1: 2011/02/12(土) 19:08:15.04

人生の無駄を精算する生涯最後の一時――それがロス:タイム:ライフ

5: 2011/02/12(土) 19:13:48.63


――選手のスケールは、想いに比例する ――  元イングランド代表 L・コーエン



6: 2011/02/12(土) 19:14:55.53
シャカシャカシャカシャカ♪

澪「…うん、バッチリだ」

ヘッドホンをデスクの上に置き、ずっと睨んでいたパソコンから視線を外して大きく伸びをする。
注目と期待を大いに集めてプロデビューを果たした歌手、秋山澪のセカンドシングル、完成。

澪(って言っても、これをプロデューサーのとこに持ってってちゃんと編集してもらわなきゃいけないけど)

本来ならばスタッフがきちんと用意したスタジオで、作詞作曲された曲に従って収録し、編集してもらうのが当たり前なのだろうが、澪のやり方はそれとは異なった。
歌いたい曲の雰囲気をプロデューサーに伝え、その希望に沿った曲を作ってもらった上で自分で作詞し、自宅の地下に作ったスタジオで自分で収録する。
しかも他のアイドル達と違い、全くメディアに顔を見せない。
どちらも彼女の極端なほどのあがり症と羞恥心から、彼女自身が事務所に頼み込んでできたルールだった。

新米にしては我が侭すぎるだろうかもしれないが、それが許されるほど彼女の歌声は素晴らしく、独特の感性から生まれる歌詞に虜になるファンも多く、非常に期待されていた。

8: 2011/02/12(土) 19:16:16.63
澪母「澪ちゃん、今日CD持って行かなきゃ駄目なんでしょう?」

スタジオに降りてきた澪の母が、エプロンで手を拭きながら尋ねる。

澪「うん、ついさっき最終調整が終わったよ。後は六時までに事務所に持って行けば良いだけ」
澪母「あらそう。じゃあ、家出る前にお昼ご飯だけ食べて行きなさい」
澪「わかった、ありがとう」

澪はパソコンからCDを取り出して鞄にしまうと、母と一緒にスタジオを出た。

澪母「まさかあの恥ずかしがり屋の澪ちゃんが、こんなにたくさんの人から注目される大スターになろうなんてねぇ」
澪「や、やめてよ恥ずかしい…。それに、大スターなんかじゃないし。まだまだスケールの小さい卵だよ卵」
澪母「うふふ…そうね、大スターの卵だったわね」
澪「ママ…」

10: 2011/02/12(土) 19:17:27.73
――とある喫茶店。

律「いやーそれにしても…まさかムギと出会えるとはなぁ」
紬「ホント久しぶりね。それにりっちゃんカチューシャしてないから全然気付かなかったわ。でもこうやって高校の時みたいにお喋りできてすっごく嬉しい」

高校以来全く顔を合わせていなかった律と紬が偶然街中で出会い、彼女達は近くの喫茶店で思い出話に花を咲かせていた。

律「でも、ホントに大丈夫なのか?こんなところでこんなゆっくりしてて。会社の経営で忙しいだろ」
紬「平気よ。たまには息抜きも必要だもん」

いずれは父親の後を継いで琴吹カンパニーの社長を務めることが決まっている紬は、今はそのために様々な知識を身につけようと系列の会社のオーナーとして働いている。

紬「りっちゃんは最近どう?お仕事とか…体の具合とか」
律「んー、相変わらず体の方は不調だよ。まぁ仕事にはあまり支障はないから良いけどさ。生徒がみんな私に懐いてなぁ、よく荷物運びとか手伝ってくれるんだ」

律は大学に進学後、教師となった。今は高校で働いている。その明るく活発で、面倒見の良い人柄からか生徒の人気を大いに集めている。
彼女は高校の頃、事故によって大怪我を負った。飲酒運転で歩道に突っ込んできた車にはねられたのだ。
その傷跡は今でも彼女の体に残っていて、左腕の痺れや足の痛みなど、様々な後遺症も残った。

11: 2011/02/12(土) 19:18:52.76
律「全くよー飲酒運転なんて迷惑な話だよな。私アレがトラウマでお酒飲めない体になっちゃったよ」
紬「りっちゃん…」
律「結局私のせいで放課後ティータイムも解散になっちゃったわけだし…」
紬「違うわ、りっちゃんのせいじゃない」

高校時代にやっていた軽音部――放課後ティータイム。怪我が完治しても、後遺症の残った体でドラムを叩くのは難しかった。結果、放課後ティータイムは解散となった。

律「悪い悪い、せっかくの再会なのに辛気くさくなっちゃった。そういや他のみんなは今どうしてるんだろうなぁ」ゴクッ
紬「…あれ?もしかしてりっちゃん、澪ちゃんのこと知らないの?」
律「澪?何だ、アイツ何かあったのか?」
紬「澪ちゃん、プロの歌手としてデビューしたのよ。期待の新人として凄く話題を集めているの」
律「へー…」ゴクッ

しばしの沈黙。途端、律は飲んでいた紅茶を派手にぶちまけた。

律「な、何いいいいいい!!?」
店員「!?」ビクッ
律「あっすいません」フキフキ

12: 2011/02/12(土) 19:20:19.45
紬「り、りっちゃんはもう知ってるのかと思ってた…」
律「いやぁ最近忙しくてそういうエンタメ情報的なのに疎くてさぁ。マジかよアイツプロの歌手かよ…」
紬「えぇ、デビュー曲も凄く人気みたいよ。もうすぐセカンドシングルも出るとか。スケールの大きい歌手になるかもって、注目を集めてるみたい」
律「おいおいおいおいホントかよ!そうかぁあの澪がなぁ」

嬉しそうに笑顔を浮かべる律。まるで自分のことのようにテンションが上がっている。

律「こうしちゃいられないな!」ガタッ
紬「どこ行くの?」
律「お祝いのプレゼントあげないと。それにCDも買って聴いてみたいしな。――今日は忙しいのに付き合ってくれてありがとなムギ。すっげぇ楽しかったよ」
紬「私もよ。仕事の疲れが吹き飛んじゃった。また機会があればお茶しましょう」
律「あぁ、もちろん。じゃあまたな!体には気をつけろよ!」
紬「澪ちゃんに会えたらよろしく伝えてね」

律は笑って手を振ると、喫茶店を後にした。

14: 2011/02/12(土) 19:22:40.54
澪「――それじゃ、行ってくるよ」
澪母「はーい、気をつけてねー」

昼食を食べ終わり、まだまだ時間に余裕はあったが澪は早めに家を出た。
歩いて駅に向かう途中、大型のCDショップが目に入る。

澪「…」

思わず足が店内へと進んでいた。
プロデビューは大勢の人々から注目を受け恥ずかしいのも事実だが、やはりそんなにもたくさんの他人から評価されるというのは誇らしくもあり、嬉しくもある。
故に自分のCDの売れ具合というのも当然気になるわけで。

澪「あった…」

ご丁寧に専用のコーナーが作られていた。やっぱりどこか恥ずかしい。顔が熱くなる。
そして肝心のCDの売れ具合はというと――

澪「嘘だろ…ラス一だなんて…」

どうやら今自分が手に取っている物で最後のようだ。入荷数が少なかっただけじゃないか、とかそういう細かいことは無視できるぐらい、自分のCDが売り切れというのは感無量であった。

何だかテンションが上がってしまった澪は、自分が音源を持っているにも関わらずそのラスト一枚のCDを購入することにした。

15: 2011/02/12(土) 19:25:33.61
CDを手に、レジへ向かおうとする澪。と、

澪「おっと…」

いつの間にか近くにいて気付かなかった小さな女の子に軽くぶつかってしまった。

澪「ごめんね、大丈夫?」
女の子A「ひゃっ!あの、えっと…うぅ…」

知らない人に声をかけられて怖くなったのか軽いパニックを起こす女の子。と、

女の子B「あーいた!もーかってにどっか行っちゃうからしんぱいしたよ!」
女の子A「ご、ごめんなさい…ひくっ…」
女の子B「泣いてるの?…おねーさんこの子に何かしただろ!」
澪「や、あの…ごめんね?ちょっとぶつかっちゃったから大丈夫かなって聞いたんだけど――」
女の子B「…」

