、二つのカップと紅茶ポットが乗っていた。
「紅茶、飲むでしょ?」
そう言うと、アスカはポットを傾け、ティカップに紅茶を注いだ。
豊潤な薫りが立つ。
171: 2009/04/06(月) 03:44:10 ID:???
「上手だね。」と僕は誉めた。素直な感想からだった。
「あんたが煎れたほうが良い薫りよ。」とアスカは返した。僕は少し赤くなった。
照れたのは何年振りだろう。
紅茶は凄く豊かな薫りと微かな苦味があり、美味しかった。とてもあのアスカが
煎れたとは思えなかった。もちろん、そんなことは思っても言わない。
と、そこでアスカが怪訝そうにして僕の顔を覗き込んでいることに気付く。
僕は心底驚いて声を上げた。思わずティカップを落としかける。
「な、なにさッ!」と僕が声を上げると、アスカは心外だと言いたげに言った。
「なによ。あんたがボーッとしてるから、気になったんじゃない。それに、こん
な綺麗な女の子に対して悲鳴上げるなんてさ。」
そしてアスカは僕の首に手を回して肩を引き寄せる。
「ちょっと……。」
こんなに密着されると少し困る。なにしろ僕はそれほどスレちゃいないんだから。
「いーじゃない。」
ふふふッとアスカは暖かそうに笑った。そんなアスカを見て僕は、まあいいかな
と思う。
「ねえ、今日は泊まってくんでしょう?」
僕は腕時計を見る。九時三十分。もう宿舎が消灯している時間だ。
「それじゃあ、いいかな?」
「どうぞどうぞ。」とアスカは少しふざけたように言った。「ついでになにかつ
まむ? と言っても大したもんはないけど。」
「ん、じゃあ頼むよ。」
そして僕は紅茶を置き、アスカはキッチンへツマミを作りにいった。
そして僕とアスカは体を重ねた。
172: 2009/04/06(月) 03:45:00 ID:???
◆
僕は月明かりの中で眼を覚ました。体を起こすと裸だったことに気付く。
横を見ると、これも裸のアスカが安らかに眠っていた。
髪を撫でてみる。柔らかい。
部屋には、今僕らが寝ているベッドと辞書と洋書があるデスク、そして洋服箪笥
がある。そして監獄にあるような小さな窓は結露し、床はフサフサとしたカーペ
ットで覆われていた。壁の色は、小さなブルーの模様が入ったクリーム色の壁紙
で統一され、今の穏やかなアスカの雰囲気とマッチしていた。
僕は手探りでパンツを暗い中から探しだして足を通し、部屋を出た。
ベッドから抜け出す時に時計を見ると、四時だった。
リビングの大きな窓から外を見てみる。空は白み、庭は新雪で真っ白で、足跡が
少し凹んで雪が積もっていた。
ふと寒さを感じ、僕は昨日にアスカがしていたように、暖炉に火をくべた。ジワ
ジワとコークスはくすぶり、やがて真っ赤になって熱を発し、暖炉の煉瓦壁にオ
レンジ色の光が映る。
僕はなんとなしに棚に飾られた写真立てを手にとった。写真の中では金色の髪を
した女性が、小さな赤ん坊を抱いていた。その写真は、どうやらこの家の前で撮
影されたもののようで、大きな向日葵が写りこんでいた。
173: 2009/04/06(月) 03:45:50 ID:???
背後で物音がした。
振り向くと、部屋着を着直してカーディガンを羽織ったアスカが、リビングと寝
室の境に立っていた。
「それ、ママよ。私の。綺麗でしょ。」
そう言いながらアスカは乱れ髪をポニーテイルにまとめながら、キッチンの方へ
歩いていく。
「朝ご飯はお任せで良いわよね。」
僕は拍子抜けした。
アスカが軽く、お母さんの事を流すなんて。信じられないことだ。
僕はキッチンの入り口に立ちながら朝ご飯を作っているアスカの後ろ姿を眺めて
いた。彼女は無駄がなく効率的に体を動かし、短縮された料理行程をソツなくこ
なしていた。小回りの効く小さなナイフで食材を刻み、トーストをセッティング
し、スープを作った。少しでも手空きが出来ると、洗い物を片付けた。僕はそれ
を、信じられない心持ちで見ていた。
「手伝う?」と僕が声を掛けると、アスカは首だけ傾げてこちらを見た。
「いいわよ、もう何年もやってるし。速さじゃあんたには負けないわ。」
アスカが俎板と火元の間を行き来する短い間に、彼女のポニーテイルにまとめら
れた髪が揺れ、その名の通り、尻尾のようにみえた。アスカが羽織ったカーディ
ガンはベージュの毛糸編みで、胸元に猿のワッペンがあしらってあった。
背後から眺めるアスカの体は、数年前よりもふくよかで、大人びていた。そんな
ことは昨日の内に解っていた事なのに、改めて新鮮に感じる。
「ま、期待しないで待ってなさいよ。」
174: 2009/04/06(月) 03:46:34 ID:???
