1: 2011/01/06(木) 00:40:01.43
きっかけなんて、ほんの少しのことだ。

練習したい気分の私の前で相手がいつものようにふざけていただけ。
そう、唯の態度はいつものことだった。
私はそんな光景、見慣れているはずだったのに。

「…いい加減にしろよ!」

気が付けば私の右手は唯の胸倉を掴んでいた。
驚きに見開かれた瞳にじわじわと浮かぶ涙を見る。

「お、おい…ちょっと落ち着けって」

「うるさい、律は黙ってろ!大体…こいつがいつまでたっても練習しないからお前らも動かないんだろ!」

律に怒声を浴びせながら掴んでいる胸倉を揺さぶった。
ほどなくして唯の嗚咽が目下から響き、私の正気を少しだけ呼び戻す。

「ごめん…澪ちゃん…、ぐすっ…、すぐ練習するから…っ、ごめんなさい…」

当の私はもう練習なんて気分になれなかった。

7: 2011/01/06(木) 00:46:31.30

掴んでいた制服を乱暴に離し、呆然と私の行動を眺めていたであろうムギを一瞥する。

「私、何か間違ったこと言ってるか?」

今まで何度“練習しよう”と口にしてきただろう。
私は別にティータイムを批判しているわけじゃない。
ただ、オンとオフの切り替えを明確にしてほしいだけだ。

バツが悪そうに黙りこむムギを見ながら再び唯に視線を戻し、そして吐き捨てるように言った。

「…甘えすぎなんだよ」

後方から私を呼ぶ声を遮断するように強く扉を閉める。
一人、音楽室を後にした私の心拍数は異常なほど上昇していた。
こんなにも感情を露にしたのは生まれて初めてのことだった。

11: 2011/01/06(木) 01:02:45.29

一度抱いた嫌悪感というものは中々消えるものではなかった。
相手が視界に入る度、それは顔を覗かせ再び新たな負の感情を作っていく。

この感情は今に始まったことではない。
思えば唯が入部して間もなくの頃から練習を怠ける兆候は顕著だった。
そしていつしか律やムギまでもが加担するという構図ができあがり、私の苛立ちは徐々に膨れ上がっていた。

それが、遂に爆発してしまったというわけだ。


私は部活に行くのを止めた。
練習という当たり前のことができない部活なんて意味がないからだ。

しかしながら、それを快く思わない奴もいる。

13: 2011/01/06(木) 01:07:41.13

「澪さぁ…いい加減許してやれよ」

とある日の帰り道、まるで私が悪いというような口ぶりで律はそう零した。
まだ春先だからか、夕方の風はどことなく冬の冷たさを引き摺っている。
その冷たさはまるで自分の心の中と比例しているように感じた。

「…無理だ」

「マジかよ…」

「それに練習だけなら家でもできるからな」

発した言葉とは裏腹に私はあの日から一切ベースに触れていない。
心の中に蟠りを作ってしまった今、練習する気さえ起こらないのは当然であろう。

「…わかったよ」

「…」

「二人にも伝えとく」

静かにそう告げた律は「じゃあな」とだけ言い残し、いつもとは違う道に歩を向けていった。

15: 2011/01/06(木) 01:12:13.70

それからというもの、日常は少しだけ変化を見せた。
嫌悪感の元凶である相手に会うことが少なくなったのだ。

ただでさえクラスは違うけれど、廊下で擦れ違うことも無くなっていた。
ましてや、朝や放課後に顔を合わせることもない。

初めは何とも思わなかった。
それどころか清々する気分だった。
何故ならば、私が相手を避ける必要が無くなったからだ。

あの唯のことだ。
こうでもしなければ真面目に練習したりしないだろう。
今の私は少々の改心くらいで唯を許せるくらいの度量を持ち合わせてはいない。

しかしながら、私と唯の変化に気付くのは周囲の人間の方が敏感だった。
律やムギに現状を訊ねられるのはまだしも、大して関わりのない人間に何故、逐一報告しなければならないというのだ。
馬鹿らしい、いい加減にしろと私は毎日心の中で悪態を吐いていた。