18: 2011/02/12(土) 19:28:48.18
急に黙り込むもう一人の女の子。と、急に彼女は鼻をつまんで顔をしかめた。

女の子B「おねーさんくさい」
澪「」
女の子B「ほら、いこっ!あっちでアニメがみれるよ!」
女の子A「う、うん…」

おどおどしていた友人を引っ張って走っていった女の子を見て、澪は小さく笑った。

澪(まるであの子…律みたいだ。もう一人の子も昔の私そっくり)

それにしても、と澪は自分の服を嗅いでみる。

澪(私が臭いってどういうことだよ…地味に傷ついた…)

足取り重く、澪はレジへと向かった。

20: 2011/02/12(土) 19:31:19.74
店員「いらっしゃいませー」

カウンターの店員にCDを渡す。

店員「ありがとうございます」

受け取ったCDにバーコードリーダーをかざそうとした店員の手が、ふいに止まった。

澪「…?」
店員「ん?」スンッ

顔をしかめ、鼻をならして臭いを嗅ぐ仕草を始める店員。

澪(えええええ…私やっぱり臭いのか!?)
澪「あ、あの…」
店員「ちょ、ちょっとすみません…!」

口早にそう言うと、店員は慌ててカウンターの奥にあった電話を手にする。

店員「――あの、防災センターですか?ちょっと変な臭いがしてまして…はい、あの…ガスみたいな――」

――その時だった。

22: 2011/02/12(土) 19:33:56.40
ズンッ!!と響くような音と共に、突き上げられるような衝撃が全身を走った。
響き渡る悲鳴、どこからか押し寄せる熱気、陳列棚から雪崩れ落ちるCDやDVDの数々。
澪は立っていられずに尻餅をついた。蛍光灯が火花をあげて、明かりが消える。

澪「な、何!?何なんだよ!?」

ビシッの割れるような音が響き、上を見上げる。天井にヒビが走っていた。
それは徐々に広がりを見せ、少しずつ小さな天井の破片が落下してくる。瞬間。

澪「きゃあああああああああああ!!」

澪の頭上の天井が、一際大きな瓦礫となって落下してきた。澪はただ悲鳴を上げることしかできない。
――そして瓦礫は無情にも澪の体を押し潰した…はずだった。

澪「あああああああああぁぁぁ…あ?」

うずくまって悲鳴を上げていた澪は、急にあたりが静かになったことに気付き、口を閉ざした。
顔を上げて、目を見張った。まるでビデオを一時停止にしたかのように、周りの全てが固まっていた。
頭上には巨大な瓦礫。横には頭を抱えて逃げようとしている女の人。宙に浮いたままのCD達。

澪「え…?」

23: 2011/02/12(土) 19:37:12.69
ピーーーーーッ!!

どこからともなくホイッスルの音が響き渡った。
そばにあったエレベーターの扉が開き、黄色いユニフォームを着た男が三人現れた。一人は口にホイッスルをくわえ、二人はフラッグを振り下ろす。
ぽかんとしていると背後に人の気配がし、澪は振り返った。黒いユニフォームの男が電光掲示板を頭上に高々と掲げていた。
その電光掲示板に示されていたのは、【3:00】の数字。

澪「え?え!?」

実況『さあ始まりました、人生の無駄を精算する人生の最後の一時、人生のロスタイム!果たしてこの選手は限られたこの時間をどのようにして過ごすのでしょうか!?』
解説『えーこの秋山澪選手。つい最近歌手としてプロデビューを果たしたばかりのようですね』
実況『輝かしい未来が待っていたかもしれないのに、大型CDショップのガス爆発事故に巻き込まれ圧氏という、何とも不運な展開!』
解説『しかしこの3:00というロスタイム、偶然なんでしょうかね?私にはどうしても「みお」に合わせた気がして仕方ないのですが』
実況『もちろん偶然です』
解説『まぁ、現代の若者の心を鷲掴みにした歌詞を描く感性と歌声を持つ選手ですからね、創造的かつ華麗なプレイを期待したい所です』
実況『あーかつてのジーコのようにですか?』

24: 2011/02/12(土) 19:40:28.40
澪「あの…えっとすみません。どちら様ですか?」

四人の男達は澪を見つめたまま黙っている。
と、ホイッスルをくわえた男が一歩前に出てピッと短く鳴らし、電光掲示板を指さした。

澪「3:00…?それが何なんだ?それにその格好…サッカーの審判?」

ピッと笛を鳴らし、その男は――主審は大きく頷いた。

澪「サッカー…3:00…ロス、タイム?」

またピッと笛を鳴らし、主審が大げさなほどに頷く。

実況『意外と核心に近付くのが早いですねー』
解説『まぁ最初は誰もが状況理解に時間を要しますからね。しかし秋山選手はスポーツ観戦も趣味だったということで、彼らがサッカーの審判だと気付くのにそれほど苦労はしないと思います』
実況『我々の声が届いていれば、すぐに全てを理解できるのですが…もどかしい所です』

澪「ロスタイム…何の…?」

考え込む澪。と、フラッグを持った副審の一人が一歩前に出て、フラッグで澪の頭上の瓦礫を指した後、澪を指し、最後に第四審判が持つ電光掲示版を指した。

25: 2011/02/12(土) 19:42:48.41
澪「――まさか…私…氏んだの?」

審判団全員が揃って頷く。

澪「それで今は…今までの人生のロスタイム中なのか?」

審判団は大きく頷くと、嬉しそうにハイタッチを交わしあった。澪が全てを理解してくれたのが嬉しかったのだろう。

澪「嘘だ…嫌だよ…私、氏んだなんて…」グスッ
審判団「」

そんな審判団とは逆に、涙を溢し絶望に打ちひしがれる澪。それに気付いた審判団は気まずそうに顔を見合わせ、軽い小突き合いを始めた。

実況『あーこれは気まずいですね』
解説『意志が伝わったのが嬉しくて大はしゃぎでしたからね。責任の押し付け合いが始まってますよ』
実況『あぁっと!ちょっと待ってください!』

28: 2011/02/12(土) 19:45:21.87
ピーッというホイッスルの音が、またも鳴り響いた。澪はハッとしてその方向を見やる。
先ほどの店員が、自分と同じようにサッカーの審判団に囲まれてキョロキョロしていた。

また別の場所からホイッスルの音。驚いた女性が悲鳴を上げる。そしてまた響く甲高い音。

実況『これは…今回はロスタイムを迎えたのが秋山選手だけではないということでしょうか?』
解説『どうやらそのようですね。これほどの大事故ならば当然の結果でしょう』
実況『なるほど、そうなりますと他の選手のプレイも非常に気になります!』

澪「そんな…こんなことって…」

ピッと笛を鳴らされ、澪は主審を見る。主審はジェスチャーで早く立ち上がるように急かしていた。
おぼつかない足取りで、ゆっくりと立ち上がる澪。

実況『おっと、ついに秋山選手が動きを見せました!』
解説『かなりの力を秘めた選手ですが、それを存分に発揮できるかどうかで、今回の試合のスケールは変わってくると思いますよ』
実況『ぜひともスケールの大きい試合を期待したい所!果たして秋山選手はこの限られた時間の立ち上がり、どのようなラッシュを見せてくれるのでしょうか!』

29: 2011/02/12(土) 19:47:09.61
とりあえずCDショップを後にした澪。しかし――

澪「…」トボトボ

実況『…走る気配はありませんね』
解説『よほどショックを受けているようですね。モチベーションの低下は判断のミスを生みますよ』

主審「ピッピッ」タッタッタ
澪「氏んじゃったんだ…氏んじゃったんだ私…」トボトボ
主審「…」

実況『主審の必氏のダッシュ催促も全く効果がありません!』
解説『いやーこれは酷いですねー』
実況『それにしても秋山選手、一体どこに向かっているのでしょうか?』
解説『どうやら自宅方面とは違い、駅方面に進んでいるようですね。放心状態の中でも、自分の仕事をこなさなければいけないという使命感が働いているんでしょう』
実況『つまり秋山選手、今日提出のセカンドシングルの音源を事務所に持って行こうとしているということでしょうか?』
解説『そのようですねぇ』

