1: 2012/12/15(土) 00:06:59.05
「君主様は聡明なお方であった」

「平和を愛し、素晴らしい理念を貫き通す、善きお方だった」

「その理念は国境を超え、三国によい影響を与えた」

「――けど、それもまた少し昔の話」

「ある人はいった」

「君主様は悪魔に憑かれてしまった、と」

「ある人はいった」

「君主様は前代の霊に魅入られてしまったと」

「ある人はいった」

「君主様もまた、隣の国の君主と同じ人間でしかなかった、と」

2: 2012/12/15(土) 00:13:03.16
―――
――


少女「行って参ります、院長様」

院長「ええ。淑女として、それ相応の振る舞いを忘れずに。神は――」

少女「『神はいつもあなたを見ていますよ』ですよね?」

院長「ほほほ。……そうそう、これを渡しましょう」

チャリン

少女「これは……銀貨ではありませんか! お遣いでしょうか?」

院長「いえ、これは日頃のお礼です。あなたはこの孤児院で一番の年長として頑張ってもらっています。これでパンでも買って、昼食にするとよいでしょう」

少女「いけません! 私のような者にこのような大金だなんて。神に仕える者として、迷える者を導くのは義務。私もその迷える者の一人。神が許すはずが……」

3: 2012/12/15(土) 00:17:42.56
院長「自分を卑下してはなりません、ミス。金銭もまた神の恵み、恵みはそれを必要とするもの、それにふさわしいものにめぐり来るもの。こうして今、あなたの手の中に銀貨が存在するのも、また神の意志なのです」

少女「……大いなる神に、至上の喜びを伝えるとともに、極上の感謝の礼節をここに」

院長「あなたの感謝の言葉は、こうして神へと巡り、そしてまた神は偉大になっていくもの。行きなさい、ミス。夕食までには帰ってくるのですよ?」

少女「承知の上です。それでは」

タッタッタ

院長「……神は、彼女にどんな導きを示してくれるのでしょうか。――この国に対しても」

4: 2012/12/15(土) 00:25:07.99
―――
――


少女「……随分と、この広場もみすぼらしいものになってしまったものです。ついこの前までは、馬上の騎士の祭り騒ぎがあったとは思えませんわ」

少女「そういえば……私が孤児院に預けられた時のこの国は、このような様子だと聞いたことがあります。また、繰り返してしまうのでしょうか」

少女「『新』への歩みは、困難が続くものです。……神よ、なぜ」

「やあ、久しいじゃないか」

少女「あら。これはごきげんよう、ミセス」

おばさん「ふふふ。相変わらずアンタは礼儀正しくて何よりだわ。ウチのガキに見習わせたいところだよ」

少女「子達の仕事は、元気に走り回り、感謝の気持ちを忘れないこと、と院長さんは言っていましたわ」

おばさん「元気なのは折り紙付きだけど、ウチの旦那ともども毎日のように『飯!』ってしか言えないんだよ。どうにかしておくれよ」

少女「それはそれは」

5: 2012/12/15(土) 00:32:17.90
おばさん「っと。愚痴を言っても仕方ないわよねぇ。愚痴愚痴ばかりしてて今の状況抜け出せるわけじゃないしねぇ」

少女「記憶が正しければ、ミセスの家の旦那様もミョウバン採掘の仕事をしていたはず。そちらの方はどういった様子で?」

おばさん「こっちの採掘場は反乱の心配はないさね。反乱が起きた北の方は君主様の管理も行き届いてなくて、役人様がいばりちらしてたらしいしねぇ」

少女「なるほど。南の採掘場は首都から近いですものね」

おばさん「けど血の気の多い連中が問題起こしてくれたせいで、採掘場の監視が厳しくなってよぉ。旦那が『気楽に飲めやしねぇ!』って文句言ってたわ」

少女「一刻もこの緊迫した状況から抜け出せるとよろしいのですが」

おばさん「今は採掘場うんぬんよりも、やっぱりミョウバンの採掘量が減っちまったのは痛手だよ。おかげさまでこの街もこの有様。挙句には君主様は――」

少女「ミセス。お口が過ぎるのでは?」

おばさん「おっとっと。ごめん。ウチって口が軽いのが根からの悩みなのよ。そういえば、今日は絵、描かないのかい?」

6: 2012/12/15(土) 00:38:31.58
少女「実は先日、孤児院の人達みんなで西の丘の風景のスケッチ会をしてきたところで。ひと月に使える木板の量は決まっていますから」

