1: 2010/12/04(土) 11:37:14.14
──妹の顔を見られなくなりました。

ただ妹の存在に触れるだけで、胸に異物感に似た何かが現れるのです。

布団に潜ってひたすらそれを打ち消そうとするほど、それは大きくなってしまいます。

どうしてか、自分が気持ち悪くて仕方がありませんでした。

いつだったか、憂と同じ布団で眠れなくなった時。

その時は、心の中に理由もわからない罪悪感があって、私から憂のもとを離れたのです。

この気持ちの悪い感情が、せめて大切な憂にまで移ってしまわぬようにと。

どうしてかは今でもわかりません。

でも確かに、今と同じその気持ちが嫌で嫌でどうしようもなかったのです。

2: 2010/12/04(土) 11:38:19.74

 布団に潜ったままの私の部屋に、乾いた木の音が響きました。

「お姉ちゃん、入るよ」

ああ、憂が入ってきてしまう。でも私はそれを止められません。


それは私のこの気持ちを少しでも悟って欲しいからか、

それとももはや憂に声を掛けることすら億劫になってしまったのか、それは分かりません。

ただ、たった一人の妹を私のせいで汚してはいけないという想いだけは、ずっと胸にありました。

4: 2010/12/04(土) 11:42:14.58
「お姉ちゃん?」

部屋の扉が開く音がしました。

返事をしない私に、純粋な妹はただ純粋な心配だけをするのです。

「寝てるの、かな?」

部屋に響かないくらいの声で妹が呟きます。

そして、枕に顔をうずめて動かない私の捲れた布団を優しく直しました。

ふと妹の指が私の足首に触れ、信じられないくらいの緊張が私を襲いました。

「……っ」

でも、これも何度目か分かりません。

朝起こしてくれるとき。学校へいくとき。忘れ物を届けてくれるとき。ご飯を渡してくれるとき。

憂がそばにいるほど、私の精神は乱されて狂ったように混乱していくのです。

「……おやすみなさい」

そう呟いて、また扉が閉じました。


自分の為に妹に残酷な私は、ただ全部自分のせいだということを理解していました。

そうして、自分を罵る頭を、今度はどうにか眠れるように目をきつく閉じました。

6: 2010/12/04(土) 11:46:14.90

 ● ● ● ● ●

 平沢憂は、私の妹。

 掃除だって料理だって、勉強だってできる妹。

 いつも私のそばで笑っていてくれて、いつも元気を分けてくれる。

 私が手を握ると、憂も握り返してくれる。

 そんな妹が、私は大好き。

 平沢憂は、私の妹。

 ● ● ● ● ●

9: 2010/12/04(土) 11:51:04.77
──

朝が来たと分かったのは、カーテンから漏れる朝日が目に入ったのと、同時に跳ねるようなスリッパの音が聞こえたからです。

また憂が私を起こしにくる。

私はどうすればいいか分からない。

体を揺すられて平気な顔でいられるのか、自分で起きておはようと言えるのか。

想像を絶する不安に苛まれて、凍えた体は更に固まります。


「お姉ちゃんおはよー」

また扉が開きます。

嫌、こっちに来ては駄目。

言葉にできない言葉を必氏に心の中だけで叫んでも、一歩先の妹には届きません。

「朝だよ、起きてお姉ちゃん」

布団越しに手と体が触れたのがせめてもの救いでした。

「お姉ちゃん」

優しく私を揺する妹に、また何度目か分からない返事の仕方を考えます。

傷つけてはいけない。でも、私が壊れてしまわないように。

10: 2010/12/04(土) 11:55:11.47

「……起きてる、から」

まるで言い訳を、それも独り言のように発しました。

「あ、うん」

無垢なだけの妹はそんなことは気にも掛けないで、ようやく触れた手を離してくれました。

返事をしたまま動かない私を、妹はどんな顔で見ているのでしょう。

ひょっとしたら、ただ呆れているだけかもしれません。

どうせならそうであってくれて構いません。

憂の心に私がないのなら、苦しむのは私だけなのですから。

「じゃあ……着替えてきてね。ご飯できてるから」

やっと布団から覗いた私が見たのは、寂しそうに部屋をでる妹の背中。

いや、きっと寂しそうに見えたのは私の願望なのでしょう。

笑顔を見せたかったけれど、今の私にはそんな余裕なんてありませんでした。

12: 2010/12/04(土) 11:59:06.44

 階段を降りると、パンの焼けるいい香りが漂ってきました。

でも、そこから先に足が進みません。

なんと言ってまた顔を合わせたらいいのか、冷や汗が頬を濡らしました。

「お姉ちゃん?なにしてるの?」

エプロン姿で食器を運んでいた妹が、階段で燻っている私を見つけました。

「え、えっと……」

床を見たままの私は、この場からどうにか逃れようと言葉を返そうとします。

「ご飯食べよ」

「……うん」

私を待たずに誘ってくれた妹の言葉が、私にはどれだけありがたかったか分かりません。

14: 2010/12/04(土) 12:00:37.31

食事は味が分かりませんでした。

妹の料理は確かに美味しかったはずなのに、今ではもう分からないのです。

目の前に妹がいるだけで、私の心はそれだけに囚われて身動きがとれなくなってしまいます。

早く、ここから逃れたい。

どこか、妹と離れられる所へ。

このままでは、私は更におかしくなってしまうから。

15: 2010/12/04(土) 12:04:14.83

「私……もう、行くから」

「えっ?」

堪えきれず、焼かれただけのパンを手にとって椅子を立ちました。

驚いた様子の妹の口元が目に入りましたが、その程度で思い止まることは出来ません。

「あっ、お姉ちゃん待っ……」

妹の言葉は、最後は強く閉めた扉の音に掻き消されてしまいました。

胸に残るのは一層肥大化した罪悪感。虚無感。そして自分への嫌悪感。

打ち寄せる怒涛の如く私を追い詰めるそれらを、私は見て見ぬ振りをして堪えてきました。

いや、堪えるというのは間違いです。

私は、逃げているだけなのです。

嫌な自分から。逃げ場の無い何処かへと。

やめてしまったら、そこで私は崩れてしまう。

だから、弱い私はこれからもそれを延々と続けていくのでしょう。

16: 2010/12/04(土) 12:08:06.84

 いつか二人で通っていた通学路は、一人になってから随分気の重くなるものになっていました。

思い出す過去は、妹の笑顔を見てただただ幸せだった毎日の朝。

二度と戻らないように感じられるのは、きっと自分の情けなさを諦めきっているからでしょう。