30: 2011/02/12(土) 19:49:31.44
主審「ピッピッ!ピッピッ!ピッピッ!」タッタッ
副審A「…」タッタッ
副審B「…」タッタッ
第四審判「…」タッタッ
澪「…」トボトボ
審判団「」

実況『審判団落ち込んでます』
解説『せっかくのロスタイム、だいたいの選手はやりたいことをすませようと駆け回りますからね。ここまで動かれないともどかしいしつまらないんでしょう』
実況『確かにこのままトボトボ歩かれるだけだと我々実況陣も喋ることなくなっちゃいますからね。――おっと?』

足取り重くとりあえず駅へと向かっていた澪。と、その目がちらりと道路脇の公園を捉えた。

実況『今のとこ、リプレイお願いできますか?――あーっとこれは…どうでしょう、秋山選手この公園に興味を示しているようですが…』
解説『これが何かのターニングポイントになれば良いんですが…』

31: 2011/02/12(土) 19:52:37.66
ただでさえ重かった澪の足が、完全に止まる。

実況『おーっとこれはどうしたことか秋山選手!ここに来てスタミナ切れか!?』
解説『未だに視線は公園を捉えていますね』
実況『公園…その小さくとも神聖なる戦いのピッチに秋山は何を見るか!?』

澪「そうだ…律…」
主審「…?」
澪「――っ!」ダッ
審判団「!?」

澪はギッと歯を食いしばると、踵を返して走り始めた。

実況『何ということでありましょうか!ここに来て秋山突然のサイドチェンジ!』
解説『見事な切り返しですねー審判団が完全に置いてかれてます』
実況『そして一気にトップスピード秋山澪!全力疾走です!』
解説『表情も先ほどまでと違いやる気が感じられますよ。これは素晴らしいプレイが期待できそうです』

33: 2011/02/12(土) 19:55:26.03
場面変わって、秋山家では。

澪母「ホント久しぶりねぇりっちゃん。すっかり大人になっちゃって」
律「いやいやそんな。全然変わってないと自分では思いますよ」
澪母「でも本当にごめんなさいね。澪今事務所の方に新しいCDの音源提出に出かけてるのよ」
律「ホント凄いですね、澪。おめでとうございます」
澪母「あらあら照れくさいわね。澪に音楽勧めてくれたのはりっちゃんだし、こちらからもお礼を言わなきゃいけないのに」
律「いえ、ここまで来たのは澪の実力ですしね」

澪を尋ねてやってきた律と、澪の母が談笑に花を咲かせていた。

律「はぁ、澪に直接会えなかったのは残念ですけど、仕方ないですね。じゃあ、澪におめでとうって伝えておいてください」
澪母「えぇ、ちゃんと伝えておくわね」
律「それじゃあ、失礼します。いろいろお世話になりました」
澪母「何言ってるの、お世話になったのはうちの澪の方だわ。――またいつでも顔出してね」
律「…はい、ありがとうございます。それじゃ!」

ぺこり、と頭を下げると律は澪の家を後にした。

35: 2011/02/12(土) 19:57:46.83
さらに場所は移って、田井中家。

澪「そうですか…律…いないんですか」
律母「さっき帰ってきたと思ったら、また出かけちゃって…。大丈夫、澪ちゃん?具合悪そうだけど」
澪「ちょっと走ってきたので、息が…」
律母「ご、ごめんね?急ぎのようだったかな?」
澪「あー…急ぎって言えば急ぎなんですかね…氏んじゃってるから次の機会とかないですし」ボソッ
律母「ん?ごめん、何て?」

ピピーッと鋭いホイッスル音が澪の耳をつき、彼女はちらりと後ろを振り返った。
険しい顔をした主審がずいっと歩み寄ったかと思うと、懐から取り出したイ工口ーカードを澪の鼻先に付きだした。

実況『あぁーっと秋山選手!ようやくエンジンがかかってきた所にまさかのイ工口ーカードです!』
解説『ちょっと勢いに乗りすぎた感じですね。まさかここで自分が氏んだことを口にしてしまうとは思いませんでした』
実況『レッドカードをもらってしまうと次の人生に生まれ変わることができなくなってしまいます!さぁ、かなり動きが制限されてしまった!』

36: 2011/02/12(土) 20:01:50.11
澪「何?イ工口ーカード?何で?もしかして、言っちゃ駄目だったの?」ヒソヒソ
律母「――どうしたの澪ちゃん?誰かいる?」
澪「あっあぁいえ、すみません…」

慌てて律の母を向き直る澪。律の母は腕を組んで澪を見つめた。

律母「それにしても澪ちゃんがプロデビューしてたなんて知らなかったなぁ…。私律と違って音楽とか聴かないから全然わからなくて。澪ちゃんとこの奥さんも教えてくれたら良かったのに」
澪「一応顔出さずに活動してるので、言いふらさないようにお願いしてたんです」

なるほどねぇ、と呻る律の母は、澪が急ぎの用だったことを思い出してハッとしたように顔を上げた。

律母「ところで、携帯とかかけてみた?」
澪「はい、でも繋がらなくて…」
律母「まったくあの子は大事な時に…」

頭をかいて大きく息をつく律の母。

37: 2011/02/12(土) 20:08:14.74
律母「どうしよう…時間が大丈夫なら家の中で待ってても良いけど」
澪「――いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
律母「そっか…あ、ちょっと待って!」

律の母は慌てて家の奥へと走っていくと、色鮮やかなみかんをいくつか袋に入れて戻ってきた。

律母「名シンガーにこんな安っぽいお土産罰当たりかもしれないけど、良かったら持ってって」
澪「あはは…そんなことないですよ。ありがとうございます」
律母「もし律が帰ってきたら澪ちゃんに連絡させるね」
澪「あぁ、どうもです。それじゃあ、失礼します」
律母「お仕事頑張ってねー」

律に会えなかったことですっかり気が沈んでしまった澪。律の母からもらったみかんを一個取り出して、皮をむきながら歩く。

澪「――おいし」
主審「…」ジーッ
副審A「…」ジーッ
副審B「…」ジーッ
第四審判「…」ジーッ
澪「…」

39: 2011/02/12(土) 20:11:48.17
しばらく歩いた所にある公園までやってきて、澪はブランコに腰掛けた。ここは作文の発表で悩んでいた澪に律が話しかけてくれて、二人の仲が親密になるきっかけとなった場所だ。

主審「♪」モグモグ
副審A「…」ムキムキ
副審B「…」モグモグ
第四審判「…」ウマウマ

澪がしばらくこの場から動かないと判断したのか、審判団はタイヤの遊具に腰掛けて澪からもらったみかんを黙々と頬ばっている。
きぃ、きぃ、と小さくブランコを揺らしながらぼんやりとしていた澪。と、
見覚えのある女の子二人が手を繋いで砂場に走っていった。おっきい砂山を作ろう、と二人して無邪気に笑っている。

澪(あの子達…確かあのCDショップにいた子達だよな)

この近所に住んでるんだなぁ、なんて思いつつ、昔の自分の姿を重ねてその微笑ましい光景を眺めていると――。

ピーッ!と甲高いホイッスルの音がし、澪はビックリして飛び上がりそうになった。一体何なんだとばかりに主審の方を睨む。
みかんを頬ばっていた主審は驚いた顔をして必氏に首を横に振った。

40: 2011/02/12(土) 20:15:14.20
眉を顰め、澪は辺りを見回した。自分と女の子達以外、他に人の気配はない。
あの女の子達が笛でも持ってるのか、と目を細めて二人を見つめる。
しばらく意識を二人に集中させていると、ふいに違和感を感じた。何だろうか、女の子達の後ろに気配を感じたというか…とにかく胸騒ぎがした。
目を閉じて頭を振る澪。その瞳をもう一度女の子達に向けた時、息が詰まるのを感じた。

澪「――っ!?」

女の子達の後ろに、自分と同じように審判団が立っていた。掲げられた電光掲示板にはどちらにも0:50と表示されている。

実況『非常に若い選手が二人、同じピッチ上にいます』
解説『彼女達にこの状況を理解してもらうのは大変だったでしょうね』

澪(あの子達も、あの事故に巻き込まれて…)

