1: 2010/10/02(土) 07:43:10.98
―春―

別れの春、出会いの春、全てが新しく始まる季節。

しかし、なかなか新しい始まりを迎える事が出来ない人達もいたりする。

さわこ「ねぇ、梓ちゃーん。」

机に突っ伏した姿と同じく、どこかアンニュイな気配を漂わせる呼び掛け。

梓「なんですか、さわこ先生。」

さ「私ミルクティーでいいわよ。」

いいわよ、と言われた所で困ってしまう。

梓「ムギ先輩が卒業して、ティーカップすらありません。」

2: 2010/10/02(土) 07:45:40.87
かつて豪華過ぎる程豪華な什器の数々が納められていた食器棚が置かれていた場所は、今はそこだけ日焼けしていない床の色にその痕跡を残すだけの空虚な空間。

さ「分かってるわよ。ちょっと言ってみただけ。」

悪気が無いのは分かるけど、世の中には笑えない冗談という物もある。

私が軽く溜息をつくのと同時に、さわこ先生も溜息。

梓さ「…はぁ。」

私の高校生活最後の1年は些かヘビーな幕開けと言わざるを得ない。

4: 2010/10/02(土) 07:46:56.30
頬杖をつきながら、相変わらずのアンニュイな雰囲気のさわこ先生が、なんとか間を繋ごうと口を開く。

さ「憂ちゃんと純ちゃんはどうなったのかしら?確か、春から入部する予定だったわよね?」

だから、世の中には笑えない話もある、と何回思わせれば気が済むのだろうか…。

梓「純はジャズ研の副部長に選ばれてしまったので…。」

さ「『副』って辺りが、あの子らしいわね。」

同感。せめて部長なら祝福も出来たけど、副部長って…中途半端で笑う気にもなれないよ。

5: 2010/10/02(土) 07:48:07.36
さ「憂ちゃんは?あの子って磨けば唯ちゃんを遥かに越える金の卵だから、楽しみにしてたんだけど。」

これも同感。
『可能性だけは感じさせた』唯先輩に対して
『可能性だらけの逸材』が憂。

かく言う私も憂の入部を心待ちにしていた。

何事も姉を立てる控え目な性格故に、その可能性を封じてきた彼女が唯先輩という枷が外れた時、どれほどのポテンシャルを見せてくれるのか、と期待は最高潮に達していたのだが…。

梓「それが唯先輩の一人暮らしが原因で、入部は難しいみたいで…。」

6: 2010/10/02(土) 07:49:15.99
私の言葉が腑に落ちない、と言わんばかりの表情のさわこ先生。

さ「それって逆じゃないの?唯ちゃんの面倒を見なくてもいい分、暇になるんじゃないのかしら?」

私もそう期待していましたから、気持ちは痛い程分かりますが…。

梓「それが唯先輩の部屋が引越し3日で魔窟と成り果てたらしくてですね…。」

さ「…それは、容易に想像が出来るわね。」

梓「自宅の家事に加えて、近所とはいえ離れた唯先輩の部屋の家事まで引き受ける羽目に…。」

8: 2010/10/02(土) 07:55:58.38
さ「あの子も不憫な星の下に生まれちゃったものよね…。」

だから、笑えないですって、それも。

梓「こうしてても仕方ないので、取り敢えず勧誘チラシでも配ってきます。」

私は倉庫から取り出した少しくすんだ肌色の着ぐるみに足を通す。
続いて前傾姿勢で両腕を通すと、一気に直立。

梓「さわこ先生、背中のファスナー上げてもらえますか?」

ノロノロと近付いてきたさわこ先生が、ファスナーをゆっくり引き上げる。

さ「はい、出来たわよ。」

9: 2010/10/02(土) 07:57:20.90
梓「ありがとうございます。」

私は最後にマヌケとしか形容の仕様が無いブタさんの被り物に頭を突っ込む。

この汗と埃の混じったカビ臭さに思わず目頭が熱くなる。

梓「では、行って来ます…。」

早くも意気消沈した風情の哀れなブタさんに虚ろな視線を向けるさわこ先生が一言。

さ「一人でも着ぐるみは着るのね、梓ちゃん。」

…そう言えば、着る必要があっただろうか。
二年という時間は私を残念な人に仕立てあげるには、充分過ぎた様だ。

11: 2010/10/02(土) 07:59:19.56
梓「…つい癖で。」

それでも哀れなブタさんな私は、足を引き摺る様にして部室を後にするべくドアへと向かった。

と、その時だった!

