450: 2009/08/28(金) 17:21:06 ID:???
少し肌寒くなったこの国の片隅で、私は黒い猫に出会った。

『ロビンソン』


今にも折れそうな電柱の直下に、『可愛がってください』などとステレオタイプにも程がある書き込みがなされた段ボール。買い物帰りに、いつもと違う道で帰ろうと思ったのが運の尽き。
見つけてしまったものは仕方ないので何の気無しにその中を覗いてみると、黒毛の子猫がたった一匹で敷かれた毛布で一心不乱に爪を研いでいた。私が覗き込んでいることなど露知らず、カサカサと音のなる段ボール。

可愛がってください。なんて理不尽な言葉だろう。不条理にも程がある。
捨てたくせにまだ飼い主気分で、己の行為の罪悪感を紛らわせるための自己保身。欺瞞だ。
そんな畜生にはヘドが出る。頃してやりたいと思う。
だからといってこの猫に同情などしない。運が悪かったのだ。
そんな飼い主の元に生まれた事、無責任な交配で授かった命。呪うなら、こんな風に設計した神を恨めばいい。
ほら、こうやって近づいた私に目もくれない所を見ると、この猫もそれを心得ているようだ。仮に拾ってやったとしても、私の住む部屋は手狭だ。この猫の居場所は、無い。
腰を屈めて少しのあいだ猫の様子を見ていたが、いつまでも同じ光景なので立ち去ることにした。
魚肉ソーセージ一本分、軽くなった袋を持って。

『あれから一年』
私とシンジは二駅分離れたマンションに別々に住んだ。
ネルフの所有物件だったマンションを見つけて、誰もいない部屋を拝借して住み着いた。
打ちっぱなしのコンクリートの壁。少し立てた音が異様に響く部屋。孤独が強調される、部屋。
私は他人と距離を取りたかった。…いや、シンジと距離を取りたかった。
もう、彼と冷静に接することなど出来ない。以前のようには戻れない。そう考えると、ツギハギされた心が痛んで仕方なかった。
手に入らない物は無い、努力でそれを実現させる。そんな風に教えられてきたし、自分に言い聞かせてきた。
でも、本当に欲しかったモノが手に入らなくて、それを自分の傍に置いておくなんてこと、今の私には純然たる苦痛でしかない。

451: 2009/08/28(金) 17:22:36 ID:???
だけどこのていたらく。もっと遠くへ行こうと思えば行けたのに。
たった二駅分しか離れられない自分の弱さに、殺意にも似た怒りが沸く。
たまにシンジがここを尋ねてくる。ドアの向こうから「ご飯、食べてる?」とか「顔見せてよ」とか言いに。
その都度、居留守を決め込んだり、「うるさい帰れ」と罵ったりする。
そうやって扉越しにシンジの存在感が失せる度、流れてくる涙は押さえようが無かった。
アスカ。お前はこんなに脆かっただろうか?

表面上は日常を取り戻したこの街は今、喧騒の真っ只中。
大学出の私に義務教育など必要無いが現役中学生のシンジはそうもいかず、形ばかりの建設された校舎へと足を運ぶ必要がある。
そして毎日私の携帯のメールボックスには、『体育のプールはもう寒いよ』『トウジが登校できるようになった』『委員長が生徒会長になった』『綾波の席には誰もすわってない』なんて報告が来る。
たまに送られて来る写真付きのメール。そこには同級生達と仲良く肩を組んだり、居眠りしたシンジの場面。
何事も無かったように、今までの事なんか忘れてしまったかのようにその写真には『日常』が綴じ込められていた。
元々、便宜上学生という身分でいたほうが都合が良いという理由で来日時から日本での通学は自由にしてよかった。ただそれだけ。今更、あの学校なんかに通う理由なんて無い。
だからこの部屋から出るのは買い物と定期検診の時だけだ。
いわゆるヒキコモリという奴かもしれない。必要なとき以外他人とのコミュニケーションはしない。閉じた世界。いままでと一緒。
白昼から布団に入っているのが私の日常。

『じゃ、その時間にきて頂戴。』
「わかった。…ところでリツコ」
『なに?』
「猫を飼うのって…大変かな」
『どうしたの、薮から棒に』
「聞いてみただけよ」
『そうね、飼うだけなら餌を与えて後は放任しても構わないわ。猫ってそういうものだから』
「含みのある言い方ね」

452: 2009/08/28(金) 17:23:44 ID:???
『でも懐いてくれたり、猫から擦り寄ってくれることはないわ。だってただ餌をくれる人として認識しているだけだから』
「冷めてんのね」
『犬とか鳥みたいな愛玩動物と猫の違いって分かる?』
「さぁ」
『動物は本来主従関係を重んじる生き物だけど、猫は少し違うの。自分より上の地位に他人をおくことはない。その代わり、横の関係を意識する動物なのよ』
「…つまり?」
『犬が人間を飼い主、と思うなら猫は同居人ってとこかしら。だから仲良くしたいなら、和を持って尊べ、といった所ね』

次の定期検診の段取りを決める会話で、何となく話を横に反らしてしまった。なんだかんだ言って、あの時の猫が気になっていたのだ。
話も落ち着きそれじゃ、と通話を切る。携帯の画面にはあの頃とった集合写真が待受にある。
時刻を見ると夕刻を指していた。
そろそろ夕食でも作ろうかと冷蔵庫を開けると、中身は卵が数パックとチルド冷凍した食パンが数斤。
昼はこれでトーストにスクランブルエッグを乗せた物だけで済んだが、朝ご飯抜きの最近の習慣から思いの外腹が減っている。まともな物が少しでも食べたい。最悪、外食でもいいだろう。幸い食うに困るほど金銭に余裕が無いわけではない。
しかし、億劫なのは外に出ることだ。デリバリーを頼もうにも番号を知らない。
などと考えている時間が勿体ないので、くたびれた薄手のカーディガンを羽織ってロクな準備もせずに、財布だけもって部屋の外へ出た。


気の抜けた炭酸水のような肌触りの空気。昔と似て非なる、時間の早まった夕暮れ時の空。あと一時間もすればオレンジの空は漆黒になるだろう。
マンションのエレベータは動いていないので、螺旋状の階段をパタパタと駆け足気味に下りる。
ここで、携帯を部屋に置き忘れたのを思い出したが、下り切った階段をまた上がるのは面倒だ。別にいいだろう。あって困る連絡などないのだから。

453: 2009/08/28(金) 17:24:29 ID:???
少し歩いて考えた。買い物をするならここから五分ほど歩けばこぢんまりとした商店街がある。しかし外食をするとなると、電車に乗って更に十五分程行かなければならない。
即決だ。面倒臭い。買い物にしよう。なにより、シンジのいる場所へ近づくのが…怖い。
そして駅とは反対方向の道へと繰り出した。