アスカの料理はあの頃からは想像がつかないほど立派なものだった。主食のパン
に、じゃが芋とベーコンの炒めもの――名前は解らない――、オニオン風味の具
だくさん野菜スープ――しかし、これの名も知らない――。料理が出来たのは五
時過ぎで、朝食を取るにしては少し早めだったけれど、この後ネルフ支部の宿舎
に戻らなければならないから、適当と言えば適当だ。
そして、アスカの料理はどれも丁度よい味付けだった。
「おいしいよ。僕が作るよりもずっと。」と僕は本当に正直な感想を述べた。
「ふん、そんなおだてたってなんも出ないわよ。」とアスカは言った。
食事を平らげ、アスカと並んで食器を洗ってから、僕はみだしなみを整え、スー
ツとコートを着てアスカの家を出た。歩いて街まで行き、そこからまた歩いて支
部に帰った。街まで20分、街から支部まで30分かかった。
宿舎の僕の部屋では、うんざりしたような様子の綾波が、苛立ちながら待ってい
た。
「またお酒?」
僕はこれまで何度も、お酒をかっくらった挙句に外泊していたから、綾波が怒る
ことは、当然といえば当然である。
「ごめんよ。」と僕は素直に謝った。こんなときは謝るのが一番だ。
「ごめんですむ話じゃ無いわ。」と綾波は呆れたように言った。
「……あなたは一応重要人物なのだから、気を付けてもらわないと困るわ。」
「うん、解ってるよ。」
「……これからは、気を付けてちょうだい。」
なんだかこうしていると、僕と綾波が夫婦になったような気がした。
184: 2009/04/27(月) 20:00:14 ID:???
4
焼く。
帰国の日時は明後日だった。
その日、僕は決意を固めた。
なんとしてもアスカを連れ帰りたい! 僕の心にあったのは、ただそれだけだっ
た。陰謀の可能性も、アスカが生きている理由も、なにもかもが意味を持たない。
ただ僕の前にはアスカしかいなかった。
アスカは頭がいい。あの紅い海から帰ったあと、ただでさえ聡明であるのに、気
遣いまでも覚えたのだから、なんの理由も無しに僕に嘘をつくなんてことは有り
得ないからだ。
僕はこれからアスカを説得しにゆくことについて、綾波にも相談していない。す
べての事実を知っている筈の日向さんにも、何も聞いていない。恐らく、日向さ
んが未だに何も――助言すらも――言ってこないのはそれなりの理由があるから
なのだろう。あるいは僕の事を試しているのかもしれなかった。
その日で、数日に渡った査察の全行程はほぼ終わっており、明日にベルリンの空
港を立つという当初からの予定はなんら問題なくこなせるだろう。
時間は無い。
185: 2009/04/27(月) 20:00:55 ID:???
◆
僕はその日――朝帰りした次の日――に、大詰めだった仕事を放り出して、支部
を昼間の内に抜け出し、アスカの勤め先へ向かった。
彼女との睦言の合間に出た住所を目指すと、確かにその店はあった。その雑貨店
はアパートメントのような建物の一階に陣取り、傍らには、そちらがメインであ
るかのように、ビルの上への階段が併設されていた。
僕は腕時計を見た。綾波が僕の誕生日にくれた、アナログ式の電波時計だ。それ
は、十四時四十分となっていた。
まだずいぶんと時間が余っていたので、僕は向かいの喫茶店でその店を観察する。
ちょうど道側の席が空いていて、大きなウィンドウ越しに、アスカの長い髪が見
通せた。
彼女は、客がいないときは本を読むか、ノートに何かを書き込んで勉強らしきも
のをしていた。
どうやら、その店はあまり繁盛しているとは言えないように見える。
時間が進むに連れ、僕は緊張した時の癖である、掌を握ったり広げたりする仕草
をしていた。
186: 2009/04/27(月) 20:01:36 ID:???
