1: 2010/09/30(木) 02:22:55.44
駅へ向かう途中、おもむろに唯が叫んだ
通行人が忍び笑いで通り過ぎていくのを横目に、唯に言葉を返す

「去年もそんなこと言ってなかったっけぇ?」

「去年は去年だもん!今年20歳になるんだもん!律っちゃんみたいにフラれて泣きたくないもんね!」

最後の言葉が余計だったので頭にチョップを落としてやると、あぅー、と情けない声をあげた

5: 2010/09/30(木) 02:31:00.85
「ハタチならハタチらしくしなさい!それに私は泣いてない!」

「うん、泣き笑いだった。そしてお酒臭かった」

再びチョップの構えを取ると、両手で頭を庇うように飛び退いた

「移動式ドラムセットねぇ」

三歩後ろを着いてきていたムギが笑顔で言う

(どんどん色っぽくなるなぁ)

と、少し嫉妬まじりに見とれた

6: 2010/09/30(木) 02:34:42.98
「ムギ、そろそろ自分で持つよ」

三人分の買い物袋を持ったムギに手を差し出す

恒例の夏合宿用に水着と服を買ったあと、誰が駅まで荷物を持つかジャンケンで決めようと唯が言い出した
そしてムギはまさかの三連敗中だった

「ううん。大丈夫。私、けっこう力持ちだから」

(それは知ってます)