住んでいるアパートは郊外なので、歩くにつれて点灯した街灯の数が増えていく。
一人で歩いて持って帰れる荷物の量はたかが知れている。だから三日に一回はこの道を行き来しているのだ。レトルトとかカップラーメンの類を買い込めば日にちも持つし歩く頻度も減ると思うのだが、何故かそうする気にはなれなかった。
プライド?信念?…違う。たぶんアイツの味を、心のどこかで再現しようとしているのかもしれない。
こんな怠惰な生活を送っていても作る料理はしっかりしているつもりだし、むしろ上達したといっても過言ではない。でも、それを誰かに食べてもらったり、食べてほしいとも思わない。
料理は愛情というけれど私の愛情は行く場をなくしていて、いうなれば自分を慰める手段なのだ。

「…惣流、やないか?」
こんな所で出くわしてしまった。
「…そうよ。久しぶりね」
久しぶりに見た鈴原の姿は軽く驚嘆に値するもので、いつものジャージではなく黒い学生服姿という出で立ち。
「久しぶりって…お前なにしとんねん」
「何って買い物よ。見りゃ分かるでしょ」
「そうやのうて、なんで学校来ぇへんのや。みんな…いや、シンジが心配しとるで」
三馬鹿トリオ筆頭バカ頭にまで気を使われている始末。ほんと、変わったんだと実感する。自分はどこにも進めず、進まず。
ははん、と出来るだけ彼の中に残る『私』を見繕って応答する。
「気にしないでって言っておいて。まあまあ元気でやってるわ」
「そうか…」
そう呟くと、どんな言葉をかけていいかお互い分からなくなった。
もう何も話すことはない、と彼の横を通り過ぎようとする。
「ちょっと待てや」
立ち去ろうとする私の肩を鈴原の手が引く。
「離してっ!」
振り払って、私は脱兎の如く彼の方を見ずに走り出した。
何故こんなにも後ろめたい気持ちなんだろう。感情なんて、とっくに表に出すことは無かったのに。


「泣いとるぐらいなら戻ってこいや、惣流。シンジが…」

473: 2009/08/30(日) 05:09:11 ID:???
>>453
商店街といっても二十メートル程の通りに小さなスーパーとか喫茶店ぐらいしかない。一人で暮らすには十分だけれど家族とか、子供がいるような家庭の人は小さく感じるだろう。
行き慣れた道。行きつけのスーパー。あの猫を見つけたのも、この通りが終わるところだった。
遠目にその方向を見てみるけど、ここからはまだ氏角で何も見えない。
何を期待しているんだろう。そんな風に自分を嘲笑しながら、私は店の中へ入った。
店内の冷房はいつもキツイ。まだ、サードインパクト前の常夏がこの店の中では普通なんだろう。
適当な材料を買い物カゴに入れてレジへ向かう。と、その途中でふと奇妙な宣伝文句が目に入った。
『あなたの愛猫、突撃』
缶のラベルには、中身に顔を突っ込んで貪り食う姿の猫。いくつか種類があって赤や青のラベルで区分されている。動物なんか飼ったことないので、どれがいいとか分からない。それ以前に何故こんな物に気を引かれたのか。あの猫を拾う気なんて、無いのに。

予定していた以外の物のせいで少し重くなったカゴを抱えてレジに向かう。
手垢で汚れて古びれたカゴをレジ台の上に乗せると馴染みの、というかいつものレジのオバチャンが対応してくれる。
「はい、368円、798円が二点…」
ピッピッ、とバーコードに光を当てる度に鳴る電子音。オバチャンの小気味良いリズムの点呼も相俟って何となくそれを食い入るように見てしまう。無意識。
「あらアナタ、猫飼ってたの?」
「え?な、いや。その…」
ボーッとしている所に突然声をかけられたものだから、予想外に吃ってしまった。猫?ああ、餌か。
変に立ち入られるのも面倒なので、ここは話を合わせておこう。
「まぁ、はい。最近からですけど…。」
「そう。良かったわぁ。」
良かった?一体何が良かったのだろう?
「アナタ、買い物するときいっつも眉間に皺寄せてるでしょ?若いのに勿体ない」
余計なお世話だ。人間観察している暇があるなら、しっかり業務をこなして欲しいものだ。
「でも、それ選んでる時はちょっと楽しそうだったわよ」
安堵したような顔を浮かべながらカゴの中に袋を放り込むと、台の上に置いた代金をレジにしまう。
「はい、お釣り」
「は、はい」
慌てて手を出す。小銭を受け取った後オバチャンの顔を見ると、こちらに向けた笑顔がことのほか眩しかった。

474: 2009/08/30(日) 05:11:40 ID:???
当たり前だけど、鏡でも見ない限り自分の表情なんて分からない。
でも、オバチャンにつられて自分が笑ったことに気づく。
「また来てね。この辺で餌置いてるところ、少ないから」
「…はい」
受け取ったレシートを財布の中に入れながら答えた。
そっか。私、笑えるんだ。

重い物は袋の底へ入れて軽い物は上の方に。でも、すぐ取り出すであろう猫缶は手に持って店の外へ出た。
薄い雲に覆われた空はとうに明るさを潜めて、当たる光は月になっている。
こんな時間になるまで悩んでいた自分が堪らなく可笑しくなった。
今日の食事は二度手間になるだろう。新たな同居人を迎える予定だから。
取り合えず一缶、あの電柱の下で食べさせてやろう。メーカー側の誇張じゃなければこれを持った私に、写真のように突撃して来るだろう。
柄にも無く、楽しみだ。
思わず早足になってしまいそうになる心をどうにか落ち着かせながら、あの曲がり角の向こうまで急ぐ。
何故こんなにも胸踊るのだろうか。生き物を飼う行為自体初めてで、想像しても面倒な事ばかりしか思い浮かばないのに。小さな命を愛でたいなんて思ったこと無かったのに。
とにかく、今の私は大袈裟に言えば希望みたいなモノに溢れていた。
電柱の下に居てほしかった存在の不在が分かる瞬間までは。

「いない…」

微妙に傾いた電柱の影が、のしかかってくるように私に覆いかぶさった。
段ボールごと無くなっているということは誰かに拾われたのだろう。うん、きっとそうだ。
良い奴だといいな。新しい飼い主に不自由なく育ててもらえ。こんな世の中、拾ってくれるような優しい奴なんかめったにいないぞ悲しい。あんな愛くるしい顔だったんだから甘え上手で、きっと主人も可愛がってくれる私と違って。
あぁ、なんか、空回りだったんだなぁ。
私が、他の命を拾うなんて事、到底、無理な話だったのかな。資格、無いのかな。