16: 2011/01/06(木) 01:17:06.06

とある朝、私はいつもより少し早く登校した。

単に起床が早かっただけという理由で特に用事も無かった私はもうずっと足を運んでいなかった部室に向かう。
音楽室までの階段がやけに長く感じることに部活動を休んでいる日の長さを感じた。

自分でも何故そうしたのかはわからなかったが、ただ早朝なら他の誰にも会わないだろうと思ったのが安易な考えだった。

辿り着いた音楽室に私は一つ違和を感じて立ち止まる。
扉越しに聴こえる楽器の音色。

(まさか…な)

僅かに扉を開けて中の人の様子を窺う。
それは私の中にある少々の後ろめたさがその人に声を掛けることを躊躇ったからだ。

18: 2011/01/06(木) 01:22:15.26
唯は扉に背を向けて懸命にギターを弾いていた。

まるで周りのことなど見えてないとでも言うようにひたすら腕を動かしている。
練習するぞ、私が幾度となくそう言っていた曲のコードを何度も何度も繰り返し弾いていた。

ただ、一つだけ気になったのは以前にはあったはずの何かが今の唯にはないことだった。

「…あ」

途中、唯は小さく声を上げた。
それは意識を集中して聞いていなければ分からないくらいほんの些細なミスだった。
そんな僅かなミスにも唯は過剰に反応する。

――こんなの、以前の唯なら有り得なかったことだ。

暫くの静寂の後、唯は静かにギターを置いた。
窓から差し込む朝日がその身体を照らしている。
その背中が少し、華奢になったように思うのは気のせいだろうか。

19: 2011/01/06(木) 01:27:29.24

「ゆ…」

私は掛けようとした言葉をはっと呑み込んだ。
今の唯との距離。
それがあまりにも遠すぎて唇を噛み締める。

「…、っ…」

耳に届く小さな嗚咽に気付きたくなかった。
今の唯は私が声を掛けられる人物じゃないことを改めて知る。

目の前の背中は小さく震えていた。



私は現状を理解したくなくて、静かに扉を閉めた後、部室を後にした。

――こんなことなら部室に行くんじゃなかった

ついさっき上った階段を下りながら、私は込み上げてくるものを必氏で堪える。
唯はきっとあの日から時間の許す限り必氏で練習していたのだ。
私が部室に顔を出さない日も、私が練習を怠っている間もずっと。

――私が唯をここまで追い込んだ

その事実に気が付いた時にはもう、唯は壊れかかっていた。

21: 2011/01/06(木) 01:32:40.49

唯の異変に気付いてから数日後、私はようやく部室に向かう決心が着いた。
部室に向かうと言っても、その目的は練習ではない。
あの光景を自分だけの胸に仕舞っていられるほど私は強い人間じゃなかったから。

「あら、澪ちゃん」

扉を開くとムギがお茶を淹れていた。
途端、姿を見せた私に動じることもなく慣れた手つきでティータイムの準備を進めるムギに疑問が湧く。

「何も聞かないのか」

「ええ。だって、澪ちゃんがここに来たのはそれなりの理由があるからでしょう?」

ムギらしく寛容で優しさに満ちた応答に私は少し肩の荷が下りたような気分だった。

テーブルの上には何故か、しっかりと四人分のティーセットが用意されている。
私がここに来ることは誰にも言ってなかったはずだけれど。

「ああ、これね。唯ちゃんが『澪ちゃんの分も』っていつもきかないの」

不思議そうな表情を浮かべる私を察してかムギはそう応えて微笑を浮かべた。
何処か遠い眼差しと哀しげな笑みを携えたムギを見ていると、私が生んだ軽音部の亀裂の深さを改めて知る。

24: 2011/01/06(木) 01:37:14.58

同時に意外だったのは、あれほど唯を避けていたにも関わらず、こんな私を今だ気に掛けてくれている唯のことだった。

そう言えば、唯はそんな奴だった。
何も考えてなさそうな癖に、意外なところは鋭かったり、それに――繊細だったりする。

「…、くそっ…」

間違っているのは私だったのだろうか――。
私は初めて自身の言動を省みた。
あれほどまでに乱暴を働いた上、無視を決め込んだ私を唯は今でも“部員の一人”として捉えてくれている。