繋いで暖かかった掌も、今やポケットの中。

顔の前に出して見てみると、それがどうしようもなく汚れたものに見えました。

「ゆーい!」

そんな折りに聞こえたのは、僅かでも私に元気を与えてくれるりっちゃんの声。

「あ……おはよう」

「おはよう唯」

振り向くと、案の定その幼なじみの澪ちゃんがいました。

二人が隣に居合わせる姿はとても自然で、私は羨ましさを見る度に感じてしまいます。

私も、またいつか妹の隣に、と。

19: 2010/12/04(土) 12:12:04.19

「おーい、また一人かー?」

そんな私の心の内を知ってか知らずか、心配そうに聞かれてしまいました。

「……うん」

でも、自分勝手な私はそんな心配を振り払いたくて仕方がありませんでした。

「憂ちゃんきっと寂しがってるぞー」

放っておいて。私の問題なんだから。

「そんなこと……」

これ以上私を追い詰めないで。

「あるって。だって梓も憂ちゃんが……」

「やめてっ!!」

そして訪れたのは、沈黙よりも耐え難い静寂。

20: 2010/12/04(土) 12:16:13.51

頬を冷やす風は、やけに冷たく感じられました。

「……ごめん」

やっと言えたそんな一言で、馬鹿な私が生み出した溝を埋められるようもありません。

「……あはは、いいっていいって。気にすんなー」

「ほら唯、食べ滓が付いてるぞ」

でも、気のいい二人は私を傷付けないようにと、またいつものように振る舞います。

「うん……ありがと」

口元に当てられるハンカチを、私には拒むことが出来ません。

二人の優しい心遣いが、また私の胸を締め付けるのです。

21: 2010/12/04(土) 12:20:05.43

 学校へ着くと、ようやくの安心感を感じられました。

これで、憂とはしばらく顔を合わせないでいいんですから。

「ふふ、唯疲れてるのか?」

そんな間の抜けた私の顔を見て勘違いしたのか、澪ちゃんがそんな言葉をかけてきました。

「うん。ちょっと夜更かししちゃって」

でもまた余計な心配をされないように話を合わせておきました。

「しっかりしろよー。受験生なんだから」

「うん、わかってるよー」

いつも通りの会話に、これ以上詮索されることはないとまた胸を撫で下ろしました。

23: 2010/12/04(土) 12:21:57.23

 授業は、ただの逃避の時間です。

それは、妹から逃れる為の時間。

その時間が惜しくて、でも早く過ぎ去って欲しくて、私にはもう何が何だか分かりません。

妹から逃れている間は、自分から逃げることが出来ないのです。

教師の口から紡がれる専門用語は頭には入らなくて、後悔と焦燥が頭を巡ります。

妹に挨拶も交わせないで家を出たこと。

親友を自ら遠ざけたこと。

また家で顔を合わす妹のこと。

じっとしているとそれらのことが次から次へと浮かんではまた浮かび、私を苦しめます。

いつになったらこの負の連鎖から逃れられるのでしょうか。

ひょっとしたら、私が自分の身を投げ打たないと何も変らないのでしょうか。

考えたくはありません。

今までの私は、自分の身を守るためだけにこんなにも苦しんできたのですから。

それを無下にしてしまうようなことは、今更出来るはずもないのです。

25: 2010/12/04(土) 12:26:01.66

 四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響きました。

苦悶に囚われていた私は、やっと嫌な思考から覚めることが出来ました。

「お昼……」

気づくと、空腹を感じていました。

朝はパン一枚だけしか食べてないので当然といえば当然なのでしょう。

「……あ」

鞄を漁っていと、お弁当を忘れていることに気が付きました。

きっと、妹はいつものように作っていてくれるはず。

「……うそ」

親切な妹は、きっと私のもとまで届けに来てしまう。

28: 2010/12/04(土) 12:30:13.48

どうしよう。どうしようどうしよう。

妹に合ってしまったら、またどうなってしまうか分からない。

けれどわがままな私は、お弁当はいらない、なんて連絡を送ることも躊躇ってしまいます。

私の為に朝早く起きて、一生懸命作って、そして学校まで持ってきてくれたお弁当。

それを突き放すようなことは、私の憂が傷ついてしまうから。

何より、嫌われたくなかったのです。

今まで散々嫌われるようなマネをしてきたのに、実感が沸くといきなり臆病になってしまうのです。

殻に篭って怯えるだけの私には、どうすればいいのか分かりません。


だから、お願い憂。

「……来ないで」

私を、嫌わないで。

31: 2010/12/04(土) 12:33:51.90

「お姉ちゃーん」

そして、妹が私を呼びました。

机に臥せったままの私を見ているのでしょう。

けれども私は動けません。

寝てるふりでこの場を乗り切れれば、なんて甘い考えをそれでも真剣に考えていたのです。

「おーい、お姉ちゃん!」

「唯ちゃん、憂ちゃん来てるわよ?」

いつの間にか私の横に立っていたらしいムギちゃんが私を促します。

でも、私には憂のもとへ行けないのです。

「……憂ちゃん、唯ちゃんに用事?」

足音と共に小さくなっていくムギちゃんの声が聞こえました。

どうやら私を諦めて妹のもとへと行ってくれたらしいです。

そして私は、その場限りの逃避にとてつもない安堵を覚えるのです。

32: 2010/12/04(土) 12:37:31.85

「唯ちゃん、唯ちゃん」

また足音が帰ってきて、ムギちゃんが私の肩を揺すります。

その声がどこか呆れたように感じられたのは、私の負い目によるものでしょう。

「……んー、なあに?」

わざとらしく起きた私を、ムギちゃんは分かっているのでしょうか。

「憂ちゃんからお弁当。唯ちゃんにだって」

「ああ、ありがとムギちゃん」

渡されたお弁当の持ち手からは、おそらく憂のものである温もりが残っていました。

私は、長く触れてしまわないようにと机に置きます。

33: 2010/12/04(土) 12:41:15.29

「憂ちゃんにもね」

「うん、分かってる」

分かっているのは、きっと妹にお礼も言えない自分の情けなさ。

少しだけ口を閉ざしたムギちゃんは、

「お弁当とってくるね」

そう言って自分の席へと戻って行きました。

その時、私の席へと向かってくるりっちゃんと澪ちゃんに目配せをしたように見えたのは、きっと気のせいでしょう。