本当に、ホントに大袈裟に言うと、立っていられないくらいしんどくなった。まるで自分と地面が磁石になったみたいに体に掛かる重力が増えた気がした。
片手に持った猫缶をビニール袋の中へ戻して、来た道を戻ろうと後ろを振り向く。
褪せたアスファルトを踏む感触も、肌寒い空気も、通り過ぎるスーパーの中のオバチャンの笑顔も、なんだかどうでもよく感じる。

475: 2009/08/30(日) 05:14:03 ID:???
商店街を抜ける頃に、不思議とシンジと話したくなった。実際会ったら会ったで、またいつものように大声で怒鳴り付けてしまうだろうけど。
結局、私も誰かに縋りたいのだ。他人の事なんか言えない。誰だっていいんだ。リツコでも、猫でも、鈴原でも、シンジでも。
懐に手を入れて、あるはずの携帯を探す。いやいや、部屋に忘れてきた。
メールがしたい。電話がしたい。他人と関わりたい。でも、接し方なんて忘れた。シンジ、わたしアンタとどんな風に喋ってたっけ?

五分くらいで帰れるはずの距離を十五分もかけて帰って来た。
凛々と鳴く鈴虫は私なんかに無関心で、ひたすら階段に昇るモチベーションを下げた。うるさい。
軋むドアをゆっくり開けて部屋に入る。
「あ、電気消し忘れてた」
夕方点けた電灯が微弱に輝いている。
電気代は貴重な財源を削り取っていく魔性の要素だと、昔シンジに説教を喰らったことがあった。
やれクーラーをかけすぎ、やれ冷蔵庫は早く閉めろ、やれ見てないテレビは消せと、いつも言ってきた。
その度に私は、科学は人類の至宝、ハイテクの勝利だと返していた。
今考えると微笑ましいやり取りをしたものだ。たったの一年と少ししか経っていないのにずいぶん昔のように感じる。
そんな時の癖か、点けっぱなしにしていた事に軽く後悔しながら部屋の奥に入る。
そして冷蔵庫を開けて買ってきた食材を入れていくも、猫缶の処理に困った。冷蔵しておくべきか、常温か。そもそも置いておく必要があるのか。
冷蔵庫は開きっぱなし。早く決めないとシンジに怒られる。
取り合えずテーブルの上に置いておこう。スーパーの棚は常温だったし大丈夫だろう。
そうしてテーブルに缶を置くと、充電器に繋がれた携帯電話の外部液晶がピカピカと光っていることに気付いた。
手にとって履歴を見てみる。
『碇シンジ』
留守電を残している。いつもの、何かしらの近況報告だろう。
…聞いてみる。

メッセージは一件です ピッー

『あ、もしもし、僕だけど。実は昨日言おうと思ったんだけど、なんだか言いそびれちゃって。…コ、コラ!乗っかって来ちゃダメだって!あぁそんなとこ舐めないで…。アスカぁ、ニャ-』
は?
『ニャースカ、もしよかったらこの子の名前決めてもらえないかな?あ、猫拾ったんニャーだ。アスカの家の近くの商店街で。

476: 2009/08/30(日) 05:17:17 ID:???
もし良かったら会いに来てよ。きっとこの子も喜ぶよ。ね?……ウニャー』

メッセージは以上です。保存する場合は…


アハハ、バカだ、私。

そして私は久方ぶりメールを打った。

481: 2009/08/31(月) 04:42:05 ID:???
>>476続き

To: 碇 シンジ
From: 惣流アスカラングレー

久しぶり。あの猫拾ったのあんただったのね。
てっきりどっかの金持ちに拾われて裕福に暮らしてるものだと思ったけど、あんたじゃそうはいかないわね。
ところで最近どうなの?元気にやってるの?
RE:
久しぶりだね。アスカも見つけてたんだ。商店街の近くだったからアスカは知らないと思ってたんだけど。
実は苦戦してるんだ。しょっちゅう粗相するから躾ないとダメなんだけど、これがなかなか。ペンペンがいかに賢い奴だったか分かるよ。
アスカこそ、たまには連絡してよね。
RE RE:
どういう意味よ。私だって買い物するからあそこにはよく行ってるの。あんたに頼らなくたって料理ぐらい出来るわよ。
ペンギンと猫を比べるのが間違ってるのよ。それに躾じゃなくて、猫には同居人としての意識が必要なの。あんた、ナメられてんのよ。
やーよ。電話代かかるじゃない。
RE RE RE:
へぇ、アスカ料理できたっけ?最近食べる人がいないからもっぱらコンビニか外食ばっかりだよ僕は。おかげで食生活偏っちゃって。
そうかもね。ご飯上げると、ふらっと何処かに行っちゃうし。でも、昔の同居人も似たような感じだったけどなぁ。
じゃあ、これからも僕から連絡するから出来るだけ出てね。
RE RE RE RE:
うっさい。
うっさい!
ま、善処するわ。私も忙しいのよ、色々と。
RE RE RE RE RE:
良かった。変わらないねアスカ。僕の知ってるアスカで良かった。
留守電でも言ったけど、もし良かったら猫の名前つけて上げてよ。僕の語轢じゃいいのが浮かばなくて。
RE RE RE RE RE RE:
実は猫に上げようと思って餌買っちゃったのよ。このまま捨てるのも勿体ないし、その内食べさせに行くわ。それにあんたにも餌、食べさせたくなった来たし。
パケ代もったいないからもう返信しないで。明日、また連絡して。

簡単に作ったチャーハンを頬張る。今日の食事はとても塩味が効いている。チャーハンに塩胡椒、入れ過ぎたかな。一人の食事には慣れていたつもりだったけど、電波上の会話がそれを薄れさせた。

482: 2009/08/31(月) 04:45:27 ID:???
パチンと携帯を閉じる。
返信を優先していて、すっかり夕飯は冷めてしまった。でももったいないから食べる。そう、もったいない。
もったいないから、餌をやりに行くのだ。シンジに会いに行きたいわけじゃない。なんて、メールのやり取りを見るとそんな咄嗟の自己欺瞞も笑えてくる。
拭わなかった涙がかさついて痒い。
私、やっぱりシンジが好きなんだな。
今晩は久しぶりに湯舟に浸かろう。いつもシャワーで済ませていたけど、今日はたっぷり汗をかきたい。
残りの飯粒を口に掻き込んで、冷えた水を一杯飲み干す。
生温いコンクリの床をパタパタと音を立てて歩いて浴槽の蛇口を捻りに行く途中、脱衣所の鏡にうつった私の顔は楽しかったあの頃の日々を彷彿させた。