会ってどう話せばいいんだろうと僕は思った。
でもいまさら引き返す訳にはいかない。
僕は、初めてアスカと体を重ねたのだし、もう生きていると解った以上、離れる
わけには行かなかった。
アスカの側に居たいという感情だけが、僕をつき動かしていた。
――過去の僕ならば、とっくに諦めていただろう――
コーヒーを五杯飲み、アスカの仕事風景を見ている内に、あたりはすっかり夕暮
れの中にいた。
そのうち、雑貨店の中にひとりの初老の男性が入っていった。その男性は、アス
カと何事かを話したあと、店の扉に閉店の札を掛けた。
きっと雑貨店のオーナーかなにかなんだ、と僕は予想した。
アスカは店のエプロンを外し、店の奥に入っていった。
そしてしばらくすると、コートに身を包み、帰宅姿で奥から出てきた。
僕はそれを見て、カウンターでコーヒー三杯と昼食のピッツァの代金を払い、外
に出た。
雑貨店の前で待っていると、アスカが少し驚いた顔をして出てきた。
187: 2009/04/27(月) 20:03:56 ID:???
雑貨店の前で待っていると、アスカが少し驚いた顔をして出てきた。
「何してるのよ。」とアスカは言った。
「アスカを、待ってたんだよ。」と僕は答えた。
「ふぅん……。」
「ちょっと話があるんだ。」
「まあいいわ。じゃあ店にする? それとも私の家?」
納得していないようではあったが、アスカはそう僕に訊いた。
僕は少し考えたあと、言った。
「アスカの家でいいかな?」
「ふぅん……ま、それがいいわね。」とアスカは言って、雪の道を歩き出した。
188: 2009/04/27(月) 20:04:50 ID:???
◆
僕をリビングに通らせたアスカは、紅茶を煎れて出してくれた。
僕は手を付けなかった。
「で? 話ってなに?」とアスカは言った。
「うん……。」と僕は頷く。「これからの事なんだ。」
アスカはおしだまり、紅茶のカップをテーブルに置いた。
「なんでアスカがあんなことまでして、僕と離れたのか、氏んだと嘘を吐いたの
か……。」
「吐きたくて吐いたワケじゃないわ。」とアスカは反論した。
「本当に悪いけど……どうしようもなかったのよ。」
「じゃあ、なんなのさ。」
「今から話すわ。」
そしてアスカは話し始めた。
「初めはあんたを脅かすつもりだった。」
「『つもりだった』?」
「そう、つもりだったのよ。」
アスカは続けた。
189: 2009/04/27(月) 20:05:59 ID:???
アスカは続けた。
「ちょっとした冗談だった。ドイツから、後でシンジに手紙でも出すつもりだっ
た。『私は今ドイツに居るのよ? 驚いた?』ってね。でも出せなかった。この
家を見付けたからよ。私は、ママが生まれ育ったこの家を見付けたの。私が帰国
したのは、元々は冗談プラス、ドイツに残してきた諸々のがらくたを片付けるの
が目的だった。だから日向二尉――今は三佐だっけ?」
僕は頷いた。
「そう、日向三佐にも来てもらったのよ。こんなに長い間、引き留めるつもりは
なかったケド。」
申し訳なさそうに、アスカは目を伏せた。
「それで、アスカはこの家にとどまった。」
「そう。」
アスカは頷いた。
「でも……解らないよ……。なんで氏んだなんて言ったんだよ。僕はドイツだっ
てなんだって、君のところに行くのに……。」
「それよ。」と短く言うアスカ。
「あんたは私のとこに来るでしょうね。でもそれは出来なかった。私は、あんた
に来て欲しくなかった。何故だかわかる? それは、シンジが来たら、私の中の
ママの居場所が無くなっちゃうと思ったからよ。ねぇ? シンジの事は、一番好
きよ。でも、ママは違う。特別だったのよ。だから、私は氏んだ事にした。あん
たが、日本から離れる事が出来るようになっても、ここに来ないように。シンジ
と会ったら、ママがどうでも良くなって、心地よさに飲み込まれて、日本に行っ
てしまう。あんたはドイツ語出来なかったし、日本にはあんたの『家族』がいた
から……。出来る訳ないじゃない。でしょ?」
190: 2009/04/27(月) 20:09:31 ID:???