おばさん「なるほど。まぁ、やっぱりこの国の孤児院は充実しているわよねぇ。君主様の意向らしいけど。しかも文化振興だとか言って、絵描きの仕事を推進している熱心ぶり」

少女「私はこの意向に大きく賛成です。でなければ、女性である私に絵を描くチャンスなど与えられなかったのですから」

おばさん「普通なら女はこつこつ畑で働くのが一般的だもの。はぁ、生まれる時代間違えちゃったかしら」

少女「必ずや良き時代は訪れます。神が見ていますから」

おばさん「そう祈るしかないさね。そんじゃ、気を付けて歩くんだよ。気が狂った乱暴者に襲われないようにね」

少女「ありがとうございます。ミセスもお元気で」

8: 2012/12/15(土) 00:43:58.88
―――
――


少女「――窓が開いている。今日はいらっしゃるようですね」

タッタッタ

トントントン……

ドンドン

少女「失礼。ミスター」

少女「……神よ。いつものごとく、この時ばかりは、他の領域に勝手に足を踏み入れることをお許しください」

ガチャッ

少女「失礼します」

シャッシャッシャ……

少女「やっぱりいらっしゃるではないですか」

9: 2012/12/15(土) 00:48:02.98
タッタッタ

黒ひげ「……」シャッシャ

少女「ミスター」

黒ひげ「……また、来てしまったのですか」

少女「最後の別れ際に、また来させていただくと言っていたはずです」

黒ひげ「……なぜ……神はあなたのような若者を、私の元に導いてしまうのでしょう」

少女「神の意志であり、これは私自身の意志でもあります」

黒ひげ「……」

少女(……いつもと同じ、ですか)

10: 2012/12/15(土) 00:53:04.96
黒ひげ「……」

少女(最初の挨拶を交わした後は、変わらず口を開かず。ただただ、筆を走らせる)

少女(黒ひげおじさん、と呼ばれるこの人と、広場でふと出会ってからもう半年ほどになるでしょうか)

少女(広場で筆を走らせていた私と、それまた同じように筆を握っていた黒ひげおじさん)

少女(血のつながりの恩もないこのおじさんに、私は執着している)

少女(その雰囲気に近隣の人達はおじさんに近寄ることはない。そんな人物に、なぜ私は執着しているのか)

少女(……一目ぼれです)

11: 2012/12/15(土) 00:59:05.24
少女(私はただ、広場の噴水を見て、ただただ写生を繰り返していただけでした。ですから、最初はこの黒ひげおじさんも、同じようなものだと思っていました)

少女(ですが、そう判断するにはあまりにも浅はかでして。おじさんの瞳の中では、この世界よりさらに上の世界が見えていたのです)

少女(木板を張り付けて、その上から布に描きこまれていたおじさんの絵は……一つの、『誕生』を描いていました)

少女(水の泡から生まれた女神。誕生を祝う妖精たちの歓喜)

少女(それを、おじさんは噴水を一心に見つめながら、静かに描き続けてました)

少女(おじさんの目には、どのような様子で噴水が映っていたのかは定かではありません。いえ、その真相は決して知ることはできないでしょう)

少女(それを理解したときから、私はおじさんの描く『女性』に一目ぼれしました)

12: 2012/12/15(土) 01:04:24.35
黒ひげ「……」シャッシャ

少女(おじさんと会話をすることはめったにありません。こうして一日中、出来る限り、おじさんの絵を描く様子を見る。ただそれだけです)

少女(それはおじさんから『また来たのか』と言われるに決まっています。ですから、『やはり迷惑でしょうか』と尋ねたことがあります)

少女(ですが、おじさんは無表情で首を横に振るだけでした。迷惑でないなら、とこうして好意に甘えさせてもらっているということです)

タッタッタ

少女「失礼いたしますわ」

タッタッタ……

14: 2012/12/15(土) 01:11:12.81
少女(時々気分転換がてらに、こうして席を離れる時もあります)

少女(とは言いましても、目的がもちろんあってのことです)

ガチャッ

少女(この部屋は、おじさんの今まで描いてきた絵画が並べられている場所です。言葉通り、所せましと並べられています)

少女(そして最近気づいたのですが、この部屋の絵画を見て回ったところ、ほとんどの絵に女神や妖精の女性が描かれています)

少女(どれも、私が一瞬で見惚れた、慈愛に満ち溢れた女性たちです。なんと優しく、なんとはかなげな表情なのでしょう9

少女(この部屋で絵を見つめ続けるだけでも飽きません。私にとっては、年少の子たちがお菓子に目がないように、この絵画が素晴らしいお菓子に見えるのです)