『間もなく電車が参ります…』
今日の日差しは特に強烈で、昼前だというのに気温は三十五度を越えているそうだ。普段快適な部屋でクーラーの風を直浴びしている私にとって、この日光と温度は殺人的と言える。
しかし、あの永遠の夏の日々もまた思い出す。
迫る使徒。過ぎる人々。血の匂い。
思い返せば楽しさも、悲しさも、苛立ちも、憎しみも入り交じった、混沌とした期間だった。大人達の事情はどうあれ、あの時あの場所で私は育まれてきたんだろう。
こうしてこの駅のホームに立っている私を生んだのは、紛れも無くあの夏の日々だ。だから、会いに行こうと思う。シンジと、あの猫に。

日曜の昼間とは言え、都市から離れた路線では乗客はまばらなので労無く席につくことが出来た。
大して速度の出ていない電車の揺れと、冷房の効いた車内で浴びる射し日が気持ち良い。流れる風景は緑の木々と無機質な工業地帯が混じっておかしな感じだけど、来日してからそれが当たり前だったせいか慣れてしまった。
「ねぇママ」
「なぁにユウくん?」
右前方に見える母親とその子供が、愉快そうにキャッキャと笑いあっている。あのおっきい建物は何?と子供が聞いたが母は首を傾げた。
そりゃそうだ。アレは元・地方出撃用のエヴァ射出場だ。民間人が知る訳無い。結局使った所を見たことは無かったけど。
こんな風に地元民から見てもこの街は異様なんだろう。使徒迎撃のために急ピッチでこさえた街に統一感なんてものは一切無い。しかもその役目も終えてしまった今、画一化する程の予算が下りるとも思えない。

483: 2009/08/31(月) 04:47:24 ID:???
ドイツ政府に限らず混乱の極致に達している世界情勢から鑑みて私を本国に戻す事も無いだろうから、この街の風景と大分お付き合いして行くことになるだろう。別に嫌いじゃないからいいけど。
しかし微笑ましい親子のやり取りも長時間に渡ると迷惑なモノで。しかもユウくんのテンションも暴走気味ときている。
二駅分すら我慢できない私は、懐に入れた携帯音楽端末を探し当ててイヤホンで耳を塞いだ。
混乱著しい昨今でも、こういった娯楽の供給には事欠かない。
敢えて言おう。文明社会あっぱれであると。

画面に目を向けて指先でスイッチを押すと数百曲ある中からランダムに音楽が流れて、小さなモンスターの声を見事に掻き消した。
再び目線を窓の外に移して曲に聴き入る。
と、思い出す。猫の名前を考えていなかった。
シンジが拾ったのだから本来飼い主が決めるべきだろうが、その命名権を譲渡されたのだ。生半可な名前ではいけない。
少し考え込む。
名前、名前…。男の子だったらシンジ、女の子だったらレ……何考えてるんだ、私。
うんうんと唸って考え込んでいる間に、最初の曲はクライマックスを迎える。
そして曲が終わり、次のイントロが流れ出した。
「あっ」
思わず声が出た。慌てて口を塞ぐ。が、こっちを見ていた親子がくすくすと笑う。
何となく会釈を返してしまったものの、恥ずかしくなって視線を明後日の方に向けた。
しかし恥辱に勝る報酬を得た。名前決まったわよ、シンジ。

目的の駅に着くと再び荷粒子砲の如き熱線が私に降り注いだ。つばが大きく開いた帽子を選んで正解だ。
今日の日を迎えるにあたって、僭越ながらも身嗜みに気を使ってみた。
よく着ていた黄色のワンピースと色違いのパステルピンクのもの。靴は買ってから初めて履いた革のローファー。アクセントに穴を開けないタイプの素朴なイヤリング。メイクはささやかに。少しお高めのバッグには口実の猫缶。
今朝、我ながら気合いの入りっぷりに驚いたのは絶対に秘密だ。
閑話休題。
お世辞にもシンジの住むマンションから駅まで近いとは言えない。時間にして徒歩約三十分。おそらく、着く頃には溶けてしまっているだろう。こう、パシャっと。
とにかく進まなければ始まらない。私は意を決して日陰から日向へと足を踏み出した。
そして五メートルほど歩いた瞬間。
「おーい」

484: 2009/08/31(月) 04:50:17 ID:???
声の方を向くと、陽炎に揺らめく人の影。
自転車に乗ったシンジが片手運転で手を振りながらこっちに向かってきた。
「…ぅおーい、アスカー」
近づくにつれて詳細が見えてきた。ゼエゼエ言いながら汗だくで、かつ大声で人の名前を呼ぶ姿に思わず他人のフリをしたくなる。
駅前なのだからそこそこに人はいるのだ。元来注目される事は少なからず好きだが、こういうのは違う。
だから近付いてきた自転車に駆け寄ってハンドブレーキに渾身の右ストレートをぶち込んだ事に、私が咎められる要素はない。
「アぁースカァー」
突発的な制動力に耐え切れなかったシンジの体は、重力を無視して自転車から離れ宙を舞った。

「バカシンジ。なんであんな大声だすのよ」
派手に吹っ飛んだシンジを拾いあげた後、近くの売店で買った冷たい缶コーヒーを患部に当てながらマンションまでの道中を歩く。
「だってイヤホンしてるのが見えたから…」
「音が聞こえる程度に絞ってあるわよ。どっかのバカみたいに周りが見えなくなるほどうるさくしてない」
「バカバカ言うなよな。久しぶりに会ったのに…」
「バカにバカって言って何が悪いのよ、バカシンジ」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながらシンジの街を行く。
正直な話、会う際かける言葉が浮かんでなかったからほっとしている。だって、どんな言葉をかけても不自然になる自信があるもの。こうやって昔みたいに話せるのが、私の中では奇跡だ。
留守電を聞く前の私ならネガ精神が渦巻いて、きっと冷たい態度しかとれなかった。
どこまでも、シンジにおんぶに抱っこ状態だな、私。

五分ほど歩いたところで患部の痛みも収まったようなので、茹だる暑さに耐え兼ねた私は自転車の再起動を命じて、シンジの漕ぐ自転車の荷台に横座りになる。
風はあまり強くないが風圧で飛びそうになる帽子を押さえながら、昼時の川原沿いを突っ切った。
「ねぇアスカ。名前考えてくれた?」
「もちろん。せいぜい期待しときなさいよ」
「うん。あと、料理も期待してる」
「まあ、程々にね。…ところでシンジ」
最初から気になってた。言うタイミングを逃していたけれど。
「まだ長袖には早いんじゃないの?」
七分丈くらいならわかるが、しっかり長袖を着込んでいるのだ。
人が柔肌を炎天下に晒しているというのに。