34: 2010/12/04(土) 12:44:05.99

 午後の授業も退屈なものでした。

また苦しいだけの煩悶に頭を悩まされるのです。

憂、憂、憂。

ただ妹のことだけが頭を離れなくて、苛々が次々と募ります。

「唯、部活だぞ」

そして現実へと引き返されたのは、また友達の声に。

「あ、そうだね」

「唯ちゃん大丈夫?顔色悪いけど」

「えーと、昨日夜更かししちゃってね」

「ああ、朝も言ってたな」

「えへへ」


頭の良くない私がこんなことで誤魔化せているのでしょうか。

どんどん疑心暗鬼になっていく私に信じられるものは、今や数えられるほどしかありません。

果たして大切な親友は信じたままでいられているのでしょうか。

35: 2010/12/04(土) 12:47:52.58

部室へと一緒に向かうみんなは、どこか神妙な面持ちに見えました。

せめて明るい話題を、と思ったのですが、悩まされてばかりの私には何もありませんでした。

この沈黙が、どうか私のせいではありませんように。

そう願いつつ、目の前の扉を開けました。

「あ、みなさんお疲れ様です」

そこにいたのは、後輩のあずにゃん。

「うん、あずにゃん待った?」

「いえ、特には……」

「……?」

口を噤んだままのみんなを見て、嫌な胸騒ぎがしました。

36: 2010/12/04(土) 12:51:42.54

 いつもの席通りに座っても、依然として沈黙が続いていました。

「……あの、みんな……」

「唯」

耐えかねて声を発した私を、りっちゃんが制しました。

「……なに?」

やたら真剣なその顔に、私は返事をするしかありません。

そしてりっちゃんが口を開いて、

「憂ちゃんのことなんだけど……」

そう、言いました。

「……え?」

私の周りは、時が止まったように、ぴくりとも動きません。

37: 2010/12/04(土) 12:53:07.81

「憂ちゃんのこと」

りっちゃんはもう一度言いました。

「憂が……なに?」

そして、澪ちゃんが続けます。

「別に私たちが言うべきことじゃないと思うけどさ」

「……」

「憂ちゃん、ずっと寂しがってるみたいだから」

「……え?」

憂が寂しがってるなんて、そんな様子は私には分かりませんでした。

「憂、最近ずっと唯先輩のことで悩んでます」

あずにゃんが続ける言葉は、きっと本当のことなのでしょう。

「先輩に悪いことしちゃったんじゃないかって」

でも、私は聞きたくありません。

39: 2010/12/04(土) 12:54:42.31
「……憂は、そんなことないよ」

そうだ。私の妹なんだから。

「でも、憂ずっと沈んでて……」

私が一番分かってる。

「憂なら平気だよ」

だから、余計なこと言わないで。

「唯ちゃん。でも最近の唯ちゃんは……」

聞きたくないんだよ。

「……私たちのことだから、みんなは心配しなくて平気」

「唯、じゃあやっぱり……」

「平気」

「おい唯」

「平気なのっ!!」


こんな想いをみんなに分かってほしくない。

だから私は、質の悪い自分勝手をみんなへとぶつけました。

40: 2010/12/04(土) 12:55:52.95

「私、もう帰るね」

席を立った私を、みんな驚いた表情で見つめていました。

「唯!」

私を呼ぶ声も、聞こえないふりをして私は部室を出ます。

明日からどんな顔をすればいいか、そんなことはもうどうでもいいのです。


少しでも、少しだけでも妹から離れることが出来るなら。

私は、妹を傷つけたくないなんていいながら、結局自分の身を守れればそれでいいのです。

下衆で下卑た考えだけをする私に、今更以上の呆れは抱きません。

そうだ。私は情けない人間なんだ。

唯一感じたのは、開き直った自分への再びの情けなさ。

ただ、それだけでした。

41: 2010/12/04(土) 12:57:13.84

──

また、隠れ蓑になった布団の中に身を潜めました。

学校を飛び出したのは、みんなにまであの話をされるのが嫌だったのです。

でも、いざ飛び出してみると妹に不安を掛けることが不安になってしまって、家に帰ってきたのです。


結局私には、妹を突き放すことすら出来ません。

あのままどこかへ、家に帰らずにいたらと考えるだけで背筋に怖気が走ってしまうのです。

きっと、あの優しさに溢れる妹は血眼になって探してしまうから。

離れたくないといいながら妹を遠ざけ、嫌といいながら妹に縋る私。

言いようのない嫌悪感が喉元まで届き、何かを吐き出しそうになってしまいます。

いっそのこと、この気持ちの悪い私の全てを出してしまいたい。

そうすれば、この色褪せた視界の何もかもが澄みきったものに変わってくれる。

願っても、湧き続けるのはただただ負の感情。

私には、もう地面が分かりません。

42: 2010/12/04(土) 12:58:22.17

「……うっ、ぇ……」

いつの間にか嗚咽混じりに肩を揺らしていました。

目も熱くなっていて、胸が苦しくて苦しくて仕方がありません。

憂が、頭を離れないのです。

私の、たった一人の妹が。

「……いや…だよ…ぉ…」

閉じ込められた布団の中は、私しか生きられない不気味な感情の渦。

私が生きられるのも、ここだけしかないのです。

……憂。

私の、大切な、大切な……。

私は、もう居なくなってしまいたかった。

「……憂……」


私は、妹に、恋をしていたのです。

45: 2010/12/04(土) 13:02:25.58

 ● ● ● ● ●

 平沢憂は私の、妹。

 誰にだって優しい素敵な妹。

 でも、それが私には少し妬ましい。

 その優しさが私だけに向けられればな、なんて、嫌な私。

 憂の笑顔は変わらない。

 平沢憂は、私の妹。

 ● ● ● ● ●

47: 2010/12/04(土) 13:04:29.67

 どれほど経ったか、昨日と同じ木の音がまた部屋に響きました。

気がついた私はどうやら眠っていたようで、違和感の残る目元を袖口で擦ります。

「お姉ちゃん、いる?」

辺りが暗くなっていることは、カーテン越しにでも分かりました。


記憶に残るさっきより、一層増した寒さで身が震えます。

「……入るよ」

ベッドに張り付いた私は、目を開けたまま隙間から覗くその両足を見ていました。

近づくその足元に、何故か怯えを感じませんでした。

「玄関のドア開いてたから、ちょっとびっくりしちゃった」


片方だけ布団から抜けた右の足は、戻せないままでいます。