「澪ちゃん」

「…」

「今日、唯ちゃん来ないわ。家で練習するって、さっき連絡があったの」

「…そうか」

「正しくは…今日も、かな」

私の予想は当たっていた。
放課後、唯は授業が終わると直ぐに帰宅していたようだ。
あんなに放課後のティータイムを楽しみにしていた唯が。

「悪い、ムギ。帰るよ」

私が向かわなければいけない場所はもう決まっていた。

28: 2011/01/06(木) 01:42:19.55

校舎を出て、歩き慣れない道を歩いた。

そういえば、前に赤点をとった唯のために部活の皆で勉強会をしたことがあったな。
翌日、満点をとってきた唯には本当に驚いたけれど。

気付けばここ数日、私は唯のことばかり考えている。
それは良い意味でも悪い意味でも、私の中で何処かしらまだ割り切れていない部分があるからだろう。
――どんなに嫌悪したって、唯のことを自分の中から消すことはできなかった。

あの日の私は少し、大人気なかったのかもしれない。

会ったらまず謝ろう。
私はようやく、相手と向き合う決心がついた。


自宅とは真逆の方向へ進み、どれくらい経っただろう。
横断歩道の青信号が点滅している。
私は立ち止まり、赤信号になる数秒を待つことにした。

その時、向かいの車道に見慣れた背中を見つけた。
ギターケースを背負うその背中は私が今、会わんとしている人物に間違いなかった。

33: 2011/01/06(木) 01:47:54.71

唯はそのまま自宅の方角へとあるいて行く。
その背中が段々と小さくなるのを私は見ていられなかった。

拳を握りしめ、できるだけ大きく声を張る。

「……唯!」

唯は振り向かなかった。
久々に呼んだ名は車道を走る車の音に掻き消され、虚空に消えた。

その時の私には現状を判断する冷静さがまるで欠けていた。


一歩、踏み出してからそれ以降の記憶がない。

覚えているのはけたたましく鳴り響くクラクションの音だけだ。

34: 2011/01/06(木) 01:52:20.49

目を覚ました時、一番に見たものは無機質な白い天井だった。

頭に違和を感じて触ろうとすれば、腕にはチューブが刺さっていて身動きが取れない。
もう片方の腕は動かせなかった。

「…ぐすっ、うぅ…、…っく…」

誰かの嗚咽が聞こえ、僅かに首を傾けると唯が泣いていた。
どうしたんだよ、そう聞こうとして思わず口を噤む。
久し振りに唯の顔をまじまじと見たが、一目で分かるくらい痩せていた。

「…、唯…」

「…!、澪ちゃん」

元々大きな瞳が、以前よりも更に大きく見える。
その瞳に溜まった涙がぽろぽろと零れていた。
唯は私を見るなり泣き崩れ、もう会話どころではなかった。

37: 2011/01/06(木) 01:57:13.22
私は唯の方へ手を伸ばそうとしたが、両腕が拘束されていて動かせないことを知る。
今の気持ちを伝える手段はもう、自分自身の言葉に限られていた。

「唯…、ごめんな」

ぽつり、静寂に包まれる病室に唯の嗚咽と私の声が反響した。
唯は驚いたように顔を上げ、何度も何度も首を横に振って私の言葉を否定する。

「私が…、私が悪いの…っ、練習…しなかったからっ…」

「唯…もういいよ…」

「ごめんね…、澪ちゃん…ごめんなさい…」

唯は泣きながら私の右手をそっと握る。
その時、私は何故これほどまでに唯が私に対して謝り続け顔を上げないのか、ようやくその意味を知った。


――私の右手は感覚を失っていた。


「そっか…」

意外なことに私自身はとても冷静だった。
未だ泣き続ける唯を横目に、自分自身が取り戻したものと失ったもの双方の大きさに改めて気付く。

だけど、何故か、唯の手のひらの温もりだけは確かに感じていた。

わかるはずなんかないのに、「あたたかい」と思った。

39: 2011/01/06(木) 02:03:59.67

その後、私達四人が揃ってティータイムをすることはなかった。

私は必然的に部活を辞めることになり、それに続くように唯も退部した。

私と唯は再び以前のような関係を築けるとは思えなかった。
「大丈夫」――そんな一言で片づけられる問題ではないから。
互いに持っている後ろめたさが私達の距離を縮めることを阻んだ。