僕は頷くしかなかった。だって、それ以外になにが出来ると言うんだろう。綾波、
父さん、ミサトさん……。
僕も、母さんがいない。アスカもお母さんがいない。だから、気持を分かち合え
るのだ。
もし母さんの生きていた証が見付かって、もしそれが動かせないものなら、僕は
そこに行くだろう。価値を無くされたり、それ以上に価値があるものがあったら、
それを僕も退けただろう。そしてアスカが『家族』を持っていたら……。
アスカにはそうすべき理由があったのだ。
「でも……。」とアスカは言った。「もう会っちゃった。……どうすりゃいいっ
てのよ。私はさ……。」
「僕は……。」
僕はその為に、ここに来たんだ。
「僕はアスカと暮らしたい。例えアスカのお母さんのいた証があっても、僕は一
緒にいたい。氏ぬまで、ずっとだ。」
僕は謝らなかった。アスカは穏やかに笑う。
「ありがと……。」
201: 2009/05/27(水) 17:05:35 ID:???
◆
アスカは庭の納屋に案内してくれた。
「ここがママの遊び場だったのよ。」
アスカは、手にもっていた小さな鍵で南京錠を開錠した。
床に板が張られた納屋の中には、背表紙が変色した古い専門書や勉強机などの家
具、服やスカート、玩具などが雑多に散らかっていた。だが棚、服、全てにいた
るまで、埃ひとつ落ちていなかった。
「これは、みんなママの物みたい。」
アスカは、勉強机の上に乗っていた熊のぬいぐるみを手に取り、愛しそうに撫で
た。
「この家を見付けた時、住んでたのはママの従姉妹だったの。でも、どうしても
この家が欲しかった私は、相場以上のお金を出して買い取ろうとした。けど、そ
の従姉妹の人はタダ同然で譲ってくれた。『キョウコは本当に幸せよ?』と言っ
てね。ホントにいい人だったわよ、その人は。」
そう言って、アスカは一枚の写真を見せてくれた。ブラウン色の髪をした妙齢の
女性が写っていた。
202: 2009/05/27(水) 17:06:21 ID:???
そう言って、アスカは一枚の写真を見せてくれた。ブラウン色の髪をした妙齢の
女性が写っていた。
「その上、この納屋やママの写真までとっておいてくれたのよ。信じられる?
このちっぽけな納屋をよ?」
僕は頭を振った。
「信じられない。10年以上前だし。」
アスカは頷き、写真を僕から受けとると、元の立掛けてあった棚に戻した。
そして、アスカは一転して真剣な眼差しに変わり、言った。
「あんたは“アタシ”を連れて帰りたいのね?」
「僕はここだっていいよ。」
「連れて帰りたいのね?」
僕は頷いた。
「アスカと一緒に居たい。例えどんな試練があっても。」
アスカは口許を緩めた。
「ねぇシンジ? ここにはね、ママが居るの。」
そう言ってアスカは納屋の柱を撫でた。そこには西暦の下二桁と、横線が何本も
入っていた。
「ここにも。」
アスカは洋服を手にとる。
203: 2009/05/27(水) 17:08:26 ID:???
「ここにも。」
アスカは机の棚に飾ってある、弐号機の雛形を見る。
「ここにも。」
アスカは机に積まれたノートを繰った。
「この納屋にはママが詰まってるのよ。」
そう言って、アスカは僕の30センチ先まで歩み寄り、僕の瞳を真っ直ぐと見た。
アスカより、僕の方が背が高いから見下ろす形になったけれど、僕は真摯にアス
カのブルーの瞳を見つめかえした。
「でも、もう意味無い。」
204: 2009/05/27(水) 17:09:43 ID:???