吐息が聞こえてしまわないように、ゆっくりと息をしました。

「起きてるかな。……起きてたら聞いてね」

顔を埋めた枕からは、涙の匂いがしました。

48: 2010/12/04(土) 13:07:35.00

「私の気のせいだったらごめんね」

「……」

「でも、ちょっと寂しいから」

喉元まで出かかった言葉は、どうやっても出せそうにありません。

「お姉ちゃん……最近かまってくれない、から」

その言葉も、決まっていないのですから結局同じなのでしょう。

「私……何か悪いことしちゃったかな?」

でも、少しだけ震えるその声を、どうにか私の手で止めなければいけないと、そう思ったのです。

「わがまま言って、ごめん……なさい」

その綺麗な瞳に涙を見せないでと、そう思ったのです。

「だから……」

「……憂は、悪くない、よ」

困らせてしまっても、どうにか出せたその声で憂を守ってあげなければと、そう、思ったのです。

49: 2010/12/04(土) 13:10:42.82

「! おねえちゃ……」

「全部、私が悪いから」

くぐもった声は、布団の中を反響して私を追い立てます。

「えっ、違うよそうじゃなくて……」

「全部、全部私のせいだから」

私はまたこんなところでも罪悪感からのせめてもの逃避を試みていました。

「お姉ちゃん!」

そんな妹の声で目が覚めた時には、より増大したそれが私を襲います。

「……そんなことないよ……」

もう、私には発する言葉がありませんでした。

「だから……そんなふうに言わないで……」

「……うん」

返事を出来たのが、唯一の救いでした。

謝れなかったのは、数ある一つの心残りでした。

50: 2010/12/04(土) 13:14:03.17

──

結局、また部屋に閉じこもったままでした。

勇気なんてものは初めからは私にはないのです。


妹は、部屋までご飯を届けてくれました。

ようやく私が食べたのは、すっかり冷めてしまってから。

もう少し早く食べればよかったと後悔を暢気にして、時計を見たら日を跨いでいました。


いつの間にか明滅を繰り返していた携帯電話が目に入りました。

枕の横のそれを取り、開くとそこには一通のメール。

「……憂だ」

受信ボックスを開き、未開封のそのメールを開けました。

52: 2010/12/04(土) 13:14:49.90

『元気でたら降りてきてね。アイスもあるよ』

この期に及んで私を気遣ってくれる妹。

『ご飯もよかったら食べてね』

それを実感するたびに、より固く私の心は囚われていくのです。

『あと、明日のことだけど』

だから、本当はずっと抱きしめていたいのです。

『梓ちゃんと純ちゃんと遊びに行ってくるね』

だから、離れてほしくなんかないのです。

『ご飯はキッチンに作っておきます』

明日なら謝れるなんて思ったけれど、それも私には出来なさそうです。

『おやすみなさい』

こんなにも、寂しくて動けないのですから。

「……私の、バカ」

そして、自分の愚かさをまた確認するのです。

54: 2010/12/04(土) 13:19:24.71

 私の気分とは裏腹なのんびりとした音楽で目が覚めました。

「……うるさい」

手を伸ばしながらその傍らの時計を見れば、もう九時。

いつも通りのことなのですが、いつもより目覚めは悪いものでした。

「あ、和ちゃんだ…」

起き抜けの瞳には眩しい携帯のディスプレイには、幼馴染の名前が写っています。

親しいとは言っても、和ちゃんから連絡をとることはなかなかないので少し目を眇めてしまいました。

もしかしたら、昨日の部室でのことを問われてしまうのではないかと。

でも、親友からのそのメールは相変わらず淡々としたものでした。

『話があるから、起きたら連絡頂戴ね』

案の定寝坊を見透かれていた私は、そうして家を出ました。

55: 2010/12/04(土) 13:21:29.27
──

「……それで、話ってなあに?」

軽音部でよく訪れる喫茶店は、まだ閑散としていました。

「ああ、ごめんね」

目の前でコーヒーを啜る和ちゃんは、土曜日だというのに制服を着ています。

「憂の、ことなんだけど」

和ちゃんが言ったその言葉に不思議と驚きは感じませんでした。

「うん」

「あら、みんなの前では大変だったらしいけど、平気なの?」

「……聞いたの?」

「まあ、唯のことよろしくって言われちゃってね」

相手が和ちゃんだからか、どこからか体の毒気が抜けたように感じられました。

「そっか」

59: 2010/12/04(土) 13:25:02.96

「それで、どうしたの?」

「……別に、何も無いよ」

私はでも、自分の臆病さには勝てなくて、薄皮一枚の嘘を被ってしまいます。

「そんなわけないでしょ」

「うっ…」

それに、やっぱり私の悩みは異常なものだから。

自分の口から言えるはずもなかったのです。

「あなたたちのことなんて、それなりにわかってるつもりなのよ」

「……」

「これでもね」

そう続けてから、また和ちゃんはコーヒーを一口、口に含みました。

私のカップからは未だに湯気が立ち込めていて、まだ私には飲めないようです。

62: 2010/12/04(土) 13:27:29.76

「……ごめんね、言えないや」

小さい頃から私の世話を焼いてきた和ちゃんは、きっとまた放っておいてはくれないから。

「……はぁ」

ずっとカップに落としていた視線を上げると、呆れた顔の和ちゃんがいました。

そのため息からは普段の疲れも抜け出ているように感じます。

「じゃあ、私が言ってもいいの?」

「えっ?」

おそらく頭に疑問符を浮かべている私を、和ちゃんは小さく息を吐いて笑いました。

「憂のこと、好きなんでしょ」

もはや分かりきっていることかのように和ちゃんが呟いた言葉は、

「……え」

理解する頃には、私の声を馬鹿みたいに情けないものにしてくれていました。

63: 2010/12/04(土) 13:31:03.40

「やっぱりね」

「ち、ちち違うよ! なに言ってるの!」

慌てふためく私のせいで、どんどん追い詰められてしまいます。

「いいのよ。だから分かってるって言ったじゃない」

「違うったら!」

思わず立ち上がって、足が机にぶつかってしまいました。

「いたっ」

「ほら、ちょっと落ち着きなさい」

いつだって冷静な和ちゃんは、こんなにも私が焦っているのもお構いなしのようです。

「だ、だって!」

「落ち着きなさいったら」

「……あ……」