外からドアが押し開けられて、一人の女の子が顔を覗かせたのだ。

「あのー、軽音部はこちらでよろしいのでしょうか?」

その姿を見た哀れなブタさんの私は、思わず硬直してしまった。

ぽわぽわな瓜実顔に真っ白な肌、少しくすんだ青い瞳と、金色に近い明るい栗色のふわふわロングヘアー。

間違いなくこの姿は懐かしのあの人!

13: 2010/10/02(土) 08:03:24.38
梓「ムギ先輩!」

突然目の前に現われた哀れなブタさんの私を見て、明らかに興味津々といった感じに瞳を輝かせるムギ先輩。

…あれ?その瞳の上の眉毛は一体?

そこに見たのは、トレードマークの沢庵眉毛では無く、形良く整えられた細い眉毛…剃っちゃいましたか、ムギ先輩?

「あのー、もしかしてその着ぐるみは軽音部のユニホームなのでしょうか?」

キラキラと青い瞳を輝かせるムギ先輩…いや、これは別人だったりしないか?

大ピンチ、私!

16: 2010/10/02(土) 08:09:04.78
梓「あっ!ち、違うのこれはたまたまで、その…。」

慌てる哀れなブタさんの私を見て、明らかに残念そうな顔のムギ先輩似の彼女。

「それは残念ですの。とてもお可愛いのに。」

そのずれた感想を耳にしながら、慌ててブタさんの被り物を頭から抜き取る。

「あら?ブタさんは梓お姉様でしたのね。」

その響きに思わず手にしたブタさん頭を落としてしまう私。

梓「…梓…お姉様?」

「そのお顔は確かに、中野梓お姉様だと思ったのですが?」

梓「確かに私は中野梓だけど…?」

17: 2010/10/02(土) 08:12:01.50
その少しマヌケな光景に、退屈凌ぎに持って来いな匂いを嗅ぎ付けて、瞳を爛々と輝かせたさわこ先生が話に割り込んで来た。

さ「梓お姉様!なんだか甘美な予感がするわね!」

この人は本当に教員免許を持っているのだろうか?
日本の未来は暗いと思わざるを得ない。

梓「あの、失礼だけどあなたは一体?」

私の問い掛けに少し小首を傾げて、如何にも不思議といった表情を浮かべた…かと思ったら、今度は一人で何か合点が行ったという様子で少しはにかんだ表情を浮かべる彼女。

…ちょっと可愛いと思ってしまったのは秘密だ。

18: 2010/10/02(土) 08:14:22.39
「これは申し訳ございませんですの。梓お姉様のお顔を見知っておりましたので、すっかり私の事も知っていらっしゃるものだとばかり思い込んでいましたわ。」

…このぽけぽけでぱやぱやな思考パターンは、間違いなく琴吹の匂いがする。

梓「もしかして、琴吹って名前だったりしない?」

私の言葉に表情を輝かせる彼女。

「あの、私自己紹介はまだでしたわよね?」

梓「ええ、まだだけど。」

「まぁ!それなのに私の名字を当てるだなんて…ハッ!まさか梓お姉様はエスパーなのでしょうかっ!!」

21: 2010/10/02(土) 08:16:39.23
梓「…いや、あなたって、去年まで軽音部にいた琴吹紬先輩にそっくりだし。」

「なるほどですの!発想とインスピレーションの勝利なのですね!」

…話が全く進まないこのぽけぽけリズムは、正にムギ先輩感覚だ。

梓「それで、あなたは?」

私の問い掛けに背筋を伸ばした素晴らしい立ち姿に変身…その高貴な気品と来たらもう。

「申し遅れましたの。私、琴吹袖と申しますの。」

さ「そで?」

…言うと思いましたよ、さわこ先生。

23: 2010/10/02(土) 08:21:11.46
梓「ことぶきしゅう、と私には聞こえましたが?」

さ「軽いお約束じゃないの。全く梓ちゃんたら堅いんだから。」

袖「まぁ!梓お姉様はお堅いのですの?」

…なんにでも食い付く辺りもムギ先輩感覚だ。

梓「いや、その先生の言う事は7割方無視してもいいからね。」

さ「それは酷いわ、梓ちゃん。ぷんぷん。」

…無視だ、無視しよう、私。
さわこ先生の暇つぶしには、付き合ってられないよ。

袖「ふむ、つまり先生は3割バッターですの。これは…優秀っ!」

25: 2010/10/02(土) 08:23:50.70
…もしかして、この子は私をからかってるのだろうか。

だが、当の本人からはなんの邪気も感じられない。
やはり、琴吹の血なのか、これは。

梓「えーっと、袖ちゃんと呼んでいいかな?」

袖「はい!梓お姉様。」

お姉様は…悪くない気もして来たぞ、私。

梓「それじゃ、袖ちゃん。もしかして軽音部に入部希望なのかな?」

私の言葉にまたも驚きの表情を浮かべる袖ちゃん…まさかまた?