ちらりと自分の電光掲示板を見る。残り時間は1:28とあった。
携帯を取りだして、律の番号を呼び出す。

澪(繋がってくれ…お願いだから…)

42: 2011/02/12(土) 20:19:07.22
プルルルル…と呼び出し音が聞こえ始める。と、
どこからか、呼び出し音とシンクロして音楽が流れ始めた。
澪は携帯を耳に当てたまま、ゆっくりと首を巡らせる。
後ろを振り返ると――着信音が流れ続ける携帯を手に持った律がそこにいた。
通話ボタンを押し、携帯を耳に当てて、律は笑った。

律「――よう、久しぶり」
澪「り、律…」
律「悪ぃ、今着信履歴気付いた。お前のこと探しててさ、澪ん家のおばさんと話してて全然わかんなかった」

澪は通話を切ると、律に駆け寄り、思いっきり抱きついた。

澪「りつうううぅ…」
律「おいおい澪…もう私ら働いてる大人なんだぜ?さすがに小っ恥ずかしいぞ」
澪「ごめん、でも…」ギュッ
律「――はいはい。全く、澪しゃんは高校の時と変わらないなぁ。注目のプロシンガーに抱きつかれる私は幸せ者だ」ポンポン
澪「あっ…!!」

ガバッと澪は律から離れ、照れくさそうに視線を泳がせた。

44: 2011/02/12(土) 20:24:22.53
澪「ごめんな、伝えるのが遅くなって。その…律には電話とかメールとかじゃなくて、直接伝えたかったんだ」

感極まって涙がこぼれそうになるのを口をキュッと結んで堪え、澪は真っ直ぐに律を見た。

澪「私――やっと歌手としてプロデビューすることができました」
律「あぁ、本当に良くやったよ…おめでとう」

律は柔らかな笑みを浮かべ、本当に気持ちを込めてお祝いの言葉を述べた。

律「かなり人気者らしいじゃないか。まぁ澪は高校の時からファンクラブができるほどの人気だったからなぁ」
澪「う…は、恥ずかしい…。けど、やっぱり応援してくれる人がいるのは凄いありがたいよ」

頭をかきながら律は苦笑した。

律「いやー実はお前が歌手になったって知ったのついさっきなんだよ。私も忙しくて全然テレビとか見てなくてさ。たまたま今日ムギにあって、そこで教えてもらったんだ」
澪「ムギに!?へー久しぶりだなぁ…元気にしてたか?」
律「おぉ。私がお前を祝いに行くって言ったら、もし会えたらよろしくって伝えてくれって頼まれたんだ」
澪「あー、だから律も私のこと探してくれてたのか」

45: 2011/02/12(土) 20:27:47.68
小首をかしげて律が尋ねる。

律「律もってことは、お前も私のこと探してくれてたのか?」
澪「うん…今日事務所にセカンドシングルの音源持って行こうと思ってたんだけどさ、たまたま駅近くの公園が目に入って…それで、律にまだ伝えてなかったってこと思い出して――」
律「それでわざわざ探してくれてたのか」
澪(それに、最期に律と会っておきたかったしな…)
澪「でも家行ってもいなかったからさ…なんとなくこの公園に来てみたんだ」
律「ははっ、私も同じだ。澪が家にいないって知って、なんとなーくここに来てみたらいたからビックリしたぜ。――思い出の場所だからなぁ、ここ」
澪「ここで律が話しかけてくれてなかったら、今頃こんなに仲良くなれてなかっただろうな」

久しぶりに再会を果たした二人は、他愛もない会話を飽きることなくし続けた。
話しても話しても話し足りないぐらいお互い伝えたいことが山ほどあった。

実況『幼なじみというものは良いものですね』
解説『あれだけ気が滅入っていた秋山選手、ずっと笑顔ですよ』
実況『そして審判団は空気を読んで少し離れた所でみかんを食べてます』
解説『まだみかんあったんですね』

46: 2011/02/12(土) 20:30:53.88
律「――あ、そうだ」

思い出したようにバッグの中を漁り始める律。しばらくしてバッグから出された彼女の手には、小綺麗な包みが握られていた。

律「プロデビューのお祝い。ちょっとスケールの小さいプレゼントになっちゃった感じがするんだけどさ…」
澪「あ、ありがとう!開けてみても良いか?」
律「もちろん」

澪は丁寧に包みを開き、取り出された箱のふたをゆっくりと開いた。カラフルなオブジェが付いたペンダントが顔を見せた。

律「それ、澪が私の家に集めてた使えなくなったピックの破片を合わせて作ってもらった特注品なんだぜ。何かの記念プレゼントにしたいなぁなんて思ってたら、まさかプロデビューの記念になるとは」
澪「――凄い…凄いよ律!すっごく嬉しい!スケール小さくなんて全然ない!ありがとう…」
律「おぉ、そんなに喜んでもらえると何か照れるぜ。――やっぱ澪と言えばベースだからな。どうせならバンド組んでプロ目指せば良かったのに」
澪「バカ律。放課後ティータイム以外のバンドなんて組む気全然ないよ」

律からもらったペンダントを早速首にかけ、澪は小さく笑う。

47: 2011/02/12(土) 20:35:09.29
律「しっかし…デビューシングル聞いてみたかったぜ」
澪「ん?」
律「知るのが遅かったのとお前の人気も重なって、買えなかったんだよCD。売り切れ状態でさあ」

あ、と澪は声を漏らし、今度は澪がバッグを漁る。眉を顰めてそれを見つめていた律に、今日購入したCDを渡した。

澪「プレゼントのお礼。良かったらまた聞いてみてくれよ」
律「マジかよ…サンキュー澪!へへっ歌った本人からCDもらえるなんて一番ラッキーじゃん私!」

嬉しそうな笑顔を浮かべつつ、CDのジャケットをまじまじと眺める律。

律「――なぁ澪、CDプレイヤー持ってないか?」
澪「へ?」
律「早速聞いてみたい」

キラキラと瞳を輝かせて見上げてくる律に、澪は視線を泳がせた。

澪「こ、ここで聴くのか?目の前で聴かれてるの見るの恥ずかしい…」
律「散々一緒にバンドやってきたのに今更何言ってるんだよ。早く聴いてみたいじゃん。ずっと楽しみにしてたんだぜ、私」

48: 2011/02/12(土) 20:39:48.71
観念した澪は仕事用に持ち歩いていたCDプレーヤーをバッグから取り出した。

律「よっしゃ、ありがとな!――どれどれー?」

イヤホンを付け、律は静かに聞き入る。その間手持ちぶさたな澪は、照れくささから少し俯いて律の横で黙していた。

律「ははっ…」

流れるメロディに耳を傾けつつ、律は微笑む。その表情を横目でちらりと見つめ、澪は何だか嬉しくなった。
しばらくして全て聴き終わったのか、律はイヤホンを外して、ふぅと息をついた。

律「相変わらず背中がかゆくなる歌詞は健在か」
澪「い、いいだろ別に!この曲はラブソングなんだから…」
律「はいはい。でも、確かにたくさんの人が気に入るのもわかるよ。何だかその歌詞に引き込まれちゃうって言うかさ」

CDを取り出してケースに戻しながら、律は口を開く。

律「それに、一段と歌上手くなってる。聴いててすっごい気持ち良いよ」

実況『我々も是非聴いてみたいものです』
解説『後で買いに行きましょう』

さすがは澪だ、と顔を上げて微笑む律を見て、澪は何かがこみあがってくるのを感じた。
その時――

49: 2011/02/12(土) 20:44:55.58
ピーッという音が二重に聞こえた。忘れていた現実が、律に会えて暖まっていた胸の奥を貫く。
視線を巡らせると、砂場で遊んでいた女の子二人を、審判団が取り囲んでいた。掲げられた二つの電光掲示板には0:20の数字。
二人の主審が、女の子達に立ち上がるように促す。きっと、自分達が氏んだ場所へ帰らなければいけないのだろう。
不安そうな表情を浮かべる女の子の手を取って、もう一人の女の子は力強く地面を踏みしめ歩き出す。その二人についていく、審判団達。