自分が喚く声が店内に響いていたことに気がついて、私はいそいそと座りなおしました。

64: 2010/12/04(土) 13:34:45.50

気を取りなおして、混乱したままの頭の整理を試みます。

何がいけなかったのか、私には分からないままです。

「で、そうなんでしょ」

「……どうして、分かったの?」

和ちゃんの目は見れないで、諦めた私は小さい声で尋ねます。

「あなたがそんなに悩むことなんて憂のことしかないでしょう」

「でっでも、好きだなんて…」

普通、ありえないことだから。

「憂を避けてたんでしょ? なら唯にはそれしかないじゃない」

当たり前のように告げていく和ちゃんの声に、今までの私が溶かされていくような、そんな感覚を覚えます。

「そんな……ひどい」

半ばいじけた私の返答は、もう私に対抗出来る術がないことを実感させました。

「あ、ごめんなさいね。でもバカにした訳じゃないのよ?」

申し訳なさそうに言う和ちゃんは、やっぱり私の幼馴染でした。

65: 2010/12/04(土) 13:37:51.50

「気持ち悪い、でしょ?」

「え?」

急に、目が熱くなってきました。

ずっと私が隠し通してきたことを見抜かされたことが、どうしても悔しかったのです。

「普通、ありえないから……っ」

「ちょっと、唯」

どうしても、知られたくなかったことなのです。

自分でも不気味なだけのその感情を。

「憂は、女の子だし……それにっ、私たちは……」

「唯、そんなこと言わないの」

でも、私を宥めるその声の持ち主は、不安なんて取り除いてくれそうな柔らかい表情を見せていてくれました。

67: 2010/12/04(土) 13:40:19.74

「気づいてるっていったのに、気持ち悪かったらそんな話しないでしょ?」

「……でも」

「でもじゃないの」

だからそんな悲しい顔しないで。

和ちゃんはそう言って、困ったように小さく首を傾げます。

「別に好きならいいじゃない」

「でも、でも……」

私を追い込む蟠りを、和ちゃんの言葉は次第に溶かしてしまいます。

「それに、それだけ悩めるほどのことなんでしょう」

でも、私を守る盾でもあったそれが崩れていくことを、私には止められません。

「だったら、いいじゃない」

「……うっ、わああぁん……」

和ちゃんが最後に付け加えた照れ隠しのせいで、私は崩れ落ちてしまいました。

68: 2010/12/04(土) 13:41:54.81

──

「ひっく……うぅ……」

「もう……ほら、涙拭きなさい」

和ちゃんは、子供のように泣き出した私の背中を撫でていてくれました。

「……あ゛りがど……」

「鼻水も」

「う゛ん……」

醜態と言うより他にない私の姿は、静かな喫茶店から浮き出てしまっているでしょう。

ずびずびと洟をすすると、ようやく荒らげた息も落ち着いてきました。

「もう大丈夫かしら」

「……うん」

暖房が効きすぎている店内では、なかなか熱くなった顔は冷めません。

70: 2010/12/04(土) 13:45:13.05

「……それで、どうするのかしら?」

「どうするって……」

先ほどとは打って変わって、和ちゃんは厳しい目を向けていました。

「憂に言うの?」

「そんなの……出来ないよ」

そのせいで私は尚更萎縮してしまって、膝に置いた拳をぎゅっと握ります。

「じゃあずっと秘密にしておくままなの?」

「これ以上は……出来るかわからない」

どっちつかずな私の返答に、和ちゃんも次第に眉を顰めていきます。

「じゃあどうするのよ」

「……わかんない」

すっかり冷めた私の紅茶には、もう飲む気すら失せてしまっていました。

71: 2010/12/04(土) 13:48:07.89

「わかんないって、じゃあこれからどうするの」

優柔不断な私の性格に、私自身の中にも靄が掛かっていきます。

もう、これ以上考えていたくない。

「わかんないよ! そんなの……」

そう言うと和ちゃんは呆れ返ったような顔を見せました。

きっと、私のことを買いかぶっていたのでしょう。

どれほど私が情けない人間か、親友の彼女でも分かっていなかったのです。

「ならもういいわ。やめなさい」

「……え?」

「あなたが言っても憂に迷惑かけるだけよ。だからもうやめなさい」

そんな彼女は、きっと誰よりも私を考えていてくれたのでしょう。

73: 2010/12/04(土) 13:51:01.03

「和ちゃんが勝手に決めないでよ!」

でも、そんな簡単な言葉で、私の心を知らない人に片付けられてほしくなかったのです。

「いい加減にしなさい。唯、あなたが……」

「うるさい! 和ちゃんに口出しされたくないよ!」

私がどれだけこの数えきれない感情に振り回されてきたか、私しか知らないのですから。

「……唯」

「もうやめてよ!」

私は、自分のことだけで精一杯だったのです。

「唯!」

そんななりふり構わない私に浴びせられた和ちゃんの声が、

「……へっ……?」

親友の怒声など予期すらしていなかった私の全身から力を抜きました。

75: 2010/12/04(土) 13:52:57.76

「唯、あなた憂をどうしたいの!」

「え、わ、私は……」

しどろもどろになる私に、その眼鏡の奥の眼光が突き刺さります。

「憂がずっと心配してるのよ!」

もうやめて、私に、何も期待しないで。

「憂が大事なら……憂のことを考えてあげなさいよ」

自分ですら守ることの危うい私に、そんな厳しいことを言わないで。

「……もう、やめてよ……」

「なら……」

目を合わせたくなくて、窓の外に視線を投げると、

「……あ……」

「……唯?」

私が愛する、ただ一人の妹がいました。

77: 2010/12/04(土) 13:54:14.74

「憂……」

「憂?ちょっと唯……」

その妹は、どうやら買い物に来ていたようで、馴染みの友人ふたりと歩いていました。

私がめっきり見ることのなくなった、楽しそうな笑みを浮かべて。

「……」

堪えることが出来ませんでした。

「唯?どこいくつもり?」

あんな笑顔を、私以外に見せるなんて耐えられないのです。

「唯ったら!」

強欲な私は、一刻も早くその元へ行かなくてはと、ただそれだけを思っていました。

「唯!」

袖を掴んだ和ちゃんの手を振りきって、徐々に私の足取りは早く、気持ちは重くなっていきます。

もう親友の声は聞こえていなくて、どす黒く胸が満たされていくまま、店を出ました。

78: 2010/12/04(土) 13:55:34.27

