353: 2009/07/25(土) 16:10:36 ID:???
天狗道。地元でそう呼ばれる山道を登ること、およそニ、三十分といったところだろうか。
滴る汗や、飛び交う羽虫、けたたましい蝉の鳴き声に私は気が変になりそうだった。

事の発端は、休暇で訪れた旅館での私の発見。
ミサトが夕食も待たずに酔い潰れ、
シンジはイヤホンで両の耳を塞ぎ、座布団を枕に横になっていた。
そんな部屋の中にあって、私は退屈で仕方がなかった。
ふと、この土地の評判を思い出した私はベランダへと向かった。
ベランダに出ようとガラス戸を開くと、真夏の外気が私の体を室内へ押し戻そうとしたが、
絶景と評されるこの土地の景色を望見しようという私の意思がそれを打ち破った。
ベランダの縁に手をかける。辺りが一望出来た。
陽が傾き始め、にわかに赤味を帯びた景色は私を圧倒するのに充分な美しさだった。
この国に育ったわけではない私だったが、ノスタルジーを感じずにはいられなかった。
目の前に広がる絶景を前に、この時ばかりは日々の疲れとかそういったものも消し飛んだ。
遠方に連なる山々。手前に目をやれば理路整然とした田畑が一面に広がる。
旅館のすぐ近くを流れる川は舗装されておらず、父子が釣りを楽しんでいた。
こうした風景に感動を覚える自分に少し驚きもし、また同時に何故か安心もしていた。

辺りを見渡すうちに、蝉の鳴き声が一段とうるさい、他に比べればちっぽけな山が目に入った。
それは旅館からすぐの所にあって、山というより小山と言った方が適切に思えた。
私は夕陽に照らされるその小山の中程に、何か異質な物を見た。
目を凝らすとそれが人工物であり、所謂神社であろう事がわかった。
緑一色の中にそびえるそれは、この時の私にはひどく神秘的に見えた。
行ってみたい。幸い山はちっぽけに見えた。何より、私は退屈だった。
私は部屋に戻ってシンジを叩き起こし、ミサトに出掛ける旨を伝えた。
ミサトは唸り声のような音だけを返した。私はそれを返事と取った。
私達は部屋を飛び出した。
その後山の麓に着いて、偶然出会ったおばあさんに神社までの経路を聞き、そして今に至る。

354: 2009/07/25(土) 16:12:35 ID:???
最初の十分こそ自然を満喫するだとか、そんな気分でいた私だったが、
今となってはその自然が鬱陶しくてたまらなかった。
「アスカ。もう下りようよ」
後ろでへばりながらもついて来ていたシンジが言った。
もっとも、これでもう四回目にもなるが。
「うるさいわね。ここまで来たら最後まで行くわよ」
私は意地になっていた。後ろでシンジの三度目の溜め息を聞いた。
辺りは陽も落ちかけ、少しずつ夜の空気へと移り変わっていた。

それから少し道なりに進むと、地面剥き出しの山道は石段へと変わり、
程なくして私達は目的地へと辿り着いた。
小さな鳥居があり、古びた賽銭箱があり、そしてちっちゃな社がある。
ちっぽけな山の、ちっぽけな神社だった。
旅館のベランダから眺めた私はよくここが神社だとわかったものだ、と不思議に思った。
それ程にちっぽけなものだった。
私達は社の周りを回り、いつ書かれたかもわからない絵馬を見て、それから境内を見渡して、
それでも神秘的なものなんて何もない事に落胆し、石段に腰を降ろした。
ひんやりとした石の感触は心地よかった。
木々の間から射す陽は濃い橙色となって、今が黄昏時である事を知らせた。
「なんにもないじゃない。つまんないわね」
「アスカが来ようって言ったんじゃないか」
「うっさいわね。男のくせに」
反論を飲み込む音だけ残してシンジは黙り込んだ。
蝉は幾分静まり、暑さも和らいで過ごしやすくなってきた。
私達は並んで座り、手に寄り付いてきた蟻を払ったり、
手元にあった小石を石段の下に向かって投げたりなんかして過ごした。