遠くなっていくその後ろ姿を見ていられず、澪は視線を外す。
と、空気を読んで二人だけにしてくれていた自分についていた審判団が、いつの間にかそばに立っていた。
電光掲示板は0:58を示している。もう、一時間切ってしまった。CDショップに戻る時間を考えたら、あと40分近くしかない。

もう時間がない。そう思った澪はずっと律に伝えようと思っていた事を話す決心をし、改めて彼女に向かい合った。

律「どうした澪?」
澪「律、私――どうしても、お前に言いたかったことがあるんだ…」
律「何だよ?」
澪「――約束…」
律「ん?」

50: 2011/02/12(土) 20:47:49.44
涙がこぼれそうになるのを必氏に堪え、澪は声を張った。

澪「――約束守ったぞって…!やっとお前に償うことができたぞって!」
律「――っ!」

律の目が大きく見開かれる。

澪「高校の時のあの事故…私を庇ったせいでお前だけ大怪我負っちゃって――」



唯「アイスおいしかったねー」
梓「もう、珍しく練習熱心だと思ったら、ただ早く切り上げてアイス屋に行きたかっただけだなんて」
紬「うふふ、でも久しぶりにあのお店のアイス食べれて嬉しかったわ」
澪「…どうした、律?」
律「や…あの前から来てる車、何かおかしいなぁって…」

中央線を大きくはみ出して走行する車。よく見ると、フラフラと蛇行している。

律「あれまずいぞ。気をつけろよ」
梓「大丈夫ですかね、あれ…」

瞬間、大きく方向を変え、車は軽音部の皆がいる歩道へと突進してきた。

51: 2011/02/12(土) 20:52:49.54
唯「えっ!?」
紬「嘘っ…!!」
律「マジかよ!!逃げろ!!」

一斉に車から逃れようと散る五人。唯と紬と律は前へ、梓と澪は逆に後方へと走る。が、

梓「こ、こっちに…!!」
澪「ひっ――」
律「――!」

運悪く、澪達が走った方へ車はスピードを緩めることなく迫っていく。それに気付いた律は、唯達が止める間もなく、二人の元へと駆けた。

唯「りっちゃん!!」

もう車はすでに二人のすぐそばに来ていた。このままでは確実に二人ははねられる。律は無我夢中で手を伸ばし、そばにいた梓の腕を掴み強引に引き寄せた。

梓「あっ――」

その勢いで後ろにたたらを踏んだ後尻餅をつく梓。彼女の目には、さらに足を止めず駆ける律と、その先にいる澪、そしてガードレールに激突する車が焼き付いた。
澪はガードレールをへし曲げてなおも進む車を呆然と見つめ、凍り付いている。その体を、律がありったけの力を込めて突き飛ばす。

52: 2011/02/12(土) 20:54:40.57
ドガアァッ!!
凄まじい音が響き、車は歩道脇の石垣に突っ込んでようやく止まった。
澪はその気配を背後に感じ、嫌な汗がドッと噴き出るのがわかった。

澪(あれ…私…)

何で無事なんだろう。その理由を理解するのに少し間を要した。そして、

梓「いやああああああああああぁ!!」

梓が甲高い悲鳴を上げると同時に、全てを理解した。
ガチガチに固まった首をゆっくりと巡らせ振り返った澪の目に飛び込んだのは、凄まじい事故の現場。そして――
すぐそばで倒れる、ぼろぼろの律とジワジワと広がる赤だった。



澪「運良く一命を取り留めたけれど、あの事故はお前からドラムっていう大切なものを奪っていった」
澪「お前病室で、みんなの前で大泣きしたよな。自分のせいで軽音部が続けられなくなったって。お前のせいなんかじゃないのにさ…」
澪「自分が一番大事なものを奪われた悲しさと、後遺症の苦しさで辛い思いしてたのにそれでも私達に謝るものだから、私は堪えられなかった」
澪「だから私はあの日――」

53: 2011/02/12(土) 20:57:26.05


澪「ごめんな、律…」
律「そんな謝られちゃこっちも参っちゃうよ。私が勝手にやったんだから、お前が謝る必要はないんだって」
澪「でも、私を助けようとして律が怪我したのは事実だ。お詫びがしたいよ…」

個室の病室でベッドに身を預けている律。そしてその脇にパイプ椅子を置いて座る澪。
二人とも口を閉ざし、沈黙が清潔感溢れる白い病室を包む。と、

律「じゃあさ、どうしても償いたいって言うなら――約束してくれよ」

ポツリ、と言葉を溢す律に、澪は慌てて顔を上げた。

澪「何だ…?」
律「私はもうこんなだから音楽は聴くことぐらいしか続けられない。歌詞書くのもそんな得意じゃないし、作曲センスもないからな。…だからさ――」

いてて、と顔をしかめて呻きつつゆっくりと身を起こす律。その表情は真剣そのものだった。

律「私の夢、代わりに叶えてくれよ。音楽に全力で取り組み続ける夢。私の分まで音楽を楽しんで、お前が作り出す音楽が、周りの人に少しでも影響を与えることができたり、認めてもらえたりするぐらいになってやるって、約束してくれ」

54: 2011/02/12(土) 20:59:52.47


澪「その約束さえ果たしてくれれば私は満足だ、お前はそう言ったんだ」

律の瞳がかすかに揺れている。澪は律からもらったペンダントを軽く握りしめた。

澪「だから私は必氏に音楽を勉強した。律に失礼のないように、精一杯取り組んだ。放課後ティータイムが解散しちゃって、もうバンド活動は無理だってわかったら、今度は歌うことに専念した」
澪「ベースを捨てた訳じゃなかった。たまに唯達と合わせてみたりもしたよ。でも律のドラムがないと、やっぱり私達は完全じゃなかったんだ」
澪「歌の勉強して、気分転換にベース弾いて…まさに音楽だらけの毎日だったよ」
澪「でも私はそれが苦じゃなかった。楽しかったんだ、すごく。練習するほど成果が出てくるのが嬉しくて嬉しくて…」

本当はその楽しさを、もっともっと放課後ティータイムのみんなで味わっていたかったのが本心だった。

澪「気付いたら、歌手としてプロデビューしてた。ビックリしたよ、まさか私がって」

でも、と澪は笑う。

澪「たくさんの人が私の歌を評価してくれて、これでようやく約束を果たせたんだって思った。ようやく律に償うことができるって」

55: 2011/02/12(土) 21:01:52.16
律「澪…」
澪「律、私…約束守れたよな?これで許してもらえるかな…?」

律の表情が弛み、小さく開かれた口から息が漏れた。

律「――っ当たり前だろ…。許すも何も、お前は私の我が侭に付き合ってくれたんだ。ホントに…ホントにありがとう」

掠れた声で絞り出すように律はそう言った。
背後から鼻をすする音が聞こえ、澪はペンダントに落としていた視線を後ろに向けた。
審判団がハンカチを取り出して鼻をかんだり涙を拭ったりしていて、澪は渋い顔をする。
両手が使えないため副審に涙を拭いてもらっていた第四審判の持つ電光掲示板が、残り時間が40分しかないことを示していた。

澪(もう、後悔はないな…)

最期に話すことができた。一番伝えたかったことを言えた。これ以上一緒にいると、別れがさらに辛くなる。少し早いけど、事故現場に戻ることにしよう。
澪は堪えきれずこぼれ落ちた一筋の涙をそっと拭うと、律に向き直った。