7: 2010/09/30(木) 02:38:58.16
心の中で控えめに同意しながら、荷物を受け取った

「ほら唯、ここからは自分で持ちなさい」

「ハーイ」

受け取った荷物を胸の前で抱きしめている

「欲しかったんだぁ、このキャミソール」

そろそろ大人の色気をださなきゃ、と言って選んだキャミソールは、ピンク地に白い子猫が刺繍されたものだった

10: 2010/09/30(木) 02:43:49.21
「今年こそムギちゃんみたいに素敵な相手を見つけるぞぉ!」

右拳を突き上げながら宣言する唯を見ながら、ムギと二人で苦笑した

「律っちゃんもイメージチェンジしなよ!前髪下ろすとかさぁ。ねぇ、ムギちゃん?」

いきなり話を振られたムギは微笑みをたたえながら

「でも律っちゃんが前髪下ろすと、唯ちゃんと見分けがつかなくなるから」

と、いろいろと問題のある解答を導き出してくれた

11: 2010/09/30(木) 02:47:11.00
「じゃあ、私はここで」

「彼氏と待ち合わせー?」

好奇心たっぷりの表情でたずねる唯を

「うふふ。彼女かもよ?」

と爽やかにかわし、手を振って私たちと別れた
左手薬指のリングが夕日を受けてきらめいていた

12: 2010/09/30(木) 02:53:04.35
「あー、いいなぁ」

「なんと素直なお言葉」

いまだ彼氏というものに縁が無い大学二年生二人は、空想上のデート話を繰り広げながら歩く

「はぁ、来年の夏は合宿どころじゃないしな。今年がラストチャンスかも」

「え?来年は何かあるの?」

「就職活動に決まってるでしょ!」

「えぇ!律っちゃん就職できるの!?」

こちらもいろいろと問題のある発言
というかアンタにだけは言われたくない

13: 2010/09/30(木) 02:58:25.78
「じゃあ放課後ティータイムは解散しちゃうの?」

その言葉にチクリと胸が痛む

「解散じゃない、休止」

自分に言い聞かせるようにしながら唯に返す

「そっかぁ!」

簡単に納得する唯を見ながら、アンタだけはそのままでいて、と願い、私たちはそれぞれの家路に着いた

14: 2010/09/30(木) 03:02:51.20
「おはよう」

「おーはーよー」

七割方眠ったままの頭を机の上に載せ、横目でチラリと澪をみる

端正な顔と長い黒髪に、薄化粧がよく映えている

「恋してますなぁ、青春ですなぁ」

「バカ!そんなんじゃない!」

いつも通り頬を赤らめる澪を見て、少しだけ目が覚める


15: 2010/09/30(木) 03:06:57.67
「携帯鳴ってない?」

「へ?」

澪に言われてバッグの中を確かめる

「電源切っときなさい」
「あれ、梓からだ。授業前に何だろ?」

通話キーを押して携帯を耳に当てる

「おはよう梓。どしたの?」

「律先輩おはようございます…あの…」

「お、まさか私に惚れたかぁ」

16: 2010/09/30(木) 03:12:02.09
いつものようにからかってみる
でも、返ってきたのは初めて聞く梓の怒声だった

「そんなこと言ってる場合じゃないんです!唯先輩が事故に遭ったって憂から連絡があったんです」

不穏な空気を察した澪が私の顔を凝視している

「梓、いまどこ?」

「あ、第一校舎の入り口です。授業どころじゃなくて抜け出してきました」

「すぐ行く」

17: 2010/09/30(木) 03:17:53.64
携帯と授業道具をバッグに押し込ながら澪にまくし立てた

「唯が事故ったって、憂から梓に連絡があったって、私行ってくる」

「ちょっと、ちゃんと説明して」

「ちゃんと説明するから澪も来て」

言い終える前に席を立ち、第一校舎へ向かう
後ろから澪が付いて来るのが分かったから、振り返らなかった

「律先輩、澪先輩」

「梓、ムギは?」

「電話したんですけど電源落としてて…なのでメールしておきました」

18: 2010/09/30(木) 03:26:37.58
「わかった。私はコーヒー買ってくるから、澪にも説明しておいて。中庭のテーブルのとこに行っててよ」

梓の返事を待たずに背を向けると、1F談話室前の自販機で缶コーヒーを三本買った

まだ微かに残る眠気を振り払うために自分用にはブラックコーヒーを買い、飲みながら中庭へと向かう

中庭では白い丸テーブルを囲んだ二人が、沈痛な表情を浮かべていた

「で、詳しい容態は分からないの?」

澪の隣、梓の正面のチェアに座った私は、二人に缶コーヒーを配りながら梓に訪ねる

「はい…憂も動転していたみたいだし…」

空き缶で額を冷やしながら、もう一度説明するように言った

19: 2010/09/30(木) 03:32:11.46
今から四十分ほど前、警察から大学宛てに電話があった

警察は大学職員に、ここの学生が事故にあったこと、携帯は破損してしまい、唯の両親と連絡が取れないこと、なので学生証に記載されていた番号に連絡したことなどを述べた

学校側は唯の両親へ連絡すると同時に、ここの一年生である妹の憂に話をし、憂から梓へ、そして私へと回ってきたのだった

20: 2010/09/30(木) 03:37:15.58
「搬送先の病院は言ってなかったの?」

「憂は何も…」

「そっか」

六月中旬の湿った風が肌にまとわりつく

授業に戻る気なんて起こらなかったから、私たちはムギ、そして憂からの連絡を待つことにした

「大したことなければ良いけど…」

ずっと黙ったままだった澪が声を押し出した
その声に多分に祈りの成分が含まれているように、私には思えた

22: 2010/09/30(木) 03:45:38.18
一時間目を終え合流したムギに事情を説明し、私たちは行きつけのカフェ"VIP"に移動することにした

…何杯目かのコーヒーを飲み干した澪が、たまりかねたように切り出した

「遅すぎる…」

梓から私に電話があったのが9時過ぎ
店内の時計は16時を回っていた

「いろいろと…検査があるだよ、きっと…」

そう言ったムギの笑顔は強張っていた

17時になり街中に夕やけこやけのメロディーが鳴り響く中、梓の携帯が鳴った

「もしもし憂?うん、みなさんと一緒だよ。律先輩に替わるね」

梓が携帯を差し出す
別の何かも押し付けられた気になったけど、梓を責める気持ちにはならなかった



24: 2010/09/30(木) 03:53:29.28
「もしもーし、憂?」

努めて明るい振るまおうとしたけど、自分の声が虚しくなるほど憂の声は沈んでいた
とっさに最悪な事態を想像してしまった自分を責めながら、憂に問いかける

「唯は…無事なの?」

語り出した憂の声は普段の彼女からは考えられないほど、暗く沈んでいた
それでも搾り出すように、命に別状は無いこと、左の肋骨二本にヒビが入っていること、脳波に異常はないけど、目を覚ましてから再検査する必要があることを告げた

25: 2010/09/30(木) 03:58:55.20
憂から聞いた事をそのまま三人に伝えると、三様の表情で大きく息を吐き出した

「良かった。命に別状は無いんですね」

両目に涙を溜めながら梓が口を開いた
ムギは優しく梓の両目を拭ってやった
澪はテーブルに突っ伏しながら

「こういうのやめてよね…」

と脱力した声を出した

「あの…」

携帯の向こうから憂の声

27: 2010/09/30(木) 04:04:16.94
「ゴメンゴメン、みんな気が抜けちゃってさ。無事で良かったぁ」

「律さん、あの…」

「ん?」

憂の声は沈んだままだった
三対の瞳が再び私を凝視する

「律さん、お姉ちゃんは…」

自分の脳がその言葉その物を拒絶するのがわかった
憂が言った言葉を何度も頭の中で繰り返す
何度も何度も繰り返すうち、無意識にその言葉を呟いていた

「左腕を切断…」


29: 2010/09/30(木) 04:10:49.45
電話を切ったあとのことはよく覚えていなかった
あの言葉がドラムロールのように頭の中をグルグル回り続けている

部屋に荷物を置くと浴室に飛び込み、少し温めのお湯を浴びた
半分以上夕食を残してしまったので母親から心配されたけど、大丈夫、とだけ言い残して部屋に戻った

 ―明日学校休む―

と三人にメールを送ると、電気を消して早々と布団に入った
そして、自分の左腕を抱きかかえるようにして眠った

31: 2010/09/30(木) 04:16:20.52
目を覚まし、枕元の時計を確認する
11:40という数字の並びを眺めながら、昨日の今ごろを思い返した

あのときはまだ知らなかった
だから不安だった

今はもう知ってしまった
そしてやはり不安だった

携帯を見ると五件のメールと三件の着信が入っていた
そのメールで三人も学校を休んだことを知り、そして今はVIPにいることを知った

32: 2010/09/30(木) 04:21:43.93
昨日より熱めのシャワーを浴び、髪を乾かす
無意識のうちに左腕を見ないようにしていることに気付いた
だけど気付いてからも左腕を見ないように努めた

VIPに着くと三人のいるテーブルに座る
梓の目は既に真っ赤だった

「唯はどんな顔するかな」

窓の外に視線をやりながら、澪が私に問いかける

「無理して笑うのかな、やっぱり」

「唯はそういう子だからね」

運ばれてきたアイスティーにミルクを注ぎながら、澪に同意した

34: 2010/09/30(木) 04:25:48.96
「そんなの…辛すぎます…私たちが唯先輩を励まさなきゃならないのに…」

友人として当然とも言える梓の言葉に、私はイラついていた

励ます?片腕を失った今年ハタチになる女の子を?どうやって?

「大丈夫だよ唯、片腕を無くしても唯は唯だよ」

そう言って抱きしめてやれば良いの?

36: 2010/09/30(木) 04:32:13.02
「…律、律!」

澪の声に我に返る

「あ、うん、ゴメン…」

意味の無い謝罪を口にしながら、テーブルの上に置かれたムギの手に目をやる
左手のリングはハズされていた

===========
こうなることは分かっていた
長く重く、痛みに満ちた沈黙
耐えきれずに席を立とうとしたとき、梓の携帯が鳴った

「憂からです」

通話キーさえ押さずに携帯を差し出す梓を、今度は心の中でハッキリと責めた


37: 2010/09/30(木) 04:37:24.37
「もしもし、律だよ」

「あ、律さん、みなさんご一緒ですか?」

「うん、みんないる」

「お姉ちゃんが目を覚ましました」

麻酔が切れたのか…
無感動にそう呟くと、唯が目覚めたことを三人に伝えた

「そう、良かった」

「ハイ、良かったです」
ムギの言葉を繰り返す梓に携帯を返す

「○○病院の605号室、個室だってさ。今から検査があるみたい。終わったらまた電話するってさ」


38: 2010/09/30(木) 04:41:24.09
検査が終わって憂から電話がきて、そしてその後は?

花束とケーキを持って病室を見舞えば良いのだろうか?

「…憂から電話がきたら知らせて。直接病室に行くから」

自分の分の勘定をテーブルの上に置くと、私は席を立った

「律先輩」

そう呼びかけた梓の声に気づかないフリをして

39: 2010/09/30(木) 04:48:25.65
約三時間後、澪からメールがきたので病院へ向かった
病室の前では三人と憂が私を待っていた
私は無言で頷き、憂を促した

「お姉ちゃん。みなさんが来てくれたよ」

精一杯明るく振る舞っていたけど、語尾の震えが無理をしていることを物語っていた

「みんなー、心配かけてごめんねぇ」

憂以に無理をした声で唯が言う


40: 2010/09/30(木) 04:54:22.70
「でももう大丈夫だからね。脳にも異常は無かったし、肋骨のヒビも半月もたたずに治るだろうって。なにしろまだハタチ前だからねぇ!」