私の目には既に憂しか写っていませんでした。

いつもなら一旦立ち止ってしまうような冬の寒さも関係ありません。

一秒でも、一瞬でも早く行かなくては。

憂が、私を忘れてしまわないように。

異常に心臓は速くなっていき、白い息は両頬にかかります。

湿気を含むそれに僅かな不快感を感じますが、そんなの関係ありません。

私は、憂の元へと行かなくてはならないのですから。

「……憂!」

私はいつの間にか駆け足になっていて、妹はびくりと小さく体を跳ねさせました。

「……お姉ちゃん……」

振り向いたその顔は、変わらず愛しいままでした。

79: 2010/12/04(土) 13:56:46.95

「唯先輩? どうしたんですか」

「お、お姉ちゃんどうして……わっ!」

三人はどうしてか不思議なほど驚いていましたが、構わず私は妹の手を引っ張りました。

最近は触れることすら出来なかったその体でも、今はそんなことに執着していられなかったのです。

「お姉ちゃん!ちょっと……」

妹の苦しげな声が聞こえました。

「ちょっと先輩!」

でも、放すことは出来ませんでした。

和ちゃんが言った言葉が、私の不安を煽るのです。

とにかく憂を私の元へと。

81: 2010/12/04(土) 13:57:39.95

「どど、どうして唯先輩が!? 梓!」

「し、知らないよ!」

傍らでどうやら慌てているらしい二人を横目に、私はその握った手を引きます。

「お、お姉ちゃんったら!」

きっと痛いほどに強く握っている私を、妹は不安に駆られた目で見ているのでしょう。

怖いなんて思われたくはありません。

けれど、私が掴んだこの腕を、どうしても離してしまいたくなかったのです。

「憂、こっち来て」

「お姉ちゃん……?」

ごめんね、憂。そんなふうに思わないで。


私は、行き先も決まらないで、街の道を進みます。

止まることは出来ません。

その瞳に、私以外を写してしまってはいけないから。

82: 2010/12/04(土) 13:58:32.64

 それほど経ってはいないはずですが、私と憂の息は肩を揺するほどに上がっていました。

「はぁ……はぁ」

「……ふぅ……」

憂は、ずっと引っ張られてきたからでしょう。

私は、きっと焦りの気持ちから。

ほとんど迷い込んだような路地裏には、いつの間にか降りだした雪が舞い込んでいました。

「お、お姉ちゃん……どうした、の?」

少しばかり息を切らせて私に尋ねる妹を、じっと見据えました。

目を離せなかったのは、おそらく私。

困ったように眉を顰めて、私を見つめ返すその瞳は本当に綺麗で

私は時を忘れてしまうような、脳を見透かされてしまうような、そんな感覚に陥ってしまいます。

「……お姉ちゃん?」

「……憂」


それはもう、本当に久しぶりのことでした。

84: 2010/12/04(土) 13:59:34.91

私にはもう抑えることが出来ませんでした。

胸が張り裂けるくらいに詰め込まれたものを。きっと妹を見てしまったせいで。

それは、悍ましいほどの嫉妬だったり、もはや利己的なだけの愛情だったり、私を苦しめてきたものだけでした。

「……どうして」

「え?」

「どうして、憂は、平気なの?」

なにしてるの、私ったら。

「……平気……って?」

このままじゃ、きっと馬鹿な私は憂に酷いことを言ってしまう。

「私は、憂が、憂がいたから……」

「お、お姉ちゃん……?」

けれど、弱い弱い私には、せめぎ合うだけの理性もありませんでした。

「憂のせいで私はっ……こんなに、苦しい、のに……!」

「……お姉、ちゃん?」

困惑した妹の瞳には、歪んだ私の顔が映っていました。

86: 2010/12/04(土) 14:01:30.05

「もう、嫌なの!憂がいなかったら私だって……」

その目はまるで深海のように輝きを無くしていて、とても、怖かったです。

その持ち主が自分だということを、俄には信じられなくなるほどに。

「おねえ……ちゃん、どうしたの……?」

憂は、今にも崩れ落ちそうでした。

私に焦点が合っているか分からないほど、その目に涙を湛えていました。

泣いてしまわないように堪えている妹を見ても、私は止まれませんでした。


私だって……ずっと幸せだったのに!」

「……え……?」

瞳の奥の私は、滲んだ涙に隠されて見えなくなってしまいました。

「……わ、わかんないよ。何言ってる、の……?……お姉ちゃん……」

目元をコートの袖で擦りながら、それでも妹はどうにか笑顔を作ろうとしていました。

87: 2010/12/04(土) 14:04:30.93

「……あ……」

私がようやく目を覚ましたのは、そんな妹を見てからでした。

「ち、違うの!今のはね……」

「ごめんなさい……ごめん、なさい……」

小さくなって震える妹は、もうそれだけをただ呟くだけでした。

触れたら崩れてしまいそうなほど、脆い脆い妹の体。

動けないままの私には、手を伸ばすことすら出来ません。

立ち尽くす私を形取るのは、思考の止まった抜け殻の体。

「ごめんなさい……」

地面に、雫が一粒、ぽたりと落ちました。

雪の音だけが、人気のない路地裏に響いていました。

88: 2010/12/04(土) 14:07:14.17

 ● ● ● ● ●

 平沢憂は、私の……妹。

 私がいなくても大丈夫な、しっかりものの妹。

 大事な言葉は、私の口からは出てこない。

 離れてしまう前に、言わなくてはいけないのに。

 時折見せる悲しい顔は、私なんかには分からない。

 平沢憂は私の妹。

 ● ● ● ● ●

90: 2010/12/04(土) 14:11:51.93

 いつの間にか、家のリビングにいました。

随分前のことのように感じられる路地裏での、あの自分の言葉が頭を離れません。

私の頭を巡るのは、大切な、大好きな、愛する妹を傷つけてしまった計り知れない後悔。

息が、上手にできません。

「……ゆい、唯!」

「……へ?」

肩を揺すられて、ようやくぼやけた視界が晴れていきました。

「しっかりしなさい!」

「あ……和ちゃん」

気づくとソファに座っていて、目の前で見たこともないような形相を作る和ちゃんがいました。

心に掛かった真っ黒な靄は、以前として晴れないままです。

92: 2010/12/04(土) 14:13:53.78

 あの後、私の周りは時が止まったように動かなくなったのを覚えています。

啜り泣く憂の声だけが今も耳にこびり付いていて、不安を駆り立てます。

「唯!」