澪「じゃあ律…私、これからセカンドシングルの音源事務所に持ってかなきゃいけないから、そろそろ失礼するよ」

もちろん嘘だ。今から行っても間に合わない。

56: 2011/02/12(土) 21:04:38.51
律が顔を上げて澪を見据えた。そして、何故か少し悲しげな笑みを浮かべる。

律「そっか…。聴きたかったな、セカンドシングル」
澪「…?何言ってるんだよ。ファーストシングルは買えなかったけど、セカンドシングルはまだこれから発売なんだぞ?」

言葉の真意が伺えず、澪は眉を顰めた。律は苦笑すると、砂場の方を見やる。

律「さっきあそこで遊んでた子達、可愛かったな。ちっちゃい頃の私達そっくりだったじゃん」
澪「えっ?あ、あぁ…そうだな。確かにそっくりだったよ」

律は目を細めて、小さく呟いた。

律「きっとあの子達はさ――最期まで一緒に遊ぶって決めてたんだろうな」
澪「…何、言ってるんだ…律…?」

まるであの子達が氏ぬことがわかっていたかのような言葉に戸惑いを隠せない澪。
律の言葉の意味を探ろうと、彼女の目をじっと見つめる。律は視線を外そうとせず、ただ黙って澪を見つめ返してきた。
突然澪を襲う胸騒ぎ。つい先ほど――女の子達に感じたのと同じような違和感。

凄まじく嫌な予感を感じ、澪は震える口から声を漏らす。

57: 2011/02/12(土) 21:06:27.72
澪「まさか――」
律「――ムギからお前のこと聞いて、すっごく嬉しくなってさ。で、慌てて家に飛んで帰ってプレゼント引っ張り出してそれから…お前のCD、買おうと思って…」
澪「嘘だろ…まさかお前…あのCDショップに――」
律「でも――…売り切れてた」

そう言って儚い笑顔を浮かべる律。
――その後ろに、サッカーの審判団が立っていた。

急激に足から力が抜け、澪はその場に崩れ落ちた。律は後ろを振り返り、自分の審判団を見る。第四審判の持つ電光掲示板に示された時間は、1:52。

律「やっぱ見えてなかったのな、お前」

座り込んだまま呆然とその電光掲示板を見つめる澪を見下ろして、律は苦笑した。

律「スタート地点以外じゃ、ちゃんと見ようと思って見ないと見えないみたいだからな、他の人間の審判団って」

実況『これは驚きました!なんということでしょう!幼なじみのサポーターかと思われていた田井中がまさかの試合中の身だったとは!』
解説『秋山選手に付いていた審判団がやけに空気を読むと思ったら、そういうことだったんですね…』

65: 2011/02/12(土) 21:31:53.05
澪「――律は…いつから私が氏んでるって気付いてたんだ…?」
律「一番最初。お前が私に電話かけてくる前だ」

思わず息をのんで目を見開く。律は頭をかきながら、そんな澪から視線を外した。

律「よーく注意して見れば、他の人の審判も見えるって気付いてから、街中歩いてる時も同じ立場の人がいないかずっと探してたんだ。もし知り合いが氏んでたりしたら嫌だったからさ…」
律「それで、ついつい人がいたらまず審判が付いてないか確認する癖がついちゃって」

律はそばにあったブランコに腰をかけ、古傷のせいで少し痺れる足をさすった。

律「澪のおばさんにお前がいないって聞いた時は、辛かったなぁ。最期に澪にだけは会って話をしておきたかったから」
律「んで、行く当てのなくなった私は吸い寄せられるようにこの公園にきたわけだ。お前との思い出の場所である、この公園に…」

澪はちらりと顔を上げ、律を見る。彼女の表情は、嬉しそうでもあり、悲しそうでもあった。

律「まさかお前がいるとは思ってなかったからびっくりしたよ。すっごい嬉しくなって、声かけようと思ったけど――その前に反射的に…審判団の姿を探しちまった」

66: 2011/02/12(土) 21:34:06.38
きぃ、きぃ、と小さくブランコを揺する律。

律「…目眩がしたよ。奥で遊んでた女の子達も――お前も…みんな審判団がついていた。体が凍り付いて、声が出なかった」
澪「そこに私が電話をかけたってわけか…」
律「そ。慌てて平静を装って、いつも通り接することができるように頑張ったんだぜ」

疫病神のように言われたのが嫌だったのか、律についている主審が顔をしかめた。澪の主審が涙ぐみながら彼の肩を抱くと、みかんを渡す。

律「あー…悪かったよ。むしろアンタ達には感謝しなきゃいけないよな。こうやって澪に会えたのも、アンタ達がロスタイムを与えてくれたからなんだし」

ありがとう、と律が微笑むと、主審は照れくさそうに頭をかいた。ずるいと言わんばかりに、後ろにいた副審や第四審判が食ってかかる。
それを見て、律はしばらく声に出して笑った。そして、はーっと長く息を吐いて、澪に向き直る。

律「お前がプロになったって…凄い人気なんだってムギから聞いた時、私ちょっと思ったんだ」

律「――約束守ったなって」

68: 2011/02/12(土) 21:37:07.88
澪の肩が小さく震える。

律「私の我が侭で言っためちゃくちゃな約束だ。もしかしたらそんなもの忘れてて、偶然澪の才能が認められただけかもしれない。けど…お前がそうやって他人に認められて、私の分まで音楽に没頭してくれただけで、私は嬉しかったんだ」
律「けど…まさか本当にお前が私との約束のために頑張ってくれてたなんて思ってもなかった――」

突然律の声が不安定になり、澪はふと律の顔を見た。
律は歯を食いしばり、ボロボロと涙を溢していた。

律「ひぐっ…ありがとう澪…私、幸せもんだ…。たとえあと一時間ちょっとで氏んじゃうんだとしても…悔いなんかない…」グスッ
澪「何だよ律…泣くなよ…」ポロポロ

律の涙につられて、抑えきれなくなった涙を溢れさせる澪。
それからしばらく二人は抱き合って思い切り泣き続けた。

澪「やだよ律…私、氏にたくない…!せっかく律との約束果たせたのに――これからもっともっと律の分まで音楽楽しめると思ったのに…!」ポロポロ
律「馬鹿っ…駄々こねたって仕方ないだろ…!ぐすっ…私達はもう――氏んでるんだ…!」ポロポロ

審判団は居たたまれない様子でそんな二人を見守ることしかできなかった。

70: 2011/02/12(土) 21:40:34.01
しばらくして、ようやく落ち着いてきた二人。
涙は止まったものの相変わらず抱き合ったままだったが、律がゆっくりと身を離し、澪を真っ直ぐ見つめた。

律「――なぁ、澪…」
澪「…何だ?」
律「最後にさ、歌、歌ってくれないかな」

突然の言葉に、澪は素っ頓狂な声を上げる。

澪「う、歌ぁ…!?ここでか?」
律「他に人もいないみたいだし、大丈夫だろ?このまま澪の新曲聞けずに終わるのも悔しいしさ」
澪「セカンドシングルの音源ならここに――」
律「お前が歌ってるとこ、見たいんだよ」

真剣な律の表情に断ることが出来ず、澪は息をついた。

澪「…わかったよ」
律「へへっサンキュ。プロの歌手にこんな贅沢お願いできるって最高だな」
澪「もう…茶化すなよ」

71: 2011/02/12(土) 21:42:49.74
軽く発声練習を終えた澪は、小さく咳払いすると律を見た。

澪「じゃあ、歌うよ…」
律「おう、聞かせてくれ」

ベンチに座った律は、澪が大きく息を吸ったのを見て、静かに目を閉じた。
心地よい、体に染み渡るように優しい歌声が澪の口から溢れた。
夕焼けに朱く染まった静かな公園の空気を、澪の歌声が振るわせていく。
楽器による演奏はないけれど、それでも十分なほどの盛り上がりを感じさせるその素晴らしい歌声に、律は鳥肌が立っていくのを感じた。
歌詞は先ほど聴いたファーストシングルのような澪らしい甘さや可愛らしさをあまり感じられず、深く、心の奥まで届くようなメッセージが込められているのがよくわかった。

律(この歌――…)

感動に震える腕を押さえ、律はただ黙って澪の歌を聴き続けた。
澪は一つ一つの歌詞に精一杯の想いを乗せて、たった一人の幼なじみのために最高の歌を紡いでいく。

澪『――ありがとう』

そんな言葉で終わる最後のフレーズを歌いきり、澪は長く息を吐いた。
飛び上がるようにしてベンチから立ち上がった律は、大きな拍手を彼女に送った。そんな彼女の後ろでも、二人の審判団が惜しみない拍手を送っていた。