15: 2012/12/15(土) 01:16:44.99
―――
――


少女(夕日が傾き始めると、一日の終わりが刻一刻と迫ります)

黒ひげ「……帰りなさい。暗くなる前に)

少女(おじさんはこの時は必ず、こういった言葉をかけてくれます。少なくとも悪い人ではなさそうです)

少女「ご心配をおかけしてすみません。本日はありがとうございました。感謝の礼と、この日というめぐりあわせを生んだ神に至極の礼を」

黒ひげ「……また、来るのか」

少女「ご迷惑でなければ」

黒ひげ「そうか……」

少女(このやり取りを最後に、おじさんと別れます。はたから見れば奇妙な関係かもしれませんが、半年間、何回も繰り返していると、やはり慣れてしまうものです)

少女「ではまた……後日。神のご縁がありますように」

16: 2012/12/15(土) 01:23:38.10
―――
――


君主「頭を上げなさい」

院長「はっ。これはなんとも……」

君主「君の敬意は重々伝わった。……手短に話す。よく聞いてくれ」

院長「なんなりと」

君主「……前代の君主である父が氏に、先日も弟が暗殺された。それはよく知る内だろう」

院長「はい……悔やんでも、悔やみきれません」

君主「ああ。この国の支配者となってしまった若き私の支えの一つであった弟も氏んだ。……非常に、嘆かわしいことだ」

院長「……街にはびこるとある噂、君主様をご存じで?」

君主「……おそらくあれは事実だ」

院長「真でございますか」

君主「ああ。……あの家の反乱、そして弟の暗殺。あれは大教会の差し金だ」

17: 2012/12/15(土) 01:28:24.70
院長「となりますと……三か月前の、採掘場の反乱も」

君主「焚きつけて、火に吹いたのは教会だ。……いつかは来ると思っていたが、時期が早すぎる。いや……未熟者である私がこの地位に立つのを待っていたのかもしれぬ」

院長「い、いえ! あなたは聡明で、何より――」

君主「巷では『悪魔に取りつかれた暴君』と呼ばれている私が、か?」

院長「そ、それは……」

君主「……明らかに、私は道を踏みちがえた。しかし、あの反乱は軍隊の武力行使によってでしか止められなかったと思っている。だからああして、暴君と呼ばれても仕方ない所業をしたまで」

院長「それしか手段がないのでしたら……」

君主「院長……私の手は、もう汚れてしまった。もう私は、この地方を守る理念を持った、平和の使者ではない。『ただの』支配者だ」

院長「……」

君主「……院長」

院長「はい」

18: 2012/12/15(土) 01:34:43.51
君主「これはあくまで私の推測だ。動揺しないで聞きたまえ。……近々、戦争が起こる」

院長「なっ!? こ、この国でですか!」

君主「ああ。文化と平和の国と呼ばれたこの国で、だ。……知っての通り、この国は前代未聞の経済危機に陥っている。国力が著しく衰退している今こそ、大教会にとっては策略の内だろう」

院長「……ミョウバン採掘場の反乱も、その大いなる策略の内だったと」

君主「ずるがしこいところは家系が変わっても同じなようだ、大教会は。……大教会は軍を持っていない。おそらく、東の国から軍が送り込まれてくるだろう」

院長「東の? 待って下さい。あの国はこの国と同盟関係では?」

君主「東の君主が、例の採掘場反乱の件について非常にご立腹らしくてな。まぁ、同盟を結んだ代から今の代に変わったおかげで、少しばかり思想の変化があったせいともいえるが。今の君主はどうも直情的だと評判だからな」

院長「あの国の軍となると……包囲されれば、あっという間に……」

君主「すべて崩れ去る。大聖堂も、何もかも」

19: 2012/12/15(土) 01:40:06.41
院長「彼のお方の、素晴らしき壁画も……」

君主「残念ながらな。……ということだ。いつこの街に戦火が飛んでくるかもわからぬ」

院長「理解いたしました。……準備ができ次第、隣国の方へと子供たちを逃がしたいと思います」

君主「迷惑をかけるな。……昔は絵を描く際にも時間を取らせることもあったものだ」

院長「あの思い出も、よき思い出。……君主様は?」

君主「この国に残る。無論、最後まで抗う気だ。……何か残してみたいのだ。この国がなくなろうと」

院長「……どうか、御武運を。神よ、聡明な君主様に慈悲を」

君主「その御慈悲、喜んでお受けします」

21: 2012/12/15(土) 01:47:40.70
―――
――


少女(今日もまた、黒ひげおじさんの元に足繁くやってきている。よくも悪くもいつも通り)