◆
「黙って見ててね。」
そう言って母屋の方へ行ったアスカは、僕のライターと新聞紙とガソリンのポリ
タンクを手に戻ってきた。
「な、何をしようっていうのさ?」
「まあ見てなさいって。」と得意気に言うと、アスカはポリタンクを持ち上げ、ガソリンを納屋に振り撒い
た。そしてライターで新聞紙に火を付け、ガソリンで濡れた納屋に火を放った。
「アスカ……。」と僕がようやく声を上げた時には、ガソリンで濡れた場所から
炎が勢い良く燃え広がり、そしてゆっくりと納屋を焼いていった。やがて納屋は
すっかりと炎に包まれ、周りの地面に積もった雪は丸く溶けて土の地面を晒した。
煙火が月明かりに照らされ、目を凝らすと青みがかった暗夜の空に一筋の煙が立
ち上るのが見えた。それは天空へ昇るにつれて少しずつ見えなくなっていった。
「そんな……。」と僕は言った。「焼いて、いいの?」
僕は火炎の中に消えた納屋の前で立ち尽くすアスカに訊いた。アスカは頷き、目
元を拭った。
「もう意味無いもん……。」
僕は彼女の肩に、まったく力を入れずに手を置いた。その肩は、徐々に小刻に揺
れはじめた。
205: 2009/05/27(水) 17:11:41 ID:???
「ごめんね……。」
それがきっかけだった。アスカは振り向き、炎の赤い光に金色の髪を映しながら、
僕の胸にしがみついた。そして何度も何度も声を上げて謝った。
僕が、気にすることはないよ、と言ってもアスカはやめる事が出来なかった。ま
るで泣くことをやめることを忘れたようになきじゃくり、謝る事をやめることを
忘れたように謝り続けた。
何度もアスカは母を呼び、僕の名を叫んだ。その声は天空に立ち上るその煙のよ
うに漆黒の暗闇に吸い込まれていった。
僕は彼女の髪を撫で、幼いころに忘れた涙をようやく思い出し、過去を捨てたこ
とを讃えるように――好きだ、好きだ、好きだ――と言い続けた。
「辛かったんだよね……。」
僕は責めない。
僕は君だから。
君は僕だから。
「約束するよ……。」
その自信の欠けた言葉に、アスカは期待と不安が満ちた眼差しを僕に投げ掛けた。
「何年か……何十年か……。それは解らないけど……約束は出来ないけど……。
僕はきっと君に想い出をあげる。君のお母さんが君に遺した想い出よりも暖かい
想い出を……僕は努力して、頑張って……。これまでこんなに頑張った事が無い
くらい……。だけど、きっと君にあげる。」
206: 2009/05/27(水) 17:14:16 ID:???
しかし、僕の告白に、アスカは、頭を振った。
「……なんで……。」
アスカは真摯で真っ直ぐで、一点の曇りもない眼差しで僕を見た。蒼い瞳の中に
僕がいた。
「私だけじゃ物足りないわ……。」とアスカは言った。「シンジも一緒。」
「……僕、も?」
「そう……。私だけじゃ駄目よ。シンジも、想い出を作って……。シンジのお母
さんにも負けない想い出を、私もあんたにあげるから……。」
僕は顔を赤くした。顔が上気した。こんな気分になったのは久し振りだ。
「二人で作っていくの……?」
「……そうよ。」
207: 2009/05/27(水) 17:16:23 ID:???
◆
僕たちは、夜の闇が白むまで体を寄せあっていた。
「綾波に言わないといけないね。」と僕は言った。「父さんや、ミサトさんや、
みんなにも……。」
「うん。」
僕は納屋を見た。納屋は黒い炭となり所々焼け落ちた柱を露にしていた。立ち上
った煙は白いものに変わり、青みが強くなった空に映えていた。
真っ白な雪の上を、僕たちは肩を寄せあって歩いていった。
終
208: 2009/05/27(水) 17:24:57 ID:???
与太話オワタ('A`)
なんか他に書きたいやw
つか、書きながら「母親の思い出」って何だよって思った
苦しい思い出云々って感じにすりゃよかったかな……orz
なんか他に書きたいやw
つか、書きながら「母親の思い出」って何だよって思った
苦しい思い出云々って感じにすりゃよかったかな……orz
209: 2009/05/27(水) 18:04:36 ID:???
いやGJです!シンジに泣きつくアスカが切ない…
今度はシンジ誕生日なんか期待してますw
今度はシンジ誕生日なんか期待してますw
引用元: 落ち着いてLAS小説を投下するスレ 15
コメント
コメント一覧 (1)
esusokuhou
がしました
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります