1: 2012/10/04(木) 20:52:56.46
 口内に鋭い痛みを感じたのは今朝のことだ。
 早朝、私は携帯のアラーム音で目を覚ます。AM5:00、私の一日はほとんど毎日、この時間帯から始まる。
 その日も同じように起床し、低血圧の私は寝ぼけ眼を擦りながら欠伸を噛み頃したのだ。
 いつもと違ったのは口内だった。
 口内炎というやつだ。奴が私の口内で発生していた。
 それも二個だ。大きなものに寄り添うように小さな口内炎がくっついている。

3: 2012/10/04(木) 20:54:06.76

「…………」
 何ということだ。私は頭を抱える。
 よりにもよって口内炎は下の先、先端に極めて近い場所に位置していた。
 困るのだ。その位置に口内炎が出来てしまった場合、喋ることすら難しくなってしまう。
 声が出せないわけではないのだが、喋るたびに猛烈な痛みに襲われる。裂傷や火傷、外部からの痛みには強いと自覚している私だが、どうにも口内炎の痛みは苦手だった。
 幼い頃から苦手なのだ。

9: 2012/10/04(木) 20:55:01.53
 頬の内側だとか、唇の端だとか、他にも発生できる場所はあっただろう……と口内炎を恨んでみる。
 口内を不潔にした覚えも、傷をつけた覚えもなかった。ビタミンも取っている。
 ――となれば原因はやはり、ストレスや睡眠不足によるものなのだろう。
 私にとって口内炎とはとても厄介で、それが二個も舌の先端に発生するなど一大事なのだが、世間はそうは思うまい。
 これしきのことで仕事を休むことなど出来るはずもない。
 私は億劫ながらも出掛ける支度を始めた。
 どこにでも売っていそうなワイシャツにジーパンを合わせる。おしゃれの欠片もないスタイルだ。地味だ。
 寝癖を出来るだけ時間をかけて整える。

11: 2012/10/04(木) 20:56:14.07
「……」
 参った。
 現実逃避を繰り返していたが、この時が来てしまった。
 私は基本的に仕事を終えるまでは食事をとらない主義なのだが、食事をしない=歯磨きをしなくていい。というわけではないだろう。朝起きて歯を磨かなくては気分が悪い。衛生面でもよろしくないはずだ。
 四苦八苦しながら、目尻に涙を浮かべながら何とか歯磨きを終える。
 地獄の時だった。

12: 2012/10/04(木) 20:57:30.68
 ベーキングパウダーを塗っておけば早く治るとどこかで耳にしたことがあった。
 私は食糧の少ない、使用頻度の少ないキッチンを漁ってみるが見当たらない。
 十分ほど探索を続けたが発見することは叶わず、私は家を出ることにした。そろそろ出掛けなくては、時間に間に合わなくなってしまう。
 どの仕事でも大概そうだろうが、私の稼業において時間はとても重要な意味を持っていた。
 折りたたみ式のナイフを懐に忍ばせ、私は家を出る。
 駅へ走り、最寄の駅から電車に乗って二度乗り換えをした。

 目的の駅へついたところで携帯が鳴った。
 尻ポケットから携帯を取り出し、着信番号が非通知になっていることを確認してから耳に当てる。
「……はい」
 痛い。
「約束どおり、今日なんだけど。まさか忘れてなんていないわよね?」
「……」
「まさか、忘れてたのかしら?」
「いや」
 痛い。
 約束は果たす。依頼は果たす。
 だからこれ以上電話を長引かせないでくれ……と内心で必氏に祈った。
 悪人の祈りも神に届くのかもしれない。電話の相手、依頼主の女は鼻を鳴らすと高飛車な口調でごちゃごちゃと細かい注文をつけ、一方的に電話を切った。

13: 2012/10/04(木) 20:58:21.22
薬局いけよ!

14: 2012/10/04(木) 20:58:45.08
 駅のホームを足早に抜けて、女に指定された場所へと急ぐ。
 正面口から出て西へ向かってすぐ、そのレストランを発見することが出来た。
 私はポケットから眼鏡を取り出してかけ、店内へ足を踏み入れた。応対の為に出てきたウェイターに客ではないことを伝える。痛い。
「女の子、ですか?」
「ああ」
「確かにご来店されています。お父様を待たれているということだったのですが」
「そうだ」
 痛い。
 店員は私の嘘を案外あっさりと受け入れた。そんなに老けて見えるのだろうか? 少しショックを受ける。
 私はまだ十七なのだが。
 案内された先は禁煙の四人席であったが、小さなセミロングの子供が一人座っているだけだった。
 酷く寒々しい光景だ。私はウェイターに礼を言い、一人で彼女に近付く。

15: 2012/10/04(木) 20:59:40.17
「……あなた、誰?」
 私が対岸の席へ座ると、当然ながらも彼女は不思議そうに問いかけてきた。
 それに答えずに彼女の手を引く。抵抗されれば脅すつもりだったのだが、少女は手を引かれるままに私についてきた。
 人気の多い店を出て駅の裏口付近の裏道へと向かう。人通りの少ない場所だ。
「痛い」
「私だって痛い」
 痛い。
 少女が手の痛みを訴えたので、私は彼女の腕を離してやることにした。少し強く握りすぎたかもしれない。
 小さく細い手首が少し赤くなっていた。
「もしかして、ママの職場の人? またお世話を頼まれたの?」
「……違う」
 痛い。
「違うの? だったら……お兄さんは誰? どうして私を連れてきたの?」
 私は痛みを訴える口を無理に動かすことにした。

16: 2012/10/04(木) 21:01:43.94

 殺人鬼、殺人犯、犯人、被疑者、容疑者、ロマンに欠ける。
 私は自らを「頃し屋」と呼んでいた。そうだろう、それが一番適切な言葉だろう。
 金を貰って人を頃す。人を頃すことを稼業としている。現実に存在するとは思われていない……しかし誰しもがフィクションで知っている仕事だ。
 浪漫や職人気質を持っているわけではないのだが、私は自分を単なる人頃しだと認めることが恐ろしく、頃し屋としてのプライドやルールを定めていた。
 こちらは一つしかない命を頂戴するわけだ。
 相手の気持ちになって考えてみよう。何も分からないまま突然現れた不気味な男に殺されたとあっては、納得がいかないに違いない。納得する考えすら屍は持たないのだが。
「頃し屋だ」
「頃し……屋? 人を頃すお仕事をしているの? それで、頃し屋さんが私に何の用なの?」
 鈍い。頃し屋が「用がある」といえば、それは「今からお前を頃します」と同義ではないのか。

18: 2012/10/04(木) 21:05:19.23
「違う」
 痛い。
「違う?」  
 私は頷いた。ただの頃し屋では困るのだ。
 そんなものは金を貰って動く、ただの殺人者だ。
「お喋りな、頃し屋」
「お喋りな頃し屋? 嘘だ。お兄さん、どちらかといえば無口だよ?」
 痛い。痛い。口内が痛いため現在は例外なのだ。
 ――私は標的に「氏の理由」を語るようにしていた。
 それが私なりのルールである。一つしかない命を頂戴するのだ。その代わりにはならないだろうが、自分がどうして氏ぬのか、誰によって殺されるのか、それぐらいは理解させてやるべきだろう。
 私は標的に全てを喋るようにしていた。お喋りな殺人鬼なのだ。
 そして、目の前の少女に対しても例外ではない。

19: 2012/10/04(木) 21:06:28.68
 黙りこんだ私をじっと見ていた少女は、やがて突然何かに気付いたようだった。
 はっと顔を上げて私を見る。見開いた目で私を見る。
「お喋りさんは、私を頃しに来たのね」
「ああ」
 痛い。気付くのが少し遅い。
 私は折りたたみナイフを取り出し、刃を彼女の前にちらつかせた。
 小さな彼女は小さく息を呑んで顔を青くした。しかし、悲鳴をあげない。逃げようともしない。
 私は私のポリシーを果たしていない為、彼女をまだ頃すわけにはいかなかった。
 私と彼女、どちらも動かずに時間だけがすぎていく。

 先に痺れを切らして口を開いたのは私だった。口内炎は嫌だったが、無駄な沈黙は更に嫌なのだ。
「名前」
「名前……? わ、私の?」
「そう」
「……○○春奈」
 彼女の名字には聞き覚えがある。
 ああ、全てが繋がった。彼女がどうして氏ぬのか、その理由に気付く。
 彼女の名字は今回の依頼人の名字と同一であった。更に、依頼人は彼女がどこにいるのか理解していた。
 ――春奈は、実の母親に殺害を依頼されていた。
 むごい話ではあるが珍しいことでもない。身辺調査の結果、春奈の母親は過去に一度離婚をしていた。
 元夫の娘が邪魔になったのだろう。酷い話だ。ありがちな話だ。面白みもない。
 理由は分かった。
 あとはこれを春奈に伝えて頃すだけだ。

20: 2012/10/04(木) 21:11:29.05

 さて、どう説明しようかと私は頭を捻る。
 何しろ、幼い彼女に……小学校にすら入学していない彼女に複雑な事情を説明し、きちんと理解させなくてはいけない。それが私が自分自身に課したルールだ。
 熟考の末、文章は浮かんだ。原稿用紙一枚分ほどの文章だ。
「お前は……」
 さて、語ろう。そう意気込んで唇を開いた瞬間だった。
 猛烈な痛みが私の口内を満たす。あまりの痛みに言葉を続けることができなくなった。
 そうだった。私は今、重症の口内炎被害者なのだ。

21: 2012/10/04(木) 21:12:36.14
気付けば私は少女の小さな手を引いて駆けていた。
 ターゲットを追う立場であるはずの私は、何かから逃げるように走っていた。
「お喋りさん、どうして逃げるの?」
「……走れ」
 痛い。
「お喋りさん、私を殺さないの?」
「黙れ」
 痛い。
 さて、どこへ逃げるというのだろう?
 私達、裏の人間のネットワークは非常に繊細で、広大で、緻密だ。
 それはそこに属する私が一番知っていることなのだ。どこにいようとも、私達のような暗い人間は存在する。
 彼等は無数の目だ。
 無数の目は私達を見逃さないだろう。
 裏切り者を逃がしはしないだろう。

23: 2012/10/04(木) 21:13:33.43
 断っておくが私は少女に同情したわけではない。
 無邪気な命を絶つことに抵抗を覚えたわけではない。
 私は私の美学を、ポリシーを崩すことが嫌だっただけなのだ。
 つまるところ、私は口内炎のせいで少女の「殺される理由」を説明することが出来ないから彼女を殺さないのだ。
 決して、春奈に同情したわけではないのだ。

 とりあえず、人目のないスーパーの裏へと逃げ込んだ。
 息を切らす少女が再び走れるようになるまで、待ってやるつもりだった。
「数日前」
「?」
 私は痛む口で何とか言葉を紡ぐ。
「数日前、猫を見つけた」
「猫?」
 汚い猫だった。砂埃で汚れて、灰色になってしまっていた野良猫だった。
 雌猫で、やせ細っていた。
「妙に腹だけが大きな猫だ」

25: 2012/10/04(木) 21:15:05.29
「家の裏に住み着いてしまった」
 何を思ったのか、汚い猫は私の借りている部屋の裏を住処にした。
 安いアパートの一階に部屋を借りている。
 その為猫は雨天時、ベランダへ上がりこむようになっていた。我が物顔で居座られるのは不愉快ではあったが、実害があるわけでもない。私は猫を見守ることにした。
 餌をあげることはしなかった。
 猫はガラス越し、室内にいる私を「ケチ」と恨めしそうに睨んでいるようでもあった。

「子猫が生まれた」
 ある日、汚い猫は子供を産んだ。
 腹だけが妙にでかかったのは妊娠していた為であり、痩せ細っていたのは食糧の不足と、妊娠によってエネルギーを消費していた為だろう。
「三匹生んで、猫は氏んだ」
 エネルギーを使い果たしたのかもしれない。
「しばらくして、子猫も氏んだ」
 当然だろう。親猫の庇護がなければ生まれたての子猫など生きてく術を持たない。
「私はそれを見ていた」
「可哀想……」
 春奈がぽつりと呟いた。

26: 2012/10/04(木) 21:16:27.66

「後悔した」
 初めての経験だった。
 そ知らぬふりをして子猫が餓氏するまでを見守った後、全世界に責められているような感覚を味わった。
 生まれて初めて、後悔をした瞬間だった。
「お喋りさんが? 頃し屋なのに?」
「……後悔した」
「それで、お喋りさんはどうしたの?」
「どうもしない。ただ、それだけ」
 それだけだ。
 その話に続きはなく、今話すべき必要性もない。
 ただ、なんとなく思い出したから話しただけなのだ。
 お喋りだから、無駄話をしたかっただけなのだから。

27: 2012/10/04(木) 21:17:51.22
猫の話する前に説明してやれよw

28: 2012/10/04(木) 21:19:16.65
「お喋りさん、私を殺さなくていいの?」
 もう一度、春奈は尋ねた。
「口内炎が」
「口内炎? できてるの?」
「できている長話などできないほどに痛い。だから殺さない、本当だ」
「……ふーん」
 春奈は面白くなさそうに曖昧な返事をした。
「変なの」
「変でなければ頃し屋などしていない」
 私だって、子供の頃は普通の人間になりたかった。

29: 2012/10/04(木) 21:20:34.04
 近くの店で適当に服を買い、帽子を被り、見た目を変えた。
 春奈の見た目も変えた。ひらひらスカートからボーイッシュな見た目になった。
 それから薬局に寄る。
 口内炎の痛みを和らげる薬を買い、口内に塗った。
「痛くない?」
「多少は」
「良かったね」
「お喋りだから、喋れないのは辛い」
 私は春奈の手を引いて薬局を出て、コンビニに余っておにぎりを買った。
 春奈はコンビニのおにぎりに感動していた。

31: 2012/10/04(木) 21:24:19.31
 夜の街で子連れは目立つ。
 私は偽名を使って近場のビジネスホテルに入った。
 自宅に戻ることは出来ないだろう。私は仕事から逃げた。裏切り者は追われているはずだ。
 ダブルベッドの上で跳ねていた春奈が不意に私を見て尋ねる。
「お喋りさん、斉藤勝二っていうの?」
「違う」
 おそらく、チェックインの際に私の手元を見ていたのだろう。
「偽名」
 私は手元の携帯をいじりながら答えた。
 着信が大量に入っていた。おそらく、私の気の迷いに対して怒っている連中からだろう。
 私は携帯の電源を切り、壁に向かって壊れるように投げつけた。
 春奈が音に驚いて首をすくめる。
「もったいないよ」
「もう一つある」
 私はプライベートの用の携帯を取り出して見せた。誰も番号を知らない、私が所持していることは誰も知らない携帯だ。
「お喋りさん」
「何?」
「さっき、手、繋いだね」
「繋いだな」
「家族みたいだね」
「家族?」
 ホームドラマならば見たことがあった。
 手を繋いで夜の街を逃げるのは、家族らしいのだろうか?
 春奈が言うならばそうなのだろう。私は頷いた。

32: 2012/10/04(木) 21:26:53.56
「お父さん、私にはいなかったけど」
「……」
「きっとお父さんがいたとしたら、お喋りさんみたいな人だったと思うんだ」
「仕方ない」
「うん?」
「私は父親代理だ」
「代理? 父親?」
「ああ」
「やった」
 春奈は嬉しそうに微笑んだ。

「お喋りさん」
「何?」
「春奈って呼んでいいよ」
「春奈」
「うん、じゃあお喋りさんの名前は?」
「私か?」
「私だ」
 困った。
 私には名前がなかった。
 厳密に言えば過去はあったのだろうが、憶えていない。
 住居に登録している名前も、偽名だった。
 使わなければ名前といえども、忘れてしまうものなのだ。

33: 2012/10/04(木) 21:28:32.38

「グラドゥス・アド」
「ぐら……ぐらたん?」
 父親になるにあたって、新しく名前を考えてみた。
 春奈は戸惑ったように反復しようとするが、舌が回らない。
「呼びにくいなら、今までどおりでいい」
「お喋りさん?」
「うん」
「可愛くないから、ぐらたんでいい」
「それでいい」
 何でもいいので採用しておいた。
 結果、私の名前は食欲をそそるものになってしまった。

 新しく部屋を借りようにも、不法な手段で入手した偽名は最早使えない。
 新しく他の人物から名前を買おうにも、そんなことをすれば足がついてしまう。
 八方塞りだ。
 このまま、信憑性のない名前でも宿泊を許してくれるホテルを回るしかないのが実情だった。
 幸いにも、今まで私が頃してきた人間達にとっては不幸いにも、金だけは有り余っていた。
 私はクレジットや口座というものをあまり信用しない人間だった。
 だからこそ、現金を大量に持ち歩いている。
 しかし、膨れた財布いっぱいの札束でも、一生暮らせるわけではないだろう。
 金の問題が解決したとしても、裏切り者を追う目から逃げられるとは思えなかった。
 問題の上に問題が積み重なっている。
 私は溜息をついた。

34: 2012/10/04(木) 21:30:08.60
 ベッドで眠る少女を見下ろし、ふと思い立つ。
 この女を今ここで殺害すれば、元居た立場へ戻ることができる。
 頃し屋に戻り、元の生活へと戻ることになるだろう。追われる生活よりはマシに違いない。
 ふと、窓に目をやると、薄汚れた自分の姿がガラスにうつっていた。
 その目が、痩せた顔が、ぼさぼさの傷んだ髪が、あの日見た猫に似ていた。
「大変そうって、そう思っているんだろう?」
 突然、ガラスの中の自分が口を動かした。
 いつの間にか顔だけが猫になっている。気持ちが悪い姿だ。
「大変そう?」
「汚い猫だと、思っているんだろう?」
 いつの間にかガラスの自分は、あの日の、ベランダからこちらを見ていた猫へと転じていた。

「哀れだと、思っているんだろう?」
「うん」
「迷惑な話だ」
「同情は迷惑か」
「お前はそうやって、私を汚い、哀れな猫だと眺めるだけだ」
「……」
「人間が同情して餌をくれるかもしれない。そう思ったからここで暮らしているのにね、お前ははずれだったようだ」
「私ははずれか」
「大はずれだ。哀れだと思うなら、見ていないで餌をくれ」
 あの時の猫もきっと、私を見ながらそう思っていたに違いない。

36: 2012/10/04(木) 21:31:02.12
 目が覚める。
 よく寝た。久しぶりに、ぐっすりと氏んだように眠った。
 快適な朝など、何日ぶりだろうか?
 考えながら腕の重みに気がつき、隣を見るとそこには体を丸めて寝息を立てる、春奈がいた。
「おい」
 腕を枕代わりにされていては起きることが出来ない。
 無理矢理引き抜くのも少し可哀想な気がして、私は声をかけて起こすことにした。
「おい」
「……うぅ」
「春奈」
「……ぁ、ぐらたん」
「ぐらたんだ」
「おはよう」
「おはよう?」
「おはよう」
「……おはよう」

37: 2012/10/04(木) 21:32:22.31
 同じホテルに何日もいては見つかる可能性が高くなる。
 しかし外を出歩くのも危険だ。
 夕方まで時間を潰し、それから移動しようと私は決めた。
 言うと春奈は賛成した。
 それから退屈を潰すために、私達は色々な話をした。
 私には話のネタがあまりない。必然的に、春奈の思い出語りが大半となってしまった。
「春奈」
「ん、どしたのぐらたん?」
「頃し屋は好きか?」
「嫌い」
「嫌いか」
「人を頃す仕事は、人を悲しませるお仕事だから」
「そうだな」
 嫌われ者は慣れている。
「廃業する」
「はいぎょう?」
「頃し屋を辞める」
「辞めちゃうの? ニート? 無職?」
「そういうことになる」
 世間体は悪いだろうが、頃し屋よりはマシだろう。

38: 2012/10/04(木) 21:33:27.17
「春奈」
「今度はどしたのぐらたん?」
「猫は好きか?」
「好き」
「好きか」
「ふわふわもふもふしてて可愛いから」
「そうだな」
 どうやらお前は好かれているようだぞ、昨夜、夢の中に現れた猫頭に報告してやる。
「猫になろう」
「猫?」
「今から、私と春奈は猫だ」
「にゃーにゃー」
「猫の鳴き方はにゃーじゃないだろう」
「にゃーだよ」
「にーにーだ」
「にゃーだってば」

39: 2012/10/04(木) 21:34:39.47
 夕方になり薄暗くなった頃、ホテルを出た。
 春奈の手を引いて喧騒に紛れるように歩いていると、突然呼び止められた。
 使っていた偽名の一つだった。
 声をかけてきたのは私の同業者だった。元同業者だった。
 つまりは微笑み手を振っている彼も、頃し屋だ。
 逃げようか、一瞬迷った末に彼の手招きに応じることにした。
 大勢の前では殺せないだろうし、何より……彼は私よりも後輩であった。
 いざとなれば、彼一人ぐらい始末することはできるだろう。
「お久しぶりですね」
「……」
「今、ご自分がどんな立場なのか、分かってますか?」
「予想はつく」
 ニット帽を被った男は溜息をついた。

「その子が、標的だったんすか?」
 男が春奈を指差した。
 私は頷く。春奈は私の背に隠れる。
「その子のは……あー……依頼者は、怒り心頭って感じですよ」
「だろうな」
「残念ですよ。まさかよりにもよって先輩が、情に流されて終わりだなんて」
 まるで氏ぬことが前提としてあるように、男は語った。
 実際そうなのだろう。私は特に反発を覚えることもなく、男の話を聞く。
「ものすごい金持ちらしいですね。金をばらまいて、先輩を頃すように雇いまくってますよ。俺みたいなのを」
「だろうな」
「見事先輩を殺せたら、追加報酬ですから……みんな血相変えて先輩のこと探してます。賞金首みたいですね」
 何が彼の笑いのつぼに入ったのか、男は大笑いした。

40: 2012/10/04(木) 21:37:43.61
「いくらで見逃す?」
 彼も血相を変えて私を探している頃し屋の一人なのだろう。
 尋ねると突然笑いを引っ込めて人差し指だけを立てた。
「百万か」
 持ち合わせの大半をもっていかれてしまう。
 命の値段としては格安だろうが、手持ちに限度のある今、私にとっては痛手になりえる高価さだ。
 さて、どうするか…判断を迷っていると、彼は首を振った。
「一万ですよ」
「一万?」
 何の気の迷いだろうか、私は驚いて男を見た。
「俺が先輩を殺そうとすれば、先輩は俺を頃しますよね。俺、先輩には敵わないつもりなんで」
「……」
「俺が法外な金額ふっかけても、頃すつもりだったんでしょう?」
「ばれたか」
「ばればれです」

41: 2012/10/04(木) 21:39:00.65
「薄汚れた仕事してますけど、俺だって命は惜しいんで。氏んで一銭も入らないよりは、一万でも貰って先輩を見逃したほうが儲けものでしょう」
 私は財布から一枚取り出し、彼の手に握らせた。
 どうも、と彼は笑う。彼が守銭奴でよかった。
「ぐらたん」
 シャツの裾が引かれて振り返ると、不安そうな顔をした春奈がいた。
「ぐらたん?」
「私の名前らしい」
 再び男が大笑いする。
「可愛らしい名前っすね、先輩には似合わない」
「だろうな」
「ぐらたん、早く行こう」
 彼女の言うとおり、早くこの場を離れたほうがいいだろう。
「ありがとう」
「ありがとう?」
 私が礼を言うと、男は声を裏返して驚いた。
「やめてくださいよ、先輩らしくもない。そんなに人間らしいこと言われると、可哀想になってくるじゃないっすか」
「可哀想か」
 ふと、あの猫の気持ちが分かったような気がした。
 自然に浮かぶ微笑を隠せず、私は春奈の手を握って無意識に口を開く。

「哀れだと思うなら、見ていないで餌をくれ」

43: 2012/10/04(木) 21:44:54.27
書き溜めていたものはここまでです。
見てくださった方、つたない妄想ですが感謝です。

需要はないでしょうが、以下、リアルタイムでのノロノロ投下です。

46: 2012/10/04(木) 21:50:53.29
「寝たか?」
「寝たよ」
「……」
「……寝たか?」
 寝息が聞こえた。
 私は音を立てないようにベッドから起き上がり、水面所へ向かう。
 鏡の前に立ち、仕事道具であるナイフを取り出す。
「……痛い」
 ナイフの先端で、少しだけ左頬の内側、口内を切りつけた。
 一週間に一度、春奈が寝ている間の習慣だ。

48: 2012/10/04(木) 21:56:37.60

 初めてアドレス帳に登録されたアドレスの主は、残念ながら男だった。
「感謝してくださいよ、俺だって危ないんすから」
「ありがとう」
「うへぁ……やっぱいいっす。背中痒くなります」
「じゃあ撤回する」
「感謝なら言葉じゃなくて、金でってことっす。大歓迎ですよ!」
 その笑顔がまぶしくて、私は腹が立って彼の後頭部を平手で打った。
 大げさに痛がり、それでも彼はうれしそうな笑みをやめない。
 こいつはMなのかもしれない。
「……ということがあった」
「私だけ残して出かけたと思ったら、後輩さんと会ってたんだ」
「そういうわけだ、後輩は変態だ」
「マゾヒスト?」
「口Oコンのマゾヒストに違いない」
「そうかな?」
「そうだ」
「失望したか?」
「後輩さん? そんなわけ……」
「失望しろ」

50: 2012/10/04(木) 22:05:45.14

 後輩からのメールは絵文字だらけで読みにくいことこの上ない。
 しかし貴重な情報源ではあった。
 外のこと、裏のこと、私の状況ではなかなか掴みにくいことを教えてくれる。
 もちろん、金はとられるのだが良心的値段であった。
「春奈ちゃん、大富豪の娘じゃないっすか」
「ちゃん付け、気持ち悪いな」
「……」
「……」
「良かったっすね先輩、幼女誘拐して玉の輿狙えますよ」
「お前と一緒にするな気持ち悪い」
「先輩はもう少し、俺に対して感謝してもいいと思いますけどね」
 頼まれていたものです、と彼は紙袋を差し出した。
 受け取り、中身を確認する。代金を支払う。
 生活必需品やら春奈の私服やら、ごちゃごちゃとしたものが押し込まれていた。
「それにしても先輩、口内炎の薬なんて大量にどうするつもりっすか?」
「……しばらく、口内炎が治らない予定だ」
「なんすか、それ」
「お前」
「はい」
「一人でそろえたのか?」
 紙袋を指して質問すると、後輩はうなづいた。
 一人で幼女用の服を購入している彼は、どこからどう見ても不審者だったことだろう。

52: 2012/10/04(木) 22:13:46.93

「私、母子家庭なんだよ、ぐらたん」
「母子家庭か」
 難しい言葉を知っている。そういえば、春奈は年のわりには大人びている。何しろ、殺人鬼に頃すと宣言されても取り乱さなかったのだ。肝も太いに違いない。
 彼女の母親の顔を思い出す。
 三十台半ばほどの女性だった。化粧が濃く、そのせいで老けているという印象が強く残っているのだが、顔立ちは美しかった。
 昔は美女と持て囃されていたことだろう。そういうタイプだ。
「ぐらたんがお父さんみたいだって、言ったよね」
「言ったな」
「多分、私が生まれて離婚したんだ。覚えてないけど、多分、そう。お母さんはお父さんの話がいやなんだよ」
「どうしてそう思った?」
 自分の引き取った子供が離婚相手のことを口に出すと怒る親は、案外多い。
 春奈の母親もそうなのだろうか?
 その怒りが、依頼のきっかけとなったのだろうか?

54: 2012/10/04(木) 22:20:50.82
「違うよ」
 意外にも、春奈は否定した。
「お母さん、少し嫌そうな顔して……それから泣いちゃうんだ」
「……泣くのか」
「お母さんが泣くのは、嫌だから、だから、お父さんはいないの」
 ベッドの上、ひざを丸めてうつむいた春奈を見て、私はひどく空しい気分になった。
 無力感のようなものに襲われたのだ。
 私が頃し屋という稼業をはじめてから、かなり経つ。熟練し、プロと呼ばれるほどになり、後輩のように私を目標にする者も現れるほどだった。
 人を頃す仕事をしていると腕っ節はそれなりにつく。
 だからたまに、勘違いをしてしまうことがあった。
 勘違いの内容というのは、万能感であったり、強さに酔いしれてしまったり……口にするのも恥ずかしいが、そういったことだ。
 ――春奈はきっと、母親を気遣っていたのだ。
 その気遣いは残念ながら母親に届かなかったのだが、私はそれを聞いて幸せな気分になった。

56: 2012/10/04(木) 22:27:10.62
 春奈はいつの間にか眠ってしまっていた。
 私は一人、安物のビールを冷やしたグラスに注ぎ、ちびちびと口に運びながら考える。
 憶えていないと勘違いするほどに、振り返ったことなどなかったが……私にも幼少期はあったのだ。
 記憶喪失になった頃し屋、などという格好の良い肩書きは持っていない。つまり、僅かながら私にも幼少期の記憶というものがあった。
 私は、母親に殺されかけている。
「あんたさえいなければ、あんたさえいなければ」
 怒り狂ったわけでもなく、号泣するわけでもなく、無表情で私を見ながら母はそう呟いていた。
 母は私を殺そうとした。しかし、ナイフを使ったわけでもなく、ロープを使ったわけでもない。
 彼女はある日突然、私のことが見えなくなったのだ。
 透明人間のような日々、幼稚園や保育園にも通っていなかった私は行き場を失い、飢えた。
 餓氏寸前、私の師であり恩人に拾われて助かったわけだが、代償として一般的な生活を失った。
「……あ」
 思い出す。

57: 2012/10/04(木) 22:32:01.90
「お母さん、お父さんはどこにいったの?」
 父親が、消えた日、私は彼女にそう問いかけた。
 彼女は血走った目で私をにらんだ。拳でも飛んでくるかと幼い私は目を瞑ったが、幸いにもそれはなかった。
 暴力はなく、痛みもなく、母親は私を睨んだっきりで視線をそらした。
 翌日になっても父親は帰らなかった。
「お母さん、お父さんは?」
「……」
「お父さんは?」
「……るさい」
「お父さん、帰ってこないよ。しゅっちょうかな?」
「うるさいっつってんのよ!!あの男はもう帰ってこないわよ!私のことも、あんたのことも、結局どうだってよかったんだ」
 喚き散らし、突然表情を失った母親は仕事へ出かけた。
 その日から、彼女の帰りは遅くなった。男ものの香水の臭いをまとって帰宅することが多くなった。
 その日から、母の目に私は映らなくなった。
 私は悪いことをしたとは思っていない。
 母親を恨んでいるわけではないが、非があるのは彼女のほうだと確信していた。
 しかし、つまるところ、
 私は春奈とは正反対の行動をとったのだ。

59: 2012/10/04(木) 22:34:37.53
 少しアルコールの回った頭で考える。
 うだうだうだうだと長ったらしく遠回りをして考えるまでもなかった。
「春奈は、いい子だ」
 結論だ。
 春奈は正しい行動をとったのだろう。
 それでも彼女の母親は、春奈を嫌ったのだ。憎んだのだ。
 果てに、殺そうとした。
「最低だな」
 人頃しが言うな、猫が笑った。

60: 2012/10/04(木) 22:43:50.86

 後輩から連絡が入った。
 彼から来るメールの八割はスパムメールにも劣る内容のないもので、残りの二割は凶報だ。
 つまり、メールを受信して良い方向にことが転がったことなど一度もない。
 憂鬱な気分になりながら私は長ったらしいメールを読み……寝ぼけた頭が覚醒した。
「春奈」
「うわぁ、どしたのぐらたん!?」
 私に背中を向け、机に向かっていた春奈は飛び上がって驚き、振り返った。
「逃げる」
「逃げる?」
「ばれた」
「ばれたって?」
「この場所が、ばれた」
 長居したことが原因かもしれない、私は荷物を鞄に詰めながら考えをめぐらせる。
 いや、一ヶ月逃げ続けることができただけでも僥倖かもしれない。
 そもそも、逃げ場などなかったのだ。偶然に偶然が重なり、なんとか見つからずにすんでいただけなのだ。
「急げ」
「待って! うん、大丈夫だよ」
「非常階段使うから」
 私は鞄を肩からかけ、春奈をひょいと肩に担いで駆け出す。
 彼女の走るスピードにあわせていては見つかってしまう。
 後輩からの情報が早かったことが幸いした。
 なんとか鉢合わせすることなく、ホテルの裏口から脱出することに成功する。
 私は帽子を深くかぶり、春奈の手を引いて大通り、人ごみに飛び込んだ。

61: 2012/10/04(木) 22:51:51.95

「気をつけろよ春奈ちゃん」
「春奈ちゃんはあの人の仕事っぷりを見たことがないから実感がわかないのかもしれないけど、あの人、頃し屋だから」
「知ってるよ」
「いんや、知ってても分かってないね」
「分かってるよ」
「先輩のことは誰よりも私がわかってるって? まあ、いじらしいっちゃいじらしくて可愛いけどさ、あの人はお前みたいなのも今まで散々頃してきてるんだ。女子供、老人若人、見境なしに確実にしとめるってのが先輩のウリだったんだからさ」
「……でも」
「でも、春奈ちゃんのことは殺さなかった。そうだろ? 偶然だ。偶然さ。違いない。たまたまあの人が心変わりをしただけなんだ」
「……」
「ま、過去にどんな事情があろうとも、どんな性格をしてようとも、頃し屋なんて物騒な仕事してる奴に良い奴なんていないって覚えておきな春奈ちゃん。お人よしはよく、そこを勘違いする」
「……ぐらたんのこと、嫌いなの?」
「まさかまさか、超えるべき壁として、常に尊敬してるよ」

62: 2012/10/04(木) 23:00:47.12

 そろそろ、限界だろう。
 一月、春奈を連れて逃げ切った。十分に楽しい思いをさせてもらった。
「ぐらたん?」
 住宅街、寂れた公園のアスレチックの中、私と春奈を身をかがめて隠れていた。
 春奈を残して、私は立ち上がる。
 不安そうに春奈は私を見上げた。
「これ」
「お金?」
「今から少し、動くから。落としたら、大変だから」
 財布を渡す。
「どこに行くの?」
「私は犯罪者だが、命には代えられない。警察を呼んでくる」
「けーさつ? でも」
「大丈夫。警察の前では頃し屋も動けない」
 一度、春奈の柔らかい髪を撫で、それから私はアスレチックから出た。
 数歩歩き、思い立って踵を返す。
 ポケットの中を探ると携帯と……小さな、少し溶けてしまったキャンディーが出てきた。
「春奈」
「ぐらたん?」
 私はキャンディーを、放る。
 春奈は足元に落ちたキャンディーを見つめた。
「餌」
「おなか、すいてないよ?」
「いつか、すく」
 笑って、今度こそ振り返らずに駆け出した。

63: 2012/10/04(木) 23:08:00.32
ここで一応終了です。
眠気から文がぐっちゃぐっちゃなのが自分でも分かりました。
乱文にお付き合い、ありがとうございました。
支援してくださった方々、ありがとうございます。

ご縁があれば、またよろしくお願いしますね。

64: 2012/10/04(木) 23:11:42.14

65: 2012/10/04(木) 23:12:33.80
終わりなのか乙

引用元: 殺し屋「……口内炎できた。」