袖「まだ何も言ってない筈ですのに…やはり梓お姉様は!」

27: 2010/10/02(土) 08:25:51.53
梓「エスパーでは無いけどね。」

袖「では、発想と…。」

梓「いや、それももういいから。」

袖「あぁ!次から次へと心が読まれて行きますの!!あ、梓お姉様は…。」

…正直に言おう。私はもう疲れて来ている、と。

袖「梓お姉様は私の心を奪ってしまわれるのです!素敵なのですっ!!」

…突然だが、今夜は鯖の味噌煮が食べたいと思った。
ご飯もおかわりしよう。
確かおばあちゃんが送って来てくれた辛子明太子もあったな。
あれは食が進んで、乙女としては少し困ってしまうよ。

32: 2010/10/02(土) 08:36:35.36
袖「あの、梓お姉様?」

いかんいかん、心が何処かに飛んでいたようだ。
取り敢えず、今の一連の会話は忘れてしまおう。
忘却とは神のくれた最大の慈悲だ、という言葉も今なら理解出来る。

話を元に戻そう、うむ。

梓「あぁ、ごめんね。所で、なんで私の事を知ってたのかな?」

袖「はい、それは紬お姉様にお写真を見せて戴きましたので。」

梓「なるほど…って、もしかして、ムギ…いや、紬先輩の妹さん?」

33: 2010/10/02(土) 08:39:02.12
私の言葉にあからさまな狼狽を浮かべる袖ちゃん。
なんなんだろう、今度は?

袖「いっ、妹などと、恐れ多いのです!私はあくまで琴吹分家の人間ですの。」

分家…庶民たる身には、なんとも耳慣れない響きだが、軽くスルーした方が良さそうだ。

梓「つまりム…紬先輩の従姉妹さんだね?」

袖「はいですの。その通りですの。」

梓「了解。それで入部希望も間違いないかな?」

袖「はいですの!是非梓お姉様と一緒に軽音楽という物がやってみたいと思ってますの!」

39: 2010/10/02(土) 08:43:42.39
ふむ、どうやら打ち解けてくると、言葉がお堅い敬語から「~ですの」になるらしい。

まだ少しキャラクターが怪しいが、おいおい分かってくるだろう。

この辺は、ひとます保留しておこう。

梓「それは勿論大歓迎だけど、パートはなんなのかな?やっぱりキーボード?」

袖「いえ、私アルバイトはした事が無いですの。」

…パートって言ったよ、私は。

梓「えっと、キーボードの方は?」

袖「申し訳ありませんが、キーボードは苦手ですの」

…それは残念かな。

41: 2010/10/02(土) 08:45:32.17
梓「それじゃパー…楽器は何を希望かな?」

袖「楽器なら…あ!今日はこれがありましたの!」

突然鞄の中をまさぐりだす袖ちゃん。
鞄に入るとなると結構限られるけど…なんだろう?

袖「これですの!」

得意満面の笑顔で両手にハメたモノを誇示する袖ちゃん。

でもそれって…牛さんとカエルクン?今更!?

袖「実はこれは…。」

梓「これは?」

袖「カスタネットですの!」

42: 2010/10/02(土) 08:47:34.27
あ、枝毛がある。
そう言えば最近、髪を全く切ってなかったし、そろそろ美容院に行こうかな。
前髪を5ミリ程カットしよう。
春だし、きっと素敵な人と出会える予感もするし。
高校3年生の春に恋に落ちるなんて、もしかしたらそのままゴールインなんて事もあるかも知れないよね。
子供は最低でも2人は欲しい。
1姫2太郎が理想かな?
私の背が低い分、未来の旦那様はやっぱり背が高い人がいいかな?
生まれて来る娘はともかく、息子にはやっぱりそれなりの身長になるように産んであげたいし。

袖「あの、梓お姉様?」

44: 2010/10/02(土) 08:53:08.27
…いかんいかん。心どころか魂まで飛んでいたようだ。

話を元に戻そう、うむ。

梓「…カスタネット?」

袖「はいですの!実はこのパペットのお口にカスタネットが仕込んでありますの!」

あ、ホントだ。もう突っ込む気力も無かったりする。

さ「ねぇ、袖ちゃん。是非一曲披露してくれないかしら。」

…今まで黙ってたと思ったら、いきなりそんなムチャ振りを。
さわこ先生って一体?