律「ありがとう澪――お前、最高のミュージシャンだよ」

72: 2011/02/12(土) 21:44:42.57
実況『いやー本当に素晴らしい歌でした』
解説『彼女が人気なのも納得できますねぇ…さすがです』
実況『非常に惜しい人を亡くしたものです』

照れくさくてついつい真っ赤になってしまう澪。律はそんな彼女を見て笑う。

律「ははは…凄い歌歌うから何か別人みたいに感じてたけど、やっぱり澪は澪だな」
澪「ううぅ…」

茶化されてさらに赤くなる澪に、律は笑い続けた。と、
ピッ、と短く、小さな笛の音が静かになった公園に鳴り響いた。
二人は同時に審判団を見やる。澪の審判団が二人に歩み寄ると、電光掲示板が掲げられた。

澪「…0:19」
律「そんな…ま、まだ大丈夫だよな!?もう少しここで話してたって――」

澪の主審は辛そうに顔を曇らせ、ただ首を横に振る。律は肩を落とし、黙り込んだ。

73: 2011/02/12(土) 21:47:49.00
澪「もう、戻らなきゃ駄目みたいだな…」
律「――私もついて行く」
澪「何言ってるんだ。お前はまだ1:30あるじゃないか」
律「私は澪と違って、夢追いかけてなかったからな」

澪の電光掲示板と自分の電光掲示板を見比べる律。

澪「なら、その時間をやりたいことに使わなきゃ。私に付き合ってちゃもったいない――」
律「あの子達は――あの砂場で遊んでた子達は最期まで一緒だった」

澪の言葉を遮り、律は声を張り上げた。

律「私だってお前の幼なじみだ。お前の最期の時まで、ずっと一緒にいてやる」
澪「律…」

涙を浮かべる澪に、律は笑顔を向けた。

律「唯達とはもう、お前探してる間に目一杯電話で会話したからな。後はお母さん達と話せたら、もうやり残したことはないよ」

澪は滲んだ涙を拭うと、しっかりと律に笑顔を返した。

澪「わかった…行こう」

75: 2011/02/12(土) 21:52:05.57
実況『ロスタイムを戦い抜いた選手達が、最期の時を迎えようとしています』

ピッ!と笛が吹かれ、副審が旗を振り上げる。電光掲示板には0:03。
CDショップに戻ってきた澪は、巨大な瓦礫の下で、ロスタイム突入前と同じような格好でうずくまった。

律「はは…おいおい、不格好だなぁ」
澪「…仕方ないだろ、パニックになってたんだから。そういう律はどうなんだよ」
律「私は目の前で割れたガラスの破片が胸に刺さって氏ぬみたいだから驚いてる暇もなかったよ」
澪「…」
律「あれ?いつもの見えない聞こえないはどうした?」
澪「何というか…リアルすぎて反応できない。それに今から私氏ぬ身だし、今更見えない聞こえないって言ってもな…」
律「あは、確かにな」

極力明るくして怖さを紛らわそうとしてくれているのか、律はこんな時でもいつもの調子を崩さなかった。

澪「じゃあ律…お先にな」

そんな律の気持ちに少しでも答えようと、澪もなるべく平然を保つように努めた。

76: 2011/02/12(土) 22:00:46.87

律「…待ってくれ澪。お前、セカンドシングル事務所に持って行く途中だって言ってたよな」
澪「へ?あ、あぁ、うん」
律「音源貸してくれ」

眉を顰めつつも、澪は瓦礫の下から抜け出るとバッグを漁って新曲を録音したCDを取り出して律に渡した。

律「――私が事務所まで持ってってやる」
澪「えっ!?で、でも律…それじゃあロスタイムなくなっちゃうぞ?それに、お前のロスタイム内で事務所まで行ってここまで帰ってくるの、間に合うかどうか…」
律「だから、私のロスタイムはもういいの。時間は何としても間に合わせてみせるさ。走っていきゃ大丈夫だろ」

それを聞いて、澪は息をのむ。

澪「お前、そんなことしたら足が――」
律「走れないわけじゃないしな。それにどうせ氏ぬんだ。今更歩けなくなっても問題ないよ」

何とも言えない表情を浮かべる澪。そんな彼女を安心させるように、律は笑う。

律「公園で歌ってくれた時…この歌は私だけのものにしたいとも思ったんだ。けど、やっぱりそれじゃもったいないぜ。こんな良い歌、みんなに聞かせてやれずに終わってたまるかよ」

79: 2011/02/12(土) 22:02:41.03
しばらく黙って考え込んでいた澪だが、バッグから許可証を取り出すと、それも律に手渡した。

澪「これ、許可証。これがないと事務所入れないからな」
律「澪…」
澪「頼んだぞ、律。私の遺作、お前に託した」
律「へへ…任された」

ピッ、と笛が響く。振り向くと、主審が目を細めてこちらを見つめていた。そばに立つ第四審判が持つ電光掲示板が、あと一分だと…伝えていた。
目を閉じて、大きく息をつく澪。突然後ろから律に抱きしめられた。小柄な体からは想像つかない包容力。
痺れて上手く力が入らないはずの左腕も、今だけはしっかりと澪を抱き留めていた。

律「さっきも言ったけど…お前は最高のミュージシャンだ…」

背中から、律が小さく囁く。

律「ほんでもって――最高の幼なじみだ」

ぽん、と背中を軽く叩き、律は離れた。振り返る澪。頷く律。

澪「それはこっちの台詞だ――バカ律」

82: 2011/02/12(土) 22:05:34.08
顔をくしゃくしゃにして澪は涙を流す。
律はニカッと笑うと、踵を返して走り出した。

遠くなっていく背中。脳裏にチクチクと聞こえ出す、時計の針が進む音。
瓦礫の下に潜り、うずくまる。主審がホイッスルをくわえ、腕時計を見つめる。

澪は律からもらったペンダントを握りしめ、声を上げて泣いた。

澪「律っ…!律――」

――ありがとう。
澪の口がそう言葉を紡いだ瞬間、電光掲示板の数字は…全て0になった。そして――

ピーーッ
ピーーッ
ピーーーーーッ

階段を駆け下りていた律にも届く試合終了を告げるホイッスルの音が、暗いショップ内に響き渡った。

83: 2011/02/12(土) 22:10:35.03
律「澪っ…」

滲む涙を拭うのも忘れ、律はショップから飛び出した。あたりはもう、薄暗い。
そのまま大通り目指して、必氏に駆ける。

実況『田井中選手、ギリギリで繋ぎました!秋山選手から受け取ったこのラストパス、絶対にゴールに決めてやると祈るように、懸命に走ります!!』
解説『もう我々もね、ただただ頑張ってくれと、間に合ってくれと願う限りですよ』
実況『足に抱えた重荷に負けず、頼むからゴールを決めてくれ田井中ぁ!!』

律「ドラムのために鍛えた体…そう簡単に衰えてもらっちゃ困るぜ…。頼むからもってくれよ…」ハッハッ

事故に遭う前は運動神経抜群だった律は、後遺症を持つ体とは思えぬ速さで全力疾走する。
審判団もそのスピードに驚き、遅れながらついて行った。

…どれぐらい走っただろうか。
やはり動かしてなかった体に限界が訪れるのは早かった。
どうしようもなく息が上がり、足が震える。
一歩足を踏み出すと、尋常じゃない痛みが走った。
膝が折れ、その場に崩れ落ちてしまう。

――だが律は、自分の体に限界が訪れるよりも早く、交通量の多い大通りへとたどり着いていた。

84: 2011/02/12(土) 22:15:48.89
律「はぁっ…!はぁっ…!げほっ…!――っえへへ…」

脂汗が滲む顔に笑みを浮かべる。

律「けふっ…ごほっ…はっ…はっ…」ガシッ

そばにあった街灯にしがみつき、必氏に立ち上がる。
大きく腕を振って、一台のタクシーを捕まえた。

律「はぁ…はっ…。――この事務所まで…お願いします!急いでください!」

転がり込むようにしてタクシーに乗り込んだ律は、澪から渡された許可証を運転手に見せてそう言った。
発進するタクシー。遅れて駆けつけた審判団が、待ってくれと言わんばかりに手を伸ばす。が、置いてきぼりを食らった。
へとへとな副審二人と、重い電光掲示板を地面に降ろして大きく肩で息をする第四審判。
主審はタクシーと彼らを交互に見やり、ピッ!と笛を鳴らして三人に早く立って走るように催促した。