廃部になりそうだった軽音部にようやく集まった四人。
その内、二人が欠けてしまった軽音部は遂に廃部となった。
四人が集まるきっかけが、全て経たれてしまった。


しかしながら、移ろう日々というものは非常に残酷である。


初めは部活動の廃止に少なからず衝撃を受けていたにも関わらず、一年も経たないうちにその感情は薄れていった。
律やムギには悪いことをしたとしか言いようがないけれど、その二人も私に気を遣ってか以前のように話し掛けてくることは極端に減った。

私自身、不幸中の幸いだったのは、利き手である左手が無事だったことだ。
右手は未だに動かない。
どんなリハビリをしても、二度と以前と同じ感覚を取り戻すことはできなかった。

41: 2011/01/06(木) 02:11:01.96

二年になった春、学校中を騒がせた出来事があった。


――唯が自頃した。


原因なんて誰に聞かなくてもわかった。
だけど――私にとっての唯との会話はあの病室が最後となってしまった。


私は罪悪感に苛まれ続けた。

当たり前のことだ。
あの日の出来事が私を、そして唯を、軽音部を変えてしまったのだから。

笑顔の溢れていた部活を思い出す度、それがフラッシュバックとなり、気付けば自傷行為に走っていたこともある。
そんな日々を過ごしながらも、私は氏ぬことができずに生きていた。


しかしながら、それさえも時の流れが薄めてしまった。


部活動のない日々が自分にとっての“日常”になり、唯が居ない日々もまた“日常”になりつつあった。

人間というものは強い。
それが良い意味でも、悪い意味でも。

43: 2011/01/06(木) 02:16:52.62

ある日の帰り道、律と顔を合わせることがあった。

唯の自殺については互いに触れることはなかった。
その代わり、律は私が知らなかったあの日々の裏側を教えてくれた。
あれから最も多く唯の傍に居たのは律だったそうだ。

「実はさ、結構頻繁に唯の家に行ってたんだ。練習してるみたいだったから、そのチェックも兼ねてな」

私は久々に四人で練習していた日々を思い出した。
唯の溢れんばかりの笑顔を脳裏に浮かべ、戻らない日々の虚しさを覚える。

「唯はお前が戻ってくるの待ってたよ。毎日毎日…澪のことばっか話してた」

「だけどあの日、唯はギー太放り出してまで澪を病院に運んだんだよ」

「ぐちゃぐちゃになったギー太、お前…知らないだろっ…」

律の声が震える。
気付けば二人とも立ち止まり、春風に髪を靡かせていた。

心の中に仕舞っていたはずのあの日々がそっと顔を覗かせる。
不鮮明な日々が色付き、私の脳内に鮮やかに蘇る。

45: 2011/01/06(木) 02:23:04.43

「澪を責めてるわけじゃない…、けど、最近のお前見てるとどうしても言いたくなったんだよ…!」

私の中にあった蟠りが溶け、込み上げてくるものが目頭に熱を与えた。

後悔するのなら、何にもしなければよかった。
今更どんなに後悔したって、唯が戻ってくることはないというのに。

私はどこまでも都合が良い人間だ。

こんなことなら、喧嘩したまま別れを受け止めたほうがよっぽどマシだったかもしれない。
そうすれば中途半端な自殺で氏ねないなんてことはなかったのかもしれない。

だけど――律の話を聞いた今、自分自身の愚かさをようやく見つけ出すことができた。

「律、話してくれてありがとな」



――忘れてしまうことは、一番の罪だ。

48: 2011/01/06(木) 02:28:38.93

唯。

今、私が生きていることを赦してくれ。


私ができる償いは――自分が犯した罪の大きさを思い出すことくらいしかできないけれど。

それでも、これから先ずっと、唯を忘れることはないよ。




春風に当たりながら、右手を利き手できつく握り締める。
やはり、感触はおろか体温を感じることはできなかった。



――だけど、あの日、唯に包まれたときの温もりは今もこの右手に残っている。




51: 2011/01/06(木) 02:30:58.66
とりあえず描写多すぎたことを反省している
最後まで付き合ってくれた人ありがとう

引用元: 澪「嫌悪感の裏側で」