497: 2009/09/02(水) 06:32:02 ID:???
第三新東京都心から程なく離れた場所にシンジの住むマンションはある。住所は知っていたけれど実際に来たことはなかった。
だから、すぐ近くに『あの』コンフォートマンションがある事も知らなかった。
都市開発の名残で残っている街路樹というには大きすぎる緑の道を抜けた先で、私を揺らしつづける躍動は停まった。
「よ」
ビル風が少し吹きつけた。空気をはらんで膨れるスカートを押さえ付けながら自転車から飛び降りる。
立派だ。立派過ぎる。超高層というわけではないけど、ゆうに二十階はありそうなマンション。一人暮らしにしては大きすぎない?
すこしばかり呆然としてほうけていると、自転車置場から戻ってきたシンジにポンと肩を叩かれる。
「どうしたの、入ろう?」
「あ、うん」
おざなりな返事を返して、先に歩くシンジの後を付いていく。
エレベーターに入るとさも当たり前に18Fのボタンを押し、扉が閉まって重い重いモーター音が唸りだす。
「…」
「…」
沈黙は嫌いだ。嫌な事を思い出す。いかに今まで自分が現実から目を逸らしていたかの確認作業のようなもの。とってつけた言葉で、他人も自分も撹乱させた過去。
心を開かなければ、エヴァは動かないわ

そう。私は縛り付いて停滞した自分の脱却のため、ここに来たのだ。
「シンジ」
「ん?」
「お帰りって言いなさいよ」
言った。
過度に冷房の効いたエレベーターの中で、暴発しそうになる顔を見られまいとそっぽを向く。横目でちらっとシンジの方を見るが、私の位置からは後ろ姿しか確認できない。
「アスカ」
振り向きもせず私の名を呼ばれる。ピクリと反応してしまった自分の反応が恥ずかしい。
「会いたかった」
「え」
「おかえり」
あっつい、暑い熱い!
「バ、バカ!余計なのつけなくていいわよ!」
ここでやっと私の方に向いたシンジは、すこし涙目になりながらささやかな笑顔を見せた。

498: 2009/09/02(水) 06:33:14 ID:???
赤いLEDランプが18と表示して無機質な声がそれを告げる。観音開きに開いたドアをくぐり抜けると、胸がすく程高い眺め。
高鳴りを極めた動悸を押さえ、先程までとは違う心地良い沈黙を保ちながらエスコートされるまま玄関前に来た。
よく考えれば男の部屋にあがるなんて経験したことない。いやいや、元同居人が何を言っているのだ。待てよ、あの時とは色々違う。襖なんていうプライバシー保護に何の意味も持たない場所とここは違う。
覚悟してきた。いやまてそういう意味じゃない。まぁ今更イヤじゃないけど。
「アスカ?」
片手間にノブを捻りながら不思議そうにこちらを見る。
「…ナンでもない」
妙な緊張感を持ちつつ、レディーファーストとばかりにドアを押さえるシンジの横をすり抜けて私は部屋に入った。

率直な感想を言おう。ナンダコレハ。
乱雑に置かれたゴミ袋で踏み場の無い玄関はもとより、仕切からはみ出した洗濯物、溜まった埃、崩れた書籍の山。洗い物が溜まっていないのが逆に目立つが、外食頼みと聞いてた分それは納得。
「な、ナニコレぇ!」
「ごめん、これでも一応片付けた方なんだけど…」
「これがぁ?」
私のイメージの中のシンジは、家事スキル+20常時発動男だった。それがどうだこの有様。
「ンニャー」
立ち塞がる障害物を軽々と乗り越えながら、私の『口実』がやってきた。
「あんたねぇ、こんな環境で生き物育てようってぇの?」
「猫のスペースは確保したんだよ。で、そのぶん僕の居場所が…」
ほとほと呆れた。
忘れていた訳ではないが思い出した。バカシンジだったのだ、この男は。
まさか男の家に初めて上がってすることが掃除洗濯になるとは、お天道様も思っちゃいなかっただろう。

そして大掃除が始まった。

「ねぇアスカ。猫の名前教えてよ」
「ん~、掃除が終わったら」
「えぇ、ケチィ」
「…あんた私みたいになってるわよ」

499: 2009/09/02(水) 06:34:06 ID:???
「そうかな」
「そうよ。片付けない、食事作らない、外ヅラは良い。昔は、だけど」
「…自分で言ってて悲しくならない?」
「うっさい、わかって言ってんのよ。ほら、口ばっか動かさない」
「ニャーン」

出来ないわけじゃないので、協力しあうとすんなり大方の掃除は出来た。
途中、黒い塊が掃除機の音に驚いて部屋中を駆け回り埃を撒き散らす珍現象もあったが、難無く掃除補完計画は最終局面を迎えた。
気づけば、時計の針はV字型に開いている。
「休憩しよっか。お腹すいたし」
「そうだね。この子もそうみたい」
床に座り込んだシンジの手の平に纏わり付く猫。甘い声で愛撫を求める。羨ましくなんかない。
餌をやりに立ち上がろうとするシンジ。それを制止する。
「ちょっと待って。はい、これ」
バッグの中から猫缶を取り出して手渡そうとするが、逆に今度は私が制される。
「アスカが上げなよ」
ひょいと猫を持ち上げて自分の胡座の上に乗せると、小さな顔が落ち着き無く私と缶を見比べた。
「ウゥニャー」
さっさと出せ。でなければ帰れ!とでも言いたいのだろうか。
前足でクレクレとアピールする様がとても愛らしい。が、可愛さ余って憎さ一億倍。
蓋をむしり取って匂いだけ嗅がせて、食いつこうとしたらさっと引く悪戯。おろ、おろ、と小さな身体を右へ左へする。やばい。ちょー可愛い。
「可哀相だよアスカ」
困っている猫の額を人差し指で軽く撫でる。ゴロゴロと喉の鳴る音。くそ、敵に塩を送ってしまった。
面白くないので悪戯は止めにして紙皿に中身をほぐし落とすと、初号機も真っ青の突撃を見せる。
「おぉ、パッケージに偽りなしね」
がつがつと元気よく貪る姿を見て、私たちも本格的に腹が減ってきた。

たいした材料も無かったのでありもので作ったオムレツをシンジに振る舞うと、大層喜んで食してくれた。
「あぁ、こんなちゃんとしてるの食べたの半年ぶりだよ」
いわく、料理も家事も同じ延長線上にあって相手が居ないと別にどうでもよくなるそうだ。過去の完璧超人っぷりを知る私にはにわかに信じがたいが、実際この有様なのだから納得せざるを得ない。
量だけは多めに作ったのでそこそこの満腹感。
そして朝から気合いを入れてしまったリスクが、ここで振り返してきた。