黒ひげ「……」シャッシャ

少女(今日は今まで下書きを繰り返してきた部分に着色をしているところだ。……真似出来るものであるならいいものなのだけれど)

黒ひげ「……」サッサッサッサ

少女(……まるで迷いがない。その筆の走り方は、まるで海の真ん中で心の内を叫んでいるようだ)

少女(おじさんはまた女神を描いている。金髪が風に揺られ美しく、その髪すらくすませるほどに美しき四肢と顔を持つ、まさに女神と言える女性)

少女(私は今まででいくつか気づいたことがある。まず、絵画の中心人物ともいえる女神や妖精、これらを見比べてみると、まるで顔が一緒なのだ)

少女(差異はあるものの、モチーフとなっている人物が一緒、つまりは、モチーフである人物がいることとなる。これが実在なのか、想像上の人物なのかは不明)

22: 2012/12/15(土) 01:54:28.18
少女(実を言うと、前に一度だけ、このことについて質問したことがある。『この女神のモチーフはいるのか?』と。返答は――)

少女(返ってこなかった。そして、それ以上私は言葉を紡ぐことができなかった)

少女(無表情を貫くおじさんの目に……深き憂いに似通った何かを感じたからだ。その瞳は、描いている途中の女神をじっと見つめながら、まるで懺悔するようだった)

少女(その憂いはあまりにも深く、底が見えず。まるで水の中に沈むかのような浮遊感を感じた)

少女(気のせい、だというこは分かっている。だが、その憂いに足を突っ込むと、そのまま上がれない、そんな錯覚を覚えた)

黒ひげ「……騒がしい」

少女「騒がしい?」

黒ひげ「……城の方。通信使の馬が右往左往を繰り返している」

少女「なんなのでしょうか? 私にはさっぱりです」

23: 2012/12/15(土) 01:57:45.09
黒ひげ「……」

少女「ですが、最近街ではどうも変な噂が流れているらしくて」

黒ひげ「……」サッサッサ

少女「噂によると、大教会がこの国の滅亡をたくらんでいるとか。はたまた隣国が秘密裏に戦争を仕掛けるとかなにか」

黒ひげ「……」サッ……

少女(筆が……止まった?)

黒ひげ「……戦争?」

少女「え、ええ。まぁ、眉唾物の物騒なうわさだと思いますけど」

黒ひげ「……」カタ……

少女「ミスター?」

24: 2012/12/15(土) 02:01:09.98
黒ひげ「……お茶にしよう」

少女「――え?」

黒ひげ「……クッキーで、いいかな?」

少女「で、では……お茶は私が淹れましょう」

黒ひげ「では……頼もうかな」

少女「お任せを。院長直伝の紅茶を振舞わせていただきます」

黒ひげ「……」カチャコン

少女(……おじさんとお茶なんて初めて。……そして――)

黒ひげ「……」

少女(なんで、またあの憂いがあるのでしょうか)

25: 2012/12/15(土) 02:04:46.24
―――
――


黒ひげ「……」

少女「どうぞ」

黒ひげ「……」

少女「……」

黒ひげ「……」ズズー

少女「神に至極の感謝をこめて、今ここに言霊を示す。……いただきます」

黒ひげ「……優しい、味だ」

少女「喜んでいただけて何よりです」

黒ひげ「……今日は馬車の音が多いな」ズズー

少女「何やら始まる予兆なのかもしれませんね」

黒ひげ「……」

少女……」

27: 2012/12/15(土) 02:10:27.27
黒ひげ「……君は前に」

少女「はい」

黒ひげ「尋ねたことがあったな。……女神について」

少女「ええ。……その、モチーフがあるのか、と」

黒ひげ「……君は洞察力があるようだ。私の作品の女神は、みな同じ人物をモチーフにしている」

少女「やはりですか……知り合いのお方をモチーフに?」

黒ひげ「知り合い……知り合い。ああ、少し古い付き合いだった」

少女「そうなんですか……」

少女(『古い付き合いだった』……もしかして)

29: 2012/12/15(土) 02:18:04.17
黒ひげ「……君は歴史に詳しいかな?」

少女「先生から教えてもらっています」

黒ひげ「……今から、ちょうど二十年前の戦争、知っているかな?」

少女「ええ、もちろん。……『恐君』と呼ばれた前代君主が、隣国に対し行った領地拡大戦争。我が国の最大の失態」

黒ひげ「そう言われているね。……前代も、今の代の君主のように、芸術文化、特に絵画に関しては多いに関心があった」

少女「確か……この国の男性に徴兵令が出された時にも、芸術家の人は特例として徴兵が免除された、と聞きました」

黒ひげ「……私も、その時から画家として、細々と活躍していた。だから、私は戦地へと赴くことはなかった。だが……私の知り合いは別だ」

少女「……」

黒ひげ「私の知り合いに……男と女の幼馴染が二人いたんだ。人づきあいが苦手な私にとっては、その二人はかけがえのない友人だった。男の友人は、非常に屈強な男性で、病弱な私とは正反対で、社交的な男だった」

少女「女性の方は?」

30: 2012/12/15(土) 02:27:42.15
黒ひげ「……それはそれは、美しい女性だった。村の若者はみんな、彼女にくぎ付けだった。その美しさは、隣国の一部にまで伝わるほどだった。とある貴族が、わざわざ顔を見に来たこともあった」

少女「よほど美しいお方だったのですね」

黒ひげ「ああ。……なにせ、彼女に恋心を抱いて以降、あれほど恋に真摯になれる女性はいなかった。今でもだ」

少女「初恋ということかしら?」

黒ひげ「……最後の恋でもあった。――領地拡大戦争がはじまって、大規模な徴兵令が出された時、私とは違って、ただの農民であった男の友人は、兵として駆り出された」

少女「……」

黒ひげ「彼は私と違って、素晴らしい人格者だ。……そんな彼を、私は尊敬していた。だから、戦地に駆り出された彼を見送った時、私にはもちろん悲しみが生まれた。だが……私の心の内には、醜い闇が垣間見えていた」

黒ひげ「私の内に潜む悪魔がこうつぶやいたんだ。『アイツがいない今なら、彼女を手に入れることができる』と」

黒ひげ「私は分かっていたんだ。男の友人もまた、私と同じように、彼女に恋していたことを。彼もまた、長い時間を彼女とすごしてきたんだ。……彼女のその優しさと美しさに惹かれないはずはない」

黒ひげ「私の内の悪魔は、まず私と彼を天秤にかけた。圧倒的に、天秤は彼の方へと傾いた。……当時、私はまだ無名の画家。虚弱でこの見てくれだ。それにくらべ、彼は屈強で、親から譲り受けた広大な土地を持っていて、何より男として理想的だった」

31: 2012/12/15(土) 02:36:52.91
黒ひげ「次に悪魔は、私に夢を見せた。広大なライ麦畑の中、彼女が笑顔で彼に寄りそう夢だ。……その様子は、まるで大地の妖精と風の神の中睦まじい絵画のようだった。……私より、何十倍もお似合いだった」

黒ひげ「最後に悪魔は好機を与えてしまった。――ほどなくして、彼が戦氏したという連絡が入った。それを聞いた彼女は、まるで日照りにあえぐ果実のようだった」

黒ひげ「私の心の内には、同情心と果てしない悲しみが生まれた。そして悪魔はこう言ったんだ。『今の彼女の支えになれるのは、私しかいない』と」

黒ひげ「嘆き悲しむ彼女の心を、私は精いっぱいに癒すことに尽力した。早く悲しみを……彼の記憶を忘却の彼方へと葬るように」

黒ひげ「それから少しの時間が過ぎ、私と彼女は恋仲となった。……私は、彼女の傷心に、付け込んでしまったんだ」

黒ひげ「しかし、私は彼女の心の傷に入り込んだ二しか過ぎない。それがむしろ、傷を広げる行為だという自覚もなく、ただ幸せの虚飾の悦に浸っていた」

黒ひげ「……彼女が突然、自頃するまでは。領地拡大戦争が終わってから、三年後のことだった」

33: 2012/12/15(土) 02:45:37.57
黒ひげ「言葉も、何も残さず、彼女は、自分の喉をナイフで突き刺した。……それは、戦氏した彼と同じ氏に方だった」

黒ひげ「これでやっと、鈍感な私は理解できたんだ。……彼女が本当に愛していたのは、彼だと」

黒ひげ「私はあくまで代わりでしかない。むしろ、私と恋仲になったことで、彼女の罪悪感がさらに増幅することになったと思っている」

黒ひげ「……愚かだ。今思うと、私は少し、ほんの少しだけ、彼の氏を喜んでいたのかもしれない。彼女を手に入れるチャンスだと。たった一度の好機だと」

黒ひげ「――親友の氏を嘆くところか喜び、そして彼女を氏へと追いやった。この醜いみてくれにふさわしい罪の数々だと、思わないか?」

黒ひげ「……挙句には、私は罪悪感から故郷を捨て、こうして細々と絵を描いているわけだ」

少女「……」

黒ひげ「……女神のモチーフは、ご察しの通り彼女だ。そして、この一番そばにいる男性のモチーフは、彼だ」

黒ひげ「私が絵を描くこと、それは贖罪なのだよ。この世では一緒になれなかった彼らを、せめて絵の中だけでも一緒にしたい、というエゴだよ。……終わらない贖罪を続けているんだ。愚かだと笑ってくれないか」

少女「……この女神は、幸せなのですか?」

34: 2012/12/15(土) 02:51:38.97
黒ひげ「――もちろんだとも。愛する男性と永久を過ごし、周囲は彼女たちを讃えている」

少女「……そんなの嘘よ」

黒ひげ「……どういう、ことかね?」

少女「彼女は幸せそうな顔をしていないわ。……だって、あなたの描く女神の顔は、全部憂いているもの」

黒ひげ「……憂いているのか?」

少女「ええ。まるで、何かに悲しんでいるような顔に見えるわ。周囲も、そんな彼女と同じように、まるで世界に憂いているみたい」

黒ひげ「……憂い? 君の目には、憂いが見えるのかい?」

少女「私、鋭い方だから」

黒ひげ「……憂い。……君は、憂いているのかい?」

35: 2012/12/15(土) 02:58:38.13
―――
――


黒ひげ「……」

少女「気分は、どう?」

黒ひげ「……もやもや、している。心の中の幾人もの自分が、自問自答を繰り返している。まるでごちゃまぜのミネストローネだよ……」

少女「……これは、私の勝手な独り言なんだけど、大声でしゃべってもいい?」

黒ひげ「……」

少女「……あなたは、何を描きたかったの?」

黒ひげ「……何を?」

少女「あなたも芸術家なら、自分の内にある何かを表現したくて絵を描いているのでしょう? 決して亡霊を描くために画家になったわけじゃない」

黒ひげ「……描きたかった、もの」

少女「私はね……いつも、孤児院の子供たちを描いてるの」

37: 2012/12/15(土) 03:05:21.66
少女「物ごころついたときからずっと孤児院暮らしで、父親とか母親とか存在なんて、はっきり認知するのには時間がかかった」

少女「けど、悲しむことはなかったわ。優しい院長がいるし、修道女さん達はみんな母親で、孤児院の子たちはみんな妹や弟。家族がこんなにいっぱいいて、さびしがる暇なんて全然なかったわ」