梓「あの、さわこ先生。カスタネットですよ?」

さ「あら、梓ちゃんらしくも無いわね。カスタネットは奥が深いのよ。」

47: 2010/10/02(土) 08:54:37.04
梓「それは一応知ってるつもりですが…。」

袖「わかりましたですの!」

さ「あら、それじゃ是非お願いするわ。期待してるわよ、袖ちゃん。」

…カスタネットに期待も何も。

しかしそんな私の思いなどお構いなしとばかりに袖ちゃんは真剣な表情で牛さんとカエルクンの口をパクパクさせている。

…なんてシュールな絵面だろうか、また、魂ごと飛ばされそうになるのを、辛うじて押さえ込む私。

そして袖ちゃんが告げる。

袖「チューニング完了ですの!」

…チューニングて。

48: 2010/10/02(土) 08:56:19.74
袖「それでは参りますの!曲は。」

梓「曲は?」

袖ちゃんの両手が静かに胸の高さに上がる。

牛さんとカエルクンの口が大きく開き、中の赤と青のカスタネットが確かに見える。

袖「ふわふわタイム!」

梓「ふっ、ふわふわ!?」

うたたうんたたっ うたたうんたん
うたたうんたたっ うたたうんたん
うたうたうたうたうたうたうんたんた

袖♪キミを見てるといつもハートドキドキ
んたうたんたうた

袖♪揺れる気分はマシュマロみたいにふーわふわ
うたたん

50: 2010/10/02(土) 08:58:07.77
梓「ぽかーん。」

さ「こっ、これはっ!」

ぽかーんな私を置き去りにして、袖ちゃんの演奏?はいよいよクライマックスだ。

袖♪ふわふわターイムんたんたうんたん

袖♪ふわふわターイムんたんたうんたん うたんうたーん たん

袖「ふぅ、お粗末様でしたの。」

演奏?を終えた袖ちゃんは、優雅な動作で一礼。

はっきり言ってしまおう…素晴らしい、と。

梓「さわこ先生…私はカスタネットを馬鹿にしてたみたいです。」

51: 2010/10/02(土) 08:59:46.34
さ「いいえ、梓ちゃん。それは仕方ないわ。だって私だって初めて見たもの。彼女は…。」

梓「彼女は?」

さ「彼女は、悪魔のカスタネットと天使の歌声を持つ稀有な存在!正にアンヴィバレンツよっ!!」

拳を握って力説するさわこ先生。

何故か納得してしまった私は、きっと取り返しのつかない領域に踏み込んだ彷徨い人に違いない。

袖「あまり褒めらますと照れるですの。」

そう言って牛さんとカエルクンで、ホッペを押さえる姿はやはりシュールだ。

52: 2010/10/02(土) 09:01:15.57
梓「と、取り敢えず入部という事でいいかな、袖ちゃん?」

私の言葉に快心の笑顔を浮かべる袖ちゃん。

袖「よろしくお願いですの、梓お姉様。」

梓「こちらこそよろしくね、袖ちゃん。」

握手すべく差し出した手を握り返そうとした袖ちゃんの手が止まる。

袖「あっ、でも…。」

梓「でも?」

袖「私のカスタネットはまだまだ未熟だと悟りましたので、明日からは電子鍵盤を用意したいと思いますの!」

…電子鍵盤…え?

53: 2010/10/02(土) 09:02:47.05
梓「それってもしかして…キーボードだよね?」

私の言葉に不思議、と言わんばかりの表情を浮かべる袖ちゃん。

今度は何を言い出すのやら?

袖「はぁ…キーボードとは、パソコンのあのぱこぱこする物かと思ってましたの。」

…最早何も言うまい。

梓「で、電子鍵盤でいいかな、は、はははは。」

袖「はい。それでは今日はこの辺りで失礼致しますの。明日の準備もありますので。」

梓「キー…電子鍵盤の準備?」

55: 2010/10/02(土) 09:05:00.94
袖「いえ、折角の軽音部なのですから、やはりお茶とお菓子の準備ですの。」

梓「え?」

袖「明日には早速ティーセットやその他諸々を運びいれたいと思いますの。」

さ「袖ちゃん!貴女って正に天使だわっ!」

袖「いいえ、天使は梓お姉様ですの。」

どうもこの辺りに微妙な艶が見え隠れするのが、怖いけど…まぁ、良しとしよう。

袖「それでは明日からが楽しみですの、梓お姉様。」

何はともあれ、一歩前進。

中野梓率いる新生軽音部は、やっと動きだそうとしていた。

お し ま い

63: 2010/10/02(土) 09:25:09.62
なんで終わるの?

65: 2010/10/02(土) 09:31:37.58
もっと続けられるネタやで

とりあえず乙

66: 2010/10/02(土) 09:34:52.44
>>1です。

なんで終わるのって…取り敢えず最初の一歩だからです。

また続きが書き上がったら後日投下しますので、良かったら読んであげて下さい。

書き貯め派なのです。

引用元: 梓「新入部員は琴吹?」