500: 2009/09/02(水) 06:35:00 ID:???
「ふぁあ~」
重労働で凝り固まった筋肉を伸ばすと釣られて大きな欠伸が出た。はしたないとすこし思ったけれど、よく考えればこれこそ今更だ。
流し台に皿を置きに言ったシンジがこちらを見て少し笑う。
「お疲れ様。ごめんね、せっかく来てくれたのに掃除なんかさせて」
申し訳なさそうに眉を曲げながら言う。
「いいのよ、好きでやってんだから」
いつでもやったげるわよ、と喉の奥に本音を押し込める。
椅子の角で肩甲骨付近の肉を解していると、満腹感から来る急激な睡魔に何一つ耐える事なくソファの上で眠る猫が視界に入った。小さな身体が寝息を立てて上下している。
穏やかな寝顔には人間に対する警戒心などまるで無く、安心しきった様子が伺える。
「懐いてんじゃない。猫」
「そう?かなぁ」
席についたシンジも猫の方を見ながら言う。
「同居人として認められてきたのかな、僕」
「バッカねぇ、あんたが意識してどうするのよ。させるのよ」
「ふぅん…物知りだね」
「ま、まぁ一応大学出てますから」
「じゃあ、そろそろ教えてほしいな」
「へ、何を?」
「猫の名前だよ」
そうだった。完全に忘れていた。あまりにもシンジとの会話が久しぶりで、嬉しくて、楽しくて。
しかし、いざ発表するとなるとそれはそれで恥ずかしいものがある。まるで日記を音読するかのような恥ずかしさ。それも夢日記。
何となくまごまごしてしまって、崩した体勢を正してしまう。余計恥ずかしい。
「……ソン」
「え?」
「ロビンソンよ!長ったらしいから略してロビンでもいいわよ!」
「な、なんで怒ってるのさ」
「怒ってないわよ!悪かったわね、もったいぶった割に普通で!」
ああやってしまった。結局こうなる。
どれだけシュミレートしても、いつまで反省しても、自分の気分を害さないようにスイッチを入れてしまう。
我が身可愛さの自己保身。もうヤダ。こんなの。
「そんな事ないよ。すごく、良い名前だと思う」

501: 2009/09/02(水) 06:36:36 ID:???
そう言うとシンジは立ち上がって猫がいるソファへ向かう。
優しく猫の横に座るが、快眠を妨げられたとばかりに薄目を開けて無言の講義。
「アスカがお前に名前をつけてくれたよ」
猫の手をとって私の方に手招きのポーズをする。
「ロビンソン。ロビーン。良い名前だねぇ」
「ニャーン」
「ほら、アスカ。ロビンがこっちにおいでって」
不思議と、そう迷惑な顔でもないロビンはするりと私の足元に寄り添ってくる。
尻尾を足首に絡め、シンジの座るソファへと導くように私を引っ張った。
そして私は何も言わず隣り合って肩に首を乗せて、記憶にないほど温かな温度に包まれながら目を閉じる。眠たいから。断じて涙が零れそうだったからじゃない。









そして、コトリとシンジのポケットから携帯電話が落ちた。

506: 2009/09/05(土) 05:22:44 ID:???
遅くなりました。>>501続きです。

「はっ…?」
鷲掴まれたように心臓が大きく跳ねた。今まで目を閉じてたと思えないほど一気に意識が冴える。
ギリギリ二人掛けのソファには私一人。そして窓の外は夕暮れ。日はまだ射しているが、窓の位置関係からあまり部屋は明るくない。
シンジと、猫も見当たらない。どこかへ出掛けたのだろうか。
まぁここはあいつの家なのだし、そのうち帰ってくると思う。けど、急に居なくなる事はないだろう。
一抹の不安と一握りの苛々をぶつけるべく、携帯を開きメール画面を起動した。
何も言わずどこ行ってんのよ、とキーを叩いて送信ボタンを押す。
返信を待つあいだ、手持ち無沙汰になるのが嫌だったので掃除の続きでもしようかと立ち上がる。
と、突然バイブ音がソファ下のフローリングを叩いた。
返信にしてはいやに早いな、等と考えるがどうも違う。私の携帯は手に持っているしマナーモードに設定していない。
腰を屈めてそこを見ると、シンジの携帯がぶるぶると震えている。微かに見えるディスプレイにはアスカ、と着信の知らせが表示されている。
バカシンジめ、電話忘れたな。
残念と思う半面少し好奇心、いやこう言うのを魔がさすというのだ。
他人のプライベートを覗き見するという行為は、古から楽しいものだと脈々と人類のDNAに刻まれている訳でありまして。昔の人も出歯亀とか手鏡とかでそういう趣向で楽しんでたんだし。
なんていう非常に独善的かつ無理矢理な正当化を以てシンジ携帯を開けた。
「うわっ」
なんだこりゃ。
待受画面いっぱいに広がる惣流アスカラングレーの笑顔。楽しげにレンズに向かって大きくピースする私。
朧げに、こんな写真を撮ったことがある事は覚えている。一年以上前に。
しかし何故、シンジはこんなに昔の物を保存しているのだろう。
恐る恐るデータフォルダを開けると比較的最近の写真はフォルダ上部に位置しており私にも見覚えのある、学校でのささいな風景が保存されている。たまにメールに添付してくれていた写真。
問題は下部だった。
画面を下にスクロールしていくにつれて私が被写体の画像が多くなってくる。再下層まで行く頃には、来日当初の乱雑な荷物と私が写っているものまであった。

507: 2009/09/05(土) 05:23:56 ID:???
奇妙な感情を自分の中でうまく反芻できないまま、次は禁断のメールチェックへと進む。

目を引く内容があった。

From:碇シンジ
To:鈴原トウジ

トウジ、僕、今とっても幸せなんだ。

RE:
なんやそれ?なんかあったんか?それと、手首の傷どうや。跡のこっとらんか?

RE RE:
まだ痛いよ。でもいいんだ。これが無いともっと痛いから。

RE RE RE:
そうか。
ところでなんや、しあわせって?何か良いことあったんか?