「アスカ。見てよ」
登山からの体の火照りも冷めたところでシンジが言った。
「なによ」
そう言ってシンジが指差す先を見ると、
数匹の猫が社の屋根の上に集まっているのが目に入った。

355: 2009/07/25(土) 16:15:59 ID:???
よく見ると親子のようで、母猫と思しき猫は私達を警戒しているようだった。
私達は寸刻、その猫と見つめ合った。
気付けば黄昏時もとうに過ぎていよいよ夜が迫っていた。
「……帰ろっか」
折れた様にシンジが言った。
「そうね」
私達は疲れから重くなった足を上げて石段を下り始めた。

帰りの道は暗かったが、澄んだ空気は涼しく、
蝉の鳴き声はいつしか心地好い程度になっていた。
月明かりが木々の間から漏れ射し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「いたっ!」
突然、斜面を滑る音と共に、私の後ろを歩いていたシンジが尻もちをついた。
「何してんのよ!鈍臭いわね」
「ご、ごめん」
私が咎めるとシンジはすぐに立ち上がり、ズボンの砂を払った。
それから手首を数回振る仕草を見せると、私に先を促した。
私達は再び山道を下り始める。全行程の三分の二程は既に下っただろう。

それからは黙々と道なりに下り、あっという間に旅館の前まで辿り着いた。
シンジは疲労困憊といった様子で私の後に付いて来ていた。
旅館を前にして短い橋に差し掛かる。下を流れる川に夕方見た父子の姿は無かった。
この橋を渡り切ればすぐに旅館の玄関口だったが、私はその前に足を止めた。
「悪かったわね」
「え?」
私の言葉でシンジも足を止めた。
「手首。痛いんでしょ?連れ出して悪かったわね」
「あ、いや、平気だよ」
文句の一つでも言われた方が楽なのだろうか。だが、こいつは言わない。

356: 2009/07/25(土) 16:18:41 ID:???
「嫌な事は嫌って言ったら?」  「嫌じゃないよ。楽しかったよ」
「本気で言ってんの?」  「うん」
特に何をしたわけでもなく、壮麗な名所へ行ったわけでもなく、
ただ汗を流して名も無い山を登って、ちっぽけな神社を見て、
そして下る時には怪我までして、それでも楽しかったとコイツは言った。
「アンタ、ほんとバカね」
私はシンジの返事も待たずにさっさと玄関口をくぐり、ミサトの待つ部屋へと向かった。
アイツが腹立たしいやら、よくわからなくて、とにかく一緒には居られなかった。

その後部屋に戻ると、すっかり酔いも覚めて、
私の言った事もすっかり忘れたミサトが居た。
シンジも揃ったところで説教が始まる。
自分はビールを飲んで眠りこけていたにもかかわらず、だ。
私は反論する元気も無かったので、黙してミサトの言葉を右から左へ流した。
説教が終わると私は浴場へ向かい、それから遅目の夕食をシンジと摂った。
私はひどく疲れていて、布団に入るとすぐに眠りに落ちた様に思う。

翌日、帰り支度も済んだ私とシンジはフロントでミサトを待っていた。
あの山からは蝉の鳴き声がやかましく響いていた。
釣りをしていた父子は母親を加えて今日はどこかに出掛けるらしかった。
虫採り籠を携え、家族は旅館を後にした。
「散々だったわね」
私はシンジの右手首に貼られた湿布を一瞥して言う。
「そうかな?」
「そうよ」

しばらくして化粧を済ませたミサトが現れた。
チェックアウトをミサトに任せる間、私は玄関口からすぐの短い橋へと出ていた。
雲一つない空から注ぐ陽光は肌に刺す程に感じられ、
風はなく、川のせせらぎとあの小山からの喧騒だけが耳に残った。
休暇としてはそんなに悪くなかったのかもしれない。そんな風に感じられた。

357: 2009/07/25(土) 16:19:58 ID:???
おわり

359: 2009/07/25(土) 18:50:07 ID:???
GJ!
なんかこういうのもいいね

引用元: 落ち着いてLAS小説を投下するスレ 15