その後どのくらい経ったか、視界に入ったのが和ちゃんだとも私には分かりませんでした。

「せ、先輩! 憂!」

「う、憂?どうしたの?」

「あ……和、ちゃん?」

目線を向けているのに、焦点が合いませんでした。

「唯、憂に……なにしたの」

「……」

私には、答えることが出来ませんでした。

93: 2010/12/04(土) 14:18:01.56

「あれ……憂、は?」

はっきりとしない頭で辺りを見回しても、妹がいませんでした。

とにかく妹の姿を見ないと落ち着かなかったのです。

取り返しの付かないほど、きっと妹との間に、私は溝を作ってしまったから。

「ねぇ、憂は……?憂は?」

次第にそれが恐ろしくなっていき、確かめずにはいられなくなりました。

どうにか、妹の前に来れば、少しでもその溝を埋められるとでも思ったのでしょうか。

「……部屋よ」

呟いたように和ちゃんは言うと、私から目線を外しました。

「部屋……っ!」

でもそんなのは私にはどうでもよくて、ただ憂の元へ行かなくてはと、それだけしか頭にありませんでした。

96: 2010/12/04(土) 14:22:15.89

「! ちょっと待ちなさい唯!」

「はなして!」

立ち上がって階段へ向かおうとする私を、和ちゃんが止めました。

「やめなさい!」

「うるさい! どいて!」

振り払った自分の手にはもう力がありませんでした。

それでもどうにか、この愚かな私を報いなければと、意識だけは前に、前に。

足元から、徐々に不安が私を蝕んでいくのです。

それは私の足を震えさせ、逃れようのない支配で私を動けなくしていきます。

とんでもなく恐ろしかったのです。

今まで私を追い詰めたそれらとは、まるで比べものにならないほどに。

「やだ、やだやだやだ……憂!」

震え上がった両足では、もう立つことも出来ませんでした。

97: 2010/12/04(土) 14:26:48.76

「うい、憂……!」

「唯、落ち着きなさい」

「離して! 憂のところに行かなくちゃ、行かなくちゃ…」

とにかく今のままではいけないと、私の臆病な心はまた逃げ道を捜すのです。

もはや、なくなってしまった逃げ道を、それでも捜すのです。

「行ってどうするの!」

そうすれば、その時だけは逃げられるから。

どうしようもない絶望の淵に立たされることだけは、心を別の何かで満たしてにしてまで避けるのです。

「……わ、わたし、どうしよう……どうしよう」


犠牲とするのは、必要な時間だけ。

居なくなってしまいたいと願う自分の体を、それでも守る私。

貪欲で意地汚い私の性根は、これだけ追い詰められても変わることはありませんでした。

101: 2010/12/04(土) 14:30:41.94

「はぁ、はぁー……やだ、やだよ……っ」

上がった息のせいで、過呼吸になってしまいそうでした。

「唯、落ち着くの」

私を執着させているのは、きっとまだ捨てていない一縷の望み。

妹ももしかしたら、なんて笑い飛ばされてしまうような、一縷の望み。


私にとって、結局妹が全なのです。

取るに足らない自分自身を守るのは、それを確かめられていないからという不安からだけなのです。

だから、妹の口から全てを理解できるような言葉でも浴びせて欲しかったのです。

この想いと決別できるのなら、どんな言葉でも。

たとえ、どんなに辛辣でも、そうしなければ私はずっとこのままだから。

言われたらどうなってしまうか分かりません。

でも、それで普通の「お姉ちゃん」になれるのなら、私は、それで構わないのです。

104: 2010/12/04(土) 14:34:19.78

「憂、憂……っ!」

「あ! 唯!」

無意識のうちに、駆け出していました。

動かない足を奮い立たせても、心は立ち直れません。

朦朧とした目を見開いても、心は曇ったままなのです。


でも、もういいのです。

これより私の心が荒んでしまっても、不幸な私の手から、妹が離れられるのなら。


階段を駆け上がり、廊下を駆け抜け、その扉の前へとたどり着きました。

「憂……」

乾いた喉では、飲むこんだ唾をなかなか押し込めませせん。

息が詰まりそうな緊迫感を、取っ手を捻って掻き消しました。

107: 2010/12/04(土) 14:42:48.45

「……憂」

「あ……お姉ちゃん」

憂は、まるで何もなかったような振る舞いでした。

一瞬記憶を疑った私に分かったのは、目元の赤い跡だけでした。

「……どうしたの?」

顔は、笑えていませんでした。

きっと妹は、私以上に無理をしているのでしょう。

私は、次第に自分の顔が歪んでいくのが分かりました。

「……おねえちゃ、ん?」

自分へ侮蔑を向けているはずなのに、私はその顔を妹へと向けてしまっていました。


なにしてるの、すぐに謝らなくちゃダメだよ、私ったら。

私の憂を、これ以上悲しませてはいけないよ。

108: 2010/12/04(土) 14:46:21.05
「あ、髪の毛曲っちゃってるよ」

無理をして笑って、妹は私の髪に触れました。

何も言えない私に触れるその手は、確かに震えていました。

「……はい、なおったよ」

「あ……」

諦めてしまえればどれほどよかったでしょう。

この優しい妹を、ただ妹として愛せればどれほど幸せだったのでしょう。

可能性のない希望なんか捨ててしまおうと、何度試みたか分かりせん。

でもその度に、妹の優しさに触れてしまうのです。

囚われた私の体を、さらに閉じ込められてしまうのです。


「……ねぇ、憂」

「……なぁに?」

僅かだけでも、怯えを感じられたその言葉に返せたのは、

「……ごめんね」

ただの、その一言だけでした。

109: 2010/12/04(土) 14:50:38.24

──

憂は無理をした笑いで許してくれました。

戸惑う私を差し置いて、また私に優しさを浴びせかけるのです。

嫌だなんて、もう言えません。

その優しさの中は、私をまるで赤ん坊のように包みこんでしまうのです。

一度壊れかけた私の心では、今では抜け出すことすら出来なくなってしまいました。

そして私はほしいままに、さらに妹を求めてしまうのです。


「じゃあ、一つだけお願いがあるの」

妹は私の手を取って、小さな声でいいました。

俯いたままの妹の顔は、私には分かりません。

「……なあに?」

触れた手から、ようやく冷えた体が解かされていきました。

112: 2010/12/04(土) 15:01:00.24

「明日は……一緒にいたいな」

握った手が、熱くなるのを感じました。