少女「だから、ね……怖くなるの。もし、また戦争が起こって、もし、孤児院が戦火に巻き込まれたら……家族が氏んじゃう。みんな、みんな」

少女「私が絵を描くのは……そんな家族たちへの感謝の気持ちと、家族たちみんなで、安心して暮らせる世の中になることへの祈り。神様への捧げものみたいなものなの」

少女「私の絵なんかが、神様の捧げものになるなんて思えないけどね。けど、院長さん達はみんな褒めてくれるの。『将来はこの国一の画家さんになれるね』って」

少女「そう言われると、その……純粋に、うれしいの。人間、単純だから」

黒ひげ「……」

少女「長い独り言終わり」

38: 2012/12/15(土) 03:12:02.70
黒ひげ「……そうだ、私も、同じだった」

少女「おじさんも?」

黒ひげ「……私の生きてきた時代は、戦いばかりで、よく畑が荒らされて、父も戦いで氏んだ。母はたいそう悲しんでいた」

黒ひげ「だから……私は、必氏に、たどたどしい小さな手を動かして、木板に描いたんだ。家族みんなで、畑に立つ絵を」

黒ひげ「それが私の最初の作品だった。……神への捧げもの、祈り――か」

黒ひげ「そうだ。私は絵に祈りを込めていた。平和な世界になるように、誰も悲しまない世界になるように」

黒ひげ「女神は平和の象徴。女神が優しく世界を抱擁し、周りはそれに歓喜する。それが私の原点……描きたかったもの」

黒ひげ「……決して、罪のしるしを刻むものじゃなかった。……すっかり、忘れていたのだな」

少女「なんだ、私と一緒なんだ」

黒ひげ「……やはり、神の導きというものは馬鹿にできないものだな」

少女「神は絶対ですから」

40: 2012/12/15(土) 03:18:10.89
黒ひげ「――筆を、動かすとしよう」

少女「何を描くの?」

黒ひげ「……過去に、罪に囚われない、平和への純粋な祈りをね。……彼女たちには、せいぜい墓の中で詫びることにしよう。今ここに生きている内は、やれることをやりたい」

少女「……そっか」

黒ひげ「――しまったな。布が切れてしまった」

少女「今までそんなミスしたことなかったのに」

黒ひげ「……私も相当な歳だから」

少女「ふふっ。……ちょっと待ってて」

タッタッタ

41: 2012/12/15(土) 03:21:23.73
―――
――


少女「はい。二枚でよかったのかしら?」

黒ひげ「これは……し、しかし、高値だったはずだが」

少女「使い道が思いつかなかったお小遣いを使いたかっただけだから」

黒ひげ「……それでは、なにかお礼をさせてもらおうかね」

少女「――では、無理は承知で、一つお願いしたいのですが」

黒ひげ「なんだ?」

少女「……私を、描いてほしいかなって」

43: 2012/12/15(土) 03:24:56.54
――三ヶ月後、大教会からの命令により、東の国の軍が侵攻を開始した――

46: 2012/12/15(土) 03:29:01.90
―――
――


修道女「荷物をまとめた子から列を組んで! 時間がないわ!」

院長「……」

少女「……」

院長「何か心配ごとがおあり、かな?」

少女「……ええ。たった今、神に祈っていたところです」

院長「ええ。私たちに出来ることは、神に祈ることぐらいです。……残念なことに、ですが」

少女「……」

院長「今はただ、思いましょう。願いを」

47: 2012/12/15(土) 03:32:36.80
―――
――


将軍「東軍の包囲網、以前崩れる様子はなし……お互いにこう着状態が続いています」

大臣「……ついに、終わりの時が来たか」

君主「……」

将軍「一部では、独断による撤退の動きが見えます。兵力も期待値からかけ離れたものです。籠城も、この食料では……」

大臣「長期戦になることは必至だ。片っぱしから食料を集めろ」

君主「……神よ。我が望んだ理想は、いずこへ」

48: 2012/12/15(土) 03:34:15.04
―――
――


黒ひげ「はぁ……! はぁ……!」

タッタッタ

門番「む! 貴様、何者だ! ただいまは臨戦態勢を――」

黒ひげ「時間がない! 少しだ、少しだけでいい……この絵を、届けるだけでいいから!」

門番「絵……?」

49: 2012/12/15(土) 03:37:45.09
―――
――


君主「……久しいな。何年ぶりだろうか」

黒ひげ「大聖堂の壁画を描いてから……5年ほどだろうか」

君主「お互い、老けてしまったな」

黒ひげ「老いたのは私だけだよ」

君主「……最期に、お前に会えてうれしい」

黒ひげ「……」

君主「このこう着状態が解けた時、この国は一瞬にして塵となるだろう。絵も、彫刻も、なにもかも。そして、私も……平和の理想も、理念も」

黒ひげ「絶やしてはなりませぬ」

51: 2012/12/15(土) 03:41:11.96
君主「お前……」

黒ひげ「平和の夢を、絶やしてはなりませぬ。……真の平和をつかみ取るのは、私の夢でもあり、あなたの夢でもあったではないですか」

君主「……それもまた、昔の話だ」

黒ひげ「そう逃げていては、理想など理想以上でもなんでもなくなってしまう! ……それに、平和を祈っているのは私たちだけではない」

君主「……」

黒ひげ「しがない画家も、農民も、孤児院の少女も! この世に生を受けたものは、一度でも平和を祈るはず! ……皆の願いを、絶やしてはなりませぬ」

君主「……しかし」

黒ひげ「……これを」

52: 2012/12/15(土) 03:48:58.01
君主「これは……布? いや、そういえばお前は、昔から布に絵を描いていたな。……行方をくらましてから、お前の絵をまた見れるとは思わなかったよ」

パラッ…・・

君主「……これは……」

黒ひげ「『女神の誕生』を描いた。生命の息吹から生まれた女神は、周囲の妖精や神に歓喜の宴によって迎えられている」

君主「女神の……生誕」

黒ひげ「……その女神は、『平和』の象徴だ。見ておくれ。女神の顔は、嬉々に染まっている。輝く太陽の道に、希望を見出しているんだ」

君主「……」

黒ひげ「君は、誰よりも平和を愛していると、私が証言しよう。君ほど、真の平和に情熱を感じる人物はいないと、私が証言しよう。……君主様。今の君は、この国を、この国の民の命を預かる人だ。この国を頃すのも生かすのも、君次第なんだ」