いつものようにオーバーアクションで語っている
でもシャツの左腕は肩からぶら下がったようにゆらゆらと揺れていた

唯は事故当時のことを覚えている限り話してくれたけど、一つとして頭には入らなかった

41: 2010/09/30(木) 04:58:56.25
一方的に話していた唯が口を閉じると、病室の中を沈黙が支配した

「お姉ちゃん、そろそろ警察の方がいらっしゃるみたいだよ」

それは唯に向けられたら言葉だったけど、憂が私たちを解放するために発した言葉のように思えた

「また来るからね」

三人が異口同音に唯に伝え、私たちは病室を後にした

42: 2010/09/30(木) 05:06:36.81
帰り道は誰も言葉を発しなかった
ほんの二日前まで、私たちの間には止めどもない無駄口と音楽が溢れていた

でも今は…

「じゃあ、私と梓ちゃんはここで」

ムギにそう告げられても、手を振る気さえ起こらなかった

澪と並んで歩くいつもの道

一年前にフラれたとき、最初に澪に打ち明けたのがこの道だった

「呑むか!」

そう言って肩を抱いてくれた澪

だけどみんな未成年だったから、さわちゃんに電話してお酒を買ってきて貰った
そのさわちゃんも今年の二月に結婚し、遠い街に行ってしまった

43: 2010/09/30(木) 05:16:12.04
さわちゃんのことを考えながら歩いていると、ローソンの看板が目に入った

何も言わずに店内に入ると、澪を無言で付いてきた

陳列棚から百円ライターと携帯灰皿を取り上げ、カウンターへ置く

「それと…一番左上のタバコ」

銘柄なんて分からなかったから、適当に指名した

年齢確認されるかと思ったけど、私と同い年くらいの茶髪の店員だったから何も言わずに売ってくれた

澪は支払いをする私の顔をずっと見ていたけど、やっぱり最後まで何も言わなかった

47: 2010/09/30(木) 05:23:14.83
部屋に戻ると窓とカーテンを締め切った
全ての音と光が煩わしかった

ベッドの上で壁に背中を預け、タバコのフィルムを剥がす
たどたどしくタバコを一本取り出すと口にくわえ、ライターで火をつけ、大きく吸い込んだ

「ウッ、ゲホッ!ゲホッ!」

咳とともに涙が溢れ出す
自分の嗚咽が背中の壁で跳ね返り、鼓膜を揺らした

それは大切なハズの何かが崩れ落ちていく音だった

49: 2010/09/30(木) 05:29:35.43
今日も学校を休んだ
今度は誰にもメールしなかった

ステレオからはFMラジオの音声から流れている
ベッドに仰向けになり、火のつけられていないタバコをくわえたままで聞いていた

誰かに抱かれたいな…
柄にもなくそんなことを考えてみた

「続きまして東京都のPN、ビッパーさんからのお便りです!」

DJがやたら楽しそうにハガキを読んでいる

50: 2010/09/30(木) 05:34:10.20
「中学時代、この曲でロックに目覚めました、とのことでーす。それでは聴いて頂きましょう!ザ・ブルーハーツで、僕の右手」

イントロ無しでボーカルが入る…


 僕の右手を知りませんか?

 僕右手を知りませんか 行方不明になりました
 指名手配のモンタージュ
 街中に配るよ

51: 2010/09/30(木) 05:38:17.52
反射的にリモコンのOFFボタンを押し、そのままステレオに向かって投げつけた
電池カバーの外れたリモコンから単三電池が二本、床に転がった

タバコに火をつけ少し控え目に吸い込むと、今度は咳こまずにすんだ

だけど案の定、涙は溢れ出てきた…

53: 2010/09/30(木) 05:44:40.41
誰からの電話もメールも来ないまま、15時になろうとしていた
シャワーを浴びよっかな、そんな事を考えていると、突然携帯が鳴った
液晶ディスプレイには"唯"と表示されている

「もしもし、唯なの?」

「唯だよ、へへへ」

「電話直ったの?」

「お母さんが機種変してきてくれたんだ。SDカードは無事だったから、みんなの連絡先はバッチリだよ」

数秒間の沈黙

「今日は…誰もお見舞いに行ってないの?」

「さっきまで澪ちゃんとムギちゃんとあずにゃんがいたよ。その前は和ちゃんが来てくれた」

54: 2010/09/30(木) 05:49:00.84
(仲間ハズレ…か)

でもそれは、たぶん自業自得だった

「律っちゃん来てくれなかったからさ。どうしたのかなって」

「あ、うん、ちょっと用事があってさ。これから行こうと思ってたんだけど」

勢いで嘘が滑り落ちた

(あぁ、こうやって少しずつ終わっていくんだな…)