「……うん」

私は、妹のそばにいてはいけないのに。

「えへへ、ありがと」

近くにいたら、私のせいで汚してしまうのに。

「いいよ」

でも、断ることなんて出来ませんでした。

「うん」

その時、胸を過ぎった想いを振り払うように、私は妹の目を見つめました。

115: 2010/12/04(土) 15:05:09.48

──

まだそう遅くないうちに布団へと潜りました。

どうにも心が落ち着かなくて、明瞭としない思考を無理やり寝かせようと目を閉じます。

布団の中に立ち込める湿気が僅かばかり不快でしたが、体を小さく丸めました。


自分のこの体を確かめないと不安だったのです。

私が私を保っていられるのは、きっとこの体があるから。

形もない精神だけの私だったならば、とっくに崩れ去ってていたでしょう。

せめて、一つの証拠だけ。

妹との記憶が染み込んだこの体は、なくしたくなかったのです。

なくなるはずなんてないけれど、確かめずにはいられませんでした。

明日になっても、妹が私を分かってくれるように。


降りてきた眠気に身を任せ、静かに深呼吸をしました。

ふと、忘れていたかのように思いました。

きっと、私は……。

116: 2010/12/04(土) 15:09:13.09

 時計が鳴り出す前に目が覚めました。

日頃より早い目覚めは、むしろすっきりとしたものでした。

きっと、今日も妹は起こしに来るでしょう。

「……ふぅ」

一息吐き出して、布団を退かしました。

私が向ける言葉は、もう決まっています。


少しして、聞こえるスリッパの音。

扉が、ゆっくりと開きました。

「……おはよう、憂」

「あ……うん、おはよう」

妹が差し伸べてくれた手をとって、私はベットから立ち上がりました。

118: 2010/12/04(土) 15:12:55.13

……
…………

その日は、ずっと手を繋いでいました。

妹が私の手を離さなかったのです。

昨日あれほどのことを言った私にも、妹は変わりませんでした。

「……あのね」

上手く話せなくなる私を、妹は気づきません。

「うん」

「昨日は、みんなで鍋するつもりだったんだ」

「え……」

より一層情けなくなる私を、妹は笑って安心させてくれました。

「お姉ちゃんも一緒にね、驚かせようと思ってたんだけど……」

「……ごめんね」

「ううん」

この声は、ずっと私を微睡ませてきた、そんな声。

121: 2010/12/04(土) 15:17:47.75

「梓ちゃんたちに、後で謝らなくちゃね」

「……うん」

握った手はそのままで、妹が俯いた私を覗き込みました。

「お姉ちゃん?」

跳ね上がる心臓は、きっとこれからも変わらないのでしょう。

「……な、なに?」

「そんな顔しなくても平気だよ」

「……うん」

それでも良いと思ってしまったのは、もう仕方が無いのです。

123: 2010/12/04(土) 15:21:17.39

「あ、埃ついてる」

そう言って、妹は私の頬に手を伸ばしました。

「だ、大丈夫」

咄嗟に自分で払おうとした私を、妹が止めました。

「じっとしてて」

「……」

「…はい」

ああ、確かこのやり取りは、いつか当たり前のように交わしていたものと同じ。

違うのは、私だけでいいのかな。

125: 2010/12/04(土) 15:25:42.25

妹が見せたその白い小さな綿埃は、いつかのクリスマスを私に思い出させました。

あの時は、ただ妹の為だけに私はいて、ただただ満たされていたことを覚えています。

今ではもう、憂の笑顔は私には作れません。


「……ねえ憂」

「なあに?」

ありがとう。

やっと、その言葉を言えました。

言わせてくれたのは、きっと妹のお陰。

手を握っていてくれたから、自然と口から漏れました。

「どういたしまして」

恥ずかしそうに笑った妹の手を、今度は私が握り返しました。

126: 2010/12/04(土) 15:29:57.35

──

「もう寝るの?」

「うん、だめ?」

私のベッドに腰掛けて、妹が首を傾げました。

「いいけど……」

私と一緒に寝たい、なんてそんなことを言い出したのです。

上手な言い訳も作れない私は、それでも胸は高鳴っていました。

「えへへ」


言い訳がないというのが、私の言い訳なのです。

妹が言ってくれたとき、心に何かが染み渡っていくような感覚を覚えました。

とても、嬉しかったのです。

私がどんなになっても、妹は私を突き放さずにいてくれること。

それを感じられただけで、とても救われた気がしたのです。

127: 2010/12/04(土) 15:32:16.66

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

布団に入っても、私は目を閉じませんでした。

妹が瞳を下ろしてその顔を、見ていたかったのです。

ゆっくりと胸を上下させるその呼吸も、綺麗な瞳が閉じ込められているその瞼も、

私の名前を呼んでくれるその口も、全て目に留めておきたかったのです。

次第に妹の呼吸は寝息へと変わり、その音だけが私の耳に響きます。


眠った妹の手に触れました。

私は、ずっと妹のそばにいたいと、そう思ってしまったのです。

例え、それがただの姉妹でも私は構いません。

無垢な妹に笑ってもらえれば、私はそれだけで。

128: 2010/12/04(土) 15:37:16.87

 ──
 ────

 それでもいつか言える日が来るのでしょうか。

 妹を傷つけてしまっただけの、この醜い感情を。

 言えるならば、妹の心に触れないように。

 そうしなければ、きっと優しい妹は受け入れてしまうから。

 だから、この気持ちを伝える時は一度だけ。

 それは、妹に好きな人が出来たあとの

 「いつか、きっとね」

 そして、白い頬に口づけをして、私は瞼を閉じました。

 ────
 ──

132: 2010/12/04(土) 16:00:02.07

 ● ● ● ● ●

 平沢憂は私の妹。

 私が恋した女の子。

 それでも私は、お姉ちゃん。

 変わることはないけれど、それでいい。

 大好きなんて言えるのは、今のこの距離だけだから。

 平沢憂は私の妹。

 ● ● ● ● ●




 ― おしまい ―

134: 2010/12/04(土) 16:03:27.34
乙 面白かった

145: 2010/12/04(土) 18:53:00.72

引用元: 唯「異物感」