RE RE RE RE:
いま となりで あすかが ねてるんだ とっても かわいい ろびんも いっしょに

RE RE RE RE RE:
大丈夫かシンジ何かんがえとんねん

RE RE RE RE RE RE:
だ からも ういいん だこ れいじょ うのしあわ せなん て いら な い か ら

画面は唐突に切り替わり、鈴原トウジと表示される。電話着信。

508: 2009/09/05(土) 05:24:51 ID:???
「もしもし…」
『おい待て!今どこにおんねん』
「鈴原…」
『惣流か!?』
「うん」
『なにしとんねんこのダボ!シンジは!?』
「わからない」
『くそっ!……おい』
「なに」
『お前、シンジの腕見たか?』
「…見てない。長袖、着てたから」
『そうか…。なら教えたる。あいつの腕は今、ズタズタや。傷だらけや。けったいな剃刀でやらかしてエライことになっとる』
「なんで」
『なんで?なんでやと!?お前、ほんまにわからんのか。お前が一人でいじけとるとでも思っとったんか。あいつもあいつでお前に罪悪感感じとったんや』「でも、そんな素振りなんて…」
『わしも詳しくは聞いとらんから知らんがな、惚れた女の前でそんな醜態晒す訳無いやろ。…ちっ、バカが二人、おんなじような事しくさってからに…』
「私…」
『頼む、お前しかおらんねん。お前じゃないとシンジは帰ってけぇへんねん。言い過ぎた罰は後でなんぼでも受けたる。だから、今すぐ追い掛けろ。まだメールのやり取りしてからそんなに時間経っとらん』
「分かった」
『縁起悪い事言うようやけど…万が一のことになったら、ワシはお前の事を一生恨むからな…』

509: 2009/09/05(土) 05:26:27 ID:???
直ぐさま通話を切って玄関へと走り出した。
乱れた髪を直すことも、靴を履くことも、涙を拭くことも忘れて走った。
報いなんだろうか。今まで、何もしなかった私への。
やっとここまで来れたのに。やっと素直になれたのに。
嘘だと言ってほしい、夢であってほしいと願うが、そんな逃げの気持ちがいつまでもシンジを傷付け続けていたのだ。
今の私なら分かる。
どす黒い気分の底辺から明るい未来への展望が見えた瞬間、何もかもがちっぽけに感じる。自分自身さえも。だけどそれは、偽りの再生。
自分の価値を認めるには他人が必要なのだ。自己完結では、何時までも答えは出ない。
その他人に、私はなりたい。シンジに認められたい。シンジを認めたい。
そのためにここに来たんだ。そのために、あの場所へ走るんだ。

サードインパクト後に建造されたマンションと違い、このコンフォートは爆風の影響で激しく損傷している。ヒビや亀裂が入って所々鉄骨が剥き出しの状態になっている。
ここが立入禁止区域に指定されて久しいが、前に一度部屋の様子を見に行ったことがあった。
置いていた家具やインテリアは台風が過ぎたように倒れていたが、備え付けのキッチンとかベッドなんかはほぼ原型を留めた状態だった。
外から様子を伺った時、少なくともベランダにシンジの姿は無かった。
しかしもしガスや電気が少しでも通っていたら、それだけでも十二分に事足りてしまう。
身の毛もよだつ想像を何とか振り払い、使えないエレベーターを無視して階段を駆け上がった。
「…シンジっ」
それほどの距離を走った訳ではないのに既に息は絶え絶えになってきた。ダラけにダラけた生活を送っていたツケがここで帰ってくるとは。振る腕は鉛の様だし、口の中は渇いて息苦しい。
しかしここで足を止めてしまえば、私は一生笑えなくなる。シンジと、一緒の未来が消えてしまう。
我慢ならない。それだけはどうしても欲しい。あいつが望むならどんな人間にでもなってやる。けど、どうか私の未来は奪ってくれるな。
天におわす気まぐれな神様よ。どうかこの我が儘だけは、叶えて。

そして一枚の扉の前に立った。

510: 2009/09/05(土) 05:27:15 ID:???
もう忘れていたと思っていたけど、体が覚えていた。ここから見える景色の高さ、ドアの汚れ具合、エレベータまでの距離。
間違いなくここが、私達が過ごし、通じ合い、憎しみ合った原点。葛城の表札は剥がれ、糊跡が痛々しく佇んで見える。
扉の前に立っても反応しない所を見ると、感知センサーは壊れているようだ。
よく見ると僅かに扉の隙間から光が漏れている。やはり、シンジはここへ来ている。
扉の取っ手を起こし、力の限り扉を引く。元々電動で動くはずの機構が邪魔して、乳酸の溜まりきった腕の筋肉が更に悲鳴をあげた。
ひらひらとスカートの裾がうっとおしい。
歯を食いしばり力を込めると、人一人入れる程度開いた。
隙間に体を滑り込ませる。剥がれた金属片に服が引っ掛かったが、気にせずそのまま捩りこんだ。

「シンジ!」

靴のまま部屋に上がり込みリビングを一瞥するが、居ない。
冷たい汗が背中を伝う。まさか、見当が外れた?
しかしまだ部屋はいくつも有る。しらみつぶしに…
「…ニャー」
唐突な鳴き声に驚きそちらを見ると、毛並みの乱れたロビンがこちらを見ていた。ひどく疲れた様子で、そばに寄り抱きかかえると小さな鼓動が腕に伝わってくる。
そして、この場所はシンジの部屋の前。

私が、追いやったシンジの、部屋。

そっと襖を開けると埃っぽい空気の中、まるであの時からずっとそうしていたかのように、ベッドの上でこちらに背を向けて横たわっていた。
「…シンジ」
名を呼ぶことも躊躇ってしまいそうになる重たい空間。どんなに外が、日常を取り戻してもこの場所の時間は凍り付いたまま。
それを証するように、声をかけてもシンジの反応はない。まさかと思い、足を前へ踏み出し近付こうとする。
「来るなっ!」
張り上げられた声は深々と私の心臓に刺さった。意志を持ったように背中の産毛が逆立つ感触。
「ごめん…でも、本当に来ないで…」
荒げられていた声は調子を戻しているが、奥底に潜む灰暗さは隠しきれない。
「もういいんだ」
「何がよ」

511: 2009/09/05(土) 05:27:55 ID:???
「こんなに楽しい時間は本当に、久しぶりだった。アスカにずっと会いたかった」
「…」
「楽しすぎて、嬉しすぎて、怖くなった。こんな僕が、いつまでもそんな幸福を享受し続けられるわけが無い。受け止められるわけ無い」
「そんな事、分からないじゃない」
「分かるんだ。だって、トウジやケンスケと楽しく喋っていても、いつの間にか脳裏に綾波のあの姿が浮かぶんだ。父さんの姿が、アスカの、あの姿が」
「…」
「罪滅ぼしのつもりでロビンを拾ってみたけどそれでも駄目だった。そしたら、君に会えた。君が会ってくれた。…ロビンと戯れるアスカを見て悟ったんだ。もうここで終わらせた方が幸福だって」