そう考えたらまた泣きそうになった

55: 2010/09/30(木) 05:53:00.19
「ホント?律っちゃんにお話したいことがあるんだぁ。待ってるね」

「あ、うん…」

ツーツーという無機質な音を聞きながら、深くため息をつく

「行かなきゃ…ね」

昨日みんなで歩いて帰った道を今日は一人で歩く

自分への罰なんだと思った

56: 2010/09/30(木) 05:57:22.20
「唯、入るよ」

「どうぞー」

病室に入ると花の香りで満ちていた
唯はベッドの上で体育座りをしている

そして見たことのある紙袋を大事そうに右手で抱えていた

「えへへ」

意味も無く笑う唯が、すごく遠くにいるように感じられたら

「あのね律っちゃん」

節目がちに話し始める

57: 2010/09/30(木) 06:03:52.28
「午前中にね、看護士のお姉さんに体重計を持ってきて貰ったの」

言わないで…
お願いだからその先は…

「そしたらね、そしたら…2.3キロも痩せてたよ!もく……目標達成だね!」

泣き出した唯に歩みより、きつく抱きしめた
でもそれは、少し自己満足的な行動だったかもしれない

まだ失われていない何かを、必氏で繋ぎ止めようとしていたんだから

58: 2010/09/30(木) 06:08:17.37
唯が泣き止むまでずっと抱きしめていた
私の目からは、不思議と涙はこぼれなかった

「へへへ、ごめんね」

照れくさそうに笑いながら、右手で紙袋を掲げてみせる

「これなーんだ?」

「ピンクのキャミソール」

「せいかーい!」

私は唯を見つめたまま、次の言葉を待った

「えっとね律っちゃん…えっと…」

「どしたの?」

59: 2010/09/30(木) 06:12:46.36
「私ね…これ…着てみたいんだ」

そう言って真っ直ぐに私の目を見つめた唯を、私も見つめ返す

「うん、絶対似合うよ」
私の言葉を聞き終えると、右手でシャツの前ボタンを外し始めた

「手伝おうか?」

そう言いかけて言葉を呑み込んだ
それは唯を、私の友達を侮辱する言葉だと思ったから


61: 2010/09/30(木) 06:19:10.90
ボタンを外し終えシャツを脱ぐ
左肩の付け根の傷痕目に飛び込んでくる
胸部には真っ白な包帯がサラシ状に巻かれている
私は傷痕から目をそらすために、その白さばかりみていた

紙袋からキャミソールを取り出し、ベッドの上に広げる
白い子猫が刺繍が微笑んでいるように感じた

拙い手つきでキャミソールを着終わると、私に向かって正対した

62: 2010/09/30(木) 06:26:11.37
「どうかなぁ?」

熱いものが込み上げてくるのをこらえながら、唯に言葉を返す

「すごい似合ってる。色っぽいよ、唯」

言い終わると同時にまた唯を抱きしめていた
今度は二人とも顔をグシャグシャにしながら、それでも長い時間抱きしめてあっていた

右手で左肩の傷痕を撫でると、くすぐったいと言って笑った
左手は唯の右手を握りしめている

私の人生を豊かにしてくれる温もり
それと同じ温もりを、私は唯以外にあと三つ知っていた


63: 2010/09/30(木) 06:31:26.09
自分の部屋に戻るとタバコの箱の中身を数えた
まだ16本も残っていたけど、躊躇うことなくゴミ箱に投げ入れる