85: 2011/02/12(土) 22:20:12.71
運転手「…お客さん、大丈夫かい?顔色悪いですよ」
律「はぁ…はぁ…ふーっ…久々に本気で走ったんで…ちょっと気分悪くて…」

汗だくの額に張り付く前髪を、頭を振って払う。

律「…あの、すみません。ちょっと電話しても良いですか?」
運転手「構いませんよ」

律は携帯を取り出すと、しばらく黙って握りしめた。
本当なら家に帰って、ちゃんと顔を合わせて挨拶したかった。
まぁ、それはそれで何だか変に思われそうだし、電話を介した軽い会話の方が私の最期にふさわしいかもしれない。
そう思い、律は自宅の番号を呼び出すと通話ボタンを押した。

数秒呼び出し音がなったあと、律の母親が電話に出た。

律母『はい田井中です』
律「もしもし?私だよん」
律母『だよんじゃないわよ。アンタ澪ちゃんがせっかく会いに来てくれてたのに、どこほっつき歩いてんの?』

不機嫌そうなその声に、律はごめんごめんと笑う。

86: 2011/02/12(土) 22:26:00.82
律「澪にはちゃんと会えたよ。私も澪を探してたんだ。お祝いしようと思ってさ」
律母『あら、アンタ知ってたの?私澪ちゃんから聞いて初めて知ったのに』
律「私も今日知ったんだ。…凄いよなぁ澪。私も澪みたいに活躍できれば迷惑かけなかったのに、そんな才能はないくせして挙げ句の果てには事故に巻き込まれてさ」

自嘲気味に笑い飛ばしながら律はそう言った。すると、電話の向こうの母親の声はさらに不機嫌そうになった。

律母『アンタねぇ…何言ってるの。澪ちゃんは澪ちゃん、律は律でしょ。ウチの子は少し手間がかかるぐらいの方がちょうど良いの』

それに、と律の母はうって変わって優しい声色で囁く。

律母『お友達守って行動できたアンタのこと、誇りに思ってるよ』

87: 2011/02/12(土) 22:29:32.07
喉の奥がきゅっとなって、鼻がつんとするのを感じ、律は口ごもってしまった。

律母『ほーれ恥ずかしいこと言わせないで、早く帰ってきなさいよ。今日は久しぶりに聡も下宿先から帰ってくるんだから』
律「うん…わかってる…」

熱くなる目頭を押さえ、絞り出すように声を出す。

律「お母さん――ありがとう」
律母「…うん」

律は名残惜しげに携帯を見つめてから、静かに通話を切った。
律は鼻を啜りつつ、今度は父親の携帯番号を呼び出した。運転手は深く詮索することなく黙ったままハンドルを動かし続けていた。

――しばらくして、タクシーは目的地である事務所の前にたどり着いた。
父と弟との会話も終え、心残りも全て消化しきった律は運転手に礼を言ってタクシーを降りた。

律「――何か変な電話しちゃってすみませんでした」
運転手「気にしてないですよ。それより、急ぎのようだったんでしょう?」

柔らかな笑みを浮かべる運転手に一礼して、律は建物内へと急いだ。

89: 2011/02/12(土) 22:34:02.18
プロデューサー「遅いなぁ秋山…。今日の六時までに持ってくるって言ってたのに…」
スタッフ「何かあったんでしょうかね?」

事務所の中では、プロデューサーが時計を気にしつつタバコをふかしていた。
と、バタバタと走るような足音が近付いてきたかと思うと、勢いよく扉が開かれた。

律「はぁ…ふぅ…」
スタッフ「…?どちら様ですか?ここ関係者以外入れないはずだけど…」

律は肩で息をしつつ、首から下げた許可証を近付いてきたスタッフに突きつけた。

律「――秋山澪の知り合いです。彼女に頼まれて、新曲の音源を代わりに持ってきました…!」
プロデューサー「何だって?」

プロデューサーが立ち上がり、律の持つ許可証に目をやった。

プロデューサー「確かにこれは秋山の許可証だな…。秋山はどうしたんです?」
律「あの…えっと…どうしても来れなくなってしまいまして…だから私が代役を買って出たんです」
プロデューサー「来れなくなったってどうして――」

90: 2011/02/12(土) 22:40:13.45
痺れを切らした律はバッグからCDを取り出すと、プロデューサーに手渡した。

律「あの、とにかくこれ!お渡ししますね!」
プロデューサー「お、おぉう…。確かに預かりました」

CDを確認するプロデューサーを見て、律は薄く微笑んだ。と、複数の足音が耳をつき、律は目を閉じて深呼吸した後、後ろを振り返った。
荒々しく肩で息をしながら、へとへとになった審判団がフラフラと事務所内に現れた。
第四審判がガクガクの腕で支える電光掲示板が、0:34と示していた。
ここからCDショップまで行くのにかかる時間と、ほぼピッタリだった。

汗を拭って大きく息を吐いた主審が、疲れにたるんだ表情を引き締め直し、ホイッスルを短く吹いた。

律「――わかってるよ…。もう行かなきゃな…」ポツリ
プロデューサー「ん?」
律「いえ…じゃあ、澪の新曲お願いしますね。私、そろそろ失礼します」

95: 2011/02/12(土) 23:00:15.71

プロデューサー「あ、あぁ…。――あの、あなたは秋山とどういう関係で?」

扉をくぐっていく審判団に続いてこの場を後にしようとしていた律は、その言葉を聞いてぴたりと足を止めた。
主審もそれに気付いて止まるが、急かすような真似はしなかった。

小さく笑みを溢す律。滲んだ涙をそっと拭って、とびきりの笑顔でプロデューサー達を振り返った。

律「私は澪の――唯一無二の【幼なじみ】です!」

失礼します、と頭を下げ、律は足を引きずり壁に身を預けながら事務所を後にした。

実況『ゴーーール!!田井中選手、完璧すぎるほど素晴らしいシュートでした』
解説『素晴らしい!素晴らしいですよ!こんな良い試合、見たことないです!秋山選手も田井中選手も見事でした!』
実況『田井中選手、今、主審と副審の肩を借りて、ゆっくりと終点の地へ向かいます』
解説『精一杯の拍手を送りたいと思います。本当に、お疲れ様でした』

99: 2011/02/12(土) 23:02:49.22


律が事務所を去って、しばらく後。
プロデューサーは早速澪のCDを再生し、試聴していた。

プロデューサー「――ふふ…なるほどなぁ。だからあんな良い顔してた訳だ」

目を細めて笑いつつ澪の歌に耳を傾けるプロデューサーに、スタッフは興味津々といった面持ちで尋ねる。

スタッフ「どんな感じですか?新曲。ファーストと同じで、やっぱり定評のあるラブソングですかね?」
プロデューサー「いや、違う。――こりゃファーストよりもっと人気出るぞ」
スタッフ「おぉ、それはまた何故そんな風に思われるんですか?」
プロデューサー「歌に対する想いの詰め込み方が半端じゃない。やっぱり人が聞き惚れる歌っていうのは、想いの大きさに比例するんだよ」

プロデューサーは、イヤホンを外して取り出したCDを見つめた。

プロデューサー「それに俺好きなんだよ。――こういう幼なじみに対する感謝の気持ちとかをストレートに歌い上げてくるような曲ってさ」

ピーーッ
ピーーッ
ピーーーーーッ

――満天の星が輝く夜空の下、誰の耳にも届くことのなくなったホイッスルの音が、ただただ高らかに鳴り響き、消えていった。

102: 2011/02/12(土) 23:07:20.38
というわけでおしまいです
ロスタイムライフ知ってる人いっぱい居て嬉しかった
そして唯と梓の出番期待した人ごめんよ

元ネタはドラマ「ロス:タイム:ライフ」
展開はほとんど幼なじみ編をなぞりました
ドラマで見た時の衝撃は半端なかった

引用元: 澪「ロス:タイム:ライフ」