君主「……」

黒ひげ「こうして、最後は君に押し付けることしかできない私を許してくれ。私には、絵を描くぐらいしか能がないものだからな」

54: 2012/12/15(土) 03:52:32.20
君主「――いや、君はよい仕事をしてくれた。ここまでの名画を、君は生み出したのだからな」

黒ひげ「ありがたき幸せ」

君主「……では、私は私に出来ることをするまでだ」

黒ひげ「……どうか、生きて帰ってくれ」

君主「それは……無理そうだ」

黒ひげ「……」

君主「……城の者に、よろしく伝えてくれないか?」

黒ひげ「……そうしたいならな」

君主「……さらばだ」

56: 2012/12/15(土) 03:57:24.14
――君主の突然の失踪は、国全体、東軍に混乱を巻き起こすこととなる――

――君主の行方など知る由もなく、敵前逃亡だと人々は嘆いた――

――東軍がそれに乗じ、包囲網を動かし本格的な攻撃を開始しようとした矢先――

――本国から撤退命令を受けたのは、君主失踪から2週間後のことである――

59: 2012/12/15(土) 04:04:15.70
―――
――


院長「……君主様の葬儀までもうすぐとなってしまった、か」

修道女「自分の命をかけて、平和を訴える……とても真似できません」

院長(東の国の王の目の前で、自分の命と引き換えに国を守るとは……最期まで、信念を貫き通すことができた彼は、幸せだったと思いたい)

修道女「――っと。失礼いたしました。国王代理様」

院長「いつも通りで、お願いしてくれないか? 私も、いきなりこの仕事に就くことになってまだ混乱している節があるんだ」

修道女「しかし、君主様に教えを説いた……院長なら、君主様の意志を紡ぐことができることでしょう」

院長「とはいっても、彼の子供が成長するまでの短い間だ。それに今国は立て直しの時期、私の実権は正直なところ微々たるものだから、院長は変わらないのだが」

60: 2012/12/15(土) 04:09:12.57
修道女「小国として、また一歩から……ですが、平和への意志は確かに受け継がれることでしょう」

院長「老いたものにはそれを祈ることしかできない。その先の未来は神と……今の若者のみが知る」

「あ、あの……」

院長「おや、あなたでしたか」

少女「えと……国王代理様」

院長「ははは。院長で構いませんよ。この国は独立はしているものの、今現在は実質東の国の支援で成り立っているものですから。私に国王のような実権はありません」

少女「ですが……」

修道女「あなたはまじめだからね」

院長「これは困りましたな。……そういえば、こんなものが届いていましたよ」

少女「え……?」

62: 2012/12/15(土) 04:14:40.42
―――
――


少女(あの一連の出来事からおよそ三カ月ほど。時間はかかったものの、この故郷にやっと帰ってくることができた)

少女(孤児院の子供たちも、元の場所に戻れてすごくうれしそうだ)

少女(……空白の三カ月の間に、黒ひげおじさんは行方をくらました)

少女(おじさんの家はからっぽで、まるで最初から何もなかったかのように空虚で……)

少女(話によれば、おじさんはもともと君主様の家の専属お抱えの画家で、大聖堂の大きい壁画もおじさんが描いたものらしい)

少女(しかしある日、ふとした拍子におじさんは君主様の家から行方をくらました。実際には君主様の家のすぐそばに隠居していたのだが)

少女(けど今度こそは行方知れずで、国外に旅をしたのではと言われている)

少女「届いたもの……布だ。――もしかして」

63: 2012/12/15(土) 04:17:38.41
ガサゴソ

少女「――絵だ」

少女「題名は……『女神誕生』」

少女「……この女神の顔、いつもと違う。もしかして――」

『……私を、描いてほしいかなって』

少女「約束……守ってくれたんだ」

少女「このけむくじゃらの人って……もしかしておじさん?」

少女「ふふっ。毛むくじゃら過ぎ。ここまで顔埋もれてないわよ」

少女「――おじさん」

少女「――また、会えるよね?」

65: 2012/12/15(土) 04:21:49.89
――新しく建てられた大聖堂の大壁画――

――それを描いたのは、詳細不明のとある女性の画家だった――

――題名は『再会』――

――彼女が晩年に描いたそれは、今も世界の人々から熱い視線を受けている――

――壁画中央に描かれているのは、花を加えた大地の妖精――

――そのすぐそばでは、ひげを無造作に生やした初老の男性が、花を持って妖精を出迎えている――

――彼女はおじさんと再会できたのか――

――その答えは、壁画だけが知っている――

66: 2012/12/15(土) 04:22:32.15
―Fin―

引用元: 少女「黒ひげおじさん」