「…あんたって」
「?」
「ホンットにバカァ!?」
「なにを…」
「罪滅ぼしですって?そんなの、私だって一緒よ。罪悪感でロビンを拾おうとした…けど、それじゃダメだって分かったのよ」

とうに水分不足の体が、更に水分が消費し始めた。

「私を認めてほしい、シンジに認めてほしいと思ったから、ここに来たの。まずシンジを認めて、そしたら私を見てくれると思ったから…」
視界はグチャグチャに歪んでいるので定かではないが、シンジがこちらに体を向けた気がする。
「なのに卑怯よ。ここぞとばかりに逃げようとするなんて」
「…こうしてる間にも、頭からあの光景が離れないんだ」
ここで何かが私の中で、プツリと切れた音がした。
いや、正確に言えば崩れたのかも。

「じゃあどうすればいいの!?どうすれば今の私を見てくれるの!」
我ながら情けない。餓鬼のように地団駄を踏み、喚き散らす様は見物だったろう。もしかしたら鼻水も出ているかもしれない。
だからシンジも酷く驚いた顔をしたあと、伏せがちな顔から瞳だけを上げてこちらを見た。
「少しでいい…から、あの頃を忘れさせてよ…」
そしてシンジも何かが切れたようだった。
「本当は氏にたくない!生きていたい!でも、苦しいんだ!氏ぬほど苦しいんだ!」
へたりきったベッドのスプリングは、叩かれた衝撃を吸収できずに床に直接叩きつけた。

512: 2009/09/05(土) 05:36:58 ID:???
人間として『優しくなる』と言うことは、きっと『弱くなる『と類義語なんだろう。こんなにも胸が痛い。こんなにも心が痛い。でも、私は弱くていい。この痛みが分からない『強さ』なんて欲しくない。
「ねぇ…キスしよっか」
「なに言って…」
「キスよキス。したことあるでしょ」
「…」
「それとも私とするの、イヤ?」
「…イヤじゃない」
「じゃあ、しよう」
「アスカ、ほんとに何をっぅんぅ」
ごく個人的な見解をするなら、一年前のこの行為が私にとって全ての間違いの発端だったように思う。一方的な感情の押し付け。事実の隠蔽。責任転換。全部、私の糞みたいなプライドのせい。
だから、出来ることならこの行為で間違って出来た道を、今という瞬間に収束させたい。思い上がりかもしれないけど、これでシンジを繋ぎ止めたい。
水道は止まっている。うがいは、しない。
「ぅん…んぁ…?」
背中に触れる、シンジの腕。指先が私の脇腹あたりで不安そうに彷徨っている。抱きしめるというにはあまりにも弱くて儚いけど、触れた感触があまりにも真実味をおびていて。
息をするのも忘れて、お互いの唇の上下左右を触れさせる。
「…ぷはぁっ」
「はぁ…」
射し日が届かないこの部屋は薄暗くて、お互いの顔が良く見えない。でも、今はそれでいい。今は何も見えなくていい。
「バカシンジ…二度とこんな事…しないでよね」
「ごめんアスカ…ほんとうに…ごめん」
「もうしないって約束できる?証明してよ」
「え、でも、どうやって」
「鈍感」
「あ。うん」
ぎこちない動きで迫る顔に少し笑いそうになったけど、初めてシンジからのキスをした。
一回目は、痛かった。二回目は、泣きながら。そして三回目は…。バカシンジ、そんなキスをどこで覚えた。あとで追及してやる。
【玄関前】
「ニャーン」
「おぅ、お前がシンジの言うてたロビンか」 「ウニャー」
「お前よりも先に飼い主が盛っとったら世話無いのう」 「ゴロゴロ…」
「ほぉんまに、世話の焼けるやっちゃであいつら…」 「ニャー」

513: 2009/09/05(土) 05:40:46 ID:???
-そして-

「こらぁシンジ!いつまで寝てんのよ!遅刻するわよ!」
「ふぁ、アスカ。おはよう…」
とっくに制服姿に着替えている私と対照的にパジャマ姿のまま、のそりとベッドの中から反応するシンジ。
快眠の流れにN2爆弾を落としたにも関わらずまだ寝ぼけ眼で、ふらふらとクローゼットの前まで歩いて行く。
「まったく、式の日まで眠りこけるなんて。よっぽどふやけた脳みそしてんのかしらね」
「あー、うん」
クローゼットを開けて制服を取り出しながらおざなりな返事を返される。
そしてパジャマのボタンをプチプチと外しはじめた。私の前で。
「キャー!?エOチ痴漢変態スケベ!なに見せてんのよ!」
「ぶへっ!?」
見事に水月にえぐり込んだ正拳突きが、半覚醒の意識を半ば無理矢理に起こさせた。

「じゃ、ロビン。行ってくるね」
「ウゥニャーン」
ロビンの頭を一撫でして玄関を開ける。見送るように、大きな目を開けておすわり状態。まだまだ子供なのにすっかり体だけは肉付き良く育ってしまった。まさに猫可愛がりの結果だろう。
「あーあ、ロビンすっかりプクプクになっちゃったわね」
学校までの道のりを何時ものように走って行く。ここ最近寝坊気味のシンジを起こしてから一緒に登校するのが日課になっていた。
でもそれも、今日が最後の日。
「アスカが来るたび猫缶三昧だったからね。そりゃ太るよ」
「でも、これからはそれも出来ないわね…」
すっかり冬を越したといえどもまだ寒い。しっかり着込んだダッフルコートが走行の邪魔になる。
「って、急がないとマジ遅刻しちゃう!急げシンジ!」
「う、うん!」
寒波を切り裂きながら、壱中への坂道を駆け上がる。

今日が最後の中学生活。
そして卒業式の後は引っ越し作業。誰の家に転がり込むかは言うまでもない。でも私ずっと休んでたけど、ちゃんと卒業証書貰えるのかな?
まぁいいか。

終劇

514: 2009/09/05(土) 05:47:19 ID:???
投下終了です。
いや難産でした。シンジ難しいっす。
突っ込まれる前に弁明しておくと、シンジが実は病んでるっていうプロットは元からありました(ライブ感でない)
一応、伏線的なものを仕込んでたんですけど気付いていただけたでしょうか。
ではまた次の機会に。どこかのLASスレで。

515: 2009/09/05(土) 05:57:11 ID:???
あ、お礼書くの忘れてました。
応援&投下待ちしてくれた皆さん。ありがとうございましたm(__)m

516: 2009/09/05(土) 08:11:00 ID:???
GJっす!

引用元: 落ち着いてLAS小説を投下するスレ 15