それから三人にメールを送った

 ―明日の16時、唯の病室でティーパーティー!―

返事は来なくても良かった
シャワー浴び、夕食を全て平らげ、泣き疲れた目を休ませてやるために布団に潜り込んだ

64: 2010/09/30(木) 06:38:08.57
「何言ってるんですか!」

梓の声が病室に響く

「梓ちゃん、病院で大きな声を出しちゃダメだよ」

「だって…だって…」

梓を諭すように唯が語り出す

「怒らないであずにゃん。私が律っちゃんにお願いしたんだから」

「唯先輩…」

続いて私の番

「三人の中で一人でも反対したらこの話は無し」
ムギと梓が顔を見合わせる

「やりたいことってつまり」

澪が私と唯を交互に見つめる

「解散ライブってこと?」


66: 2010/09/30(木) 06:45:32.54
「どうかなぁ」

唯の左肩に右手のひらを載せ、言葉を続ける

「私はただ唯のしたいようにさせてあげたいだけ。その後のことなんて考えてない。私の性格をよくご存知でしょ、みーおちゅわーん」

しばらく見つめ合っていたけど、仕方のないヤツだ、と言いたげな表情で頭を掻く
それが同意のサインだということぐらい、私にはわかる

ムギも同じような表情を浮かべていたけど、いつも笑顔でVサインを作ってくれた

68: 2010/09/30(木) 06:50:23.18
残る一名は…

四人の視線がその約一名に集中する

「………もう!今回だけですからね!」

「天守閣が落ちたぞー!」

そう言いながら梓の髪の毛をクシャクシャにしてやった
最悪です、と言いながら、梓も久しぶりに笑顔を見せてくれた

このライブで何かが終わるのかもしれない

でもきっと
同じくらい大切な何かが新しく始まるんだ
それはとても素敵なことだと思えた

69: 2010/09/30(木) 06:55:56.47
数日ぶりに叩くドラムは何だか別の楽器みたいで、梓から何度もダメ出しを喰らった

あとでケーキ奢るから
そう言うと

「今回だけですからね!」

と返ってきた

時間が空くと唯の部屋に集まり、ムギが持ち込んだティーセットでティータイムを楽しんだ

私たちのことは病院関係者の間でも評判になり、唯の病室は喫茶605と呼ばれるようになっていた

そして梅雨が空けるころ、唯は退院した

70: 2010/09/30(木) 07:03:36.39
「100くらいいそうです」

ステージ袖から客席をチラ見してきた梓が報告した

「さわ子先生もいらっしゃいましたよ」

「お、幸せ女め!」

罵声とほめ言葉がブレンドされた私の叫びに、四人が揃って笑い声をあげた

「まぁ、今回の影の功労者だからね」

さわちゃんのツテを頼りまくり、150人収容の箱の金曜日の部にねじ込んで貰った

放課後ティータイムの出番は最後から三番目という良いポジション

71: 2010/09/30(木) 07:06:57.07
「緊張するねぇ」

相変わらず緊張感の無い声で唯が言った
ピンクのキャミソールに白い子猫
やはり子猫は微笑んでいるように感じた

私たちを非難する人も大勢いるだろう
片腕を失って間もない女の子にキャミソールを着せ、ステージに上げようとしているんだから

72: 2010/09/30(木) 07:11:05.85
「同情買うわけね」

出番を終えたバンドのメンバーたちがそんな風に口にしているのも聞いた
でも、そんなことはどうでも良かった
五人がいて音楽があれば、そこが私たちの世界の真ん中なんだから

「放課後ティータイムさーん、そろそろでーす」

スタッフに声をかけられ円陣を組む

さぁ行こう
真ん中の真ん中へ

74: 2010/09/30(木) 07:13:40.72
唯がステージに上がるとどよめきが起こった
好奇心と嫌悪感が入り混じったどよめき

「放課後ティータイムです!よろしくお願いします!」

最前列にはギー太を抱いた憂がいる


76: 2010/09/30(木) 07:17:15.44
梓がワンコードを鳴らし、私がカウントを取る

 僕の右手を知りませんか

歌い始めた唯の背中を見つめる

 僕の右手を知りませんか
 行方不明になりました
 指名手配のモンタージュ
 街中に配るよ

78: 2010/09/30(木) 07:20:46.67
演奏レベルは大したことない
それは自分たちが一番よくわかってる

でも…

 見たことも無いような
 ギターの弾き方で
 聞いたことも無いような
 歌い方をするよ
 だから…

泣きそうになるのをグッとこらえる

終わったらみんなで呑もう!
いっぱい泣き笑いしよう!

79: 2010/09/30(木) 07:28:54.91
間奏が終わりツーコーラス目が始まるん

 人間はみんな弱いけど
 夢は必ず叶うんだ
 瞳の奥に眠りかけた
 挫けない心

 今にも目からこぼれそうな
 涙のワケが言えません
 今日も明日も明後日も
 何かを探すでしょう

もう探す必要なんてない
失うことだってきっとない

私たちのティータイムは
ここからずっと続いていくんだから



80: 2010/09/30(木) 07:33:31.84
拙い文章を読んで下さった方々
支援して下さった方々
どうもありがとうございました

つべで僕の右手を聴いていたら何故かけいおんと合わせてみたくなったのでw

若干禁じ手気味かもしれませんが、平にご容赦を

81: 2010/09/30(木) 07:47:15.45

引用元: 唯「2キロ痩せてやるー!」